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小清水漸オーラル・ヒストリー 2016年10月24日

京都府京都市、小清水漸アトリエにて
インタヴュアー:菊川亜騎、加治屋健司
同席者:山下晃平
書き起こし:京都データサービス
公開日:2019年3月14日
 
小清水漸(こしみず・すすむ 1944年〜)
美術家
愛媛県宇和島生まれ。多摩美術大学で学び、《かみ》(1969年)、《70年8月 石を割る》(1970年)などを発表し、もの派の美術家として注目を集める。「第10回日本国際美術展 人間と物質」展にも参加し、翌年は第7回パリ青年ビエンナーレを契機に半年間滞欧した。帰国後、関西へ移住してからは《作業台》や《レリーフ》のシリーズを発表し、1976年ヴェネチアビエンナーレなど多数の展覧会に参加する。また京都市立芸術大学などで教鞭を執り多くの後進を育てた。
第1回は、生い立ちから学生時代、代表作の具体的な制作の経緯について、1970年に開催された「現代美術の一断面」展や「人間と物質」展の出品の背景について語っていただいた。続く第2回は、《表面から表面へ》(1971年)以降展開することとなる木彫を中心に彫刻に対する意識の変化について、斎藤義重の再制作に携わった時のエピソードや関西の作家たちとの交流について伺った。昨今、国内外でもの派の歴史化が進んでいるが、この状況についても現在の考えをお話しいただいた。
聞き手はかつて氏に師事した菊川が務め、作品情報は『1970年 物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち』(埼玉県立近代美術館他、1995年)を主に参照した。

菊川:ではインタヴューを始めさせていただきたいと思います。

小清水: お願いします。

菊川:まず生い立ちからお話を伺わせていただければと思います。1944年に宇和島でお生まれになったということですが、ご家族の構成であるとか、どんなご家庭に育ったかということを聞かせていただけますか。

小清水:昭和19年ですから、まだ戦争中ですね。僕に戦争の記憶はありません。両親はともに学校の教師をしていましてね。それで私の上に姉とそれから兄が一人ずついました。生まれたときには、父方の祖母が一緒に暮らしていましたかね。その当時、祖母は既に緑内障で目が見えなくなっていたので、私の記憶ではいつも長火鉢の前にじっと座っている姿しか覚えてません。宇和島で生まれてそれで終戦になって、終戦後2、3年してからですかね。当時、県庁所在地の松山に教育研究所というのがあって。初等中等教育の教育研究をする機関で、私がまだ4歳か5歳ぐらいの頃に、私の父親がそこに研究員として赴任していくんです。1年間は家族が別々に暮らしていたんですが、その1年後に皆松山のほうに移って2年ほど暮らしました。私が幼稚園の頃と、それから小学校に入学したのが松山です。小学校の2年生になるときに、父親も研究所から離れて宇和島の学校にまた赴任して、それで家族全員がまた宇和島に帰ったという。松山に住んでいる頃は歩いて10分ぐらいのところに道後温泉があったので、毎晩温泉三昧をしておりました。

一同:(笑)

加治屋:ご両親が教師だということなんですが、どんな科目を教えられていたんでしょうか。

小清水:二人とも専門は国語教育だったんですね。中学校は別ですけど、小学校は全教科を教えますよね。全教科を教えるので何でもやっていたようですが、教育研究所では国語教育の研究をしていたようです。ただ私の父親が若い頃に油絵を描いていて、多分、うんと若い頃には絵描きになりたかったんだろう思うんですけどね。でも私が物心ついたときには、道具だけはあったけど、本人が絵を描いている姿は見たことがないですね。

加治屋:お父様はどこかで学ばれたんですか、油絵を。

小清水:いやいや。いわゆる昔の師範学校に行っていましたので、そこで手ほどきを受けたことはあるのかもしれませんが。残された絵を見てると、当時の日本のいわゆる紫派とかフォーヴィスムの影響を受けたような具象画が何枚か残っていました。

加治屋:そうですか。じゃあ、かなり当時の最先端の美術にご関心があったんですね。

小清水:だろうと思いますね。

菊川:ご両親はお二人とも、もともと宇和島のご出身なんですか。

小清水:だと思います。母親は宇和島よりちょっと南に昔、城辺町っていう町があって、今は愛南町というのかな、そこの出身のようです。でも二人が知り合ったのは宇和島の小学校の教員のときに、同じ小学校に勤めていた。それで当時の校長先生の肝入りで結婚をしたということらしいです。

