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加藤アキラ オーラル・ヒストリー 2012年12月20日

高崎市箕郷、加藤氏自宅にて
インタヴュアー:田中龍也、住友文彦
書き起こし:山川恵里菜
公開日:2013年11月29日
 

田中:名前のお話を捕捉でお伺いします。

加藤:名前の由来で一番のきっかけになったのは、美術をやっているので、県内でも近在で加藤って3人いたんですよ。そのうちのひとりが加藤英雄っていって、今の山田英雄なんですよ。結婚して奥さんの方の名前を名乗るようになって、それで山田英雄ってなったんですよ。あと群馬町の方に加藤昴さんがいて。今は四国の方に行ったんですけど。3人いて、かなり紛らわしいみたいな。昨日そこのところを言い忘れたんですけど、そういうきっかけがあったんですよね。

田中:加藤さんが3人いて、紛らわしいからカタカナ使って目立とうという。

加藤:それはあります(笑)。

住友:オノサトさんの影響と、両方あるんですね。

加藤:ごちゃごちゃに影響されたり真似してみたかったり、定まらなかったですよね。

田中:では昨日の続きで、70年頃からのお話を聞いていきたいと思うのですけども。70年に横浜のこどもの国で「現代美術野外フェスティバル」というのがあって、そちらに参加されたということで。これは作家さんが運営委員会として運営されていたのですか。(「現代美術野外フェスティバル」こどもの国、1970年4月1日—5月31日)

加藤:はい、そうですね。場所がこどもの国で、西武グループでやっていたと思いますね。(註:西武グループではなく東急電鉄)

田中:ええ。こちらを借りて、野外で彫刻展のような形でやっていたわけですか。そこでだいぶいろいろトラブルがあったようなんですけど。

加藤:そうですね。この展覧会では管理事務所の職員によって作品が破壊、撤去されたなどという…… この破壊っていうのが、少し違うんですよ。職員が破壊したっていうんじゃなくて。そのトラブルの原因の発端というのが、川村直子っていう女性作家がベトナムのソンミの虐殺事件の写真を、こどもの国の切符売り場の前が広い空間になっていてそこに展示したんですよ。それが残酷シーンだから、こどもの国という場所柄ふさわしくないということで撤去してくれというような(話が)管理者側からあったんですよ。それがトラブルの発端というか、騒動の発端というか。

住友:それはこどもの国側からの検閲が入ったってことですよね。

加藤:ええ。そうですね。

田中:そういう撤去の要望があって、運営委員会側が応えて撤去したという。

加藤:運営委員会というか、実行員会の方が撤去してくれって。実行委員会の人もみんな作家だからといって出品作家に撤去してくれってなかなか言いづらいですよね。それで結局「表現の自由だ」とかなんとか言って、実行委員じゃない人も含めて騒ぎだして。自分もその一人なんだけど、自分はこっちの方で勤めをしていたわけだからあんまり横浜の方へ行けなくて、みんな知り合いが連絡を取り合いながらやっていたんですけどね。騒動が広がっていくうちに他の作品へも広がっていって、自分の作品も非常に危険だから撤去しろっていうふうなことになったんですよね。撤去された作品は猥褻な作品とかいろいろあったらしいですよ。

田中:これはいいとか、悪いとか、他にも波及していって。

加藤:そういう感じで波及していったんですよ。

住友:子どもの国の職員がこれも駄目、あれも駄目って言い始めたのですか。

加藤:そうだったと思うんだけどね。その過程はわからないんだけど。だから自分の(作品)に撤去命令が来て、それが今も付き合いがあるんだけど、東京都内に住んでいる知り合いの作家に頼んで撤去してもらってね。

田中:一回撤去されたわけですか。

加藤:自分の作品っていうのは、10cm幅のステンレスのコイルを、直線でどこまで引けるかっていうふうにやった作品なんですよ。

住友:そうとう広い面積を使ったんですね。

加藤:小高い丘があって、その途中なんですけどね、で、まっすぐ引けるかっていうと、誰かの作品にぶつかるんですよね、だからぶつかるまで、どういうふうに引けるかっていうことで。でも100m近く伸ばせたのかな、コイルの長さが300mくらいあって。巻いてあるステンレスのコイルなんですけど、プレスの機械なんかに使う工業用のやつ、ありますよね。ああいう部分で長く延ばした作品なんですけど、それも危ないっていうので撤去しろっていうことになって。かなり騒動が大きくなっていってね。

田中:そういうなかで実行委員会としては何の対応できずに、その管理事務所側の……

加藤:結局は、続けるためには従わざるを得ないということろがあったんですよね。

住友:これに参加していた作家以外、当時のメディアとか、マスコミでも取り上げられたりしたんですか。

加藤:東京の彫刻家協会、美術家協会かな。今は場所は移ったのかな、そこで評論家とかいろいろ集まってこの話題について討論会とかありました。針生一郎(はりう・いちろう 1925-2010)とか来ていましたけどね。一度参加しただけで、あとはちょっと分からないんだけど。

田中:討論会をやっていたのは会期中の話ですか。

加藤:そうですかね。だけどその部分は、結局はマスコミなどに取り上げられなくて、そういう討論会の内容についてはうやむやに、なしくずしでおわっちゃったという感じなんですよね。

田中:「美術手帖」なんかでも取り上げられていましたよね。(註:「…出品者、関係者の要求によって、実行委員会主催による討論会も二度ほど持たれたが、「理念と現実」などという弁解がましいテーマで、空疎な概念をもてあそび、自己批判と称しては、また次回には居直りをみせ、内部の意思統一もとれぬままに、二転三転する実行委の態度に、業を煮やした多くの出席者たちは、三回目から自らの呼び掛けをおこなって“事件”の隠された意味をさぐろうと討論会を続けている。実行委は討論会に、だんだん出席しなくなり、責任も明らかにしないままに、「統一見解と姿勢」なる文書を、実行委半数ほどの連名で配布した。…」ヨシダヨシエ 『美術手帖』1970年7月、329号)

加藤:それ以降、なんていうんだろう、やる気がぜんぜんなくなっちゃって、昨日も話したように会社のテレビアートの話もあったんで、そっちのほうに移ったっていうかね。それもアートというよりは商売になっちゃっていたからね。

田中:その展覧会自体はその会期半ばで終わっちゃったわけですか。最後までやっていたんですか。

加藤:展覧会自体は最後までやっていたんですよね。

田中:だいぶ作品は減って、という状態で。

加藤:で、降りたという宣言文を仲間に配ったりして。

田中:加藤さんご自身がですか。

加藤:うん。それでもう向こうにも行かなくて、知らなかったんですけどね。

田中:その宣言文って、残っていますか。

加藤:いや、残っていないですね。

田中:それはもうこの展覧会から身を引くっていうことを、みんなに知らせるってわけですか。

加藤:ええ。

田中:そこには運営体制に対する批判とかっていうのは特に書かれなかったのですか。

加藤:そういうふうな撤去命令みたいなのが下ったということで、自分のは撤去せざるをえなくなったという、そういう文章で、それほど批判的っていうほどのことではないんですけど。

田中:状況説明的な感じですか。それでこの一件で、作家をやることに対して気持ちが萎えたという。

加藤:ええ。

住友:単にこどもの国側が寛容ではなかったというだけではなくて、もっと何か根源的に表現することと、それを支える制度とが衝突するものだと考えた時に、作家活動を続けられないと思ったくらい、そこまで大きなことだったんですか。

加藤:だからその捉え方が、何て言ったらいいんだろう、全く自分の方が分からなかったっていうか、何でこんなことになっているんだろうっていう感じで。表現って、そういう残酷シーンがあったとしても物理的に危害が加わるわけじゃないじゃないですか。精神的にとか意識的には見る側の人間にある衝撃がくるかもしれないけれど、ある意味ではそれはひとつのアートとしての毒の部分ですよね。

住友:傷つけるわけじゃないけれども、それによって、毒だから害があると感じる人たちがいると。

加藤:ええ。まあそういうことは向こうが判断するんですよね。

田中:そういうものに対して美術の側で戦っていこうっていう気持ちは、その辺で無くなってきてしまったということですか。

加藤:そうですね。それ以降は、アナーキストたちの仲間にちょっと首を突っ込んだりしていました。当時やっぱり学生運動とか、闘争の時代とでもいうのだろうか、そういうふうな時代があって。けっこうヤバいところまでいったっていうかな。もう武装蜂起しかないんじゃないかなって(笑)。

住友:じゃあかなり激しい……

加藤:アートなんかやったって、ああいう奴らに立ち向かえるわけじゃねぇよ、みたいな。

住友:それはこのこどもの国がきっかけだったんですか。それともその前から関わっていたんですか。

加藤:それが最初のきっかけだったっていうかね。ええ。アートなんかで、今の時代は戦えないっていうかね。

田中:体制を倒さないといけないという。アートではなく実力行使でやるという人たちの仲間に加わりかけたってことですね。

住友:それは具体的になんていうグループだったんですか。

加藤:グループでも、名前とかはなかったですね。みんな、編集者に勤めていたやつとかね。

住友:それは都内なんですか。

加藤:そう、都内ですね。ホテルなんかを1室借りたりして。だけどそういうふうに言っているうちに、カローラの会社を辞めて、テレビアートの方にも行ってたりしたでしょ。それでそこに勤めているうちに赤軍の浅間山荘の事件(註:1972年2月19日—28日 浅間山荘に連合赤軍が人質をとって立てこもった事件)が起きて、自分たちの仲間もそれ以降、なんだか白けちゃったというか、冷めちゃったというか。それで自然解散みたいになって、付き合わなくなったっていうかね。ちょうどNOMOが自然消滅するみたいな感じだったかな。

田中:やっぱり時代の状況というか、そういうのと重なっているわけですね。

加藤:内心自分でも、どこまで行っちゃうんだろうとか、ヤバいなって思う意識があったんですけどね。アナーキストたちのところにずーっといっちゃって良いんだろうか、とかね。

住友:破壊活動をするとか、具体的な活動には参加したんですか。

加藤:いや、行動というのは一切なかったんですよ。話し合いの部分でね。

住友:それは月に1回とか、それくらいの集まりだったんですか。

加藤:正式なグループでもないから、月に1回やろうとかっていうふうなのは無かったですね。みんな決まっていなかったというか。こっちもやっぱり仕事もあるから、東京とかって頻繁に行けないじゃないですか。自然消滅して以降は、今もひとりだけは何年に1回くらい、たまに会うんですけど、彼はもう自然農法みたいな方に行ったから、ほとんどその話は出ないけど。

住友:その方は群馬の方ですか。

加藤:いや、今は伊東に住んでいるんですよ。

住友:ちょうど同じ頃、1970年ですけど、大阪万博がありますよね。それで美術作家の方たちが反・万博っていうのを掲げて活動とかされていたのは、ご存知ですか。

加藤:万博っていうのは全然行っていないんですよね。会社の旅行では万博見物っていうのがあったんだけど、自分は行かなかった。どっちかっていうと、やっぱり反対派のほうだったっていうか。

住友:万博なんて、というね。反博の活動には特に関心は持たれなかったですか。

加藤:付き合うというか、参加する余裕がないっていうか。むしろ後になってからいろいろ雑誌とか本とかでそういうのを知ったくらいで。

田中:じゃあどちらかというと共感できるという意見だったのですか。

加藤:そうですね。そういう感じだったですね。

住友:前に加藤さんから同じような話を伺った時に、自分のメモに分からなくて「?」を書いている部分があって、それは加藤さんは情報におそらく凄く飢えていて、それに媚びていたんじゃないかっていう言い方をされていたんですよ。ご自身がね。それの意味がちょっと分からなかったんですけども、それはどういうことですか。

