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石原友明オーラル・ヒストリー 2008年10月12日

京都市立芸術大学油画研究室にて
インタヴュアー:池上司、牧口千夏
書き起こし:友枝望
公開日:2012年1月9日
 
石原友明(いしはら・ともあき 1959年〜)
美術家
京都市立芸術大学在学時に京都と東京の美大生が共同で企画した展覧会「フジヤマゲイシャ」や「イエスアート」などに参加。1980年代に関西を拠点に活動する若手作家が注目を集めた「関西ニューウェーブ」を代表する作家の一人。1988年ヴェネチア・ビエンナーレのアペルト展に参加し、写真によるセルフ・ポートレートのインスタレーションを発表。これまで写真や点字、小説などさまざまな技法や素材を用いて、セルフイメージ/フォルムについての考察、また写真が発明された近代以降の視覚のあり様やスペクタクルの装置をめぐる作品を発表している。インタヴューでは、小学生の頃開催された大阪万博に夢中になったこと、森村泰昌や松井智惠ら同世代作家との大学時代の交流関係やアーネスト・サトウの写真の講義の思い出、さらにヴェネチア訪問時のエピソードや国内の美術館での個展の経緯、自作のコンセプトなどが明晰な論理と言葉で語られている。インタヴュアーの池上司は2004年に開催された西宮市大谷記念美術館での石原の個展を企画・担当した。

池上:今日はアーティスト・インタヴューということで、先生の生い立ちから現在の活動までをお伺いする第一弾であります。先生は大阪ご出身ですよね。

石原:はい。

池上:大阪のどちらの。

石原:大阪は生野区です。

池上:はい。前にお伺いした。

石原:市内ですね。はい。

池上:1959年にお生まれですけれども、ご家族と言いますか、ご家庭はどのような感じでいらっしゃるのでしょうか。

石原:ごくごくというか、一般的な自営業の4人家族ですね。兄がおりますけれども。

池上:お二人兄弟。

石原:そうですね。あとは、ちょっと変わってることと言えば、祖父の代からですけれども、伝統工芸的な家業をやっておりますので。

池上:自営業というのが、その伝統工芸。

石原:そうです。伝統工芸、座敷机の製造業なんですけども。

池上:座敷机。

石原:はい。紫檀とか黒檀とか。そういうやつの、机を中心にそういう家具の。何となくある、昔からあるわけじゃないのかもしれないですけど、戦後になってから大阪の伝統産業の指定を取ってたので。そういうもんなんでしょうね。

池上:じゃ、今でも代々。

石原:いえ。代で終わりましたけど(笑)、父の代はね、ほとんど職人さんもいらっしゃらなかったりとか、施主もあんまりなかなか売れないと。なにより、紫檀とか黒檀が原料ですので、国内で採れない木を原料にしている伝統産業なので、そういうのがほとんど輸入禁止。原材料でも輸出しなくなってるんですよ、採れる国が。皆、自国でもちろん製造して、出荷するようになってますので。材料自体がほとんど手に入らなくなってましたので。父の代で一応、ある程度使い切って廃業したという感じです。

池上:材料をいろいろと。

石原:はい。

池上:そうですか。お兄さまは。

石原:兄は会社員です。

池上:そうですか。

石原:私と違って、人に役立つような会社員です(笑)。

池上:昔の記事を見ていますと、サラリーマンになりたくなくって。

石原:そうですね。兄は真面目なサラリーマンで、僕はちょっとサラリーマンに向いてないというか。言われた通りにすることが難しい、高校生活や中学校生活を送っていたので(笑)。

池上:高校の時は、普通の高校という感じで。

石原:そうですね。それもちょっと違うことがあるとすれば男子校ですね。

池上:特に美術科があったりとかは。

石原:もう美術とか全然ないとこなんです。だから、進学校で、むしろ。そういうことが、美術関係とか全然ダメな学校ですね。

池上:そうですか。高校の頃は何をされてたんですか。

石原:高校の時は。

池上:スポーツとか。

石原:高校はあんまりスポーツは、高1まではテニス部にいたんですけど、6年間一貫なので、中学から高1までテニスをやってましたけど。あとは、バンドなどをやっていました(笑)。

池上:そうなんですか。ロックなバンドを。

石原:そうですね。

池上:ちなみに、何をされてたんですか。ギターですか。

石原:僕はベースです。

池上:ベースですか。

石原:ロックなバンドとブルーグラスというすごくマイナーなジャンルのを。

池上:ブルーグラス。

石原:はい。カントリーの一ジャンルですけど、そういうものをやってました。

池上:じゃあ、ウッドベースとかあったり。

石原:うん両方、ウッドベースもエレキベースもですね。

池上:今でも弾かれるんですか。

石原:今はもう全然。楽器も友人に譲り渡して。すっかり。

池上:そうでしたか。ちょっと意外な(笑)。

石原:いやいや、僕らの世代では普通というか。

池上:あ、そうですか。

石原:ほんとに、ずっとロックが発展していく時期やったんで、ついつい。

池上:というと70年代。

石原:そうですね。59年生まれなので。70年代に、次々新しい音楽がでてくる時期だったんで。幼少期にビートルズ的な。

池上:そうか。幼少期ですか。藤本(由紀夫)さんなんかも、ちょっとね。

石原:藤本さんはもうちょい上です。だから、もうちゃんと判断力がある状態でビートルズ聴いてはるんですけど、僕らは判断力がない状態でラジオで歌謡曲と並列にビートルズとかを聴いている(笑)。

池上:僕なんか、あれです。さらに、親の代が懐かしがってまた聴いてるやつを判断力がない時に(笑)。

石原:判断力がないまま、次はこれだよって先輩とかラジオのDJに言われると、そうなのかと思ってしまうような、そういう感じの(笑)。次々と。

池上:でも、芸大をそもそも受験されたっていうのは、バンドからどういう展開で。

石原:いや、バンドからというかね。やっぱり、子供の頃から絵を描くのが好きだったので、好きなだけで上手くはないんですけど。何か仕事……仕事っていうか、ものすごく僕美術が好きで、ずっと美術をやり続けて美大に来たっていうタイプというよりは、ある時期は音楽が好きだったりとか、そういう時全然絵描いてなかったんで。むしろ、美術部にその後入ったんですけれども、美大受験のために入ったんですよ。

池上:そうなんですか。

石原:方法が分かんなくって。身の回りの先輩にうちの高校だと、そういう人がいないので。どうしていいのか分からなかったんで、美術部に入ったんですよ。美大に行きたかったので美術部に入って。それで受験勉強をして。その時に初めて油絵を描いて、みたいな。ですから高校2年ですよね。油絵初めて描いたのって。

池上:じゃあ、その時に、ふと、やっぱり絵が好きだから描きたいからって。

石原:そうですね。もの作るの好きなんですよね。多分それは、高校中学でどうっていうより、ちっちゃい時に、その、家にというか、職人さんがいっぱいいたんで、そういう物を作る現場をずっと見てたんで。何か物作るのが楽しそうに見えていたんでしょうね。きっと。今から思えば。

池上:なるほど。仕事のように。

石原:そうですね。何か魔法のような。子供には魔法のように見えるんですよ。唐木机っていうのは、側面にいろんな華だの龍だの、彫り物があるんですけれどね、装飾的な。あのちょっと中国風なので、必ずしも和風な良き趣味の物とはいえないんですけれども、こてこてと。彫り物は、脚に彫り物があったりするんですけど、そういうものの職人さんがいらっしゃって、子供で遊びに行って、側で見てるのがすごい好きだったんで。見てると、何か小さい木片のかけらでね、サーッと、こういう手彫りのじゃなくて、当時歯医者さんが使う、歯科技工士が使うようなルーターというやつを使って、細かい彫りも全部やるんですけど、小さい木片にシャーって彫って、目の前であっという間に、熊とか般若とか彫ってくれるんですよ。それが魔法のようで。

池上:下絵もなしで。

石原:下絵もなしで、いきなり彫って、般若だの熊だの、何かそういう物をちょっとずつ彫って、「はい」ってくれるんですよ。それがもう本当に魔法みたいですよね。

池上:その機械とかは触らせてもらって。

石原:それは危ないので、触らせてはもらえないですけど(笑)。

池上:なるほど。

石原:でもそういうのとか、いろんな、そういう作業を間近で見ていると、非常に後では、そういうのに多分影響を受けていたんでしょうね。

池上:先生は子供の頃、70年代ということで、(大阪)万博とかはまだ小さかったですか。

石原:もう、ものすごい万博好きでした。

池上:そうですか。

石原:大阪にいたので。

池上:何回も行かれたんですか。

石原:何回も行きましたね。

池上:ご家族で。

石原:家族でも行きましたし、誰か親戚が行くだの何だのがある度に、連れて行ってもらって、付いていくんです。とにかく万博に行きたいので。

牧口:何があるんでしょう。

池上:何かあの頃って、結構、親戚が関西にいる人のところへ全国から来るような。

石原:何かある度に、万博に付いていって、行きましたから。多分10回以上は行ってると思います。それは本当に、物を作るようになって、もう一つの原点ですよね。多分。制作を始めたもう一つの原点は万博体験だと思います。

池上:どの辺が一番印象に残ってますか。建築とかですか。

石原:あのね、未来ですね(笑)。あそこにある未来。あそこにある未来の姿です。建築もそうですし、人間洗濯機とか。

牧口:はいはい。

石原:そういう、あそこにあった未来の姿ですよね。特に、あんまり皆言わないんですけど、僕はすごくペプシ館というのが好きで、印象深くって。

池上:外観しか知らないな。

石原:ペプシ館。後で、こないだたまたま別に、それこそ今の(京都芸大創立)130周年の(展覧会)(注:2010年開催予定。石原氏もプロジェクトチームに参加している)で、あのE.A.T.っていう、アメリカのあの、ペプシ館を企画したグループのことで、ちょっとたまたま話題にでることがありまして。中谷芙二子さんとかが霧をペプシ館の周りにぶわーって出すんですよ。いろんな美術の人たちとか科学者とかが集まって、ペプシ館っていうのをやってたんですけど、そこの周りで、丸いドーム型のロボットが、うにょうにょって動いてて、観客がポンって触ったら向こうへ逃げていくみたいなのがあって。中に入ると床を、端末を渡されて、耳で聞きながら(歩く)。(聞こえてくる)いろんな音が、そういう音楽家の人たちとか音響の人らがやってるんです。床を歩いていくと音がどんどん変わっていくっていう、すごいインタラクティヴな装置。実験的なものとか映像とかが全部、観客とインタラクティヴな格好でやるのがあって。それは、すごく子供心に面白かったですよね。その装置渡されて、インタラクティヴにできるのが、すごい面白くて。

池上:そういう、装置的な物というか、そういう機械的な物とか。

石原:そうですね。何か秘密兵器を渡された的な感じなんですよ(笑)。何かスパイの秘密の(笑)。当時ですから、スパイ手帳とかも普及してたんですけれども(笑)。あの、『007』の秘密兵器的な物であったり。そういう映画のレーザー光線銃であったりとか、そういうような物を渡されたみたいな感じなんですよ。すごいものを、手渡されて。

池上:秘密っぽい感じですかね。ペプシ館ですか。

石原:ペプシ館でね。でも、本当にああいう建築、後で分かったメタボリズムの建築にはものすごく惹かれてましたよね。絶対ああいう風に家はみんななるって思ってたんです。ユニットで有機的に組み合わせていって。機能的なパーツをユニットで組み合わせていって、家ができるようなものが絶対出来るんだろうと思って。

池上:大人になる頃には。

石原:大人になる頃には、多分そうなると思って。そういう未来ですね、まさしく。ですから本当に、つい最近、ついつい漫画も読んでたんですけど、『20世紀少年』(注:浦沢直樹著)という漫画と映画がですね、本当に僕の世代なんですよ。自分の体験を半分そのまま。あの頃の子供の感覚っていうのは本当にそのまんま、自分の感覚ですよね。ウルトラマンとか円谷プロのイメージで育って。それより以前には、ずーっと手塚治虫ですよね。手塚治虫にもはまって、絵描き出した最初の体験っていうのは、とにかく手塚治虫なんですよ。

池上:最初真似して?

