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石内都オーラル・ヒストリー 2010年12月20日

石内都氏自宅兼スタジオ(神奈川県横浜市)にて
インタヴュアー:小勝禮子、中嶋泉
書き起こし:加藤順子、中嶋
公開日:2012年5月6日
 
石内都(いしうち・みやこ 1947年〜)
写真家
群馬県に生まれ、神奈川県横須賀市で育つ。1970年に多摩美術大学デザイン科染織デザイン専攻中退後カメラを手にし、経済成長著しく、米軍の影の露な横須賀の市街部を70年代にわたって撮影。それらを『絶叫・横須賀ストーリー』(写真通信社、1978)にて出版後、1979年に木村伊兵衛賞を受賞する。その後2002年に母親の遺品を撮影した「Mother’s」を発表し、2004年に同シリーズで第51回ヴェネツィア/ビエンナーレの日本代表に選ばれる。これに平行して、人が身につける品々や皮膚に刻まれる、老い、傷跡、痕跡の手触りと写真の関係に考察を進め、けが、やけどや手術の傷の残る身体を撮影・発表した。2008年に広島の被爆資料となっている衣服などを撮った「ひろしま」を発表し国内外で議論を呼ぶ。その後衣類や布地へ関心を広げ、2010年より故郷の群馬県桐生市の織物工場や当時の銘仙を撮影しながら生糸産業の歴史をみつめるカラー作品を手がけている。

中嶋:本日はよろしくお願いします。日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの聴き取り調査をお受けいただきありがとうございます。アーカイヴから中嶋泉と、栃木県立美術館の小勝禮子さんにお願いして、インタヴューをさせていただきたいと思います。オーラルヒストリーということで、生い立ちから、何度もお話されていると思うのですが。

石内:はい

中嶋:桐生市の相生にお生まれになっていらっしゃいますね。

石内:そうですね。笠懸と相生は違うので、相生です。

中嶋:桐生のなかでも移動されていたんですかね。

石内:うーん、三回ぐらい移動したじゃないかな。

中嶋:あのまだ6歳で横須賀にいらしたんですよね。そうするとその頃(桐生にいた頃)のことはあまり覚えていらっしゃらないですか。

石内:いや、そんなことない、覚えてますよ。

小勝:橋のことですか。

石内:そうです。弟が生まれて、弟は二つ下なんですけれども。そのとき私の方が4歳で彼が2歳か。母も働いていたので、ええと、乳母さんがいて、乳母さんがすっごく意地悪な人で(笑)。いじめられてたんだよ、私。

小勝:乳母の方に。

石内:多分それが原因だと思う。そう、それで家にいるのが嫌で、家出したんだと思う。

中嶋:ああ、弟さんと一緒に。

石内:まさか。弟は二歳ですよ。弟はすごいかわいがってた。弟はかわいがられてて、私はなんか、きっと生意気だったんでしょうね(笑)

小勝:わりとお話を伺っていると、早熟な感じですね。

中嶋:橋を渡ろうとして渡れなかった……

石内:そう。それが、10歳ぐらい上のいとこがいるんですね。私はその彼が発見してくれたんだと思っていて、この間そのいとこに会ったんですけれど、そしたら、ちゃんと家まで着いていたという事実が発見されたの。

中嶋:ああ、そうなんですか。

石内:私は誰かに声かけられてそのまま保護されたんだと思ってたんだけれど、そうしたらちゃんと母の実家へ行ってたの。

中嶋:それは結構遠いお家なんでしょうか。

石内:すっごい遠いよ。子供じゃ歩いていったら二時間ぐらいかかるよ。

中嶋:じゃあ、桐生の地理にはよくなじんでいらしたんですかね。

石内:母の実家だからよく連れて行かれたんだと思うんですよ。用事があるから、とか。で、母の実家は農家だから、食料をもらいに行くとか、そういうこともあって頻繁に行ってたんじゃないかな。とは思うんだけどね。

小勝:この頃からお母様は運転手のお仕事をされていたんでしょうか。

石内:その頃はどうかなあ。結婚してからは、よくわからないなあ。23歳の母はまさにタクシーの運転手をしていたわけですから、あのときはまだ父とは結婚してませんでしたから。

小勝:あの《マザーズ》の最初の写真の。

石内:そうそう、だから言ってみれば、あれは見知らぬ女なのよ。

中嶋:そうですよね。

石内:うん、この人誰だろうって。

中嶋:まだ存在していなかったわけですものね。

小勝:お父様のご記憶というのは、桐生の時代にはありますか

石内:ありますよ。父は、何の事業かよくわからないけれど、失敗したんですよね。なんか共同でやっていて、その人がお金もって逃げちゃったらしいの。で、しょうがなくて父は、夏はアイスキャンディ屋さんをやっていて、冬は納豆屋さんをやっていたの。正確にはわかんないけれど、アイスキャンディは写真には映っているから、たぶんそうなんだろうと思う。
 それともう一つ今でも思い出すのはね。私浅草がすごく苦手だったんだけどね……

中嶋:浅草にいらしたんですか

石内:ううん。浅草が苦手でそれがなんでかわからなかったの、どういう意味か。そしたらね、父が事業に失敗した当時。そうすると弟が生まれる前だから私はまだ2歳になるかならないか。

中嶋:そうですね。

石内:で、私をおんぶして母が東武線乗って、伊勢崎線に乗ってね、浅草にきてなんか売ってたんだって。何を売ってたかというと雀なの。霞み網で雀を捕って、それを卸していたの。雀の焼き鳥というのがあるんですよ。

中嶋:それは横須賀に移られる前だから

石内:いや移るも何も私まだ二歳くらいだから。でも浅草が嫌いで、行くといつも嫌な気持ちになっていたのが、いつも母が私をおんぶして雀さんをもってがらっと店の入り口をあけて。そうするといつも私泣き出すらしいの。

中嶋:嫌だったんですね。

石内:いやわかんない(笑)。だから「買ってくれ」って私がアピールしてたのかもしれないし(笑)。ただいっつも私泣くんだって。それ母から聞いたんだけど。

小勝:二歳くらいだとまだ1949年なので、まだ本当に戦後、敗戦後ですね。

石内:そうそう。だからやっぱり現金収入、みたいなので、朝、父が霞み網で雀とって、それを浅草で母が、卸しに行ってたの。

中嶋:それは焼鳥屋さんとかに行くんですね。

石内:だって素人だから。「すいません」ってこう、行商みたいなもん。

小勝:やっぱり当時はまだ食糧が不足だったでしょうから、雀もおそらく需要があったのでしょうね。

石内:で、やっぱり生き物をそうやってちゃいけないって言われたらしいんだけど(笑)。うちの父も若かったから、まだ。私、(父が)24のときに生まれてるから。

小勝:ああ、本当にお若いですね。卸にいかれたのはお母様なんですね。

石内:だからそのときの記憶とまではいかないけれど、何か浅草に関して、「これが原体験かもしれない」と。

中嶋:横須賀の記憶の前に東京の記憶がおありだということですね。

石内:うーん、今でも浅草が苦手なのよ。母から聞いたの。まあいろんなお仕事してたのよ。

中嶋:引っ越されてきたのが、53年ですね。(横須賀市)追浜本町ですね。本町というと今の京急線の追浜駅のすぐ近くですね。

石内:はい。父が、日産の前身の富士モーターというところに就職して、誰かの口利きで出稼ぎにきてたわけですよ。

中嶋:ああ、ではお父様が先にいらしていたんですね。

石内:私が小学入学になるんで、やっぱりバラバラじゃいけないんっていうんで。父の工場の、仕事場の近くの追浜に移ったわけ。

中嶋:それが後に日産になるわけですよね。日産の工場が追浜ができるのは61年なのでその約8年後になりますね。その頃からあの辺りは急に開発が進むんですけれども、追浜や金沢八景でお過ごしになっていらしたんでしょうか(注:石内氏のスタジオが現在金沢八景にある)。

石内:金沢八景は関係ない。追浜に住んでいたから。覚えていますよ。飛行場があったから。

中嶋:飛行機工場だったんですね。

石内:いや、富士モーターは自転車工場です。私が夏島小学校の第一期生だったんですよ。浦郷小学校にはいったんだけど、もう人数が多すぎて、二部授業ですよ。でも分校って言ってたかな。「夏島小学校卒業」ではないと思う。その辺は正木(基)さんがよく調べているから。浦郷小学校に入学して、途中で夏島小学校ができて、そこに行って、それで卒業は浦郷小学校なんだよ、たぶん。

中嶋:そして中学は学区の田浦中学に進まれたと。

石内:それが、田浦中学の授業が二部授業で。ほんと人だらけ、学校行っても(笑)。第一次ベビーブーマーですから。それで田浦中に入りましたけれど、追浜中が途中でできたので追浜中の第一期生です。

中嶋:その頃のお話というのはあまりされないですが、何かご記憶に残ることはございますか。追浜のあたりはその頃急に開発が進んだと思うんですよね。活気のある感じというのは覚えていらっしゃるでしょうか。

石内:覚えてますよ。追浜には映画館が二館あったの。

中嶋:それはすごいですよね。

石内:でもほら工場があったから。その後日産になって。

中嶋:じゃあ人口が増えたんですね。

石内:そう、映画館は東宝と東映があって。日本映画しかやってなかった。私映画が大好きだったから。父も映画が大好きで。洋画を見るには(横須賀)中央にいかないとなくて。だから洋画は中央に見に行きましたよね。

小勝:小学校の頃からいかれましたか。

石内:うん、よく覚えてる。父によく連れられて行って、一番最初に見た映画が『慕情』なの。今でも覚えてる。小学校の頃。香港の映画で、何か最後に女の人が丘を駆け上がるのかな。なんかちょっと忘れちゃったけど。その映画が私にとっての最初の映画の記憶なの。

小勝:そうなんですか。かなり鮮明にご記憶ですね。

石内:そうなんですね。やはり父は映画が好きだった。特に洋画が好きだった。よく連れて行ってもらいました。

小勝:お父様とはとても親しかったんですね。

石内:親しいっていうか年が近いじゃん(笑)。24しか違わない。

小勝:そうですね(笑)

石内:すごく自慢で。役者顔だったの、すっとして。体型もすごく格好よくて、足が長くて、首が長くて。だからなんか自慢の父だったし、私はすごくかわいがられていたから。

中嶋:中央はやはり都会だったんですね。

石内:ううんまあ、追浜っていう町は横須賀の端なんですけれど、それでもやはり米軍の…… オンリーさんとかが住んでいたりしてたんですよね。だから中央っていうのははじめからそういう感じの町。だからドブ板は絶対歩いちゃいけない、って小学校から言われているわけだから。でもなんでっていう理由もなく歩いてはいけないわけじゃない。そうするとやっぱり興味出るじゃない。なんでだろうって(注:「ドブ板」とは横須賀市本町にあるドブ板通りのこと。戦後まで進駐軍や米海軍で働く人々向けの飲食店街や土産物屋で栄えた)。

小勝:それはみんなが言われていたことなんですか。

中嶋::男の子は関係ない。

石内:そういう距離感じゃないと思う。もっと大きなイメージで。横須賀に住んでる女の子はドブ板に行ってはいけないっていう。新聞沙汰にはならないけれど、基地の町独特の事件は子供でも知っていましたから。だから沖縄で1995年に初めて強姦事件が世に出たのね。

小勝:日常茶飯事のことがニュースになったと。

石内:私あのとき涙が出ちゃった。やっとこういうことが表に出るようになったんだって。日本の歴史の中で嫌というほどそういう事件があるにもかかわらず、公的事件として初めて1995年だよ。この時間差っていうか。

小勝:あれは中学生でしたね。

石内:中学でしたね。だから私自身は具体的にそういう事件に遭った人も知らないし、具体的に遭ってませんけれども、横須賀という町のなんていうかな…… 私よそから来ているからなんかわかるのよ、そういうの逆に。よそ者って意外とそういうことがよくわかるの、そういうことは。

小勝:そうなんでしょうね。では最初にきたときにも……

石内:うん、なんか変だなって。だって田舎からさ。追浜だって都会だよね、私にとっては。そういうところに移ってきたときの違和感というのはあったと思います。

中嶋:なるほど…… そうですね。あんまり最初の頃のことばかり聞いていると時間が経ってしまうので。中学の次は高校が横須賀市第二高等学校ですね。それは現在の横須賀市立総合高等学校で。

石内:はいそうです。

中嶋:これは普通科に行っていらしたということですよね。

石内:普通科しかなかったんじゃないかな。

中嶋:その頃はそうでしたか。今はいろいろあるみたいですけれども。いろんな学校がくみ合わさって。

石内:どんどん併合されて、第二高校がまず第一と併合されて、横須賀市立横須賀高校になった。で、今は総合高校でしょ。

中嶋:そうですね。

石内:籍がさ、どんどん…… 私の学校がなくなってすごくうれしい(笑)

中嶋:あ、うれしいんですか。

石内:だってもう何もないんだもん(笑)。学校の跡もないし、名前もないし。だって私卒業式もいかなかったし。卒業式の日は入試だったの。
 高校時代ってすっごく暗いイメージがあって。

中嶋:美大を選ばれたというのは……

石内:あのね、小学校の頃から絵を書くと貼り出されていたの。

中嶋:ではやはり美術がとてもお得意だったんですね。

石内:得意かどうかっていうのはわからないけれど、褒められるとうれしいから。小学校のときから美術大学行こうって決めてたの。

中嶋:ああ、そうなんですか。

石内:うーん。今あまり描いてないんだけど。

小勝:じゃあ美術はもともとお好きだったんですね。

石内:そうですね。貼り出されてたんだからうまかったんじゃないかな(笑)。

中嶋:何かその頃のものは残っていないんでしょうか。

石内:残ってない。何にも残ってない。残念だね。

小勝:高校時代の先生のご記憶とかは。美術の先生というのは特に。

石内:美術の先生はいい先生でしたよ。美術部にいましたから。やっぱり美術の影響があるのかもしれない。

小勝:そういうのの影響はあるかもしれないですね。

石内:そうだよね、急に…… 小学校の頃から描くと貼り出されていたと思うけど、高校ぐらいになると、美術の先生の影響というのもあるかもしれないですね。雑賀先生って言ったかな。さいか屋の「さいか」ね。名門なんですよ。

中嶋:じゃあ美術はその頃は油絵も?

石内:私は水彩しか書いてなかった。油はどうもうまくいかなくて、水彩ばかり描いてた。

小勝:大学は油絵を専攻されようとは思わなかったわけですか。

石内:うーん、色々考えたんだよね。絵じゃ食っていけない、と。

小勝:おお、もうその頃からそのような将来への認識が。

石内:うん、手に職をつけようと思ってたから。
 うちの母は父より給料がいい時期があったりするのをみていたから、そういう母をみていると、女は働くっていうのは普通だと思ってたの。

中嶋:それは当時の認識としては珍しいですよね。

小勝:早いですよね。

石内:誰も思ってなかったと思う。でも私は手に職をつけるにはどうしたらいいかなって高校の時から考えていて、絵では無理だなと。絵では食えていかれない。というんで、デザイン科を選んだ。

中嶋:そうなんですね。

石内:64年の東京オリンピックですよ。そのときデザイナーってすごく脚光を浴びたの。亀倉雄策のポスター見て、「わー、かっこいいな。こういうこと仕事にしていけないかな」と。楽しそうだし、お金がたくさん入りそうだし。
 やっとデザインという言葉が出たんだね。それまでは図案とか言ってた。だから東京オリンピックはいろんなものを変えたんですよ。私は高校何年かな、2年、3年くらいか。そのときね、私ね、水泳選手に夢中になって、代々木のオリンピック村に会いにいったんですよ。

中嶋:ええ、すごい。

石内:私ミーハーなんですよ(笑)。会いたいとなったら会いにいっちゃう。 (ドン・)ショランダー(Donald Schollander)っていう人。すごい人気だったの。

中嶋:東京にもよくいかれましたか。

石内:東京オリンピックの選手村と(笑)、あと大学のときは映画もよく見にいったと思う。

中嶋:そうですね、その前に、金沢区のほうに転居されるわけですよね。大学に入られてからですか。

石内:19歳のときですね。

中嶋:織の専攻を決めたのは、2年生の頃ですね。これはどこかで桐生のことと関係が……

石内:そうでなくて、デザイン。私はもう意気揚々とデザイン科に入って。手に職つけて、デザイナーになるぞと思って入学したんだけど…… 五月病になっちゃったの(笑)。すごくなんだか向いていないような気がして。

中嶋:面白くなかった……

石内:というより、技術的なことが一切できなかったの。例えば烏口って知ってる? 烏口をうまく使うとか、ポスターカラーの筆跡を一切残さず塗るとか、できないわけですよ。そういうデザインの作業は絵画の技術とはやはり違うわけですよね。それですごい落ち込んじゃって。多摩美のデザイン科の一年って、基礎をものすごくいっぱいやるんですよね。毎週毎週課題がでるの。

中嶋:多摩美は先進的な学校というイメージですよね。

石内:そうなんですか、私は近いから受けただけですけれど。私、実はもう一個受けてるんですよ、美大を。女子美を。

中嶋:女子美ですか。

石内:私は一浪をしていて。技術も何もなく、美術クラブにいただけじゃ美大には入れない訳ですよ。

中嶋:美大進学は珍しいですよね。

石内:私が第二高校で初めてだから、一人目だったから先輩も誰もいないし。それで一浪だけしようと思ってたの。親は美術大学に行くの反対だったから。

中嶋:そうなんですか?