加治屋:国語の先生ということは、小さい頃から文学というか本をよくお読みになったりしたんでしょうか。

小清水:本は小学生、中学生の頃はよく読みましたね。特に小説本ですね。高校に入って以降は、ほとんど読んでいないと思います。でも、戦後の何もないときでしたけど、普通の家よりは、一応、文学全集はありましたから、そういうものは読みましたね。

菊川:先生が小学校だった頃、宇和島では戦争の影響というのはどんな感じだったんでしょう。

小清水:戦争の影響は、焼け跡というか原っぱがすごく多かったんですよ。要するに昔あった家が爆撃で燃やされて、そのまま平地になった場所とかね。宇和島は街の半分ぐらいは焼けているんですけど、僕が住んでいたあたりは焼け残った地域で。松山のほうが戦争の爆撃の影響はたくさん受けていたようで、僕の記憶では、住んでいた家のすぐそばにそういう戦後の焼け野原の名残の焼け跡があって、そこに焼けただれて放置された車の残骸とかそういったようなものがあって。焼け跡に置かれた車の残骸の機械油の匂いとか、日に照らされた錆びた鉄の匂いとか、その周りの雑草の匂いとかが、いまだに記憶としては残ってます。それとあと何だろうな。当時は配給制度でしたから、お米を買うのに通い帳というのがあって、それを持ってお米を買いに行くとか。何でも基本的に、生活必需品は配給制度の中でまかなうというようなことで。本当にまだ小さい頃に、その小さなノートを持って何かを買いに行くようなことは記憶としてはあります。それぐらいですかね。戦後の記憶っていうのはそんなことが多いですね。

菊川:今、お父様が油絵を描かれたというお話を聞きましたが、子ども時代に美術や芸術に触れるような機会はありましたでしょうか。

小清水:今から考えるとね、特に展覧会があるわけでもないし、美術館があるわけでもなかったので、ほとんど美術の現物は見ていないと思いますね。見ているとすれば、床の間にかけられる軸とかね。それから、それこそ父親の描いた絵が掛けてあるとか、そんなことぐらいだと思いますね。

菊川:お兄様やお姉様がいらっしゃるので、ごきょうだいも美術に関心があったとか、そういったことは特にはなかったですか。

小清水:多分、僕の兄は建築家になったので絵は好きだったんだろうなと思うんですよ。姉のほうは私より10歳年が上で、松山にいた頃には姉は高等学校へ行っていてそのあとすぐ大学の教育学部に入ったんです。昔は2年で教員になれたんですよ。愛媛大学の教育学部に入ったんですけど、それで2年で卒業して僕がその当時通っていた小学校の教師になって赴任してきて。僕のクラスの隣のクラスの担任で来ていましたけどね。小学校ですから何でも教える。絵ももちろん教えていたし、多分、二クラスまとめてだと思うんだけど、僕は音楽を私の姉から習いましたね。

加治屋:ああ、学校で。

山下:そうしたら家でお姉さんが「明日の学校の授業は、音楽はこれをするわよ」みたいな。

小清水:そういう話はないですけど、僕はよく忘れ物をするたちでして、それで学校で職員室へ行って「給食費忘れたからちょうだい」とか(笑)、そういうことにはとても便利でしたね。

加治屋:小2からしばらく宇和島のほうにいらっしゃったんですよね。

小清水:ええ。

加治屋:そのときは小学校や中学校で何かクラブをなさったとか。

小清水:小学校時代はずっと合唱部というところにいました。引っ張りこまれてといいますかね。多分、先生が各クラスからピックアップして集めるんだと思うんです。そこでNHKの合唱コンクールに毎年出るので、その歌をいつも歌っていました。中学に入ってからは僕はテニスをずっとやっていましたね。運動は好きというか、その当時のことですから皆ソフトボールをやるわけですね。中学校に入れば軟式野球になりますけど、小学校の間はソフトボールをやっていて。僕は割と足が早かったもんですから、クラス対抗のいろんな運動の試合や何かには大概選ばれて出ていました。今と違って、昔は皆外で遊びますからね。外遊びがほとんどですから。それで子どもの頃から文字どおり野山を駆け巡って遊ぶような、そういう生活をしていたので割と足腰が強かったですね。

