文字サイズ : < <  
 

小島信明オーラル・ヒストリー 2014年10月04日

東京都小平市のご自宅にて
インタヴュアー:池上裕子
書き起こし:大瀬友美
公開日:2015年11月01日

 
小島信明(こじま・のぶあき 1935年~)
美術家
福井県大野市出身。大阪市立工芸高等学校を卒業後に上京、1958年より読売アンデパンダン展に出品する。1962年のアンデパンダン展ではドラム缶の中に本人が一日中立っているというパフォーマンスで注目を集め、篠原有司男らとの交流が始まる。1964年に代表作《立像》を発表、来日中のジャスパー・ジョーンズに注目される。今回の聞き取りでは、1962年のパフォーマンスや《立像》について詳しい制作の経緯をうかがった。また、1960年代の活動と、批評家やアメリカの作家との交流について、1970年代の滞米経験についても語っていただいた。

池上:よろしくお願いいたします。1935年に福井県大野市にお生まれということですが、どのような子供時代をそこで送られましたか。

小島:そうですね、普通だけども。絵はうまかったんですね。

池上:子供の頃から。

小島:子供の頃から。ちょっと評判になって、「描いてほしい」とか。

池上:どういう絵を描かれていましたか。

小島:飛行機の絵とか。戦中ですからね、どの子供も、飛行機の絵を描いたりすると喜ぶわけですね、男の子は。

池上:飛行機って零戦ですとか?

小島:零戦ですよね。それから後にはB29か。

池上:飛んでくるからですか、それは。

小島:見たりして。それから新聞の写真とか。そういう記憶で描くようになったのね。そうしてるうちに、児童ポスターの依頼がありますね、学校に。「火の用心」とか「防災」、「交通安全」とか。「交通安全」はなかったかな、当時はまだ。「火の用心」ですね。それに選ばれるんです。みんなが推薦するわけ。「小島、小島」って。当然、僕の絵が選ばれて。それから写生大会があった。それで賞をもらうとか。そんな小学校から中学ですね。

池上:お父様はどういう仕事に就かれていましたか。

小島:瓦の職人でした。伯父は焼き物。瓦を焼いたりして。そういう家柄なんですね。だから僕は窯が好きでね。伯父のところへ行くと、ドーム型の窯があって、それで遊んだりして、非常に興味を持ったのは覚えてますね、子供の頃。

池上:お母様はそのお仕事を手伝われたり?

小島:いや、やらなかったですね。主婦です。

池上:いわゆる専業主婦でいらして。

小島:そうですね。

池上:絵がうまいと小さいころから言われていたということですけども、ご家族とかご親戚で、美術に関係あることをされてた方はいらっしゃいましたか。

小島:うーん、ないですね。伯父が焼き瓦を作ってる家柄で、彼は文学好きでね。室生犀星の同人誌に投稿したり、それから、本屋さんに売ってない中央公論の雑誌を取り寄せてもらったりしてましたね。

池上:伯父様もお父様も、焼き瓦のお仕事を。

小島:そうですね。

池上:大野市のあたりは、戦争中はどれくらい影響を受けた土地柄だったんでしょう。空襲もありましたか。

小島:ないです。田舎ですから。山奥だから。

池上:福井市のほうからは。

小島:福井市から電車で1時間くらい。だから小さな山だけど、その山を越すと大野盆地になるわけ。だから全然…… 産業は林業とか、そういうものですね。材木屋とか製材所。空襲は、福井がやられるときに山越しに明かりを見た、夜に。

池上:あっちが赤くなってるなぁ、と。

小島:赤ぁく。空をね。

池上:B29もご覧になって。

小島:飛行機が通る音は夜中でもワァーと。大野っていう場所は、福井から反対側の山を越えると、郡上八幡。岐阜県になります。

池上:じゃあ県境のあたり。

小島:県境の町。

池上:子供の頃は既に戦争中だったと思うんですが、美術に興味を持ち始めるきっかけはありましたか。展覧会をご覧になったとか、そういうような。

小島:中学のときの先生の影響があるかもしれないですね。美術の先生が、福井のほうに名画展が来ると教えてくれて、それを見に行ったことがある。その影響は大きいんじゃないかと思うんです。

池上:中学校も大野市のほうで行かれますが、文化的なものというか、美術に触れようと思ったら福井市のほうに。

小島:そうですね。大野には来ませんからね。

池上:美術部でいらしたんですか。

小島:美術部ができたんです。部長なんです、一応(笑)。

池上:初代(笑)。

小島:初代(笑)。

池上:先生がやっぱり、「この子は絵がうまい」ってことで目にかけてくださって。

小島:ずいぶん、ええ。本を貸してくれてたりね。その頃、ピカソやマチスって名前を既に覚えてた。

池上:じゃあ結構、モダン・アートに興味のある美術の先生だったんですね。

小島:あの先生はそういう人でしたね。

池上:大野の中学を出て、大阪市立工芸高等学校というところに進まれているんですが。

小島:大野高校(福井県立大野高等学校)に入って……

池上:あ、大野高校にまず入られるんですね。

小島:入って、それで、転校という形で大阪に行くんです。1年。

池上:それは何かきっかけといいますか。

小島:やっぱり絵をやりたいと思ったんですね。

池上:でも、いきなり一人で大阪に行くっていうのは結構勇気が…… 当時17歳?

小島:16歳。

池上:16歳。結構、勇気もいりますし、大変なことじゃないですか。

小島:そういうきっかけが大きいんじゃないかな、工芸に行ったのは。

池上:ご両親も「やりたいことだったら」と言ってくださった?

小島:やっぱりその時は伯父が後押しをしてくれた。

池上:「やりたいって言ってるんだから、やらしてあげなよ」と。

小島:そう。「信明にはそういうことをやらしてやれ」というような助言があったみたいですね。

池上:その時にこの大阪の高校を選ばれたっていうのは?

小島:自分でいろいろ調べたんですけどね。東京のほうも調べたんだけど、高校を卒業してないとだめだから。

池上:そうですね、美大に行ったりするのもね。

小島:大阪市立工芸高等学校は美術部があって、一応、美術の学校みたいだった。

池上:美術科っていうのがあるんですよね。

小島:うん。

池上:福井と大阪だと、そんなに遠くないから、そういうことも。

小島:うん。遠くはないしね。

池上:戦争の体験について、もう少し。大野市では空襲はなかったということだったんですけど、戦時中の思い出といいますか、印象に残っていることってありますか。

小島:進駐軍が来たときはね、大野にも来たんですよ。

池上:戦争が終わって、結構すぐに進駐軍が来た感じですか。

小島:ええ、山のほうにちょっと駐屯したみたいですね。それでチューインガムをもらったっていう。「ギブミー、チョコレート」じゃないけど、そういうようなのもくれました。トラックの上から、みんなに。

池上:バァーッと、みんなに配ってくれて。

小島:それからジープ。大野でも第一級の高級旅館に上官が泊まってるとか。そこにしょっちゅうジープだとか来て。

池上:戦争中だとアメリカは敵国で、「鬼畜米兵」みたいに言われていたわけですが、戦争が終わって進駐軍が来たとき、今までのイメージと違うなってことはありましたか。

小島:そうね、違うんでしょうね。やっぱり非常に子供にはフレンドリーな気がしました。ジープを見せてくれたり、友好的でしたね。だから子供はすぐ馴染んでしまう。

池上:アメリカの雑誌や映画ですとか、そういうものもどんどん入ってきましたか。

小島:覚えているのは「ターザン」の映画ですね。

池上:大野にも映画館が当然、あって。

小島:ええ、そこに洋画が来て。「ターザン」の映画。それが一番期待してた。来るときには行ったし。

池上:子供たちみんなワーッと見に行く感じですか。

小島:見に行く感じですね。「ターザン」が一番覚えてる。

池上:アメリカの漫画ですとか、アメコミみたいなものも入ってきましたか。

小島:アメコミはあんまり見てないね。

池上:大阪のほうに進学されて、美術科ではどういうことを授業で学ばれたんですか。デッサンとか、そういう勉強ですか。

小島:デッサンですね。石膏デッサンから、学年が上がると人体のデッサン。クロッキーとか。

池上:美術科の学生さんたちは、みんな美大を目指してここに来る。

小島:そうですね。

池上:お友達もできましたか。みなさん大阪というか、関西の人たちですよね。

小島:ほとんど大阪。僕はもう田舎者っていう感じですよね、当時。

池上:大阪に馴染むのに時間がかかったりはしましたか。

小島:うーん、少しあったかなぁと思うけれども。まぁ、そんなには苦労しなかった。

池上:そこを卒業されて、1955年に東京に行かれる。

小島:藝大を受けたの。

池上:東京藝大(東京藝術大学)?

小島:うん。滑って、1回で(諦めた)。じゃあ東京に出ようと。

池上:だめだったんだけど、とりあえず出ちゃえと。

小島:うん、出ちゃえと。大阪は美術の環境が、東京のようではないから。じゃあ東京だなぁ、と。だからその年に、卒業すると同時に東京に出ちゃう。

池上:東京で予備校みたいなものに行かれるとか。

小島:いや、行かないです。1回で、わりあいあっさり諦めた。浪人はしなかった。

池上:じゃあ、「もう美大行くのはやめだ」っていうふうに決められて。

小島:うん、美術は自分でやろう、と。

池上:じゃあ、どうやって生活を立てるのか、ってことにならないですか。

小島:いろんなアルバイトをやりました。

池上:就職というか、会社に入ったりは。

小島:デザイン会社に入ったんですね。会社っていっても、町の小さなところで。宮崎進っていう画家がいるんですけど、その人がやってた「ミヤザキデザイン」っていうところに入った。

池上:どこにあった会社ですか。

小島:神楽坂です。

池上:どういうタイプのデザインをされてたんですか。

小島:印刷の下書きで、カットを描いたり、構成やレイアウトをしたり。

池上:割り付けですとか。じゃあやっぱり出版関係のデザインっていうことですね。

小島:そうです。

池上:そこにずっとお勤めだったんですか。

小島:だいぶいましたね。

池上:どれくらいまで。

小島:2年くらい。

池上:その後は。

小島:あとはいろいろやって。ガラスの鏡の絵を描いたり。分かります? 鏡の絵っていうのはね、裏から色を付けるんですよ。鏡に装飾性を付けるっていうのか、周りに。

池上:鏡みたいに反射するタイプのガラスっていうことですか。

小島:ええ。

池上:ショーウィンドウとか、装飾用の。

小島:そうですね、飾りね。

池上:装飾用の。それに絵を描いて。

小島:エナメルで描くとか。

池上:ちょっと看板屋さん的なお仕事ですね。

小島:そうです。そんなもん。

池上:そういうお仕事をされながら、自分の美術を模索してらした。

小島・:ええ。模索してるうちにアンデパンダンのことを知るわけですよ。

池上:読売アンデパンダンのことを知ったきっかけはあるんでしょうか。「上野でこんなのやってるらしいよ」っていう。

小島:見に行ったのかな。無鑑査というのが魅力で。

池上;そうですよね、みなさんおっしゃいますよね。

小島:だからみんな、こぞって出すわけですよね。

池上:審査もなく、何でも出せる。

小島:とにかく敷居が低いわけだ。展示されるから。

池上:1958年(第10回展)に初めて出品されるわけですけども、最初にアンパンを見に行ったのは、その前の年ですか。

小島:前年に行ってる。

池上:印象に残っている作品なんかはありましたか。

小島:それは、あまりないんですけどね。

池上:これっていうのではなくて、誰が何を出しても展示してくれるんだっていうのが。

小島:展示されるんだ、という。

池上:その次の年に初めて出品されるわけですけども、作品はどういったものを出されましたか。

小島:平面的な作品。

池上:いわゆる絵画のような。

小島:絵画ですね。

池上:何かモチーフがあったんでしょうか。具象的なものですか?