石内:反対というか、父はもっと違う大学に行かせたかった。

中嶋:違う大学というと……

石内:六畳一間でスラムに住んでるんだよ?私たち。それなのに父は、学習院の家政科に行かせたかったの(笑)

小勝:お嬢様コースですね(笑)

石内:いや、誰かに言ったら、「いやあ、それはいい話だね」って言われて…… 。びっくりしちゃった私。進学指導の先生に父が言ってた。父は私には直接言わない。進学指導の先生がこうお父様が言ってますよ、って。

小勝:お父様はもともといいお家のお坊ちゃんだったんですか。

石内:うーん、まあ、父は大学出てたから。
 だから私も大学行こうかな、と。父が大学出てるから、平気で行こうかなというのがあって。お嬢さんが好きだったの、うちの父(笑)。だから、お嬢様学校で、親としては家政科行って、普通の生活をね。

小勝:いいとこにお嫁さんに行って(笑)

石内:うーん、私の周りはまあスラムみたいなひどいものだったから。

小勝:でもその中でお父様は大学も出ていらっしゃるし、こうインテリとして……

石内:そうそう、うちだけちょっと浮いてたの。大学出で、かっこいいし、二枚目だし。みんながこううちの父だけ一目置いてたの。すごい女の人には親切だし。優しい人だから。で、うちの父は六畳一間に住んでても、「これは仮住まいだからね、気にしなくていいよ」って、すっと言ってたから、私もそのつもりで(笑)。言ってたけど、母はやっぱりそういうわけにはいかない。母がいつも矢面に立ってた。嫌な事は全部母が。

小勝:生活の糧を得るとか。

石内:いじめられてたの。それはなんとなくわかった。父には何も言う人はいないけど、母には言うの。年上だしさ、どうみたって七つ上だからお姉さんで。

小勝:お母様も、では目立っていたということになりますね。

石内:逆に言えばそうですね。

中嶋:お仕事なさっているし、大きい車も運転できて。

石内:横須賀にいたときはもう米軍基地に勤めてたから、アメリカに勤めてるっていうことに対する差別だよね。

中嶋:ベースに勤めてる人には差別があるんですか。

石内:もちろんそうです。給料いいしさ。

小勝:やっかみ半分みたいな。

石内:それも含めて。女が運転することは少なかったからね、その当時は。だから私はうちの母は、大反対されて。両方の家から大反対されてうちの父と一緒になったんだけど、雲助って言われて。

中嶋:雲助。

小勝:運転手のことを雲助タクシーとかいったんですよ、昔。お金ぼったくるみたいな。

石内:そういう風に母はすごく差別されていて。でも父はそんなこと気にしなかった。ちょっと抜けていて。抜けているっていうか面白い人だったの。父はいろんな意味で。差別感は全然ないし。

小勝:お母様が魅力的で、恋愛だったわけですよね。

石内:ていうのは、母はもう結婚していて。結婚と言うか「戦死通知」というのはもうもらっていたわけだから。でも夫が生きて帰ってきて彼女が慰謝料払って、きちんと離婚している。

小勝:それはかっこいいですね。

石内:でも母の田舎もすごいんですよ。その(引き揚げて)帰ってきた旦那に、ちゃんと女房を与えて、女の人をちゃんと与えて…… というのは変な言い方なんだけど、ちゃんとそこまで面倒見て。

小勝:お母さんの実家が。

石内:私もおなかの中にいたし(笑)。私の生まれる一週間前かな。離婚が成立した。まあいろんなことがあったよね。

中嶋:引き揚げられたのが二年もたってからだったんですね。

小勝:そうそう、だからもう死んでると思われてた。

中嶋:大学の話に戻ってもよろしいでしょうか。最初映画研究会に入っていらっしゃったと窺ったのですが。撮られた作品を覚えていらっしゃいますか。

石内:(笑)「Love Minus Zero」。覚えてますよ。この間も話ししたよね、その話、西川さんのとき(注:2010年12月4に青山ブックセンター本店で行われた「写真家・石内都×映画監督・西川美和「視ること/撮ること・巡る対話」」のこと)。

小勝:映画を最初に作られているわけですよね。

石内:映画って言ってもね。八ミリ。女の子を主役にして。昔ここが私の部屋だったんだ。大きなダブルベッドが置いてあって。そこでなんか脱いでもらって撮ったりとかね。女の子を主役にして、まあ要するに恋愛の話。話とまではいかないか。正確にはわからない……

中嶋:お友達に出演してもらったと。

石内:友達の妹だったかな。カメラマンもお願いして。それは高校時代の写真部の男の子(笑)。

中嶋:高校時代には写真部もあったんですか。

石内:そうです。私は入ってないんだけどね。

中嶋:では石内さんは、監督ということで。

石内:そうそう。

中嶋:どのくらいの長さでしょう。

石内:編集したから…… あんまり長くない、10分ぐらいかなあ。

中嶋:残ってないのですか。

石内:探してるんだけどね。見たいよね。どさくさにまぎれてどこかにいっちゃって。探そうと思ってるんですけれども。

中嶋:その頃が67年で、68年頃から彦坂(尚嘉)さんや宮本隆司さんと……

石内: 結局みんな映研ね。私と彦坂が同期で映研に入って、宮本くんは一年下で入ってきたの。それで堀(浩哉)は、隣が劇研だったのね。演劇研究会クラブね。そう、それで映研と劇研が隣同士ですごく仲が良くて。それでそのときから(彦坂氏らと)つきあってるの。

中嶋:その人たちがさらに「思想集団存在」になる。

小勝::すごい名前ですね。

中嶋:「思想集団」というのはそのときやはりつけなければならない名称……

石内:若いときというのはね、やっぱりそういう風につっぱってやんないと、なんかやってられないことがあったと思うのね。その辺は堀くんと彦坂が中心だったので、なんとなく同じ映研だしという、仲間意識でつきあってた。あんまり主体的じゃなかった。

中嶋:そうなんですか。でも「徹夜で討議を行う」、と彦坂さんが回想録に書いていらっしゃいますけれど。

石内:そういえば、演劇なんかもやった。あれはバリケードの中でか。演劇の練習や訓練もしたような。

中嶋:そんなに専門的な劇をされたわけですね。

石内:まあそれは、堀くんの影響なんじゃないかなあ。劇研と映研が一緒になってその「思想集団存在」ができてたわけでしょ。

中嶋:「存在」というのは彦坂さんが名付けられたのですかね。

石内:知らなーい。

中嶋:この頃彦坂さんと堀さんが現象学にたぶん凝っていらしたんですよね。メルロ=ポンティとかを読まれてそれで「存在」という名称になったかと。

石内:そうかもしれないね。私はだから消極的参加なんで、ほとんどよくわからない。

中嶋:お話し合いに参加されていたわけですよね

石内:ほとんど聞いてただけ。だって私現象学なんてほとんど興味なかったもん。

中嶋:運動もご興味はそれほどなかった……

石内:いや運動は興味ありましたよ。興味あるっていうか、いろんな世の中の…… なんていうかなあ、学生時代ってほら純粋だから。色々なことがストレートに悪いものと良いものがわかるわけでしょ。あの頃はベトナム戦争とか。大学はいろいろ大学の理事会のいろいろな問題や学生運動と。

中嶋:この間その多摩美術大学の学生運動記録を見たんですけれども、出版されてるんですよね。多摩美の学生運動の議事録が。針生さんの発言も全部書いてあって。

石内:針生さんは教授会の理事長をやっていたから。

中嶋:学生をサポートすることで辞められるわけですよね。

石内:うーん、難しい。あんまり関係ないんじゃないかな(笑)。学生たちは学生たちの立場があって。

中嶋:彦坂さんは針生さんに反対声明のようなものを出されて、これが「美共闘」に繋がっていくわけですよね。やはり共闘の機関誌の『美術史評』の制作にもほとんど携わられなかった……

石内:うーん、だから私は「美共闘」は立ち上げのときだけしか関わってないから。だから…… 69年?

中嶋:1969年の4月ですかね。

石内:そのとき私は織科だったので、「革命的職人同盟」というのをもう一人の女の子とで作って、それで美共闘に参加したの。

小勝:女性二人で作ったんですか。

石内:それが田中さんと言う女子なんですけれど。その子、染科の女の子。

中嶋:何か特別な活動をなさったんですか。

石内:結局織と染の問題。織科、染科で色々な問題があるわけですよね。それなりに。科の問題っていうのかな、だからその自分たちの一番身近な問題をどうするかということを提起して。織科の学生たちと討論するとかね。

中嶋:そういうのを主催されるような存在だったわけですね。

石内:まあ織科ではね。まあ私は織科にいたわけですから、言ってみればオルグみたいなものよ。

中嶋:そうするとかなり積極的にこの学生運動にコミットされていたと。

石内:それはそうよ。そうじゃなきゃ、バリケードの中は入れないもの。バリケードで生活してたんだから。

中嶋:1969年の1月にもバリケード封鎖されましたよね。

石内:それが、全学と組合が認めたバリケードだったの。学校に何か要求するためのバリケード。何かちょっと忘れちゃったけど。学校がそれを全部飲んじゃったの。それでバリケードが自然に解消。

小勝:封鎖は1月20日、そしていつ解消されたんですか……

石内:いつなんていうのは正確にはわからないなあ。

中嶋:4月にまた再封鎖されるんですよね。

石内:そうそうそう、それが本格的なバリケード闘争

小勝:4月のときはまた別の新しい要求をされたということですか。

石内:うんそれもそうだし、もうそれが東大日大闘争(と同じとき)。4月からのバリケードは多摩芸術学園ので。多摩芸が大本をつくって、それに付随して多摩美がバリケードを組んだ。4月からのバリケードは、多摩芸がバリケード作りに来たんですよ。そこで矢田(卓)に会ったの(注:矢田卓氏は多摩芸術学園写真部に所属していた)。

小勝:バリケードの中で出会った……

中嶋:ドラマチックですね。

石内:「塀を乗り越えてきたんだ……」(笑)

小勝:もともと多摩芸の写真をしている友達がいたというふうに正木さんの(作成された年譜)に……

石内:いやいやそれはない。そのときだってはじめて矢田と出会っているわけだし。実はもう一人と一緒にやってた「革命的職人同盟」の女の子が矢田の彼女だった。今は別の人と結婚していて全く関係ないけれど。

中嶋:「美共闘」についてなんですけれど、これをみると美共闘の事務所に多木浩二さんの事務所を使っていたというように書いてあるんですけれど

石内:何回か行ったことはあるけれど、多木さんの事務所には。でも現実的にはあんまりかかわってなかったの。

中嶋:美共闘に写真家の人が多いのはそのためなのかなと思ったんですが。

石内:それはあんまり関係ない。もともと宮本君が、首にいつもカメラをぶら下げてたけど、でも映研だからね。
 私はその美共闘のほんとの始まりの立ち上がりのときだけで、その後は意図的に堀君、彦坂君とは距離を置こうと思ったんだ。

中嶋:それはあまりお話があわなかったとか……

石内:うーん、その前後でリブが出てくるんですよね。70年に。1969年だが70年だか忘れたんですけれど、「革命的デザイン同盟」に米津さんがいたのね。米津(知子)さんと森(不明)さんという二人がいて、彼女たちはずっと美共闘に入ってたのかな。 

中嶋:米津さんも入っていたことになってますね。立ち上げのときに。

石内:じゃ立ち上げのときね。それで森さんと米津さんと私と三人で、「やっぱりこれどうみても男の闘争だよね」て言って。私たちだけでもなんかしなくちゃいけない、っていうんで「集団エス・イー・エックス」というのができるんです。

中嶋:じゃその立ち上げも石内さんが。

石内:実は私が名前をつけたのよ(笑)

小勝:石内さん、米津さん、森さん。森さんという方は何科だったんですか。

石内:森さんもデザイン科。米津さんと同期だった。

石内:それで3人でなんとか70年代をどう生きていこうかというような感じを含めて、結構いろいろな話をしながら立ち上げたんですよ。「エス・イー・エックス」を。

中嶋:これは田中美津さんも関わっているのでしょうか。

石内:そうじゃなくて、女三人で美術大学の学生ばかりでしょうがないんで、やっぱり田中美津さんに会いに行こうって言って会いに行ったの。

小勝:田中美津さんは「グループ闘う女」を同じ頃に立ち上げてるんですね。

石内:やっぱり「連帯」みたいなものもね、していかないといけないかな、ということで会いに行ったんだけれども、うーん、私は本当に相性悪かった。初めて会ったときから。ああこの人とは一緒にやれないなって顔見たときからわかっちゃった(笑)。

小勝:言っていることとかではなくてですか。

石内:いや、内容も含めてね。私は男の価値観と歴史とか色々そういうことがあることはあっても、男を敵とはあんまり思わなかった。女が女を一番差別していると、体験的にね。

小勝:この時点でもう既にそのようにお思いになったのですか。リブの立ち上がりのときから。

石内:で田中さんに会って、これからいろいろ共闘するということがあるなかで、私ははっきり日和ったの。これはダメだと。向いてないって。

中嶋:それは日和ったっていうより主張の違いということですかね。

石内:いやそうじゃなくて、リブ運動も色々出てきて、なんだっけ、ピンクのヘルメットかぶった……

小勝:「中ピ連」

石内:「中ピ連」とか色々出てきて……。私はその当時男と一緒にいたから。そういうことも含めて闘いというのは一緒にやらなきゃならないんじゃないかなあみたいな、闘っていくことがあるんだったら。女だけでやると何か私はちょっと違うかもしれないってすごく悩んでね。米津さんにね、絶縁状を出したんだよ。持っているかな彼女。

小勝:米津さんと森さんのお二人は残って「エス・イー・エックス」を続けた?……

石内:「エス・イー・エックス」という名前もそのとき解消したんだと思う。私がいなくなったということで。

小勝:「エス・イー・エックス」の名前も石内さんがつくられたんですね。

石内:うん米津さんと。

小勝:それはやはり「SEX」ですよね。

石内:うん、「性」を考えるということと、あと女性の性。あと私は男性の性も含めて性を考えたいというのがあったのね。

小勝:それすごくなんか今のジェンダー論に通じる考え方ですよね。女性だけの解放ではなく、男性もという……

石内:なんか重箱の角をつついているような感じと…… なんかあのときのリブとなじめなかったね……

小勝:その中で男性のことも考えようとはなかなか言えないかもしれないですね。

石内:リブには勢いがあったからね……(笑)。勢いが、あのときは。

小勝:運動体になっちゃうとね。

石内:一般的には私は日和りまして、男と一緒に生活していたと。

小勝:それは藤崎さん……

石内:うん。(笑)

小勝:そのころから暗室道具もあったのですが。

中嶋:まだ大学にいらっしゃいますよね。

石内:いや四年でやめたから私大学は。

小勝:お辞めになったのは何故なんですか。

石内:一年間バリケードの中で自主授業をしてたんですよ。その一環として演劇もあったんだと思うんだけど、ぼーっとしてたわけじゃなくてね。空間がいっぱいあるわけだし。プログラムをたてたり、講演みたいのがあったかな。

小勝:講師は?

