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木村重信オーラル・ヒストリー 2010年5月29日

大阪府豊中市千里の自宅にて
インタヴュアー:富井玲子、池上裕子
インタヴュー補助と書き起こし:鈴木慈子
公開日:2011年8月27日
 
木村重信(きむら・しげのぶ 1925年〜 )
美術史家(民族芸術、先史美術、近現代美術)
京都大学文学部で美学専攻の後、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で教える。ソルボンヌ大学民族学研究所に留学、1974年から1989年まで大阪大学文学部教授、国立民族学博物館教授も併任。1989年大阪大学を定年退官後は大阪府顧問、国立国際美術館館長、兵庫県立美術館長を歴任した。世界全域でのフィールドワークによる原始美術の研究で知られるが、インタヴューの前半では近現代美術との関わりを中心に、パンリアルやケラ、北白川芸術村や走泥社、具体美術協会などの作家との交わりを、そして後半では京都市立美術大学での紛争収拾とカリキュラム改革、大阪大学における美学科設立の経緯など、美術制度における貢献についてお話しいただいた。

富井:先生、本日は貴重なお時間をいただいて、ありがとうございます。

木村:いえいえ。この頃、暇なんです。

富井:先生のお仕事は、先史美術、民族美術、そして現代美術と、先生のおっしゃる美術史のアルファとオメガを、日本の研究環境の中で確立されたと理解しております。このインタヴューではいろんなことをうかがいますけども、まずその業績の始まり、オリジンをお尋ねすることから始めたいと思います。お生まれは、1925年8月10日ということで、今で言う京都府城陽市のお生まれですけれども。生まれたおうちは、たしかお茶の問屋さんですね?

木村:そう。

富井:具体的にもう少しお話ししていただけますか、おうちのこと。

木村:ずっと昔から宇治の茶の問屋でね。

富井:宇治ですか。

木村:隣の城陽市です。宇治の周辺でとれた茶を宇治茶と言うんですよ。うちは「山城園」という屋号です。お茶の箱に会社のラベルを貼るでしょう。これには「山城宇治青谷」と書いてある。山城国の「山城」と、宇治茶の「宇治」と、青谷村の「青谷」。そして屋号は山城園で、マークは「 〓(京に○)」ね。高島屋の「 〓(高に○)」とか大丸の「〓(大に○))」と同じで、京都府の京の「 〓(京に○)」。宇治そのものでは茶生産量はそう多くないですよ。むしろ宇治田原とか、和束とかの方が多いんです。それらを全部含めて宇治茶と言うわけ。

富井:何代ぐらい続いた問屋さんなんでしょう。

木村:享保年間からと聞いています。昔は、木村さんとか、池上さんとか言わないで、先祖の名前とか屋号で呼んだじゃないですか。何衛門さんのおうちとか言ったでしょう。うちは「問屋」と呼ばれていた。

富井:問屋さんって。

木村:茶問屋。木津川べりに問屋浜というのがあった。明治初年、宇治茶はたいへん輸出量が多かった。静岡が盛んになるのは後です。そうして、木津川から茶を積んだ船を出したんです、大阪まで。

富井:なるほど。

木村:それを問屋浜という。

富井:浜というのは、ビーチですね。

木村:船着き場ですね。現在の木津川の水量を見ると、大きな船が入るとは思えませんが。昔はもっと水量があった。だから問屋浜の歌があるんですよ。僕は子どものころ聞いたことがある。

富井:歌えますか。

木村:歌えない。従業員の茶選りさんから聞いた。茶選りのおばさんたちは家庭の主婦です。高級なお茶の中に茎があるでしょう、それを箸で除去するんです。茶を選るというわけね。はねられた茎は、茎茶になるわけ。20人くらいの女の人たちが、2階で朝から夕まで茶選りをしていた。

富井:じゃあ、木村先生のおうちは、上が工場というか、選別場になっていたわけですか。

木村:そう、2階の一部が茶選り場。

富井:職住接近というか、職住一緒ということですか。

木村:家の3分の1ぐらいが、下は倉庫で、上がその茶選り場。住居は、あとの3分の2かな。工場や事務所はまた別にありますからね。その茶選りというのは、普通の、といっても板敷きの部屋でやるわけだから。

富井:じゃ、そういうのは小さい時からご覧になりながら、育ったということで。

木村:そうです。茶選りは(他の)仕事があれば、休んでもいいわけ。選った茶の目方を量って、それで賃金をもらうわけだからね。だから昼に帰って、例えば食事をして、子どものお守りをして、寝かしつけてやってくるとかね。それでいいわけです。だから、自由勤務みたいなもんですね。

富井:そうすると、お父様は、その問屋さんをやっておられた。

木村:そうです。というのは、祖父がね、親父が結婚したときに、名古屋に行った。名古屋というか、愛知県は、抹茶をよく飲む。今は、抹茶をどの家でも飲みますが、昔は愛知県、岐阜県ぐらいしか飲まなかった。それと松江ね、不昧公の(注:松平治郷、出雲松江藩の第七代藩主で茶人)。それと東京、大阪、京都の茶人ですね。愛知県では、玉露とか煎茶を飲まないんですよ。お百姓さんが野良へ行く場合でも、野点持って、抹茶を飲むんです。日本の抹茶の消費量の大半は、愛知と岐阜、あの辺なんです。それで祖父が、父が結婚したから、番頭やら丁稚やら、10人ほど連れて名古屋に行って、茶問屋を開業したわけだ。父も若いからね、自分よりも年上の人を店で使うの、使いにくいわけですよ。まだ25歳ぐらいのときに、50歳か60歳の従業員がいたら、そりゃ使いにくいです。そんなことも慮ったんでしょう、祖父は。だから名古屋と山城と、店が2つあり、さらに支店が岡山と中国の済南にあったんです。そんなことから僕は商業学校を出て、名古屋高等商業学校へ行ったんだ。

池上:そういうつながりで。

富井:ああ、高等商業へ行かれたんですか。

木村:そう。僕、中学校じゃなく、商業学校だから、数学や幾何学をあまりやってないからね。一高や三高へは行けないわけ。

富井:ああ、なるほど。

木村:だからして、名古屋高等商業学校へ行ったんです。今の名古屋大学経済学部の前身です。

池上:ああ、そうですか。

木村:それが戦時中に、経済専門学校に変わった。それから軍隊へ行きました。

富井:先生、軍隊へ行かれたんですか。

木村:行った。名古屋高等商業学校2年生の時、数え年で20歳の時、繰り上げ徴兵検査があった。兵隊が足りなくなったんですよ、戦死して。特に下級将校が足りなくなった。それでね、特別甲種幹部候補生、「特甲幹」といいますがね、それを作ったんです。将校の速成養成だな。だから伍長で入るんです。伍長といっても普通の伍長じゃないんです、座金つきです(注:座金とは、襟の階級章の横につけられた星形の鋲のことで、幹部候補生を示す記章)。形式的な伍長ですね。予備士官学校に10ヶ月行って、見習士官になる。それが特別甲種幹部候補生。ところで、その年の徴兵検査は、満19歳と満20歳、一緒になった。1年繰り上げたわけですね。そして、高等商業学校や高等学校や師範学校へ行っている人は全員、特甲幹を受けさせられた。ほとんど全部通ります。

富井:通ってもらわないと困る(笑)。

木村:体のうんと悪い人でなければ、ほとんど通りました。それで豊橋予備士官学校へ行って、10ヶ月後に卒業しました。

富井:そうすると、徴兵されたのが、1944年ぐらいですか。

木村:そうです。(敗戦の)前の年。(昭和)19年。そうして1945年6月10日に卒業した。僕は歩兵千数百人の中で一番でしたから、恩賜の軍刀をもらえる予定だったが、恩賜の文鎮でした(笑)。

富井:文鎮でしたか(笑)。

木村:それは僕の著作集第8巻『生活文化論』に「青春紀行」があって、そこに収録されています。豊橋から、広島師団へ行った。そして原爆の前に、本籍が京都府でしょう、「京都師団へ帰れ」という命令で京都へ帰った。そして志摩半島へ行った。ここは442聯隊の本部があり、私は聯隊旗手要員でした。豊橋予備士官学校を一番で卒業したから。ちょうどそのころ広島師団管轄の、山口聯隊とか岡山聯隊、鳥取聯隊があるでしょう。その各聯隊の下級将校を集めて、広島師団本部で、特別訓練をやってたんです。そこへ原爆が落ちたでしょう。ほとんど死にました、僕の戦友が。内堀善一君という彦根の人が助かったが、髪の毛が全部なくなった。その後生えてきましたが。それから、ずるを決めて、「腹が痛い」「急性腸カタルだ」と言って、行かなかった友人がいる。それ以外は全員死んだ。

池上:先生は直前に「京都に帰れ」という命令がきたんですか。

木村:直前というか、一月ぐらい前。でも大阪、神戸が空襲でやられてるでしょう。だからね、まっすぐに広島から京都へ行けない。岡山から鳥取へ行って、山陰線で京都へ来た覚えがあります。戦争末期ですから、大阪や神戸は、ほとんど焼け野原になっていました。

富井:終戦はどこで迎えられたんですか。

木村:だから、志摩半島です。

富井:志摩半島ですか。

木村:しかし終戦だからすぐ帰る、というわけにいかんのよ。僕は残務整理を命じられたんです。将校は一人。終戦のときにいわゆるボッタム少尉になりました。皆、一階級上がったんですよ、階級が。座金つきの見習士官が少尉になり、二等兵が一等兵になった。他の将校もいましたが、皆、妻子があるでしょう。その人たちを早く帰してあげないかんでしょう。僕はまだ20歳だったからね。

富井:20歳の将校さんですか。

木村:それから45人かな、兵隊が。そして下士官が3名、残務整理に残された。その多くは、幹部候補生のおとなしい、まじめな人たち。そういう人が残されてね。つまり、442聯隊の武器や弾薬、馬、それらを全部アメリカ軍に引き渡すために。いわゆる武装解除です。でも武器弾薬だって、馬や食糧だって、いっぱいあるんです、戦争するんだから。食料品は乾麺とかの、いわゆる備蓄用の食糧ね。お米だってたくさんありますよ。聯隊にはだいたい5000人いるんですよ。だから終戦後の方が大変だった。というのは、皆、何もかも投げ出して帰ってしまったでしょう、9月2日に解散式して。銃でも何千丁とあるわけでしょう。それを全部、箱詰めしなければならない。アメリカに渡すためには、並べて「はい、どうぞ」というわけにはいかない。5丁ずつ、箱を作って、梱包した。

池上:そういうことをやる仕事に就かれた。

木村:そう。津の近くに、明野飛行場がありました、陸軍の飛行場。そこへ全部持って行く。うちは442聯隊だけど、津のあたりにも別に聯隊があるでしょう。それから知多半島にも聯隊があるから、それらの物品を全部そこへ集めたわけでね。そこで僕のいとこと会いました。彼は中尉だけど、まじめな人だから残された。「木村君、君も残されたのか」って(笑)。

富井:それで、いつ頃までその業務に携わっておられましたか。

木村:10月半ば頃までかかったんとちがいますか。日記を見たら分かります。

富井:それで、ちょっと少し戻らせていただいて。お茶の問屋さんというと、やっぱり芸術的な環境もあるのかなと思うんですけれども。お父様、お母様は何か、芸術とか芸道とか、関係ありませんか。

木村:ないけども、父は陶磁器を集めていた。茶道具。まあ、商売柄ね。だからして、こういうようなもの(抹茶茶碗)もね、うちにたくさんあります。僕は家を飛び出ましたから100点ぐらいしか持ってきませんでしたが。

富井、池上:飛び出たときに(笑)

木村:うん。(実家には)2000点か3000点あった。安物ばかりだけれど、中には良いのもありますよ。

富井:お母様は専業主婦でいらっしゃったんですか。

木村:専業主婦。僕は6人兄弟です。

富井:じゃあ、何かたしなみとか、芸事とか、そういうことはなさっていたんですか。

木村:いや、そんなの、ないです。

富井:じゃあ、美術史の方へいらっしゃったかということで。

木村:まあ、父がそういうように陶磁器を集めていたし、それに、兄が小説を書いていたでしょう。『木村庄助日誌―太宰治『パンドラの匣』の底本』という本を2005年に出しました。持ってきましょうか。(いったん退室して、本を持ってくる)これです。

富井:ああ、なるほど。

木村:これをもとにして(太宰は)『パンドラの匣』を書いたわけです。兄の日記の何ページかがそのまま、太宰治の小説の中に入ってます。一字一句違わんと。

富井、池上:ええーっ!