加藤:それは、自分の個展とかは経済的に余裕がなかったから、結局、発表の場というのはコンクールとか公募しかできなくて、だけど賞は取れなくても、でもやっぱりそこに入りたいじゃないですか、落っこちるというよりも。そうするとそういうふうな外側の情報みたいな、傾向みたいのにね。それ「媚びる」というのはそういうふうな部分の情報というのか。

住友:(1970年のこどもの国)野外フェスに参加することも、それに作品を出したいなっていうのがあって、そういう場所だったらこういうのが好かれるだろうなっていうふうに自分で考えたのですか。

加藤:そう、だから外側の情報に当て込むみたいな感じが強かったんだろうなと思いますね。傾向と対策みたいな(笑)。

住友:現代美術の人気のある作品がこういうものなんだなぁと。

加藤:それであの頃の作品って、針生一郎、東野芳明、あと何て言ったかな、中原佑介の御三家くらいの評論の部分の、ある種のバイブルみたいな、尺度があったんですよね。だからはっきりしたものじゃなくても、こういうのに持ってくのはこういう作品とかっていうんじゃないかなとか。

住友:じゃあ加藤さんもそれはけっこう意識されていたと言ってもいいですか。それじゃあやっぱり御三家が一番大きな存在だった。

加藤:そうですね。ええ。

田中:じゃあ70年頃まではそういうのをかなり意識していたという、媚びている部分があったんじゃないかということですか。

加藤:そうですね。

住友:反芸術とか、そういうのの中に作品の制作を当てはめているところもあった気がすると思われますか。

加藤:そうですね。

住友:じゃあ作品を制作するのをやめる70年の野外フェスは、検閲の問題がひとつある一方で、たぶんご自身のその抱えているジレンマみたいなものとも向きあうきっかけになったということなんですか。

加藤:5年間制作をやめている間にいろいろそういうふうに考えていた気がします。冷却期間として考えていたということがあると思うんですけどね。

住友:作り続けている時にはなかなか考えられないですもんね。

加藤:そういうふうにはなかなかいかないですよね。

田中:その、きっぱり「もうやめた!」って感じだったんですか。

加藤:そうですね、何もしないのが一番いいよ、みたいな(笑)。

田中:もう今後一切やらないぞって決めたわけですか。

加藤:その時はね。だけどだんだん何もしないでいるとおかしくなってくるんですよ(苦笑)。生活は荒れてくるしね(笑)。

住友:サラリーマン生活だし(笑)。

加藤:喧嘩はするわね(笑)。

田中:そうですか(笑)。でもお仕事はお仕事で、それなりにお忙しかったわけですよね。

加藤:テレビアートの仕事はですね。だけどその部分じゃ、何だか収まらないというか。

田中:そのテレビ関係の仕事の方では、アートディレクションのようなことをされていたわけですか。

加藤:そうですね。小さいプロダクションだから、カメラを回すのでも、録音でもみんなひとりでやる。

田中:背景の制作とかもやられたわけですか。

加藤:テレビコマーシャルの音合わせとかあるでしょう、そういうのは東京のスタジオへいかないとできないし。

田中:じゃあ技術的なこと全部なさっていたわけですか。いわゆる舞台美術みたいなものも作られていたんですか。

加藤:少しやりましたね。それも。

田中:じゃあもうほとんど一手に任されてやる感じだったんですか。

加藤:当時はスタッフっていうのが、デザイン担当がひとり、自分がコマーシャルのフィルムの方の制作、あと事務員、それと営業がいてという4人で、あとは一応株式会社だから非常勤ですけど、社長、専務、常務がおりました。私も入りたての頃は、小額だけど、株主になったんですよ。それで肩書は制作部長をやっていました。ええ。

田中:加藤さんが制作部長。

加藤:ええ。

田中:このお仕事はいつまで続けられていたんですか。

加藤:あれは2年くらいかな、わりと短かったんですよね。というのはだんだんコマーシャルの仕事が取れなくなって、今も言ったように、デザインの人がいたから、普通のデザインの仕事ばかりで、自分のフィルムの方の仕事っていうのはなくなってきちゃったっていうか。で、結局、居づらくなっちゃうんですよね。だから俺にしたら美術の方にも行きたいし、辞めてしまおうと。

田中:その後はお仕事には就かれていないんですか。

加藤:そしてしばらく遊んでいたっていうか、ぶらぶらしていたんですよね。3ヶ月くらい遊んでいたのかな。その後、自分の友達でNOMOのグループで参加したこともある森康雄っていうのがいまして、彼が伊勢崎にあるサンデンの社員で、その会社がカーエアコンの部品を始めるので取り付け説明書の絵が必要だからと、それを俺にやったらどうかっていう誘いが彼からあってね。それで面接に行って、一応どういうものだかって、その取り扱い説明書を描いたんですよね。それで描いたのはいいんだけど、当時はね、1つの絵だけでね。しかも鉛筆で描いたんですよ。だからそれは決して評判は良くなくて、それでこれ以上描けないとちょっと仕事が次は取れないなって思って、それからロットリングとかなんとかがあるのが分かって、使い始めて、それで初めて通用するようになったんですけどね。

住友:サンデンの社員として?

加藤:社員としてではなくて。その取り付け説明書の絵(テクニカル・イラスト)の部分を描くという。

住友:じゃあ個人で仕事をされていたんですね。

加藤:そうですね。はい。だからあれはどういうふうになるんだろう。ある意味で下請けになるのかな。

田中:外注ってことなんですかね。

加藤:どういうふうに…… (奥へ行って、戻って来る)

加藤:これがね、当時の取り付け説明書に付けた絵なんですよ。こういう車の絵を、線描きで描く仕事だったんですよ。

田中:これは加藤さんが描かれた絵なんですか。

加藤:そうです。

田中:これは工場の人が見る取説(取り扱い説明書)ですね。

加藤:そうですね、取り付ける人が見るやつ。

住友:そうか、一般の人が見るわけではなく。

加藤:一般ではないです。

田中:車メーカーにサンデンがエアコンを納めて、取り付け方の説明ってことなんですね。

加藤:当時はサンデン独自のセットを作っていたんですよね。ところが最近はもう、車にみんなついているでしょ、エアコンが。

田中:ええ。

加藤:だからこういう汎用メーカーが入り込む余地がなくなっちゃったんですよ。

田中:これは後付けってことですか。

加藤:そうですね、だから付いていない車もあったんですよ、当時は後付のユーザーはまだまだおりましたから、それに輸出用のカーエアコンセットもあったし、だからこの仕事は、最終的にやったのは、自分は66歳までやったのかな。

住友:あ、じゃあかなりこれは長く。

加藤:やってましたね。

田中:これもだんだん仕事がなくなってきてっていう。

加藤:そういう、もういいかって感じで。

住友:この時はサンデンの他にも、こういう図案を描くお仕事をされていたんですか。

加藤:ないです。サンデンだけでやっていたから。

住友:サンデンの方からもそうとう忙しく依頼があるんですね。

加藤:そうですね。だから5年間制作をやめた中でも、ほとんど徹夜の日もあったり。年中やっていたって印象もあったですね。

田中:これはご自宅でお仕事をされていたわけですか。

加藤:そうですね。高崎の赤坂町の方で。ここでも少しやったこともあるけど。

住友:作家さん仲間との付き合いっていうのは継続されていたんですね。そういう関係も断ってしまうわけではなくて、作家同士の人と会ったりとか。

加藤:でもやめている間っていうのは会わなかったですよ、ほとんど。何となく後ろめたい感じでね(笑)。

住友:会えば何かやらないか、みたいに言われちゃうから(笑)。

加藤:そういう感じで。言われたらやりたいじゃないですか(笑)。だからあんまり会いたくなかったなぁ。

田中:ちょうどNOMOの活動が終わって、ほぼ同時に加藤さんも活動を休止してということですよね。

加藤:そういうふうに重なってくることになるのかなあ。

田中:加藤さんが制作をやめたのでNOMOの活動もなくなっちゃったっていう面もありますか。

加藤:それはないと思いますよ。どっちかっていうと僕はグループを引っ張ってくほうじゃなくて、引っ張られていくほうだから(笑)。

田中:じゃあ逆にNOMOが活動しなくなったことが、加藤さんが制作をやめたことには影響はありましたか。もしNOMOの方から今度これやるから出せって言われたら出していたんですか。

加藤:でしょうね。ええ。

住友:じゃあNOMOも活動を中止していたから、制作が続かなくなってしまったとも言えるわけですか。

加藤:言える、そうですね。ただこの忙しさの時っていうのはどう見ても駄目だったと思うけど。

住友:そんなに忙しかったんですか。

加藤:商売辞めたんなら別だろうけど。

田中:それくらい忙しくなっちゃって。

加藤:食う分が断たれるっていうのはかなりきついですからね。

田中:じゃあ制作を中止している5年間の間にテレビの仕事からこちらの仕事に変わって。

加藤:そうですね。だからその前にいたテレビアートっていうところはほとんど群馬テレビのコマーシャルがあんまり取れなくなって、デザインの仕事の部分が多くなってきて、だけど、僕が辞めた後だけど、蒟蒻のマンナンライフの仕事もやっていたみたいですけど、そこが倒産して、その影響をもろに受けて、連鎖倒産したんですよ。

住友:で、また制作を再開したんですね。

田中:そうですね。75年から制作活動を再開されているわけですね。それはこのサンデンのお仕事をされている中で、再開されたということですよね。

加藤:はい。

田中:最初に個展を再開したのが群馬アートセンターギャラリー(1979年)ですが、制作を再開するひとつのきっかけは、そこができたからと考えていいんですか。

加藤:そうですね。それから少し余裕ができるようになってきて。それから、この仕事ってけっこう夏場が暇になるんですよ。夏場はエアコンとしては一番使うんだけど、作るほうはむしろ早い時期に作るでしょ、だからどっちかっていうと夏場が暇になるっていう、その時にやれるっていうのもあったしね。

田中:いったん制作はやめたけれども、やっぱりちょっと何かやりたいって思いが湧いてきて、仕事の方は軌道に乗って、そして暇な時期もできたというタイミングで、もう1回発表してみようってことですか。

加藤:はい。

田中:この群馬アートセンターギャラリーについてなんですけども、これはやまだや画廊を引き継いで作られたものなわけですよね。

加藤:そうですね。金子さんが鎌倉の方に越して、やまだや画廊は無くなっちゃったから、結局、その後放っておくのはもったいないみたいなのがあったみたいですよね。じゃあ全部、何人かで運営してみようかってかたちで。最終的には15人くらいとかでやっていて。

田中:その立ち上げに加藤さんも加われていた。

加藤:はい。

住友:中心になっていたのは藤森さんなんですか。

加藤:藤森さんと品田さんかな。品田さんが会長だったのかな……

住友:これはみんなで会費を納めて、それでそれを運営に当てていたんですよね。

加藤:そうですね。当時は。これがその時の、そのあたりの群馬アートセンターのニューズですね。

住友:これは、年2万円というのは、当時の物価でいうとお得なんですか。それで展覧会できるんだったら安くていいなって感じだったんですか。

加藤:年2万円ってありました?