石内:呼んでたんじゃないかな。多摩芸がそういうことよくやってたな。多摩芸は本館を封鎖してたので、あっちを使って色々(な人を)呼んでた。

中嶋:どんな人を呼ばれたかとかは覚えていらっしゃいますか。

石内:うーん、私はそういうのは…… 立看書いたり、ガリ切りばっかりしてたんで。私のガリ切りの字が読みやすいっていうんで。誰呼んだのかなあ。針生さんは当然やってるし、教授会も含めて何かやってたんだと思います。多摩芸の方は色々やってただろうけれど、あんまり印象に残ってない。抜け落ちてるなあ。

中嶋:じゃあその思想集団「エス・イー・エックス」も美共闘も半ば退ける形でお辞めになって。

石内:うん、やんなくていいと思う。もっと自分自身を考えなくちゃいけないから。

中嶋:集団が基本のこの時期で割と勇気のいる決断だったのではないでしょうか。

石内:うーん、まあ悩みましたよね。

中嶋:大学からも抜けて……

石内:うん、だから大学やめたのは、もう親を説得するっていうことだよね。あのね、学校側から一年間授業料を払えば卒業証書をくれるって言ってきたの。でもやってないんだよ? 学校は(笑)。それで、じゃあ私は卒業証書を必要な職業には就かないだろうと。そのときは確か年間12万ぐらいだったんだけど、もったいないから、私は絶対卒業証書はいらないから、それ以外の仕事に就くから払うのをやめてくれって。

中嶋:その後は独立した生計を持たれるわけですよね。

石内:ううん、独立した生計ってなかなか持てなくって(笑)。いろんなことやりましたよ。その当時絞り染めが流行ってたから、Tシャツを絞って染めて、渋谷のわりと面白いお店に卸したりとか。あと、ロウソク。林檎をかたどりしてロウソクをつくったりとか。それは今でも持ってるけどね。Tシャツも持ってる。それは女の子とやってたの。

中嶋:学生のときのご友人と。

石内:そうそう。

中嶋:そのころには高島屋の裏、二子玉川に住んでいらして。

石内:そうそうそう、そのとき染めたり、造ったり卸したり、その手作りのロウソクとTシャツを。

中嶋:そうするとこれはデザインの仕事ということになりますね。

石内:デザインっていうか、自分で全部デザインして、染めて売るわけだから。工房だよね。

中嶋:ずっと続けて行こうと思ったんでしょうか。

石内 こんなことして何千円もらってももったいないなと思って。これを商品化するっていうより、作品を売っているという感じなので。

小勝:言ってみればアルバイト的な感じですかね。

石内:そうですね。

小勝:それと中嶋さんの調べによると、造船ニュース社でアルバイトを……

石内:すごい、調べたの?

中嶋:何かに書いてありました。

小勝:その後、お父様のパール宣伝社で事務をする。

石内:そうそう。

小勝:こういうことをしながら、先程の多摩芸の矢田さんが主宰する「写真効果」展に行かれ始めたんですよね。

石内:そうです。

小勝:それで、その藤崎さんの伯母さんから貰った暗室道具というのは、この頃でしょうか、譲り受けたのは。

石内:そうですね。そうです。

小勝:70年代の初めくらいですか。

石内:うん。

小勝:「写真効果」展を観たので、写真に興味を持った、と。

石内:うん、まあ一応お客さんで矢田くんたちの効果展を観に行っていたんですけれども、なんかやることが何にもなくて、すごい閑だったのね。

小勝:その、アルバイト以外の時間が閑ということですか。

石内:うん。それでやっぱり何かやらなきゃいけないっていうか。なんかぐずぐずとしてたわけですね。そのときにたまたま引き伸ばし機っていうか、暗室とか全部2階においてあったんですけれども。使わないとゴミと一緒だけれども、使えば機材だから、なんとなく「使ってみようかな」って気になったの。

中嶋:難しいですよね。

石内:なにが?

中嶋:何も知らないで使うことは。

石内:いえ別に、そんな難しくなかったな。

中嶋:え? 難しいですよ(笑)

石内:いやそうですか。私はわりとすっとできちゃったんで。

中嶋:でも、暗室の道具があってもやっぱり暗室のセッティングをしなければならないですよね。

石内:一部屋がもうなんにも使わない部屋があったんで、

中嶋:それを利用して。

石内:うん、そこはいつでも真っ暗けになるし。

中嶋:ご自分でこう、その色々な設備や道具やらを使えるように整えたということですか。

石内:いえいえ、全部あったもん。バットから、ピンセットから、何から何まで全てあったから。私が買わなくちゃいけないのは、消耗品だけ。フィルムと印画紙と薬品。その3つを買えば、すぐにできるよ。

中嶋:そうなんですか。写真はやっぱり、技術的なことは特に専門的な勉強はされていない。

石内:まったく。

中嶋:矢田さんや他の写真家のかたから、写真家というか写真をやっていた方々から、なにか聞いたりとかはなさったんですか。

石内:失敗した時。失敗したときにやっぱり聞きましたよ。

中嶋:やはり一般的に写真は技術面で難しいと思うんですけれども。例えばフィルムの選び方から印画紙の選び方から、その焼き付けの仕方とか……

石内:うん? いやいやもう初めから私はTRI-X。私はフィルムはTRI-Xしか使ってないし。

中嶋:TRI-Xというのは一般的に使われていたんですか、その頃は。

石内:うん、一般的、モノクロは。いろいろあるけれど、私はTRI-Xの400っていうのがね、一般的で。で、カメラもあったから。

小勝:カメラも伯母さんからなんですか。

石内:カメラは彼のカメラだったね。

小勝:藤崎さんも写真を少しはやっていらしたんですか。

石内:いや、彼はね映画科の学生だったんですけれども、授業があったらしいの、写真の授業が。それでなんかカメラを買ったみたいよ。

中嶋:カメラ、最初に使われていたのが、ペンタックスでしたか。

石内:ペンタックスのSVで、28oがくっついてましてね。だからそれが標準だと思ってたんですよ。それしかないから。

小勝:それで、写真を撮ろうと思って最初に撮られたのが、まず宮古にいらしたんですか?

石内:初めてカメラを持って旅に出たのが宮古です。

小勝:で、そのときにすでに、「石内都」という名前をご自分の……

石内:そうですよ、もちろん。一番初めから。世に出る一番初めから石内都という。

小勝:「写真効果」展第3回(注:「写真効果・3」清水画廊、荻窪、1975年9月)からですよね。これに出品するために、写真を撮ろうと思ったんですか。というか、撮ってから、写真があるから出品したのでしょうか。

石内:ていうかね、欠員が出たって話を矢田くんが言ってきて、それで慌てて撮ったんじゃないかな。

中嶋:厳密な写真展だったんですね。欠員…… スペースの問題ですか? 荻窪の清水画廊ですよね。

石内:かなりちゃんとした展覧会でしたよ。「写真効果」展というのは。

中嶋:ちゃんと組織されていたんですね。若い方がやっていた。

石内:矢田くんと浜田(蜂朗)さんという人、二人で。

小勝:こういう展覧会はやはり貸し画廊的に借用料を頭割りで払うとか、そういうことではないんですか。

石内:どうだったんだろう。

小勝:欠員というのはそういうのも関係するのかな、なんて。

石内:ただ、清水画廊っていうところはすごく安く、積極的に写真家たちに貸してたんですよ。

中嶋:写真の専門の画廊だったんですか。

石内:じゃ、なかったみたい。それがやっぱりある時期、写真を中心に。もう有名だったんですよね、あの時、清水画廊っていうのはね。画廊とかなかったから、発表する場所が。ほとんどあの当時は。

小勝:で、その写真を撮るということになって、宮古にいらした。

石内:うんだから「石内都」って、私何処行っていいのか何を撮って良いのかわからなかったんですよね。というのは、暗室作業(の方が撮影より)がすごく面白いなと思って、暗室作業するにはフィルムがないと、ネガがないと……(笑)(注:石内「都」の名にちなんで宮古に赴いた)。

小勝:ネガがないと焼けないですね(笑)

石内:だからとにかくネガを作らなくちゃいけない。

中嶋:そんなに暗室の作業のほうがお好きだったんですか。

石内:面白かったな、暗室入った時。「あ、これは面白い世界だ」と思ったもん。居るのがすごい好きだった。

小勝:ただその宮古にいらして、やっぱりちょっと今一つだったとか……

石内:せっかくカメラ持って初めて電車に乗って遠いところまできたけど、なんにも撮れない、撮るものがなにもない。本当にあれはショックだったね。シャッター押せない。

小勝:つまり、ご自分との関わりというか接点がまったくない。

石内:うん。

小勝:これがそのときの待合室ですか。
(注:《はるかなる間》のシリーズの一点をみながら。このシリーズの多くが桐生の写真だが、ここで言及されている作品は1976年に東北の宮古で撮られたごく初期の写真。駅の待合室が写っている)

石内:そうです。待合室です。そうなんです。

小勝:《はるかなる間》のシリーズに一応入れていらっしゃるんですかね。そのあとで、桐生に行かれる。

石内:ううん。違う違う。

小勝:ちがう。桐生の前に……

石内:すっごく悩んで、宮古でほとんど撮れないから。はっと気がついたの。一番私の遠い町はどこかなって。横須賀。

小勝:横須賀だ。横須賀が先ですね。

中嶋:この頃もう二子玉に住まわれてから何年も経っているわけですよね。横浜のご実家を出てから。

石内:二子はそんなに長くいない。そのあとすぐに目黒ですね。

中嶋:横須賀を出てから、5年くらいは経ってるんですね。

石内:そうそう。だから、結局写真を撮るっていうことよりも、その時はなんかやっぱり自分のこだわっていた何かを表に出したいっていう気持ちがすごく強かったの。それでたまたま写真に出会って、撮って焼いてみたら、なにかいろんな自分が抱えている色んな問題や、形にならないものが写真に焼きつけることができるなと思ったの。だからすごい暗室は面白い。

中嶋:その物理的な変化みたいなものが、でしょうか。 

石内:うん、それもそうだし、写真はたぶん表面ではなくて別のもっと奥が、奥を写すことができるんじゃないか、と。つまり表面しか撮れないけど、実はすごく奥深い何か目に見えないものまで写っているんじゃないのかな、と思ったの。

小勝:それを暗室作業の中で時間をかけて浮かび上がらせる。

石内:そうそう。だからやっぱりプリントするのは最高に面白かったな。

中嶋:「リブの代わりに写真に出会った」というような言い方もどこかでされていますよね。

石内:うん、それもあるわね。

小勝:ただあの、75年の「写真効果」展には《はるかなる間》を出品したとあるんですが、
《はるかなる間》は基本的に桐生(の写真)ですよね。

石内:そうですね。

小勝:というと、横須賀と桐生と同時に撮っていらしたんですか。

石内:そうだね。

中嶋:宮古と横須賀と桐生の順番が……

石内:よく分からない。ただ桐生は、年に何回か母と一緒にいってたのね。

中嶋:そうなんですか。

石内:別に写真を撮りにだけじゃなくて、何かといっては必ずいっていたので、いつもカメラをもっていったんだと思う、そういう時。

小勝:で、このあいだ大川美術館で「写真効果」展で展示してから初めて公開されたわけですよね。

石内:そうです。

小勝:その展示に私、群馬近美の飯沢耕太郎さんとの対談の時(注:「石内都 Infinity ∞ 身体のゆくえ」開催記念対談、群馬県立近代美術館、2009年5月)に伺ったんですけれども。そのときにこの斜めのこの地平線がものすごく印象的だったんですけれども、これはなにかお母様の車の窓から撮ったみたいに対談でおっしゃっていたんですが。電車の車窓かな、と最初に思ったんですけれども。

石内:いや斜めはですね、実は《絶唱・横須賀ストーリー》あの当時、全て斜めに撮っているんですよ、私。なぜかっていうと、画面にたくさん写したい、画面の中にいっぱい入れたい。水平で撮るより斜めのほうがいっぱい入るから。

小勝:対角線にしているんですか。

石内:そうそう。対角線で撮りたかったの。対角線はさすがにね、ちょっといくら何でも不安定でやめたの。だから意図的なの、これ。

小勝:ああ、そうですか。

石内:普通、写真学校にいくと、絶対にこういうことはしちゃいけないらしいんだよね。斜めに撮っちゃいけないの。みんな斜めなんだよ、私。

中嶋:《横須賀》も確かに斜めの感じが強いですよね。

石内:全部そうだよ、だから。全部そうじゃん、これ。

小勝:だけどそれがまさに時代を疾走しているような、なんかすごいエネルギーを感じるんですけれども。

中嶋:いつも風が吹いているみたいな感じがしますね。

小勝:風が吹きすさぶ中をこう……

石内:垂直なにもないじゃん、これ(笑)。見にくいね、この写真。

小勝:特に桐生は空っ風ですからね、群馬は。

石内:そんな、意図的では無いと思うけど。でもきっと、そうだね。

小勝:いや、一番そこがインパクトが強いですよね。斜めの地平線。

石内:あんまり気がつかなかったけど、みんなそうだね。

小勝:実際に車窓から撮ったっていうことはなかったんですか。

石内:ありますよ。母の運転でかならず、田舎はいっていたから。
 いや、だからね、写真のことは全く私なんにもわかんなくて。写真のABCもぜんぜんわかんない。習ったことがないから。ただ、逆に自由に写真に関係を持てたような気がする。写真はこうだっていうの、なにもなかったわけだから。で、わかんない時と、心配な時だけ聞いたの、色んな人に。矢田くんには聞かなかったな。でも、一回今でも覚えていることがある。《絶唱・横須賀ストーリー》を焼いてたんですよね。そしたらプリントの、手前下がみんな棒状にピンぼけるの。何で同じピンぼけになるのかなと思ってたら、日本間でプリントやってたんです。引き延ばし機ひっくり返して。そうすると、ひっくり返すからこっち側に重しを置くわけだよね。

小勝:はいはい。

中嶋:なるほど、傾いて。

石内:下が畳だし、傾いちゃったの。全然知らなくて、水平とるなんて。なんでこの棒状に、なんでこんないつもピントが合わない。みんなに聞いてもわかんないって言うわけ。いろんな人に聞いたんだよ、私。

小勝:わりに基本的で。

石内:ある人が、「ねぇ、水平測ってる?」って言ったの。「何、水平って」(笑) それで今はすごいです。水平器、立派なのを買いました、私。ばっちりです、今。

中嶋:じゃ、これは水平を測っていない写真……

石内:いや、それはね、大伸ばし。もう上の暗室は水平なんか測んなくて、ひっくり返さなくてもできるけど、大きく伸ばす時は上ではできなくて、ここでやったんですよね。畳だったからいけないの。

中嶋:あんまり平らにならないですよね。

石内:そういうこと知らずにね。写真じゃないんだよ、私の写真は。始めた時から。

中嶋:写真家じゃなくってアーティストだと思うという、塩田(千春)さんのお話が印象深いですけれども。写真の技術として学ばれたということではなく、暗室作業が重要であるということもありますし。

石内:そうそうそう。

小勝:あと、記録が目的ではないということもよくおっしゃっていましたよね。

石内:そうですね。

中嶋:写真は当時、ある意味流行っていたと思うんです。いろいろな写真誌が創刊されて。 

石内:流行ってるというよりスタート地点だったな、あの頃。一個なにか、写真の新しい何か息吹みたいなのがね、出てきた時代ではあった。

中嶋:横須賀の写真集もいくつか出ていますよね、そのちょっと前に。そういうものはご覧にはなっていたんですか。

石内:全然。興味なかった。

小勝:あとあの、お好きっておっしゃっている、ええと……

中嶋:あ、《地図》ですね。

石内:川田さんのね。
小勝:そうですね。川田喜久治さんとか、こういうのはご覧になってました?
石内:いや。あのですね、川田さんの《地図》っていうのは、カメラ雑誌でこんな小さく、カット写真で見たんですよ。それだけ、一点しか見てないないんだけど、「これはすごい」と。それそれ、これがちっちゃくて、ちっちゃくカット写真で出ていて、なんだろうって調べたら、川田喜久治さんという人の《地図》っていう写真だっていうことがわかったの。

小勝:それは、《横須賀》を撮られる前、後。

石内:前後くらいでしょうね。で、正確に《地図》を見たのはだいぶ後なんですよ。だから、なんかこう、なんだろうな、写真ってなんかわからないけれど、影響っていうんじゃないけど。「あ、すごいな写真は」ってね、ちょっと思ったのは、その《地図》という写真ですよね、やっぱりね。「こういうことできるんだ」みたいな感じ。

