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石元泰博オーラル・ヒストリー 2008年4月6日

東京都品川区 石元泰博自宅にて
インタヴュアー:中森康文、鷲田めるろ
書き起こし:佐藤恵美
校正協力:フォト・ギャラリー・インターナショナル
公開日:2009年6月1日
 
石元泰博(いしもと・やすひろ 1921年〜2012年)
写真家
アメリカ、サンフランシスコに生まれ、3歳で高知に帰国し、17歳で再渡米。太平洋戦争中のアマチ収容所で写真に興味を持ち、シカゴのインスティテュート・オブ・デザインで写真を学ぶ。1953年、再来日。モダニズムの写真家として『シカゴ、シカゴ』、『桂』、『伝真言院両界曼荼羅』などの写真で知られる。インタヴューでは、収容所時代やシカゴ・インスティテュート・デザインでの教育、MoMAのキュレーターや丹下健三などとの交遊について語られる。インタビュアーの中森康文は、本インタヴューの後、所属するヒューストン美術館で2010年に石元の個展を企画・開催した。

鷲田:まず最初にお生まれのことからなんですが、サンフランシスコでお生まれになって・・・。

石元:サンフランシスコで生まれて、うちの母から聞いているのはね、産婆さんも知っているのよ。産婆さんはね、村山なみえっていうのがね、産婆さんですね。それで、この村山っていうのは、村山たもつという人が旦那さんで、どういうわけかサンフランシスコに、朝日のファウンダーの一員らしいの。

中森:朝日新聞ですか?

石元:うん。そういう人がアメリカに行っていて、産婆さんで、そこで生まれたんだよね。この人がファウンダーの一人だって言われているんだけれども、そう聞いているの。

鷲田:三歳のときに高知に帰ってこられた・・・。

石元:三歳のときに帰ってきたんだよね。

鷲田:サンフランシスコでの当時のことは覚えてはいらっしゃらないんですよね。

石元:なんにも覚えていない。

鷲田:高知で高校まで行かれて、農業の勉強をされていたのですか。

石元:そう。農業やるんだけれども、長男だから、うちの親父が農業をやっていたから、農業にいかされちゃったわけ。自分では工業学校に行きたかったわけ。だけど、長男だから、うちを継がなきゃいけないから、それで農業やるっていうことで、農業学校行かされたわけ。

鷲田:大きい田圃があったんですか?

石元:大したことないの。行った農業学校の校長が、「Boys be ambitious」のクラーク博士の札幌農学校(出身)。最初の連中が。農業学校の最初の人、武士道を書いた新渡戸(稲造)。あの連中が一番最初なんだよ。北海道のあそこ(註:札幌農学校)に最初に行った人に、5人くらい有名な人がいるでしょ。それからどのくらい経ってか分からないんだけれども、高知の農業学校の校長なんかがそこに行っていたわけ。小川校長って言うのがね。優秀だったらしいんだけれども。その校長がモダンだったのよね。そういうことで、最初の出会いは恵まれていたと思うのよね。

中森:18歳(17歳)でアメリカに帰りましたよね。そのときに、どうして帰ることになったかをお話いただけませんか?

石元:農業学校に行っていて、うちの母が、アメリカに生まれてアメリカの市民権を持っているから、行く権利があるんだっていうことを言って、それはそのとおりだから、中国と戦争やるちょっと前だから、自分が兵隊にとられなくても、アメリカに行けば済むでしょう。そういうことを考えたと思うのよ。それで農業学校に行った時の配属将校が、陸大を出た現役のばりばりの将校だったのよね。少佐だった。農業学校をでてすぐ2週間ぐらいで、アメリカに行ったのよ。その時にその配属将校に挨拶にいったわけ。それで、配属将校にしかられると思っていたわけ。でも少佐は、アメリカに行ったら、しばらく帰ってくるなと言ったの。兵隊にとられるとつまらないから。アメリカに行くのは反対だと言われると思ったのよね。だけど、アメリカに行くのを喜んでくれたのよ、その配属将校が。それがすごくうれしかった。

鷲田:その将校は特殊な人だった・・・。

石元:特殊な人だったろうね。そのことをアメリカから帰って、日経新聞に書いたの。そしたらその息子さんが、阪大の教授だったの。手紙をくれて、お母さんに聞いても不思議だったのは、少佐にも拘らずその人の書庫にはその当時の軍人らしからぬ本がずいぶんあったっていうわけ。それが陸大を出て間もなくだったから、陸大の中にも進歩派の人もいたわけね。そういう書物がいっぱいあって、それがどうしても理解できなかったわけね、息子さんにはね。それでアメリカに行くときに、いってらっしゃいと言ってくれたことが理解できたっていうわけ。書物があったからね。それで、手紙何回ももらって付き合いしてたんだけれどもね。

鷲田:帰ってこられて新聞に書かれたというのは、1953年頃の話ですか?桂の写真を撮られた頃の?