住友:そうですね、吉田さんのほうの資料に。入会金1万円、年会費2万円って書いてあります。

加藤:あの時、会費が、うーんと、5000円だか6000円だったよなぁ。

住友:そうですか。それは割に良いですね。

加藤:さっきね、お茶を買いに行って。そのお茶屋で働いている彼女は元はアートセンターで事務員をやっていたんですけど、その話が出てね。染谷(滋)さん(当時:群馬県立館林美術館館長)が調べているみたいですけどもう資料がなくて分からないって言って。それで染谷さんの方は何年に誰が個展をしたとかを調べたいらしいんだけど、記録をとっていないから、分からなくて。もう半数近く死んでいるんじゃないかな。だから、分かんないだよね。

田中:井田さんもこの間亡くなられましたよね。

加藤:あの人も亡くなったし、品田さんも亡くなったし…… 

田中:金子さんも入っているんですね。

加藤:金子さんも入っていることは入っているけど、鎌倉の方に転居したから。

田中:金子さんは鎌倉の方に行ってしまうのでやまだや画廊は閉めるということになったと。

加藤:そうですね、はい。

住友:加藤さんが個展をやる前にこちらが始まったんですね。1974年4月にアートセンターが始まって、いろんな人が展覧会をやっていくうちに、夏の時期に加藤さんがやることになって、それをきっかけに活動を再開するんですね。

加藤:ええ。

田中:年1回展覧会をやるというのはやらなければならないと、課せられていたということですか。

加藤:年に2週間スペースが貰えるんですけど、それをどう使うかっていうのはある程度自分で決めていくっていうか。2週間やらなかったら、1週間ずつ、それで1週間余ったら「誰か使う?」みたいな。その時連続個展をした足利在住の長重之さん(ちょう・しげゆき 1935—)もそのひとりなんだけど、「1週間余っているんだけど使わない?」って譲ったり、そんな感じでやっていました。

田中:それは会員の方はみなさん2週間もらえるんですか。

加藤:ええ、会費を払っていれば。

田中:そこはもう自由に使っていいと。

加藤:そういうふうになっていたんですよね。

住友:これによると、その後増加したメンバーは19人だっていうので、ということは、まぁ20人だとしたらだいたい、ひと月4週間だとすると、10カ月分ですよね。だからひとり2週間だとして、1年間がそれだけ埋まるわけですよね。

加藤:そうですね。さっき言った、事務員で勤めていた人に、あの時給料いくらだったって聞いたら6万円だったんだって。

住友:給料6万円の時代の2万円って、けっこう高いんじゃないですか。

田中:ですね。

加藤:でも6万円はかなり安いですよ(笑)。

住友:ああそうなんですか(笑)。今の価格でどのくらいだろう。

加藤:わかんないなぁ。

住友:でもこれ、システマティックに平等にしたというのは面白いなって思っていて、作家同士でお互いの平等の機会を作って、その代り県展とか他の場所を作ろうとしたんですよね。

加藤:アートセンターの最後の頃はかなりみんなだらけてきちゃったというか。その元事務員の彼女に聞くと、作品は持ってこないわね、いろいろあったらしいよ。

田中:その事務員の方というのはどちらにいらっしゃるんですか。

加藤:今、高崎の本町っていうところのお茶屋にいるんですけどね、勤めで。

住友:何ておっしゃるんですか。

加藤:富岡とし江。当時はまだ結婚していなかった時だから小見さんって言ったんだけど、富岡弘と結婚して、富岡になったんですけどね。彼もあそこでやったこともあるし、私も1週間譲ったこともあるんだけど。

田中:じゃあその富岡さんのところにも資料はあんまり残っていないという。

加藤:ぜんぜん残っていないんだって。

住友:アートセンターニュースと、あとこの藤森さんの茣蓙会議の発行物がありますね。

加藤:そうですね。茣蓙会議っていうのは個人的にやっていたんですよね。

住友:そっか。それじゃあ藤森さんもあまり情報を持っていないかもしれないな。

加藤:ここ(箕郷町の自宅)でも一度やったことあるんだけど。やっても「もうお酒なんか飲めないから、やってもたぶん(誰も)来ないよ」って言ってさ、「(でも)やってみるよ」って言って。結局、集ったのは藤森本人と荻野さんと自分の3人だけだった。

田中:加藤さんは79年までは毎年こちらで展覧会をされていますけど、アートセンターでの活動はいつまで続いていたんですか。

加藤:確か3回、2回…… あの時はまだやめていてやり始めたから、もう何やっていいのか分からなくて、試行錯誤で版画みたいなのをやってみたり、シルクスクリーンみたいなのをやってみたりとか、グリースとかアスファルトを使ってやってみたり。

住友:吉田さんの(資料)だとね73年の3月で終わりと書いてあります。何を根拠にしているのか分からないけど。そういうのが分かっていればだいたい書いて……

加藤:1970年代前後だったかな、制作をやめている期間中っていうのは、こういう、黒テントっていう、赤テントの唐十郎(から・じゅうろう 1940-)とかの対照的な黒テントというのがあって、公演をしながら全国をまわるテント芝居なんだけど、それが前橋と高崎に回ってきて。それで高崎の方は経済大学の学生と組んでね、オルグをやったんですよ。これがその時のチラシなんだけど、演出が佐藤信でね。68‐71って。3年間限定だったんですかね。こういうのをやったりしていたんですよ。場所探しとかなんかして。高崎の公演は経済大学のキャンパスでやって、前橋公演は利根川の河原でやったらしいですよね。それは行かなかったんですけど。

住友:加藤さんが関わったのは70年ですね。これは加藤さんがオーガナイザーだったんですか。

加藤:そうですね、そういうのいろいろやったりなんかして。

住友:高崎経済大学って学生運動が有名ですよね。映画とかありますもんね。

加藤:ああ『圧殺の森』(1967年)かな。やっぱり闘争の。

住友:だからけっこう運動が激しいところだったんですか。

加藤:そうですね。

住友:これを一緒に呼ぼうとした高崎経済大学の人たちとは、このイベントだけじゃなくてけっこう密に交流はあったんですか。

加藤:これが終わってからも少しは交流があったんですけど、みんな卒業するでしょ、地方から来る人が多いからみんな地方へ帰ったり、東京の方へ行ったり、就職するともうほとんどばらばらになって、連絡が途絶えてきて、そのまま消えていくっていうか。そういう感じだったですね。ひとりだけ石巻にいたんでよく年賀状とか来ていたんですよね。今回の地震と津波、それに原発事故でどういうふうになったのか、分からないですけどね。

田中:70年、71年、72年くらいでこういったことをやられていたわけですか。

加藤:これは1回だけだからね。

田中:1回だけですか。70年の10月ですね。

住友:黒テントの他に何か演劇とかに関わったことはありますか。

加藤:そういうことに関わったのは、これだけかな。

住友:テント演劇にかなり関心をお持ちだったんですかね。

加藤:高崎経済大学の演劇部のメンバーと少し関わっていて、そういう話が出て、なんか面白そうみたいなところで動いたっていうか。

田中:この時、具体的に何をやられたんですか。

加藤:ここでやったのは、黒テントの演劇は、(チラシを見ながら)これが題名なわけですよね。『上海バンスキング』って、当時、上海が植民地問題でもめていたでしょ、だからアヘン戦争のやつをもじったやつだなぁって、思うんですよね。アヘン戦争をちょっと過ぎたくらいの、日本軍が侵略して行って、いろいろごたごたしていたっていうか。舞台と映画と、いろいろありますよね。

住友:加藤さんは、その出演者を呼んで一緒に制作をする役割だったんですか。

加藤:いや、こういう話が来て場所探しとか、オルグの部分。舞台裏の仕事でね。

田中:それを高崎でやるためのコーディネートの面。

加藤:コーディネートみたいなやつですよね。

住友:それがちょうど70年だから、こどもの国の頃だったんですね。

加藤:作曲家の服部良一の息子で服部なんといったかな…。良次(註:服部良次)だったか黒テントの役者の一人で、彼と飲みに行って役者の話を聞くわけですよ。そうすると舞台で演じている時の観客との接点というか、受けがいいとすごく気持ちがいいらしいんですよね。そういう話を聞くと、我々はアトリエの中で孤独でこつこつとやっているっていうのとだいぶ違うなって、だからすごく羨ましく思ったりしてね(笑)役者っていいなって(笑)。

住友:やりたいと思わなかったんですか。

加藤:そういう部分ですごく羨ましいなって思ったりして。

田中:その場でリアクションがあるわけだから。

加藤:そう、リアクションがね。

住友:加藤さんは役者をやってた、舞踏をやったりとかって、そういう経験はないんですね、実際は。

加藤:ええ、ないですね、そういうのは。

田中:それで75年に再開されて、版画とかやられていた。あとアスファルトを使って、それはどういったものなんですか。

加藤:アスファルトは、固い状態で、こう、こっちに4つ石があって、張るような感じでできないかなって思ったんだけど、やっぱり落ちてきちゃうんですよね。それで落ちてきて、その中に紐を、アスファルトにひっかけて紐が1本通っていた時に、アスファルトが落ちた時に逆に紐が浮き上がってきて、で、紐がある種の振動が出るんですよ、それは意図してやったわけじゃないんだけど、その逆に偶然になった部分が面白くてね、じゃあこれでいっちゃおうみたいな。

田中:じゃあ板状にアスファルトを作って、それを乗っけておく。

加藤:それで固まるのかなぁと思ったら、逆にアスファルトが全部落ちて、紐だけが上に浮き上がってきて。これですね、このパンフレットにある写真ですね。これがアートセンターでやったやつなんですよね。

住友:これは床から持ち上がっている感じですか。

加藤:下に鉄板を敷いてあるんですけどね。

田中:これは写真で見ると、わりと「もの派」の作品の印象に近い気がします。

加藤:「もの派」とはだいぶ違うかなと思うんだけど。

田中:当時「もの派」の方の作品とかはご覧になっていましたか。

加藤:いや、ぜんぜん。「もの派」を見たのってずっと後になってからですね。ほとんど制作を止めている間は展覧会とかそういうものは見に行かなかったから。

住友:アスファルトを使おうと思ったのは、どういう理由だったんですか。

加藤:自分のことをずっと振り返ると、漆とか竹もそうだけど、全部自分が子どもの頃に接していたものなんですよ、ブリキのバケツとか、そういう磁石、砂鉄もそうなんだけど、けっこう磁石で遊んでいたりとか。アスファルトは、当時は今みたいに高度な技術じゃなかったみたいで、夏になるとアスファルトの道が溶けだしてどろどろになっているところとかもあって、そういうのがずっと記憶に残っていたということだと思うんですけどね。

住友:面白いですね。75年以降は、定期的に作品制作を発表されていく機会もあったんですか。

加藤:そうですね、経済的にも自分で仕事をするようになったから、勤めの時代よりも収入が多少上がってきたから、個展もできるようになったっていうか。

田中:テレビの時代よりもこちらを始めてからの方がだいぶ収入が良かったんですね。

加藤:そうですね。

田中:奥様というか、藤崎さんとご一緒に住むようになったのはこの頃なんですか。

加藤:ここに住むようになったのは、38歳だから、何年になるんだろうな。

田中:75年です。

住友:それはそういう経済的なこともあったのですか。もっとずっと前からお知り合いだったわけですもんね。

加藤:はい、そうですね。感じとしては、勤めている時の収入よりも3倍くらいになったのかな。勤めている時ってほとんどもう絵具代を稼ぐのが精いっぱいで、東京で個展とかやると何十万とかかるから、そういう費用が捻出できないっていうかね。

田中:じゃあその、このお仕事を始めてわりとその会場を借りたりするのもやりやすくなったのでしょうか。

加藤:そういう部分はありますね。

田中:その当時のお住まいは高崎の赤坂町のほうですか。

加藤:そうです。赤坂町です。

住友:こちらに引っ越されたのはいつだったんでしたっけ。

加藤:こっちに住むようになったのは、38歳で彼女と一緒になってからです。ここは当時ミシン屋をやっていた彼女の母親が別荘として建てたんですけどね。終戦直後は物資不足だったせいでミシンが結構売れて、それで財をなして、別荘としてこの家を建てたんですね。その後はだんだんミシンとかも売れなくなってきて、商売そのものが衰退していくっていうかな、それで商売を辞めちゃって、この家も新築して1年間くらい誰も住まなかったんですよね。ちょうどその頃彼女と付き合っていたから、一緒になる話があったりしたんだけど、それだったらこういうふうに家が空いているから一緒に住まないかみたいな話があって。それでじゃあ住もうかって。当時自分は前橋の総社町の長屋アパートに1年くらい住んだことがあるんです。というのは自分は長男で親や家族とのしがらみから自由になりたいとゆう願望があって、1年間くらい部屋を借りて住んでみようって、家を出たことがあるんですけどね。でも仕事は赤坂町に来てやったりしていたんですけどね。