木村:だからね、この日記を未亡人の津島美知子さんは、返してくれなかった(笑)。

富井:なるほど。

池上:ばれちゃうから。

木村:京大の学部で僕は文芸を勉強していましたから、卒業論文は、兄の日記をネタにして書こうと思った。資料が完全にオリジナルでしょう。それで(美知子さんに)「返してほしい」と言った。21歳で兄貴が死んだときに、遺言に従って12冊送ったのでね。そのときに(美知子さんが)「あなたにも大事だろうが、私にとっても太宰の思い出はこの日記しかないから、しばらく預かりたい」と。それで「まあ、いいでしょう」ということで。その後(僕の)娘が甲南女子大学の国文科に学んでいて、卒論で扱いたいとのことなので、美知子さんに「返してほしい」って言ったけれど、返してくれない。
ところで、この本の解説を書いている浅田高明という、木村庄助と太宰治の関係ばかり調べている研究者がいるんです。お医者さんで。

富井:それはいるでしょうね(笑)。

木村:3冊、本を書いてます。その人が近年、「美知子さんはもう危ないから、お嬢さんに言うて、返してもらえ」って。次女が(作家の)津島佑子さんでしょ。長女が園子さんといって、自民党の津島派のトップ(注:津島雄二)がだんなさんだ。それで彼女が、残っていた3冊の日記を送ってくれた。その中にちょうど『パンドラの匣』の前半部分がのっていた。巻9だと思います。それでこの本を編集工房ノアから(出した)。ここは文学書ばかり出してますから、「ぜひともうちにほしい」言うてね。

富井:じゃ他には、ご兄弟、6人兄弟の中で、芸術関係の方は。

木村:弟が歌人の木村草弥です。この本の校正も弟と二人でしましたが、大変でした。全部、旧仮名でしょう。それから変体仮名でも書いてあるからね。(ページをめくりながら)ほら、「盗作」って書いてある。ね? このへんが盗作なんです、ずーっとね(笑)。

池上:付箋に「盗作」って書いてある(笑)。

富井:で、まだ先生がなぜ美術史の方へ進まれたかということまで、まだ行ってないんですけども。

木村:父や兄から影響を受けたんでしょう、やっぱり。京都大学の入学試験の口頭試問で、植田寿蔵先生に「君は本学で何をやりたいのか」と問われました。

富井:私もそれが聞きたいです。

木村:試問を待つ合同研究室にギリシア・ローマの石膏像がある。ミロのヴィーナスとかラオコーンとかが置いてある。そして、須田国太郎さん(注:京都大学で美学美術史を学んだ洋画家)がスペインに遊学したときの模写もある。ベラスケスとかね。「この大学へ来たら、こんなことを勉強するのか」と思ってね(笑)。ギリシアのこともキリスト教美術のキも知らんでしょう。そりゃそうです。まだ21歳。しかも(終戦の)明くる年でしょう、昭和21年でね。僕は大正14年生まれだから、昭和の元号とちょうど一緒なんです。だから今は昭和84年のはず。

富井:先生、三島由紀夫と一緒ですね(笑)。

木村:そう。その口頭試問で「陶磁器を勉強したい」と言った。陶磁器は、親父と一緒に勉強していて、少しは分かるからね。

富井:一緒にしてるっていうのは、やっぱり使ったりとか、整理をしたりとか。

木村:そのほか、骨董屋さんが来るんですよ、家に。

富井:ああ、売りに来るんですね。

木村:丁稚を連れて、座敷にだーっと並べてね。20点ほど並べるでしょう。「これとこれとが良くて、後はいらんの違うか」と言ったらね、父は「全部置いていけ」って半値に値切るわけです。そしたら「だんなさん、そう言わんと」言うてね、3分の2ぐらいの値段に落ちつく。だから数が集まるわけ。僕が「そんな買い方はあかん」と言うと、父は「お前えらそうに言うが、これが良くてこれが悪いと分かるのか」と。そんなことが積み重なっていたので、口頭試問で「陶磁器を勉強したい」と言った。すると植田寿蔵先生、「京大では、陶磁器は勉強しません!」と(笑)。

富井:京大っていうのは最初から、地元京都のご出身、生家が京都ということで、東京とかそういうところではなくて。

木村:そう。なぜ美学かとあなたは聞きたいのだろうと思うけれどもね。哲学をやるほどの度胸がないの(笑)。

富井:いやまた、そんな(笑)。

木村:というのはね、あの頃、高等商業学校でも、ほとんど軍需工場や軍隊へ行ったりして、1年半ぐらいほとんど勉強してませんわね。また、あんたたちには分からないだろうが、(敗戦で)社会がひっくり返ったんですよ、全部。だから法律とか経済とか、ある意味で実利的な学問から遠ければ遠いほど良いと思った。学問なんていう大げさなことじゃなくてね。世の中もそうですよ、終戦以後の日本はひどかったでしょう、社会が。皆、食うや食わずの時代ですから。例えば、僕は田舎に住んでいたから、ちゃんとごはんの入った弁当を持っていきました。でも誰も弁当を持ってきていない。

富井:持ってこれなかったですか。

木村:そうなの。こんな、ちびたトマト2個とかね。だからいっぺんも開けたことないですね、1年間ほど。弁当持ってたけれど、開けられない。

池上:他の方が、ないから。

木村:昼食の弁当を(人前で)食べたことがない。そんな時代ですからね。

富井:そんな時代だと、入学試験はその口頭試問だけだったんですか。

木村:英語があった、英語の解釈とディクテーション。そして論文でした。入学試験を受けて、「僕が一番」と思った。

富井:先生、よく英語ができたんですか。

木村:英語は皆できない(笑)。まともに習っていないのだから、みんなとんとんだ。だから論文の出来が鍵となる。2時間ぐらいかけて書く長い論文でね、「自由と平等」が出た。

富井:へえ、戦後ですね。

木村:「自由と平等」、これは矛盾概念ですね。僕は高等商業学校の哲学の先生、いや、心理学の先生から、「自由と平等」について詳しく教わったことがある。それを覚えていましてね、図を書くわけだ。こっちが自由軸、こっちが平等軸ね。こういう図を書くような受験生は誰もおらん。皆わけの分からんことを書いてるわけね(笑)。入試合格発表があるわけでしょう、一週間後かに。お袋が「見に行かないのか」言うから、「通るに決まってるから行かん」と。速達で連絡するというので。あの頃ね、速達も遅れたんですよ。発表もすんで、2日、3日しても、来ない。「おかしいな。絶対に僕が一番のはずだ」と思ってましたからね。そしたら4日目ぐらいに来ました(笑)。

富井:口頭試験というのは、その後で行かれたわけですか。

木村:口頭試問は学科試験と一緒。大学の口頭試問というのは、おそらく成績と関係ないです。ほかの大学でもするじゃない。しかし、主観的な判断というわけで、口頭試問は成績に入らない。

富井:で、入学なさったら、美学の専攻で。結局何を。

木村:文芸を勉強していた。

富井:文芸の方ですか。

木村:だから卒業論文は「文芸における表現の問題」。

富井:そっちだったんですか。

木村:美術でなく、文芸です。だから兄の影響を受けてるわけだ。大学時代から同人雑誌をつくったりしてね。戦時中の高等商業学校時代も、文芸部だった。野球部と文芸部。

富井:両方やってらした。文武両道ですね、じゃあ。

木村:戦争に行って必ず死ぬからね、俳句つくって辞世の句集を出したりね。

富井:俳句つくってらっしゃったんですか。

木村:うん。『せゝらぎ』という同人誌を、僕が編集長となって作った。それも日経の連載に書いてある。『せゝらぎ』と『野茨』という句集を出した話。まあ、そんな生い立ちの話はいいかげんに、切り上げよう。

富井:はい。で、履歴書を拝見しますと、1949年にご卒業になって、1953年に京都市立美術大学(注:現 京都市立芸術大学)講師っていうふうになっていまして。その間、何しておられたんですか。

木村:大学院に通いつつ、非常勤講師をしていました。

富井:ああ、なるほど。非常勤だから書いてなかった。

木村:大阪成蹊女子短期大学とかね。

富井:何を教えてらっしゃたんですか。

木村:あそこは、美術史でしょう。

富井:美術史を教えてらっしゃたんですか。基本的には、美術史は美学科で勉強なさった。

木村:我々はね、学生時代から、だいたい上下3クラスぐらいで、「大むら会」という研究会をやってたんですよ。祇園の大むらという旅館でね。これも、この間書いた(注:『ぎをん』 no.199、夏号)。月にいっぺんか、2ヶ月にいっぺん。というのは、大学にも演習がありますが、先生がいるわけで、あまり勝手なこと言えないでしょう。でも仲間だけだったら、これまた統制がとれない。そこで先輩の河本敦夫さんにまとめ役を頼んだ。この人は京都工芸繊維大におられ、なかなか柔軟なんです。昔、映画の助監督をしたぐらいの人だからね。それで、河本さんを聞き役みたいにしながら、毎回二人ほど発表して、討論するというようなことをやっていました。討論後、飯食って、酒飲むという会。しかしそのうちに、皆アポリアにぶつかったんですよ。美学理論やってる人、美術史やってる人、文芸やってる人、皆ね。自分の中では動いてるんですよ。ところがピンポン球がね、2つのコートを行き来するだけの循環みたいになって。それでそれぞれ、打開する方法を探すことになった。あの頃記号論とかセマンティックスが流行りましたから、ある人はそういう記号論を勉強したいとか。ある人は、絵画とか彫刻じゃなくて、デザインを勉強しようとか。そのときに僕は、美術の始まりから見直すというようなことを考えた。美術の始原ね。なぜ人間が絵画や彫刻というようなものをつくりだしたのかと。思いつきのようなものです。

富井:そのときに始まってたんですか。

木村:卒業して2年ぐらいかな。それから、美術があの頃、非常に新鮮だったんですよ。

富井:1949年、50年っていうことですよね。

木村:うん。戦時中は日本で美術展覧会はほとんどなかった。できなかった。だから戦後、デパートで時々美術展があり、日展も復活したでしょう。僕は西洋美術を見に、大原美術館へ2、3年通ったなあ。そんなことがあって、美術に関心を持っていたから、美術の起源を見直すということで、先史美術をやりだした。ところが文献が一切ないの。

富井:日本語で、ということですか。

木村:日本語でも外国語でも。

富井:どっちでも。

木村:それで東京藝大へ行ったりね。東大、京大は一切ないです。大山柏さんの『史前芸術』とか、そんなのが1冊ね、戦時中出た本があったぐらいでね。「史前」って「歴史の前」。大山柏という人は大山巌さんの息子らしい。

