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木村秀樹オーラル・ヒストリー 2回目
2018年12月10日

滋賀県大津市比叡平 アトリエにて
インタヴュアー:奥村泰彦、山下晃平
書き起こし:日本職能開発振興会
公開日:2022年2月5日
 

山下:2018年12月10日、木村秀樹オーラルヒストリーの2回目を行います。よろしくお願いします。

木村:よろしくお願いします。

山下:前回が、1970年代後半にかけての、和歌山版画ビエンナーレまでお伺いしましたので、その前あたりからおさらいしつつ、後半の今に至る流れまでをまた時系列的になるかと思いますが、質問させていただきます。よろしくお願いします。

奥村:1987年の和歌山版画ビエンナーレあたりの活躍の話ですが、前回の最後あたりで、1970年代の後半から1980年代真ん中までの10年間ぐらい、海外での受賞が続くということがあって、海外の展覧会に出されて賞を取られるというのは、年譜には書いてあるんですが、実態が今ひとつ分からないところがあって、送って、入賞して、記録がきてとか、そのようなことですか。なにか影響や注目度が上がるとか。

山下:かなり入賞されていますよね。

木村:そうですね、1970年代に版画を始めるということは、国際展にも出品するというのが前提みたいな、そういう教え方もされてたし、吉原先生、井田先生、活発に外に出品されてたし、だから当時は、そのことが版画の魅力でもありましたよね。版画をやるというのは、すなわち国際展に参加できるということだったんで、幸運にも受賞を何回かさせてもらうんですけども、展覧会を見に行ったことはほとんどなくて。東欧圏が多いじゃないですか。

山下:受賞者の方が呼ばれたりとかいうことは。

木村:一応、書面で通り一遍の招待はしていただけるんですけども、フライトのサポートとかないじゃないですか。

山下:そうなんですね。

木村:まだ学生に毛が生えたような状態でしょ。なので、経済的なあれ(問題)があるから行けないですよね、ほとんど。

山下:ああ、そうか。吉原先生は、行かれることもあったんでしょうか。

木村:吉原さんも、行かれたのはあまり記憶にないですね。

奥村:行ってないと思いますわ。

木村:積極的なのはむしろ井田さんぐらい。井田さんは行ってたかもしれない。

山下:そうしたら、どこに出すかというのも、先生方が出されているのを見ながら。

木村:そうですね。一応、カタログが出版されるので、そういうものが研究室に必ずあったから、それをぱらぱらめくっていると。

奥村:エントリーフォームなんかが、大学にあちこちから送られてきたりしていた? 

木村:そうですね。一回出せば、そののちずっと当局から送られてくるし、その状況を見た他の外国の展覧会の事務局が送ってくるという場合もあるしね。こちら側から必死にエントリーフォームを求めたという記憶はないですね。

奥村:そうなんですね。和歌山(和歌山県立近代美術館)でやっていたときも、あちこちに送っていましたからね。

木村:うん。和歌山も最初から国際展ですもんね。

奥村:2回目からですね。1回目は一応、国際的にまではできないかもと言って、「国際」つけてないんですね。

木村:ああ、そうですか。

奥村:一回やったら、1回目から声かけてもいないのに、海外からオファーがあって、海外にも行くようにしたみたいな。

木村:そうですね。だから、版画の展覧会って、企画されたら基本的に自動的に国際展になっちゃうんですよ。送るのが簡便だから。

山下:そうなんですね。海外の作家もいろいろなところにアンテナを張っているという。

木村:そうです、そうです。

奥村:2回目の和歌山で大賞、《冬のライオン》(1986年)で取られますが、そこから、MAXI GRAPHICAを結成されるのと時期が重なるのですが、キャンバスに刷られたり、和歌山はもう随分版画作品の大型化が言われたのと、MAXI GRAPHICAの「MAXI」は、版画の表現の可能性、技術の可能性と同時に、大きいサイズに積極的に挑むっていう面もあったんですかね。(注:「MAXI GRAPHICA」は1987年に木村秀樹が代表を務め、安東菜々、出原司、小枝繁昭、田中孝、中路規夫、濱田弘明らと結成したグループの名称。)

木村:そうですね。結果的にはそうなってますね。1980年代の版画の動向の特徴を二つで言うとしたら、大型化とデジタル化なんですよ。その大型化の方に荷担した、MAXI GRAPHICAは、というのは言えると思いますね。

奥村:和歌山もそれを進めたみたいに言われてるんですけど。

木村:そうですね、受け皿としては。

奥村:主催者は全然そんなこと考えてなかったみたいなんですよね。

山下:そうなんですね。

奥村:ただ、やっぱり募集すると、なんかやたら大きいのを出していた。

木村:募集要項が、そういう柔軟性を持った募集要項だったんじゃないですか?

奥村:そう、エディションでなければならないということを言ってなかったんで。

木村:うんうん。

奥村:技法として版画技法を使っていたらオッケーで、「版画技法って何?」と言われたときに、その限定もつけてないんです。エッチングでないととか、リトグラフでないというようなことは言ってなくて、だから写真もありました。

木村:含んでありますよね。

奥村:出品もあったし、認めてもいました。

山下:やっぱり時代の流れとして、そういう多様な表現を主催者側もどんどん見ていきたいということで、ただし、一応版画という技法は条件には入れつつ、そこからの広がりを期待されていたということですか。

奥村:うーん、かな。主催者としてコントロールする意思はなかったんですけど、結果的に大きなものを作る人の発表の場になったという。

木村:そうですね。1980年代増えましたね。

奥村:うん。

木村:山口啓介君とか出てくるし。

奥村:うんうん。MAXIの結成に至る過程もそうなんですが、大きいものを作ろうと思うようになったきっかけとか、経緯とか。

山下:それは私も聞いてみたいです。

木村:そういう質問内容に、集中して考えたことないね。

奥村:ああ。

木村:いわゆる1970年代を経験して、1980年代の美術の状況を見ている中で、版画というものを背負っている人間が制作を続けるにあたって、ある種の欲求不満みたいなものが積もっていって、それのはけ口じゃないけど、そういう欲求不満の問題を凝縮できるような場の確保というもので考えてると思うんですよ。なので、大型化に特化してあのグループを結成したという気持ちは、僕はないんですね。ただ、当事者の仕掛け人の一人としては、例えば出原(いずはら)司くんとかは、巨大なリトグラフを作っていましたからね。その作品を見たりして、面白いなと思ってたところはあるんです。彼に声かけて参加を勧めることになるんですけど、大型化ということが頭になかったわけじゃないんですけど、それを目標にしたつもりもないって言うかね。

山下:それはやっぱり、いわゆる1980年代、今ではニューペインティングという言葉がありますが、そういうちょっとまた新しい若手の、次なる物語的な絵画表現がたくさん隆盛してきているという様子があって、そういった中で版画という技法を用いて、どういった表現をしていこうかと、新しく起爆していきたいというような意識があったということになるんでしょうか。

木村:1960年代を一応経験しているじゃないですか。この1960年代で、絵画と彫刻は死ぬんですね、一回。ある意味、否定に否定が重ねられて、ミニマル、コンセプチュアルにまでいって、閉塞状況に陥る。ところが、どういうわけか、1980年代に絵画と彫刻の復権ということが言われたりするんですよ。ミニマル、コンセプチュアルを体験した美術の歴史が、絵画の復権をするとしたら、その歴史の果てに復権された絵画というのは、版画だろうと思ったんです。あの時代にあるべき絵画って、しているのは版画でしょって思ったわけ。ところが違ったっていうね、その辺の欲求不満、すごくあったと思うんですよ。

奥村:ニューペインティングとか、あるいはインスタレーションなんかが出てきて、形式の中に作品を限定しないから、版画に限らず、作品が大型化していくという傾向は、1980年代から全般的に出てきたようにも思います。

木村:そう、顕著にはなりましたよね。ただ、戦後の日本の美術、いわゆる現代美術と言われているとこに限定したとしても、基本的には大型化で動いていくんですよ。

山下:はい。確かに。

木村:当然、だからその波には入っちゃうんですけどね。

奥村:一方で、ジェミナイG.E.L.とか海外の、イタリアなんかでもそうですけど、すごい大きいプレス機を作ったりして、海外でも大きな作品を作る動きがありましたけど、そういうのは意識されてましたか。

木村:そうですね、ありましたね。吉原さんがそれこそ大きなリトグラフを、広島の工房とかに入って作られてたりとか、ホックニーの情報も入ってくるし。

奥村:あと、サム・フランシスとか、イタリアの。

山下:大きいですね。

木村:フランク・ステラとかも作ってるし。

奥村:ステラもでかかったし。

木村:世界的な趨勢ではありましたよね。それに呼応しているというか、言われても間違いじゃないと思いますけどね。

山下:呼応しつつも、ただ木村先生の意識の中には、何というか、そういう絵画性であったり、詩的な物語性というよりも、もう一度大型化を進めつつも、ミニマルを引き継いだあとの復権としての版画のあり方を提示したいという意識が、その大型化の中にあったということですかね。

木村:そうですね。

山下:つまり、ちょっと抽象的になりますけど、作品としての強さみたいなものが、復権の中に出てくるんじゃないかというイメージでしょうか。つまり、インスタレーションは、もちろんコンセプトもあることはあるんですけども、少し作品としての拡散性があるというか、協働的な拡散性、鑑賞者とかに委ねるようなところも見られてくるので、そういうのはちょっと違う形で、もう一回、MAXI GRAPHICAを起ち上げて、進めたいということでしょうか。少し、お話を聞いてて思ったんですけど。

木村:うーん、ですね。

山下:そうなんですね。1987年に結成されている、この1987年というのは、和歌山での大賞も取られますが、きっかけみたいなものは1987年には何かあるんでしょうか。かなりストレートな質問なんですが、どなたがこれをまず起ち上げようと言ったのかも、もう一度教えていただいてもいいでしょうか。

木村:MAXI GRAPHICAは、まさにこの辺りから生まれてきたんですよ。だから、この近所に版画をしている人が、田中孝もいるでしょ。当時親しかった小枝繁昭君というのが、元々は、彼は油絵を描いていたんですけども、版画に興味を持ってやり出してたという人とか、あと、大学の同窓生の安東菜々という作家と、中路規夫という作家とが、常に、こう。

山下:集まっていたんですね。

木村:麻雀を介して。

山下:ああ、麻雀。そういうの大事ですよね。

木村:そこで結局、また美術の状況の話になるじゃないですか。

山下:麻雀しながら。

木村:うん、やりながら。不満も出てくるし、「どないなっとんねん」みたいな。

山下:ああ、そうなんですか。お酒も飲みつつですか。

木村:そうですね。皆さん、お酒飲まれますし。なんかやろうぜということになって、出原くんの活動とかも見ていたし、あと、教え子になるんですけど、濱田弘明君という、彼も映像をインスタレーション的に展開している人なんですけども、彼なんかにも、この感覚、分かってもらえるの違うかなということで声をかけて、第1回目の展覧会を起ち上げるんですね。

山下:そうやって生まれるんですね。

木村:濱田君は麻雀しませんけど、それ以外みんな麻雀好きですからね(笑)。

山下:ああ。でもやっぱり、何となく時代が、ミニマルから次の時代になっているような空気を感じ取っておられて、ニューペインティングの状況を感じ取られて。

木村:そうなんですよ。絵画が復権する、彫刻が復権すると言われたけども、復権した絵画と彫刻は、近代絵画じゃないでしょ? とは思ったんですよ。

山下:ああ、なるほど。再び、絵になる。

木村:近代絵画の果てには、物体と観念でしょというふうに、もう理論的に押さえてしまっていたから、その次に出てくる絵画が、いわゆるニューペインティングという、流行でだっと来た部分に関しては、同情的な部分あったけど、日本のこれ、美術状況の特殊なところだと思うんですけどね、あの時期に平面性の絵画というのが流行するんですね。

山下:はい、もう一度、そうですね。

木村:うん。抽象表現主義の再来みたいな感じがあったんですよ。藤枝晃雄さんあたりが仕掛け人かな。

山下:藤枝さん。

木村:とも思うんですけど。その辺のややこしい状況みたいなものも、なんか、割り切れないというか、どうなってんの? っていう感じがありましたしね。

山下:そういうニューペインティング世代の方々にとっては、ある種、ミニマルの難しさ、観念の難しさを、次どうしようかなみたいなときに、少し、ある種軽やかに自分たちの関心を表現していくというようなこともあったのかもしれないんですけれども、木村先生としては自分の内にある物語性みたいなものを、ある種軽やかに版画という技法を使って表現していく、そういった動きには、今のお話でもそうなんですが、ちょっと受け入れられないということですか。

木村:そうですね、一線引いてました。

山下:先週のお話を聞いてて、私は思ったんですけど、やっぱり先生は西洋画に入っておられて、石膏デッサンとかもすごいお話も聞いてて、描写とか、色彩とかも、お好きなのかなと思っていたんです。これは個人的に思ったんです。そういうところで、結構色彩表現、描写表現も好きなのかなと思ったんですけれども、やっぱりそちらに行くという気分ではなかったということなんですね。

木村:そうですね。近代絵画の歴史というか、その顛末を、高松次郎さんとか、もの派とか、あの辺、真面目にやっている現代美術の作家たちの格闘も一応真面目に受けてましたからね。そのあと、1960年代は基本的に否定、否定の繰り返しで、純化していくというプロセスなんですけど、1980年代に至って、イエスアートというのが出てきて、「はいって言いましょうよ」と、彼ら、言うわけですよ。  だからその反動というか、そのイエスアートの出現には、少なくとも状況的には必然性あるし、彼らの活動に関しては同情的に見てましたよ。評価してたというか、面白いやつ、出てきたなというふうには思ったんですよ。それは自分とは違う問題で、1970年代を通過した人間として、どう咀嚼し、解決していくかということの方が重要だったから、そういう場としてもありますね、MAXI GRAPHICAというのは。

奥村:1980年代の絵画の復権とか言われたときのもめる一つの要素が、描写対象の画題が現れてくると、フィギュラティヴになってくるというようなことがあるんですけど、木村先生はずっと、写真を使われることもある。どっちがどうか分からないですけど、具体的な対象を作品の要素というところは、基本的に両方、観念的であるということと、具体的な対象が画面の中にあるということを、ずっと両立させておられるじゃないですか、1970年代。それが、そこまで具象・抽象という区別では語れない、具体的な対象の描写。描写なのか、描写から離れるために、逆に写真とか版画を使っていたというふうにも、今から言うと言い換えられるような気もするんですけど。

木村:それが、木村の作品の分かりにくさを作っているんですかね(笑)。

山下:私が今描写が好きなのかもと質問したことと重なるかなと思って。

奥村:吉原先生もそうかもしないけど、具象、抽象という分け方をしたら、具象絵画ですねと言われちゃう。

木村:そうですね。でも、あれ具象絵画じゃないからね。

奥村:ねえ。木村先生もそうでしょ。だから1980年代に具体的な描写がまた、わあっと隆盛してきたというときの隆盛の仕方と、具体的な対象が画面の中にあるということが、リンクしそうでしなかった。それはしたらだめだというふうにも、木村先生本人も思っていた。リンクというか、同じものと捉えられては困るというような。

木村:うーん、困ると言うほど積極的に考えたわけでもないけど、違うと思ってましたね。 写真製版のシルクスクリーンがベースで、あの技法が提出されてくるイメージなので、それの一番の性格って、やっぱり被膜性とかね、そっちの方に重点があるので、いわゆるイメージ性ということで語られるようなイメージじゃないんですよね、何を使ったとしても。

山下:それは確認みたいなことになるのですが、絵画にくみしない中間領域としての版画の可能性というようなことも、少しお話もされているんですが。

木村:くみしないって、どっかで書いてます?くみしないというのは、絵画にくみしないというよりも。近代絵画にくみしないんだと思うんですよ、もうちょっと限定して言えば。

山下:近代絵画にくみしない。ミニマルを経たあとの、次の、可能性を持つ中間領域としての版画、版というものですね、版の技法の可能性。

木村:うん。どこにも属さない感というのが、僕の考える版画という領域のアイデンティティっていうかな。逆説的な言い方すると、アイデンティティがないのが、アイデンティティみたいなところがあるんですよ、版画って。それが一番面白いところでしょ、という感じがあるんですけどね。