石原:アトムを描く。

池上:あれ難しいですよね。

石原:難しいですね。実は。だから、初めから僕らの、僕の絵の体験でいうと、初めから立体を見て平面に描くという、トラディショナルな美術ではなくて、平面を平面に複写するっていう美術体験から始まっているので。とにかくアトムを上手く描けるかどうかが、その頃の子供にはすごく重要だったんで(笑)。

池上:なるほどね。そうか。

石原:その万博世代って言われるものなんだと思いますよ。多分。アトムを見て、テレビでは円谷プロを見て、万博行って。で、月着陸の映像を見て。

池上:未来を感じて。

石原:未来を。一方では、こう、あさま山荘(事件)とか(東大)安田講堂(事件)。安田講堂(事件)の生中継(注:1969年1月)を、月着陸をドキュメントで見るのと同じ感覚で、ずーっと食い入るように見てるんですよね。で、初めて見た衛星中継がケネディ大統領暗殺(注:日本時間1963年11月23日)なんですよね。そういうものがすごく子供の体験で大きくて。だから、月着陸とか安田講堂とかって、僕にはわりとよく似たものとして捉えてて。大人になると皆高い所に登るんだと。皆高い所に登って、何事かを主張するのが大人なんだ。

池上:メタボリックな。

石原:そうそう。万博で高い、太陽の塔もそうなんですけど(笑)。あさま山荘でも、何でも高い所に登って、あんなに周りからものすごく狙われる場所にいて、犯行をするのがよく分からないんですけど(笑)。

池上:太陽の塔にもね。

牧口:いましたよね。

石原:大人になれば高いとこに登るんだ。そういう、高度経済成長期だから高い所に登るってね。きっと。

池上:なるほどね。

石原:あれは良くも悪くも、ものすごい影響を受けましたよ。そういう、周りの文化に。

池上:風景も、ばんばんに大阪市内だと変わってきましたでしょうね。

石原:そうですね。変わってきましたし。万博も知らない間にその後で、それは現代美術だったんだというものを、いっぱい、イベントと現代美術を区別なく見てたので。

池上:そうですね。そういうパヴィリオンって、何か企業がやってたりとかしてて。展覧会って感じではないけれども、いろんな、やっぱりジャンルの人が。

石原:あの不気味な音は(ヤニス・)クセナキス(Iannis Xenakis、1922−2001)だったのかとか。そういうことは後で分かるんですよ(笑)。(注:大阪万博で現代作曲家のクセナキスは「ヒビキ・ハナ・マ(響き、花、間)」(1969年)という多チャンネル360度の再生装置を伴う電子音楽を発表)

池上:そうなんだ。

石原:あのモコモコしてたのは、具体のあの人だったとか。(笑)

池上:また、あのスパンコール(《スパンコール人間》、元永定正)とかですね。

石原:あれは横尾忠則だったとかね(笑)。そういうことが分かっていくんです。

池上:その辺が未来になるかなと思ったら、現実に受験とかで、最初は油絵ってどういうのを描かれました。本当に?

石原:風景ですよ。受験勉強で風景とか静物とか、油絵の技術に慣れるために。

池上:デッサンとかもその頃。

石原:デッサンとかもしましたね。石膏とか描いて。

池上:そのままこちら芸大には、ストレートで、ポンと入られて。

石原:たまたまですけどね。

池上:そうですか。

石原:京都芸大に通ると思ってなかったですし。現役では通ると思ってなかったので。

池上:他にはどこか受けたりとかされたんですか。

石原:多摩美(術大学)とか東京の私学を受けてて、そちらに行くつもりだったんですよ(笑)。

池上:そうなんですか。

石原:そちらに行くつもりだったんですけど、それはこっち通ったら、学費が安くて下宿代もかからないので。

池上:通ってられたんですか。

石原:通ってました。大阪から。芸大がこの片田舎に移転するまでは通っていました。

池上:そうか、そうか。

牧口:そうですね。まだ京都市内に。

石原:(東山)七条にあった時代、3回生まで向こうでしたから。

牧口:そうなんですか。ちょうどじゃあ移転の時期に。

石原:そうですね。ちょうど移転の最中。

池上:移転に際して何か組織的に変わったりとかってあったんですか。

石原:いや。単純に管理が厳しくなって。前の大学ではやっぱり学生運動の名残で、ものすごく自主管理なんですよ。学生が皆泊まり込んで、学生が警備員をやって、自主管理してましたから。そういうのが、ちゃんとした警備員さんが来るようになって、学生の自主管理じゃなくなって。

池上:じゃ、最初入られた頃は、ちょっと自由な雰囲気というか。

石原:そうですね。大学は独特の、昔の蛮カラなものからそういうのに移り変わる学生運動の名残もあって、そういう時期でしたね。むちゃくちゃやったですからね。今だと許されないようなことが、いろいろと。もう毎年急性アルコール中毒で皆、救急車が。新歓コンパのたびに救急車が学校に来てましたし。当時は学祭のたびに、仮装行列というもので、七条から市役所まで練り歩くんですけど。

池上:公道を歩くんですか。

石原:公道を歩くんですよ。皆、ものすごいむちゃくちゃなことをするんですよ。下世話な下ネタの山車をいっぱい作ってですね、皆裸で。まぁその当時皆、舞踏とかそういうものにも影響受けてますんで、裸になって全身金粉塗ったりとかするんです。そういう人らが公道を練り歩いていたので。当時の記憶ではいつもそういうものの後に、翌日か、翌々日の京都新聞の投書で、市税を使ってこういうことをしているのが非常に情けないというような投書が載っていたように思いますね。

池上:先生はそれに参加されて。

石原:参加しましたよ。1回生なんか参加させられるでしょ。自然に(笑)。

池上:そうか。じゃ金粉も。

石原:それはやってなかったですけど(笑)。あるクラブの人は金粉で、フンドシで、みたいな感じで。

池上:なるほど、クラブ。

石原:クラブ単位で、そういう出し物。

池上:クラブ入られていたんですか。

石原:当時って、どうしてたんやろうな。僕また、それもテニスに戻ったんですかね。

池上:前は、テニスやってたんですか。

石原:前は中学テニスやってたんで。結構好きで、またしばらくそういうことやってなかったんで、大学に入って。何かものを作ったりするのは学校の授業で僕はするので(笑)。こっちはこっちで運動もいいかなと思ってやったんですけど。サッカーとかテニスとかやってました。クラブで。いいかげんだったので(笑)。二つのクラブに所属してて。

池上:あっち行ってこっち行って。でもその、大学はご専攻というのがデザイン科ですか。

石原:デザインですね。はい。

池上:それは、1年生入られた、入学された時から。

石原:そうですね。デザインですね。

池上:なぜ、デザイン科かと?

石原:就職があるからと思って(笑)。すごい下世話な理由なんですよね。

池上:サラリーマンになりたくないと(笑)。

石原:なりたくはない、というか、ものを作ってそれで生活していこうとは思っていたんで。

池上:なるほど。仕事の内容がクリエイティヴな。

石原:はい。ですから、実は受験の時に、すごく二つの進路で迷ってて。一つは調理師専門学校に行って、それも中でまた迷っていたんですけど、調理師になるということと、もの作って生活していく、その二つのどっちかにしようと。調理師専門学校の方では、お菓子をやるか、日本料理をやるかで迷ってたんですけど。

池上:何かちょっと「アーティー」な方面ですね(笑)。

石原:いや、何か僕、肉食べないので。

池上:はいはい。

石原:好き嫌いで、肉好きじゃないので。

池上:昔からですか。

石原:それでまた、お酒が飲めないんですよね。肉食べなくてお酒飲めなくてフランス料理はないだろうとか。そういうのもあったんで。魚は好きだったので、まだ和食かなと思って。子供の考えでよく考えたなって(笑)。日本料理なんて、酒飲めないと不利だろうと思いますよね(笑)。

池上:お菓子とか、すごいちょっとアートに見えますよね。

石原:その辺も、自分の食い物の嗜好の関係で、お菓子がいいかなとか。すごい安易な考えだったんですよね。

池上:そのデザインっていうのも、言ったら手に職というか。

石原:うん。何かものを作ることで、それが仕事になる、近いものがデザインなのかなと。ジャンルのことはよく分かってなかったので。そう思っていただけなんですけどね。

池上:実際入られてから、想像されてたのと大学の授業内容っていうのは、違ったりしたんですか。

石原:そんなに想像してなかったというか、美術に対するイメージがそんなに強くなかったので。

池上:美術、ファインアート。

石原:ファインアートに対するイメージもそうですし。美術教育とか、こういうことを学ぶんだろうという。美術部も本当に間に合わせで入って。ほとんど二、三人しか部員がいないようなクラブだったので、高2から入ったにもかかわらず、すぐ部長になったので。(笑)どんないい加減なとこなんだって。「美術はこうするんだよ」みたいな先輩とか、そういう先生とかがいなかったんですよ。

池上:いなかった。じゃ、こういう作家がいいぞとか。

石原:そんなん、全然なかったです。

池上:じゃ、あんまり基本的にそういう……

石原:予備知識全くなく美大に来たんです。逆に言うと、受験勉強しか美術知らないで来たんですよ。

池上:面接でそういうこと聞かれたりしなかったんですか。

石原:いや、面接ないんです。

池上:なしですか。

石原:今でもないんですけど。とにかくそのデッサンなり、色彩なり、立体なりっていうのを実技で一生懸命やって、それで学科もやらなきゃいけないですけど。むしろ、もう学科ほったらかしで実技ばっかりやってましたね。それはそれで、受験勉強が楽しかったんですよ。高校では劣等生だったので。予備校に高2からずっと行ってたので。予備校に夜、学校が終わってから行くんですけれども、そっちの方が楽しいんですよ。勉強しなくていいんで。絵ばっかり描いてていいですし。ずっとそういうのを、高2、高3とやって、そのまま行ったので。予備校での美術しか知らないんですよ。

池上:その予備校の美術と、大学の授業の美術っていうのは。

石原:それはもう、全然先輩の作ってるものとか、全然違いますしね。実際入って初めて、そうですね、コンセプチュアルなものとか、もの派、特にもの派的なものですね、ていうのに入って初めて触れたので。

池上:どんな感じに、受け止められましたか。

石原:すごいなって思いましたよね。何か僕は単純に肯定的にショックを受けました。ちょうど僕が予備校の時の習ってた先生が、京芸の学生でいてはったんですけど、今造形大にいらっしゃる松井利夫さんという人がいらっしゃって、それが僕の予備校の先生なんですよ。学校入ってきて、また遊びに行ってたりしてて、松井利夫さん当時陶器だったんですけど、もう八木一夫先生がいらっしゃる頃の陶芸なんですが。陶器なんですけど、もの派的な仕事をしておられたんですよね。陶器で角柱みたいなものを大量に作って、それをインスタレーションしていって、土そのまま置いてたりとか、そういうふうな仕事をされていたんですけど。その展覧会を見せてもらったり、制作現場見せてもらったり。あと、連れられて、八木一夫先生の個展に連れて行かれたりとか。

池上:高校生の頃。

石原:いえいえ、大学入って。1回生の頃ですね。大学には小清水(漸)さんもいらっしゃって。非常勤だったと思うんですけどね、当時。小清水さんもいらっしゃって。それは、京都の学生なら、とギャラリー16なり見に行くわけですよね。やっぱり見に、そんなんで先輩に連れられて、ギャラリーの場所を一通り教えてもらって、自分で回るわけですよ。(立体ギャラリー)射手座なり、16なり、(アートスペース)虹なりって所に行って。やっぱり当時16で見た小清水さんの作業台の、水を張ってある作品を出されたんですけど。それも、すごくショック受けましたね。そういう、受験生の頃からなんですけど、もの派的なものにすごく惹かれていましたので。小清水さんの作品を見た経験っていうのは今でも忘れないですよね。

池上:他にはギャラリー回られてて、印象に残ってるものとかありますか。

石原:物忘れが激しいので、すごくよく忘れるんですけど、やっぱりミニマルな感じの仕事と、当時ミニマルな仕事と、もの派的なものがわりとごちゃっとなってたんですよ。(笑)はっきり分岐しないで。(笑)

池上:前にちょっとお聞きしたのが、福嶋敬恭さんとか。

石原:うん。福嶋先生のはもうちょっと学部の上になって、こっちに移転してから、福嶋さんがアメリカに1年行ってらっしゃって、ここの大学でその作品を発表されたんですよ。それが巨大な平面の作品を出された時で。それはすごくショックを受けましたね。

池上:ギャラリーは今の。

石原:今のギャラリーです。あそこで。

池上:天井ピタピタぐらい。

石原:天井ピタピタで、壁いっぱいの平面ですよ。ですから、やっぱりデザイン科にいながらですけど、そういうものを一方で見つつ、こっち側一方では非常にデザインとかコピーライターというものが華やかになってくる時代だったので(笑)。パルコとか西武のアドバタイジングとかが、非常に華やかになってくる時期なんですよ。だから、こっちではそれ、こっちではもの派。