住友:それが1974年の、ここへ来る前ですか。

加藤:そう、一緒になる直前。それで75年に一緒に住もうって言ってこっちに来たんです。

田中:ご実家の方にはお母様おひとり残してきたんですか。

加藤:ええ。昼間は仕事で向こう(実家)へ、事務所があったから通っていたというか。それで奥におふくろが住んでいて。

田中:ご実家に、図面を描く仕事場があって、ご実家に通うようなかたちで、お仕事しに行って、帰ってきて。

加藤:そういうことになりますね。彼女も高崎でブティックを経営していたから少し離れた時期もあったですね。

住友:車で通っていたんですか。

加藤:そうです。

住友:箕郷に引っ越してきたりと、75年はだいぶ環境が変わりましたよね。

加藤:そうですね。

田中:当時、75年くらいからは、作品の制作はこちらでやられていたんですか。

加藤:あの頃は、赤坂の実家のほうでもやったりとか、彼女と一緒に住むようになってからは、でもまだここではできなかったんで、さっき言ったところを借りていたんですけどね。

住友:その後、ギャラリーでの個展が定期的にありますね。79年、80年、82年、83年と、ほとんど毎年のようにね。

田中:75年から79年までは群馬アートセンターギャラリーで毎年やられていますよね。その後になると今度は東京の画廊とかでもけっこうやるようになって、80年代になると積極的に東京とかいろんなところでやるようになられていきますよね。

加藤:はい。個展をやり始めてから1年か2年経過して、それから10年連続でやってみようかみたいに思って、東京で毎年やったんですけどね。その頃はほとんど農家の一軒家を借りたところで(制作を)やったんですけどね。

住友:制作の時間もだいぶとれるようになって、毎年頻繁に展覧会をやることができるようになって、決まった人が作品を買ってくれるとかあったのでしょうか。

加藤:いや、そういうのはないですね。個展をやった時のは大きい作品だったから、売れるとか売れないとかは、こっちもあんまり考えていなかったから。

田中:こちら(群馬)で作って、(東京へ)車に積んで持って行ったわけですよね。それでまた持って帰ってきて。

加藤:そうですね、持って帰ってきて。だからといって売れなくて溜まる一方なので、殆んど処分しましたけどね。

住友:じゃあ東京で個展をやるっていうのは、そういう支援してくれる人が作品を買ってくれるとかはほとんどないけれども、もっと見せる機会を作ることができたということですよね。

加藤:ええ、そうですね。

田中:会場を借りるお金もかかるわけですよね。お金を稼ぐのはお仕事のほうでやって、作品の方につぎ込むっていう感じでしたか。

加藤:そういう感じだね(苦笑)。当時、僕なんかはそんなにえらい高い所って借りられないし、村松画廊なんて、1週間に50万円とかっていうような、とってもじゃないけどそんなに毎年なんてできないですしね。

田中:ときわ画廊(東京)は安かったんですか。

加藤:ときわ画廊は20万円くらいだったかな。18万円が一番安かったかな。だからそういう製作費とか何とかを含めるとね、やっぱり年間5、60万円かかるでしょ、そうすると普通の給料のままでは作品の方にまわらないですよね。あの頃の現代美術の売れっ子の作家は企画展という形で画廊がやってくれるけど、そういうのは自分にはないから、全部自前でやらなくちゃならなかったから。

田中:その当時の作品からすると、これなどに見られるように、金属を使った巨大な作品とか、やっぱり大きいものが多かったんですね。

加藤:ええ、そうですね。ブリキとか、銅板でつくった作品が一番大きかったのかな。

田中:あと80年代になりますと、関口さんとかと一緒に「1981年展」をやられて、それから82年に「EXHIBITION・1982」というのがそれを引き継いで行われるわけですけども、その辺は昔からお知り合いの方たちとまた一緒に立ち上げたグループというか。

加藤:そうですね、その前に「ニエガンジー」はやってないですか。

田中:ええ。関口さんとか泉澤守(いずみさわ・まもる 1948-)さんとかが「ニエガンジー」というのを。80年ですかね、これは。

加藤:これは彼ら、関口君とかが企画というか、立ちあげて、それで参加したことがある程度だったんですけど。

田中:ああ、「ニエガンジー」も参加されていましたか。

加藤:ええ、「ニエガンジー」参加したかなぁ。

田中:してましたか…… ここに出てますよね……

住友:40ページですよね。加藤さんの名前は組織の中には入っていない。

加藤:ないですか。じゃあ1981とか、そっちに。

住友:そっちにありますね。

田中:79年から80年まで、毎月1回やっていた活動が、81年になって「1981年展」に変わる、その時に参加されたということですか。

加藤:そういうことですかね…… 3人とか4人とかで組んで、みんなやっていたんですよね。

田中:そうですね、毎月のようにグループ展として。

住友:これはたまに展覧会をやるんじゃなくて、継続的にやっていくというのが狙いだったんですかね。発表の機会を増やすっていう。

田中:そうですね。隙間なくやるっていう。

加藤:どうやったんだろうなぁ。うーん。これは毎月1回になっていますかね。

田中:毎月1回ですね。

加藤:あ、そうですか。ここにある程度人数が集まるっていうと、大人数でやると結局スペースが少なくなるから、分けてやらないと、作品のスペース的には合わない、できないからって分けたんだと思うんだよね。何人かで組んでやるっていうのは。

田中:でも毎月毎月展覧会を続けていこうっていうことで始められたわけですかね。

加藤:ええ。それで規模はそのグループごとに、展覧会のメンバーで考えるんですよ。それでここのところに桜井豊さんがいます。

田中:桜井豊って、桜井画廊をやられていた方ですか。

加藤:そうです、はい。

田中:その方も制作されていたんですか。

加藤:写真のほうでやっていました。当時のことで覚えているのは、道路のセンターラインを写真に撮っていって、実物大に引きのばして、センターラインの部分を切り取ってパネル状にして、それを繋ぎ合せて、5mくらいあったなあ。それを壁面に展示したと記憶していますね。

田中:ここにあります。81年の12月展の時、桜井豊ってあります。

加藤:その時に、真木画廊と田村画廊(田村画廊:日本橋、東京 1969開廊、1977年神田に移転し1990年まで活動/真木画廊:神田、東京 1975年開廊。1991年より「真木・田村画廊」として2001年まで活動)をやっていた山岸さん(山岸信郎 やまぎし・のぶお 1929-2008)、もう亡くなって3年くらい経つのかな、(註:2008年に亡くなった)その山岸さんを呼んだりしていろいろ討論会みたいなものをやったりした覚えがありますけどね。「表現の必然性」だったかな、確かやったような気がしますね。記憶に残っているのはそれくらいかな。

田中:82年8月に「表現の必然性」って出てありますね。あ、公開美術講座って、ここにありますね、山岸さん。(「加藤アキラ展〈自重と弾性〉」1982年8月9日—14日 展覧会時?)

加藤:そうそうこれですね。

住友:82年だ。

加藤:82年だったですか。

田中:ええ。これは81年、桜井さん…… こっち、参加メンバーが書いていないですかね…… あ、あります。ここにやっぱりありますね、桜井さん。

加藤:その時確か、呼んだんだった。

田中:山岸さんのお宅でですか…… 桜井さんとはこの展覧会でお知り合いにさったんですか。その前からお知り合いだったんですか。

加藤:その前から知っていたことは知っていたんですけど、あのアートセンターの時にも、富岡弘と、春山清と、桜井豊の3人展をやったんですよね。いつやったかはちょっと忘れちゃったけど。

田中:桜井さんは写真の作家さんとして活動されていたわけですね。

加藤:そうですね、写真…… 写真、だよなぁ、やっぱり。アートとしての写真も兼ねていたから、そんなに数をやっていたという記憶はないですけどね。

田中:お仕事もされていたわけですか。

加藤:ええそうですね、だからひょっとしたら少ないんじゃないかな。あれしか覚えていないから、そんなに発表したわけじゃないんだよねぇ。

田中:その桜井さんという方は、その後、館林の方に桜井画廊を開かれるわけですよね。結局、2年くらいで閉めてしまうわけですけども、そちらで加藤さんも個展をされていますね。90年ですか。

加藤:そうですね。ええ。

田中:桜井さんも自分でも作家活動をしながら、作品を集めたりもしていて、自分で画廊で、自分の認める作家さんを紹介したいという感じですか。

加藤:最初に取り上げたのは宮島達男(みやじま・たつお 1957-)だったかな。そうだったですよね。

田中:ええ。ずいぶん短命で終わってしまいましたけども、それは何かご事情があったんですかね。

加藤:それはね、ちょっと、ここで話していいのかわからないんだけど、一寸と話が回りくどくなりますが。高崎の剣崎町に鉄工所があってそこは上杉一道さんの父親が経営していたんでね。その鉄工所の後を上杉さんが利用して、RASENDOという名でギャラリーとしてオープンしたんですね。自分も企画展の一人として呼ばれたんですね。その時舞踏家の田中泯さんとコラボレーションやったらという企画になって、白州の身体気象まで交渉に行ったんです。そしてコラボレーション当日開演の前に桜井豊さんが見えていて、その時彼に現代美術のギャラリーをやりたいと打ち明けられたんです。その時自分は「資金でもたくさんあって道楽でするのならそれもいいけど経営となると大変だよ」と云った覚えがあるんですね。桜井さんにはその声は届かなかったんですね。自分も企画に選ばれた1人ですけど、今から思うと一気に資金を投入しすぎたんだと思いますね。それで資金の回収が間に合わなかった。これも推察ですけどね。

田中:桜井さんって館林の方だったんですか。

加藤:家は太田ですね。当時は太田にいたんですよね。

田中:館林の方でいうと、三の丸芸術ホールで開催されたグループ展などに参加されたりとか、あとSPACE・Uというギャラリーでも何回か個展をされたりグループ展をされたりしていましたけど、わりと館林というと地形的にもここから遠くて違う文化圏のような気がするんですけども、館林の方でもけっこう展覧会に参加されたっていうのは、やっぱり作家さんとのつながりというのがあったんですか。

加藤:そうですね、あの頃はみんな作家が自分でどこか場所を見つけてきたり、誘われたりしているわけですよ。だからあの頃、館林の方面では誰がやっていたんだろうな、岡野君かな。

田中:長さんですかね。

加藤:長さんも行ったし、それから陶芸の小川さんとか。(館林市)三の丸(芸術)ホールも、そのつながりで見つけてきたのかな。

田中:ええ。それもたぶんその当時できた施設ですよね。

加藤:ええ。その頃自分も確か…… やっぱり女の人なんだけど、舞踏家の人に頼んでコラボレーション、自分の作品の所で踊ってくれって頼んでやったのは覚えているんだけど。

田中:この長さんとも、だいぶ昔からのお付き合いですか。

加藤:長さんはもう古いですよ。NOMOの消滅するプロセスの頃、討論会をやった時に来ていましたからね。あの辺から長さんって初めて知って、長さんの家の方にも行ったりして、点展をやったりなんかした時にも行ったし、ええ。

住友:ときわ画廊の写真でDMに使ったのかな。ブリキの。

加藤:そうですね、ブリキのやつですね。

田中:桜井画廊のDMがあるんですね。

住友:吉田さんの…… 作品は80年代とか、例えばええと、金属使ったりっていうのもまだありましたけども、この頃ブリキとあと、これも始めて…… あれ、どこだっけ…… 竹を使った、この辺も80年代、87年……

加藤:そうですね。ブリキから…… 竹から銅板になって、銅板からブリキになったんですよね。

住友:あ、竹が先なんですか。

加藤:これが桜井画廊でやった時ので、今は高崎のあれでこういうふうなのも出したんですよ。桜井画廊の時は、この作品なんだけど。この頃はブリキの(制作を)やったのかな。

