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岩田信市オーラル・ヒストリー 2015年8月29日

名古屋市のアトリエにて
インタヴュアー:細谷修平、黒ダライ児、黒川典是
書き起こし:五所純子
公開日:2016年8月13日
 
  撮影:黒ダライ児(Photo by KuroDalaiJee)

細谷:昨日は名古屋に戻って来られて、グッドマンを始めたところまででした。昨日聞きそびれたところがあって、一応聞いておきたいことがあります。大須事件があって、岩田さんが60年安保やベトナム戦争をどういうふうに見ていたか。

岩田:あの頃はそういうことに無関心だった。ベトナム戦争は当時からよくわからなかった。たとえばアメリカが絶対悪だというのはあの頃から常識で皆言っていたけれども、よく考えてみたら、あれは北から侵略してくる。アメリカとロシアの冷戦時代だから、たとえばロシアがベトナムを占拠したらどうなっていたか。逆に言うと、アメリカのおかげじゃないかという考えも一部にあって、俺はわけがわからなかった。〈ベ平連〉をつくって皆「反対!反対!」と言っているけれども、よく意味がわからなかったな。ただなんとなく、仲間内にアメリカ兵に逃走を勧めたグループがあって、そういうのには一応は協力してたよ。

細谷:JATEC(〈ベ平連〉によるJapan Technical Committee to Aid Anti War GIs=反戦脱走米兵援助日本技術委員会)ですね。

岩田:秘密に泊めたりね。かくまってたよ。

細谷:ここにですか。

岩田:そうそう。そういう意味で、そんなに反米でもなかったし、アメリカが悪だとも思わんし、今でもあれはよくわからんのだよな。ベトナムがもし北朝鮮みたいになっていたら、ホーチミンはそこまでやらなかったけれども、そうなる可能性はあったわけでね。具体的にアメリカの介入がどうという、細かいことは知らんのだ。政治のことは一切無縁にしたから。でも多少は、どちらかというと……。

細谷:でも、かくまうまでかかわられているとなると……。

岩田:ベトナムとアメリカのどっちがいいじゃなくて、アメリカ兵が逃亡するということは俺は好きだから。

細谷:それは〈ベ平連〉関係ですか。

岩田:よくわからんのだ。大きな組織から命令書があって、というものじゃないから。口コミで知り合って「かくまってくれ」と言われた。

細谷:名古屋だと岩田さんのところだった?

岩田:そうそう。それからもう一人、友達のところと。二人ね。

細谷:60年安保はどうでした。

岩田:あまり興味がなかったな。ただなんとなく、お祭り的に学生運動にかかわっていたようなもので、思想とか信念をもっての参加はなかったし、無縁だった。正直言って、中身はわからなかった。皆あの頃は反戦運動に行ったね。赤瀬川(原平)なんか砂川に行っとるしね。あれもはっきりした意図じゃなくて、半分はお祭り騒ぎだろうなと、今になって解釈する。当時はわからなかったよ。ただなんとなく集会があれば行って賛同する。「なんとなく」なんて無責任だけど。

細谷:昨日の話だと、政治活動は岩田さんのなかで、大須で少し冷めてしまったところがあるようでしたが。

岩田:そうだね。終わったね。でもあとで(名古屋)市長選に出たみたいに、まったく無縁で逃げるというほどのことでもない。ただ国際政治は難しいということがあって、その難しいことをド素人がゴチャゴチャ意見を言えないというふうには思ったね。裏には裏があって、わからないよね。皆、政治参加と言うけれども、そう簡単に素人が政治参加できるような単純なものではないと思った。それは今の考えも混じっているけど。

細谷:大きい国際的なことで漠然としたところにいくのは慎重になったということでしょうか。

岩田:慎重も何も、わからないからね。ベトナムもアメリカが介入しなかったらどうなっていただろうと、いまだに思ってるからな。

黒ダ:名古屋の市長とか、ローカルで自分が把握できる範囲だったらかかわれる?

岩田:そうだな。ベトナムは、俺はいまだにわからんよ。ベトナムは一応は共産国家だよな?

黒ダ:社会主義国家ですね。

岩田:外から見たらそう見えないけれども。

黒ダ:90年代から本格的に資本主義路線を歩んでしまっているわけです(ドイモイ政策は1986年以後)。

岩田:アメリカが負けたと言うけど、本当に負けたのか。負けたというよりも、やる気になればやれるけど、どこかで手を引いたんだよね。そういうふうに考えるとわからないし、たとえばこちらの情報だと枯葉剤作戦で全滅させられたと言われるけど、今や観光地だからな。何年か前にあれだけ荒廃したと言われた土地が、今や観光地で楽園だもんね。

細谷:結局、アメリカですからね。

岩田:アメリカかどうか、俺は本当にわからんよ。カンボジアだって今は観光地になってるでしょう。ものすごく荒廃していると思っていたけど、逆に言うと、荒廃しても簡単に立ち直れるのかなと思うよな。表面的には平和だよな。話に聞くと、地雷が埋められていて大変らしいけども、じゃあ観光地のどこそこは危険地帯で入れないというような話は聞かないし、よくわからん。

黒ダ:昨日聞き損ねたことです。朝日新聞の「私の戦後美術」(「私の戦後美術 ゼロ次元からスーパー一座へ 4 抽象の中心で『具象』宣言」、2007年2月6日、中部版か)のなかに出てくる言葉で、初期〈ゼロ次元〉のパフォーマンスをする前の愛知県文化会館美術館でやった「第3回0次元展」(1962年10月19日〜25日)で、生の冬瓜(とうがん)を出したと。冬瓜の絵じゃなくて、本物の冬瓜があったんですか。

岩田:絵はない。物だけ。描くのが面倒だったから。

黒ダ:でも展覧会に出したわけでしょう?

岩田:そう。しょうがないからコンクリートブロックの上に3つくらい並べて出して、そこに線香を立てた。自由だね、館内で火をつけていたんだから。線香を焚いたよ。

黒ダ:それは第3回0次元展ですかね。

岩田:そうだね。最初に川口(弘太郎)とやっていた頃。

黒ダ:昨日の話で、皆の間では抽象が主流だったとありました。

岩田:僕はとにかく具象にこだわって、だから冬瓜も具象で描いてもよかったけど、面倒くさかったのよ。なぜ冬瓜かというと、のっぺりしたゆるキャラみたいなのが好きだったんだ。冬瓜って締まらないじゃない? そんなつながりで冬瓜を出した。

黒ダ:冬瓜はどれくらいの大きさだったんですか。

岩田:普通だね。けっこう大きいのを探したと思うけど、普通だね。

黒ダ:他の人は普通に絵だったんですよね。

岩田:そのときは僕は冬瓜の立体で、小岩(高義)が箱に入って林檎を食ってたな。

細谷:食べていたんですか。

岩田:うん。写真もあるよね(未見)。平面の絵プラス立体造形というか、生のものも利用していた。

黒ダ:それが、絵画からパフォーマンスへの移行に関係なくもないのかなと思って。

岩田:そうそう。たぶんそういうのを見て、加藤(好弘)は〈青年美術(家協会)〉よりこっちがおもしろいと思ったと思う。わりと〈青年美術〉は抽象画にこだわって、近代主義をやっとる連中ばっかりだからね。こっちがおもしろいと思って、一緒にやろうじゃないかとなったんだよね。時期的に曖昧だけれども。

細谷:昨日グッドマンの話があって、同じ年に名古屋で「日本超芸術見本市」(1964年8月30日〜9月5日、愛知県文化会館美術館)が開かれます。これはかなりの人が参加していて、このとき岩田さんがどういうふうにコミットしたのかお聞きしたいです。

岩田:普通にやっとって、特別印象に強いということはないね。よく全国から集まってくれたと思うね。あんな大勢の人間がどこに泊まっとったのかな。俺のところに5人くらい泊まったのは覚えとるけど、他の人はどうしたかな。

細谷:ちなみに、それはどういうふうに声を全国にかけたんですかね。

岩田:今考えても不思議でね。そのときに初めて会った奴も多いし、前からの知り合いばかりでもないし、何で調べたんだろうね。ヒッピーとか変な奴の不思議な裏ルート、秘密ルートみたいなのがあって、何か皆がつながっていたんだよね。本当につながっていた。そういうヒッピーたちの名古屋の拠点が僕の家になっていて、知らない奴が泊まりに来ていた。「ここへ行くと泊まれるぞ」みたいな情報があったんだろうな。

細谷:それは美術の人じゃなくても?

岩田:いわゆるヒッピーで、多少は美術に興味をもっていたね。演劇とかはいなくて、どちらかというと美術のほうが多かった。皆よく泊まりに来たよ。

細谷:桜井孝身さんはこちらに来ると、岩田さんの家ですか。

岩田:そういうときもあるし、選挙中は他だけどもね。おふくろが皆にものすごく評判がいいんだ。「世話になった」と皆が言う。そんなことがあったかなと、俺は忘れてるんだけどね。吉野(辰海)なんかに会っても「ものすごく世話になった。いい人だ」と言うんだけど、僕は全然覚えてない。ただ、おふくろが言うには、僕がおらんときにも来るわけだ。「友達だから泊めんわけにもいかんけど、女一人で泊めるのは怖かった」って(笑)。

細谷:お母様もけっこう迎え入れていたんですか。

岩田:そう。平気平気。そんなに世話したのかなって、僕は知らんのだけど、皆「世話になった」と言うよ。

黒ダ:2年前にお借りした、「超芸術見本市」のときに出されたパンフレットがこれなんですけど……。

岩田:展覧会があったあとにまとめたんだ。いやいや、覚えてない。それに合わせてつくったのかもしれない。覚えてない。

黒ダ:これは岩田さんが編集したんですよね。

岩田:そうだね。いろんな変な奴も入っとるけど、とにかく広げようと思ってね。加藤は「生ぬるい」と怒っとるけど、僕はなるべく広く大勢の人に集まってもらおうと思って、あまり人を選別せずに、大勢書いとるけどね。

黒ダ:展覧会に誰を呼ぶかについても、かなり岩田さんが主導的にやったということですか。

岩田:主導的というか、なんとなく、皆一緒だけどね。僕が主導したというほどでもない。ここに熊丸(道生)という変な奴が文章を書いてるけどね。

黒ダ:見当たらないですね(別名で出ていた。後出)。これは小岩高義ですね。この中川弘一郎という音楽家はお知り合いだったんですか。

岩田:芸大の学生だけど、けっこう前衛的な音楽をやりたいということで、三人くらい参加したんだ。戸島(美喜夫)、もう一人は中川(弘一郎)。

黒ダ:戸島は〈グループ・音楽〉ですね。

岩田:そうだ。あとでわりと大きくやっていたよな。

黒ダ:名古屋新音楽グループの記事(一柳慧[構成]「群像 ’64-6 名古屋新音楽グループあるいは『新音楽』への条件」、『新婦人』、1964年6月)を見たことがあります。中川はコンサートをやったんですか。

岩田:一緒にやったよ。あとからも一緒にやったし、このときも一緒にやったし。

黒ダ:美術館の中ですか。

岩田:中だよ。あのときはまったく自由だったから。講堂とか彫刻室まで借りた。

黒ダ:いわゆる即興ですか。

岩田:そうだね。

黒ダ:糸井貫二が出ているけど、糸井さんは来ていない?

岩田:うん、来てない。文書で。

黒ダ:何か作品を送ってきたんですかね。

岩田:そう思いますけどね。

細谷:滑車のやつですよね。

黒ダ:オチンチンのところにちょっと網がかかって色がついていますね。

岩田:わざと? そんなことやったかな。

黒ダ:元からの線画じゃなくて、ここに色がついていますよ。

岩田:それは前からだぞ。俺が規制してやった覚えはない。

細谷:糸井さんですよね。

黒ダ:彼が自分でやってきたのかもしれない。川口はまだいたわけですね。これが一人、誰かわからない。

岩田:たぶん俺だと思うよ。

細谷:このクエスチョンマークですか。

岩田:うん。

黒ダ:ラブレターってこれか。そう書いてあります。

岩田:ああ、そんなふうに載っていたか。ラブレターはそんな恰好で出したか。

黒ダ:「コウ子様、あなたは九州へ……」。

岩田:そんな読まなくていいよ(笑)。

黒ダ:(「超芸術見本市」パンフレット掲載の名前の確認に戻る)水野光典ですね。

岩田:仲間だな。

黒ダ:最初の〈ゼロ次元〉メンバーですね。この人は今どうしているんですか。

岩田:今はのびのびやっておって、市の美術館の、監守じゃないけど、普通の職員をやっていた。

細谷:名古屋市美術館?

岩田:うん。今は辞めてのびのびやっておるんじゃないかな。最近聞いて、「こんなところに勤めておるのか」って。あまり偉い役じゃないよ。

黒川:名古屋市の職員だったんですか。

岩田:そう。これは推測だけど、親父が教育長か何か偉い人だったから、たぶん親父のコネなんだ。推測だけども。

黒ダ:山崎靖子という人は?

岩田:僕の友達だ。いろいろ問題があるけれども。

黒ダ:絵描きさんですか。

岩田:デザイナー志望だけど、素人みたいなもので、志望と言っているだけだ。

黒ダ:では、このへんの人たちは岩田さんから参加の声をかけたんですね。

岩田:そうそう。

黒ダ:この人は展覧会で何をしたんですか。

岩田:文章だけで、何もしてないと思う。要するに、そのへんの女の子が「デザインいいな」と言うくらいのことで、大したことはやってない。

黒ダ:梅原逸男。

岩田:こいつは僕の小学校の同級生で、久しぶりに会ったらフランス文学をやっとるということだった。同級生がフランス文学をやっとるというのも珍しいと思って、ちょっと付き合い出した。フランス文学だから、わけのわからんことを言っとる奴で、けっこうアナーキーな変なかかわり方をした奴で、まっとうなかたちじゃなかった。要するに、ぶち壊すようなかかわり方で、仲間としてというよりアナーキーなかかわりでおもしろかった。

細谷:「ぶち壊すような」というのはどういう?

岩田:皆が話しているときに、彼はフランス文学だもんで、わけのわからん観念的なことを言い出すんだよ。一人で勝手なわけのわからんことを……。

黒ダ:わりと言葉で介入する?

岩田:そうそう。だから雰囲気が壊れてしまう。我々はあまり言葉なんて関係ないから。彼は観念的でね。小学校の同級生でどうしようもない馬鹿だったが、久しぶりに会ったら大学でフランス文学をやっとると言うから。今はどこかで教授をやっとるという噂だ。

黒ダ:真鍋宗平という人がいて、たぶん〈実験グラウンド∧(ア)〉のメンバーじゃないかな。京都での若手作家の前衛的なグループ(1963年結成)だったんだけれども。

細谷:大江正典(のち、おおえまさのり)さんとかと?

黒ダ:一緒にやっていたね。この人も岩田さんの知り合いですか。

岩田:違う。あまり記憶にないからね。水上(旬)あたりが呼んできたのかもしれない。ただ、水上はこういう編集にはあまりかかわってなかった。僕の友達ではない。

黒ダ:ここに紙が。

岩田:それは僕の写真だ。一応消したんだ。

黒ダ:この袋の中に名刺が入っている。こんな凝ったことをしていますね。中区裏門前町と書いてありますね。

岩田:町名が変わっただけで、昔はここは裏門前町だったの。

黒ダ:あそこの家(今いる建物の隣)のことですか。

岩田:一緒だったけれどもね。町名が変わっただけ。

黒ダ:ここは岩田家の持ち物ですか。

岩田:そう。

黒ダ:ここを建てる前は家があったんですか。

岩田:そう。(父方の)お祖父さんが兄弟で隣同士で住んでいた。だけど戦後のいろんな改革で、道路が真ん中を通っちゃったわけ。その兄弟がいたんだけど、その孫が東京に行って空き家になっちゃったもんで。

黒ダ:それを潰してここが?

岩田:そうそう。

黒ダ:矢野和夫は?

岩田:そいつは熊丸の変名じゃないかな。わりと政治的なことを書いてない? あまり記憶にないね。

黒ダ:熊丸が本名ですか。

岩田:そうそう。彼は矢野という名前じゃないか(実際のペンネームは津崎雅次。後出)。

黒ダ:政治的な内容ではないですね。

岩田:じゃあ違うか。当時、我々のグループと『新日本文学』の連中がかかわりがあった。熊丸は〈新日本文学(会)〉の会員(会員としては確認できない。定期購読者か)で、いろんなつながりをつくってくれた。だから、わりと重要な人物なんだけどね。

黒川:美術畑の人ではなく、文学畑の人なんですね?

