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原広司オーラル・ヒストリー 2012年6月28日

東京都渋谷区、アトリエ・ファイ建築研究所にて
インタビュアー:辻泰岳、ケン・タダシ・オオシマ
書き起こし:成澤みずき
公開日:2013年7月14日
更新日:2016年1月31日
 
原広司(はら・ひろし 1936年~ )
建築家
1960年代より設計活動と並行して、分野の枠を越えた広い視野で建築理論を展開する。第1回目のインタヴューでは幼少期を過ごした川崎や疎開先の飯田での生活、RAS建築研究所での共同設計や内田祥哉研究室でのビルディングエレメントに関する研究活動についてお聞きした。また第2回目には世界旅行や「空間から環境へ」展、『デザイン批評』の編集を通じた美術家たちとの交流、東京大学生産技術研究所原研究室での集落調査と全共闘運動との関係、1970年代以降の他分野の研究者との勉強会や展覧会を通じた理論の展開、京都駅をはじめとする巨大建築物の設計活動についてお話しいただいた。

辻:では早速お願いいたします。まずはお生まれになった頃から覚えておられることをお聞きしたいです。お生まれは1936年ですね。神奈川県川崎市ということですが、ご両親はどのようなお仕事をされていましたか。

原:僕の父親は洋服の仕立て職人ですね。原洋服店というのをね、やっていたんですが。当時の川崎というのはね、工業都市だったわけですね。工業都市であったけれども、小美屋っていうデパートがあるんですよ。京浜急行が今でもありますが、川崎駅っていうのがありまして。この川崎があって、当時国鉄ですね、JRのね。国鉄のJRの川崎駅というのと、(京浜急行の川崎駅と)両方ありまして。(手元で地図を描きながら)川崎駅のところにこういうふうに道があって。小美屋というデパートは今でもありますけどね。ここの細い道に家があって。それで小美屋の別館というのがこうあって。これがね、5階建てか6階建ての建物で。国道がもう一つこっちの方を通っていて。今でもこの構造は変わってないです。これが国道1号線ですか、東海道ですよね。僕の行った学校っていうのはここにあるんですけどね、宮前小学校っていう。こっちの方ずーっと向こうに行くと、川崎大師っていうのがあって。その大師様がいて、それで海岸になる。ここで非常に重要なのが、すぐ歩いて行ける所ですがここに多摩川があって。これを六郷川と僕たちは呼んでましたけど、六郷川があって。まあ大体が地図を書くとこういうところですかね。街が、一番上の街が賑やかなはずですが、当時の川崎というのはあんまりそれほど開けてなくって。ここらで育ったという感じですね。ここのところが小美屋のデパートがあって…… 小美屋の別館ですがあって、ここにエレベーターがあったんだね。当時、エレベーターがあるのがここだけで。ここに市役所があって。市役所には(エレベーターが)無かったですね。こういうような地図ですかね。

辻:お住まいは木造ですか。

原:そう、木造です。木造の一戸建てみたいな。だけどまあそんなに大きな家ではないけれども、そこの木造の家で看板出して、父親は仕事をやっている。仕立てるわけですけども。我々が生活しているところでも、型取りっていうのかな。いろんな布から部品を取っていくわけじゃないですか。そういうやつをわーっと大きな所でさ、広い所でやっている。それで作業は番台とミシンがある所でやっている。そこらをずっと見て育ったという、そういう感じですかね。

辻:お母様もそのお手伝いをされていましたか。

原:まあね。母親も父親もやがて長野県の家に逃げて行くわけですけども。飯田市、昔はちょっと違っていましたけど、今で言えば郊外。今はみんな吸収されているかもしれないですが、飯田市の中に。そういう所で、別段…… そう、基本的には助手に母親の妹が来ていたり、他の人が来ていたりしている。だけど基本的には一人でやっていたみたい。一人で作る。だからですね、注文を受けて、何ていうか普通の生活する所と、それから仕事をするところが分かれてないから。客が来ると、そこで先ほど言った寸法取りをする前に測ったり、それからできたものを仮縫いしに行く。お屋敷って僕らは言っていたけど。そういう金持ちの家が頼みに来ると、そうすると仮縫いに行くとかね、それから納めに行くとか。僕は一緒によく連れて行かれてて。それでいろんなところに行っていましたね。それが僕の記憶がある、非常にいい時っていうか。私は姉が二人いるんですね。それで妹が一人いるんですが、姉二人はもう死んでしまったんですね。それはまあずっと生きていて死んだっていう感じで、別段早死にしたわけではないのですが。その当時は三人で(まだ)妹がいなくて。それでそういう非常に穏やかな記憶というんでしょうかね。穏やかな記憶があるんですが、それが小学校の1年(生)くらいまでですか。だから1943年くらいなのかなあ。45年の戦争の時には飯田で終戦の放送を聞くわけですから。だからまあ穏やかだったのは1年くらいまでですかね。小学校の1年くらいまでが、まあまあ穏やかだったという形ですかね。それで記憶としては、そういう家で父親が作業しているんで、父親といつも対立しているというか。まあ母親はもちろんですが、そういうふうにしていて。いろんなことを父親から知識を得ましたね、いろんな。父親っていうのはね、小学校の途中で飯田から神田へ来て、神田で修行したんです。神田で修行した当時の話というのを、まあ非常に苦しかったんでしょうね、すごい大変なことだったと思うんだけど、それをよく話してくれましたね。すごい面白い話でね。その頃、父親が東京出て来た頃というのは、まだ電気ももちろん点いてなくて、ガス灯だったんですね。日本橋あたりのあそこの界隈で。今でいうと須田町ですかね。須田町あたりで修行したっていうような感じなんですね。父親の話で面白いのは、いろんな面白い話を聞いてましたけれども。自動車が通って行くんですね。そうすると父親が正一(まさいち)って名前だったから、(親方が)「マサや、あれはなんだ?」って言うらしいんですよ。そうすると「知りません」って答えるとね、「なんでそんなこと知らないんだ!」って。修行する時に物差しがあって、その物差しでピシって叩かれるの。それで「いや自動車です」って言うと、「お前は生意気じゃ!」とか言ってね、また叩かれるの(笑)。どうしていいかわかんないっていう、そういう修行中の話ですよね。

辻:川崎から東京はそんなに離れてはいない距離だったと思いますが、当時東京に遊びに行きましたか。

原:連れられてきたっていうのはね。よく大森とかね。川崎からいうと、山の手のいいお宅の人たちが住んでいた所ですね、大森っていうのは。だから山の手に仕事を納めに行くっていうので行ったし。それから例えば上野動物園とか、ハチ公ね。僕はよーくよく知っているんだけど、ハチ公に連れられて来たとか、池上の何かとか。それから横浜の方も、桜木町、横須賀。軍艦三笠の横須賀か。ああいうところも連れて歩いた。だから非常に都会的ですよ。なんていうか生活はね、非常に都会的。周りはしょぼかったけども都会的。(地図を見ながら)これは小学校、これも鉄筋コンクリートの建物だったし、ここに郵便局があるんだけど、この郵便局もそうであったし。市役所もそうであったし、まあエレベーターが無かっただけで、エレベーターがあるのは小美屋だけで。まあ都会的な雰囲気は持っていて。

辻:六郷川には大きな水門がありますね。

原:あるんです。それがですね、その水門がどこにあるかっていうと、(地図を見ながら)この国道がありまして、ここが水門なんですね。ここが水門で。ここにどういう機能を持っているか知らないけれど、恐ろしかったですね、子どもの時に見ていて。(地図を書きながら)ここに味の素があってですね。ここが味の素の工場ですね。これは今で言うと公害ですよね、ものすごい臭いがして。こっちの方に新日鉄とか、日本鋼管とかそういうのがあって。ここにマツダランプがあったんですね、今の東芝ですね。あとはですね、工場が川にあって、明治製菓だ。明治製菓で、これは明治キャラメルとか何か作っている。クレーンがありまして、川のところですね、川は非常に船の行き来がさかんで。しょっちゅういろんな船がこう行っているんですね。それで親父は釣りをしてばっかりいるわけですよ。暇だったら釣りに行くんですね。それは僕も一緒に行くっていうのは少なかったですけど、子どもたちと釣りをやってですね。それはね、2年くらいですけどね。(戦争で)厳しくなるのはつまり、1年生の時はまだのどかだった。それでその時にですね、お菓子屋からね、きれいなショーウィンドウがある。そこからお菓子がずーっとだんだん消えていくんですよ。それで駄菓子屋もありましてね。駄菓子屋のところも行ったりなんかしていて。でもだんだん当時、そうですね1銭…… 10銭持って行くっていうことは少なかったと思うね。1銭で何か物が買えるっていうかね。それでお金貰って、姉たちと行ったりなんかする時に。それだけどだんだんだんだん無くなりまして。そこの変化がすごく急激に来るんですよ。それでみんな赤紙が来て行かなくちゃならないって、よくテレビなんかで出て来る風景そのままの出来事で。どこかで「ああ来た」って言うとその夜、この道をこういうふうに行くと、ここの所に山王塚っていうお宮があったんですね。ここまで提灯行列を我々はして。夜一緒になんか親父に肩車されたり、それから一緒に歩いたりね。提灯持って、みんな姉たちも歩いて。それでここへ行って、まあ立派に死んでいきますっていうような話をみんなして。そういうことが起こりはじめたわけです。それが小学校1年で、2年になるともうガラッと変わって、厳しさがですね。まず2年っていうのは、1945年が3年生で、それで終戦でしょう。だから1944年、これが2年生です。今の話は1943年までの話ですね。1944年になるとですね、もう状況はがらっと変わって。まず姉二人は疎開ですね。疎開先は今思い出すと、まあそうだったんだなあと思うけれども。僕は(2012年現在)鶴川に住んでいるわけですね。その隣に柿生っていうところがあるんです。そこへ姉の一人は行っていました。それでもう一人の方は、上の方の姉は大江山の方に行っていましたね。それでみんな家にいなくなる。それはもうちょっとというか…… すごく(戦争が)ひどくなって、もうこの1945年の4月に、3月に、空襲かな、川崎のね(注:川崎大空襲、1945年4月15日)。それからそんなに疎開の時間は続かなかったのかなあ。ちょっと記憶が曖昧になりますが。それで上の姉の方…… 下の姉の方が疎開している、上の姉の方が軍需工場で働く。軍需工場っていうのは、あの明治製菓も軍需工場。食料の(軍需工場)、という意味ですかね、そこへ働きに行っていましたね。そのうちに仕事もあれして、親父はですね、店は開いているけども、それどころじゃないっていうので。大森の方へ、品川の方へやっぱり軍需工場へ働きに行くっていう。この頃は非常に短いのかなあ。二人ともいなくなったり、最後の方いなくなったのか、ちょっとそこらへんのところは記憶が怪しいですけど。何しろすごいピンチなわけですね。それでついに隣の家まで、ちょうどですね、うちがあって仕立屋みたいなお店をやってますと。(地図を見ながら)ここの一軒残してかここかどっちか忘れましたけど、ここからもう疎開って言って、全部家を壊すんですね。延焼しないようにね、空襲で。それで何ていうのかな、突然ここら辺がみんな見えてきちゃうの。これまで見えないはずなのに、家から全部みんな自分の学校まで見えてきちゃってね。全部回りが壊されて。それは驚きましたね。そこでみんなナスとかね、きゅうりとかトマトを、食べるものがだんだん無くなるわけですよ、それをみんなで植えるの手伝ったりね。お寺で、例えばその良き時代、1年生のころまでの話だけれども、夜、学芸会みたいな、地域の学芸会をやって。すごく幻想的な『月の砂漠』の音楽でね、お寺の中でそういういろんな活動があったんですね。そういう場面は覚えているし。そのちょっと前までは僕ら釣りもやって。そうだなあ、意外にこれからすごい面白い生活するんですよ。最後の、みんないなくなっちゃって。そうしてですね、釣りに行く。釣りに行きますね。食べ物も無くなる。食べ物が無くなるっていうのは最初ですね、米が無くなるんですね。配給になりまして。配給になって、米が無くなりまして荒野になりました。そうして大豆油を、大豆の油を採って飛行機飛ばさなくちゃならないって、それで大豆の絞ったカスが配給で来たり。それで最後にね、クマザサになったの。だんだん変化して。クマザサになるとさすがにね、食べれないですね。一方では憲兵がいるもんだから、買い出しに行くと捕まるっていうので、(それでも)子どもは捕まらないっていう話が蔓延していて。それで母親と一緒に買い出しに行くんですね。それが今住んでいる鶴川のような所ですね。柿生あたり、あそこらへんはよく行きました。南武線で行って、そういう生活でしたね。