加治屋:宇和島は自然が多くて。

小清水:そうですね。私の住まいはどちらかというと山に近いほうなんですけど、すぐ15分も歩けば海に出ていくというような、そういう場所で。特に小学校高学年になってから移り住んだところは、すぐ裏に山がありましてね。その山が僕の遊び場のようなもので本当に走り回っていましたね。山で拾ってくる木の枝を肥後守っていうナイフで削って遊ぶ。僕らの頃は遊び道具は全部自分で作っていましたからね。

菊川:おうちで本を読んで一人でいるよりも、外で遊び回っているほうが多かったですか。

小清水:うん、そうそう。小学生の頃はそうでしたね。特に両親が勤めていたから、僕は家に帰っても一人きりです。すぐ近所の友達と一緒に遊ぶというのが毎日でしたね。中学校に入ってからは、そんなふうに野山を駆け回るってことはなかったですけど。中学校に入ったら、なぜかふと思い立って、絵を描いたりはしていましたね。そう、僕は小学校も中学校もね、割と休みがちだったんですよ。病弱だったわけではなくて朝起きて行きたくないなと思ったら学校に行かないと。

菊川:そういう理由で(笑)。

小清水:親きょうだいは皆朝早く勤めに出ていくので、私が自分一人で行きたくないと思ったらそのまま行かないという。学校行かないで休んだ日に、ふっと家の近くで写生をしたりとかそんな記憶がありますね。でも毎日描いていたわけではなくて本当にたまに思い立って描いている。あとは当時ですからラジオを聞いたり、それから本を読んだり。ちょうど家の裏庭に柿の木が5、6本生えていたので、そこにちょうど今時分になると包丁を持って木に登って柿を取る。そのまま屋根に上がって、屋根のてっぺんで天下を睥睨しながら柿を食べる。

加治屋:すごい子どもですね(笑)。

菊川:でもご両親が先生なのに、勝手に休んだりしても怒られなかったんですか。

小清水:怒られませんでしたね。なぜか成績はよかったのでね。それで成績が悪かったら多分怒られるんだろうと思うんですけど。忘れ物をするから生活態度のところで「やや劣る」という評価をもらっていたけど、それ以外、別に休んだから影響を受けたようなことは一切なかったですね。

菊川:じゃあ割と勉強されるのはお好きだった。

小清水:僕は授業中ずっと真剣に聞いているので。小学生の頃から。そのときに全部身につくっていうか。だから家に帰って勉強することは全くなかったですね。先生さえよければ、授業時間中、真面目に聞いて学校の教科は身につくと思っています。

加治屋:写生をされていたっていうのは、それは絵を描くのがお好きだったんでしょうか。漫画を読んで描くのとは違っていたのでしょうか。

小清水:漫画を見て描くことで一つだけ覚えているのは、ウォルト・ディズニーの漫画の中の、何ていうキャラクターか忘れましたけど、犬のキャラクターがあるんですけどね、それだけはなぜかよく描いていました。

山下:耳の長い。

小清水:そうそう、耳の長い。まだミッキーマウスとかそういうのは知りませんでしたけどね。それと漫画を読むことに関しては割と厳しかったですね。あんまり読んじゃいけないみたいな雰囲気が家庭環境でありましたね。でも、見ていましたけど。小学生の高学年のあるときに、僕の友達で漫画をたくさん持っている友達がいてね。ある日何十冊か借りて家に持って帰ったら「返しに行ってきなさい」と言われて返させられた(笑)。

加治屋:厳しいですね。

山下:それだけ自然が近いと、絵を描く以外に、石とか木で何かちょっと工作されたりはされましたか。

小清水:そうそう。工作は子どもの頃の一人遊びの一番メインですね。というのは、ちょうど戦後の復興であちこちで新築の家を建てているんですね。そこへ行くと大工さんが仕事をしていて、それで木の切れ端や何かがいっぱい落ちていた。今の建築の仕方と違って、昔は材木を現場で切り刻んでほぞも彫ったりとか、そういうのをやっていた。今は作業場で全部切ったやつを持ってきて、プレハブのように建てていきますけど、僕が小さい頃はすべてが現場で行われていたので、それを学校の帰りにじっと見てたりして、そこで拾ってくる木切れや何かを家に帰って見よう見まねで釘で打ちつけてみたりとかね。それと皆必ずポケットには肥後守という小刀を持っていましたから、かまぼこ板を削って船を作ってみたりとか、あるいはナイフのような形にしてみたりとかね。それからあと割り箸と拾ってきた木切れを釘で打って、お神輿みたいなものを作ったりとか(笑)。そうやってこちょこちょ何か作るというのが遊びの一つでしたね。だからよく見るとね、その当時ナイフで切ったりとか、鑿で突いた傷跡があちこちにありますよね。僕は右利きですから左に傷があるんですけど、大人になってからかな、父親の手を見たら同じように傷があった。

