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磯崎新オーラル・ヒストリー 2012年8月16日

軽井沢アスカ山荘(ASKA山荘)にて
インタビュアー:辻泰岳、中森康文
書き起こし:成澤みずき
公開日:2017年10月1日
 

辻:それでは1966年に開催された「空間から環境へ」展(銀座松屋8階、1966年11月11日〜16日)のことからお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。

磯崎: 66年ですね。「空間から環境へ」展に参加した人のリストを見てると、倉俣史朗(1934-1991)が入っていないの。史朗がなぜ入っていないかというときに、考えてみたら新宿にできたピット・イン、これは地下にあった(注:新宿二丁目のサパー・クラブ《カッサドール》(1967年)の誤り)。コンクリート・ブロックで、高松次郎(1936-1998)が(壁画として)影を描いたのはこの時がはじめてだったと思います。それとインテリアで、家具は簡単なものを倉俣がデザインして。ランプは集魚灯、魚釣りのランプを使ったんだよ。そしてこのインテリアが東京に出現した意味を考えてみると、アドルフ・ロース(Adolf Loos, 1870-1933)が19世紀の終わり頃に、世紀末ですね、ちょうど世紀の変わり目の直前に《カフェ・ムゼウム》(1899年)をアメリカから帰ってきて最初につくって、これがウィーンのカフェ文化というようなものの始まり。僕も20年くらい前はちょいちょいウィーンに行くたびに行っていましたけれども。同じ格好していましたから。ほとんど同じであると思うんですが。彼は、こういうデコラティブなアール・ヌーヴォーで分離派のヨーゼフ・ホフマン(Josef Franz Hoffman, 1870-1956)なんかと俺は違うということを、マニフェストみたいにして言おうとしている。このはじまりというのが(ある)。外観は知らないですよ、彼がやったかどうかも知らない。この内部のコーナーを入って、右と左にかなり大きいこういうカフェがあるというのがこれですから。それで「空間から環境へ」展ですね。これは日本の文化の状況、芸術の状況みたいなものが、世代交代を含めてシフトしていっている。この背景があって、この展覧会を組み立てるきっかけだったというように思います。

辻:1966年に「色彩と空間」展(南画廊、1966年9月26日〜10月13日)という展覧会を東野芳明(1930-2005)が企画しています。磯崎さんと一緒に出展されている田中信太郎さん(1940-)との交流も。

磯崎:ああ、信太郎さん。信太郎さんとの付き合い、友達ですね。この信太郎というのはネオ・ダダ(注:ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)の若いメンバーで。荒川修作(1936-2010)と赤瀬川原平(1937-2014)っていうのがいたんだけど、そのまだ下っていうのが信太郎だったんだ。そのちょっと上が吉野辰海(1940-)とか木下新(1929-2001)とかが(いた)。東野とは基本的に南画廊との付き合い。南画廊の付き合いということは、そこには50年代に瀧口修造さん(1903-1979)がいて、もともと東京画廊っていうのが前からあったんですよ。そこにいた志水さん(志水楠男、1926-1979)という人が南画廊を開いたんだよね。そうして銀座で、日本でアヴァンギャルドをやる2つの画廊というふうになっていて。この南画廊に東野が所属し、批評家として。東京画廊には中原佑介(1931-2011)がいて、原稿を書くと。それから杉浦康平(1932-)も東京画廊のカタログ(のグラフィック・デザイン)をずっとやっていて。南画廊はあんまりたいした金が無かったので、きちんとしたカタログは作らずに、毎回なんかポスターみたいなものをやっていたっていうのがいきさつですけど。そこのプロデュースで東野が比較的、関係をもっている。そして海外との連絡その他を、大岡信(1931-2017)が読売新聞にいたんだけど、付き合っていた。そういったコンビですね。そういうのが南画廊の関連と。そして僕は建築家ですから、なぜか両方に呼び出されて付き合っているということなわけ。東京画廊はどちらかというと磯辺行久(1935-)。ああいう若手が登場してきた時のディスプレイに僕はつきあってあげて(注:「磯辺行久(第3回展)、東京画廊、1965年6月」『東京画廊の40年 Document 40』東京画廊、1991年)。南画廊はディスプレー(として関わったわけ)ではないというのが、(東京画廊と)ちょっと違うところでしょうね。それで60年代のネオ・ダダの頃に僕はみんなと付き合いが始まったわけですけれど。ネオ・ダダっていうのはもともと、読売アンデパンダンがいろいろ動いている時にそれの関連との中で、東野が瀧口さんにくっついて世界一周をしていて。瀧口さんはヨーロッパから帰ってきたけど、彼らはニューヨークに渡ったんだ。ニューヨークに渡ってラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925-2008)、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930-)を見つけて。そしてポロック(Jackson Pollock, 1912-1956)以下を日本に紹介を始めたというのが、東野の60年代のはじまりくらいですから、これが一つのきっかけですね。この南画廊の展覧会、「色彩と空間」展というのがでてきたのは、山口勝弘(1928-)がその頃にニューヨークに行って。僕はまた別(の目的)でいろいろ行っているから。美術の方でおそらくプライマリー・ストラクチャーズだったかな。ユダヤ美術館で(注:「Primary Structures : Younger American and British Sculptors」展、1966年4月27日〜6月12日)。