辻:飯田に移られるのはいつぐらいですか。

原:それからですよね。それから戦争が激しくなって。その頃から僕はすごく面白い生活になるんだけどね。めちゃくちゃ混乱しているでしょう。映画館がやっているわけですよ。軍需映画みたいな、何か国民高揚の映画っていうのがやっているんですよね。その映画館もね、子どもだけだと、もう人心っていうのが無いんですね、注意が。だから「お前らやめろ」なんていうのは無いんですよ。どんどん平気で入っていって。それからね、電車も自由なんですよ。電車が走っているっていうんでね、子どもが電車に行って、切符もちろん持ってないけど乗り放題。誰も何もそういうことを言わない。もう心ここにあらずだよね、全員ね。もういつ明日死ぬかもしれないっていうような。まあ話としてはもう、いずれアメリカが上陸してきて本土決戦になると。それは沖縄で実現するわけですよね。僕はすごい不合理だと思ってましたけどね、その話自体は。子どもの時には。なんて馬鹿なことをやっているんだろうって。それで何か大本営の発表とか新聞とかで、みんなすごいすごいって戦火あげてるって書いてあるんだけど、そう言っているけれども、何かB29はどんどん来るしね、毎日来るし。ここらの所はみんな身の回りが全部形だけはね、対防衛戦みたいなものを張っているんですね。ところがもう全然話にならならない。どんどん撃っているんですけど、B29の編隊が動いているのはもうはるか上の所でね。全然届かないんですよね。それでそこでいろんな、予定がもう決まっているから、空襲が来ない(日もある)。毎日が空襲なんですが、今日はここの地域ではないという日が(ある)。「この地域じゃない、我々の所は今日じゃないな」ってみんな言うわけ。まあどこまでみんな知っているかだけど。そうして出て行って、僕もたまたま機銃掃射の時に見ていたけど、すごいですね、機銃掃射がばーっと、飛行機が、グラマンとカーチスっていうね、グラマンっていうのはちょっと太っちょのやつで、カーチスっていうやつは細いんですね。それがね、すごい攻めて来る、機銃掃射で。後で家の柱に当たったその機関銃の跡を見て、おおこれだなって。そういうふうにいっているわけだからね、そういうふうに見ているから、もう全然、勝負にならないって、子どもながらにわかるわけです。だけどもみんなは、そういう話をしているわけですよね。何しろそういうわけで、僕はその頃小学校2年生だけど、小学校3年から(川崎に)いないから。2年が最高学年なの。だからそこでみんな子どもたちは悪いことして、母親に何度も怒られたけど。小さい子連れてね、横須賀遊びに行くとかさ。

辻:すごい距離ですね(笑)。

原:そういうところなの。みんな自由なんですよ。まったく何ていうのかな、統制がとれないっていうかね。そりゃ遠距離はダメですけどね。最後に僕ら(のところ)も空襲が来て、もう1週間以内にって。もうしょうがないからそれじゃあ乗せろって言って、僕ら三人を乗せてくれたんですね、母親と父親と飯田行きの中央線、新宿から。それから数日後に空襲があった。だから僕は空襲から助かった。父親と母親だけあって、あとは三人で田舎に行ったんですね。母親の生まれたところへ逃げて行った。それが小学校2年の3月だから、2年の終わりの頃ですね。

辻:1945年8月の頃のことは覚えていますか。

原:覚えています。もうそれはすごくよく覚えています。(疎開先は)田舎の方ですごく遠くてね、学校が。それまでは近かったのに、非常に遠いので。それで参って、半分くらい休んでいたかなあ。もう足がふくれちゃって歩けないとか、そういう状態です。それからまた今度は母親の実家暮らし。母親の姉の。僕の母親は双子だったんです。その双子の姉の家に行って、暮らしたんですね。母親の姉はね、長生きするもんだから、二人でテレビの売れっ子になったけど。母親の姉の方が「ツル」。僕の母親の方は「カメ」っていう名前なの。最後90歳以上両方生きて、91、92で死んだんですが。金さん銀さんっていうコンビがあったね。それでツルさんカメさんっていうので。そんなに長生きしなかったけど、その家に行ったんですね、飯田の。

辻:後の飯田の美術館(注:《飯田市美術博物館》(1988年))を設計される頃も、まだご存命だったんでしょうか。

原:そうです。父親はもっと早く死んだ。父親は72歳か何かで死んで、母親は90歳。20年くらい差がありますね。終戦の時っていうのは、僕は非常に鮮明に覚えているんだけど、川へ泳ぎに行ったんですね。近くに川があってみんなで泳いでいたら、姉が迎えに来て大変なことになったって。日本が負けたんだっていう、そういうね、そういう話を聞いたんですね。それはね、僕はね、どういう感覚で聞いたかっていうと、子どもながらにすごい不合理だって思ってたわけです。何かおかしいなっていうかなあ。もちろん軍需国民学校の教育だから、天皇の何かシンボルみたいなものがあって、そこでちゃんとお辞儀して入って来なさいっていうふうになっているけれども。そういうふうにやっていても、みんななんか嘘言っているみたいなことはわかるし。それで戦争してみんなで玉砕だ何かっていうのは、どうも話がおかしいと思っていたから。その大変だっていうよりかは、これからどうなるかっていうのはありますけどね。非常に不安だったけれども。だけどもね、まあよかったなっていう感じの方が強かったと思います、正直言うと。もうなんとなく、みんな憲兵とかね、周りがいて何かしてっていうそういう世界っていうか、それは非常に変な世界です。みんなはじめ提灯行列とかで南国に行って「死んできます」って何か若者たちが言ってる、それはどういうことなんだろうって、どうもおっかないのにね、そんなことやるのかって。それは非常におかしいって思っていたわけだよね、子どもながら。だから戦争が終わるって、これから何が起こるかしょうがないし、かえってよかったんじゃないかなって思ったわけです。それは空襲もいずれここまで、飯田にいても、いずれ飯田も空襲に遭うんじゃないかっていうような気もありましたしね。だからどうしていいのかわかんないし、終わったほうがいいんじゃないかっていうような感じだったですよね。

辻:そのまま双子のおばさまのお宅に、お住まいになられるんですか。

原:うん、そうですね、しばらくいましたね。

辻:どういうお宅でしたか。

原:それはね、非常にいい土壁のね。城下町なんですね飯田は。やがて僕が博物館を建てさせてもらう、あの場所がお城なんだよね。お城の跡ですね。その城下町の一端の方に建っていた非常にいい家で、その2階に住まわせてもらった。

辻:そのまま地元の飯田の小学校に通われたんですか。

原:そうですね。今小学校無くなって市役所になっちゃっているけども、大久保小学校っていう。これが宮前小学校で、大久保小学校っていう。ここでいろんな先生に教わったけども、5年6年の時に、清水先生っていう先生に習ってですね、若い綺麗な女の先生だった。そうですね、だけどね、本当の苦しさっていうのはそこらから始まるんだよね。本当の苦しさ。ようするに、みんな疎開していてですね、疎開者が非常に多い。それから戦争から復員してくる連中がある。引き上げて来る人もいる。まあ結局生きられたんだから、結果としては自然が周りにあってよかったんですがね。もう本当にイナゴ1匹いなくなっちゃう。道の草も、山とか何かも、食べれるものがいっぱいある、山菜があるはずなんですが、食べれるものみんな無くなっちゃうんです。ものすごい食糧難で。小学校の3年生ですよね。だから採れるものっていうとカエルなんですよね。だからカエルを獲って食べてた。僕らはもう米も無いし。疎開組の子どもは弁当も持って来られない人がいるんですよね。当然僕らなんかは持って行けないわけだけど。そうすると学校はどうするかっていうとね、先生たちも見てられないわけ。食べている人と食べてない人が教室にいるっていうの。だからね、表へ出て遊んでらっしゃいって言うのよ。それでみんな食べられない連中、持って来られない連中はみんな校庭に出されちゃう。本当に厳しくて何にも無いのね、食べ物がね。例えば大豆を煎って分けて、1食5粒とかみんなで分けて。カエルはよかったんじゃないかな、一番獲れるしね、タンパク質あるからね。蛇も獲って食べていたけども、それは子どもにはなかなか難しいのであれだったけども。そのうちね、それで終戦してすぐ(小学校の)5年の時に…… だから3年の時に飯田に行って、4年は非常に苦しい。それで5年の始め頃から進駐軍がね、パイナップルとかのジュースとかね、それからトマトケチャップとか、粉製ミルクとかさ。そういうのが山の奥まで届くわけよ。これは民主主義っていうのはいいもんだと(笑)。それまで何ていうのかな、これはもう死ぬかもしれないって(思ってたけど)、どうもなんか全員死ぬということは無いんじゃないかと思っていた節もあるんですよね。そうしているうちにこれはもう飢え死にかって(思うようになって)。通信簿ってあるんですけどね、それにね、もう「栄養失調」ってパーンと(判子が)押してあるわけよ。

辻:先生も押されましたか。

原:押された、押された。こう通信簿に押してあるんだ「栄養失調」って。もう何にも食べるものが無いからみんなそう。疎開組はみんなそうなんですよね。だから疎開組って言わなくても、母親の姉の家というのも農家じゃないから、もう食べるもの無いわけですよね。だんだん似たような状況だったんじゃないかなと思いますけどね。それで(進駐軍からの食料が)家にも配られるようにもなるし、学校の給食にもそういうものが出て来て、もうこれは天国だっていうような感じで(笑)。教科書とか何にもないからさ。黒く墨が塗ってある自分の昔の小学校の教科書を、ナショナリズムの部分は全部黒く塗りなさいって。それで塗って、それでそういうやつで勉強していたの。だから教科書もろくに無かったですよ。そういう時に、(配給があって)これはいいんじゃないかって(笑)。ミルクとかパンとか出てくるんでね。周りもものすごく苦しいわけでしょう。食糧難が続いている時に、だから5年の時かなあ。5年の時にそういう給食か何かが現れて、もう本当に救い。そういうのが入って来て本当にありがたいっていう。そう思ったんですが、一方では続いているんですよ。それじゃあ食べるものがあるのかっていうと、無くって。みんな少し配給があったパイナップルのジュースとかをみんなで分けて飲むとかさ。みんな栄養失調ですよね。そういうことかな。

辻:授業とか先生のお話だったり、あとはどういうことで遊んでいたかとか、中学校くらいの時期はどうですか。

原:そうね。小学校の6年くらいになると野球を始めたね。着るものも無いし、靴も無ければ何にも無いけどれども、何か布でグローブをみんな作っている。それで野球を始めたんですよね。僕のクラスメイトにね、光沢毅っていうのがいたんだけども、小学校で僕とバッテリーを組んでいたんだけど。そいつがものすごい利かん坊で運動神経ものすごいあってさ。それがやがてね、飯田旭高校っていう所で、春の選抜高校野球で優勝年になったの。その頃は一緒に遊んでいるようなあれだけど、中学校になっても、彼は「俺の投げる球とってみろ」って言って、ある日中学校になってから。三沢ってやつが、本当にもうすごい球投げて。6年の頃には野球をやるっていうような状況になっていった。かなり急激にそこらは変わっていったのかな。6年になるともう食糧難っていうことは無いんだなあ。

辻:地元の飯田の子どもたちとの関係、特に先生の場合、川崎から来たということになるんですけども。

原:それはもうすごい。それはなんていうのかなあ。疎開してきたっていうのがさあ。当然、疎開組なんだからっていって、もう理由無くぶん殴られたよね。何かするのでも生意気だっていって。それで何か勉強になるともう圧倒的な差があるわけだよね、能力の。都会から来たっていうこともあるかもしれないし、潜在的に何か勉強が出来るっていう、僕は図案ができたからね高校までは。だからもう圧倒的な差があるから、教室っていうのはもう絶対、僕にとってはいい場所なんだよね。そういう食糧難があって、ご飯が食べられない人は出て行きなさいって言われた時の教室っていうのは非常に苦しいけど、あとは何か天下みたいな(笑)。

辻:すごい。一番得意な教科は何でしたか。

原:もう何でもできる(笑)。国語とかね、算数とかさ、ああいうものはもう問題にならないっていうか。スポーツはやっぱりそんな栄養失調だからできる筈はないから。中学に入った時も、僕はその栄養失調が原因で肺のリンパ腺をあれして半年くらい休んだんです。だけども貧しいから、中学に入ってね、三人でね、アイスキャンデーのアルバイトをした。乳母車を改造してさ、アイスボックス乗せてみんなアイスキャンデー売って歩いたんだよね。しょうがない、働かなくちゃならないっていうので。まあ一人は台湾から来たやつで伊原っていうんだけど。伊原信一郎(1936-)っていうのは、数学をやって、東大の助教授で今は青山学院大学か何かで線形空間なんかやっている。一人はやっぱり東大出て、三人とも東大出たんですね。一人は俳句、俳句でかなり有名になった奥村晃作(1936-)っていうのなんですけどね。だからそれが中学校の生活の始まりっていうような感じかなあ。夏ですけどね、1年の時の夏。中学校は飯田東中学校っていう。