住友:ブリキの前の竹の作品って、ちょっとそれまでのとだいぶ違った印象がありますよね。もっと軽い素材ですしね。あとその、カーブとかが印象的なのを作っていますけど、ちょっと違う素材を使って作ってみようっていう、何かきっかけがあったんですか。

加藤:何て言うんだろう、家の竹藪(笑)、こういうのを見ていてね、こういうのどうにか使えないかなって思って。

住友:やっぱり身近にあるもので。

田中:幼いころから親しんだ素材であったり、身の回りにあった素材であったり。

加藤:そういうふうな部分でね。

住友:まぁこの辺の絵には通じますよね。

加藤:そうですね、これは自分の事情だけじゃないけど、竹の素材ひとつ、個展だけで6、7回やっているのかな。

住友:これはちょっと、薄い、竹と布って書いてありますよね。

加藤:竹の反った部分に布を張ったというか。初めの頃はあったんですけどね。

住友:これなんかは別の写真がありましたよね…… これは違う時か…… 実際、移ったというよりは、同時並行で竹は使い続けているわけですね。

加藤:そうです、そういう意味では使い続けていますね。最近ではもう4年くらい経つのかな、2008年に沼田でやった国際アートフェスと2006年に前橋の中央広場のところで竹の球体でやったやつ、一番最近ではあれかな。

田中:2006年ですね。

田中:高崎市の美術館が91年に開館して、それに参加もされていますけども、地元に美術館ができた時っていうのもちょっと発表する場所ができたっていう期待感みたいなのもありましたか。

加藤:どうでしょうね。美術館って、自分の方でやらせてくれって言ってやらせてもらえる場所ではないじゃないですか(笑)。だからそこまで期待していなかったけど(笑)。

田中:ああ、そうですか(苦笑)。まあその91年の開館記念展に参加されて、その後93年に二人展でやられているわけですよね。早い段階で、紹介されたわけですけども。

加藤:そうですね、あの頃は自分にそういう話がくると思っていなかったから。

田中:その前に群馬の県立美術館が74年にできているんですけども、その時の印象って何かありますか。

加藤:あんまり…… なんか、磯崎新(いそざき・あらた 1931-)の設計だとかなんとかっていうような、そういうニュースに、ああそうなのっていうくらいで。

住友:実際に美術館へ行かれたのはどういう時ですか。

加藤:それはなんだったかな。初めて美術館へ行ったのって、青年展みたいのがあるでしょ。青年ビエンナーレ。あれが初めてだったかなぁ。

田中:最初は群馬青年美術展っていって毎年やっていました。

加藤:でも青年ビエンナーレって、1度しか行ってないけど。

田中:その時は出品はされていないわけですよね。

加藤:もう年がいっちゃっているから(笑)あれ、40(歳)くらいまででしょ。

田中:ええ。10年遅かったですか。…… じゃあそれくらいのお付き合いという感じだったんですね、美術館とは。

加藤:ええ。それに当時の美術館って、例えば住友さんのほうのアーツ前橋のオープンみたいに、鳴り物入りで非常に宣伝するとかってほとんどなかったんですよ。

住友:美術館の準備の仕方が変わってきた。

加藤:仕方が全然違うなって思いますよ。

田中:今は、開かれた美術館っていうのをアピールする方向ですけども、その当時は何かね、こう、いいものをみせてやる的な感じがあったかもしれないですけどね。

加藤:そうですね。

住友:どちらかっていうと、欧米の美術作品を持ってきてっていう感じだったのかもしれないですね。

加藤:見て下さいではなくて、見せてやるっていうみたいな(笑)

田中・住友:(笑)

加藤:そういう高い目線みたいなところがあったんじゃないかなと思うんだけど。親しみとすると、すごい、何て言うの、こう、倦厭するくらいまでのところまでありましたからね。

田中:ああ、どちらかというと。関係ないやって言う感じだったんですか。

加藤:あ、そう。関係ないやみたいなところだったですよね。

住友:高崎の美術館はだいぶ違いますよね、オープンの時に、やりますしね。現代の作家さんを取り上げて。その印象っていうのはどうだったんですかね。もうちょっと自分たちの活動に近いところに美術館ができたっていう印象はなかったですか。

加藤:どうかなぁ。もうあの頃はこっち(箕郷町)の方にいたから少し離れているような感じはあったような気がしますね。

田中:ご実家はわりと街中でしたけど、こちらだとちょっと距離があるっていう。

加藤:そういう感じだったし。うーん。

住友:バブルの頃ですよね。91年は。

加藤:そうですよね。そういう意味では、個人的な意見になるかもしれないけど、自分は美術館でやる意味はちょっと無かったかなぁって思うんだよね。声が掛ったからやる、やらしてくれるみたいな、やらしてくださいって感じで思ったくらいで。

住友:それはかつての、アナーキストというか。きっと制度批判の精神が残っているんですね。

加藤:(笑)ええ、すごく。だから、美術館っていうのは死体置き場みたいな、安置所みたいな(、そういう感じがちょっとあったんですよね。

田中:確かにかつての美術館のイメージだとそうですよね。死んだもの買おうかなっていう。あとは東京とかで毎年のように個展とかされていましたけども、東京に住もうとかいうお気持ちはなかったですか。

加藤:それは無くは無かったけれど、経済的な余裕とか、長男であるとかっていうところで、けっこう縛られていたから。それで、例のシャッターに絵を描くパフォーマンスがあった時に、ちだ・ういっていう、今はもうオーストラリアで作家になっちゃっているけど、その娘なんかに東京へ出てこないかなんて誘われたことはあるけれど、とてもそういう状態じゃなかったから断ったっていうのがありますよね。今はもう、全然行きたいとは思わないけど。

田中:わりと群馬って田舎って思われますけど、地理的には東京に近くて、行ったり来たりはしやすいっていう位置ですよね。

加藤:はい。

田中:この辺で、わざわざ行く必要もない、そこに住む必要もないっていうようなところもあるんですかね。この辺、高崎にいれば、別に東京に住まなくても。

加藤:それは大きいんじゃないですかね。東京から近すぎるというか。例の、当時の前衛的なグループのことを雑誌なんかで読むと、九州とかはやっぱり離れているがゆえに、反抗心みたいのがあったし、直接そういう人と話し合ったことはないけれど、印象としては高崎なんかに住んでいるよりも強そうな感じが読み取れますよね。

住友:80年代、90年代はかなり作品も頻繁に作っていますし、東京の画廊でもやっているし、東京で他の展覧会を見たりする機会っていうのは、例えば西武美術館とか、そういう所には行かれていましたか。

加藤:ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930-)かなんかが来た時には行きましたね。最終的には、あの時、あれが一番影響されたっていうか。

住友:加藤さん、ジャスパー・ジョーンズに関する文章(第22回アートハウス企画個展“三つの視点”シリーズ『加藤アキラ展』/1999年1月31日〜2月14日/企画:吉田富久一/会場:ノイエス朝日のためのパンフレット)を書かれていますよね。

加藤:ええ。

住友:西武美術館はよく行かれてたんですかね。

加藤:よく行かれたってほどじゃないけど、ジャスパー・ジョーンズを見たりとか、そのくらいかな、あまり記憶に残ってないな。

田中:あと1997年なんですけども、お母様がお亡くなりになって、それでもう住む方がいなくなったからご実家は解体しようということになられたわけですかね。

加藤:はい。

田中:で、そこを解体するとなった時に、解体するのを延期して、展示スペースとして使うということにされたわけですよね。

加藤:当時、高崎に井上太郎(いのうえ・たろう 1963-)っていう作家がいてね。出身は新潟なんだけど、彼も藝大の日本画科なんか出ていて、下小鳥町長屋アパートに住んでいましてね。あの家を壊す2,3年くらい前に館林で会って以降付き合うようになっていたのかな。それで彼に実家を解体する話をしたら、その前に何かやらしてくれみたいなアプローチがあったんですよ。自分でも、自分の家で展示をやるというのは考えていなくもなかったんだけど、だけど例えば当時は長さんとかが既にやっていたら、長さんを追いかけているみたいでね、やめたんだよ(笑)そういう感じで自分ではやらなかったんですけど、井上太郎がやらしてくれって言うのでやったんですよ。

田中:それであと他に何人かがそちらで展示されたんですよね。

加藤:最終的には6人だったのかな。

田中:加藤さんとしてはもうただ場所を提供するだけで、やりたいと言う人がやれば貸してあげるという感じですか。

加藤:ええ、そうですね。

住友:最初にこの井上さんがやった会場の写真を見ると、ホワイトキューブのスペースですけど、例えばもともとある家の柱とかを使ったわけではなく、新しく全部作ったんですか。

加藤:いや、あの、その部分を残して、全部自分で白く塗っていましたね。それはみんな井上がやったんですよね。

住友:内装とか全部作り直したんですね。

加藤:当時そこはイラストとか描くための事務所として使っていたスペースだから。

田中:そこの壁をきれいに塗りなおしたりして。

加藤:塗ったりとか。下のフロアの部分をもうちょっと白く、ああいうフェルトのやつだったんだけどね、そこに白い塗料なんかをやったりなんかして、そういうの嫌みたいで。

田中:展示に使っていたのは家全体ですか、その仕事場のスペースだけですか。

加藤:その仕事場のスペースですね。だから畳の部屋だったんだから9畳か10畳くらいの部屋だったですね。狭いですよね。

田中:私はまた家の全部のスペースを使っていたのかと思ったんですけども、そうではなくて……

加藤:それは違いますよね。うん。

住友:展覧会をやる方はどういうふうにして選ばれたんですか。

加藤:「やる!」って言うんで、「じゃあどうぞ」みたいな(笑)

住友:(笑)基本的に知り合いの方ばっかりで、希望者ですか。

加藤:あそこでやった作家は順番は忘れましたが始めに井上太郎、泉沢守が2回、写真家の山田利男(やまだ・としお 1941-2011)、それから岡本恵二郎、中沢宗人、頭脳警察の石塚俊明(いしづか・としあき 1950-)の6人かな。頭脳警察(1969年に結成された日本語ロックバンド)の現在の活動の程はよく知りません。

住友:その石塚さんってどういうきっかけのお知り合いだったんですか。

加藤:前島君って知らないですか、高崎の作家なんですけど、その前島芳隆さんとか、写真家の山田利男さん、友人の山田宏二さんの知り合いでコンサートに招いたりしていたからその関係からですね

田中:オバナさんもそちら使っていますよね。スペースイット。

加藤:あ、そうですね。オバナさんも使っていますね。そう。タカユキオバナさん(おばな・たかゆき 1958-)は、井上太郎が当時住んでいたアパートでもやったし、スペースイットと同時にやりましたね。この7人で終りました。

田中:それはどうしてだったんですか。もっと続けていったら面白かったかなって思うんですけど。

加藤:でもそれ以降あんまりやり手がいなくなっていったっていうか。

田中:ああ。もうひとまわりしちゃったって感じだったんですかね。

加藤:あんまりこっちのほうからやってくれっていうほどのものでもないから。それに遠からず、とり壊しの予定もあったし、水道管が破裂して水回りが使えなかったりで。

田中:画廊を運営していくとなるとやっぱりそれなりの労力がかかりますよね。

加藤:自分はこっち(箕郷町)にいるから、昼間はその場所に誰もいないでしょ、だからけっこうね、物騒って言うか、危ないんですよ。それで担当者がいてくれればいいんだけど、担当者も仕事とかなんとかで不在となると、誰もいなくなっちゃうんだよね。だから夜中でも10時くらいまで電気が点いていて、あそこは住宅街なんだけど、電気がこうこうと点いているっていう状態になっちゃっていたから。