石元:桂は54年だからね。

鷲田:新聞に書かれたのはそれよりも前のことですか?

石元:シカゴに行く前だったかね、後だったかね。シカゴに69年に行くわけよね。

中森:59年にも行っていらっしゃいますよね。一回「シカゴ、シカゴ」を撮りに、帰ってますよね。

石元:それの後だと思う、新聞に書いたのは。

中森:じゃあ、60年に入ってからですね。

石元:そういうことで、農業学校の校長もすごくよかったし、配属将校も恵まれていたんだよね。いい人だった。

鷲田:それでサンフランシスコに行かれて、農業の学校に行かれたんですか。

石元:農業やるつもりで行ったんだけれどもね、今で言うと、バイオの関係をやりたかったの。ちょっと行ったんだけど、戦争が始まったから行けなくなって。

中森:どのようなプロセスで、アマチ・キャンプに行くことになったんですか?ある日突然、日本人だから?

石元:ある日突然。

中森:じゃあ、起こされて、今からキャンプに行くぞ、みたいな感じで・・・。

石元:そうそう、そういう格好だったね。だけどその前にね、ヘイワードというところの近くに住んでいた。

中森:そうですね、カリフォルニアのヘイワード。

石元:それで、中島という家で働いていたのね。そこから学校に行かせてもらっていたわけ。それで中島という人の弟がサクラメントの方に住んでいたわけ。それで、トマト作っていたわけ。戦争の始まってから、じき、サクラメントの方に中島という一家が移っちゃったわけ。そこでトマトの苗を植えて、キャンプに行くことになったわけ。それ(植えるの)をさぼっちゃうと、サボタージュやるみたいなことになって、おかしくなるから、(キャンプに行く前に)だまって植えていったわけだけれどね。だけど戦争になったから、トマトの苗を植えていくわけだけれども、理解があるわけ、トマト植えのね、ちっちゃいね。マークのところに植えていくわけ。あんまり素直にやっても面白くないから、アメリカに行って、あんまり間も経っていないから、ちょっと水を根元からずらしたところにあげちゃうとかね、そういうことをやったんだよ(笑)。それですぐキャンプに入ったんだよね。だから、行く前にそのことをやっていかなきゃいけなかったわけ。

中森:キャンプでの生活は?

石元:キャンプに入って、5月には、日本が、ミッドウェーで戦争やって、負けると分かったわけ、アメリカではね。だから、それまでは、日本人はカメラを持てなかったわけね。だけど5月に航空母艦なんかが、やられたでしょ。それで日本が戦争に負けたってことがアメリカでは分かっちゃったわけね。それでカメラ持っても良くなって。それでアメリカに行って買っていたコダックの35mmのカメラをね、オークランドにいた友達、スクールボーイみたいなことをやっていた人、誰か忘れたんだけれど、そこに預けて、それでキャンプに入って、5月になって、もうカメラ持っても良くなって、送ってもらって、カメラを手に入れたわけよ。

鷲田:その後、ずっとカメラを覚えて、だんだん・・・

石元:それで、キャンプに入った時にね、井上っていうのがいたんだけれども、カメラの好きなのがいてね、その井上って男は写真が好きだって、トマトケチャップの缶をランプハウスにして、その中に電球を突っ込んで、下にカメラを付けて、昔の、なんていうカメラかねぇ、四角い、蛇腹の付いたカメラがあって、間にフィルム入れて、伸ばし機を作っていたんだよ。器用な男で。そこで写真の伸ばしを習ったわけ。

鷲田:その後、キャンプを出られてから、学校に?

石元:キャンプで35mmで撮っていたんだけれども、その時に、トシ・マツモトという、後には有名になった男なんだよね、MoMAのスタイケンなんかが評価していたのよ。その男と、キャンプに、ちょうどアマチに行って、知り合いになって、写真を撮っていたんだけれども、彼は、ニューヨークに行けたわけ。自分はニューヨークに行けなかったわけ。日本で、学校で、軍事教練を受けていたから。それで、ニューヨークに行けなくって、シカゴに行ったわけ。

中森:先生は、帰米二世だったので、帰米二世というのは、一回日本に帰って、また帰ってきているから、日本で政治的な教育を受けているというところがあったから、港のあるところには行けないわけですよ。内陸に行くんだったら、出てもいい、っていうことで、それでシカゴに行くんですよね。

石元 軍事教練みたいなことをやっていたでしょ。それで、アメリカで拒否されたわけよね。大したことやっているわけではないのよ、普通の学生でやってたんだから。とにかく、海のある方には行けないわけ。ニューヨークだと海に近いでしょ。だから行けなくて、それで、内陸のシカゴだったらいいってことで、それでキャンプからシカゴに出たわけ。シカゴに出たのは、本当に良かったんだよ。シカゴにいて、インスティテュート・オブ・デザインに入れたわけでしょ。ニューヨークに行ったら入れてないわけだから。そういうのは、すごく良かったわけよ。

鷲田:スタイケンと後に出会われる時に、トシ・マツモトさんは何か関係しておられたのですか?