菊川:小さい頃から器用に手先を使って何か作られたりもされてたんですね。

小清水:作ることは好きだったんだけど、器用かどうかは自信がなくて。僕の姉なんかは僕が彫刻家になったのが信じられないらしくて、「あんな不器用だった子が」っていうふうに言いますけどね。

菊川:お兄様からそういった作業を教えてもらったりとか、そんなことは。

小清水:兄は僕より六つ年上で、全然遊んでくれないんですよ。僕が小学校に上がったときにはもう中学生ですからね。だから一緒に遊んだ記憶はなくて、虐げられた記憶はあります(笑)。絵を描くのは多分、父親の影響で好きだったんだと思うんです。でもそれは中学生ぐらいになってからのことで、小学生の間はほとんどものを作るということのほうが多かったですね。本当を言うと、小学校の4年生ぐらいまではすごく絵を描くことが嫌いだったんです。苦手だった。それは今でも覚えているんだけど、小学校1年生の夏休み、宿題で絵日記っていうのがあるじゃないですか。それをずぼらして夏休みの終わりにまとめて描くわけですよ。ある日何も描くことがなくて、そばで見ていた母親が「あの日はキャラメルを買って喜んでいたじゃないか」っていう話をして、四角い箱とそれから四角いキャラメルの粒を描こうとした。小学校の1年生にはすごく難しいんですよ。それがうまく描けなくて母親に怒られた記憶があってね。それ以来、絵を描くことがすごく嫌いになって、小学校の4年生ぐらいまで「自分は絵が下手くそだ」というふうに思い込んで。4年生のときの担任の先生が、ある日図画の時間に僕が描いた学校の校庭の絵を見てすごく褒めてくれてね。それがたまたま児童展覧会に出品されて、新聞にその写真が出たりしましてね。それ以来、自分は下手くそだけど絵を描いたら人が認めてくれる、そういう記憶ができて、好きになっていきました。だからあまり小さいときに自分の子どもに絵のことで怒ったりとか何かすると、子どもが歪んでしまう(笑)。気をつけたほうがいいですよ。

加治屋:そうですね。

菊川:小学校時代の先生から特段美術について教えてもらったとか、印象に残るような方がいたとか、そういうわけではないですか。

小清水:なんかね、図画工作の時間以外に学校でしょっちゅう絵を描くようにその先生から仕向けられて。多分、児童展覧会とかそういったところに出品するための絵を描かせてくれたんだと思う。割合よく描いていましたね、小学生時代は。

菊川:すごく熱心な先生がいらっしゃったっていうことなんですよね。

小清水:そうなんだろうと思うんだけど、特に美術の先生ではなかったですね。

菊川:その次に中学校に入られます。中学校の頃に東京に上京されたようですが、それはどういった経緯だったんでしょう。

小清水:もうその当時は僕の兄も東京で大学に行っていたし、それから姉も結婚してその当時は横浜に住んでいたんでね。僕、中学3年のときに生徒会の生徒会長をやっていて。言うのも何だけど、割合出来がよかったんですよ(笑)。それで両親が二人で話したのか、多分姉夫婦と一緒に話したんだろうと思うんだけど、いずれ大学にいくときには東京か大阪に普通出ていくので、何だったら今から東京へ出したらどうだっていうふうな話になったみたいで。「東京行くか」って聞かれたから、「うん、行く」って言って。それで中学3年の夏休みに生徒会長の職をほっぽり出して、気軽に東京へ出ていったんです。東京はその当時、高等学校を受けるのに学区というのがはっきりしていてね。第1学区に日比谷高校があって、第3学区だったかな、そこに新宿高校と戸山高校があって。自分の住民登録をする場所、要するに寄留っていうんですけど、住民票を移させてくれる知り合いがたまたま目黒にあったもんだから、知り合いのところに一応住所だけ置かせてもらって目黒第六中学校(目黒六中)というところに2学期から通ったんです。両親が赴任したとかじゃなくて、たまたまきょうだいが東京に暮らしているから行きましょうという感じで行ったので。確か1959年ですね。昭和34年。まだ戦後の名残があって、自分の住んでいるところから別なところに行くときには、外食券っていう券を市役所から貰うんですよ。