田中:こちらは2年ちょっと、そういう展覧会をやって、その後もう解体してしまったわけですよね。

加藤:それからまた少し間があってね、そのままほっといた状態だったんですよ。壊したのは今からもう4年くらい前かな。

田中:あ、それまでじゃあまだあって。

加藤:もう家も傾いて、隣の家にくっつきそうで、このままいくともう危ないなと思ったから壊さざるを得ないなと思って。だからこの間の震災の時に建っていたら潰れていたかもしれない。そうなっていたらかなり酷かったでしょうね。

田中:かなり古いお家だったんですか。

加藤:もう古いですよ。あれが建ったのは大正だから、何十年経ったんだろう。親父のおじいさんが建てた家なんだよね。だから曾祖父が建てたってことになるね。

田中:今、その赤坂の土地は何か使われているんですか。

加藤:更地になっているんです。いろいろあって所有者は女房と共同名義になっているんです。というのは、建物がうちのおじいさんが建てた家だったんですけど、土地はもともと借りていた土地で、それである時、地主が地上げ屋に売っちゃったんだよね。それで立ち退き問題で、地上げ屋と10年間戦ったんですよ。まあ、戦ったというのは一寸オーバーかもしれませんが、係争関係にあったんですよ。近所のところ一帯がひとつの地主で、近所の人なんかも地上げ屋に脅されたりなんかして引越ししちゃってね。それで自分もできるだけフォローしようかなって思ったんだけど、自分がいない時に、あの。

田中:バブルの時代ですか、その地上げ屋さんが来たのは。

加藤:そうですね。みんな脅されて出て行っちゃったけど、自分はおふくろはまだあそこに居たし、あそこで死にたいなんて言っているから、じゃあがんばってみようみたいな感じで残って。それで買い取るっていっても、バブルだから値段が上がっていて買い取れないわけですよ。それでこっちは初めから住んでいるんだから半分負けろって言ってもね、それでもまだかなり高いんだよね。それががんばっているうちに、今度逆にバブルがはじけて、ええ。で、その土地は自分の貯金と、彼女にも半分出資してもらって、買い取ったんだよね。

田中:バブルがはじけてから値段が下がったところで買い取られた。

加藤:買い取った。でも10年間あったんですよ。

田中:今後その土地を何かに使う予定は、今のところはないんですか。

加藤:僕はもう、こういうふうな家を建ててもらった恩義があるんで、自分のものは一切彼女に譲るからって、もう遺言書には書いてあるんですよ。公証役場へ行って。それはフランスに行く時にね、作った遺言書なんですけどね。何が起きるかわからないじゃないですか、向こうでは。フランスに行く少し前にもスペインのマドリードとロンドンでテロ事件が起きましたでしょう。マドリードに行った時は駅の警戒はすごかったですよ。

住友:フランスに行ったのは2004年の時ですか。

加藤:そうそうそう。あの、パリっていうか海外に行くのは初めてだったから(笑)何があるか分からないっていうんで(笑)それで書いたんですよね。書かないといけないと思っていたから。

田中:加藤さんはお子さんはいらっしゃらないですか。

加藤:いないんですよ。

田中:今、弟さんとかはどうされているんですか。

加藤:弟は、すぐ下の弟は東京の相模原(註:神奈川県)にいるんですよ。で、いまひとりの弟が小山かな、小山遊園地の傍って言っていたけど。その弟は家を建てたって言っても連絡よこさないから電話も分からないし、宇都宮にいる頃までは連絡があったんだけど、電話も分かんないし、こっちもそんなに積極的に探さなかったからそのままけっこう疎遠になっているっていうか。すぐ下の弟は1年に1回くらいお墓参りに行ったりなんかして付き合いがあるんですけどね。弟は若い時はダンプの運転をしていましたけど、今は病院の関係者、患者も含めて稲城駅までの送迎バスの運転士をしています。

田中:99年まで、そのスペースをやっていて、その後、アートハウスで個展をされていますよね。その時はけっこう電気を使ったりとか、あと振動で水面を、波紋を作るとか、そういう、それまでの素材を見せるというよりは、何かエネルギーというか、そういうものを形に表すというか、そういう作品に変わってきたということですかね。

加藤:あれはどっちかっていうと、あの頃から、その場の空間というか、その場でどういうことができるかっていう関わり方の問題が自分の中で出てきたというか。あの状況、ノイエスの前に17号線が走っているでしょ、だからその車の騒音という部分を利用して、内と外の関係みたいなものを出したいなっていうところで、5m間隔で5個、道路の端にセンサーを並べて、外へ引っ張って、それでその振動する部分につないでやったんですよね。水を張って。車がダーッとくると、ひとつひとつ音を拾っていくじゃないですか、それが振動に変わるっていうか、音を振動に視覚的に変えるっていうふうなことでね、やったんですけどね。

住友:「同位」という言葉がご自身の考え方のキーコンセプトで出てきますよね。「同位」というのは外の音が中でも振動で伝わるということですか。同じ現象というか。

加藤:そういう、自分にとっての「同位」っていうのは、NOMOの時代の時からあって、日常の部分を芸術の部分へ高めるというか、それは金子さんの言葉なんだけど、そういう部分については影響されていて、だけど、いわゆる普通の表現された芸術と、普通の日常にあるものという部分の差というのはあるんだろうかっていう疑問から発しているんですけどね。同じものとして考えるというか。アートってうんと高級的に見られたりなんかするんだけどほんとは同じ位置にいるんじゃないか、みたいな。そういうところが自分の根本になるものじゃないかと思うんですよね。だから「同位体」という形で、家具を置いた時のあれがあったと思うんだけど……

田中:あ、これですね。

加藤:ええ。これの時初めて「同位体」という言葉を自分で使ったんですよ。普通はこういう展示空間の中には日常のものって排除しますよね。だけど逆にそれを一緒に入れて考えられないかみたいな。だから同じ位置っていうか、そういうふうな事が自分の中にあるんですけどね。

住友:あの、この文章で「平等ではなく同位」っていうのが、「平等」っていうのは、例えば日常のものも芸術作品も同じじゃないかっていう、「平等」という考え方でもいいような気がするんですけど、じゃなくて「同位」っていうふうに言っているのはどういうことですか。

加藤:「平等」というのはむしろ自分にとっては、制度の問題とか、人間それぞれ平等とか、人間の持っている意識の方の問題として使われるべきなんじゃないかなって思っているんですけどね。だから「平等」という言葉は当てはまらない気がするんですよ。

住友:なるほど…… ものも含めて、そういう説明をしようとすると「同位」という言葉が。物理の言葉ですよね、「同位」って。

加藤:ああ、そうですね。「同位体」って。そういうところから引っ張り出してきたっていうのもあるんだけど、自分で使いたいところはちょっと違う意味なんだけどね。

田中:「同位体」って考え方が出てきたのは99年頃からですね。

加藤:これの時に初めてそういう言葉を使ってみようみたいなのがあるんですけどね。

住友:この畳の部屋での展示は、場所はどちらですか。

加藤:ペーパーテックって、あの、朝日ノイエスの近くなんですけどね。あの紙の問屋さんかな。会社の2階なんですけど。ちょうど展示場所が人数が多すぎて全部ノイエスだけじゃ間に合わなくて、そっちの方も借りられたので、自分はそっちのほうを使ってやったんですよ。それで脇にちょうど日本間があったんで、じゃあここを使わせてくれってやったんですけどね。これで使った作品がここにある、これなんですけど…… これを畳の間に差し込んで……

田中:その後、2003年ですけども、等々力(東京)にあるスペース23℃という、これはもともと榎倉康二さん(えのくら・こうじ 1942-1995)のご自宅で作られた場所で、個展されたわけですよね。榎倉さんとは生前お付き合いはあったんですか。

加藤:いや、会って話をしたことはあるけど、付き合いというほどのことはないです。ときわ(画廊)でやった時に来てくれたりとか、あるいはあの、コンセプトスペースの福田篤夫さんが作った高崎の、コンセプトスペース2の方でやったころがあるんですよね。駅前、東口からわりと傍なんですけどね。榎倉康二展をやった時、榎倉さん自身も来るでしょう。

田中:渋川ではなく、高崎ですか。

加藤:はい。高崎にコンセプトスペース2というのがあって。そこは高崎美術学院を経営する板谷氏とそこで教えていた福田さんの関係でできたのだと思いますけど、今はありません。

住友:福田さんもそういうことやっていたんですね。

田中:そういうお付き合いはあったと。

加藤:普段の付き合いってそんなになかったですけど、そういう時に来て話したりっていうのがあって。やっぱり年代が違っているんですよ。榎倉さんは「もの派」のあたりの時代だし、それに自分はちょっと制作を休んでいたでしょ。だからそういう部分でなんか浦島太郎みたいな感じでね。

田中:ああ、休んでいる間に出てきた人。

加藤:個人的にはそういう印象でしたね。

田中:世代がちょっと下ということだったんですね。

住友:それで等々力での展示はそういうきっかけだったんですか。

加藤:長さんがやったんですよね。あと高山登展でも田中泯さん(たなか・みん 1945-)が舞踏をやったり、そんな話を聞いていて、ちょっと行ってみようかなんてところで行ってみたんですよね。ちょうど八田淳さん(はった・じゅん 1946-)があそこでやった時に行って、それで長さんがやったとか田中泯さんがやったとかそんな話を聞きながら、じゃあ自分もやってみようかみたいに思って、やったんですよね。

田中:それでこの時の展示では砂鉄を使ったインスタレーションを行ったんですよね。その砂鉄は、ええと、どういうきっかけで使うようになったんですか。

加藤:あの、それはね、さっきも言ったみたいに、子どもの頃に使っていたものが作品制作に反映されているという話があったでしょ。それでたまたま何かの作品の時に取っておいたのが砂鉄が、量としては茶碗一杯くらいだったんだけど、出てきてね。それを見ているうちに何か思いついたっていうか、そういうところから始まって。それから河原に行っては磁石で取ってきて、少しずつ少しずつ溜めていったんですよ。

田中:そうやってちょっとずつ溜めたもので、展示をされたわけですか。

加藤:そう。だから自分で材料そのものを一元的に自然から採取するのも一つのコンセプトとして考えています。

田中:ええ。その、近くの河原とかに行って。

加藤:そう。烏川とか碓氷川、それから吾妻川、八ッ場ダムの下の方。海では新潟の柏崎の原発のそばの海岸ですね。そういう所へ行ったりして、それで最終的には、4年くらいかけて今あるのは1.2トンかな(笑)

田中:こつこつと4年で1.2トンも集めた。

加藤:ええ。で、その23℃でやった時はそんなに集まっていなくて、400キロくらいだったんですけど、その後も集め続けて、最終的にはノイエスでやったんですけどね。

田中:その砂鉄を集めるという所から作品のコンセプトが始まっていて、自分が住んでいる地域だとか、あと烏川とか、子どもの頃遊んだりした記憶とか繋がっていって。

加藤:そうですね。

田中:あとそのスペース23℃というのは、やっぱり住宅の中にある、もともとそこは制作場所として使う予定だった場所でしたかね。

加藤:榎倉さんはあそこに住んでいる前はね、北千束かな、あっちの方にいたらしくて。それであそこの等々力は、中町っていうんだけど、そこへ越して、まだ引越してあんまり整理しきれない時だったらしいんですよ、だからあそこはアトリエになる予定だったらしいんだけど、そこまでまだ使わないうちに亡くなっちゃったから、だからどういうふうになっていったんだか分からないんだけど。それは奥さんが開廊したから使えるようになったってことらしいんだけどね。

田中:わりと生活の匂いがするというか、住居スペースの中にある一角ということはその展示の時は意識されましたか。

加藤:あの頃はわりと、その前にも長屋アパートteramae art space 892でやった時もそうだけど、その場にどう関わるかに興味があってね。今も興味が無くは無いんだけど。だからあそこの庭を使ったりとか、道具を使ってやったんだけど。