山下:その版が持つ独自性の探求の際に、イメージを使うというのが、木村先生。

木村:そうですね。引用しているだけですね。

山下:今のそういった先生の制作姿勢ですが、MAXI GRAPHICAのメンバー方々もほぼ同じ方向を向いていたんでしょうか。

木村:さあ、それは…… 各作家に聞いていただいた方が、いいのかな。

奥村:版に対して、どういうアプローチとか考え方をしているというのは、メンバー間でそんなに合意があったかどうかは分からないですよね。ただ、版画であるということに、やっぱりすごい自分の制作の基礎を置いて、作っている人たちではありますね。

木村:そうです。

奥村:それは確実。

木村:MAXIの連中はもちろん仲間ではあっても、ライバルでもあるわけで、出し抜いたるで感というのは、みんな持ってたと思うんですよ。

山下:展覧会を何回かされていますので、そういうときはやはりミーティングもして、今回の展示はどういうふうにやっていこうか、という打ち合わせもしつつ、ですか。

木村:そうです、はい。

山下:身近なメンバーだったとは思うのですが、定期的にミーティング、グループの集まりはされていたんでしょうか。

木村:そうですね。

山下:京都市美術館で展示をするに至った経緯に関しても教えていただけますか。(注:第1回の「MAXI GRAPHICA」展は、1988年10月18日~23日にかけて、京都市美術館で開催された。)

木村:直接、学芸の方に、総務課かな、お願いに行きました。

山下:そうなんですね。

木村:そして、日々のわれわれの活動を見ていていただいていた女性の事務の方がおられて、割に好意的に対応していただいたと思います。

山下:そうなんですね。普通、なかなかスケジュールとかもあったりしますもんね。

木村:そうですね。そもそも、基本的に貸さないでしょ。大体もう、団体展さんがきちっと押さえてあって、新参者が行ったところで入り込めないような状況だったと思うんですよ。

山下:と思うんですが、すごいですね。

木村:でも、「あんたたちにもやってほしいし」と言ってもらったから。

山下:そうなんですね。

木村:ええ。好意的でしたね。

山下:そうか、それで京都市美術館だったんですね。展覧会にあたっての展示空間や展示の場所は、それぞれ自由な形で進めていかれたんでしょうか。

木村:そうです。現場で調整可能という感じでしたね。

山下:差し支えなければ、MAXI GRAPHICAのパンフレットとかはございますか。

木村:あります。

山下:ちょっと拝見してもよろしいですか。入手できなかったものですから。京都市美術館を借りることができるというのは、すごいことだなと思ったのですが。

奥村:うん。そちらが1回目ですかね。2回目はハイネケンビレッジ(原宿)。(注:後日確認で、実際には第3回展。「MAXI GRAPHICA `90」というタイトルで、1990年6月23日~7月8日にかけて、ハイネケンビレッジにて開催された。第2回展は1989年8月にサンフランシスコのVorpal Galleryで開催している。なお1994年11月~20日にギャラリーココ(京都)にて、「Petit Graphica」(メンバーによる小版画展)も開催した。)

木村:ハイネケンです。ハイネケンビレッジ、2回目。

山下:こういう図録も作ろうとメンバーで合意していて。

木村:ええ、そうです。

山下:あと、差し支えなければなんですが、予算は。

木村:予算、大変でしたよ。

山下:自分たちで、いわゆる出し合うということでしょうか。

木村:1回目は、相当な覚悟でないと起ち上がらないので、和歌山にあるコレクターの方がおられて、すごくかわいがってもらっていた人なんですけど、その先生に頭下げに行って。

山下:そうなんですね。

木村:はい。かなりの資金提供を受けて、1回目は起ち上がったと思います。2回目以降も、なんだかんだとお願いをして、われわれ自身も集金活動をしながら。

山下:そうなんですね。

木村:だから、ハイネケンさんでも、やらせてもらいましたもんね。会場費とかは必要なかったと思うんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:あと2冊あるんですけど。

山下:これもメンバーで、誰かがデザイン、レイアウトもされて?

木村:そのデザインはね、尼子(章男)くんという、あれ、何というギャラリーでしたか、アメリカ村の三角公園のところのビルでギャラリーを経営したりしている、元々グラフィックデザイナーなんですけども、そこのオーナーの尼子くんに頼んだと思います。

山下:そういうつながりがあるんですね。やはり資金的なことがあったんですね。そのときの、京都市美術館の方と展示を見たときの話など何か思い出はありますか。

木村:種々あったと思いますが。

山下:はい、今振り返ってみてMAXI GRAPHICAの展示はどのように思い出されますか。

木村:僕個人としては、MAXI GRAPHICAという枠で、4回大きな展覧会があって、やっているんですが、あまり納得してないんですよ。

山下:ああ、そうなんですか。

木村:失敗と言ったらちょっと語弊があるので言いませんけども、うまくいったなって思ったことはないんです、実は。

山下:そうなんですか。美術の批評的にはかなり話題になっているんですけれども。

木村:自分の作品に関してですよ。

山下:ああ、木村先生の。

木村:うん。田中孝、安東菜々に関しては、自分のスタンスをあまり変えないで、常日頃の表現の延長上でやっているので、大きな崩れはないんですよ、出原にしても濱田にしても。小枝くんなんか、むしろ成功してますよね。その場をうまく使ったという。自分の作品に関しては、1回目、2回目は失敗して、失敗と言ったらだめですが、どうかなって。

山下:それはつまり、展示してから思った、あるいは制作中も。

木村:いや、展示する前から大体は悟れているわけですよ。

山下:そうなんですか。

木村:ただもう、実験的なことをしているんですよ。自分で。

山下:ああ、そのあとシリーズになってますね。

木村:うん。

奥村:それは、自分の作品についてですね。

木村:そうです。

奥村:ふーん。

山下:すいません、率直な質問ばかりなんですが、こういう大型の場合は、どこで制作されてたんでしょうか。

木村:当時、MAXIのメンバーで仕事場を借りたというか、作ったんですよ。大きい作品ができる、この町内に安く土地を借りて、上に中古のプレハブ建ててもらって、そこに製版機なんかも置いて。だから、大きい作品を作る人は、そこに来てやろうということでやったんですよ。小枝くんあたりは、そこをすごく積極的に使ってたと思うし。

山下:ここで大型のを刷って、搬出されたということなんですね。

木村:そうです。第1回目のMAXIが1988年10月か、そのあたりなんです。その年に、文化庁の派遣在外研修員で行かせていただくんですよ。それが、もうすでに8月ぐらいにはアメリカに出発しているんですね。出発して以降は、帰国は相成らんというのが、基本的な申し合わせなんですよ。でも、こそっと帰っていたんですよ、だからMAXIのオープンのときだけ。

山下:ああ、それは大事ですよね。そうなんですね。

木村: 1989年の秋に在外研修を終えて帰国するんですけどね。

山下:このあとのchestnutとかもお聞きしたいのですが、私はもう少しだけMAXIのことを聞きたいですが、奥村さんはよろしかったですか。

奥村:はい。アメリカに行かれてる間は、制作もされているんですか。

木村:そうです。だから、帰国後、そのchestnutというのが出てくるんですけど、そのイメージをいろいろと技術的な工夫をしながら作ってたんです、フィラデルフィアで。

山下:その話もぜひお聞きしたいと思ってました。留学先での暮らしや制作の様子。

木村:文化庁に申請を出すんですけれども、申請が下るにあたっては、研修する受入先がしっかりしてるという、証明みたいなものを求められて、そのときに、ペンシルバニア大学の大学院の美術科に、中里斉さんという方が教授をされていて、日本の版画関係の作家、そこに頼ることが多かったんです、当時。

山下:そうなんですね。

木村:うん。私も親しくしていただいてた吉田克朗さんという、もの派の作家なんですけどね。彼に紹介してもらったと思うんですよ、中里さんを。電話したか、手紙を書いたら、すぐ来いという感じだったので、そのことをもって申請を出して、合格させてもらって、行ったんです。ということは、要するにフィラデルフィアなんですよ。フィラデルフィア在住で、プリントメイキングのセクションがきちんとあって、中里さんはそこの責任者だったんですけども、主流はやっぱり、銅版画なんですね。意外とオーソドックスな版画を作っている学生さんばっかりで。シルクメジャーの人って、ほとんどいなかったんですよ。

山下:そうなんですか。

木村:なので、写真製版のシルクスクリーンというのを、フィラでやろうと思ったら大変だったんですね。なのでそれは断念して、写真の暗室を見つけて、ほとんどそこ、使われてなかったんですけど、その暗室だけもう自分専用みたいに使わせてもらって、写真のイメージばっかり作ってたんですよ。それがchestnutのイメージなんです。chestnutというのは栗の木。フィラデルフィアという街は、通りの名前がchestnutストリートとか、walnutストリートとかっていうふうに樹木の名前がつけられていて、chestnutは、すごく身近な木なんですよ。住宅地に必ず生えていて、秋になったら実が成るんですけど、日本で考えているような栗じゃないんですよ。食べられないんです。

山下:そうなんですか。

木村:下宿先のすぐ近くにもchestnutの木がいっぱい生えていて、その枝や葉っぱを採ってきて、それをスケッチすることから始めて、写真と描写を繰り返すというプロセスを通して作り出しているのが、そのchestnutのイメージなんです。

山下:反復が出てきますけど。

木村:はい。だからその要素、ユニットっていうのかな、ユニットを作ることだけに終始してました、フィラデルフィアでは。

山下:それを、(受け入れ先の)大学で提示したりして、批評をもらったりとか、友人の方と意見交換したりとかいうのは、あったんでしょうか。

木村:そこそこありましたね。

山下:そういうときの向こうの方の反応は。あるいは中里先生もですけれども。

木村:いやもう、自由にやりなさいという感じでしたけどね。

山下:そうですか。

木村:ちょうどその時期ってね、ジャパン・バッシングって言われていた時代と重なっているんですよ。円がどんどん強くなっていってて、向こうの自動車産業が大打撃を受けていて、日本車をハンマーでたたき壊すというのが。テレビで流れているみたいな時代だったんですよ。だから、キャンパス内で反日的な、何て言うかな、それを感じたことはないけれども、社会としてはそういう状況だったんですね、今から思えば。なので、一度学外から批評家を招いて、クリティックということがあって、語学的にはやっぱり限界があるんで、正確には聞き取れないんですけども、ある批評家に見せるために持参した作品を見せていたんです、現地で作った作品じゃなくて。中里さんが翻訳してくれて、こちらのコメントみたいなのを、批評会に出席したんですけども、その当たりがすごくきつくてね。

山下:そうなんですか。貴重なお話ですね。

木村:なんか、こっちの言うこともあまり伝わらなかったなという感じで終わっちゃって、他の学生たちも、なんで木村にだけあんなきついことを言ってんのかな、みたいな雰囲気だったんですよ。

山下:そんな体験があったんですね。

木村:それを、今から思い返すと、やっぱ日本が嫌いだったのかなと。アメリカ全体が。

山下:空気感があった。

木村:うん。で、国からお金もらって物見遊山で来た人間が、アメリカの美術の中でいっぱしの口利くなんて何事だ、みたいな雰囲気があったのかなと想像するんですけどね。何となく、そんな気がするんです。

山下:じゃあ、そうか。結構のびのびと言うよりも、割とその留学は…… でも木村先生としては海外で、何かを得ようというか、新しい表現を得ようと思っていたんでしょうか。

木村:そりゃそうですよ。フィラデルフィアとニューヨークって電車で1時間ぐらいの距離なので、毎週ニューヨークに行ってましたよ。

山下:その辺のお話も聞かせていただければと。

木村:ギャラリー回りして、中里さんのところに泊めてもらったり、お世話に随分なりましたけどね。

奥村:中里さん、アトリエはニューヨークに持たれていたんですよね。

木村:そうなんですよ。マンハッタンのミッドタウンから車で通われてましたしね。車で1時間ぐらいかな。

奥村:フィラデルフィア美術館が。

木村:ありますし。

奥村:大きいし、(マルセル・)デュシャンのコレクション有名ですし。

木村:デュシャン、ありますし、(ジョアン・)ミロがすごいし。

奥村:うんうん。

木村:ニューヨークの美術シーンというのは、1年間たっぷり見せてもらいましたけどね。

奥村:やっぱり作品の実物を見られるのは、日本と全然環境が違ったと思うんですけど。

木村:そうですね。

奥村:そこで何か、大きく考えが変わるとか。

木村:大きく考えが変わる、そうですね、いろいろあるけど、何と言っても、ファインアートはビジネスなんですね。それがきちっと成り立っているわけですよ。すごい数のギャラリーが軒を並べていて、それこそソーホー、ウエストビレッジ、イーストビレッジがちょっと話題になりかかっていたり、チェルシーはまだそれほどでもなくて、アップタウンのギャラリー群、それぞれがビジネスとしてちゃんと成り立たせているわけじゃないですか。

山下:はい、並んでいますもんね。

木村:日本じゃ考えられないですもんね。まだ現代美術をやろうと思ったら、貸し画廊がメインという、そんな時代しか知らないのでね。それがすごい驚きでしたよね。

山下:やっぱり、版画の作品も見られて。

木村:そうですね。アメリカはやっぱり絵画天国、ペインティングが王者なので、版画というのはちょっと下に見られてる美術ではありますよね。

山下:ああ、そうですか。そういう海外のギャラリーで展示したいというような思いも。

木村:ええ、もちろんそういうコネを作るのが一つの目的で行ってるでしょ。

山下:ああ、なるほど。

木村:なので、何軒か回りましたよ。

山下:そうなんですね。作風について、何か自分と違うというようなことを体験されたことはありますか。少し大きく言うと、日本と欧米との違いまで含めて、自分が日本人だと思うようなことは?

木村:そうですね。日本であまり聞こえてこないんですが、向こうで確実に作家として成功し、かつビジネスとしても成功させている人というのが、結局大勢を占めているんですよ。

山下:向こうでは。

木村:うん。日本に聞こえてくるニューヨークの状況なり、ヨーロッパの状況も含めて、重要視されている作家は、もちろんスーパースターなんですけど、それは間違いないんですが、それはもう、むしろ偉すぎる人たちで、そうじゃなくて、実際に現役のアーティストであり、アートビジネスの中でも結果を残せる人たちというのが、日本にいたら見えないなと思いましたね。そういうすごい人がたくさんいるというとこですね、アメリカは。

山下:たくさんいる、そうですか。そういった方々の表現は、割とミニマルな方なんですか。

木村:いや、もう、千差万別。

山下:千差万別ですか。

木村:うん。頑固にも自分の表現を通すよね。

山下:そうか。それぞれの各自の関心の、さまざまな表現が、アートシーンで受け入れられているということなんですね。

木村:そうです。

山下:多様性の時代に入っていきますし。

木村:というか、その多様性というよりも、もう一つ大事なのは、アメリカの美術というのはやっぱり文脈、評価が歴史的な文脈に忠実なんですよ。ミニマルとコンセプチュアルを体験したのちに、出てくるべき表現。出てき方というのは、ニューペインティングあり、ミニマルのその先というのもあり、なんですけれど、歴史的文脈はすごく受け入れる側にも重要視するところがあって、逆にビジネス的にもうまくいってないんだけれども、「文脈確実に押さえてるよね、この人は」という人は、美術館がきちっと評価するというところがあるんですよ。

山下:なるほど。

木村:そういう意味で、アメリカって分かりやすいですね。

山下:それがまたアートシーンに流れていくという。

木村:うん。日本みたいに何でもありにならないんですね、そういう意味では。

山下:文脈を、理解しているのかどうか。

木村:そうです。だから、文脈を一応勉強して、それなりの回答を自分の制作の中で考えたら、いけるんだな、この国はと思いました。なので、帰りたくなかったですよ。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:日本って、訳分かりませんでしょ。

山下:いわゆる身近な物語というか。

木村:突然何でもありになるし。文脈って、きちんと誰が押さえてくれんの? というところもあるし。

山下:はい。ただ、このときはMAXI GRAPHICAも始まっていて、展示の方で大きな作品を試みていたのですが、留学先ではそういう大きい制作はできずということで。

木村:ええ、全くできなかったですね。なので、chestnutのイメージを。

山下:温めていた時。

木村:温めるというのかな、描き、写真に撮り、レタッチし、描きという。写真化というプロセスの中で、ニュートラルと言えるようなchestnutのイメージを作り出して、それをユニットとして反復することで、ある絵画空間、成立させられるんじゃないかという構想があって、それのユニットを作ることだけやってました。

奥村:それは、具体的には、リスフィルムを作っていく形ですか。

木村:そうです。リスフィルムを使って、フォトグラムの方法でやるというやつ。

山下:反復という意味では、断片の連なりではあるんですが、少し《冬のライオン》とかから飛ぶというか。

木村:そうですね。反復ということが入ってきますしね。

山下:飛ぶのですが、そこには今のお話を聞いて、やっぱり留学先での状況とか、暗室での制作とか、あるいはフォトグラムをやってみようとか、そういうところが関係してるのかなと、お聞きして。少し視点が変わるのかなという。

木村:うーん。やっぱり、この辺からは、絵画空間とか、キャンバスを前提にしているとていうかね。サイズ的にも100号以上というのを前提にしていて、その空間を埋めるという気持ちになってたのでね。

山下:やっぱり、木村先生を読み解く難しさを感じてきているんです。絵画が別に嫌いなわけじゃないんですね。

木村:そうです。

山下:ですよね。絵画性は好きで、近代絵画からの流れの次の、流れとしてのニューペインティングに何か、違和感があったんですけど、描写や、やっぱり絵画性は自分の表現として一つ持っていよういうか、試みたい部分でもあるんですか。

木村:そうですね。壁に掛ける四角いフラットなものというのは、場としては重要かな、やっぱり。

山下:ああ、はい。少し、この変化がそれで私は分かってきたなと思いました。留学先の様子もお聞きしたくて、すごくお話を伺えてよかったのですが、もう一点だけ。海外の1980年代後半のアートシーンで、大型の版画もあったんですね。ニューヨークのアートシーンでも大型の?