石元:マツモトもね、初期はニューヨークでも会わなかったの。だけど、スタイケンが話したし、写真もスタイケンが、持ってたしね。『ハーパース・バザール』か何かのを撮ってたんだよ。だけどニューヨークで、一度くらい会ったわけだよね、あれ。どういうわけか会ったんだよ。彼はいいところ、『ハーパース・バザール』なんかでやっていて。(自分は)学校行って、卒業して、卒業する前から、スタイケンに写真を見てもらうのに持って行ってたんですよね。どういうわけか、気に入られちゃって、それで、「ファミリー・オブ・マン」に写真を2枚ほど入れているのよ。それで、日本で、桂の撮影に入るのよね、スタイケンにアーサー・ドレクスラーを紹介されて。(註:1953年3月25日アーサー・ドレクスラー来日。ドレクスラーと吉村順三に会い、一緒に京都・奈良を廻る。何カ所か廻った一つが桂だった。)

中森:53年にスタイケンが石元先生を含むグループ展覧会をやってますよね。タイトルは確か「Always like young strangers」という題で。

石元:あ、そう。

中森:スタイケンが近代美術館で先生の写真を見せているんですよ。覚えていらっしゃるかしら。

石元:あ、そう。覚えていない。

鷲田:最初にスタイケンに会われたのは、どこでどのように会われたのですか。

石元:スタイケンって、今で言えば大変な人だけれども、あの当時、シカゴに行った先生がキャラハンだったでしょ。キャラハンから紹介でスタイケンに会ったわけね。

鷲田:ニューヨークに行ってお会いになったのですか。

石元:会ったわけね。キャラハンが写真の先生、って言っても、ちょっと先輩くらいの感じにしか思ってないしね。それで、スタイケンって言っても、美術館のキュレーターで、そんなにえらいとも思ってなかったのよね、あの当時は。グレース・メイヤーと二人がやっていたのよね。

中森:グレイス・メイヤーは、MoMAのアソシエイト・キュレーターだった人で、スタイケンの下にいた人です。近代美術館のアーカイブに行ったんですよ。そこで、グレースさんと石元先生の間の書簡が見つかりましたよ。

石元:あの時の手紙で、大事なやつを、ポール・ストランドの手紙をもらったんだよ。それ、無くしちゃって。

鷲田:「ファミリー・オブ・マン」の。

石元:あれが日本に来てね、(スタイケンに)日本に帰ると言ったもんだから、帰ったら日本のを集めてほしいと頼まれたわけ。

鷲田:どういう写真を集めてほしい、とか(指示が)あったのですか。

石元:「ファミリー・オブ・マン」に合う写真だよ。

鷲田:人のポートレートを撮っているような人なら誰でもよいというような感じだったのでしょうか。

石元:とにかくね、日本に帰って、近代美術館に行ったの。それから、アサヒカメラに行ってね。アサヒカメラでね、津村秀夫(註:映画評論家。「Q」の名で映画評論を書く)という人がいて、津村秀夫に話したら、(自分が)まだ帰ってきたばかりでしょう、ほとんど、認めてないんだよね。アメリカから帰ったばっかりだから。それで、スタイケンにもう一回手紙を書いて、スタイケンからの紹介状を待って、来てほしいと言われたの。もらったんだけれども、やっている間に、どうしたのかなぁ、トシ・マツモトの写真を預かっていて。津村秀夫に見せたら、この写真、あんまり良くない、って言われて。それで、しばらくして、その写真が、「Life」かなんかに出ちゃったわけ。それで、それ見せたらね、その時になって津村秀夫がその写真が良いっていい始めたわけ。初めは良くないって言っていてね、日本で使えない、って言っていてね、それで向こうで出たら、いいって言い始めたから、津村秀夫もあんまり信用しなかったわけね。それで、東京の近代美術館の今泉篤男に話しても、そこでも、スタイケンから手紙もらってからしてほしい、って、それで、それもらってやっていたんだけれども、そんなことやっている間に間に合わなくなったんだよね。それで、「ファミリー・オブ・マン」の写真はなにもやらなかったの。それで、桂の方のアーサー・ドレクスラー(MoMAの建築キューレーター)と、吉村順三さんと、3人で京都に行って、京都をくるくる廻って。

鷲田:結局は「ファミリー・オブ・マン」の写真は、集めるということはされなかった?