小島:それは非常に具象的。シュルレアリスムの影響を、雑誌かなんかで受けて。

池上:その頃アンフォルメルみたいな、アクション・ペインティングっぽいものも流行ってましたけど。

小島:それは、やらない。見に行ったりはしたけどね。

池上:ご存知ではいた?

小島:ええ、もちろん。白木屋かな? 日本橋の。

池上:ジョルジュ・マチウ(Georges Mathieu)が。

小島:マチウがやったのを見に行った。

池上:ご覧になりましたか。どういう印象でしたか。

小島:外人の嫌なやつだなぁ、と思ってね。

池上:嫌な奴っていうのは、どういうところが(笑)。

小島:浴衣着てね、やるんですよ。ショウマンなんですよね。そういうところは、「あぁ、やっぱり外国のやつってこういうことするんだ」って。

池上:ちょっとわざとらしい演出というか、そういう印象ですか。

小島:そうそう。たすき掛けて。

池上:写真がばっちり残ってますよね。

小島:だから、誰でしたっけ。フランスへ行った、日本の……

池上:今井俊満さん。彼がアシスタントをされたみたいですね、そのとき。

小島:うん。彼も羽織袴で、展覧会を、ショーをやったり。まぁ、同じようなことやるんだなぁ、と思って。

池上:ちょっと弟子みたいな感じですかね(笑)。

小島:ねぇ。なんだか。

池上:ちょっとそういう演出っぽいのは嫌だな、という。

小島:まぁ、あのようなのは手っ取り早いのかな、と思って。

池上:注目を浴びたりするには。

小島:やっぱり興味をみんな持って。

池上:でも自分はちょっと違うな、と。

小島:いやぁ、そんなのはできないタイプなんだ。批判的だったの。

池上:読売アンパンに出品されているうちに、篠原有司男さんですとか……

小島:ドラム缶の中に立った時に、彼らは暇だから遊びに来るんですよ。自分も出品してるしね。みんなそうなんですよ、そこで知り合うんです。

池上:1958年に初めて出されて、1959、1960、1961年とずっと出されてると思うんですけど、ドラム缶の中に立つパフォーマンス、1962年のとき(第14回展)に、初めて篠原さんたちと知り合った。

小島:ええ。

池上:やっぱりこのパフォーマンスが目立ってたということなんでしょうね。

小島:目立ってたんでしょうね。だって人間がいるんだからね。

池上:それまではずっと平面の作品を出されてたんですか。

小島:そうですね、平面。その前の年は、いろんな日用品をくっつけたりして。

池上:その頃の作品は残ってないですか。

小島:もう消滅してる。自然のどっか。

池上:アッサンブラージュ的な感じの作品ですか。

小島:板を貼った上に、消防用のホースがあるんですね。こんな太さのね。消防車の、水を吸い上げるための短いホースが。それをこうくっつけたりして、布をバンと貼って。絵具を振りかけて。≪標本≫(1961年)という題名で出品した。

池上:ちょっと昆虫っぽいような雰囲気?

小島:うん。100号くらいの大きさなんですけどね。

池上:既製品を使うですとか、そういうインスピレーションは、どういうところから?

小島:そうですね…… 絵具で表現するというのが、何かもう既に…… 違うことやりたいなぁっていう。シュールやってたのもすぐに卒業してるんだよね。

池上:それは通過点という感じで。

小島:ええ。

池上:1960年、61年あたりって、他の作家さんたちも、もう、そういう既製品を使ってどんどん、三次元的な作品を作ってましたよね。反芸術という。

小島:そういうのありましたね、既にね。まだ、みんな知り合いになってないんだけれど。何か造形的なものを出してる作家もいたみたいですね。

池上:1960年に、例えば篠原さんなんかはネオダダっていうグループで、短期間ですけど活動してらして。そのネオダダのことはご存知でしたか。

小島:そうですね。何か銀座でやったりしてたのを見たから、そのとき、彼ら過激なんだなぁって。

池上:その時は直接の知り合いではなくて、ちょっと遠巻きに見ていた感じですか。

小島:そうですね、そうそう。

池上:かなり過激なことをしてたみたいです。

小島:パフォーマンスをやってたんだよね、当時。

池上:そういうグループにこちらから近づいていこうとか、そういう風にはまだ思われなかった?

小島:その時は思わなかった。アンデパンダンで、その後、篠原とか、ネオダダの豊島壮六とかと知り合って、毎日彼らが遊びに来て。

池上:暇だったんですね(笑)。みんなまだお若いし。

小島:篠原はもう、竹を編んだ作品にアクション・ペインティングで、布をぶっかけて、「ほら、これでできた!」って。こういう感じなんですね(笑)。それでやっぱり、遊びに来るんですよ、みんなね。

池上:みんなうろうろしてるってことですね。

小島:そうそう。

池上:1962年に初めてパフォーマンスをされるんですけども、この着想というか、いきなりこれになったっていうのは?

小島:何かね、「やってやろう」という思いが出てきた。前の年なんかに既にネオダダの連中がいたわけですから。彼らを見てると、彼らはアンデパンダンの会場でのさばってるんですよ。

池上:何か滅茶苦茶やってるんですよね(笑)。

小島:うん、仲間だから、みんな。それは作品のパフォーマンスじゃなくて、遊んでるわけですよ、見ると。彼らがキャッチボールをやってたんですね、美術館のなかで。革ジャン着たのとか、そういうのがいて。こいつら、自分の美術館みたいに思ってるんだな。

池上:グループでいるからちょっと気が大きくなるというか。

小島:そういうのが大きかったみたい。で、「よし、何かやってやろう」と。成功するには。

池上:「何か好きなことをやっちゃってるから、自分も何かやろう」と。

小島:そういう思いはあった。

池上:そうやってグループでやってる人たちに比べて、「一人でやるぞ」っていうのは勇気がいりますよね。

小島:うん、そうね。本当にどうするかなって。

池上:どういう思考を経て、「じゃあドラム缶だ」となったんですか。それで赤白の横断幕を張ろうって思いつかれたきっかけみたいなことは。

小島:やっぱり、舞台みたいなのがないと。ただ立ってるわけにはいかないので。

池上:そうですね(笑)。

小島:で、思い立ったのが舞台装置みたいなものですね。僕にとって、あれは。台まであるわけだから、このくらいのね。台の上に全部揃うわけです。

池上:その台もご自分で作って?

小島:いや、それは専用の台があったの、もう。

池上:それを運び込んで。

小島:運び込んで、その上にドラム缶と自分自身。それからポールを立てて、ポールに白黒の布をバックに張って、それから赤い布を上のほうから垂らすようにしました。

池上:最初は白黒の布だったんですか。

小島:いや、両方。

池上:両方? ちょっと待ってくださいね。写真が確かこちらに残ってるんですが。例えばこういう感じで……(注:『福井の美術・現代 vol.1 小島信明』展図録、福井県立美術館、1990年、4−5頁)

小島:この手前の布は白黒の幕なんですよ、たぶん。これ、黒だと思うんだけどねぇ。

池上:色を見ると、こっちとちょっと色調が違いますね。

小島:違うでしょ。これが白黒の布。

池上:じゃあ白、黒、白、赤ですか。

小島:そうですね。

池上:じゃあ布を2つ使ってらっしゃるんだ。
                                                         
小島:ええ、2種類。

池上:それは言われるまで気づかなかった。手前の布は、確かに黒っぽいですよね。

小島:で、これが台なんです。(上記の図録、6−7頁の写真を見せながら)

池上:台の横側にも布が…… これは白、赤、白ですよね。

小島:赤。ええ。

池上:旗みたいなものが垂れ下がって。

小島:そう、天幕。

池上:そうですか。ずっと≪立像≫のイメージが強くて、布は全部、白、赤、白、赤なんだと思ってました。この2種類を使おうと思ったのは?

小島:舞台装置の特徴は、白黒のほうがいいんじゃないかなぁ、と。

池上:で、どっちも使おうと。

小島:ええ。

池上:手前の布が白と黒で。この部分しか白黒の部分は見えてないんですね。

小島:それだけ。ここから下までね。

池上:白と赤の布は横縞で、ボーダーみたいになっている。

小島:そうそう、そうなってる。これが横の幕なんですよね。わりあい多いのは縦縞でT字型になった幕だよね。ところがこれは赤、白、赤、白の幕なの。卒業式で使うような。

池上:横縞なんですよね。

小島:横縞。

池上:≪立像≫に発展すると、もうアメリカの旗っていうイメージで受け取られていくことも多いんですけど、この時点では違うんですよね。

小島:違うんですね、全然。

池上:式典とか、おめでたいときに使う紅白の横断幕を。

小島:ちょうどあったから使った。

池上:これ、どちらで見つけたんですか。

小島:これは小学校の中で見つけた。それをもらって、持ってきたのね。

池上:じゃあ、これ本当に実際の横断幕なんですね。自分で作られたわけではなくて。

小島:そうですね。

池上:私、こういう横縞の横断幕ってあまり見たことがなかったので。

小島:あまり見ないのかもしれないね。

池上:私の記憶では全部、こういう縦縞の横断幕で。

小島:そうです。縦縞が一番多いんじゃないですかね、祝い事では。

池上:ですよね。でも横のもあるんですね。こちらの白黒のほうは、これは?