木村:ありましたね。

山下:ありましたか。

木村:ええ。ステラとか、ああいう、超有名な人たちですね。版画というのは、制作にお金がかかるんですね。設備も必要ですし、だからエスタブリッシュの人がオリジナルを買えないコレクターのために、ちょっとレプリカを作るみたいなノリがあるんですよ。

山下:ふうん、そうなんですね。

木村:日本でも同じような状況はあるんですけどね。なので、版画をやる人というのは、ちょっとした覚悟が必要ですよね。

山下:そうか、なるほど。

木村:成功したペインターなり、スカルプターなりが、ディーラーにもお金を出してもらって、ある工房へ行って、そこのプリンターのテクニシャンとなんやかんや打ち合わせながら作っていくもので、そういうコネのない、お金のない人たちには夢の夢なんですよ、そういうのは。それでも版画をやろうという人たちは、畢竟、どういうのか、ほんと、しこしこやるしかないよねということになるんです。

山下:なるほど。すごく状況が見えてきます。ありがとうございます。

木村:アメリカで版画やり続けることは、すごく厳しいですよ。

山下:厳しいんですね。そうですか。あれだけギャラリーが多くてもってことなんですね。

木村:ええ、そうです。

山下:MAXI GRAPHICAに戻ろうかと思うのですが、留学中もMAXI GRAPHICAは動いていまして、その4回の大きな展覧会で何かメンバーの中でのテーマ性みたいなものがあったかと思います。冊子も見ているのですが、もう一度木村先生の口からお願いできますでしょうか。

木村:固定メンバーにしないでおこうという、展覧会をやるたびにちょっとメンバー変えようというのがあって、長尾(浩幸)くんとかに声をかけて、彼はほとんどMAXIのメンバーとして動いてもらってるんですけど、それ以後、それ以外にもわれわれの考え方と共鳴できるんじゃないかなと思っている人たちに声をかけて、そういう人たちは基本的に招待するという形で、あと2回やったんですね。

山下:作品を作る内容に関しては、各自に任せているということで。

木村:そうですね。おおよそ意識は共有できているということですね。

山下:そこで2008年に一区切りをされるということに至った経緯も、もう一度教えていただけますか。

木村:結局、話がすとんと落ちてしまうところもあるんですけど、お金が続かないんですね、結局。

山下:ああ、そうか。予算の問題も大きいですね。

木村:それぞれに家庭もあり、個人的に発表しているということもあり、事情がさまざまあって、MAXI GRAPHICAにお金をつぎ込めなくなってくるんですよ。

山下:なるほど。やはりグループを維持するというのは、大変なんですね。

木村:そうですね。だからやっぱり、こういうグループを運営するとなったら、集金システムをどこかで確保しておかないと難しいですよ。結局、団体展は、会員の寄付と応募者から出品料を取ったりとかということになるんですね。

山下:ああ、そうですね。会員がいっぱいいて。

木村:ええ。だから、団体展的なやり方は絶対やりたくなかったので、というのは、われわれ、どこかにデモクラート美術家協会の末裔という意識があるんで、団体展全否定で立ち上がったグループですからね。「ああいうの、やめとこな」というのが最初から無言の了解としてあったんで。出品してもらう人にお金出してもらうなんてのは考えられなかったし。

山下:あと、MAXI GRAPHICAとしての展示は、京都市美術館や関西の方でやっていこうというような思いで?

木村:いやいや、どこでも。アメリカにいた頃には画廊を回って、飛び込んだところが、「いいよ」と言ってくれて、サンフランシスコでやりましたよ。

山下:ああ、そうですか。すいません、勉強不足で。

木村:ヴォーパル・ギャラリー(Vorpal Gallery)というとこなんですけど。飛び込みです。そこにディレクターもたまたまいてくれて、資料を見せて。「やったらいいよ」と、「できるよ」と(仲間に)電話して。

山下:ああ、すごいですね。

木村:メンバーも来ましたよ、サンフランシスコに。

山下:こういう冊子をお見せしてという。

木村:そうです。冊子も、あと作品写真とか、資料を見せて。

山下:そうか、別に関西にこだわりはなくて。

奥村:ヴォーパルは浜口陽三さんをやっていたり。

木村:ああ、そういうこともあるのかな。ヴォーパル、ニューヨークにもヴォーパルがあるんですけども。割に通俗的なイメージのあるギャラリーでもあるんですよ。

山下:そうなんですか。

木村:だから、ニューヨークでわざわざボーパル見に行こうかなとは、思わないと思う、みんな。サンフランシスコの方はちょっと雰囲気違って、オルタナティブスペース的な匂いもあるんです。かなり広いしね。他のメンバーみんな、それぞれ大きい作品を持って行っても、充分展示できるスペースを持っていましたからね。

山下:メンバーの方も会場確認はしないけれども、作ってから持っていって?

木村:持っていった人もいるし、旧作でした。僕の場合は旧作を送ってもらって。

山下:そうなんですか。現地で制作というわけではなくて。

木村:そうですね。

山下:MAXI GRAPHICA展は海外展のときの、現地の方の反応とかはありましたでしょうか。

木村:大成功じゃなかったですね。

山下:そうなんですか。

木村:でも、作品1点ずつ、みんな売ってもらいましたけどね。

山下:それはすごいですね。

木村:あのディレクターの力なんだろうと思いますけどね。オープニングレセプションもやってくれて。淡々と終わったって感じがするんです。でも、僕の思い出としては、サンフランシスコにメンバー全員集まって、今日オープンよっていうのを、ちょっと高揚してるわけじゃないですか。そのときに、サンフランシスコ市立美術館でアゲインスト・ネイチャーをやってたんですよ。(注:「アゲインスト・ネイチャー 80年代の日本美術」展は、1989年6月15日から8月6日かけてサンフランシスコ近代美術館で開催された。その後、アクロン美術館、マサチューセッツ工科大学、シアトル美術館、シンシナティ美術館、ニューヨーク大学(グレイ・アート・ギャラリー)、ヒューストン現代美術館と巡回した後、ICA名古屋で帰国展を開催した。)

山下:すごいですね。

木村:現地ではあっち側が話題になっている展覧会なんですよ(笑)。

山下:ああ、そうか。あれは話題になりましたね。

木村:ニューヨークのグレイギャラリーかなんかでやって、それが多分、サンフランシスコに行ったときに遭遇したんですよ。

山下:そうだったんですか。そのタイミングですか。

木村:うん。そのとき初めて、ダムタイプの展示とか、見ましたけどね。舟越桂さんとか、平林薫、それと森村泰昌ね。

山下:そうですね、森村さんですね。

木村:日本の現代美術、アメリカに持って行って、初めて成功した展覧会ですね。

山下:そうですね。雑誌の反響がすごいいっぱいですよね。

木村:オーガナイザーもアメリカ人ですかね、あれ。

山下:はい。(注:キュレーターは、キャシー・ハルブライヒ、トーマス・ソコロフスキー、河本信治、南條史生の4名で日米2名ずつ)。

木村:ジャパンバッシングを越えて、Japan as No.1という、その背景があっての話でしょうね。それまで日本の現代美術なんて、ないに等しいわけですよ。何かやったら、「真似や、真似や」と言われてね。

奥村:うんうん。

山下:ああ、そっか。

木村:例外的に、例えば、河原温、荒川(修作)という、すごく高い評価得ていた人も、アメリカ在住で、基本的には。

奥村:高井貞二さんとかもね、何人かはいはるけれども。

木村:うん、川島猛さんとか。

奥村:ああ、はい。やっぱり、市場が大きいから、向こうで活動して評価を得ていても、日本までそんなに聞こえてきてなかったり。

木村:それ分かります。

奥村:向こうは向こうで、淡々とできてたり。

木村:うん、そうです、そうです。アーティストって日本では単なる、自分で名乗っているだけの話じゃないですか。アメリカのアーティストって、それで食べているんですよ。

山下:市場と市民の意識も違う。

木村:そうですね。マーケットが全然違いますね。

奥村:だから、かっちりと買う人がずっといて、待っていて、桑山忠明さんが売れたときは、本人が「もう辞めたい、早いことこの分、終わらないかな」と言っていたらしいぐらいに、作っても作っても、売れて売れて、また作るまた作る。

木村:一度言ってみたいですね。

奥村:「やってられない」って。

山下:それだけ違うんですね。ありがとうございます。そうですか、サンフランシスコ。

木村:はい。アゲインスト・ネイチャー、大成功という状況の中で、やらせていただいたんですけどね。

山下:そっちの人が、こっちの展示も見に来られたとかいうことはなかったんですか。

木村:いや、もう、彼らはいなかったです。もうレセプションがあったのかどうかも知らないし、展覧会開催中ですよというだけなんでね。

山下:ああ、そうですか。

木村:むしろ、ニューヨークで森村君とか、椿昇、あの二人とニューヨークで飲んだ記憶がある。

山下:ああ、そうなんですか、森村さんと。いろいろ状況が見えてきます。ありがとうございます。もう一点だけ、MAXI GRAPHICAに関しては、今から振り返ってのこと、改めての思いなんですが、次の世代に結構、MAXI GRAPHICAという運動体は、影響は与えていると思うのですが、そういうMAXI GRAPHICA以後の木村先生の周辺の、次の世代の版画の方々から、何か影響を与えたなというようなことへの思いみたいなものはありますかということが一つと、逆に、その前の木村先生の師匠にあたる吉原先生などはどういった反応だったのかという、それぞれの軸の振り返りを最後にお聞きしたいと思ったんですが。

木村:世代的には僕の教え子にあたるような人たち、池垣(タダヒコ)くんとか出原(司)氏、出原氏は歳近いですけど、長尾、大島成己とか、大西(伸明)君であり、吉岡(俊直)君でありという、ああいう人たちがやっぱり頑張ってほしいなという感じはありますよね。バトンタッチしたような気分で、いったん休止に入ってるんですよ、僕としたら。

山下:ああ、その辺をお聞かせいただけたら。

木村:長尾君とか、出原、池垣、濱田、あのあたりに、「次、おまえら何とかせいよ」という感じで、バトンタッチしたような気分ではいるんですけど、それがうまくいったかどうかっていうのは、クエスチョンなんですけど。

山下:次の世代への刺激を、このGRAPHICAで与えていって、いわゆるニューペインティングの流れであいまいになっていかないようにしていこうということの、メッセージ性を発したかったということですか。

木村:そうですね。個々人としてはみんな、正しく受けてくれてるとは思うんですけど、運動体にならないですね、あの世代は。

山下:MAXI GRAPHICA開催中は、やはりその次の世代の方たちも結構見に来てましたか。

木村:はい。

山下:失礼ながら私とかは、このMAXI GRAPHICAがあるかないかは、大きいんじゃないかと思います、1980年代後半。

木村:それなりに波紋は作ったと思うんですけどね。

山下:はい。木村先生もそういうふうに、今振り返られると感じられますか。

木村:そうですね。思っていたよりも、重要視してもらってるかな。

山下:逆に、木村先生の先生に当たる、吉原先生などから何かコメントとかはいただいたんでしょうか。

木村:具体的なコメントは記憶してませんけども、僕の個人的な吉原先生観というのがあって、吉原さんというのは、のちにリトグラフで有名になられた方なんですけど、基本的には近代絵画をやりたかった人だと思うんですよ。抽象絵画がやりたかったのと違うかなという思いがあるんです。基本的に僕がその版画教室に属したとき、直後から、写真じゃないですか。

山下:そうですね。

木村:なので、それほど高く評価はしてもらってないと思いますね。作品に関しては。

山下:ああ、そうなんですね。ちょっと意外な。

木村:生徒としては、すごいかわいがってもらったと思いますけど、作品批評に関して、僕の作品を高く評価したという記憶はないね。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:そうこうするうちに、専攻科を出ちゃって、その直後に東京国際版画ビエンナーレでしょ。そこからは、おまえはおまえなという感じになっていますから。

山下:ああ、なっていたんですか。あまり作品の話はされないということですか。

木村:状況の話はしますけどね。

山下:なるほど。吉原先生がMAXI GRAPHICAとかをどう見ていたのかと思いまして。

木村:よしよしと、思われていたとは思いますけども、彼のやっぱり作品感というか、絵画感、あるじゃないですか。そこを突き詰めたところから眺めたときに、木村作品なり、出原作品がどう見えていたかということを考えるに、高く評価するということとは違うかなと思うけどな。何か訳の分からんことやりやがってという感じの方が、強かったような気がする。

山下:版画の次の可能性を提示していってるということでも、なかったんですかね。

木村:そうですね。近代絵画の人ですよ、吉原さんは。

山下:木村先生は、ただ、吉原先生との親和性というか、なんだかんだで、たまにモチーフとかでもやっぱりひかれてしまうとか、影響を受けているとことは、自覚されたりとかはありますか。

木村:そうですね。初期の頃はやっぱり、断片的なイメージをアイソレーションしたときの画面の強さというのは、吉原さんの足のイメージとかは、影響されていると思いますしね。

山下:無意識なものですか。いつも吉原先生の動きを見ておられたというような形ですか。

木村:感じではないです。

山下:ないけれども、自然と出てきてしまうみたいな感じですか。

木村:そうです。初期ですね、やっぱり。

山下:初期ですか。木村先生は、高松次郎さんへのお話もあったので、違うかなとは思うのですが、吉原先生のようにそういう身近すぎるとかえって反発することも、学生にはありますが、要するに違う表現をやっていこうというわけではないんですね。

木村:どういう意味?

