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木村重信オーラル・ヒストリー 2010年5月30日

大阪府豊中市千里の自宅にて
インタヴュアー:富井玲子、池上裕子
インタヴュー補助と書き起こし:鈴木慈子
公開日:2011年8月27日
 

富井:今日は、学校で教えておられたようなことも含めて、もうちょっとお聞きしたいと思います。京都市の美術大学の助教授に1959年になられて、1969年には学校の名前が合併で市立芸術大学に変わって、教授になられて、ということになってるんですけれども。その後で先生、大阪大学、普通の総合大学でも教えておられますが、何か教育の理念とかプリンシプルとか、そういうものは何か考えておられましたか。

木村:あまり考えたことないですねえ。

富井:そうですか。

木村:だから教育者じゃないと前から思ってるんです。

富井:教育者じゃないと思ってますか。

木村:教育者じゃないと思ってる。阪大を定年退職しましたね。そしたら、3つの大学から学長で来いという。ひとつは金沢市立美術工芸大学。ひとつが神戸芸術工科大学、もうひとつが成安造形大学です、今のね。

池上:3つもお誘いが。

木村:でも、「もう大学はやめる」と決めました。一番もめたのが金沢でした。話があったときに、一応条件を聞くじゃないですか。週に何日出勤するのかとか。金沢は遠いですからね。

池上:そうですよねえ。ずっとあちらに行くのも大変ですからね。

木村:そうでしょう。そして宿舎はあるのか、ホテル住まいか。そんなことを聞いたものだから、向こうは来てもらえると思ったのでしょう。

富井:なるほど。

木村:それで、いわゆるノミネートをしたわけですね、僕は外部の人間だから。(内部に)推薦者がいて、推薦したわけ。その段階で、正式に「行く気はない」と言ったわけです。しかしすでに根回しをしてるでしょう、向こうの人たちは。支持者集めをしていますから、僕が候補者から降りると言っても、「そういうわけにいかん」と。内部から立候補している人もいたらしい。その人は評判の悪い人で、だから外から呼ぼう、という話になったようです。

池上:結局、学長は。

木村:僕が降りましたから、当時の学長が続投することになった。このことを外部の人は誰も知らないと思っていました。ところが地元の新聞にでかでかと出た。あそこに北國新聞と北陸中日新聞があるんです。ふたつともトップ記事で、僕が降りたことを書いた。大阪の人も知ってるんです。なぜかと言えば、大阪府立文化情報センターを僕がつくったでしょう。現代美術センターの隣に。そこに全国の地方紙が集まっているから。

富井:でもそれは先生のお考えでしょう(笑)。

池上:しょうがないですね(笑)。

木村:この文情センターのひとつの目玉として、地方紙を集めた。というのは、福岡とか徳島とか岡山とかから、大阪に働きに来ている人がいますが、その人たちは、地方新聞をめったに読めないでしょう。だからね、現役のサラリーマンに情報センターを利用してもらうためには、地方新聞を備えておくことが肝要なのです。今ばりばり仕事をしている、そういう人が寄ってくると、さまざまな情報も集まる。ですから北海道から沖縄まで、地方新聞を集めました。例えば石川県ならば、北國新聞をとるとかね。ということは、文情センターの職員も読んでいるということです。僕は金沢をことわって大阪府の顧問になりました。そのころ岸昌知事と、副知事が3人いました。西村壮一さんと、後に知事になった中川和雄さんと、柳庸夫さん。彼らが「よそへ行かんといて」と声を揃えて言ったのも、金沢へ行かなかったことの一因です。当時、いろいろ大阪府の仕事をしてたから。定年退職のときのパーティーにも、岸知事があいさつし、3副知事が出席しましたね。

池上:話をもとに戻させていただくと、教育者ではないと思われているということなんですが、大学の授業は、実際にはどういうことをされてたんでしょうか。

木村:普通にしてましたよ。

富井:西洋美術史。

池上:とおっしゃいますと、ゼミとか。

木村:美大のときですか。

富井:はい。

木村:美大にはゼミはないです。

富井:授業だけですか。

木村:学科は講義だけです。しかし、紛争がありましたね。大学紛争。

富井:そのことを次、聞こうと思ってたんです。

木村:これは昨日の針生(一郎)君の話にもありますように、1970年に大改革をやったんです。各科、各専攻の枠をとってしまった。今までは入学試験も、日本画、洋画、彫刻、染織など、各専攻ごとにやっていたでしょう。その枠を一気に全部取ってしまいました。しかし例えば染織と彫刻とはだいぶ違うじゃないですか。そこで造形、デザイン、工芸の3つに分けました。そして、教官と学生が一緒になって行う、拡大ゼミを導入しました。木曜日の午後にね。テーマは学生たちが提案する。この「研究テーマ」が改革案の目玉だったんです。それ、僕の著作集に載ってるよ。京都芸大改革案。

富井:はい、これは聞きたいと思ってましたので、テキストを持ってきました。(注:「芸大50周年をむかえての回想」、『木村重信著作集』第8巻、思文閣出版、2004年、134−140頁に再録)。

木村:ここには、具体的なカリキュラムのことは書いてない。あくまでも教育理念と大枠。

富井:カリキュラムをどういうふうに変えたかは書いてないので、そのことをうかがいたいと思って。

木村:入学したときは専攻を決めてませんから、「ガイダンス」コースを1年間やる。僕は各科の先生たちに、「良い学生を取り合いしなさい」と言った。初め日本画に入ったら、卒業時も日本画でしょう。そうじゃなくて、優秀な学生がいたら、彫刻の先生が「彫刻へ来い」とか。教官間で切磋琢磨させようと思ったの、ガイダンスで。

富井:ああ、それもあるんですか。なるほど。

木村:それから、新しい教官を採用した場合に、ガイダンスを担当させた。例えば、八木一夫さんはこの制度で入って来たんです。

富井:最初の1年で。

木村:その後で、各専攻、いや各制作室へ行きます。各制作室は、学生が自由に選ぶことができます。しかし教官が単独だと、人気のある教官の制作室へ殺到する。

池上:そうでしょうねえ。

木村:だから人気のある教授とそうでない助教授とかのように、ペアを組ませたわけです。

富井:グループですね。

木村:そこで、先ほどの人事に戻りますが、八木さんの場合は、公募条件を「陶芸の専門家にして、ガイダンスの科目を担当しうる人」としました。そうすると、お茶碗だけを作ってる人はあかんわけだ。陶磁器科には数人の教官がいたが、みんな茶碗派でした。近藤悠三さん以下。これまでなら、そんなところで八木一夫を採れない。全然、派が違うから。具体的な話をしますとね。昨日もちょっと言った柳原睦夫君、彼は前衛派で人柄がものすごく良い。だから陶磁器科から柳原君に「来てほしい、公募だから応募しろ」と。そのときに柳原君は「八木さんがきっと推薦されるだろう」と思い、「『Y』の付く人がなぜ来ないんだ」って聞いた。交渉に来た人は「うーん」って言った。そして八木さんを推薦したのは僕と辻晉堂さんと堀内正和さんです。推薦権は全教官にあるわけ。助手まで。

富井:へえ、助手まで。

木村:うん。拡大教授会に助手まで入れた。

富井・池上:へえ。

木村:一番学生と接触が多いのは助手なんですよ。彼らが教授会の敵にまわったら、何もできないです。だから助手を拡大教授会のメンバーに入れた。しかしこれにはいきさつがある。助手の方もしっかりしていますからね、「ええとこ取りはあかん」「拡大教授会という名目で、傍聴みたいなことしててもしょうがない。決定権をよこせ」と。正式メンバーにしろということです。それですったもんだあって、僕は「与える」と。日々、助手が学生に接してるんですから。ずいぶん反対があったんですが、そう決まりました。人事委員会で新任教官を採用するとき、昔は教授だけの教授会で選考していたんです。それを助手まで拡大した。それで教授人事の場合、選考委員5人の中に助手が入るんです。また、教授会で賛否について投票できます。だから教授人事に助手が関係する。

池上:画期的ですね。

木村:この制度で入ってきたのが、八木さんのほか例えば大野秀隆(俶嵩)君。日本画です。日本画には十数人の専任教官がいましたが、主任教授の上村松篁さんが「こういう人を推薦したい」と、僕に相談があった。「それはしかし選考条件違反じゃないですか」と、僕。条件は「膠彩の専門家にして、幅広い造形活動をしている人」ですから。すると松篁さんが「いや、この人は若いですから、今後いろいろやりますよ」。「先生、悪いですが、『している人』と、現在形なんです」と。その人ね、特定のモチーフしか描かない人でしたから。

池上:誰でしょうねえ。

木村:山、川、人物、動植物など、他のモチーフがいっぱいあるのに、その動物しか描かないのは、「幅広い造形活動」とは言えない。それで結局、大野秀隆が入った、ドンゴロス作品の。中学の先生をしていた。

富井:なるほど、そうですか。

木村:それから版画なんてなかった。

富井:えっ、版画はなかったんですか。

木村:なかった。新制度で吉原英雄君を採用した。そして「構想設計」を作った。全共闘の学生を吸収する制作室が、どうしても必要だったから。彼らは絵や彫刻など、普通の作品を作りません、ばかにしてるからね。それで、コンセプチュアル・アートの「構想設計」を作ったわけ。

富井:えっ、それで構想設計ができたんですか!