小島:これも一緒にあったんですね、まとめて。これ、映画のスクリーンだと思うんです。

池上:あ、そういうことなんですか。暗幕みたいな。

小島:そうです。

池上:それを白い布とくっつけられたんですか。

小島:周りにこう、帯なんでしょうね、たぶん。映画のスクリーン。

池上:それも、小学校の講堂なんかでそういうもの見せるときに……

小島:使われていた。

池上:そうか、この白いところに、映画なら映画を映して、この黒いところが暗幕というか、スクリーン以外の部分。

小島:ええ。

池上:そういうことなんですね。おもしろいですね。白と黒だから、今度はお葬式用のあれかな、と思ったんですけど、小学校にはたぶん、お葬式用のそういうのはなさそうだと思ったりして(笑)。

小島:ないね(笑)。映画ね。

池上:そういうことなんですね。詳しく聞いてみるものですね、なんでも。≪立像≫に発展すると、みなさん星条旗のイメージでこれを見るんですけど、もともとはすごく日本的な、紅白の横断幕から来てるってところがとてもおもしろい。じゃあこれ、確かに目立ちますね。ドラム缶だけじゃなくて、そういう書き割りみたいなものもあって。

小島:舞台装置みたいなね。大きいですからね、面積から言ったら。

池上:その時の美術館が何時から何時までオープンだったか分からないんですけど、ずーっと立っておられたんですか。

小島:そう。朝10時から、5時まで。

池上:今と変わらないですね。

小島:同じでしたね。もちろん、食事もトイレも行きますよね。お昼は食事。

池上:それ以外は基本的に立っておられた。

小島:そのときに「不在」という札を置いて。

池上:おかしいですね(笑)。ドラム缶に。

小島:ここの椅子にあるんですよ。この上に「不在」って札を置いて。(上記図録6−7頁の写真を見せながら)

池上:あぁ、本当ですね。で、この椅子にちょっとよじ登って、ドラム缶に入るっていう。

小島:ところがこれ、加工したんです。作ったんですよね。

池上:ドラム缶を。

小島:3分の1までいかないけど、このくらいまで。2つに分かれてる。上の部分を取って
またいで入って、それでまたカポッとはめる。

池上:カポッと。確かにそうじゃないと入りづらいですね。

小島:こんな筒ですからね。

池上:この時の会期ってどれくらいありました?

小島:15日。

池上:15日間、毎日それをされたわけですか。

小島:うん、毎日だと思う。

池上:へぇー、それは目立ちますね。

小島:毎日いるんだからね。

池上:それで、「何か変なことやってるやつがいるぞ」みたいな感じで、篠原さんとか。

小島:「えー?」って言って見に来ると。そういう形で。

池上:そのパフォーマンスっていうのは、話しかけられたら答えてもいいんですか。

小島:うん。そういうつもりでやってたんですけどね。

池上:別にずっと黙ってるわけではなくて。

小島:うん、完全無視じゃなくて。

池上:で、篠原さんに声を掛けられたわけですか。

小島:そうですね。

池上:何て言ってきたんですか、ギュウチャン。

小島:何て言ってたんだっけ、最初。「おう、今日もいるのか?」とか言ってきた感じがあるんだよね。

池上:毎日いるから、やっぱりしゃべるようになって。

小島:うん、しゃべる。これで会期中に彼らと仲良くなって、帰りに飲みに行くとか。帰り、上野の山を下りて、山手線に乗りますよね。で、「新宿で飲みに行こう」って焼き鳥屋に行くと。そういう感じが多かったよね。

池上:おもしろいですね。彼らは藝大で知り合っていたり、ムサビ(武蔵野美術大学)とか多摩美(多摩美術大学)の人たちと。

小島:赤瀬川(原平)なんかムサビだからね。

池上:そうですよね。徒党を組んでたわけではないかもしれないですけど、仲良くしてらっしゃるグループの中に突然というか……

小島:僕が入ってくっていう感じですね。

池上:当時仲良くしていたグループの中では、ちょっと毛色が違うというか。

小島:ちょっと違う。そこにもう一人かんでくるのは、「音楽グループ」っていう……

池上:「グループ・音楽」ですね。

小島:そう、グループ・音楽。刀根康尚とか、小杉武久。その連中と知り合うんですよ。刀根はその時に「こういうのがあるぞ」って外国の雑誌を持ってきたんだね。アート雑誌。だけどそれは実際の人体じゃなくて、石膏で作った像が自転車にまたがろうとしているやつなんですね。(ジャスパー・)ジョーンズ(Jasper Johns)じゃなかった。ジョージ・シーガル(George Segal)かな?

池上:ジョージ・シーガルですかね。

小島:刀根がその雑誌を持ってきた記憶があるんです。

池上:それが1962年、63年?

小島:2年か3年。2年ですね、たぶん。

池上:ちょうどポップの作家たちがアメリカで活動し始める時ですね。

小島:で、それが雑誌で紹介されてると。

池上:「こんなのもありか!」っていうことで衝撃を受けられる?

小島:うん。

池上:それは結局、シーガルの作品だったんでしょうか。

小島:いや、分かんない。

池上:でも、石膏の人体ですから、シーガル以外にはなさそうですね。

小島:そうね。たぶん初期の作品だね。それでネオダダの(吉村益信の)ホワイトハウスに行ったり、(ウィリアム・)リーバーマン(William Lieberman)と会ったり。だから音楽の連中との交流は密だったかもしれないですね、僕は。

池上:グループ・音楽の人たちとも、かなり仲良かった?

小島:うん。刀根と小杉。もちろん武田(明倫)とかもいましたけどね。一緒にみんな付き合って。それで「ホワイトハウスの、ネオダダのあれ行こう」って。だからオノ・ヨーコの家に、南平台の実家に行ったのは、彼らと行った。

池上:南平台? どちらにある?

小島:渋谷なんだ。

池上:そうですか。それで、音楽関係の方ともお付き合いがあったということで、オノ・ヨーコさんの作品発表会にも出演された。

小島:それはオノさんと知り合いにもなるし、という感じでしたね。

池上:その出演された発表会っていうのは、どういう作品に出演されたんですか。ずっと出ずっぱりではなくて?

小島:じゃなくて。プログラムがあって、いくつかやるうちの何個に出てくれ、という。草月会館でやったやつ。

池上:他にも一緒に舞台に上がった方たちはいらしたんですか。

小島:うん、秋山邦晴とか、東野芳明だとか、大岡信。

池上:じゃあいろんな方を使って。

小島:うん。音楽の連中もそうだし、観客も、ものすごい見えましたよ、何人も。

池上:オノ・ヨーコさんの印象といいますか、彼女はやっぱりすごく目立っていたと思うんですけど。

小島:目立つねぇ。個性的だしね。ああいう性格なんでしょうね、やっぱりね(笑)。

池上:小島さんが出たパートっていうのは、具体的にはどういう?

小島:オノさんが舞台に座っているところを、みんながはさみで布を切っていくんですね。

池上:≪カット・ピース≫という作品ですか。あちらは1964年に草月会館でやったと思うんですけども。

小島:そうでしょうね、1964年くらい。

池上:では、1962年にオノさんの発表会に出られたと年譜では出ていたんが、そのときは≪カット・ピース≫じゃない作品ですか?

小島:うーん、年譜にはそう出てましたっけ?

池上:ちょっと後で確認してみます。1962年のときは≪カット・ピース≫は入ってなかったみたいなんですけども。

小島:そうでしょうね、たぶん。

池上:1964年に初めてやった作品なので。

小島:だから1962年から3年、4年と、結構いろいろなところに顔を出すようになるんですね。

池上:また、草月でいろんなことが起きてますよね。

小島:あの頃は草月は多かったね、催しが。

池上:(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)のことについてはまた後でお聞きするんですけども、それ以外で、たとえばジョン・ケージ(John Cage)が来たりとか、オノさんも来たりとか、草月でいろんなものを見に行かれましたか。

小島:行きましたね。興味持って。

池上:何が印象に残ってますか。

小島:やっぱりジョン・ケージの、東京会館の演奏会でしょうかね。

池上:あれも1962年ですね。デイヴィッド・チューダー(David Tudor)と一緒に来て。

小島:読売アンパンの頃ですよね、ちょうど。

池上:そうですか。読売アンパンっていうのはわりと早めですよね。

小島:3月。

池上:ジョン・ケージが来たのは10月ですから、その後ですね。ではこのドラム缶のパフォーマンスは、やはりお一人で。

小島:まだ非常にうぶだったからね、僕自身(笑)。友達もいないし。自分一人でやろうと。

池上:でも相当、勇気いりますよね。

小島:いる。だから考えますよ、いろいろ。前の年から、今度これやる年まで1年間、どういうジャンルで、どういう形でやるのか、と。

池上:その頃、誰かに相談する相手とかはいなかった?

小島:いない。

池上:美術関係のお友達は全くいらっしゃらない?

小島:いない。これが。

池上:1958年から毎年出品されていますけど……

小島:自分で勝手に。

池上:かなり孤独にやられてたわけですか。

小島:それで、ああいうグループがいるんだなってことを見たんでしょうね、やっぱり。

池上:でも、絶対これをやっていきたいんだっていう意志が、すごく強かったっていうことでもありますよね。

小島:かもしれないね。

池上:このパフォーマンスについては、批評家からの反応って何かありましたか。

小島:そのときは別になかったですね。そのとき、『藝術新潮』に宗左近さんっていう詩人の方がいた。その人が取り上げてくれたんですよね。アンデパンダンの印象の中の一つで、僕の作品が取り上げられた(注:宗左近「ガラクタ・オブジェ〈アンデパンダン展の反芸術〉」『芸術新潮』、1962年4月、70頁)。

池上:それはアンパンが終わってから出た、「今年のアンパン評」みたいな。

小島:うん、寸評っていうのか。

池上:じゃあ同じ1962年の例えば……

小島:4月、5月。

池上:こういうものが印象に残ったっていうので、『藝術新潮』で挙げてくださった。

小島:そうですね。おもしろいのが、「美少年が」って書いてあったのが印象的(笑)。

池上:素敵でいらっしゃるという(笑)。

小島:いやいや(笑)。

池上:それはやっぱり「美少年」っていうところだけでなく、取り上げられたっていうことは、すごく嬉しいことでしたか。

小島:そうですね。初めてだからね。

池上:それまでの平面とか、アッサンブラージュ的な作品っていうのは……

小島:無視。アンデパンダンそのものを取り上げようという評論家がいなかった。

池上:確かに。1960年頃からは特に、若手が無茶苦茶やってるみたいなイメージが強かったわけですよね。

小島:宗左近さんの友達で、アンフォルメルの小野忠弘がいるんですよね。だからその辺の、影響もあるんですかね、宗さんの興味の持ち方がね。(注:小野忠弘は廃材を利用したジャンク・アートでも知られた。)

池上:でも嬉しいですよね。そうやって覚悟を決めてバンッとやったことが、ちゃんと注目されたっていう。

小島:そうですね、初めてです。目に留まったんだな、と。まぁ、やってよかったかな、という思いでしょうね。まだ若いから。

池上:それで、シーガルの石膏像を雑誌で見たっていうきっかけもあって。この1962年がパフォーマンスで。最初に立像という形で発表されるのが1964年ですよね。2年くらい空いてるわけなんですけども、その2年の間に、じゃあこういうふうに立像に発展させていこうっていうふうに、徐々に展開したんでしょうか。