石元:うん、やらなかった。頼まれたけれども、アサヒカメラも、近代美術館も、もそもそやっている間に、時間が経ってしまって。

鷲田:そうなんですか。「ファミリー・オブ・マン」の展覧会自体は、石元先生はご覧になっているんですか。

石元:その時は委員でね。

鷲田:日本に巡回してきた時?

石元:最初から関わっていたからね。木村伊兵衛や、丹下さんなんかが、委員で。で、入れてはくれているんだけれども、大した役割はやらせてもらえなかったんだよね。

中森:会場デザインは、丹下事務所ですよね。

石元:はい。

中森:大谷(幸夫)さんがたしかデザインしたんですよね。

石元:はい。

中森:ちょっと戻るんですけれども、インスティテュート・オブ・デザインでの教育のカリキュラムに関して、少しお話をいただけませんでしょうか。モホリ=ナギが先生が入ってくる頃には死んでいて・・・。

石元:入った時は、48年だったんだよね。モホリ=ナギは亡くなって2年ほど経ってたわけよね。はじめはモホリ=ナギがいた頃は、(カリキュラムは)2年だったんだよね。4年制になった時に入ったわけよね、自分はね。カリキュラムは、最初のモホリがやっていた2年制の時と、後では変わっているはずだけれども、そこにいた先生が、まだドイツから来た人もいたわけだしね。直接習った人がいたから、そんなに変わってないと思うんだよ。前にモホリがいた頃と同じような格好でやっていたと思うんだけれどもね。今考えると、落書きを1週間くらいやられちゃうよ、朝から晩までね(笑)。これが、一番良かったと思う。こういう鉛筆でも、朝から晩までやるわけだからね、鉛筆もこう、普通に書く場合もあるし、こう、横に持ってやる場合もあるし、ぶらぶらして書く場合もあるわけよね。

中森:朝から晩まで。

石元:朝から晩まで。

中森:大変ですね。

石元:それでいやになるんだけれども、自分には案外それがいやでなかったの。他の連中はね、落書きでも他でやっていたからだけれども、自分なんか、何にもやらないはじめの素人でしょ。だから、本当にいろいろ使ってやったわけね。そういうことをすることが、すごく役に立ったわけ。道具をいろいろな格好で使ってみるわけよね。桂を撮る時にも、それがすごく役に立ったわけよね。

鷲田:コースは、写真とか建築とか美術とかに分かれているんですか。

石元:いやいや、分かれてない。みんな一緒。

中森:最後に1年くらい写真に特化しましたよね。

石元:最後の3年の時に、写真と分かれていくわけよね。はじめの2年は一緒なのよ。

鷲田:IIT(註:ID。Institute of Design。後にIITに編入され、石元卒業時には、IITの名称。)の先生は何人ぐらいいたんですか。

石元:3年なってもね、全体的には、みんなと一緒なの。4年になってから初めて分かれちゃうのよね。その時の生徒は4人か5人だった。先生の方が多いのよ。

中森:アーサー・シーゲルはいましたっけ。

石元:アーサー・シーゲルもいたしね、シスキンもいたし、キャラハンもいたし、それから、彼は先生じゃなかったけれども、先生みたいなことをやっていた、えっと8×10で長い写真、(名前が思い出せず、写真集を探し出す)、アート・シンサバウ(Art Sinsabaugh)。

中森:彼はたしか、キャラハンの生徒だったんだね。石元さんと同級生くらいじゃないですか。すばらしい写真家ですね。

石元:1年か2年、早かったんだよ。

中森:IDの写真の教育は、先生がいらっしゃる頃に、過渡期にあると読んだことがあるんですけれども。教育の内容がだんだん変わってきたということはありますか。

石元:初めのときは知らないからね、どう変わったか分からないけれど。

鷲田:入学されたときから、卒業されるまでの4年間の間で変わったと感じたりされましたか。

石元:十分に写真学校にも行っていないしね、他の大学も行っていないしね。一緒だったニューマンも、ニューヨークに行ったのよ。彫刻やってたのよ。

中森:マーヴィン・ニューマンね。

石元:それで(ニューマンは)シカゴに来て、キャラハンがいたから、彫刻から写真に変わったわけ。自分は何にも知らないから、アーサー・シーゲルだって、シスキンだって、キャラハンだって、本当に何にも知らないのよ。どれだけの人が、全然分からないからね。それで良かったかもしれないけど。(笑)本当に何にも知らなかった。