池上:あまり違和感なく。

石原:違和感ないですね。こっち側ではやっぱり音楽とか聴いてて、だんだん、いわゆるニューウェーブと言われていた80年代、70年代の終わりぐらいから、それまでのハードロックの一部からニューウェーブというようなアートスクールを出た人たちの新しい音楽とか。トーキングヘッズ(注:Talking Heads、1974年−91年。アメリカのロックバンド)とか、そういうものですけど。あと、テクノも出てきて。クラフトワーク(注:Kraftwerk、1970年ドイツで結成された電子音楽のバンド)とか、そういうやつとかが、こっち側ではあって。非常に軽薄な学生だったんですよ(笑)。いろんなもの好きで、アンテナ張って。何でも単純に面白かったですよ。新しいもの見たら何でも面白かったんで。それは万博の時と一緒ですよ。万博の会場に行った時と一緒で、当時の文化とかギャラリーとかそういうものの中にポンって放り出されたら。万博の会場に放り出されたみたいに、何でも面白いんです。

池上:ずっとこういう環境で、ご自身が作品を作られるようになったっていうのはいつぐらい。

石原:それまではずっと、デザイン科っていう所は結構課題が忙しくて、課題に沿ってずっと仕事をしなきゃいけないんですよね。

池上:製図とか。

石原:そういうのもありますし。いろんなことを覚えて、うちのデザイン科っていうのはウィーン工房のシステムを基に教育をしていますので。

牧口:上野伊三郎、リチ先生(笑)。(注:上野伊三郎=1892−1972、建築家。上野リチ=Felice “Lizzi” Ueno-Rix、1893−1967、ウィーン工房出身のデザイナー。1950年(リチは51年)から1963年まで京都市立芸術大学工芸科の教授を勤めた。)

石原:はい。上野伊三郎、リチ先生の世代ではなく(笑)その次の、上野伊三郎先生の皆お弟子さんということはないんでしょうけど、薫陶を受けられた先生方がやっておられた頃で。やっぱり非常に京都芸大のカラーのある教育なんですよ。それはそれで、手作業をいろんな種類のシルクスクリーンもやりの、陶器も作りの、いろんな工芸的なものを全部体験しなきゃいけない。紙の技も覚えなきゃいけないし。

池上:紙の技。

石原:紙で何か作っていく。紙で例えば、いろんな加工をしてランプシェードを作るであったり、紙で立体をいろいろ作ることであったりとか。いろんな、ちょっと工芸的な手作業的なことを延々ずっとやらなきゃいけなくて。それが、毎週課題を提出するみたいな科目なので。結構忙しい。だから、そういうのをずっとこなしていって、自分の制作っていうのはあんまりなかったんですよ。3回生ぐらいまでなかったんですよ。僕は3回生ぐらいで、写真をやり始めたんで。写真も、写真やり始めて暗室使えるようになって、写真がすごく面白かったんですよ。僕にとっては。デザイン科の暗室で作業してるのが、絵が出るのが単純に面白いんですよ。

池上:未来ですね(笑)。

石原:もう何かね、薬品に浸けたら、赤いランプの中で薬品に浸けたら、絵がほわほわって出てくる状態が、もうすごく好きだったんですよね。それはもう、子供の時に日光写真をやってたのと同じ感覚なんですよ。

池上:写真は授業で、そういう講義で。

石原:授業で。写真の授業が。いろんなその技法を学んでいく授業の中に写真の授業があったんです。

池上:で、暗室を。

石原:暗室作業を覚えて。すごく、ある意味でははまって。でも、デザイン科では基本的な技術、やり方しか教えてくれないんですけど。それをやってて、一方でアーネスト・サトウ(注:Y. Ernest Satow、1927−1990、写真家。1968年から87年まで京都市立芸術大学で写真技術と写真史を教えた)という人がいまして。その人が学科の授業をやってはったんですよ。3回生の時かな。その授業をとって。それも、芸大で受けたカルチャーショックの1つなんですけど。サトウさんの現代芸術論の授業をとって、非常にインパクトがあって。なるほど、こういう考え方があるんだと。

池上:実技の方ではなく、理論的な。

石原:ではなくですね。理論の方です。

池上:どちらもなさって。

石原:ええ。学科の授業と。当時僕は本当にラッキーで、サトウさん、病気したり体の弱い人だったんで(笑)、病気したり外国に帰ったりで、全然学校に来ないでなかなか授業をやらなかったですけど。病気から、大きい手術から復帰されて、最初にちょっと戻られた年の授業をとったんですよ。その時の学科の授業でサトウさんの授業を受けて、すごく影響を受けましたね。後から思うと。

池上:それはどういった内容なんですか。

石原:いや、モダニズムというものを教えてはったと思うんですけど。

池上:美術史的なところで。

石原:美術史的なものですが、何て言うんでしょうね。写真を中心とした写真論なんですけども。写真が発明された当初のこと、(エドゥアール・)マイブリッジ(Eadweard Muybridge)を中心になんですけれど。マイブリッジを教える。マイブリッジについての講義があって、翌週はポップアートなんですよ。例えば。最も最先端の今のアメリカの美術と、一番写真の原点になっているものを、交互に一週ごとにやるんですよ。真ん中で出会うみたいな授業なんですよ。それで、その中でおっしゃってた中で、僕が一番インパクトがあったのが、その技術の発達と、例えば絵の具のチューブが発明されることによって、印象派的な野外のスケッチが可能になるであるとか、鉄道の発展によって、また野外の風景画っていうものが、一般的なポピュラーになっていくっていうような、その技術と、その社会的事象と政治体系がこう変わったから、美術はこう変わったっていうふうな、美術の単純に、進化論的美術が発達していく美術史ではなくって、社会との関連のなかで美術が変わっていくっていう、そういう講義初めて聴いたんですよ。今でこそ、そういうのわりと皆、されるんですけれども、その当時僕の知ってる範囲では、そういうことやられる方は一人もいなかったし本でも全然読んだことなくて。その授業はすごく面白かったですよね。

池上:それから、写真。

石原:そうですね。写真。

池上:アーネスト先生の影響もあって。

石原:そうですね。写真で制作するようになって、というか、それまで漠然といろんなものやってたんですけれども、何かそのいろんな、仕入れてきたいろんな情報みたいなものを自分の仕事にちょっと集約しようと思ったのは、大学の…… 3回生終わって1年休学したんですよ。

池上:なぜでしょう。

石原:何か、いろんなもの作りたいのに、まだ作れてないのに、もうすぐ卒業しなきゃいけないとか、すぐ就活しなきゃいけないというのが、ちょっと何か抵抗があったんですよね。もうちょっと自分の作りたいもの作ってから出たいなと思って。何か、最後1年くらいになった時に、今毎月1個ずつ作品仕上げても、10個かそこらしか作れないなと思ったんですけどね。10個かそこらじゃ、ちょっとやりたいことが実現できるとは思えないと思って。で、1年休学しちゃったんですよ。そのままその勢いで大学院に行っちゃったんですけど。

池上:まだ、作りたいものを。

石原:もうちょっと作ってみて、作れば作るほど新しく作りたいものが出てくるので。

池上:休学されている間は、ひたすらご自宅で。

石原:制作してましたね、結局。元々は留学しようと思っていたんですけど。

池上:留学ですか。

石原:はい。1回外国に出てみようと思っていたんで。

池上:当時そういう留学とかは。

石原:いや。全然少ないと思いますよ。卒業してからとか、そんなのはあったと思うんですけど。在学中に外国行く人ってそんなに多くはないと思います。だから、そのおかげでいろんな手続きを自分でやってて、分かんなくって、留学失敗したんですよ。

池上:別につてがあったわけじゃなくって、全部一から自分で。

石原:はい。一から自分で調べてやってて。アメリカはその当時留学でビザが要ったんですよね。(笑)アメリカには大概ビザが要ったんで。学生のビザ(が)要って、それがものすごく厳しくて、自分で手続きしてたら取れなかったんですよね。結局。何かもうちょっと待ってくれ、もうちょっと待ってくれって、結局間に仲介の方に頼んで、もうちょっと待ってくれって。ちょうどその年から、またビザのやり方が変更になった年からとかでね。で、やってるうちに結局ビザが上手く取れなくて。で、何か出来なく、留学を諦めたんですけどね。それも単純に外に出たかっただけのことで。違うもの、新しいものを見たいと。ただ僕は何か作りたいという欲求もあるけど、新しいもの見たいっていう欲求がすごい強いので。何か、外国行けば新しい、今まで見たことないもの見れるかもと思っていたので。

池上:その頃作られていた作品って、落とす作品ですかね。

石原:そうです。

池上:じゃあちょっと拝見しますと(栃木県立美術館での「美術館へのパッサージュ 石原友明展」(1998年)の展覧会カタログを開きつつ)。

石原:これですね。はい。

池上:《Falling Body》(1982年)という。

石原:わりと当時の、何と言うんですか、日本のコンセプチュアルやったり版画やったりみたいなものの影響下にある作品だと思いますけどね。簡単に言うと、毎日現代展(注:毎日新聞社主催による現代日本美術展)とか、そういうやつの影響下にある感じがしますけど(笑)。ある種の、でも僕自身はその時、今見たらそういうふうに突き放して思えるんですけど、当時自分としては、すごく(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)とかそういうものに影響を受けていたので、ある種の偶然性とか、ジョン・ケージ(John Cage)とかデュシャンの偶然性みたいなものを、自分なりに作品化しようと思って、こういうふうに。

池上:これどういうふうに、具体的には。

石原:白い壁の前で、プラスティックとか紙で、白い形でわりと単純な幾何形態ですね。よく、超能力カードで出てくる形ありますよね(笑)。基本あれなんですよ。超能力カードで出てくる形なんです。そこからもうちょっと三角定規的なカードとか超能力カード的な、本当に丸とか四角とか円弧とかっていうものの組み合わせで、幾つか形を作ったものを、真っ白の所の壁の上で、その時大体自分の身長の高さにしていたので、身長の高さぐらいのとこから、ポンて落とすんですよね。それを撮影するだけなんですよ。

池上:落ちる瞬間を。

石原:太陽光で撮影する。それを1年やったんですよ。いろんな季節でいろんな太陽、曇りやったり晴れやったりとか、いろんな太陽光の所で落として。それをこの時は、その180cmの高さの所を落としたやつを180cmに引き延ばすっていう仕事で。これは、ある一角を決めた面積の部分にカメラを据えといて、落としてそこを通過する瞬間を撮るっていうやり方をしてまして。

池上:なるほど。

石原:いろんなやり方と、いろんな光で1年ぐらいそれをずっと繰り返して、ネガをいっぱい溜めて。そんな毎日撮ってるとか、そういう記録的な仕事ではなくて、その当時そんなのも多かったんで、何となく記録的な要素を入れようとしたんですよね(笑)。きっと。今思えば。そういうようなシーズンを通してやろうとか思ってたので、それをやったものを溜めて、その中から選んで。

池上:これ着色もしてるんですか。

石原:着彩しています。ほんとに偶然性だけで何かを作ろうとしたんではなくて、偶然出来たものを、結局写真は選ぶので、偶然撮られたもの全部提示するわけではないので。選ぶっていうことでも、意図が入っちゃいますよね。だから、それだけじゃつまんないんで、もう1個意図を何か入れようと思って。この形はこの色、この形はこの色って、中から何個か抜き出した形を4色、わりと普通に赤、青、黄色に緑、やったかな。緑足して4色。あんまり恣意的でもないんですけど、それをこの形はこの色って決めといて、出来たやつに、構成ではなくてとにかくそれに色つけちゃうんです。

池上:なるほど。

石原:だから、ある程度意図は入るけど、ある程度は偶然出来たものって感じ。

池上:最初の個展で発表されたやつですかね。

石原:初めはこれね、「インテリア・アート・ショウ」(1982年)っていう「イエスアート」(1982−84年)の前身になるものなんですけれども、それで発表しました。

池上:なんで、これインテリアっていうタイトルが入ってるんですか。

石原:その当時は、ファインアートではないものを、っていう考えだったと思いますよね。単純に。

池上:心斎橋ですよね。ソニータワー。

石原:だから美術のギャラリーでもやってないんで。たまたまそれに何で僕が出したかってゆうたら、そんな「インテリア・アート・ショウ」だからデザインやってた僕も出したんです。声かけてもらって出してたんですけど。ファインアートの人らだけの展覧会にしちゃうと、多分この意図とは違ったんだと思います。これは、山部泰司君とかが中心に企画してたものですけれども。

池上:そういうグループ展といいますか、学生仲間で。

石原:学生の仲間ですね。

池上:展覧会をいろいろやって、っていうのは盛んでしたか。

石原:盛んでしたね。盛んにしたんでしょう。我々が勝手に盛んにしたんですよ。

池上:世代的には先生ぐらいの。

石原:そうですね。僕らの仲間ですね。その当時大学にいた仲間でそういうことをやった感じですね。

池上:京都でもその貸し画廊とかも、いっぱい増えてきて。

石原:既成のやり方というか、それまでのよくある枠組みで何か発表していこうっていうことを皆あまり考えていなかったんでしょう。僕は元々外様と言うか、ファインアートの中にいた人間ではないんで、元々違うやり方でやりたかったというか、そういうふうにしなきゃいけないのか、よくわからないので。全然別のやり方でもいいじゃないかって思っていたんですけども。ある種先輩たちの影響力も強かったんだと思うんですが、もの派とかコンセプチュアルとか、そういう作家たちのやって行き方とは全然違うことがやりたかったんだと思いますね。そこの展覧会の枠組みも、それでやったらそういう格好にしかならないような気がしてたんだと思うので。