木村:そう。

富井:初めて聞いた(笑)。

木村:教官の中に、全共闘の受けがよく、非常に頭のよい人で、僕らの改革委員会の中心人物である、関根勢之助君がいた。関根君と助手の舞原克典君、この二人に、構想設計室の運営をまかせた。始まったらそこが全共闘学生をほとんど吸収してくれた。

富井:ややこしいの全部、ということですね、結局。

木村:しかしね、これはもう、教授会を説得するのが大変だった。まず改革委員会を作り、それが学生たちと交渉するわけでしょう。選挙すれば僕が当たるに決まってるわね。そして、あと9人選挙するとのこと。「それはちょっと困る、委員長一任にしてほしい」「あと9人は僕の一存で決める、その代わり全部責任持つ」と言って、本当に大学や学生の心配をしている人たちを選んだ。だからして、改革委員会と教授会との折衝が大変だった。あのとき教員の数は70人ぐらいいた。学生定員が125名でね。教官数が比較的多かった。

富井:はい、125ってそこに書いてあります。

木村:そうでしょう。学部の入学定員は130名だ、今でもね。140年前の京都府画学校時代が80名。明治初年でしょう。明治初年が80名で、それから140年経っても学部の定員は130名。こんな贅沢な大学はありませんよ、教官の数で言うと。例えば塗装なんて、漆まけするでしょう。だから学生が来ないんです。とくに女の子は絶対来ないです。こんな顔になりますからね(顔が腫れたような身振りをしながら)。

富井:ええっ(笑)。そんなに風船みたいにふくれちゃうんですか。

木村:漆器屋さんの子は小さい時分から慣れてるから、漆負けしませんけど。それで学生が1学年一人に対して、先生は4、5人いるわけです。そこで僕は授業の前に、「塗装へ行け」と、PRした。「先生5で学生1なんて、こんな良いところない(笑)。私立大学へ行きなさい、先生一人に学生数十人」。京都の浅野織屋という大きな織物屋さんのお嬢さん、浅野裕子さんを説得して塗装へ行かせた。そうしたら、こんなになってね(顔が腫れたような身振りをしながら)。

富井:風船みたいになっちゃったんだ(笑)。

木村:親父さんに叱られた、「木村さん、もう娘にかまわんといて」って(笑)。浅野織屋と僕は親しかったから。インドネシアのスカルノ失脚後に、イカットの購入をすすめて、大変安く大量に収集した、というようなことがあってね。
だからそういう意味で、大学経営については、僕は一番関わっていた。とくに美術教育系の大学のあり方ね。したがってあちこち、例えば沖縄県立芸大の設置委員とかもやった。あそこは山本正男さんという東京藝大の美学の先生が学長で行く予定で、設置委員も東京藝大の名誉教授ばかり集めた。ところがこの人たち、何も知らないのです。大学行政にタッチしてないから。とくに音楽の先生なんて非常識でね。例えばこういう科目が必要だ、とどんどん足していくんですよ。「音楽に僕が口を出す必要はないけれども、それでも、134単位とかの卒業単位がある、こんなに足したら250になる」って文句を言った。

池上:それ困りますね。

木村:「えっ、そんな制限ありますの?」って。山本さんも設置委員会の後半では、「木村君に任した」ということで、一人でカリキュラムまでつくったんです。しかも会議はいつも東京。それで「関西でやってほしい、3べんに1ぺんは」。あるいは「沖縄でやってほしい」とも。

富井:沖縄で。それ良いですね。だって沖縄の学校ですからね。

木村:そう、沖縄でもやりました。設立準備室の事務局長は、琉球大学の事務局長を辞めた人で、おとなしくて、文部省に言われたら、なんでも「はい」言うて帰って来る。だから手間が要ってしょうがない。

富井:まだありますか。

木村:いや、ガイダンスと、研究テーマに戻りましょう。

富井:ガイダンスっていうのは、1年生に対して幅広くいろんなことを教えるわけですか。

木村:そう。造形、デザイン、工芸で、相互に交流しながら、造形の基本を教える。例えていえばバウハウスの基礎教育のようなものです。2年生になってから、専攻を選ぶ。

富井:その場合は、学生さんがどこへ行きたいと選ぶわけですか。

木村:そう、2回生で。それも制作室。それをさっき言ったように、造形とデザインと工芸の中から選ぶわけ。造形というのは日本画・洋画・彫刻・版画です。

富井:構想設計は?

木村:言い忘れました。造形科に入っています。それからデザインも、ヴィジュアルと、プロダクトと、環境の3つ。そのとき初めて環境を入れたんですよ。今では環境デザインは一般的になっていますが。

池上:早いですね。

木村:そして工芸が、陶磁器・染織・塗装です。塗装というのは漆ですね。

富井:漆のことを塗装と言うんですね。

木村:漆工です。それまでは塗装だったのを、そのとき漆工にしました。染織の中には、染めと織りがある。ずっと以前は染織科は実質的には染色だったんです。織りは機械が要りますからね。その後織りを入れた。八木さんの奥さんの高木敏子さんが織物の専門家なので、彼女に来てもらった。それから写真もとり入れました、アーネスト・サトウに来てもらった。

富井:写真はデザインに入ってるんですか。

木村:デザインに入ってたのかなあ。それとも総合基礎かな。よく覚えていません。今活躍している森村泰昌君ね、彼はアーネスト・サトウの。

池上:教え子ですよね。

富井:構想設計じゃないの、あの人は。

木村:いや、彼はデザインだ。デザイン科でアーネスト・サトウの指導を受けた。『芸術新潮』で「アーネスト・サトウ特集」をしたでしょう。そのとき森村君がほとんど話し、書き、資料を提供した。アーネスト・サトウは外交官のあの人とは違う、写真家のアーネスト・サトウです。『ライフ』の。彼を僕は引っこ抜いた。彼の奥さんの実家は俵屋なんです。

富井:そうそう、高級旅館の。

木村:俵屋のお嬢さん。というのは、彼は『ライフ』の専属キャメラマンでね、京都に滞在してあそこに泊まっていた。そして恋愛した。僕は、それまで俵屋へ行ったことがなかったけれど、アーネスト・サトウ君と知り合って、俵屋でよくごちそうになりました(笑)。

富井:あんなすごいところで。

木村:ところで、今まで構想設計もなかったし、写真もなかったでしょう。だから教官の部屋がないんです。アーネスト・サトウの場合は、便所の近所に倉庫がありまして、それを改装して、彼の部屋にしたんです。

富井:大変なんだ。

池上:気の毒というか。

木村:写真だと、現像焼き付けする部屋、暗室が要るじゃない。しかしその部屋をどの科も出さない。それで自然科学の先生と談判してね。このぐらいの部屋(6畳ぐらい)を「分けてくれ」言うてね。いやもう大変でしたよ。それから陶磁器専攻では、一人に1台、ろくろが要るでしょう。昔は5名なんです、定員が。だから1学年5台ある。しかし各科各専攻の枠を取り払ったでしょう。すると10人来るじゃないですか。

池上:断れないですもんね。

富井:人気なんですね、やっぱり。

木村:ろくろぐらいは無理したら買えますよ。でも置く場所がない。それでね、塗装はやはり少ないんだ。

富井:はい、一人ですね(笑)。

木村:まあ、3人ぐらいになりましたが。しかし、陶磁器もかつては3人のときがあったのに、今多いから、教室が狭くなったわけでしょう。(塗装の部屋を使いたいと言っても)「うちだってそういうことがあり得る」と言うわけね。5年10年の単位で見れば、その通りだ。