中森:でも2度先生はモホリ=ナギ・アウォードをもらいましたよね。

石元:モホリ=ナギ・アウォードは、学校卒業するまでは自分で月謝を払うことに決めていたわけ。だけど4年の時にお金もらわなきゃ足りなくなって、モホリ=ナギ賞をもらったわけ。(1年生の)一番最初と(4年生の)最後の時は、モホリ=ナギ賞をもらえないの。最後の時はもらえないと思っていたのをもらっちゃったわけよ。だから2回もらったわけ、続けて。

鷲田:それは、応募をするんですか?

石元:応募するわけ。それをモホリ=ナギ賞をつくるために、エキシビションみたいなことをやって、それの売り上げをあげるわけ。それがすごく大きくなっちゃって、日本まで広げて。テレビでそういうものをやったのよ。でも自分なんかの時はまだ、生徒がね、キャラハンの写真なんかを一枚いくらかで売って、それで、アワードとしてもらうわけよ。日本に帰ってきてから、日本ではテレビで放映するようになって、日本からも集めたわけよね。

鷲田:大学の外の人も応募できたのですか?

石元:そう、新聞なんかでも出しちゃうのよ。

石元:いくらかでも売れれば寄付しちゃうわけ。キャラハンのもモホリ=ナギの写真だって安く買えたのよ。

中森:オークションですね。

鷲田:IIT、イリノイ工科大学に入られる前に、ノースウェスタン大学に行かれたんですか?建築?

石元:建築やってやろうと思ってね。日本がだいぶアメリカにやられたからね。家が無かったからね。それじゃ建築やったほうがいいかなと思ってね(笑)。それで建築やるので入ったの。4ヶ月くらい。

鷲田:じゃあそんなに長くは・・・

石元:やっぱり写真が好きだったからね、写真やったわけよね。
まあおっちょこちょいだよね(笑)。農業やったり、建築行ったり、そういうことやってみたんだけど、おっちょこちょいだから写真やったみたいなもんだよね。

鷲田:建築は一年くらいは勉強されたんですか?

石元:いや、そんなにやらない。

中森:一学期だけかもしれませんね。浜口隆一さんとの出会いに関して話してください。

石元:浜口さんがロックフェラーのスカラシップもらってたでしょ、それが終わってから帰るときにシカゴに寄ったわけ。日本人が一人いるんだって教わって浜口さんに会ったわけ。そのとき浜口さんのことは何も知らなかった。「日本に来年帰ることになってるんだけども、帰ったらお世話になりたいから」って話して。それから日本に帰って浜口さんに会ったわけ。丹下さんも浜口さんも東大の助教授で、浜口さんは丹下さんより上だと思ってたわけ。コンペがあって、丹下さんが上で、浜口さんが二番かなんかになったのよ。それで浜口さんは二番では嫌なわけ、一番じゃなきゃ。丹下さんが一番になったから浜口さんは設計をやめて評論家になったわけ。あとでデザインコミッティーていうメンバーに入って、その中心だった。そのメンバーにどういうわけか入れられたわけね。それで六本木のアイハウス(註:国際文化会館。International House of Japan)ができて間もないころ、あそこで月一回くらいご飯食べてたの。それで浜口さんは自分は天才だって言ってた。ほんとにそう思ってたのね。岡本太郎なんかと喧嘩やってたね。浜口さんとね。ほんとにおもしろかったよ、あの当時はね。丹下さんなんかも入っていて、上下がないから。

中森:あと、浜口ミホさん。

石元:丹下さんなんかが入って、みんなであそこで月一回ご飯食べて、喧嘩ばっかりやってたね。

鷲田:石元先生が写真のほうに進まれて、ご両親がそれに対して反対することはなかったんですか?

石元:両親なんか何にも話してないの。話したってわからないでしょ。 百姓ばっかりやってるでしょ、田舎の方で。写真やって食べられないでしょ、あんまりね。だけど写真やるなら田舎にいたってしょうがないし。それで東京に住むわけ。それで、(自分は、1953年)3月19日に日本に帰ったの。3月24日くらいに京都に行ったわけ。アーサー・ドレクスラーがやってきて。そのとき、京都と奈良を回ったわけ。それで初めて桂に出会うわけ。それまでは何にも知らないの。

鷲田:3月に帰ってこられたこのときには高知に帰ってこられなかった?

石元:高知に行った。

鷲田:桂のあとに?