小島:そうですね。立像をなんとかするには、生身の人間なんで、これは無理だと。じゃあ立像化するにはこういう形がいいのかな、という。

池上:ご自分がドラム缶の中でずっと立っていたっていうこととも、やっぱりちょっと……

小島:関連性はあるでしょうね。

池上:関係してくる。

小島:それで布も被って。パフォーマンスでは周りに垂らしたのを、今度は被るような形で。これを固めなきゃいけないという思いになったのはあるんだよね。布で固めると。

池上:繋がっているようで、作品にするには結構な飛躍も必要といいますか。

小島:でしょうね、はい。

池上:どういうふうに生身の人間がドラム缶に立って、横断幕があるっていうところから、布を被っている男性の立像っていうところに? 2年あるので、そんなにスッとそこに行ったというわけじゃないということでしょうか。試行錯誤の段階ってあったのでしょうか。

小島:このパフォーマンスの影響っていうのは大きいんですね。こういうパフォーマンスやって、こういう風に舞台化しようという。だから自分自身みたいな感じでもあるんだね。意識的には作らないですけどね、こういう形は。だけど人が見ると、「小島に似てる」とか。

池上:そうですか。言われますか。

小島:言いますね、みんなね。

池上:おもしろいですね。シーガルなんかは実際に型取りをしてますけども。

小島:そうですね。

池上:小島さんは、型取りは難しいだろうと。

小島:全然、それはない。

池上:じゃあ実際これは、どういうふうに? 

小島:木を組んで。中に芯がある。木がある。

池上:木型みたいなものが入ってる。

小島:こういう腕と、脚と。2本広がって。

池上:中に支柱が入ってるわけですね。

小島:そうですね。それで、その周りに金網とかを使って、ボディを作っていく。

池上:それで、その周りに……

小島:石膏をくっつけていって。それでエナメルで塗装すると。

池上:はい。全体的につるつる、てらてらしてると思うんですけど。

小島:エナメルにはこういう艶があるんです。白でも青でも。

池上:旗の方は?

小島:これはポリエステル樹脂で固める。それを上からまた、さらに何回か塗ると、水あめのようになった。

池上:じゃあボディのほうと、旗のほうは、作り方が違う。

小島:違うんです、はい。

池上:ボディのほうにはポリエステル樹脂は使われてない?

小島:全然。後で塗るようになるけど、この頃は塗ってないよね。

池上:立像になってからの赤白の横縞の布っていうのは、今度はご自分で作られて。

小島:今度は作るんです。これ全部作るんですよね。

池上:布を買ってくるとかではなくて。

小島:じゃなくて。売ってないですよね。

池上:これは赤と白の布を継ぎ合わせていく?

小島:うん。最初は糊付けをしていって。赤と白のね。で、13本のストライプの布を作って、それでこういうふうに被るような大きさにして。

池上:じゃあ13本っていうことはやっぱり……

小島:アメリカだったですね。

池上:最初は横断幕ですけど、この時点ではやっぱりアメリカの旗も意識はされてたわけですね。

小島:ええ、あれは認知があるというのがね。

池上:誰でもピンとくる。

小島:うん、くるだろう。それと、東京オリンピック……

池上:1964年ですよね、ちょうど同じ年。

小島:見ると、ボーイスカウトの連中がアメリカの旗のポールに殺到するんだよね。星条旗をやろうという、掲揚するんでも。他の国の旗ってあまり知らないんですよ。アメリカの旗が一番人気がある。

池上:占領されてたときにたくさん見てますからね。

小島:平気なのね。

池上:ボーイスカウトもアメリカから輸入された文化ですからね。

小島:物資が来てね。文化もそうだし。それを見て、あ、これも一つだな、と思ったのはある。

池上:紅白の横断幕が星条旗に……

小島:変化していくの。こういうデザイン化された旗のおもしろさっていうか。

池上:おもしろいですね。「旗」っていうと、やっぱりジョーンズの作品が有名ですけど、ジョーンズの《旗》(1954–­55年)のことはご存知でした?

小島:その後に知るんですね。アメリカ展が来て(注:「現代アメリカ絵画」展、国立近代美術館、1966年10月15日~11月27日)。

池上:あぁ、1966年に。

小島:ええ。その前にすでに、雑誌では見たと思うんだけどね。

池上:それに、小島さんが椿近代画廊でされた個展(1964年)にジョーンズ本人も来ているので、《旗》で有名な作家だっていうのは、例えば東野さんから聞いたりとか。

小島:ええ、それはもう知ってましたね。

池上:でもジョーンズとはまた全然違う形で、旗っていうモチーフを使われて。

小島:ジョーンズにしてみれば、興味があったんでしょうね。関心はすごく持って。もういろいろ作品を見て回って。「どっからこういう発想がきたんだ」って。

池上:ジョーンズにそう聞かれました? なんとお答えになったんですか。

小島:「これはアメリカの旗という、一つのデザイン化されたものを、自分は利用したんだ」と。「だから、アメリカの旗じゃないと否定はしない。でもアメリカの旗そのものではないんだ」と。星がないんだから。

池上:そうですよね。そのものズバリではない。

小島:うん、単なる布なんだ。

池上:でも連想自体は否定しないと。

小島:うん、そう。

池上:これは上から被せる形になっていますけど、被せてから固めるんじゃなくて……

小島:大体、最初に塗って。ゼリー状になって、少ししんなりした状態で被せると。

池上:ポリエステル樹脂を上から……

小島:あまり最初にやるとみんな流れるから、ドロドロと。だからある程度ゲル状になったら被せる。

池上:樹脂を染み込ませていくと、布自体がゲル状になる?

小島:全体に、しんなりしてくるので、形をつけやすくなる。

池上:じゃあ、そのゲル状になったものを被せて、そこから自分の好きなように形をちょっと整える。

小島:整えるというよりも、放置する。

池上:あぁ、そういうことなんですね。

小島:すると垂れ下がった状態で。

池上:じゃあ重力の作用もかなり反映されている。

小島:あるわけですね、重みもあるし。

池上:おもしろいですね。私が調査で伺ったニュージャージーの青野栄子さんのお宅にある《立像》ですけど、「この旗は取り外せるらしいのよ」って青野さんがおっしゃったんです。(注:小島が滞米中に作った《立像》の一体を、友人宅に預けていたもの。2015年にウォーカー・アート・センターで開催された「インターナショナル・ポップ(International Pop)」展に出品された。)

小島:あれはたまたま外れた。

池上:本当だったら、べったりとくっついちゃうはずですよね。

小島:みんなくっついちゃうんです。腕にも、肩にも。

池上:ですよね。じゃあ、たまたま何かのタイミングで外れて。

小島:そう、ガバッと外れたもんですから。まぁ、いいだろう、と。

池上:外してもいいし、取り付けられるようにもなると。おもしろいですね。外したところは、今回は拝見しませんでした。ちょっと戻すのが大変そうというか、怖かったので。

小島:こうやれば、ガバッと外せる。

池上:そうですか。ちょっと怖かったのでそのまま拝見したんですけど。取ると、顔の部分はどうなってるんですか。

小島:ある程度、大まかに顔ができてる。全体がそのように、大まかで。腕も。こぶしのようになってるけど、指はあまり細かくは、リアルにはやってない。

池上:じゃあ別に目鼻口とか、指が一本一本あるとかいう感じではなくて。

小島:そういうことは一切ない。

池上:被せるっていうのが前提ですもんね。

小島:そうですね。「これはどうなってるんだろう」って中を覗きますよね。

池上:そうですよね。

小島:みんなやっぱり興味あって。

池上:最初にこういう形で作られたときはやっぱり、「やりたいものができたな」っていうような手応えがありましたか。

小島:自分なりにはあった。こういう布をグッと抱えてる、支えてるっていう…… ただ被ってぞろっとやるんではなくて、何かがこう、支えているようなね。

池上:何バージョンかあるんですけど、こういうふうにネクタイをしているような男性像だったり、ネクタイがなかったり。

小島:1本。最初だけ。

池上:そうですか。それは日本のサラリーマンという……

小島:日本の社会的なイメージ。サラリーマンのね。すごいあくせくして、満員電車で。ああいうサラリーマンのすごさっていうのか、憐れさっていうのか、そういうのを象徴的に、ネクタイを1本描いた。だから社会的な象徴は、この頃はちょっとあったんですね。

池上:それは戦後の日本におけるアメリカの存在というか……

小島:アメリカの存在というよりは、日本の経済発展が加速化していく、そういう象徴的なものを、ということでしょうね。

池上:それもアメリカの政治的、軍事的庇護の下でやるっていうことですよね。

小島:ええ。

池上:でも、そういう政治的な意味合いを全面に押し出してらっしゃるのともちょっと違うのかな、と。

小島:違うんですね。社会性は持ってないんですよ、政治的な思想というのはね。ノンポリなんです。

池上:前におっしゃっていたのは、旗も非常に意味深なモチーフではあるんですけど、顔が見えそうで見えないとか、そういう「見る」っていうことに関してもすごくご興味が。

小島:「見せる」っていうか、やっぱり好奇心を煽るっていう。裏に回ってみたり、覗いてみたり。

池上:見たいと思わせるような仕組みっていうことですよね。

小島:やはりそういうのが作品にはあっていいんじゃないかな、と思って。

池上:見えないことで、「見る」っていう行為にすごく自覚的になる。

小島:触発するんですね。

池上:準備期間もあるからだと思いますけど、すごくいろんなことが入っている作品だなぁ、というふうに。

小島:そうですね。ずっと後で、学校の教材に使うのでって、図版の使用許可を求めてきたのね。生徒たちが、顔があるのかないのかっていうのを結構話題にするらしいですよ。だから、こういうものをここまで作って、こういう形のものをくっつけりゃいいっていうんじゃなくて。全体像があって、それで布を被った状態で固まってるから。そのプロセスが作品になってるんだと。だから頭はあると。金子みすゞの詩じゃないけど、「見えなくてもあるんだよ」っていう、そういうところですよね。

池上:いろんなことが入っている作品なんですね。この旗を、戦後のアメリカの日本に対する影響力ですとか、政治的な読みをする人が多かったっていうふうに、前におっしゃっていたような気がするんですけども。

小島:これは非常に、悲劇的に作られてるのかっていう人もいるのね。

池上:そうそう。布を被されて見えなくなっちゃって、それで盲目的に従ってるとか。そういう読みがあってもいいんでしょうけど、それだけを表したいわけではないっていう。

小島:そう、あんまりそういうことはない。発想からして。

池上:でも、そういうふうに見られてもおかしくはないんですよね。ジョーンズなんかも「旗」っていうモチーフにすごく反応してたと思いますけど、やっぱりアメリカの方が見るのと、日本の方が見るのとでは、反応も違ってくる作品なのかなぁ、と。