池上:「塗装にはないだろう」とは言えませんよね。

木村:そこを頼んで、「必要な場合は必ず返す」と僕が保証書を書くわけだ。それに両者がサインしてね(笑)。もう苦労したんですよ。とにかく京都市がお金ないですからね。また、学生定員が増えてないのに、校舎を建て増したりしませんよ。おもしろいのは、実技の日本画の先生に、「給料は要らん」と言う人がいました。

富井:作品を売ったらお金入ってくるからですか。

木村:そう、絵の収入が多いからね。しかし一般教養の先生は収入が他にあるわけでない。美術史はまだしも、数学や物理学の先生はそんな原稿副収入はありませんよ(笑)。まあ、そんな話もありました。

富井:先生、そこでひとつお聞きしたいんですけど。何か伝説があるそうで、市芸には。この学生紛争のときに、先生が一晩で改革案を書き上げたという伝説があるそうです。そうなんですか。

木村:石田正という美学の先生と二人で作った。彼は吹田高校の先生だったが、僕が京都芸大へ引っぱってきました、家が桃山台なんです。僕は車で行くから、いつも一緒なんです。僕は石田君を改革委員会の副委員長にしたんです。彼はおとなしい人で、石橋を叩いても渡らんような人です。そこで石田君に、学生集会で、「僕は発言が多いから後々、問題を起こすようなことを言いかねない。だから、徹底的に僕の批判にまわってほしい」と。学生集会のとき、彼はいつも僕の横にいるでしょう。僕が何か変なことを言ったら、彼が肘を小突くんです。そして後で、車の中で話し合うんです。それを毎日。片道だいたい1時間かかるんですよ。石田君の家へ迎えに行って、名神高速で往復2時間でしょう。毎日その車の中で彼の批判を聞いたり、改革案を相談しました。だから素案は一晩で書いたか知りませんが、どういうふうにするかは石田君と相談しています。

池上:じゃあ、お二人で、役割分担でされたっていう感じで。

木村:そう、二人で。

富井:いや、実はそういう噂を最近聞いてきたので。一応本人確認を。

池上:ああ、そうなんですか(笑)。

木村:僕は(書くのが)早いことは早いですよ。

富井:だから私は信じたんですけれど、その噂を。

木村:その頃、阪大でも医学部の騒動がありましたね。東大でもどこでも、いわゆる改革試案を出しました。内容がだいたい同じですね。当時、一番の問題は、(学生に)批判権を与えるかどうかということでした。学長選挙、学部長選挙に対する拒否権。どういう形で与えるか。票を与えなくてもいいですよ。例えば、選挙が行われた結果について、学生がもう一度これを、いわゆるアグレマンする形もあり得るでしょう。京都芸大はそうしたんだから。教官が学長選挙をする、その結果に対して学生が賛否投票をするのです。

池上:もの申すことができる、というシステムに。

木村:それも、実際の投票数で決まったらかなわんから、在籍学生数の過半数にしました。それでこの改革案を3日間の全学集会で説明し、教官・職員・学生のそれぞれが賛否投票するようにしました。そして、学生の圧倒的多数の賛成を得た。民青(日本民主青年同盟)は反対しましたが、全共闘は賛成した。教官と職員は改革案作成の過程で議論しているから、全員賛成でした。それで紛争終わり、1970年4月から実施したんです。

富井:すごいですね。

池上:見事ですね。

木村:そりゃ早い。ご承知のように、(大学紛争は)あの頃日本だけじゃなかったでしょう。

池上:はい、世界中で。

木村:パリの5月革命の頃、僕は行きましたが、カルチエ・ラタンの辺は歩けなかったですよ。チェ・ゲバラが運動のシンボルなんですね。チェ・ゲバラの写真を持ってデモをしていました。そこで各国で協定しようというわけで、世界会議が催されました。ドイツやフランスで。各国から案を持ち寄ることになったが、日本は実施案がないんです。改革案は出たが、それを実施してるところは京都芸大だけなんです。だからうちの案がいつも日本案。僕は行ってませんがね。誰が行ったのかなあ。まあ大学問題の専門家とか法律家でしょうな。ところで、定員が130名だから130部刷ればいいわけ、その年の入学者に対して。でも、1000部刷ってもなくなるんです。東京芸大は、まだ(紛争を)やってましたからね。だから全教官に京都芸大の改革案を配布した。そして読んで、「こんなことできるはずがない」、「いや、京都芸大、これやってる」、「えっこんなことやってるの」って(笑)。それで余計また頑なになって。それは例えば、東海大学とか日大の芸術学部とかでも同じことです。そのうち内ゲバが始まったでしょう。赤軍派などが、内ゲバで殺し合いしたとかあるじゃないですか。それでもう、自己崩壊して、なくなってしまった。だからあまり(改革案を)実行してないんじゃないですか。あっ、阪大の医学部は実施した。看護婦にまで投票権を与えた。医学部は看護婦とか、技術職員が多いじゃないですか。附属病院があるし。

富井:支えてますからね。

木村:そういう人たちが学制改革を取り上げた。だいたい医学部ですよ、最初に大学紛争の火が燃えたのは。

富井:東大もそうですよね。

木村:そうでしょう。

富井:阪大もそうですか。

木村:阪大もそう。僕は紛争が終わった後の74年に阪大に行きました。その時には一生懸命に改革案を作った人が浮いていましたね。教授が1票で、助教授が2分の1とか、看護婦さんは10分の1か知りませんよ。権利は教授ほど与えてないと思いますが、とにかく投票権を与えた。それを元に戻すのに、つまり教授・助教授だけに限るのに、数年かかった。

富井:10年かかりましたか、それでも。

木村:また、批判権を拒否するのは難しかった。教授会が決定権を持ってる、だから学生の批判権と教授会の権限が裏腹の関係にある。紛争の最中、針生君が全共闘からティーチ・インに招かれて、京芸大にやってきた。批判権の話になったときに、こう言ってくれたんです。「4年間の移動集団に大きな権限を与えたら、危ない」と。全共闘の教祖がこう言った。

富井:かっこいいなあ。でもそれはもっともですね。「4年間の移動集団」っていうのが良いよね。

木村:その前に彼はこの案を「ようやった」と、買ってくれてますからね。次に批判権と裏腹の教授会の問題になります。

富井:なるほど、逆に。

木村:教授会で、教員の身分について、3つの案を出しました。ひとつは専任教官の20年任期。

富井:そこに書いてありました。

木村:書いてますか。

富井:何かそういう案があって、自分はそれでやめたみたいな。

木村:いや、それは違う。教授会で僕が20年任期制をいうと、皆、賛成しました。でも「これから20年と違いますよ」「就任してからだから、僕もまもなく20年になる、今17年ぐらいだから」と言ったら、「それはあかん」とつぶれた。

富井:とたんに(笑)。

木村:そう。次は定年年齢。紛争の10年ほど前は定年がなかったんです。それで定年制の必要性を僕が訴えて、65歳になった。で、そこで、もう一度、何歳がよいかを議論した。彫刻科や染織専攻は50〜55歳を主張した。芸術家に年齢はないが、教育者にはあると言って。結局、定年年齢はすえおきとなった。そして一番最後に、いわゆる教員資格再審査制度を決めました。皆で投票するんです、5年間ごとに。例えば実技の教員だったら、作品を発表した展覧会名を列挙する。学内でも、学生委員とか教務委員をしたとかを書き出して、各人が業績表を作り、それにもとづいて無記名投票する。無能な人にはバツをつける。これはあくまで勧告、離職勧告するというもの。

池上:何もしてなければ。

木村:何もしてなければバツ投票される。それを教員資格再審査制度という。それを学生にぶつけた。われわれの方もこれだけの覚悟を決めてやってるんだから、批判権のことは言うなと。針生君の移動集団云々の発言もあり、これは一応成功しました。それが教官の間では、無能教官追放制度と言われています。

富井:ははは(笑)。

池上:恐ろしい(笑)。

木村:教授会でも、変な発言があると、誰かが茶々を入れて、「追放制度に引っかかるぞ」とか。そういう形で生きてるのが一番良いわけです。それが僕がやめてから変わったんです。今までは無記名だったのが、今は記名投票になっているんです。というのは、無記名は危ない。例えば、移転問題とか、具体的な問題があるとき、賛成の人も反対の人もいるでしょう。そうすると移転問題について、賛成派が反対派全員に全部バツをつけることもあり得るでしょう。記名投票だったら、ちょっとセーブすることになる。今までは賛成だったのに急に反対にまわったら、「なぜ」ということになる。今も、この制度は生きてるはずですよ。このように改革案自身も、運用上の問題点があれば、変えたら良いわけです。