富井:東京の藝大にも行かれて。

木村:東大も行ったし、京大も大学図書館や文学部図書室など、全部調べました。阪大は、その頃は美学はないですからね。

富井:はい、そうですね。

木村:それから古本をずいぶん集めましたよ。古本しかないからね。丸善の洋書部に、僕のおじみたいな人がいて、その人が、外国の古本のリストを送ってくれた。

池上:カタログみたいな。

木村:ええ。昔の本でもかまわないからね。そんなカタログによってこつこつと集めました。東京藝大には、絵のたくさんある、ブルイユ(H.Breuil)の本なんかがありましたね。

富井:そうすると、美術史を教えているときは、そういう新しく発見して、自分で勉強していることなんかも入れて、教えておられたんですか。それとも普通に美術史を教えておられたんですか。普通にっていうのも変な言い方ですけど。

木村:京都美大は、当時、西洋美術史担当の教官がいなかったからね。黒田重太郎先生が主にやっておられた。黒田先生は絵描きですが、学もあるでしょう。西洋近代美術の本も書いておられる。それで、僕が昭和28年に行ったら、黒田先生が学長に、「今度、木村という若いのが来たから、彼に近代美術史を担当させよ」と。僕は芸術学担当として雇われたのですがね。

富井:ああ、美学ではなくって。

木村:ええ、芸術学。京都芸大は芸術学っていってました。美学といわなかった。神戸大学も芸術学でしょう。美学というのは芸術哲学みたいなもの、芸術学というのは、いわゆる芸術の学、クンストヴィッセンシャフト。その芸術学担当の僕は学長から「近代の美術論ないし美術史をやれ」と(言われた)。しかし、あまりにも知らないでしょう。やっと美術の始原をやり出してるところだからね。それで「フランスへ行って勉強してきますから、帰ってからやる」と言った。でも海外研修制度がまだなかった。よその大学にはあるわけですよ。だから先輩の辻晉堂さんらと組んで、「それをつくれ」言うてね。第一号は僕が当たるに決まってるから。

富井:自分のために(笑)。

木村:それで、昭和31年に、フランスに行きました。

富井:じゃあ、わりと時間かかりましたね。

木村:1年間、その研修制度で行ったんです。だから僕は、池上忠治君(注:1936-1994、美術史家。池上の父親)のように、フランス政府留学生じゃない。

池上:なかった制度をつくって、ご自分で行かれた。

木村:この制度づくりは1年以上かかったと思いますよ。しかし費用は大学の全額負担じゃなかった。(1ドル)360円の時分だから、大変なんですよ。今まで全然なかったのに1年間ですから。3ヶ月とか6ヶ月の制度があって、それを延長するのではなく、一からですからね。それからあの頃は外貨持ち出しがものすごく厳しかった。僕はやっぱり美術史研究ですから、イタリア、ドイツ等々、あちこち見て歩く必要があるでしょう。足代もいるしね。パリでじっとしているわけじゃないんだから。それで、持ち出し許可以上のお金が要る。どのようにお金を送ったと思います? 正式には絶対送れない。

富井:お茶に混ぜて送るぐらいしか今、思いつきませんけども。

池上:「お茶器を送る」って言うとか。

富井:それで、どうしたんですか。

木村:封筒に入れたらなくなるから、週刊誌。週刊誌を丸めて、そこに20ドル紙幣を入れる。

富井:へえ!

木村:丸めて、帯封をした週刊誌は外から見えるでしょう。だから大丈夫。本なんかに入れたら調べられるからね。100ドル入れてもいいけれども、なくなったら、えらい損。行く前に結婚しましたから、闇ドルの20ドル入れて、毎週、家内に送らせた。

富井:じゃあ、奥様に日本に残られて。先生だけ。

木村:僕は「帰ってから結婚しよう」言うたのを、家内のお袋がね、「帰ってからいうたら、当てにならん」「青い目の人を連れて帰るか分からんから、早よ結婚せえ」言うて(笑)。

富井:なるほど。で、パリ大学付属の民族学研究所に所属された。

木村:それはルロワ=グーラン(André Leroi-Gourhan)さんがいたから。

富井:それはやっぱり美術の始原からの流れで。

木村:そうです。ルロワ=グーランは先史美術研究の第一人者。(クロード・)レヴィ=ストロース(Claude Lévi=Strauss)と並び称される有名な学者です。

富井:そうですね。じゃあテーマは、民族学というか、美術の始原の研究だったんですか。

木村:そう。先生はね、民族学研究所にいたけれども、いわゆる先史学です。

富井:近代美術の方はどうなったんですか。

木村:それは、美術館や画廊をまわり、本や雑誌を読んで勉強した。

富井:自分で、勉強するというか。

木村:見て歩くということ。それは学長との約束だから。

池上:二本立てみたいな。

木村:そうそう。

池上:先史美術を勉強されて、近現代美術は、もうご自分で見て歩くという。

木村:先史美術については、ルロワ=グーランのところに週に一度行きました。また先生は発掘をやっておられたんです。アルシ・シュール・キュール(Arcy-sur-Cure)というところで。これが当時、世界で最も科学的な発掘というわけで、カナダ人、スペイン人、インド人の女性も来ていた。夏休みの2ヶ月間、現地のテントに寝泊まりして、発掘作業に従事しました。

富井:じゃあもう、実地訓練ですね。

木村:それが海外研修の一番大きな成果だった。

池上:っていうことは、発掘にも参加されたんですか。

木村:少しは参加しましたが、僕は考古学者じゃないから、どういうふうに発掘するのか、いろいろ見学しました。ルロワ=グーラン先生は、毎日、僕の仕事を変えてくれた。極端に言えばね。だから発掘現場のときは、穴掘りを3日間やったら、次はそこから出てくるものを洗う仕事をする。次は洗った遺品を整理しなければならない。石器でも、出た順番に並べるのではなく、タイプに分けて。僕は何も知りませんから、見よう見まねで。隣の人がやってるのを「なぜこのように並べるのか」言うて。3人か4人が一組で、全部で30人ぐらいスタッフがいて。そして夕飯の後、先生の講義があるわけです。

池上:すばらしい教育ですね。

木村:そうでしょう? ルロワ=グーラン先生というのは、旧石器美術の男女両性神話説を唱えた人です。僕は呪術説で、男女神話説に反対だから、僕の本では先生の説をかなりきびしく批判しています。しかし、あまりきつうやってもいかんので、手心を加えています。
ところで、その弟子の、ヴィアルー(Denis Vialou)という人。この人を小川勝君(注:木村の教え子で、先史美術研究者。鳴門教育大学教授)が知ってましてね。北海道余市に岩面刻画があるでしょう、フゴッペの。小川君はあれを科学研究費をもらって(調査して)、厖大な報告書を出しました。僕は序文みたいなのを書いてます。それで、そのヴィアルーという人は、奥さんがブラジル人で、ブラジルの岩壁画を研究している。それで、小川君がその夫婦を呼んで、北海道で国際シンポジウムをやるんですよ。そしたら、ヴィアルーさんが東京と京都で、「ルロワ=グーラン先生の思い出」という講演をするんです。愛弟子らしい。それからもう一人、僕がインドへ調査に行ったら、ワカンカル(V. S. Wakankar)という教授がいましてね、もう死にましたが。僕の10ほど年下でルロワ=グーラン先生の弟子だった。それで、同窓だというわけで、意気投合してね。インド調査に行ったとき、自分の調査研究中の資料を全部、写真撮らしてくれてね。だからイラクからの帰りに、お墓参りに寄った。彼はシンガポールかどこかで客死しましてね。その弟子にナグデヴ(Sachida Nagdev)という絵描きがおりまして、大阪で個展をさせた。

富井:その1年間、パリで勉強したところから、いろんなネットワークが広がっていきますね。

木村:そうですね。それから、洞窟美術遺跡をたどるためにドルドーニュ渓谷などへ行くでしょう。池上忠治君の場合は、イル=ド=フランスあたりでいいですが、こっちはピレネー山中を踏査しなければならない。車では行けないので、オートバイで。

富井:なるほど。

木村:小型オートバイを買って、パリからマドリードまで行こうとした。僕は10月に出発しようとした。するとパリで「ピレネー山脈は、今、雪だから、ちゃんと冬装備して行け」と、フランス人の友達が言う。それで革ジャン買って、完全装備して行った。そしたら、ワイシャツひとつで走れた(笑)。

富井:おもしろい(笑)。

木村:登頂するんだったら別ですがね。ふもとの道を、東から西へ横断する程度でしょう。

富井:あと、パリにいらっしゃるときに、日本人に限らず、いろんなアーティストと交流なさったと思うんですけども。

木村:まず、堂本(尚郎)君。尚郎君は、堂本家の皇太子でした。

池上:(笑)

木村:本当にそうなんですよ。彼は堂本印象の息子じゃなく甥ですが。あの頃京都には、毎日新聞の選抜美術展や朝日新聞の朝日新人展というのがあって、僕はその選考委員をしていました。堂本君はその常連でした。皇太子というのは、堂本一家の、堂本阿岐羅とか元次とか、東丘社の日本画家たちを引き連れて、飲み歩いていたから。それで皆(彼のことを)、プリンスと言った。その堂本君と宿舎で一緒だった。彼は僕の部屋へよく来ました。というのは、うちには抹茶がある。それから家内が羊羹を一緒に送ってくるでしょう。ですから、カフェで飲んで自分の部屋へ帰る途中に、僕のところに寄るわけ(笑)。

富井:お茶を飲みに。そしたら、パリでお茶屋さんですね。

木村:そのとおり(笑)。また、今井俊満の部屋が僕の隣の隣でね。画商に売り込むとき、廊下に並べるんですよ。

富井:絵を。

木村:絵を。大きいでしょう、100号以上のね。それをずっと並べる。僕が部屋を出ようとすると、ドアの前に今井のカンヴァスがあって、出られない。

池上:引っかかって。

木村:引っかかるのではなく、ドアに立てかけてあって。

富井:閉じこめられるわけですね。

木村:それで「人の部屋の、入口のドアの前ぐらいは置くな」と言った。「すまん、すまん」言いながら片づけていた。でも、しょうがないんです(笑)。たくさん見てもらう必要がある。画商の気に入らなかったら、違う絵に入れ替えなければならない。

池上:お住まいは、シテ・ユニヴェルシテールだったんですか。

木村:そう。メゾン・デュ・ジャポンです。それから菅井(汲)さんね。菅井さんとも親しかった。菅井さんが有名になったのは1956年。僕が行ったとき。(セルジュ・)ポリアコフ(Serge Poliakoff)というのがいましてね。一時ものすごく有名だった。ところがポリアコフが乱作して落ち目になったら、シーソーみたいに、菅井さんが上がってきた。僕が菅井さんにそう言うと、「うーん、君うまいこと言う」ってね(笑)。ずっと後に、菅井さんが奥さんと別れると言って、日本へ帰ってきたでしょう。彼は尼崎出身だから、あのあたりに住んだが、住所は誰にも言うてない。どこから奥さんに漏れるか分からないから。奥さんはだいたい、尼崎あたりに帰ってると思って、2へんほど探しに来たが、結局分からずじまい。ところが、僕の家へだけ、菅井さん来た。正月に。ここに座って。あの人は交通事故で、足が曲がらないので終始この椅子に座りづめ。そして、あの人はね、おもしろいんですよ。3度の食事が面倒なんだ。

池上:何かいつも決まったものを食べておられるっていう。

木村:そう。いつも決まったものしか食べない。そして「丸薬をひとつ飲んだら、おなかがいっぱいになるような薬がないかね」とか言ってね。ところが(若い世代には菅井さんは)神様ですからね。この椅子の菅井さんを囲んで、丸薬うんぬんなどの話を神妙に聞いていた。その正月の菅井さんの写真もありますよ。それから野見山暁治ね。彼の奥さんが死んだ、パリで。われわれは、葬式を数人でしたんです。僕や野見山さんがフランス語を習っていた70ぐらいのおばあさんがおられて、その塾へ通っていたグループで葬式をしたんです。

富井:あと、日本人以外のアーティストと付き合いましたか。

木村:(ピエール・)アレシンスキー(Pierre Alechinsky)がいます。彼はそれ以前に日本へ来ていたんです。書を勉強に来ていましてね。『墨美』という雑誌があったでしょう。井島勉先生が『墨美』の顧問をしておられて、「応援せよ」とのことで、僕は『墨美』に2、3回書いたことがあります。だから『墨美』の関係で、アレシンスキーにはパリでも会いました。それから彼に連れられて、ミシェル・スーフォル(Michel Seuphor)さんのところへ行ったこともあります。しかし、アレシンスキーとはけんかしました。生意気でして。頭がはげているから、僕よりうんと年上だと思っていたら、1928年生まれ(注:実際は1927年)。「なんじゃ、僕より3つ下やないか」と思って。しかしその後えらくなったね。ベルギーの美術館に行ったら、アレシンスキーの絵が飾ってあるしね。彼は生きてるの?