辻:もう六三制(注:学校教育法に基づく第二次大戦後の日本の学校制度)ですか。

原:そうです。新制ですね。飯田東中学校で。ここにまた、みんなすごいいい先生たちがいてね。それがどういう先生たちかっていうと、飯田東中学校というのはですね、長野師範っていうのがあったんですね、師範学校っていうのがある。師範学校へ行くと授業料が免除だったんです。授業料免除で、それでもっと豊かな時には、すこし奨学金が出たんじゃないかなあ。っていうような制度があって。日本近代化のためには教育に力を入れなくてはならないんだっていう、そういうことを徹底的にやって、そういう制度もできていたから。それで各地域の、貧しいけれども勉強が比較的よくできるっていう連中がみんな師範学校へ行ったんですね。だから各県にそういうのがあって、その長野師範を出た先生たちがいたの。その先生たちが国語だったり算数だったり社会であったりということだったんですね。その先生たちはものすごく立派でね。毎日、少なくとも毎週1回は勉強会をやっていて。そこで西田幾太郎(1870-1945)とかね、柳田國男(1875-1962)とかね、それからカント(Immanuel Kant, 1724-1804)とかね、どんどん勉強している。僕はそれを見ててね、これは勉強した方がいいんじゃないかって。先生たちが勉強しているのを見ていてね。それで先生たちと同じような本を読んでいたわけですよ。だから何ていうのかな、影響が、先生たちの非常に真面目な態度というか。掃除するって言ってもね、木造の校舎なんだよ、校舎の床があるじゃないですか。木張りの床なんだけど、それがもうぴっかぴかなんだよ。戦後のことだから、材料も何も無いですよ。だけど雑巾がけしてどんどんやっていくとね、すごいぴかぴかでね。だけど隣のクラスと、僕らは8組あったんですが、隣のクラスに5、6、7、8と2階にいて。5、6、7、8でどこのクラスの掃除がきれいかって競争するわけ。すごいそういう感じなんだよね。それで豚を飼っていて。毎日家で出たゴミみたいなものは、持っていって豚に食べさせて育てるとかね。まあいろんなことを。それで有名な話は、松島校長っていうんですけど。ここのところに、松島校長(松島八郎)っていうのがいてですね、この松島校長っていう人が長野師範の教育界のボスだったんだけども、僕らがいる時に、ヨーロッパに初めて視察旅行か何かで行ってものすごく感動して帰って来て。それでスイスかなあ。スイスか何かでリンゴが街の中にいっぱいなっているんだけど、誰も採らない。それでわれわれはリンゴを植えようって。そこから頑張って。その前に飯田の大火(注:1947年4月20日)っていうのがあるんですね。小学校6年の時ですけどね。二千何百戸、火事で焼けちゃうんです。それまではですね、飯田っていうのは非常にいい街で、城下町で残っていたんですよ。それが全部燃えちゃって。それで誰かが新しい都市計画やって。それで道を広くしたり何かして。そのゾーンにね、僕がもう卒業してその一つ下の連中が実際には植えるんですけれども、リンゴの木があって。それを誰も採らない、もちろんね。飯田っていうのは昔は桑だったんですが、それがリンゴに替わっていくんですね。全部木を替えていくんです。桑の実なんていうのは、もうすごい重要な栄養でね。食べ物が無かった時に、松島校長がどうやって市と交渉したのか知らないけどもリンゴを植えようっていう話をして、僕らが聞いた話がそのまま実現することになる。そういう民主教育、新制教育っていうのでモデル校になって全国からみんな見学に来るわけ、教育の先生たちが他の所からね。それで非常に授業が演劇的になったんだよね。あんまり人が来るから。それであんまり来たんで、これはまずいんじゃないのかって思いだしたの、演劇的にやるのはよくないんじゃないかって。授業をもうすこしちゃんと。作られたような生活しているんじゃないかって。高校に入った時に、1年生の時に少しそういう批判めいたことを生徒会で書いてさ。中学校なんかも生徒会だったんですよね。中学校で僕が一番驚いたのは、やっぱり音楽ですよね。音楽で、ようするに学校にレコードがあって、SPって言うんですか? 昔のね。それでベートーヴェンの音楽だとか、モーツァルトだとか、そういうのを聞いていたら、街の中にそういうものを持っているクラスメイトがいて、カフェやっているんですよ。そこには(フェリックス・)ワインガルトナー(Felix Weingartner, 1863-1942)のベートーヴェンのやつとかさ、そういうのがあって。それで、やー、音楽の世界はすごいなっていうのが、中学校の頃ですね。

辻:クラシック、古典ということですか。

原:そうだなあ古典音楽ですね、僕らのころは。それもSPだから10分か15分もたないのかなあ、10分くらいかな。切れ切れでね、かすれた音。今だったらもう考えられないような音だろうけど。まあ大変、僕は驚いたですね。音楽というものに対して驚いた。それでうちが掘建て小屋みたいな所でずっと生活していたから、図書館がすごいいい。だからもう毎日図書館行って。その図書館に市瀬さんっていう女性がいて、まあお姉さんみたいなもんだね我々にとっては。その人と非常に仲良くなっていて、あれ読みなさいとかこれ読みなさいとか言って。何かって図書館が待ち合わせ場所になっていて、「○○ちゃんは何時に帰りました」とかさ、その市瀬さんっていう人が全部仕切ってくれるのよ。

辻:新しい施設だったんですか。

原:いやいや古い。もともとある。赤門って僕らは呼んでいた。それは火事で無くなっちゃうんだけども。東大の赤門みたいな、あんな立派じゃないけどそれに似たような門が残っていたんだよ。その一角に図書館があったんですよ。

辻:お勧めされた本で覚えているものはありますか。

原:そうねえ。例えば『アラビアンナイト』とか。『アラビアンナイト』って、当時はセックスに関係するのは全部、●(黒丸)だから、全部●が書いてあるんだよね。ストーリーがあって、●があるから、ここ何て書いてあるんだろうねって思いながら最後まで読んで。それから柳田國男とかね。いろいろそういうの、みんな読んだんですよ。わからないこともあったし。中学の終わり頃はマルクス(Karl Heintich Marx, 1818-1883)を読んでたかなあ。だからそれはどうやって手に入れたかわからないけど、これはいけないんじゃないか、アカ(注:共産主義者)だからいけないんじゃないかとかさ、みんなに言われたり。先生にもそれはまずいんじゃないかとかさ。何となく言っていたけどね。そういうのもあったけれど。何かいろんな本があって、片っ端から読んだからねえ。だけど『アラビアンナイト』、すごい記憶がある。綺麗な本でねえ。戦前に出たやつだからね。

オオシマ:それは全部、日本語ですか。

原:日本語。みんな日本語です。それで英語の勉強が始まりますよね、中学校で。僕は英語苦手だったね。どうも発音ができないっていうか。発音ができないんで。どうもみんな変な発音する(笑)。正しい発音できる人なんて、当時いなかったわけだよねきっと。ものすごい変な発音するんで、それで僕はおかしいんじゃないかなあって思ってたんだよね。どうもこれはおかしいなあって思ってましたよね。

辻:高校生くらいになると活動や移動する範囲も自然と広くなると思います。飯田以外の近くの、例えば伊那谷とか、いわゆる新しいものが入って来る一方で「村」がたくさんあると思いますが、そういう所に遊びに行かれたりはしましたか。

原:そうですね、例えばその松島先生の、校長先生だった人の所の息子が僕と同級生だったから、どこか行くとかね。飯田の立派な建物に住んでいたけども。まあ中学校の時にも、木村先生の時にもその先生の家に遊びに行ったりして。ただね、村の何とかとか、そういうことにはあんまり参加しなかったかなあ。むしろ街の中でどんど焼きとかさ、ああいうようなことは一緒にしたけれども。だけども村へ出て行ってどうかというのは、そこで親しくなるとかそういうのは、みんな高校生になってからはあんまり(ない)。みんなで旅行に行こうなんて、最後に3年生くらいになって行ったりしてたけれども。飯田っていうのは(標高)500mくらいの高さで、1,500mくらいの山があって。1,500mくらいの山なんていうのは、しょっちゅうみんなで行って。それはもう子どもの頃から、燃料をとって来なくちゃならないから。毎日そこへ行って、落ち葉を集めてこないと燃やす物が無いから、火が炊けないから。それは子どもの役割で。当然毎日行って来るわけ。それは飯田市の全員行く。だから段々無くなっちゃう。だから奥の方へ行っていたから。山を登るっていうのは、そこらの山の低い所は行っていましたね。高校になると山岳部の連中っていうのは、シートを1枚と、ビニールシートみたいなああいうシートみたいなやつを、でもビニールなんて無かったからちょっと違うテントを作るシートなんですけど、それとネズミ捕りと、これを1つか2つ持って1週間か2週間くらい帰って来ないのね、山岳部の連中になると。彼らは仕掛けて、リスとかうさぎとかをね、それを獲って食べて。自分たちで現地調達してそれで帰って来る。まあ近いから、南アルプスと中央アルプスの間ですから。僕はですね、そこにかなり登っているんですが、そういうのやったのは大学の時代。大学に入って夏休みで帰った時に、みんなかつての同級生たちとそういう生活をしていましたけどね。まあ非常に貧しかったから、高校の2年生から住み込みの家庭教師とかそういうのをやって。様子がよくわかる先生たちが高校の先生たちでいて。それで僕にすこしでも稼がせなくちゃと思ってくれて、それであそこへ行って1年下の子を教えなさいとか、そういうふうに言ってくれて、その子の両親の家に行って了解をとってくれたりしてくれたと思う。そういう親切な先生たちがいて、みんなあそこ行きなさい、ここ行きなさいって点々としてさ(笑)、働いていたという、そういう感じですかね。

辻:大学に入学される前に、ものづくりであったりとか、図画工作のようなものであったりとか、さっきリヤカーを作られたというお話もありましたが、そういったことは好きだったのでしょうか。

原:そういうことはちょっとはやったけど、もうほとんど他の人以下だろうなあ。やっぱり基本的に何にも無いわけだから。まだ無いんですよ何も。材料っていうものを持ってないというかな、道具とか。そういうものが無いから。野球部でマネージャーやりなさいっていうか、監督みたいなやつやらないかとかさ。先生たちが「彼にちょっと見てもらった方がいいんじゃないか」とか(他の学生に言ってくれて)さ。別にうまいわけじゃないんだけども。全体をコントロールするとか。弱かったですけどね当然。相手の同級生なんかもうにやにや笑いながら、全然もう手も足も出ないようなすごい球投げてたりとかさ。それとか合唱、コーラス。音楽もやって。僕が当時作った応援歌っていうのがある。

辻:作曲されたんですか。

原:作曲者、僕が。今でも歌ってますよ。みんな歌ってたりするんですよ。

辻:作詞もされたんですか。

原:作詞は僕の同級生がやった。

辻:何というタイトルの曲なんですか。

原:『友よ、若木の』(作詞:高島三郎、作曲:原広司)っていう。なんかね、僕が田舎に帰っている時に、その高校の試合で実況放送を聞いていた時に、突然みんなそれを歌い出して。ああ歌ってるって。それで今でもいつも、建築やっているっていうので、話題になるわけですよ、みんな集まると。応援歌っていうのはね、僕がなぜ応援歌を作ったかというと、みんな借り物なわけ、歌っている応援歌が。敵もこちらも同じ歌を歌うんだよ、サッカーと同じでね。今のサッカー、あれは変えないといけないと思うけどさ。それを聞いてこれはまずいんじゃないかって。自分の歌を歌わないってどうかな、と思ってさ。それでひとつ作ってやろうという気になったの。

辻:1955年に飯田高校を卒業されて、東大に入学するために上京されます。その時の当時のお話をお聞きしたいのですが、まず駒場寮に入寮されるのですか。

原:そうです。駒場寮。とにかく奨学金をもらって、寮に入って授業料免除にならない限り行けないっていうのは明確だから、とにかくそういう手続きをしてということです。それはですね、東京に来てまあガラリと生活は変わりますよね。まあアルバイトとかさ。そのうちに今度は反米デモ。反米デモっていうか、ようするに60年安保闘争っていうのはこれですね。1955年だから、何やったかっていうとまず基地反対。今の沖縄にあるような話のもうずっと昔の話ね。それから日米軍事条約(注:日米安全保障条約)ですか、それの反対闘争。もうすぐ巻き込まれたね。それは何ていうか寮にいるから、とにかくデモだって。僕は一度もそういう、一度もっていうと嘘かもしれないけど、そういう何か政治組織の中心にいたことはないんですよ。まわりには民青(日本民主青年連盟)の人たちとかいろんなセクトが生まれようとしている。まだ生まれてないかな。萌芽はあったけどね、時代として。そういうのには入ってなかったけれども。みんなとにかく勉強しているどころじゃないよっていう、そういう感じはもう寮にはあったね。寮の中にはね。

辻:高校生の頃には特にそういう、対アメリカのものとかはありましたか。

原:それは無いですね。高校の頃は全然もっと、なんていうのかな、非常にユートピア的というか。高校の時は中学から続いていて、依然として図書館があるから、図書館を中心としてみんなで生活していて。それで非常にいろんな勉強をした。本を読んだり、勉強をしていたという感じですね。まあいずれ東大へ行って研究者になろうと思ってましたね。中学校、高等学校からね、そういうふうに思っていた。

辻:どういった研究者になりたいとかありましたか。

原:僕はまあ数学か、理論物理かなあって思っていたけれども。音楽があまりにも魅力的なものなのでそういう話をして迷っていると、大学来てからはまるで勉強しないっていうかさあ。全然授業なんて出たこともないというからさ。みんな代返とかさ。授業している時から、もうすぐ授業の最中から抜け出して行って。出席だけ取ってほとんど出なかった。それで音楽喫茶に最初に行くんですね。そうしてデモへ行って。あるいはアルバイト。家庭教師に行って、それでまた喫茶店に帰って来る。自分の席を取っておくと、そこにいる人とまたすぐ仲良くなるから、音楽かけている人とか、経営している人とか。「田園」という喫茶店があったんですよ。その「田園」っていう所に行って、だいたい自分の席というのが決まっておりまして。それぞれ決まっているんですよ。そこへ行って60円かなあ。奨学金が2,000円くらいですか、その当時ね。それでアルバイトを週に2回やると2,000円で、それで奨学金と合わせて4,000円ではちょっと苦しい、生活が。2つやって6,000円の収入があるとすごい豊かになる。だけど時間がほとんどそれに取られちゃうから。まあ1.5、普通みんな週に3日アルバイトやって、奨学金もらって生活するというのが、標準タイプっていうか(笑)。その頃みんな東大っていうのは貧しい連中しかいないんだよね。今は豊かになっているんでしょうけど。ほとんどもうみんなそういうことで。それでみんなデモとかやっていたからもう大変で。もう他のことやっている暇は何にも無い。試験だっていったってどこが試験の範囲かさえもわからないんだよね。寮で大きな声で「どこの範囲が試験なんだ?」ってやると、「ここからここが範囲だぞ」とかっていうくらいなわけ。だけど面白かったね。実に面白かった。