富井:次、阪大の方に移りたいんですけど、その前に一言。(京都芸大の)学生の立場から聞いた話で、1年生の間はガイダンスで、専攻がなかったおかげで、横のつながりが増えたと。芸術学の人も皆そういうところに入って1年間ガイダンスするんだそうですね。だから要するに美術史の人も実技の人も皆、横一列だから、ネットワークのためにとても良いかたちだったと。そういう現場からの声を聞いたので、一応先生にお伝えしておきます。

木村:例えばピカソは、絵描きですが、彫刻も作る、陶器も作る、詩まで作るでしょう。でも、白足袋はいて、土をこねるというわけにはいかない。

富井:視野が狭い。

木村:東洋的な光で物を見てるだけだから。もともと京都芸大は1学年130名しかいないから、芸術制作だけじゃなくて日々の生活でも、かなり他科の学生と付き合いがあるんです。

池上:交わりやすいですね。

木村:だから阪大のような総合大学と違うんです。ガイダンスで交流がどのくらい増えたか分かりませんが。

富井:そうですか。何かそれも伝説みたいになってるみたいですから。で、阪大の方なんですけれども、1974年に美学科ができて、教授で就任なさる。これは先生、美学科っていうのはどういうかたちでできたんですか。

木村:阪大の人が作られた。ただ、僕はずっと非常勤で行ってたんですよ。

富井:もう教えておられたんですか。

木村:僕は美術史の非常勤で行っていました。美学は同志社の金田民夫さんという、僕の先輩が担当していた。哲学科でした。

富井:哲学科の枠内で美術史を教えておられた。

木村:そう。高橋昭二君、早く亡くなりましたが、彼が哲学科の若手の中心だった。そしてフランス哲学の三輪正君。彼とはパリで留学時代一緒だった。そのうちに、高橋君が「君、両方やれ」言うて、美学と美術史を隔年でやっていた。毎週行くから、いろいろ相談を受けるわけ。なぜ美学科ができたかといいますと、文学部の「心・社・教」、つまり心理学、社会学、教育学が、人間科学部として独立したでしょう。だから文学部が半分になったんですよ。なぜ独立したかというと、文学部の枠内では実験講座にならないからです。心理学とかは、お猿を観察したりとか、実験するでしょう。お金もかかるのですよ。

池上:今もやってます(笑)。

木村:日本の心理学というのは、ユング心理学じゃなくて実験心理学ですからね。文学部では実験講座にするのは難しい。そこで「人間科学部」と理系にして、実験講座にした。

富井:それで、人間「科学」というところに重点があるわけですか。

木村:そうそう。だからその3つが出て文学部が縮小した。そこで、後をつくろうと。案が2つあった。一つは文明学科。例えば民族学、地理学、言語学、考古学など。とにかく6講座ほどの文明学科。それと美学科。それで投票したら同数だった。

池上:どっちを作ろうかと。

木村:ええ。そのときに高橋君が、彼は美学科の支持者だから、文明学の支持者に質問した。「6講座の中の、誰を中心に文明学科を運営していくのか。最初に誰が中心になるのか」と。返事がないから、彼は「われわれは(新しい学科が)できた以上は、あまり横から口を出さない。新しく来た人にまかそうと思う」と。これは高橋君から聞いたんですよ。そして「美学と美術史は両方、毎年木村さんにやってもらってる」「木村さんに相談するつもりだ」というわけ。それでもういっぺん投票したら、1票違いか2票違いかで、美学科(笑)。

富井:先生の方に来たんですね。そういうふうにできたんですか。

木村:僕も厚かましいから、高橋君に注文を出した。「まず逐年進行にする」と。初年度に2講座、次の年に2講座、3年目に2講座を開講して、合わせて6講座。2〜3年ごとでは完成までに何年かかるか分からないから。

池上:順々に。

木村:そう、毎年。一度に6講座できないから。初年度に、僕は美学講座へ行ったんです。美術史の担当者は、「武田君でなきゃ僕は行かない」と高橋君に言った。「これからね、いい歳して」、49歳だけど、まあ、いい歳ですよね。「いい歳して、人事のことで苦労するのはかなわん、仲良しでないと」言うて(笑)。まあ、見渡しても動けるのは武田君しかいなかった。それで、武田君と二人で行った。というのは、その後、音楽学とか演劇学とか文芸学とかね、全部相談して決めなあかん。そのときにAかBかでけんかしてたら、あほらしくてやってられん(笑)。それで、美学と東洋美術史は決まった。問題はよその大学にない講座、とくに音楽学と演劇学。これに誰が来るかによって、美学科が成功するかしないかが決まる。

富井:はい、ないです。

木村:教育大学に音楽科がありますが、音楽の実技を教えていますからね。音楽学は、谷村晃君(注:たにむらこう、1927年-2005年、音楽学者)しかいない。谷村君は若くして音楽学会の会長になってるしね。それで谷村君を初めから考えていた。でも彼、出られないの。そのとき関学(関西学院大学)の教務部長をしていましてね。阪大の教務部長と違いますよ。私大の教務部長って入学試験を全部采配しなければならない。そんな人、とてもよそへ出られない。ところが、彼は教務部長をやめて、その功労で1年間海外研修することになった。「ちょうどいい、帰ってから阪大へ来てほしい」ってね。

池上:強引ですねえ(笑)。

木村:1年以上前から言ってますから。ところが(帰ってきたら)お礼奉公しなければならないとのこと。

池上:1年行ったら今度は。

木村:そう。だから余計出られないと。そうすると、「海外研修をやめたら来れるな」と。そういうことでしょう? 理屈は。

池上:そうかなあ(笑)。

富井:理屈はそうですね、はい。理屈は(笑)。

木村:それでね、武田君と3人で相談した。(梅田の)新阪急ホテルのロビーあたりで相談してたら、誰が見てるか分からん。音楽学のポストを狙ってる人はいっぱいいるからね。あまり親しくない人がちょろちょろ僕の家へ来たりして。

富井:そうなんですか。

木村:そりゃそうよ。音楽学のポストはないから。

池上:ポストがその頃ないからですね。

木村:だからして新阪急ホテルの部屋をとって、相談した(笑)。

池上:ロビーじゃ駄目だと。

富井:密室の会談やね。

木村:彼が教務部長をやめて、来年4月から留学する。1年行って、そして再来年は関学で、その次の年から阪大というのが最短のコースですが、そうはいかない様子。そしてしばらくしたら、うまい具合に何か関学の学内に問題が起こった。で、執行部全員、もう1年留任になった。彼はそのまま教務部長で、もう1年延長になったわけだ。すると海外研修も取りやめになった。だから(阪大に)来られたの。

富井:なるほど。おめでとうございます。

池上:お気の毒というか、おめでとうというか(笑)。

木村:それから演劇の山崎正和君。彼は関大(関西大学)の教授だった。ところが、まだ40歳。

池上:お若かったんですね。

木村:若いでしょう。阪大の教授は50をすぎた人が多かった。40代前半の教授は誰もいない。高橋君も「若すぎる」と言うしね。それからもうひとつ、彼にはコロンビア大学の終身教授の口がありましたから。ドナルド・キーン先生の推薦で、彼はアメリカのコロンビア大学へ行く予定だった。それで脅したんです。加藤周一がコロンビア大学の客員教授で行って、こんな話があると。彼は自分の本を机上に置いて、英語に訳しながら講義した。すると集中講義の1日目は教授連中も来て、100人が聞いた。2日目は10人になって、3日目は一人。

池上:ええっ(笑)。

富井:また、そんな(笑)。

木村:まあ、誇張された話でしょうが、アメリカの大学のきびしさを示す話でもある。あなたも知ってるように、アメリカの講義というのは非常に大変で、事前に完全なノートを作る必要がある。フランスでも、クール・ピュブリック(cours publique)のように、ラジオと同調した講義があって。こうしてチンと鳴ったら、講義が始まる。きちっとノートを読むみたいなかたちでね。日本のような漫談では駄目でね。そこで、山崎君に「第二の加藤周一になるぞ」って脅した(笑)。そして「あんたが原稿料を稼いでるのは、アメリカでなくて、日本ではないか」「アメリカへ行ったら、その収入がなくなるよ」と。