富井:いや、ちょっと分かりません。

池上:どうですかね。

木村:それから誰かなあ。イタリア旅行したときは、(ジュゼッペ・)カポグロッシ(Giuseppe Capogrossi)とか、(アルベルト・)ブッリ(Alberto Burri)とかに会ったことがあります。カポグロッシはミラノじゃなかったかな。あ、それはもっと後だ。中井克己君がおったから、ミラノに。中井君の紹介だ。もうちょっと後です。

池上:批評家はいかがですか。

富井:(ミシェル・)タピエ(Michel Tapié)なんかは? 

木村:タピエは知らなかった。そのときにはね。具体もよく知らなかった。パリで、堂本や今井とつき合って、初めて詳細を知った。

富井:そうですか。

木村:富永惣一さんがパリに来られてね、1956年に。そして、いわゆるアンフォルメルを知り、日本で紹介したんです。そのときに、ルフィニャック(Rouffignac)という、旧石器時代の洞窟壁画が発見された。これが偽物か本物かで大論争があった、新聞で。ちょうど夏で、新聞も暇だったからね。有名なブルイユさんは、これは本物だと言う。ところがドルドーニュの現地の研究者は偽物と言う。これはミシュランの地図に載っている大きな洞窟で、中が涼しいから夏にいっぱい人が入る。しかし、今まで誰も絵があるのを知らなかった。だからブラン(C. Blanc)という研究者は「私は中を何べんも調べた。絵はなかった」「忽然と現れるはずがない」「昔、洞窟の中で写真を撮ったから見せよう」って写真を持ってきたら「あっ、写ってる!」(笑)。そんなおもしろい話が新聞にあって、パリで評判になっていた。それを富永さんがアンフォルメルと一緒に紹介したが、ルフィニャックという名称を間違えた。パリから帰ってみたら『みづゑ』に、違う名前で載っていました。

富井:高階秀爾先生と同じ頃の留学になるんですか。

木村:そうです。高階君もいた。

池上:お付き合いありましたか。

木村:ええ、ありましたよ。それから芳賀徹や平川祐弘といった人たち。あのときの東大組はほとんど東大教養部に行った。それから美術史では慶応の八代修次君。彼は関西人だから親しかった。彼は大金持ちですよ。

池上:矢代幸雄さんではなくて、修次さん。

木村:ええ。ヤシロの字が違う。修次君は八つの代。彼は大きな会社の社長さんの息子で、金持ちだから、割合ぜいたくでしたね。それで地方へ出ては、カタログを2冊買ってきてね、美術館や博物館の。1冊は僕にくれる。それもすっとくれたらいいのに、「君、この美術館へ行った?」、「行ってない」、「君の専門は古代なのにまだか」「だから買ってきてやった」って(笑)。

富井:それで帰られた後で、58年に『現代絵画の変貌』をお書きになったんですよね。

木村:うん。あれは美大の講義録です。講義録をそのまま本にした。

富井:講義録。じゃあフランスで見たこととか、そういうこととは特に関係なく。

木村:いや、序文のところでアレシンスキーのことを書いてあるように、ヨーロッパで見たり聞いたり、調べたりしたことが中心です。

池上:むしろフランスで見聞きしたことを。

木村:例えば(ラウル・)ユバック(Raoul Ubac)とか、そんな名前、美術雑誌にも書いてない頃ね。僕は見て、「これは良いんじゃないか」と思った。それからピーエ(Edgar Pillet)とか、ブッリだって知られていなかった。ローマ・クァドリエンナーレがありましてね。数がすごいんですよ。(絵を)3段掛、4段掛してある。「つまらん絵ばかりだな」と思って見ていると、その中に(ブッリの)ドンゴロスがひとつあった。そんなに大きい絵でなかったが、良いと思った。記号絵画のフォンタナとか、カポグロッシもそんなときに意識しました。

池上:56年といったらずいぶん早いですよね。

木村:イタリアの空間派が有名になるのはもうちょっと後です。コブラ・グループ(Cobra)をタピエがほめた。(カレル・)アペル(Karel Appel)とかコルネイユ(C. van B. Corneille)。イタリア美術はあまり日本に紹介されていなかった。ちょうどその頃、サロン・ド・メ(Salon de mai)が大評判だったんです、日本では。

富井:そうですね。

木村:今思えば、サロン・ド・メというのは、ちょっと中途半端ですがね。しかし、当時は、本当に新鮮でした。サロン・ド・メにはマルシャン(André Marchand)のような具象派から、社会主義リアリズム、そして幾何学的抽象の連中までいますが、中心は、ノン・フィグラティフの人たちでしょう。(ジャン・)バゼーヌ(Jean Bazaine)とか(シャルル・)ラピック(Charles Lapicque)とか、それから(アルフレッド・)マネシエ(Alfred Manessier)、(ギュスターヴ・)サンジエ(Gustave Singier)など。抽象でも具象でもないので「レ・フロンタリエ(Les frontaliers)」「国境の住人」なんて言いました。もちろん、サロン・ド・メには(ハンス・)アルトゥング(Hans Hartung)がいたり、(ジェラール・)シュネーデル(Gérard Schneider)がいたり、他にもいろいろいます。今からすると、なぜあんなに評判になったのかと思いますが、戦後の解放感も大いに関係していますね。三色旗があるじゃない。

富井:フランスの国旗ですか。

木村:ええ。三色旗には、何かさわやかな感じがあるでしょう。

富井:ありますね。

池上:イメージがね。

木村:ちょっとさわやかな、解放的な感じがあるでしょう。そのフランス国旗の感触と、サロン・ド・メのそれとが、よく似ていると思った。サロン・ド・メの中心人物の、戦時中のレジスタンスも、彼らの人気に関係しています。

池上:彼らは関わっていたんですか。

木村:ええ、彼らは戦時中「新しい世代」や「新しい力」や「今日の十二人の画家」と名前を変えて、集団的に作品を発表した。12人だから、「レ・ドゥーズ」と言われた。戦後、サロン・ドートンヌがすでにあったから、新しくサロン・ド・メをつくったわけです。「5月のサロン」を。そういういきさつがあるんです。僕は思うんですけど、画壇というのは、良いとか悪いとか、宣伝がうまいとか下手とかだけでなくて、何か別の要素がありますね。フランスの場合、上流社会というような言い方をしたらいけませんが、いわゆる知的サロンがあるんですよ。

富井:文化的な交流の場というのが。

木村:ええ、交流の場ですね。だから絵描きだけじゃなくって、物理学者とか、哲学者とか。弁護士とか、ときには政治家もいる、集まりがある。具体的な「何とかサロン」というのではない、インテリの私的な集まりが。

池上:ソーシャル・ネットワークというか。

富井:昔のね。

木村:例えば、現在、パリに黒田アキがいるでしょう。たいへん力がありますよ。知ってる?

富井:わからない。

池上:ちょっとよく分からないんですが。

木村:アキってカタカナで書く。

富井:名前は見たことがあるんですけど。

木村:京都の人です。

富井:何する人ですか。

木村:美術家です。この黒田アキを、僕が館長のとき、国立国際美術館で紹介した。街の画廊では、阪大出の森裕一君のモリ・ユウ(MORI YU GALLERY、京都)が取り上げています。

池上:モリ・ユウ画廊は知ってます。

木村:モリ・ユウ画廊で最近2へんほどやっています。また、大手前大学に彼のモニュメントがいくつかあります。十数年前、黒田アキ展を東京国立近代美術館がやったんです。それを、黒田アキの親族で、森裕一君のお父さんの森康次さんが、「国際美術館でもやれ」と言ってきました。僕は東京で見て、おもしろかったから、「やろう」と。例えばピカソがコメディ・フランセーズで、有名な舞台装置をしてるでしょう、ディアギレフのロシア・バレエの(注:『パラード』、1917年)。その現代版を、黒田アキ君がやった。そういうことはなかなかできないんですよ、上流の知的サロンに出入りしてないと。

富井:なるほど。

木村:そして彼は、高級雑誌をつくっています。編集長として。

池上:ちょっと調べてみます。(注:黒田アキは1985年に『NOISE』を創刊、執筆者にジャック・デリダやミシェル・セールなど。1991年には『COMMISSIMO』を創刊、執筆者にヴィム・ヴェンダース、ウィリアム・クラインなど)

木村:今もやってるかどうか知りません。だいぶ前にもらいました。その雑誌の執筆者というのが、フランスのトップレベルの人たちなんです。日本では東大教授がえらいと思われがちですが、フランスでは大学の先生でない方がえらい。だからサルトルはソルボンヌが「来い」言うても、「うん」とは言わない。コレージュ・ド・フランスはちょっと違いますが。とにかく、そういう、大学の先生でない、えらい人がいる。評論家にも。そんな人たちが黒田アキ編集の雑誌に執筆している。ちょっと調べてください。僕は、2、3冊もらったが、名前を忘れました。だから黒田アキはエリートですよ、フランスで。普通の外国人は、なかなかそこに入れない。アメリカにもあるでしょう?