辻:サークルは入っていましたか。

原:サークルはね、人間学研究会っていう。カントですよね。それはたまたま。僕は入りたくなかったんだけど僕の田舎の高校の先輩がそこにいて、岡田さんという人なんだよね。文系ですけど、寮で生活していて、それこそ会ったこと無いようないろんな有名になる人もいますよ。あの人代議士になって大丈夫なのかなあっていう人とかさ(笑)。だけど純真な人ですね。福島の代議士になったり。そうかと思ったら片っぽ、検事局のかなり上の、局長じゃないんだろうけど、なったとかさ。そういう人たちもいますけどね、部屋の中で。6人の生活で2つの部屋に住んでいるから、12人ですからね。それでその人たちがなんていうか、遅くまで騒いでさ、酒飲んでいて。それで起きるとすぐ喫茶店に飛んでってとか、なんかもうめちゃくちゃな生活。だけどすごい面白かったね。非常に面白かった。その時に大江さん(大江健三郎、1935-)は寮にはいなかったが、田舎から出て来ているんだよね。それで僕は大江さんに「こういう局面でこういう大騒ぎしていたの、大江さんじゃない?」って言うと、「いや僕はそんなこと絶対にしてない」って言うけど、今もあの時の彼は大江さんじゃないかって思っているけどね(笑)。ただ大江さんが新聞の懸賞で入った、銀杏並木賞か何かをとって文壇で登場した(注:「奇妙な仕事」(『東京大学新聞』1957年5月)で五月祭賞を受賞)。大江さんはもうすごい。時代の寵児にすぐなる。大学に入学した直後からもう注目されて。

辻:寮にいるころからお知り合いだったんですか。

原:違う、違う。知らないのよ、お互い。お互い知らないけれども。彼はもう、ものすごい有名になっているから。だから例えば、こういう60年安保闘争とかになっても、大江さんは文化人の中にいるし、我々は学生の中にいるっていう。そのくらいの差はあったわけだよね。そういう世間でのね。

辻:デモはどういう所に行かれましたか。

原:場所はね、代々木公園中心ですね。代々木公園。それはもうすさまじい。例えば血のメーデー(注:1952年5月1日に皇居外苑にてデモ隊と警察部隊が衝突した事件)とかあったわけだよね。そういう大変だったっていうのは無かったんだけども。まあ60年の頃も…… これから段々厳しくなってくる。全共闘(全学共闘会議)が出て来る前に、樺さん(樺美智子、1937-1960)が死んでとか、いろいろ事件があって厳しくなる。だけども、僕が大学4年くらいまでデモに明け暮れていた日々というのは、そんなに警官隊と正面からぶつかってね、どうのこうのということはあんまり無かったですね。いくつかの事件はあるけれども。

オオシマ:ワシントンハイツの近くだったんですか。

原:ワシントンハイツってどこだっけな。ありましたね。

辻:そうですね、占領軍の家族住宅が明治神宮の近くのエリアに、原宿にありました。

原:だけども我々が行って集会していた所は、そことは関係無かったかなあ…… ああ!ワシントンハイツね、思い出した、思い出した。だけども関係無いですね。そういうアメリカの人たちに対してとか、進駐軍で来ている人たちとかそういう感情は持ってないね。やっぱり全体的な政治的情勢として何か日本が戦争を二度としないっていう平和憲法を決めたのに、それなのに軍事同盟、軍事条約じゃないんだけれども、そういう条約みたいなものをして戦争にコミットしていくというようなもの、危険を冒すのはどういうことかっていう。それから戦争をしないっていうんだから、ようするにアメリカの基地があるということ自体がどういうことなのかっていうのが基本的なそれに対するスローガン、そういうものであった。

辻:いわゆる全学連(全日本学生自治会総連合)との関係はどうですか。

原:僕は全学連の組織の中には入ってませんね。全学連っていうのはそういうリーダーたちの集団ですよね。全体の政治の。そういうところにはコミットしたことないですね。例えば香山壽夫先生(1937-)のお兄さん(香山健一(1933-1977))っていうのが委員長だったね。有名な委員長だった、その時代の全学連のね。そういうことは無いっていうかな。それから10年経つと徹底的に政治に対する不信感っていうのを持ち始めるんだけども、もともとどうも怪しいんじゃないかって(笑)、大体思ってる。そういうリーダーシップを取ろうとかさ、ヘゲモニーを取ろうとかね、そういうこと自体が誤りじゃないかっていうふうな感じを持っているから。後になって「AF」っていうグループを作るんですね。「Architectural Front」(注:建築戦線、1969年12月1日発足)っていう組織を、宮内嘉久(1926-2009)とか、平良敬一(1926-)とかそういう人たちと一緒に作るようになる。共産党にデモをかけるっていうか(笑)。何ていうか、日本共産党の考え方は間違っているんじゃないかってみたいな話にいったり。それはずっと後になってバリケードの中でね、そこでリーダーたちと話をしてももう全然話が噛み合ない。あの連中とは違うっていうか。基本的に間違っているんじゃないかっていうか、言っていることは何かそんなに違わないんだけど、いざだんだん細かく議論していくとねかなり違うっていうかね、そうじゃないかと思いましたね。これは僕の政治の、いわゆるリベラルみたいな立場でしか…… だけども相当、大学の時代っていうのはそういうふうに(時間を)使って。(全共闘の)基本となっている連中の何か具体的な話…… 一つは「矛盾」に対する考え方が違うんですかね。つまりね、僕の理解っていうのは、ある一つの矛盾された状態っていうのがあったら、その矛盾された状態を弁証法的に乗り越えるっていう。その弁証法的に乗り越えるって言った時に、自分が矛盾から逃れていれば、その弁証法的に乗り越えるっていう普通の弁証法の図式でいいかもしれないけれども、自分がそれにコミットしている場合には単純な弁証法ではダメなんじゃないかっていうのが、僕の基本的な「矛盾」に対する考え方で。それでそれを洗いざらい言い出すわけだけども。つまりそこが一番のきっと、理論的な違いだと思うんですよ。矛盾を克服するためにこうしなくちゃいけないっていうのがさ、ようするにその時に自分がこう思っていて克服できるかっていう点があるわけじゃない。単純には克服できないと思うんですよね、自分が被っていると。だから例えばそれが後に均質論とか言い出して、空間の均質化を乗り越えていく(注:原広司「文化としての空間 均質空間論」『思想』(1976年8、9月)、『空間 〈機能から様相へ〉』岩波書店、2007年所収)。自分が均質空間というものに、日常的に矛盾した(ものを感じていた)。そこの中にいるわけですよ。その中にいながら、それを乗り越えようって時に、例えば全共闘の連中との意見の違いもそこにあるわけですね。それこそ「建築をやめればいいよ」と。やめるんだったらそれはいいけど、そうすると矛盾が無くなるわけ。だからそんな矛盾が無い人は…… 矛盾を抱えているわけですよ。矛盾を抱えていることに対して、その矛盾した状態を乗り越えるということは、何か寛容な部分っていうかそういうものが無い感じだね。矛盾は乗り越えられないわけね、純粋理論的には。矛盾を被りながらやるというかたちをしない限り。ようするに20世紀の革命とかが失敗するのは、そこが一つの大きな原因になっているんじゃなかと思うけれども。農民は矛盾した状態に置かれているけども、矛盾した状態に置かれている人間が、農民が、農民を放棄して武士になって武装してね、それで戦えればそれはいい。もう関係無い。だけどあなたは農民でありながらっていう時は、その「ありながら」を続けていくために何か、そんなにうまくいくのって、理論的にね。もっと違う、もっと複雑な、そのところが、こういう状態にあるにもかかわらず、ということなわけ。いろんなことを説明しなくちゃいけないんじゃないか。そこらへんのことをどういうふうに説明できるかっていうと、大抵の人は説明できないわけね。

辻:(「Architectural Front」の頃には)建築家協会への批判をされますよね。やっぱりその時は建築家という職能に対する疑問があったのでしょうか。

原:そうね、職能っていうかなんていうか。そうですね、プロフェッショナルにやるっていうことの、プロフェッショナルにやるということよりか、それ自体が悪いっていうんじゃないけれども。建築っていうのはようするに文化とかそういうものに深く関わっているんだから、「そういうことに対しては一体どういうふうに関わってあなたたちはやろうとしているのか」って言ったら、前川さん(前川国男、1905-1986)にすごい怒られて(笑)。「お前はまだ何も経験してないのに、何を言うんだ」って(笑)。前川さんは知っているわけだよね。僕は前川事務所に行ってアルバイトしていたから。前川さんはすごいお金持ちだし、ロールスロイスじゃないけども、ジャガーかな、ちょっと間違えているかもしれないけど、そういう車に乗って、事務所に来ていてさ。僕がアルバイトしててもさ、(前川は)すっと通っていくだけだから。僕らは大高さん(大高正人、1923-2010)とかさ、鬼頭さん(鬼頭梓、1926-2008)とかさ、いわゆる五期会のメンバー(注:1956年6月3日に結成。辰野金吾、佐野利器、岸田日出刀、丹下健三に続く第五の世代に相当するという意識で村松貞次郎が命名。主なメンバーは大高、鬼頭、大谷幸夫、沖種郎、菊竹清訓、磯崎新、富安秀雄、稲垣栄三、村松貞次郎、宮内嘉久、平良敬一、田辺員人など)のところで働いているわけだからね。

辻:それはいつ頃のお話ですか。

原:それはですね、4年生かな。4年生だなあ。っていうのはね、前川事務所に僕の1年上の美川(淳而)さんが(いた)。そのころ貧しくて、近代化で豊かになりはじめて前川事務所なんて(経済的に)豊かな事務所なはずなんだけどさ、やっぱりまあ、それはそれなりに厳しいんだろうなあ。例えばここ(アトリエ・ファイ)だって事務所があるし、豊かそうに見えるけれども、実際には経営は苦しいわけだから、今でもそういうようなことはあるかもしれないけれども。その人は無給で働いていたの。それが前川事務所にいて、その人は自転車で通ってさ。ここ(アトリエ・ファイ)の人たちと一緒(笑)。自転車で通っていて、ここはまあ給料は払えるけども、無給で働いていて。それですこし給料もらえるようなったとかさ。それで誰かアルバイト、トレースしたりするやついないかっていうので来て。僕は仕事して、設備の(図面の)トレースとかね。そういうようなあらゆる図面のトレースをしていただけなんですね。

辻:大学に入られてからのお話で、なぜ建築(学科)に進まれたのでしょうか。

原:僕が音楽の話をしたのはそれなんです。つまりとにかく音楽が好きで、科学や数学やそういう理論的なものをやろうと思って来たんだけど、最初は文学っていうのもあるわけだよね、一方の魅力として。文学っていうのもあって。それはもう昔から、中学校の図書館での生活の中で一番本を読んだからね。だから読んでいろいろ芸術っていう世界があるのにって、そういうことを言っていたら寮の連中が「とりあえずお前は建築へ行けばいいんだ」って。何かそういう芸術的な部分とね、工学的な部分があるので、それが同時にできるからって言っているうちに、なんか丹下さん(丹下健三、1913-2005)が(世に)出て来て、建築家っていうのがいるんだっていうのが、世の中には。それで初めてわかったんだよ。それまでは作曲家とか演奏家とか小説家っていうのはわかるけども、建築家っていうのはね。田舎の工業高校に建築っていうのはあったけど、建築家っていうのは建物を建てるのかなって思っていたけど、どうも建築家っていうのがいるんだっていうので。それでみんなでそういうのをいろいろと話して。もう絶対建築行けって言うから、まあそう言われてみるとやっぱり建築っていいのかなって思ってさ。別段、僕は絵画とかね、そういう何か造形的なこととかは(興味がなくて)。磯崎さん(磯崎新, 1931-)とかとは全然違うんだよね。僕はそういう発想すらしたことない。そういう発想を持ってなかった。だからそれはもう今日まで、影響はいろいろ出ていると思いますけどね。

辻:磯崎さんも駒場寮にいらっしゃいました。

原:いたの?

辻:はい、いらっしゃいました。

原:いたのかあいつ(笑)。その話はあまりしなかったなあ、考えてみると。時代がちょっと違うんだ、ずれているからね、2年しかいれないから。

辻:丹下さんを初めて知ったのはどういう雑誌ですか。

原:新聞だろうね。新聞とかそういうので。東京都庁舎、古い(ほうの都庁舎)ね。旧都庁舎も出てきてて、こういうの設計した人なんだとかさ。それでだんだんそう思って、とにかく建築がいいんじゃないのっていって。建築なんていうのは後にうんとレベルが高くなる時代があるじゃないですか。そんなに高くないからね当時、建築っていうのは。別段勉強しなくても行ける、そういうのもありますよ(笑)。まあ土木っていったら嫌だけど、まあ建築なら芸術と関係するしますますいいじゃないかってことで。はじめからもう、大学に行っている頃から、もうお前は建築だっていう話ばっかりされるから周りで。だからそういうものだと思い込んだんだよね、だんだん。

辻:国際建築学生会議の活動に参加されてますよね。

原:そうねえ。それはですね、太田邦夫(1935-)がいたからじゃないかな。太田邦夫がいて、それが何か関係していたでしょう。

辻:太田邦夫さんとはいつ頃お知り合いになったんですか。

原:それはもう建築に入ってから、本郷に来てから。だから太田に言われてじゃないかな。

辻:1957年の国際建築学生会議で太田邦夫さんが委員長なんですけど、その機関誌の『核』っていう雑誌の編集を、編集長としてなさっていたという記録があるんですけども、何か覚えていますか。

原:ああ覚えてる。だけど編集したかなあ?