中森:カイナストン・マックシャイン(Kynaston McShine, 1935-)が企画した展覧会ですね。

磯崎:それからアンソニー・カロ(Anthony Caro, 1924-)の展覧会をMoMA(ニューヨーク近代美術館)でやっていた(注:「Anthony Caro」展、1975年4月30日〜7月6日)。この2人っていうのが、がっとこう出たわけだよ、ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズと。だけどそうじゃない、その後にこのへんがでた時の情報が入ってきて。それでまあ山口は、この間の「メタボリズム」展(注:「メタボリズムの未来都市」展、森美術館、2011年9月17日〜2012年1月15日)にも出た(出品した)、光と色の彫刻ですね。それをつくったの。イサム・ノグチ(1904-1988)の提灯(《Akari》シリーズ)が当時、もうあったわけで、これをプラスチックでやると山口の作品になると。こういういきさつなわけですよ。山口勝弘は(イサム・ノグチの)「あかり」そっくりのものをやっていた。壁にタコが張り付いたようなやつなんか立体化しちゃう。イサムさんのを新しくする、こういう感じのものだと僕は思っていました。全部知り合い、友達ですから、べったり10年間くらい連中とつきあったといういきさつです。

中森:「プライマリー・ストラクチャーズ」展ではジャッド(Donald Judd, 1928-1994)が含まれていたり、そういった情報は、雑誌を通して(知った)ということですか。

磯崎:雑誌を通してです。僕は60年代の終わり頃から、むしろ70年以降はかなりよく(ジャッドと)つきあったんで。

中森:そうなんですか。それは文章や、作品を介してですか。

磯崎:彼が展覧会で日本に来て、ちょっと話がとぶけれど、日本に来た時に僕の家に来て。ジャッドを日本で60年代の終わりに、最初に評価したのは美術の業界じゃなくて倉俣なの。それで倉俣はクライアントがヤクザだったクラブのデザインを「ジャッド」という名前にしたんだよ(注:倉俣史朗《Club Judd》1969年)。うちの事務所のすぐ近く(赤坂)にあったんだ。それでこの「ジャッド」の倉俣、高松(次郎)の2人を呼んだんですよ、僕の家に。そうしたら倉俣がいなかったんだ、その日は。あるいはどっかおとなしくしていたのか。それでジャッドをたいして偉いと思っていないから適当にやっていると、高松なんかはもう神様が来たかのように思っちゃっていて。それで悪酔いして支離滅裂になって。それで「しまった」という、こういう一夜があったんですけれども。まあわかっていたからこの2人だけ呼んだんだけど。ジャッドはかなり夜遅くまでいたからね。ちょうどその頃はニューヨークのSOHOに自分の家を探そうとしている、その前くらい。まあこんないきさつがあって。

(一時中断)

中森:先ほど「プライマリー・ストラクチャーズ」展の話が出たので、その後のスーパーグラフィックス(注:建築物の内部や外壁に設置されるグラフィック・デザイン)についてお話を聞こうと思います。

辻:「色彩と空間」展と「空間から環境へ」展がありますが、そこでは《福岡相互銀行大分支店》(1966年)の模型が展示されています。また「福岡相互銀行大分支店のための広告用下書き」という『SD』(1968年3月)の抜き刷りがあります。これは大分支店のプロモーション・ツールのように利用されたんだと思います。

磯崎:なんて書いたんだろう。

辻:はい。「宣伝ポイント」という、建築物を自身でPRするための内容。あとは「ピンクエンバイラメント」という、エンバイラメントの会からつながる内容。あわせてサム・フランシスさん(Sam Francis, 1923-1994)が文章を書いています。

磯崎:サムを連れて行って文章を(書いた)。ようするにこれをやりたかったわけだな。この(作品の)オリジナルは「メタボリズムの未来都市」展に出たんだよ。それでこの時に、これはもとのピンクの(着彩した)ところだけど、模型と同じ大きさで刷ってくださいと言ったら、(森)美術館は「そんな手間は結構です」とか何とか言ってるだけなんで、しょうがない。

中森:これはフランク・ステラ(Frank Stella, 1936-)やローゼンクイスト(James Rosenquist, 1933-)らの作品に見られるスペースとは、まったく関係ないということはなくて。

磯崎:リキテンシュタイン(Roy Lichtenstein, 1923-1997)のテクニックですね。これは当時のサイケデリックとかポスターの、一種のドラッグ・カルチャーだから。アーティストのブルース・コナー(Bruce Conner, 1933-2008)が、サンフランシスコでリキッド・プロジェクションズというのを始めたんですよ。ブルース・コナーのところにプロジェクションの部屋があるわけだ。(サムと磯崎がヘイトアシュベリーの)そこへ行って、それであいつがこうやってやるのをいろいろ見たりしていて。だからそれは67年か8年だと思うんだ、行ったんだ。それを設計したのが67年。68年かな。