岩田:要するに政治評論だな。生まれは九州の小倉かあそこらへんで、よその町へ行くのに自分の土地だけで行けるくらいの大地主の息子らしいよ。彼は会社員として名古屋に来ていた。いろんなことをつないだり何かしていたんだな。ベトナムの兵隊が逃げるのも、彼が一生懸命に中心になっていた。そんなようなことのかかわりだった。

黒ダ:このへんの人たちのつながりが……。

岩田:けっこう多いの。

黒川:岩田さんとしては、深い事情はわからないけれども、「泊めてくれ」と言われて?

岩田:そう。そんなようなこと。

黒ダ:蟹江真人という人は?

岩田:これは一種のスポンサーみたいなもので、要するに前衛ぶったおばさんだ。男か。詩人だな。夫婦で一種のスポンサーだった。

黒ダ:お金を出したんですか。

岩田:多少はな。「若い人が一生懸命やっているから寄付するわ」程度のことで、はっきりとこの企画にかかわったわけではない。

黒ダ:主人は文学の人ですか。

岩田:俗に詩人と言っとるけどね。

黒ダ:そういう人は展示はしないですね。春日井建というかなり大物がいますね。

岩田:彼も一応、短歌界では前衛と言われていたからね。

黒ダ:三島由紀夫が絶賛した。

岩田:それで寺山(修司)と彼が「若き新人」になったんだよね。

黒ダ:名古屋にいたんですか。

岩田:もちろん。

黒ダ:この人も誌上参加ですか。

岩田:そうだね。前衛短歌ということで。大きく前衛ということでね。僕は前衛と言われるものを大きく括ろうと思って、あまりラディカルな〈ゼロ次元〉だけに絞るという気持ちはなかった。これを機会に広くと思っていたから、集めるだけ集めたわけだ。

黒ダ:春日井建とは面識があったんですか。

岩田:そうだね。直接面識があったけど、そういうきっかけは皆、熊丸がつくった。会社の金も持っとるし。これはあとの話になるけど、あさいますおも新日文なんだよな。

細谷:あさいさんのことを聞きたいと思ったんですけど、ひと通りこれに出ている人を先に見ましょう。

黒ダ:津崎雅次。

岩田:それが熊丸かもしれない。

黒ダ:けっこう観念的なことを書いていますね。顔写真があります。

岩田:そうだ、これが熊丸だ。

黒ダ:このなかではわりと真面目なことを書いていますね。

細谷:(文章のタイトルが)「敵を見つめて武器を取れ」とありますからね。

岩田:小倉の名家らしいよ。

黒ダ:この人の文章が長くなって、そのあとのページ繰りがおかしくなっていますね。金井久美子は?

岩田:金井美恵子の妹だな。

黒ダ:最後に「発行者 ゼロ次元商会」で1964年8月25日、「岩田信市 編集責任者」とあります。実はここにグッドマンの広告が出ていて……。この時点でもう岩田さんがやっていたんですか。

岩田:やっていたのかな。

黒ダ:でも岩田さんがやる前からお店はあったんですよね。ということは、この時点で岩田さんがやっているかどうかはわからない。

岩田:うーん。

黒ダ:ここに出ている人たちとは別に、展覧会に参加している人たちがいるわけですよね?

岩田:そうだね。

黒ダ:これを見ても、最終的に誰が展覧会に参加したかはわからない。

岩田:これは事前にコンタクトが取れる人たちばかりで、展覧会はパーッと来てパーッとやるだけだから。

細谷:展覧会の前の予告といった具合でしょうか。

岩田:同時じゃないかな。

黒川:これは展覧会の会場で販売したんですか。

岩田:そうそう。

細谷:あさいますおさんとのつながりや交流について聞きたいと思います。

岩田:たぶん最初に紹介してくれたのは熊丸だと思う。新日文の関係で。『週刊文春』に載ってない?

黒ダ:ちょっと調べてみます。

岩田:針生一郎がほめているとか推薦したとか(未確認)。針生一郎は新日文でしょう? たぶん針生さんが感心しとったんじゃないかな。

細谷:ともかく熊丸さんのつながりがあったんですね。

岩田:うん。それで新日文と、直接じゃないけど間接的にね。新日文の連中は、わりとよく付き合っておったな。そんなに深くじゃないけどね。

細谷:あさいさんとの直接のお付き合いはどうでした?

岩田:それからはよく付き合っておったよ。海水浴に行ったりとか。

黒川:あさいさんの印象はどうでしたか。

岩田:よくわからんね。

黒ダ:あさいさんは何をやっていた人という認識でしたか。文学ですか。

岩田:文章は書いていなくて(ミニコミ誌への寄稿は多い)、人を組織していたね。信州(上諏訪)に行って縄文祭をやって(第2回縄文祭、1965年7月31〜8月3日 第1回は前年4月に瀬戸で開催)、人を組織する。縄文祭は主に子どもでしょう。なぜああいうことをやったんだか知らんけど、そういうことを盛んにやっていたね。それと同時に僕らと展覧会もやっていたから、絵も好きだったんだろうね。あまり俺も詳しく知らない。遊んでいただけで、芸術論云々で議論したわけでもないしね。

細谷:あさいさんはどういう印象ですか。

岩田:ちょっと変わっとるよ。

黒ダ:膨大な文章を残している人なんですけど。

岩田:ミニコミを出していたんだよな。新日文の文章は知れているけど、ミニコミを出していたんだ。それは皆、子ども関係のことだよな。

黒ダ:漫画論や児童画論を書いていますね。

岩田:どちらかと言うと、そういう若い人向きのことだよな。あまり観念的・哲学的なことではなかった。信州のほうに大きな地盤があって、地盤というか、仲間がいつもいた。信州の諏訪のあたりだな。

黒ダ:それは松澤宥じゃないですか。

岩田:それと関係なく。あさいますおもあのへん、松澤さんとはあまり関係ないんじゃないかな。知り合いくらいで。

黒ダ:あさいは長久手とか瀬戸での活動が多かったみたいだな。

岩田:地元だな。

細谷:それ以外に信州でやっていたんですか。

岩田:よくやっていた。縄文祭は信州でやっていたんだよ。

黒ダ:それは見に行きました?

岩田:行かない。いつも話に出ていたからね。僕は彼の紹介で富士見に小屋を借りて、毎年行っていた。皆、あさいの紹介なんだよ。あさいが地元の幼稚園の先生を知っておって、その先生のツテなんだけども。俺は子どもの頃から身体が弱かったもので、毎年夏に蓼科に行っていた。

細谷:保養みたいな感じですか。

岩田:そう。1ヶ月か2ヶ月くらい。あそこが大好きで、いまだに俺の故郷は蓼科だというくらい大好きなの。蓼科がだんだん観光地になって嫌になってきて、山を下りて富士見に小屋を借りたわけ。というわけで、富士見も毎年行っていた。古くなってきて、借家だから直すのも直せんしということで、今は返したけどね。ちょっと前までは、毎年夏は富士見に行っていた。あのへんが大好きなの。

黒ダ:富士見はいろんなヒッピー関係が多いですよね。

岩田:そうそう。すぐそばに(雷)赤鴉(族)ができてね。それからおおえまさのりが、富士見のちょっと先の小淵沢にいたね。

黒ダ:富士見に行っていたときは、そのへんとお付き合いもあったんですか。

岩田:そうだね。ただ、おおえはちょっとあとに来たから。

細谷:雷赤鴉(族)やヒッピーとの付き合いはあった?

岩田:深い付き合いはないけど、なんとなく遊びに行くとか、「今何やっとる?」というくらいのものだな。

黒川:制作しに行っていたわけではない?

岩田:ない。遊びに行っていた。いいところだよ、富士見は。

黒ダ:今お見せしたパンフレットが1964年なんですけど、2年後の1966年に愛知県文化会館美術館でゼロ次元展(7月25日〜28日)をやっています。そのときにあさいますおや水上旬も出しているんです。

岩田:あさいは知っとるけど、水上の作品は知らないな。どうせ小さな紙切れを片隅を置いたんだから、あまり……。あさいは自分のシルエットをべったり墨でつけて、イヴ・クラインみたいなやつだったと思うけどね。

黒ダ:その直後に、あさいが亡くなっているんです(7月31日)。

岩田:展覧会の終わりを待たずに、新日文の遊び会で海に行ったんだ。針生さんに呼ばれとるとかで、たぶんあっちの集まりなんだ。あのグループで、夏だから海に行こうということだったんだろう。展覧会が終わる直前に海に行ったら、死んじゃったね。

黒ダ:ボクシングで痛めつけられたとか、結局わからないんですよね。単なる事故死だったのか、特別に何かあったのか、喧嘩をしたか、病気だったか。実はわからない。

岩田:俺が聞いたのは、海に飛び込んだら頭が岩に当たったと。それ以外は知らないけどね。

黒ダ:つまり事故死ですね。

岩田:そう。そこまで喧嘩する男とは思えない。まして殴り合いの喧嘩なんてしないと思うけどもな。非常にソフトな男で、変わっとってね。たとえば、こうやって皆で話していても、突然踊り出すとかね。そういう変わったところがあった。さっきまで我々と話しておったのに、なぜか瞑想し始めたり。でもすべてソフトで、パワフルなところはなかった。

黒ダ:岩田さんはどんなに変な人が周りにいても、それを受け止める感じがありますね。

岩田:あさいはきょうだいがいっぱいおるから、聞いたらわかるかもしれない。

黒ダ:妹さんがいるのは知っていたんですけど、最近、弟さんがいることもわかったんです。

岩田:妹は後々、僕らと一緒に芝居をやった。ダンサー(蘭ゆう)なんだよ。〈スーパー一座〉に出ていたよ。最初の2つの頃。今どうしてる? 旦那は死んだんだよな。古池寿章(あきら?)という人だ。ミュージシャンなんだ(初期の〈スーパー一座〉では音楽を担当)。

黒ダ:私たちが知っている旦那さん(岡本信也)は、名古屋で路上観察みたいなこと(野外活動研究会)をずっとやっている人です。

岩田:あぁ、もう一人の妹だ。岡本靖子だな。妹が二人で、姉さんは麻酔の医者だ。弟のことは知らなかった。

細谷:女きょうだいに囲まれているんですね。

黒ダ:ダンサーの妹さんは、モダンダンスですか。

岩田:そうそう。

細谷:僕が知らないだけなんですけど、当時は愛知県文化会館美術館という名前だったと思うんですけど、それは今の愛知県美術館のことなんですか。

岩田:そうそう。建物は違うけど、今は総合文化会館として劇場もできた。当時は図書館と一緒で、劇場はなかった。場所は今と一緒。一緒だけども入口は別で、中は壁で仕切られておって、コンセプトとしてなのか、ひとつの建物として裏表で使っとったね。

細谷:65年に岩田さんはご結婚されます。昨日も息子さんの話が出ましたが、岩田さんが美術家として、あるいはスーパー一座の活動のなかで、ご家族の影響はどういうふうにありましたか。

岩田:家族からの影響は何もない。逆に言うと、おふくろはまったく放りっぱなしで、何をやっても文句を言わない。家に誰が泊まっても何も言わないし、家を揺するくらい暴れても何とも言わない。まったく自由放任。

細谷:今の奥様はどうですか。

岩田:自由放任。何をやっても一切文句を言わない。

黒ダ:結婚式のとき(1965年4月7日、名古屋の国際ホテル)に変なパフォーマンスをしたんですよね。一応そういうことをしてもいいような、そういう方なんですか。

岩田:そうそう。

黒ダ:芸術関係の方ではないんですか。

岩田:全然。普通。ただ僕の奥さんは、結婚式の人と今の人は違うよ。人が替わっとるよ。

細谷:ああ、そうでしたか。

岩田:どっちも文句を言わないということでは一緒だけども、人は違う。

細谷:60年代の後半になってくると、〈ゼロ次元〉が映画に出るようになる。あと雑誌のグラビアなどで取り上げられて、加藤さんは積極的にやっていました。岩田さんはメディアに露出することに意図的でしたか。

岩田:意図的にはない。だいたい名古屋にはそういうものがないから、東京に売り込むなんてこともできないし、そういうのは加藤がやっとるからいいやということで、すべて任せていた。それで加藤が「出て来いよ」と言ったら出て行っていただけで、自分からはそんなことはしない。

黒川:マスメディアに対して意識的なことはなかった?

岩田:何もない。

黒川:記録についてはどうですか。たとえばパフォーマンスを写真や映像で残すことについては。

岩田:あるときはあるし、ないときはないし、無関心ではないけど、そんな丁寧にということはない。半分くらいはあるけど、半分くらいはない。これは変にこだわっとって、パフォーマンスとは記録を撮るものではないという考えがあった。硬くは考えないけど、そういう考えが根底にあってやっていた。多少はそういうことを思っとったから、記録がおろそかになるよね。

細谷:そのとき現場で起こったことは、そのときのことだと。

岩田:そう。たとえば加藤はトンボ(北出幸男)という専属みたいなカメラマンがいるので、いつも一緒に行動できる。僕の周りにはそういう専属になるようなカメラ好きがいなかったもので、たまたま物好きな人、無名だけど変なものを撮りたいという人がいると、それが残っているという程度で、仲間内でカメラが好きだという人はいなかった。

細谷:とにかくそのとき現場で起こることに夢中に必死になるという。

岩田:そうそう。そこにたまたま写真が好きな人がおると撮ってくれた。

細谷:昨日もチラッと岩田さんから出たんですけど、加藤さんがだんだん教祖的になってきたと。〈ゼロ次元〉のなかでも表に出ていくような存在になっていったのかなと思うんです。週刊誌でも加藤さんがバッと出ていくじゃないですか。

岩田:それは事実だけれども、それが教祖的になっていったということはないよね。加藤は東京だから、東京でジャーナリストに取材されれば表に出るわけで、加藤が教祖になったから表に出たということではないと思うよ。もちろん、そういう性質はあるよ。教祖的な素質があるけれども、俗に言う教祖として統一していくということではないと思うけどね。

細谷:加藤さんの見方は変わりませんでしたか。

岩田:変わらんよ。教祖という名前は誤解を招くとは思ったけど、だからやめろと言うほどのことでもないし、そういうものかなと思っていたね。よく皆に誤解されるんだよな。教祖と言うと、麻原彰晃みたいに何か団体があって、それを統括しているんじゃないかって、そういうふうになると嫌だなとは思っていたけど。でも内輪の冗談で教祖と言っている分にはいいんじゃないかなと思っていたね。実際に教祖ではないよな。でも逆に実際は教祖かもしれないな。両面だよね。信者ができるけど、すぐ離れるんだよな。そこが問題なんだ(笑)。信者が長続きしない。

黒川:それはなぜだと思いますか。

岩田:いろいろあるわな。加藤の本の読み方はいいかげんだと思うけど、いいかげんな読み方をしても掴むところは掴む。そこがいいところなんだよね。

細谷:そうなんですよね。全部、加藤さん自身で解釈をしていく。

岩田:まあまあ妥当な線で理解しておるんだよな。ときどきとんでもない誤解もあるけれども、一応妥当なんだよな。ただ真面目な学生なんかが細かいところに突っ込んでいくと支離滅裂になってくるから、それで信者にならんのだよ。大きいところでは、俺はいいと思うよ。たとえばこのあいだ言っていた阿頼耶識(あらやしき)とか、細かいことはわかりっこないけど言っちゃうわけだよ。おおよそは妥当だと思うよ。でも坊主と議論したら、あんなものはぶん殴られるよな(笑)。そういうことを平気で言うからね。おおよそで間違ってないから俺は好きなんだよ。

黒ダ:加藤さんが東京に行ってから、加藤さんが仕切っているパフォーマンスに一緒に参加することが多かったんですけど、そのときにだいたい加藤氏がストーリーやシナリオを考えているじゃないですか。岩田さんはそこに参加するときに、「どうしても俺はこれをやりたくない」とか、「なぜこんなことをするんだ」とか、加藤さんと意見が違うことはなかったですか。