辻:編集委員長となっています。

原:したんだろうねえ。それはきっとね、太田が何かそういうことをやっていて、太田に言われたからだと思いますよ。だけどね、僕はそれほどあんまり。

辻:これは小能林宏城(1935-1979)さんの記録なんですけども(注:「小能林宏城年譜」小能林宏城遺稿集刊行会編『遺稿小能林宏城』、1981年)。

原:ああ、小能林のね。そうすると、小能林もその頃から知っている。

辻:1957年ですね。

原:1957年だね、そうするとすぐだねきっと、建築へ行って、本郷へ行くようになってすぐかな。本郷行くのが1957年。

辻:そうですね、1957年頃です。1955年に入学されるので。

原:そうですね。そうすると寮を出て住み込みアルバイトで浜田山に住んでいたんだ。それで浜田山に住んでいた時に……そうかもしれませんね。

辻:家庭教師をしながらですか。

原:うん、住んでるからいつ教えてもいいわけだ。それに食べさせてくれるしね。だから時間的に余裕ができたから行ったのかなあ、そうすると。

辻:『核』という雑誌は、どういった内容だったか覚えておられますか。

原:全然記憶してない。何かしたのかなあ。その時に林のり子さんもいるかなあ。ようするに磯崎さんと後に結婚するのり子さんと知り合うのはここだよね、こういう何か。何かあんまり、そんなに真剣になってないっていう感じじゃなかったかと思うよね。小能林もいたなあ。

辻:建築の勉強を始めたのはこの頃からですか。

原:あんまり意識無いね。その時にそれじゃあデモだとかさ、いろんなことが終わっているかっていうとそうじゃない、まさに最中だから。それはだから、学生の何とかっていう、そういうのが政治的にならないほうがいいとは思っていたんだろうけれども。そこ(国際建築学生会議)は何か政治的な問題というか、そういうものとは全然関係無い組織、友好組織みたいなものでしたからね。じゃないかと思うんだけど。そこで何かしたってわけじゃないねえ。太田もそういう性質ですね。何ていうか、彼は政治的なことにあんまり問題意識を持っていないというか、表明していなかったですよね。

辻:本郷での建築の先生方の授業で、何か覚えておられることはありますか。

原:それはいろいろ。一番記憶しているのはね、駒場の教室で下駄履いててね、本郷で最初に教室に入っていったらさ、すんごい怒った先生がいて。土方の親分みたいなのがさ、怒って。それが岸田日出刀(1899-1966)だったんだよね(笑)。そのあと岸田先生の授業、(岸田にとって)最後の授業を僕は聞くんだけどね。これが岸田先生かって。丹下先生が岸田先生の前なんか出たらもう震えているのに、お前はなんで下駄なんて履いて歩いているんだって言って(笑)。そうですかって言って。成文さん(鈴木成文、1927-2010)が野球やっているんだよいつも。キャッチボールをお昼にね。岸田先生なんかが来るからって、(キャッチボールを)やめて、ちゃんと遠くへ下がって最敬礼するんだって(笑)。岸田先生がさ、綺麗どころを連れて入って来るんですね。それでさ、みんなお辞儀して黙って。今日は岸田先生がお見えになっているから、静かにしなくちゃいけないよって、みんなしーんとしてという。

辻:それは「建築意匠」の授業でしょうか。

原:そうです。それで岸田先生のことで僕が覚えていることはね、岸田先生っていうのは偉い先生で大変な先生だっていうのを、最近(の研究で)教わってきて。それで授業を珍しく、僕が岸田先生の授業を聞いたんです。「日本の建築を設計する時には、畳の数の倍の広さが、その畳の部屋に付属しているようなふうに考えなさい」と。それでいろいろ(自分でも設計を)やってみると、確かだなあ、本当だなあと思いますね。いつも思い出すけどねその話は。まあその他教わったことというのは、いろいろあるんでしょうが、そのことはよく印象に残っているなあ。そういうものなんだなあっていうか、空間っていうかね、捉え方の基本的なことなのかなあって覚えている(注:ここでの言及は前出の「建築意匠」の授業ではなく「建築計画第1」の可能性も考えられる。「表10 昭和28年度の建築学科専門科目」東京大学百年史編集委員会『東京大学百年史:部局史3 工学部』(東京大学、1987年)。2016年1月31日更新)。それから太田先生(太田博太郎、1912-2007)もうまかったよねえ。建築史で。太田先生も非常にいい先生だったよねえ。太田先生は実になんていうか。僕はそのずっと後になってですね、岩波でいよいよデビューすることになった時に、太田先生とときどき岩波でお会いして。それでいろいろお話を聞いたり。まあ教授会でいつも一緒だったわけですけれども、そういう時っていうよりか。まあそんなに長く一緒にいなかったからねえ。僕とだぶっている期間は少なかったから、そんなにですけれども。だけどまあ丹下先生ですかね。何しろ製図室にいるとね、丹下先生は真っ白の背広着てさ、蝶ネクタイして来てさ、製図室に下りて来るんだよね。丹下研が奥にあってね。なるほどあれが丹下さんかって(笑)。すごいユニークで。だって東大の先生であんな格好している人いないしさ。すんごい丁寧なんですよ、丹下先生っていう先生はね。授業とかいったって、(時間がなくて面倒を)もうほとんど見てくれなかったけど、何回かスタジオの課題を出して。図書館とか何か(の設計課題)。まあそうねえ、だいたい学生なんだからろくなことやってないよねえ。だけども決して酷評はしない。非常に丁寧でソフト。やがて僕は丹下さんの家(《住居(自邸)》、1953年)に通うことになるんだよね。丹下研に入ってからは、丹下さんの論文を手伝いに行くわけです、毎日通うんだけども。そういう時でも決して、何て言うか……今、僕の言葉遣いは、例えば学生にとかだと、「おい、これやって」とか言うのだけど、(丹下は)そうじゃない。丹下さんはさ、「これをやっていただけますか」。すごいそういう感じなんだよね。だから菊竹(清訓)さんは丹下さんのそういうスタイルに似てて、もっとすごいっていうか。みんなそういう教えを受けた人たちなんです。黒川さん(黒川紀章、1934-2007)は違ったけど(笑)。いろんなことを話して教わったというのは、まあ成文さんとか内田さん(内田祥哉、1925-)とかいうのは特に、研究室にいていろんなことを教わったんだけども。丹下さんに教わったということは、やっぱり少なくてね。そんなに話できない、学生なんて。だから教わったのは、大谷さん(大谷幸夫、1924-2013)ですよね。大谷さん経由。丹下研が今何を考えているとかね。例えばミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe, 1886-1969)はどういう人なんだろうとかね、コルビュジエ(Le Corbusier, 1887-1965)はどういう人なんだろうとかね、そういうのはみんな大谷経由ですね、大谷先生から教わった。

辻:当時、浅田孝さん(1921-1990)もよくいらっしゃたと思うのですが。

原:いや、いない。

辻:お会いされてないですか。

原:あんまりいないんですよ。浅田さんはもうすでに…… つまり助教授が丹下先生で、講師が大谷先生で。僕らがいた頃はね。だから浅田孝さんは、その前に助手をやっておられたかどうか知らないけれども、大谷さんより上だから。大学のポストとしてはどうなのかなあ。調べてみないとそれはわからないけれど。いなかったよ、ほとんど顔合わせたこと無い、僕は。

辻:先ほど4年生の頃に丹下研究室で、丹下健三さんの博士論文のお手伝いをされていたと思うのですが、すごく数式の多い論文なんですけれども、先生ご自身が論文のお手伝いをされたんですか。

原:そうです。その時になんか数式的な内容というか、むしろ計算ですかね。数式に従った計算。僕はずーっと計算していたような気がする、丹下さんの家でね。結局は丹下先生から教わったんだけども、多くのことはね。いつもみんなにそれは語り継いでいるんだけども、例えばコンペティション(設計競技)をやるとすれば、自分のこれから提案するプロジェクトに対して5つの特性を数えるまでやめてはいけない、その作業を。5つ無かったら負けるだろうと。5つあれば勝てるだろうと。僕はそのことをずっとそれを守っているわけですよね。負ける時はちょっと足りなかったんだなあって思ってさ。5つくらいあると勝つんですよ。どんな潰し合いでも勝つ。なぜかっていうと丹下さんは、人には意見があって、委員会で審査をするから、とにかく反対した人もまあ1つくらいは、その5つのうちの1つは認めるような仕組みにしとかなくちゃいけないと(言う)。それは生き抜く手法であるということを、柔道か何かを例にとって話したと思う。それはね、個人的に丹下さんが僕にそう話したのか…… そういうことは話すはずはないな。だから丹下先生は授業か…… (でも)授業はほとんど休講だからね、丹下さんは(笑)。だからまあ(授業は)半学期に、まあ1、2回あればいいというような感じだから。設計の時ですかね。設計の課題をやって講評している時に、「こういうのは」って言われたのかなあ。なるほど丹下さんはそういうことで作るのかっていうのを、後にコンペティションをやるようになってから、そう思ったけどねえ。

辻:内田祥哉先生との出会いは、いつ頃ですか。

原:それはですね、内田先生はもちろん知ってますよね、若い先生で。内田先生がいて、(鈴木)成文さんが一番若くて。そういう状態だから。一番の問題点っていうのは、ようするに都市工ができる(注:東大都市工学科が1962年に設立される)。大学の中ではとにかく建築学科にはね、やっぱり丹下さんがいるから、まあこれは際立っているけれども、高山先生(高山英華、1910-1999)もおられて。これはおおらかな先生、実におおらか。それで磯崎さんがいるでしょう。それで成文さん。だから大学全体の流れ、建築学科の空気としては、やっぱり高山さん、丹下さん。丹下さんへのやっかみということはないかもしれないけれども丹下さんがユニークすぎるわけだよね、東大の建築学科の中で。都市工ができるっていう感じで、丹下さんと高山さんがやるだろうというような空気があって。僕はどうも都市(注:都市計画、アーバンデザインの研究と現場での実践)をやるのはまずいんじゃないかって思ったから、建築家になるためにはね。建築をやらなくちゃならないし。自分はデモやアルバイトに明け暮れていてね、建築のことも何も知らないでやっているから。だからとにかく建築に行かないといけない。都市工にこのまま行くと、建築の設計から離れるんじゃないかっていう。その予感に、僕はよくその時に気がついたって思うんだよね。そのあんなにいろんな状況を知らない中で、何となくこれは危険なんじゃないかって思ったわけよ。その危険だって思ったのが結局、都市工というのは、後の僕は都市工の先生なんかも兼ねたりしているけれども、基本何かを設計するというムードは無かったわけですよね、丹下さんを除いては。だからなんとなく行かなくてよかったなあって感じはするんだよね、都市工には。

辻:ちょっとお話がずれてしまうかもしれませんが、「グループ59」(Group59)という同級生のグループがあると思います。

原:ああそれは、大学院に入ってからですね。大学院に入ってから「グループ59」というようなのを作りまして。というのはね芸大(東京藝術大学)から宮脇檀(1936-1998)というのとね、曽根幸一(1936-)が(東大に)来るわけね。この2人が実に我々と対照的で、僕は彼らが非常にいいと思ったわけよ。なかなかかっこいいんじゃないかっていうかさ。何か違うセンスをもった連中でして。それですぐさま仲良くなって。唐崎健一と森村道美(1935-)と、それじゃあコンペティションか何かをやろうっていうか。そこからだね、僕が建築を始めるっていうのは。いろいろあったけれども、何となく建築やるぞっていう気分になったのは、これから建築をやるっていう感じがしたのは。そういう非常に建築らしい、曽根とか、特に宮脇だよね。宮脇の何かチャラチャラとしたセンス、芸大の持っていた。ああなるほどなっていう。つまり建築に近いっていうのかな。建築学じゃなしに、建築の設計に近い。非常に近いところにいるなっていう感じね。だから我々の周りにいて、設計か何かをやるって言っても、何となく総体として建築の設計をやるのかなあ、みたいなね。どういうのかなあってちょっと掴めないけれど、芸大の連中は吉村先生(吉村順三、1908-1997)を中心として、もう設計プロパーみたいな。他に無いよね、いろいろ我々が教わった。彼らのところは歴史の「れ」の字も感じられないっていうとあれだけど、構造の「こ」の字も考えない、材料の「ざ」の字も無い、そういうセンス。ストレートに建築の設計をやって来ている、そのセンスが、あっこれが近いんじゃないかって、きっと僕は思ったんだろうと思うんですね。それでそういう感じで仲良くなったんですね。

辻:先日オオシマさんと一緒に、曽根幸一さんからお話をお聞きする機会があったんですけども、曽根さんは丹下研に進まれますが、ワックスマンゼミ(1955年11月1日-30日)というものが東大であって、コンランド・ワックスマン(Konrad Wachsmann, 1901-1980)が教えに来た時に、曽根さんもお手伝いで参加されていて、東大に来るきっかけになったとお話をされていました。

原:僕はそれには関係していないですね。ワックスマンの話というのは、その後いろいろ何回も磯崎さんたちとの勉強会とかそういう所で聞くことになります。それはあんまりしなかった、というかな。

辻:宮脇さんは高山研に行かれると思います。当時1960年に静岡のプロジェクト(静岡市中心部再開発計画)が丹下、高山研であったと思うんですけども、原先生はご存知ですか(注:宮脇檀「静岡駅前商店街再開発計画について:静岡市中心部再開発計画」『日本建築学会研究報告』53号、1960年12月)。

原:知らないなあ。僕はそっちの何か非常に固い、ハードな部分の助っ人として登場していたという。だけど丹下邸の美しさっていうのは、もう本当にやっぱり類い稀な美しさだったね。本当にそれはすごい綺麗な建物ですよね。地震が来てさ、ある日ね。地震が来るとめちゃくちゃ揺れるんだあの建物は。だってブレース(筋交い)が入ってないもんね、木造で。丹下さん真っ青になって、立ち上がってうろたえて「大丈夫か」って。それですぐスタイルを元に戻すけどね。