富井:アメリカはもうちょっと自由とちがいますか。サロンなんてあるかねえ、アメリカでね。

木村:アメリカで、何かいうじゃないの。アングロサクソン生まれの何とか。

池上:ネットワークはありますよね。

木村:大阪トリエンナーレの審査員に、カウンティ・ミュージアムの館長を呼んだときに、「ああ、これだな」と思った。あの人、カウンティかな。まだモカ(LA MOCA)ができてないときだから、カウンティだ。

池上:ラクマ(LACMA、Los Angeles County Museum of Art)ですね。

富井:ラクマだね。ロサンジェルスのカウンティ・ミュージアム。

木村:ええ、ロスのカウンティ・ミュージアム。パウエル違うかな、パウエル2世か。のちにカーネギーの美術館長になった。

富井:そう、パウエルさん。

木村:彼にね、「来てほしい」言うたら、だめとのこと。それで娘がロスにいるから、娘に交渉させて、成功した。そして、初めて会ったときに、「ああ、これ」と思った。

富井:ジェントルマンみたいな人ですか。

木村:違う。アングロサクソンであって、プロテスタント……

池上:ワスプ(WASP、White Anglo Saxon Protestant)じゃないですか。

木村:ワスプの系統だと思った。そして、その後えらくなった。

富井:それはどっちかって言うと人種的な問題ですね。サロンっていうよりは。

池上:まあ、そうですね。

木村:その通りです。でも、これに似たことはどの国にもありますね。しかし日本にはない。日本では、芸能人は芸能人ばかり寄ったりしてね、そういう職能サークルが多いですね。学会でも、ほとんど縦割りでしょう。だから横割りの知的サロンみたいなのはないですね。東京にはあるのかな。

池上:うーん、どうなんでしょうねえ。

木村:少なくとも関西はないね。

富井:で、関西へ帰ってきたところで、日本のアートの方に振りたいんですけれども。

木村:はいはい、どうぞ、どうぞ。

富井:先生は、日本の前衛美術運動の、いろいろ旗振りというか、リーダーシップをとったっていうふうに皆さんおっしゃってますけれども。例えば、どのあたりから始めましょうか。一番最初に、そういうかたちで、アーティストの仕事とか、前衛美術の運動とかに、先生が最初に関わられたというのは何になりますか。

木村:パンリアル(パンリアル美術協会)です。

富井:パンリアルですか。

木村:家内が二紀会に入っていたのをやめさせて、パンリアルに入れた。僕には先生が二人います。井島勉先生と上野照夫先生。上野先生はインド美術ですが、僕は出入りしていました。すると井島さんが怒るんです。「上野家へ出入りするな」と。歳は同年ですが、井島先生の方が早く教授になられた。上野先生は教養部の教授で、後に文学部の教授になられた。ところで、阪大の武田恒夫君、知ってるでしょう。

富井:はい、武田先生。

木村:武田君も、上野先生は非常に親切にいろいろ教えてくださるから、上野家へ出入りしていた。他にもあなたの知らない人に上野ファンがいる。例えば正月元旦に、井島宅に年始に行くでしょう。そして1〜2時間して「失礼します」言うたら「上野君の家へ行くんだろう」ってね。「はい」って僕が言うと……

池上:「はい」っておっしゃったんですね(笑)。

木村:いやな顔をされた、毎年。

富井:パンリアルの話を始めてたんですけども。

木村:そのパンリアルを、上野先生がずっと指導されてきた。僕も一緒にやっていました。パンリアルには下村良之介とか、大野秀隆(俶嵩)とか、三上誠とか、野村耕とか、優秀なのがいっぱいいました。一時「木村さんはパンリアルの人しか褒めない。他の人をぼろくそに言うくせに」とよく言われた(笑)。そういうわけでもないんですがね。それから上野さん、早く亡くなられたでしょう。だからその後、僕が面倒を見なければならない。上野先生死亡の前にケラをつくりました。

富井:ケラの方がパンリアルより前ですよね。

木村:いや、後です。ケラは後。創立はパンリアルが昭和23年、ケラが昭和33年です。その前にあれがあるんじゃない、北白川美術村。

富井:だから、そのあたりが今、私の中でごっちゃになっていて。ちょっと年代を調べて来なかったので。

木村:昭和30年代前半、作家たちが自由に制作をすることのできる広い空間を求めて、土地を探していました。そして楠田信吾や岩田重義が、北白川琵琶町の5000平方米の土地を貸す人がいるとのこと。「この厳しい世の中に、そんな奇特な人はいない」と僕。しかしよく聞いてみると「ちゃんと責任をとる人なら貸す」という話。絵描きは定職がないからだめ(笑)。そして彼らが「だまされたと思って、会ってほしい」と。地主の西村祐次郎さんにね。会ったら本当だった。「では借りましょう」と、僕が20年間、ただで借りる約束をした。棚田だが、栽培してない。

富井:廃田みたいな。

木村:そう、野原になってる。それを毎日新聞の阿部好一君が、すっぱ抜いたわけですね。「昭和の光悦村」というわけ。すると、世の中面白いね。「建築材料出したげる」、「建てたげる」と、奇特な人が出てきた。

富井:それは京都の人ですか。

池上:ただで貸してくれる人の他に。

木村:京都の人たちです。また、京都芸大の後輩たちが「勤労奉仕だ」って、草刈りしたり、整地したり。

富井:ボランティアだ。

木村:段々畑を整地して。そこで初めは6人かな、入居しました。その頃、有名なエイブラムス出版の社長と、チェイス・マンハッタン銀行のパワーズ(John G. Powers)の二人が、年にいっぺん来て、比叡山ホテルに泊まって。日本美術を買うてた、古美術品を。それが有名なパワーズ・コレクションとなります。

池上:パワーズってチェイスの方なんですか。今、チェイス・マンハッタンっておっしゃった。

木村:ええ、パワーズはチェイス・マンハッタン銀行の、その頃の副頭取。そして、エイブラムスは、世界一の美術出版社。

池上:パブリッシャーですよね。

木村:その二人が毎年、京都へ来て。古門前や新門前の骨董屋を漁った。あの二人が来たら古美術品の値段が上がった。

富井:現金やなあ(笑)。

木村:それほど力があった。彼らは比叡山ホテルに泊まってたんです、景色が良いから。そしてホテルへ往復する道で大きな「北白川美術村」という看板を見た。

池上:そこから見える。

木村:いや、ホテルからは見えない。ふもとの北白川にあるから。それで降りて行ったら、掘っ立て小屋の中に生きの良い絵がたくさんある。「全部買う」と。いや、「全部買う」はまた別だ。そうでなくて、「1年間、アトリエ付きで招待する」と言って、4人行った。

池上:アメリカに連れて行ってくれたんですね。

木村:一昨年、私の歓迎会(ニューヨーク)で富井さんが会った兒玉正美のほか、楠田信吾、岩田重義、福島敬恭の4人。それが昭和39年。そして兒玉はそのまま残り、あとは帰ってきた。北白川美術村の作家たちはその後、結婚して、ここはアトリエで、生活は別の所というのが建前ですが、みんな貧しいから、奥さんが来る、子ども生まれる。そうすると、いさかいが起こる。さらにアトリエの又貸しが始まる。それで僕は降りました。というのは、アトリエ派と生活派がけんかするんです。男だけなら殴り合いだけですが、奥さんや子どもが入ってくると、ややこしくなる。

池上:ややこしいですね。

木村:AグループとBグループとしましょう。その決裁を僕のところへ持ってくるから、僕は一計を案じました。5時にAグループ、5時半にBグループに来いと言う。すると僕の家で初めて鉢合わせするわけ。両派で話し合いをしたことないんだから、僕は、「はいどうぞ、ここでけんかしろ」と。両派はげしくやり合います。そして皆つかれた頃に仲裁案を出すと、大体まとまります。それから十数年して、地主の西村祐次郎さんが死んで、息子さんが「土地を返せ」「土地代を払え」と言ってきた。美術村の住人も又貸しをしたりして、すっかり変わってしまった。僕が契約したときの住人だったら、僕に責任があるが、どんどん変わって僕の知らない人が多くなっているから、どうしようもない。だから今どうなっているか知りません。
その前に、ケラの場合はね、京都市美術館の2階全部、僕が会員に黙って借りた。

富井:先生が自分で借りたわけですか。

木村:勝手に借りた。「何月何日からやれ」言ってね。そして、一人一室、ただし大きい部屋は二人割り当てた。広いから、100号を30点ぐらい並べないと持たない。

富井:なるほどね。

木村:そのとき僕はこんなことを言ったんです。「普通のベニヤ板はだめ」「防水ベニヤを使え」と。「なぜですか」と。「こないだ新聞に載っていた、『ニューヨーク近代美術館は、防水ベニヤしか買わない』て書いてあった」と。すると、「われわれの作品が、ニューヨーク近代美術館に入るはずがない」と言う。「でもね、この絵があわよくば入ると思って描くのと、展覧会が終わったら焼く(と思って描く)のと、えらい違いだ」と。そしたら第2回か第3回展で、楠田が電話で「先生、絵を買いたいと言う外人がいる」、「いくらや」、「1点100ドル」、「いつも言うとるやろ。安く売ったらあかん」と。それは自信というか自尊心を持たすために「外国人には最低300ドル」と言っていた。(1ドル)360円ですから、10万円。すると、「先生、皆です」とのこと。「皆ってどういうことか」と聞くと、「2階の作品全部と言ってる」。

富井・池上:(笑)

木村:「ちょっと待て。それだったら話が違うから、行く」と言ってね。そしてパワーズとエイブラムスに会ったら楠田の言う通りでした。それで展示作品の4分の1ぐらいの数十点が売れました。

富井:そうしたら最初に先生が美術館の2階を全部、借りてて。そうしたらその次に、2階全部買いますっていう話になったんだ。

木村:そのときほとんどが、普通のベニヤ板に描いてるでしょう。楠田と岩田、そして浜田泰介の3人だけが防水ベニヤでした。したがって、売れたのは3人の防水ベニヤの作品だけ。

富井:ああ、なるほど。

木村:美術出版社の社長の大下敦さんの息子さんがエイブラムスに修業に行っていた。それを誰かから聞いてね、「どんな絵を日本で買っているか、調べてください」と、美術出版社の人にたのんだ。東京でも買っているはずだからね。その返事は「たくさんあって調べようがない」と(笑)。

池上:今はどうなんですかねえ。

木村:分かりません。調べてください。オーラル・ヒストリーの流れで。

池上:おもしろいテーマだと思います。ケラっていうのは、グループ名も先生が付けられたんですよね。

木村:そうです。しかしケラは、僕がけしかけて「作れ」と言ったんじゃない。あの頃、パンリアルが全盛時代でしょう。それから走泥社も全盛時代でした。八木一夫さん、鈴木治さんなど、走泥社が一番早く世に出ました。それから、さっきのアレシンスキー関連の、森田子龍の墨人会。あの頃は井上有一がいたでしょう、それから関谷義道、江口草玄。この4人グループが活躍していた。井上有一は神様みたいになっているじゃないですか、現在では。これは海上雅臣(注:うながみまさおみ、ウナック・トウキョウ主宰)がサポートして、世界中に売り歩いたから。そういうふうに、いろいろあったから、若手の連中が、ケラを作ろうとした。終戦後に、日展に対抗して、創画会ができましたね。日展の特選グループの上村松篁さんとか、吉岡堅二さんとか、山本丘人さんなど。それと同時に、パンリアルが出て、走泥社も出て、それらがある程度、実を結んだ、60年代に。発足から10年近く経ってますから。だからして、若手の作家たちがが、ケラのほか、アルファ(集団α)などの新しいグループを立ち上げた。無限大は何と言うの。

富井:無限大は無限大じゃないですか。

木村:無限大のグループとかね。これは京大の土肥美夫君が中心になって作った。矢内原伊作さんも無限大かな。そういうようなのが、いろいろあったんですよ。作家だけでなく、第三者の学者や評論家などを入れるという形もありました。

富井:土肥先生とか矢内原先生など、京大や阪大の先生たちも、自分のグループみたいなのがあったわけですか、今おっしゃったように。

木村:上野先生は、本当に面倒見の良い人でした。悩みの聞き役としてもね。だからして、どんなことでも上野先生のところへ持ち込んだ。陶芸家でも、いろいろ世話になっていますよ。井島先生は自分の意見を言うだけですが、上野先生は聞き上手でした。

富井:ほう、それが違うんですね。

木村:それから上野先生は自ら絵を描く。スケッチも巧みです。そしてすべてについて非常にていねい。例えば批評でも、展覧会を見て、気に入った、気のついたことを、ちょっとはがきに書いて送られる。皆、そのはがきを、神社の守り札のように大事に持ってますよ、今でも。

池上:感想を書いてくださる、はがきで。

木村:その感想が非常に的確なのです。例えばABCという3点の作品なら、「Aが一番良い」「山の線がこうであるから」と。非常に具体的です。上野先生はたいへん絵が分かりますからね。

富井:そうしたら、先生の場合は、どういうかたちで関わられるわけですか、作家と。

木村:僕は、上野的です。

富井:上野的ですか。

木村:ええ、上野的だと思いますね。

池上:聞き役っていう。

木村:聞き役じゃない。ああ、それは違うな。

富井:そうだと思いました(笑)。一応聞いてみないとね。

木村:上野照夫先生が、京大を定年退官された。あの頃63歳でした。そのときに『ある定年教授の人間像』、サブタイトル「上野照夫考」。それを僕と下村良之介が編集委員で作った。200何篇来ました。文章を書けない作家もいるでしょう、その人たちにはカットを描いてもらいました。その頃ちょうど大学の問題がいろいろあって、まだ大学紛争ほどではないんですが。それで新聞にこんなに麗しい師弟関係があると紹介されたりしました。原稿を依頼したとき、返信は3分の2くらいと思いました。親しい人で800字、次が400字、200字、カット。ほぼ全員から来ました。そのパーティーをやりました、出版記念会を。鷲が峯のこっち側に、鷹が峯があるでしょう、そこで。ちょうど梅が満開だった。洋画家の芝田米三君がある別荘を借りてくれました。そして司会を、日本画家の西山英雄さんがした。その頃は京都教育大学の教授でした。あれはうれしかったなあ。僕と下村君が計画してたら、西山先生が「上野君には世話になってるから、私が司会やる」って。それから模擬店を出したんですよ。各グループで。パンリアル、ケラ、走泥社など、10ほど出ました。パンリアルが、イモリ。

富井:動物の?

