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彦坂尚嘉オーラル・ヒストリー 2012年5月28日

立教大学 彦坂尚嘉研究室にて
インタビュアー:富井玲子、足立元
書き起こし:成澤みずき
公開日:2020年9月14日

 

注:このインタヴューは、聞き取りの内容を公開するための校正作業の過程で作家が大幅に加筆した。聞き取り調査を主要な方法論とするオーラル・ヒストリーでは異例ではあるが、当事者による1人語りが聞き取りに準ずると判断して、事実の回顧、叙述を中心に編集した。ただし、加筆部分は特に明記しない。なお、内容が多岐にわたるため、作家の提案する章立ても採用した。

富井:2012年5月28日、立教大学の彦坂尚嘉さんの研究室で、オーラル・ヒストリーのインタヴューをさせていただきます。前回は生い立ちということで、だいたい大学に入るところまでお聞きしました。今日は大学に入学して、主に美術家共闘会議(以下、美共闘)のことについてお聞きしたいと思います。まず具体的にお聞きする前に、例えば(美共闘の)資料ですとか、写真とか、そういうものは大体どういうふうになっているのかということが一応、質問であるのですけれども。アジビラ(アジテーション・ビラ)ですとか、ゲッティ(Getty Research Institute)に1組、入れましたね。

彦坂:はい、ロサンゼルスにあるゲッティに、まあ、適切な価格で買っていただいたのですね。しかし、アジビラの重要な資料は『反覆・新興芸術の位相』(田畑書店)という本、美共闘資料集として編纂してあるので、全て収録しています。1974年の出版です。

彦坂尚嘉《美共闘》物語
第一章 堀浩哉批判
@美共闘資料集の刊行

 あの本は、私が堀浩哉氏との共著の美共闘資料集として企画を立てて、田畑書店の社長田畑弘氏と、『映画批評』編集長で評論家の松田政男氏、そして私と堀浩哉の4人で約束していたのです。それが、1年たったら、堀氏が降りてしまったのです。
 きっかけは、松田氏が作った『映画批評』という雑誌に、私が、『赤軍-PFLP/世界戦争宣言』(1971年)という映画を、赤軍を批判する視点で映画批評を書いて(1972年4月掲載「軍事の風景と映像の風景」)、関係を作ったのです。そして松田氏が、田畑書店に話をしてくれて、私と堀氏の2人で、美共闘の本を出版するという話になりました。
 田畑書店は、私が現象学研究会を一緒にやっていた前衛音楽家の刀根康尚氏の著作『現代芸術の位相 芸術は思想たりうるか』(1970年)を出版していて、その関係もありました。つまり、人間関係を結んで、美共闘の総括の本を、私は堀氏と出そうと、私は努力したのです。
 1972年にその話が成立して、出版まで1年間の猶予が与えられて、準備することになったのです。
 ところが、1年たったところ、堀氏は降りると言い出したのです。「彦坂は批評家になれ、俺はアーティスト」になるという理由でありました。つまり美共闘の初代議長でありながら、美共闘の戦いを総括する本を出すことから降りてしまったのです。
 たとえば、東大全共闘(全学共闘会議)議長の山本義隆は、闘争後に全共闘運動について「68・69を記録する会」として一次資料収集活動をしている。その活動の中で、運動当時のビラ、立て看板などを集め、成果として『東大闘争資料集』全23巻(1992年刊行)を国会図書館におさめています。私としては、美共闘の資料集を出版して、国会図書館に納めたかったのですね。
 私は、松田氏や田畑氏の手前もあって、私が降りるわけにはいかなくて、もう1年の猶予をもらいました。執筆に集中する必要があったので、妻の実家である群馬県中之条の禅宗のお寺に転げ込んで、そこで準備をしたのです。
 とは言っても、無収入で1年間居候しているわけにはいかないので、高崎で友禅職人の仕事をしていました。高崎の友禅はレベルが低くて、まあ、ある種のニセモノを作る仕事でした。ニセモノの友禅でも、工芸は工芸です。座業の仕事で、時給230円で、当時の常識から言っても、ひどい低賃金でした。
 しかし私は、この堀氏の無責任な行動をオープンにして弾劾をしませんでした。私は美共闘を芸術運動に展開して、残そうと思っていたからです。
 それと、堀浩哉は、私の親友であったのです。ただ、この問題は堀氏だけではなくて、全共闘世代のほとんど全員の問題でした。まあ、しかし私のこういう態度が、良くなかったのだろうと思います。
 『反覆・新興芸術の位相』の出版の経緯をオープンにして、堀氏を批判しなかったために、私が、美共闘を横取りして独り占めにしたと思われて、私は攻撃されました。
 今更こういうことを言うのは、時が過ぎて時効になったからです。
 私は、中学2年生で、内村鑑三の無協会主義のキリスト教徒になっていました。私は有神論者で、文化的な厚みを大切にする人間なのです。つまり私は【文化−内−存在】の人間です。それに対して、多くの人は、【自然−内−存在】でありました。
 堀氏は、非常に良い人です。が、しかし弱い人でした。髪の毛を、お獅子のようにしているから、強い人と思われますが、それはまったくの見せかけでして、根は自然人で、優しい人で、繊細で、もろいのです。
 つまり堀氏は天然ですから、【自然−内−存在】の人格なのです。
 だから闘争の敗北後、美共闘の議長という責任から逃げたのだ、と思います。でも、逃げたのは彼だけではないのですよ。全共闘運動というのは烏合の衆ですから、敗北すると、蜘蛛の子を散らすように逃げちゃった。権力というものの強さが、全く見えていなかったのですね。しかし私には見えていたのです。
 しかしですね、闘争は現実に、事実としてやったのですから、社会的な責任はあるのです。私は、闘争中はペンネームの黒旗臣三などを使っていましたが、闘争後は、私はペンネームを棄てて、彦坂尚嘉の本名で美共闘の資料集を出版して責任を取るという態度を取ったのです。重要なアジビラは、すべて収録しました。
 私は美共闘の戦いは正当なものであった思っています。ですから、私は、美共闘を歴史に残そうと思って、意志したのです。

A堀浩哉氏の失踪

 美共闘の戦いが終わって、実は大変だったのね。敗北というのは、心理的なことを含めて、大変なのですよ。
 1つは議長の堀が、失踪してしまった。
 私の所に電話してきたのは、堀の友人でした。その友人は、堀氏のダーカンジェロ(Allan D’Arcangelo)を模倣した100号の絵画作品を、実際に描いた男です。ダーカンジェロって、アメリカの三流ポップアーティストですよ。高速道路の絵がトレードマークでした。堀の作品も高速道路の絵があって、その前にゴルフボールが4つあって、そのゴルフボールが解体されていて、中の構造が分かるように分解図になっていた作品なのです。ゴルフボールは、堀のアイディアだと思います。
 堀氏は、毎日現代美術展以前の作品は、何枚か私は覚えています。白っぽい荒川修作のような作品もありました。現在では、この白っぽい作品も、ダーカンジェロの模倣作品も、無かったことになってしまっていますが、大学時代の代表作でした。
 その絵を描いたのが、堀さん本人ではなくて、私に電話をしてきた友人であったのです。つまり、ジェフ・クーンズのような画工を使った制作なのですが、このアイディアは、多摩美(多摩美術大学)教授であった東野さんの批評に出て来る「発注芸術」という言葉にあったのです。
 もっとも、1969年の毎日現代美術展に堀浩哉氏は出品していますが、この出品は東野氏が関与していたのです。大賞を約束されていて、頑張って出したような話を聞いています。この木枠に布をかけた、もの派のような作品です。この木枠に布を張るだけでよいのではないのか、という還元主義の作品は、学内で作られていた私の思考であって、彦坂の影響を受けた作品でありました。
 くだんの友人は、失踪した堀氏が、自殺すると心配していて、私の所に電話してきたのです。彼が刃傷沙汰で警察に捕まったときに、堀が救出していました。彼とは電話で長く話しましたが、私には行き先は分かりませんでした。
 全共闘運動が敗北したときに、参加した学生が、どのような被害にあったのかは、誰も心配しなかったし、想像も調査もしなかったのですが、被害は非常に大きく、当事者にとっては辛かったのですよ。1つは、多くの人が、重度のうつ病になっています。
 実は私も、うつ病がひどくてなっていって、自分の部屋を真っ白にしたかったのです。白という色は、実は死を意味しているのです。
 闘争が終わった後、私はただひたすらに文章を書いて、自己対象化に励んで、それをガリ版で切って、自分で刷って、表紙は白で、題名も無い白パンフレットを作っていました。そういう作業の延長が、ラテックスを流して、床を白くする《フロア・イヴェント》に至りついたのです。
 こういうかなり緊迫した状況があって、堀氏の自殺が心配されたのです。結局、堀氏は、鎌倉のお寺に逃げ込んでいるのが見つかったのです。この失踪後、堀氏は、美共闘議長としての指導性は、まったく発揮できなくなったのです。
 堀浩哉とは、何者であったのでしょうか?
 堀は典型的に近代のアーティストのタイプで、私の芸術分析では【生命力0】の人であったのです。【生命力0】のアーティストは、近代には沢山います。代表的なのは、三島由紀夫です。
 私は、チャールズ・ディケンズや、松本清張のように、【生命力100】の小説家に惹かれるのですね。
 美術で【生命力0】の画家というと、代表はマネ、モネ、ドガ、ゴーギャン、里見勝蔵、マティスであり、カンディンスキー、モンドリアンなどです。
 近代というのは、二重構造でした。哲学で言えばデカルトに代表される【生命力0】の哲学者がいる一方で、パスカルのような【生命力100】の哲学者もいて、正反対の思想を述べていたのです。
 アーティストも同様でして、セザンヌ、ゴッホ、ムンク、ピカソや、キリコ、カルダーのような、【生命力100】のアーティストもいたのです。
 私は【生命力100】で、レオナルド・ダ・ヴィンチを尊敬している人で、万能人で、何でも屋さんで、器用貧乏であったのです。しかし具体的に汗を流して行く作業をしていないと、自分の脳を鍛えていくことはできないのです。脳を変えていくのには、1万時間の作業が必要だと、複雑系の科学は言います。
 私は、シルクスクリーンも1人で製版して刷って、美共闘のポスターも1人で作りました。堀氏のアジテーションの文面は使いましたが、それはアジビラからの流用であって、堀氏は、ポスターの制作には、完全に無関与でありました。
 私は、虚名のために美共闘のポスターを作ったのではないのです。アーティストとして作りたかったのです。このポスターも、良い作品だと思いますが、当時は驚くほどに誰も評価はしてくれませんでしたが、絵金の残虐絵を引用した画像で、ここには切断性があって、共感性がないからでしょう。
 私にとっては、修行ですから、自分で制作するということこそが重要であったのです。
 『美術史評』、そして『記録帯』、さらに『5人組写真集』という同人誌も、企画から、仲間を集める組織化から、編集、そして版下の製作から入稿までも1人でやっているのです。1人になったのは、手伝いの小柳幹夫氏が辞表を出してしまったからです。小柳氏も近代のアーティストのタイプで、余計なことはやれないというのです。
 同人雑誌を作ったり、芸術論を考えたりする必要性が、小柳氏や堀氏には、必要がなかったのです。
 もっとも小柳氏は最初の《フロア・イヴェント》というラテックスを撒く作品の立ち会いをしてくれて、タバコを吸っていました。今日の現代アーティストは、作品の範囲が、箱庭のように限られているのです。この箱庭の外部に新しい芸術を切り拓こうという大志がないのです。
 というわけで、美共闘というのも、近代の最後のグループであったのかもしれなくて、【生命力0】の堀浩哉と、【生命力100】の彦坂尚嘉の、二重構造で成立していたのです。

B堀浩哉と赤軍浅間山荘事件

 さて、話はもどって堀氏の話です。
 1970年、5人組写真集『REVOLUTION』を私は創刊します。メンバーは、おおむね青山デザインスクールのメンバーで、刀根康尚氏が講師をしていた関係で、現象学研究会に参加していたアーティストでした。
 1973年京都市美術館の「京都ビエンナーレ」展で、私が主導した美共闘系統の『5人組写真集編集員会+5』というプロジェクトをしましたが、それは人数を倍の10名に拡大したものでした。このプロジェクトでは、まず自分の写真作品を作り、その後に他人の写真と交換して、それを重ね焼きしていって複合作品を作るという企画でした。その時の約束は、他人の写真を完全に消してはいけないというものでした。他者の表現を尊重しなければならないというモラルを私は重視したのです。この他者を併存する可能性を追求したのが、私の課題であり目的であったのです。つまり、10層の多重写真を作ることによって、文化における他者との共有性と、そして1人の作品の中の多重性を明らかにするものでした。
 しかし参加アーティスト10人の中で、この約束を破って、他人の写真を全て完全に消し去った作品を作ったのが堀氏でありました。つまり堀氏だけがいて、他者がいない。
 現在の私の芸術分析で、10界について語りますが、つまり1人の人間の人格の中に、《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》《死》の10界があるという考え方ですが、それは『5人組写真集編集員会+5』から始まったのです。つまり私は、私の中に10人の他者を見るのです。
 私はバリケードの時代から、現象学研究会で、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl)を読んでいったのですが、フッサールは、デカルトの《我思うゆえに我あり》というコギト(自己意識)を評価して、その内側から、他者というものを構成しようとして、破綻していくというプロセスで、近代哲学批判の過程を、非常に誠実に歩んだ哲学です。これを読んだ私は、近代個人主義を解体することをテーマに、グループ活動を追求して行きます。デュエット、5人組写真集編集委員会などです。

C自己埋葬儀式

 1968年に、堀氏の企画で《自己埋葬儀式》という《儀式》を銀座でやっています。私も参加していて、メンバーは10数人だったと思います。参加した私の感想は、私だけが真面目に「自己埋葬」をしたという思いでした。他の人は、チャラチャラと、儀式のゴッコをやっていたのです。
 《自己埋葬儀式》という企画には、当時の加藤好弘氏などのゼロ次元が展開した《儀式》を、模倣したものであります。そして、ゼロ次元の「儀式」は、海外のハプニングを模倣したものです。コップの水を次のコップに、ただ移し替えるように、模倣の連鎖が、日本では作動しているのです。
 実は1969年に、私は1人で、加藤氏が住んでいた目黒区大橋の大きなアパートに行っていたのです。そこは電気会社「0次元商会」でありました。後には名古屋の岩田信市の所にも、1泊しています。さらに、加藤氏の催し物も見に言っています。私には、こうした野蛮に基盤を置く0次元の活動を、底の底まで見尽くす必要があったのです。
 もう1つ《自己埋葬》というのは、当時の全共闘運度が展開した《自己否定》の運動を模倣したものです。
 つまりゼロ次元と全共闘運動の2つを模倣したものが、堀氏の『自己埋葬儀式』であったのです。そこには残念ながら一片の独創性も思想もなかったのです。
 私自身は、近代個人主義の解体を、長期にわたって追求して行きます。つまり中学の時に読んだキルケゴールの『死に至る病』では、「精神とは何か? それは自己自身との関係である。あるいはその関係への関係である」と、ありました。この自己自身との関係を、デカルトの「我思うゆえに我あり」ということを肯定的に見たフッサールが、この自己自身との関係の中から、他者との関係を再構成しようとして、次第に破綻していくプロセスを、フッサールは、誠実に取っていきます。こうして近代的な自我の構造が解体されていったのです。
 ジャック・ラカンは、この自我の構造を、1つの自我では無いとして、《想像界》《象徴界》《現実界》という3界があるものとして把握しました。つまり私は、1人ではなくて、1人の人間の中に3人がいたのです。しかもこの関係が鏡像関係によって成立する。このデカルト的な近代個人主義が、ラカンによって、より高度な3界ある鏡像の組み合わせになることで、近代個人主義は、非文明の鏡像構造にと解体されたのです。
 閑話休題。ですが、問題は、堀浩哉は、本当に、《自己埋葬》をしたのでしょうか。精神分析的には、堀氏は、《自己埋葬》ではなくて、《他者抹殺》をしたのであると私はとらえます。人間は口で言っていることと、やっていることは違うのです。
 赤軍の浅間山荘事件で12人がリンチで殺されましたが、この集団虐殺を、堀浩哉氏は、9人の写真の重層性を破壊することで、模倣したのです。

D日本赤軍と美共闘

 美共闘の結成は、1969年です。そして赤軍の結成も1969年で、同じなのです。
 この2つは、1969年1月の東大安田講堂の落城以後に出て来た、全共闘時代の崩壊過程の、末期現象の中での兄弟の運動なのです。
 堀氏が、美共闘の話を私にしたのは、安田講堂が落城して、全共闘運動が終わり始めた時なのです。なぜにそのような退潮期に美共闘結成を考えたのでしょうか。赤軍の結成は、闘争のエスカレーションですが、美共闘の場合には、何なのでしょうか。闘争の惰性なのでしょうか。それとも自己破壊的な何かであったのでしょうか。あまりよく覚えていないのですが、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)にあった破壊欲望の様なものであったのでしょうか。
 私は、実は赤軍に対しては、非常に否定的で反感がありました。赤軍の本隊は非公然であったので、デモをする公然部隊は高校生を使ったのです。それに対して私は怒りを覚えました。善悪の区別の付かない高校生を前に出してくるというやり口は、ナチスのやり口と同じだったからです。私は中学2年の時に、『決して忘れはしない』(二見書房、1961年)というアウシュヴィッツの写真集を買っていました。だからナチス的なものに、非常に強い嫌悪感がありました。
 ですから、堀氏の中にも、赤軍的な他者を抹殺していくという自我の構造があったように思うのです。くり返しますが、これは堀氏だけの問題ではなくて、この時代の、1つの病的な症状であったのです。

富井:学生運動ってよくわからないんですけども(笑)、議論の形成など、例えば美共闘ができた時は、アピールが出て「美術家と呼ばれるならここが戦場だ」っていうアジビラの文句があります。それは結局、練っていくようにつくっていくわけですか。それともどういうかたちで、ああいうものが出てくるのですか。