辻:宮脇さんとは、阿佐ヶ谷美術学園(現・阿佐ヶ谷美術専門学校)というところでご一緒に教えておられたのですか。

原:そうそうずーっと。そういうことは大抵、宮脇が探してくれるんですよ。それで予備校みたいなところだから。何て言うかな、感覚が違うっていうのかなあ。すごい感覚が違うんだよね。曽根はどちらかと言うと丹下さんみたいな、もともとすごい真面目な人間だから。作家的というけれど、何か建築のバックグラウンドっていうか、そういうものがいろいろあってその中で何か作っていく。つまり歴史とか、何かそういうものの中にあって作っていくんじゃないかっていう感じだけど、宮脇の方はもっと実践的っていうか、実践的に見るっていうか。こういうかっこいいデザインがやりたいとかさ。そういうような感じでね。今の感覚に近いですよね。そういうふうだったですね。

辻:(宮脇檀は)1960年に車で日本一周する、都市調査に出られていますよね。

原:そうそう、そうそう。だから遊びなんだけど、複雑なところがある。それはどちらかと言うとね、そう言うと怒られるかもしれないけども、民藝的な世界。感覚からすると。モリス(ウィリアム・モリス William Morris, 1834-1896)とかね、ああいう感じじゃないですかね。民家研究って言ってもさ、そういうニュアンスっていうのが一方ではあるわけだよね。伊藤さん(伊藤ていじ、1922-2010)にしても二川さん(二川幸夫、1932-2013)にしても(注:ここでは1957年から59年に刊行された『日本の民家』(美術出版社)に代表される伊藤と二川の民家研究とその方法を指す)。何ていうか例えば建築形態とか、集落形態とか、そういうのに僕なんかはすぐ関心がいっちゃうけれども。つまりもっと違って、実際にはディテールとか素材とか形態といっても、具体的な形態はどういうふうに変わっていっているかとか、そういう実在するもの、マチエールそのものに対して比較的忠実である、そういう設計の考え方があるじゃないですか。そういう考え方じゃないかと思うんですよ、基本的にはね。そういうのに非常に興味を持っているから、それをモリス的と言っていいかどうかわかんないけども、そういう中で早いよね。伊藤さんとか二川さんとかがそういうのと同じようなレベルで同じようなことを考えて、それで動き始めるからね、彼(宮脇)は。もちろん才能もあったしね。絵を描いたりするのはすごいうまかったし。工芸とかさ、茶碗、陶芸とか、ああいうものに近いね。

オオシマ:1959年頃から、八田利也(注:ハッタリヤ。伊藤ていじ、川上秀光、磯崎新による3者連名のペンネーム)の活躍もあります。

原:八田利也。磯崎さんは伊藤さんにはそんなに合ってないと思うね。磯崎さんは、僕が大学に比較的いるようになる1959年からはときどき顔を合わせる。だけど八田利也っていう総体をちゃんと理解していたかどうかは疑わしいね、その当時。やっぱり気になるのは伝統論争。丹下先生と白井さん(白井晟一、1905-1983)、それから川添登(1926-)、菊竹清訓、それからすぐ上に丹下研の黒川さん(黒川紀章)もいたから、やっぱりメタボリズム。伝統論争からメタボリズムへ移行するという大きな流れの中にあって、八田利也の持っている意味というのは、すごい面白い文章を書いているのは知っていたけれども、それがよくわかってなかった。今にしてというか、数年前に僕は全部読み直したんだよあれを。本が無いから図書館に行ってね、日比谷図書館にあって、行って読んだ。『現代建築愚作論』(彰国社、1961年)っていうね。あれはやっぱりあの当時、最高の批評になっていると思った。あれはね、すごい高いレベルですよ。レベルが高い。だけどもその意味するところはよくわからなかった。

辻:磯崎さん、川上秀光さん、あと奥平耕造さん(1937-1979)が先生になって、ほとんど同じメンバーで近代建築に関する勉強会を、当時されています。

原:そう、勉強会を唐崎、曽根とかね、我々のグループの連中。結局来たのは唐崎。森村があれ(参加)したかもしれないけど、まあ唐崎が聞き手というかな。討論の中に入っていって。それでその3人プラス僕というのが1960年。僕がマスター(修士課程)の2年。大学院2年にかけての時期。それは実によく教わったね、いろんなことを。磯崎さんは世代的に言うと、我々より菊竹さんに近いし。黒川さんは(磯崎より)下だしもう華々しくやっていると。磯崎さんはまだ大分の医師会館(《大分医師会館》、1960年)(の設計)を始めた頃で、図書館(《大分県立大分図書館》、1966年)はその後になる、そういうような経緯があって。磯崎さんもそこ(世代)を非常に気にしていたんだよね。実際に丹下先生はどういうんだろうっていうのも磯崎さんから話を聞いたし。前川さんがどういうふうであるかというのも奥平さんから聞いたし。高山先生がどういうふうであるかというのかとか。東大の建築学科全体がどういうふうであったかとか。そういう話とか槇さん(槇文彦、1928-)の話とか。みんないろんなそういう話というのも、まあ大抵は東大の建築学科の話が多かったような気がするけれども、今が(どうである)というんじゃなくって、昔が(どうであったか)という、そういうような話が多かった。とにかく何せいろんなことを、建築の知識、どうすると建築家になれるのかというような話というよりは、何かその生き様というかなあ。身の処し方というか。近くに建築家がいないと建築家には絶対になれないと思うんですよね。この場合はどうするのかとかね。そういうような中で、丹下先生はなるほどああいうタバコの吸い方するのかとかね。ああなるほどね、ああいうふうに吸わなくちゃいけないんだって(笑)。丹下さんはね、タバコを吸うとね、火を点けたままのものを何本も置くんですよ。なにかすごい豊かさをね、ピースをぶあーっとね。吸っているのが本当にたくさん。少し吸うとすぐ消しちゃうんですよね。建築家のタバコの吸い方っていうのはね。丹下さんがね、電話かかってくるとね、クライアントからとか施工会社とか、丹下研に当然電話がかかってきますよね。丹下さんがね、出ないんですよ。他の人を出す。それでね、丹下さんがこっちで指示する。こういうふうに答えろって。ものすごい大変、他の人たちはね、みんな緊張してね。ものすごく緊張するからよく喋れないんだ。もう震えちゃうっていってさ。だけども(丹下が)こう、こうってもう全部指示する(笑)。すごい。本人出なくてね。まあ岸田先生がそういう先生だったから。岸田先生が丹下先生に仕事を、全部そういうのをやらせる。いろんな所で丹下さんに仕事が与えられていくっていう。だから岸田先生の前では喋れないって言うんだよね、丹下さん自身が。全然喋れない。ほとんど喋れないって。みんな川上さんとかも、磯崎さんも目撃者だからさ、そういうところのね(笑)。そういうのを面白おかしく話しするんだよね。

オオシマ:僕はレーモンド(Antonin Raymond, 1888-1976)の研究をやっていたのですが、レーモンド、前川、丹下との関係に興味があります。

原:レーモンド事務所の影響というのは大きいですよね。やっぱり建築家っていうのはこういうふう(注:西洋近代をモデルとした建築家の職能)でなくちゃいけないっていう、さっきの建築家のスタイルみたいな。そういうのを彼が具体的に(示した)。レーモンドさんというのは僕は知らないし、話したことは無いんだけれども、きっと非常に大きいんじゃないですかね。

オオシマ:またコルビュジエの(受容の)流れもあります。さっきのお話、八田利也や、都市デザイン研究体の活躍もあり、『建築文化』で特集号が何冊か出ていますね。構造(注:構造派。建築に関する社会政策、特に技術や法制度を中心的な主題として扱う)との関係で、磯崎さんは(建築物の)設計より都市デザインに興味があったようですね。そこから磯崎さんと伊藤ていじさん、川上さんも都市と歴史と建築デザインに興味を持っていきます。それで伝統的な集落などが(課題として)出てきます。磯崎さんのお話ですと、1963年に「日本の都市空間」の特集号を作りますが、伊藤ていじさんがその時にワシントン大学に教えに行かれています。その準備のために、それ(「日本の都市空間」の特集)は外国向きの内容でした。ヴィジュアル的で言葉がわからなくても、なんとなく内容がわかるようなものです。またそれは伝統論争とつながってもいます。ただ桂離宮のエレメント(注:屋根、天井、壁、床といった、空間を仕切り遮蔽や透過を担う二次元の面)とかそういうものより、都市の空間というものが意識されていきます。また都市デザイン研究体(注:伊藤ていじと磯崎新を含む『建築文化』特集号の編集に参加したメンバー)から磯崎さんがいなくなりますが、伊藤ていじさんと宮脇檀さんによってデザインサーヴェイは続きます。先ほど民藝のお話がありましたが、またもう一方ではそういう集落のお話もあるので、その流れでどういうふうにヴァナキュラーなものが入って来たのでしょうか。原先生はどのように見ていらっしゃいましたか。

原:「日本の都市空間」というような(特集を作った)あのグループには僕は直接入ってないから、そういう意識っていうのはね……例えば先の磯崎、川上、奥平のような諸先輩と話している、いろんな話を聞いている。そういうところでそういう話って出ないんだよね。その場では出なかった。というのは、まあ川上さんは控えめな人だからあんまりそんな強い発言をしようという性格の人じゃない。そういうせいもあるかもしれないけども一つにはね、やっぱり磯崎さんが今ちょうど設計を始めようと(している)。そうするとおそらく彼はね、近代建築の方に頭が向いていたと思う。だから近代建築の話というのは非常に多かったんじゃないか。時々ちらっとは出るけれども、そういう(「日本の都市空間」の)話は出なかったですね。奥平さんも前川事務所で実際に設計をやっているわけですし。あの頃は「ミド同人」っていう組織が前川事務所の中にできて、それで大高さん(大高正人)、鬼頭さん(鬼頭梓)等々が、すごい意気軒昂たるものがあるから。そっちの方の話だと思うんだよね。特に近代建築の、西欧の1920年代を中心とする向きというのをどういうふうに捉えたらいいのか。それから都市の実際の話となると、話題としてはスミッソン(注:アリソン&ピーター・スミッソン Alison and Peter Smithson)の動きがあって、どうも新しい都市像というものが出てきそうだという雰囲気があって。それに対してどうかとか、どういうふうに対応するべきかとか、そういうような話で。日本の話ってあんまり出て来なかったですね。そういう西洋の都市論を話す時にも、そういうところからの視点を話しているという感じがしましたけどね。

辻:先生ご自身としても、当時は都市調査にはあまり興味が無かったんですか。

原:うん無かった。正直言って無かった。つまり都市のことはひとまず置いといてという感じが非常に強かったですね。集落始めるっていうのはその何ていうのかな、ようするに1970年に向けて社会が大騒ぎになっている、学生運動になっていく。そういう所で地域という概念が出てくる、公害が出てくる、そこからどうやって生きていくべきかみたいなね、この先ね。そういうところからこれはもう絶対、集落やるべきだっていう考えがあって。フィールド調査とかも実際に自分でできるのかどうかというのもわからないし、まずはとにかく行動を起こしてみた方がいいんじゃないかっていうようなこととかね。だから何ていうのかな、結果としてはかなり似ているんだけれども、動機がえらい違うんだよね。例えば伝統論争といっても、ようするに近代化をはかるためにいかなる理論的武装をしたらいいか、あるいはデザイン的な武装をしたらいいかという問題ですよね。それに対して我々が直面した問題というのは、全て近代が背負うものをモデルにしていたんだけどこれでいいのかっていうかさ。今や近代自体がピンチに立たされているこの状況の中で、一体何をすればいいのかっていう問題だから。問題の立て方が違うっていうかね。状況がそこのところでかなり変わっていくんですよね、この数年の間にね。70年に差し掛かってきている頃っていうのは、いろんな人がいろんな立場で困難な状況を迎えるわけだけども、大学はバリケードがあって。現実問題としてね。バリケードの中でしか話ができないっていうか。バリケードの外だとどうやってこれを収拾するかみたいな話はあるけれども、中で話をするとですね、すごい厳しいんだよな。みんなもう、先生というか学者たちというのは、本当に辞めるのかどうなのかというところまで突き詰められるからさ。そういう話になってきた時に、集落かなって僕は思った。だから長い間、集落という課題でやらなくてはならないということは、全然僕は思ってなかったんだよね。そういう発想はしていなかったんだけども。どうも状況と自分とあれしてから、何か建築を続けていくとすると、どうも集落調査くらいしか生きる道は無いな、みたいなさ。そういう感じなんだよ。今ではもう本当に想像がつかない状況だけれども。

辻:先生にとってはまず内田祥哉先生とのビルディングエレメント論があったと思うんですけれど、当時1961年頃にパウル・ワイドリンガー(Paul Weidlinger, 1914-1999)の『アルミニウム建築』(彰国社、1961年)を訳しておられますね。

原:それは授業ですね。内田先生の授業で各人が担当して、チャプターを担当して翻訳しなさいっていう。これはいい本だからというので出された。それで僕は内田研だから、とにかくその本をまとめて翻訳しなさいという時に、他の人たちはやったりやらなかったりいろいろあるので、まあそれじゃあ責任を取ってとにかく翻訳しなくちゃしょうがないということですよね。