辻:《福岡相互銀行》の竣工は1967年11月です。掲載は『SD』の1968年3月号ですね。

磯崎:まあなんやかんやそこらへんがあって。ようするに今から考えてみて一番の関心の的というのは、まあいろいろと理屈は書いてあるけれども、ようするにコンクリート。ブルータリズムというのは60年代くらいからあったわけなんですが、縄文論みたいなものもからんでいるんですが、この時に、コンクリートの存在そのものという、つまり物質的な存在というものからすべての空間を、建築物をつくり上げるというのを、この前の年にできあがった大分アートプラザ(《大分県立中央図書館》1966年)、あれでやって。まあメタボリ(メタボリズム)の頃がそのへんだったと。それに対して簡単にいうと非物質、つまり建築物も含めて、空間を光と色彩の濃度分布だけでつくりたいということを考えた。プライマリー・ストラクチャーズというのは、そういう意味で、もともとの素材を色で塗りつぶすものだったわけだから。山口勝弘はそれを光に、行灯にしたという、そういうところがあるわけ。だから僕は空間そのものを光と色彩に変えたいと、そのグラフィックをこれでやったというのがこれなんですね。それをもっと時代的に考えれば、ネオ・ダダの頃というのはある意味でいうとドリッピングですから、ポロックの。ようするに絵の具という物質を物質のまま見せる。しかもラージ・ペインティングというか、やたらと大きいキャンバスを作りはじめたわけだけど、50年代に。これはようするに「もの」の存在そのもので、つまり平面というものだけ、あるいはキャンバスだけがあるという。こういう「もの」として。ものの、つまりペンキをばらまいていくっていう、そういうアクション、行為みたいなものですよ。そうするとまた話がどんどん戻っていくんだけれども、僕が当時、ポロックとジョン・ケージ(John Cage, 1912-1992)とそれからデュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)に関心を持ったのが60年代のはじまりなんだ、建築家としてというよりも。この人たちは、ポロックはアクションということで、それからジョン・ケージはチャンス・オペレーション。それは印象派とか立体派とか、作品を一つの形式ないしは様式として論じるネーミングじゃなくて、行為、作り方、手段、手法。僕はこれを「手法」と呼びはじめたわけですけども、つまりそれだけが作家の存在であって、それ以外は結果であってもうどうでもいいと。ということは、作品という概念は無いんだという、そういうこと。そういうことから考えはじめているうちに、僕はまだソシュール(Ferdinand de Saussure, 1857-1913)が日本には紹介されていない頃に、シンボルとかそういうような理論、あるいはカント(Immanuel Kant, 1724-1804)のもの自体という概念であるとか、存在と存在者の関係とか。存在者というのはものですね、存在というのは概念だから。これはハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)と同じ。そういう歴史がずっといろいろあるなかで、関係がいろいろ分裂してきて、分離してきて。それで結局、言語学で、言語そのものの中にシニフィエとシニフィアンと、この関係がやっと議論になりはじめたと。僕らはその概念を知らないから、ようするに今まではものだと思ってきたけど、じつはものじゃなくて、それは表層に出てくる意味されたものであって。形とか色とか色彩とかみんなそれなんだと。その背後にある物質は問わないという。こういう物質とものそのものというか、ここらへんの理解をすこしずつやりはじめた。それで僕は最近、今まであまり自分でもこれを評価するというのもなんかなあと思いながら説明がつかないでいたんですけど、「日本の都市空間」というのを僕が編集したんですよ(注:特集「日本の都市空間」『建築文化』(1963年12月号)。後に都市デザイン研究体編『日本の都市空間』(彰国社、1968年)として書籍化された)。『建築文化』の特集は、その前に僕は2冊やっていて(注:特集「構造設計への道」『建築文化』(1961年4月号)と特集「都市のデザイン」『建築文化』(1961年11月号)を指す。特集「都市のデザイン」は『現代の都市デザイン』(彰国社、1969年)として書籍化された)。ところが単行本の時に(この2つの特集を書籍化するときに)、まあ収録しなくていいよというので、オマケに描いた僕の図面というのを2つ削った(掲載しなかった)んですよ。その「都市のデザイン」の(特集の)時は、僕は下河辺(下河辺淳、1923-2016)と協力して大分の都市計画(大分鶴崎地区広域計画)をやったのかな、それが1ページだけあって。ようするに最後のページが使いものにならないからって、それを1枚入れた。同じ位置に「日本の都市空間」の時は、地図の中で、江戸の都市空間を大名の家の家紋だけで全部(描いている)。簡単なことで、江戸時代の大名屋敷が江戸城の周りにある大きな地図があるわけですよ。これは大名の誰々の家というふうに家紋が書いてある絵もあります。これは都市を屋敷のかたちとして認識しているのではなくて、ここに薩摩藩の屋敷があるとか、ここに会津藩があるとかっていう。葵の紋は江戸城だと。江戸の地図を認知する人間たちが感じて、考えていたことを家紋で表している。この家紋を分布、そういうシンボルの分布状態で都市を表示する。こういうことを考えついてやっていた。今となってみると、都市空間というものをあらためて組み立てていったら、そういう表層の部分ってあんまり役に立たないんで、その表層に何がシンボルとしてでてきているか。あるいはアイコンがどういうふうに分布しているかをみんな見ているわけだから、それを大名(の家紋)でやったという。そういうことをまあ考えたわけ。つまりすべてを消す、(建築物の)重さを消す。それから存在感を無くす。にもかかわらず人間が感知する。これがひとつ、我々がこれから後に、なにかを考えるときに重要だなというように思ったんです。これはつまり、丹下さん(丹下健三、1913-2005)の仕事の流れの中で僕はやってきたわけだけど、実際にやれば(造形化すれば)コンクリートになるわけですよ。最初(初期)の仕事はそれをそのままやったから。大分の図書館(《大分県立中央図書館》)はモダニズム、近代建築に対する僕のディプロマだと説明している。これは僕のモダニズムの理解の最後であり、それでこれが次のはじまりなんです。そのときに理屈を考えたわけ。そのポイントはシニフィアン、シニフィエの問題なんですよ。その時は(そのような)説明がつかなかったんですよ。シニフィアン、シニフィエというものはようするに、シニフィアンというものは浮遊している、表層なんだけども、表層から浮遊していく。「見えない都市」論(磯崎新「見えない都市に挑む」『展望』(1967年11月)など)っていうのは、都市というのはたとえばひとつの目的地があって記号があると、名前があると。だけどここに行き着くには高速道路で曲がる時に、まったく別の方向に矢印で名前が出ている(表示されている)。道がくると、また別の方向に名前が出ている。それをたどって行かないと、目に見えているそこに行き着かないという。こういう我々の認知に二重の関係がでてくるわけじゃないですか。こういうことを考えはじめたというのが60年代の頃の僕らの領域の一つの理屈で、まあアメリカでケヴィン・リンチ(Kevin Lynch, 1918-1984)とか、ああいう人たちが論争をその頃やっていて(注:Donald Appleyard, Kevin Lynch and John R. Myer, The View from the Road, Cambridge: MIT Press, 1965)。それからアレグザンダー(Christopher Alexander, 1936-)の、ああいうスタディがでてきた。それはどういう意味を持つか、誰も日本ではわかってなかったわけですよ。だから僕はそれを見つけて、これはコンピューターでいけるとか、それから記号論になるかもしれないと思ってリンチを探すとか、こういうのをやろうとしていて。僕は建築で、このへんのことがその当時の問題なんですけど。そうみてくれる(理解してくれる)とどうなのかな。そしてドラッグ・カルチャーというのが、人間が見ている正常な実感ではなくて、ドラッグによるファンタジー、幻想、幻覚みたいなもの。なぜサムをここで論じたかというと、サムとも友達だったことは確か。彼はブルース・コナーとかと、あれはドラッグ・カルチャーだから。こういうふうに揺れている人たちっていうのは、やったらわかるっていうけれど、僕はいくらやったって効かなかったんですけど。後でいっぺんやったら効いたことがあるんですけど。ほとんど効かないわけなんですよ。19世紀の終わりに、アール・ヌーヴォーとかなんか出てきた時に、直線が無くて揺れてくるじゃない。だからガウディ(Antoni Gaudi, 1852-1926)は動物の骨とかいろいろ言うわけだけど、そういう非直線的なものというのは、結局あの時はヨーロッパ中、奇人というか、ランボー(Arthur Rimbaud, 1854-1891)とかこれだけやっていた。古典の、幻覚からうまれてきたかたちっていうもの、幻想というのが近代、20世紀の近代芸術のはじまりなんだと。そしてそれを半世紀経って、何を手がかりにもういっぺんやるかということ。僕なりにノイエ・ザッハリヒカイト(新即物主義)というのはロースから続いていて、ジャッドと同じようにそのなかのコンセプチュアルなロジックだけを取り出してきたのが20世紀の近代建築の始まりで。それでいかにそれを、こういうものを否定していくかということになっていくわけですよ。ジャッド的に行くとコンセプチュアルに行くわけです。それからニューヨーク・アートのひとつの流れがでてくるわけですけれど。なにはともあれ、この揺れているやつというのは、60年代のはじめ頃にひっかかったわけですよ、なんとかこれをもってきて光だけにしたのが。