彦坂:まあ簡単に言えばあれは堀ひとりで書いているだけの芝居の台本だよね。議論も、承認の作業もない。全くの単独で書かれた台本ですよ。そのあとにくっついてくる膨らみっていうのはみんな僕だけども。よくわかることは、さっきから全共闘じゃないっていうのは、僕の思考の仕方は、全共闘運動で展開している枠組みの、全く外にいるんだよね。多摩美の理事とか教授会とかでも、これからのためにはどうしたらいいかっていう会議の場が設定されるわけですよ。僕なんかは真面目に会議をやろうとするんだけど、あの人たちの場合は全部、ぶつかって粉砕して反対して。

富井:あの人たちというのは、堀さんのことですか。

彦坂:うん、堀。僕はだからかなり経って、20年くらい経って、全共闘を総括するみたいな本が出るじゃないですか。それで当時のアジビラとか、そういうものを含めてみんな読み直すじゃないですか。そうするととにかく一方的に粉砕だけ言っているわけだよね。それで堀に「お前あれどういうつもりで言ったの?」って聞くと「あの時はああいう時代だったから」って言うわけ。僕、全然そういう考え方じゃないの。その当時も。当時も全然、僕というのは、全く文化的で、一方的に壊すとか、そういう発想が僕の中にない。だから僕が何か物を言っても、みんなゲラゲラ笑っていて。しょうがないよね。他の人たちが「彦坂も(全共闘と)同じだ」って思うのは、まあわかりますけれども、現実には僕は違うので。終始、一貫して違いますよ。
 美共闘って言った時に、普通にいうと、だから例えば堀浩哉と彦坂尚嘉っていうふうにペアでねっていうのだけどね、堀と私がどこまで思想的な共通性があるかっていうと、ほとんど共通性が無いのですね(笑)。

富井:思想的にですか。

彦坂:はい。思想的には、共通して読んでいる本はないのではないですね。堀浩哉氏は、キルケゴールも、コリン・ウィルソン(Collin Wilson)も、ブッダも、たぶん聖書も読んでいないのではないか。堀氏と聖書やキリスト教の話をしたおぼえはないです。少なくとも私が刀根康尚さんとやっていたフッサールの読書会には、堀氏は1回も参加していないです。もちろんジャック・ラカンの読書会にも1回も来ていません。
 それから精神的態度ですよね。堀さんは【自然−内−存在】の人なんですよ。簡単に言えば、自然人で、天然なのです。つまり難解な哲学書と格闘をして、文章を書いて、その少しずつ積み上げながら認識を展開していくっていう、私がこだわる【文化−内−存在】としてのあり方を取らない。そういう文化的な粘着性っていうのが、あの人の場合は、ないように、私には見える。体質が違うわけですよね。だから堀から見ると「彦坂、お前本当に観念的だね」って話になるわけです。

富井:先ほど彦坂さんの興味として、むしろ行為とか粉砕ではなくって、思想の問題だっていうことを強調されたんですけども。そうすると美共闘の中での武勇伝というと、日展闘争とかはあるんですけども、それはちょっとスキップして。そうすると次に問題になってくるのはいわゆる安保の(日米安全保障条約が延長される)直前というか、1969年の10月、11月にいわゆる学生紛争、闘争というのが、あるいは反戦運動というのがつぶされていって、その後の、1970年以降の美共闘の動きですよね。

彦坂:問題はベトナム戦争が、近代という水平運動を座礁させて、私が言うところの《非-文明》を生み出したのです。この1点のために、赤軍も、そして美共闘の議長の堀浩哉氏も、私も、歴史に参加したのです。
 美共闘の正統性を、美術史の中に残そうとして、芸術運動としての美共闘という第2幕を、2代目美共闘議長として私は指導したのです。

第二章 彦坂尚嘉の目指したもの
@バリケードの中途解除

 堀氏の主張は、「環状8号線を火の海にしよう」というものでありました。この言葉に代表される様な空想的なものでありました。環状8号線を火の海にするというのは、マッチ1本で火が付くことはないので、実現しようとすれば、大変な量のナパーム弾がいります。それこそ米軍の東京大空襲の規模の武力行使がないと、成立できません。それは村上龍の小説の最後に似ていて、『コインロッカー・ベイビーズ』だったかどうかは忘れたのですが、そういうものというか、あの時代の中に、そういう破滅というか滅びというか、滅亡のロマンが幻想としてあったのです。
 その破壊幻想は、現在も堀浩哉氏の中に生き続けています。もちろん私は、堀氏の「環状8号線を火の海にしよう」という提案は反対しました。他のメンバーは、いつもそうですが、ゲラゲラと笑って私を嘲笑したのです。
 私の認識は現実主義でありました。基本的に孫子から始まって、毛沢東の軍事論までを読んでいましたから、自分よりも強い敵と戦ってはいけないということを知っていました。ですから、闘うと言っても、あくまでも現実の敗北を前提に組み込んで、被害を小さくしていく必要があると考えていました。
 1月にバリケードに入ったということは、3月の入試をどうするかという問題があったのです。
 多摩美でバリケードを作った自治会執行部のメンバーは、社会党系の新左翼の過激派であった革労協(注:革命的労働者協会)の下部組織であった社青同(注:日本社会主義青年同盟)解放派の学生組織であった反帝学評(注:反帝学生評議会、青同解放派の学生組織)でありました。東大安田講堂にも行っていて、その経験が多摩美のバリケードになってしまいました。
 そのリーダーはマンペイという人物で、学生会長だったはずです。彼らは当然のこととして、入試を阻止して粉砕しようとしていたのです。
 それに対して、現実主義者の私は、断固としてバリケードを解いて、大学入試を大学当局にさせようと思いました。それで、隠密裏にタクシーで実力者に連絡を取りに行きました。その中には斎藤義重先生もいました。夜に伺って、お茶漬けを頂いたのが嬉しかったです。
 そして学生総会が開かれて、私が主導権を取って、バリケード解除の決議を成立させたのです。その途端に、8人が走って講堂の外に出て行きました。誰も予想しない逆転劇であったのです。こういう謀略的な政治劇は、私の得意技だったのです。
 こうして私の貢献で多摩美大は無事に入試ができて、そこで入学してきたのが、山中信夫でした。

A2代目美共闘議長の登場

 敗北後の全共闘の指導者達の多くは、現状分析もできなくなっていたのです。知り合いの青山学院大学の演劇の闘争組織のリーダーは、一緒にタクシーに乗って、ロックアウトされた青山学院前を通ったときに、「いったい、何をやっていたのだろう」とつぶやきました。私は、この言葉には反発しましたが、何も言いませんでした。つまり私は、何かをしたとは、思ってはいなかったのです。私は、最初から闘争の敗北を予想していたのです。
 歴史書を読んでいれば、あらゆる暴動は鎮圧されるのです。最大の長さは、日本で言えば、加賀の一向一揆で、100年続きましたが、これも鎮圧されたのです。暴動では公的な権力を打倒することはできないのです。公的な権力の形成と、暴動は、原理が、全く違うのです。  暴動の基本には自然があって、【自然−内−存在】なのです。それに対して、国家権力は、【文化−内−存在】です。だから、国家権力は学習が出来ますが、暴動は学習をしないのです。自然は自然であって、移ろいゆくだけなのです。
 堀氏の無力化の穴を埋めたのは、彦坂でした。実質的に美共闘議長の2代目を私が引き受けたのです。その方針というのは、第1次美共闘REVOLUTION委員会と、第1次美共闘REVOLUTION委員会のプランです。
 つまり闘争組織としての美共闘から、《芸術運動体》としての美共闘に再編することを考え、それを具体的に進めたのです。まあ、そうやって、私自身がやりたかったことに、ようやく向かったのです。
 この時期、アルバイトで、後楽園の広い空間の中で手伝いをバリケード仲間としていて、美術館や画廊などの美術組織を使わないで、展覧会をやろうということを説いて、参加者への働きかけをして、半年かけて組織化をしました。だいたい、組織化には私は半年をかけます。根気の良い作業が必要なのです。
 美術権力機構粉砕などというスローガンを上げて闘った以上、美術館や画廊で、いまさら展覧会をやれないではないですか。
 もう1つは、私はその当時の美術評論家の宮川淳の批評を読んでいました。特に「アンフォルメル以後」(1963年)は、何回も読んでいて、大きな影響を受けていました。その中に書かれている「芸術の日常性への下降」というテーゼは、私には共感するもの大でありました。その「芸術の日常性への下降」ということで、1971年に美術館や画廊を使わずに、個展を連続させた展覧会をやろうとしたのです。これが、第1次美共闘REVOLUTION委員会のプランです。
 芸術運動としての美共闘というのは、この第1次美共闘REVOLUTION委員会でありまして、それは「美術館・画廊の終焉」ということを、いち早くやっているということなのですね。そして彦坂でいえば、その継続を現在も追いかけているということなのです。
 「美術館・画廊の終焉」ということですから、私は、自分の住まいである8畳間を、そのまま作品にしてしまおうと、考えたのです。そこには畳があり、さらにコタツもありました。
 山中信夫氏は、「川を川に映す」というプロジェクトで、アース・ワークの日本化ですが、まあ、よいと思い、私は積極的に手伝いました。
 堀浩哉は、私の提案を理解しないで、劇場を使った展示を考えたのです。東由多加というのは、寺山修司らと天井桟敷を結成した人物で、さらに東京キッドブラザースという日本のミュージカル劇団を結成して、完全オリジナルの「和製ロックミュージカル」を売り物にして、渋谷にあった小劇場「ヘアー」で旗揚げをしたのです。その小劇場「ヘアー」で、堀氏は、個展を開催したのです。しかしその作品は、堀浩哉の代表作にはならなかったのです。彦坂の場合には、《フロア・イヴェント》は、彦坂の代表作になりました。
 つまり1年間、美術館・画廊を使わないという第1次美共闘REVOLUTION委員会の企画から言えば、「スペース・ラボ・ヘアー」というところを使うことは、本来の趣旨からは、マズイ場所なのです。しかし、企画者の私が文句を言うというのは、はばかれたのです。あまり強い規約を言うと、まるで鉄の規律の共産党のようになるので、そうなることは絶対にダメで、緩くせざるを得なかったのです。闘争組織と行っても、昔の鉄の規律の共産党と、ノンセクト・ラディカルでは、規律の水準が違うのです。
 まあ、世田谷の自宅で個展をやって、しかもその畳の部屋にラッテクスという液体ゴムを大量に流した彦坂尚嘉という作家と、劇場を使う堀浩哉では、「美術館や画廊を使わないで、美術展をやる」という、美術制度の外部というもののとらえ方が、決定的に違います。
 この時期の堀浩哉は、流山児cの演劇団に向かっていって、座付き作家になって、台本を書いていくようになっていくのです。ですから、堀氏にとっては、美術制度の外部というのは、演劇制度になってしまっている。しかし現在は、この流山児cの演劇団の仕事を、事実上隠してしまっています。
 こういう傾向は、もう1つ踏み込んでいて、堀氏が、パフォーマンスをやると、顔を白塗りにして、足下にも白い布を敷いて、さあ、芸術ですよと、やる前から観客に知らせるような形で、行うのですね。
 それに対して「芸術の日常性への下降」という形で、私は美術制度の外部を捉えるので、まったく芸術のとらえ方が違うのです。あくまでも日常性の中で、普通に始めて、普通に終わろうとします。白塗りはしないで、普通の顔でやりました。
 白塗りをするというのは、前近代的なやり方なのですね。そこには、パフォーマンスが、前近代の「非日常的」な劇空間に回帰してしまっている。そういう堀的な「非日常的」な前近代的な芸術空間と、日常へと下降する彦坂尚嘉の日常的なパフォーマンスは、決定的に違うのですね。
 私自身は、近代芸術の方向性として、「芸術の日常性への下降」というものを捉えていて、それは宮川淳を受け継ぎつつ、越えているという思いです。
 この段階でも、何故に、堀浩哉と彦坂尚嘉は、キチンと話し合わないのか?という疑問を持たれるでしょうが、私は私が電話代を一方的に支払いながら、堀に夜の長電話をかけ続けていますが、それは一方的なもので、堀は、キチンとは話し合わないのです。堀からは、1本の電話もないのです。堀は、その内に、そういう話はしたくないと言って、美術の話相手はしなくなりました。

B公然性の維持

 さらに、バリケード闘争の敗北状況の中でも、私は「公然性の維持」という方針を出したのです。
 それで、画廊のオープニングに行くことを実践したのです。しかし2代目議長として権威もなかったので、誰も付いては来てくれませんでした。もちろん堀氏も、1度も行きませんでした。
 しかし私は、1人で画廊回りを始めたのです。かなり苦しいことでした。他人は冷たい眼で見るのですから、さらには、東京画廊でのオープンニング・パーティで、針生一郎先生に会ったのですが、「おまえ、何でこんなところにいる!」と、大勢がいるところで、大声で叱咤されたことです。それでも、私は孤独に立ち続けたのです。
 敗北したからと言って、逃げ隠れしてはいけないのです。ベトナム反戦闘争は正統な人類史における文明的戦いであったのであって、それを恥じる必要はないのです。私は【文化−内−存在】の人ですから、そう考えるのです。今でもそう思います。松本竣介の描いた絵のように、すっくと、焼け跡に立ち尽くさなければなりません。私はそれをしたのです。
 その後、自宅で《フロア・イヴェント》をした時に、観客は28人でした。それから画廊で発表することを考えて、京都に出たのです。1972年に京都のギャラリー16と、京都書院で個展を開催します。このことは柏原えつとむさんのお力添えです。こうして、私は公然性を維持し続けたのです。
 まず、美共闘に関係する話は、私の内面にとっては、高校生の時代に、何よりも松本竣介の戦中に書いた「生きてゐる画家」(1941年)、そして敗戦直後の「全日本美術家に諮る」(1946年)を読んだことが重大でした。
 高校1年生の時、1963年に『松本竣介作品集』(平凡社)が出版されて、渋谷の紀伊國屋書店のガラスケースの中に展示されているのを見つけて、私は買っているのです。ここでも、私は、【文化−内−存在】なのです。
 松本竣介は、私が生まれた年の1946年、つまり敗戦の翌年に、美術家組合の素案である「全日本美術家に諮る」を印刷した冊子を、画家だけでなくその他の分野の知名人・知人へ送ったのです。その文章は作品集に掲載されて、私はそれを買って読んで―つまり松本竣介の呼びかけは、18年の歳月の後に私に届いていたのです。このことが、美共闘の結成への参加の動機になりました。
 新宗教の大本教から生まれた成長の家という新興宗教を立ち上げた谷口雅春の美術界への波及が、松本竣介の「全日本美術家に諮る」という文章で、簡単に言えば、軍部に抵抗する美術家の組合を作る必要性について書いています。その背後には、明治期の西洋美術の移入に当たって陸軍が大きな役割をしたということが大きくあって、そのことに関する批判的な抵抗の自覚なのです。美共闘の結成は、この位相の継承なのです。もっとも成長の家を立ち上げた時の教祖・谷口雅春の最初の文章である「天地の一切のものと和解せよ」を読んだのは、ずいぶん後です。大本教が2度の大弾圧にあった直後に書かれたこの文章は、政治的な飛躍に満ちていて、感動的なものでした。
 美共闘というのは、確かにその枠組やスローガンは、その新左翼がつくった全共闘の時代状況を模倣した堀浩哉が1人で作った芝居です。まったく、私の興味の外です。しかし、その1枚の皮の中身は、松本竣介の系譜を含めて、彦坂尚嘉の美術史の探究が流し込まれていったのです。
 闘争の終結後に、美共闘REVOLUTION委員会を私が組織したのも、松本俊介の影響が大きく働いています。その後も、5人組写真集編集委員会、「実務と実施12人」展、東京芸術4、ビット展シリーズ、気体分子ギャラリー、切断芸術運動、などなど、私が繰り返し美術家のグループ活動を、次から次へと作っていく活動をするのは、この松本俊介の呼びかけに原点があります。
 そのことは、美共闘以前の劇団義理人情にも言えて、劇団をつくり、脚本を書いたのは堀氏ですが、主演をして、そこに詩を書き、さらに軍歌の音楽を流し込んだのは彦坂尚嘉なのです。
 しかし、その詩「愛国日本・青い空」を読める人は、日本の美術界には、いないのです。つまり私は、非常に早い、今日の右傾化の傾向を示したアーティストなのです。つまり彦坂尚嘉は新左翼ではなくて新右翼であったのです。
 この新右翼である私の存在を削除すると、美術家共闘会議そのものの中身が分からないはずです。
 バリケードの後は、堀氏は、美術家のグループ活動は、1つくらいしかやっていません。「ユニット00」名義での活動です。
 美共闘の後の新美共闘をくり返し組織化して挑んできたのは、私なのです。政治的闘争組織と、芸術運動の組織と、2つの美共闘があり、美共闘REVOLUTION委員会という芸術運動です。
 堀浩哉氏は、現在では、まるで彼が「美共闘REVOLUTION委員会」を作ったかのように書いていますし、同人誌の『美術史評』も彼が作ったかのようにして主張していますが、それは違います。
 もう古い話で、時効です。時効だから、事実と真実を、私が死ぬ前に言っておきたいのです。

C美共闘の写真

富井:あと、写真類なんかはどうなんですか。美共闘の時代、彦坂さんのご自身の作品の写真というのはいくつか出てきてますけれども、美共闘の写真みたいなものはあるんですか。「美共闘の写真はあるんですか?」という聞き方、非常にこれは曖昧な聞き方ですね。「美共闘って何か」っていうことがまず問題になってくるから。

彦坂:まず基本的にバリケード闘争になると、日本の法律に反している非合法闘争ですので、犯罪です。ですから、警察は怖いです。写真は一切、撮らないです。まず写真があると、それが証拠になって、警察に逮捕されます。つまりバリケード闘争というのは、犯罪であったのです。