山下:吉原先生の研究室に入っていって、自分がどういうことをやっていこうかというときに、吉原先生とはちょっと違う可能性を追求していこうみたいな意識です。

木村:もちろん、そのつもりでした。

山下:ああ、そういうつもりでしたか。

木村:はい。すぐ上の先輩に何人か、吉原さんとそっくりな作品作る人たち、いたんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:うん。それなりに、吉原さんとしては評価もされてたからね。そういうこと、したくなかったですね。違うことやろうと思ってましたね。

山下:そうか、近くて遠いみたいな関係ですね。ありがとうございます。ちょっと進めまして、奥村さん、いいですか。

奥村:大きい話ですけど、吉原さんとかはやっぱり分かりやすい、取っつきやすさと、分かりにくさ、分かりにくいとこがある。分からないところがなかったら作品は魅力がないけど、ぱっと分かからなかったら取っついてもらえないというところを、両方、そのバランスをどう取るかということを考えていったような気がして、表現は全部みんな違うけれども、何となく作品を作るときに、どうも共通してみんな考えているような気はする。

木村:吉原さんって、知的な作家ですからね。やっぱり、吉原さんを分かろうと思うんだったら、池田満寿夫と比べる必要があると思います。満寿夫さんとの違いを見ると、吉原さんが分かる感じがするんですよ。

奥村:エロティシズムという、例えば一言で言えるものでも、両方にあるんだけど。

木村:池田満寿夫のエロティシズムって、そのままですから。

奥村:例えばね。

木村:英雄さんなんか、そんなの全然興味なかったと思いますよ。

山下:そうなんですね。

奥村:でも、エロティックって言われる。

木村:呼ばれちゃうんですよ。

山下:断片的に、そうですね、身体の。ありがとうございます。

奥村:進みましょうか。

山下:はい。1980年代後半の、これは確認になるんですが、思い出していただいて、1989年にユーロパリアジャパン現代日本美術展へ出品されたり、1992年には高島屋文化基金では新鋭作家奨励賞を受賞していく。1995年のときは連続して、これは600点ぐらいの結構大きな展示となったんですが、「戦後文化の軌跡 1945-1995」展という目黒美術館での出品と続いていくのですが、このときは、フォトグラムによる製作かとは思うのですが、こういった出品が続くときの関心であるとか、制作姿勢に関しまして、改めて確認ということで聞かせていただけますか。

木村:ユーロパリアジャパンに出品したのは、《冬のライオン》周辺のものです。何点か出品させてもらったと思います。それから、何でしたっけ。

山下:髙島屋文化基金で、新鋭作家奨励賞を受賞されます。

木村:そうですね。あれは、これまでの木村の実績みたいなものを、トータルで評価していただいていると思うんですね。髙島屋で展示させてもらったのかな。そのときは、chestnutのシリーズになっています。「戦後文化の軌跡」に関しては、正木基さんの企画の展覧会なんですけど、あのときに出したのは、鉛筆です。あれは結局、1970年代のエピソードという感じで選んでもらってるんだと思いますよね。

山下:そうしたら、留学後のchestnutシリーズに関しての探求を、この時期は続けておられたということで、何か出品先とは関係が別に、制作に影響しているというわけでは……

木村:その三つに関してはないですね、ほぼ。むしろ「版から版へ」という展覧会が、1990年ぐらいにあるのかな。(注:「版から/版へ」展、京都市美術館、1989年。)

奥村:1989年。

木村:1989年ですか。あれ、帰国後最初の展覧会なんです。あそこで、chestnutのシリーズを発表したスタートかな。

山下:京都市美術館ですね。それはやっぱり、留学先で少し絵画性のある反復、積層への関心の高まりを、帰ってから披露していきたいという。

木村:はい。その辺の実験をやっていたんですね。

山下:分かりました。その「版から版へ」の前の確認になりますが、これまで1980年代のお話を伺ってきて、作品ではなく、関西の作家同士と木村先生の交流やつながりをお聞きしておきたいのですが。例えば1977年だったら、吉田克朗さん、上矢津さんと三人展、1982年は田中さんと二人展、1987年は石原友明先生と二人展をされています。こういう1980年代のときの、作家同士の交流はどういった形だったんでしょうか。(注:吉田克朗、上矢津と3人展は春光画廊(大阪)で1977年に、田中孝と2人展は、南天子画廊(大阪)で1982年に、石原友明と2人展はギャラリービュー(大阪)で1987年に開催。)

木村:一番濃いのが、大阪芸大の泉茂教室、人脈と親しいんです。それは、吉原さんと泉茂さんがデモクラート(美術家協会)の同人であったということもあり、関西の美術大学で版画を教える場所としての共通性もあり、吉原さんから紹介してもらっているんです、その辺の人脈は。これは元永さんとか、具体の人たちにも広がってはいるんです。それと、吉田克朗さんに関しては、東京国際版画ビエンナーレに初めて出品させてもらったときに、オープニングレセプションの日に吉田克朗さんが、銀座じゃなく京橋かな、どこかのギャラリーでちょうど個展をやっておられて、同じ出品者であった鈴鹿芳康さんという、京都芸大の版画の非常勤の先生なんですけど、彼が連れていってくれて、その吉田さんの会場に、紹介していただいたのが最初なんです。それ以来、どういうわけか、吉田克朗さん、僕のことものすごいかわいがってくれたんですよ。

山下:それは縁なんですね。

木村:ええ。ほんとに、関西で個展をやっていたときに来てもらってたりとか、鎌倉のご自宅にも何回も寄せてもらって、泊めてもらったりもしてますし、奥さんもよくしてもらったし。といえども、もの派人脈には広がっていかないで、もの派の中でも、吉田克朗さんというのは特異だった、そういう立ち位置だったんだと思うんですけど、克朗さんの教え子たち、美学校とか、明星大学にもおられたし、そのあたりの人脈とも親しくなってるんですよ。

山下:そうやってつながっていく。

木村:だから、池田良二とか、ああいう人たちも、あれは吉田克朗さん通しだと思うんですよ。

山下:そのようなつながりは、定期的に食事をされるとか、遊びに行くような交流、一緒にギャラリーを見て回るような、そういう何か仲間のつながりみたいなものでしょうか。

木村:大阪人脈に関しては、飲んでる感じかな。常に飲んでるっていう。その場には泉茂がおり、吉原英雄がおり、船井裕、山中嘉一、いわゆるデモクラート同人の人たちがいて、時には元永(定正)さんが混じっていて、その年代の人たちの教え子たちがざーっといるわけですよね。

山下:それは大阪で集まって?

木村:主に大阪ですね。

山下:木村先生も行かれていたということですね。

木村:そうです。オープニングパーティーは結構盛んでした。

山下:オープニングパーティーでみんな集う感じですか。一緒にギャラリーを見に行くような仲のいい、親しい方も、メンバーもそうですが、他にもいらっしゃいますか。

木村:MAXIでしょ、まず。MAXIのメンバーと、あとは、教え子ですね。池垣、吉原英里、伊庭靖子に至るまで、あのあたりですね。大島成己、大西君だけ、ちょっと違いますけどね。

奥村:ちょっと年下ですもんね。

木村:うん。大西君はまたちょっと、つるまないタイプなんでね。

山下:そうですか。1980年代後半は、木村先生は制作しつつ、割と外に出てそういう友人と結構いろいろ出かけたりされるような生活だったんでしょうか。

木村:そうです。

山下:一人でこもっているというよりも、結構交流をされているというような。

木村:そうですね。飲むということに関して言うと、回数的には長野五郎、前回もお話ししたと思うんだけど、あと、林剛、この辺が意外と多いんですよ。

山下:ああ、そうですか。少し違うジャンル。

木村:林剛というのは特異な人でね。京都芸大の構想設計の起ち上げに関しても重要な役割果たしている人なんですけど。彼にも結構影響されましたよ。

山下:そうなんですか。飲みに行くということは、だいぶ親しかったという。

木村:ええ、親しいですよ。お宅にもお邪魔してますし。

山下:そうですか。少し、そういったつながりをお聞かせいただければと思って。

木村:先ほどのような学生時代ですけども、もちろん授業時間中は制作してますけど、夕方から酒盛りが始まるじゃないですか。

山下:そうなんですね。

木村:そのまま祇園に移動。だから、二部が始まるでしょ。

山下:祇園ですか。

木村:基本は祇園。

山下:なんか、いいとこですね。

木村:さらに三部の部分で、林剛とかが出てくるんですよ。

山下:深夜ですね。

木村:あの人たちも徘徊してるんです。

奥村:合流するんですね。

木村:そうそう。合流じゃなくて、離れるんですよ、僕は。吉原グループは林剛と一緒に飲みませんから、絶対。話合わないもん。

奥村:ああ、そっか。まあ、そうでしょうね。

山下:木村先生の交流ぶりが見えてきます。

木村:吉原、堀内、八木、あの三人、常につるんでるでしょ。われわれも周りにたかってるじゃないですか。そこへ例えば林剛なんかが遭遇したら、けんかなんですよ。なので、林剛と飲んでるときは、こちらのグループとは離れてます。長野五郎と三人ですね。

山下:お互いの作品の話もするんですか、お酒の場ですが。

木村:そういう話しかしないんですよ、林剛周辺は。

山下:ああ、そうですか。

木村:むしろ吉原さんグループは、あまりそういう話はしない。吉原さんはするけれども、泉さんなんかは絶対しないからね。

山下:そうですか。

木村:大阪グループって、そういうのはね、ダサいんですよ。

山下:なるほど。露骨すぎるというか。

木村:「酒飲んでんのに、何をしょうもない話しとんねん」という話になっちゃうわけ。すごい違和感ありましたよ、だから。英雄さんって真面目だから、それこそ大阪人脈から離れて、われわれのいわゆる版画研究室グループだけになったら、作品の話か、状況の話しかしない人なんですけどね。吉原さんは。

山下:そういう自然なつながりの中で、今思うと、木村先生として、すごく気になっていたメンバーとか、ひかれていた作家とか、いらっしゃいますでしょうか。

木村:その時期ね。

山下:あるいは、あまりそこまでは関係ないとか。

木村:高松さんとそれ以降の、高松に対して何らかの返答を試みてる連中、もの派もそうですよ。関西だったら、柏原えつとむさんとかね。あの辺、追ってましたね。

山下:柏原さんですか。印象深かった展覧会についてという質問もあるのですが、柏原さんとかですか。

木村:ああ、柏原さんは、ちょっとおっかけやってましたね。

山下:ああ、そうですか。そこまで。

木村:ええ。「方法のモンロー」とかになってきたときじゃないやつ。

山下:ないやつですか。

木村:その前の、ちょっとミニマルな、窓枠のようなイメージをやるじゃないですか。あれにちょっと、取りつかれちゃって。

山下:そんなにですか。

木村:うん。面白い絵、描く人いるなと思ってました。

奥村:どっちが先でしたっけ。

木村:だからMr. Xと、あと三人で、第三者を作り出すというのが、すごく高く評価され、それ以降の、どちらかと言うと、コンセプチュアルな展開みたいなものもスポットライト当てられて、美術史の中でもそれなりの位置づけというふうにされているけど、僕、興味あるのはそっちじゃないんですね。(注:柏原えつとむの小泉博夫、前川欣三と協働した作品は《Mr.Xとは何か?》(1968~69年)。)

奥村:ペインティングの。

木村:うん。

奥村:長野五郎さんも、Mr. Xでもあったですけどね。

木村:あと、福岡道雄さんとか好きでしたね。最初に信濃橋でやらせてもらうときに、福岡道雄さんの推薦があったということもあるんですけど、入り方も変なんですけどね。あの人の立ち振る舞いが、他の人と違うなと思っていました。

山下:そうなんですね。そうか、柏原えつとむさんか。ありがとうございます。

木村:あの時期、ジャーナリスティックに評価されていた人というのは、河口龍夫と、村岡三郎なんですよ。その二人って、もう全然性格も違うし、共にコンセプチュアル・アートの代表というとこにやられちゃう傾向があるけど、全然タイプの違う人でね。村岡さんって、ほんとに人情味のある、どう言ったらいいのかな、大阪のおっちゃんなんですよ。ファンが多かった。河口さんいうのは、もうちょっと高松さん寄りというか。

山下:そうですね。ストイックな感じが。

木村:理論派に見えるという人だったんですけど。

山下:見える。はい。

木村:その後続の世代のわれわれは、どちらかファンになるわけじゃないですか。圧倒的に周辺は村岡さん一派だったんです。

山下:そうなんですか。それだけ、カリスマだった。

木村:僕はだから、両方嫌いでした。

山下:(笑)

木村:落ちとしては、福岡さんの方がすごいと思ってました。

山下:面白い話ですね。そういう空気があったんですね、やっぱり。関西の芸術家の中には。

木村:うん。空気もあるんじゃないですか。今でもあるでしょ、きっと。

山下:うん、ありますよね。そうか、面白いな。そうやって飲んだり、集まって、制作をされてたんですね。

木村:関西人が好きな関西作家っていうの、いるんですね。村岡さんですよね。

山下:村岡さんですか、そうか。ありがとうございます。あと、美術評論家の方とのつながりについても、中原さんなり、ありましたら、お聞かせいただければと思うんですが。

木村:一番親しいのは、乾由明さんですね。最初に引っ張り上げてくれた人でもありますし。あと、高橋亨さん。吉原さんが顔の広い人でしたからね。岡田隆彦さんとかね。中原さんものちに知ることになりますし、針生さんなんかも結構(繋がりがあった)。

山下:そういう評論家の方との出会いは、展覧会を通してですか。

木村:そうですね、主に。東野芳明さんは、最初お目にかかったのは第9回東京国際版画ビエンナーレ(1974年)の総合コミッショナーだった。日本のトップだったんですよ、オーガナイザーのトップというか。推薦してくれたのは、乾さんなんですよ。出品して、京都国立近代美術館賞をもらうんですけども、最後まで大賞を競うんですよ、一応、僕が。東野さんの反対で、大賞もらえないんですよ。

山下:ああ、そうだったんですか。

木村:そういう出会いでもあり、のちに山本容子絡みで、比叡平で飲んだこともあるんですよ、東野さん。

山下:そうなんですか。こっちに来られて。

木村:この団地の中に飲み屋さんがあってね、昔。今はもうなくなってるんですけど。そこで飲んだんですけども、話はあまり弾まなかったっていう記憶はあります(笑)。

山下:ああ、そうなんですか。

木村:向こうも「何やねんこいつ」と思っていたと思うし、こっちも東野さんのために、「俺、大賞もらえなかったぞ」と。そこまで露骨じゃないけども、出会いとしてはそうなんですよ。東京国際版画ビエンナーレ絡みで言うと、オープニングレセプションのときに大々的なパーティーをされていて、久保貞次郎さんにもお目にかかってるんですよ。向こうから声を掛けていただいて。

山下:ああ、そうなんですか。

木村:うん。久保さんにしたら、木村は吉原の手の者でしょ。なので、縁深き人脈の中にいる木村なんですよ。(注:久保貞次郎は、瑛九らが設立したデモクラート美術家協会の活動を支援した。)ところが、僕がそういうふうに認識してない。

奥村:その頃知らないですかね、デモクラートのあの辺の話。

木村:「何やねん、あのおっさんは」という。生意気盛りで、いきなり出した展覧会で賞もらって、ちやほやされてるわけですよ。とても失礼な出会い方しちゃってて。

山下:そうなんですか。

奥村:久保さんにしたら、1回目のときに、いきなり泉さんが賞を取ったと、かぶっていると思ったかもしれないぐらいに、今だったら思いますけどね。

木村:なるほどな、うんうん。もうちょっとね。

奥村:1957年のあのときの泉と、1974年の木村って。

木村:うん。謙虚な対応、なんでできなかったんだと思って、すごく反省してます、それは。

山下:そんなに、飛ぶ鳥を落とす勢いというか。そういう美術評論家の方と接触したあとというのは、その後々につながっていくような、展覧会でもお会いしたり、言葉を交わしたりする機会も増えていくんでしょうか。

木村:そうですね。岡田さんなんかは結構飲んだこともありますよ。吉田克朗さんが親しかったですからね。

山下:そういう美術評論家の方との時間は、自分の作品の話をされるんですかね。

木村:うん。そういう話になるときもありますけど、基本的に、多分批評家って好きなんだと思いますわ。

山下:ああ、木村先生が。

木村:うん。そういう時代に育ったというのもあるんですけど。反発もありながら、言葉が好きというかね。なので、吉原さんにしても、大阪の泉人脈にしても、批評家なんか嫌いなんですよ。権力者然として結局振る舞うように見えるわけ、作家からは。