岩田:意見が違ってやめたことはないね。だいたいオッケーだった。問題なし。

黒ダ:かなりとんでもないことをやっていたと思いますが、全然オッケーだったんですね。

岩田:うん。嫌だったら最初から参加しないよ。

細谷:それも承知のうえなんですね。

岩田:やる以上はね。たとえば僕が嫌だったのは、あさいますおが死んだときに追悼の儀式(あさいますお追悼式(儀式瀬戸大会)、1966年9月24日〜27日)をやることになった。やっぱり葬式で皆がいる席で、一般から見て奇異なことはやりたくなかったから、あそこは僕は近くだけれども、あさいますおの葬式は行かなかった。やっぱり親類縁者が悲しんどるときに、たとえそれが芸術であろうと、奇異なことはもって行きたくないと思った。あれははっきり「行かないよ」と言ったね。あとは面倒くさくて嫌だったこともあるし、そんな正反対して批判してやめたことはないよ。加藤も僕が提案すると、それを嫌だと言ったことがない。二人はわりとそんな感じで。

細谷:認め合っていたんですね。

岩田:そうだね。

細谷:今、黒ダさんがおっしゃったように、加藤さんが「こういうふうにする」というスケッチをつくって、五色園でやった儀式(1968年9月22日)があります。このときは上條順次郎さんたちも皆、名古屋に来て、岩田さんが東京と名古屋を行ったり来たりしていたと思います。東京と名古屋の距離について、物理的にも感覚的にも、遠いとか近いとかありますか。

岩田:僕にとっては遠いよな。毎月のように行っておったけどな。たとえば学校の先生なんていうのは毎週何回も行き来しているけど、ああいうふうに近くには思わない。やっぱりちょっと覚悟が要る。好きな人の展覧会が東京であるからパッと見に行くというほど軽くはないな。やっぱり覚悟して行く。そういう距離があるな。

黒川:感覚的には京都のほうが近いですか。

岩田:そうだね。でも京都は行かないな。なぜか行かない。あまり好きじゃないんだよね、京都。気取ってるんだよね。

黒ダ:東京と名古屋の文化的な違いや、あるいは同じ世代のアーティストの意識の違いを感じたことはありますか。

岩田:やっぱり東京はすごい。日本中から秀才が集まってくる。名古屋は集まってこない。残りだけだもん。俺は名古屋って本当にひどいところだと思ってる。不毛なところだよ。荒川に言わせると、「不毛だから生まれるんだ」という言い方をするけどもね。名古屋の優秀な奴は東京に行っちゃうよ。加藤だって名古屋にうんざりして東京に行ったんだから。あれはものすごい怨念をもって東京に引っ越したぞ。一応、覚悟を決めて中学校の先生になったんだもんな。でもあまり長く続かなかったよね。2〜3年じゃないか。東京に行っちゃったもんね。いつもあいつは名古屋のことを砂漠だと言うんだ。「よく岩田はおるなぁ」と言ってね。それくらい何もない。

黒川:加藤さんがこの前おっしゃったのは、学校の先生を4年くらいやって、それがおもしろいので、それ以上やったら学校にいてしまうと思って辞めたそうです。ご覧になっていて、そういう印象はないですか。

岩田:そういう印象はないけど、僕と話をすると「名古屋みたいな砂漠にはおれん」という言い方をいつもしていたよ。おもしろすぎるなんて話は、今初めて聞いた。いつも砂漠と言っていた。

黒川:名古屋がおもしろいというよりは、子どもと接することのおもしろさだそうです。

岩田:そんなにおもしろかったのかな。子どもといっても、中学生だよな。

黒ダ:教員として、そこそこ成功していたんだと思うんです。周りから評価もされて、組合の仕事もあるし、子どもから人気もあるし、ということで、そのままいったらまったく地方の美術教師で終わっていたのかもしれないので。

岩田:これは推測だけど、東京に出たかったんだと思うよ。名古屋もおもしろかったんだろうけど、スケールの小さいチョロチョロっとしたもので、もっとスケールの大きなものを狙っていたんじゃないかな。おもしろいという言葉の解釈だけれども、部分的に身の周りがおもしろかったというだけで、大きく美術界がおもしろいとか、日本の中心になるだろうとか、そういうのとは全然違う。身の周りがおもしろかったというだけじゃないか。こっちの解釈だけど。

黒川:岩田さんは名古屋を不毛だとおっしゃっても、拠点を東京に移そうと思ったことはないんですか。

岩田:若いときはいっぺん思ったけれども、部屋が問題で逃げてきた。名古屋に逃げてきて、これだけのアトリエができれば充分(笑)。もう東京に行く気はないよ。

黒川:物理的な理由が大きいんですね。

岩田:そうそう。いろんなことで地方は退屈でダメだけれども、東京に行っても……。僕はここで自足して楽しんどるから、それでいいんだよ。あまり売り出そうとか、そういう気がないからね。芝居のときはもうちょっと売り出そうという気持ちがあって、外にも働きかけたこともあったけど、それもちょっと面倒くさい。売り出すにはゴチョゴチョやらなきゃいけない。それよりは自分でやっておればいいやというふうに思う。悪く言えば消極的、良く言えば淡々とやっとる。あまり世の中のことを気にしないな。ただ、東京はおもしろいところだと思う。否定はしない。何と言ったって、全国から秀才が集まる。たとえば荒川だって行っちゃうし、赤瀬川も行っちゃうし、加藤も行っちゃうし、誰も残りはせんもん。人材がいないよね。

黒川:河原温とか、メジャーな作家は輩出していると思うんですけど。

岩田:出身はいるけど、とどまっているのはいないでしょう。簡単に言えば、仕事がないもんね。全然仕事が来ないもん。

細谷:60年代終わりくらいになると、いよいよ万博の時期になっていきます。〈ゼロ次元〉は〈告陰〉や〈クロハタ〉らと、〈万博破壊共闘派〉へと活動が移行していきます。岩田さんご自身は、万博に対して、あるいは反博の活動に対して、どう考えていましたか。

岩田:万博にはうんざりして、賛成か反対かを問われたら反対だ。なぜ反対かと言うと、加藤が言うように表面文化の結集であって、真実の文化ではない。理屈はそういうことだけれども、それよりも感情的に万博は嫌だった。皆と一緒に反博をやろうかということだったな。

細谷:感情的に万博が嫌だったというのは、もう少し詳しく聞きたいです。

岩田:加藤が言っているけど、資本主義の終末の祭典で、あんなことに浮かれるのは嫌だったね。浮かれるということが嫌だ。今に移すと、今は(東京)オリンピックで浮かれてる。それと同じだ。オリンピックの問題はうんざりだよね。細かいことはあるよ。作家の選定で「こんなもの……」というね。岡本太郎も参加するとか、そういう問題点もあるけど、そんな細かい点よりも、大きく言って、こんなことで浮かれたくない。もうちょっと地道にいきたい。その浮かれが嫌だった。特に今のオリンピックも嫌だね。もうやめりゃいいのにね。加藤が万博のときに一緒にやらないかと言ったとき、僕はもうちょっと実力行使まで考えておった。再びゲバ棒を持って万博会場に突っ込もうと言っとったの。針生もそっちの考えが多少あった。針生と議論して、突っ込もうと言っておったけど、だんだんそっちのメンバーの力がなくなっていった。加藤は象徴的な運動でいいという方向だった。

細谷:もっとラディカルな実力行使という方向があったんですね。

岩田:僕はやりたかった。ただそっちは少数派で、あまり問題にされなかった。2〜3人では無理だということになったね。

黒川:〈万博破壊共闘派〉のなかで、岩田さんのように、実力行使に賛成したメンバーは他に誰がいたんですか。

岩田:若い衆で、俺も具体的に名前が出てこない。ただ針生と話したときは一致した若い衆が5〜6人いたよ。初めて会ったような人たちだから、あまり名前は知らない。たぶん学生だったと思う。金坂(健二)はどうしたかな。〈共闘派〉には加わってるけど、強硬派か柔軟派か、どっちだったかな。ちょっと記憶にないね。あれはどっちにもつくけれども、気分的には強硬派じゃないかな。ただ、彼は自分でやらない。カメラマンだからね。

細谷:それでも〈万博破壊共闘派〉はキャラバンで、公安がずっとついてくるわけじゃないですか。

岩田:僕らのあとを? 目に見えないけど、ついて来ただろうね。はっきりと制服を着てはいないけど、当然ついてくると思うよ。

細谷:キャラバンのときとか、皆さん緊迫していたのかなと思って。

岩田:そんなにいつ捕まるかわからないというような緊迫感はなかったな。あのとき、捕まるのは予想してなかったんじゃないかな。実際に捕まったのは京大でやったのよりも、池袋でやったのが罪状になっていると思うからね。

細谷:万博粉砕ブラック・フェスティバル(1969年6月8日、池袋アートシアター)ですね。あれが雑誌に載った(数種の記事があるが逮捕のきっかけとなったのは『週刊明星』6月29日)。

岩田:我々は捕まるとは夢にも思わんかったよね。東京の奴は全部捕まって、僕は名古屋で助かったけれども、危険をひしひし感じたね。

細谷:やはり危険を感じていましたか。

岩田:そうだよ。でもおもしろかったよ。熊丸がちょっとおっちょこちょいなものでさ。俺の逃げ場所や隠れ場所を一生懸命準備しとってくれたよ。

黒ダ:そうか、岩田さんは池袋に出ていないんですね。

岩田:出てなかった。だから捕まらなかったんだろうね。

黒ダ:池袋の写真が証拠になっただろうから、岩田さんは大丈夫だったんですね。もし京大のが問題になっていたらわからなかったですが。

岩田:それを全部引っくるめて、危険を感じておった。

細谷:京大のとき、水上さんがロープのやつをやるじゃないですか(『肉体のアナーキズム』、p.13参照)。あれをどうご覧になっていましたか。

岩田:何かやるとは思ってたけど、ああいうことをやるとは知らなかったわけ。落ちるとも予想しないもんで、『あいだ』に書いたみたいに(「ハイレッド・センター:『直接行動』の軌跡」展(名古屋市美術館/松濤美術館)に われわれが求めていたのは『混沌』だった 〈ゼロ次元〉の60年代、『あいだ』215号、2014年9月20日)、とっさにあれは僕が決めたんだけどもね。最初はあんなに(校舎の)上に行く予定じゃなかった。下で寝とるだけだった。水上がやり出して、これはおもしろいと思って、あそこに書いたような理由で上に行ったんだよね。どうやって上へ上がる階段を見つけたか、誰が先導して案内したか、わからない。とにかく必死に走って、水上のパフォーマンスに合わせようと。道案内をどうしたか、今になってみるとわからないね。

黒川:現場で水上さんがロープを張って、あれをやるとわかってから?

岩田:そうそう。

細谷:それを見たんですね。

岩田:そう。

黒川:けっこう急な判断だったんですか。

岩田:もちろん。だから息を切らして走って行ったよ。今言ったように、知らん学校の屋上に行く道をどうしてわかったんか、不思議だね。屋上まで走って行って鍵がかかっていたら、パーだからね。

黒川:ありえますよね。

岩田:ちょっと不思議なんだよね。

黒ダ:これ(『肉体のアナーキズム』、p.13参照)が池袋ですね。

岩田:池袋には行ってないよ。東京出発で、俺は名古屋から加わった。

黒ダ:これが水上さんですね。この一番背が高いのが、たぶん岩田さんだと思います。この前後にこういう写真(メンバーが地上で一列に並んでいる写真)が見つかって、ここに明らかに岩田さんがいて、これは秋山祐徳太子、このへんが〈プレイ〉の人や〈告陰〉の人、この眼鏡が水上ですね。このへんがその彼女ですね。このへんも〈プレイ〉の人ですね。これがわからないんですけど、上條じゃないかと思うんです。加藤じゃないと思うんです。

岩田:帽子の人?

黒ダ:帽子は金坂です。

岩田:加藤は金坂の隣でしょう? 違うか。

黒ダ:三喜徹雄、三喜の彼女。そしてここに水上が写っているから、まだ上る前だと思います。

岩田:このときはもう一人、九州の女(詳細不明)が写ってない? これで全部か。おかしいな。絶対におるはずだ。

黒ダ:実はその前に、京都の町中を行進する写真が出てきました。岩田、加藤、〈告陰〉の石橋初子、〈告陰〉のH.K.、これがわからない、これもわからない、末永(蒼生)、これもわからなくて、桜井孝身、一番後ろにいるのが最近わかったんですけど新開一愛(しんがいかずよし)。これもほぼ同じときですけど、一番後ろにいるのが新開です。覚えていますか?

岩田:〈ヘ〉(〈集団“へ”〉)とか何とかやっとった奴だな。身体を傷つけて気持ち悪いなってね。

黒ダ:それはたぶん別の人じゃないですかね。

岩田:あなたが調べておるもう一人の人は何だっけ。

黒ダ:〈集団蜘蛛〉の森山安英でもないと思います。〈蜘蛛〉はそういうことをしないので。

岩田:誰かやってたぞ。身体を傷つけて気持ち悪い。俺は反発していた。〈ヘ〉とか〈蜘蛛〉とか、あの連中だよ。新開じゃないかな。ナイフで切り刻んでね。今のリストカットみたいなものだ。そうか、九州の女がおらんか。不思議だな。

黒ダ:ここに出ている女性は、だいたい〈告陰〉か〈プレイ〉関係ですね。

岩田:これの場所はどこ? 京都?

黒ダ:京都の町の中ですね。

岩田:そうか、おかしいな。あの九州の女はいないか。

黒ダ:岩田さんが先頭ですが、顔を隠しているのは顔バレしないようにですか。

岩田:手で隠しているんじゃなくて、マスクをかぶっておるか。それは別に秘密にするためじゃなくて、装飾だろうな。兜みたいなものだ。

黒ダ:このへんに顔を出している人もいるんですよね。

岩田:先頭だから、ちょっと威張ったんだろうな。

黒ダ:でも写真を撮られたら、それが証拠になりえますからね。

岩田:そこまで考えてなかったけどね。

黒ダ:それで隠したわけではないんですね。

岩田:一種の装飾だよ。頭の羽根と一緒で。

黒川:ヘルメットの装飾は各自がつくったんですか。

岩田:末永だ。ただ、上條につくるのを頼んだかもしれんな。そこまでは知らん。アイデアは末永だ。そういう意味で皆、ゴッチャゴチャで何のアイデアでもやっていた。けっこう包容力があったよ。

黒ダ:岩田さんがこの『アングラ通信』を出しているんですよね。これは2号(1969年3月)で、最近ようやく1号(1969年2月)が出てきたんです。

岩田:よかった。あなたに言われて気になっとったんだけど、引っ掻き回す時間がなくてね。すみません。

黒ダ:これは岩田さんが編集して刊行しているんですよね。

岩田:そうだね。

黒ダ:これもご自分のお金で?

岩田:そうだね。

黒ダ:これは郵送したり?

岩田:一応は会員を募集して、定期的に出すつもりだったけど、3号か4号で潰れた(1969年5月の3号まで現存)。一応は定期会員を募集した。

黒川:配布場所は、申し込んでくれた人に配るというかたちで、他に置いておくとかはなかったですか。

岩田:金を取るといったってタダでも値段は書くからね、ちょっと記憶にないけど。置いていってどうということはなかった。知り合いに手渡しするくらいはしたけれども。

黒川:せいぜい刷っても500部くらいですか。

岩田:500くらいだろうね。ちょっと記憶にないけどね。

黒ダ:「一部20円、半年分、送料込み」となっていますね。けっこうサイズが大きいですね。ちなみにこれは名古屋のシアター36(さぶろく)(『アングラ通信』2号に1969年2月の「エイト・ジェネレーション+インターメディア・ショー(万博破壊ゼロ次元名古屋大会)」の記事掲載)、貴重な記録です。

岩田:俺にとっては非常に盛大だったんだよ。そのときの写真だよね。

黒ダ:こういったブランコを使ったやつとか他にないので、珍しいですね。

岩田:これはけっこうドラマチックですごかったよ。

細谷:〈ゼロ次元〉の名古屋ですか。

岩田:イベント名が「これが8ジェネレーションだ」といって、かわなか(のぶひろ)が主体になっていた。なぜ、かわなかが主体になっとったのか、不思議なんだよね。〈ゼロ次元〉という名前が出てこない。

細谷:万博破壊ゼロ次元名古屋大会。

黒ダ:これそのものの名称はないんです。

岩田:「これが8ジェネレーションだ」という、かわなかのやつだ。でも、こうやって加藤も来とるし、他のメンバーも来とるしね。

黒ダ:このときから反博の意識があったんでしょうか。

岩田:なかったと思う。年代的な記憶もないけれども。

黒ダ:タイミング的には2月ですね。反博のイベントとしては、これが一番早いです。このあたりは(京都のレストランの)男爵とかあって、ここ(『アングラ通信』2号)に男爵のイベント(反万博狂気見本市、1969年3月29日〜30日)の告知がある。他にジャズの記事がありますね。この名前のないジャズの記事は誰が書いたんでしょうか。

岩田:僕だね。そんなに他に頼まないから。自分が好きなレコードのことを書いたんだろうな。

黒ダ:〈プレイ〉の記事とかも載っている。糸井氏。「色気違いか聖人か。仙台のダダカン氏よりテープ来たる」。

岩田:おかしいよな。そのテープは失われた。そのしゃべりがおもしろいんだよ。

黒ダ:これは2号目なんだけど、やはり『アングラ通信』であって、反博のニュースレターではないんですね。だんだん反博になっていくけど、これ自体は〈プレイ〉とかダダカンとか日本各地の前衛美術家の近況を伝えるような、そういう感じですね。

岩田:〈プレイ〉のことはちょっと批判的に書いたんじゃない? もう忘れたけれども、たぶんな。紹介はしたけれども。

黒ダ:〈プレイ〉がやったことは実際にどこかで見ていますか。水上じゃなくて、グループでやったやつ。

岩田:川を流れていくやつとかな(現代美術の流れ、1969年7月20日)、これ(の写真)も見た。これ(海に卵型の作品が浮かぶ写真)は岐阜のアンデパンダン(1965年8月9日〜19日)じゃない?