小勝:なんかこの、黒の深さとか共通するところがありますよね。

石内:うん、たぶん影響されているかも知れない。

中嶋:そういえば、「ジャパニーズ・ブラック」という呼び方を、石内さんがなさってますね。

石内:ああ。それはですね、プラハでやったときに、どこのキュレーターかな、イギリス人、オランダ人、ドイツ人、色々な人が来ていて、日本の70年代の写真集、写真がやたらヨーロッパ、アメリカで妙に高値で売れて、ブームなんですよ。で、なんか基本的にモノクロね、モノクロっていう意味で日本の黒の質が、違うらしいんですよ。

小勝:濃い、深い。

石内:印画紙が違うし、薬品が違う。だからもう、ベースが全然違う。

中嶋:それは70年代の日本で使われていたフィルムや印画紙や薬品が、ヨーロッパやアメリカの物と違う、と。

石内:そうそうそう、全然違う。

中嶋:どういう風に違うんですか。

石内:どういう風に違うのかはわからないけれど、でもやっぱり写真って違うんですよ、実は。

小勝:見た目がかなり黒っぽいっていうのは確かにあるんですよね。

石内:それとやっぱりその、森山(大道)さん、中平(卓馬)さんたちの「アレ・ブレ・ボケ」と…… やっぱり写真に対する、非常に観念的な一つの運動みたいなものが出てきた時代でもあって、ヨーロッパにあんまりない、そういうの。あってもなんかちょっと質が違うのかも知れないな。モノクロに対する日本人の質感みたいなものは、本当に独特。それで、私は「ジャパニーズ・ブラックだね」みたいな話しをしたのを覚えてる。

中嶋:気がつかなかったです。

石内:そうですよ。すごいですよ、やっぱり、あの時代70年代のモノクロは。

小勝:重要なことですね。

中嶋:「プロヴォーク」の……

石内:うん、あれも含めてね、あれも大きな影響が。わたしは実際「プロヴォーク」は、遠いところにあって、よく分かってなくて、中平さんは知ってたんですね、個人的には。森山さんはあんまり知らなかったな。

中嶋:中平さんや、東松(照明)さんは多摩美で教えていらしたんですか。

石内:中平さんも東松さんも多摩美ではありません、多摩芸です。

中嶋:やっぱり『カメラ』とか『マッセズ』とか『アサヒカメラ』、『カメラ毎日』が創刊されるのが、石内さんがお生まれになった前後なんですよね。だから写真がどんどん勢いに乗っていく感じというのがあったのかなという風に思います。

石内:それとやっぱり、いわゆる写真が記録とかね、写真の言ってみれば効用みたいなのがあるでしょう、それとは違うんだよというのが出てきた時代ですよ。「プロヴォーク」は特にそういう、一つの新しい写真の在り方を示そうとして出てきたものだし。

中嶋:石内さんの写真というのはそれともまた違いますよね。

石内:うん、違うけどやっぱり流れかな。だって流れがないと出てこられないじゃん。私は「プロヴォーク」ではなかったし、あまり関係が無いと思っていたけれども、やはりそういう流れがあったから私も出てきたのかも知れないですけどね。

中嶋:横須賀を撮られている方もいたなかで……

石内:あ、それはね、東松照明さんと森山大道さんの横須賀を見て、「これじゃないぞ」と思ったの。

中嶋:違いましたか。 

石内:うん。これじゃないぞ、と。私の横須賀はこうじゃない、と思ったの。で、みんな横須賀を撮っても、ドブ板通りを撮ってるんですよ。あれが横須賀、じゃない。あれはアメリカ。私は「あそこはアメリカだ」って育ってるから、あそこを横須賀だと言って撮ってる人は違うと思った。

中嶋:やっぱりそこには横須賀のある種のイメージというかそういうもの(がみられますか)。

石内:東松さんにしても、東松さんははっきりしていますよね、テーマが「占領」っていうテーマだからね。テーマの中で横須賀を撮っているわけじゃなくって、もっと大きな流れの中で横須賀だから、それは良いんですよ。森山さんも横須賀を撮っているけど、きっと違うんだろう。あの二人は許す。けど、私のとは違う、と。あの二人でもない、と。だから横須賀を撮れるのは私しかいないと思ってたもの。

小勝:それはやはり、小学生の頃からずっと育ってきた横須賀。自分の、石内さんにとっての横須賀。

石内:うん、それとだから要するに、ドブ板ではない横須賀ね。だから私、《絶唱・横須賀ストーリー》のときには、やっぱりドブ板は撮れなかったから。歩いちゃいけないところだったから、やっぱり歩けないんだよ、怖くって。

中嶋:怖いですか、ドブ板は。

石内:あの当時はね。

中嶋:今は、怖くないですね。

石内:今は怖くない。

中嶋:綺麗に舗装されて。

石内:そうです。だからやっぱりある種の刷り込みだよね。幼い頃に刷り込まれたことは、なかなか逃れられないな、とその時思ったんですよ。

中嶋:私は石内さんの《横須賀》のほうを先に見ています。中平さんとか森山さんのものよりも。石内さんは、横須賀のイメージを《絶唱・横須賀ストーリー》で更新されたと思います。

石内:だからこれは横須賀ですけれども、やっぱり横須賀を借りているわけなんです。私が何かやりたいっていうときの出発点として横須賀を私は選んで、こんなぶつぶつした横須賀はないわけだよね。こんな黒い横須賀はどこにもないわけだから(笑)。

中嶋:山口百恵さんのコメントが「こんな怖い所だとは」とか(注:石内氏は、1979年『絶唱・横須賀ストーリー』を歌手の山口百恵に送った。この件は山口百恵『蒼い時』、集英社、1980に記述されている)。

石内:そうそうそう。だからやっぱり創作なんですよ、私の写真。作り上げるものなんで、やっぱり暗室でぐじゅぐじゅ考えながら、薬品にまみれて、なにか、なんていうかな、身体的なものなんだよ。

中嶋:写真が身体的……

石内:写真の身体性は撮影なんですよ、普通。それが写真の身体性っていうことになって。それが、私は全然そうじゃないの、逆なの。写真撮るのは本当に苦手。撮りたくない。いまでもだから、本当に少なく撮る。

中嶋:撮影の時間がそんなに長くはないそうですね。

石内:だからすごく少ない。それは後で始末が良いでしょう、少ない方が。自分で管理できるという意味も含めて、沢山フィルム撮ったっていいけど、それを自分で現像してなんだかんだと、すごくプロセスが多いわけですよ。それをなるべく少なめに、沢山撮っても少なく撮っても私にとっては一緒だな、という感じがあるから。一枚撮れればいいの、私は、なにか。

中嶋:いわゆる写真家の人たちの仕事の仕方とは違いますね。

石内:だから、向いてないのよね、仕事に。

中嶋:先ほど聞きそびれたことが一つありまして、横須賀の前に行われた展覧会の「百花繚乱」展。これも清水画廊ですね。これが1976年なんですけれども、これはどのような経緯で企画されたものかお話いただけませんか。

石内:私グループ展から写真をはじめてね。個展はまだやったことがなくて。この当時東松照明さんがワークショップをやってたんですよ。

中嶋:荒木(経惟)さんとなさっていたワークショップですね。

石内:荒木さんもそうですし、森山さんもそうだしね。生徒さんが何人かいて。で私はこのワークショップに何故入らなかったかというと、入学金がすごく高かったの。で、あんまりにも高いので、私は払えないから、じゃ一人でやろうと決めて、独学で始めたんですけれども。まだ「横須賀ストーリー」をやる前なので、やっぱり一人でやってるのもいいんだけど、なんとなくそこらへんで知り合ったわけですよ。ワークショップの生徒たちと。
一人倉田正子さんという人がいて、彼女は荒木さんのワークショップの生徒さんだったのかな。彼女と二人で何かやらない、みたいな感じで。じゃ、おんなを集めて展覧会やろうか、と。その倉田さんと二人で企画をたてて、いろんな人紹介してもらって。
 そのなかで私が一番年上だった。29歳だったかな。で、やっぱり昔の「エス・イー・エックス」もそうですけれど、ある種のわだかまりのようなものがまだ私の中に残ってるわけですよ。まだ女性で写真を撮っているという人があまりいなかった。やっぱり女性の写真家って差別までいかないけれど、何かこうちょっと、うん、あったの。

小勝:写真の世界はやはり男性中心ですよね。

石内:もちろん。女性の写真家の先輩というのもあまりいないし、これから私も含めて世に出て行くひとたちでなんかこう、メッセージを送ろうかというような形で「百花繚乱展」というのを企画して。

小勝:実際やられてみて成果は……

石内:いわゆる普通のグループ展ではなくて、名前を一切出さずに、一壁主義じゃなくて一人半切20点かな、それを全部バラバラに展示する(という方法で展示した)。

中嶋:これは全部男性の写真なんですか。

石内:「男」が一応テーマだった。別になんでもいいんです。でも見事に写真関係者はこなかったね。

中嶋:清水画廊でなさっているのに。

小勝:やっぱり女だけだからということでしょうか。

石内:女だけっていうことで、有名人も誰もいないし。一人だけ有名な人いたんだけどね。西村多美子さんという人。この人は写真集だしてます。来たのはテレビ局。

小勝:それと週刊誌(笑)。

石内:『平凡パンチ』(笑)。「(女が)男を裸にする」っていうね、そういう意味でスキャンダラスだっていうんで来たけれど。だから見事に(写真関係誌には)どこにも出てないんじゃないかっていう気がするけれど。まあそれだけ差別はあったわけですよ。女は写真に向かないとか。なんかいろんなこと言われたし。まあ見に来ないということは興味がないということだよね。

中嶋:それは男性の写真をとっていたからなのか、撮り手が女性だったからなのか、両方なんでしょうか。

石内:逆に、普通の写真展やってもしょうがないから、男をテーマに女が十人集まるっていうことにした。それは意図的に私たちも考えたんです。

中嶋:(この展覧会の)案内の文章というのがあるんですが、わりと明確な声明なんですが……。

石内:それは私が書いた。

中嶋:こういうことは最初に写真を撮られた頃から考えられていたことですか。ちょっと読みますと「見られる(撮られる)という受け身に甘んじていた女そのものの内にも、見る事(撮る事)に対する欲望を幾重にも鬱積させてきた歴史を、写真という極めて個的な作業の中から何千、何万...と撮られつづける女を逆手にとり、見る側をあえて選んだ女が見て、見て見尽くすことに固執することによって運命的に負わされてしまった「女」という性を確認し、写真をその手法として、方法として、あるいは職業としていかに定着させていくのか」。

石内:ま、ありきたりだけどさ(笑)

中嶋:欲望という言葉をここで使ったということがありきたりではないというか。女性にも欲望があるんだということがなかなか認められたなかったということはなかったでしょうか。

石内:見る事自体は男の価値観でしょ、見られることというのは女のほうでいつも受け身、というのがあったなかで、私も運動のなかで考えてきたし、どこに行ってもあんまり世界は変わらないわけですよ。

中嶋:男性を見る女の欲望があるというのはリブのなかではあまり言われなかった。「男性は敵」という中では。

石内:そうそう。というか、未熟なわけですよ、若いうちは。リブの運動にしても当時はそれしかできなかったんだと思う。だから学んで行くという意味では常に完璧ではないからね。

小勝:原点として、リブの運動に関わられたということはこの後も……

石内:大きいですよ。特に「百花繚乱展」においては。ただその後も社会のなかでの自分の立ち位置も含めて、写真をどうやってやっていくか、そう考えてはいなかったんだけど、何か一個きちっと私一人じゃなくて仲間意識というのも含めてやってみようかなと思ったことは大きかったですね。

小勝:ただ、(「百花繚乱展」のような女性だけのグループ展は)これ一回だけですよね。

石内:いやその後倉田さんと西村さんたちが、やりたいとは行ってたんですよ。
私はこれはこれ一回だけだと思っていたので。

小勝:この半切20点でランダムに並べるというのは、床から天井までばーっと……

石内:そうそう。どれが誰の写真というわけではなくて、全員の写真。わかっちゃうんだけどね(笑)。

中嶋:写真を勉強することはこの頃女性の間でも一般的になっていましたか。

石内:いや、一般的ではなかったでしょ。

中嶋:東松さんたちのなさっていたワークショップ、「ワークショップ写真学校」ですよね。それにはたくさん女性がいらっしゃったんでしょうか。

石内:あんまりいなかったな、でも女の人が目立ってたんでしょうし。倉田さんがそうでしょ、プロでやってた人もいたな。たいていは学生だったと思う。

小勝:先生の荒木さんや東松さんも見に来られなかったんですか。

石内:それは来たんじゃないかな。その頃はまだそんなに親しくなかったけど、でも来たと思います。

中嶋:この頃から横須賀ストーリーの撮影が始まるわけですよね。横須賀の写真にここで一度戻ってしまいますけれども。地図を持って行かれたとおっしゃっています。

石内:そうです。

中嶋:それで自分の行かれたことのないところも行かれたと。その後の初期三部作の続きとなる《連夜の街》(1980)の撮影にも取りかかられると思うんですが、これは横須賀の安浦という地域ですね。ここも「行ってはいけない」土地だったんでしょうか。

石内:いや、そんなことない。ドブ板とは全然意味が違う。

中嶋:安浦は追浜からも割と近くですね。

石内:一番近いのは皆ヶ作というところですよ。田浦にあるんですよ、皆ヶ作という赤線の街が。そこは私の通学路だったんですね。気になる一角があって。空気が違うんですよ。なんかどよーんとしていて。

小勝:旧赤線のホテルというか、それをああいったシリーズにするというお考えはどのように出てきたのでしょうか。

石内:これは結局横須賀ストーリーのなかに、これから撮るであろうテーマが全部入っているんです。《アパート》を撮っていたら、アパートは小さな部屋がいっぱいあるんで、ぱっとみたらなんか変なの

小勝:もと赤線であった。

石内:この部屋へんだなというのがたくさんあったの。そしたら元赤線の部屋がその後安アパートとして使われていたということがわかったの。それで「もう次はこれ撮るしかないな」と。「出会った」わけですよ、「連夜」には。赤線の街にはもともと高校生のときに出会っている。
 それと同じで、平沼アパートにも出会っている。平沼アパートは巨大で真っ黒でしょう、なんか変な空間だな、とそれでそばに行ってみたらやっぱりアパートだったと。あれは戦災にあっているけれど、戦災あともそのままになっていたんじゃないかな。

小勝:最初は建物のたたずまいへの興味だったんですか。

石内:なんか変なの表情があるの、建物に。

小勝:それは住んで、出て行った人たちの記憶の集合体のような……

石内:平沼アパートはまたちょっと意味が違ってて、巨大な鉄筋コンクリートだから。日本でモダンアパートと言われて同潤会系なんですよ。外側が、手入れされていないから黒ずんじゃって、何か息づいているような、生き物がそこに座っているような感じなんですよ。行ってみたらやっぱりすごく面白いところで、そこに住んでいる人たちと仲良くなって、撮らせてもらったんだけど。

中嶋:「アパートメント」の撮影は1978年くらいまでなさっていて、その頃写真集を出されるわけです。『アパートメント』が1978年です。これには矢田さんがかかわっていらっしゃるのですが、これは矢田氏が編集を買って出たということなのでしょうか。

石内:矢田くんが写真展やらないかって私に最初に声をかけたということがあって、「アパートメント」は個展では2回目ですよね。それでなんか展覧会って消えてしまうけれど、カタログではない形で何か形に残そうと。これ3部作とも自費出版なんですよ、自費出版も寂しい感じはなくして、デザイナーをちゃんと頼んで、お金をちゃんとかけて、きちっとした写真集を作ろうと。そう言って矢田くんに声をかけたんです。彼にも私がお金を払うという条件で。それで一応、「写真通信社」というレイベルができて、私2冊ここで作りましたけれども、彼は引き続きそれをやってたんじゃないかな。

中嶋:じゃあ出版社もこの写真集が出るのと同時に立ち上げられたんですね。

石内:そうです。

中嶋:装丁も木村恒久さん。

石内:そうです、デザインも一流の人にきちっとやってもらって。

中嶋:すごくプロフェッショナルですよね。最初なのにすごいですね。

小勝:文章も桑原甲子雄さんで。

石内:やっぱりずっと何かここに行くまでの蓄積があったんですよ。急にはできないから。それは矢田くんの蓄積と私の蓄積が写真集2冊にうまく出たんじゃないかな。

中嶋:銀座Nikon Salonで展覧会されるわけですよね。

石内:銀座Nikon Salonでするにあたっても、私は東京で一番広くて一番人の来るところでやりたいう希望があったわけ。

中嶋:それもすごいですね。

石内:だって誰も来ないようなところでやってもしょうがないもの。というのは私も写真家になろうっていう気がないし、写真で食べてはいけないと思ったから、こういう写真ではね。