山下:はい。そういうのありますよね。

木村:展覧会のオーガナイザーサイドにいるわけでしょう。

山下:そうですね。テーマも。

木村:取捨選択される側じゃないですか。

山下:そうですよね。その辺どうなのかなと思って。

木村:言葉で位置付けられたり、価値付けられたりするわけでしょ。だからよく言ってはましたよ。「人のふんどしで相撲を取りやがって、何やねん」とか、東野さんのことかな、中原さんのことか知らないけども「絵画は終わりやって言ってたで」って、元永さんなんか。

山下:ああ。言ってましたね。

木村:元永さん、しゃあしゃあと絵を描いてましたやんか、ずっとね。「1960年代、絵画終わりや言ってたで、あいつは」とか、だからある種のこう、反発と。

山下:反発も、はい。でも惹かれた。

木村:そこに何となく仲間になるでしょう、彼らも。批評があった時代というのは面白かったですよ。僕はそう思います。

山下:はい。美術評論家の方は、結構関西にも来られていたんですか、今の乾さんや針生さんも。

木村:うん。ギャラリーでよく出会いましたよ。

山下:ああ、そうなんですね、へえ。

木村:癖のある人もいたしね、赤根(和生)さんとか。

奥村:赤根さん。

木村:中村敬治さんとか。峯村(敏明)さんなんかもよく来られてました、関西に。

山下:ああ、峯村さん。そうですか。

木村:そういうときに、ギャラリー16あたりが場所になるんですね。

山下:そういうお話を聞かせていただけると、ありがたいです。針生さんの思い出は話ありますか。

木村:あります。針生さん、僕のこと買ってくれててね、晩年。

山下:ああ、ほんとですか。

木村:うん。彼はやっぱりマルキストということがあり、かつ具象絵画を保持していこうというようなポジション取りだったでしょう。結局、中原さんとか東野さんが状況のヘゲモニーを握る中で、御三家といわれつつも割にこう、片側に寄せられるような傾向があったんですけど、そういうことと重ねて、版画のことを見ていたみたいなんですよ。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:うん。あれで、海外の展覧会に推薦してもらったことありますよ。

山下:ああ、ほんとですか。

木村:クラコウだったかな。ずっとあとの方ですよ。

奥村:直接お会いしたりも。

木村:はい。何度か。すごいスモーカーなんですよ。

山下:ああ、そうか。写真もありますね。

木村:晩年八十幾つになられていたときに、「肺がんや、肺がんやねん」と、それでばんばん吸ってるわけ。

山下:ああ、ほんとですか。雰囲気そのままですね。

木村:うん。あと木村重信さんも親しかったですよ。彼もスモーカーでした。さすがに最晩年はやめられたけどね。国立国際美術館の館長を辞められて、別の館長さんになっていたときに、オープニングパーティーですでに会場は禁煙ですよ。重信さん、われわれ周辺を気遣ってか、「うるせえ。吸えんるんや」と言ってらして、「かまへん、かまへん」みたいな。重信さんそういうノリの人でしたからね。

奥村:ああ。それは。

山下:そういう美術評論家の方とのつながりが、何か木村先生の思考や制作に影響あったということはありますか。今振り返りますと。

木村:影響、すごく受けてると思いますけどね。直接的なものじゃないけども。

山下:考え方とか。

木村:そうですね。言葉には影響されていると思いますよ。宮川淳さんには、会ったことないですけどね。

山下:宮川さん。ありがとうございます。進みまして、1989年に「版から版へ」ということと、1990代の話に入っていきますが、1999年には個展で「半透明」ということで、京都市美術館で開催しますが、このタイトルをお考えになったことと、京都市美術館での開催となった経緯に関して、改めてお聞かせいただけますでしょうか。「Misty Dutch」シリーズにも入ってきているかと思ったんですけれども。(注:グループ展「版から/版へ」は1989年に、個展「半透明」は1999年に京都市美術館で開催された。)

木村:「半透明」の方ですか。

山下:はい。タイトルもやはりコンセプチュアルでテーマ性が入っているなと思いまして。

木村:そうですね。

山下:それに、このタイトルに至る経緯についても、改めてお聞かせいただければと思ったんですが。

木村:半透明というのは、透明と不透明の中間ですよね。視覚的に言うと、すりガラスを想定したようなイメージですね。でも、版画というジャンルの存在そのものもそうですし、僕が要するにメインで使っていたその素材というのは、写真製版のシルクスクリーンによって生み出された被膜的なものですし、それをどう構築していくかということを考えるにあたっては、すごくこう、重要な言葉なんですよ。

山下:はい、半透明がですね。

木村:ええ。透明でもないし、不透明でもないという意味ですね。中間領域というか。

山下:やはり、そういった場を平面上に浮き上がらせることで鑑賞、見る者へそういう視覚認識に関して、改めて問い直すような場を作ってみたいというような。

木村:そうですね。

山下:可能性として。

木村:そうです。

山下:被膜、半透明という、もう一度、版というものの存在を。でもそうか、絵画性もありますよね、それは。

木村:うん。ちょっとうまく言えないんですけど、視覚的というのはすごい大事ですね。概念的でもあるんだけれども、見えるようにしようと思ってやっているので。見えるようにする場としての絵画というのが重要になります、そういう意味で。

山下:それはこの頃に、このモンドリアンへの関心が出てくるのは、結構断定的に作家名が出てくるのですが、そのひらめきというのは。

木村:そのきっかけ、僕の場合、ノマルエディションという大阪の工房があるんですけどね。版画工房が。そことの関わりって結構重要で。

山下:はい。1989年のことですね。

木村:工房主催者の林聡という人がいるんですけど、彼がコンピューターにものすごく詳しいんですよ。特に、グラフィックアプリケーションについて詳しいんですね。写真製版のシルクスクリーンをやるにあたっても、もう暗室が必要じゃなくなっているという時代なんですね、1980年代後半から。やむを得ず、否応なく、パソコンを使って写真の処理をしなきゃいけないんですよ。なかなか勉強もしきれないじゃないですか。それを、林君と一緒にモニター見ながら、「どうなる。どうなる。これ、こんなことできる」みたいな、ことをやっている遊びの中で出てきたシリーズなんです、実は。もちろんモンドリアンは重要なんですけど、同時に、僕にしたら、コンピューターの使い方のレッスンとして重要なんです。これは。

山下:絵心と実験と。

木村:ええ。フォトショップなんですけどね。それ以外、イラストレーターを使うこともあるけど、要するにフォトショップなんですよ。レッスンみたいな気が、だから学習という言葉も使うんですけど、アプリケーションの使い方のレッスンみたいなところがあってね。

山下:逆に言うと、先生はそのデジタル化の動きは関心があったということですね。積極的に受容していくという、アプリケーションを覚えたり。

木村:正確に言うと、受容でもなく拒否でもないような態度でしたね。

山下:ああ。一つのこういうのもあったという。

木村:われわれの仲間でもコンピューター好きというのはやっぱりいますし、出原なんかコンピューター好きでしょう。吉岡くんなんてもっとですし。先輩で言うなら橋本文良という人がいるんですけど、彼なんかすごく早い例です。

山下:そうですか。

木村:そういう人ほど新しい機械が好きなタイプでもないし、かといって、拒否しちゃって手仕事なんじゃ、という職人系の人たちいるじゃないですか。それでもないんですよ。

山下:それでもないですね。そうか。

奥村:吉原先生も、下絵作るのをだいぶ使っていましたしね。

木村:そうですね。メカに関しては出原なんかが手伝っているんじゃないですか、だいぶ。

奥村:見習っていた感じですね。

木村:うん。「モンドリアンは好きでも嫌いでもない。ちょうどいいぐらい」という言い方をよくするんですけど。

山下:ああ。そういう距離感です。

木村:これは対外的に正式な説明としては、やっぱり近代絵画の最終形態としての抽象絵画を、写真に撮り直すことの面白さからスタートしてますということなんです。意義付けとしてはやっぱり、それはあると思います。要するに、近代絵画って写真嫌いですから、写真大嫌いの結晶が、抽象絵画というもんですからね。それをもういっぺん写真に。

山下:引っ張り出す。

木村:撮り直すこと自体もおもろいし。

山下:ああ、そういうことなんですね。

木村:それをコンピュータを使ってどんどん変えていくということの面白さもあるということなんですけどね。

山下:ありがとうございます。あと、京都市美術館で展覧会をするようになると、学芸員の中谷(至宏)さんとの出会いは、その後のご関係も長いのかなと思いますが、中谷さんとの出会いは、どういう形なんでしょうか。

木村:彼は京都市美の学芸員をされていて、展評も書かれたことがあるし、よく動かれる人で、僕は関西独特の版画制作のノリというものを、一番正しく理解している人の一人だと思います。

山下:そしたら中谷さんから木村先生にご連絡をもらったということでしょうか。

木村:ええ。

山下:京都市美術館での開催となったのも、中谷さんからのお話でしょうか。

木村:何の展覧会が?

山下:「半透明」とか。

木村:もちろん「半透明」に関しては、京都市美の企画です。

山下:向こうからご連絡があってということですか。

木村:そうです。中谷さんと清水佐保子さん、担当だったかな。まだ、木村の全貌を紹介するみたいな話ではなかったんです、最初。

山下:そうなんですか。

木村:中谷さんの興味があるのは、やっぱり木村の1970年代だったんですね、ほんとは。

山下:ペンシルとかを含めて。

木村:ええ。1980年代までの写真製版のシルクスクリーンの一連の展開をメインにした構想だったような気がするんですよ。でもその話し合い持つ中で、もう1990年に入ってますし、「これまでの、全部見せたいわ」みたいな話をして、随分、取捨選択、作品はされましたけれども、ああいう形に収まったんです。

山下:少し戻りまして、「版から/版へ」のときの開催経緯というのは。

木村:これは中谷さんの企画です。

山下:これはもう中谷さんですか。

木村:はい。関西を主な活動場所として、版に関わる作家をたくさん集められたんですね。

山下:はい、そうでしたか。

木村:MAXI GRAPHICAを立ち上げたときと、ちょっと重なってるんですね。彼の構想と。それで、MAXIを先やらせたというのをあとから聞きましたけど。遠慮して、「ちょっとMAXI、先やっといてもらってそれから」と話をされてました。

山下:ああ、やはり注目されていたんですね。ありがとうございます。それでモンドリアンとかの経緯も見えてきました。

奥村:これを作られたのはノマルで。

木村:ノマルです。

奥村:起ち上げが。

木村:帰ってきてすぐですね。

奥村:うん。このカタログで、一回仕事をまとめようという、この時点でのレゾネを作られるわけですけれども、それは、話の出どころは。

木村:ノマルエディションですね。

奥村:そういうお話が、林さんから。

木村:うん。最新のレゾネ、当時としては作っておこうかって。

奥村:林さんは、なんでまたそういうことをしたいと思ったんだろうか。

木村:林さんは、元々はグラフィックデザイナーなんです。グラフィックデザイナーでありながら、アーティストブックみたいなのに興味があったんですよ。版画好き、アート好きのデザイナーなんですね。そんなこともあって、ノマルエディションという版画工房であり、デザイン事務所であるような形態で仕事をスタートされていて、そんな中で、林君を紹介してくれたのは、シティーギャラリーというのが昔神戸にあって、あそこの主催者の向井(修一)君、彼ですね。

山下:ああ、なるほど。植松奎二さんも。

木村:そうです、そうです。それこそ1980年代に中原浩大とか杉山知子とか、あの辺がやってたギャラリーですね。

山下:はい。その方が林さんを紹介してくれた。

木村:そうです。それから林くんとは随分親しくなって。うちの家で制作を手伝ってもらったり、版画制作の実際みたいなのを見せてみたいなのが、ちょっとあって。

山下:ああ、そうなんですね。ノマルさんの方で制作することもあるんでしょうか。

木村:ありました。後にアーティスト・イン・レジデンスみたいなこともやらせてもらっていますしね。

山下:ああ、そうなんですね、そういう経緯だったんですね。

木村:まさに、このレゾネを作ったときはバブルじゃないですか。まさにバブル真っ最中なんですよ。

山下:1990年、ああ。

木村:だから向井君にしたら、ノマルにはまだ経済的な余裕があるから、「レゾネを作ってもらおう」というノリでしたね。林君、まんまと乗せられて。出版記念パーティーを神戸の、フィッシュダンスホールってあるでしょう。

山下:フィッシュ、ああ、聞いたことあります。

木村:メリケンパークの端っこのとこに。鯉の建築家いるでしょ。ポストモダンの、ジューイッシュの。まあ、世界中にすごくたくさん建築物作ってますけど、彼がやった建物なんですよ、フィッシュ・ダンスホールっての。そこで大々的に、会費取らないでやったんだよ。(注:神戸港にある、鯉をモチーフにした建築物で、フランク・ゲーリーが設計を担当し、1987年に完成している。)

奥村:あ、そうでした。

木村:すごいでしょう。

山下:すごい。

木村:バブルですよ。

山下:(バブルが)はじける前の。その時期のMisty Dutchシルーズのお話からさらに発展されて、スキージングと木村先生も称されていますけれども。先ほどのお話で、そういう被膜とか半透明への関心を、また自分なりのスキージングの道具を作られて、より追求していこうという展開という理解でよろしかったでしょうか。

木村:そうですね。スキージングというのを意識しているのは、4回目の「MAXI GRAPHICA/Final Destinations」(京都市美術館、2008年)をやるんですよ。そのときに出品した作品あたりで、スキージングというのをもっと積極的に出していこうとしています。これはもう、もちろんスキージングなので、元々はシルクスクリーンのテクニックなんですけども、こちらのスキージングは1点しかできないものなので、カテゴライズするとしたらもうペインティングなんですけど、普通のペインティングのカテゴライズじゃないですよということを、ちょっと明確にしときたかったんで、使っている言葉なんですよ。リヒターもスキージングやるじゃないすか。なので、リヒターをそれほど強く意識してるわけではないんで、逆に。ついつい比べられちゃうんですけど、ビッグスターになっていますし、1970年代からリヒターを知ってるものとしては、1980年代に超ビッグに、一気になるわけですからね。

山下:ええ、絵画性もありますね。

木村:うん。あれを意識してスキージングと言いだしたのではないです。スキージはシルク作家だったら毎日使っている道具ですからね。それによって作り出すことのできる被膜というのを、もうちょっと純粋培養的にこう、増幅したいというのがあって。

山下:やはりそれは、当初からのレイヤーへの関心とともに。

木村:そうですね、そうです。

山下:1990年代後半ですか、スキージングということになると、読み取りとしては行為性のような、身体性も出てくるのかとも思うのですが、そのようなニューペインティング以後の絵画の動き、絵画性への接近のようなものも、あるのかなと思うのですが、被膜への探求と同時に、ご自身の中ではニューペインティングとは違うけれども、絵画性も発していきたいということもあるんでしょうか。

木村:そうですね。そのスキージングというのが、シルクスクリーンの刷りというのは同一のユニットを複数作るのに適してるんですけども、スキージングって僕が呼んでいるテクニックは、一回性を伴っちゃうんですよ。なので失敗、やり直しは効くんだけれども、一回ずつスキージング跡が異なるんですね。その異なり方を選びながら作っていく被膜なんです。ただ筆が創り出すタッチというのとも違うんですね。

山下:違うんですね、はい。

木村:刷りと描きの間みたいな位置付け。だから当然、そこには身体性は出てくるんです、間違いなく。

山下:なるほど。やっぱりそういう間、中間領域へのさらなる探究としての産物であって、木村先生の中での行為をもう一回考えてみたいとか、自分の身体と向き合いたいとか、そこまでではないということですね。

木村:そうですね。

山下:それは拡大解釈し過ぎということで。

木村:そうですね。

山下:ただシルクスクリーンの制作過程を見てきて、一般的に学んでる知識ぐらいにはなるんですが、制作過程が結構難しいと思うんですよ。

木村:うん。めんどくさいというかね。

山下:はい。木村先生はこういうスキージングを生み出す場合は、その1点の作品を作る過程は、だいぶ試行錯誤されて生まれてきているんでしょうか。それとも割と一回でできてしまうような。あまり制作過程のお話を伺っていないと思って