富井:証拠になるんですか。

彦坂:もちろんです。はい、証拠になるし、基本的には私たちがやっている1969年の時期っていうのは、石握って投げるところを写真に撮られると、それでもう起訴されていました。ですので、私は髪の毛を長く伸ばして、髭を生やして、そして黒い大きなサングラスをして、顔を隠していました。とにかく、外でデモをすると、公安が写真をパチパチと撮っているので、顔を徹底的に隠す必要があったのです。そのスタイルでバスに乗ると、子どもが「ありゃ! 何だ!」と叫びました。今ならサングラスに黒いマスクをしていても普通ですが、その当時はタモリ(森田一義)も井上陽水もいなかったので、まあ、目立ったのです。
 そういう状態ですから基本的に、バリケードの中で写真は、一切撮れないです。
 ちょっと誤解されると困るのですけれども、私は確かに美術家共闘会議に参加して、それでデモとかそういうものにも参加してますけれども、私自身はその当時もそうですけれども、終始一貫して、思想的には全共闘ではないのです。全共闘っていうのは、大衆運動でしたが、私は大衆ではなかった。病気ばかりしていて、落伍していましたから、みんなと同じ平均的な人間とは思えませんでした。大学に入っても、1年生の時は、口をきいたのは1人の人で、あとは無口に徹していました。多摩美の学内総会でも、公然と「大衆は敵だ!」と発言していました。
 堀浩哉氏の場合には、私から見るとですが、全共闘でした。後から出版された全共闘関係の本『全共闘を読む』(情況出版、1997年)も買って確認しましたが、堀氏の思想は全共闘で、私は違っていました。
 多摩美で最初にバリケードに入ったのは、社青同解放派っていう社会党系の青年組織ですけれど、その中から多摩美の自治会がバリケードを築いてしまったわけですよ。さらに第2次バリケードは、姉妹校の多摩芸術学園の第四インターナショナルのセクトの連中が入って来ました。しかし、これらが話し合って共闘関係を作れませんでしたから、多摩美には「全共闘」は成立しなかったのです。各自ばらばらに、校舎ごとにバリードを築いていったのです。

富井:それはたしか、キャンパスの移転の問題ですね。

彦坂:はい、八王子への移転ですね。重要なことは、前年の1968年の段階なのですね。幾つものことがありますが、デモのことを書くと、初めて、5月頃に、移転反対の構内デモが行われて、私もこのデモに加わるのですが、この経験が大きかったのです。それ以前は、「時間球体」という意味で《時球》と名付けていた自閉空間に閉じ込められていたのですが、このデモによって、そのような自閉性が切れて、自己の空間が、ゴムボールを切って、中と外を裏返すように反転させる経験が生まれたのです。この経験が「反覆」という、くつがえすという意味の言葉になります。私の著書の題名である『反覆・新興芸術の位相』というのは、このデモの体験と、もう1つ、中学生で読んでいたキルケゴールの小説の『反復』から来ていて、そういう意味では、この自我構造の反転が、私には大きいことで、このために、70年安保闘争が必要であったと言えます。
 根底にあるのは、八王子への移転ではなくて、ベトナム反戦運動であり、そして70年安保闘争というものだったのです。

富井:バリケードに入ったのは、1969年1月ですね。

彦坂:はい。社青同解放派の全闘委(全学闘争委員会)のメンバーの関係者から電話が入って「バリケード築いた」って。それで「へー」って言って。それで「右翼が台頭していてバリケード守れないから、その支援に入ってくれ」っていうふうに電話がかかってきたのです。電話をかけてきた男は、政治的な活動家という感じではありませんでした。

富井:それはサークルに電話がかかってきたわけですか。どういうかたちで電話が入ってきたんですか。

彦坂:自宅にかかってきて、私個人に対してです。とにかく、電話は私のところであって、堀のところではなかった。このことは、いま考えると重要なことなのですね。私は「入ってもいいけども、あなた方はとにかく、気がつくと後ろにいないんじゃないの?」って言ったのです。

富井:逃げちゃうっていうことですか。

彦坂:はい、裏切るだろうと思ったのです。彼らは大衆で、大衆は裏切ります。それでも、とにかく右翼が台頭して、バリケードを壊そうとしていて、どうしようもない状態だっていうから、だから支援で入ったわけです。
 私は背広を着て、ネクタイして入ったのです。それと片目に眼帯をしていました。この直前に、お茶の水の井上医院で、斜視を直す眼の手術をしていたのです。ですから今でも、右目は常に赤いです。
 1969年1月というのは、機動隊が東京大学構内に入った段階です。それが9日です。そして東大安田講堂攻防戦になったのが、1月18日、19日で、私はこの実況中継をバリケードの中のテレビで見ていましたから、私が多摩美バリケードに入ったのは、その前の正月三が日の直後くらいでした。
 その前に思想集団「存在」というディスカッショングループを作っていて、そのディスカッションを私の家でやったのです。後で《フロア・イヴェント》をやった8畳間ですけれど、そのやる前ですけどね。ですからそこにいたメンバー全員覚えてませんけど、まあ堀浩哉はいて、石内都もいて、宮本隆司もいて、そういう中で1週間ぶっ続けでとにかく議論をしていたわけですね。私の家でやったということも含めて、私がリーダーであったのです。そのメンバーが、バリケードに支援で、入ったのです。

富井:それを1月になさってたんですか。

彦坂:いいえその前です、前年です。1968年にね。その「思想集団:存在」という組織っていうか、集団が残っていたわけですよね。

富井:何をしゃべっていたのですか。

彦坂:だから表現論ですよね。今、一番印象深いのは、1つは時間論ですね。今は文明論に飛躍してまとめているけれど、最初はつまり時間論として、時間っていうのは、水平に流れていく時間の、クロノスがあります。それに対して垂直の時間、アイオーンという永遠の現在の時間があって、それに対して45度というか、斜めに展開する時間を形成しようという、そういう話をしていたわけです。
 それは現在の文明論にそれはつながってきていて、《文明》(古典文明)というのは、一番上に神がいる垂直の時間(永遠の現在=アイオーン)の時代です。《反-文明》(近代)になると、この時間が横倒しに倒れて、神の代わりに未来があって、水平に未来に向かって時間が流れるのです。これがクロノスです。
 それが1975年のベトナム戦争での米英の敗戦で座礁して、45度というか、斜めに《非-文明》になって、時間が停止して、貧乏揺すりの様に同じ所でピョンピョンと跳ねている。
 さらに《無-文明》になると、上下が逆さまになって、逆アイオーンで、下降して行く。
 つまり時間そのものが《文明》であって、変化して行くのです。
 こういう文明論を探求していくことで、アーティストに何ができるかを明らかにしようとしたのです。つまりアーティスト個人だけが創造するのではなくて、文明の運動や構造が大きく絡んで、創造という構造が出来ている。しかも今日の芸術の劣化はひどいものであって、文明構造の運動を参照していくことで、歴史的に芸術の劣化をどうとらえて行くかという分析と、省察に結実していきます。《芸術》を人類史の中で、測定して行くという地平を切り拓いて行ったのです。
 こういう話の最初が、「思想集団:存在」だったのです。私の場合は、そういう思考を、延々と追い続けて来ているのです。

富井:わりと哲学的、思想的なディスカッションをしていらしたということですね。

彦坂:そうですね。基本的にあるのは、もともと私は中学生の時にキルケゴールの『死に至る病』を読んでいるので、哲学が好きなのです。
 しかも繰り返し8回読んでいます。そこに、哲学的な思考をする基礎があります。病院に入っていて、自分はもうすぐ死ぬと思っていましたので、『死に至る病』を読もうと思ったのです。もちろん難しくて、中学生で読めるものではありません。冒頭部分を暗記しました。暗記すると、頭に入って、読めるようになりました。キルケゴール、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)を読んでいた。それで高校生の3年の最初に、松本英一郎氏(注:独立美術協会系の洋画家)の影響で買ったコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(紀伊國屋書店、邦訳は1957年)を読んで、それでアウトサイダーシリーズは8冊出ているのだけど、それを全部読みました。
 コリン・ウィルソンの2冊目か3冊目が『敗北の時代』(新潮社、1959年)という本で、その冒頭で、美術の教師が学生に話す話が載っていました。結論で言えば、「偉大なアーティストになると決意しろ」というものでした。それに対して、学生が、「そんな、偉大なアーティストに何かになる気は、ないですよ。自分の限界は知っていますよ。」と答えると、教師が怒って、チャレンジも、努力もしないで、最初から敗北しているではないか、と言うのです。それが「敗北の時代」という意味です。最初から負けていて、戦いもしない。そういうコリン・ウィルソンの主張は、ごもっともと思って、私は、それで、「雪舟、ダ・ヴィンチ、彦坂」と、お経のように唱えるということをしていました。まあ、バカみたいに偉大なアーティストになろうと意志していったのです。
 コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』シリーズの最後がフッサールになるのですよ。「新実存主義へ」ということがコリン・ウィルソンのテーマだったからです。

富井:じゃあフッサールに関心を抱いたのは、コリン・ウィルソンの邦訳を読んだから、ということですね、彦坂さんの場合には。

彦坂:そうです。コリン・ウィルソンというとバカにされるのかもしれませんが、それほどくだらないものではないのです。1950年代の半ばの、怒れる若者たちの世代の人です。人格は10界があって、ですからオカルトや、大量殺人者までにまで、意識が広がっているのですね。同時に哲学書も読んで、論じているのですよ。その結果として、最終的にはフッサール(の哲学)に集中していったのですね。
 もちろん実存主義自体はフッサールの影響が強いですから、別にサルトル(Jean-Paul Charles Almard Sartre)だってフッサールの影響はありますけども、私は、サルトルも、そしてメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)も路線じゃないのですね。サルトルもはやっていたので、「嘔吐」とか読みましたし、芝居も見ています。メルロ=ポンティは、学生時代に大流行していました。メルロ=ポンティはセザンヌについても書いているので読みましたが、好きになれなかった。哲学者とは言われますが、メルロ=ポンティの人格には、《想像界》しかなくて、《象徴界》が無いのです。人格的に未熟で読んでも意味が無い。
 だからフッサールになったわけですね。フッサールには10界(《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》《ディープミステリ》《ノーネイム》《越境》《未知》《その先》《死》の10界)があります。だからフッサールへという流れの中で、時代は動いた。
 もちろん時代的には構造主義に移っていく時代なのだけど、その段階でまだ構造主義っていうのは読んでないでしょうね。どこかでフーコーの『知の考古学』(邦訳初版は1970年)を読んで大きな影響を受けますが、もう少し後だと思います。

富井:レヴィ=ストロース(Claude Le´vi-Strauss)とか。

彦坂:はい。まだ読んでないっていう段階です。レヴィ=ストロースは10界があって、凄い人格ですね。レヴィ=ストロースの読書会を、多木浩二さんと、短期的にですがやるのは70年代前半です。
 だけど1960年代という時代では、レヴィ=ストロースがサルトルを強烈に批判して、構造主義に移行していくということで、時代は沸騰していました。
 私の人生は傷だらけでありまして、過去は嫌なことばかりで、それを思い出すのは苦しいのですね。

D造形作家同盟展 外部へ

 バリケード闘争は、わたしにとっては、ウッド・ペインティングと《フロア・イヴェント》という作品展開とバリケードでの「造形作家同盟」展が重なっているので、重要ではありますが、この作品の話は、話すチャンスが生まれれば話しますが、しかしバリケード時代を思い出すのも苦痛です。
 たとえば夜中に、国道246号線の大橋の電話ボックスの中に1人で座り込んで、丸い穴から、三機(警視庁第三機動隊)が出て来るのを見張っている。出動したら、多摩美大に入るということだから、すぐに電話をかけなければなりません。延々と1晩中電話ボックスのドアの穴を通して見張るのは、辛い仕事です。
 それともう1つ怖いのは、内ゲバです。この1969年だけで、内ゲバ数は200件を越えていて、初めての死者が2人出ていて、そして負傷者は千人を越えていたのです。多摩美校内を歩いているだけでも、他のセクトに襲われる危険性はあって、恐怖は強かったのです。  闘争に参加することで、日本の社会の外部に出たのです。このことが美術史的にも、違う視点を手に入れることになったのです。
 美術史的に言うと、村上華岳や入江波光が、文展の審査に反旗を翻して出てしまって(国画創作協会)、そして他のメンバーが10年もたつと官展に回帰してしまう中で、出たまま、野垂れ死にしていく道を選びますが、そうすることによって、日本社会の外部に出たのですね。外部に出るというのは、それは芸術的な精華を産みだすものなのです。私は、村上華岳や入江波光らの作品が大好きでした。
 私の場合にも、この美共闘の戦いを通して、日本の美術界の世間的な価値観の外部に出たのです。世間を生きる他の人から見れば意味はないのかも知れませんが、しかし世間的な価値観の中にいれば凡庸なことであって、凡人に過ぎない。世間から外に出ることによって、私は芸術家になったのです。
 私は一方では、多摩美でも読書会をしていた仏教徒ですから、『スッタニパータ』(初期仏典)にあるように、この世もあの世も捨てて、サイの角の様にただ1人歩むことが重要なのでした。アーティストになるということは、出家することだと思っていました。今でもそう思っています。出家していないということは、世間体に縛られるのですね。世間体アーティストというのは、団体展の作家ですよ。現代美術や現代アートと言っても、世間体の内側にいるアーティストは、団体展の作家と同じです。

富井:バリケードの中で何をやっていたのですか?

彦坂:私はバリケードの中で、広い教室の中に布団を敷いて、フローベルの『ボヴァリー夫人』と、フッサールの『現象学の理念』を1人で読んでいて、女性関係は全くなかったです。セックスのない、清らかなバリケードと思っていましたが、実際には私が孤立していただけで、皆さんはセックスをしていたようです(笑)。
 それから美術展をやっていました。「造形作家同盟展」です。いま「造形作家」とか、「同盟」とか聞くと古くさく思われますが、そういう時代だったのです。バリケードを築いている多摩美術大学上野毛校舎の一番大きい新館の2階の教室に展示しました。私の《フロア・イヴェント》と、ウッド・ペインティングの基本は、バリケードの中で発表されたのです。
 「造形作家同盟展」の企画は、造形作家同盟というグループの展覧会であったのです。つまり美術家共闘会議というグループの中に、幾つもグループがあって、その中の美術家のグループが、造形作家同盟であって、ですから、その中には、藤倉陽子(石内都)とか、宮本隆司ははいっていなかったのです。メンバーも忘れていますが、覚えているのは、私と、堀浩哉と、満田博久ですかね。満田とは、芝居の劇団義理人情もやっているし、もしかすると、自己埋葬儀式もやっていたかもしれません。それに仏教研究会を私と2人でやっていて、バラモン教典の『ウパニシャッド』(中央公論社版世界の名著1)の読書会をやっています。  展覧会については、多摩美の教授達が来るとか、それに『美術手帖』の編集者が、バリケードの中に入ってきていました。その1人が福住治夫氏でした。
 私の作品は、3点で1組のものです。1つは、100号Fのキャンバスの木枠を組み立てて、そこに、厚手の透明ビニールを張ったものです。次の作品になると、木のパネルだけになって、100号サイズの木のパネルだけが作られて、同時にそこの前にあったビニールが、床に落ちて、透明のビニールがコンクリートの向こうに100号のサイズですけども、敷かれて、それが《フロア・イヴェント》になるわけですね。

富井:その透明のビニールが落ちた作品というのが、バリケードの中の展覧会の作品ということですか。

彦坂:いえ、いえ、3点を同時に出してます。

富井:その1つですね。

彦坂:3つあって、それが後にラテックスを流すという。だからもともとウッド・ペインティングというのは《フロア・イヴェント》と同時に出現してきているわけです。だからその枠組みが私には重要なのです。それがプロセス・アートという形式です。それは映画が好きだという私の感覚と合っていたのです。

足立:会場はどんなところだったんですか。

彦坂:普通の教室ですよ。床がコンクリートで、普通の、まったくの現代的な、その当時の普通の現代的な建築っていうか(注:多摩美術大学の上野毛の校舎のバリケード内)。

足立:見た人は、たとえば針生さんの観戦記みたいなものもありますけど、その他はどんな人がいらっしゃったんでしょうか。

彦坂:あれは結構、学内の教授たちはみんな来たっていうことと、それから確認しないとわかんないですけど『美術手帖』の福住(治夫)さん。あの時は『美術手帖』の編集者で、福住さんは結構、バリケードの中に頻繁に入って来ているので。だから見る人は比較的、多かった。まあ数えたわけじゃないですけれど、その当時で言うと多い。斎藤義重先生をはじめ、先生方ですね。東野芳明、中原佑介。

足立:バリケードというのは、学校の全部を封鎖するわけではなかったんですか。入ろうと思えば自由に出入りできるんですか。

彦坂:バリケード自体は別に出入りはできますよ。学内には別に入れるし。

富井:まず学生さんはバリケードをしている主体ですから当然、中にいるわけですよね。

足立:先生も入れちゃうわけですよね。

彦坂:うーん、バリケードって言っても、何て言ったらいいのかな。まあいわゆる普通に言うと、ニューヨーク近代美術館でピケを張っているようなものなんかね、観客はピケを見ながら入っていきますものね(笑)。

足立:具体的に僕はあまりイメージできないのですが、机か何かを積み上げてバリケードにしたのでしょうか。

彦坂:それはそうしてありますけども、しかし別に右翼の学生とぶつかるとかっていうふうになると、緊張感が出て、そういうふうに肉弾戦になっちゃいますけども。まあ、あとはやることがないんですよ。バリケードの中は暇なんですよね。すごく暇なの。だから、怖いっていうのは怖いですよ。つまりいつテロられるかわからないっていう恐怖心があって、それはすっごい怖い。
 多摩美の場合には、全共闘って成立しなかったので。だから五者協議会かな、六者協議会かな、わからないけど、各セクトがバラバラにバリケードをつくっていくんですよね。

富井:じゃあ、他のセクトにやられちゃうということですか。

足立:それぞれのセクトが、例えば多摩美のいくつかの建物をそれぞれ占拠するということですか。

彦坂:うん。だから時期によって違いますけれども、まず社青同解放派っていう社会党系が、自治会ですけどあって。それから多摩芸術学園の第四インターナショナルが1つ、バリケード作ってるし。

足立:1つの建物を封鎖しているんですか。

彦坂:うん。それでうち、美共闘っていうか、正式には4者共闘とかじゃないですけど、そんなに人数がいるわけではないので、せいぜい50人くらいですから。あと全闘委っていうのがあったなあ。下次正一ってアーティストわかります? あれ、全闘委だったです。だからそういうふうに勝手にバラバラにやって、結局、その全学共闘会議っていうのが多摩美の場合にはできなかったので……。