黒ダ:岐阜では〈プレイ〉は卵をやってません。

岩田:この卵は別のグループ?

黒ダ:同じグループだけど、これは海に流したやつです(VOYAGE、1968年8月1日)。岐阜のやつは流した……。違う、あれは堺(現代美術の祭典、通称「堺アンデパンダン展」、金岡公園と体育館、1966年8月20日〜28日に池水慶一が出品した《作品》)か。岐阜ではまだ池水慶一は檻の中に入る作品だから。岐阜には卵はないですね。卵は見ました?

岩田:どこかで見たね。船だったかもしれん。

黒ダ:写真で見たんじゃなくて?

岩田:実際に見たような気がする、漠然とこんがらがっとるけど。

細谷:黒ダさんもおっしゃっていましたけど、『アングラ通信』は、岩田さんの知っている全国の人や関係者を紹介するようなミニコミですか。

岩田:全国を一生懸命探したわけじゃないけど、知っとる限りの気楽なもので、そんなに必死にならないよ。

細谷:いわゆるアングラの人たちを紹介する?

岩田:そうそう。

細谷:せっかく話が出たので、糸井貫二について、印象はどうでしたか。

岩田:印象は今と一緒で、おもしろい人だね。テープがね、内容よりもしゃべりがおもしろいんだよね。

細谷:岩田さんのところに糸井さんからテープが届いたんですか。

岩田:そう。テープと写真と文章な。

細谷:録音してあったんですか。

黒ダ:それがあったらすごいですよ。

細谷:どういうことをしゃべっているんですか。

岩田:卑猥なことをしゃべっとるんだけどさ。それがおもしろいんだよ。

黒川:『アングラ通信』はオーガナイズするための運動的な機関誌というよりは、もうちょっと同人誌というか……。

岩田:皆がやってるからやってみようと。そう大事(おおごと)ではない。皆、気楽、気楽。

細谷:糸井さんが変な人というのは、一応、読売アンパンとかにも出してるじゃないですか。

岩田:変な人っていうか、おもしろいよね。理論的に話をする人じゃないから、そういう意味ではおもしろい人だなって。あの人の理論がどうとは言えないわな。

細谷:メール(郵便)がしょっちゅう来ますか。

岩田:しょっちゅう来てね。文章よりも切り抜きをよく送ってくれた。コラージュしたやつね。あれも皆見つからなくなってしまったな。

黒ダ:糸井氏と直接会ったことはありますか。

岩田:あるよ。

黒ダ:どこで会ったんですか。

岩田:場所は記憶にないけどね。2〜3回は会ってるよ。

黒ダ:『いなばの白うさぎ』の撮影のとき?

細谷:『いなばの白うさぎ』のときではないと思います。だから60年代ではないかと。糸井さんは年齢的には上じゃないですか。加藤さんは「おもしろいおじさん」と言っていました。

岩田:そうだな。「偉いおじさん」と言うより「おもしろいおじさん」だ(笑)。

細谷:当時の皆さんのなかでは「おもしろい、偉いおじさん」という感じでしたか。

岩田:一般的な「偉い」じゃなくて、前衛的なハプナーとして偉いということだよ。

黒川:名古屋のほうで「えらい」と言うと、「大変」という意味もありますね。

岩田:あぁ、そうそう。両方だな。文章を書くと困るんだよ。「今日はえらかった」なんて書くと、文章にならないからね。標準語だと何と書くんだ? 「今日は疲れた」だとちょっと違うよな。標準語にはないんだよね。俺は名古屋弁で「えらい」しか知らないけれども。大阪だと「しんどい」だ。「しんどい」は標準語にないから、東京でも「しんどい」が慣用語になっちゃったよな。大阪の「しんどい」が一番適切だけど、でもまだ大阪の言葉という感じがある。

黒川:名古屋の人と話していたとき、「あの人はえらそうだから席を譲った」と言っていて。

岩田:そういう使い方をすると、本当に誤解されるね。これはおもしろいね。落語になるな(笑)。

細谷:末永さんは少し年齢が下ですね(岩田は1935年、末永は1944年生まれ)。

岩田:だいぶ下だ。

黒ダ:末永さんにはどんな見方をしていましたか。

岩田:別にあまりないな。ただ仲間の人ということで。あとで色彩心理をやり出した。今でも学校をやっとって、名古屋にも支部(色彩学校・NAGOYA)があるんだよな。仲間の一人だというだけで、特段記憶にないね。

細谷:〈万博破壊共闘派〉の頃はけっこう政治的でしたか。

岩田:特別ないね。

黒ダ:逮捕されたとき、彼の顔だけが新聞(『夕刊フジ』、1969年7月18日)に載ったんです。

岩田:本当? なんでだろうね。

黒ダ:わからないです。(警察から〈万博破壊共闘派〉の指導的メンバーと思われていたからではないか)

岩田:わりと末永はおとなしかった。あまりパワーを感じなかったよ。自分のグループは〈ビタミンアート〉だったか。あ、〈ビタミンアート〉は小山(哲男、のち哲生)だ。末永は〈告陰〉だったか。グループ名が変なわりには、あまり〈告陰〉の行為は記憶にないな。

細谷:せっかくなので、ここで儀式派の人たちのことを聞いてみたいんですけど、〈ビタミンアート〉の小山さんはどうでしたか。

岩田:チビっ子のくせにパワフルで、メチャクチャやっとったな。チビがコチョコチョ動くという感じだな。よく動くという感じだよね。

黒ダ:小山のパフォーマンスを上野の本牧亭で……。

岩田:でも、あちこちで似たようなことをやってたよな。

黒ダ:小山のステージを見た記憶はないですか。

岩田:あまりないね。「これは私の」というのは。なんとなくチョコマカ動いとることだけが印象に残っとるな。

細谷:〈告陰〉、〈ビタミンアート〉、そして〈クロハタ〉は?

岩田:あれは怖いね。悪く言えば、気持ち悪い。良く言えば、怖い。僕はいろいろ変なことをやりながら、やっぱり明るいことに志向性があるんだけれども、〈クロハタ〉はどちらかというと暗いほうに志向性があって、なんとなくやることが浪花節っぽいじゃない?(笑)

黒ダ:そういう意味では好きじゃないんですか。

岩田:最終的に新宿で大騒動(1967年12月1日、故由比忠之進追悼国民儀など)だろ。やりかねない雰囲気はいつも漂っていたね。でも思いきって右翼的なことを言ったり、右翼的な看板を出したりしていた。当時に右翼的なことをやるのはおもしろいとは思ってたよ。彼(〈クロハタ〉のメンバー、高原裕治か鈴木史朗か)はそういう単語をよく発するでしょう。

黒ダ:「鬼畜米英」とか。

岩田:それが良いとか悪いとかじゃなくて、時代が民主主義で甘ったるい世の中になって、それに対する刺激物みたいにアンチを堂々と言い出す。それは魅力的だった。

細谷:もう一人、秋山祐徳太子さんがいますけども。

岩田:あれはわからんね。あれはおっちょこちょいだな。

細谷:岩田さんにとって「明るい」になりますか。

岩田:明るいし、人はいいし、天才だけども、おっちょこちょいだな。

黒川:天才というのはどういうところですか。

岩田:人を楽しませる天才。そういう意味では天才だよ。どこでも明るく振る舞って、サービス精神旺盛で、いくら疲れとってもニコニコしとる。そういう意味では天才だけど、やっとることは支離滅裂で、自分は彫刻家だと言っているけれども、彫刻もたいしたことないし。アートとしては曖昧だよな。存在としては天才だ。最近、秋山はおふくろの本を出したみたいだね(『秋山祐徳太子の母』、2015年、新潮社)。おもしろい?

黒ダ:4冊目くらいじゃないですかね。

岩田:カメラマン(石内都)とコラボレーションしとるわけでしょう?

細谷:今回そうですね。

岩田:秋山と〈ゼロ次元〉のかかわりが、なんとなく中途半端で俺はわからんのだよな。メンバーとして一緒にやろうとしているのか、おもしろいから客員みたいなかたちでやろうとしているのか、そこらへんが秋山はちょっとわからんね。

黒ダ:秋山氏がいると、彼はああいう風貌なので目立ちすぎてしまう感じがします。〈ゼロ次元〉は皆の個性がなくなって同じ動きをするのがおもしろいんですけど。

岩田:そう。サービス精神が過剰なところがあるんだよな。

黒ダ:本当は〈ゼロ次元〉には向かない人ではないかと。

岩田:一体感がなくて、客員みたいな感じがするんだよね。

黒ダ:本人はよかったんでしょうけどね。加藤さんもそれでよかったんでしょうね。『いなばの白うさぎ』のときも秋山さんが主役みたいに言っていたから、加藤さんとしてはよかったんでしょう。かわなかのぶひろも実はパフォーマンスをちょっとやっていたんだけど、かわなかさんも〈万博破壊共闘派〉のサポーターでしたが、どう見ていましたか。

岩田:あれはサポーターというより、カメラマンじゃなかったかな。横でカメラを写していたんじゃない?

黒ダ:実験映像作家ですけど。

岩田:あまり一緒になってやった記憶はないよ。カメラだよな。8ミリに凝って一生懸命、写していたほうだと思うけどね。

黒川:桜井孝身さんの印象は何かありますか。

岩田:あれはおもしろい人だ。大先輩で、あれはすごいよ。大きく言って、あの人は前衛というより、絵が好きだというのが今の印象だ。古くても新しくても絵描きさんだなと思う。絵を描くことが好きなんだよ、あの人は。精神的にヒッピーと同調してアメリカに行っちゃった。それと絵を描くことは矛盾しないからね。絵を描くこととヒッピーを同時にやっていたと思う。絵が好きというのも、見ることよりもむしろ、手を動かして描くことが好きなんだな。

細谷:〈ゼロ次元〉が、岡部道男さん(〈ゼロ次元〉出演の映画『クレージー・ラブ』を監督』)や宮井陸郎さん(〈ゼロ次元〉出演の映画『時代精神の現象学』を監督)など映像作家の映画に出ていくようになる。あと金井勝さんの映画にも出る。岩田さんが主演のように出ますね。金井さんとのお付き合いについて聞かせてください。

岩田:金井との付き合いはあの映画(『無人列島』、1969年)からだよね。それから仲良くなった。名古屋で上映会をやるときもずっと僕の家に逗留しとったし、名古屋が好きでけっこう遊びに来とったしね。あの人も人がいいからね。あまり強烈な個性というよりも、お人好しの柔らかい人だよな。だから最近の映画を見ると、いいお爺さんになっとるよね。すごいよね。あれだけ自画自賛で暮らせると幸せだと思うね。若い奥さんをもらって。

黒ダ:お付き合いがまだあるんですね。

岩田:ときどきビデオを送ってくれる。プライベートビデオ。いや、公開ビデオかもしれんけど、あれは奥さん賛美をやっとるだけじゃない? 「幸せだ、幸せだ」言うて。見たことない? マイホーム賛美だよ。俳句みたいに、朝起きると花が咲いとって、奥さんが朝飯をつくってくれて(笑)。

黒ダ:『無人列島』について聞きたいです。町の中を歩いて、最後に国会議事堂の前に行く。あれも岩田さんがすごく主役なんですけど、まったく台詞はシナリオどおりですか。

岩田:もちろんそうだよ。自分でつくったものじゃないよ。

黒ダ:あのとき、棒を振り回したりする動作が歌舞伎っぽいですけど。

岩田:あまり意識はしなかった。ド素人だしね。別に歌舞伎の型でやろうとは思ってなかった。

細谷:ちょっと弁慶みたいな感じでしたよね。

岩田:そうなったかもしれないよ、なんとなくな。意図してではないよね。無意識だよ。

細谷:金井さんから演技指導はあったんですか。

岩田:ないよ。何もない。

細谷:シナリオはあったんですね。

岩田:もちろん。

黒ダ:これって女性の股の間から〈ゼロ次元〉メンバーと佐藤重臣が出てくるんだけど、この演出もシナリオにあったんですか。

岩田:そう。

黒ダ:最初から〈ゼロ次元〉を想定して書いたシナリオなんですね。

岩田:そうだね。

黒ダ:佐藤重臣が出ていますね。佐藤さんとのお付き合いはこの前からあったんですか。

岩田:うん、なんとなく。そんな深くじゃないけど、なんとなく。それと名古屋の映画学校(詳細不明)で講師をしていたから、ときどき名古屋に来ると僕の家に遊びに来ていた。

細谷:映画作品は、岩田さん自身も『ウォーキングマン』(1969年)があります。映画に対するご関心はどうですか。

岩田:普通だよね。特別はないな。ただ映画を撮りたいという意欲は多少あったね。ぜひ映画館でやってみたいとか強いことはなかったけど、動くことはおもしろい、撮りたいなと思った。だから撮ったけどね。

黒ダ:岩田さんがパフォーマンスの記録としてではなく、作品としてつくった映画はこれが最初ですかね。

岩田:それはパフォーマンスの記録プラス造形だとは思ってる。カメラマンはうまいプロだから、カメラマンの意図も入っとるかもしれん。16ミリで撮ったのはそれが最初で、あとから8ミリで数本撮って、おもしろいのがあるよ。

黒ダ:シアター36の『ウォーキングマン』とかですか。

岩田:違う。『大須パラダイス』(1977〜79年)というのを3作つくったんだ。これは今から見てもおもしろいと思うよ。

細谷:それはいつですか。〈スーパー一座〉の頃?

岩田:その前だね。非常にポップな映画だよ。

細谷:8ミリ?

岩田:うん。大須ギャラリー(大須実験ギャラリーAMP)を僕がつくって(1976年)、狭いギャラリーだけど、その中で撮った。

細谷:その8ミリは今でも残っていますか。

岩田:あるよ。見たければDVDにもしてあると思う。探せば出てくるよ。

細谷:ぜひ拝見したいです!

黒川:長さはどれくらいですか。

岩田:20分から30分くらいかな。あとひとつはもう少し長くて、40分くらいあるかな。シリーズで『大須パラダイス』といって、ひとつは『大須熱帯植物園』といってギャラリーを造花で熱帯植物園にして撮った。

細谷:全部、大須ギャラリーで撮ったんですか。

岩田:そう。

黒ダ:ストーリーがあるものですか。

岩田:簡単なストーリーがある。そんなに複雑じゃない。

細谷:3部作ですか。

岩田:うん。第1作は『大須熱帯植物園』。大須ギャラリーに造花で熱帯植物園をつくって、そこに女性が出てきて、悪い坊主が出てきて女を誘惑して、坊主が堕落して、僕がそれを助けるのかな。単純なストーリーだよ。第2作がおもしろいんだな。題名が思い出せないな。『日本の春 大須の春』だったかな。キッチュな富士山とか桜とか日本的なもので部屋を安っぽく飾って、そこにやっぱり女の人が出てくる。(女が)酔っ払いに誘惑されたのを助けて、なぜか海に飛び込んで、海の中で魚と大格闘するシーンがおもしろいんだ。最後に仏様が出てくる。その仏様のシーンが俺は好きなんだ。

細谷:3本目は?