木村:試行錯誤、それはありましたよ、すごく。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:うん。一定の厚みを伴う必要があるんですね、この作られる被膜というのは。ところが、下が必ず透けて見える必要があるんです。その半透明度、どれがベストかというのを見つけ出すのには、ものすごく時間がかかってます。

山下:ああ。ありがとうございます。やっぱりそうなんですね。

木村:どのメディウムがいいのかというのと、それにジェッソが混ざっているだけのものなんですけど、基本的には。その割合をなかなか見つけ出せなくて。これ以上、不透明になっても困るし、透明に寄り過ぎても困るという、いいところがようやく見つかったというのがありましたね。

山下:ああ、そうなんですね。毎回うまくいくとも限らないというか。

木村:いや、その絵具はもう、確実に、常に作れるようになっていますので。

山下:ああ、なるほど。もうそれが記録されている。

木村:そうです。

山下:でもそこに至るまでのプロセスがあったんですね。

木村:ええ。

山下:やっぱり、日によってはうまくいくとか、いかないとかは。

木村:そうですね。アクリル絵の具なんですけれども、水分含有量の違いによって全然違うんです、スキージングの結果が。なので、まだ研究中ですよね。

山下:先週も少し制作過程の話もと思っていまして、割とそういう自分の成分とか含量とかの記録を取られるということですね。

木村:メモは取ります。

山下:ああ、そうなんですね。感覚ではないですね。

木村:うん。メモ取りますけど、感覚的かな。

山下:でもこのスキージングに限らず、その前のこういうFragmentsも本当に、さらっと見てはしまうもののかなりやっぱり難しいというか、ぴったり合わせていく、シルクスクリーンでは避けて通れないんですけども、やっぱり木村先生のこう、腕のすごさみたいなのを改めて思うのですけど。こういうFragmentsに戻っても、実際には生まれるまでの過程はかなり試行錯誤を伴っていたということになるんでしょうか。(注:手元で『HIDEKI KIMURA: PROJECT PERIODS 2015-2028』、ノマルエディション、2018年を確認しながら。)

木村:試行錯誤。

山下:この断片の組み合わせもいつも悩んだりとか、色味にせよ。

木村:ああ。それは、確かに。

山下:はい。その辺をあまり聞かずに進んだと思ったのですが、やっぱり色味そのものだって出すのも。

木村:ああ。それは試し刷りというのを何回もやりますし、最終的にこれでいこうというふうなことが決まるまでには、かなり時間がかかりますけどね。

山下:そうなんですね。

木村:シルクスクリーンって、完成するまでにさまざまな素材を通していくわけですけど、全プロセスの中でポジティブ制作というステップがあるじゃないですか。あそこが、一番面白いプロセスなんですよ。ポジティブというの、原理的に定義するとしたら、フィルム上で光を通すところと通さないところがあるものなら、何でもポジティブなんですけどね。そのポジティブを作り出すテクニックも、いわゆる写真的に作り出す場合もあるし、パソコン通す場合もあるし、手書きでできる場合もあるんです。ただ、とりあえず光を通すところと通さないところがあるものなんです。ポジティブっていうのは、シルクスクリーンのエッセンスが凝縮された存在。その制作の面白さこそが、シルクスクリーンの面白さですね。

山下:ああ、そうか。

木村:これなんかでもそうなんです。もうかなりの枚数のポジティブを使っているんですが、それぞれはフィルムなんですよ。半透明かつ透明なものもありますし。そのポジティブを、台の上に置きながら位置を決めていけるんです、構成に関しては。ポジティブがなかったらシルクスクリーンは成り立たないし、絵画で絶対それできませんから。「1ミリちょっとそれ、ずらしてくれる」って、できないでしょう。

山下:はい、そうですね。

木村:それをこう、可能ならしめているものこそが、ポジティブという存在なんですよ。それがパソコンに入ったときには、レイヤーと言われてるものなんです。それが製版されて、そのレイヤー上の影の部分がインクに置き換わってる。それの積層でできているのが、シルクスクリーン版画ですね。

奥村:パソコンのソフトにレイヤーという機能が付いたことで、逆にずっと、木村先生がやろうとしてきたことが、何というか、理解しやすくなったというか、逆にそっちで理解されちゃって、そうでない部分が分かりにくくなったのかもしれないですけど、レイヤーというのが実装され始めるのが1990年代の話だと思うので、フォトショップも確か、一番最初はレイヤーというのが付いてなかったはずなんで。

木村:そうですか。

山下:やりにくい。

奥村:うん。レイヤーという考え方が、一般的なアプリで1990年代に入ってからかなと思うんですね。

木村:今や、キーワードになってますよね。

奥村:ああ。パソコンにレイヤーが入ったことで、ペインティングの人なんかでもちょっと発想が変わってる部分が出てきてんじゃないかなという気はするんですけど。

木村:あると思いますね。版画はもう、もちろんそうですけどね。

奥村:当初からそういう、言ったらその版画でそれをやっていたことが、アプリケーションで機能として、追加されていったという面もあるとは思うんですけど。やっぱりパソコン画面でできますよという部分と、それから、インクに置き換わる物質として、画面に形があるということのこう、意味というか、インクの物質性の持つ力というか、表現力というのも、一方でずっと何か。

木村:そうです。もちろんそうなんだけど。

奥村:あるでしょう。

木村:これはすごく言葉の話になるんだけど、1960年代、1970年代まで戻りますけどね、僕の直前の先輩たちというのは、もの派とコンセプチュアルなんですよ。美術史的に言うとミニマルとコンセプチュアル。この二極に分裂しましたよと、にっちもさっちもいきませんわというのが1960年代の終わりでしょう。われわれは1970年代、スタートするわけじゃないですか。そのときに、どっちにも付きたくなかったんですよ。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:うん。もちろん高松さん、尊敬してるし。

山下:話は伺いました。

木村:もの派の連中ともシンパシーはあるしね。そうだけど、「美術は物質でしょ」とも言いたくなかったし、概念であるとか、イメージであるとも言いたくなかったんですよ。そのどちらでもないところに、1970年代の可能性を見出さなかったら、あかんやろと思ってましたね。

山下:煮詰まるということですね。

木村:うん。なので、自分の作品の説明をされるときでも、物質性という言葉を使われることに対して、ちょっとね、違和感じゃないけど、「ちょっとやめといてくれないかな」というとこあるんですよ。そこでは僕は、被膜性ということを言いたいわけなんですよ。だけど、被膜性というのはイメージにも付かないし、物質にも付かないものなんですよ。

山下:ああ。大事ですね、先生の。

木村:もう確かに実在なんですよ。ベッタリと乗ったりするわけで、実在なんだけど、物質性として説明しきれますかとも思うんです。もの派が言っているような、物量とも全然違うわけですね。幻想絵画のあのイメージとも違うんですよ。実在でありながら。

山下:必要のないような。

木村:そうです。見方によってはイリュージョンにもなるような、そのどっちつかずのところの可能性って、何かな?というので、70歳まできてるって感じです。

山下:ああ。すごい。ほんとにシビアですよね、制作プロセスが。

奥村:でも近代絵画とおっしゃるのは、イメージに奉仕しない、物質としての絵の具の独自性を表現するというのも、例えば具体の何かのこう方法論というか、目指したところだったけども。

山下:表現の。

木村:抽象表現主義でもそうですしね。

奥村:そうでもなく、絵の具の飛沫の形が書かれているけど、絵の具の飛沫でもなく。

木村:なく。

奥村:飛沫の形だけど、でもインクでできてて。

木村:べろっとはがせるような感覚のものですね。

山下:なるほど、ありがとうございます。それで、スキージングに入っていくということですね。素人めいた発言になりますが、そのシビアな極限状態で作品が生まれるのですが、でもやっぱり見る私たちがある種、軽やかな、何かさわやかな感じも正直ありまして、そういう制作プロセスの試行錯誤があることを聞いていて思いました。簡単には生まれていないという、と言いましても先生ですので、技術もやはりすごいと思うんですね。

木村:いえいえ。技術ね、技術。一応プロなんで(笑)。

山下:聞いてみたいと思っていたんです、その制作過程を。

木村:僕の作品を見て、さわやかであるとかいろいろ言っていただいて、それはありがたいことなんですよ。ただその原因というか、1960年代、1970年代当初もそうですが、美術が美しくあってはいけない時期があったんですよ。汚くて何ぼという。

山下:ああ、何となく、はい。

木村:また、批評もそっちが好きですしね。特に、中原さんなんかそっちが好きなわけですよ。

山下:いわゆる「物質」ですね。

木村:そう。それに対する反発もあったんですよ。本質的な問題じゃないでしょと思ってました。

山下:ああ。何かいろいろ見えてきますね。

木村:逆に、美しい作品が排除されるんです。それで割食った作家いると思います、当時。

山下:ああ。それに対する木村先生の中の、秘かな思いがあったわけですね。

木村:うん、そうです。

山下:これ、ちょっとまた素人めいた質問になりますが、この色味や色のバランスも見る者には影響や刺激があるのですが、制作過程では結構、色の幅や階調など、すごく変わりながら試行錯誤してここまでたどり着くんでしょうか。

木村:そうです。

山下:ああ、そうですか。割と木村先生は、色がすぐに出せてしまうとかではなく。

木村:そうですね。振れ幅というのはこれだけかもしれないのですが、その中でどこにするのかというのがかなり。

山下:やっぱりそうなんですね。

木村:ええ。時間がかかりますけどね。

山下: 1日やっていても、うまくいかないとかもあるんですか。

木村:ありますね。

山下:ああ、そうですか。

木村:色はね。

山下:ありがとうございます。貴重なお話です。少し作品から離れていきますが、2000年代に入っていきますと、2004年には例えば国際版画シンポジウム実行委員長をされたり、そして2007年にはこの『関西現代版画史』((美学叢書7)、美学出版、2007年)ということで、この編集委員をされる。2011年になってきますと京都版画トリエンナーレのアドバイザーもされるということで、2000年代ぐらいになってきますと作家活動だけではなくて、運営側でもあり、少しこう、批評的な側の立場にも入っていかれるのかなと思うのですが、こういった立場はどういった姿勢で取り組んでおられたんでしょうか。

木村:もうエピソード的なことはたくさんあるのですけども。

山下:結構、作家ではないお仕事に入ってきているなと思ったのですが。

木村:こういう普通の作家として活動していく中で、コメントを求められたり、文章を書くような依頼を受けることはあるんですね。

山下:はい、そうですね。

木村:それが割に好きなんですよ。得意じゃないんだけど、文章を書くことによって、もう一回自分の制作を考え直す機会を与えてもらえるし、整理することもできるし、好きなんですね。奥村さんにも依頼されたことあるし、そういう状況の中でこう、関西現代版画史になるんですけど、これのエピソードとしては、私の教え子で右澤康之君という人がいるんですけど、美学出版の主宰者なんですよ。嵯峨美術短期大学で教えていたときの生徒で。

山下:ああ、そうですか。

木村:彼は珍しく早熟な子で、嵯峨美に来たのも木村の出品作とか、経歴を調べてから来たような子なんですよ。来たときからちょっと大人みたいな人で、彼は大学を出て、東京に出て、出版社を立ち上げて、そんな中で木村のずっと経歴を見てくれてて、「こういうもの、必要なんじゃないですか」という話を持ってきてくれたんですよ。

山下:提案があったんですね。

木村:うん。それで構想を練るようなことになって、関西の版画の独自のノリっていうのも記録しておきたいなという思いもあって、それこそ、中谷さんとか、三脇康生さんとか、三木(哲夫)さんにも。たくさんの方に協力していただいて作ったんですね。

山下:はい。このメンバーを考えたのは、木村先生ですか。

木村:そうです。大概僕が声掛けてます。右澤くんと相談しながら。

山下:もう最初から関西というタイトルは付いていたんでしょうか。その右澤さんの提案のときから。

木村:関西、うん。付いてたかどうかは別にして、関西の版画のノリと思ってました。というのは関西と関東で違うので。

山下:違いますか。

木村:うん。東京で言われてる版画と、関西が言う版画は違うんですよという思いがずっとあって、ちょっとそれをはっきりさせときたいないう気持ちもあったんです。

山下:それでこの大変な著作を、元々書くことも好きでということもあって。

木村:いや、いや。大事なところはみんな別の人が書いてるんで。

山下:いえ、いえ。その右澤さんという方がきっかけだったんですね。

木村:彼はまだ美学出版をやってますよ。ペインティングもやってますけどね。

山下:はい。あと、そういう他の運営の方に立つようになっていってますが、そういうときは、どういった意識で取り組まれているんでしょうか。

木村:やっぱり、版画の活性化に結び付くようなことはしたいなと思ってるんでね。こういう活動であり、文章を書くような活動でありというものを見てくれている人が、ispa国際版画シンポジウム(東京、他)なんか、あれは言いだしっぺは中林(忠良)さんという東京藝大の版画の先生なんですけど、そのときに声が掛かってくるようなことになってきて。そんなことが結構重なって、海外で日本の現代版画を紹介する、海外でやる展覧会のコミッショナー的なことを頼まれたりとかということになっていく。

山下:そういう、制作には携わらない運営することに対しても、立場的にもやっていこうということで。

木村:そうですね。後輩たちをやっぱ、励ますということですしね。私も結局、東京国際版画ビエンナーレみたいな場所に、舞台に乗せてもらって今があるわけで、そういう場所がやっぱり若い人たちにもあるべきだしね、お手伝いができればみたいな気持ちですよね。

山下:そういう心境なんですね。

木村:年とったっていうことかもしれませんけどね。

山下:いえ、いえ。

木村:版画に対する恩返しみたいな気持ちはありますよね。

山下:でもやっぱり制作の時間も削られますよね。運営は結構大変だと思うんです、やっぱり。

木村:そうですね。お金ですね。

山下:お金も。

木村:お金です。

山下:あとそれに関連してなんですが、本当に思うこと程度でいいのですが、この2000年代以降のこういった若手の版画家たちの様子は、今見ていてどうでしょうか。

木村:こういう出版、あるいは京都版画トリエンナーレの企画とかに関わって思うのは、若い人たち、一生懸命がんばっているのに、正確に評価をする批評の枠組みとか、視座というものがないから、徒労みたいなことになってるのが可哀そうだと思いますよ。

山下:批評がしっかりと見ていないという。

木村:うん。もうちょっとまともに見てやってという。

山下:こちら側の問題なので、勉強しなきゃいけないです。

木村:その気持ち大きいですね。

山下:作家たちは、どんどん新しいことをチャレンジしている。

木村:チャレンジしているし、その中で、版画ゆえに経験できた素養とか、そういうものを土台にしてしか制作できないようなものを提出しているにもかかわらず。

山下:ああ、そうか。

木村:そういうところにはほとんど見る人の目がいっていなくて、別のところで評価されてたりとか、版画に批評がなくなってるんですね。美術全体がそうかもしれないんですけど、そういうのはやっぱり、必要なのかなというふうに思いますし。

山下:それは、少し前の話では日本とニューヨークの話もありましたけれども、日本的なもの、土壌の問題もありそうなんでしょうか。

木村:どうなんですか。

奥村:活動が、何だかね。

木村:1980年代以降、批評というのは急激に少なくなっていって、それと同時に美術館ピープル。学芸員の人たちが、美術を一応仕切るということになっていくんですね。1960年代、1970年代に批評家という人たちが担ってた役割を、学芸員が担わなきゃいけないようになっているんだけど、学芸員にあんまり自覚がない。そんなことないか(笑)。

奥村:ああ。だから仕事に、何か学芸員でもそういう仕事する人もいたけど、何でしょうね。

木村:何だろうね。

奥村:批評という。

木村:批評ということ自体がもう成り立たないような時代。

奥村:うん。次の、結局、椹木野衣しかいないものかというふうな時代になってるのか。

木村:ですね。

奥村:本当にそのあと『関西現代版画史』を作りたいとおっしゃったときに、やっぱり歴史化がちゃんとなされてないとか、現代美術全般ですけど、そういう、難しいけどね。針生さんの本があって、千葉さんの逸脱史があって。(注:千葉成夫『現代美術逸脱史 1945~1985』晶文社、1986年。)ずっとこう、まとまった資産を提供している、日本の戦後の美術についてまとまった示唆は何か(出てこない)。

木村:通史的なものは少ないですね。

奥村:できなくて、うん。椹木さんの美術ができちゃうんですけど。。

木村:『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)。

奥村:悪い場所とか言われたら、「えっ?」て言う。そうかもしれないけど。

木村:僕は一度書いたことあるのだけど、『現代美術逸脱史』にも『日本・現代・美術』も、版画という言葉は1行たりとも登場しないというのは、どこかに書いたと思うんですけど。

山下:そうですね、確かに。思ってました。

木村:ただ1970年代の絵画というのは、ポストモダンの絵画って版画でしょと思っているものにとっては、なんでずぼっと抜け落ちてるのという気持ちはあるから、やっぱりせめてこんなものでも残しておかなかったら、何もなくなってしまうというような気持ちもあってね。椹木さんって確かに、今の状況を仕切っていますよね。椹木批評というものが、今の芸術の状況に対してどれほどの抑圧を与えているかということに対する、自覚なさすぎるよね、若い人。思いません?