木村:そのつけ焼きを出した。

池上:ええっ(笑)。

富井:ははは(笑)。

木村:下村が作った。そして竹中郁さんやら吉原治良さんを呼んだ。竹中さんはグルメなんです、お酒飲まんからね。それで僕が竹中さんにすすめると、「これはイモリと違うか」、「違う違う、かたちだけ、食べてごらん」言うて。そしたら竹中さん、「吉原君、これうまそうや。いただこうではないか」、「あっそう」、吉原さんはガブッ。竹中さんは噛まないんだ(笑)。そして「イモリやないか」。横で下村が(手をたたいて)「やった、やった」。

富井:悪いですね(笑)。

池上:すごいですねえ。

木村:そんな趣向をしたのも、上野先生が下手物食いだったからです。鍋物とかね。

池上:ヤミ鍋みたいな。

木村:そう。上野先生が「電気消せ」言うて、鍋の中に何かあれこれ入れて、蓋をされる。

池上:ヤミ鍋ですね、まさに。

木村:そして「炊けたようだ」ってね、蓋開けて。まだ電気はつけない。それを食べるわけ。上野家では、とにかく変なもの、訳の分からんものを食わされた(笑)。

富井:先生、現代美術懇談会とかは参加なさらなかったんですか。

木村:ゲンビ? ゲンビは、僕と関係ない。あれは井島先生と朝日新聞の村松寛さんが中心です。

富井:ああ、なるほど。ちゃんと棲み分けがあるんですね。あと、具体の話に入る前に、走泥社のお話が先ほど出ましたけど。走泥社の作家さんとは、交流っていうのは。

木村:そりゃもう、一番親しいね。

富井:陶器のバックグラウンドもあるし。

木村:一番よく飲んだのが、八木さん、鈴木君、熊倉順吉君、山田光君ですね。そして走泥社と関係が深い辻晉堂さん。住まいは辻さんが今熊野、八木さんが五条坂なんですね。それから熊倉君も今熊野です。飲んだ後、あの頃あまり、酒飲み運転を(厳しく)言わなかったから、僕が車で送りました。

富井:先生も飲んでたんでしょう、でも。

木村:うむ。まず八木さんを降ろす。あの頃作品が売れないでしょう。彼の家の入ったところの物置にオブジェがいっぱい積んである。辻さんは助手席に乗っているから、後部座席があいている。そこへ、八木さんがオブジェを3つ4つ積み込むんです、「持って帰れ」って。僕は「21世紀になったら八木一夫の作品は国宝になる」と書いてますから「国宝はもらえません」と言って降ろす(笑)。

富井:(笑)

木村:次に辻さんを降ろしたら、あるとき「タクシーで帰れ」と。そして車の前に大の字で寝るんです。あの人、力が強いですからね、なかなか引き起こせない。無理矢理に起こし、発進して帰ったら、あくる日上野先生に呼ばれました、「すぐ来い」と。「君は泥酔運転をしてるらしいではないか」「辻君が心配していた」と。僕は言った、「それほど心配してくれるのだったら、四条から家まで乗らないこと、僕の車に」「自分の家まで乗って、後はタクシーで帰れって、そんな勝手な話がありますか」、「うん、君の言うのが正しい、もっともだ」と。

富井:先生、具体との関わりはどういうところから始まりましたか。

木村:朝日新人展に白髪一雄君を選んだり、吉原治良さんとつき合ってからでしょう。吉原さんは厳しかった。自分が好きな人でないと、グタイピナコテカへ入れなかった。

富井:あっ、やっぱり自分が好きでないと入れないんですか。

木村:例えばね、朝日新聞に橋本喜三という美術記者がいた。

富井:はい、います。

木村:ほかに村松寛さん。橋本さんは日本画専門です。橋本喜三はグタイピナコテカへ入れなかった。

池上:何で嫌いだったんですか。

木村:具体が分からないから。彼は具体の悪口を書いたことないけれども。僕はピナコテカへ一緒に行ったことある。橋本さんも、僕と一緒に行ったら入れてもらえると思って、「木村君、一緒に行こう」って。しかし入れるのは僕だけで、「橋本君、君は帰れ」と。吉原さんは紳士ですから、「帰れ」なんて言わない。「いや、ちょっと」って。それぐらい厳しい。吉原治良というのはえらいね。この間、誰かのを読んだなあ。ああ、阪大の加藤さん。

池上:加藤瑞穂さん。

木村:彼女がね、本書いたでしょう、具体の。

池上:復刻版?

木村:厖大なドキュメント集。

富井:雑誌ね、『具体』。

鈴木:これですね(チラシを見せる)。

木村:2巻本でした。ひとつは芦屋美術館展集でした、たしか。

鈴木:はい、別冊ですね。

木村:それを読んで感心しました。例えばポロックとの関係があったりして、あの人が初めから、日本国内だけじゃなくて、外国との交流を心掛けておられたことを知りました。誰も知らんと思いますが、こんなことがある。南アフリカの美術家協会の会長で、バルディネッリ(Armando Baldinelli)という人がいたんです。イタリア系の。この人が日本へ来た時に、吉原さんと親しくなったらしい。それで、僕が1965年にカラハリへ調査に行く時に、吉原さんが、「バルディネッリに、届け物がある。荷物になる物じゃないから」と、小さい包みを僕に託した。それから堂本印象さんも。その頃堂本尚郎君がちょうど帰っていたんです。その尚郎君が「おじさん(印象)が、あんたが南アフリカへ行くらしいから、バルディネッリに託けをしたい」と。尚郎君が持ってきたのは小さな陶器でした。吉原さんの託けは何か忘れたけれども、添書が入っていた。(吉原さんはバルディネッリから)招待を受けているが「行けない」「木村という若いのが、代わりに行くから、私と同じように扱ってほしい」と。

池上:代わりに(笑)。

富井:歓待。

木村:歓待どころか、彼がいなかったら、調査そのものができなかった。これはもめましたからね、現地で。調査どころじゃないんですよ。毎日出版文化賞の『カラハリ砂漠』という本の最初、「カラハリへの道」に写真入りでバルディネッリのことを書いています。ビザの延長から、いろんなこと。現地の大使館は…… まだ大使館はなかった、総領事館は、とにかく早く帰らそうと思って躍起でした。帰国してから、僕は外務省のその秘密文書を手に入れたんです。で、それを書いてやろうと思った。
 ビザ相互条約というのがあるんです。これはギヴ・アンド・テークなんです。南アの人が日本へ来て、行ったらいけないという地方はないわけです。日本のどこへ行ってもいいわけ。ところが南アでは、日本人はオレンジ自由州へ行けないんです。アパルトヘイトの一番きついところだから。それからバストランドへも行けない。ところが、僕はオレンジ自由州で岩面画を調べるって書いてるでしょう、企画書に。総領事館は、「(木村は)現地のことも知らないで、行けないところへ行きたいと言っている」と。断るためにですよ。そしてその後に一言、「これはビザ相互条約に反するが、南ア政府と言い争っても益なきことゆえ、不問に付している」と書いてある。問題はその一言です。このことを公表したら、議会でもめますよ。そのとき、関西テレビを連れて行きましたから、親会社のフジテレビの外務省付きの記者がね、その文書をコピーした。その頃はまだコピー機はないから、写真に撮った。外務省の担当者がフジテレビの記者に「現地からこんな公電が来ています。取材調査はだめです」と示したわけ。
 そこで『カラハリ砂漠』の冒頭に、そのいきさつを書いた。原稿を渡したら講談社が「先生、もう外国旅行せんつもりですか」と言う。外務省とけんかしたら、なかなか行けません(笑)。今と違うからね。あの頃は外貨割当委員会の許可を得て両替する時分ですから、勝手に外国へ行けないんです。だからあの本の最初の「カラハリへの道は長かった。砂の道ならぬ、人の道に難儀した」という、あの1行に万感がこめられている。その後に、バルディネッリのことを書いてます。ビザは5日間しかくれなかった。5日で諸準備を完了して、ベチュアランド(ボツワナ)へ入れますか? 4輪駆動車をチャーターし、ジェネレーターやテントや寝袋などの探検装備を整え、食糧を仕入れたり、ガイドや通訳(ブッシュマン語のできる人)を雇ったり、いろいろしなければならない。それらについてバルディネッリの世話になったんです。

池上:それは吉原さんの紹介があって、それもあって呼んできていただいたっていう。

木村:吉原さんの紹介なしでは無理です。僕はバルディネッリと初対面でしょう、飛び込みですよね。そして日本の総領事館は反対しています、初めから。早く帰らそうと思うだけ。ただ領事館にとって、テレビはこわいですね。テレビはしっぺ返しの手を持ってますから。だから日本外務省と在日南アフリカ総領事館が相談して、5日間のビザを出した。5日だったら何もできないから帰るだろうと、思ったんでしょう。その頃、南西アフリカ(ナミビア)は、南アが委任統治していて、国際的に大問題になっていた。それで国際司法裁判所が調査に行くと。僕たちと同じ時期だから、南アとしては誰も入れまいとしたのでしょう。しかもテレビが一緒。ベチュアランドは、一応イギリスの委任統治で、南アの委任統治と違いますから、南アの治権が及ばない。そこへ行って、また南アに帰ってくる。南アにとってはやっかいでしょうね。だから、帰りのローデシア、今のジンバブエでも、南ア再入国に、24時間のビザしかくれない。直線距離でソールズベリ(ハラレ)からヨハネスバーグまで1000キロ以上、南ア国境からでも500キロもあるのに24時間のビザもらって、どうするんですか。それで、ローデシアの今井総領事に直談判しました。今井さんは分かってくれました。「そりゃ無茶ですなあ」と。あの頃は、大変だったんです。
僕はあの頃、毎日新聞の美術批評を担当していました。具体をよく取り上げましたよ。

池上:フランスから帰って来られて、初めて具体を知ったんですか。

木村:そうです。具体の中で、まともな美術教育を受けた人は白髪一雄君だけなんです。田中敦子は中退しました。白髪君は絵専の卒業でしょう。だから彼は前から知っていました。元永定正君とは、よく酒を飲みました。彼は歌がうまいから酒もうまい。それからさぶやん(村上三郎)ね。これは関学の美学出身ですからね。その3人ぐらいは知っていましたが、他はほとんど知りませんでした。