石元:そう。高知に住んでても何にもできないし、それで東京に住み始めて。もう食べられないからね。仕送りわずかにもらってたわけよ。

中森:1953年に最初に桂に行きましたね、そのときにお撮りになった写真ですよね、最初の桂の写真。あと、先生が最初桂を見たとき、レイクショア・アパートメントのビームとコラムみたいだって思ったっていう話はきいていますけれども、桂に行ったときの先生の感想をまず聞かせてください。

石元:はじめは充分に桂というものを何か全然知らないわけでしょ。あそこに行って始めてどう思ったか・・・。とにかく、アーサー・ドレクスラーと吉村さんが話しているのを聞いて、桂っていうものは庭と建物とが一緒になった建物ということを初めて知った。それで最初に撮ったのは庭の石、敷石を撮った。それを堀口捨己さんに見せたらすごく褒めてくれて。

鷲田:あの敷石の写真は初めて行かれた日に撮られたんですか。

石元:一番最初の日。

鷲田:そのときは、まだ桂を撮ろうとは思っておられなかった?

石元:いや、そのあとすぐ撮ろうと思ったんだけども。その前に堀口さんにほめられたし。ダビット社という出版社の小林(英夫)っていう人がダビット社を出て、造形社っていうものをつくるんだよね、六本木に。それで桂をやらないかって誘われたと思うんだよね。

鷲田:小林さんが声をかけられたんですか。

石元:趣味ではやっていたんだけども、出版するということは考えてなかったしね。出版するのに誰を執筆者にするかっていうのを決めるのに堀口捨己さんよりか、(堀口さんは)前のときにやっていたから、今度は若手でやりましょうっていうことで丹下さんを選んだ。

中森:あの頃桂ブームでしたよね。堀口さんも出したし、森(蘊)さんもお庭の話を書いてらしたし、次の人誰に書いてもらおうかというのに、若手の建築家というふうにお考えになったのはよくわかりますね。

鷲田:丹下さんと石元先生は桂についていろいろお話になったんですか。

石元:そんなにしゃべってないの。片方専門家だしね、建築家だし。自分なんか何も知らないもの。

鷲田:こういう風に撮ったらいいんじゃないかとかそういう話も…

石元:そこのあたりをほんとに何にも考えてないんだよ。建築やったわけでもなんでもないでしょ。珍しかったんだよね。意識して見るのは初めてだからね。

中森:特に日本の伝統に関してお気持ちはありました?

石元:何にも無かった。

鷲田:それで今までの落書きとかで積み重ねてこられた経験を元に桂の写真を撮られて、それを本にするときにトリミングとかは?

石元:ダビット社のアルバイトをやっていた人に整備してもらった。それで執筆者が丹下さんて決まって、丹下さんとも桂に行っちゃおうってね。そのとき丹下さんの子供の道子さんを桂の庭の月見台の上に乗っけて遊んだということしか覚えていないんだけども。道子さんは覚えてたわけ。

鷲田:先生が撮られた写真をダビット社のほうに撮ったらお渡しになっていたのですか。

石元:あれはどうしたのかね…それでそのうちにウォーター・グロピウスと・・・

中森:ハーバート・バイヤー

石元:そういう人がやっちゃおうということで、にわかにになっちゃったんだよね。

中森:グロピウスが54年に日本に来ましたよね。あの頃いろんな建築家の方がセミナーしたりとか意見の交換をしたりとか、『グロピウスと日本の文化』というとても大事な本が出たんですけれども。スタイケンも同じ頃にやって来てますよね。

石元:ウォーター・グロピウスだって、自分なんかもね、友達みたいにしか考えてなかったのよね。スタイケンだってなんだってそんなに偉い人だと考えてないし、グロピウスだってそんなに偉い人とは考えてなくってね。

中森:IITでコンラッド・ワックスマンだとか。

石元:ワックスマンも一緒にご飯食べたり行ってたね。ワックスマンが日本に来たとき、ほんとにお金全然持ってなくて、ワックスマンのお金を大使館で渡してもらったりしてのんびりやってたのよね。ワックスマンも今思うと大変な人だけど、その当時は友達としてしか付き合ってないわけでしょ、そんなに大した人だとは思って無かったのね、みんな。

鷲田:また違う話なんですが、その後くらいに実験映画を撮っておられますよね。そのとき撮られた映画というのは、フィルムに穴を開けたりとかされたと聞いたんですけれども、どのくらい作ってられたのですか。

石元:あれは8分くらいのものなの。

鷲田:一本だけ?

石元:一本だけ。大辻さんと。それはね、すでに持ってたフィルムね、16mmのを学生のときに買ってたの。日本に帰ってきて、今度はフィルムをほとんど買えなかった状態だからね。そのときに持ってて撮った8mmの映画をお湯に浸けたりして溶かしちゃって、イメージを。その上に色を塗ったわけ。

鷲田:色を塗った?フィルムに直接?