岩田:『マハラジャの家』といって、インドものだ。『マハラジャの部屋』かもしれない。けっこうおもしろいんだよ。

黒川:昨日、インドに行かれたとおっしゃいましたよね。いつ頃、どれくらいの間、行かれたんですか。

岩田:1回行って、だいたい1ヶ月くらいだな。それが4回くらいあった。

黒川:70年代ですか。

岩田:忘れたけどね。

黒ダ:お一人で?

岩田:加藤と行ったよ。飛行機代を安くしようと思って、団体を集めて安くした。20人くらいで行って、向こうで別れるんだ。4回くらい行ったな。4年くらいな。

黒川:現地で岩田さんはどなたと行動していたんですか。

岩田:一人だよ。

細谷:帰って来るときにまた集合する?

岩田:そう。

黒ダ:前日に話の出た、平凡社の美術全集でインド美術に興味をもって?

岩田:そう。ああいうのっぺりした彫刻に興味があった。ビートルズが盛んに行っていたのは、もうちょっとあとだと思う(ビートルズの渡印は1968年だから岩田よりも前)。加藤も一緒に行ったけど、何をインドに憧れていたのか。あれはカジュラホを見たかったのかもしれない(笑)。

黒ダ:岩田さんはアジャンタ、エローラとか建築とか?

岩田:そうだね。一番見たかったのは、辺鄙なサーンチーというところ。鳥居みたいなやつがあって、そこに女の彫刻がある。

黒ダ:それがカジュラホじゃないですか。

岩田:違う。カジュラホは抱き合った男女がビッシリあって、あれは全然おもしろくない。ともかくそういうことで、僕はそういうインドに憧れていた。インドは(まだ)全然ブームじゃなかったから、なぜ加藤が乗ったのかわからないけどね。

細谷:1回行くと、どれくらいいたんですか。

岩田:1ヶ月くらい。

黒ダ:当時、よくお一人で。

岩田:半分野宿しとったけど、あとで皆にびっくりされた。「インドで野宿 ?!」って。僕は怖いもの知らずだから。

黒ダ:病気になったりしなかったですか。

岩田:しなかったね。その頃は丈夫だったんだな。病気が治っとったんだな。でもその病気の後遺症で、今、身体がいかんね。残るね。若い頃は後遺症も目立たんけど、今になって目立ってきた。(加藤の)インドは、このあいだの講演のビデオ(加藤好弘のアジテーション、「グレイト・クレセント 1960年代のアートとアジテーション―日本、韓国、台湾」関連企画、2015年6月2日、森美術館)を見たら、いかにも(長く)滞在しとったみたいに言っていたけれども、だいたい1ヶ月くらいで、あいつは大名旅行で子分をたくさん連れて行くんだよ。子分を連れて豪華ホテルに泊まって、そこでポカーっとキメとるんだよ(笑)。

細谷:インドでも(笑)。

岩田:そうだ。

黒川:20人くらいというのは、岩田さんはお一人ですけど、加藤さんと周りの人たちでそれくらいの人数なんですね?

岩田:そう。吉村益信も一回、一緒に行ったぞ。あれは懲りたみたいなことを言っとった。ハードだったり食べ物が大変だったりしたんだろう。あとで「楽しかった」みたいなことはあまり言わんかった。

黒ダ:岩田さんはインドでキメていたんですか。

岩田:俺はときどきで、しょっちゅう毎晩ではない。

細谷:『ウォーキングマン』にかかわるかもしれませんが、『黒の手帖』にトリップのこととサラリーマンのことを書いていましたが(「灰色単色族美学 トリップできぬ者のトリップ」、『黒の手帖』、1971年10月)、サラリーマンの勤勉さについて何か考えていたことがあったのかなと思ったんですが。

岩田:あったよ。俺は常識人だから、若い奴は皆サラリーマンの悪口を言うけれども、でも自分の親はサラリーマンじゃないかって思ってね。皆サラリーマンに育ててもらって、サラリーマン自身も一生懸命子どものために嫌なことをやっておって、少なくとも敵ではない。その一方、当時、植木等の元気のいいサラリーマンがあって、サラリーマンというのは我々日常の姿であると同時に、植木等みたいな、従っているけれども反権力みたいなパワーのあるサラリーマンもある。その両方があって、サラリーマンは日常であるというところが発想の原点だね。僕は嫌わないよ。皆「背広は嫌だ」と言って嫌っとったけどもね。日常を否定しては何もできない。生活は日常のうえに成り立っていると思うから。

黒ダ:当時のサラリーマンは皆、こんなふうに帽子をかぶっていたんですかね?

岩田:かぶってた。昔の映画を見ると皆かぶってるでしょう。

細谷:岩田さんはこれを造形でもやられていますね。

岩田:サラリーマンはおとなしいけど、たまには喧嘩するよっていうね。

黒ダ:(絵の写真を見せて)これは喧嘩しているんですか。

岩田:そう。ファイティング・サラリーマン。

黒ダ:70年頃ですね。

細谷:岩田さんのなかでは、日常や現実がサラリーマンというものだった。

岩田:そうだね。

黒川:色については何かあります?

岩田:2種類あってね。若い頃は原色が好きだったけど、昨日ジャズの話でも言ったように、あまり汗水垂らす色よりも、スマートなのに憧れたときもあったんだな。こういう淡い色は今まで使わなかった色でね。

黒ダ:ちょっと蛍光色みたいな感じですね。淡くて明るい。

岩田:そういうモダニズムみたいなものは多少影響があるね。

黒ダ:たしかにいわゆる原色ではないですね。こういう恰好で走ったり。

岩田:これは別なんだな。これは金坂が撮った。これはいい写真だと俺は思う。カラーでね。

黒ダ:これは平田かな。

岩田:別なんだな。はめ込んだんだね。(黒ダが見せているパワーポイントの)僕の絵の一番最初(のページ)にしてみて。黄色い絵。若い頃は原色主義なんだよ。

細谷:最初の丸のやつ?

岩田:丸の前。とにかく赤と黄色が好きだったな。

黒ダ:すごくミニマルですよね。

岩田:何と言われるか知らんけど、丸も単純だけどタッチも単純で、好きな色の赤だけでいいんじゃないかって。その色がだんだんスマートになってくるんだよ。

黒ダ:これは淡くなってますね。こっちになるとポップアートっぽいですね。

岩田:淡い色は卒業したな。今はもう全然興味がないね。一般的に今、いろんなマンションとか、淡くスマートに白で塗るとか、強い色を使わないじゃない? 俺も当時はそういう感覚だったな。今はそれが嫌になったんだ。

黒ダ:このへんとかも淡いですね。

岩田:それはモダニズムなんだよな。今から見ると違和感がある。ソーダ水みたいなのが気持ちいいと思ったこともある。これは美術館でやったのではないね?

黒ダ:犬山の岩田洗心館です。すごい昔。90年代(岩田信市的世界 ゼロ次元からロック歌舞伎へ、1995年4月1日〜23日)。

岩田:この男がおもしろいんだ。

黒ダ:銀行強盗で?

岩田:ああ。銀行強盗で、こっちに女の子がおるんだよ。でもおもしろいのが、銀行強盗に入って、女を裸にして、中でやりたい放題やってたんだよ。(1979年1月26日に大阪の三菱銀行北畠支店に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質に立てこもり、銀行員2人、警官2人が死亡、犯人も射殺された事件。立てこもり中に女性行員を裸にするなど、犯人は猟奇的な行為を行なった)

黒ダ:そうでしたっけ? これはよく報道された写真ですよね。

岩田:本来の作品はこっちに裸にされた女がおって、こっちに警察がおって、3枚続きなんだけどね。

黒ダ:これ以外に、そういう写真があったんですか。

岩田:いや、僕の絵でね。3部作というか、3枚続きなんだよ。

黒ダ:あと2枚は残っていますか。

岩田:あるけども、発表してない(笑)。

黒ダ:女性を人質にしていたというのは、実際にニュース報道があったんですか。それとも岩田さんの想像ですか。

岩田:もちろん想像だ。テレビでそんなかわいそうな女の子を映さないよ。

黒ダ:そういうことをしていたんじゃないかと?

岩田:想像じゃない。本当の事件。おもしろいじゃない? よくやりたいことをやったと思って。僕の発想は反権力じゃないけど、単純におもしろいと思うわけよ。皆、口では悪いって言うけど、憧れるじゃない?

黒ダ:そんなおもしろい作品があったのに。名古屋市美(岩田信市 美術之楽園/ポップ アート パラダイス、2008年1月12日〜3月23日)にはもっとたくさん出してほしかったですね。

岩田:僕はとにかくおもしろければいいじゃないかってさ。そんなにモラリストじゃないよ。モラリストみたいな顔をしとるけど。真面目なんだけどね。真面目なんだけど、人間ってそういう不真面目な一面もあるじゃない? アートは不真面目な一面を出さないとおもしろくない。真面目な一面を出しとってもしょうがないよね。

黒川:さっきのあさいさんのお葬式とか、「こういうときはキチッとするべき」というところはキチンとする。

岩田:だからサラリーマンだって、あれは真面目な一面だけど、造形によって……。あれはアンチヒッピー、アンチ若者だよ。当時、若者は皆、背広を嫌ったんだよ。そのなかで僕は背広を擁護したわけ。そういう意味で、僕はあっち行ったりこっち行ったり、いつもアンチのほうに立つんで、必ずしも右とか左とかじゃない。結局、ものを両面から見たいわけ。一面から見ると一面しか見えない。ものには両面がある。世の中がこっちから見るならば、「こっちの一面もありますよ」ということを言いたい。

細谷:先ほどシアター36の話が出ていましたけど、36ができたとき(1968年3月、名古屋市西区浄心)、岩田さんはどういうふうにかかわりましたか。

岩田:あの小屋ができたとき、僕はまだ演劇をやっていないから。(丹羽政孝と)友達ではあったけれども、小屋としてはかかわってない。借りてやっただけだけどね。ただ、芝居の連中との付き合いは、最初はある劇団(行動座)が喫茶店(喫茶ぶたい)で芝居をやって、その背景を描いてくれと頼まれた。もともと友達だからね。その背景を喫茶店に描いたのをきっかけに、深く付き合うようになったね。

細谷:そのあとシアター36に出入りするようになる?

岩田:そうそう。今話した喫茶店は36とは関係ないんだけどね。36に出入りするようになって、若い奴らの拠点みたいになった。大須にある七ツ寺共同体(スタジオ)が今は拠点だけど、その頃はまだなかったな。(36は)息子が親を口説いて、自分の家を小屋にしたから小さなものだけど。民家の1階だけをぶち抜いたもので、この部屋くらい狭いものだけどね。そこで映画をやったり芝居をやったり。

黒ダ:パフォーマンスをやることも?

岩田:パフォーマンスはあまりなかったんじゃないかな。

細谷:「これが8ジェネレーションだ」のとき(1969年2月)は、かわなかさんがマルチプロジェクションを8台でやって、ヨシダミノルさんとか、風倉匠さんも?

岩田:本人は来なかった。自分の代わりに風船を(送って使わせた)ね。あと水上さんが来た。

細谷:風倉さんの印象はありますか。

岩田:哲人だよな。哲学的ムードを出すよな。哲学者だよね。あまりしゃべらんし。

黒ダ:(記事[「世界一小さい劇場 名古屋にある「19(ジューク)ボックス」、『週刊アサヒ芸能』、1968年2月4日]の写真を見せて)これが36では?

岩田:違うと思うな。よく見せて。どうも違うような気がする。

細谷:「アングラ劇場」と書いてある。

黒ダ:「名古屋で初めてのアングラ劇場」。

岩田:そしたら、これは今池の地下のストリップ劇場(今池アングラ劇場、別称は19ボックス)だな、たぶん。36はこんなに席がない。これはストリップ劇場だ。

細谷:今池のストリップ劇場でアングラをやったんですか。

岩田:そう。(19ボックスのほか)さっきブランコをやってたのが36だよ。これはストリップ劇場だ。席が5人か10人くらいしかない(笑)(実際は席が19席ということで19ボックス)。36は民家を小屋にしたんだからね。少なくともこの半分くらいかな。民家だから、間口がそんなに広くない。

細谷:そのあとの、いわゆる劇場というか空間について。ちょっと年代が下りますけど、77年に大須実験ギャラリー。これは岩田さんもかなり設立にかかわっていますか。

岩田:僕が言い出してつくったんだけどね。(大須の)地元に画廊をつくろうと言ってね。自分らだけではそんなに維持できるものじゃないから、3つのグループで維持したんだよね。ひとつは僕ら(アーティスト・ユニオン大須派)、もうひとつは今でもやってる8ミリ映画のグループで〈狼少年牙王社〉というグループ、もうひとつは名前は忘れたけど写真のグループ(写真集団モグ)。3つで10日間ずつ。しょっちゅう何か見れるように、10日単位で3つをグルグル回して美術を大須にもって来ようというのが意図だった。長続きせずに、途中でやめたんだけどもね。僕の映画(大須パラダイス)はそこでやった。造花をぶら下げたのも一種の美術としての展示だけれども、それを利用して映画をつくったんだ。

細谷:36のオーナーは丹羽政孝さんですか。

岩田:そうそう。

黒ダ:この丹羽さんというのはどんな人だったんですか。

岩田:おもしろい奴でね。修行は東京だったのかもしれないけど、名古屋でわりと前衛的な奴でおもしろかった。たとえばテレビの生中継の司会を頼まれたとき、街頭(栄公園)で大演説を生中継でやり始めて大騒動を起こしたり(1969年8月、東海テレビ「ナイトショー」)、けっこうラディカルな男でね。東京でちょうど新宿の反戦闘争(1968年10月21日の新宿騒乱かどうかは不明)があったんだ。なぜかあいつは新宿に下宿しとった。僕は政治的信条はないけど、野次馬で加わった。それで警察に追われて、なぜか丹羽の新宿の部屋にかくまわれた覚えがある。どこで会ってどうかくまわれたのか忘れたけど。

黒ダ:もともと東京で何の修行をしたんですか。

岩田:俳優座養成学校とか、僕が修行というのはそういう意味。

黒ダ:演劇ですね?