富井:どうしてできなかったんですか。

彦坂:私にわかるはずはないですね。私っていうのは、僕が何か意見を言うと、みんな笑って相手にしないっていう。それで、でも言ったことは、僕が言った通りになるんですよ。だから現実を見ているのは、僕なんだよね。僕の側からすれば。今だって同じだと思いますけど、こちらがいくら正しい意見を言っても、みなさんみんな偏見と思い込みの中で生きているから。さて、話を作品に戻すと、木枠の上に、キャンバスの代わりに透明ビニールを張ったのです。そうすると、壁に掛けると、向こうの壁が見えます。
 現代美術ということでは、このままでも良いのかもしれませんが、私は、ここに木の板壁を見た。「見た」という意味は《幻視》したということです。そこで材木やから板を買ってきて、キャンバスの裏にいた壁を作ったのです。そうすると、透明ビニールと、板壁の間に、薄い空間がキャンバスの木枠の中に出来ます。これで私のつくりたい作品は出来たので、このままで終わって良いはずなのですが、時代の動きというか、その先の作品に転回したものを作ることになります。
 2番目の作品は、木の壁だけという作品です。これを2点作っています。この木の板壁ですが、その表面を鉄ブラシで繰り返し擦っていて、ニュアンスというか。表情を作っています。このブラシで擦った表現の部分を、バリケードで作品を見た東野芳明氏は、批判しています。東野芳明氏は、無機的な《現実界》的な表現を求めていたのです。私自身は、《現実界》への還元に深い意味を見るという傾向には、今も否定的なのです。
 さて、最後の3番目の作品は100号F大に切った、透明ビニールをコンクリートの床にただ敷いたものです。私自身は、サランラップに包まれたものの美しさに魅了されていました。

E描用ヴァニスから《皮膜》へ

 これらの作品の切っ掛けは、多摩美での2年生の学内制作にありました。学内で油絵を描いていると、油絵というのは、乾燥させるのに1週間はかかります。描いて、1週間寝かして、乾いたら加筆するのですが、その時に、乾燥した油絵というのは、濡れ色を失うのです。そうすると加筆した時の油絵の具の濡れ色と、乾燥した色との差異が生じて、絵画としてのバルールを正確に合わせられなくなるので、乾いた絵の具の上に、描用ヴァニスというものを、小さな霧吹きを口で吹いて吹き付けます。そうして描いていたのですが、そういう作業を繰り返しやっているのは私だけでありまして、他の学生は、誰もそういう描用ヴァニスを使っていなかったのです。
 まあ、私は小学校の1年から油絵を描いていましたし、中学生くらいからは、油絵の技法書である岡鹿之助著『油絵のマチエール』(美術出版社、1953年)を読んでいて、高校生になると、『油絵のマチエール』に書いてあることをテキストにして、自分でキャンバスを作って、絵を描いていました。
 高校3年生の時には、夜間のすいどーばた研究所に通っていて、その時に先生が榎倉康二氏でありました。榎倉氏はまだ油絵で絵を描いていて、日動系のグループで「ル・モン」というのに出していて、1回ですが見に言っています。抽象画でした。
 そういう経験があったので、多摩美の学生とは、絵を描くという技術面でも違っていて、描用ヴァニスの使用は、孤立していたのです。それで、濡れ色にするということは、何であるのだろうかと、考えるようになったのです。それが皮膜の問題を意識するようになった切っ掛けでありました。

Fミニマル・アート

 『美術手帖』の特集号(1969年3月)でミニマル・アートの極北としてロバート・モリスが紹介されて、図版でしかありませんが、モリスの作品に複数触れて、打ちのめされるように深く感動したのです。この特集号を読んでいたのが、唐十郎の芝居を新宿の花園神社で見るために、堀浩哉と一緒に長い列に並んでいながら私は、モリスを読んでいたのです。  つまり私は、『美術手帖』で白髪一雄の具体の軌跡を読んでいて、そこで、吉原治良の、決して人のマネをしない、今までにないものをつくれという考えに強く影響をうけていました。そうすると、どうすれば、他人の真似をしないで作品を作れるのか、その方法を考えていました。
 イメージで作る作品を制作する限り、イメージというのは、必ず、他のイメージを必要とします。ゴジラを作るにしても、イメージで考えれば、ゴリラとクジラなどの他のイメージを引用してそれを組み合わせることしか出来ないのです。その時に、モリスのミニマリズムの還元という方法を学んだのです。還元をしていくという方法をとると、イメージは分解して原型というものに還元されて、イメージの模倣という枠からは出られるのです。
 初めは、コンプレッサーを使って、白いキャンバスを作って、その4分の1のサイズの矩形を黒で、画面の真ん中に置く作品を作りました。今から見ると、それはマレーヴィチの作品の模倣に見えますが、当時は、私はマレーヴィチを知らなくて、むしろルドンの作品の影響の中からこういう矩形の作品を初めて、幾つか作ります。その内に、キャンバスの上に描くということよりも、木枠にキャンバスを張るだけで良いのではないか、という還元主義的思考を取ることになって、模様のある布などを張るというよう作品になって、それが透明なキャンバスを張るという作品にまで成ったのです。
 まあ、そういうわけで、ミニマリズムというのは、イメージで作品を考えるという作り方、今日で言えば会田誠さんが言っている作り方の外部に出るということが、私には重要であったのです。結局、造形作家同盟展は1回しか開催されなかったのですね。残念ですね。もう少し繰り返したかったです。

Gインストラクション

 この先に、還元主義を推し進めたのは、刀根康尚さんから、現代音楽家のジョン・ケージを教えられることで展開します。
 ジョン・ケージは、初め、グランド・ピアノの中に、様々な異物を挟み込んで、音を狂わせ濁らせるプリペアド・ピアノをやります。木、ゴム、金属、などを挟んだり乗せたりして、打楽器的な響きに音色を変えたものです。ピアノ本来の音色が失われ、金属的な音や雑音の多い独特な音が得られるほか、多くはその音の高さも幾分不明瞭になったり、元の高さとは異なる音高となったりします。
 このプリペアド・ピアノで、既存の楽譜を演奏すると、音楽が少し変わってしまうのですね。プロのピアニストが演奏すると、そのピアニストが楽譜からイメージする音楽とは、少し違ったというか、狂った音楽になるのですね。これは、こういう作業を通して、楽譜と、演奏家と、出現する音楽をバラバラに解体したといえます。つまりプリペアド・ピアノでは、楽譜通りに演奏しても、それは音が違うのですね。その違いは、演奏家にとっても、想定とは違うものなのです。こうして、ピアノという楽器と、楽譜と、音楽の関係が解体されたのです。
 この次にジョン・ケージがやったことは、図形楽譜です。
 つまり楽譜そのものを、伝統的な楽譜とは違う、抽象美術の様な楽譜を作って、その楽譜の指示と、その楽譜の解釈によって、音楽を演奏するということを試みました。
 こうすることで、伝統的な音楽とは違った音楽と、そして音楽を演奏するという演奏家の能力を、拡張することが試みられました。
 最後に到達するのが、インストラクションです。つまり言語で、音楽の指示を書いたものが、楽譜になるのです。
 この3段階というのは、楽譜の解体であると見ると、楽譜を言語に解体するということなのです。
 こういう作業と、いわゆる即興演奏を称揚する人の演奏が違うということです。つまりインストラクションがあって、演奏するものと、何もなくて、即興演奏をするのでは、違うのです。
 何もなくて、ただ即興するのは、【自然−内−存在】になってしまうのです。音楽ではありませんが、もの派のアーティストの菅木志雄が一時期頻繁にやっていたパフォーマンスというかイヴェントは、このインストラクションのない、【自然−内−存在】のものです。これを見ていた中原佑介氏は、私に、次に何をやるか当てて見せようかといって、菅木志雄氏の行為の次にやることを次々に言い当てていったのです。つまり菅木志雄氏の作品制作というのは、楽譜に当たるものを欠いていて、【自然−内−存在】性の中で、制作が、自然の成り行きで動いているのです。こういう態度は、多くの即興のダンスや音楽にみられるものなのなのです。
 それに対して彦坂尚嘉の基盤は、情報=言語でありまして、言語判定法で、「超越論的態度」を生きていくことで、成立するのです。

H共感性の欠如

 しかしそこには創造性はありますが、共感性はないのです。そしてそれは「人工」的な制作であって、自然性を排除しているのです。
 「創造的でありつづけよう」という意志というか、盲信は強くありましたが、それは癌の家系への怯えというか、創造性を失うと、アーティストは死ぬという観察結果を持っていたことにあります。
 しかしこの「創造的でありつづけよう」という意志は、同時に「共感性」の欠如という形を取ったのです。《フロア・イヴェント》にしても、とにかく、世田谷の自宅の畳に寝る自身に対する攻撃性であって、自傷行為的な様相を帯びていたのです。だから、当初は、石膏を流そうと考えていたのです。その話を刀根康尚氏にすると、「石膏だと、畳から取れなくなるから、ラテックスがよい」と、教えられたのです。
 その時20万円というお金があったのですね。それは美術出版社で、8ヶ月かけて60年代美術の総括の号を作っていった原稿料のお金です。そのお金を、ラテックスを買うのに流し込んだのです。それで1斗缶を4つ買ったのです。買ったけれども、中は見ていません。さあ、始めるというときに、裸になって、初めて缶を開けて、それで白い液体を流し始めたのです。もの凄いアンモニアの臭いが襲ってきましたが、その時に、初めてラテックスっていうのは臭いというのを知ったのです
 世田谷の自宅の8畳間で作品を作るというのは、1年近くもバリケードに寝て暮らしていた人間が、闘争に敗北して、再度自宅の畳の上に戻ってきて、寝ているという、その不快感に根拠があります。

Iもの派の否定

 私は、先輩である「もの派」のアーティストを否定してしまっているのです。
 たとえば、ここにラベルの貼っていないDVDのディスクが2枚あるとすると、「もの」として見れば、この2枚は、同じ量産品であるのです。
 しかし一方には『ALWAYS三丁目の夕日 '64』の映画が入っていて、もう1つは空であるとします。
 つまりラベルの貼っていないDVDのディスク2枚は、「もの」として見れば、ピカピカと光る同じ量産品のDVDであって、同じであり、区別は無いように見えるのですが、「情報」として見ると、一方は『ALWAYS 三丁目の夕日 '64』の映画が入っていて、もう1つは空であるので、大きな差があるのです。しかしその情報的な差は、ラベルが貼ってなければ、外からは見えないのです。
 ここで単純化すると、「もの派」は、DVDのディスク2枚を同一であると判断するのです。それは「自然的な態度」を基盤に置いているからです。
 それに対して私は、2枚のディスクには、情報的な差異が大きくあると、認識します。それが「超越論的態度」です。
 この差を丁寧に説明すると、日本人は、木のテーブルを作ると、「ものづくり」と言います。これが「自然的な態度」であり、「もの派」の感覚です。
 それに対して私は、木という素材は、作れない。つまり「もの」を作り出す錬金術は不可能であって、「ものづくり」という言い方ではなくて、「素材を、加工する」と言うべきであると主張します。
 つまりテーブルにする木を、厚さ5cmで、幅145cm、奥行き89.6cmの天板にするというのは、木という素材の上に、こういう情報を載せるということを意味します。繰り返すと、素材を加工するというのは、情報を載せることなのです。つまりテーブルの天板を加工するのも、DVDのディスクに『ALWAYS 三丁目の夕日 '64』を焼くのも、情報を載せるという意味では同じなのです。
 「もの派」の「自然的な態度」というのは、李禹煥にしても、菅木志雄にしても、素朴な日常的見方で、【自然−内−存在】で成立しているのです。そこには、多くの人が、努力なしに共感できる世界が広がっています。
 闘争前ですけれども、私は大学1年で、3つのクラブに入るのですね。文芸部と、壁画研究会と、映画研究会です。3つも入っても、そんなにできないのは明らかなのに、欲が深いのですね。最近気がついたのは、糸崎公朗さんからの指摘なのですが、私はどうやらADHDという注意欠陥、多動性障害だったのだろうと思います。しかしその中で一番、一生懸命にやったのは、映画研究会でした。

第三章 現象学研究会
@映画研究会などのクラブ活動

 映研では、まあ単純に、1年の1学期、16ミリで映画作るっていう議論を延々とやるんだけど、とにかく足の引っ張り合いで。当時の多摩美映画研究会っていうのは、全員ブント(共産主者同盟)だったんだよね。だから赤ヘル集団だったの。だから部室は真っ赤にぬられていたの、というのは嘘だけど。そのブントに中にいて、とにかく足の引っぱりあいだというのが見えちゃうわけですね。
 だから、夏休み前に僕が提案したのは、夏休みの間にとにかく各自1本ずつ、8ミリでいいから映画を作ろうと。作って来ない人には発言権なしって言ったわけ。
 それで夏が終わって、先輩から8ミリの撮影機は借りて、フィルムを2本買って。それで3分20秒の映画を1本作って、それで余ったやつをまた繋いで、フィルムに傷つけたり色着けたりして、それで2本作っちゃって、持っていったわけ。その音楽は、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の2曲だったのですね。著作権上の問題で、目黒美術館や東京画廊での公開では、音楽なしになってしまって、思う様にアピールできなかったのです。今度は、非合法の海賊版と、新しく音楽を作った改造版を発表したいですね。
 さて、夏が終わって、そしたら映画を作っていったのは僕だけで。とにかくそれで僕が怒鳴るわけ。「何だ!」って言って、「てめえら、何を思ってるんだ! 出てけー!」って言って(笑)、全員追い出した。あれは面白いけど、みんな出て行くんだよね。それで、部室を黒く塗ったの。アナーキスト集団に、映研が変貌したのですね。

富井:彦坂さん、映研に入られたのは、やっぱり映画に興味があったからですよね。ヌーヴェル・ヴァーグとか。

彦坂:僕はもともと映画が好きでした。映画が好きになった大きな要素っていうのが、中学生の時に、今村昌平さんの、『にあんちゃん』(1959年)を見て、筑豊を背景にした映画ですから。だから60年の安保闘争というのと同時に、三池炭坑闘争(注:三井三池争議は1953年と1959年から1960年までの2回。三池炭坑闘争は主に後者を指す)がだぶってるわけで。
 それはだから同時に僕が谷川雁さんと出会って。谷川雁っていうのは三池炭坑闘争と同じで、昭和炭坑闘争っていうのがあって、それを指導した。元々は共産党員ですけども、そこから離れて、まあ詩人だったわけですね。その、彼の詩に感銘をうけていくわけね。日本詩人全集みたいな、文庫本ですけど、それを買って。結構厚かったんですけど。

富井:そこにあったんですか、谷川さん(の作品)が。

彦坂:そう。「難解詩人」って書いてあったのですね。本当にどこまでがね、僕が美術の場合もそうですけど、本当にどこまで自分の判断で、それに魅かれているのかっていうのは、かなり疑わしいわけですね。つまりたとえば靉光にしても、やっぱり「強靭な造形……なんとか」って書いてあるとか。

富井:あるキャッチフレーズみたいな。

彦坂:そうそう。いわゆる本を見ると、そういう評価が書いてあるじゃないですか。だからそういうものの影響は大きいですよね。つまり僕の場合は自分が判断するっていうよりも、たしかにある評価があるものにくっついているわけです。それは完璧にそうです。だから。つまり【文化−内−存在】を生きていたのです。
 今例えば僕ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)好きですけども、最初にプッサンを思うのは、セザンヌ(Paul Ce´zanne)がプッサンを高く評価しているっていうことがあって。それで、パリに行って、ルーヴル美術館を見に行って、まあ、わからないわけ。わからないというのは、プッサンがいいと思えないわけですね。だからそれは僕にわからないからであって、あのセザンヌがいいって言うんだから、きっといいんだろうと思って。努力すればわかるようになるかと思って、20年努力すると、わかるようになるんです。
 だから【文化−内−存在】を生きてきたというのは、それは終始一貫してそうなんだと思いますけど、谷川雁さんも非常に難解っていう評価があって、それで惹き付けられて読むと、面白いことは面白いわけですね。それで谷川雁さんの他のものですね、例えば『工作者宣言』(中央公論社、1959年)とか、『原点の存在』(『原点が存在する』(弘文堂、1958年)とか、そういうものはほとんどが僕の基本的な方法になっちゃってるんですね。だから今でも、原絵画だとか、原芸術っていうふうに「原」つけていくっていうのが、全く谷川雁さんの引き写しにすぎない。

富井:そうなんですか。はじめて知りました(笑)。映画研究会は、基本的に追い出しちゃったわけですけど、結局その中で映画的な表現を追求していくことになるわけですか。

彦坂:映画作家の金坂健二氏が、帰国するニュースをテレビで見たのです。1967年の秋くらいだったと思います。それに興奮して、すぐに多摩美術大学に呼びました。その前提にあったのは松本俊夫の『映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー』(三一書房、1963年)を中学3年生の時に買って読んでいて、大きな影響を受けていたからです。
 なぜ買ったかと言えば、今村昌平の処女作『にあんちゃん』を、記憶では小学校の中での上映会でした。しかし『にあんちゃん』は、1959年の日活映画ですので、小学校ではなくて、中学に見ていたはずです。この映画は文部大臣賞を受賞しているので、中学校でも上映したのだと思います。この映画に深く感動して、そこから、今村昌平の映画を追いかけて見ていきます。1961年には『豚と軍艦』です。これは面白くて、夢中になります。高校に入って、1963年の『にっぽん昆虫記』を見ます。方言の強い映画で、日本の山村に興味を持ちます。後年に、越後妻有トリエンナーレに参加して、田麦という山村に10年は入ってフィールド・ワークを試みるのは、この『にっぽん昆虫記』の影響です。
 この頃になると、銀座の並木座とか、池袋の文芸座地下という名画座に行って、松竹ヌーヴェル・ヴァーグの大島渚や、吉田喜重も見ています。好きな映画ですと8回、繰り返し見ています。吉田喜重の『秋津温泉』が大好きでした。
 今村昌平の方は、相変わらず追いかけていて1964年には『赤い殺意』を見ます。大学に入って、1968年に『神々の深き欲望』を見るのですが、これには深く失望します。これが切っ掛けで、今村昌平から離れます。しかし沖縄に興味をもって、後年に、沖縄に3回行って、個展もやります。
 話がそれましたが、テレビ・ニュースで見た金坂健二氏に連絡をとって、多摩美(上野毛)の校内で、公演と映画『アメリカ、アメリカ、アメリカ』の上映会をしました。私はポスターを、すごい数手描きで作って、校内に貼り巡らして宣伝をしました。その会に来たのが堀浩哉氏でありました。初対面でした。その時は、それ以上の関係はありませんでした。
 私の方は、結局どこに行ってるかっていうと、その当時草月実験映画祭など、草月が実験映画の上映会を沢山やっていて、私は1人で毎回見に行っていたのです。それが学内で評判になっていたらしくて堀氏の耳に入ったのですね。その時でも(私は)「じいさん」って呼ばれてましたけど、とにかく年齢的には40過ぎみたいに見える。そういうファッションとか。