池上:先生の大学の先生の世代の方っていうか。

石原:先輩ですね。その頃の僕らが入った頃の大学院生であったり、僕らが4回生なり院生の頃に活躍し始めていた先輩方であったりとか。

池上:具体的には、どういった方でしょうか。

石原:八木正さんとかですね。

牧口:去年(回顧展があった)(注:「文承根+八木正 1973−83の仕事」、京都国立近代美術館・千葉市美術館、2007年)。

石原:はい。直前の先輩と言えば。八木正さんは、でもそういう、そういうのの一番最後の直接の先輩で。本当はそういう感じではないんですけれども。でもやっぱり、そういう感じでちょっと八木さんの仕事は僕はすごくいい仕事だと思ってるんですけれども、わりとギャラリーの中では工芸家、ちょっと工芸家と(言うと)語弊がありますけども、ソフィスティケートされすぎたミニマルとか、もの派のスタイリッシュな作品が多かったんですけど。それはちょっと、違うなと思ってて。そういうのは何か見てたら当時の感じだと、現代美術ってある種の前衛だと言いながら、公募展対応の作品のようにしか見えなかったんですよ。単純に吉原治良賞であったり、「エンバ(賞美術展)」であったり、現代日本(美術)展(注:毎日新聞社主催)であったりとかっていうようなものに、対応する作品にしか見えなくって。あんまり魅力的に僕には思えなかったので。そこからもちろん影響受けて、学んだものは多いんで、影響力があった上で。かといって、ある種のもっと後で、すごくよく知って、仲良くさせてもらった前衛的な先輩方というか。もっとアンダーグラウンドな形でやっておられた、それこそ榎忠さんとか、池水(慶一)さんとか。っていうような、もっとアンダーグラウンドの林剛さんとか。そのような人達とは、何か世代が違う感じがあったんですよ(笑)。当時、むしろアンデパンダンでやっておられた(方々)、現代日本(美術)展とか、そういう公募展を否定されてアンデパンダンでやっておられた。先輩を2種類に分けると、単純にそうなるんですよ。権威的なものを完全に否定してアンパンでしかやらない人と。ある種審査されることを容認して、現代美術の公募展をやってる方とか。単純化するとですね。実際にはシーンはその両方の人らがまじった京都の画廊の貸し画廊・企画画廊のシーンってあったので、そんなにパキっと分けられないんですけど。簡単にいうとそういうふうに分けられると思うんですけど。どっちもちょっと違うと。そのアヴァンギャルドでアンダーグラウンドのものは、体質的に少し違うかもしれないとか、世代的に少し違うかもしれないとか。僕らっていうか、僕はもっと軽薄だったので。もっと、政治的なものを一切抜きで新しい視覚的なものとかに、皆惹かれていった世代なので。

池上:ちょっと反動とか。

石原:少しそういうものの、多分政治的なそういう流れの反動なんだと思うんです。それは僕の中では、実はわりと根底的なものなんですけれども。学生運動にある程度信頼してというか、子供の時憧れて、高い所に登る人たちに憧れてついて行こうとしていたのに、寺山修司が言うように、町へ皆出はったんですよ。一旦皆大学っていう時代が終わって、バリケードの外へ出て町へ出ようっていって、町へ出て、帰ってくるのかなって思ったら、皆全然帰ってこなかったんですね(笑)。皆立派な社会人になっちゃったんですよ。それの個々人ではなくって、何となく裏切られた感っていうのが僕の中にはちょっとあって。きっと前衛の側に戻ってきはるんだろうと思ってたものが、一切戻ってきはらなかったという感じがどっかにあったんですよ。それは、もう、幼い心情的なものなんですけれども。非常に幼い感じなんですが。中高生の感覚なんですけど。だからちょっと、そういう前衛的な政治的なものを引きずる、前衛に対するちょっとした違和感があって。

池上:完全に、こう、ヴィジュアルであったりとか。

石原:そうですね。あるいはもっと、サトウさんに教わってるのは、もう少し大きい歴史的なものですね。技術史であったり、社会史であったりっていうものと関連するものに、もうちょっと興味が出てきたというか。

池上:もっと、どちらかと言うと、ちょっと散文的なというか。

石原:そうです、そうです。

池上:そういう、ものの見方と考え方という。

石原:そうですね。うん。当時僕がやっていたようなもの、理論的ではなくすごく散文的だったと思います。

池上:それは、「インテリア・アート・ショウ」ですとか、あるいは「イエスアート」とか。

石原:そうですね。この後、こういう作品で「イエスアート」ですね。

池上:わりと共通した雰囲気だったんですか。

石原:そうですね。

池上:散文的な(笑)。ある意味こういう、いろんなものを引きずらずにというか。作りたいものを作るというような。

石原:いろんなものを引きずってるんですよ。逆に。ただ一つのものでなく、ものすごくたくさん引きずるものがあって。どれか一つをその中から取捨選択してやるのではなくって、いろんなものを引きずっているんで、散文的にならざるを得ない。自分のよくない所でもあるんですけど、いろんなものに理解を示してしまうと。「イエスアート」の特徴なんですけど、これはダメだとか、前の世代を否定するという、ノーから入らずにイエスから入っちゃうっていう側面があるんですけれども。何でも肯定しようと。一旦肯定して、全部一旦受け入れてやってみようっていう感じなんですよ。だから自分の、僕個人の中で作品を作る時でもそれはあって。

池上:そうすると、何かまとまりにくいわけですよね。

石原:まとまりにくいですね。それは未だに、その癖はあります。否定から入るのではなく、肯定から入ろうとする癖があります。

池上:単純な話、形が決まってきにくいとかないですか。

石原:決まってきにくいですよね。

池上:もちろんコンセプト的なこともですけれども、これでもいい、これでもいい。

石原:未だにだから、形っていうのは、フォルム、フォームっていうのはどうやって出来てくるのかということに、今でも最大の興味があります。フォームは、フォームが決まる、その臨界の所ですよね。だから、表面上、表面で内圧と外部からのプレッシャーとが擦り合わせる表面があって、そこで形が決まるっていう、そういうような形の決まり方しか僕は今考えられないですけど。意図的にカービングしたり、モデリングできないんですよ(笑)。

池上:その辺というのは、極端に言うとデザインの勉強をされていた。デザインってやっぱりフォームですよね。

石原:そうですね。デザインの中でも多分フォームを決めることっていうのは、ほんとはすごく難しいんだと思うんですよ。未だにどうやってフォームを決めるのか、例えば平面の作品だとそれが、単なる平面で言う所のフォームではなくて、構図っていう所にも結びついてくるんですけど、その特定限定された空間の中で、何を取っ掛かりにして、何かを像を結ぶなり、切り出してくるのかっていう、そういうことですけどもね。

池上:何かそのあたり、すごく話の向き、何か向いてきたので非常に興味があるのが、その辺ですよね。《Falling Body》の次の紡錘形の作品であったり。それは、ご自身の写真を投影して、焼き付けてるんですよね。

石原:そうです。

池上:こういうの、どうやって、こうされようと思ったんですか。

石原:それはね、基本的にはまずこの辺のは皆そうなんですけど、自分で外形で決める形と、自分の中の形がずれることが目的なんですよ。

池上:中の形と言いますと。

石原:中の形と言うのはね、自分の体っていうボディっていうフォームです。

池上:はい。

石原:ボディっていう形体と、外側にはり付けた形体が、ずれるとか、合わないってことが、まず目的なんです。ただ、その中に人を無理矢理はめ込む。自分の体を無理矢理はめ込む。

池上:分かりました。あの、外の形と中の形というものが、内圧外圧とおっしゃってたところですよね。

石原:ずれるということが、目的なんですよ。だから人も外側で形決める時も、人間が出来なさそうな形は避けようとするんですよ(笑)。でも、中でその形に合わせて彼らがボンて何かしようとする時に、その形通りにはならないんですよ。自分ではその形をイメージして、自分の形を作るんですけど、そうはならない。それも、ポーズというか自分の体の形をその都度どうやって決めるかっていうのを考えた時に。

池上:なるほど。そういうフォルムの興味が、っていうか(笑)。

石原:興味です。興味です。

池上:ちょっといろいろ誤解してました。はい。

石原:これに関しては、そのこっちでやってたような平面上のフォームではなくて、人間の体の立体性みたいなのをものすごく単純化して、そこのキャンバスで作って。人間の体を、何か背骨の正中線、正中線がすごく大事だったんですけど。正中線ポンって通してしまって、じゃ人間の体っていうのは、実際そんなに正中線が真っすぐなように自分で合わせようと思ったって、合わないんですけど、ずれて。で、厚みがありますから、人間の体みたいな厚みをキャンバス上で、ものすごく単純化した形で付けて。でも、ずれますから。そういうずれた2つのフォームがそこで、ずれながら一緒になってるみたいな。

池上:これ、具体的には、すいません、裏見たことないんですけど、パネル?

石原:パネルです。

池上:に、真ん中に。

石原:そうです。そうです。(天板のテーブルに水性ペンで描きながら)

池上:描けるんだ、これ(テーブル)。

石原:ここ(研究室)でゼミやるんですけど。こうやって、ここに木とかを、こうやって留めて。

池上:はい。

石原:こうですよ。こういうふうにして真ん中にベニヤを、薄いベニヤをこうやって、両側にこういう木を入れて、この木で挟んで。立てちゃうんですよ。こっちもそうですね。全部こういう木で挟んで立ててるんです。で、ここの断面を、こういうふうにしておいて、この両側で木で留めて、キャンバス張るとこう、底は板ですよ。

池上:はい。

石原:この板もここを斜めにカットっていうか削っといて。こういうふうに張る。

池上:じゃ、三角。

石原:そうですね。それぞれの断面は三角です。それを3次曲面でやるので。

池上:ちょっと、曲がってくるということですね。何でこういう形。ちょっと変わってますよね。 

石原:人間立体ですよね。3次曲面というか、複雑な立体なんですけど、すごい単純化して作れる形っていうものを考えたんですよ。垂直がはっきり、方向性がはっきりあって。

池上:作りやすい形という意味もあるわけですか。

石原:そうです。

池上:わりと何かその、キャンバスでオーバルとかもね、わりと。

石原:オーバルだと、方向性が出ない。

池上:なるほど。

石原:その後いろんな形試みたんですけど、オーバルとかもやるんですけど。

池上:オーバルあるんです?