池上:結構えげつない(笑)。

木村:そう、えげつない。そして関大の教授を阪大の助教授にするわけにいかないので、時間かせぎをしました。具体的には金沢大学の室木弥太郎先生に、芸能史担当の併任教授になってもらい、何年か後に山崎君の人事が始まった。彼は戯曲の本があるでしょう。『実朝出帆』(新潮社、1973年)とかね。僕は「これも全部、研究業績だ」と。演劇学は国文学とか英文学と違い、「science of theater」だというわけです。彼はたくさん本を書いてますからね。それを教授会で説明したんです。すると、こんな質問が出ました。「三島由紀夫の根源的演技と山崎正和の根源的演技はどう違うのか」とね。これは屁理屈ですよ。山崎君の根源的演技の内容について、僕はくわしく説明したのだから。三島との違いを知らんだけのことであってね。「なぜ三島さんと比較せなあかんのか」って僕は普段なら反論しますよ。しかしその時は「三島由紀夫の根源的演技を知りませんので、次の回に説明します」と言った。すると高橋君が「木村君、おおきに。君が開き直ると思って、ヒヤヒヤした」って(笑)。

富井:でも、そうやって美学科ができたんですか。

池上:あとの二つはどうですか。音楽、演劇の後、もう二つ講座を作られて。

木村:文芸学はある人を推薦した。東大出の人です。東大は竹内敏雄さんの影響で文芸に強いです。国文学の教授が反対した。文芸学というのは、ある意味で哲学的な学問ですから、国文学者から見たら、事実を知らんというふうになるわけです。それで當津武彦君になった。當津君はギリシアのアリストテレスの『ポエチカ』などを研究していて、ギリシア語にも強い。ギリシア哲学者ですが、悲劇、喜劇いろいろやってるし、たくさん本も書いています。それで彼を出したら、「良し」となったんです。もうひとつどこですか。

富井:美学。

池上:でも、美学と東洋美術史が最初の二つですよね。

木村:西洋美術史だ。僕が美学だったから、最後になった。その選考委員に、すごく力のある元老先生がいた。その人がどの人を出してもつぶす。そして曰く、「木村君。西洋美術史にまわれ」と。

富井:木村先生にですか。

木村:しかしその後、美学の教授選考をしなければならない。その元老先生に、「美学は誰がいるか、代表的な著作を1冊ずつでいいから3人分持って来い」と言われて、渡した。それで結局、石田正君になったんです。

富井:じゃあ石田先生が3人のうちの一人だったんですか。

木村:そう。3人のうちの一人はうんと先輩で、元老教授がよく知ってる人でね。「こんな人あかん」って、落とされた。あと二人のうち、一人には断られました。僕の先輩。本人は「行く」と言ったが、奥さんが反対した。

富井:なるほど。で、ちょっと今うかがってると、木村先生は最初は、美学講座で美学を教えることに。

木村:美学にいた。だから2年ほど美学の講義をしていました。

富井:それで、その元老の先生に「西洋美術史にしなさい」と言われて。

木村:だから学生がね、僕が美学から美術史へ変わったら「私も美術史に変わりたい」言うてね。ところが教務課で「あかん」と言われて、学部長に文句を言いに行った。「先生は変われるのに、なぜ学生は変われないのか」と。

富井:そうしたら、先生が美学を教えてる間は、誰が美術史教えてらしたのですか。

木村:西洋美術史はなかったんや。

富井:なかったんですか。

木村:ないよ。音楽学の先生がいないときは音楽学の講義もない。

富井:ああ、なるほど。

木村:逐年進行だから。

富井:二つずつ作っていくというアイディアですね。

木村:うん、6講座だから、2、2、2というわけでね。

富井:そういう形で。そうしたら私は、その元老の先生に「ありがとう」と言わないと。

池上:そういうことですね。

富井:木村先生が西洋美術史を教えてくださっているおかげで(私たちも勉強できた)。

木村:阪大の場合、神林恒道君になってから美学講座でも美術史をやってるじゃないですか。

池上:西洋美術史ができてから、また東洋美術と別れたんですか。

木村:いや、東洋美術史は肥塚隆君がインドで、武田君が日本でしょう。武田君の後は奥平俊六君が日本美術史を担当している。

池上:分かりました。そういうことですね。

鈴木:日本・東洋美術史は発足当時からあったということですね。武田先生と一緒に来られたときに。

木村:あれはね、美術史1、2なんだ。「東洋」も「西洋」も付いていない。武田君が先に来たから東洋美術史が1で。

池上:美学と東洋美術史があって。

木村:西洋美術史は3年目でしたからね。僕は2年間、美学の担当だった。

池上:ようやく順番が分かりました。西洋美術史は最後に。

木村:最後です。

池上:美学から切り離されるみたいなかたちでできたってことですか。

木村:そうではない。演劇学と西洋美術史が一番遅くに、3年目にできたということです。2年目が文芸学と音楽学。

富井:他の大学だと、わりと美学・美術史でひとつ固まって、哲学寄りで作られてるところも多いと思うんですけども。

木村:その通りです。東大では、美学と美術史は別ですが。京大は美学・美術史講座といって、一緒です。講座も1.5講座ですよ。東大はまた別に秋山光和さんのように、西アジア史講座の中に美術史の先生がいるケースがあります。それから東大の場合は、美術史も二つありますね。東洋美術史と西洋美術史。だから高階(秀爾)君は西洋で、辻惟雄君が東洋。そのあと河野元昭君は日本美術史で、青柳正規君やひげの彼が西洋美術史でしょう。

池上:小佐野重利先生ですか。

木村:そうです。

富井:で、私が覚えてる範囲では、先生は学生に実証的な美術史っていうことをずっとおっしゃってたんじゃないかなと思うんですけども。それはどういうところから、実証的っていうのが、先生のメソッドの中に出てきたんですか。

木村:僕は美学から美術史に転向しましたから、そうならざるを得んでしょう。昨日もピンポン台を玉があっちこっち行って、という循環論理を言いましたが。そのアポリアを打破しようと思ったら、実証的なことをやらざるを得ない。いわば理論が自分の中で空転していたわけでしょう。自分では動いてると思っているが、横から見たら玉がコートの上を行き来してるだけであって、全然発展性がない。そのアポリアから逃れるために、歴史的事実の方向へ行ったのです。そのことと、歴史が好きだったということも関係しています。

富井:先生が。

木村:うん。歴史と地理は本当にもう子どもの時分から好きでしたね。だから歴史と地理はいつも満点。例えば僕は、日本の全国の町村の名前をほとんど知っていますよ。世界の地理にも大変くわしいです。

池上:すごいですねえ。

木村:日本の地理になぜ強いかというと、僕は肋膜炎で小学校は3年間しか行ってませんから。小学校の2年生から5年生ぐらいまで休んだ。そのとき分県地図ばかり見てたらしい。どこでもいいです、聞いて下さい。この頃、合併して変わりましたから、ちょっとあやしいけれど。例えば、僕が京都芸大に行ったとき、東洋美術の田村隆照君が助手だった。それで言葉がどうも中国地方の訛りだなと思って、「中国地方ですか」って聞いた。初対面でね。「はい、広島です」、「広島の市内ですか」、「いや、田舎です」「どっちの方?」、「東北」と言う。そして、山内村と言うから、「山内村というのはないはず。東か西かどちらですか」、「東です。なぜそんなこと知ってるの!」(笑)。

富井:なるほどね(笑)。

木村:だからおもしろいんですよ。僕が京都芸大にいた時分に、1960年代かな、町村合併があったんです。図書館に色々と全国各地から手紙が来たり、問い合わせが来るわけですね。でも県名が書いてない。調べたらすぐ分かりますよ。でも図書館に僕の京大の同級生の司書がいて、電話で「木村さん、総社市、どこ」、「岡山県」。「村上市は」、「新潟県」とかね。僕に聞いた方が早い(笑)。

富井:なるほど。あと、私がやっぱり経験的におもしろかったのは、もちろん待兼山の芸術懇話会もそうですけども、月曜日のゼミは、発表の後に全員が発言して、400字の感想文を書いてくるという。

木村:あれは、必ず添削して返した。

富井:はい、細かく。

池上:今も行われていますからね。

木村:そうですか。

池上:はい。よね?