菊川:外食。

小清水:外食券。外で食事をするときにその切符みたいなものを渡して、それを食堂で出して食べるっていうことがあって(注:第二次大戦中および戦後の米の配給制度の下で発行された食券。1941-1969年まで実施)。外食券を親から送ってもらってそれで生活するというような、人の行き来がそれほど自由ではなくて、いろんな意味でまだ不自由なところがあった。例えばどっかに旅行に行くでしょう。旅行に行った先で、旅館で食事を出してもらうためにその外食券を出したりとか、あるいは自分でお米を持っていってそれで食事を出してもらうとか、そういうことがまだ残っていた時代なんですね。そのあと高校に入ってから、友達と東京から長谷寺とかあっちのほうに旅行に行ったときに、二人で旅館で米を出したら、さすがに「もうお米を持ってこなくてもいいんですよ」って、言われた記憶があります。昭和30年代の半ばぐらいまでは、旅行するときには自分の食いぶちは自分で持っていくものでした。

菊川:そういう習慣のある時代だったんですね。

小清水:そんな時代が残っていましたね。

加治屋:目黒六中に入られて、でも実際のお住まいはどちらだったんでしょう。

小清水:目黒六中に通ったのはね、横浜から通ったんですよ。横浜の東横線の白楽というところに私の姉夫婦がいた。今は何ていうのかな、防衛省になっているんでしょうけど、当時調達庁っていう役所があって、その役人を僕の義理の兄がしてたものですから、その官舎があったんですよ。官舎といっても6畳一間ですからね、その当時は。そこで一緒に暮らすわけにいかない。近くに私の兄と私とで部屋を借りて、そこで朝ご飯は自分たちでトーストを焼いて食べる。夜だけ、僕が学校から帰ってくると姉のところに行って食事をするというような(生活でした)。学芸大学というところに目黒六中があったので、白楽からそこに通っていましたかね。

菊川:中学校3年生の2学期で転入されたっていうことですけど、高校受験もありますし、ご自身も環境の変化が大きかったんじゃないですか。

小清水:そうですね、大きかった。まず四国と東京の言葉は違うでしょう。それでその頃は言葉遣いにすごく気を使った記憶があるし、それからあとは多分僕の人生で一番よく勉強しましたね、そのときは。高校受験のための勉強は毎日、本当に毎日、学校から帰ってくるとずっとやっていましたね。四国の学校からいきなり東京の学校に行くと落差があるんですね。四国で勉強していたことだけでは通用しないみたいなところがあって、それでそのために勉強し直すっていうことをやっていましたね。たまたま僕の義理の兄が調達庁に勤めながら司法試験を受けるための勉強を毎日やっていたので、二人で並んでずっと勉強していました。あのときやった勉強と同じぐらい高校に入ってもやっていたら、ひとかどの人間になれたんだろうと思うけど(笑)。あれでエネルギーを使い果たしてしまった。

菊川:でも中学校に入られてからお勉強をしっかりやられたっていうことですよね。東京に行くことを決められたのは、ご自身でも「東京に行ってみたいな」という気持ちもあったんでしょうか。

小清水:自発的に自分で東京へ行くっていう発想はなくて、「親が行ってみるか」って言うから「行ってみるよ」って。だって想像つかないですもんね。東京に僕が一人で行って、どういうふうになるかなんて。ただまあ、きょうだいがいるから大丈夫だろうっていうぐらいのことで。夏休みに東京へ出てすぐね、田園調布にあった今でいう学習塾みたいなところに行って夏期講習っていうやつを受けて、それで実力の違いを自分で感じ取って。

菊川:高校受験に向けて勉強をかなり頑張られたというのは、ご家庭の方針なんでしょうか。

小清水:そうですね。親は東京へ僕をやってちゃんと勉強させて、それこそ東大にでも入ってくれて…… 。母親は「何とかして医者になってくれ」って言っていた。父親は別に何も言わなかったんだけど。僕も別に医学部に行くということじゃなくて、とにかく勉強して東大に入ろうというのが漠然とした夢で(笑)。それで、その学区の中の一番トップだっていわれている新宿高校を受けてみようと。でも、田舎から出てきてすぐの田舎者が、進学希望のときに新宿高校って書いたら、クラス中から笑い者になった。そんなことは可能であるわけがないだろう、みたいな雰囲気でね。