石原:オーバルあるんです。

池上:本当だ(《Untitled》1985年を指して)。(注:掲載『美術館へのパッサージュ 石原友明展』 cat.no.29、栃木県立美術館、1998年。※以下cat.no.は同カタログ掲載)

石原:違うんですよ。何か僕にとっては。オーバル何回かやってるんですけど。ちょっと違うんですよ。この辺は棚にしようとしているんですけど。

池上:何かポーズって、何かこう、ソースとかあるんですか。ちょっと、レンブラントっぽいやつとか(笑)。

石原:わりとね、ミケランジェロ。

池上:天井画の。

石原:はい。ミケランジェロであったりとか、ロダンであったり。ロダンのトルソとかをモデルにしていたのありますね。ロダンのトルソで、首もなきゃ手足もないんやけれども、ボディのところをそういう形にして、手足は、やるんですけどね(笑)。ただ、その形に絶対なんないんですよ。あんな無茶苦茶な、無茶なんですよね、あの形は。でもあの形にならないんだけれども、何か、あれを真似てやろうとすると。そういう、自分の形をどう変形させて、自分自身をどう変形させるかみたいなことを、今から思うと自分は考えていたんだと思うんですけれども。

池上:器用ですね。ご自身の身体と言いますか。

石原:そうですね。何でか、って言ったら、それもフォームの問題に還元してみれば、自分の体っていうのは、ある程度安定した、それでも不安定なんですけども、フォームなんですよ。自分がある程度拠り所に出来るフォームなので。ここで、前のこういう作品の幾何形態でやってた時には、幾何形態っていうある種拠り所になるフォームだと、僕は考えてたんですけど。そうではなくって。

池上:やっぱり、弱いっていうことですか。実際作品に、幾何形態にされてみて。

石原:自分の形っていうことにならないんですよね。

池上:なるほど。

石原:ジェネラルな形なんですけれども、自分の形っていうことにならないので。それが全体のフォームのいろんなものが、合わさって出来る最終的に出来てくるものが、自分の表現だっていう所に、ここでは、そういう所にもっていこうとしてたんですけど。そうならなかったんですよね。何かここでも実はこれ、影をつくりたくってやってたんですけど。影が変形して、影が平面上で投影されていくので、いっぱいこう変形した影が、影だと1つの形に重なると、全部なってしまうので。ここで、いろんな形が描かれる。それがすごく途中で面白くなって。むしろ影の方が途中から重要になってくるんですけれども。だからそこでも、やっぱり光とかの問題、やっぱり光に影響されて形が変わったりとか、形、フォームっていうのが、どこか不安定で、何か変わって行く時に、いろんな外的な要素との緊張関係で、そのフォームが変わっていくっていうようなことを、どこかではテーマのひとつとして、それはずっとありますね。

池上:そういうフォーム繋がりで、すごい(話が)飛んじゃうんですけど、言ってて自分が一番話してるんですけど(笑)、《I.S.M.》(1987−1992年頃)というシリーズですね。

石原:はい。

池上:何かこれは、身体の形というようなフォームから来てるんですか。

石原:そうですね。

池上:I.M.S.っていうのは。

石原:I.S.M.ですね。言葉遊びなんですけども、

池上:石原とか。

石原:そうですね。Iっていうのは、例えば石原のIである時と、例えばインターナショナルのIである時があって、両義的なものなんですよ。インディヴィジュアルとインターナショナルとか、例えば。MとかMはいつもそうなんですけど、モニュメントとモーメント。瞬間的なものと永続的なものっていう、両義的なもので。すごくインターナショナルなものとインディヴィジュアルなものっていうような両義性で。Sもその都度いろんなことを考えてたんですけど。シンタックスとか、いろんなものを考えてるんですが。ある種の両義性をとにかく1つの作品に、1個の何かを断定するタイトルじゃなくて、両極の両義的なものをタイトルにしようとした時に、考えついたタイトルなんですよ。ですからそれぞれが略語だから、ピリオドから入るんで、ピリオドを入れることでイズム(ISM)っていう非常に断定的なものが解体されて、意味不明なものになってしまうっていうのが、何か自分の語呂合わせの中で上手くいったんですよ。両義的なものが結果的に、無意味になっていく。

池上:何か長いタイトルの略とかではなくって。

石原:ではないんです。僕その都度言おうと思えば、言えるんですよ。今回はむしろどっちかというと、インディヴィジュアル・シンタックス・モニュメントかなとか、どれかは言えるんですけど(笑)。気分的に。

池上:このシリーズずいぶん長く。

石原:それは実は今も僕は続けてやりたい仕事ではあります。

池上:最初に、これは写真コラージュ。

石原:写真コラージュなんですけど、写真のコラージュするためには、まず立体でマケットを作るというか、1個1個のパーツを立体で作るんですよね。1個1個の立体のパーツを作って。

池上:石膏とか。

石原:石膏とか、紙粘土とか。白けりゃいいので。

池上:それを写真に撮って。

石原:撮って、コラージュで平面上で立体として組み立てる。そうやって組み立てたものを、平面の上でしか成立しないってのは、実際無重力だからこそ出来ることとか、結構無茶なことをしてるんですけど。それをもう一方で今度、じゃ立体化してもういっぺん作る、っていうプロセスを踏んでるのですが。これで写真でやってる理由のもう1つは、これのこことかそうなんですけど(展覧会カタログを見ながら)、自分の体のパーツをいっぱい写真に撮ってたんです。これのここは、一番土台になってるここは、これが肩甲骨で、これが肩で、これが肘なんですよ。こういう感じの作りなんです。

池上:ここは色がついてた所なんですか。

石原:なんです。でも、モノクロ写真でちょっとトーンを分けてるんです。プリントとかしたら分かんないですよ。

池上:なるほど。それを、こう切り抜いてるわけですか。

石原:切り抜いて。はい。その分それぞれ自分の体を中に入れて切り抜いて幾何形態と、前やってた幾何形態的なもの(注:《Falling Body》のこと)と、こういう自分の体みたいなものを一緒に同じようなパーツで扱うんですよ。

池上:そもそも何でこういうのを作り始められたんですか。

石原:そうですね、むしろこっちの平面のセルフポートレートというか、反立体のような形っていうのは、絵画についての自分のその時々の考え、絵画っていうフィールドに決めて仕事をしている。絵画の文脈の中で仕事をしようとしてるんですけど。こっちの仕事は完全に、彫刻についての作品になるんですよ。前のが絵画についての作品だとすると、こっちは同じ方法で彫刻についての仕事をしているという。

池上:これから、革の大きい作品とか。あと、ゴムとかありましたよね。

石原:ゴムもあります。表面作品のやつ。素材的にはやっぱり、いろいろやりましたけど、革が一番やっぱり内圧に耐える強度が(ある)。ゴムは内圧にずっと耐えさせてると、耐久性がなくなって、どこかで破れてきたりするので。表面というのを、要はフォームなんですけど。表面と言うよりは内圧と外圧が継ぎ合ったバランスが、場所を形と考えてて、それが身体的に言えば皮膚がそうなんだと。そういうふうに考えて、内部構造のない立体を作りたかったので。構造があって、表面が支えられるっていう形ではなくって、本当に内部がブワって膨れようとする素材を入れて、それを外側から押さえ込んで、内圧と外圧のバランスのとこで形が出来る。そういうものをイメージして作っていくって。人間の体がそうだと思ってたんですけど、要は。あれですよ。団子になってる羊羹ですよ(笑)。プチって、ズルってなってますよね。だから人間の体に対してああいうイメージが脅迫的に僕にはあって(笑)。何かどこか切ったら、ズルンってなるような気がするんですよ。

池上:何でしょうね。

石原:分かんないです。人間の体、例えば、よくホラー映画とか『AKIRA』(大友克洋著)とかであるような人間の中からバンって爆発するイメージっていうの、わりと僕はリアルに思えるんですよ。あの、爆発する程内圧上がることないと思うんですけど、いったん切っちゃったらブルンって出てきそうな感じがあるんですよ。

池上:そういう意味では、本当にあれですよね。最近の作品もその流れとか。

石原:そうですね。

池上:あの、真空の(《SCOTAMA》2003年)とか。

石原:そうですね。あれもこれも内圧と外圧。極限的にそういうのをやろうとしてるんですよね。

池上:なるほど。ちょっと話を戻りますと。絵画についての仕事とおっしゃっていた頃の、紡錘形のキャンバスにヌードを焼き付けているこの作品は、83年ぐらいからですか。

石原:そうですね。83年ですね。83年からで、この変形キャンバスになったのは83年からですね。

池上:83、4年ぐらい。84年ぐらいから、わりといろんな展評であったりとか、何か。

石原:そうですね。わりといろいろ書いていただけるようになりましたね。

池上:中村敬治さん(注:1938−2005、美術評論家。当時は国立国際美術館学芸員)とか。建畠(晢)さん(注:1947年生、美術評論家、国立国際美術館館長。当時は国立国際美術館学芸員)とか、篠原資明さん(注:1950年生、哲学者・詩人)も。

石原:そうですね。

池上:何かこの作品が、ぱーっと、評判が(上がった)と言ったらあれですけど(笑)。取りあげられることが非常に多くなりましたよね。それについては。

石原:やっぱり、この時のその後の展示物とかね、その時からすごくいろいろ書いていただけるようになった気がします。あと、この個展と。

牧口:これも84年の。

石原:84年ですかね。84年のギャラリー白(大阪)の個展と。

池上:背景は青い。

石原:背景はこの時青じゃないんです。この時は緑です。

池上:そうですか。

石原:この時は紫で、この時は緑です。

池上:これは布ですか。紙。

石原:紙です。

池上:紙に。

石原:紙に油という、やってはいけないことを。これは油画の学生じゃないからこそ出来ることですよね。酸化するので出来ない。耐久性全くないので。と言いつつ今それが美術館に入ってたりするので、一緒に(注:同様のシリーズ《約束(IV)》1988年、東京都現代美術館蔵:栃木cat.no.62)。怖いですけどね(笑)。

池上:そうですよね(笑)。

石原:何でそれをしてるかというと、それは紙の部分はその当時のアトリエの床なんですよね。フロッタージュしてるんです。油絵の具でフロッタージュするのに、紙のような厚さと表面じゃないとフロッタージュ出来ないんですよ。

池上:床に広げて。

石原:床に広げてフロッタージュしてて。床を壁に持ち上げたらそれで絵画になるという、抽象表現主義の原理が。床で制作して、壁に持ち上げるような。その重力の関係と人間が垂直に正中線に沿って立つっていうのを重ね合わせて、絵画の重力的な構造を。今なら言えるんですけど、そういうようなもんです。ですから床の当時のPタイルというか、正方形のタイルがいっぱい張ってある、それがぼろぼろになった床だったので。結構いろんなグリッドでテクスチャーが、その中に割れたものが、ヒビが入るような、壁っぽい質感のものがフロッタージュ出来るので。それはちょっとフレスコっぽい壁画的な感じに見えたりとか。

池上:このシリーズは結構何年か作っておられたのですか。

石原:しばらくやってますね。機会があれば、インスタレーション出来る機会があればやると。それがその後、実際にじゃあフレスコでやろうとして、こういうの(《Untitled》1987年:栃木cat.no.54)をやるんですけれども。

池上:はい。こういうのもされてるんですね。

石原:壁をレンガで、レンガ塀作って、ギャラリーの中にレンガ塀作って、漆喰、下地して漆喰塗って、上に顔料でフレスコで描いてっていうの実際にやったんです。

池上:これは。

石原:シティギャラリーです。神戸の(注:1987年の個展)。この時に、そこの空間にミラーボール付けて、全体をミラーボールでライティングするという。写真ではそれだと写んないんで、そうじゃないですけど。実際には、会場はミラーボールでギラギラとライティングされてるような。

牧口:フレスコの技法もどこか大学で。

石原:いえいえ。これ全部自分で、こういうことがしたいと思ってから技術を。いろんな技法書を読んだり、人に教えてもらって。僕は全部そうです。まず、こういうのしたいからっていうのがあってから、技法を学ぶので。この技法が自分に合ってるからこれを作るっていうのがあんまりないんですよ。まずやりたいものがあってから技法。そのために、作るのに時間かかることが時々あって、革の作品とかでも、そうなんですけど。革の扱いが全く分かんないし、革の種類も分かんないんで。最初に革工場行ったり。

池上:手で縫ってるんですか。

石原:そうです。手で縫ってます。革細工の本とか最初買ったりするんですよね。革工芸の人の。クラフトの本とか買って。革の種類がよく分からないなと思って、革工場の見学に行って。革工場のおじさんに革の種類とか、なめし方をいろいろ教えてもらって。そうすると、ほとんどの種類の革がそこで一気に見れるので。作品に使えそうなものとか。これの扱い方の注意とかを工場で教えてもらって。そんな感じですね、いつも。

池上:大きい革の作品は、「光原子」(スパイラルガーデン(東京)での個展、1989年)の、ありますよね。ああいう作品(《I.S.M.(原子)》1989年:栃木cat.no.70)とかは、中は何なんですか。

石原:発泡スチロールです。基本的には。

池上:あの形に整形して。

石原:いえ。削り出しで。塊のものをくっつけて、削り出して。

池上:それから革を。

石原:それから革を貼っていくんですよ。元々はぬいぐるみ構造的なのを考えてるんですよね。ただ、大きくなると、そんなぬいぐるみの詰めものとかでは、内部の内圧というか、張りが出ないので。内部をちょっと膨張するようなもので。何か構造的にあるものではなくて、ああいう泡構造でボワって膨れたやつが、自分のイメージに近い。

池上:なるほど。

石原:こういう時には、砂でやってるんですけど(《I.S.M.(スカート)》1988年、国立国際美術館蔵:栃木cat.no.60)。砂を詰めてって、砂で詰めていくことで、初めて内圧と外圧がつり合って形が出来るっていうことなんですけどね。めちゃくちゃ重くなるんですよ(笑)。ちょっとした大きさのもので。これ今、(国立)国際美術館にあるんですけど。これで300キロ(グラム)ぐらいあるんですよね。たいしてでかいものじゃないのに。なんべんも入れてると、だんだん内圧に革の縫い目が耐えられなくなってきて、縫い目が弾けてきたりするので。それが一番望んでる緊張感なんですけども(笑)。ちょっと砂の重さで自由にならないとこがあって。これなんか明快なんです。下が砂で、真ん中が革だけで上は発砲(スチロール)積んであって。重いものから順番に軽いものにしていく。

池上:真ん中がない所なんですね。

石原:真ん中が革だけです。

池上:そうか。それでそういう工法なんですか。この上の形は、こういうの(《Plan-I.S.M.(#6)》1987年:栃木cat.no.58などの写真コラージュ)に似てませんか。