田中:特別な意識はなかったですか。

加藤:うん。

田中:それでさきほどお話に出た、フランスに行かれたのが2004年ですよね。

加藤:はい。

田中:この時は、ええと、何か展覧会に参加されたわけですか。

加藤:その2004年の前、2001年にニューヨークのテロ事件があった年だったんだけど、青森の竜飛岬のところで、そういう展覧会の企画が始まったんですよ。それは企画したのが久絽って言って、ときわ画廊でも展示をしているんだけど、今は新宿のゴールデン街で飲み屋やりながらやっているアーティストなんだけどね。本名は小田芳子でしたっけな。それから彼女はたまにGAW展とかってやっているんですね。[席を離れる]

田中:ああ、やっていましたね。今もやっているんですかね。ゴールデン街を使ってやっていましたね。GAW展って、お店の中に展示したり、路地に展示したり。1回だけ行きましたけど。ゴールデン街アートウェーブの略でGAW。

住友:結局、ニューヨークに行く…… 行ったかもしれない。

田中:そこはなんか違うみたいですね。

[加藤戻って来る]

加藤:GAW展は3回か4回やっているのかな。で、僕は前の方は参加していないんだけど、後ろ4回目くらいの時は吉本義人さんも参加しているはずなんですよ。

田中:ああ。じゃあ4回目の時は加藤さんも。

加藤:僕が参加したのは3回、4回かな。フランスでやった4回目というのは正式に言えばGAWの展覧会じゃないんだけど、彼女がGAWにしちゃったっていうところがあって。ほんとはデニスってフランス人の彼が準備して、自分の町の部分を、いろいろの国の作家を呼んで何かしようっていうのが初めだったらしいんだけどね。

田中:そのGAW展というのは久絽さんが企画したものですか。

加藤:ええ、そうだと思います。それで久絽さんが青森の竜飛岬でやった企画を、私が聞きつけて、で、飛び入りで参加させてくれっていってね。

田中:2001年。

加藤:そうですね。で、「路地から路地へ」というタイトルがすごく気に入ってね。

田中:その竜飛岬でやったのが、その、GAW展につながっていくわけですか。それは別なんですか。

加藤:だから竜飛岬でやったのはGAW展としてやったんですよ。それに飛び入り参加したので、だから案内状なんかには名前は出ていないんだよね。というのは、初めは参加して行く話があったんだけど、それの時に、うちのが階段から落ちて骨折しちゃって、入院しちゃって、行けないかなっていう時があったんだけど、意外に早く完治して、それで行けるようになった時にはもう案内状はできていたから、名前が入らなかったんだけど。だけど向こうに、飛び入りでやらせてくれっていうので、行ったんですけどね。

田中:GAW展って、G・A・Wっていう。それ、ゴールデン街のGじゃないんですか。だけど青森でやっちゃったってことですよね(笑)自分の、久絽さんの独断で。それでそのフランスの展示というのは。

加藤:それでそこの時に、デニスって下の名前が分からないんだけど、フランス人が参加していたんですよ。あの時、スタン・アンダーソン(Stan Anderson, 1947-)もいたんですよ。それで自分は現地制作だから10日くらい向こう(青森)に行ってやっていた時に知り合って。それで自分のところでもやりたいっていうので、久絽さんのほうに連絡が行ったんじゃないかな、それでそこから自分にも参加しないかみたいなことで、連絡が来たんですよね。あとは鎌倉にいる岸本が一緒にフランスに行ったんですけど。その岸本もやっぱりGAWの竜飛のほうでやったメンバーのひとりなんですよね。

田中:そのGAW展というのは、町を使って、いろいろ展示をしようっていう企画展だったわけですよね。

加藤:そうです。

田中:それは最初はゴールデン街だったんですか。

加藤:それの時はまだぜんぜん知らなかった、私は。

田中:ゴールデン街でやっていたやつが今度は青森でやることになって、青森でもやっぱり街中でやっていたんですか。

加藤:街中っていうより、漁村だよね。要はだから網なんかもかかっているとか、そういうところだから、潮風にさらされた板の感じっていうのが凄く良いんだよね。作品なんか無い方が良いみたいな感じ(笑)

田中:そこはどなたかとご縁がある土地だったわけですか。

加藤:それはね、久絽さんのほうの部分だと思うんだけど。誰と知り合いでそういうふうなことになったのか経緯はよく知らないんですけどね。

田中:そのGAW展の青森版ということでそれがあって、今度フランスでも同じような事をやりたいっていうのをデニスさんがおっしゃって、企画されたものって事ですか。

加藤:だと思うんですよね。だけど結果的にはGAWのカタログとして出しちゃったから、GAWみたいだけど、こっち側としては実際には違うなと思うんですよね。あれはデニスの立てた企画にして日本に持ち帰ってGAWに転用したって感じだよね。まあデニスも後日、新宿でやった時も来ていたから、問題なければそれでも良いと思うけど。

住友:じゃあフランスではそういう、アトリエがあるような場所に滞在されていたんですか。

加藤:滞在したのはデニスの自宅兼アトリエというか、スタジオがあってね。その2階に岸本と二人で寝て、彼女は違う部屋で寝ていた、そういう感じなんですけどね。そこで制作を半月くらいしていたのかな。

田中:フランスのどちらですか、場所は。

加藤:オーベイって村なんだけど。何だっけ、ニースじゃなくて、ニーム。デニムの発祥地なんだよね。そのニームの南西部にあたるのかな。ニームからだいたい20qくらいの、地中海に近い方。そのオーベイという村の古い城が開催場所でね。古い城が教会になったり城の内部を改装して集合住宅や多目的な展示空間を設けていて、そこは土間だったけど、各国の参加作家は、内と外を選んで、自分は外の中庭でやったんですけどね。

住友:どういう作品だったんですか、この≪天と地の間で≫というのは。

加藤:その時は、青い色を6cm正方角に切ったベニヤに塗り、その裏側になる部分に割り箸を接着したものを一万個つくりました。実際には青いベニヤ角と割箸は輸送の関係で分けて運びました。接着作業は現地でやり、それを中庭の地面に角度20で突き刺す行為、あれは田植えのようですね。物と行為の状態を総称として「天と地の間で」にしたのです。

田中:海外でそういった滞在制作をされたり発表したりというのはこの時が初めてだったんですか。

加藤:ええ。

住友:これが別のきっかけになったりはしましたか。このフランスの滞在というのは。

加藤:帰ってきてまた再現する形で、Dハウスという前橋の建築家の高橋一男氏の庭を借りてやったというのがあって。それが1年経ってからだから、2005年にやりましたね。写真は、なんかホームページに出すから貸してくれって、ヤーギンズ(前橋市にあるギャラリー)に行っちゃっててないんですけど。

田中:再現をされたわけですね、そこで。

加藤:フランスでやった時は、クロード・ヴィアラ(Claude Viallat, 1936-)が、なんか仲間にいたんですよ。クロード・ヴィアラはやっぱり室内でやったんですけどね。ゴムみたいなの張って、やり方がさすがだなって感じで、15分くらいでぱぱっと簡単にセッティングしたんだよね。こう引っかけてね、蜘蛛の巣みたいな、ゴムを引っ張ってかけただけの作品みたいな感じで。最初来た時、どこのおっさんかなぁと思って。

田中:持ち運びが楽で、設置も楽で。

住友:展示慣れしている(笑)。

田中:加藤さんは全部現地で調達したんですか、材料とか。

加藤:四角に切ったのと、刺すのが割り箸でしょ。割り箸を別々に空輸で送ったんだけど。あの時は砂鉄を使い始めた頃で、だから砂鉄やろうかと思ったんだけど、何にしろ海外は初めてなもので、向こうの様子も分からないし、それに砂鉄をもし現地に送るとなると料金がそうとうかかるだろうなって思って、吉本さんが、ドイツで展示をやるので作品を持っていったと聞きつけたので、運賃ってどれくらいかかるのって吉本さんの所へ行って聞いたんですよ(笑)そうしたら、空輸だったら1トン100万だなんか言って(笑)とてもじゃないけどさ。それでそういうふうに軽いのをどうにかできないかなと考えて、刺すんだったら形は拘らないから、どういうふうにでも逃げられるじゃないですか。やり方を変えられるっていうか、柔軟性があるでしょ。固まってコーンとして作って行っちゃうと融通が利かないみたいな、どうにもならなくなっちゃう可能性があるなぁと思ったから、どういうふうにでも変えられる可能性のあるものを考えようって感じでね。で、そういうふうに考えて。だからこれはほとんど今まで使っていない素材なんですよね。

田中:外国でやるという必要から生まれた作品と言ってもいいですね。

住友:Dハウスというのはどういう場所だったんですか。

加藤:Dハウスは、高橋一男って建築家の、もとは親父さんの家だと思うんだけど、そのところの土地を使って、展示と事務所を含めて作った建物なんですよね。彼はいつも東京の世田谷にいるんですけどね。

住友:ここでの展示は何回かやっているんですか。

加藤:高橋一男は富岡弘っていう作家の友達っていうか。出身は足利工業大学で、同級生だったらしいんですよね。それで美術の方もやっていたらしいんだけど、最終的には彼は建築の方に行ってという、そんな感じの過程があるみたいで。その知り合いの中で、自分もその富岡氏と先に付き合いがあったからそういう所で広がって行って知り合ったって感じですね。

住友:六供(町)なんですね。今もやっているんですか。

加藤:展覧会ですか。展覧会はその、動機って言うのがね1年に1回でね。で、あの、彼が設計した家(施主)がたまたまアーティストだったりすると、そのアーティストを呼んでやる。

住友:じゃあほんとにきまぐれとか、よくやる、定期的にやるというわけではない。

加藤:1年に1回やるっていうだけでね。ひろがりがね。

田中:1年に1回は決めているわけですか。

加藤:1年に1回はやっているんですよね。そこでもう2回やったんですけど、だからこの家もこの増築の部分あるじゃないですか、そこを彼に頼んだんですよ。建築家は増築なんか受けないんじゃないかと思ったんだけど、そんなこと言ってられないんだよ今はって(笑)「何でもやらないといけないんだよ」なんて言っていてね。

田中:ここもじゃあ、ほんとに住居空間というか、そういった感じなんですか。

加藤:そうですよね。ここがないから、ほんとになんか、薄っぺらな煎餅みたいな家でね。倒れちゃいそうな感じの家だったんですけどね。

田中:そのDハウスの方は普通の住居空間で展示をする感じなんですか。

加藤:そうですね。普段は事務所って言うか打ち合わせに使ったりするくらいで、2階がちょっと住まいみたいになっているんだけど。打ちっぱなしの部分と鉄骨と、半々みたいな感じなんですよね。

住友:あとは2007年にノイエスで、標識絵画の再現というのをやられているんですよね。この時はけっこう他のメンバーも集まったんですか。

加藤:はい。ええ。

田中:これはだいぶ当時のメンバーが集まってやられたわけですよね。

加藤:はい。当時あの話が持ち上がったのは、砂盃さんが亡くなったこともあって。砂盃さんは生前何かちょっとやりたいような雰囲気があったんですよね。それでそういう話が持ち上がってきたんだと思うんですけどね。それで自分は、個人的にはそんなに、なんか今更みたいなのがあってね(笑)。だけど砂盃さんがそういうふうに言ったっていうんじゃ、追悼の意味で、じゃあやりましょうかみたいな。

田中:じゃあメンバーの皆さんからの企画が持ち上がってってことですか。

加藤:そうですね。それであそこに参加した深町征寿って、普段はほとんど会っていないんですよね。だからそういう話が持ち上がって参加しないか、みたいな。あの時は声をかけたのは三好さんとか。それから平衡感覚喪失の、あの島田さんとかにも声をかけたんだけど、結局、同意は得られたのは深町征寿だけでした。結果的にはレギュラー4名と深町の5人でした。