中嶋:ここまでプロフェッショナルな決断をされていた上でなお、写真家になられる気はなかったということですか。

石内:まだちょっとよくわかんなかったな。初期三部作って、私のわだかまりを全部出しちゃったような本だし、それが全部こう形になって残ったということも含めて、これじゃ食えないわと思って(笑)

小勝:よくそんなに自費出版で3冊も写真集を出すお金が……

石内:はい、ありました。父に借りました。結婚資金があるだろうって。「お父さん結婚資金貸して」って300万借りました。

小勝:お父様は快く貸してくださった……

石内:出してくれました。信頼関係があるから。うちの父はなんでもはっきりしていて、金銭的なこともはっきりしていて。借用書もみたらちゃんとあったしね。月々返してたから。全部は返さなかったよね(笑)。その後木村伊兵衛賞をもらったから、その賞金がそのとき30万だったの。その授賞式に(父が)来てさ、30万入っている袋をそのまま「はい」と。

中嶋:木村伊兵衛賞をとってお父様もお母様も誇りに思われたでしょうね。

石内:どうかなあ(笑)。父は授賞式にも来てるしね。母もいたか、あのときは。

中嶋:このとき、写真を始めてから正確には10年も経っていませんよね。

石内:あっという間だったね。

小勝:《連夜の街》というタイトルは石内さんがお付けになったんですか。素敵なタイトルで。

石内:基本的にタイトルは全部私が付けています。「エンドレス・ナイト」ってどこかに歌があるみたいで、かっこいいな、と。

中嶋:かっこいい感じの写真で、写真集ですよね。

石内:基本ですね。かっこよくなくちゃ。こんな暗い写真だし。かっこ良くつくんなきゃいけないの。表に出る、あるいは出すということは。

小勝:そのあたりも既にすごいプロ意識だと思いますけれども。

石内:私デザインを一年間やっていたから、それがすごい役にたった。嫌だ嫌だと思ってたけど、写真はじめてからすごいプラスになったの。基本的ことで嫌だなと思っていたところを少しずつ思い出してたら、結局そうだなって。だから学問で面白い。10代に習ったものっていうのはどこかで身に付いている。

小勝:そして翌年、1979年に沖縄にもういらっしゃっている。

石内:そう沖縄初めてね。戦い(笑)。「ヤマトンチュ」と「ウチナンチュ」の戦い。

中嶋:比嘉豊光さんとずいぶんお話し合いをされたということですが。

石内:逆差別ですよ。私は「ヤマトンチュ」という言葉初めて聞いた。面と向かって「ヤマトンチュ」と呼ばれてすっごくびっくりして。沖縄のこと何も知らなかったんだ。沖縄弁も知らないし。それは逆差別じゃないのかって闘ったんだよ、私。

中嶋:他でも聞かれているとは思いますが、横須賀と似ているという風には思われませんでしたか。

石内:もちろん。でも、基地の街は横須賀でもう十分だったの。そういう意味で沖縄に興味なかったのよ。似ているといったって同時進行的にあるんだから。でも行ってみてびっくりした。見え方が全然違う、基地のね。横須賀は海軍だから、見えるっていったって意味が違う。飛行機じゃないからね。
 要するに余計なことを知らずに、「基地の街は横須賀でたくさんだ」と思っていたけれど、今回沖縄の佐喜眞美術館で(展覧会を)やってすごく勉強しましたね。

小勝:はじめて沖縄にいかれてから、今回行かれるまでの間は……

石内:その間に少しずつ行っているんですが、全部グループ展で呼ばれて。個展は初めてです。

中嶋:このあたりに緑が丘にお引っ越しされて(注:1980年)。その年に《連夜の街》を銀座Nikon Salonで展覧会を行われて…… 年表を作ってみていると、本当に毎年展覧会をなさるか撮影をされるか本を出版されるかなさっていて、非常にお仕事が濃密で驚いてしまいます。カメラ毎日にもこの頃から徐々に作品が掲載されたりしていますよね。

石内:頼まれるというか、自分の仕事でしょ。だから要するに自分でテーマ決めてそのテーマを撮っているから、それがお金になるとは思ってなかった。現実的にはやっぱり食えないわけだから。だから父の会社に勤めていたというのもあるし。

中嶋:なるほど。そのお仕事は1995年までなさっているんですよね。

石内:父が亡くなったときに辞めたんですよ

小勝:1981年はこの展覧会「From Yokosuka」というのをされていますね。(注:「From Yokosuka」、メインストリート・キャバレー横須賀を改装した会場「2nd New Yokosuka」、横須賀市本町、1981年4、5月)

石内:これは横須賀の総括みたいなかんじで、いままで撮っていなかった横須賀、つまりドブ板を中心に撮り始めた。

中嶋:このとき横須賀を撮り足しているんですか。

石内:いや、別のものです。「From Yokosuka」っていう。撮りおろしだから。

中嶋:それが「2nd New Yokosuka」を会場にして行われた。

石内:これはあるんですよ、映像が。

中嶋:そういえば、これを日本映画学校の学生が記録映画を撮っているんですよね。ご覧になられましたか。

石内:うん、もちろん、ありますよ。

中嶋:それはどこかで発表されましたか。

石内:発表してない(笑)。色々な曲使っているから、百恵さんとかね、

小勝:これはすごかったみたいですね。演劇、ロックミュージシャン……

石内:うん、半年借りたんですよ、このキャバレーを。

中嶋:ここで暗室作業もなさってわけですよね。

石内:ここ(スタジオ)ではできない広さ、大きさのものを、1メートル、2メートル近いもの。1メートル80かな。みんなで一晩で。

中嶋:そういえばロール印画紙がお好きだということですが。最初からロール印画紙を使っているのでしょうか。

石内:というか、印画紙は切られたサイズが本当に少ないんですよ。本当に種類がなくて。20 x 24インチまでしかないから、それ以上は自分で切んなきゃいけない。

中嶋:ということはその頃から周りよりもわりと大きい写真だったと。

石内:そうですね。

小勝:プリントが面白いと印画紙が大きいほうが面白いでしょうね。

中嶋:この「From Yokosuka」の方をもう少し聞くと、これは地元の方も……

石内:横須賀で写真に興味がある人と、あと、横須賀映画クラブとか、演劇とか、ベースでロックをやっているバンドとか、そういう人たちに呼びかけたの。

小勝:それは前からの知り合いではなくこのために、お声をかけた。実際その一般に公開されたのはどのくらいの期間なんですか。

石内:19日間。ちょっとこれ準備期間にすごく時間がかかって。これ(会場となったもとキャバレーのお店)閉まっていたから、お店を改装するのがすごく大変だったの。電気付けて、水道引っ張って。

小勝:その資金はどうされたんですか。

石内:資金はみんながカンパ。で私はそのときポスターとか木村さん(注:ポスターデザインは木村恒久氏が行った)関係、印刷関係は全部(資金を)出したんだけど、全部で現金に換算すると一千万以上はかかったんじゃないかな。

中嶋:すごい規模ですね。

石内:それも中途半端にしたくなかったから、寂しい自主展的なものは嫌だと思ったから。かなり半端じゃなかったかもしれない。

小勝:じゃあ反響もかなり大きかったでしょうか。

石内:そうですね、東京から荒木夫婦、三木淳、深瀬さん、そうそうたる人たちが来まして、昼間は喫茶店、夜はバーをやって。そのお金も結構入った。何十万か入った。カウンターが50人ぐらい座れる。奥にステージもあったのに。

中嶋:そのとき測向所でも対談をなさっていますよね。

石内:測向所っていうのは、「From Yokosuka」のワークショップみたいなものなんですけれど、そこにメンバーが「From Yokosuka」の実行委員。

小勝:これでもう横須賀を総括なさったと。

石内:うーん、これでもういいんじゃないかと。横須賀にお返しするということでは。

小勝:こちらの桐生、上州の撮影を翌年またされていて、1983年に『朝日カメラ』に発表されている。やはり桐生への思いというものもこの頃まで持続していたのでしょうか。

石内:というかね、何を撮ったらいいかわからなくなっちゃったんだ、このとき。

小勝:横須賀を総括した後で。

石内:うん、写真もう撮らなくてもいいかなあ(笑)。そう思ってたときに、これは『朝日カメラ』の方が言ってきたんですよね、なんか撮ってくれって。それで、関東平野を撮ろうかなとなんとなく思ってた。そのスタートとして上州から関八州を撮ろうとしてたの。でもこれ一回になっちゃった(笑)(注:「特集E 上州」『アサヒカメラ増刊@』、1983年)関八州をテーマに歩いてもいいかなとこのときは思ったんだね。

中嶋:その後すぐに「TOKYO BAY CITY」のシリーズに着手される。
(注:東京湾内部を撮影する「TOKYO BAY CITY」を『カメラ毎日』(1983年2月〜1984年12月)に掲載)

小勝:東京ベイブルースというタイトルで今回出版されてますよね。
(注『Tokyo Bay Blues』、蒼穹舎、2010年出版の写真集に「TOKYO BAY CITY」と同じときに撮影された写真がおさめられている)。

うん、それには理由があって、『カメラ毎日』に発表したポジが全部ない。どっかいっちゃった(笑)今回だから80%未発表。で「TOKYO BAY CITY」っていう感じじゃないんで、タイトル変えたの。

小勝:これカラーになった横須賀という感じですね。

石内:そういえばそういう感じね。

中嶋:このとき始めてカラーフィルムを使われるわけですね。

石内:これはポジですけれどもね。これ(『Tokyo Bay Blues』)もすごく意図的な編集なんですよ。まずね、これ「ミッドウェイ」なのね(注:米軍横須賀基地に停泊しているアメリカの航空母艦の「ミッドウェイ」)。ミッドウェイから始まって…… 最後はなんでしょう。なんでしょう、これは。

小勝:これは東京ディズニーランドですね。

石内:これが一番東京湾の奥にあるんです。入り口が横須賀基地なわけですよ。アメリカに占領されているの、東京湾というのは。横須賀から入って、最後はディズニーランド、というふうに意図的に編集している。

小勝:軍事的な占領から精神的占領まで。

石内:安保ですよね、要するに。意味が深いんですよ。写真はぱっとみただけじゃだめ(笑)

中嶋:写真というものの意味の付け方とは違う作用がありますよね。

石内:さっきも言ってるんだけど、写真というのは目に見えない何か、歴史とか過去とか記憶とかね、何か、「今」を撮るということは、色々なことを過去と照らし合わせているわけでね、私はそういうことが写真にあるのではないかと思っている。この写真はすごく昔ですよね。1982年、30年くらい前、でも今見ても全然おかしくない訳です。写真は特に撮ったときよりも発表したときの存在感だね。

中嶋:カラーで撮るとより現在っぽいですかね。

石内:これはもともとモノクロで始めたんですけれど、発表する前にカラーにしてって言われてしょうがなく……

中嶋:次のテーマに。《同級生》ですね。1986年です。(注:「同級生横須賀市立第二高校39年度卒業生3年B組」、1986年)

石内:これは大型ポラロイド。ポラロイド社のプロジェクトだね。

中嶋:これは展覧会ベースでの企画ですよね。「スーパーイメージの世界」という。その協賛にポラロイド社がついていたということでしょうか。(注:「スーパーイメージの世界」、有楽町アートフォーラム、企画:山岸亮子/出展作家石元泰博、横尾忠則他、1986年2月)

石内:そうじゃなくて、ポラロイド社が、世界のアーティストに、20 x 24インチのポラロイドカメラを渡して撮るというプロジェクト。こんな大きいですよ。そのシリーズなの。
世界にいくつかしかない。そのカメラを使って何かを撮ってくださいというプロジェクトだった。

中嶋:このときにご自分の写真も出されているんですよね。

石内:何を撮ってもいいと言われて、ポラロイドってすぐ見られるじゃないですか。すごく大きいの(カメラ)、トラックで運ばれてくるような大きさで。何をとってもいいって言っても困ったな、と考えちゃって。カラーとモノクロあったんだけど、カラーのほうがいいって言われて。
 私「主婦」に興味があった。主婦って一番遠いところにいる女だなあと思って。そのたぶん私の年だからみんな主婦になってるかな、と思って。自分の高校時代の友達を…… 名簿があったの、同窓会名簿。片端から電話して。

小勝:女性に限った理由というのはその「主婦」に興味があったということからですか。

石内:男は全然興味なかった。まあ要するに「自分を撮る」ということだから。女の人のだけでいいかなと思って。で場所を設定してね。臨海公園という横須賀の港の公園なんだけど。それで一番気に入っている洋服着てきてね、って。お洒落してきてね、って言って来てもらったの。

小勝:みんなお洒落していますもんね。逆に当時の流行だから今みると時代を感じる。石内さんはジーンズでかっこいいですよね。流行じゃないから今でも古びていない。

石内:あれは私はモデルというより最後の締めで。

小勝:対比が出ていますね。石内さんと同級生の方の。

石内:私も意図的にああいう格好しているから。スカートはいて写真撮るわけにいかない。

小勝:同年齢の女性でもかなり違いが出ますね。

石内:このときはだから1947年だけでなく、1946年生まれの人もいた。私が早生まれだから。1946年生まれの人が多かった。この人たち誰も《1・9・4・7》には入っていない。
(注:石内氏は《1・9・4・7》(1990)というシリーズでも同じ歳の女性のポートレイトを撮影している)

中嶋:これらは連続する写真ではないんですか。

石内:そう。

小勝:ここから同年代の女性に関心をもたれるようになって、特に手と足に限って《1・9・4・7》を撮ろうと思われたのは……

石内:顔も撮ってたんですよ。体の末端を撮ろうと思って始めて、当然顔も末端だから、顔と手と足を撮っているんですけれども、全部プリントが仕上がってみて、写真集はもう決まってたから、全部焼いて並べてみたら、顔だけなんか違うんですよ、手と足と、変なんですよ、入れちゃうと。手と足はすごく面白いと思ったんだけど。それで外してみたらしっくりいった。
 それはなぜかというと情報が全く違うんですよ、顔と手と足は。顔は情報がありすぎて、一緒にならない。手と足って並べてみるときれいなんで。これでいこうと。英断ですよ。
「どうしよう、こんな写真集作っても誰も買わないんじゃないか」とか。

中嶋:要するに手と足だけだと匿名性も高まりますしね。

小勝:「《1・9・4・7》から展覧会と写真集での表現の違いを意識するようになる」、と目黒の展覧会のカタログに書かれています。この写真を発表した展覧会は笠原さんの展覧会が初めてなんでしたっけ。

石内:そう、「私という未知に向かって」。(注:「私という未知に向かって」、企画:笠原美智子、東京都写真美術館、1991年6−8月)

小勝:笠原さんは写真集を見る前から依頼されていたんですか。

石内:なんかワークショップがあって、そこに笠原さんも来ていたの。で「石内さん何撮ってるの」と聞くから、「同い年の女の手とか足とか顔よ」という会話はしたの。そうしたら彼女覚えてて、「見たい」って。だからまだ発表する前でしょう。写真集もできてない時ですもの。で今度自分の企画で女だけ集めて写真展をやりたいから出してって依頼がきたの。写真集はその後。

小勝:「私という未知に向かって」は1991年ですね。(『1・9・4・7石内都写真集』(発行・株式会社アイビーシー)の出版は1990年12月15日)

石内:じゃあぎりぎりか。
 実は《1・9・4・7》の写真は色々大変なストーリーがあって。日経新聞が全く同じ手の写真をこんな大きなポスターで作ったんですよ。それを、4月だったかな、春だったから、東横線に貼ってあったの。電話がかかってきて「石内さんすごいね、日経新聞で仕事やってるんだね」って言われて、「ええ、何?」て。「今貼ってあるから見てみて」て。
 完全な真似だったの。《1・9・4・7》と同じモノクロで手の写真。あんまり似ているんで、それは写真美術館で発表する予定のものだったでしょ、困るんですよね、笠原さんも。それで抗議したんです。「これは誰の写真でどういう広告代理店がやったんだ」って言ったら。そしたらすらすらって教えてくれたの。カメラマンは誰、広告代理店は誰、と。私が抗議するのもなんだから、写真集を出版した出版社が電話したの。そしたら菓子折りもって謝りに来たんですよ。