小島:違うんでしょうね。それで日本は戦後もあるからね、敗戦という経験が。だから違うんでしょうね、日本人だったら見方がまた。

池上:ジョーンズが個展を見に来たときは、東野さんが連れて来られたと思うんですけど、「今日、ジャスパー連れて行くよ」っていうようなことは言ってきたわけですか。

小島:ええ、ありました。最初にね。「おもしろいのがあるぞ」っていうんで、「今日、ジャスパー連れて行くよ」って。来てるからね、日本に。

池上:2ヶ月くらい、いましたもんね。

小島:そうですね。

池上:じゃあ、ジャスパーが来るっていうのは緊張されましたか。

小島:ええ、興奮ですよね。もう既に雑誌で見ているし。雑誌っていうよりも画集ですね。

池上:そうですね。「何言われるかな」っていう緊張というか、怖さみたいな。

小島:うん、まぁねぇ…… それはやっぱりありましたね。

池上:実際はそれだけ、すごく熱心に見たということで。

小島:熱心に。うん。

池上:東野さんに通訳をしていただきながらお話したんですよね。ジョーンズはどういう印象でしたか。

小島:彼の好奇心の強さというか、熱心にこの…… 「どうしてこういうふうに人体が、こういう布を被ってるんだ」という関心が強かったみたいで。非常に彼は自分の作品についても、あれやこれやと形而上的に考えたりするから、そういう真面目な人物だなっていう印象ですね、作家としてね。さっきのマチウじゃないけど、ああいうのはないなぁ。

池上:ショーマン・シップみたいなものはあんまりない。

小島:そう、ないね。

池上:自分の制作に打ち込むっていう。

小島:そうそう。で、「作っていく」っていう作品でしょ。偶発的じゃなくて。

池上:そのときジョーンズが《立像》に囲まれて、記念写真を撮ったりしていて、すごくおもしろい写真もあるんですけれど。

小島:うんうん。ありましたね。

池上:彼がその時に東京に滞在して作った作品がありますよね。

小島:《ウォッチマン》(1964年)かな。

池上:そうですね。《ウォッチマン》と《スーベニア》(1964年)っていう。あれを彼のスタジオに、ギュウチャンたちと一緒に見に行かれたって聞いたことあるんですけども。

小島:うーん、僕はその時見に行ってないですね。

池上:そうですか。スタジオ見学っていうのはされてない。

小島:してないですね。

池上:じゃあその次の年の個展でご覧になったんですか。

小島:そうですね。見学は、ギュウチャンとか三木富雄、あの辺が行ってると思う。

池上:ジョーンズが日本で作った作品、どういうふうにご覧になりましたか。

小島:日本で?

池上:はい。彼も石膏というか、足の型どりを《ウォッチマン》で使うじゃないですか。

小島:足は石膏で取ったのにポリエステルを流してるんですね。

池上:ちょっと共通点もあるなぁって。

小島:だから同じだなぁ、と思って。素材がね。あの時代、素材っていうのは、新しく生まれてくるんですよ。ポリエステルだって新しい素材なんですね。この作品を作る一番最初は、僕は日本古来の膠を使った。膠は日本みたいに湿度の多い国はだめなんですよ。しっとりして、固まらない。固まるんだけれども、湿気を含むと、ものすごくこう……

池上:しょんぼりしちゃう(笑)。

小島:うん、重々しくて。

池上:じゃあこの完成品の前の試作段階みたいな時に、別の素材を使って試されてたんですね。

小島:うん。何回か。それでポリエステルに行き当たった。素材が新しく出たんですよ。

池上:これはデロッとしつつも、ちゃんとパキッと固まりますよね。

小島:固まったらもうそれ以上にあまり変わらない。だからジャスパー・ジョーンズだって新しい素材でやってるんだなぁ、って後で思ったんだね。

池上:ちょっと共通点のようなものも感じて。

小島:うん。

池上:ジョーンズは春に来たんですけど、5月、6月くらい。秋にはラウシェンバーグがやって来て、「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」(1964年11月28日、草月会館)に、篠原さんと一緒に出られるわけですけども。これは篠原さんからお誘いがあって?

小島:東野さん。

池上:あ、東野さんですか。東野さんから、「ギュウチャンと小島さんで何かやってよ」みたいな。

小島:そうですね。ギュウチャンが「あれ出せよ。僕はこれを出す」って。

池上:「あれ出せよ」っていうのは《立像》のこと?

小島:そうですね。「QUESTION」っていう看板を《立像》に付けた。

池上:篠原さんは《思考するマルセル・デュシャン》(1964年)っていう大きい作品を出して。

小島:あれ、頭部を回すんだけど、出来が悪くて、首がガタガタする。外れたりしてね。大変だった。

池上:これは東野さんが合図をされて?

小島:そうね、だいたいの進行を考えてて。ある時にこう、合図を出して。こうなった時に質問するから。

池上:それはラウシェンバーグには内緒でやってるんですよね。

小島:うん。でもラウシェンバーグはそれに見向きもしないで、無言で。質問を東野さんと高階さんがね。

池上:高階秀爾先生が通訳で入ってらして。

小島:質問するんだけど、答えないんだ。制作だけ。飲みながら。相当酔ってたみたいね。

池上:4時間くらい、最終的にかかったということですので、最後の方には酔っ払っちゃいますよね(笑)。

小島:ええ。で、全然質問に答えない。

池上:それはもう、予期していた感じでしたか。

小島:いや、そんなことはないと思うんですよね、東野さんにしても。

池上:「ちょっと困ったな」っていう感じ。

小島:うん。ちょっと作ってる合間に、なんかやり取りがあるかなって思ったけど、一切それを無視。だから僕らでも、途中から作品を出したでしょ。それでも見向きもしない。

池上:「そっちの思惑には乗らないよ」っていう。

小島:「乗らない」っていうのは、うん、そうだね。

池上:篠原さんと小島さんからすると、「出て」って言われて檀上に上がってるのに、無視されるとちょっと困っちゃう感じでしたか。

小島:ねえ。ただこう、見てる。うろうろしてみたり、手持無沙汰でこう…… まぁ、それだけだったね。

池上:質問を高階先生が英語で紙に書いたのを差し出したんですよね、篠原さん。

小島:それはラウシェンバーグが、作品に貼りつけたんじゃないかな。

池上:答えないんだけど、作品の中に取り込んだっていう。

小島:そうそう。そういう感じだったんです。

池上:ラウシェンバーグの、実際に制作しているところをご覧になっていかがでしたか。

小島:そうだね、非常に淡々とやる。アシスタントもいて、何かと絵具を持ったら、自分なりの感性で塗っていくっていうのか。あんまり淀みがないですね。

池上:考え込んだりとかはしない。

小島:そういうのはないみたい。ジャスパー・ジョーンズだったら考え込んだり、ちょっと淀んだり。腕を使って描くんだけど、どのようにして一つの《標的》を描くか、まず段階があるわけでしょ、彼の場合。

池上:すごく考えながらっていう感じですね。

小島:ね。まず下地を作って、その上に蜜蝋で絵具を溶いて。

池上:順番がしっかりありますよね。

小島:そう、透けるように何層にも重ねていって、一つの完成作と。ラウシェンバーグはそれがないんですね。絵具をザッとやったら、できた絵具をバーッと、ザーッと使って、早いの。感性がすごいんだなぁ、と思った。

池上:たぶん考えてなくはないんでしょうけど。

小島:配置なんかを、いろいろと。

池上:でも考えとアクションが、もう一体になっているという。

小島:そうね。だろうね。

池上:違うタイプの作家ですよね。

小島:違うタイプでしょうね、完全に。それでも一緒にいることがあるんだからね。

池上:その1964年ですとか1965年あたりっていうのは、アメリカだけじゃなくて、世界的にポップがはやっていたんですけども、小島さんとしては、自分もポップをやってるっていう意識はありましたか。

小島:ないですね。全然なかったですね、そういうの。

池上:「ポップ」っていうのはアメリカのものだという認識ですか。

小島:そうだね、「ポップ・アート」っていうのはね。自分はポップ・アーティストだなんて思ったことない。

池上:敢えて自分は何の作家だっていうふうに言うとすれば、当時はどう思ってらしたんでしょうか。

小島:なかったですね。

池上:ただの作家である。

小島:うん、ただ作ってるんだと。小島の作品だ、というだけ。

池上:例えば篠原さんは「イミテーション・アート」っていうのを作って、発表するときに「これがポップだ!」っていうふうに言ってらして。

小島:ネーミングが好きだからね、彼は。「これがポップだ!」とか言ったり、やったりするから。

池上:そこまで本気で自分がポップだって思ってたわけでもないかもしれない。

小島:ないかも。まぁ、アクションを起こすの好きだから、彼は。

池上:一つのデモンストレーションとしてそういうことも言う。

小島:うん。だから、日本のポップ・アーティストってのは、本当はいないんじゃないかと思う。田名網敬一だって、ポップ・アートとは言えないと思うのね。

池上:その辺が難しいところで。

小島:うん。今はアニメっぽい、軽いのがね。

池上:「ネオ・ポップ」って言われたりしてますけど。

小島:ねえ。秋山祐徳太子とか、あの辺は自分で「ポップだ」って言ってるんですけどね。違うんだよね、日本は。

池上:小島さんにとっては、「ポップ」っていうのは、あくまで1960年代のアメリカのポップっていうのがやっぱり。

小島:うん。やっぱりキャンベル・スープの絵とか、アンディ・ウォーホルの、ああいうものを平気で絵画の中に持ち込んでくるっていう。あれは日本人にはないですよね。

池上:そうですね。

小島:漫画になっちゃうかな、当時の日本だったら。今はアニメとか言うけれど。

池上:大衆的な文化っていうものが、その土地ごとに違いますから。日本には日本のものがありますけど。

小島:もうちょっとやっぱり、なんかドロドロしてる。旅回りのああいう絵とかね。

池上:江戸以前のそういう大衆的な文化がありますし。

小島:うん、「大衆」っていうのはあるからね。でもアメリカのポップのように、カラッと割り切れないんじゃないですか。

池上:そうですね。アメリカの大衆文化に対しての複雑な気持ちも、日本の人の中にはあるのかな、と思います。

小島:大衆文化って、既に本当の量産ですからね、アメリカは。

池上:そうですね。日本の場合はやっぱり手作りのところも残ってますしね。

小島:ええ。

池上:日本のポップはあるのか、ないのか……

小島:チャップリンの映画でも『モダン・タイムス』(1936年)なんていうのは、非常にそういう文明を皮肉った映画で。やっぱりああいう映画が生まれるくらいで、日本にはあんまりああいうものなかったみたい、まだね。

池上:そうですね。そこはすごく大きいテーマで、私も今回のウォーカー・アート・センターの展覧会(「インターナショナル・ポップ(International Pop)」展、2015年4月11日~9月6日)に関わって、それをずっと考えているんです。「ない」ってことにすると、そこから何も生まれないというか、何も言えないので、私は日本なりのものがあったと考えたいんですけど。他にもいろんな作家さんにお話を聞いてますが、みなさん自分のことはポップと思ってなかったとおっしゃいます(苦笑)。

小島:そうね。日本人はほとんどそうかもね。

池上:「あれはアメリカのものだ」って。でも、モダン・アートのシーンも当時、国際化していて、《立像》もウィリアム・リーバーマンっていうキュレーターがMoMAからやって来て、「日本の新しい絵画と彫刻(New Japanese Painting & Sculpture)」展(ニューヨーク近代美術館、1966年10月17日~12月26日)に出品されますよね。彼は1964年に日本で調査をしていたみたいなんですけど、直接彼とはお会いになりましたか。

小島:ええ、会いました。

池上:どういうところで。

小島:うちにも来ましたし。アパートの家に住んでたんだ、当時。

池上:どちらにお住まいだったんですか。

小島:下北沢に。

池上:そうなんですか。リーバーマンが下北沢のアパートに、作品を見に?