中森:これ(《福岡相互銀行》の模型の写真)は先生(石元泰博、1921-2012)が写真を撮ってらっしゃいますけど、磯崎さんの方で「こういうふうに撮って下さい」というようなお話はあったんですか。「こういうふうなことを今回は表現したいんです」というようなことは。

磯崎:これは「石元さん、撮って下さい」と、それだけですよ。石元さんが撮った数から言えば倍くらいのカットがあったと思いますね。こういうの(写真)を大きく使ったというのは、まあ編集と相談しながらやったというところですね。それでこれから、石元さんから撮ってもらうのが一番いいというので、約30年間の(自分の)仕事を石元さんが大体ほとんど全部、カバーしてくれた(撮影してくれた)わけです。そのフィルムはみんなアトリエで預かっているはずなんですよ。まあ《岩田学園》(1964年)なんかもモノクロで若干撮っていますけれど。もうモノクロは、ほとんどその時のやつは生きていないんですよ。

中森:ネガはあるんですよね。

磯崎:ネガはあってもね、石元さんと一緒に、コンピューターがでてきた時にデジタルに置き換えようとして、その時に若干、色の操作をしたのがいくらかあるんです。これより後は印刷もいろいろできるようになっている。これは石元さんが撮ってくれたもので。今までいつも二川(二川幸夫、1932-2013)できてる(に撮影してもらっている)から。この人はどちらかというと僕も随分つきあったけれど、フォト・ジャーナリズムの建築版だから。ジャーナリスティックに(建築を)みるには二川でいいんですけど、(二川には)石元さんみたいな抜けた力というのはないんですよ。

中森:先生のお考えになっていることで、石元さんの眼でまた次のものがでてくるという可能性がありますよね、こういった特集で。

磯崎:そんなこんなでこの建物は僕にとってみると、60年代の前半と後半を分ける境目にあってね。このスーパーグラフィックスというのはその当時、チャールズ・ムーア(Charles Willard Moore, 1925-1993)とか、ターンボール(William Tumbell Jr., 1935-1997)とかああいう連中が、あの時に評価したのがこれなんですよ。僕はこれをやった頃はそれ以上、彼らの情報はなかった時ですから、あの本には使わないわけね。使っていないというだけですが。まあスーパーグラフィックスというのはどういうことかというと、色彩を、この建築物の窓がこうあるじゃないですか。そうすると窓に赤色を、こちらはガラスと。あの時は板張りのところとコンクリートのところとガラスのところと、斜めに別のスーパーグラフィックスのところをちょうどプロジェクションをやった時の映像で、それをコーナーにやったらいろいろ出るじゃないですか。それにペンキを塗ったのがスーパーグラフィックスですよ。物質の表面から乖離した、遊離したイメージというものがそれ自身として存在していると。スーパーグラフィックスはグラフィック・デザインをみると同時に、後ろの具体的な物体のかたちという、壁とか床とかもみていると。それはダブルになったところが、この場合は部分的にこうなっているけれど、ここは塗り方はスーパーグラフィックスというよりは、これは黄色、これは赤、青と塗り分けているわけですから、はみ出ていないわけですよ。オールオーヴァー・ペインティングなんです。そちらの系列なんですよ。