鈴木:(うなずく)

木村:あれ、400字だったかな。

富井:はい、400字です。

木村:学生には不評だったが、卒業してから新聞社に勤めたのがね、「あれが役に立ってる」と。僕は400字の文章だったら、最後の「である。」を先に書いて、残りの2行をどうしようかと考える(笑)。

富井:最後のとこですか。

木村:だから、昨日の京都新聞の記事(注:針生一郎の追悼文)でも、ぴったり合っているでしょう。あれは3枚半かな、その一番最後の枡目が「。」にはなってませんが、行はちゃんと合ってる。もし足らなかったら、編集者が「したがって」とか「ところで」を入れるでしょう。とくに新聞の場合、始めから用意してあるの、何行というスペースをね。今は一行12字ですから、12字× 100行とかね。そうすると、原文の字数が足らなかったら、向こうが足すんですよ。そして長かったら、削ります。それがかなわん。注文通り書いて手を入れられたら、「勝手に手を入れるな」って、文句言えるわけ。

池上:参考になります。

木村:ちょっとアレンジすれば、収まるんですよ。だから昔から鉛筆なんです。ペンは使ったことがない。(鉛筆は)消せるからね。

富井:なるほど。先生のモットーは原稿の依頼を受けたらすぐに書くというのがありませんでしたか?

木村:それは(書くのが)早いから。僕がせっかちなこともあるしね。(遅れると)急かされるでしょう。それがいやなの。例えば梅棹忠夫さんや、こないだ死んだ針生君もそうだけど、(筆が)遅いでしょう。梅棹さんと、一緒に講演することがあるでしょう。そしたら2、3人いつも編集者が来てるんです。そこで原稿を渡すという約束なので。しかしほとんどできていません。そして中には、きつい人もいますよ。すると、梅棹さんは怒って、「借金取りみたいに言うな」と。そしたら向こうも開き直って「借金取りですよ」って(笑)。

富井:今、梅棹先生のお名前出てきたんですけども、木村先生、1976年から民博(国立民族学博物館)の教授をなさって。それから、民族芸術学会も立ち上げられて。そのあたりの状況っていうのは。

木村:民博には「第五研究部」というのがありましてね。これが民族芸術、民族技術部門です。しかし芸術もアートだし、技術もアートだから両者は混交しています。その民族芸術や民族技術の中で、音楽にはかなり、民族音楽研究者がいるんです。例えば小泉文夫さんとか、山口修君とか。それから民博だったら藤井知昭君や桜井哲男君とか、いろいろいるわけね。それから、東京藝大の柘植元一君とかね。そして技術の方は「コンピューター民族学」の杉田繁治君がいる。ところが民族美術とか民族文学とかの研究者はほとんどいない。そこで梅棹さんが、「民族芸術に関する共同研究をやってくれないか」と言われた。そして阪大に非常勤で来ていた守屋毅君。知らん? 守屋君が愛媛大から民博へ助教授で来たが、着任早々で暇だから、彼を事務局にして、やってほしいと。それで「やりましょう」と、梅棹さんに「何人か推薦してよ」と言った。そしたら例えば帝塚山大学の森永道夫君ね、演劇の。彼とか、数人推薦してくれた。民族芸術学の基礎的研究だから、理論も必要だから、それで石田君とか、情報美学の川野洋君とか演劇学の細井雄介君など、30人ほどで毎月1回、研究会を2年やった。その後2年、もっと具体的にやろうというわけで、一部メンバーチェンジして「民族芸術的世界の構造」というのをつくった。そして、この研究会のメンバーを中心にして民族芸術学会が1984年に発足しました。山口修君がほとんど事務をしてくれた。ただそのときに梅棹さんともめましてね、学会誌について。美術史学会でもそうだけど、学会誌はだいたいモノクロームでしょう。写真がモノクロ。

池上:雑誌ですか。そうですね。

木村:しかし演劇の舞台衣装とか、絵画とか、どうしてもカラーが欲しい。でも学会の会費でカラーの雑誌は出せないでしょう。だからどこかの出版社に一般市販してもらおうと。それで講談社と一番つきあいがあるので、申し入れた。そのときの専務が加藤勝久君といって、カラハリ調査やサハラ調査のときに、講談社からお金を出してくれた人だ。度胸者なんですよ。僕と同い年でね。すると彼が「やる」と。ところが梅棹さんが反対した。

池上:なぜですか。

木村:民博が出している『季刊民族学』が売れなくなると。

池上:ああ、そういう。

木村:彼は命を賭けてますからね、『季刊民族学』に。それで調べましたら、各号、10篇ある論文のうち、芸術関係は2篇ぐらいなんです。他は一般民族学です。梅棹さんの家はついそこで、千里中央の駅前です。その家へ行って夜中までワインを飲んで説得したが、「木村君、堪忍してほしい」って。それで僕は、カラーの機関誌を出せないから、学会設立をやめようと思った。しかし山口修君はしぶといんだ。「ここまでやってきて、なぜやめるんだ」「白黒写真でもいいじゃないか」と。でも僕は、カラーでやりたくてしょうがない。ほんとに。あなたもそう思わない? 論文書いても、絵画の場合、色を全部説明しなければならない、文章で。

池上:そうですよね。一生懸命書いても。

木村:しかも、色がものすごく重要な絵があるじゃないですか。例えばマリアさんがどんな色の衣を着ているとかね。カラー写真ならぱっと見たら分かるわけでしょう。とくに宗教美術などの場合は重要です。モダンアートの場合もそうでしょう。例えば、カラリストと言われるマティスとかね。それからドローネーとか、カンディンスキーなども。

富井:いや、ポロックだってそうだよね。

木村:家内が、すごいことを言った。加藤さん、講談社の専務にね、梅棹さんを説得させたらどうかと。梅棹さんは加藤さんと講談社に借りがある。それで加藤君がやってきてね、先に僕の家に寄って、それからタクシーで民博へ行った。30分で帰ってきて、「梅棹さん、あっさりとOKしたよ」。それから梅棹さんと(指で×印をつくって)こうなった(注:関係が悪くなった、の意)。「木村はえげつない手を使う」と。

富井・池上:(笑)。

木村:いや、ほんま。

池上:イエスと言わざるを得ない状況を作ってっていうことで。

木村:けんかしたわけじゃないよ。でも、民博内部の人にね「木村ってえげつない」「あれだけ反対してるのに」って(言ったらしい)。まあ、そういうこともあります。しかし発起人になってくれた。民族芸術学会設立の代表発起人は二人ですよ。梅棹忠夫と木村。そして、発起人メンバーは40数名ね。あの人も入ってるのよ、水木しげるさんも。

池上:へえ、そうですか。

木村:共同研究会に水木さんを知ってる人がいてね。「妖怪も入れよう」と言って。

富井:そりゃそうですね。それはもう。

木村:水木さん、発起人だけでなく、初めの頃は評議員もしていた。あの人はまじめでね。評議員会にいつも出てきました。ニューギニア戦線で片腕を無くされて。その頃はまだ、妖怪ブームはなかったけれど、今や境港に行ったら大変ですよ。

池上:大人気ですね。

木村:ええ。兵庫県立美術館では今年の秋、水木しげる展、妖怪展をやるんです(注:「水木しげるの妖怪図鑑」)。

池上:ああ、そうなんですか。

富井:おもしろそうね。

木村:兵庫県美については、これ(『国際美術館館長会議―21世紀に果たす美術館の役割とネットワークについて―』、国際美術館館長会議実行委員会、2003年)について話したい。僕は、海外とのネットワークを作ろうと考えました。そして2002年の開館のときに各国の美術館長に来てもらった。これにはね、ひとつの作戦があったのですよ。呼んだのは全部、安藤忠雄君が建築設計した美術館の館長。つまり安藤君を中心にしたネットワークを作ろうと。ヨーロッパのヴィトラとかね、デザイン・ミュージアムの。あの一部も安藤君がつくった。それからピノー財団、セーヌ河のスガン島に第二のポンピドゥー・センターを作ろうとして、安藤君が設計した。これは実現しなかった。それでピノーさんが悪かったと言って、ヴェネツィアのプンタ・デラ・ドガーナの改築を頼んだわけですね。しかしこの会議には彼らは出席せず、アメリカからだけ来ました。シカゴ美術館、フォートワース美術館、フィラデルフィア美術館、クラーク・アート・インスティチュート、セントルイス美術館の各館長、そして日本のサントリー美術館。そして作品、展覧会、人の交流を申し合わせた。ここに入れてあるでしょう。