加治屋:中学から新宿高校に進む生徒はそんなに多くないんですね。

小清水:そうそう。一つの学校から4、5人ですかね。新宿高校を選択するのがね。だからクラスでせいぜい一人か二人しかいない。でも僕は東京の事情を知らないから。「どうして志望してはいけないのだ」って漠然と思っていました。

菊川:中学校のときはテニス部にいらっしゃって、特に美術に関わるようなことはなかったですか。

小清水:全くなかったですね。ただ宇和島の中学時代は、美術の先生を僕も知っているわけですよ。親の仲間というか知り合いだから普段行き来があったりして。その美術の先生に、割合絵がうまいみたいな評価を受けていました。けど、別に絵が好きで中学時代いっぱい描いていたっていうことはないですね。その頃、中学の宇和島にいた時代は、真っ黒になってテニスばっかりしていました。

菊川:テニスと勉強という感じですかね。

小清水:勉強はしない。勉強は学校で授業中にしかしない。あと何をやっていたかな。歌は好きだったので同じように中学でも合唱部にいて、そこで歌ってましたね。それとたまたま東京の目黒六中にいったときに、担任になった先生が絵描きだったんです。その当時まだ彼も若かったから。昔、みづゑ賞っていう賞があったのご存じですかね。

菊川:雑誌の『みづゑ』が主催する。

小清水:具象系絵画の安井賞にノミネートされる一つ手前ぐらいの賞があって、そのみづゑ賞を貰ったりするぐらいの絵描きだったんですよ、その担任が。でもそのときには授業で絵を描くなんていうことはほとんどなくて、普通の中学の授業でやるようなことをやっていました。その担任が、なぜか僕が浪人してからもずっと付き合いがあって、いろいろ相談に乗ってくれたりするような人だったんです。だからその担任がいなかったらもしかするとまた違う方向に行っていた可能性はありますよね。もし音楽の先生だったら僕の好きな音楽のほうに行ったかもしれないし。

菊川:その先生はどういった絵を描かれていたんですか。

小清水:ええとね、みづゑ賞を取ったやつは裸婦。非常にフォーヴィスム系の裸婦をね、黒と黄色だけで描いたり。熊本出身の人だったから九州の阿蘇の山とかね。あと晩年は桜島をいっぱい描いて。桜島描くと売れるらしいんだよね、九州の人たちに。

菊川:需要があるんですね。

小清水:最後のほうは日動画廊で展覧会をたまにやっていたけど、大体桜島の絵を描いて。

加治屋:お名前は何という方でしょう。

小清水:西村正次。西の村の正しく次ぐかな。僕が習った当時は兜屋画廊というのが銀座にあって、展覧会をしていました。目黒六中から彼は東京都立大学の附属高校の美術の教師になって移って。僕が大学出た後に、関西で食うや食わずの生活をしているっていうんで、自分が定年になるときに「都立大の附属高校の教師の職を譲るけど、おまえやる気はないか」って言われましたけど、残念ながら僕、大学出てないのでね。卒業証書貰ってないので教員免許も当然持ってなくて「だめですよ、僕は教員免許がありませんよ」と言って断りました。