石元:そう。

鷲田:それは8mmの?

石元:いや16mmの。

鷲田:それを発表、上映も?

石元:それをやるときに瀧口修造さんが《キネカリグラフ》って名前を付けた。そのときに音楽に音を入れなきゃいけなくて、瀧口修造に作曲してもらったの。

鷲田:瀧口修造?

中森:武満徹?

石元:武満徹。

鷲田:それは草月とは?

石元:草月とは関係ない。

鷲田:じゃ直接武満さんに?

石元:それでここ(品川)にきたわけ。ソニーの建物だった。そこの坂を下りてったところにスタジオがあったの。まだソニーといわないで東通工といったの。そこに雨が降るときに行ったら雨が漏っちゃうの、スタジオに。そういうスタジオなの。ソニーがまだ東通工のとき。そこで音を入れていざやろうとしたら、どうも音が映画と合わないということで、ストラヴィンスキーの《火の鳥》でやっちゃったの。

鷲田:音がうまくのらなかったのではなくて、音と一緒に上映してみたら、イメージと音があまりあわないという?

石元:そう。合わなくって武満さんは使わなかったわけ。武満さんだってその頃ほんとにお金も無いし、仕事も無いし、みんな勝手なことやってた。そういうときだった。

鷲田:その、音と映像が合わないというのは、武満さんがそう思われたんですか。

石元:いや、自分なんかが。武満さんに作曲してもらってね、今だったら外せないでしょ。でも当時は何でもないから外した。(笑)自分は当時の実験工房にも入ってなかったわけ、入ってなかったから割合良かったと思うのね、自由に回れたから。

鷲田:このときは松屋で上映したのですか。グループ展ですか。

石元:あれはグラフィック集団だったかな。実験工房とは割合人も重なってたし。

鷲田:グラフィック集団のグループ展?

石元:そう。グラフィック集団の仲間には入れてもらったか入れてもらってないかはあいまいな・・・

中森: 入っているという記述が『美術手帖』に書いてありましたよ。でもすぐやめちゃったらしかったです。

鷲田:映画を撮られたのはこのとき?撮られたというか作られたというか・・・

石元:映画は撮ったよ、学校で。4年生のとき。それでこれは16mmが(自宅の)そこにあるんだけれども、ニューマンと二人で撮ったの。今から10年ほど前に、映画をビデオに直しておこうということでニューマンの友達がハリウッドにいるから、そこでやれば簡単にできるからと、そこに頼んでビデオに直してもらったわけ。その映画は無声だったの。音はとってあったんだけど、16mmの音を入れるんだったら、24コマにしなきゃいけない。音を入れてなくて16コマだったの。それも学生だったから24コマにするよりか16コマの方が少しでもフィルムが使えるでしょ。それでそのときにテープレコーダーが世の中にでてきたばっかりの時だったの。それででっかい重たいのをシカゴのカメラ屋さんで借りてきて、それを持っていって音を取ったわけ。そのとき歌を歌ってた連中は、今でもきっと名前を知っているような…

中森:覚えてらっしゃいますか。

石元:ゴスペルを歌ってた連中なんだよね。そのテープを自分とニューマンと二人で半分ずつに分けて持ってたんだよね。二つ、映画と一緒になってないの。初めシカゴでそれを編集しようとしたの。だけど編集するものが一般に無いときで、テープ持っても何もわからないでしょう。それを持って帰ってて、10年くらい前にニューヨークに送って、ハリウッドに送ってもらったわけ。それでなかなかいい音を作っちゃったわけ。それで、ビデオと音が初めて一緒になったわけ。今から10年くらい前に。今度それをやってしばらくしたらニューマンが35mmやらないかって言われてそれを35mmに直したの。そしたらこんなにきれいになっちゃたの。ここにあるの。

中森:みたいですね。いつか見せてください。

石元:この間、ニューマンから電話があって、どこかでやりたいって、映画を。その前にシカゴの美術館で買ってもらってるの。それで最近シカゴでニューマンがやってきて喋るって、喋りにきてほしいっていうことでやるらしい。この映画割合にいいんだよ。

鷲田:このときのニューマンとの役割分担というか、どういう風に作ったんですか。

石元:自分で映画も撮ったし、ニューマンも撮ったし。ほとんど同じようにやったわけ。

鷲田:それは石元先生が取られた部分とニューマンが撮られた部分を・・・。

石元:一緒に。

鷲田:一緒にというのはそれぞれが撮ったものを繋ぎ合わせた?