山下:はい。

木村:結局、椹木の好み押し付けられてるだけという気持ちに、なんでみんなならないのかなって思って。岡本太郎のあの評価なんかでもやっぱり椹木批評かなり、影響してるでしょう。

山下:ああ。ですね、「爆心地」とかですね、はい。

木村:岡本太郎なんて、そんなたいそうな作家ですか。

山下:まあ、再評価はすごいですけどね。

木村:うん。だからある種の存在感を持っていたというのは間違いないんだけど、また言葉的なものがかなり(ある)。

山下:そうですね、はい。版画の今の若手作家の方々も、木村先生がおっしゃったように、もう少し批評をして欲しいというような声も聞こえてくるのでしょうか。

木村:そうですね、ありますね。

山下:ああ、そうですか

木村:このあいだ名古屋で、愛知県芸(愛知県立芸術大学)でレクチャーをやらせてもらったんですけど、そこの版画の責任者が倉知(比沙支)君という人なんですけど、彼なんかおんなじこと言ってましたね。批評がなさすぎるというか。

山下:それはキュレーターの方に声が掛かって、展覧会をさせてもらうことは違うということですよね。

木村:うん?

山下:その若手たちにとってキュレーターの方から声が掛かったり、ギャラリーから声が掛かって、展覧会をさせてもらうこととはまた違ってということですよね。それで満足できず、そうではなくて批評を、もっともっと欲しいということですか。

木村:そうですね。言葉。吉田克朗さんなんか、批評嫌いでしたけどね。その辺の感情と、実際の言葉に対する距離感というのはちょっと違うでしょうし、一義的に、それをうのみにしてはいけないんだと思うけどね。

山下:その次の、ゼロ年代以降の作家の方々も、やはり版なり、版画というものを、もう一回問い直すというような姿勢も続いているように見受けますか。

木村:そういう人たちもいますね。

山下:いますか。

木村:確実に。

山下:これも確認めいた質問になりますが、先ほどアメリカのポートランドや台北、台湾に、木村先生はレクチャーにも行くようになっていますが、改めてですが、そういう若手作家のことも含めてですが、日本という地域性と、海外のアーティストの方との作品や制作姿勢との関わりについては、何か思うところはありますか。

木村:親しい国というとアメリカとカナダということになるんですけど、評価してくれるのは日本よりアメリカ、カナダという気はします。レクチャーしたあとの反応とか。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:基本的に、肯定的にとってくれますよね。

山下:やっぱり違いが、温度差がありますね、日本と。

木村:そうですね。ただ、その版画そのものの地位というのは、日本はやっぱり高いので。

山下:そうですか。

木村:版画はすごく高く評価されたジャンルでもありますよね。アメリカ、カナダというと、やっぱりその下ですからね。だからその歴史性と状況というのを冷静に見ないと、正しくは見られないのかもしれませんけどね。

山下:はい。木村先生ご自身は、制作することについて、自分が日本人であるとか、国籍のことを感じることはありますか。抽象的な質問になりますが。逆に言ったら、自分はやはり海外に行ったときに、「あ、日本人だなと思った」というような意見もありますので。

木村:うん。自分が世界人だとは思いませんね。「世界人」と言う人は、ちょっと寝ぼけたというか(笑)、そういう?タイプですね。

山下:ああ、そうですか。日本的な風土。

木村:風土もあるし、歴史もあるし、言葉もあるしね。そんな簡単に仲よくなれるもの違うなって思いますしね。

山下:ああ、そうですか。

木村:世界って。人類みな兄弟とか、家族になれたらいいなとか、そんな簡単なものと違うね。

山下:とすると。

木村:そのアメリカ人なり、カナダ人なりがそういう言葉を発したときの重さと、日本人が言う、私たち世界市民とかというのの重さは違うよね。

山下:そうですよね、はい。

木村:軽いよね。

山下:はい。

木村:と思う、日本人がああいうの言うと。

山下:はい。あと普段、制作をしているときは、そういう自分が日本人だなみたいなことまでは、思わないですか。一時というか、どうしてももの派の方々に関しては、日本的なものとするような。

木村:そうですね。東洋的な。

山下:はい。あのようなインスタレーションにおいても、微妙に時間や空間に対する意識やさじ加減が、海外の方と日本の方とで微妙に違うというような話もあるのですが、そういったことはこれまで、ご自身の制作を見ていると、何か感づいたことはなかったですか。

木村:とりたててはないですね。

山下:分かりました。

木村:強く意識するということはないですね。もの派の東洋性とか日本性とかいうのは、多分に戦略的でしょう。意図的に海外に向けて発したところあるからね。李さんでしょう。

山下:李さんですね、はい。あと作品から離れた一般的な質問なんですが、日本のお祭りであるとか、季節的な、もうほんとにお花見とか、そういうことは好きですか。

木村:好きです。

山下:好きですか。

木村:はい。楽しみたいなと思う方ですね。

奥村:今の中で、海外というよりも、何か関西の独自性とか。関西でも京都は京都みたいなところがあるので、ただそれを、作品として前面に出すというのでもない。何か視野とかこう、考え方とか批評とか相手にしていることはもうフラットだけど、僕はここで、それこそデモクラートから、吉原さんから続いてきている志向性とかは、やっぱりそこら出てきているというところはどうしてもあるのかなと。

木村:ただ日本の版画の歴史というのを考えるときには、必ず創作版画運動ということに触れて、それ以降の流れということになるのが定石でしょう。山本鼎がいて、恩地孝四郎がいてというね。あの一連の流れと、関西のわれわれが思っている版画とは若干違うんですね。だからルーツをたどれば、やっぱりデモクラート美術家協会という瑛九とかその周辺の人たちが始めた、版画と美術の考え方というのが反映してると思うんですよ、色濃く。自分が京都芸大の版画教室を選択したそのジャッジにあたっても、現代美術やるつもりで入ってますからね、版画を取るということは。それはメディアとしてすでに存在していたんですね、関西の版画というのは。だから東京とだいぶ違うんですよ。ところがこのことね、なかなか分かってもらえないんですよ。

山下:ああ、難しい。

木村:うん。日本というのは小さい国ですけども、じゃあ、日本の版画ってどうですかと言われたときには、結局、創作版画からずっと流れていってますよねということで、落ちてしまいがちなんですね。ちょっと待ってという気持ちで作ってるもんね。

山下:ああ。そうなると関東の現代版画史も欲しいなということで。

木村:そうですね。だから関東で僕らやっぱり、仲間だなと、おんなじようなことを考えてやってるなという人は、基本的には冷や飯食ってるような気がしますね。関東でなかなか広がっていかないですよね、このノリは。

山下:ああ、そうなんですね。避けてるようなところがあるんでしょうか。

木村:つぶされてるんでしょう。

山下:ああ。つぶされてる。

木村:うん。創作版画が強すぎて。見えなくされてるかもしれないしね。

山下:はい。声を出すしかないですよね。

木村:うん。出しようがないんだね、また。

山下:出しようがないですか。

木村:うん。

山下:難しい状況ですね。

木村:そう。逆に版画というのを創作版画だと思ってる人は、それ以外はシンプルに現代美術に短絡してしまうじゃないですか。

山下:ああ。そこにいっちゃうんですね。

木村:つまりメディアでしょということになってしまっていて、その版画の独自性とか可能性が今度はずぼっと抜けちゃうんですね。

山下:曖昧にされてしまう。

木村:なので、微妙なんですよ。

山下:はい。難しいですね。

木村:そこんとこ。

山下:はい。最後は切り込む必要がある。

木村:その辺、切り込めったって。中谷君とかさ。すごく切り込んでるんだよ。

山下:そうか。

木村:でも、それほど評価されるわけじゃないしね。

山下:ありがとうございます。ちょっと2時間半超えてきてますけれども、あともう少しだけ終盤の質問があるんですが、奥村さんはよろしかったですか。

奥村:次、ノマルでこの作品集を作られてから、最近そういうピリオズの話。(注:ギャラリーノマル(大阪)に「PROJECT PERIODS 2015-2018」が企画され、2015年から2018年までの間に7回の展覧会を通じて、1972年から2018年に至る制作の展開が紹介された。)

木村:ピリオズ、やらせてもらいました。これですね。これも林君から持ち掛けられて。(注:図録『HIDEKI KIMURA PROJECT PERIODS 2015-2018』を確認しながら。)

奥村:自分の制作をまとめて客観的に見直すきっかけに。

木村:にはなりましたけどね。

奥村:積極的にそれを作ろうという意識というのは、持っていたのでしょうか。提案されて乗られたのは。

木村:提案されて乗った感じかな、うん。それと、これはなかなか理解してもらえない可能性があるんですけど、鉛筆のシリーズであれ、chestnutのシリーズであれね、完成するまでにすごくたくさんのポジティブ作るわけじゃないですか。その80%、90%がボツなんですね。日の目見るのが10%、20%じゃないですか。ところがボツになったポジも捨てたらいいのに残してあるわけですよね。それを、何年かたったあとに見たときに、これもういっぺん使えるよねということがあるんですよ。だから、何というの、「腐敗してないで発酵してる」と言っているんですけどね。そういうのに日の目もういっぺん見させてあげたいよねというのがあったんですよ。それとこの企画を重ね合わせているんですね。いったんボツになったポジ使ってという。

奥村:だから何か、古い以前のその作品、再生されるではなくて、何か新作が。

山下:難しくなりますね。

奥村:そうね。難しい。

木村:そうです、そうです。

奥村:その基準。何かすごいいろんなところでその中間的なとか、間のという言葉、表現をされるけど、この取り組みにしてもやっぱりこう。旧作の新作ができるという。

木村:そうです、そうです。

山下:ややこしいです。

木村:それが、問題提起と言えば、問題提起ですよね。

奥村:うん。非常に奇妙なと言えば奇妙なお話。

木村:だからある作家の成長というか、画境の深まりというのが、単軌的なものであると、一本道であるという前提があるじゃないですか。近代画家の成功道みたいな。それってのもクエスチョンなんですよ。作家の制作ってそんなうまい具合に転がっていかないよねという疑念があって、行ったり来たり、また元に戻って考えたりしてるんですね。興味だって飛ぶし、あっちこっちにブレるんですよ、常に。でもいわゆる、近代美術史の中で成功している人たちというのは、気が散らないんですね。気が散らないでもう一直線に、この画境に突き進んでいきましたねというのが、ビューティフルストーリーになってるから。

奥村:あとからそのストーリーを作っちゃうところもあるんですよね、まとめて。

木村:そう、もちろん、もちろん。ストーリーは作られるものだから、もちろんそうなんでしょうけど、それがちょっときつすぎませんかと。そんなんでちょっとこう、揺さぶりかけたいなみたいな効果もあったのかなという。

山下:はい、確かに。

木村:感じてるんですよね。

山下:単線では、とらえがたい状況になってきました。

木村:そんなものも面白いでしょという感じですね。

山下:しかもだからこそ可能な。

奥村:そう。

山下:表現、提示の仕方ですし、やっぱり版に関する可能性を、展覧会が問いかけている気がしますよね。こちら側がだいぶ考えさせられてしまうという。

木村:考えてくれはる人はね。みんなそんな善意で見てくれません、基本的には。大体悪意にさらされるものだからね、作品の発表なんてね。

山下:そうですか。

木村:そりゃそうですよ。基本的には、悪意にさらされるもんでしょう。

山下:そうなんですね。

木村:何言われてるか分かったもんではないなと思いますけどね。

山下:本当ですか。

木村:ということをわりかし、しゃあしゃあとやっちゃうところがあってね。反省しても遅いしという話なんだけどね。

山下:それで思うんですが、そういうのはやっぱりバレーボール部からの流れかな、なんて思うんですけど。

木村:そうやろか。

山下:と私は今日、先週からで。

木村:それこそ、バレー部と言ったら藤浩志君。

山下:ああ。藤浩志さん。

木村:うん。彼バレー部なんですよ。結構めちゃくちゃ面白い人だったね。石橋(義正)君もそうですしね。

山下:ああ。何か分かるような気がしてきます。

木村:椿昇とか何かめちゃくちゃな人いたんだなという感じは(笑)。

山下:やっぱり、インタヴューさせていただいてよかったです。

奥村:そっか。その辺バレー部なんですね。

山下:ありがとうございます。あともう少しだけいいでしょうか。

木村:どうぞ、どうぞ。

山下:少し一般的な質問もいつもさせていただいてるんですが、まずは普段の日常についですが、普段の1日はどのような構成でしょうか。その中で、美術に関する活動はどれぐらいの割合を占めているのでしょうか。

木村:そうですね。起床7時ぐらいでしょう。9時にはこの書斎に来て。パソコンチェックして、そっちのアトリエで仕事するのは10時から16時。

山下:そんなにですか。

木村:ぐらいの間。行ったり来たりしてますけどね。途中でお昼ご飯も食べますし、休んでいるときもありますし。夜は仕事しないですね。

山下:くつろぎはテレビを見たりとか。

木村:そうですね。テレビ好きですね。

山下:ああ。木村先生好きですか。

奥村:ワイドショーネタすっごい好きでしょ。

山下:ああ、そうなんですか。気分転換をどうされているのかもよく聞くんですけど、いつもここで。

木村:気分転換は、友達と会ってだべる。麻雀する。飲むみたいな、ごく普通のおっさんパターンですね。

山下:いえいえ。展示の予定がないときにはあまりアトリエに入らないという方もいらっしゃったんですが、木村先生は割と結構アトリエで何かはされていると。

木村:そうです。展覧会に追われてこの年まで来ましたけど、1970年代にしても、個展をどこかでやらせていただいてるその最終日には、その次に決められた日程に向かって制作を始めるみたいなことを繰り返してきている。そうじゃないでしょっていうのはあたりまえの事なんですけど、現在はあたりまえの作家、制作者に戻ってますね。

山下:そうですか。

木村:毎日何かちょこちょこあてもなく作ってます。

山下:そうなんですね。こう、実験をしてみたりとか。

木村:そうですね。あと、残された時間というのもあるし。

山下:いえいえ。

木村:それなりの。

山下:やっぱり下書きとかもいっぱいされてるいるんですか、こちらで。

木村:下書きは、パソコンでやることが増えましたね。

山下:そうなんですね。そうやって、普段から構想を練ったりされているということで。

木村:そうです。

山下:ありがとうございます。あと、嵯峨美のお話を聞かせていただけたのですが、一応差し支えなければ聞かせていただいていまして、美術で生計を立てていけるようになったのはいつ頃になりますでしょうか。

木村:いまだに立てられたとは言い難いです。

山下:大学の先生をしつつ。

木村:そうです、そうです。教職ですよ。アートは水商売ですし、それこそ1,000万とは言わないけれども、年に何百万も稼がせてもらったこともあるけれども、そんなあなた、まして版画でしょう。1枚売れたと言っても。一番小さい作品、こないだね、グループ展やらせてもらって4点ぐらい売れたんですよ。1点に対して2,500円しか入らないのですよ。