富井:背広を着てらっしゃったんですか。

彦坂:背広も着てるし、それからオーバーもそういう、かなり中高年のオーバーを着て。それで行って、そうすると、とにかく草月(会館)でよく見かけると言って、そういう噂があって、変な奴がいるって、それがなんか堀にそういう噂が伝わったのですね。名前も今思い出せないけど、1人、つなぐ男がいたんですよね。さっきの「バリケードに入ってくれ」って言って電話してきたのがその男だった。それでだから堀が僕に近づいてきたんであって、だから僕はなぜ彼が近づいてくるかわからなかった。

富井:変なやつだったからでしょうね(笑)

彦坂:それで人を介して、私に誘いが来たのです。それで喫茶店で会ったのです。堀氏の取り巻きが7、8人いて、喫茶店で、バラバラに、違うテーブルに座っていたのです。私は何か話があるのかとおもって、コーヒーを飲んで、話が切り出されるのを待っていたのですが、堀氏は、何もしゃべらないで、その内に新聞を取り出して読み始めたのです。そして1時間以上が何もないまま過ぎたのです。他の人達は、それが当たり前だという態度で、各自が何かをしていて終わりました。たぶん、大学の近くに下宿している学生達は、そういうかたちで、喫茶店で時間を潰すことをしていたのだろうと思います。
 結局、翌年の1968年には、自分の《ジストロフィー》って8ミリの映画を、比較的、長編ですけどつくります。
 それから1968年になると、足立正生さんを学内に呼んで。あれもだからあの時期としては早いんですよね。『胎児が密猟する時』(1966年)って若松プロダクションのつくった、事実上は足立さんの作品で、まあ若松孝二さんがいなければもちろんできなかった映画ですけれども。それはサドマゾの映画で。それをだから学内の講堂で、ピシーっと鞭で打つようなのをやったわけですよね。だから普通にあって誰かのものを真似したんじゃなくて、まったくそういう、だからかなり先端だったですね。学内でピンク映画を映すっていうか、しかもサドマゾを映すっていうことを、まねではなくて、独自にやったのですからね。

富井:その当時はそういうものには、学生のお客さんが(観客としてたくさん)入ったわけですか。

彦坂:入ってしーんとしていましたけどね。

富井:しーんとしているんですか。

彦坂:うん。それでまた「超密着の世界」っていうシンポジウムをやって、下降感覚を問題にしたのですね。とにかく、下降して、落ちていくという感覚が強くありました。ですからエロ映画を見る「低俗映画研究会」。ストリップを見る「実演研究会」。エロ・グロ文学の「異端文学研究会」を設立したのですね。しかしこれもADHDの多動性症候群の症状でありまして、(活動は)ゼロではないですが、ほぼ看板だけですね。現在、私が《無-文明》ということを言って、それは垂直に下降していくという《逆アイオーン》の時空間なのですが、それはだから、大学時代から、まあ、変わらないのですね。
 足立さんはそのあと結局、日本赤軍に合流していっちゃうから、その前の段階ですけど、足立さんを呼んで。若松さんは呼ばなかったですけど。僕は足立さんの日大映画研究会で作っていた、日大映研のそういう自主フィルムの運動っていうのは、すごく僕の中で評価があって、だから『椀』(1961年)とか、『銀河系』(1967年)だとか、『鎖陰』(1963年)だとか、そういうものを見てましたから。『鎖陰』は中西夏之さんの《コンパクトオブジェ》が象徴的に出てくる映画ですけども。だからまあ尊敬していたっていうのがありますね。

富井:あと映研にはどういう方がいたんですか。

彦坂:あとは石内都と、宮本隆司がいたんです。石内さんは、ヌード映画つくってましたよ。

富井:ヌード映画ですか。

彦坂:うん。石内さんも非常に性的な映画を作っていました。宮本さんのは僕、全然おぼえてない。宮本さんっていうのは、もう、その当時からすごく正しいことを言う人で、とにかく何ていうのかな、おぼえているのはドストエフスキーか何かだったですけど、つまりそういうもの。別に僕だってドストエフスキー読んでますけれども、ただ言い合いしたことがあって、つまり社会的に正しい、それなりの評価を得ているものをなぞってくるわけですね。物事に接触した時に、深くとらえているのか、表面的にとらえているのかってあるでしょう。宮本さんはかなり表面的にとらえる。まあデザイン科だっていうのはありますけど。そのへんで1回、もろに議論したことがありましたけどね。その「違うんじゃないの?」っていう話をしたことがある。まあだから彼のやり口っていうのはそういうのでもって、だから社会的に偉くなるっていうのは早いと思うけど。

富井:あと堀さんと映画のシンポジウムのときに、初めて知り合われたということで、あとは《自己埋葬儀式》(1968年)を一緒にするとか、劇にも出てらっしゃると思います。

彦坂:そうそう《自己埋葬儀式》は、まず順番でいうと、僕自身はですからさっきもちょっと言いましたけど、アスペルガー症候群なのかもしれなくて、多摩美に入った時にまず口を聞くっていうのが1人、クラスにいるだけですからね。まったく口聞かない。それで大学1年の時だと、学校が終わると多摩川に行って、それで川を見ているわけですよ。

富井:(笑)

彦坂:それはヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)の『シッダールタ』っていう小説があって、それはブッダのことを書いているわけですけど、川を見ているわけです、最後はね。あれを真似して川を見ているわけですよ。部室に行けば人としゃべっているけど、まず教室の中ではほとんど口聞かなかった。その時、口を聞いてた人の名前ももう忘れちゃったけど。だからあともう1つは、そのこととは別に、つまり当時の大学というのは当然まず、民青(民主青年同盟)がいるのよ。

富井:共産党系ですね。

彦坂:うん。共産党系の青年組織があるから、するとそういうのには捕まるわけ。それで部室に連れ込まれて、延々とオルグされるっていうか、(組織へ)勧誘されるわけね。

富井:勧誘されたわけですか。

彦坂:うん。それを全部、粉砕していくわけね。だから他にも原理主義は僕にはまといついてきた……。原理運動は強い時代でした。
 だから全部さっきの社青同解放派もそうですし、四トロって第四インターナショナルとか、それからあとはブントですよね。そういうものと議論をして、粉砕しないと組み込まれちゃうんですね。負けると。
 私は負けないんです。それは強いですよ、僕は。執拗に議論していくから。

富井:それはいわゆるバリケードができる前から、ということですか。

彦坂:前からそういう風潮というか、今と全然(違う)。今の若い人たちが読んでいる文章の日本語と、当時の文章は違いますよね。僕の「李禹煥批判」(『デザイン批評』12号、1970年11月)もそうですけど、今の人たちは読めないんだと思うんです。僕だと今日も来る時、すこし読みましたけど、別に難なく読めますよね。自分の文章だからっていうことはありますけど、当時、別に普通だったですよね。別に僕の文章がとりたてて読めないっていうものではないので。普通に流通した文章ですから。それなりの評価もあったし。だから今がおかしいんですよね。

富井:それで堀さんが近づいてきて、まず《自己埋葬儀式》ということでしたね。

彦坂:そう。あれはどっちがどっちかはむしろ堀に聞いてくれた方がいいけども。結局、堀は堀で、演劇部で上の連中を叩き出しちゃってるわけ。

富井:堀さんも同じことしているわけですね。

彦坂:だから部員数がものすごく減るわけですよね。

富井:それは困りませんか(笑)。

彦坂:いや困りますよ。だから次の年に、だから僕で言えばとにかくクラブの勧誘をして、若い子たちがたくさん入ってくるわけですよね。その中にいたのかなあ。どっちがどっちかあんまりよく覚えていないけども、僕の方が年上だと思うので、例えば宮本隆司なんかね。細かいことはわからないけれども、だから結局(堀と彦坂の)両方で叩き出しちゃうから、芝居をやろうとすると役者が足りないわけですよ。彼が僕に近づいてきて、僕を主役にしちゃったわけですよね。
 それで僕は僕で映画を作る時に、芝居の流れを使って映画を作っていくということになるから。映画は、先ほど言った『ジストロフィー』です。筋萎縮症という病気ですね。だから堀浩哉がその「劇団義理人情」っていうのを作って、そこに僕が組み込まれていったわけですね。
 私は、その堀の芝居の中にたくさんのものを流し込んでいくわけですね。1つは軍歌を入れていきますね。それは僕がSPレコードで軍歌のレコードたくさん持っていた。家に手回しの蓄音機があって、そこに軍歌があって。軍歌ばかりじゃないですけど、つまり古い童謡とか、それから虎造(注:浪曲師で俳優の広沢虎造、1899〜1964年)の『清水の次郎長』のシリーズが何枚もあるとか、そういうものを聞いて育ってきてるから、だからそれを流し込んでいって。
 だからその時に、重要なんですけども、結局僕にとっては日本の敗戦ということが、ものすごく大きくあるんですね。
 だからそれは自分の出生が、日本の敗戦した1945年8月15日に親がセックスして十月十日たつと、6月26日に僕が生まれるっていう関係性が。それはだから後から見つけることだけど、どちらにせよ敗戦直後に1年経って生まれるわけですから、全くの戦後世代なわけでしょう。同時にその時に一番結核が流行っていて、それを僕自身が(感染して)それでとにかく前半はそれに苦しめられていったわけです。中学2年に、1年病院に入院したので、学校は休学しましたが、それは思春期ということもあって、非常に大きな落伍体験になりました。
 もう1つは弟が重篤の脳性麻痺であるということがあって、それも(出産したのは青山の)日本赤十字病院ですからね。日赤の医療過誤で、弟が障害者になってしまった。だからそういうものの《絶望》の絡み合いがまずあった。
 それからもう1つそのことと、だから『にあんちゃん』が繋がるんですよね。その『にあんちゃん』っていう映画が、そのあと今村昌平さんが『豚と軍艦』(1961年)だとか、『赤い殺意』(1964年)とか、『にっぽん昆虫記』(1963年)だとか、それから『「エロ事師たち」より人類学入門』(1966年)とかを作っていくわけですけど、だからそれを全部その当時封切りで見ていくわけですね、僕自身が。だから今村昌平さんの映画を、全く人生の、何て言うかな、教科書のようにして、見ていくわけ。そこに真実を見るわけ。人生の絶望と、それからの脱出の物語です。
 それはどういう映画だったかって言えば、今村昌平さんっていうのは、小津安二郎の下にいた人で、小津さんっていうのは典型的に近代のハイアートの構造をもっていて、理性的で健康なヒューマニズムの世界しか描かない。だから決してトイレやセックス、宗教や組合運動、そういう下品なものは映さないっていう態度ですね。
 それに対して反発した今村昌平さんっていうのは、だから日本の現実を撮ろうとするから、農村を撮り、今だとほとんどわからないような方言を撮って、それで近親相姦から、売春から、とにかく性の世界を描いて、それで新興宗教があって、政治闘争があって、そういうドロドロの日本を描いていくわけですよね。そういう現実の絶望の中に、真実を見るわけですよ。
 しかもなんでもない洗濯をして、お掃除をしてとか、そういう日常生活の退屈な映像が積み重なっていくんですね(笑)。それから馬鹿な男たち、女たち、毅然とした女たちだけどね。男は馬鹿なんだけどね。さっきのフェミニズムにも重なっていくんだけど。だから今村昌平さんも、それから大島渚も、彼らが描いた女っていうのは、だから毅然としていて、強く生きていく女たちなんだよね(笑)。色々男たちが本当に馬鹿みたいに裏切って、倒れていくわけだよね。
 あともう1つこれも高校生の時になって、夢中で8回見ている映画が、やっぱり松竹ヌーヴェル・ヴァーグだけど、『秋津温泉』(1962年)っていう映画で、これは岡田茉莉子主演100本記念の映画で、吉田喜重監督で、まったくだから松竹の、なんていうの、そういう看板映画にすぎないですけども。当時だともう本当に、少なくとも8回は見てますよ。映画館の中で写真も随分撮ったし、夢中になりました。
 話としては、今から見るとね、その後でまた見たんですよ、またね、随分経ってから。そうしたらがっかりしたけど。結局はね、わかりやすく言えば『雪国』(川端康成著)の焼き直しなわけですよね。トンネルを越えると向こうに女がいて、その女が真実を……。だから日本の敗戦が抱えているある真実を、温泉街にいる女性が、岡田茉莉子が抱えていて、そこに男が繰り返し通っていって、それで最後桜が満開の川の中で、岡田茉莉子が手首を切って、ギャー!っていって自殺していくっていう映画で。だからその敗戦の時にあった真実が失われるっていうそういうことをテーマにした映画だけど。それでまあ同じ主人公、男役は同じで、『豚と軍艦』も、『秋津温泉』も同じだけど、長門裕之が馬鹿な男を演じていて。

富井:いま映画の話がずいぶんでましたけど、同時代的に考えると、例えば60年代の後半だと、アングラの演劇、唐十郎とか寺山修二とか、黒テント(注:1968年より「六月劇場」の名義で活動で開始する)なんてもうちょっと後で出てきますけど、そういうものも興味を持たれていたわけですか。

彦坂:うん、まあ、夢中になって芝居を見たっていう側じゃないんですけど。映画のほうが(好きで)、映画少年なんですけど、だけど(唐十郎の)紅テントは見てますよ、もちろん。黒テントも見てますよ、もちろん。それから寺山修司ももちろん見ているし。寺山修司は舞台を見ていただけじゃなくて、いわゆる街頭演劇も見てますよ。

富井:そういうのは堀さんと一緒に見に行ったりするとか、そういうことはあったわけですか。

彦坂:まあそれは堀と一緒に見てますね。あとはジャズですよね。ジャズの時代ですから。コルトレーン(John Coltrane)が死んでいくので。ジャズ喫茶に入り浸りで、みんな深刻にジャズ聞いている時期ですから。それからライブも見てましたね。山下洋輔もライブで見てますね。

富井:そうすると、ずいぶん広く文化的なものを見てますね。広い視野があるっていうか。

彦坂:いや全く、ADHD(注意欠陥・多動症)者だから、1人の生身の人間の限界の中でしかないですが、幅広く見ていますね。僕はまったく文化的な変貌の時期だという把握でしかない。1969年に代々木の体育館で開催された「クロス・トーク/インターメディア」も、見に行っていますよ。ジョン・ケージも土方巽もいて、そうそうたるメンバーが出ていたのです。だからあそこで、簡単に言えば近代が沸騰して、近代が蒸発していくわけですよね。その中にいたわけであって、それを全共闘運動とか、学園紛争っていうだけでとらえていくのは全く違う。だから映画で言えばこの間、言ったかどうかわかりませんけど、草月(会館)の実験映画祭で、一番大きいのは、(アンディ・ウォーホルの)『チェルシー・ガールズ』(1966年)、それからケネス・アンガー(Kenneth Anger)の『スコピオ・ライジング』(1963年)っていう同性愛をテーマにした映画。これは当時の税関で言えば、絶対、通るはずはないですね。男性器がバカバカ出てくるわけですから。それが見つからないで通っちゃったんですね。それで草月で(上映されて)、東野芳明さんという美術評論家と付き合っていたから、「彦坂、すごいよ」って言うから、結局、3回しか上映されてないですけど、3回とも見ましたから。僕は全部見ています。話をバリケードに戻すと、バリケードの中で、三島由紀夫の『近代能楽集』をやっていますね。面白かったです。それからバリケードの中では、1本の線が描いてあるだけの、ある種のミニマル的な映画みたいなもの、『スタンディング』という、ただ立っている映画もつくりましたけれども。

A現象学研究会

 美術家共闘会議の内部のイデオロギーには、フッサールの現象学がありました。私は、高校生から、フッサールを知っていました。現象学研究会というのは、青山デザインスクールのバリケードの中にいた刀根康尚氏のところに、堀氏と私が美共闘のオルグで行った中から生まれたのです。
 刀根康尚さんと現象学研究会を結成して、フッサールを長年にわたって読みました。  1969年の夏には、バリケードから出て、避暑に軽井沢に行って、現象学研究をやりました。10人はいなかったですが、メンバーは、青山デザインスクールのバリケードの学生と、私の関係が2、3人です。泊まったのは、画家の池田龍夫さんの別荘でした。バリケードの暴力学生を、良く泊めてくれたと思います。もちろん刀根康尚さんの関係であったからですが。
現象学研究会には、堀浩哉は1回も参加することはありませんでした。理由は知りませんが。しかし普通に言うと、たとえばフッサールの『現象学の理念』という本は難しいです。難しい本を読める人と、読めない人がいるのです。入門書とか、マンガでこういう哲学を読む人がいますが、それでは人格が成長しないのですね。死ぬ思いがしましたが、フッサールの著作は、刀根さんと一緒に『現象学の理念』から始めて、1冊ずつ読んで、最後の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』まで、主要著作は読んでいます。読んで思うのは、入門書で済まさなくてよかったということです。非常にシリアスで、絶望に満ちた哲学の行程に、深くうたれました。
 つまり美共闘と、美共闘REVOLUTION委員会の両者をつらぬいて、現象学研究会があったのです。現象学研究会の活動を抜きには、美共闘はないのです。