石元:ひとつのものだからね。歌ったり踊ったりしてるでしょ。そこに一人、松葉杖をついたおっさんがやってきて、歌を歌って治してもらうということをやってるわけよね。実際やってるわけよね、そういうことを。それを撮ったわけ。

鷲田:じゃあカメラを置いて、こちら側には石元先生とニューマンが一緒に撮った?

石元:二人が変わりばんこに持って、一緒に動いてね。

鷲田:映画を撮られたというのは、この映画と、先ほどの実験的な映画との二本だけ?

石元:そう。

鷲田:それ以降は映画を撮ろうと思われたことはないんですか。

石元:やれなかったね。あ、それからあともう一つ、アサヒにいた誰だったっけ?日劇のをやりたいからって16mmで手で書いたようなやつを35mmでつくってあそこでもやったわけ。

鷲田:それはいつ頃ですか。

石元:同じ頃だね。

鷲田:アサヒの?朝日新聞の関係の人?

石元:朝日新聞にいたと思う。

鷲田:一緒に?

石元:その人は有名だったの。

鷲田:その人が16mmで同じように?

石元:16mmじゃない。日劇でやったのは35mm。

鷲田:日劇で35mmでひっかいたりして作ったのがあると。それはもう残ってないですよね。

石元:それはもう日劇で・・・どうしたんだろうね。

鷲田:それは8分とかそのくらいの短いものですか。

石元:短いもの。

鷲田:その後、60年代の終わりくらい、石元先生がいろいろな学校で教えていらっしゃった頃に、学生運動とか、万博とかあった頃の話なんですけれども、先生が3つくらい学校で教えてられましたよね。桑沢とか・・・。

石元 1番最後に造形大、そこでカリキュラム作ったわけ。自分でやるやつを。それは割合よくできたと思うんだけどもね。ほかの学校はただ行って喋るだけなんだよね。東京造形大学の場合は教師でやるから、きっちりとカリキュラム作って。割合よくできてると思ったんだけどもね。もう忘れたねえ。

鷲田:当時学生運動が激しかった時代ですよね。それはどんな感じだったんですか。

石元:そのとき、アメリカのベトナム戦争だった。そうこともあって、学生運動があって嫌になって、学校をやめたの。

鷲田:嫌になってというのは、授業がうまく成立しないとかそういうことですか。

石元:写真というのはいつでも動けるようにしてないとだめだし、学校に行ってて、空いているときに撮影するというものではないんだよね。それでやめたの。

鷲田:直接学生運動とは関係なく、学校という場所がいろいろと拘束があるから?

石元:そう。

中森:学生運動の関係の写真、デモの写真とかお撮りになりました?

石元:東大のね、あそこで撮った。

中森:安田講堂が燃える様子を?

石元:そう。あれはどうなったのかね?学生運動の結末というのは。安田講堂やられたでしょ?みんな出されてつかまってしまったんだけど、それからもう消えちゃったでしょ?あれはどう消えちゃったんだ?

鷲田:鎮圧されて、その後左翼が一部分地下化して、連合赤軍とか浅間山荘事件とかが72年くらいに起きてくる。

石元:あまりはっきりしないでしょ?あれからだめになってきた、学生が。あれからだめになって今に繋がってるんじゃないの?だんだん人間がだらしなくなった。いろいろだめになって、ほんとに食べ物でもだましあったり、政治家でも何でも。
鷲田:石元先生は政治的なスタンスというか、当時から政治活動とかは関係ない?

石元:やってない。

鷲田:あと1970年に大阪万博がありますよね。あれも美術とかデザインに影響を与えた事件だと思うんですけれども。

石元:自分とは違うところで騒いでたんだよね。

鷲田:あまりそこにかかわりはなかったですか。

石元:全然なかった。

鷲田:丹下さんとか中心的にやっていましたけれども、そういうところにはあえて距離をとるような感じだったんですね。

中森:建築の記憶の展覧会で石元先生がお撮りになったパビリオンの写真がありましたね。あれは一度ぐらい万博に行かれて撮影なさったんですか。

石元:三人で受け持っちゃったの。北代(省三)さんと岩宮(武二)さんだったっけ?大阪のカメラマン。3人で撮ったわけ。自分なんか当てられたところはどうも会場の中ではどちら側になったか知らないけど、正面に日が当たるところではなかったよう気がするの。岩宮さんのところは一番向いていたような気がするの。岩宮さんはいい写真撮ってるけど、自分が撮ったのはあんまりいいところがないよね。

中森:先生のIIT時代の、電線とかラインを強調するような写真がありましたよね。あれと共通するような構造物の写真でしたよね。非常にすばらしいものだと思いました。

石元:そう。