岩田:それも本当か、よくわからん。名古屋で修行したのかもしれん。その仲間(今井良實)が東京のちょっとラディカルなところ(舞台芸術学院)で修行しとった。それで二人でつくったんだけれども、その仲間のほうは名古屋のアカデミックな劇団(名古屋青年劇団)におって、その劇団の代表選手として東京に送り出されて、名古屋に戻って来たらガラッと変わって前衛的になっちゃったという話だ。(1967年8月に結成された〈名古屋地下劇場〉の)今井良實という奴。それが一応、名古屋の前衛演劇の先駆者みたいな奴。七ツ寺共同スタジオが出した歴史の本(『空間の祝祭 七ツ寺共同スタジオとその時代史』、1999年、七ツ寺演劇情報センター)に詳しく書いてある。そいつが東京に行ったとき、今でも活躍している前衛的な劇団の、瓜生良介がいた研究所に入る。

細谷:〈発見の会〉ですね。

岩田:劇団までは入らないが、そこの研究所で今の新しい風潮を身につけて帰って来て、自分を送り出してくれた古いところを裏切って、丹羽と二人でやったんだ。そういう関係で僕に絵を頼んできた。それから付き合うようになった。それから不思議と岸本(清子)が彼(今井)をスカウトしてきて、弟子みたいにしていた。岸本はけっこう男をこき使うからね。岸本との付き合いまでいって、こき使われていたけどね。

黒ダ:36はどのくらい続いたんでしょうか。

岩田:どのくらい続いたんだろうな(1973年まで)。(前出の1969年2月のシアター36でのイベントのために)かわなかの映写機の回る台をつくるのに苦労してね。毎日つくりに通っていた。俺がつくっとったんだ。加藤はそういうのを馬鹿にして、「お前、そう馬車馬みたいに働かないで、若い奴らにつくらせろ」って言っとったよ。途中で見に来て言ったのかな。ちょっと記憶にないけど、そんなようなことを言ってた。つくって回してみたら計算違いがあってね。映写機にコードがあるんだよ。そうするとコードが絡んじゃって回らん(笑)。それで慌てて、どうやって解決したのかな。解決したんだけどね。

黒ダ:プロジェクター、しかもフィルムのプロジェクターだから絶対に電源が要りますね。

岩田:最終的に解決したよ。公演の2日前くらいに慌てたよ。

細谷:ヨシダミノルさんも来ていますね。

岩田:来たね。

細谷:ヨシダミノルさんとは親しかったんですか。

岩田:わりとね。そんなに親しくないけど、なんとなくね。どうして付き合ったんだろうね。狂気見本市に来たのかな。来なかったのかな。わけがわからん。(1968年3月13日の本牧亭での狂気見本市にも、同年11月30日のイイノホールでの狂気見本市大会にもヨシダは出演していない)

黒ダ:ヨシダミノルは36以降じゃないですかね。

岩田:いや、前から付き合ってた。それで36にも来てたんだよ。

黒ダ:(1969年3月29日〜30日に「万博反狂気見本市」が行なわれた)男爵では会っていると思います。だいたい彼は京都だから。

岩田:男爵に来てたかな。

黒ダ:たしか写真があります。

岩田:よく遊びに行ってたけどね。九条山のてっぺんにお城のような豪邸があってね。あとになって荒れ果てて、ひどいものになったな。現在は知らんけれども、当時は山のてっぺんでお城だったな。

黒ダ:広いお家で。

岩田:コンクリートで、山のてっぺんに立派なアトリエをつくって、お城だった。高級車を乗り回してな。車が好きなんだよね。

黒ダ:車の作品もありましたね。

黒川:あそこは車がなかったら大変ですよね。

岩田:山の上だからね。若ければ歩けるけれども。その頃のヨシダミノルは威張っとったけれども、アメリカに行ってから変わったみたいだな。やっぱりマリファナで変わったんだよ。日本に戻って来てからも、親子一家でやっとったんだよな、マリファナ・ハプニングを。

黒ダ:それで逮捕されましたよね。

岩田:そうそう。一家全部が捕まったのか。そしたらおもしろいな。子ども連れで(笑)。子どもまでやらせるというのは変わったもんだぞ。日本にいるときはけっこう威張っとったんだよ。アメリカから帰ったら、本当に人が柔らかくなってね。だからマリファナというのは効果があるんだよ。よくやるよな。人前で堂々とやるんだもん。しかも子どもを連れてね。

細谷:大須実験ギャラリーは80年代までですか。

岩田:年代はわからん。そういうことでちょっとやったけれども潰れて、その頃、芝居を始めたんだな。空いたところを僕ら劇団で借りて、稽古場にしていたからね。だから芝居がその頃始まったんだ。

細谷:大須実験ギャラリーのあとくらいですか。

岩田:そうそう。部屋は同じだけれどもね。

黒川:お芝居を始めるきっかけがあったんですか。

岩田:あった、いろいろと。これから話すよ。

細谷:その前にゴミ裁判のことを。

岩田:これが大きいよね。

細谷:岩田さんのほうから経緯を聞かせてください。

岩田:話は簡単で、県の美術館(愛知県文化会館美術館)に、名前は忘れたけど、ナントカというグループ(N・A・G=ニュー・アート・グループ)が(1970年7月28日〜30日開催の展覧会に)作品としてゴミを出した。それが撤去されたわけだ。「こんなのはゴミだ。美術じゃない」というわけでね。彼らは怒って皆に「こんなことがあっていいのか」と訴えた。僕のところにも電話がかかってきた。抗議集会をやると言うので、僕は当時、名古屋の近くの海におったんだけども、なぜあんなところの電話がわかったのか不思議だけども、電話がかかってきてね。急遽、朝にオートバイで知多半島の先の野間というところから、美術館に駆けつけたんだよ。劇的に駆けつけたからよく覚えとる。「これは一大事!」ってな。抗議集会をやって、皆ああだこうだ言う。向こうと話し合おうということになったけれども、向こうは話し合ってくれんのだ。どうしても拒否して、「ダメ、ダメ」と。館長を出せと言っても出てこんし、課長を出せと言っても出てこんし、話し相手がおらんわけ。だから途方に暮れた。話をするにはどうしたらいいかと考えて、じゃあ裁判で話しましょうということになって、こちらから訴えたの。皆は訴えられたと思っとるけれども違うんだよ。話をしてくれんから、裁判所で話をしましょうと訴えた。ちょうどそのとき、友達に弁護士になりたてがおったので、気楽に弁護を頼んで、裁判になった。当時、世の中でも普通のゴミ処理が問題になっとったから、それに引っかけてゴミ裁判として話題になったわけ。僕らは単なる書類だけで裁判をやっとってもおもしろくないから、それを一種の表現というか遊びの場にしましょうと、けっこうやりたいことをやった。裁判所でもパフォーマンスみたいなことをやってみたり。ゴミに関することは何でも取り入れて、裁判と関係ないことでも取り入れた。当時のゴミ問題と引っかけて何でもやった。たとえばゴミ巡礼といって、ゴミがある場所を巡礼してね。終着駅が東京の夢の島だ。寒い冬にオートバイでよくあんなところに行ったと思うよ。夢の島でテントを張ってね。特に意味はないよ。ただゴミという縁だけでね。それから(1972年1月3日に)新宿でゴミをホイホイと手渡した。それは加藤も一緒にやった。これは加藤が『いなばの白うさぎ』のなかに入れちゃっとるだろう?

黒ダ:はい、『バラモン』のほうに。

岩田:『バラモン』は『いなばの白うさぎ』と別?

黒ダ:厳密に言うと、別だと思うんですけど。

岩田:阿佐ヶ谷かどこかのゴミ処理場反対の棟の上に登ったり、ゴミのあるところでパフォーマンスをやってきた。そういう表現が、僕にとっては〈ゼロ次元〉でやっとったことと同じなわけ。だから自分のなかでは〈ゼロ次元〉は消えずに残っとるんだけど、ただメンバーがまるで違うから。あと加藤との協調もあまりなくて僕の主導だから、一応〈ゼロ次元〉という名前はやめて、〈ゴミ姦団〉をつくって、いろんなパフォーマンスをやった。でも自分では、それは〈ゼロ次元〉だと思っとるわけ。続いてるわけ。それをやってるうちに芝居になった。パフォーマンスはこの時点で芝居に移った。

細谷:〈ゴミ姦団〉のメンバーは名古屋の人たち?

岩田:そうそう。たまに東京へ出ると加藤や小山、末永も来ていた。東京の連中も来るわけ。そういう意味で縁が切れたわけじゃなくて、自分のなかでは〈ゼロ次元〉が続いとると思っとる。

黒川:〈ゴミ姦団〉の命名は岩田さんですか。

岩田:そうだと思うけどね。これも誰が命名したかまで覚えてないけどね。

細谷:他にも名前がけっこうあったんですよね。

岩田:〈KICK〉とか〈頭脳戦線〉とか。当時、頭脳戦線は流行語だよな。全共闘か何かが言ってたんじゃないかな。少なくとも100%の創作じゃなくて、流行語からだ。3つくらい名前を使っていた。なぜそのたびに名前を変えていたのか、記憶にないけどね。要するに名前にこだわりがないんだよね。それで売り込んでいくということがないから。

黒ダ:名前によってやることが違うわけではない?

岩田:ない。もちろん違うけど、内容に合わせて名前を変えたということはない。

黒川:先ほど裁判の話で、紙だけのやり取りだとおもしろくないのでパフォーマンスをやったというお話がありました。

岩田:あんなのはしんどいことで、読んでも意味のわからん法律文書が書いてあるだけだから。

黒川:そこでパフォーマンスの場にしてやろうと思ったときに、千円札裁判をどこかで意識したところは特になかったですか。

岩田:千円札は、僕はあまり同感できなかったんだよな。なぜか記憶にないけど。僕らは裁判で遊ぼうと言っていたけど、法廷の中では真面目だったの。そういう意味ではサラリーマン的に真面目なの。

黒川:あぁ、法廷の中じゃなくて、外でやっていたんですね。

岩田:そう。外。庭とか行き帰りとかね。

細谷:結局、県美側とは話ができたんですか。

岩田:嫌でも向こうも出てくるからね。ゴチャゴチャやりとりをして、結局負けたんだけどね。これだけ話をしたら、勝っても負けてもどっちでもいいやと満足したね。何が何でも勝ちたかったわけじゃない。ただ話がしたかっただけで、話が通じなかったという結論で終わって、その間にいろんなことで楽しめたからいいやというものだな。その裁判の顧問みたいな恰好で針生一郎に頼んだ。彼は芸術論だからね。途中で裁判のなかに芸術論が入り出したわけだ。「こういうのも美術である。ああいうのも美術である」というふうに。それがひとつのテクニックだと言うから、弁護士や何かにお任せだったんだよな。本当は好きじゃないんだ。芸術論を入れたくなかったんだよ。本当は、僕のなかではな。でもあとで記録を見ると、芸術論がけっこう入っとるんだよな。

黒川:千円札裁判に対して、芸術論があるから好きじゃなかったんでしょうか。

岩田:そう。負けて、赤瀬川はまた控訴したでしょう。負けたら負けたで、それでいいじゃないか。しつこくアーティストを動員して「芸術、芸術、芸術」。そう芸術と言うなっていう意味で、なんとなく好きじゃなかったよ。

黒川:ゴミ裁判の場合は、あくまで話し合いの場がもてればいいということだったから、控訴はなくて、そこで終わり?

岩田:もう負けたから。「充分、わからず屋と話しました」と(笑)。

細谷:愛知県とのにらみ合いはこの裁判から始まったんですか。

岩田:ずっと続いとるね。そればっかりでもないけどね。裁判の恨みはなくても他のことで、県のやり方はずいぶんみみっちいからね。

細谷:そういうなかで73年に名古屋市長選に出ますね。そのときのことを聞かせてください。レインボー党とかですね。

岩田:これは世界的流れで、アメリカのヒッピーがものすごく盛り上がって、「花のサンフランシスコ」(1967年)なんて歌を歌って、世の中ピースと言っていた。あの頃はベトナム戦争は終わっていたかな、最中かな。しかしサンフランシスコあたりで、いかにも平和ムードが出てきた。

細谷:フラワーとかヒッピーとかですね。

岩田:銃口に花を差して平和ムードでね。しかも具体的に、若い奴がアメリカのあちこちで市長になってるわけだよ。俺たちの時代が来たと思ったんだよね。俺たちの時代は俺たちでつくろうと。名古屋市くらいなら簡単にできるだろう、俺たちのなかからアメリカのように市長を出そうということを皆で決めた。じゃあ、誰が市長候補かとなって、三人出したんだよ。僕岩田と、名古屋の〈ゼロ次元〉で一緒にやっていた矢矧(雅英)と、桜井孝身。桜井はコミューンの大先輩。矢矧は若い奴の世代。僕は一応の常識人として(笑)。アメリカの大統領選挙を真似して、三人のうち誰がいいかを投票した。それは東京でやったんだよな(1973年3月17日、麻布公会堂か。10日には名古屋で指名大会が行なわれている)。けっこう東京のメンバーが賛同してくれたの。

細谷:指名大会ですね。羽永光利さんが写真を残しています。

岩田:あれ、秋山じゃない?

黒ダ:秋山の恰好ですけど、秋山ですかね? 違う人に見えるんですけど。

岩田:秋山は候補には入ってない。桜井孝身かな。

細谷:桜井さんは別に写っています。

黒ダ:これは加藤ですよね。

細谷:加藤さんの応援演説。

黒川:秋山さんにしか見えない。

岩田:帽子と髭が。

細谷:タドンのマーク(秋山のつけた黒丸三つのタスキ。「グリコ」「ダリコ」のあとに使われた)と。

黒ダ:これは羽永さんが撮った写真のなかから選んでいるんだけど、このなかでもう一人の矢矧さんらしい人がわからなかったんです。ここに桜井、岩田と書いてあって。この字が……。

岩田:矢矧とは読めないな。何だろう。その字の上は見える?

黒ダ:見えるのがなかったんです。

岩田:待てよ。矢矧じゃなかったのかな。若者代表がおったんだけど。てっきり俺は矢矧だと思っていた。東京の誰かかな。

黒川:カタカナですね。

岩田:応援のなかには、東京のグループであまり芸術と関係ない、ヒッピーのフラワーチルドレンみたいなグループがたくさんあったんだよな。名前は忘れたけど、そのなかの一人かもしれないな。記憶ってわからんね。三人出たことは確かだ。

黒川:岩田さんは自分の意志で立ったんですか。

岩田:自分の意志ではないな。なんとなく皆で決まって、僕は「ああ、そうかい」という程度だな。

黒川:この三人のなかで岩田さんが選ばれた?

岩田:結果的にはな。クラシマっている?

細谷:グラツ?

岩田:聞いたことがないな。

黒ダ:全体が読めるのがないんです。(羽永写真で「グラツヤス」または「グラシヤス」と読める)

岩田:わからないけど、そういう男がおったんだよ(笑)。グラツマか。若手代表、中年代表、大先輩。

黒川:投票を三人でやったんですか。

岩田:そう。公会堂を借りてな。

黒ダ:このへんは矢矧とかじゃないですか。

岩田:これは加藤の(妻の)弟だよ。弟がいつもどこでも行くんだよ。仲良かったんだよ。

黒ダ:じゃあ、もう一人の候補者は(羽永写真では)わからないです。

岩田:写真もないし、名前も不明だし。いろんなグループが美術とか政治以外にあって、若者のコミューンみたいな、そのなかのひとつかもしれない。

黒ダ:市長選でそれなりに話題にもなっただろうから、調べたら記事にありそうですけどね。

黒川:でもこれは市長選の前の……。

黒ダ:そうか、予備選か。

細谷:この三人で市長予備選を競うわけですか。

黒川:場所はどこですか。

黒ダ:羽永さんが撮ったということは東京ですかね?

岩田:そうだよ、東京のどこかの公会堂だ。どこかの区の公会堂だ(舞台に港区のマークがあり。だから投票メンバーはけっこう東京の奴が多かったということなんだよな。

黒川:市長選の前年と考えていいんでしょうか。

岩田:そんなに前じゃない。直前だと思う。半年か3ヶ月前だと思う。少なくとも半年以内だと思うよ(投票が1973年4月22日なので港区での指名大会が3月17日なら約1か月前)。

黒ダ:この候補者選びは、どういう投票で行なわれたんですか。

岩田:具体的には忘れたけど、普通に一票を紙に書いて入れたんじゃないか。たぶんね。

黒川:これは要するに、名古屋市長選に誰を立てるかという、内輪の代表選挙?

岩田:名古屋だけの問題じゃなくて、全国のヒッピーの問題として捉えたわけだよ。もし桜井孝身が当選していれば、孝身が名古屋市長になれば、という。全国的な運動で、応援も全国から来てくれて、名古屋だけの問題じゃなかった。たまたまその時期に名古屋市長選があって、アメリカの選挙運動があって、では我々も、と言い出した時期だった。

細谷:岩田さんはヒッピーをどう思っていましたか。

岩田:いいと思ったよ(笑)。

細谷:さっき出てきたサラリーマンの話、ああいった違和感はありつつ、ヒッピーはヒッピーで?

岩田:もちろん同感できるよ。

黒川:これは本気で勝とうと思ったんですか。

岩田:そうだよ。秋山(の東京都知事選挙)みたいなパロディじゃない。まったく本気。とにかくアメリカの先例、若者でも通るという先例があるもんでね。本気でやった。

細谷:レインボー党はどこから出てきたんですか。

岩田:皆、政治はアンチで、内閣打倒とかアンチだけど、そうじゃなくて「皆いらっしゃい。ハッピーハッピー」と。これもヒッピーの考えだよね。ハッピーで、何でも受け入れる。七色はすべての色を受け入れる。赤でもない、黒でもない。それでレインボー党とつけたわけ。

細谷:公約のひとつに「名古屋城を無料宿泊所に」とありましたね。

岩田:そうだよ。あんなもの、コンクリートで再現して退屈な展示場にしてしまって。あそこに皆を泊めたらコミューンができるんじゃないかと思ってね。そしたらもっと気楽に、全国をワンダーフォーゲルで渡り歩くこともできるんじゃないか。要するに、今の展示じゃ死物だということだよな。

細谷:もっと皆の共有物にしないといけない。

黒ダ:「人口が集中している都市において全く自由(お金も必要としないし、素っ裸になっても遊べるよう)な空間が必要である。生きる喜びを確認しあう場所にしよう」。

岩田:細かいことだけど、税金とか就職率とか言わないよ。わからないもん(笑)。

細谷:でもけっこう具体的に公約を出していますよね。

岩田:大きく言うと、自由の主張ということだけどもね。

細谷:市長選ということで、どこかに事務所を構えたんですか。

岩田:それがおもしろいんだよ。テレビ塔下のド真ん中にテントを張って事務所にした。これは迷惑だけど、やっぱり選挙となると権利があってね。どかせられないわけ。それが事務所。

黒川:それは申請して許可を取って?