富井:でも、3人は知ってたということは、具体で何をしてるかということも知ってたわけですよね。

木村:少しはね。というのは、吉原さんの「具体美術宣言」が1956年で、タピエが来たのが57年です。タピエがほめてから具体が有名になったわけで、それまでは日本でもほとんど知られていなかった。僕がパリから帰ったのが57年で、それ以後に具体の活動に接し、新聞にも批評を書いてきました。60年ぐらいから恒常的に新聞に書き出したのとちがうかな。これはね、杉本亀久雄さんという毎日新聞社の美術記者がいたんです。彼が山崎豊子さんと結婚した、おとよさんと。同じ毎日新聞の記者。山崎さんの『暖簾』が、前の年ぐらいにベストセラーになって、(記者を)やめて、小説家になった。上役の重役に、山崎ファンがいて、杉本君たちの新婚旅行は、2ヶ月。

池上:60年代にしてはすごい。

富井:すごいねえ。新聞記者にしては。

木村:60年代の始めですからね。その杉本さんの留守の間、美術評を書くことになった。掲載日は日曜を除く毎日です。だから月曜は京都の展覧会を見て、火曜は大阪、神戸はまだあまりなかったから、2週間にいっぺんぐらい。その中から、団体展が(原稿用紙で)4枚、グループ展が2枚、個展は1枚という約束で、書いた。だから月曜に京都で見て、火曜日の朝に原稿を届ける。家内の妹が阪神デパートに勤めていましたから、「出勤の途中、持って行って」とたのみました。

池上:原稿を預けに。

木村:火曜日の朝に届けて、その日の夕刊に出る。それから会期が2週間という団体展があるじゃないの。その批評は前の週に書いて、次週の月曜に載せる。掲載は、日曜を除いて週6日。そして、私の批評が評判になったので、杉本君が新婚旅行から帰ってからも、二人で分担して、2〜3年書きました。そのうちに杉本君は新聞社をやめて、画家に転向しました。

富井:毎日ですか。

木村:そうです。だから具体も何回か取り上げたのです。

富井:毎日書くっていうのも大変ですね。

木村:僕の著作集第7巻『美術評論』の解説を建畠晢君が書いているでしょう。そこに元永君の件が出ている。1962年4月21日の記事。元永はずっと、僕をものすごく徳としている。「なぜか」って聞いたら、「昔、若いときに、世界一の絵描きと書いてもらった」とのこと。今でも世界一と思ってないのに書くはずがない(笑)。そしたら、「毎日新聞の具体展評の中で書いてくれた」と。これは彼が新潮社の芸術大賞をもらった時の対談でのことです。そこでスクラップ・ブックを持ってきて調べたら「私はあえて元永定正を世界におけるもっとも革新的な画家のひとりに数えたい」と書いてあるわけ。「ひとりに数えたい」とね。

池上:「世界一」とはずいぶん違うと思うんですけど(笑)。

木村:大きな違いでしょう。しかし本人は「世界一」と思ってるわけ。それを建畠君が解説に書いています。そうかといって、ほめてるだけでない。むしろ逆です。その頃、伊沢宏子という人がいまして、京都芸大を出たばかりの若い女の子です。大阪の北の画廊で個展があった。僕は、彼女が京都芸大出身だということを知らずに、ほめたんです。フォートリエが出てきたでしょう。《人質》連作を引っさげて。それをポンジュが絶賛した。そのポンジュの批評でフォートリエが一躍世に出たという、有名な話がある。伊沢の場合も、あたかもフォートリエが世に出たのとよく似たデビューの仕方だと書いた。すると、吉原さんが具体の連中に「あのいつも辛口の木村君が、絶賛してる」「皆、見に行け」(笑)。吉原さん自身も2へん来た。その伊沢宏子の批評、(著作集に)載ってるかなあ。僕はあの著作集には若いときの批評をなるべく多く載せた。あの頃は一所懸命書いていましたから。それから、当時、僕は作家を知らない、本人を。今は知ってるでしょう。だから、悪口は書けんなあ、きつくは。あの頃は知りませんからね。だからして、「顔洗って出直せ」といったようなことを書けるわけですよ(笑)。具体についてもそうでしょう。まだ嶋本(昭三)も知らんし。

富井:そう、けっこう、元永と何とかはいいけど、後はだめだみたいな書き方なさってますよね。

池上:もっとがんばれみたいな。

木村:針生(一郎)君もきついよ。高橋秀がこの3月岡山県立美術館で回顧展、大個展をやった。そのパーティーで祝辞の挨拶をした、僕と二人で。そしたら針生君、まず僕のことを話しだした。

富井:針生さんが。

木村:うん。会が始まる前に二人でしゃべってたから、その話を。しかし祝辞だからね。それで僕は一番前の席だから、「高橋君のパーティーだよ」って。そしたら「今、木村君に注意された。そういう間柄だ」「木村の話やめます」言うて、平山郁夫の話をし始めた(笑)。これが悪口なの。

池上:そうでしょうねえ(笑)。

木村:ところが、場所は岡山のホテルですよ。広島の隣ですよ。

池上:まずいですね。

木村:まずいですよ。広島では平山君は神様ですからね。岡山にもファンがたくさんいる。それで絵が下手とは言えないでしょう? だから、「彼は文化勲章をもらっている。文化財の保存とか、修復技師の養成とか、財団をつくって一所懸命やってる。だから文化勲章をもらうのはかまわない。彼はそれだけの仕事をしている。しかし芸術選奨はもらえませんよ、これは絵に与えられる賞だから」(笑)。

池上:というふうに針生さんがおっしゃった。

木村:そう。それで「高橋君の話!」と僕は言ってね(笑)。延々10分ぐらいやってるの。木村論が3分で、平山郁夫論が7分ぐらい。それから高橋論があった。次に僕が舞台に上がって「皆さん、さっきの針生さんの平山郁夫論、不愉快に思われた方もいらっしゃるでしょう」「しかし、僕にとっては、それほどでもない。彼は全共闘の教祖ですからね。大学紛争のとき各大学に火をつけてまわっていたんです。そんなことを考えたら(これくらい全然たいしたことない)」そして席へ帰ってきたら(針生さんが)「サンキュー」って。

富井:針生さんも(笑)。

木村:彼はしかし、主義主張を曲げなかった。硬骨です。僕はえらいと思う。生涯、全然、節を曲げなかったから。

池上:先生の評論も、この作品が良い悪いっていうご判断、結構はっきりされると思うんですけど。そのときの基準というか、そういうものっていうのはどういうところですか。

木村:それは主観ですよ。

池上:どういうところに説得されて、これが良いと思うとかっていうのは。

木村:美術批評というのは、入口も好き嫌い、出口も好き嫌いです。そう思う。いかに、好き嫌いに理屈をつけるかだけの話です。だからして僕はいつも、読まれたら分かるように、初めに「こういう角度で切る」というのを書いている。

富井:書いてありますね。理論的にね、1パラグラフか2パラグラフぐらいね。

木村:だから辛口のわりには憎まれなかったんです。これは良い、これは悪いと言うだけだったら、単なる印象批評になるからね。最初にちょっと理屈めいたことを書いてあるでしょう。短い場合でも。切り口を初めに提示すること、それはひとつのテクニックですね。思想とかいろいろ言うけれども、それが造形化されていなければ絵画としてはおもしろくない。例えば針生君が、社会主義リアリズムを買うかといえばそうでもないでしょう。むしろ篠原有司男君とかを評価しているでしょう。

池上:吉原さん以外の作家で、特に評価されていた作家っていうのはいらっしゃいますか。

木村:吉原、元永以外に?

富井:そうですね。

木村:具体だと、やはり白髪です。白髪君の場合はね、先ほど言ったように、日本画出身でしょう、絵専の。絵専の日本画というのはたいへん技術主義ですからね。ほんとに徹底的に、写生させる。彼も、長年訓練を受けたわけでしょう。今の大学と違いますよ。昔の絵専では、ほんとにきびしく技術を習得させます。デッサンでも何でもね。そうすると、新しい絵を描こうと思っても、手が勝手に動く。ところが、足は言うことを聞かない、脳の。

池上:そういうことですか(笑)。

木村:だから白髪は足で描いた。

富井:それ、木村先生の持論ですよ。

木村:手だと左手で描いてもね、やっぱりね。

池上:言うこと聞いて。

木村:だから吉原さんが、「人のやってない新しいものをつくれ」とばかり言うわけです。その他に何も言わないでしょう。おもしろい話があって、京都美大の文化祭がありまして、外から講師を呼んでやるわけです。あるとき、まだ美大へ来てなかった八木さんと、大野俶嵩と、それから元永君を呼んで、僕の司会で座談会をしました。元永君は、具体のテーゼの「新しければ新しいほど、いい」「誰もしていないことをしろ、真似をするな」と。「でたらめでもよろしい」「でたらめでも、人のやらんことをやれ」と言った。すると、学生の中から、「でたらめなんていうのは、芸術にならん」との声。元永は「君、ここで真っ裸になれ。そして四条河原町まで歩いて来い」と。「そんなんできへん」、「そやろ、でたらめってなかなかできへん」。
 「わしは今日、美術大学なるものに生まれて初めて来た。おそるおそる来た」「わしは学がない、学校出てへんから。しかし今、たかが知れてると思った」と。「どういうことですか」という質問。「あちこちね、文化祭で飾ってる、地面にも絵の具を塗ったりしてる。こんなことは、小学生でもする」と、ぼろくそに言ったわけ。「元永さんならどうする」と。元永君「ドラム缶に、赤、青、黄、三色、いっぱい、絵の具詰めてほしい」、「どうするんですか」、「屋上に持って行って上からじゃーっと校舎に流す」。皆、唖然としていた。その後、西郷コミカ温泉で、それをやったんですよ。あの建物、今度壊すとかいう話ですね。守口市の銭湯です。中は元永のファニーな絵が描いてある。外はじゃーっと屋上から塗料が流してある。元永はね、若い頃、なりたい職業として「1に俳優、2に歌手、3に絵描き」をあげた。俳優は実現したんです、『利休』で(注:勅使河原宏監督、1989年)。

富井:『利休』。等伯の役。

木村:あれは勅使河原宏さんが撮った。堂本が正親町天皇。加山又造など、たくさん友達を使った、宏さんは。泉茂君も何かの役で、出ている。

富井:それは知らなかった。

木村:元永の歌手はね、数年前、西宮のホール借り切って、歌謡曲大会をやった。一人3000円入場料とって、300人来た。

池上:へえ、ファンが多いんですね。

木村:僕に券を送ってこない、買えということでね。

池上:ご招待じゃないんですか(笑)。

木村:3000円で買って行った。着物着たり、タキシード着たり、3べんほど衣装を変えてね。でもえらいなあと思った。80過ぎてね。彼は大正11年、1922年生まれだから、僕より3つ上だ。八木一夫さんも歌が上手なんです。八木一夫さんの『懐中の風景』という本がある。彼、文章がうまい。それで僕が売り込んだ、講談社に。そのあとがきにね、こう書いてある。若い頃から絶対実現不可能なことが4つあった。外国旅行をすること。作品集を出すこと。アトリエをつくること。もうひとつが文集を出すこと。随筆集、彼は文章好きだからね。それが皆、実現した。

池上:それがその『懐中の風景』。

木村:そう。このように自分の若い時の望みが全部実現されたら、後は死ぬだけか? マッカーサーの言いぐさじゃないけれど、「老兵は去るのみ」か、縁起でもない、とあとがきに書いている。刊行後、仲間だけで出版記念会をしようと、親しい者十数人が集まった。そしたら開口一番、「木村君、ひとつ忘れてた」「まだ実現せなあかんこと、ひとつある」と。「何や」言うたらね、「シンガーソングライターのレコードを出すことや。どのレコード会社がいい、ソニーか、キングか」って(笑)。彼も歌がうまいんです。