中森:ポロックなんかもそうですよね。オールオーヴァー・ペインティングですよね。

磯崎:僕は個人的にはこの写真とかは猛烈気に入っているわけ。それからこれも石元さんですよ、完全に。

中森:これを見ているとリキテンシュタインなんかのスペース、絵の中のスペースと重なるのかなという気がします。特に見開きのところで、たしか模型と実際のイメージを重ねてらっしゃいますよね。

磯崎:これはおそらく石元さんの撮ったものをこうやって、彼がトリミングしていると思いますよ。僕はあまりあたってないと思いますよ、石元さんのに関しては。あとは編集が割り付けで。この時に6×6で撮ったのと4×5で撮ったのと両方あったのかな。でもこれは6×6ですよ。あとちょっと振ったりしているから6×6ですよ。詳しいことは忘れましたけど。

中森:あとさっきわかったのですが、これですよね、模型になさったのは。この感じじゃないですか。

磯崎:その通りです。こいつを、こう見て。

辻:ダクトというか建築環境工学、建築設備、技術的な装置に関する箇所にグラフィックスを重ねて、原色で塗っています。

磯崎:模型がもっと長かったんですよ。だけど空調を「あんなことやらなくてもいいよ」というふうに言われて。それでみんな(空気の)行き先の違うやつをこうやってつけた。

辻:すこしお話が進みますが、同じく環境、エンバイラメントの会でご一緒の山口勝弘さんと1968年に「環境計画」という会社を設立されます。

磯崎:これはどういうことかというと、まあ僕の事務所だって4、5人しかいない事務所ですから、アーティストと同じようなもんですよ。そうすると(大阪)万博というのは国家(的なプロジェクト)ですから、相手が会社じゃないと契約してくれないわけよ。それでいたしかたなく(会社を立ち上げた)。ようするに中小企業の磯崎アトリエというのを一応やらないと契約できないから。僕の考えは、これ(大阪万博)は一過性だから、人も増えざるを得ないだろうと。だけど日本は仕事が無くなったら首切っていいという、アメリカはそうなんだけど、当時はそんなわけにいかなくて。常に一生雇うというのが日本の雇用ですよ。会社はそういうわけにはいかないわけですよ。健康保険いろいろとか、生命保険いろいろとか。そういうのがあってはじめて会社になるんですよ。もうしょうがないから一過性の、後でつぶす(つもりの)会社をつくろうとしたのが「環境計画」。

辻:この時の環境という言葉は、浅田孝さん(1921-1990)の環境開発センターから名前をもらったと書いているものもあります。

磯崎:まあ環境という言葉はそれ以前からあったと思いますけど。しかしこれは「空間から環境へ」展の時の「環境」ですよ。それでそういうことから言うと、環境というのが主題になったのはこの展覧会からですけど、実際に環境という言葉は戦前から使われていたわけですから。いろんな使い方がなされていた。それに対して表現につながるような、つまり身体とそれを囲う関係のインタラクティビティというものがひとつの表現の目標になる、それがこの時に考えていた環境という提示なんだけど、浅田孝さんはもうまったく、つまり伝統的な環境(以前から広い意味で使われている環境という言葉)で。ですから山口勝弘と僕が関わった「環境計画」というのは、同じ「環境」でもインタラクティビティ。身体的、身体性を持ったインタラクティビティ。あるいはキネティックな関係というか。まあどちらかというと、もちろん言葉は一緒なんですが、違っているだろうと思います。

辻:エンバイラメントの会はいろいろ別名があったみたいで、他には「インテグラル」という名前もあります。それは同じエンバイラメントの会に入っていた原広司さん(1936-)が磯崎さんに関する論考で書いています。

磯崎:原が「インテグラル」について何か書いているの?

辻:「磯崎新論」の中に出てきます(注:原広司「磯崎新論」『新建築』1966年10月)。

磯崎:これはこういうことです。この(エンバイラメントの会の)前に、ジョン・ケージが日本に来た。それと、杉浦康平と一緒にオリンピックの年に、オリンピックのマークを東京の都市のどこにどう置くか、このサインをどうするかっていうスタディをやったんですよ。この計画は採用されていない。それと同時に、武満(武満徹、1930-1996)は一柳(一柳慧、1933-)とジョン・ケージ、ですから個人的に武満との付き合いが前からあったんだけど、そのジョン・ケージがらみで一柳、そして武満。それからオリンピックのスタディかなにかで杉浦康平。グラフィック・デザインは杉浦ですから。そういう関係があって。それでそういう領域の違う連中が集まって何かをやるという企画を作ってみようっていうんで、僕の仕事場に彼らを集めて。その時に『朝日ジャーナル』の矢野(純一)がいたんじゃないか。一柳がジョン・ケージを紹介し、日本にだんだん動きがでてきたのが61年ですよ(注:一柳は1961年8月に帰国し11月30日に演奏会を行う)。この仕掛人で矢野さんという人がいて。これが70年代に僕のやった《Y邸》(1975年)の主人、住人なんですよ。矢野さんがメディアの側から入ってもらって、それで名前でもまずつけるかってつけたのが「インテグラル」。だからそういう数名の僕の人間関係の中でやっている。だから建築家はほかに誰も入ってないんだ。それで何回かやっているうちにみんな他で忙しくなっちゃって、バラバラになっているうちに「空間から環境へ」展、ここらへんの話が始まった。このちょっと前ですね、この「インテグラル」は。