中嶋:それじゃ認めたということなんですね。

石内:それは受け取らなかったと聞いたけれど。いくらなんでもそれは変だと。で、日経新聞に抗議して。というのはポスターだけじゃなくて、電気のこんなくっついているライトボックスみたいな(広告)にもあったんです。
 私はどうでもいいんだけど(笑)、みんなが、私が日経新聞で仕事をしていると思うのと、私がこれから写真美術館で発表することになっていて、これ新作なんだし、これはコマーシャルに使われると困るって言ったの。そうしたらイメージ権は確立されていないって言うから誰が撮ったかは関係ないって言われて。大変だった、そのとき。

中嶋:つまり手を取るというアイディアが権利になっていないということですね。

石内:大型カメラで撮ってるんだけどね、よく見るとへたくそなんだけど(笑)、遠くから見るとモノクロで手がこんな風になっていて、そっくりなの。
 それで(新聞社が)「石内都さん知りません」て言われたの。そうしたら『1・9・4・7』の最初の書評を載せているのが日経新聞だったの。それがもう2月ぐらい。その後続々全ての新聞、全ての雑誌、あらゆるメディアが『1・9・4・7』を取り上げてくれたの。それで「知らない」っていうの。「それじゃあ教えてあげよう」って抗議しに行ったの。そうしたら平気で法的には何もないと、いくらそちらがどう言おうとイメージ権というのは自由だと。で、私の写真を複写して使っているわけじゃないから。

中嶋:しかし見ている人が勘違いするほど、この手を撮るというアイディアが当時特殊なものだったわけですよね。

石内:みんなで抗議しに行ってもらちがあかなかったんだけど、そしたらライトボックスがすぐに撤去された。向こうは法的なことは全て調べているから日経の方が正しいんですけれども、あまりにもね。そういうことがあったんです。

小勝:それにしても普通、人目には絶対触れない足の裏とか、年齢を重ねて節くれ立った指とか、そういうものをクローズアップで撮ろうという発想も独創的だと思いますし、あとこれのモデルになった人たちもよくOKして……

石内:私はこれ手と足は写っていて、表面しか写っていないけれど、40年間の時間を撮ろうと思ったの。時間はどこに溜まっているかなと思ったときに、手と足に溜まってるなと思って。例えばしみとかしわとかね、ささくれ立った皮膚、硬くなった皮膚というのは時間の形なんだと。と思うと、40年の時間を見たなという感じですよね。

小勝:おそらくこの写真を見て私たちが受ける感動というのもそこにありますよね。

石内:この写真すごく好きな人は好きだけど、見たくない人は見たくないと言う。
このモデルをやってくれた、主婦が多いんだけれど、二人断ってきた人がいて、その内の一人が、最初はいいって言っていたんだけれど、後から電話をかけてきてその断った台詞が「旦那がダメだって言う」って。足の裏を見せるなんてことはいけないことだ、卑猥なことだと。素足をみせちゃいけないんですよ。

中嶋: 40歳くらいのことって年齢を曖昧にするような歳なのかなと。

石内:若くもないし年寄りでもない、本当にブラックホールのような歳。どっちつかずで、揺れてるって言えば揺れているけれど、私は40年間の時間を見たいと思ったけれど、それは若いとか老けているとか関係ない。時間の形というふうにね、思えば、美しいものは美しいというふうに思って撮っている写真。

小勝:「私という未知に向かって」のカタログに石内さんが書いた文章がすごく感動的なんですが、私が読むのも何ですけれども「写真は表面と内面、全体と部分をそして美しさと醜さを一瞬のうちに逆転させる力を持っている。写真を撮るたびにその快感を私は感受するのである」と。
 例えば、この指もかなり曲がっていますけれども、こうして石内さんに写真にとられて粒子のグラデーションになるとき、ものすごく感動するんですよね。

石内:私は初期の3部作で粒子がすごく粗くて、この作品でどうして普通の現像になったのって言われるんですね。

小勝:普通の、というかもっと繊細になっていますよね。

石内:初期3部作をとっていたときは、粒子がブツブツあるように見えてたの。それで《1・9・4・7》を撮っているときに、もう既に粒子があるな、と思った、手と足に。だから私がわざわざフィルムで粒子を作る必要がないだと。で一番普通のストレートなオーソドックスな現像でと思ったの。粒子はもうあるんですから。

小勝:やっぱり普通と違うんじゃないかと。皮膚に刻印された傷跡がグレーの濃淡のなんとも言えないグラデーションになっていくところが、写真としてマチエールを見る場合に一番感動するところなんですけれども。

石内:やっとモノクロの基本的なテクニックみたいなのが、やっと身に付いたというか(笑)発見したというか。長年やっていれば見えてくるということも含めて。そうですよね、マチエールですよね。
 皮膚というのは平たいようで、でこぼこしていて、決して平じゃないんですよ。《1・9・4・7》は特にでこぼこしていて、粒子がいっぱい手と足にくっついて、時間の粒子がいっぱいくっついているわけだから。それを素直に私は受け取れば良い、という感じで普通の現像になった。
 だからもう相手にまかせる。私はただ受け止めるだけ。意図的なものは一切何もしない。

中嶋:印象的な石内さんのご発言に、《Chromosome XY》や《SCARS》や《INNOCENCE》を撮っていらっしゃるときに,写真の写真を撮っていらっしゃるようだとおっしゃっていたんですけれど。
(注:「Chromosome XY」、ツァイトフォトサロン、日本橋、1995年10月、 『アサヒカメラ』1995年10月に掲載/「SCARS」 ツァイトフォトサロン、日本橋、1999年10月、『アサヒカメラ』1999年10月、2005年2月に 『キズアト SCARS』、日本文教出版株式会社から出版/「INNOCENCE」ツァイトフォトサロン、日本橋, 2005年10月、『INNOCENCE』、株式会社赤々社、2007年)

石内:その言葉が出た最初のきっかけは《SCARS》なんですよ、傷跡ね。初めて傷跡をみたときに、「どうしたの」って彼に訪ねたら、たくさん話をしてくれた。この傷はね、って赤ちゃんのときの傷だったらしいんだけど。なにか、古い写真を見ているような感じ。彼がこうしみじみと自分の傷について物語るっていうことは、古い写真に近いなって思ったの。傷は単なる傷、ではなくて、あらゆる物語、ドラマがあったり悲劇があったり痛かったりいろんなことがそんなかに入っているな、でそれを支えているのが皮膚であってね。そういう風にいとおしい感じがした。《1・9・4・7》からの発見に繋がって行くかな。

小勝:《1・9・4・7》の後、爪だけクローズアップを撮っていらっしゃいますよね。

石内:これは男だけ。これは実は《1・9・4・7》の男版を作ろうと思って、手と足を見始めたんですけれども、あんまり面白くないの。全然つまんない男の手って。

中嶋:なんででしょうかね

石内:使ってないんじゃないあんまり。

小勝:爪が大きいから目立ちますかね

石内:ただ手や足じゃつまらないから、脱いでもらって、それで傷に出会った。これは二つにわかれているけれど、同じシリーズなんですよ。

小勝:男のヌードをとっていたのが爪とヌードになった。それから傷跡をだけをクローズアップされて《SCARS》になり、《SCARS》は男性と女性両方なんですよね。それでその後《INNOCENCE》に続く。

石内:これはやっぱり傷跡を撮っているとき女性の傷跡は全く意味が違うということがわかってきた。「きずもの」っていう言い方があるでしょう。「きずもの」になってしまった女たちっていうのがいるんですよ。
 やっぱり女性だけでちゃんと作らないといけないなって、意味が違うから。社会的な意味が全然男と違うということが少しずつわかってきた。

小勝:女の身体に対する、価値、美しい身体に対する価値というのが(社会の中で作られる)。

石内:女の身体は若くて美しいというのが一つの価値観としてあって、傷があって年を取っているというのは「最悪」だよね。「そうじゃない」と。そんなことはどうでもいいことで、結局若さっていうのは瞬間でしかなくて、その瞬間だけは当たり前にあるわけで、それは別の人が撮ればいい。私は興味ないから。一般的な美しさは、自分は興味がない。その「瞬間の美しさ」にもあまり興味がない。傷跡っていうのは瞬間じゃない。時間がたって形になる、時間が形になって、瞬間がいっぱい重なって時間になっているようなもんだから、私はそういう積み重なったものが好きだから。蓄積、塵みたいなものかな(笑)。
 一般的には美しいものの範疇にはいらない、どちらかと言えば醜いもののほうになるかもしれないけれど、私はそっちに魅かれる。何かすごい力があるのよ、どんどん引っ張られっていっちゃう。

中嶋:導かれて写真を撮っていくというか、女性や性に関する考え方も、写真を撮りながら……

石内:そうですね。私ははじめあまりないんですよ、何を撮りたいとか。だから一つ撮ると、それがどんどん広がったり、枝葉がどんどん大きくなっていって、これは撮んなくちゃいけないな、というのが自然に出てくる。それが不思議。
 だからこうやって(並べて)見たときにわかると思うけれどね、「とんでもないもの」ってあまりないの。

小勝:でもおそらく、男性が(女性でも)見たら、こういう風に傷ついた女性の体は、あまり見たくないびっくりするようなものもあるんじゃないですか。

石内:大雑把にいうと、私の写真にはみんなが見て喜ばしいものはないわけですよ。幸せにはならないわけ。

小勝:モチーフとしてはそうでしょうけれども,石内さんがそれを写真としてこうやって定着して写真にされたときに、醜いものも美しいものに転換されていく……

石内:もちろん私はそう思っているけれど、一般的価値観とのある種の戦いだよね。

小勝:「あなたたちの思い込みの価値観をひっくり返してやる」っていうそういう面白さがありますよね。

石内:一般的価値観との戦いってさっき言ったけれども、実はこの《INNOCENCE》、横須賀美術館で発表したんですよね。結構大きいですよね、1メートル50×1メートル。大きいの3点、ボーンとね。で、開館記念展で。

小勝:「生きる」でしたね(注:「開館記念《生きる》展 現代作家9人のリアリティ」、横須賀市立美術館、2007年4月)。

石内:そう、「生きる」展。かなり意図的に(この作品を選んで)展示したら、「開館でお祝いなのに、なんでこんな病気の写真が置いてあるんだ」と。

小勝:行政の人が、ですか。

石内:行政っていうか、学校の先生。

中嶋:学校の先生がそれじゃ、しょうがないですね。

石内:いや、そんなもんだな。私はわりと意識して過激な写真をいっぱい展示したんだけど。

中嶋:それは子どもたちに見せたくない、という。

石内:そういうことです。だから、馬鹿言ってんじゃないよ、と。子どもたちは自分の目で見て、自分で見たくないものは見なきゃいいわけですよね。「なんだろう」ってやっぱり見なくちゃいけない。
 私特に「横須賀」ではね、そういうことがすごくあったのと、なんか地域的っていうのもなんだけど、「生きる」展で一番のテーマだと思ったわけですよ、私は。この「INNOCENCE」はね。他のはどうでもいい、私のだけやればいいのに(笑)。かなりきちっと全責任を負うような形で展示したにもかかわらずそういう風に抗議が来て、それがなんか、教育委員会だったよね、そういうところにちゃんと出てるのね、みんな。読むこともできるのね。

小勝:そういう抗議が、ですか。

石内:うん、正木さんがね、探してくれたの。それをみて、「へぇ」って思って。なんか一般公表しなきゃいけないらしい。なんかよくわからないけど。

小勝:その公立の機関に来た、いろいろな市民の意見なりを公開しなくちゃいけない。

石内:それと、美術館の会議。

小勝:ああ、そうですね。

石内:みたいなもので、なんかもう、これはもうダメなんですよ、私。だから引き揚げちゃったの、全部。

小勝:ああ、購入する予定だったのに、その会議でそういう(否定的な)……

石内:いや、あそこは、購入はゼロだから、購入はしなかったの。そうじゃなくて、これから、こういう写真は展示するのはやめましょうね、みたいな感じになっちゃって。

中嶋:それは美術館の機能としては本当に……

小勝:ただ、正直言って、栃木県立美術館も石内さんの《INNOCENCE》から2点購入したんですが、その前の行政への説明は本当に大変でした。

石内:そうでしょう。

小勝:「なんでわざわざこんな傷のある、美しくもない身体の写真を、しかも栃木県と何の関係も無い人を」……。「隣の群馬県出身で、近いですし」なんて言ったんですけど。

石内:いや、無理だよね、それは(笑)。

小勝:まあとにかくそれよりも「ヴェネツィアで有名な石内さん」という実績でとにかく押し通せたんですが、やはりかなりこういう明らかに(女性身体が)わかるものよりは、もうちょっと抽象的になっているものの方を選ばざるを得なかったっていうところはありますね。

石内:これはね、すごく色んな問題が絡んでるんですよ、《INNOCENCE》っていうのは。一番過激な写真だって私は思ってますけどね、私のシリーズの中で。

小勝:いかに刷り込みが強いかってことですよね。女性の身体に対するイメージ、幻想。

中嶋:それはやっぱり美しさの問題に関する批判が多かったということですか。

石内:いや、美しさじゃないんじゃない、やっぱり見たくないっていうのがあるんだと思う。

中嶋:見たくない。じゃ、そういうものを撮ることに関するモラル上の批判というものもあったということですか。

石内:それは美術館に対して。私はあまり関係ない。「なんでこれを展示するのか」っていうのは、美術館の問題だからね。それは、作家はあまり関係ないと思う。それに明快な返答がなかったんではないかな。

小勝:そうですよね、美術館の方できちんとそれに対して理論的に返せなかったということでしょうね。

石内:だから逆にね、色々問題が起きるのが面白いの。私ともう一人。木村太陽くん?彼もわりと過激なものをつくっているのね。

小勝:木村太陽の、何でしょう。

石内:ゴム風船みたいなの。風船で抱き合った作品。

小勝:はいはい、ありますよね、ゴムの。

石内:彼も言われた。私と彼が言われた。

小勝:そういうことを言うと、現代美術の表現がものすごく規制されちゃいますからね。

石内:彼らは表面的な事だけで、普通さ「これはなんだろう、なんでこういう所にこういう写真があるのかな」ってクエスチョンマークで見てほしいわけですよ。意味があるわけだから。「なんでわざわざこんなでっかい写真で女性の裸の肉体が写っているのか」ということを考えない。要するに考えないということは見てないの。見ることも考える事もしてないと思ったの、私。

小勝:この目黒の対談でも、正木さんとか、「大野一雄さんのヌードを見て他の作品もわかった」という様なことをおっしゃっていて。やっぱり男性って、ちょっとこう抵抗感があるのかな、って思ったんですけどね。男性というふうに一般化はできないかも知れないですけれども。なんか、あの大野さんのヌードだから受容できて……

石内:大野一雄さんというね、やっぱり有名人、舞踏というね。《INNOCENCE》は無名の人だったの。誰だかわからない。それが、なんで?って。それと、こういう情報はないですよね、一般的に見ないから。傷の写真なんてさ、病院かなんかで酷い写真くらいしか見ないでしょ。

中嶋:今たぶん、石内さんの影響というか石内さんがこういうことをなさったからだと思うんですけども、こういう写真結構出てますよね。

石内:そうですね。

中嶋:乳がんの手術をした痕のある方のヌード写真集ですとか。やっぱりこの10年くらいで、すごくそういうことが変わったということですかね。

石内:でもまだまだ小学校レベルでは……

中嶋:小学生だったら一生懸命見そうですよね。

石内:先生がダメだから。

小勝:そうなんですよね、先生とか親とか。うちでは「中国現代美術との出会い」展(栃木県立美術館、2009年7-9月)で、年取った両親のヌードがありましたよね、あれは有名な作品ですけれど(EQ \* jc2 \* "Font:HGPゴシックM" \* hps10 \o\ad(\s\up 9(ソン),宗)EQ \* jc2 \* "Font:HGPゴシックM" \* hps10 \o\ad(\s\up 9(ヨン),永)EQ \* jc2 \* "Font:HGPゴシックM" \* hps10 \o\ad(\s\up 9(ピン),平)《私の両親》1999年)。あれに対する抵抗がすごくて。「子どもに見せられない」って。まああれもね、たんに年老いた両親の裸を晒しているっていうだけではなく、そこには当然親子の間の関係と愛情があるわけなんですけれども。その辺まで含めてちゃんときちんと説明してあげないと、わからない。