Bフッサールの現象学

 現象学研究会を刀根康尚先生と、私はやっていて、この刀根先生のところに、石子順造氏が青山デザインスクールの自主管理の校長であった関係で、よく来ていました。石子氏は、原稿が書けなくなると刀根氏の所に来て、喋って、刀根氏の話を聞いて、それを原稿にして書いていると、私には見えました。
 あと、荒木経惟等々、名前を忘れた人を含めて、集まってきていました。そして『美術手帖』の編集長であった福住治夫氏が、たびたび相談にやってきていたのです。
 バリケード後には、私はここに、入り浸りだったのですが、ここで福住氏と刀根氏、そして私で話していて、1960年代芸術の総括をしようという話になったのです。
 つまり元々私は、堀氏がこだわる政治闘争には興味がなくて、芸術に興味があったのです。ですから、堀氏がつくった政治の枠組の中に、私は、せっせと、芸術を流し込んでいたのです。そしてそれが、日本の現代美術の歴史の把握に向かったのです。
 すでに述べたように美術家共闘会議の内部のイデオロギーには、フッサールの現象学がありました。
 私は、高校生から、コリン・ウィルソンを介してフッサールを知って、大学では1人で『現象学の理念』を読み始めていて、それで青山デザインスクールのバリケードに、美共闘のオルグに行って、刀根康尚氏にあって、かれも『現象学の理念』を読んでいたことから、現象学研究会を作って参加して、それからフッサールを長年にわたって読みました。
 「自然的な態度」というのは、フッサール現象学の用語で、目の前に広がる世界の存在を自明のこととして、疑わない素朴な日常的見方を指します。この態度は現象学的還元の操作によって停止され、超越論的態度へと移行するのです。
 フッサールは、もともとは数学の研究をしていた人です。数学者が哲学を展開するというのは、ヴィトゲンシュタインとか、沢山の哲学者がいます。
 フッサールは、その後、心理学をブレンターノという哲学者を通して学びます。このブレンターノは、「経験的立場からの心理学」、そして『感覚論について』を書いています。ですから、美術家にも有効な流れの中に、フッサールはあったのです。
 ブレンターノは、人間の内部意識に中心を置いて考えました。内的心的現象を分析することを通して、哲学的体系を構築しようとしたのです。彼の哲学の基盤は「心的現象の学問」としての心理学であったのです。
 フッサールは、この人間の心を問題にした「心的現象の学問」を受け継いだ哲学者でありました。
 その結果として、人間の「自然的な態度」を反省する、「現象学的還元」の方法を確立したのです。「現象学的還元」は、「エポケー(判断中止)」と言いますが、人間が生活しているときに持っている【自然的な態度】を切断する方法です。
 現象学は、「真理とは何か」を問う哲学とは異なります。現象学はむしろ、「それが真であると確信されるのは何故」を問うための“方法論”です。ですから、美術制作にも、応用されるものなのです。
 「それが真であると確信されるのは何故」という設問ということが、分かりますか。
 たとえば、黄金比を使ったからと行って、作品が《芸術》になるというものではないのです。多くの人が黄金比に飛びつくのは、《芸術》になると思い込むからです。つまり「それが《芸術》であると確信されるのは何故か?」という問いは、難しいのです。
 草間彌生のカボチャの作品を見て、多くの人が《芸術》であると確信するのですが、それは何故か?ということを探求していくことなのです。私のやっていることは、そういうことです。その答えの1つは、「原始的な工芸作品」だからです。
 ということで、私は1970年の美術家共闘会議の闘争が敗北した後に、私が2代目議長になって、企画したのが、美共闘REVORUTION委員会という芸術運動の組織でした。そして、この現象学の「エポケー(判断中止)」を使った企画をたてました。つまり1971年の「1年間、美術館・画廊を使わないで展覧会をやる」というものでした。これが第1次美共闘REVORUTION委員会でした。
 そこで、私がやったのが、東京都世田谷の自宅の8畳間の畳の上に、ラテックスというゴム液を流す、《フロア・イヴェント》という作品でありました。
 さらに、第2次美共闘REVORUTION委員会が行われます。それは、1年間だけですが、1974年は「1年間、作品制作と発表を中止する」というものでした。これも現象学の「エポケー(判断中止)」を使った企画です。
 さて、1年間だけですが、作品制作と発表を中止するということは、なんなのでありましょうか。私自身は、この時は、以前の最初の妻の柴田雅子氏の実家である群馬県中之条の禅寺・林昌寺にやっかいになって、1年間引きこもっていたのです。
 この時に、堀浩哉氏は、密かにアトリエで、シルクスクリーンを刷る作品を、美術評論家の峯村敏明氏や、たにあらた(谷新)氏を招いて、展覧会として開催したのです。明確な、約束違反です。もう1人の山中信夫氏も、旧作の出品ですが、(東野芳明氏がコミッショナーを務めた北欧巡回現代日本美術展で)展示しています。
 実は、たった1年間ですから、作品制作と発表を中止するというのは、何でもないように思いますが、かなり大変だったのです。私自身も毎晩夢を見て、足跡が夢の中で途絶えるのですね。猛然たるプレッシャーがかかってきていて、「ヒコサカは死んだ、ヒコサカは死んだ」という声にうなされたのです。ですから、堀浩哉氏の約束を破る気持ちは良く分かります。
 でも堀氏の展示は、(田村画廊での「プリンティング・マシーン」展の)案内状で明記していた(第2次美共闘REVORUTION委員会の)取り決めの違反でしたので、少なくとも峯村敏明氏の不審を買いました。その分、彦坂に対する評価が上がって、翌年のパリ青年ビエンナーレに対する選考に対して、担当の峯村氏は、彦坂尚嘉を選ぶというという結果になったのです。

C『年表・現代美術の50年』の制作

 闘争が終わって、私は赤坂見附の刀根康尚先生の所に、毎日行っていました。
 理由の1つはフッサールの著作を読んでいたのですが、もう1つは、1960年代美術の総括を、刀根氏がやりたがったことでした。
 私の方は、日本の現代美術の歴史の年表を作ろうとしていました。それは日展粉砕闘争を総括した文章の中で、日本の美術史の把握の必要性に至っていたからです。
 現代美術といっても、当時は、今では考えられないほどに学術的な本はなくて、あったのは、岡本太郎の『今日の芸術』とか、針生一郎氏の『芸術の前衛』、学術性のあるのは、至文堂から出ていた『日本の美術』の中に、大正アヴァンギャルドをあつかったものがありました。海外の動向にしても、私が読んだのはバーバラ・ローズの『20世紀アメリカ美術』(美術出版社、1970年)、それと、講談社の『アート・ナウ』の全集の中の芸術論集(『現代美術の思想』高階秀爾、中原佑介編(現代の美術別巻)講談社、1972年)くらいでしたね。
 現代美術の歴史というか、大正以来の新興芸術の歴史というものを、把握する必要を感じていたのです。それは、ある終わりを感じていたからです。つまり1960年代美術の盛り上がりは、何かの終わりを予感させるものであったのです。
 『美術史評』という題名の同人誌を作ったのも、その意図からだったのですが、念のために言えば、『美術史評』という名前は私が付けたのです。とにかくそう言っておかないと、すぐに取られて、それは○○さんが書いていることですね、と言われるからです。別に私有しようとも思いませんが、私がネーミングしたり、論じたりする言葉を、平気で使われるのです。たとえば、ウィキペディアの『松澤宥』の所に、「美術評論家千葉成夫は著書「日本現代美術逸脱史」の中で松澤宥を「日本概念派」の重要人物の一人としている」とありますが、松澤宥を日本概念派と名付けたのは、私、彦坂尚嘉です。
 国会図書館に通って、年表の制作を始めたのですが、本を借り出すまでに時間がかかって、とても無理という結論が出ました。そこで、『美術手帖』から、各出版社にお願いをしてもらって、資料を一気に集めることを考えたのです。というわけで、企画を編集部に持ち込みました。刀根氏と編集長の福住治夫氏は、日頃から親しくて、編集の相談もしていました。
 それともう1人赤塚行雄(榧野八束)氏が、やはり1960年代の年表を作っておられて、この企画に合流してもらいました。私の記憶では、読売アンデパンダンが1963年に終息した後に、もう1度団体展を回って、作家をピックアップしようとすることを、この赤塚行雄氏や、石子順三氏がしていて、それでもって、モダンアート美術協会の柏原えつとむ、独立美術協会の松本英一郎、芸大の新表現派(稲葉治夫・高山尚・豊島弘尚・渡辺恂三・尾崎愛明・木村一生・針生鎮郎・松本英一郎)などをピックアップして、押し出していました。ただし赤塚氏の作っていた1960年代年表は、1つはノートに罫線を自分で引いているというようなマイナーなマニアックさがあって、それは同時に視点の狭さでもありました。
 しかし編集部の了解を取るための誘い水としては良かったので、これを持ち込むことで、福住氏の了解を取ったのです。頁数は38ページということで、始まりました。始まると、第1回目の編集会議で、私が強く出て、赤塚行雄氏を批判して、追い出してしまいました。よくはないことだと思いますが、私と刀根氏は、取り憑かれたように1960年代総括をしようとしていて、それは60年代を超えて、1916年まで遡るものになっていったので、団体展周りをしていた赤塚行雄との問題意識の差で、赤塚氏を排除せざるを得なかったのです。
赤塚氏も抗議すらしないで、去って行ったのです。こういう経験は、この後も、いろいろな形をとって現れて、多くの人が私から去って行ったのです。まことに寂しいことです。
 そのようにして、この1972年に刀根康尚氏と私が『美術手帖』編集部を、8ヶ月間もマガジン・ジャックしたのです。最初の1ヶ月は旅館を取ってくれたのですが、その後は、編集部を騙したということがばれたらしくて、旅館はなくなり、編集室で、普通の事務椅子の上で7ヶ月間も眠るという、文字通りの占拠状態で作業が進みました。編集部は、あくまでも38ページの規模で考えていたのですが、実際に作ったのは、8ヶ月間を費やして、400ページの規模になったのです。集めた資料は2000冊の分量で、ライトバンで6台分もあったのです。
 年表だけではなくて、この約1年の『美術手帖』の中で、いくつかの記事を刀根さんと私はつくりました。
 この前後、私の執筆は少なくないですが、『美術手帖』に限ってリストしてみると、美共闘に関しては、ペンネームの黒木臣三で「醒めよ「芸術家たち」 美術機構の解体を唱う運動体『美共闘』の主張」が『美術手帖』1969年9月号に掲載され、同じ号の針生一郎「時評・バリケードのなかの芸術/断末魔の近代」には、私や堀浩哉の名前は伏せられているのですが、編集長の宮澤壮佳さんは、後年に名前を載せるべきであったと話してくれました。それから『美術手帖』1971年3月号の特集「ポスト’70の表現思考」の論考、「戦略的後退期の終焉」、さらに『美術手帖』1973年8月号の彦坂尚嘉「集団の死」も美共闘について書いています。
 批評史的な仕事では、刀根さんと一緒に企画した『美術手帖』1971年3月号の特集「表現・状況/60年代美術はどう動いたか」、『美術手帖』1971年10月号の特集「集団の波・運動の波/60年代美術はどう動いたか」があります。集団の特集では、無署名ですが《具体美術協会》《九州派》《時間派》の解説を執筆しています。刀根さんとの共編「年表・現代美術の50年」上・下が『美術手帖』1972年4月号と5月号に400頁を超える長さで掲載。 そうした問題意識が拡大して、『美術手帖』1973年8月号に掲載された「閉じられた円環の彼方は……具体の軌跡から、何を」につながります。
 普通に美術大学を卒業して、美術家になるのが普通であるという、日本人の目の前に広がる、社会の存在を自明のこととして疑わない、素朴な日常的見方があります。この日常的な見方で、絵画を描いても、共感性はありますが、凡庸でしかありません。「日常的見方」という共感性に満ちた、この凡庸性を、「自然的な態度」と言います。
 つまり、美共闘の戦いから、『美術手帖』のマガジン・ジャックをするというのは、余計なことであっても、前科はないにしろ、逮捕歴を持つことは、日本の美術権力機構の中を生きていく日本の美術家としては、美術界の中での未来を失うことなのです。多くの学芸員を敵に回してしまって、公立美術館での回顧展もされないだろうし、文化庁主催の芸術家の顕彰制度である「芸術選奨」とか、毎日新聞社が主催する毎日芸術賞、新潮社の日本芸術大賞とか、等々こういう授賞の世界の外部に立つことになるのです。
 こうした脱落の経験を、フッサールの現象学の方法に重ねれば、それは、「エポケー(判断中止)」という方法によって、普通の日本の美術家が社会的に上昇していく日常性が停止されて、フッサールが言うところの「超越論的態度」へと移行したことになるのです。
 つまり日本の美術界の共感性によってつながった「世間体」の外部に出ることによって、むしろ「世間体」が覆い隠してきた創造性に満ちた日本美術の偉大性が出現したのです。
 つまり彦坂尚嘉というアーティストは、日本の素朴な日常的な見方を停止して、「超越論的態度」を生きていくアーティストになったのです。

D山中信夫の死

 山中信夫との結びつきは、私が現象学研究会をやっているという噂が流れて、山中はメルロ=ポンティの読書会をしているという話が聞こえてきて、それで会って、合併したのです。そのために、山中信夫氏は、多摩美大に入学金を払って入学しながら、1度も正規の授業を受けないままに退学することになりました。
 その結果、第1次美共闘REVOLUTION委員会に参加して、《川を川に映す》という作品を行いました。実現する為の支援を私は全面的にやっています。まず、上流の小さな流れに、映写機を持っていって、映すことをさせています。
 さらに、多摩川で行うときの、情報発信をするために近くに住んでいた美術評論家の東野芳明先生に連絡して、見に来てもらい、それを美術雑誌に書いてもらいました。
 この縁で、山中は、東野氏の推薦で、パリや、サンパウロでの発表に展開して、そしてニューヨークまで行ったのです。私も、その時はアメリカに文化庁の派遣留学でいて、無理矢理にフィラデルフィアに連れて行って、デュシャンの遺作を見せています。
 この頃作っていたのは、ピンホール・カメラの作品でしたが、私は自由の女神などの有名なものを撮影することを奨めました。
 この山中信夫は、ニューヨークでは坂口登氏のアトリエに居候をしていたのですが、そこで、足にできたおできを、医者に行くお金をケチって放置して、敗血症に悪化して、毛細血管に菌が詰まって、容態が悪化しました。同居していたアーティストたちが医者に連れていこうとして、そのアトリエの外部に付いたエレベーターの中に連れ出して、(そこで)死亡したのです。
 その知らせが、フィラデルフィアにいた私の所に連絡が来て、ニューヨークの警察の死体安置所まで行きました。遺体は、エレベーターで下から上に上がってきて、ガラス張りの水槽のような箱の中に登場しました。非常に立派な死に顔で、歌舞伎の役者のように見えました。大したものだなと、思いました。一緒に行った、坂口アトリエに同居していたアーティスト6人ほどは、顔をそむけて、山中氏の顔を見ませんでした。私は平気で、美形の山中信夫氏の顔を凝視しました。現実の事実を事実として直視できないで、アーティストをやってなどいられないのに、同居していたアーティスト6人は直視出来なかったのです。
 日本からはお父様と、弟さんがいらっしゃいました。一緒に棺桶屋に行きました。クリスマスのポインセチアの赤い花が沢山有る所で、高い高級棺桶がたくさん展示してあって、対応に出た人は、明るく話していて、お祭りの気分でした。
 火葬場を見つけ、日本の禅宗の立派なお坊さんを捜し、とにかく葬式の手配をして実行しました。篠原有司男さんをはじめとして、ニューヨーク在住のアーティストがお葬式に来てくださいました。
 噂では、山中氏が麻薬で死んだというものになっていましたが、それはデマです。もの凄い節約家でしたから、麻薬をやるはずがないのです。
 クリスマス間際のニューヨークで、小雪が降っていました。
 刀根康尚氏と相談して、山中の死を偲ぶ会を企画しました。お手本にあったのは、太宰治の『桜桃忌』でありまして、『暗宇忌』という名付け親は、刀根康尚氏ですが、7年間の企画全体を考えたのは彦坂尚嘉です。これを自分だけの手柄にしたのは堀浩哉氏でありました。