辻:1966年の頭ごろに原広司さんがその「インテグラル」の会合に呼ばれたとあります。

磯崎:まだ続いていたのかな。

辻:みたいですね。後のエンバイラメントの会ですね。

磯崎:もうひとつこういう対談集がどこかにあったと思うんですけど、60年代のやつが。最初に僕がシュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen, 1928-2007)のインタビューを(やった)。僕はだから外国人というか、他の領域のアーティストと、そういうパブリックで話をしたはじめてのものなんですが(注:「伝統と電子音楽」『朝日ジャーナル』1966年4月17日号)。シュトックハウゼンがその時、NHKのコンピュータースタジオだ、電子音楽スタジオに呼ばれて来て。そしてこの(朝日)ジャーナルの矢野さんという人が、僕をインタビュアーにして、そして対談にしたものがあって。いろんな人とやったけど、日本人も含めてこれがはじめての(インタビュー)。シュトックハウゼンと。

中森:シュトックハウゼンはたしか、モントリオール万博(1967年4月28日〜10月27日)でもやっていましたね。

磯崎:大阪万博(日本万国博覧会、1970年3月14日〜9月13日)で、ドイツ館はぜんぶ彼がやったんだ。それからモントリオール(万博)もやったんだけど、フランス館をやったのはクセナキス(Iannis Xenakis, 1922-2001)です。51年か2年頃に戦後ドイツで現代音楽を復活させようという時に、若い無名の人たちが呼ばれていろいろやりはじめた。もとはといえばシェーンベルク(Sámuel Schönberg, 1838-1889)が間接的に関わっているわけですけど。この時に三羽鳥と称する、20世紀後半の音楽のアヴァンギャルドの3人が登場したんですよ。ドイツがシェーンベルク。それからフランスはブーレーズ(Pierre Boulez, 1925-)。イタリアはノーノ(Luigi Nono, 1924-1990)。この3人がそれぞれ、シェーンベルクは20世紀前半の人ですから、そのシェーンベルクまでの現代音楽を、さらに新たに超えようとした3人がいて。この3人というのは音楽史の中にそれぞれ登場する人ですね。それでまあそのうちシュトックハウゼンと僕は最初に付き合って。それでルイジ・ノーノは最後に秋吉台(《秋吉台国際芸術村》1998年)をはじめとして、80年代ですね、主に。それ以降につきあったと。10年間くらいつきあったと。

中森:さっきおっしゃった身体性をともなうインタラクティビティということが環境というコンセプトのキーであるとすると、もちろんビジュアル的なもの、ポロックだったりとかそういったものがあって、あとこれに加えて音楽というものも、環境という言葉には強く関係していると思います。

磯崎:それはむしろ環境音楽というかたちに最後になっていくので。フルクサスがあるでしょう。フルクサスというのはある意味でいうと現代美術の中のパフォーマンスの系列。それからコンテンポラリー・ダンス。このふたつと現代音楽の作曲家、それからアーティストも含めて重なったのがフルクサス。ダンスはマース・カニングハム(Merce Cunningham, 1919-2009)。ジョン・ケージはもうカニングハムと一緒に住んでいたわけですから。ジャスパー・ジョーンズもラウシェンバーグも。リキテンシュタインがいたかは覚えてないけど、みんなほとんどの当時のアーティストは(音楽を)やっていますよ。

中森:そういうふうに考えるといわゆるExperiments in Art and Technology(E.A.T)みたいなものがありましたよね。

磯崎:これがそういうことからはじまって、万博の動きが出始めた頃にこれをやっていたのはIBMかなあ。エンジニアで、ビリー・クルーヴァー(Billy Kluver, 1927-2004)っていう。

中森:アメリカン・テレフォン・(アンド・)テレグラム、AT&Tでしたっけ。

磯崎:ベル(Bell Telephone Laboratories)だ。

中森:ベル・ラボですね。

磯崎:ビリー・クルーヴァーというのが登場して、それでアメリカでなんとかかんとかの、このフルクサスなんかとの合同のパフォーマンスをやったんですよ。

中森:デヴィッド・チューダー(David Tudor, 1926-1996)ですね。

磯崎:おそらく中谷芙二子さん(1933-)がアメリカにいたころで、(彼女が通訳として)ずっとつきあったと思います。それで彼女が連れて日本に来たんですよ。僕は(大阪)万博をやりはじめた。それで直に付き合って。最初は僕を取り込んで一緒にやらせようとしたんだけど、僕は万博のメインでもういろいろやっているから、ペプシ館みたいなものになっていくわけです。このいきさつは全部知っていますけど。彼らが東京に来たら大体、僕のところ(アトリエ)に来たという、そういう。このクルーヴァー(Billy Kluver)というのは、最後はキキの、「1920年代のキキ」なんていうパリのベル・エポックの時の、マン・レイ(Man Ray, 1890-1976)なんかのモデルになった彼女の話を書いたりしてますよ、最後は(注:Billy Klüver and Julie Martin, Kiki’s Paris: Artists and Lovers 1900-1930, Abrahams, 1989)。