中嶋:やっぱり写真が透明な存在になってしまうんですかね。なぜ撮られたか、とかそういった文脈が一切抜け落ちちゃうわけですよね。

石内:うん、それは写真ってやっぱり伝達っていう、大きな、大きな、なんかこうテーマがあるでしょう。テーマっていうか機能的なこと。真実だと思っちゃうわけだよ、写真を見て。そんなことはないんで。だからなんか日本は写真教育が全くなされてないから。

小勝:そうですよね。

石内:美術教育がなされてないから、写真も教育されてないと一緒でしょう。だからやっぱり、これだけ写真大国ですよね、その中で一番程度が低い。写真に対する考え方がうんと低い。ただ見る。見て嫌なら、嫌って。

小勝:ぱっと見てそれで印象で決まっちゃう。

石内:なんだろうって思わないんですよ。普通ね、考えるよね「なんでこの写真があるんだろう」とかさ。

小勝:石内さんの写真は、さっきも言ったように、いわゆる人に見せない醜い、あるいは傷ましいものであるはずなのに、それが美に転化しているところが、ちゃんと見ればわかるはずだと思うんですけれどね。

石内:ちゃんと見る人は本当にわかるんですよ。だって「変だな」って思うし、「あれ?ん?」て思うじゃない。

小勝:それはその、醜く不快なままで提示されているんじゃなく、やっぱり美しく快くなってると思うんですけれどもね。

石内:特にこういう写真は、自分とはまったく違うものが出てると思うから、排除しちゃうんだよね。やっぱり見たくない方にいっちゃって、なるべく触れたくない。見たけど見てないことにするとかさ、そっちのほうにいっちゃうの。

小勝:もう誰だって自分に関わりのあること。必ず身体に傷があるし、衰えていく、しわしわになっていくわけですけどね。

中嶋:次にというか、その90年代の後半の活動なんですけれども。この90年代に、95年ですね、東京都写真美術館がオープンするんですね。この頃から石内さんは海外で特に行われる女性の写真家に特化した展覧会とかに出品されるようになるんですけれども。日本国内でもガールズ・フォトとかが流行った時代ですね。

石内:ああ、そう。

中嶋:ええと、HIROMIXとか、長島有里枝さんとか、蜷川実花さんとかが木村伊兵衛賞をとった、でもこれは21世紀に入ってからなんですけれども、90年代の後半色々な試みをされていて、たとえば楢橋(朝子)さんとの『main』、ですね。これについてちょっと、それを行った経緯についてお話しいただければと思ったのですが。

石内:彼女はほら、わりと自主ギャラリーを自分の実家に作っていて、何度か見に行っていたんですよね。

小勝:実家というのは、どこですか。

石内:東京ですよ。笹塚。
 まあ、そんなことで、彼女の展覧会を見に行っていたときに、なんか、私の印刷物、写真集ではなくてね、なんか軽い印刷物みたいなものをなんとなく漠然と作りたいなと思っていて。一人でやるっていうんじゃなかったんで、それで楢橋さんと話をしながら……

中嶋:楢橋さんとはそれ以前から。

石内:一緒に写真は見てました。彼女と私は同じ猪なんで(笑)。

中嶋:そうなんですか。

石内:ま、あんま関係ないかな。干支が一緒。

中嶋: で、『main』という機関誌というか、写真誌を創刊されるんですよね。

石内:二人のイニシャルをね、合わせて、『main』というあれにして。フランス語で「手」ですよね。

中嶋:これは色々な企画があって、私は残念ながら現物を拝見したことがないのですが、面白そうですよね。

小勝:私も。

石内:そう?あるよ。

中嶋:これ、石内さんが「My Favorite Book」という(コラムで)川田さんの『地図』(注:月曜社、2005年)を最初に挙げられているんですよね。

石内:そうですか。なんか忘れちゃうね、昔のこと。見たことないなら、お見せしよう。全部はないけど。創刊号は残念ながらないかな。
 こういうやつです。一応10号まであるの。

小勝:あの、さっきちょっと聞きかけたことなんですけど。こういう出版物、写真集としての発表と、それからあのギャラリーとか美術館での展示の、その区別っていうのはどういう風にお考えになっていますか。

石内:うん、やっぱり展示が基本なんですけど。展示っていうのは、ものすごく身体的なものでしょう。だから演劇みたいなものですよね。始まって終わってしまう。搬入があって搬出があるというね。生っぽい緊張感と、見に来る人たちのコミュニケーションみたいなものが私は大好きなんですけれど、終わってしまうと跡形もなくなっちゃう。

小勝:そうなんですよね。

石内:そういう意味において寂しいところがあって。展覧会って全てを出すことはできないから、写真集はその落ちこぼれた物も一緒に入るわけですよ。だからやっぱりその両方は必要だなっていうのはあって、片っぽだけじゃちょっと物足りない。だから初めからわりと写真集を出していますよね。

小勝:そうですよね。最初からね。

石内:だから、なんかのカタログではないんだけど、印刷で残すみたいなことと、ただ写真集は写真集のクオリティを持たなきゃいけないから、写真集として独立したちゃんとしたものということも考える。

小勝:あと先程も「ストーリー」があるというような、最初から最期までの連続の順番というのを非常に(意識されているのでしょうか)。

石内:面白かったよ、その『main』はすごく。やっぱり私はちょっと年上だから、私のほうが慣れてて、彼女はちょっと大変だったことあるけれども。でもこれで、楢橋さんも随分勉強になったんじゃないかな。

中嶋:これでも立て続けに、三ヶ月とか四ヶ月おきに出されていますよね。お忙しかったんじゃないですか。

石内:そうかな。本当は毎月出す予定だったんだけどね。それはぜったい無理だけど。2年くらいかかったっけ。

中嶋:写真がたくさん本当に入っていますし、文章も書かれていますよね。

石内:うん。これはだって、ほとんど撮り下ろしだもん全部。500部しか刷んないの。だからもうなくなっちゃった。だって、売れるなんてあんまり気にしてなかったし。

小勝:それこそでも資金も、やはりこれもある程度かかるんじゃないですか。

石内:うん、えっと、幾らくらいかかったかな。

小勝:それは、お二人で。

石内:そうそう、折り半で。一人15万かかったかな。

中嶋:ちゃんと英訳もついてるんですね。

石内:一応。

中嶋:インターナショナルな。これでも貴重な資料ですね。(第3号で対談をされている)杉浦邦枝さんにはお話を聞くつもりでニューヨークに行かれたんですか。

石内:ニューヨークに行ったのは、傷、傷跡を撮りに。

中嶋:ロバート・フランクのアパートもこのときに訪問されてますよね。『main』は3年くらいにわたって。

石内:うん、それくらいかかってると思う、10冊。

中嶋:ゲストの人たちもご自分で選ばれたんですよね。

石内:一回ずつ自分の好きな人を呼びましょうっていうんで。
 結構いろんな人出ているんだよ、面白い人。

中嶋:やなぎみわさんが出てますね。これはやなぎさんがエレベーターガールの写真を撮られた後でしょうか。(注:『main』 第5号、1997年6月)本当に色々な人が出てて。

石内:私雑誌の編集者の才能もあるのかもしれない。

中嶋:珍しいですよね。撮って、書いて、デザインして、編集もされる方というのは。

石内:うーん、デザイナー志望だったから……もともとは(笑)。

中嶋:編集もご自分でなさったんですか。

石内:いや、編集は朝子ちゃんの友達に頼んで。三人であーだこーだ言いながら、その場で作っているみたいなもの。編集は一日でやったかな。

中嶋:一日でできてしまうものなんですね。

石内:土台ができれば、後はそんなに難しくはない。

小勝:これは沖縄特集ですね。(注:『main』第7号、1998年9月。特集:沖縄、ゲスト:野村恵子)

中嶋:これは撮り下ろしですか。

石内:いえ。これには一番最初に(沖縄に)行ったときの写真も出したような気がする。

中嶋:最初というのは79年ですね。

石内:たぶんそうだと思う。というか、ずっと発表してないのよ、どっちにしても。

中嶋:ということは、沖縄の写真で出版されているのはこれだけですか。

石内:うん、気がつかなかったけど、そうだね。沖縄の赤線も撮ってるんだけど。

中嶋:沖縄の赤線のお話はどこかでなさっていますが、そういえばその写真が公開されているのをみたことはないですね。「めぐりめぐって沖縄へ」というタイトルですね。

小勝:野村恵子さんという方はずっとお知り合いなんですか。兵庫の方ですが。

石内:うん、半分か四分の一くらい沖縄の人で、彼女が何回か展覧会してて沖縄で個展をすると聞いて、それを見に行って彼女を取材しようということで

中嶋:この辺りが96年から2000年のお仕事です…… この間に《1・9・4・7》や横須賀の作品が日本カメラに再録されたりしています。ヴィンテージ・プリントとニュー・プリントを合わせて色々なところで展示されています。この間他にもたくさんのお仕事があるのですが。

石内:私そんなに仕事してるの。

中嶋:『main』の仕事もそうですし、ご自分から次のテーマを見つけてどんどん撮っていらっしゃるので、お仕事が途切れないですね。

石内:なんか出てきてしまうんですよね。撮るものが。私が撮りたい物の何かが決まっているのね。

中嶋:運命的に色々出会ってきていらっしゃいますし、時期が重なったりしていますよね。お父様が亡くなったのが1995年ですね。お父さんがご病気のときに『main』を作っていらっしゃいます。

石内:創刊号が病床の父の写真だったのよね。

小勝:最終号が《Mother’s》でしょうか。

石内:《Mother’s》は2000年だからね。

中嶋:『Main』を全部出し終わった後にお母様がなくなられているのですよね。

石内:そう、これ(最終号)が6月だから、その年の年末に亡くなっている。

中嶋:創刊号はお持ちでしょうか。

石内:どっかにあるけれど、上(二階)にあるのかな。

小勝:《Mother’s》の前に皮膚の火傷の写真を撮っていらっしゃいますよね。

石内:これ6月だからその年の夏に亡くなったのよね(創刊号を探しにいく)。

石内:ありました。創刊号。

中嶋:この表紙は楢橋朝子とのお二人の写真ですよね。(中の写真を見て)これはお父様ですね。

石内:この時父がちょうど入院してて、亡くなったの。

中嶋:これは遺影なんですか?

石内:いや、遺影ではない。まだ死んでない(笑)。まだ生きてた。

中嶋:作品も素晴らしいものがたくさんですよね。これまとめて出版されたら……

石内:ああ、そう?そんな風に言ってもらえると(笑)。

小勝:これ復刻されないですか。

石内:いいんじゃない? これは。雑誌は雑誌で。でも未発表なものも多いんですよ。結局、印刷物というのはこういう風にして絶対に存在するわけですよ。でも展覧会は終わったら存在しない。
これこれ、この人すごいでしょ。エイズなのよ、このおっちゃん。

中嶋:これ入れ墨ですか……

石内:筋ぼりって言って、文章でも書いてるんですけれど、途中で止めちゃった。

中嶋:どこでそういう方にお会いするんですか。

石内:色々な縁で。これは東京の家で撮ったんだよね、確か。

中嶋:家で撮影することもあるんですね。

石内:いや、《INNOCENCE》の写真は全部ここ(注:横浜の石内さんのご住居兼スタジオ)で。上で。

小勝:それとその次のシリーズに移る前に、「キズアト」のシリーズはもうおしまいにされているんですか。

石内:うーん、なんともいえないなあ。私あんまりだらだら一つのもの撮れないんで。
撮ってくれっていう人も結構いるんですけれどね。ただね、気持ちがもうないかな。

小勝:2004年の段階では、最後の傷は私自身を撮るとおっしゃっていますけれども。
    
石内:そう、撮ってないんだけど、私自身にも傷があって。いつかは撮るんだけど、それは別の流れになるんじゃないかな。それから、これだけの傷を持っている人に会って。これ以上の傷はとれないわけですよ。撮らなくてもいいわけですよ。たくさん撮ればいいってもんじゃないし。かなり象徴的な傷だと思います。

中嶋:傷の跡の残り方も世代によって違うかもしれないですし。

石内:もちろんそれも違うし、それから色んな方? この人はもう80近くの人ですよね。食道がんと乳がんと、なんか三つぐらい。傷跡になっている。この人に出会ったときは感動をしましたね。この人もそうだよね。彼女も乳ガンでフランスで手術したんですよね。それで、なんとこの人(の胸)には食塩水が入っている。無くなっちゃうと時々入れにいくって言ってた。向こう(フランス)は手術の後のメンテナンスのほうがすごく重視されているから。乳首をつけるかつけないかで悩んでた。もう一回手術しなきゃならないから。
それはやめたんだって。でも最初にみたときびっくりしちゃった。あんまりにもきれいなんで。乳首がないわけでしょ。彼女に出会ったのも本当に偶然なんですけれども。私乳癌の人はもう一人撮ってますけれども。
そりゃ一人一人傷跡は違いますけれども、もう撮らなくてもいいのかな、とちょっと思う。

中嶋:写真一枚一枚に本当に色々なお話があるんですね。

石内:そりゃそうです。

中嶋:今は乳ガンキャンペーンが盛んで。

石内:はやってますよね。

中嶋:写真家が先導している感じの運動でもあるんですけれど。

石内:ああいう風になっちゃうとなんか違うんじゃないかなあと思って。

中嶋: ちょっとだけお話戻ってしまいますけれど、1998年になりますね。「Art in the Ruins」というイベントを彦坂さんと堀さんと宮本さんとなさっていますね(注:1998年4月「Art in the Ruins AIR 空気」、ギャラリー山口、東京、出品作家が元美共闘のメンバーで石内氏、彦坂氏、堀氏、宮本氏)。

石内:実はですね、宮本隆司くんが、木村伊兵賞を取ったときに、みんなで集まったのよね。ずいぶん前よね。私と10年後。10年後に同じ賞を取って、そのときに堀くんから電話があって、みんなで飲もうかって、4人で飲んだことがあるの。展覧会見た後に。で、私は同窓会がすごく苦手で、ね。

中嶋:そのとき本当に10年振りの再会ということなんでしょうか。

石内:そうそう。誰かの葬式では会ってるかもしれないけどさ(笑)。それぐらい会わないのね。けれど、映研から二人も木村伊兵衛賞を取ったのは、これはすごいということだろうということでね。その後ぐらいからかな、なんか一緒にやろうっていう話が色々出てきて。でも同窓会は絶対やりたくないと思って、わりと消極的だったの、私。でも、同窓会じゃなくて、これを一つの契機として何かまた新しい何かができたらいいかなということで。

中嶋:彦坂さんが積極的だったんですか。

石内:そう。まあ美術家二人と写真家二人という組み合わせと、あと、現代美術があのとき彼ら二人も含めて、なんとなくあまり活発じゃなかったのね。で、やっぱり私や宮本君のほうが、仕事も…… うーん、なんていうかなあ、社会的な仕事の仕方とかがね、写真のほうがちょっと上向いていた。そういう現代美術の中で、向こうは美術家、こっちは写真家という肩書きだったので、お互いにプラスのことがあるかもしれないということで始まったの。

中嶋:宮本さんはこの頃は廃墟の写真でしょうか。

石内:いやいや、廃墟じゃない。この時はベルリンかな。「Art in the Ruins」の時は、いやー大変だった。

中嶋:このとき出品されたのは、《SCARS》でしたね。大変というのはお互いの主義主張がぶつかるということでしょうか。

石内:場所決めるときに、私風邪引いて熱だして寝てたんだよね。で、男三人で色々決めたんでしょ。ひどいのよ。いないからって色々決めてしまって。頭来ちゃって、搬入のときに彦坂に色々意地悪しちゃった(笑)。意地悪じゃないけど、「ちょっとおかしいんじゃないの」って抗議しちゃった。「現代美術の搬入っていうのはこういうもんだ」って(彦坂氏が)いうから、「そういうことじゃない」って、喧嘩したの。

小勝:でも同じ年の11月にまたやっていらっしゃる。

石内:うーん。3回やったのかな。全部で

小勝:そうですね。翌年の6月も。

石内:面白かったけど、別に私が得したことはなかったような……(笑)。まあいんだけど。でも、同窓会には結局ならなかった。色々あって。方向性が一緒でやってるわけじゃなかったし。私は一緒にやってもどっちでもよかったし、それどころじゃないとこっちの事情もあったわけで。

中嶋:彦坂さんや堀さんにとっては、多摩美時代の共同体を復活させて、というお気持ちもあったのでしょうか。

石内:うーん、わかんないけど、そういうこともあったかもしれないわよね。

中嶋:この頃、2000年から京都造形芸術大学で教員もされています。

石内:ああ、それはあんまり触れたくない。もともと年に一度という約束だったんですよ。「それならいいよ」と約束したんだけれど、それがだんだん年に2回とかだんだん増えていって。結局3年くらいやったかな。