E李禹煥批判

 さて、大学がロックアウトされた後で、写真家中平卓馬氏の勧めで、矢田卓氏のところに、文章執筆の話が来ます。矢田卓氏は、「創戦」(創造的革命戦線)という学生組織を作って活動していたので、その経験のまとめを書くようにとの話だったのです。つまり全共闘運動が敗北に終わったときに、その経験や事実を書く必要があったからです。ですが、それを矢田氏は、断ったのです。
 それで今度は中平卓馬氏は、美術家共闘会議を作った堀浩哉氏のところに、総括の文章を書くようにと、話を振ったのです。これを、堀浩哉氏は、断ったのです。
 そしてその企画が、私の所に来たのです。どうせ彦坂も断るだろうというような予想の中で、私に来たのです。私は引き受けたのです。
 中平卓馬氏の指示を受けて、私が文章を書き始めると、その内容は、何とゴダール論であったのです。多摩美大に入ったときが1967年ですが、この年にゴダールの『気狂いピエロ』(1965年のフランス・イタリア合作映画)が、日本で封切りになって、私は熱狂したのです。続けて『ウイークエンド』(1967年に製作・公開)、そして『中国女』(1967年製作・公開)上映されて、これを連続して見て、評価した映画論を描こうとしていたのです。
 何故なのか?理由はわかりません。興奮していたからです。このあたりの映画は、メタ構造を使ったものでしたから、惹かれたのでしょうね。
 1度書き上げて、堀浩哉氏に見せました。堀は、私の親友であり続けたのです。読んでくれて、まったく何も、一言も言わなかったのですが、私は、書き直したのです。そして再び堀氏に見せました。読んでくれて、2度目も何も言わなかったのですが、私は書き直しました。こうして8回書き直して、内容は、いつの間にかゴダール論は消えて、李禹煥批判という題名になっていたのです。堀氏は、とにかく読んでくれたのです。何も言わないのですが、それでも私には読者であってくれて、親友でして、感謝しています。
 ワープロもない昔の原稿なので、手書きで書いていて、それをハサミで切り貼りして原稿を作っていたので、1枚の紙が3、4枚重なった分厚いものになっていました。
 まあ、李禹煥氏の一連の評論を読み、その言説に嘘を感じて、その批判を書きます。「李禹煥批判──《表現》の内的危機としてのファシズム」という文章で、400字詰め原稿用紙で80枚を執筆しています。
 内容は、この時代の様々なものに対する総括の文章であって、根底には、赤軍の浅間山荘事件を予感していて、その危機意識の中で書かれています。このファシズムへの予感と恐怖が大きかったのです。全共闘時代の崩壊期の、赤軍に雪崩れ込む危機的な病状を対象化する総括の文章でした。『デザイン批評』という雑誌に掲載されて(12号、1970年11月)その当時は読まれて、評価はあったのですが、今日では、こういう深刻な危機意識は、見えなくなってしまったので、読まれても理解されなくなりました。
 「李禹煥批判」と銘打ったのは、その当時は分析したり文章化できなかったにしろ、李禹煥氏に対する疑問です。
 私は、中学生から東京国立博物館で、国宝や重要文化財の作品を眼で暗唱してきた人です。大学生になると、関西に新幹線で通って、京都国立博物館、奈良国立博物館、そして大和文化館の名品を、一生懸命に見て、眼を鍛えてきていたのです。そういう私に取って、李禹煥の作品は、子供のお絵かきの水準に見えたのです。
 当時は、現在のように言語判定法を開発していませんでしたので、文章にして、李禹煥氏の作品が、子供の絵と同じ構造をしていることを論証することはできませんでしたが、その絵は偉大な名画と言えるものではなくて、正反対のものであったのです。
 付け加えると、李禹煥の「線より」シリーズの東京画廊での発表は、1973年だと思いましたが、このオープニングに私は行っているのです。ドアを開けると、すぐに李禹煥氏が飛んできて、「この作品は、実は古い作品で」というような言い訳を私に言ったのです。奇異に思ってその後、東京画廊の社長の山本孝氏に聞いたところ、この個展で李禹煥氏が準備していたのは、木の板に、ノミで突く作品であったそうです。
 山本氏が、李氏のアトリエに行って、2階のアトリエに階段を。トントントンと上っていくと、古いキャンバスペインティングがあったそうです。山本氏が、「李さん、これがよいではないですか!」と言って、この「線より」シリーズの新シリーズ制作が始まったと言うのです。
 同時に『美術手帖』(1970年2月)でのもの派の座談会「〈もの〉がひらく新しい世界」に対する深い疑いです。
 読んだときに、私は嘘の臭いを強く感じて、反発を持ったのです。私は、親の嘘の中で育ってきて、その嘘をあばくことで生き延びてきたという不幸があるので、根がねじれている性格で、人の嘘に敏感なのですね。
 実際に、雑誌が出て評判になった後で聞こえてきたのは、李禹煥氏が、事前に、発言の統一を図るために台本を用意していたということです。それに抵抗したのは、小清水漸氏1人であったということも。それで、私は小清水氏に何回か会って、食事もしながら、お話を伺っています。
 座談会の後に、ゲラが出た段階で、そのゲラ原稿に、李禹煥氏が手を入れて、発言を統一したという話も、当時の編集者からも聞きました。編集部内部でも問題になったそうです。そのために、雑誌が出版された後に、自分の発言を変えられたアーティストが反発して、このもの派のグループにも亀裂が入って、事実上は解散に近いものになったと聞いています。

第四章 日展粉砕闘争から逮捕
@日展粉砕闘争

 美共闘の最大の隊列は、矢田卓氏がリーダーで組織した創造的革命戦線の黒ヘル部隊200名でしたが、外部的には、これが美共闘の危険なアナーキスト集団のイメージでありました。まだ、確認していませんが、当時の新聞の三面に大きく掲載されて、美共闘の危険性が報道されたのです。しかし美共闘は200人もいないのです。せいぜい50〜60名です。機動隊には、この黒ヘル200の部隊はマークされて、あっという間に、蹴散らかされました。弱い隊列で合った理由は、女性が多くて、しかもデモの中心部に女性を入れていたので、機動隊と激突した時に、女性が「あ!」と言って、スクラムの手を上げてしまったので、デモの隊列は瞬間で総崩れになったのです。スクラムはしっかりと組んでいれば、相当に強いと言われていましたが、アンコ(つなぎ)が女性だったのと、そういう指導も訓練もなされていない即席部隊だったので、張り子の虎だったのです。
 日展粉砕闘争というのがありました。日展粉砕というスローガンは、実は強い政治的なスローガンでありまして、美共闘を目立たせる最大のスローガンで、噂では、JCIAこと内閣調査室が動いていると言われました。事実NHKが美共闘を取材にバリケードの中まで入ってきたのです。私が対応して話しましたが、テレビに出るのは、断りました。こんなことで、目立ってしまえば、それで人生が終わってしまいます。私には、全共闘運動というのは、たかがしれた暴動であって、革命前夜ではないということを、よく知っていたのです。
 その前に1969年の10月21日だったと思いますが(注:『朝日新聞』1969年10月20日朝刊によると10月19日早朝)、機動隊が多摩美のバリケードに入って、堀浩哉や宮本隆司など、美共闘の中心部分の部隊が逮捕されてしまったのです。それで、日展粉砕のスケジュールがあるのだけれどもどうするという話し合いになったのです。名前は忘れましたが、美共闘の部隊の中の全闘委のメンバーなどが反対して、日展粉砕闘争はやらないという決議を通してしまったのです。それで私1人で、美共闘の関係で各美大の関係があるので、そこにオルグに行って、80名くらいの部隊を作ったのです。
 どこでだったかは忘れましたが、総決起集会をやって、雰囲気的にはずいぶんと盛り上がって、作品を壊そうという人達が現れたのですね。その頃だと、中国の文化大革命の影響で、学生が興奮していたのですね。日展粉砕闘争も、「作品を壊そう」という主張に対しては、私は断固ダメであると主張して、もしも作品を壊して逮捕されても、救援対策はしないと脅かしました。だから、私は、現実主義によって生き延びたのです。実際に日展の作品を破壊していれば、私の責任は大きいので、アーティストを継続しては行けなかったでしょう。しかしそういう現実の計算だけではなくて、何よりも他者の作品を破壊してはいけないという、作家としてのモラルがあって、それを主張したのです。
 実際の部隊はたかが知れた数でしたし、出た警察の数は、私服を含めて数が多くて、部隊がつくれなくて、三々五々バラバラに美術館の中に入って、ゲリラ的に美術館の中でデモをやったのですが、すぐに押さえ込まれてしまいました。私も逮捕されて、まあ、ああもすうもなく鎮圧されたのです。逮捕といっても、チラシを持っていたので、それで押さえ込まれただけだったので、すぐに釈放されています。
 この総括の文章の中で、私は、日本の美術史を知らなければダメであると書いていたのです。この視点から、以後も作品も展開していくのですが、その意味では、曲がりなりにも闘争を展開できてよかったと思っています。

A逮捕される

 私が、警察に逮捕されたのは、桑沢闘争でした。
 桑沢デザインスクールの美共闘支部から、バリケードを作りたいので、支援してくれと言う話でした。バリケード闘争は下火になっていて、もはや季節外れのバリケードでしたから、止めた方がよかったのです。しかし止めろとは言えなかった。何故に言えないかというのは、難しいですね。その時の人間関係の機微でしょうね。何しろ美共闘にオルグしたのは、堀浩哉氏だったのですから。それが、いざとなるとバリケード闘争を止めろとは言えない。
 そこで私は、カッパブックスの新書版の易経の本を見て、10円玉6枚で易を立てたのです。前から、こういう10円玉での占いはやっていたのです。占いを迷信だと思われますが、易経は迷信ではなくて、チャンス・オペレーションを使った反省のシステムです。易経で占いをたてるのは、ジョン・ケージを刀根康尚先生に教えられる以前からでしたね。結果は、「桑沢闘争は失敗する」と出ました。やっぱりと、思いました。当たり前ですが、遅れすぎているのです。
 しかし、もうすでに美共闘の堀氏も、宮本隆司氏も逮捕経験があって、繰り返させると重罪になるので、この桑沢闘争は失敗すると分かっていても、一番臆病である私が指揮せざるを得なかったのです。私は危ないことは嫌なのですね。だから新宿で騒擾罪が発動された時には、新宿にも行かなかったです。デモに出て石を投げても、肩がありませんから、石は、機動隊まで届かないのです。デモに行っても、機動隊の指揮をしている車輌の上の動きばかりを見ていました。来ると分かると、誰よりも早くデモ隊を離れて、後ろも見ないで速く走って逃げました。そんな私ですから、逮捕されると予想できる桑沢闘争の指揮者の役を、逃げようと思えば逃げられたのですが、それはモラルに反することでした。モラルというのは、私には重要なことだったのです。モラルとは詩だったのです。詩が分からない人は、モラルの無い人なのです。モラルの無い人が、優しい人として、多くの人に好かれるのです。
 私は、それまで伸ばしていた髭を剃り、腰近くまで伸びていた髪を切って、サングラスを棄てて、顔を変えたのです。
 こういう変装のやり方も、子供の頃に読んでいた忍者の教えに書いてあったのです。私は『少年マガジン』や『少年サンデー』が創刊される前に光文社の『少年』を読んでいたのですが、そこに忍者の記事が沢山あったのです。いま考えると村山知義が戦後に書いた『忍びの者』から忍法ブームが始まるので、その影響かなと思いましたが、村山のは1960年ですから、私の中学生時代です。だからその前のものですね。そうすると立川文庫の流れですね。忍者の訓練の技法も書いてあって、その影響は現在の私にまで続いています。
 つり革をジーっと見つめて、集中するとか。列車の窓の外の流れる風景を見つめて、時間は流れ、環境も変わり続けるということを認識する訓練。暗闇の中で、手で触るだけでの、認識をしていく訓練。レコードのカートリッジを、安いのから、高いのまで買って、1枚の同じレコードを、違うカートリッジで聴くと、音楽が変わるのですね。これを聞いて、音楽評論家が聞いているカートリッジの種類を推察するとか……。
 逃げる時に付けひげをしても、すぐに付け髭とばれるから、普段に髭を生やしていて、逃げる時に髭を剃れば、関所で調べられても付け髭とはばれない。だから普段から髭を生やし、髪の毛を伸ばし、サングラスをしていて、いざというときに、髭を剃り、髪を切り、サングラスを棄てるという、教えを、私は忠実に実行したのです。
 桑沢デザインにバリケードを作ると、すぐに機動隊がでて、私は、参加した学生達を逃がしました。堀氏はその時も、「作戦会議をやろう」というようなのんきなことを言っていたので、私は遮って、逃がしました。
 堀氏が逃げるのと行き違いに熊の様な大きな機動隊員が1人入って来て、私は「抵抗しませんよ、抵抗しません」と言ってなだめて、巨漢の機動隊員に殴られることもなく、ケガをしないで逮捕されました。パトカーに入れられて渋谷署に向かったのですが、パトカーの外の夜の深い闇と光が散在する風景がきれいで、これは映画に使えるなと思いました。私は多摩美の映画研究会のメンバーでしたから、いつも映画を考えていたのです。
 1週間、名前も言わずに、完全黙秘を守っていました。ぶるぶると震えていて、恐怖で話せないという演技で押し切ったのです。腕に力を入れると、ブルブル震えるのですよ。社会の中で治安を守ることは非常に重要なことであって、そのために警官という存在は必要であると思っているので、「公務ご苦労さんです」という気持ちがあって、警官に対する反感は無いです。
 何しろ逮捕の勾留期間は23日と限られていましたから、時間を潰す戦いなのです。だから私は黙秘を続けました。私は拘置所にすぐに慣れました。なぜなら病院にそっくりだったからです。こういう所は、知っているという感じで適応したのです。留置場の中は、6畳間くらいで、そこに10人ほどいましたが、集団生活には病院で慣れていたのです。狭い場所に複数で閉じ込められ、雑魚寝ですが、これも苦になりませんでした。食事は麦飯でしたが、平気でした。
 犯罪者が留置されていて、その多くは泥棒さんでした。ジャズの好きな泥棒もいて、ジャズの話を聞いて、楽しかったです。もっともその頃は、私は、全くと言ってジャズは知らなかったのですね。知っていたのはアート・ブレイキーの『危険な関係のブルース』だけでした。小学校6年の時にフランス映画を見ていて、ジャズにしびれてSPを買って、繰り返し聞いていたのです。その泥棒さんのジャズの話は面白かったです。
 留置場での知り合いは、釈放されてからは付き合いませんでした。泥棒さんは、すぐにばれるということを計算できない人達で、一番泥棒しやすいところから盗むのです。ですから、友人にしては駄目なのです。
 私は、看守さんには受けていて、お弁当をもらったり、手を揉まれたりしました。中では接見禁止で、本も読めないはずなのですが、看守は私には甘くて、本が与えられて、官本の中に分厚い北杜夫の『楡家の人々』があったので、これを全部読みました。この読書は大きかったです。歴史書を書いている男の話ですが、細かく書くだけで、結局無意味な文章に終わってダメだったという話でした。
 弁護士は、「おまえはダメだよ。起訴される」といって、まったく、頼りになりませんでした。1週間たっても名前は割れなくて、取調官は、名前を言わないとお風呂に入れないよ、と言われたので、お風呂に入りたかったので、名前だけを言いましたが、私のことを武蔵美の学生と思っていたようでした。この「お風呂に入りたいので名前を言う」というのは、題名を忘れましたが北極を舞台にした外国映画で見ていて、そういうシーンがあって、それが好きだったのでマネをしたのです。
 東京地検には8回呼び出されました。普通は1回か2回だと言います。検事とのやり取りが続いたのです。テーマは「参加者の名前を言え」ということでした。私は「名前は言えません。それはモラルだからです。同志を裏切ることはできません」と言って、はねつけました。しかし、捕まったのは7人で、その中には矢田卓という多摩芸術学園のリーダー格の男もいましたが、彼も含めて私以外のメンバーは、私から指令がいったとしゃべっていたのです。このバリケード闘争は、私が張本人で、責任者だったのです。だから弁護士は、私は起訴されると分かっていて、見捨てていたのです。検事は「自分のやったことは認めるのか」と聞くから、「それは認めます」と言って、ロッカーに手をかけて倒したとかを話して、事実関係の調書を作るのに協力しました。
 さて、私は起訴されるだろうとあきらめていましたが、23日の勾留期限が終わると、私は釈放されたのです。起訴はされなかったのです。
 検事は、私がモラルを楯に、いっさいの他人の名前を言わなかったことを、評価してくれたのです。モラルというものは、検事すらも動かして、私は弁護士を越えて、私は私自身で自らの正統性を弁護して見せたのです。そして、逮捕されたメンバーが、全て、私の責任に押しつけたことを知っても、私は彼らを、一言も責めませんでした。全共闘の参加者は、みんな《象徴界》が無いゆえに、モラルはないのです。全共闘世代が、反戦の政治行動をしているから、それは《象徴界》の作動であると思っているかもしれませんが、左翼というのは、みんな《想像界》しかなくて、《象徴界》はないのです。したがってモラルもないのです。だから赤軍に流れ込み、浅間山荘での12人も殺すという粛正事件になったのです。

Bバリケードが終わって

 多摩美術大学から処分されたのではないので、簡単に言うと、バリケードの時期の1年間の授業料を払えば、大学に戻れたのです。まあ、しかし責任というものがあります。
 《放蕩息子の帰還》という聖書のたとえ話を、大学当局は体現して、多摩美大の深い憐れみを示めそうとしたのです。最初にバリケードを築いた反帝学評の学生は、大学に戻りました。宮本隆司氏も大学に戻りました。
 この《放蕩息子の帰還》という物語の主題は、神に逆らった罪人を迎え入れる神のあわれみ深さを示すものであったのです。放蕩息子は、神に背を向けた罪びとなのですが、その反逆を神は許して、神の深い憐れみの奥義が表現されるのです。多摩美大学当局は、神になろうとしたのです。私には、このハッピーエンドの結末が、息苦しかったのです。
 私がアーティストになったときは、アーティストは食えなくて、失敗するという時代でした。ですから、アーティストになること自体が怖かったのです。ですから、繰り返し考えて、出した結論は、最後は飢えて、路上で、釘で絵をひっかいて描いて、死のうという、覚悟でした。アーティストになるというのは、そういう死ぬ覚悟を必要とする時代があったのです。
 こういう考えそのものが、社会的には間違っていると思いますが、私の若い時代はそうであったのです。しかし時代は変わったのですから、社会的に成功するということを目標とする生き方に変わるべきであったと、いうことは言えると思います。社会的に成功を目指す生き方が悪いとは思いませんが、そうすることと、アーティストになって追究することには、微妙に差があるのです。
 一般人の美術家というのは、美大を卒業して、自明性の中を生きていて、決して日本の美術界という共感性でつながった世間体から脱落をしないのです。この私が「脱落したという地点」というのは、現象学研究会をやってきている私からみれば、「現象学的還元」の問題であったのです。
 さて、1980年代になると、彦坂尚嘉という存在が、なんとなくですが、左翼的なカリスマ性を帯びて来ました。これが私は嫌でありました。何よりも私は左翼ではなかったし、ましてや多摩美闘争のヒーローではありませんでした。むしろ思想的には、早い(時期の)右翼系のポピュリストであったのです。
 そうこうするうちに、美術評論家の峯村敏明氏を中心になびす画廊に集まっていた作家の黒川弘毅氏が、'91-'92年文化庁派遣芸術家在外研修員としてイタリアへ留学があって、そこで、当時多摩美術大学の非常勤講師であった黒川氏が、多摩美の講師の職を欠席するに際して、彦坂尚嘉がその穴埋めで、多摩美芸術学部の非常勤講師をやらないかという話が、多摩美教授であった峯村氏から来たのです。私自身は、これを引き受けることで、私につきまとってきていた左翼のヒーロー幻想を拭おうと思ったのです。
 多摩美に非常勤講師で戻ると、本当は、学生時代にかわいがってくださった鶴見雅之先生にご挨拶に行く必要があったのです。しかし挨拶に行けば、昔の縁がよみがえってしまい、それこそ、教授になるという進路が開けてしまう。それは私にはできないことでありました。私には、社会的な責任があって、それが多摩美の教授に就任してしまえば、バリケード闘争をして、その結果として多摩美教授になるということになり、あまりにも《放蕩息子の帰還》の物語になって、息苦しい。そういう道を選択すると、私自身は、死ぬだろうと思ったのです。その結果、結局、非常勤講師の段階で、精神衰弱になって、峯村氏に退職願を出したのです。峯村氏は、相当に大学当局との間で困ったようでありました。
 こうした背景があって、堀浩哉氏に、私の代わりに多摩美教授の話がいって、さらに、NHKがらみの仕事の話が行って、そこまでは、私は本人から聞いていたのですが、NHKの日曜美術館の話の方は、1回の出演で終わりました。ウィキペディアの解説などからもわかるように、運動の終息後は、東大全共闘議長の山本義隆氏もそして日大全共闘議長の秋田明大氏も言わば日の当たる場所では生きていない。ですから、私の方は、堀氏の出世に嫉妬するとか、羨望するということは、なかったのです。