小島:いや、それはできないので、他によけてあったところに案内した。それが祖師ヶ谷大蔵っていう駅なんだけどね、小田急線の。

池上:リーバーマンがこの作品を見て。

小島:直に見せて。

池上:反応はどういう感じでしたか。

小島:あんまり何も言わないですね。ただメモとって、「資料と写真、送ってくれ」と。でもその頃、貧しいですからね。だから写真も準備して持ってるわけじゃないので、撮って。それで送ると。彼がいる間に渡したのかな。

池上:そうかもしれないですね。

小島:長く滞在していたからね。それで一旦持ち帰って、向こうでいろいろ協議するんでしょうけどね。

池上:出品が決まったときはやっぱり嬉しかったですか。

小島:そうですね。僕は見せるのも何するのも、だいたいギュウチャンと一緒だったから。そしたら彼は(出品されなかったので)がっかりしちゃって。

池上:《思考するマルセル・デュシャン》は、リーバーマンは出したかったんだけれど、状態が悪いとか、輸送が大変っていう理由で結局出してもらえなかったと聞きました。

小島:うん、そうね。あれはモーター仕掛けが良くなかった。首が回るデュシャンだからね。だからそういうメカニズムがちゃんとしてないと。それがないから非常に危ない、あの作品は(笑)。

池上:でも当時、みなさんお金もないし、そんなにきっちり作る財力がないんですよね。

小島:思いつきでやるけれど、財力がないね。時間はあるんだけど、財力がない。

池上:ギュウチャンはちょっとがっかりされて。

小島:それで僕は選ばれて。嬉しいですよね。初めてですから、海外の展覧会は。

池上:しかもいきなりニューヨーク近代美術館っていう。

小島:みんな年上で、結構。

池上:そうですね。この入った中ではすごく若手の作家でいらしたんですよね。

小島:ええ。

池上:選ばれた作品が最終的にはMoMAにコレクションされるわけですけども、その経緯っていうのは? 出品される作品が全部コレクションされるわけではないですよね。

小島:じゃない。リーバーマンの意向が強いみたいですね。アメリカのファッション雑誌で『VOGUE』ってありますよね。あれの中の数行の中に、日本の小島と三木と中西(夏之)かな、三人名前を挙げて、「個人的にはこの作家が好きだ」と。

池上:それはリーバーマンが『VOGUE』に文章を書いて。

小島:書いて。個人的に名前を挙げていましたね。「中でもこれが好きなんだ」と。

池上:全部立体的なものですね。

小島:そうですね。

池上:リーバーマンがこれを特に評価した理由っていうのは、お聞きになってますか。

小島:非常に日本的な何か、日本人の被害妄想のような、そういったものから出てる発想があるんじゃないか、と。ちょっと情念的な。

池上:リーバーマンはそういうふうに見てたんじゃないかと。

小島:そう、アメリカのポップじゃなくて、逆に日本的な発想があるんじゃないかと。そういうところが、三木の耳にしても、中西のグチュグチュッとしたコンパクト・オブジェにしても。たぶんあの作品だったろうと思うんですね。ああいう何か日本的な発想が好きみたいですね。これはアメリカのカラッとしたポップじゃないから。

池上:ちょっとそういう、日本の独自性が出ているようなところが。

小島:そう。選ばれてる中には岡本信治郎とか、ああいうカラッとした漫画っぽいのもあるけれど、ああいうのは別にね。あれも今で言えばポップかもしれないけど、ああいうのは漫画チックなんだろう、という捉え方でしょうね、リーバーマンにしてみれば。それから前田常作とかね。ああいうのはやっぱり日本的じゃないですよね、何か。

池上:彼からするとちょっと。

小島:うん、(気に入ったものは)みんな日本的。耳だって非常に情念的だと思うんです。

池上:そうですね。そういうとこに惹かれるものが。

小島:惹かれるものは、「日本ならこれだろうな」っていう思いでしょう、リーバーマンにしてみれば。

池上:私もMoMAで調査をしたことがあって、当時のリーバーマンの調査ノートみたいなのを読んだことがあるんですけど、やっぱり立体というか、「彫刻をやっている人の中では小島と三木だ」っていうふうにはっきり書いてました。「この二人がいいんだ」って。《立像》は、最初はリーバーマンが購入して、後でMoMAに寄贈したっていうようなことも聞いたような気がするんですけど、そうではなかったですか。

小島:いや、じゃないです。それは買い上げだったから。

池上:展覧会に出した時にもう。

小島:出したやつの中からピックアップされて。お金も送ってきましたし。

池上:そうですか。ちなみに当時、それはおいくらくらいの値段つけてらしたんですか。

小島:うーん、いくらかなぁ。

池上:日本では売れないわけですよね。値段なんて考えたこと……

小島:安い。売れないから。日本の感覚でいったら…… なんせ美術館に作品が入るなんて日本人は思ってなかったですよ、若い連中は。

池上:ですよね。みなさん捨ててましたしね、作品を。

小島:ずいぶん僕も捨てましたよ、最初の頃の作品をね。

池上:置いておく所がないですよね。

小島:うん。アンデパンダンに出すでしょ。終了して、倉庫で10日間は預かってくれる。それ以上取りに来ない場合は処分と。だから当時、高度成長期だから、どんどんゴミは夢の島ってところに行ってるんです。今は公園になってちゃんとしてるけど。夢の島はこんな廃物の山だった。だからそこに行ってるくらいの時代だから、値段はよく覚えてないけど。「いくらにする?」って言われてつけたのかなぁ。

池上:あちらが「じゃあこれくらいの値段でどうだ」っていうので。

小島:でしょうね。

池上:「それでいいです」と。

小島:そういう感じで受け取った。まず、選ばれることを考えてなかったからね。東野さんが連れてきて、東野さんだったかな。女の人が通訳で付いてきて。見るからに、自分の足で見るんだっていう。

池上:すごい真面目な方だったみたいですね、リーバーマンも。

小島:そうですね。それで見せて、写真持って本国へ帰って。それから後、再度来日したときに正式に「出品者になったよ」って。ニューヨーク近代美術館で出品される、展示されるっていうね。

池上:すごい栄誉ですよね。

小島:栄誉だね、ほんとに。

池上:ドラム缶の勇気を出してやったパフォーマンスからすごく……

小島:どんどんこうなったと。自分なりに発展したのかな、と。発展した作品があそこに選ばれたんだ、という。

池上:本当にすごいことだと思います。東野さんの話が少し出ましたけども、当時親しくしておられた批評家の方とかいらっしゃいますか。

小島:親しくするのはやっぱり東野さんでしたね。

池上:ギュウチャンともお付き合いがあるし。

小島:そうですね。それから一緒にバーで酒飲んだりするとか。そういうふうに親しくできるのは東野さん。岡田隆彦っていうのもいましたね。今は亡くなったんですけど。結構親しくした。

池上:東野さんはやっぱりいろんなことを、情報を教えてくれる人って感じでしたか。

小島:そうですね。自分から僕ら作家の中に来て、ああだ、こうだとかね。「遊びに行こう、鎌倉の海に行こうか」とかね、そんなのもあったし。

池上:ちょっと世代は上になりますよね。

小島:上ですね。

池上:じゃあちょっと、兄貴分というか。

小島:うん、「おい、小島」とか、「篠原」とかね。

池上:作品について何か批評というか、言われたりしたことはありますか。

小島:ないですけども。「海外に行ったら、自分の作品っていうのはどの辺に位置しているのかというのを確認しろよ」なんて、そういう言い方はしましたけどね。自分の作品に責任持てって意味かねぇ。

池上:誰が何をやってるか、ちゃんと見ておけっていうことですか。

小島:いや、自分のものを発言できるような作品をやれ、という意味ですね。アメリカが流行ると「じゃあアメリカのアートだ、ポップだ」って言うんじゃなくて、自分のものを発信しろという意味ですかね。でも、じゃあ「作品作ってみろよ」なんて言って、みんなで冷かしたりしたけどね。評論家は口でものを言うけど。ジャスパー・ジョーンズのメガネじゃないけど。

池上:あれ、おもしろい作品ですよね。《批評家は見る》(1961年)っていう作品。

小島:ああいう風なね。東野さんにも冷やかしで言ったことあるんだね、そういうの。

池上:「やってみろよ」って(笑)。

小島:うん。「うまくいかないだろ」って。口で言うほど、自分自身はうまくいかない。でも彼も描いたりしたんですよ、何か。

池上:そうですか。

小島:あとは写真に走ったんですね、彼は。

池上:写真撮ってらっしゃるんですよね。

小島:水中カメラで撮るとか。そんな程度。作るっていっても本当に作ってないんだから。評論家のお遊びですね。

池上:他に当時、「御三家」って言われていた中原佑介さんとか、針生一郎さんとか、彼らとは特に交流はなかったですか。

小島:いや、ありましたよ。針生さんは後になって親しくなるんだけど、やっぱり東野さんと中原佑介さん。そんな感じだったね。

池上:中原さんとは何か印象に残っていることはありますか。

小島:特別にはないんですけどね、それは。

池上:その後、MoMAの展覧会に《立像》とか《旗》が出品されて、その後も作品が展開していきます。例えば、日本の地図を逆さにしたような風景のシリーズを1967年に発表されてますけども。日本的なモチーフではありますけど、ガラッと変わって。これは着想のきっかけっていうのはあったんでしょうか。(注:前掲図録28−31頁参照。)