中嶋:2000年からはじめて2004年までなさっているので、足掛け4年ですね。

小勝:それはやはり、時間とられちゃって……

石内:私は基本的に教えたくない。実は私の人生の中で一番残念だなと思うのは、先生がいない。一度も先生という人に会ったことがない。小学校も中学校も高校も。だからそれは残念といえば残念。だからいつも独学でしょ。
 だから逆に私は教えたくないの。自分が習ったことがないし、先生もいないから。でも伝えることはできるよね。それぐらいならできるって言って、年に一回でいいからと。造形大の客員教授を(引き受けた)。だから全部で10回も行ってないですよ。でもやっぱりもう学校はだめ、あのキャンパスの感じがすごく嫌(笑)。一昨日も京都精華大学とか行ってたけれど、やっぱり向いてない。空間が駄目なのなんとなく。小学校も中学校もあの学校の建物の感じが好きじゃない。

中嶋:そういえば学校のお話はあまり大学も含めてあまりなさらないですね。

石内:だって先生もいないし、友達もいないし。私にとってはどうでもいいところ。
一番勉強したのは独学で暗室ですよ。何度も間違いながら、一人で。

小勝:石内さんはどこかでもおっしゃってましたけれど、写真は一人でできるからと。グループ活動とか、そういう運動や学校などの集団活動が向いてないということなんでしょうかね。

石内:なんかこう…… うっとうしいというより、迫ってくる感じがするの(笑)。良くも悪くも写真界とも(自分は)関係ないでしょ。一匹狼なんですよ。全く関係ないから。
私来る人は拒まないのよ?来る人はどうぞって。でも私から積極的に若い人へ云々ということは一切ない。

小勝:そうですか。最近は若いアーティストの方々と対談をなさってますね。

石内:そう、来る人は拒まないから。私と話したいという人は来てくれていいんだけど、私が誰かに積極的にということはあまりない。あったとしても私より年下ですね。私と同世代や上は全然興味ない。

中嶋:あまりいらっしゃらないですね、同世代の方は。特に写真家という意味では。

小勝:杉浦(邦恵)さん(とはお話になっていますね)(注:『main』第3号、1996年11月で杉浦氏と対談をしている)。

石内:杉浦さんはちょっと上か。

中嶋:ではここからは《Mother’s》 についてお伺いします。
 お父様とお母様が相次いで亡くなられるという印象なのですが、お母様の遺品を取られることが《Mother’s》でしたよね。たしか「撮ったら捨てられる」ということだったと思うのですが。その一方でお父様の遺品を撮影されることはお考えではなかったですか。

石内:当然撮りましたよ。

中嶋:あ、そうなんですか。

石内:あんまりうまく撮れなかった(笑)。わかんない、なんだろう。父の物はそんなにたくさんなかったんですよ。それとあんまりフォトジェニックじゃなかったの。
だって下着っていったって。

一同:(笑)

石内:なんか変でしょう? 写真撮るっていう気にならないわよ。そんな、笑っちゃいけないんだけど。ほら格好良いものをね、父はお洒落だったから、と思うんだけれど。でも背広とってもさあ。

中嶋:なんで可笑しいのかわからないですけれど、可笑しいですね。

石内:撮ったんですよ。撮ったの(笑)。でもやっぱりこれは違うの。お父さん子だからね。本当に悲しくて。この世の果てにいっちゃったような感じがしたんだけれど…… 5年、生きてたんだけどね、母はその後。でもやっぱり全然意味が違ってたよね。母のタンスがあってね。いっぱい下着があってね。で化粧室行けば、腐ったような口紅がいっぱい出てくるわけでしょ。

中嶋:口紅は特に印象的ですね。

石内:この(ポスターの)写真はそこの台所のシンクで撮ったの。基本的に《Mother’s》はここ(リビング窓際)で撮っています。窓に両面テープで衣類を貼りつけて、うしろからトレーシング・ペーパーを張って、自然の光で撮ったんです。

中嶋:光の感じがそう言われるとそのように見えます。スタジオで撮られたのかと思いました。

石内:私はなるべく身近なところで(笑)。

小勝:でもお洒落ですよね、お母様。

石内:私にとってはそんな感じはあんまりなかったんだけど。今、義理の母とつきあってるのね。入院するときに下着を持っていくものを見ると…… やっぱり相対的に見ないとわかんないよね。それでやっと母がお洒落だってことがわかってきた。私言われても全然わからなかったのよ。

小勝:80……

石内:84歳。

小勝:80代のおばあちゃんというと、もっとおばあちゃん、おばあちゃんしているものになるんですよ。
 《Mother’s 》に関してはまず石内さんのお母さんへの想い、というのが言われますけれど、私は逆にお母さんを、女性として、こう、もう一度生き返らせたというか。石内都という。

石内:実際の女に返してあげるということかしらね。

中嶋:青い口紅がありますね。

石内:これはアイシャドウなの。
実はこの間、12月17日が母の命日だったの。京都の「ANPO」(注:リンダ・ホーグランド監督、2010年)のとき(上映されたとき)映画に母の昔の写真が出てるんですよ。アメリカの基地に務めていたときの。ジープを運転してたときの写真が。びっくりしちゃった。ああそうか、今日命日だなって。

小勝:亡くなる前にこのキズアト(母の)の写真を撮っていらしたんですよね。

石内:はい。それは母の84歳の誕生日にね。それは岡本太郎美術館の「震災と芸術」という新見隆さんの企画であったんですよ、グループ展が(注:「その日に、7年後、77年後−震災と芸術」展、川崎市岡本太郎美術館、2000年)。それを2000年の9月からか。関東大震災と同じ日からということだったから9月1日から始まったのかな。でそのために、母の傷をね。母は関東大震災も知っていて、阪神淡路も知っているわけですよね。だから。

中嶋:1916年生まれで。

石内:そうそう。震災という意味で…… 火傷の傷は、家で火傷したから震災とは関係ないんだけれど。傷を撮ろうかな、と思った。
 (最初)嫌がってたんですよ。何回か、撮りたいって言うと。撮ったけどうまく撮れないとかね。で何回かあった後に、ちょうと誕生日だったの。2000年の3月25日。それで撮った写真なんですよ。

中嶋:お願いするのは大変だったんでしょうか。

石内:うーん、あんまり積極的にその、なんだろうな、参加する人じゃなかったから…… その年に死んじゃうとは思わなかった。びっくりしますよね、こっちは。

中嶋:ご病気だったわけではないんですか。

石内:いや、病気だったの。彼女(の傷)は死にそうな火傷だったから。天ぷら油かぶっちゃったの、そこで。そのときの輸血でC型肝炎になっていた。かなり重度の肝炎だったんだよね。肝炎っていうのは、なんていうのかな、すごく贅沢病って言われてて、どこかが痛いとかそういうことはなくて、おいしいもの食べて安静にしていれば良いの。静かな病気なんですよね。だから自覚症状があまりなくて。彼女は、自覚したときはもう手遅れで。ここは応接間だったんですよね。で、かえってくるといつも寝てて、変だなと思ったんだけど。気丈な人だからね。でもある日、お腹のお水が溜まってとれないと。もう腹水までたまっちゃって。すごく我慢してたのね。それで病院に一緒に行ってくれって頼まれてびっくりして。それで先生に私だけ呼ばれて。「よくて三ヶ月、早くて一ヶ月」って言われて。「ええっ」て。

中嶋:それは写真を撮られた後なんですよね。

石内:後です。それで母には言えなくてね。肝硬変ということで。末期の肝臓癌で、すぐ入院して、2ヶ月で亡くなった。

中嶋:そうだったんですか

石内:まあちょっとね、痛くて大変だった。肝臓はね。

中嶋:この年はそれでしたら大変でしたね。

石内:うーん、まあ、そうですね。父の時も大変でしたけれど…… 父が脳髄からウィルスが入っちゃって、脳炎になって、入院したときは意識不明で。彼も三週間ぐらいかなあ。
 うちの両親あっという間に死んじゃうから(笑)。おろおろしている間に死んじゃうので、後が大変ですよね、そういうのは。確かに母はC型肝炎だったけれど、急に死ぬなんて思わないもの。でももう手遅れだった。二ヶ月だった。

中嶋:それで写真を撮り始められるわけですよね。

石内:うーん、だって残っているものがたくさんあるわけですから。彼女は5年間ここで一人で住んでいたから。私は暗室のときにしかこなかったから。

中嶋:《Mother’s》の写真はいつから撮り始められたのでしょうか。

石内:だから、2000年の母の誕生日。

中嶋:それではこの一連の写真は全部一緒のものとして撮影されたということですか。

石内:うん、火傷の傷だけは、母の誕生日がタイトルとしてつけてあります。
でも《Mother’s》の写真集を編むときに、やっぱりそれは一緒に入れようと思って、入れて、《Mother’s》と(タイトルをつけて)。だからダブル・タイトルになっているのよ。
 一番最初に写真展で発表したのは、2002年の中京大学のCスクエアというところが出発です。そこが一番始めです。

小勝:笠原(美智子)さんがヴェネツィア・ビエンナーレを石内さんで、と決めたのが。

石内:あれが、2004年。5年がヴェネツィアに行った年だったから、2004年ですね。

小勝:笠原さんは《Mother’s》を中京大学でご覧になったということですかね。

石内:いや、いろんなところでやってたから。

中嶋?:アメリカでも個展をされていますよね(注:Mother’s, Sepia International, New York, January 2003)。

石内:ああ、はい、やってます。

中嶋:その後に横浜ポートサイドギャラリーでもやっていらっしゃるんですね。
 
石内:《Mother’s》は一番始めに中京大学Cスクエアから始まったけれど、どんどん増えていったの、作品が。で一番最大がヴェネツィア。それまで撮っていなかった母の和装をね、あえてヴェネツィアの日本館のために撮りおろしました。

中嶋:そのときにカラーを使い始めたわけですね。

石内:最初からカラーは入っているのよ、口紅で。

小勝:口紅はカラーでやっぱり撮っているんですね。お着物も鮮やかですよね。

石内:モノクロだとあの赤い感じが出ないし、自然にカラーになりました。観客の人はびっくりされたんじゃないですかね。

石内:(笑)よく聞かれる、なんでカラーなのって。モノクロのイメージなのね。

小勝:私はヴェネツィアに行きましたけれど、床をきれいにしたんですよね。あの大理石を。それまでずっと覆われていたのを。

石内:あの、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館というのはものすごく使いにくい空間で、真ん中に真四角の穴が開いているのね。
 その穴をふさぐと、どうしたって上に絨毯かなんかひかないと、段差が出ちゃうのでかっこわるい。でもなんかね、全部あけてみようっていう気になったの。そしたら、全部大理石なんですよね、あれ。

小勝:素晴らしい空間で、白と黒の大理石でね。

石内:磨いたの、お金がかかった、床に。

小勝:あれを外したのは石内さんが最初なんですか。

石内:はじめは、というかあれが一番はじめのスタイルなんだけど、誰だったかな、草間(彌生)さんだったかな。真中の穴をかくして平たく床を貼ってから床材は色々違ったんだけど、外したのは私が多分初めて。

小勝:そうだと思います。時々行ってましたけど、見たのは初めてでしたから。その黒を基調とした大理石とこのモノクロの写真がものすごくよく合ったんですよ。

石内:あれは本当に偶然だったけれどね。あんな効果は期待してなかった。ぴったりだったモノクロと。なんか変な模様が、大理石の。床に模様があるんだからどうしようもない。
基本的な形に戻してみようというものだったんですよね。

小勝:穴のなかに映像を投影したんですよね。

石内:そう、だから過去を覗くみたいな感じに初期の三部作を……

小勝:時の井戸のように。

中嶋:ヴェネツィア・ビエンナーレの代表作家に選ばれたときと、行ったときの感想をやはり伺いたいんですけれど。

石内:選ばれたときはやっぱり、びっくりしますよ。私は夢にも思ってなかった。学生時代にヴェネツィア・ビエンナーレというのが、高いところにあって、誰かが選ばれてヴェネツィアに行くっていうのは知ってたけれど。それほど特別ヴェネツィア行きたいとかそういうのはないわけですよね。でも、そうか……、正直言ってすごく嬉しかった。天にも昇る気持ちだったかもしれない。

中嶋:石内さんは、木村伊兵衛賞も女性で初めてですよね。

石内:そうそう(笑)

中嶋:切り開いてこられて。

石内:うーん、まあ偶然ね。そういうルートに乗ったってことだと思いますけれど。時代的に。

小勝:笠原さんと一緒にやられたということも大きいとは思いますけれど。

石内:彼女はもうはっきりしてますから。女性で写真家というのはもう決めてたらしいですから。まあもう一人いたんですけれど。まあ多分、《1・9・4・7》からの流れで、《1・9・4・7》以降は一緒に仕事してないの、実は、笠原さんとは。

小勝:ああ、そうなんですか、意外ですね。

石内:「私という未知に向かって」(注:笠原氏による展覧会。東京都写真美術館、1991年)以来だったの。だからやっぱりあのとき、《1・9・4・7》からの流れで、ヴェネツィアにすっと行った感じがしなくもないですよね。
 行ったときは、なんだ、こんなにちっちゃいのか、と。そりゃ下見はしてたけど。お金が……。他の国は、ヴェネツィア・ビエンナーレ専門の学芸員がいるわけですよ。日本はいつもぐるぐる(役職が)回ってるから、いつも新人なわけですよ。だから、コミッショナー、私、交流基金の3人で行く訳ですよ。ちょっと情けないなって思った。(笑)日本のヴェネツィア・ビエンナーレなんてこんなものかと。

小勝:日本の文化予算ってそんなものなんですよね。

石内:お金がなさすぎて、やれることもできない。笠原さんが偉いのは、自分でお金集めたから。あんな立派なホテルでちゃんとしたパーティもできたし、そんなに貧乏くさいことはなかったよ。

小勝:桐生から日本酒が届いたとか。

石内:そうあれも笠原さんが、なんか4斗樽の樽酒欲しいって言って。樽どうするのって聞いたら、鏡開きしたいって。「えーそんなださいことしたくない」って私が言ったんだけど(笑)。「いや長野ではお祝い事には鏡開きするの」って。でも私、別に長野じゃないのになあって(笑)
 そしたらたまたま『桐生タイムス』という桐生の新聞があって、そこに親しい記者の方がいらして。彼女がヴェネツィア・ビエンナーレの発表の記事を書いてくれて、その下に近藤酒造という酒屋さんの広告が入ってたの。それで「これだ!」と思ってそれを持って行ってくれたの。そしたら4斗樽二つもくれたの。
 ヴェネツィアはね、本当にいろんなことがうまくいったし、お金がなくてもこんなもんかなと思ってやるしかないし、本当に楽しい思い出。

小勝:石内さんも着物で。

石内:そうそう、私は亡くなった友達の遺品の着物を着て。彼女は建築家だったのよ。オーストリアの大学出て、伊東豊雄さんのオフィスに勤めて、これから一本立ちするっていうときになくなっちゃったの。42くらいだったかな。その彼女の着物を着て。ね。
いろんな人を連れて行って、できたと。母、当然母はいるわけだから、会場に。

中嶋:色々な人の痕跡を連れて行かれたんですね。

石内:それだけ大きな世界的な大きな展覧会だったなというのは、今でも「見ました」っていう外人が来るのよ、ここに。ヴェネツィア・ビエンナーレで見てないと私の写真は見えないわけだから。でもアートに興味がある人は当然あそこにはいくから。
日本館で12万人、メインゲートは90万人だからね。

中嶋:ヴェネツィア・ビエンナーレに出ることは、やはり大きな出来事になるわけですね。

石内:広がりがね。ヴェネツィア以降本当に広がりは…… 日本はあんまり関係なく、海外から仕事が来るから(笑)

中嶋:ヴェネツィア・ビエンナーレ以降色々変わったことは多いということですか。

石内:うん、思いの外重要。各国がパヴィリオン持っているわけですから。それに対する、アートに対する考えが全部わかるんだよね。

小勝:そうですね、何を選んでどのように提示するかでね。

石内:それと後「テーマ」があるから、そのときの傾向はあるわけですけれども、やっぱり馬鹿にはできない。一つのアートのなんだろうな、歴史ですか。

池上:はい。では今日はだいぶん長くなってしまったので、これで終わらせていただきます。