石原:うん、そうです。自分が、これはもう好みで作ってるんですよ。

池上:作ってから合体させたんですか。

石原:そうです。これも、のってるだけですからね。全部。

池上:そうなんですか。こういうの作ってみようかなっていって、のっけていって。

石原:のせていってですね。1個1個全体像があって作ってるんじゃなくって、1個1個バラバラに作ってるものを、積み木みたいに積み重ねて。だから、簡単に言うと、ぬいぐるみの積み木なんですよ。

池上:それで、彫刻ですよと(笑)。

石原:そうです。ぬいぐるみで積み木やって、彫刻ですよと言ってしまう。だから何か、彫刻的にその、ソリッドなもの。彫刻的なソリッドな感じって言うのとは違うことをやろうとしてたんですけど。

池上:絵画においては、アンチ絵画じゃないですけれども(笑)、そういった感覚というのはあったのですか。

石原:いや。絵画の、僕のやってる事って、この辺りそんなに言葉にはしないですけど。簡単に言うと誰にでも出来ることしかしないっていうのは、後からずっと僕言うんですけど。だから写真っていうのは、技術的にいろいろあるけど、誰でも撮れますし、非常に民主的な新しい時代の、近代の技法ですよね。フロッタージュっていうのも、ペインティングはしてないんですよ。フロッタージュしてるだけなんですよ。絵の具塗って、絵の具塗ってじゃない、自分の床を、プライベートの床をフロッタージュしてるだけのことで。全部が誰にでも出来ることしかしてないので。フォームっていうのも決めるにしたって、それはもうすごくジェネラルな形であったり、あるいは、自分の体っていう、すごく個別的な形だったりするので。

池上:ちょっと、キャンバスに合わせて、とかになっていくわけですよね。

石原:そうです。だから、技術要らないんですよ。誰でも出来ることの組み合わせで、作品を組み立てていくっていうのも、ずっと作ってる中で変わらないです。誰にでも出来ることしかしない。特異な天才の肉体から生まれるフォームっていうのをまずやらない。天才じゃないんで、それ出来ないんですけど。出来ないと言うとあれなので、やらないと言い切った方がいいかなと思って、それはやらないと。自分に体が、体とかイメージが、特異なフォルムを生み出せるとは考えてないんですよ。だからそういう意味では、絵画の中でもそういうクリエイティヴな作者であるとか、っていうものは否定してますよね。作者的なものがあるとするならば、1人1人の人間が皆個別に肉体を持っているように、そこで個別のフォルムを作り出すことが出来ると思ってますけど。自分の体も変形させることが出来ますし。その範囲内では、特殊な能力は必要としないと思うので。個別なフォルムを生み出すのには。その範囲内で仕事をするという所では立体でも平面でも変わらない。

池上:何か(話が)すごいそれちゃったな。

石原:すいません(笑)。作品論的なことになってますね。すいません。

牧口:いえ。内容は追えていると思うんです(笑)。

池上:うん。ちょっといろいろ、話それましたけど、今日聞きたいこととか。

石原:すいません。作品論になってますね(笑)。

池上:いやいや。なりそうだったんで、すいません。意図的にいきました(笑)。最近の作品とかはまた追々ということで。今日、さっきのグループ展の作品内容とか。

石原:これよく聞かれるんですよね。

池上:そうですね。「イエスアート」とかね。

石原:いや、さっき言ったようなものですよ。ですから、共感でしょうね。世代の共感みたいなものが基盤にあったんだと思います。

牧口:同じようにグループで皆さんで、組織された皆さんの中で、ある一定の共通した価値観の共有みたいなものは、持ち合ったっていうことですか。

石原:あるんでしょうね。あるんですけれども、結局その中で常に皆違いを見つけようとするので、差異をもちろん見つけようとするので。もう、本当にその都度つまんないことありますからね。グループ展ですから。「イエスアート」っていうのは、元々大阪芸大と京都芸大の交換展からスタートしてるので、そういう意味では「フジヤマゲイシャ」(1982−84年)と同じようなスタートなんですよ。その中では、京芸の奴はこんなやなって、大阪芸大の人たちにすごく生活態度を(指摘されたり)(笑)。搬入の時間に遅れるとか(笑)。もう、それは本当に申し訳なかったと思うんですけれども。時間どおりに来ないとか。ちゃんと画廊の当番をやらないとか(笑)。

池上:さぼり系なんですね。

石原:そういう大学間の違いみたいなことは、何かこう、そういうこととか作品の内容に関してもつまんない党派的な主張みたいなのとか、だから論争みたいなのがいっぱいありましたよね。

池上:東京芸大とされた、「フジヤマゲイシャ」。

石原:でもありますよね。

池上:も同じような感じですか。

石原:どうして、特にその時は結構建設的なものもあったんですけど、どうして京都芸大の皆さん、そんなにすぐに作品に辿り着くことが出来るのかということを、彼らは言ったので。それは面白い議論だったですよね。作るまでの逡巡というものがないかのように見える。

池上:ありましたか。

石原:作品化するっていうことに至る逡巡。本当に作品にしてしまっていいのだろうかとか。制度の中にそんなに簡単に自分たちのイデアをのせていいのだろうかというようなそういうようなことですよね。多分榎倉(康二)先生のゼミの人たちが多かったですけれども(笑)。

池上:はい。

石原:ああなるほど、と。僕らはそんなやっぱり軽薄でそんなこと考えてなかったわ、って思いましたね。僕は。

池上:とりあえず、作りたいと思ったら作っていくというか。

石原:うん。その都度そこで反省するのではなくて、その場で反応するので(笑)。つまんないことでね。そこまで届かないんだったら、展覧会しなきゃいいじゃんみたいな(笑)、こっちはこっちで言うんですけど。そういう話が、とても面白かったです。そういう中で、関口敦仁さんや宮島達男君といろいろな話が出来たのは、すごく良かったですよね。

池上:今でも交流ありますか。

石原:そんなに直接は会わないですけど、会ったら学生の時のように今でも、話せる気がします。実際にはそれぞれ、そんな10年20年会わなかったりしても。何か会うと、たまに会うと。それは、「イエスアート」や「フジヤマゲイシャ」だけではなくって、多摩美(術大学)とも交換展とかやってたんですよね。で、その時に多摩美の人とも会って一緒に展覧会したんですけど、横浜市民ギャラリーでやったんですよ。県民ホールやったっけ?

池上:何ていう展覧会。

石原:「ヘッドバット」(注:神奈川県民ホールギャラリー、1983年)っていう展覧会。

池上:「ヘッドバット」、はい。ありましたね。

石原:っていう展覧会でやって、その後その時のメンバーで、佐賀町エキジビットスペースでやる展覧会がその時のメンバーのなかからでやったんです。「6 at work」(1986年)で。

池上:それで佐賀町でされたわけですか。なるほど。

石原:その時のメンバーで。多摩美との交流展のメンバーでやりました。その中からやった感じです。

池上:何かすごく、(話が)飛びますけどヴェニス(ビエンナーレ)の後にわりと東京で発表されることが、ポンポンと。スパイラル(ガーデン)とか。その佐賀町とか続いてらして。それで結構その頃の90年前後ぐらいですかね、何かそれぐらいの展覧会がわりといろんな雑誌とか取り上げられてたりとか、結構あるような気がしたんですよね。ずっと関西、こちらでされていますけど、わりと東京でバンと認知度が上がったって言うのはあれですけど。そういうきっかけがあったのかなというのをお聞きしようと思ってたんですけど。

石原:やっぱり当時の状況の中だと、ヴェニスに出したことでいきなり東京の人も、たまたま関西にそういう人がいるんだよということがわかったっていうのもあるでしょうし。「臨界芸術」ってヴェニスの前でしたっけ。

池上:「臨界芸術」、85年でしたか。

石原:じゃ、ヴェニスの前ですね。「臨界芸術」に出したこともあったと思いますね。村松(画廊)で。展覧会があった時、結構あんまり上手くいってないなと思う作品を出してしまった覚えがあるんですけどね(笑)。東京でやるんだから、みたいな力の入れ方はあんまり僕は出来なかったので。その場で作ってた流れの中で、いくつかの展覧会の中で、この作品はこっち出して、この作品はこっち出してってやってた中で、その前後の作品の中で村松に出してたやつが、申し訳なかったんですけど、自分では非常に納得いかないものだった覚えがありますね。でも、そんなのに臨界に出したこととか、「フジヤマゲイシャ」とかで東京の人が見てくれてたこととか、そういうのの積み重ねではないかと思いますね。それは、またヴェニスに出したことで、たまたまそうやっていっぱい声をかけてもらったのかなと思いますね。

池上:その学生の頃からの、ネットワークもありますよね。そういう。

石原:そうですね。ですから、それがキュレーターの方を通じて組織したものではなく、学生の作家同士の共感の中で組織されてた展覧会が多かったものですから。

池上:その頃やっぱり、ちょっと上の世代ですよね。森村(泰昌)さんであったりとか。ダムタイプの人とか。非常に何かその、関西発が注目されてた部分もありますよね。

石原:それはね、その当時のここの、この辺りなんですけど。(京都芸大の構内を指して)この辺りです。実際にこの辺りの空間なんですけど、すごい面白かったんですよね。単純に。本当に僕はそこでは人に恵まれてたと思います。

池上:この辺りと言うと。

石原:僕は映像の教室に、そこの斜め向かいなんですけれども、今も暗室があるんですが。

池上:この学内ということですか。

石原:はい。そこに。そこで僕はいまして。森村さんが非常勤の先生でいらっしゃって。今、筑波大のデザイン科で教えておられる木村浩さんという人と、森村さんが非常勤で先生されてて。僕は大学院の学生で。で、隣の部屋で今ここの構想設計の教員になってる砥綿(正之)、高橋(悟)。高橋は2つ下ですけどいまして。その下に、古橋(悌二、注:ダムタイプのメンバー)がいて。ちょっと向こうに行くと、彫刻で中原(浩大)がいて。

池上:かなり近い所で(笑)。

石原:そうです。

池上:情報交換だったりとか。

石原:染織に松井智恵がいて。油(画)の中に山部(泰司)とか杉山知子とかがいて。松尾芳樹がいて。すごく、素のまま学校に行って、そういう連中とたまたま飯食ってたり、話してるだけで面白かったんですよ。森村さんも非常勤で先生やってはって、その時発表されてなかったですけど、ものすごく面白い人で。その面白さを発揮しない人だったんですけどね、当時は。外に出さなかったんですけど。すごい面白い人で。森村さんにも、僕は何か、森村さんはすごく思慮深くて、いろんな展覧会とか制作ということにも、なかなかそう簡単に、制作という実践に辿り着いてはいけないという感じで、多分考えてらっしゃったと思うんですよ。でも僕ら東京芸大の連中にも言われたように、ものすごく安直に作品化してしまうので(笑)。そういうことをやってる横で、森村さん、僕らの安直にガンガンやってるのを見て、すごい、イラっとしてはったと思うんですけど(笑)。

池上:何でそんな簡単に、と。

石原:何でそんな簡単に作品に辿り着くんだと。

池上:85年ぐらいとかですかね。

石原:そうです。でもそういう簡単に辿り着く我々が、森村さんすごい面白いと思ってたんで。森村さん一緒に展覧会やりましょうよって、いつも言ってたんですよ(笑)。それで、写真の展覧会を3人で(やりました)。その時代の写真の状況みたいなもの、あまり日本では良くないと僕らは思ってまして。何か自分らの思う写真の展覧会をやりたいと思って。「オレたちは寡黙じゃない」(注:大阪のギャラリーVIEW、1984年)っていう展覧会をやったんですよね。その展覧会が2回、本当は3回やるはずだったんですけど、2回やって。その中で森村さんがゴッホの作品作ったことで、森村さんそれですごい忙しくなられたので、3回目やらなかったんですけど。本当は3回目僕が企画する番だったんですけど。

池上:なんとかなった(笑)。

石原:いや。僕も何か、このまま(笑)。っていうような、ちょっと怠けてしまったんですが。だから、この周りの空間は本当に面白かったんですよ。悌二がしょっちゅうその後、僕非常勤でまた、ずっとここに残りましたんで。

池上:その院生の後すぐ。

石原:院生の後すぐ、非常勤で。ここに残っていましたんで。その時に森村さんと2人でずっと研究室を。サトウさん病気で全然来なかったので。

池上:はい。じゃ、写真の方だったんですか。

石原:写真の授業をやってました。非常勤で。それで、ずっとやってたんですけど、その子らと僕個人的に仲良かったんで。悌二がしょっちゅう遊びにきて、ダムタイプを立ち上げる頃の。