小島:部分的に、こういう風になってきたんですね。その頃、こういう雲の様相とか、いろんなものを画面の中にあしらうようになって、今度はランドスケープっていう。何か消滅していくような肉体っていうのが部分的に出てきて。そういう発想はこの頃出てきた。

池上:この日本地図も大陸の方と繋がったりとか。

小島:これはこういう資料があったものだから。

池上:資料っていうのは。

小島:過去のこういう地図の、何て言うのかな。あるんですよね。

池上:大陸と繋がった日本地図? 大昔はこうだったっていう地図ですか。

小島:大昔です、ええ。

池上:昔は繋がっていたけど、こうやって分かれていったんだよっていう。本当に何万年も前のっていうことですね。

小島:そうです。その地図見て、おもしろいなぁ、と思ったんでしょうね。

池上:これは東京画廊で発表されたんでしたね。

小島:そう、東京画廊で。

池上:それは東京画廊のほうからお話が、「うちでやりませんか」ということで。

小島:うん、そうですね。

池上:山本孝さん。

小島:孝さんだね、あの頃。

池上:東京画廊は当時、若手の作家も展示する数少ない画廊だったと思うんですけど。

小島:南画廊とね。二つ。

池上:そうですね。そういうところで発表して、反応だったり、作品が売れるだったりってことはありましたか。

小島:まあ、多少売れたんだろうけど。反応は、東京画廊でやるということになれば、「おおー」と。みんなが「やりたい、やりたい」という感じだから。

池上:そうですよね。本当に一流の画廊で。

小島:うん。

池上:作家としてはうまくいっているなぁ、という感じが。

小島:まぁ、そうでしょうね。「おお、東京画廊でやるようになったか」っていう感じ。

池上:すごいことですよね。

小島:東京画廊ができた時、外国の作家が多かったからね、最初の頃は。

池上:そこに肩を並べるっていうことになるわけですから。

小島:だから「へぇー」と思ったんですよね、話が来たとき。

池上:当時の日本の状況ですと、それでも作家だけで生活できるわけではないっていう。

小島:ないね。ただ発表するだけ。

池上:名誉なことなんですけど、生活には繋がらない。

小島:それで約束されるわけじゃないですからね、全然。

池上:ギュウチャンも「女の祭」の個展(東京画廊、1966年2月28日~3月19日)ですごく力を入れてやったんだけど、1点も売れなかった。作品も残っていないものが多くて、残念なんですよね。こちらの「風景」シリーズっていうのはわりと残されてますか。

小島:いや……

池上:なくなっているものもありますか。

小島:残ってはいるかなぁ。

池上:1990年の図録では東京画廊からの出品となってるんですけど、実際に東京画廊に今あるのかっていうと、どうなんでしょうね。

小島:ないんじゃないかな。

池上:ひょっとしたらその後で売れているのかもしれないですし。

小島:ね、どっか入れると。でもあんまりそんな話、向こうから来ないですね。

池上:もし本当にどこかに入ったなら報告があるはずですからね。

小島:「どこそこに入ったよ」ってね。どうなんだろうねぇ、これ。

池上:1970年には、文化庁からの派遣でヨーロッパとアメリカに行かれるんですけど、これはどなたかの推薦で行かれたんですか。

小島:そうですね。高階さんの推薦で。

池上:それは「行きたいんで推薦してくれませんか」っていうような?

小島:じゃない。いきなり電話が来て、「推薦するけれども、自信あるか。行きたいか」っていう。「是非」って。

池上:先生方が推薦枠を持ってらして。

小島:で、推薦文を付けて、文化庁に出すと。

池上:推薦されたらもう、行けるっていうことなんですかね。

小島:高階さんだからね(笑)。 

池上:そうですよね。

小島:そんな感じだったね。

池上:行きたいっていうのは前から思ってらした?

小島:うん、思ってましたね。みんな「アメリカに、アメリカに」って言ってましたからね、周りでは。

池上:ギュウチャンも1969年にようやく行って。

小島:スカラーシップ取って。

池上:その頃は奥様といらしたんですか。

小島:行った。一緒に。

池上:ご結婚はいつ?

小島:その年に。

池上:1970年に行くことになって、「じゃあ一緒に行こうか」ということで。

小島:ええ。

池上:奥様はどういうことでお知り合いになったんですか。

小島:彼女は『ニューズウィーク』にいたんですよ。そこの部長っていうか、所長が、絵のことすごい好きなんですね。自分で評論書いてるくらい。で、僕の作品も見に来てた。彼女はその通訳みたいな感じで。

池上:上智大学の英語科ご出身だとお聞きしました。

小島:それで知り合った。

池上:そうですか。一緒に行かれて。まずヨーロッパから周られたんですか?

小島:いや、アメリカ。まず西海岸から周りながら、大陸横断してニューヨークへ。それでニューヨークにしばらくいて。で、ヨーロッパにも行ってみよう、という。

池上:滞在期間っていうのが決まっていて。

小島:1年。

池上:日本に帰られて、それからまた1972年に行かれて。だいぶ長いことおられたんですかね。

小島:1976年までですね。

池上:1976年ですか。それはやっぱり、最初に行って、もうちょっとここでやってみたいと思われた?

小島:思ったんですね。でも失敗でしたね。

池上:そうですか?

小島:うん。

池上:というのは。

小島:発表はできないし。

池上:なかなか、やっぱり。

小島:アメリカの方が(敷居が)高い。

池上:あちらの画廊のネットワークに入っていくっていうのが、ちょっと難しかった。

小島:大変だと思いますね。

池上:ギュウチャンなんかいまだに苦労してますからね。

小島:ね。頑張ってるけどね。

池上:あちらでは、篠原さんが一足先に行ってらしたってこともありますけど、よくお付き合いをされて。

小島:そうですね。向こうで、いろいろ。

池上:他にも日本人のアーティストもたくさんいらしたと思うんですけど、一種のコミュニティみたいな感じになってましたか。

小島:いや、あんまりそれはないけども。

池上:みんなそれぞれ、自分でやることをやる。

小島:うん、自分でやる。

池上:アメリカで作られた作品っていうのは、この画集にもある平面的なものに……

小島:この辺の絵画。アクリル使った。

池上:日常的な椅子とか、そういうものを描いてらっしゃる。(注:前掲図録33−35頁参照。)

小島:そうですね。そこにあるものを。

池上:リーバーマンとはもうお知り合いだったと思うんですけど、アメリカにいる間に会ったりとか、お付き合いされたりっていうのは。

小島:いや、別になかったですね。招待状は来ましたね、MoMAのオープニングの。

池上:彼がやった展覧会の?

小島:じゃなくて。他の展覧会。滞在してるところへ。それはジャスパー・ジョーンズもくれましたね。

池上:そうですか。じゃあみなさん、日本で会って、お付き合いがあった人をわりとちゃんと覚えてらして。

小島:そうですね。ジャスパー・ジョーンズのときは荒川修作とか来てましたよ。「案内が来たんだ」って。

池上:今度、ウォーカー(・アート・センター)の展覧会に出させていただく《立像》なんですけど、あれはこのニューヨークに滞在中に作られたんですよね。

小島:そうですね、あれね。

池上:作品としてはこういう平面的なものに移られてたわけですけど、アメリカでもう一回立像を作ったっていうのは、何かあったんですか。

小島:あれは「彫刻展に出してくれ」って言われて作ったんですね。

池上:それはどこの彫刻展?

小島:アメリカのニューヨーク、スカルプチャー・センター(Sculpture Center)かな。日本人のね。

池上:日本人の作家ばかりを集めた?

小島:うん。

池上:それは何年のことですか。覚えてらっしゃいますか。

小島:ちょっと下で見ると分かりますけど。(下の階へ)

(戻ってくる)

池上:すみません、お手数かけまして。

小島:こういうのも、ありましたね。

池上:あ、石子順造さんの。

小島:これは別の意味で持ってきた。

池上:石子さんは、小島さんの作品について書かれてますよね。

小島:そうですね。「小島信明論」(「小島信明論−−表面である立体あるいはハプニングの抜け殻」、『現代美術』、10号、pp.15-23、1967年)。これが日本のキッチュなんですね。だから参考になるかもな。もしあれでしたらお貸しします。

池上:あの、実はちゃんと持ってます(笑)。               

小島:ああ、そう(笑)。こういう、日本のね。

池上:石子順造のキッチュ論っていうのはすごく参考にしてまして。日本的なポップっていうのを考えるときに、実はすごくヒントになってるんです。スカルプチャー・センターでの展示は、篠原さんがモーターバイク彫刻を出してた展覧会と同じでしょうか。

小島:同じと思う。1976年。(「12人の彫刻展」、ニューヨーク・スカルプチャー・センター、1976年)

池上:じゃあ帰国されるちょっと前くらいに作られて。

小島:それで置いて帰って。

池上:持って帰るのが無理っていうことですよね。大きいですし。

小島:その時にアメリカにもう一つあったんですよ。それを寄贈したんですよ、東京の国立近代美術館に。(注:《ボクサー》という作品、1968年制作)

池上:そうなんですね。アメリカに2つあって。

小島:で、一点は(東京国立近代美術館に)引き取ってもらって、アメリカから。

池上:そういうことなんですね。もう一点残ったほうが青野さんのところにずっとあった。

小島:そこに預けて。

池上:でも40年近く経ったとは思えないような、本当きれいな状態で。

小島:そうね、きれいでしたね。僕も何十年振りかで見て。

池上:今回あれも、ちゃんと展覧会に出せるので、すごく良かったと思ってます。

小島:そうですね。

池上:あちらにいらした時だと思うんですけども、MoMAで「敵対者としての芸術家」展(1971年)っていうのがあって、それに出されたのも《立像》?

小島:それは買い上げになった作品。

池上:コレクションに入っていたものを。

小島:翌年、1971年の展覧会。

池上:展覧会の中に含まれた。これは、どういう展覧会だったんですかね。

小島:敵対するっていうんだから、何か反戦めいた作品の傾向ですかね。

池上:当時、ベトナム戦争とかもありますし。

小島:うん、盛んで。そろそろ引き揚げなきゃっていう頃ですからね。

池上:収蔵されたものがちゃんと展覧会に出てくるっていうのは嬉しいですよね。

小島:そうですよね。

池上:その後、図録の年譜では1977年ってなってるんですが、日本に帰国されて、その後は東京にお住まいに。

小島:ええ、そうですね。

池上:帰国されてから、しばらく活動をお休みされてた時期があったんでしょうか。こちらのテキストで、そういうようなことが少し書かれていたみたいなんですけども。

小島:作ってはいたけども、あまり発表するような場に出してないかな、と。で、こういう東京画廊での展示になるんですけどね。

池上:このあたりのページですかね。(注:前掲図録の36–41頁を参照)

小島:このあたりですね。

池上:このパネルと、こういうちょっと後ろを向いた人体ですとか。

小島:あ、これとかね。

池上:こういうものですね。人体をパネルと組み合わせたような。

小島:そうですね。

池上:これ以降、《立像》もわりと定期的に作られてるんですか。

小島:いや、あんまりやってない。あの《立像》はね。

池上:10年前にお話を伺いに来たときに、アトリエで《立像》を作ってらしたので。

小島:あぁ、あれね。あそこで作ったやつね。あれは、作っておいた、という程度。

池上:別に新しく作品としてやってるわけではなくて。

小島:特に、それを継続してやってるから、というんじゃなくて。まぁ、作ったんだな。

池上:そうですか。青野さんにニュージャージーでお会いした時、「何年か前にドラム缶に入るパフォーマンスもやったのよ」って。私、知らなかったんですけど。

小島:ちょうど彼女が日本に来てるときに。

池上:何年くらい前ですか。

小島:もう4、5年前。

池上:それは1962年以来、初めての再演?