辻:(当時では)新しい素材としてのアルミニウムということですか。

原:そう。それはね、一方で伊藤(ていじ)さんを中心とする日本の都市空間というようなものを検討しようというのに対して、近代化の流れというのがあって。近代化をしていく時に、いくつか代表の材料があるんだ。ALC(注:Autoclaved Lightweight aerated Concrete、高温高圧蒸気養生された軽量気泡コンクリート)とかね。それからアルミニウムサッシとかカーテンウォールでしょう。いろんな「もの」に対してJIS(注:日本工業規格)の寸法を与える。寸法をどう規定したらいいか。例えば部品を1cmにするか9mmにするかとか、そういうような話ですね。それがモデュロールなんかと関係してくるんだけども、そういう規格化のプロセスがあるわけです。近代化の一番重要なことは、日本で様々なものを生産しなくてはならない。新しい材料、例えばセメント系の材料がありますね。そういうような材料に規格を課さなければいけない。規格化をするためには母体となる委員会があって、その委員会が実践する業者とか大きな設計事務所の人とか、池田武邦さん(1924-、日本設計の元代表取締役社長)とかそういう人たちなんだけど、みんなで委員会を組んで方針を与えると。建設省、通産省が仕事を出しておいて、それでその課題が内田先生、池辺先生(池辺陽、1920-1979)が元となってそれぞれ30くらい委員会の課題があって。内田先生のノートを見ると毎日書いてあって、内田先生は「この時は1日に2つあるから行けません。あなた行って下さい」と言われるわけだよ。僕はね、嫌いだからそういうのが。だからなるたけ逃げているんだけども、その上にいた内田研の先輩たちに(言われて)、内田先生の代わりに行ってなくちゃならない。そういうことを経て近代化が進むわけですね。やはり日本の工業の近代化の意味というのは、内田先生と池辺先生がいなかったら進んでないんですね。まあ材料関係の先生もいるけれども。日本の近代化をどうやって進めるか。具体的に進めていく、その駆動力みたいなものを内田先生なんかが中心になってね。池辺先生と二人だけども。どちらというと建設省が内田先生で、通産省が池辺先生。僕は後に池辺先生のところ(研究室)に行くでしょう。集落をやり始めるということは、二人に全く関係ないことを始めようとする(笑)。というのはね、絶対に無理なの。内田先生にもね「はい、こっちへこうでしょう、これを手伝え」と言われる。それで池辺先生の手伝い。そういう人間が必要だから僕を生研(東大生産技術研究所)に入れたわけだよねえ。だけど僕はね、これはまずいと(笑)。この二人に(というのは)ね、どうも難しくて。二人はライバルだから、内田先生と池辺先生はね。非常に恩がある二人だけれども、それでイエスと言ったらね、一度でもイエスと言ったらもうやらなくちゃならないし。もう同時に進めるということは不可能なわけですよ、二人の意見が合うところで何か進めていくのは。僕は設計やろうと思っているわけだし、こんな世界に入ったら大変だって。日本の近代化の(ことで)、とにかく一番感謝しなくちゃならないのはこの二人だよね、日本がもし近代化というものに感謝しなくちゃいけないなら。だけどもさ、(自分は)やっぱり根は伊藤(ていじ)さんみたいなそういう感じを持っているし、磯崎さんみたいな感覚も持っているわけだから、性格として。冗談じゃない、こんなのたまんない。こんなのにまきこまれたらって(笑)。それがいかに苦しいかということがもう目に見えてね。それでまあ内田先生はニュートラルの人だけども、池辺先生は元共産党員ですよね。だからもう政治的なこともあってね。自分の近代化に対する考え方もあったりして。だけどもこれは日本の一般の人々を幸せにするためにはもうぐっと我慢しなくちゃいけないと思って、二人とも…… 内田先生だって設計に非常に興味を持っていてさ。設計やりたいんだけどさ。その立場を嫌とは言えないんでしょうね。歴史的な必然性で嫌と言えないと思うけれども、嫌と言わないでぐっと耐えたんだなあの二人は。僕は耐えなかった。僕は嫌だって。耐えもしないし、それは路線が違うって。それはさ、ちょっと曖昧なところがあったけれどもそういうふうに僕が言えるのは、文化大革命じゃないけれども、世界の動乱だったんですよね。その状況の中では、どうやって生きていくのかっていうのをそれぞれみんなが真剣に考えているから。だから僕は、仮にもそういうことは一切やりません、これからは集落ですって(笑)。ものすごい驚かれたけどね。だってそうじゃないですか。僕がいたところは生産技術研究所ですよね。生産技術研究所で集落と何が関係あるのって言われて。まあとにかくそこらへんは、池辺先生のものすごい偉いところでね。それは、そういう考え方があるんだろうって言って、きっと説明してくれたんだと思うんだけども。大学の内部では「もう冗談じゃない」って(言われて)。僕も労働組合とか入ったりしてもう目の敵にされてたからね、当時は(笑)。今は感謝されているかもしれないけど、いろいろ建物を建てたりなんかして、だけど当時はもうしょうがない人だっていう。それで池辺さんがさ、毎日くらい文句言われていたと思う。あいつは学校に出て来ない、さぼっていつも何かバリケードの中に入ってやっているみたいだし、っていうので。だけどそれで幸か不幸か僕は一般抗争から切れたわけ、一般行動というか。

辻:1962年には目黒区の中学校(《目黒区立第一中学校》)の設計を内田先生となさっています。吉武研の方々も入られていましたか(注:原広司「目黒一中校舎の設計過程」『建築文化』(1963年11月)。2016年1月31日更新)。

原:そうですね、吉武先生(吉武泰水、1916-2003)、船越さん(船越徹、1931-)が入っていてですね。それがどういう事情かと言うとですね、内田先生の奥さんが病気になられたんですね。結核か何かになられたんですね。それで子どもも奥さんもいるわけだからこれは(このプロジェクトに関わるのは)無理であると。だからチームでやるから、まあお前行ってやってこいと。そういうことで、共同(設計)事務所という所でね。共同事務所というのは今でもありますけれどもその特性はですね、大場さん(大場則夫)というのがいたんですね。この人は電電公社の時の内田先生と何か関係があったんじゃないかと思うんだけどね。内田先生よりもちょっと後輩なんじゃないかな。その事務所に鈴木先生の奥さんがいて。それで設計やっていくんですよね(注:船越徹、大場則夫、鈴木貴美子が同じチーム。原広司「教育の風景のなかの内田祥哉論 住まい学大系[栞]」内田祥哉『建築の生産とシステム 住まい学大系051』(住まいの図書館出版局、1993年)。2016年1月31日更新)。だけどその頃はまだ全然建築なんて知らないで、とにかくいた。まあやってこいって言われてさ。内田先生がいないんだからお前決めろとか言われて(笑)。設計のことなんて何にもわかってないのに、どうやって決められるんだっていうようなことでさ。そういうことでやったような建物ですよね。

辻:(部材、建材の)規格化だったり、モデュラーコオーディネーション(注:建物の各部材の寸法を、基準となる大きさに合うよう調整すること)が当時のテーマですか。

原:いやそこはさ…… そこが面白い。そういうふうに内田先生は今やっていることを、そのまま現場に持ち込むっていうような感覚の人じゃないんだよね。非常におおらかな人でさ。それで彼の関心というのは、新しい学校の形態ね。吉武先生を、内田先生は非常に尊敬していて。何ていうかな、新しい学校の形態みたいな。クラスター化とかさ。それからオープンシステム。教室のオープンシステムみたいなものはやらなかったけど。大森中学校(《大田区立大森第三中学校》)っていうのを内田先生が設計していて。僕は内田先生に何でも決めていいよって言われていたんだけど、決められるはずがないから。わかんないからね。だけども内田先生に非常に厳しく設計のことを教わったんですね、その時に。僕が施工会社とか役所とかいる時に話したりしても「あなたは黙っていなさい」って。そんなことは絶対に言わない人だけど、発言すべき時はちゃんと誰が発言しなくちゃいけないとかね。丹下さんが電話に出ないで指図しながら電話かけさせているって、そういうことは重要だったんだよね、極めて。何か人間関係みたいなもので。まあいろんなことを教わりましたね。

辻:当時そういうお仕事と並行して、「グループ59」からの流れでRAS(注:RAS建築研究所)がスタートします。

原:それはですね、ちょっと遡りますよね。ようするに「グループ59」じゃないんですが、ようやく僕はね、内田研にいたせいでもあるんだけど、家庭教師とかをやらないで生きられる状況ができたんだよ。それがなぜかっていうとですね、翻訳なんですよ。翻訳っていうのはね、もう世界中のデータが、近代化のためのデータがヨーロッパからアメリカから来るわけ。誰かが訳さなくちゃいけない。もう何かフランス語だろうがドイツ語だろうが英語だろうが何しろしょうがない、その気になって(翻訳を)やった。しょうがないもん。イタリア語までやったから。もうみんな忘れちゃったけど。パンフレットをいっぱい持たされて、内田先生に「これを訳しなさい」と。そうすれば家庭教師やらなくて済むと。それで訳していたんですね。もう誤訳ばかりだと思う(笑)。そういうふうになっていたんですね。それで建築に没頭し始めたわけだよね、完璧に。その時にハノーバーの学生コンペティションっていうのがあって。それに案を作って(出した)。RASというグループを僕が中心になって(作った)。その時に香山たち(香山寿夫、1937-)の学年、僕の1年下の学年を中心としたグループ。僕がマスターの1年の時だからその連中がいて。その中の1人に、慎君(慎貞吉、1935-)っていうのがいて。慎君は何か札幌の先生が校舎を建て直すから、一部建て直すんで、それの設計と言われたんだけどどうしようかって言うもんで。それじゃあどうしようかっていう時にですね。その時に一級建築士の試験はもう終わっているんじゃないかなあ。

辻:ハノーバーのコンペは1959年頃ですね。

原:1959年ですか、あれは。

辻:はい。国際建築学生会議の。

原:ああ、ごめん、ごめん。ハノーバーじゃなしに、サンパウロです。サンパウロのやつにいって(注:サンパウロ・ビエンナーレは1961年)。あれもすごい面白い話があるんだよ(笑)。案を作ったわけよ。(丹下先生は)忙しいからさ、とにかく案を作ってこういう模型を作りましたと。大きな模型作ってさ。丹下先生に指導教官としてのサインを貰いに行こうって、みんなで貰いに行って見せたんだよ、丹下さんにね。見てね、「うわー」って言っててさ。「これは言えないなあ、俺が指導教官とは」って(笑)。今だって僕も逆の立場だからそう言うと思うんだよね。先生全然見ないで目暗判押して下さいって。そしたら丹下さんがさ、「ダメだよ」って。そういうことを言う人じゃないんだけどはっきり言ったね、さすがにね。それからみんなに、他の先生に内田先生とかにも見せてさ。結局誰か押したねえ。主任か誰かが押すかってことになって。

辻:それはサンパウロのビエンナーレですか。

原:ビエンナーレのコンペティションです。

辻:媒体に発表されていますか?その時のコンペのものは。

原:結局ね、我々は佳作だったんだよ。それで早稲田の方が…… その前に早稲田が勝ったのかな。早稲田の方が成績が良かったから、我々はその後何も話さない(笑)。だと思うよ。

辻:探しても見つからないんですよね。

原:見つからないよ(笑)。何にも無いと思うよ。だけどね、それは「日本の都市空間」の本の一部に出ているよ。土田(土田旭、1937-)がこっそり入れたんだよ。

辻:そうなんですか、やっぱり(「日本の都市空間」と)つながるんですね(注:RAS設計同人(原広司、香山寿夫、慎貞吉、宮内康夫)「建築は語りかける」『美術手帖』(1963年1月)にもサンパウロ・ビエンナーレ参加作品《エデュケイショナルセンター/コミュニケーション・スペース》の図版あり。2016年1月31日更新)。

原:そういう意味でそうなんだよな。そういう話があったよね。当時、RASに後に入ってくる塩野谷(建二郎)っていう男がいるんだけど、内田研の後輩でもあるんですけども塩野谷っていうのがいて、塩野谷から譲り受けた天神荘っていう、中野の天神荘の物語みたいなものを『都市住宅』に書きますかって(言われて)、後になって書いてありますね(原広司「ACT2」『都市住宅』1970年10月号)。そこでそれじゃあやるかっていって始めたんですね。それでどういう図面を描いているかってもうよくわからないけども、その時も内田先生の目黒の中学校をやっているから、どういう図面描けば建築ができるかっていうのはある程度はわかっていたんですね。じゃあはじめようかっていうことで、RASというものがはじまった。

辻:すこし遡ってしまいますが、先ほど太田邦夫さんとの関係で、生田勉先生(1912-1980)と3人で(つくった)計画案があります(注:生田勉、太田邦夫、原広司「T音楽大学計画案」『新建築』1960年11月号)。

原:そうそうそう。それはですね、このRASを作る直前、1960年くらいですかね。それ(生田研究室)に太田が助手でいたんですね。そのプロジェクトがあるので手伝いに来いって言うんで行って、作ったんですね。広部先生(広部達也)が図学教室にもうすこし経つと来るんですが、その前ですね。それは単体で、内田先生は建築家としてはもちろん知っているわけだけど、個人的には知っているわけじゃなくって行ったんですね。そしたら非常に(よくて)、一高(第一高等学校、現在の東大駒場キャンパス)なんですね、生田先生はね。そうして(北川)若菜の父親(北川省一、1911-1993)が一高なんですね。一高東大の中退なんですが。それで一高で若菜の父親のことは、生田先生は非常によく知っている。生田先生というのは非常に文学的な先生なんですね。そういうサークルに入っていて。ようするに小林秀雄(1902-1983)とかが上にいるっていう、そういう世界だったんじゃないかなと思うんですけどね。それでとにかく呼ばれて行ってそれだけを手伝ったという感じですかね。何しろね、行かないと電報がよく天神荘に来たんだよ。何にも書いてないんだ、「原広司よ」って書いてあるんですね。早く来いっていうこと(笑)。そうすると行かなくちゃいけないということ。電話が無いからね、そこの安アパートには。

辻:天神荘はお住まい兼RASの事務所だったんですか。

原:そうだったんです、その頃はね。だからものすごい狭い、何て言うか、サウナみたいな感じですね。すごいところなんだけども。それで始めてだんだんメンバーがあれして(増えて)いく。実際に(自分たちが設計した)建物も建つんですね。その間に有孔体とかそういうような概念を出していくということですかね。