池上:「まとめ」を。

木村:その後、うちの速水豊君が海外研修で1年間アメリカに行くことになった。フィラデルフィア美術館と兵庫県美は組んでますから、普通だったら、こっちの学芸員を預かってほしいと言ったら、いろいろ手続きが必要ですが、申し合わせがあるから電話で済むわけ。それで彼はフィラデルフィアに行きました。すると向こうの館長が「うちへ来てもあまり勉強にならんだろう」「ニューヨークのモダンアートを勉強したいんだろう」、「そうです」と。そこで館長がウィリアム・リーバーマン(注:William Lieberman、当時はメトロポリタン美術館の学芸員)に話をつけて、メトロポリタンへ行った。

池上:それでメトロポリタンに1年行かれたんですね。

木村:この申し合わせはそういうふうに使ったら、一番良いわけです。普通、協定を結ぶのに、方法がいろいろある。大学も同じだ。僕は阪大へ行きまして、ずいぶん協定を作りましたよ。山村雄一総長のときに、総長が音頭をとって、阪大がハワイ大学と協定を結ぶのに数年かかりました。それは細かい規定を作るからです。阪大の美学科では、例えば谷村君がケルン大学と、辻成史君がバークレー大学と、僕がオーストラリアのクイーンズランド大学と、協定を結びました。しかしすべてデパートメント(学科)同士、あるいはファカルティ(学部)間です。

池上:全学でやると大変っていうことですよね。

木村:ええ。ブリスベンのクイーンズランド大学の場合はね。大阪府が山片蟠桃賞をアクロイド(Joyce Ackroyd)さんという日本語の先生にあげた。そしたら授賞式に来られた。副賞200万円あげるんです。阪大に日本学科があるでしょう。そこで日本学科とドッキングさせようと思った。阪大の文学部は小さいから話は簡単で、双方の学部間で協定した。協定書には、人の交換とか、情報交換とか、あるいは美術の場合だったら作品や展覧会の交換とか、そういうことが書いてあるだけ。それらの交流を通じて「世界の学問や美術の振興に貢献しましょう」と。細かく書くと、旅費をどうする、宿舎は世話するのかとか、大変になる。ケース・バイ・ケースに考えたらいいわけです。僕はその主義でね。阪大では4つほど実現したので、美術館もそれでやろうと。あの時ヨーロッパの美術館長は来てくれなかったが、郵送で覚え書きを交換しました。いざのときに使ったらいいんです。それから釜山美術館とも結んだ。キム・ヨンナムという韓国人の留学生が、神林君のところに来ていましてね。彼女がやり手でね。おもしろい字を書くんです。

池上:書いていただけますか。

木村:(「金炳男」と書く)男って書くんだ(笑)、女性ですがね。彼女は日本から帰って、釜山の美術館に入った。釜山は大阪市と姉妹協定を結んでいるので、その美術館が大阪市立美術館と組みたいと言ったら、ノーと言った。当時は誰かな。蓑(豊)君かな、蓑君はシカゴ美術館にいたし、国際派だから、ノーとは言わないと思いますが。ところが彼女は「私は日本にいたから、まかせなさい」って啖呵切って出てきたから、協定を結べないと、帰れない(笑)。それで神林君を通じて、兵庫県美に話が来た。僕は直ちに「はい、やります」って。すでにネットワークがあるから、それにひとつ足すだけのこと。その場で「サインしよう」と言った。その功績かどうか分かりませんが、館長候補になってね。韓国というのは立候補する、館長に。

富井:手を挙げるんですか。

木村:そう、何人かの館員に推されて、手を挙げた。で、負けた。

富井:ああ、そういうこともあるんですね。

木村:今、韓国の美術館には二派がある。日本派とアメリカ派と。留学の際、日本へ行ったか、あるいはアメリカへ行ったかによってね。だからして、館長になった人はアメリカ派らしい、男の人。負けた彼女は「釜山にいるのは癪」と言って、慶尚南道立美術館に移った。僕はそこから招待受けて、行った。(紙に書いて)昌原にある。古い地図には載っていません。ソウルが北朝鮮に占領された時に首都を移転するためにつくられたという、新しい、整然とした都市です。慶尚南道の首都はここなんですよ。釜山と違うんです。そこの慶尚南道立美術館で、彼女が企画した日本美術展のオープニングに招かれた。でも今はフリーじゃないかな。だからあちこちの美術館に頼まれて、種々の企画展をやっています。この前も、売り絵展みたいな話があって、神林君の奥さんのグループに言ったら、喜んで行って、たいへん歓待を受けたとのことでした。

池上:ちょっと時間が戻るんですが、民博のお話が出たんですけど、大阪万博のときにあった「万博美術展」っていうのは先生、関わっておられたんですよね。

木村:ええ、僕は専門委員です。

池上:そのお話をちょっとお聞きしたかったんですけど。

木村:僕はアフリカ関係の出品交渉に行きました。行ったのは、アルジェリア、エジプト、エチオピア、スーダン、ナイジェリア、ガーナ、コートジボワール、それからキンシャサ・コンゴね。コンゴはふたつありますから、キンシャサの方です。もっと行ったのかな。まあ、そんなところです。それが、先ほどの大学紛争のときに、全共闘から学生集会で糾弾された。

富井:えっ? 糾弾ですか。

池上:アフリカに行かれたってことを。

木村:そう、万博関連で。あの頃、芸術系大学の学生はいわゆる文化権力と戦うと言っていた。万博はその文化権力のシンボルみたいなものでしょう。

池上:当然そうなってきますね。

木村:そうでしょう。だから他のところでもハンパクを唱えていましたが、芸術系の学生たちのハンという字は「アンチ」の「反博」じゃなくてね、「謀叛する」の「叛博」。僕がアフリカの展示を担当したことはばれるに決まってますから、学生集会で万博が話題になったときにあえて言ったんです、「僕、関係してる」って。そのいきさつをヨシダヨシエが書いています、『戦後前衛所縁荒事十八番』(ニトリア書房、1972年)という本で。それで、「なぜか」と聞かれた。それで僕は、「君たち、アフリカ美術は黒人彫刻ぐらいしか知らんだろう」「ほとんどの日本人は、アフリカの古い作品を知らない」とね。「しかし、ニグロ彫刻はアフリカ美術を代表するものではない。それは欧米人が日本美術というと浮世絵を思い浮かべるようなものだ。しかし浮世絵だけが日本美術でも、また日本美術を代表するものではないでしょう。それと同じなんだ」と。例えば暗黒大陸アフリカとか、未開なアフリカ人とかのイメージがあるじゃないですか。それを、万博を利用してイメチェンしたいんだというような説明をした。そしたら全共闘、京都芸大は革マルと中核ですが、革マルの委員長が「しかしなぜ万博でやるのか」「美術館でもデパートでも良いじゃないか」と。「君、デパートと言うが、デパートでアフリカ美術展を催して、何人入るか」と。「よく入って数万人、せいぜい数千人でしょう」と。万博はその頃3000万から5000万入ると言われていた。その1割が美術館へ来るだけで、300万人から500万人となる。「だからあえてやるんだ」って言ったら、「分かった、了承した」と。

富井:了承した(笑)。

池上:糾弾にはならなかったんですね。

木村:そう。ところで、展覧会が終わって、送り返されたら、この彫刻が壊れていた。

池上:ひびが入ったっていうのですよね。

木村:ええ、ひびが入ったって、ここに書いてあるでしょう(注:『世界美術史』朝日新聞社、1997年)。これには苦い思い出があるんですよ。万博美術館は西洋美術館が中心になってやりました。西洋美術館の館長の富永惣一さんが、あそこの館長になって。課長の中山公男君も西美から来た。その中山君が「木村さん、謝りに行ってほしい」と言う。僕は「借りてくる交渉はしたが、なぜ僕が謝りに行くのか」と。そのとき富永さんはヨーロッパ諸国をまわっていた、お礼まわりに。「ちょっと寄って来たらいいじゃないの」って。そのうちに、毎日新聞に載ったんです、壊れたということが。いわゆる巡回特派員がいるでしょう、アフリカをまわっていた記者が聞きつけたんだ。そしたら万博担当の新聞記者が「どのように壊れているか」と連日おしかけた。エチオピアに中山君が「壊れてる写真を送れ」と言ったが、なかなか来ない。10日ほどしてやっと届いたら、ばーんと割れている。「えらいこっちゃ」「時間稼ぎ、何か手がないか」と。「ああ、簡単や。向こうはのんびりしてるから、航空便でなくて船便で送ったのとちがうかと言え」と。そうして一月ほど経ってから、倉敷の大原美術館で、ルオーやゴッホなどの絵画5点が盗まれるという大事件が起こった。そして新聞記者は皆そっちへ行ってしまった。
 この間、大阪府が病院へ貸していた家内の絵をなくした。そこで5人ほど文化部と病院の幹部が謝りに来た。そして記者発表するという。僕は「そんなに大げさにしなくても良い」って言うた。そして冗談で「何か大きな事件でも起こらんかねえ、そしたらこんなこと、とんでしまう」って(笑)。

池上:じゃあ万博の件はそんなに報道されなかったんですか、結局。

木村:そう。毎日新聞に出ただけで。そのうちに万博美術館も解散したから。もう誰もおらへん。皆、それぞれの美術館へ帰ってしまった。あんたこれ(『世界美術史』)読んだの?