池上:その頃いろいろお話をされたんですか。

石原:うん。よく話しましたね。

池上:どういった話をされていたんですか。

石原:それまで、逆に言うと藤浩志とかがやってた「ザ・カルマ」という劇団がありまして、悌二はカルマにいたんですよね。その劇団にいて。その中から、もう彼のやりたいこととは違うので、藤がやってる演劇的なものと切り離して、ダムタイプっていうものをやりたいと。ダムタイプどんなことやる、あんなことやるみたいなものを、お互い何となく、その時の音楽のことも。彼は元々ミュージシャンですので。その当時に何か、クラブのシーンのことであったり、よく一緒にクラブ行きましたね。

池上:そうなんですか(笑)。

石原:よく一緒にクラブに行きましたね。彼はよく誘ってくれたんですよ。彼はDJもやってて。

池上:そうか。そういうのもされてたんですか。

石原:そうですね。クラブイベントを、一方でオフィシャルな美術をやってるってこととは別に、彼らと、僕は横で見てること多かったですけど、クラブイベントを立ち上げていく、関西のクラブシーンを立ち上げていくというのをずっとやってたんですね。DJから何から、皆で。

牧口:音楽好きの方々が集まって。

石原:そうです。やって。日本のクラブシーンを。古橋君がしょっちゅうニューヨークに行って、帰って、往復していたので。日本のクラブシーンが面白くないので、何か自分らの行けるイベントを作りたかったんですよね、彼は。

池上:なるほど。

石原:そうやって一緒に、そういうことして遊びながらその中で、こんなことしたい、あんな事したいっていうことを、彼とよく話をしました。

池上:なるほど。

石原:だから、本当面白かったですよ。いろんな人がいたんです。皆今のような、あの皆今すごく有名な人ですけれども、そういうことをやり始める時期だったんですよ(笑)。皆が。

池上:なるほど。結構いろんな。忙しかったわけですね(笑)。

石原:忙しい気は、あんまりなかったですよね。毎日遊んでたというか、いろんな人と会って、好きなもの作って。展覧会は確かに忙しかったんですけれども。その頃何か、今スケジュール見たら、年に十数回か展覧会してたりしますからね(笑)。毎月1本とか、2週間に1本ぐらい展覧会やってたみたいな時代でしたから。

池上:その中で、展覧会の搬出入があって、そのための作品も作って、非常勤もされてて。その非常勤の他に生計たてたりっていうのは。

石原:写真屋さんをやってましたので、現代美術の作品写真っていう仕事をやってまして。

池上:あの、インスタレーションとかの写真の撮影ってことですか。

石原:当時80年代の半ばぐらいから終わりぐらいにかけては、いろんな人の写真を撮ってましたね。

池上:松井紫朗さんとかも。

石原:松井紫朗君はもう、全部そうですね。

池上:じゃ、そういう仕事を。

石原:そういう人他にあんまりいなかったんですよ。

池上:そうなんですか。

石原:当時は。いなかったので。元々僕写真の作品作ってて、機材が中判なり大判なりのカメラを、自分で作品の機材で使いたかったりとか。ストロボを使いたかったりとかするんですけど。高いので。それ、親からお金借りたりとかして買うと、それで採算を取らなきゃいけないんですけどね(笑)。何かそれを使って、友達の友達だったり、知り合いのギャラリーとかに頼まれて。何となく最初友達のを撮ってたら、だんだんいろんな人に頼まれるようになって、知らない間に仕事になっちゃったんですよ。

池上:そういうことだったんですか。

石原:それで、ずっとやってる間にキュレーターの方々も、声をかけてくれるようになって。ギャラリーさんとか、あと中村敬治さんとかが、美術館の仕事をずっと。

池上:(国立)国際(美術館)。

石原:国際ずっと撮ってましたね。ある時期。

池上:そういう形でずっと。

石原:そうですね。

池上:続けて。

石原:だから、そっちで写真の仕事と非常勤の仕事で、生計をたててましたね。写真屋さんはもちろん現代美術の写真だけじゃなくって、何か頼まれて、ディスプレイ撮りにいったりとか。

池上:そうなんですか。

石原:建築撮りに行ったりとか。そんなこともしてました。写真屋さんで一応飯が食える状況をこっちで作っておいて、制作していましたね。それも、でも皆一緒くたなんですよ、遊びも。皆同じような美術関係とか人間関係の中でやってて、それが勝手に広がっていくみたいな感じだったんで。

池上:その中にこう、作品の制作。

石原:そうですね。

池上:(それらが)同じ感じで、ある感じですか。そろそろ作ろうかなみたいな感じで。

石原:ええ。まぁ作品は、やっぱり自分の作品作るのは特別というか、それが中心だというふうには考えてましたけれども。でも人間関係もやってることもそんなに極端に違うことやってないから、あんまり頭を切り替えなくてもできる。

池上:なるほど。

石原:いつも美術のことっていうか、そういうこと考えてた時期ですよね。他のこと何も考えてなかった。楽でしたけどね。

池上:楽でしたか。

石原:頭の使い方が一通りでいいっていうの、僕切り替えがものすごい下手なので。一通りにしよう、しようとしてやってきたので。その時期上手く一通りに出来てたんですよ。

池上:そういう環境も。

石原:教えてたって、別に教員、今でもそうですけど、教員のような顔をあまり出来ないので。一応作家のスタンスというか、そこでのものの考え方と教員とあまり切り替えたことがないので。一通りの頭の使い方で、出来るだけ出来るようにしてきてるんですけどね。その時が一番、表の顔が全部一緒だったんですよね。写真屋さんやってるときも。作家やってるときも、教えてるときも、同じ顔でやってましたから(笑)。

池上:そうか。それが80年代。

石原:から、90年代の時期ですかね。ヴェニスが88年ですから、その後スパイラルの個展が89年ですから。

池上:そうですね。

石原:そのあたりで、ちょっと大きい展覧会をやり出すようになったので、それまではわりとそういう感じで。

牧口:ヴェニスのことを。ヴェニスのお話だけもう少しお伺いしてもよろしいですか。

石原:はい。いいですよ。

牧口:出品される、選ばれた経緯みたいなものって。

石原:南條(史生)さん(注:1949年生、美術評論家・インディペンデントキュレーター)からいきなり電話がかかってきたんですよ。南條さんからいきなり連絡があって、ヴェニス・ビエンナーレに出してくれって。アペルトっていうののコミッショナーを今年僕がやってるんですけども、それに出してくれないかというふうに依頼があって。もう、何のことだか分からないというか。

池上:それって、ビエンナーレ自体のことはご存知でしたか?

石原:もうそんな情報全くないです。なかったですよ。本当にもう、(国際)交流基金の人に聞いてもよく分からないぐらいの感じで(笑)。身の回りの人、誰に聞いても何にもわかんない。なかったですよね。

池上:あれまで本当に何か、画壇で大御所の人が日本館で出すような形で、いきなり若手中堅の方がポンとこう、海外行く時代ではなかったですよね。

石原:唯一ちょっと情報知っておられたのは、小清水(漸)さんだったんですけど、小清水さんアペルトに昔出しておられるそうなんですよ。

池上:そうなんですか。

石原:ただ、聞いたら作品を送っただけって(笑)、言っておられて。作品送って展覧会会期中に行かれたとか、何かそんな記憶があるんですけど。でも、どういうふうにやったかとか全然覚えてない、って言っておられたので。

池上:南條さんとは以前面識とか(あったのですか)。何か作品を見られたのですかね。

石原:いや、特に。どこかでご覧になってたんでしょうね。おっしゃってたのは、その前の、栃木(県立美術館)の「現代美術になった写真」(1987年)という、山本(和弘)さん(注:同館学芸員)の。

池上:はい。

石原:それすごく山本さんと初めて、初めてではないですね。2回目に一緒にやった展覧会で、すごく力入れていただいた展覧会だったんですけども。そこで、その展覧会で森村さんも出しておられたんですけど。南條さんはその展覧会で僕と森村さんの仕事を見て言ってこられたように、おっしゃってたんですかね。

池上:ヴェニスに出されてる作品は、これですよね(《約束(IV)》1988年、東京都現代美術館蔵)。

石原:これですね。

池上:これは、フロッタージュ。

石原:これも床のフロッタージュですね。これでも、21mぐらいあるんですけど、床がそんなに長いわけじゃないので。巻きつつ。

池上:巻き延ばしつつ。そうですか。これ外が金色なんですか。

石原:外は金ですね。

池上:これは南條さんが、こういう感じの作品っていうのを。

石原:いえ。このタイプのセルフポートレイトを、って。その当時もう、革の立体作ってたんですよ。革の立体をやり始めてたんです。

池上:そうですね。

石原:何かそういうのは、こういうのを今作っているんだけどもって言ったら、南條さんはこの作品を出してほしいっておっしゃられたので。このタイプの作品の新作をということで、これを作って。会場のスペースに合わせてインスタレーションをして出しました。

池上:事前にスペース(の情報)って分かってたのですか。

石原:ブースのサイズが分かってただけです。

池上:なるほど。はい。区切り区切りで。それに合わせてこの(作品を)。

石原:出しましたね。

牧口:実際に展示のインスタレーションの作業には。

石原:行きましたね。行ったんですけど、行っても事務局の場所も分からないですし、誰かガイドしてくれるわけでもないですからね。森村さんと一緒に行って、船がサンマルコ広場に着いて、どこへ行きゃいいんだろうって(笑)。書類が送られてきたこの住所のとこへ行くべきなんだろうかと思って、降りてちょっと歩いた所でたまたま先乗りしていた宮島(達男)がいたんですよ。よく会ったなって、今でも思いますよね(笑)。あの時。よくあそこで会ったなって思いますけど。いやいや、事務局はあそこだし、って教えてくれて。

池上:なるほど。じゃ、わりとバラバラに行かれたんですか。

石原:バラバラですね。森村さんと一緒に行きましたけどね。で、そこに行って。

池上:何か作品なかなか出てこなかった。

石原:作品出てこなかったですね。

池上:船便ですよね。

石原:船便で、ヴェニスの大きい倉庫の中には皆の作品が着いてるんですよ。それを順番に運び出してきて、船に載せて来て。アペルトの会場に降ろして、ってやるんですけど。延々出てこないですよね。毎日、「今日は来てる?」って。

池上:何日も待たれてるんですか(笑)。

石原:何日もですよ、もちろん。今日は来てる?って言ったら、「んー昼からかな」って言って帰って、飯とか食って、ぶらぶらして。昼1時に行ったら、「来てる?」って言ったら、まだ、夕方にもういっぺん。で夕方に行くとまだ来てなくって「明日かな」っていうのが何日か続きましたね。ヴェニスはそんなんなんですよ。下手したら、最後まで出てこない(笑)。しょうがないので、あんまりにも出てこないから、その倉庫にまで船に乗って行ったんですよね。もう、事務局に言っても埒があかないので、船から運び出してくる作業してる人たちに頼んで、連れて行ってもらって。向こうで探して、載せて持って来てっていうのを、何人かの日本人作家と一緒にやりましたね(笑)。

池上:協力して。展示自体はスムーズに。

石原:はい。日本人だけではなく、他の外国人の作家も出て来たり。一緒にやりましょう(笑)。

池上:みんな探しに来てるわけですね(笑)。

石原:皆だんだん毎日来ないから、そういう人ら同士仲良くなっていくんですよね(笑)。

池上:あいつまた待ってるみたいな。

石原:いや、まだやで、とか(笑)。それも取りに行ったらいいよっていうのは、それで一緒に毎日待ってたアメリカ人の作家が、向こうに行ったらあるよ、みたいな(ことを)言い出して(笑)。僕ら今さっき取りに行って来た、って言ってたから、じゃ、僕らも行くわ、っていう感じでしたね。

池上:展示してそのまま、ヴェルニサージュとかもおられたんですか。

石原:はい。いました。

池上:どんな感じでしたか。

石原:いや、全然自分らの知らない美術の世界っていうのものがあるんだなとは、その時初めて知りましたね。

池上:特にその頃、ヨーロッパとかアメリカとか他の国の、特にアペルトですから、若い方の美術ですよね。そういうのご覧になって、何か印象に残ってることとかありますか。

石原:印象に残ってるのは、ヴェニス・ビエンナーレのアペルトはアペルトであって、こっちでパヴィリオンがあるんですけど。その、アペルトに出してるぐらいの時点ではそれほど、皆やっぱり面白いし、自分らの作品がその中でそんなに、何て言うのか、見劣りするということはなく、皆同じようなレベルでいるんですよ。皆新人の作家みたいなもので、皆それなりのクオリティもあるし。面白いものもいっぱいあるんですが。パヴィリオンに行くと、ヨーロッパの作家とかものすごく作品が分厚いんですよね。作品の量もですけど。作品から見れるものが分厚くって。アペルトの段階では同じような感じなのに、パヴィリオンに行ってこの厚みは何なんだろうと思ったんですよ。中にはこの数年前にはアペルトに出してて、パヴィリオンに出してる人もいるんですけど。その間の経験が全然違うような気がしました。アペルトあたりなり、新人的な所でやって国際展みたいな経験も積んでいく。パヴィリオンで個展をやるぐらいの人になるまでの、そこのプロセスが全然違うんだろうなと思いました。それが良いか悪いかわかんないですけど、とにかくそこは日本では全然そういうものがないのだろうと思いました。