中森:まだ奥さん(Julie Martin)はご存命ですよね。

磯崎:そうですね。この人はある意味でニューヨークのテクノロジー・アートの裏を動かした奴ですよ。

辻:一方で、日本だと万博の計画時に磯崎さんたちの《お祭り広場》(1970年)の案をスクープした坂根厳夫さん(1930-)がいらっしゃいます。坂根厳夫さんは日本側のいわゆる「メディア・アート」をみていました。

磯崎:あいつはあの頃は「メディア・アート」をやってない?

辻:このあとそういう展開をしていきます。

磯崎:この後か。それまではようするに、あいつは建築もやってたから、(朝日新聞の)記者ですよ。僕の大学の一級下にいて、僕がワックスマン・ゼミをやっていた頃に模型なんかを手伝わせたりするような学年でいた(注:ワックスマン・ゼミナール。1955年2月に行われたコンラッド・ワックスマン(Konrad Wachsmann)による共同設計をめぐるゼミナール)。それでいつの間にか「メディア・アート」にいったという珍しい男ですね。万博の時に、僕が山口勝弘なんかとやっているあたりに、中谷芙二子さんやそのへんに一番、彼が関心を持ったんだと思うんですけど、その万博では僕がつきあった範囲(の人々)のほかに、武満がプロデュースした鉄鋼館、これにクセナキスが来たわけですよ。クセナキスと高橋悠治(1948-)たちがここに。それからさっきのシュトックハウゼンはドイツ館をやった。それから隣のペプシ館は、ケージは来なかったけどチューダーが来た。そういうのが大体、近くに揃い踏みみたいに。それで一件ずつパヴィリオン、いわばまとめてつきあったというかな。パヴィリオンということは、ようするに全体はエンバイラメントと考えざるを得ないわけですから。クセナキスはもちろん個人的にもつきあったけども、高橋悠治がかなり早くからコンタクトできていたんで、時々会うくらい。まあ(クセナキスは)コルビュジエ(Le Corbusier, 1887-1965)の《フィリップス・パヴィリオン》(1958年)というのをやった、ブリュッセルで(ブリュッセル万国博覧会、1958年4月17日〜9月19日)。その後にモントリオール(万博)のフランス館をやった。それで今度は(大阪万博の)鉄鋼館をやった。

中森:E.A.Tのお話に戻りますが、ナイン・イブニングス(9 evenings : theatre and engineering、1966年10月13日〜23日)というのがありましたよね。あのナイン・イブニングスという実験的な、パフォーマンスや音楽が一緒になったようなものというのは、《お祭り広場》のプログラムを考える時に、何か関係はありましたか。

磯崎:アメリカでこういうこともやっているらしいという情報は入った。それで僕は《お祭り広場》の時に、現代美術のそういう流れがまとまってきているというのは、だいたい前の展覧会(「空間から環境へ」展)も含めて見当がついていた。それにもうひとつ加えるに、これは「アート・アンド・テクノロジー」がカバーしていない部分というのは、月に行こうとしていたNASAのシステムなんだ。NASAのシステムを僕はヒューストンに見に行って、そしてあそこの宣伝パンフレットを全部集めて。

辻:それは1969年の時の渡米の際でしょうか。

磯崎:いや67年くらい(注:1967年6月からの渡米時)。69年はもう僕はUCLAに(客員教授として滞在した)。その前に、まあ話せばつまんない話だけど、芦原義信(1918-2003)が武蔵美(武蔵野美術大学)というところでデザイン・スクール、建築スクールをつくると。ついては日本の実験的な、バウハウスの新しい版をつくるから付き合えと。義信が言ったというよりは丹下さんから「芦原がやるならこれくらいのことをやらさないといけないから」って。それで僕は最初入ったんですよ(注:1964年4月より武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科建築デザイン専攻で教えはじめた)。そうしたらなんのことはない、日本で建築学科をつくるにあたっては文部省の指導の下で、私立といっても(自由には)できないと、言う通りにやらないといけない。普通のローカルな、マイナーな美術学校、建築学科にはならないでしょうって言っているうちに、学生運動のストライキがはじまった。それでこれ幸いと思っているうちにUCLAにアーキグラム(のメンバー)が2人くらい呼ばれて行ったんですよ、ピーター・クック(Peter Cook. 1937-1995)が、ロン・ヘロン(Ron Herron, 1930-1994)は前の年に行ってまだ(UCLAに)残っていて。それでピーター・クックと僕が一緒に行って、この3人でやったんですけど、これは半年で崩壊したんですよ。なぜかというとそこに妙なチェアマンがいて、中国訛りのやつで。こいつがですね、金無いわけですよ、そういう種類の。(でも)我々が出て行く筋合いも無いわけだから。こいつはだけど派手なことをやらないと後が無いというのでですね、UCLAだからロサンゼルスのダウンタウンの開発のプロジェクトをつくる仕事を大学で受けたんだ。それで我々のようなおかしな奴を呼ぶお金を(プロジェクトに)流用したわけですよ。それが僕らが行っている時にばれて、こいつがもうクビになっちゃった。そうすると我々は行き場が無いわけですよ。それでもうさようならという感じで、終わったから全員戻ったという、こういういきさつがあるんだよ。これが69年の話です。