小島:そうです、あれは。再現というか。

池上:どうしてやってみようと思われたんですか。

小島:いや、向こうから話しに来たの。現代美術館。

池上:東京都現代美術館?

小島:うん。「やってもらえないか」と。

池上:それは藤井亜紀さんからですか。

小島:じゃなくて、西川美穂子さん。

小島:藤井さんはあの後にいろいろと。

池上:常設展でよく《立像》を出されていますよね。

小島:そうそう。で、数年前に西川さんが来て、「再現してもらえませんか」と。あの頃は、その作品はもう消滅しているわけでしょ、当然ね。特別の評価もなかったし、宗左近さんくらいが取り上げてくれた程度だったので。「あぁ、これ現代美術館でまた再現できるのもおもしろいなぁ」と思って、「やりましょう」と。人物が立つっていっても、会期中ずっと、というわけにはいかないので。昔と違うからね。何日間だけ、(開館時間の)途中で1回やってみます、と。非常に恥ずかしいから。

池上:そうですか(笑)。

小島:いや、今はね。夢中じゃないから。

池上:やってみていかがでしたか。

小島:もう今はすれてるからね、客のほうも。何でもものを見ればいいと。何でもライブがあって、見て。最近のは参加型でしょ、作品が。だからすれてるわけよ。最初のうちは驚きがあった。

池上:確かに、いろんなものを見慣れちゃってるっていうのはあるかもしれないですね。

小島:うん。昔は、みんなが美術館に見に来て、そこに人がいたらびっくりするんですよね。そういう人はもういない。

池上:今は「まぁ、こういうのもありか」っていう感じでみなさん受け止めてしまう。

小島:まったく質が違うのね、今度は。観客が。

池上:1962年の時はショックを与えるっていうことがありましたけど。

小島:それもあったし。自分の発表として、ショックを与えるようなものを、自分なりに「そこでやれるんだ、やってるんだ」っていう実感があったようだけど、今はこっちの方が恥ずかしいし。向こうは全て見てて。やっぱり時代でね。

池上:50年前とはちょっと、だいぶ違う。

小島:違う。

池上:アートってものがだいぶ変質してきてますからね。

小島:そうですね。

池上:でも、そういう「再現してくれませんか」ってお話があったり、1960年代の日本の美術っていうものが、日本でも外国でも再評価されてますよね。

小島:ああ、最近そうですね。

池上:そういう動きっていうのは、どういうふうにご覧になってますか。

小島:再評価はそんなに思わなかったんだけれども。

池上:2年前もMoMAでまた「東京(Tokyo 1955–1970: A New Avant-Garde)」展(2012年11月18日~2013年2月25日)っていうのがあって、《立像》もまた出て。

小島:それと具体(美術協会)があったりしてね。

池上:そうですよね。グッゲンハイム美術館で同じ時期に(「Gutai: Splendid Playground」展、2013年2月15日~5月8日)。

小島:最近、アメリカでこういう傾向があるのかな、と思ってるんだけど。見直してみよう、という。

池上:そうですね。欧米中心的に今までは見てこられたモダン・アートっていうものが、ちょっとずつ変わっているのかな、という。

小島:そう。そういう傾向があるっていうことは事実だから。いいとか悪いじゃなくてね。それなりに見直すのもいいかな、と思いますけどね。

池上:今回の「インターナショナル・ポップ」展も同じ流れの中にあると思います。「ポップと言えばアメリカ」というのは、1960年代にはみなさんそう思ってらしたでしょうけど、50年経って、アメリカ以外の場所でもいろんな形でポップがあったし、あってよかったんだという、もうちょっと広い見方で読み直すことができたらと思っています。

小島:なるほどね。石子順造は日本のポップだね(笑)。

池上:そうなんです(笑)。彼は「キッチュ」と言ってるわけなんですけど。

小島:「ポップ」とは言わないもんね。

池上:日本の「キッチュ」っていうのは日本の「ポップ」とすごく繋がりがあったんじゃないかと。

小島:うん、繋がりがあるんでしょうね。

池上:すごく日本独自のものが、そこにはあるんじゃないかな、というふうに。

小島:そうそう。確かにいろんな形で今、見直されてるんだけど。何かいろんな、漫画っぽいものが今は流行って。何て言うの、あれ。アニメ?

池上:そうですね。「クールジャパン」みたいなことを言われていたり。

小島:「クールジャパン」なんだね。1960年代のああいうドロドロしたものじゃないですね。非常にイラストみたいな。少女漫画だ。昔からああなんですよ。少女漫画っていうのは目がクリクリと。ああいうのはおもしろくない、という反発があるんでしょうね。あんなものは漫画だとか。でもしょうがないですね。世の中それで、バーッと動いて行くんですからね。

池上:今はそれがある種の輸出品のような感じで。

小島:若い連中はみんなそっちに関心があるんですね。

池上:でも、こういう展覧会を通して1960年代の再評価がされる。当時はやっぱりちゃんと評価がされていなかった。

小島:うん、いなかったね。

池上:今から、遅ればせながらですけど、ちゃんと歴史的に位置づけ直して、評価できれば、と思ってます。

小島:田名網敬一とかも入ってるんだね。

池上:そうですね。田名網さんも当時はアーティストとしては評価されてなかった。

小島:そうでしょ。グラフィック・デザイナーでね。

池上:そうです、グラフィック・デザイナーとしては活躍されてるんですけど。

小島:ああいう業界ではね。

池上:でもアーティストとしてはあんまり。デザイナーとアーティストっていうのは交わるようで交わらないっていうか。

小島:混ざらないね。全然。分離してたね、当時。

池上:だから彼は、横尾忠則さんとかもそうですけど、アートとデザインの間で何かこう…… 活躍してるんだけれど、無視もされてるような感じで、ちょっと面白い。

小島:横尾君が言ってたのは、「アーティストとしてやらないと、認めてくれないんだ」なんてぼやいてましたよね。

池上:それはすごくあったみたいです。

小島:やりたいんだけど、どうも中途半端な。じゃあデザイン界に入れるのかって言ったら、横尾君はデザイン界からも弾かれるような。

池上:デザイン界のメインストリームのデザインとはまた違うことをされていたので、どっちからも結局、冷遇されて。

小島:それが横尾さんっぽいんだけどね。そんなことを南画廊に来て、ぼやいてましたよ、昔ね。

池上:小島さんは田名網さんともお付き合いはありましたか。

小島:あるんですけどね。ギュウチャンとすごく親しいんだよね。昔はギュウチャンは、日本に来ては泊まったりしてた。

池上:入り浸っていた、という(笑)。

小島:そうです。今はホテル取るんだけどね。そういう間柄でね。みんな横の繋がりはありますよ。そういうのに関わってる連中は。

池上:今も、篠原さん帰ってくるとみなさん集まって、お会いになったりとかされてますよね。

小島:みんな、最近はそういえば元気がなくなったのかなぁ、少し。年だろうね。

池上:いろいろと長い間お話を聞かせていただいてありがとうございました。他にも、これは言っておきたい、ということがあればお聞かせいただければと思います。

小島:うーん、特別ないですけどね。

池上:そうですか。もし、また何か思い出すようなことがあれば是非、教えてください。小島さんも石子さんに注目しておられたということが分かって、良かったです。彼は赤瀬川さんとか、小島さんとか、中村宏とか、重要な作家について、全部評論を書いてらっしゃるんですよね。

小島:そうだね。

池上:東野さんなんかは活動としてはすごく重要な活動をしてらっしゃるんですけど、評論としてはあまり同時代の日本の作家のことをちゃんと書いていない。例えば小島論とか、篠原論とか。一番書くべき人が何も書いてないなぁ、と。石子さんはそこをちゃんと書いてらっしゃるので。

小島:そうだよね。あの人も変わってる人だったね、石子さん。

池上:実際にお話されたことはもちろんありますよね?

小島:ええ。

池上:どういう感じの。

小島:なんか神経質な感じでしたね。眼鏡かけて。

池上:作品について、実際何か言われたことはありますか。

小島:やっぱり、「どうしてこういう旗を被ってるのか…… 」と。

池上:やっぱりみなさん、そこが気になるんですね。

小島:そうなんだね。ある意味では目立つんですよね、あの作品は。強烈なの。だからそういう質問がまず出るんです。「どっから来るの、この発想?」って。

池上:それは何てお答えされたんですか、そのときは。

小島:それは、「当たり前に思いついたんだよ」って。

池上:確かに(笑)。

小島:うん。そんなどっかにお手本があったとか全然なくて、始めたんだから。創意工夫。こうして、ああして、こうなるといいな、っていう結果が、ああいう布を被るものになってしまった。だからまず、立体を作って。《立像》っていうのはヨーロッパから来ている立派な彫刻じゃなくて。新しい一つの発想として、形態は立像だけど、それ自体を否定するようなもの。布を被って頭部を見せないという。となれば、別の意味で覗いたり、好奇心が湧くだろうっていう。だから本当に個人的な発想なんですね。

池上:そうですね。いわゆる彫刻ともやっぱり違いますね。ちゃんとモデリングして、っていうものでもないですし。

小島:ロダンのように立派に作ろうとかね、そういうんじゃないから。

池上:人体を解剖学的に性格に表すことに関心があるわけじゃないですもんね。

小島:これが人間だなんていうのは、見たら「あっ、人物」っていうことで十分だと思って。で、「あっ、男だ」、「女だ」とか。ズボンはいてりゃ男だから、昔は。

池上:わりと人は見るものを単純に理解するじゃないですか。そういうところに何か気づきを与えるような感じがあるなぁ、と思うんです。「これは本当に旗なのか」とか、「これは本当に男なのか」とか。

小島:はい、そうね。

池上:「見たままに理解していいのか」とか。

小島:「ちょっと違うぞ」っていう何かがあればいいなぁ、と思って。

池上:本当にありがとうございました。