池上:全部ではないんですけども。そちらのコラムは読みました。

木村:へえ、すごいね。これ、読むの大変。これは信濃毎日新聞に連載した。

富井:これは、どういういきさつで連載になったんですか。

木村:向こうに東京藝大出身の伊藤正大さんという編集委員がいてね。その人から話があった。初めは週1回で200回だった。

富井:それでも200回ですか。

木村:200回の予定で始まったが、150回頃かな、「好評やから50回増やせ」と。だから後が多いでしょう。19世紀、20世紀が。古代から順番にやってますからね。はじめから250回だったら、僕は古代が専門だから、古代をもっと入れたはずです。

富井:そうだったんですか。私は後ろの方を今日また拝見してたんですよ、おもしろいなあと思って。さすが木村先生はやっぱり現代美術強いなあと思って見てたんですけど。

池上:でも、そういう事情もあったと。

木村:(本をめくりながら)例えばこれは、原文はダリだったんです。当時、朝日新聞はダリ財団と裁判をしていた。それで変えてほしいと。

富井:それでエルンストですか。

木村:だから連載のときにはエルンストは入ってない。それから連載のときは、100回、150回、200回のときは別の文章を入れました。例えば100回はオルセー美術館の写真で、美術館のあり方みたいなことを書いた。だから朝日新聞本ではウズベキスタンのアフラシアブ壁画にかえています。また200回に、アメリカを入れた。《ミズーリ川を下る毛皮商人》。ジョージ=ケイレブ・ビンガム(George Caleb Bingham)の。

富井:ビンガムね。どうしてこれが入ってるのかなと思ったんです。

木村:ビンガムを、200回のところに入れた。

富井:ビンガムは、私あれ好きなペインティングなんですけどね、メトロポリタンにあって。

木村:原著にアメリカの近代絵画が入っていなかったでしょう。それでビンガムかウィンスロー・ホーマー(Winslow Homer)を入れようと思った。

富井:ホーマーも良いですよね。

木村:毎週どんどん書いていくので、後から修正できない、時代を戻れないんです。また東洋なら東洋で、ある程度まとめようと思った。だからして、そのへんがなかなか難しい。

富井:だから、構成がうまいなあと思って。うまいこと並んでいる。

木村:ちょっと無理したのもあるから、本にするときに、少し順番を変えたりしています。自慢はね、載ってる写真はほとんど僕の写真だということです。撮影者がほとんど僕だということ。ヨーロッパの絵画には美術館から借りたフィルムがかなりありますから、コピーライトが入っています。とにかく先史、古代、そしてアフリカ、オセアニア、アジアなどの民族美術は、ほとんど僕の写真。だからクレジットが書いてない。

富井・池上:ああ。

木村:これはコピーライトが入ってるでしょう。美術館の中は撮れないからね。しかしこれは野外彫刻だからすぐ撮れるでしょう。この辺の写真は全部僕です。

池上:そういう意味でも貴重ですね。

木村:(本をめくりながら)これは肥塚君の写真だ。

富井:ああ、バーミヤンの。

木村:このフィルムのこと、よく覚えています。「貸してくれ」って頼んだのに、「色が悪い」と文句を言い、「色が悪いからコピーライト要らんやろ」(笑)。

富井:いやあ、そんなん、よう言いはったわ(笑)。

木村:美術館以外の、こういう壁画や彫刻は自由に撮れるでしょう。教会の作品などは。

富井:そうですね。じゃあ最初200回だったのが250回になったということで。

木村:そうそう。

富井:わりと前の方から計画しているっていうよりは、だいたい流れにのって、選んでいかれたわけですか。

木村:この連載は毎週でしたから。国際美術館で書いたんです、資料を持って行って。中にはほめてもらったのもあります。陶磁器について、伊藤郁太郎君にほめられた。というのは、信濃毎日の記事はカラーの1ページ分でしたから、作品写真が大と小の2点入っていました。そこで、高麗磁器のとき、大阪市立東洋陶磁美術館の逸品のフィルムを借りました、小写真として。それで原稿を伊藤君にファックスで送った。すると「うわあ、こんなに書かれると専門家あがったりや」って(笑)。

富井:八木一夫のところもおもしろかったです。

木村:そのときの小写真は、後に彼が作った、1978年の《ザムザ氏の散歩》です。

富井:これはすごい本だなあと思いました、拝見して。250回分。でも実際のところ、講義で聞いたような気がすると思いました。《泉》は講義で聞いたかなと思いました(笑)。

木村:この本は信濃毎日新聞が出そうと思っていた、初めから。ところが販路が長野県の辺に限られるわけ。そうすると、本の単価が高くなる。それで「どこでもいいですよ」と言って信濃毎日にまかせたら、朝日新聞が出したいというわけでね。また、この本の担当者ほどすぐれた編集者はちょっといないと思いますね。朝日新聞出版局の美術編集長です。彼は、打ち合わせに来るのが、いつも休日なんです。

富井:大内さんっていう方ですか。

木村:そう、大内要三さん。休日に来たら、休みがつぶれるじゃない。社用ですから編集者は普通、出勤日に出張しますよ。それで聞いたらね、「休日だったら、ここでじっくり話ができるから」というわけ。えらいねえ。朝日の別の人から聞いたのですが、要三さんというのは、大内兵衛さん(注:高名なマルクス主義経済学者)のお孫さんらしい。

富井:「世界美術史」って言ったら、岡本太郎が『芸術新潮』に「私の美術史」っていうのを1970年に。

木村:書かれた。

富井:それはやっぱり意識とか、ご存じだった?

木村:知りません。それは肥塚君に「解説」を頼んだとき、聞きました。肥塚君が「解説」に書いています。

富井:読みました。拝見しました。

木村:岡本さんは、自分の好きな作品を選んでるだけ。それだったら、アンドレ・マルローだって『空想美術館』を書いている。また、大勢で分担執筆した『世界美術史』はありますよ、ヨーロッパに。しかしながら一人で書いた本はない。僕が「あとがき」をそのことをえらそうに書いてるわけ。

池上:万博のお仕事をされたときに、岡本太郎さんと直接のお付き合いはあったんですか。

木村:万博の時はないです。僕は美術館の仕事で、彼は太陽の塔ですからね。ただ2、3回テレビに出たことがある。

池上:ご一緒に。

木村:うん、展覧会の解説対談。ピカソ展とアフリカ黒人彫刻展とそれから…… だから知ってますよ。ただ岡本太郎は絵描きで、美術史の研究者ではないんだから、それで良いわけですよ。肥塚君はあの解説に、例えばインド関係だと、「私もやはりこれらの作品を選ぶだろう」と書いていますね。だから僕もそのつもりで、各時代、各地域の代表的作品を選んでいますよ。何も単なる主観で選んでるわけじゃないんだ。

富井:なるほど。じゃあ最後に何かあります? ところで先生、生まれ変わったら何になりたいですか。次もし生まれ変わったら、何をなさいますか。

木村:僕はやっぱり、大学の先生がいいね。

池上:もう、いいですか。

富井:もういやですか。

木村:大学の先生がよろしい。美術史家がいい。

富井:えっ、いいんですか。だって、さっき教育者じゃないって。

木村:こういう職業はないですよ。自由業でしょう。

池上:今は違うんですけどね(笑)。

木村:ええっ?

富井:今は違うって言ってますよ、先生。

木村:そうらしいね。僕の後輩の、阪大にいる人から年賀状が来るでしょう。現役の人も、最近定年になった人も。天野文雄君も今年定年になった。その年賀状に、「先生は良き時代に大学におられたんですよ」って書いてある(笑)。

池上:本当にそうですよ。

木村:そうですか。

富井:今日はありがとうございました。

池上、鈴木:ありがとうございました。