中森:その前にヒューストンに行った時ですね、NASAに行く頃にヒューストン大学の建築学部のプロテスト(学生運動)がありましたね。

磯崎:ヒューストンのライス(大学)に行ったのはこれの帰りですよ、ロサンゼルスの。

中森:帰りだと69年ですね。

磯崎:69年ですね。それでそこに誰がいたかな、スターリング(James Stirling, 1926-1992)がいたかな。

中森:あとコーリン・ロウ(Colin Rowe, 1920-1999)がいたのではないでしょうか。

磯崎:そうですか(注:ロウは1962年よりコーネル大学で教えていた)。それで何日かいて。だけどその前にヒューストンでしょう?だから67年に行っているんだ、ヒューストンには、そのNASAの所に。

中森:コントロール・パネルなどがある制御室がありますよね。そういったものをご覧になったんですか。

磯崎:ケネディ(宇宙センター)は入れてくれないから、ヒューストンの宣伝セクション。月着陸船の最初のモデルみたいなものが置いてあるんですよ。月着陸が7年、8年どっちだっけ?

中森:68年じゃないですかね。それが終わったあとですよね、ご覧になったのは(注:アポロ11号の月面着陸の成功は1969年7月20日)。

磯崎:それで僕は思い出したよ。《お祭り広場》で僕はロボットのデザインをしたわけだけど、最初は月着陸船の格好をしていたんだ、このロボットは。4つ足があって、カニみたいな。それでカニロボットと思っていたんだよ(注:《デク》と《デメ》1970年)。だからそこらへんとNASAのシステムと現代アートの実験しているやつ、これを全部ぶちこんだらどうなるんだろうと。それともうひとつ、岡本太郎という土着、文化人類学みたいなものがからむわけなんだよ。太郎は、あの水平のモダニズム(《お祭り広場大屋根》1970年)はつまんないというところからはじまっているわけだから。僕はその中の仕組みをやっていたわけ。それで《お祭り広場》の色と動きの研究という、これを山口(勝弘)、秋山(秋山邦晴、1929-1996)、東野(芳明)、僕、この4人が受け手になって(注:日本万国博イヴェント調査委員会)。僕は万博の仕事をやっていたわけだから、これをそういう具合にまとめてはいるけれど、受け手になったのは国立科学博物館とか何とかというようなトンネル機関に受けてもらって(注:日本科学技術振興財団)。そこでプロジェクトをやった時に、四角い箱を僕はつくって、それでロボットがでてきた。それは認知されていなかったんだよ。屋根は折り畳み式にして開閉するようにしてあったんだけど、その箱の状態というのはもう最初から万博のプランの中に入っていたから。入っていたというより無理矢理できていたから。太郎の塔の(アイデアが)出る前ですよ。それで丹下さんはチームでこのスペース・フレーム(《お祭り広場大屋根》)の案をつくる。僕の《お祭り広場》というコンセプトはまだそこでは認められてなかった。僕はそこにプレゼンテーションに行って「これは無理なんだ」というのからはじめたのを覚えてますよ。そういう具合で、誰が決めるかというのをはっきりしないくらいで(大阪万博の計画が)動いていたんで。京大と東大というのがあったけれど(注:京都大学の西山卯三らによる大阪万博の会場計画の草案が東京大学の丹下健三が率いるチームに引き継がれた)、新たに実際のチームができてきてからの中でも、また誰がどう決めるかというのが決まっていないんですよ。合議制だったわけだから。丹下さんは黙っている人で(なにも)言わないんですよ、どれがいいとか。やらせてるだけなの。それで万博の、建設省から行った局長みたいなのが、丹下さんが外国行って、ヨーロッパかな?それでベニスあたりから、広場にこういう屋根を付けたい、それでこういうかたちだって、スケッチがきたら(届いたら)「お前のロボットが中に入れてあった(スケッチの中に描かれていた)から、お前もうこれでこのロボットできるから(予算を)つけてやる」って、こういういきさつですよ。

辻:69年にUCLAに行ってアメリカに滞在している時に、いわゆる東大紛争の、安田講堂の感覚はありましたか。

磯崎:もうロサンゼルスに行っていたんで、残念ながらあれは見ていないんだよ、落城のシーンは。これを唯一、悔やんでいる。もうその前に日本の大学は結構だ、ということで逃げたんだから、仕方ないわけなんですけど。

辻:(この滞在のために)武蔵美を辞められた時に、後任になったのが山岡義典さん(1941-)だと思いますが。

磯崎:山岡を推薦しているの?それはなぜかっていえば、あいつが大学院でうろうろしている頃に《お祭り広場》のレポート作りの調査とか図面とかを手伝わせていたんです。それでじゃあ彼って。彼はその後どうなったの?トヨタ(財団)に行ったのかな。

辻:そうです、その後に。当時は大村虔一さん(1931-)の研究所に行っています。「都市デザイン研究体」でも山岡さんとご一緒されていますよね。

磯崎:その時はとにかく使いものになる大学院の学生が(いない)。丹下研(丹下健三研究室)の中でもちょっと別のタイプの奴は呼んでないんだよ。それで高山研(高山英華研究室)でうろうろしている奴、まあ両方続きみたいなものだから(丹下研究室も高山研究室も関連があるから)何人かピックアップした、その時に名前があがった人が(都市デザイン研究体に)いるんだね。

辻:本日はここで終わりにさせていただきます。ありがとうございました。