池上:へえ、それ知らなかったです。

木村:元永ほどうまくないけれど、エレジーがうまい。彼の歌で思い出しましたが、今泉篤男さんが、京都国立近代美術館の館長で来たでしょう。その歓迎会をしてあげた。すると、今泉さんは嵐山に下宿されていましたから、大河内山荘を借りて、われわれ十数名が呼ばれた。歌をうたったりして盛り上がった。八木さんがエレジーを歌ったら、今泉さんが、「君の作品は買わないが、今の歌は買う」と。そんなこと言うじゃない、酒の上では。普段だったら、八木さんも黙ってるけどね、初めからひとこと言おうと思っていたらしい。「何じゃ今の言葉。わしの作品それほど悪いか」と、本気で怒り出した。それで、辻さんや僕が「冗談やないか」って仲裁に入った。でも「聞き捨てならない。作品よりも歌が良いなんて、そんな言い方はない。作家に向かって」。それは初めからね、八木さんの計算。今泉さんがちょっと高圧的というか、東京的発想でものを言うでしょう。だから突っかかったの。京都は、ちょっとうるそうおまっせ、今後、注意しなはれ、と。

池上:最初からそういうふうに。

木村:初めからどこかでやったろうと考えてた。僕は絶対そうやと思う。

池上:わざとだったんですかね。

木村:八木一夫ってそんな人です。絶対酔っぱらいません。酔っぱらってむちゃ言うてるように見えても、つねに醒めてます。「焼き物」というわけだから、陶磁器というのは焼き方が問題です。でも彼は「違う、冷え方や」と言う。冷却に、焼き物の極意があると言って、全然彼と違う石黒宗麿さんの作品をほめるんです。冷やし方、冷え方が勝負だとね。火を付けて情熱を燃やす、それが作家でしょう。しかし、情熱を冷やすのも作家だと。そんなことを言う人いませんね。八木一夫というのは天才ですね。僕は『世界美術史』の中にも、取り上げました。

富井:《ザムザ氏(の散歩)》。

木村:ええ、250回の連載でね。最後は、環境問題に持って行こうと思ったから、ノグチイサムを考えました。日本人の最後は、誰にしようと。吉原さんとか、東京だったら斉藤義重さんとかね。249回に八木一夫を取り上げました。
岐阜の陶芸館の学芸員になった不動美里さん、彼女は陶磁を何も知らなかった。それで「先生、何を集めたらよろしいか」と相談に来た。抹茶茶椀とか古陶磁を買ってたら、ひとつ何千万だから大変。そこで、「前衛のオブジェとか、中国だったら、中華民国以後のものやったら安い」と言った。「走泥社のはどこで集めたらよろしいか」って聞くから、「東京にギャラリー森というのがある」と。森哲美君が伊勢丹をやめて、走泥社の作品を扱っている。「中華民国以後の陶磁器はどこにある?」、「エンバ美術館にある」。それで、別の学芸員がエンバで勉強した。

富井:でも国宝ですよね。さっき先生が、八木一夫が国宝になるとおっしゃっていたから。

木村:僕はもう一人「国宝になる」って言った人がいる。

富井:誰ですか。

木村:出口王仁三郎、大本教の。耀?(ようわん)。出口京太郎さんが、講談社文庫か、新書かな、『巨人 出口王仁三郎』という本を書いた。もうだいぶ前、40年、もっと前かな。別のところで、僕は21世紀になったら耀?は国宝になると書いた。京太郎さんが「そのこと書いてもいいでしょうか」と聞くので、「公的に言ったのだからどうぞ」って。だから書いてます。そのとき僕は助教授だったので「京都市立美術大学助教授の木村重信曰く」って(笑)。

池上:お墨付きで。

木村:王仁三郎はすごいですね。あの人の絵もすばらしい、墨絵ですが。それから歌も、10万首か20万首か、作ってるでしょう。こんな話があります。日本に短歌雑誌がたくさんある、それらのすべてに彼が投稿した。それで皆で協定して、「出口王仁三郎の歌は載せない」と(笑)。ああいうすごい人がいるんですね。僕は大本教の芸術顧問なんです。それから林屋辰三郎さん、梅棹忠夫さんも顧問です。顧問という名前はない、顧問格。上田正昭という人がいるでしょう、日本史の、京大教授の。今言った人はほとんど皆、上田君が大本に引きずり込んだ。出口王仁三郎は養子で、上田家から行ったんです。だから旧姓は上田です。大本は女系なんです。

池上:そうなんですか。

木村:信者の中から一番優秀なのを選んで養子にするわけ。今の教祖の出口紅さんも女性で、たしか京都薬大出です。だからして、王仁三郎は教祖じゃないんだ。教祖は、すみこさんです。出口王仁三郎はすみこさんの婿。その後の教祖は直日さん。かつてパリのチェルヌスキ美術館に有名なエリセエフという館長がいたでしょう。その人が大本へ来て、耀?を見てびっくり仰天しました。そしてぜひとも展覧会をやりたいと。それでパリの国立チェルヌスキ美術館で1972年、出口王仁三郎展が開催されることになった。その展覧会作品がパリに送られる日に、壮行会があり、僕に王仁三郎の芸術について、講演してほしいとたのまれた。
 阪急デパートで戦後まもなく(昭和24年)耀?展があったんです。後の『日本美術工芸』になる雑誌に加藤義一郎という編集者がいました。その人が耀?と名づけて展覧会をした。僕は大阪へ行って偶然見ました。そして、真っ青、真っ黄の楽茶碗を見て、すごいと思った。まだ大学生で、陶磁器を親父と集めていたときですから、これは何者なのか(知りたいと)。大本教の出口さんっていうのは分かっていますよ。うちの近所にも、大本教の信者がいましたからね。その人が戦時中に「この戦争は負けと王仁三郎が言った」って。それにしても、耀?はすばらしい。講演をたのまれた後、ずいぶん調べたんですよ。王仁三郎の書いた本が80巻ほどあるでしょう。読売新聞かどこかの新聞社が出しています。その中の芸術論みたいなのを(読んで)。それで(出口)京太郎さんに「講演の聞き手は誰ですか」、「信者です」、「芸術の分かる人ですか」、「はい、分かる人です」という問答から、ちょっと難しいかも分からないが、ちゃんとした芸術論を話そうと考えました。
「宗教は芸術の母である」という考えがあります。でも王仁三郎は「芸術は宗教の母である」と言う。そのことを解説すると。かなり難しい話になるのを承知で、亀岡へ行った。もと亀岡城ですからね、大本教の本拠は。とにかく広い。僕が講演する、一番大きな部屋が1000人か2000人ぐらい座れるわけです。そして、庭などに10箇所ぐらいスピーカーが付けてある。「何人いますか」、「1万人ぐらい」とのこと。

池上:すごい。

木村:1万人に向かってね、「芸術は宗教の母である」って(笑)。分かってくれるわけがない。でも調べてきたからしょうがない、若かったこともあって、それを話した。そして最後にひとつ、「この展覧会、パリへ持って行って、必ず成功する」と断言した。「人が入る入らんとか、そういう問題ではなくて、本質的な意味で」って、えらそうに啖呵切ったんです。それが結果的に大当たり。フランスで5ヵ所のほか、イギリス、オランダ、ベルギー、そしてアメリカへ渡った。ニューヨークの一番大きな教会……

富井:ああ、あの、まだ建設中の100何丁目のやつですね。

木村:いや、一番大きな、カセドラル。

富井:聖ヨハネ大聖堂ですね。

木村:そこと、それからブロックトンと、ショートクワと、そしてサンフランシスコ。カナダではビクトリア。各地をまわって帰ってくるまでに3年3ヵ月かかった。僕の予言が当たったわけだ。そして10年ほど前かな、王仁三郎だけでなく、すみこ、直日、日出麿さんを含めての展覧会を、京都で大きくやりました。京都新聞の主催で。八木さんと王仁三郎さんの二人です、国宝になると言ったのは。僕、耀?持ってるの。今すぐ出ませんが。

富井:隠してあるんですか(笑)。

木村:パリ展のときに、楽茶碗を梱包して送って割れたら大変でしょう。そこで信者たちに1個ずつ持たせて運んだ。飛行機をチャーターして。1個ずつ、こう抱えて行った。

富井:すごい!

木村:これが一番確実や。

富井:確実ですね。

木村:大きな屏風は梱包して送らなければならん。屏風は簡単には壊れないけれど、楽茶碗は壊れやすいからね。梅棹さんも耀?をひとつもらってる。

富井:ああ、そうですか(笑)。

池上:すごいですね。

富井:国宝もらっちゃいましたね。あ、先生、国宝はもらわないってさっきおっしゃってましたよ。

木村:誰?

富井:八木さんの国宝は断ったって。

木村:八木さんのは断った。その後八木さん死んで、家内がね、「あのときもらっといたらよかったのに」って(笑)。

富井:そうですよ。

池上:思いますね。

富井:一個だけ、国宝下さいって。

木村:いやいや、あの人は友達だから。八木さんは1979年2月28日に死んだ。3月15日から一緒に中国へ行く予定だった。まだ中国が全面的に開放していない時分です。政府の美術工芸公司の依頼による、デザイン指導という形で、中国全域の窯元を訪れる旅です。北は唐山から、青島、?博、それから景徳鎮、南昌、長沙、醴陵、佛山、石湾鎮など、10ヶ所ほど。日本は金持ちで、陶磁器の愛好家もすごく多い。ところが中国の現代陶磁器が日本で売れないでしょう。なぜなのか。中国の現代陶磁は、当時、東南アジアの華僑だけにしか売れなかった。そこで、デザインが悪いのか、何がいけないのか調べてほしいと。だから、日本や中国の陶磁器の研究者が行ってもあかんわけ。世界のあちこちへ行って、外国の様子をよく知ってる人でないと。しかし僕は技術を知らんでしょう。八木さんはオブジェ作家ですが、本当に技術がすごいんですよ。満岡忠成さんという、陶磁器の専門家で、京都芸大の教授だった人から聞いた。どこの焼き物なのか分からないものがあるでしょう。例えば、朝鮮か唐津か分からないから、朝鮮唐津と呼ばれる陶器があります。満岡さんもよく分からない。ところが八木さんは「はい、これ朝鮮」。ろくろで分かる。しかし、日本も朝鮮も時計と同じ右まわりなのですよ。

池上:すごいですねえ。

木村:ところが朝鮮の会寧というところだけは、中国と同じ左まわりであり、日本の丹波焼も左まわりです。しかも釉薬がかかってたらなかなか分からないんです。底を見てもね。ところが八木さんは、こうやってたら(茶碗を触りながら)、分かるわけ。それはすごいですよ。

富井:すごいねえ。

木村:だから1979年、僕は八木さんを連れて行こうと考えた。しかし彼は痛風で、変な話ですが、しゃがめない。中国式のトイレに行けないと言う。「僕がポータブル便器を下げて行くから、行こう」と言うと、渋々「行く」とのこと。そして出発の15日前に死んだ。あの頃ビザが大変なんですよ。でも代わりに誰か連れて行かないとね。そこで中国は磁器でしょう。だから青磁を作っている宮永理吉(東山)を連れて行ったんです。

富井:すごいねえ、触ってそれを感じるんだね。

木村:例えば古伊万里展とか、古九谷展とかがあるでしょう。彼はその批評を新聞に書いています。今読んでもびっくりすることを書いていますね。すごい。あれはほんまに天才。僕は世の中には天才はいないと思っていますが、八木さんは天才です。

池上:今日は結構もうお時間が、良い感じになってきましたが。

富井:おもしろいところで、ちょうど終わって。

池上:国宝がふたつ出て。

富井:そう、国宝ふたつ(笑)。