岩田:そうだろうね。もちろん法的なことはちゃんとやったよ。実際は小さなテントだから、そこには2〜3人しか寝られない。大勢は外れたところに会社の寮が空いていて、そこに皆泊まっていた。そこがまたけっこうおもしろかった。その工場の寮の持ち主が誰かと言うと、〈ゼロ次元〉でいつも出てくる斎藤。

黒ダ:斎藤滅亡?

岩田:そう。滅亡の家なんだ。あそこが鉄工場をやっとるからね。斎藤の親父がやっとるから、親父に頼んで借してもらって、大きな寮で皆合宿して、夜はミーティングをやったり勉強をしたり。桜井大先輩からアメリカ流コミューンのやり方を教わってやっていた。それはおもしろかったね。夜は泊まり込んで、昼は宣伝に行くしね。街宣をやって。おもしろかった。だけど負けた。

細谷:これまでの流れを聞いていると、岩田さんは皆で一緒になったり、夜、皆で過ごしたりするのがお好きですよね。

岩田:まぁ、好きだよ。嫌いじゃないよ。ただ名古屋はそういうチャンスが少ないから、そういう機会を大事にしたい。その選挙期間中はおもしろかった。自炊してね。孝身が安上がりの料理を教えてくれてね。孝身はあのときはえらい大先輩だったな。

黒川:選挙期間中、桜井さんは名古屋に来ていたんですか。

岩田:来てた。街の宣伝にはあまり出なかったかな。コミューンの主だった気がする。

細谷:街頭演説はどうでしたか。

岩田:僕がやったよ。応援も皆やったよ。街頭演説ね、僕らは車じゃなくてリヤカーなんだよ(笑)。オートバイがリヤカーを引っ張ってね。その写真はないか。

黒ダ:このデザインは誰がしたんですか。ポスターみたいなの。当時のアートっぽい感じで。

細谷:「君が市長だ」ってありますね。

岩田:僕が描いたのかな。違うかもしれん。あまり具体的に誰が書いたか覚えてない。忘れた。

黒ダ:あぁ、これは市長候補募集のやつだ。まだ市長選じゃない。

岩田:一応、募集したんだよ。

黒ダ:この本(岩田信市『現代美術終焉の予兆 1970・80年代の名古屋美術界』、1995年、スーパー企画)のなかにわざわざ出てくるんですけど、黒旗はいけないという話がある。

岩田:うん、あとで喧嘩になったんだよな。

黒ダ:支援者や周りの人で黒旗をやりたがる人がいたということですか。

岩田:東京の奴だよ。黒旗のヒッピーの大きいグループがあるだろう。今は消えとるけれども。

細谷:アナキストの?

岩田:理論的なアナキストじゃないけども、若い奴でアナーキーなのがいた(「蘇生」の大友映男)。

細谷:そのグループは遠慮してもらったんですか。

岩田:そう。せっかくレインボーで明るくやっているときに黒いのが来たら、虹が消えるじゃないかと言ってね。

黒ダ:でも興味をもって、わざわざ遠くから来ていたんですね。

岩田:うん。でもさ、彼らは非常に破壊的なことをやるわけだ。黒旗を振り回してね。

黒ダ:誰だろう。

細谷:コミューンですか。

岩田:どこまで固まっていたか知らんけど、大きいグループだよ。

細谷:政治グループですか。

岩田:それほど政治理論はない。ただ若者がアナーキーに破壊活動をしていた。ちょうど僕らが、法律に則って虹色でつくろうというときだったからね。それをアナキストに火を燃やされたら困るということで、ちょっと言い合いになったんだ。選挙が終わってからも、手紙で論争してたよ。知らん間に消えたけどもね。

黒ダ:しぶとくかかわろうとしたんですね。

岩田:うん、彼らはね。そして僕らもそれに答えて論戦した。

細谷:おおえさんや金坂さんも応援に来たりしましたか。

岩田:金坂は裁判のときはけっこう応援に来てくれた。選挙の期間は1週間くらいで、そう長くないからね。来たのかな。応援という意味で来ていたというより、金坂は写真を撮りに来たくらいだろうな。

細谷:おおえまさのりさんは?

岩田:どうだろうな。ちょっと記憶にないね。おおえはその頃、日本に戻って来ていたかな(1969年帰国)。戻って信州(山梨[甲州])にいた?

細谷:戻って来ていると思います。

岩田:じゃあ来なかったわ。信州で宗教みたいになっちゃったからね。あの頃はもう信州だったか。日本に戻ってすぐ信州に行ったか?

細谷:ちょっとそこまではわからないです。

岩田:あ、金坂のところに同居していたんだ。

細谷:70年代に入って、60年代に一緒にやっていた人と世代が変わりますよね。若者になります。末永(蒼生)さんとか、ちょっと下の世代になる。下の世代とのかかわりは違和感がなかったですか。

岩田:万博以来はあまり付き合わなくなったからね。違和感という以上に付き合いがなくなって、皆仕事もバラバラになった。末永も色彩判断に熱中するし、小山(哲男)は売り絵を描き出すし、付き合いが疎遠になったね。逆に僕は名古屋メンバーでがっちりやれるようになったんだよな。

細谷:〈スーパー一座〉もできて、新しい付き合いが増えてきた。

岩田:そう。名古屋のほうがやりやすくなったんだよな。加藤と一緒に東京で相談して遠隔地でやるよりも、名古屋でがっちりやりやすくなった。東京もそういうふうにちょっとバラバラになって、分裂しちゃったよな。かわなかは加藤とものすごい喧嘩をしとるし、加藤もあまり〈ゼロ次元〉と言わなくなった。わからんけども、70年万博以降言わなくなった。しばらく鳴りを潜めていただろう。ときどき思い立ったように『いなばの白うさぎ』を撮った。長年かけてね。それまで加藤のはかわなかが撮っとったけど、かわなかは加藤と喧嘩したから手を引いたな。

黒川:市長選のとき、加藤さんは東京から来たんですか。

岩田:もちろん、もちろん。

黒川:市長選についてひとつ確認しておきたいんですけど、落選したあともう一回トライしてみようと思ったことはないですか。

岩田:もうそれはない、ない。若者の力はこれだけだと限界が見えた。あのときギリギリまで獲れたら次もやったかもしれないけど、桁違いで問題にもされないから。それをきっかけに、名古屋のメンバーは少なかったけどけっこう集まって、名古屋だけでやれるようになった。そのうちに芝居になったから、自分のなかでは、俗にいうパフォーマンスは芝居と合体したつもりで、今までの裸のパフォーマンスはやらなくなったな。

黒ダ:市長選でできた名古屋のなかの人的ネットワークが、そのあとにも役に立ったという感じですか。

岩田:そうだね。

細谷:ヒッピーの限界みたいなところが、市長選で見えてきたところがありましたか。

岩田:アメリカじゃすごいのに日本じゃこんなものかな、と見えたところはあるけど、それによってガックリくるようなものじゃない。こんなもんかなって、軽かったね。期待しとったけど、それほど期待していないということじゃないかな。もちろん遊びではないよ。期待はしとったよ。日本でもやっと我々の時代が来たとね。俺なんて40歳か50歳になっても「我々若者は」としゃべっとって、ハッと気がついてね、恥ずかしくなった(笑)。けっこうな歳まで「我々若者は」と言っていた。若者のパワーというのには、案外期待しておったね。さすがに今は「我々爺さんは」だけどね。

細谷:大須実験ギャラリーもありつつ、いよいよ〈スーパー一座〉になります。

岩田:(前出の『大須パラダイス』のような)8ミリ映画もかなり芝居っぽかったね。芝居はものすごく単純なことだったけど、それがだんだん複雑になった。もちろん芝居を始めることと関連あるけども、この町は前はものすごく寂れとったから、町おこしをしようと言ってね。大須大道町人祭を始めたわけだ(第1回は1978年10月14日〜15日)。それを具体的に言い出したのは見世物を牛耳っとるやくざの香具師の人だけども、僕らはそれに協力した。その人(高橋寿々夫)は、滅びつつある大道芸を今復活させたいという意図があった。蝦蟇の油とか露天の飴売りとかね。僕らが協力することによって、もうちょっと自由なアート的な雰囲気をつくろうということで、当時の変なパフォーマンスをいっぱい呼んできたわけだ。大きいやつで言えば、土方(巽)の一派の〈アリアドーネ(の会)〉とかを呼んできて、単なる露天商だけじゃなくて、芸能みたいになってね。寺山修司もそこにやりに来た。大須の観音様の前に櫓を組んで、寺山もやった。わりとそういうふうに、単なる露天商の賑わいじゃなくて、アートフェスティバル的な賑わいになった。我々もそこで、ものすごく簡単なお芝居らしきものをやったんだよね。それが出発だろうな。そこでどんな芝居をやったかというと、少し話が飛ぶけど、我々は子どもの頃から歌舞伎を見ているわけだ。歌舞伎というのはけっこうシュールな表現があって、西洋でシュルレアリスムというのは歌舞伎のなかにけっこうあるじゃないかということも、僕は頭のなかで知っている。たとえば『忠臣蔵』の五段目の場面で、街道で人殺しをするんだけど、後ろの黒幕から刀がぬっと出て人を殺す。そこまでは人殺しだけど、人を殺したあと、黒幕から真っ白な白粉を塗った手がぬっと出るんだよ。そして財布を盗る。白い手が出る瞬間はものすごくシュールでね。「なんだ、こんな演出があるか!」とびっくりするわけ。もうひとつ、これはコミックだけれども、侍が口に魚をくわえて、それを誰かが釣竿で引っ張って、ひょいひょいと逃げて行く場面がある。これなんて『シベール』(ドナルド・リチー監督、1968年 〈ゼロ次元〉出演の映画)と一緒じゃないか。これは有名な芝居(義経千本桜 渡海屋の場)で、ときどき上演される。これなんかを見とってもけっこうシュールだし、僕らが得意でよくやる「(御摂勧進帳)芋洗いの弁慶」。弁慶は「勧進帳」で有名だけど、もうひとつの古い弁慶は敵の首をごまんと斬る。次から次へと作り物の首が無限に出てきてゴロゴロと、ナンセンスでシュールでおもしろいんだよね。だから歌舞伎というのは〈ゼロ次元〉のやっとることと近いというのが、僕のなかに見えてきた。だから最初に僕らがやったのも、白塗りの手を出して「千両!」と言うだけだ。それが僕らの歌舞伎がかりの最初だな。次にやったのが「楼門の五右衛門」(1978年)。ものすごく立派な衣装を着て、原作(楼門五三桐)は南禅寺の山門に立って「絶景かな。絶景かな」と言う有名なのがあるでしょう。あれは何の演技力も要らない。貸衣装屋に行って立派な衣装を借りて、それを舞台じゃなしに、実際の大須観音の真っ赤な回廊にライトを照らしてやったらリアル感があるんじゃないかと思ってやってみた。それがものすごくきれいなんだな。松竹の舞台で団十郎がやるよりも誰がやるにも勝って、勢いがあった。これが歌舞伎のスタートだな。三本目はちょっと〈ゼロ次元〉に戻って、須佐之男命が悪さをする。暴れ回って、最後は素っ裸になって逃げてゆく。それは〈ゼロ次元〉的だ(笑)。そんなようなことが歌舞伎らしきもののスタートだ。今もだけど、町人祭にずっと協力して、(大)駱駝鑑が毎年常連で大人気なんだよ。

細谷:(大)駱駝鑑はどういう経緯で招いたんですか。

岩田:麿(赤兒)はなんとなく知り合いだし、おもしろいから呼んだんだよ。我々のルーツのそういうアングラの奴をけっこう呼んでね。(大)駱駝鑑の街頭の金粉ショーなんてすごい人気だよ。

細谷:今もすごくやってますもんね。

岩田:そういうふうに町人祭は芸能的になっていって、我々はそのうちに小屋を借りてやりましょうと。小屋を借りて単純な芝居をやり出した。でもそのときは、小屋を借りる以上は単なる見せ物的でもいけないから、ちょっと台詞もあって、多少は台詞の練習もしたよ。劇団の奴を先生として呼んで、多少は練習したよ。

細谷:そのときから岩田さんは台本を書いていたんですか。

岩田:100%じゃないけど、(既存の台本を)ちょっと改訂するくらいでね。最初は弁慶の首がトントントンと飛ぶやつをやった。それがものすごく評判がいいわけだ。その台本に前後をくっつけて俺が書いたんだけれども、あさいの妹がダンサーで出てたよ。「勧進帳」は安宅の関だけだけれども、そのときは弁慶の一代記をやって、東北の平泉まで逃げて行くという全部をひとつのストーリーにしたわけ。平泉に着いたときに、金粉の金仏になって彼女は出てきた。金色堂のね。それがものすごく評判がいいわけだ。皆が「外人が見たら喜ぶだろう」とか「外国でやったらいいだろう」とかおだててくれるもんで、その気になっちゃってね。それでロンドンで公演した(1983年、「将門伝説パート2」)。スタートしてから3年後くらいだね。ロンドンで自主公演で、1ヶ月もやったんだ。何も知らず「外国では1ヶ月くらいやるのが普通ですよ」なんて話を聞いていたわけだよ。今名古屋でも東京でも、小さな劇団だと2〜3日だろう。長くても1週間。ロンドンで1ヶ月なんてね。何も知らんからね(笑)。

細谷:原智彦さんとの出会いは〈ゴミ姦団〉からですか。

岩田:そうそう。原はけっこう活動的だからよく動いてくれて、何でもやるんだ。たとえば芝居で石川五右衛門を京大でやったときは、リハーサルで京大の西部講堂の屋根のてっぺんまで上ったもんだよ。上るはいいけど下りが怖い(笑)。命がけだったよ。でも原は平気でスタスタ下りてきた。そういう意味で身が軽いし、動きが得意でね。彼はずいぶんやってくれた。

細谷:原さんとは息が合ったんですね。

岩田:そうだね。東京で加藤と一緒にやっとったように、名古屋で俺と原は一緒にやっとった。

黒ダ:原さんはもともと美術をやっていたんですか。

岩田:デザインだな。その頃はまだ若いから何をやったとか固まっていないけど、一応はデザインだ。

黒川:外国でお客さんは入ったんですか。

岩田:あまり入らない(笑)。

黒ダ:第一、言葉がわからないでしょう。

岩田:それはいいって。でもさ、多少はわからないといけないから、ポイントだけは英語で解説を入れた。向こうの役者に頼んでね。その英語を俺が指導したんだから、これは恥ずかしいものだと思うよ(笑)。

黒川:劇団主宰となると、運転資金をどうしていたのかなと思ったのですが。

岩田:大変なんだよね。その頃、原がけっこう羽振りがよくて、原に借金したんだよ。路上で針金曲げをやって儲け出したんだよ。スタートはそれだ。よくやっているだろう。それが発展してアクセサリー屋になって、ド派手なアメリカン・ポップのアクセサリーをつくり出したんだ。それがけっこう当たって大金持ちになった。それで原に借金したんだ。

黒ダ:私が見つけた資料で、〈スーパー一座〉の前になるんですけど、〈アーティスト・ユニオン〉のイベントで岩田さんが『ねはん物語』というロックオペラをやったとあります。

岩田:東京でしょう?

黒ダ:東京です。「アーティスト・ユニオン・シンポジウム ’76」(東京都美術館、1976年1月7日〜25日、岩田オペラ公演は10日)というやつで、これはかなりお芝居になっていたんでしょうか。

岩田:それほど芝居じゃないと思うけどね。そんなにストーリーがない。仏様を飾って、仏様の前でセックスをしたという、それだけだ。

黒ダ:「企画:岩田信一(ママ)、出演:金仏ダンシングチーム、金仏ロックバンド」とあります。

岩田:皆、金粉を塗って俺の絵の前で。ショーと言ったって、(大)駱駝鑑みたいにうまくないから、昔の加藤の頃に裸でやっていたのに金粉を塗ったくらいのことじゃないか。

黒ダ:ちなみに〈アーティスト・ユニオン〉に岩田さんはかかわっておられましたか。

岩田:もちろんかかわっていたよ。

黒ダ:もともと言い出したのは吉村益信ですか。

岩田:そうだね。吉村が権力の復活を狙って、新しいボスになろうと思って全国に呼びかけて、僕らも参加した。

黒ダ:じゃあ、岩田さんは賛同したわけですか。

岩田:そうですね。名古屋でね。

黒ダ:東京都美術館で展覧会をやったりしていた記録があるんですけど。

岩田:そうだよ。ユニオンとして東京で展覧会をやったから参加しただけ。別に名古屋だけやったわけじゃなくて、他のユニオンのメンバーも出しとるはずだよ。

黒ダ:嶋本昭三とかも?