住友:それは何今更っていうふうに思われたんですか。

加藤:そうは言わないけれど、ちょっともうあんまり美術の方をやっていないんで、なんて言って。結局辞退されちゃったっていうかね。三好(三善?)さんの場合はちょっとマニフェストが違うって言われて(笑)。それでもうそれっきり。三好(三善?)さんは、標識絵画の時は参加されていないんですね。連続個展の時は参加してるんだけど。だから入れ替わっているからね。すごく混同したりなんかしちゃって。

住友:この再現された状況を見て、どうでしたか。

加藤:自分としては当時のやっているものって、車の部品を貼りつけたりとかってやったでしょ、だからそういうのはもう今の時代にはないわけですよ。だからもう昔の部分のやっても、再現できないんだろうなって初めから思っていたから。

住友:その辺はでもね、私たちも安易に再現しませんかって言っちゃうことが美術展とかでやる時には、当時のものが見れないってなると、再現しませんかってね、つい言っちゃいがちですね。

加藤:その時代のものなんてね、だから自分の作品の中では、≪テレタイプ≫のテープなんて、あれはもうないでしょ、たぶん。あんなのはもう使っていない、たぶんね。みんなコンピュータ持っているから。だからああいうのは駄目になったとしても代わりがない。

田中:じゃあ当時の再制作ではなくて、現代において標識絵画を改めて作るというコンセプトだったんですか。

加藤:うん、保存してあるものは何もないんだから。だから当時のことを思い出しながらやるという。30cmの部分でやるという、その部分は変わらないけど。

田中:当時作ったものを思い出して、それと同じようなものを作るというよりは、そのフォーマットを使って今作るとしたらっていう感じですかね。

加藤:そうですね。それだし、数をうんと作るでしょ。だからどういうのを自分が作ったかって言うのもそんなに覚えていないんですよ。だから車の部品を貼りつけたなぁとか。そういうふうな部分でしかないから。それでその部品を今探せって言ってもね、見つかりっこないし。

住友:なるほど。

加藤:ええ。藤森君なんかは筆で描く絵の方の部分だったから、やる気になればできるんだろうなと思いますけど、俺はまずだめだったな。

田中:その2007年の時点で、最初にやった時からおよそ40年経っていて、それを改めてやってみてどうでしたか。今更やっぱりそれをやっても意味がなかったのか、それとも今でも何か意義があると感じられたか。

加藤:それはだから自分がやったからじゃなくて、見る人がどう見ているかっていうのがかなり重要な部分を占めていますよね。自分がやったことを再現したからって、その見る人の関係が断ち切れたとしたら何の意味もないなって気がするし。

田中:この時も実際、道路端に立てたんですよね。

加藤:ノイエスの外でやったっていうか。西の面の、内側も置いたけど、外側にも。でも花壇のところだからね。歩道。建物よりの所だから。

住友:これはノイエスですか。

田中:これがそうですよね。

住友:そうなんだ。へー。

田中:だから車からはよく見えるところですよね。

加藤:これ。

田中:違いますか。

加藤:三舟さんのじゃない。

田中:染谷さんの。

加藤:染谷さんのだ…… 

住友:そしたら一番最後に今のことをお聞きしたいんですけども、ノイエスの展示までお聞きして、その後はここにあるような、吉田さんの展覧会に参加されたりとか。けっこうそういう屋外の展示とか、屋外のそういう場所に出ていくっていうのをされているんですかね。

加藤:多いですね。うん。

住友:それは意識的にって言うよりも、そういう場所に呼ばれることが増えたってことですか。

加藤:ああ、それは言えますね。それであの場って言うのは、何て言うんだろう、出会った場っていうか与えられた場っていうか、その場でどういうことができるかなみたいなのは、かえって決められた規定の空間よりも興味があるなっていうのはあるんですよね。だけどだんだんなんかそういうのが、年齢的にきつくなったって言うのはあるんだけど。

住友:エネルギー要りますよね。

加藤:グループとかでやる場合は、決められてくるし、スペースにある程度合わせないといけないじゃないですか。だからそういうのはきつくなってきたなっていうのはありますよね。自分の仕事場でやっている場合は、こつこつやる場合はわりと叶うんだけど、集団でやるとなると、日にちとか時間とか、いろいろ制約が出てくるから。それについて行くのが凄く大変だというのがあるんですよね。

田中:今はもうお仕事はされていないんですか。お仕事、あの、美術とは別に生活のためのお仕事というのは。

加藤:もうやっていないです。仕事はもう切れちゃっているから、ええ。あのメーカーの部分は。

田中:今はもう1日はだいたい制作の方がメインになっているということですか。

加藤:でもそんなに毎日毎日はできない、いろいろあるから(笑)

住友:一番近々は、ヤーギンズの準備?

加藤:そうですね。あとはあの、来年(2013年)の2月に吉本さんがやっている佐野の文化会館での展示にちょっと参加することになっちゃって。ルート296だっけな。その沿線沿いの作家っていう。意味じゃちょっと自分は違うんだけどね。

田中:本当はあっち側から日光とか宇都宮とかそっちのほうに抜けていく道沿いの作家ということだったんですけど。

加藤:あんまり、ちょっと参加者が少なかったんで、なんとか参加してくれないかみたいな。

田中:実績のある作家さんに参加して欲しいということなんですね。

加藤:長さんも1度来てくれたんだけど、そのまま来なくなっちゃんだよね。いろいろ会議が多いんですよ。

田中:長さんは途中で抜けちゃったんですか。

加藤:抜けちゃった。

住友:今後の2月の展覧会とか、ヤーギンズの6月の展覧会に向けては、どういう作品を今は作ろうと思われているんですか。

加藤:今はね、この小さいやつがあるでしょ。

田中:あれは砂鉄ですか。

加藤:砂鉄。あれは砂鉄とサンドペーパーなんだけど、バックが。で、あの、この部分と、今1つだけ作っているんだけど、:… これはねヤーギンズのほう考えているんです…… 

住友:そうするとそこの場所の空間のこの辺にこれを、と考えて制作をしているんですね。

加藤:だからね、正面が、あれ、あの部分を…… とりあえずこの部分を作っているんです、角が…… それを何て言うんだろう、普通に並べちゃうんじゃなくて、階段状にね、並べようと思っているんです。

住友:じゃあ、その素材をたくさん。

加藤:その部分と、あと昔の、ピンの。今考えているのは虫ピン(の作品)があるでしょ、虫ピンの昔ありましたよね。

住友:はい。

加藤:あれをちょっとやってみようかなって思っているんですよ。

住友:ハンガーですか?

加藤:ハンガー、これにやろうかなと思って。穴がうんと開くでしょ。ね。

田中:では振り返ってみて、ご自身にとって美術っていうのはなんだったかなぁと思われますか。

住友:特にね、美大に行かないとかそういうわけじゃないですしね。

加藤:うん。これはちょっと、あの、下ネタに近いっていうかな。かなり性欲的な部分がありますよ。欲求として。だから何かを考えたり表現していないっていると、なんか、精神衛生上良くないみたいなね。

住友:途中で制作をしていない時期はね、気持ちが荒れたみたいなことをおっしゃっていましたもんね。

加藤:ええ、だから喧嘩したりとかって言ったでしょ、荒れて。この鼻だってそうですよ。酔っ払って、ブロック塀に自分で直接ぶっつけたんだよね、正面きって。それで医者へ行っても、鼻は縫えないって言うんだよね。だからこういうところとかね、歯を欠いたりとかね、結構このままだとちょっとやばいなって感じになってきて。

住友:作品を制作しているとそういうのは落ち着くという。

加藤:描いていないと気が済まないんじゃくて、なんて言うんだろうなぁ…… 虚しいわですよ、生きていること自体が。何かをやっていないとね、その虚しさっていうのが襲ってくるみたいな。だから昔から、親に対しても「何でおれを生んだんだ」なんて感じたりしちゃって、今になればもうそれは自然のことなんだからみたいに思えるんだけど、当時は凄く、自分を生んだ親を恨んだとかね、変なふうなあれ(子ども)だったですよ。だから、なんか、こう虚しいんですよ、生きていることが。金子さんとも話して、金子さんも学生運動なんかの時、少しやったことがあるって話したでしょ、その時に話しなんかもして、金子さんなんかは、アートだけでどうなるんだみたいに感じたことはあったんだよね。最初はうんと分からなくて、逆に今度はこっちがうんと過激になったりなんかしてね。だけどそんな、生きていること自体がなんだか矛盾しているみたいなね。俺がなんか矛盾しているじゃないか、みたいなことを言うと、生きていること自体が人間矛盾だよ、なんて言ったけど。金子さんにしてみれば、戦時中の、戦争が終わってね、予科練の時の、まだ戦地に行かない状態で終戦になったけど、方向性が分からなくなっちゃうじゃないですか。僕なんかは学校へ行っていて、次の日から民主主義だなんて言ってね、軍国主義から変わっちゃうわけですよ。教える教員なんかは、その前は軍国の通りに教えてって言うんだけど、時代が変わると、今度は民主主義だなんて変わっちゃうわけじゃないですか。そういう制度というものが一夜にしてひっくり返っちゃうというのが、人間の、なんて言うんだろうなぁ、権力の、なんていうか。だからこういう権力に対して懐疑的というかね。そういうのはありますよね、ずっと。だから本質的にはアナーキストですよね、どっちかっていうと。

住友:そこが美術作品の制作と結びついている、続けている。

加藤:そういうんだと思うんだけどね。だからつい最近では富山県立近代美術館で、天皇制のことが問題になったことがあったじゃないですか。(註:1986年の富山県立近代美術館の事件 昭和天皇の肖像を作品に取り込んだ作品を行政側が勝手に非公開にし更には勝手に売却し裁判に発展した事件)ああいうのだって裏側に回ればね、権力の裏側が見えてくるみたいなところを感じたりしますよね。

住友:その話はずっと一貫して、今日のお話でもされていますよね。

加藤:だからそういう意味では、アートって、そういう政治的な部分ではかなり無力なんだなって、僕は思っているんだけど。だから時々こんなことやってていいのかみたいな虚しさが出てきたりなんかしてね、だから格好良く「アートなんかやっているのは時間潰しだよ」みたいな(笑)ふうに言わないとっていう感じがなくもないんですよね。そういうのがかっこいいのかは分からないけど。

田中:無力さを感じつつもやらないではいられないもの。

加藤:そういう。だから、やらないでいるとそういう事ばっかり考えて、落ち込んでいくと言うか、なんて言ったら良いんだろう。そういう感じになって行っちゃうんですよ。

住友:加藤さんの場合はなおさら、作家活動をしない時期があったという。みんなもうそれをやり始めると、ずっとやり続けている間はそういうふうに思うタイミングも無いかもしれないですよね。だからその5年間は大きかったですよね、70年代。

加藤:うん。だから制作をやめている時、これで終わっても良いんかなぁとは思わなくもなかったんだけど、どうしても性格がおかしくなっていくなぁという感じがあって。だからテレビアートを辞めても、結局、テレビアートに自分の居場所がなくなっちゃうじゃないですか。勤労報酬みたいに、ボランティアみたいにやるならいいけど、そこで生活して、給料貰っているわけだから、自分の存在価値がなくなっちゃうっていう不安感がね、どうしてもそこに居られなくなるみたいなのがあって。

住友:なるほど。

加藤:だからアートって言っても、何て言うんだろう、普通に、例えば美大なんかを出れば教師になるか作家になるかみたいな、およそ決まっているというのがあるじゃないですか。ところが自分の場合は、なんか、頼まれていないことをやっているんだよなぁとか思ったり、そんなことをね、ちょっとね、学生たち、というか美大を出た作家に話したりしたんですけどね。凄く憤慨されちゃうんだよね(苦笑)。だからこっちは、彼らは使命感があるんだなぁと思いました。

住友:今はだいぶ美大も増えて、状況が違いますよね。

加藤:うん。

住友:では、二日間、ありがとうございました。

加藤:だいたいよろしいでしょうか、こんな感じで。

住友:ありがとうございました。