池上:制度的というか、構造的に。

石原:はい。

池上:当時、海外でポンポン発表される方って、そんなに。

石原:ないですね。

池上:ないですね。

石原:実際に、ヴェルニサージュの時にいた日本人っていうのは、作家以外には『アトリエ』(注:美術雑誌)の小倉(正史、美術評論家)さんと長谷川祐子さんしかいなかったですからね。そら、観光客には日本人いっぱいいますけど(笑)。その2人だけでしたよ。あと原美術館の館長の原(俊夫)さん。その人らしかヴェルニサージュにはいなかったですし。取材なんか一切なかったですし。宮島君が当時『アトリエ』の副編集長やっていたので、自分で取材していました(笑)。

池上:どうですか(笑)。あの、宮島さんとか森村さん。結構やっぱりそこのアペルトで、向こうの雑誌とかでもちょっと出てたりとか。わりとそれから。

石原:特に宮島君ですね。

池上:そうですね。

石原:宮島君のアペルトのヴェルニサージュの時、すごく評判を取った作家の一人です。

池上:そのまますぐ、イタリアで個展なんかされて。

石原:そうですね。いろんな展覧会の誘いがその時もう既にあったのだと思います。

池上:すごく、形として新しいですよね。そういう若い作家が、国際展にポンと出て、日本にいて制作しながら、海外の展覧会にポンポン出品して。

石原:それはその時に、一緒に出してた森村さんとか、宮島君とヴェニスで話してたことの中に、そういうようなことはあったんですよね。何となく僕ら皆が思ってたことだと思うんですけど、海外にそうやって出て、それで逆輸入的に日本で評価されてみたいな、そういうのってつまらないなって話はしてましたね。日本に、別に日本にいるままで、海外の展覧会に普通に出せばいいよねとか。

池上:そうですね。今でこそ珍しくないスタイルですけど。当時はもう海外でやろうと思えば、例えばパリならパリとか、ニューヨークへ行っちゃって、そこに住んでそこのコミュニティに溶け込んでというような形、スタイルしかない時代ではありましたよね。

石原:そういうものをきっかけに留学されるという人も多くて、それはそれで1つの方法なので、それは別に否定してるわけではないのですが。そのままずっと海外に住み着いてみたいな感じも一つ、作家の先輩方も多かったと思うんですけれども。日本にいるままで、もうそろそろ日本の情報を発信できる状況になってるんじゃなかろうかということは、何となく思ってました。

池上:向こうの反応というか、いろんなその変化として感じられましたか。

石原:そうですね。いくつか展覧会も、これは実現しなかったんですけど幾つか誘いをもらったりはしましたね。

池上:そうですか。ヨーロッパ辺りで。

石原:ヨーロッパですね。ヨーロッパのギャラリーで展覧会を、っていう話とかあったりとか。あと、向こうの人もそれが当たり前だと思ってたんだろうけれども、皆いろんなギャラリーの人とかキュレーターが、いつアメリカに渡ってくるのとか、いつヨーロッパに渡ってくるのっていうことを聞くんですよね。皆そうやって、何かきっかけを掴んだら来るんだと思ってると思うんですよ。で、いやいや、別に今のところ行く予定はないというか。行くつもりはないと思ってたので。そんなこともいろいろ含めて、どうやっていいか全く分からないので。自分で英語で手紙書いて交渉してみたいなことで上手くいくとも……。何かこっちからもっと積極的に働きかけて、声かけてくれた所に働きかけて、しなきゃいけないのかも知れないですけれども。まあまあ、本気でやりたければ、向こうは何度も言ってくるでしょうから。そんなもんなんですよ。その時に、自分らのある程度状況とか、置かれてる所とかがちょっとそこから見えたので良かったです。

池上:なるほど。

石原:関西でずっとやってたので。

池上:しかもこの辺ですもんね(笑)。

石原:この辺で(笑)。この辺りの人間関係でやってたので(笑)。

池上:なるほど。

石原:面白かったですよね。その都度、何かやる度に新しく、面白いものが見れたのが、良かったですよね。

池上:その後、国際交流基金の巡回展とか、ヨーロッパの方へ結構作品が行ってますよね。

石原:時々、そういうのがありますね。でも、(国際)交流基金でやると日本の現代美術っていうタイトルがついてるので。そこでの見られ方とは、全然違いますから。アペルトに出すのは。

池上:アペルトは全然分からないですね。

石原:人種が何人かとか、今何処に住んでるとか、そういうことは。むしろ今何処にいるのかが重要なので(笑)。

池上:そのコンセプト的なものとか、作り方とか、そういう所での違和感も、違和感というのかな、ほとんど全く感じなかったですか。

石原:全然なかったですけどね。僕は感じなかったですね。

池上:やっぱりコンテンポラリー。特に写真とかって、民主的なメディアで。

石原:そうですね。違いがあんまり、感じなかったですね。

池上:なるほど。先生ご自身はそのヴェニスの後、積極的に何か変えようとか、変わろうとか言うのではなくって、わりと前と行った後が、何かスタンスとしては。

石原:そうですね。僕いいかげんなのでね(笑)。表に出ないんですよね。自分からあんまり働きかけたりしなくって。

池上:そうやって違う視点で外から、今の状況、いろんな状況捉えられて。で、戻られて。かたや、言い方はあれですけど、宮島さんとかバンバンその後。

石原:いや。それはもう単純に本人の姿勢もありますけど、やっぱり周りの評価であったりとか。彼は本当にえらくって、ちゃんともうヴェニスに行くのにも、ACC(Asian Cultural Council)の申請はして行ったような気がするな。

池上:その時、(ヴェニスの)直後ですもんね。

石原:はい。直後に行ってますし。

池上:その後すぐ、またね。

石原:はい。だからヴェニスで評価とかされたから行ったとか、そんなんじゃなくって。彼はこうやってこうやってみたいなのをいろいろずっと考えていたのだと思いますよ。

池上:1つのロールモデル作られてる部分ありますよね(笑)。ビエンナーレに行ってそれでACC(注:1990年)でDAAD(注:ドイツ文化省芸術家留学基金、1990-1991年)で。フランスのファンデーション(注:カルティエ現代美術財団アーティスト・イン・レジデンス・プログラム、1993年)取ってとかね。

石原:そういうもの、取れるだけいろいろ取ってっていうふうに彼はちゃんとやってたんでしょう。で、すごいそれは偉いと。宮島君というのは、本当にそういうもの切り拓いて来た人だと思いますよ。

池上:そうですね。今みんなそれをモデルに、若い人やろうとしてて。

石原:だから、あの世代の僕らのそういう世代の人たちの、そういうやり方を僕はあまりやらなかったですけど。その古橋が切り拓いてきたこととか、森村さんが切り拓いてきたことっていうのは、本当に誰もやってなかったことですから。画商さんがこうすりゃいいよって教えてくれるわけでもなければ。

池上:そうですね。

石原:だからむしろ、あの人たちが画商さんにこうしてくれって言って、引っ張ってきましたからね。作品の値段のつけ方から何から何まで、全部自分らで引っ張っていってると思いますよ。今あるいろんなニーズっていうのは、皆が手探りでその時代に決めていったものだと思いますよ。

池上:そうですね。こう、ツールがなかった頃に、そういう海外とか行ったら。何か印象として、ちょうどヴェニスの後ぐらいに大きな革の彫刻が出てきた印象が、年譜とか見てたらあったんですけど。でも、それはもう前からやってた仕事っていうことですね。

石原:その前からやってました。はい。最初ヴェニスでそれ出したいって言ったんですよ。革の彫刻2点を出したいって言ったんですよ。最初。でも、そっちより元から決めてこれを出したいっていう、多分いろんな、この中からやるっていうプレゼンテーションをコミッショナーとした中では、その作品は入ってなかったんだと思うので。

池上:なるほど。基本的にスタンスは、前と後とそんなに変わらないという、新しいものを見てきた。

石原:変わらないですね。ただ、今となっては何かそうやっていろいろなものを、ガンガン作品変わっていったりする事も普通に見てもらえるんですけど、当時あそこまで作品変わると皆別人だと思ってましたから。

池上:よく何か言われているというか、書かれてますよね。発表ごとにどんどん変わる、得体が知れないというか(笑)。掴み所がないような感じのことはよく、ね、書かれてましたよね。

石原:だから、扱いにくいし。で、安定した状態で扱いにくい作家だったと思うんですよ(笑)。作品のスタイルとしてはね。ですから、それはもうしょうがないですね。そういうフォーム自体を、どっか入れるかみたいなこと自体が作品の興味の中心なので。

池上:それってご自身のスタイルっていうか、それも一緒ということで。

石原:そうですね。それも同じですね。何か個人のアイデンティティーを固めていくのではなくて、どう変形させられるかということの方が、それも次回のフォームのように捉えているので。でもこうやってカタログ、池上さんにも作っていただいたんですけど。そうやって出てくるある作家像のフォームがあるわけですよね。

池上:そうですね。やっぱり栃木の(個展)(注:「美術館へのパッサージュ 石原友明展」1998年)は栃木ので、何か、山本さんの見た(作家のフォームが)(笑)。

石原:見た(フォーム)(笑)。それは僕は本当に人任せなんですよ。自分で自分の作家としてのフォームを決めたいとか全然思ってなくって。いろんな人の解釈の中で、いろんなフォームを取りうるという。

池上:あんまりコントロールしたいとかは。

石原:思わないです。

池上:そうですか。

石原:何か、無理矢理コントロールする人には、ちょっと待ってって言いますけど(笑)。ある程度その人の解釈だと思うんですよ。展覧会を作ることとか、作家の美術史を作ることっていうのは、僕らの仕事ではないので。それは美術史家なりの仕事なので。僕らはもとになる現場の材料を作るというか、作品自体を作るのが仕事ですから。あんまり作家の見られ方とか、その自分の歴史的なものを、自分でコントロールしたいとは全然思わない。こうやって、キュレーターの人と共同で仕事するのはすごく好きなので。

池上:面白いですよね。先生、いろんなタイプの作品があって、それぞれの作品も、いろんな意味を含んでいたりとか。いろんな見え方をする部分があったりして。わりと好みが出ますよね(笑)。キュレーターであったりとか。

石原:そうですね。

池上:見る人の、どこをピックアップするとか、とかいう。どういう所に注目して、その作品ピックアップするのかとか。そういう所は非常に、いろいろそういった所考え込んだ上で作っておられるのか、どうなのかなと。

石原:いや、そうなってしまったんですよ(笑)。自分は今こういうものを作るべきであるというような。その都度、こんなに変わって全然違うように見えるかも、っていうのは思うんですよ。素材も違いますし(笑)。でも、何か今はこれを作るべきであると、その都度あって作るんですよね。前に対して変えたいから作ってるわけじゃなくて、こうやって作っていったら次には発想というか、だんだんこっちに興味が動いていくので。これをやってきた結果、こういう興味が出てきて、それをやるとこういうフォームにならざるをえないというような格好で移っていきますので。

池上:ならざるを得ないんですか。

石原:フォームを、人によってはやっぱりフォームを安定させることというか、スタイルを安定させることで、いろんな問題にアプローチ出来る人がいると思うんですけど。僕は何かそれでもないですね。

池上:曰く言いがたいですけど、わりと個々の作品、照準がパチッと合ってる気がするんですよね。作品が。そういう所はこう、いろんな解釈出来る。それ大事な部分ですよね。こう、しっかり。

石原:ですから、定点を作っちゃって、スタイルを決めて定点を作って、いろんな興味あたって行くというよりは、わりと相対的にこっちも動くんだけれども。こっちも動いて両方動いて行くから、分かりにくいとは思うんですよね。僕自身も何か、相手の対象が動いて行くことで自分も動いていっちゃうんですよ。定点を決めて、その個人という定点があって、そこが周りの時代とか、技術が変化して行くことでそれに対応していくっていうふうにした方が、多分外形的には分かりやすいんだと思います。そこはもう自分の性質なので仕方がないですね。

池上:ギリギリです。はい。

石原:何かこんなので良かったんでしょうか。

池上:思った程度作品(の話)が入ってきましたので、すごくありがたかったですね。

牧口:じゃ、第1回目は、これで終わらせていただきたいと。ありがとうございました。