山下:ああ、そうなんですか。

木村:4点売って1万円やんか。どうすんのって話でしょう。画商さんにしたら版画1枚売るのも大変な苦労でしょうけど。

奥村:もう大変。

木村:ピカソ1枚売ったら、一生食えるかもしれないけど、版画1枚売ったってあなた、どうしようもないしね。

山下:では、嵯峨美から教職に入って、京都芸大へというので、教員をしつつ制作に至るということでいいですか。

木村:そうですね。

山下:その1998年より京都市立芸術大学の先生になられて、指導者という立場のときの木村先生の授業の際の姿勢や、どういった授業をされていたのかについては、いかがでしょうか。

木村:基礎技術を伝達するという部分と、自由制作のサジェスチョンをするのと、あとゼミ的なものをやらせてもらっていて、結構それは、読書会的なものをやってました。

山下:ああ、読書会。そうなんですね。

木村:うん。哲学の先生とかに手伝ってもらったり。

山下:割と学生に思考の方を何か伝えたいという、刺激したいという。

木村:そうですね。合評会というのが、一番ぴりぴりする緊張の時間帯なんですけど。そのときにやっぱり作者のコメントをまず聞かなきゃいけないじゃないですか。どういうつもりでこれ作りました。そのときの語彙がやっぱり必要ですよ、最低限。

山下:そうですね、プレゼンテーションが必要。

木村:それぐらいの素養はね、付けときなさいよというのがあったので。

山下:それに力を入れておられたという。

木村:うん。この本とこの本だけは、絶対読んどけやっていうふうな感じはありましたね。

山下:一方の技術的な質問に対しては、結構細かく教えていたんでしょうか。それとも。

木村:そうですね。私のその経験の範囲で、問題解決をサジェスチョンするという。時々解決付かないこともありましたけどね。

山下:ありましたか。

木村:うん。シルクスクリーンって、紗ですよね。薄い布の上に。

山下:そうですね。

木村:インクの通るところと通らないところを作るわけですよ。それを繰り返し流してはまた新しいものを作って、やっていく中で。どうしても落ちない物質が、その紗の上にできてくるんですね。でもそれに対しては、かなりの手(解決策)を僕は持っているという自負あるから。「そのときはこの液体を使い」とか、「こういう道具を使ってやった方がいい」というのは言えてきたし、ほぼ問題解決してきたけども、一回だけね、どうしてもとれないのがあって、アルコールを使ってもだめだし、いわゆるラッカーシンナーというのものはすごくオールマイティーで、あれでほとんど落ちちゃうんだけど、落ちないんですよね。

奥村:え、何。

木村:こすっても、こすっても、その汚れが移動していったり。

奥村:何や、それは。

木村:面白かった、あれ。「先生、とれないんですけど」って言って。

山下:何かすごい思い出ですね、それは。

奥村:それはそれで面白いけど。

木村:この紗はやっぱボツだな、しゃあないな。

山下:そうか。また買わないと。

木村:写真製版系のもの、素材というのは、基本的に高いじゃないですか。特にフィルム系は高いんですけど、その次に高いのがあの紗なんですね。ポリエステルの、要するにテトロンの織目が細かけりゃ細かいほど、高価なんです。なので、できるだけ上手に回転してやりたいんだけども。メッシュ300というのが一番細かい。それでやると、かなり細かい図柄のものも再現できるというのがあるんですけど、何千円もするわけですよ。1万円近くになってくるのかな、大きかったら。

山下:ああ。結構しますね。

木村:それが、一回製版して刷っただけでボツになるときのショック、ものすごいですよ。だからもう絶対うまいこと回していかないといけないと思っているのに。

山下:そうですね。

木村:一回ね、僕、教職やりながらでも、仕事を手伝ってもらってたんですよ。

山下:学生に。

木村:生徒たちに。それが今先生になってるという連中なんですけど。あるときに刷りを手伝ってもらっていたときに、池垣、大島、濱田、3人ぐらいが手伝ってくれてて、ざっとスキージを引いたときに紗がぱんと割れてしまった、破れてしまったんですよ。ボツや。制作は中断するし、それでもう、ショックでショックで、泣いてたんですよ(笑)。

山下:(笑)かなりショックだったんですね。

木村:その経緯でずっと泣いてたら、濱田に「いつまで泣いとんねん!」って怒られて、皆んなで大笑いしたという記憶ありますけどね(笑)。あの世代の教え子たちというのは、本当に同世代。

奥村:に近い。

木村:近いんですよ。池垣君でも65歳でしょ、もう。

奥村:池さんはちょっと年上でしたからね。

木村:うん。入学したときからもう年取ってたけど。楽しい思い出ですね。

山下:はい。あと京都市立芸術大学の作品展やギャラリーアクア(注:京都市立芸術大学のギャラリーの名称。)に関しての思い出やエピソードはありますか。

木村:作品展ね。ほんとにこう、授業にあまり熱心じゃない、日頃何してんのか分からないような人でも、卒業進級制作展ということになったら作品を持ってくるじゃないですか。それなりの緊張感が、そこでは醸成されるね。あれってやっぱり、伝統だよね。すごいもんだなと思いますね。

山下:張りつめるんですね。

木村:うん。そこでやっぱ、鍛えられるというか。

山下:木村先生は、コメントを結構言う方だったのでしょうか。

木村:言う方ですね。

山下:ああ、そうですか。

木村:合評会とかね。

奥村:京美の合評会は泣く人が出るとか。

木村:結構。昔ね。

奥村:すごい泣かされるという話を聞くのですが、なんでだ? って。

木村:これ、伝統でしょうね。井田さんがきつかったし、一方で吉原さんはものすごく優しいんですよ。

山下:ああ、そんなイメージですね。

木村:言うときはきついときもあるんだけれども、何か役割分担が実はできていて、あの当時。それが良かったような気しますよ。

奥村:基本、東山ですよね、学生時代。(注:京都市立芸術大学の前身は1926年から1980年まで、京都市東山区今熊野日吉町にあった。)

木村:そうです。最後まで。

奥村:最後までそうですよね。

木村:ええ。そのあと、きれいなとこに移られた。(注:1980年3月24日より、京都市立芸術大学として、西京区大枝沓掛町に移転した。)

奥村:移って、それから教えに行って。

木村:行って、やめたらまた新しいところに移るんですね。だから、もうええとこ全然ないんです。(注:京都市立芸術大学は2023年に京都駅の東側、崇仁地域に移転する予定。)

山下:今度、崇仁の方へ。

木村:大体使い古されたところへ行ってるという。

奥村:教えに行かれたときは、桂も大概。

木村:そうです。もうだいぶね。

奥村:汚れてましたね。

木村:うん。老朽化してました。

山下:あとこれも差し支えなければですが、ご結婚とか、家族とか、パートナーシップに関してのお考えはいかがでしょう。

木村:ずっと独身なんですけどね。いや、そんなの当然やっていうふうにこの年まで来たけれども。

山下:はい。差し支えない範囲でいいです。

木村:こんな自分でも合う人っていたのかなって思ってますけどね。そんなのずっと排除してきたけど。

山下:ああ、そうだったんですか。

木村:うん。でも周りにそういう人が多いんですよ。

山下:そうなんですね。

木村:時代ですかね。どうしても家庭は持つべきだとかいう考え方が、薄れた時期だったんでしょうね。家庭を持っている人たちは、もちろん僕の周りにもたくさんいるし、そういう人たちの幸せな家庭というのを見たら、うらやましいなと思うこともありますけどね。死に際がね。兄が64歳で死にましたけども。

山下:ああ、そうですか。

木村:そのときに、やっぱり子供たちと孫たちに囲まれて死んだというのが、唯一の救いでしたからね。

山下:そうでしたか。

木村:可哀そう、64歳ですからね。

山下:早いですね。

木村:ほんと可哀そうだなと思ったけど、せめて家族に囲まれて死んだというのがね。と、割に普通の考え方するようなところも言うときますわ。

山下:ありがとうございます。お酒も、1週間の中でよく飲まれるんですか。

木村:週1ですね。

山下:ああ。週1ぐらいですか。

木村:週1か週2。通常、家にいるときは、飲まないです。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:うん。出たときしか。

山下:これも最近聞いているのですが、近年、1970年代のいわゆるもの派、日本の前衛に対する再評価が海外で行われているのかなと、MoMAやテートなどの海外の美術館が、戦後日本の美術作品を積極的に購入し始めてるように思いますが、一人のアーティストとして、こういった状況は、日本の評価が上がってきてるかという見方もできるのかもしれないですが、こういった状況をどのようにとらえていますでしょうか。

木村:ありがたいことですよね。やっぱりそうなるのが日本の経済力の高まり、GDP、GNPが世界第2位だとか、世界第3位だといわれるようになって以降の出来事なんですよね。

山下:ああ。経済と連動してる。

木村:だから、結局国力が上がってこその、海外における評価の高まりとリンクしていると思いますね。

山下:待ち望んでいたという気持ちですか。

木村:そうですね。正しく理解してほしいですけどね。

山下:ああ。それは注意点。

木村:うん。結局、文脈立てられちゃうわけでしょう。

山下:そうですね。

木村:誰の書いたストーリーを、日本を概観するストーリーとして採用していますかというのは、常に聞く必要があるんだけど、そこまでの余裕まだ持ててないでしょう。

山下:はい、そうですね。市場の方が動き回っていて。

木村:そうです。

山下:その流れで引っ張られているかもしれない。

木村:具体、もの派、草間さんってことなんですけどね。

山下:アジアへのご関心はございますか。シンガポールも最近にぎわってきていますけど。

木村:ああ、みたいですね。だから台湾とタイなんか、割に親しい国ではあります。版画の絡みです、もちろん。台湾にも版画、結構盛んなところありますし。

奥村:ビエンナーレもずっと、やっていますしね。

木村:タイもやっぱりスポットがあって、大学で。現代版画、盛んなのですよ。

山下:ああ、そうなんですね。

木村:結構レベル高いですね、タイは。

山下:また行ってみたいという。

木村:そうですね。それはもう常に行きたいですね。

山下:ありがとうございます。もう二つだけですが、2014年にCharcoalの展覧会もされましたが、最後に、長年にわたる美術との関わりの中で一番大事にしてきたことは何かということと、それも含め、これから何をしていきたいと思っていますでしょうか。ちょっと言葉にしづらいかもしれませんが、もし一番大事にしてきたポリシーみたいなものを、もう一度お聞かせいただければと思います。(注:退任記念展「Charcoal」、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(アクア)、2014年。)

木村:ポリシーね…

山下:Charcoal展も、平面と立体と空虚というようなところで、やっぱり、ペンシルから続くものも出てきてるのかとお見受けするのですけれども。

木村:難しいね。

山下:難しいですか。言葉にはしづらい。

木村:自由というと、またものすごく難しい言葉になるし、もうゴッホなんか、やっぱ自由を求めてたわけでしょう。

山下:はい、ゴッホ。

木村:セザンヌとかも。

山下:ああ。

木村:ね。

山下:そうですね。

木村:あの自由が許されるわけないしね、今。

山下:制度的には開放とかということですか。単純な。

木村:そうですね。制度、もちろん関係ありますけどね。

山下:はい。でも何となく、根幹に自由というのはあったんですね、ありそうなんですね、ここずっと一貫して。

木村:そうです。だったら、近代的な意味で自由とかというふうに言われると、ちょっと待ってという感じはあるんですけどね。でもそれをこう、正しく人に伝える力はないですわ。もうちょっと、うん。

山下:はい。言葉にするとちょっとどうしても。

木村:難しいですね。

山下:版の可能性とかですね、言葉にするとどうしても限定力が強くなってしまうのですが、そういう版の可能性を追求してきたということよりも、もう少し深いところに何かありそうということですか。

木村:そうですね。

山下:それだけでも、ありがたいです。そうか。それも踏まえて、これからCharcoal展もされましたが、これから何かしたいという、展望みたいなものはありますでしょうか。

木村:僕が今制作で集中的にやっているのが、スキージングの、どう言うかな、スキージングの完成度を上げるというか、とこなんですよ。もう年齢的にも、体がもう自由に動く時間は限られてくるでしょうし、ちょっとそのあたりを。

山下:これからも。

木村:そうですね。それで展覧会やりたいですね。

山下:はい、ありがとうございます。最後に、これだけは言っておきたいということがございましたら、お話しいただければと思うのですが。

木村:繰り返し聞いてほしいよね。これで終わりと言うのとは違って。

山下:はい、時期を経てと。

木村:うん。大体、結論めいたことを言うことになるんですよ、こういう機会って。これまでの文章を書く時にしても。何か最後は、でっちあげっぽく感じてしまうんですよ。ちゃんと言えてないような。

奥村:何かきれいにまとめようと。

木村:ああ。そういうとこある。

奥村:そういう意識、割と強く。

木村:ありますよね。

奥村:持たれるんじゃないかなと。やっぱり自分の説明を仕切りたいという意識が強いんじゃないですか。

木村:ああ、そうかも知れないですね。言葉が好きだというのもあるし、それをしない人は、井田照一なんかしないんですよ、そういうことを。だから何かもう書き散らして死んでしまったみたいな感じがするんで、ああいうのは避けたいなというのもあるんです。

奥村:泉さんもね、そういった批評とか言わなかったけれど、僕らと知り合ったときぐらいは、ずっと話すようになってね。

木村:ああ、そうですか。

奥村:いろいろ話す。僕は最後に聞きに行っていたんで、どういうことを考えててということを。

木村:泉さんとはね、ものすごい今でも印象に残ってるのはね、「見て分からんやつに言うても分からん」という言葉を聞いたことがあったんです。あれって、ほんと強いからね。特に近代絵画においてはそういうとこあるでしょう。いくら説明したってし切れない、どこか違うというものじゃないですか。

山下:完成図ですね。

木村:うまいこと言うな、この人と思った。正しいことを言われたというか。

山下:ありがとうございます。

奥村:確かにね。

山下:繰り返し聞いて、聞くことで、木村先生像を浮き上がらせ続けてほしい。

木村:はい。またしゃべれる機会があったら、しゃべりたいなと。

山下:はい。ありがとうございます。奥村さんの方は、よろしいですか。

奥村:そうですね、一個作品があってもいろんな解釈とか、いろんな何か問題立てとかの中で、やっぱりその時々の作品が出てきてるんで、こういう説明で理解できるかと言ったら、やっぱこっちからも切り込めるし、こういう理解もあるしということがやっぱり、あると思うので、その時々でやっぱり変わる面もあるでしょうし。スキージングの白の仕事とかというのが、それから、スキージングとかが出てきて具体的なイメージがなくなる作品と、それからウォーターフォールの方からだと、その平面、一方でその作品の平面性。

木村:だけじゃない。

奥村:だけじゃないけど、平面性と言われたらまた、いや、違うという面もありながら、一方で常に平面であるということを、作品の上で意識させるような形での作品も、ずっと作ってきているでしょう、多少。その辺のスキージングを使ってても、こう、平面的に具体的なもののイメージがないお仕事もあれば、そのウォーターフォールみたいにちょっとこう仮設の空間性とか、立体性みたいなものを作るお仕事と並行している中で、それが何かな。作家としての表現の振れ幅というか、両方追求しながら、そのどっちにもない間のものをどうやって実現できるのかとか、そういうこと考えているのかなと思うんです。

木村:きれいにまとめるとしたらそうですね。

奥村:まとめ過ぎたな。

木村:いえいえ。まとめ過ぎているとも思わないけど。

奥村:質問になってないな。

木村:いえいえ。いや、鋭いと思いますよ。

山下:でもそうです。

木村:両方やりますから。

山下:そこに木村先生像があるということですかね。

木村:この専門、このタイプというものは、やっぱり上から乗っている半透明の層と、下の層との二重性というところにフォーカスしやすいと思いますし、その要素を残しつつも、これが三次元的なイメージになったときの見え方と、両方やりたいですね、やっぱり、並行して。

山下:それを続けていかれるということでしょうか。ありがとうございます、木村先生。そうしたらこれでインタヴューを終了します。

木村:お疲れさまでした。ご苦労様でした。

山下:ありがとうございます。