岩田:当然、出しとると思うよ。いろんなことでうまくいかんのに、事務局を嶋本に移しちゃったんだよな(1976年)。俺は反対して、俺がやると言ったんだけどな。立候補しとるけど誰も賛成せずに、結局、嶋本になった。

黒ダ:しばらく続くと思うのですが。

岩田:実態は先細りで消えたけど、嶋本だけは事務局としてやっとったんだと思うよ。実態は2〜3年でなくなったよ。

黒ダ:岩田さんはおもしろくなかったですか。

岩田:全然意味ないもんね。たとえば東京の展覧会でも、まるで燃えなかったしね。

黒ダ:結局は嶋本のグループみたいになっちゃったということですかね。

岩田:そうですね。

黒ダ:後々AUという名前で……。

岩田:やってんだよね。でもメンバーはほとんどいないはずでね。

黒ダ:岩田さんと嶋本さんの付き合いは?

岩田:ユニオンを通じての付き合い。それ以上はないです。

黒ダ:(嶋本と)〈具体〉時代には関係ないですね?

岩田:ないね。あの人も変なことをやってるよね、歳とってから。変な本を出すしね。あれで女に人気があるからな。不思議だよ。変なことをやるから人気があるのかな。俺はあの人のパフォーマンスはあまり意味がないと思うけどね。おかしいね。今でも元気かな。

黒ダ:亡くなりました(2014年)。

岩田:そうかね。ギリギリまで女子大(宝塚造形芸術大学、現・宝塚大学造形学部)の先生をやっとったんだよな。

細谷:〈スーパー一座〉の演出と構成を岩田さんがやり始めるじゃないですか。お客さんに見せるということについて、〈スーパー一座〉を始めてから意識的になりましたか。

岩田:芝居は見せるものだから見せることを意図するけれども、でもお客様は自分だから自分の思うとおりで、お客様に見せるから云々ということはないよ。自分に見せるためだ。

細谷:それは〈ゼロ次元〉のときから?

岩田:そうだよ。そういう意味で、演出の妥協は一切しないな。たとえば時間が長いと文句を言われても、それだけの時間が要ると思ったら長くやるしね。しびれを切らして文句を言われることもあるけど、そういうことの妥協はしないね。

細谷:自分が納得するまで自分に見せる。

岩田:当たり前だよ、そういうことは。

黒ダ:でも周りからいろんな批評や見方があったわけですよね。

岩田:一般的には好評だよ。あまり悪い評は耳に入らないよ。

黒ダ:僕も歌舞伎とオペラを一回ずつ見ましたけど、おもしろかったです。歌舞伎って抵抗があったんですよね。お金持ちの人たちの遊びみたいで。でも、もともとの歌舞伎はこういうものだったんじゃないかと思いました。

岩田:そうだろう。俺もそういう意味で復活させたいと思っていた。資料的な復活じゃなくて、今に生きる復活で、おもしろいところをドンドンやろうと思ってね。

黒ダ:普通の現代演劇はとてもつらくて見れないんですけど、〈スーパー一座〉はこれなら見てもいいと思いました(笑)。

岩田:そうだろう。オペラ(大須オペラ、厳密にはオペレッタ)も楽しかったろう? 俺はオペラもけっこう好きなんだよ。

黒ダ:原さんがいきなりお尻を真っ黒にして出てきたり、けっこう卑俗なところがあって(笑)。台詞ももちろんあるんでしょうけど、それよりもビジュアルや身体の動きが直接的な……。

岩田:それを言うと話が長くなるけどね。唐十郎が(特権的)肉体論と言ってるけど、僕はそれともちょっと違うんだよな。ところであなたは僕らの芝居のビデオを持ってる? 歌舞伎のやつとオペラのやつ。

黒ダ:前に借りました。まとめた数枚セットのやつです。

岩田:今出た演技論の話をするか。

黒ダ:いわゆる台詞の日本語の発音を大事にする。

岩田:そうそう。そこが一番苦労するね。歌舞伎のことを言うと、〈ゼロ次元〉のものすごく単純なシュールなことから出発して、あとは新劇にうんざりしてアンチ新劇で、おもしろいことをやろうと言って思い切ったことをやってきた。そのなかで台詞が一番大事でね。普通の劇団を見ても、台詞は怒鳴るだけで聞き取れやせんし、台詞の美しさも日本語の美しさもない。芝居をやるなかで、丁寧にしゃべる日本語の美しさをわかってきてね。それを強調して、同時に尻をまくるとかもやってるんだけどね。だから、自分にとっては成長してきたと思う。あるところまで達したんだけど、次に僕のなかのもうひとつの要求として、もうひとつ充実度が欲しくなったんだな。絵で言うと、今まではヌードを普通に上手に綺麗な色で描いていればよかったんだけど、ヌードに実感が欲しくなった。同じように、役者の台詞にも実感が欲しくなったわけ(ここで言う実感とは新劇で言う感情を込めるというのとはまったく違う)。そうすると、そこまで教え込むのが大変なんだ。その前の段階の綺麗な日本語も苦労して教えていたけど、もうひとつ先の実感のある言葉、ちょっと語弊があるけど綺麗でリアリズム的な台詞は、まず覚えるのも教え込むのも大変だ。大変どころか、期限切れで新人に教えられなくなっちゃうわけだ。それに疲れ果てて、やめたの。芝居に飽きたわけじゃないの。自分のレベルと役者のレベルが違いすぎてきたわけ。俺の要求に役者が応えてくれないわけだ。それで疲れた。疲れたと言ったけど、病気で肉体的に疲れたんじゃなくて、訓練に疲れたんだよ。

細谷:そういう意味では、絵を描くことは実感を求めて続けているわけですか。

岩田:そうそう。芝居も考え方が変わって、単なるおもしろいレビュー式だけではダメで、表面はレビューでもいいけど、その奥に演技としての実態が欲しいんだよな。そういうふうになったから、訓練に疲れた。これ以上、俺は馬鹿な役者と下手くそな奴とは付き合いきれん、と。

黒ダ:それは役者の能力の問題だったんでしょうか。あるいは、岩田さんが求めていることが非常に高度なもので……。

岩田:たしかに高度だよ。その高度に達してもらうのが大変だけども。

黒ダ:達した人もいるわけですか。

岩田:いるよ。ベテランはいいよ。役者ってけっこう入れ替わるんだよな。たった一人ダメだと、全部がダメになる。たった一人の新人のためにさ。次の公演にはやめるかもしれないような「おもしろそうだから来ました」という新人に、こっちが命を削って教えるのは疲れたよ(笑)。

黒川:それは歌舞伎もオペラも一緒ですか。

岩田:両方だな。だんだん要求が強くなった。オペラではずいぶん喧嘩したぞ。ずっと喧嘩のしっぱなしでね。極端に言うと、公演中止だというくらい喧嘩したよ。皆、下手くそなんだよ。下手くそというかアカデミックなんだよ。音楽に関して言うと、クラシック畑の奴はパワーがない。「パワーを出せ、パワーを出せ」と言っても、「きれい、きれい」なんだよな。音楽の場合、間に指揮者が入る。僕が指揮者を飛ばしてプレイヤーに何か言うと、指揮者が「私を通してください」と怒る。けっこう大変なんだ。おもしろいけどね。

黒川:特にメンバーを募集しなくても、参加したいという人はコンスタントに来たんですか。

岩田:募集しないと来ないんだよな。名古屋じゃ人不足なんだよな。そこそこでね。場合によってはオーディションをやるけど、何でもとっちゃうよ、上手でも下手でも。

黒ダ:また見てみたいという気持ちがありますけど。

細谷:僕も2度ほど拝見しています。

岩田:オペラ? 歌舞伎のほう?

細谷:両方。

岩田:オペラは、あんなのは日本中にないぞ。オーケストラで小さな舞台で、しかも派手に動き回って。秋山(祐徳太子)たちもあれのファンでね。けっこう来てくれたよ。

細谷:僕は秋山さんと一緒に(笑)。

岩田:秋山とか吉野(辰海)とか美濃(瓢吾)とか、東京の連中がけっこう楽しみにして来てくれた。でも秋山や吉野は「汽車の中で酔っぱらっちゃった」と言って、せっかく来たのに半分くらい寝てるんだよ(笑)。

黒川:歌舞伎とオペラは、岩田さんのなかで演出するときは同じですか。

岩田:同じだね。一緒だ。

細谷:さっきも出ましたが、ドラッグ、LSDが60年代にひとつのムーブメントとしてあって、ある種の革新としてあったと思うんですけど、岩田さんのなかでドラッグ・カルチャーやLSDに次を見出すものがありましたか。

岩田:それによって一段進歩というより、なんとなく細かいことにこだわらないで解放されたという感じはあるよね。なんとなく膨らんだ感じでね。加藤ほどのめり込まないけどね。解放されたけれども、完全にドロップアウトするまではいってない。さっき言ったように、常識人でサラリーマンというところもあるけれども、ドラッグは否定してない。できればもっともっとやりたいと思ってるけれどもね。簡単なドラッグくらいじゃいいけど、LSDとなるとちょっと怖いよね。あれは解放というより異常性みたいなものを感じる。ドラック・カルチャーは今日に必要で、日本はもっとやらなきゃいかん。人間がもっと良くなると思うよ。

細谷:国によって、大麻は合法というところもありますからね。

岩田:そうだよね。あれもおかしなことでね。さっきの市長の話じゃないけど、アメリカは大麻が解禁になるという話を聞いて、本当かしらんと思ったね。ある州だけみたいだね。

細谷:オーラル・ヒストリーの締めの質問があります。これからの作業について最後にうかがいたいです。おそらく絵なのかなと思いますけど、昨日おっしゃっていた事物と実体について、もう少しお聞かせください。

岩田:その前に言わんといけんことがある。自分のなかで大きな変革があったんだ。それはさっきの芝居の話の続きでもあるけども、芝居のことから言うと、ロンドンで馬鹿みたいに興業の素人が1ヶ月やって、その縁で次はオランダから招待が来た。ロンドンで見た人からフェスティバルに来てくれと頼まれた。それは招待だから金銭的に問題なく、オランダで2ヶ月くらい、ジャパンフェスティバルに出た(1984年)。それを見てまたプロデュースしたいというおもしろい興行師が出てきて、全員で3ヶ月くらいヨーロッパを回るツアーを3年くらい続けたわけ(1985、87、91、92年)。僕は右翼日本主義者だったけれども、そのときにヨーロッパを初めて見てガラッと見方が変わった。ヨーロッパはすごいと思った。日本なんてオモチャじゃないかと思った。特に日本の軽佻浮薄が嫌になったな。随筆の本を読むと「パリの石畳は」なんてあってさ。俺はパリの石畳は路地裏にあって風情があるのかなと思ってたら、全部石畳なんだよな。そのスケールの大きさというか、おっとりしたところがね。実際に車に乗るとガタガタして、なんでアスファルトにしないのかと思うけど、彼らは石畳にこだわっとる。建物でもすごく綺麗でしょう。日本人はヨーロッパに旅行して「すごい、すごい」と言うけど、僕も感心した。特に僕は建築が好きでね。東照宮がバロックだなんて言うけど、あんなのはバロックのオモチャだという感じだよ。いっぺんに日本が馬鹿に見えてきて、西洋主義者にガラッと変わっちゃった。これが僕のなかの大きな転機でね。今はすべて西洋崇拝。けれども最近、中国に行くと、またあのスケールの大きさに感心して、東洋回帰なんだな。中国のあの大きさはやっぱりすごいなと思う。中国は政治的には嫌いだけれども、あのスケールの大きさが好きだ。そういう意味で、西洋と日本を対比して、日本は単なるスケールじゃなくて、本質的に小さいんだな。たとえば今日本で琳派が流行として盛んだけれども、あんなのは最低だという気がしてきたね。あんなのは芸術じゃないという気がする。中国のスケールの大きさに比べたら、特に琳派はひどいと思う。一番ひどいと思う琳派が今、日本でブームだよね。京都へ行っても、建物で言うと、俺はモダン和風というのが大嫌いでね。京都が日本的なんて言うけど、料理屋に行ってもどこに行っても中身はモダン和風なんだよ。吉田五十八(いそや)の西洋かぶれなんだよ。あんなのは日本じゃないわけだよ。言葉でも、今は侘び寂びを言わないんだよな。雅(みやび)と言うんだよな。表面的な軽薄に流れているわけ。という意味で、今はまったく日本軽蔑で、中国崇拝になっている。これが大きな変革です。芸術的に言うと中国はすごいけれども、東南アジアは芸術的にたいしたものはないが、町としていいな。ああいう汚い町ね。モダン建築はうんざりだけど、アジアの露天はいいな。じゃあ、日本の下町はどうかと言うと、中途半端なんだよね。半分管理されて半分汚くて、中途半端。だから日本は嫌です。それが結論です。西洋もすごい。中国もすごい。東南アジアもすごい。日本以外は。

黒ダ:細谷さんが訊こうとしたことで、実体や実感について、今のお話に関係あるんでしょうか。

岩田:あるよ。だから日本は地に足が着いてなくてフワフワでしょう。しっかりしたものが欲しいよ。僕は〈スーパー一座〉でもう少し実感のある芝居をやりたいと思ったけど、それはできなかった。じゃあ、他の劇団がやっているかというと、やっていない。日本は何もないんだよ。ないくせに、華美に表面だけの豊かさで動いているのが今の日本でしょう。政治的にもどうしようもない。不安ですよ、日本の将来は政治的に。そういう意味で、どこかで僕は自分の絵に囲まれて、自分の絵の実体だけで多少落ち着くみたいなところがある。

細谷:そういう意味で、今は絵で実体というものを求めているんですね。

黒ダ:日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴはインターネットで公開されるんですけど、若い美術関係者、アーティスト、学芸員、研究者が見ると思うんです。若い美術関係者に何かメッセージを。

岩田:僕はあまり今の美術界の絵を見ていないけど、たまに画廊に行くと皆おもしろい。おもしろいけれども、フワフワした虚像みたいなものに乗っかっていて、印象に残らないんだよな。そういう意味で、今日の不安な表現ではあるけれども、それを表現して満足はできないと俺は思う。本人はできとるのかもしれん、「今日はこういうフワフワなんだ」とね。だけど、どこかで不満が残ると思う。そうするとやっぱり、がっちりしたものを持ちたいというふうになるんじゃないかな。年を取ると皆変わってくるよな。俺も年を取ったから、現実のフワフワよりも、古くても何と言われてもいいから、実感のあるものとなってくる。これまでの流行のアートを見ると、俗に流行と言うけど、本当に上っ面だけでね。たとえば今、ウォーホルを見ても全然新鮮味がないね。横尾忠則も出てきたときは新鮮で大感激したけれども、今見ると色がうるさいだけで感激がないね。あのときの表現だったと思うの。それはそれでいいんだけど、時代とともに薄れてくるということがあるな。それは実体がないからだと思うのな。琳派が嫌いなのも、表面的には綺麗できらびやかだけども、実体がないんだよな。言ってみれば装飾画で、絵じゃないんだよ。おかしな話でね、あまりにも実体がありすぎてすごい芸術は、これもまたえらいな(笑)。これもまた難しい。そんなのに毎日付き合っていたらたまらんで、という気もする。だから簡単に言うと、適当な装飾みたいな気になっちゃってな(笑)。矛盾したおかしな話だけど、あまりにも実体があると怖いよ。

黒川:余談ですけど、岩田さんはゆるキャラが好きなんですか。

岩田:今のゆるキャラはうんざり。ただ、ああいうフォルムとか、ああいうのは好きだよ。町に氾濫しとるあれは、いいかげんにやめてくれという気がするね。実体から逃げてる時代現象だと思うんだ。ただ基本的に、インド彫刻みたいにのっぺりと締まらないやつ、ああいうのは好きだよ。きりっと締まったのより好きだ。