C詩を書く

 アジビラといっても、私の書いたものは、「ぼくのために死んでくれるみなさんへ」という、まあ、詩ですね。アジビラすらも、詩であったのです。
 何故にこの詩が理解されないかは、私には分からないのです。私は、多摩美の文藝部に所属していて、菅木志雄氏の後輩なのです。菅木志雄さんの多摩美で書いた詩は、少なくとも『群鳥』という同人誌に載っていたものは全部読んでいます。「おしゃれは武装だ」とか、けっこう記憶に残っています。私も詩を書いていたから、アジビラも詩で書いたのです。詩というと、中原中也のような「詩的なイメージ」を思い浮かべてしまって、バリケード闘争とは相性が悪いのでしょうね。しかし誰も気がつきませんが、バリケード闘争自体が、詩であったのですよ。
 人格の中に《象徴界》があるということの、重要な機能は、詩です。私の才能は詩人であることです。だからモラルがあるのです。だから矢田卓氏は、最初に会った多摩美の全共闘を結成しようという会議で、私に大きな×を付けて、私を疎外したのです。この×を付けられたということは、私の記憶に深く残っています。私はバリケードの中でも否認され、排除され、差別されたのです。
 私は、渋谷署から釈放されると、大股で、飛ぶように歩きました。たいへん気持ちが良かったです。自由でありました。
 美共闘で闘って、警察に逮捕されて、起訴はされませんでしたが、日本の社会の通常の人生コースから落伍したのですよね。しかしその前から、私は生まれた時からこの世から外れていて、だから詩を書いていたのです。しかし詩人になろうとは思っていませんでした。
 詩人で大きな影響を受けたのは、谷川雁氏です。大学1年の時に、『日本近代詩人体系』というような文庫本を、端から読んでいって、谷川雁に引き付けられたのです。東京大学文学部社会学科卒の人ですが、日本共産党に入党して、政治運動をしていた詩人です。その難解と言われた詩に、私は感動したのです。さらに、評論集の『原点が存在する』と、『工作者宣言』に大きな影響を受けました。
 外国の詩人では、エドガー・アラン・ポーと、ライナー・マリア・リルケ、それにウイリアム・ブレイク、シェイクスピアです。私は、自分の好きな詩を読んでいたということであって、それ以上ではありませんでした。美術の場合には、好き嫌いを越えて、美術史を実際の作品で見る努力をしてきていますが、詩に関しては、それができていないです。学生の時に買ったのとは別ですが、『日本名詩集成』(學燈社、1996年)を買っていますが、しかしそこに収録されているのは、明治以降です。それ以前を、通しでは読んでいないのです。  多摩美術大学の文藝部に私が部員でいて、同人雑誌の『群鳥』というのを出していた関係があって、この同人誌の創刊者である柏原えつとむ氏とお付き合いしました。柏原氏は、先にもお話しした文藝部の先輩であった菅木志雄氏に紹介されて、お付き合いするようになります。もう1人重要なのは、戸谷誠氏で、かれは現在の制作を継続していて、NHKドキュメンタリーETV特集でも取り上げられた「ナイーブの画家」であります。彼からは、詩の書き方を多く教わっています。
 それと現代詩人では多摩美の姉妹校に多摩芸術学園映画科があって、そこから出て来た現代詩人が稲川方人氏でありました。バリケード封鎖に関与し除籍処分になっていますので、まあ、私にとってはバリケード仲間でした。
 あと、私に取って重要な詩人は、美術評論家の岡田隆彦氏で、ウイリアム・ブレイクを私が好きで、その関係でお付き合いいただきました。岡田氏の詩は良かったです。
 瀧口修造先生にも、作品を見ていただいたことがありますが、瀧口先生の『詩的実験』という本からは、大きな影響を受けました。非常に良い詩集でありますが、その凄まじい難解さについては、大好きではありますが、しかし深く考えました。
 美術評論家ではもう1人、建畠晢氏で、私は彼の『余白のランナー』が好きで、何故に好きかというと、私の好きだった谷川雁に少しだけ似ていたからです。それで版画詩集を作らせていただきました。『余白のランナー』には、長く関わったこともあって読み込みましたが、詩としては、《想像界》しかないものでありまして、軽いですし、意味構成を、厳密には欠いています。あと建畠晢氏の関係で、平出隆氏も存じ上げています。ハンサムな方で、身だしなみも良くて、詩もおしゃれで、しかし私には辛かったです。
 しかし、私の場合には、詩人の業界には、興味が無かったのですね。むしろ逮捕されて、警察から不起訴処分で釈放されてから、その自分が脱落した地点を、自分1人で考える作業が、3冊くらいかな、表紙の白いパンフレットを、1人でガリ版で刷っています。
 芸術作品を制作していくということ、そして美共闘で闘うということは、「自己を知ること」にあるのです。中学生で読んだキルケゴールの『死に至る病』の冒頭には、「人間とは何か? 精神である。精神とは何であるか? 自己との関係である。」と書いてありました。ほんとうは、その先があって、「自己自身との関係への、関係である」と言うのですが、このことが実は重要なのです。
 私の特徴は、大人のアーティストであって、この哲学的なメタの視点を生きて来ているということなのです。なぜなら私の親子関係は、私生児で、父親の名前も知りません。すでに最初のインタヴューで述べたように、その関係はメタフィジカルであったからです。私は『死に至る病』の冒頭を暗唱していたのです。だから、自分との関係を私は繰り返し問い返していたのです。それはフッサールの影響を受けていました。最初に読んだのは『現象学の理念』でして、そこの冒頭には、「自然的な態度の思考」というものに対する否定が書かれていました。その結果が、自宅の8畳間にラテックスを撒いて流して《フロア・イヴェント》になったのです。

終章 アナーキズム

 私の活動には。「アナルコサンジカリズム」的なものがあります。日本語で言えば「無政府組合主義」です、もともと多摩美のバリケードの中でも、ハーバート・リード(Herbert Edward Read)の『アナキズムの哲学』を読んでいました。私は、政治的にはアナーキストでありまして、後の話ですが、科学哲学者のポール・ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend)のアナーキスティックな見方に強く惹かれました。
 多摩美術大学に入る前の1965年ですが、肋膜炎が再発します。ここで入院して高校を休学するのは嫌で、それまで医学を志望していたのが挫折します。弟が重度の脳性麻痺で生まれたこともあって、医者になろうとしていて、千葉大学の医学部を目指していたのです。
 弟は、青山の日赤病院で出産したのですが、難産で、頭を鉄の道具で掴んで引きずり出したので、重度の脳性麻痺になったのです。とにかく、首も座らない状態で大きくなっていくのです。歩くことも、しゃべることもできません。しかし頭は良い子で、瞬きで、会話していました。だんだんと体重が重くなるので、抱っこすることも、食事を食べさせることも大変になります。こういうことで、私は、何度も布団の中で泣きました。いつもこの理不尽な運命の弟を思っていました。だから医者になりたかったのです。それが、結核が再発してできなくなった。当時はベビーブームで、受検戦争も過酷になっていました。ですから、そのまま医大受験を継続するのは無理という判断をせざるを得なかったのです。
 そこでの挫折で、自殺未遂をしています。そして、自暴自棄になって、遊び人になろうと思います。それで、美術への進学を考えたのです。内村鑑三系の無協会主義のキリスト教を離れて、初期仏典(中村元訳『ブッダの言葉』)と老子を読むようになります。それとマルティン・ブーバーの『孤独と愛』を読みます。さらにコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を読み、このシリーズを7、8冊読んで行きます。その結果として現象学の哲学者フッサールに行き着きます。こうして、中学で読んだキルケゴールから、フッサールに展開して行くのですが、さらにそれが1980年代になると、ジャック・ラカンになるのです。この過程に筋道があったことは先ほども言いました。
 私自身は、医者になろうという最初の意志は、挫折しても、そのままというか、医者としての態度が続いていきます。1つは自分自身への治療です。日本の美術史や、美術界も医者としての目で見る視点があります。世界史としての美術史、特に近代美術史についても、医者として見ている意識があります。モダンアートの中には、病んだり、未成熟の面があります。その根底には、小さい時からですが、近代という精神に対して、医者として疑いの目を向ける態度が、心の奥底にあります。弟が日赤病院で、出産の過誤で、重度の脳性麻痺になったということに対する怒りが、原因かもしれません。
美大進学をめざして、すいどーばた研究所の夜間に通うようになります。
 大学に入ると、前回に話した中学の時のクレー作品による挫折の経験から、多摩美術大学に入学して、1年のクラスの色彩訓練を一生懸命にやります。色彩訓練のマス目に透明水彩を薄く何度も重ねて確認、クレーのマス目の作品を作るように取り組みます。この後も、色彩の勉強は、ヨハネス・イッテン(Johannes Itten)の大型本『色彩の芸術』(美術出版社1977年版)を買って、勉強が飛躍的に跳ね上がります。
 このことは、木琴のようだと言われた色面のウッド・ペインティングの作品の制作に関連します。さらに西武美術館での「木との対話」展の直後の村松画廊での作品6点の内の1点が上手くいかなかったことから、日本色彩研究所が出している『JIS標準色票』を買って、本格的な色彩使用の展開になります。
 しかし色表を使った制作に関しては、「あなた才能無いのね!」という、侮蔑の言葉を、何人からもうけました。彼らは「才能」という言葉に、努力や学習、訓練を経ないものという意味を与えていたのです。
 しかし逆に藤枝晃雄さんや、藤原えりみさんからは、私の色彩のきれいさを評価されています。
 さらに高校時代に東京国立博物館へ通うことから、京都国立博物館と、奈良の大和文華館に通うことに変わります。なにしろ日本にいて、国際的なニューヨーク国立近代美術館や、メトロポリタン美術館、イギリスの大英博物館、パリにルーヴル美術館に行って、実物の美術を見られないのなら、どのようにして、国際的に通じる眼を養えるのかを考えたのです。海外に出られないのなら、日本にいて、日本の一番優れた美術作品を見て、眼の教養を育てるしかないと思ったのです。それには東京国立博物館では不十分であったのです。日本美術の最高の美術作品は、京都や奈良にあったからです。それで新幹線で、関西に行くことをくり返したのです。
 以上は、日本の古典の教養の学習ですが、現代美術の勉強では、クレーの贋作を作った体験では、『美術手帖』の連載で、白髪一雄の具体の連載を読むことにつながったのです。つまり吉原治良の教えである絶対に人のマネをするな、今までに無いものをつくれというテーゼに結び付くことになります。つかりクレーの作品の模倣を作って挫折した経験が、吉原治良の模倣禁止のテーゼを得て、ようやく理念として焦点を結んだのです。
 しかし当時の多摩美の学生は、『美術手帖』のこの連載を読んでいなかったし、他人の真似であふれていました。そして堀を初めとする学友は、私の作品を批判したのです。その要点は、私(彦坂)は、筆跡を残していて、汚いというのです。今は、コンプレッサーで吹いて、筆跡を消さなければならないというのです。
 そこで、私はそこそこの大きさのコンプレッサーを買って、白と黒の矩形の作品を作るために、白を吹きました。しかしどうしても満足しなかったので、1ヶ月間白を毎日吹き続けたのです。母と祖母は、私が気が狂ったと思いました。
 多摩美大の学友の模倣衝動を否定して、私は独自路線になっていたのです。
 こうした模倣の否定を、具体的な制作では、どのように成立させるのか? そこで大きな手がかりを与えてくれたのが、李禹煥の「表象作用の否定」という主張でした。これを言い直すと、《想像界》での制作をしないということになります。つまりイメージで制作を考えない。イメージの下の構造や方法からだけ制作を考える。この具体的な方法に影響を与えたのがロバート・モリスでありました。

富井:その前にたしか1969年5月ですか、バリケードの中で造形作家同盟というかたちで展覧会を開いてますね。

彦坂:そうそうそう。造形作家同盟展をやって。だからそれでもうほとんど僕の代表作は出ちゃったわけですよね。

富井:そうでしたね。

彦坂:ここでも重要なことは、バリケードの中での展覧会で、私は木とビニールを使って、原点の作品を生み出しています。
 富井さんは驚きましたけど、ニューヨークで(モリスの展覧会を)やった時も僕、見に行ったんですよね(注:「Robert Morris: The Mind/Body Problem」展、ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、1994年2月3日〜5月1日)。

富井:回顧展をロザリンド・クラウス(Rosalind Kraus)がキュレーションした時に、いらっしゃいましたね。

彦坂:まさか来るとは思わなかったって言われたんだけど。あれはだからとにかく実物を見ないとわからない展覧会ですよね。

富井:まあ、どんなアートでもそうですけども、ミニマル・アートはその最たるものですね、見ないとわからない。

彦坂:ましてやそのロバート・モリス自体は、何て言うかな、非常に大きな、現代美術の状況に影響を与えた作家なんですけれども、その時代で言えば。たくさんの人が彼をコピーして、模倣していった。モリスをコピーした日本の作家もすごく多いですけども。例えば李禹煥さんで言えば、李さんはロープを使ってますけど、あれはモリスの影響ですね。それから、手型を使うとか、指でフィンガー・ペインティングする人たちがいるけども、モリスの方が早いし。あと霧というか、水蒸気を使うのもモリスが早いと思うんだよね。日本の女性で、何かいるでしょ。

富井:中谷芙二子さん。

彦坂:うん。あれは全然、モリスの方が早いと思いますけどね。モリスのやつは綺麗ですよね。

富井:ちょっとモリスの霧の作品が今、思いつかないんですけども。

彦坂:うん、霧やってます。回顧展でも出品されていましたが、美術館の外の屋外で、地面から霧が、モア〜と立っていて、きれいでありました(注:Steam, 1967)。すごく綺麗ですけども、もちろん中谷芙二子さん(注:1970年大阪万博ペプシ館で「E.A.T.(芸術と技術の実験)」に加わり霧の彫刻を制作)よりも早いです。まあ僕は、モリスは綺麗なものたくさんあると思いますけれども、ただモリスっていう作家が、つまり何て言うかな、残るかっていうか、その、難しい作家ですよね。彦坂のも難しいって言えば難しいですけれども。

富井:彦坂さんの方が簡単でしょう、モリスに比べると(笑)。モリスは難しいです、展開が。

彦坂:そうですね、難しいですね。だから回顧展、実物見ないと、ちょっとあれをカタログ買うくらいでは、全然わからないっていうことがありますよね。

富井:回顧展を見てもわからないんですけども(笑)。

彦坂:うん。そう。だからそれでミニマルの影響を受けていて、だからバリケードの段階でやったことは何かって言えば、それで結局、基本ですけども、それはバリケード以前に、簡単に言うとキャンバスを張るっていうか、それは文字通りミニマリズムの影響で還元主義になってくるわけですね。それで単純にもうシンプルになって、つまり白の中に黒い矩形を描くっていうのを何種類か作っていて、それでさらに簡単に言えばキャンバスを張るだけでいいんじゃないかっていう問題になっていって。それでまあ最初は模様のついた布を張るっていう作業とか、そういう作業になっていって。それが今度は張った布の向こう側の少しキャンバスは薄い厚みがありますから、その向こう側にフォルムを入れたりとか。それも小さな作品だけです。小さいやつだけだけどつくっていって、それでまあ点数つける。その毎週の提出作品で。それはだから鶴見(雅夫)さんに出していて、いつもAをもらっていて。それで結局、透明ビニールを木枠に張ればいいのではないか、という問題になるわけですよね。まあ、その後で言えば透視の画面だけに還元していってるということなんだけど。その時に、還元したんだからそのままにしておけばいいのに、後ろに何か見えるはずだって考えるわけだよね。

富井:それが彦坂さんの面白い所ですよね、いつも思いますけれども。だから還元主義が、次はマキシマリズム(ミニマリズムの対極にある過剰さ)に行く、そのスイッチみたいなものがあるんですよね。彦坂さんの中で、還元主義だと、ミニマリズムでしょう。

彦坂:うん、だからそういうことですね。まあだから実際にそこの向こう側に何が見えるんだろうって言った時に、板壁が見えるという風に発想して、それで木で作った。作っちゃうわけだよね。それはだから何なのかっていうのは、だからみんなは私が木を使うと、例えば椹木野衣さんが、単純に日本主義だって言って批判するんだけど。まずそれは事実誤認であって、レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の《モナリザ》も、あれは木の上に描いているんで、あれは板絵ですからね。木の上に描くというのは、だから(古代の)エジプト以来ですから。エジプトのお棺っていうのも、蜜蝋で描かれたペインティング、初期のペインティングで。

富井:アイコンもそうですよね。聖像。

彦坂:だから木の上に絵を描くなんてことはざらにあることで。僕はだから小学校1年の時の最初の油絵は、木の上に描いているので。スケッチ版自体がそうなので。それとまあとにかく病気で、杉板の天井を延々見続けるっていうのがあって。
 だけど、それから僕が結局大きな影響を受けていく、エックハルト(Meister Eckhart)というのは、「木目を見れば木目になれる」って言って異端審問会にかかるわけですね。
 その場合の「木目を見れば木目になれる」っていう意味は、「神を見れば神になれる」っていうことを言っているわけだよね。だから「木目を見れば木目になれる」と言うのね。そういう「木」だから、その場合の「木」って何なのかって言った時に、結局現在の彦坂尚嘉の格付けだと、この間の南相馬の壁画の時にも出て来るんですけど、木のログで作った家と、金属のプレハブ住宅だと、プレハブ住宅は6次元なんですが、木で作ると、1流から6400次元まであるんです。それは普通に見比べても、圧倒的に居住性が高いわけですよね。だから「木」っていうのは、単なる木という問題ではないんですよ。つまりそれだけの分厚い、人間の心的世界を持っている分厚さというものがあるわけで。それを薄くしちゃうわけですね、文明というのはね。その分厚さの確保が、回復の問題なわけですよね。

富井:それが「木」なんですね。

彦坂:うん。