辻:実作の初めてのものは、佐世保の女子高校(《久田学園佐世保女子高等学校》、1962年)ですね(注:原広司「久田学園佐世保女子高等学校」『建築』(1964年4月)。2016年1月31日更新)。

原:そうですね。その前に実は、丹沢の中村先生という牧師がいるんですが、その牧師が戦後、戦争で両親を失った子どもたちを数十人育てた非常に偉いキリスト教の牧師なんです。異端で、教会と意見が対立して、彼は山の中、丹沢の山の中へ一人で入って行ったという人なんですよね。その人と知り合って、小さな建物を建てたりしていたんですよね(注:《国民宿舎丹沢ホームとバス待合所》、1962年。RAS設計同人「丹沢の自然を守るセンター」『建築』(1963年5月)。2016年1月31日更新)。それがあったけれども、まあね。

辻:ビルディングエレメント論の一般の読者に向けた発表も平良敬一さんが編集しておられる『建築』という雑誌で掲載され、RASでの作品発表も同じ『建築』で発表されています。先ほどおっしゃっていたような、内田研での取り組みに対する原先生の戸惑いのようなものも文章から伝わります。有孔体の理論につながっていく、部分と全体の論理の話なのですが。

原:そう。内田先生の態度、基本的な方法というのは、エレメンタリズムというか要素主義なわけですよね。これは近代のオーソドックスな、あらゆる分野にまたがるオーソドックスな方法なわけで。それ自体に関しては何ら僕は抵抗もない。だけれども、これは個人的にのみ意味があるんだけれども、ようするにそれによってビルディングエレメント(注:屋根、天井、壁、床といった、空間を仕切り遮蔽または透過を担う二次元の面)の要素を分析していって、適当な要素というものが抽出されてリストアップされると。そうするとそれをアセンブリーする(組み立てる)というか、それを一つの建築とする時にどうやったらいいかという問題が当然出て来るわけですね。その問題をドクター論文にしたわけです僕は。だけどもそんなのはうまくいくはずがなくてね。うまくいかないわけですよそれは。つまり設計という行為の中で適当に集めて、標準的であるか個性的であるかは別として、個人の名前が付いている(記載されている)。しかしその集めることに関しては何か論理があるはずだというふうに思っていたんですね。それで博士論文は自分としては大失敗で、よくわかっているんだけども、まあそれはいろんな分析をしたりすることの評価で通してくれた。それは博士論文としてビルディングエレメント論の基礎理論みたいなものでいいんだけども、自分では全然納得していないわけね。何か違うんじゃないかって、自分で力が無かったなあと思うわけですね。それが今日まで実は続いているところがある。『空間の文法』なんていう本を書こうなんて言って、書かなくちゃ死ねないよって言っているのは、つまりそこの点があるからなんだよな。部分があっても全体が無いっていう、そのことに関する何らかの回答を出さなくちゃならないんじゃないか。それはビルディングエレメント論という内田先生の基本的な方法論に忠実であるかは別としてね。とにかく何かそういうことを(やろうと思った)。やがてそれは現象論とかそういう課題をどう引き受けたらいいのかとか、そういう課題に一般化されるんです。とにかくそういう出来事がありました(笑)。それはもう痛く残っているわけ、今も。大学で集落調査しましたと。ずっとこういう建物をいろいろ建てて参りましたと。それじゃあもうやることは、昔破綻したその論理をもう一度何か、どうやったらましなものに建て直せるのか。もう一回、数学で武装して、出直さなくてはいけないっていうのが、今日の状況だってわけだよね。それはすごい僕の心の痛手というか、傷になっているわけですよ。これはまあ非常に冗談めいて言えば、僕は大学で公務員でいてみんなの税金を使って。まあ半分以上は返せたんじゃないかと。例えば集落の研究。これはもうどういう価値があるかとか何かとかは別としてね、つまり義務。何かみなさんの税金を使って、生きたということに対するお返しになっているんだろうと。もう一つは教育。教育に関してはとにかくいろんな分野で、単に建築だけでなく、いろんな所で教えてきてね。まあまあそれはできているかもしれない。だけども、それは今考えてみて、あらためて現代の幾何学とか見直してみて、非常にいい着眼点を持っていたけれども、決して建築に貢献できるような、数学に貢献できるようなレベルになっていないというのがあって。あとやっぱりそれは空間という、建築あるいは都市のプロパーの課題であるはずで。数学の現代の幾何学を使ってどういうふうにやるのかっていう。どこまで言えるのかっていうようなことを、とにかく最後まで力が続く限りやらなくちゃいけない。そうじゃないと、どうもこの部分は非常にさぼっていたというとあれだけど、怠慢であったなというのがあって。この問題の系統というのが、非常に僕の傷になっている。心の傷になっているんですね。うまくできなかったっていう。それは何とかして収拾しなくちゃいけないという。その発端がここにあるんですね。このところの、何ていうか。

辻:一方でRAS自体も共同設計であって、原先生個人の問題と、全体、集合であったり、集団であったり、対大衆の問題を抱えておられると思います(注:原広司という1人の建築家と、共同する他の建築家、施主、建築物の使用者、あるいは社会との関係。「建築と集団」『建築文化』(300号、1971年)を参照)。RAS自体も活動が終わっていくわけなのですが、(RASで共同して)活動の中で様々な住宅を設計されたり、計画案で取り組まれたこともあると思います。今振り返って、RASにおける共同設計の思い出だったり、(それが)終わってしまったことに対してどのようにお考えでしょうか。

原:それは非常に重要な問題だと思うんですね。ただ、いろいろな経験をしてきて、もう自分としてはそういう問題、今指摘されたような問題を抱えているよね。当然そのミド同人の問題とか、いろんな設計組織自体がそこら中で問題になっている。そういうところでどうかというんだけども、(共同設計を)やってみての感じからするとね、やっぱり設計というのは非常に個人という性格が強い。強いというか、それがなしには決定できない。ここはやっぱり私が責任を持って決めて、それに関しては責任を持つというような、非常に個人的に決めなくちゃならないっていうのが、集団の場合でも多々起こりうるんですね。その時に、利益の追求を基本とする株式会社設計事務所というものの中で、その個人が社長じゃなくったって、日々ある決断をしていくということが、それはそれでいいんじゃないかと思うんだよね、目的が利益の追求であろうと。それはそれでいいのかもしれないけれども、建築のあり方と集団のあり方との相関というか、そういうこともいろいろ考えていく時に、何かやっぱりこのことは、個人が決断しなくちゃならないという局面が非常に多くなるという時になにか欺瞞みたいな気もするのね。集団でやっていくということがね。非常に欺瞞であるようにも思える。やる時間とか余裕というのが意外に、まあ本当はあるのかもしれないけど、なかなか無かったりする。そういうこととか僕は大きくはやっぱり東大に、生研に行くということが一番大きな出来事、契機だと思う。やはり情勢ですよね。まさに東大の闘争、世界的な闘争の中で、宮内(宮内康、1937-1992)が非常にラディカルだし。僕の高校の後輩なんだよね、彼は。まあこれはさっきの「矛盾」の話だけど、生産しないとこの場合、活路が無いんじゃないかっていうふうにはもう思っていたね。そろそろこれ(RAS)は解体すべきじゃないかと。それをうまくいったかいかないかとか、いろいろな問題があるでしょうし、事実その話はいろんな人の心に残ったと思うけれども、これはやめたほうがいいんじゃないかという感じがもう迫っていたね、時代と共に。これじゃろくなことが無いんじゃないかっていうかね。一番辛いのは、仕事と社会とが繋がっているから。あんまり理想的な話ばっかり論議をしているわけにいかなくて、とにかく行ったら現場で対応しなくちゃならないから、そういう事態があってそれに対する責任というかそういうのもあると。いろいろこのままやっていると、うまくいかないだろうという感じはちょっとしてましたね。この時代状況というのが無かったらね、また違うと思うんですよ。何しろ迫り来る今この時には、とにかくバリケードの中にいれば武装した連中が乱入してくるわけだし。そうでなくても道を歩いていても襲われるかもしれないみたいな状況だし。ちょっと今では考えられないけれども、戦争直後と同じような、何か大きな変化であったんじゃないかと思うんですよね。

辻:長くなってきてしまったので、あと三つくらいで終えようと思います。共同設計だったり、組織設計のルポルタージュをやっていた浜口隆一さん(1916-1995)と、小能林宏城さんとご一緒に『日本現代建築の展望 戦後建築20年史』(新建築社、1966年)という本の編集を、先生もなさっています。戦後建築のまとめの作業をやっておられるのですが、覚えておられますか。

原:あまり意識が(笑)。

辻:最後の方にはRASで発表された原先生の作品と、あとは磯崎さんの作品が並べて置いて(掲載して)あります。

原:(資料を見ながら)これは模型ですね。

辻:浜口隆一さんとはここでお知り合いになられたんですか。

原:そうそう知っている。それはどうしてかというと、丹下先生と同級生だからね、浜口さんは。浜口さんの話っていうのは、丹下先生じゃないな、やっぱり磯崎、川上、奥平じゃないかな。浜口さんの話をよーく聞かされている。それである時お会いしたと思うんですよね。そしたら「ああ君が原か」という感じで。その話の要点というのは、浜口さんが中国満州のプロジェクトのコンペティションに出して。浜口さんという人はすごく設計のうまい人で(注:大連市公会堂コンペ、1938年6月-10月。浜口がコンペに応募したのはこの一度だけ。入賞せず)、丹下さんから聞いたことがあるかなあ。僕らのクラスで一番(設計が)うまかったのは浜口だって話をね(注:浜口は1938年の卒業設計《満州国中央火力発電所》で丹下と共に辰野賞を受賞)。そのコンペティションで浜口さんが絶対勝つと思っていた。そしたらなぜか岸田先生が落としちゃった。それで丹下さんを入れた(注:大連市公会堂コンペの一等は前川國男。丹下はコンペ時点の担当所員の一人)。それでもう浜口さんは筆を折ると。ここでは自分の設計という意味でね。というのを決めたというふうに話を聞いていたね、その時にはね。そういうようなことがあって、きっと浜口さんがそういうふうに考えて、そしたらお前書けって言われたんだと思いますね。

辻:やっぱり小能林さんとのご関係からですか。

原:もちろんそうだよ。

辻:ちなみにこれの最後の部分なのですが、磯崎さんと原さんが、作曲家や評論家、あとはグラフィック・デザイナー、画家から成り立っている「グループ・インターナショナル」という集まり、前衛的芸術家の集まりがあると、ご自身で書いておられるのですが。

原:グループ・インターナショナルっていうのはこれのことだよ、「エンバイラメントの会」のことですね。

辻:エンバイラメントの会、あとは「空間から環境へ」展(松屋銀座、1966年)。この出展のきっかけは、磯崎さんからお声がかかったのですか。

原:そうですね。こういう場合僕を連れていってくれるのは、この時代は磯崎さんなんですね。磯崎さんがこうして、今度はエンバイラメント展というようなものをやるということで、それでお前も参加しろということだと思いますね。明らかにそうですね。その前に、芸術家たちと集まるような雰囲気がいろいろあったことはあったんですね。やっぱり磯崎さんじゃないかなあ。僕と磯崎さんは5つくらい(年齢が)違っているでしょう。そこに出てくるような人々というのは、磯崎さんの世代に近いんだよね、みんな。特に針生一郎(1925-2010)、東野芳明(1930-2005)、それから中原佑介(1931-2011)って3人のすごい批評家が同時に現れるわけですよね、日本の美術批評に。その人たちと磯崎さんが同じような歳ですね、似たような歳。だからその人たちがいたのでみんな集まろうじゃないかという、そういうムードはあったみたい。あったみたいというか、僕はどちらかというと呼ばれて行ったという感じなんですよ。

辻:場所はどちらですか。

原:覚えてないね。ただね、その前の段階はやっぱり丹下さんが開いた道でさ。草月の勅使河原蒼風(1900-1979)と岡本太郎(1911-1996)と丹下さんというメンバーがなんとなく集まっていた(注:例の会、現代芸術の会)。親分たちが集まるから、子分たちも集まったらどうかみたいなムードがきっとあったんだろうと思うんですよ。そういうわかりやすい、共同するとか一緒に話し合うとかっていう流れで。その次の段階になるともう違いますけど。エンバイラメントの会、それから「空間から環境へ」展というのは、そういう雰囲気が非常に大きかった、前例というか。それから流政之(1923-)とか。そこが不思議なんだけど、黒澤明(1910-1998)が入ってないんですよね。日本の文化活動の中で、近代化の中で、黒澤明って欠かせない人なんだよ。

辻:映画関係の方はいないですね。

原:映画はその頃いないですね。後になって我々のグループに吉田喜重(1933-)が入ってきますが。入ってない。やっぱりちょっと違ったんですかね。あんまり関係がなかったですね。

辻:さっきあがった3人の美術批評家だったり、あと一緒に出展していたグラフィック・デザイナー、美術家の方々もいっぱいいらっしゃるかと思いますが、作品でおぼえておられるものはありますか。

原:作品というかね、影響というか共感したというのはいっぱいいますよ。それの話はもう次にした方がよくないですか。これはやりだすとすんごい話で長くなっちゃう。『デザイン批評』(風土社、1966年から1970年に刊行)になってくるんですよ。ここはちょっと長過ぎだなあ。無理だ、喋りすぎちゃう。ここで何かいろんな人たちがいっぱい出て来て。エンバイラメント展というのが契機となって、実際には『デザイン批評』という媒体ができて。『デザイン批評』が、忘れてたけど12冊出したみたいで、その12冊の中にいろんな人が出てくる。そういう流れになっていくんで。これは次回ですね。

辻:でしたら、今日はこの辺りで終わらせていただきます。