菊川:都立新宿高校の時代の話なんですけれども、そういった進学校に進学されて、なぜ美大に進学するということを考えられるようになったんですか。

小清水:人生の重大な転機ですね(笑)。いや、新宿高校に入ったときは僕、結構いい成績で入っているんです。ところが授業を受けていると毎月テストがあって、そのテストの成績が、名前と各教科の点数が教官室の前に貼り出される。誰は何が得意で成績が良くてとか、全校の同じ学年の連中の成績がわかるわけですよ。それで発奮させようということなんだろうけど、僕はだんだん表から落ちて、すぐに表には載らない落ちこぼれに入ってしまった。自分は成績があまりよくない、勉強は向いてないというのがわかってきたのが一つ。
それから僕の仲の良かった友人たちはね、皆癖のある連中で。作曲家になった池辺晋一郎っていうのが一番仲が良かったんだけど、いつの間にか、音楽をやっている池辺と毎日のように話をして。それから週末には彼の家に行って、土曜日の夜は彼の家で泊まって日曜日も一緒に遊んで帰る、そういう生活をしている間に「僕も芸術がやりたい」というふうに思い始めて。僕もずっと子どもの頃から音楽が好きだったから、高校の2年生ぐらいのときには音楽の世界に僕も行きたいと思い始めた。だけど「音楽学校に行こうと思うんだ」って池辺に相談をしたらね、声楽家になるための心得みたいな本を1冊くれて。それを見ると、音楽を勉強する、声楽家になるためには、うまいものを食って滋養を蓄えてそれでぜいたく三昧をしないとだめだ(笑)、というふうなことが書いてあって、僕の目にはそれが飛び込んできた。その当時、東京藝大の教授だった池内友次郎っていう作曲家がいて−−俳人の高浜虚子の息子だったんだけど−−彼のところに池辺くんが週に1回作曲のレッスンに行ってると。「月謝はいくらぐらいなんだ」と聞いたら、僕が家から送ってきてくれる一月の生活費、それが1回のレッスン料と等しくてね。「ああそうか、音楽の世界ってやっぱり金がかかるんだ」と思って、それで音楽はやめようと。結果的に芸術の世界で自分がやっていけるとすれば、美術ぐらいしかないのかなと思って、結局目指すことにしました。高校時代はテニスもずっと続けてやっていた。なぜか気後れがして音楽部には入れなくて。だけど音楽は好きだったから、高校生ができるオペラの楽譜が出回っているのを手に入れて学園祭でやろうといって有志を募ったのね。結構人が集まってきて、その中にもちろん池辺もいてピアノの伴奏をしてくれて、オペラの上演を初めてやったりとか。そういう文化的な活動は割と率先してやっていましたね。

菊川:学校以外にも、池辺さんと例えば休日に街中に音楽を聞きに行ったり、何か見に行ったりすることはありましたか。

小清水:彼の家は裕福な家だったから家族でN響(NHK交響楽団)の会員になっていて。毎月定期演奏会に行くんだけど、家族やお母さんとかが行けないときに僕がそのチケットを貰って池辺とよく一緒に行っていた。それから今でも覚えているのは東京大学のギリシア悲劇研究会というのがその当時あって、それが日比谷の野外音楽堂で『アガメムノン』を上演したのを(見た)。それは音楽ではないけど、でもコロスが出てきたりするから(笑)。二人で「寒いな」と思いながら見た記憶を今でも鮮明に覚えている。

加治屋:ちょっと戻ってしまうんですけれども、新宿高校に入られると非常に進学校で随分同級生の感じが変わったんじゃないかと思うんですけれども、いかがでしたか。

小清水:そうですね。周りは本当によく勉強をするっていうか、真面目なやつが多かったですよね。一方で新宿高校って不思議なところで、旧制府立六中っていっていた時代から文武両道みたいなことを奨励する気風があって。それと、生徒を大人扱いするんですよ。頭ごなしに抑えつけるということは一切なくて。教師と学生の関係も非常に対等な関係で、すごく皆自由にのびのびとした状態でね。だから池辺のほかに皆さんが知っているとすれば、前の文化庁長官をやっていた青柳正規。彼は山岳部にいて、テニス部の隣が山岳部のクラブハウスでね、いつも彼はリュックしょって昼休みに体育館の外側の避難階段を上がったり下りたり(笑)。がりがり勉強しているだけっていうよりは、皆それぞれ好きなことをやっている、そんな感じがありましたよね。僕はだから自由にいろんなことをやるというほうにばっかり目を向けて、肝心の勉強はそっちのけ。本当に最後のほうは。300人ぐらい同じ学年がいるんだけど、毎月成績が発表されるでしょう。いつも池辺と二人で「あ、俺より下にまだ二人いる」とかお互いにそう言って(笑)。

山下:小清水先生のときも高校では理系や文系はありましたか。

小清水:ありました。僕はなぜか理系のほうに入っていましたね。数学なんか全くできないのにね。中学3年のときの担任が数学の先生で、数学のテストが到底解けないから、直感でこれはこんなグラフになるだろうっていうのを丁寧に絵で描いた。そうすると「1点」とかって。ゼロではなくて1点、点数くれました。

一同:(笑)

加治屋:新宿高校っていったら新宿駅の割と近いところにある高校ですよね。ということは、60年代ですから新宿の文化があったと思うんですけど、何かご記憶のことはありますか。

小清水:高校時代にね、本当は通ってはいけない道っていうのがあって。それが新宿の中央通っていう通りで、新宿駅から僕たちは甲州街道沿いに登校しなきゃいけなかった。それが義務付けられていたんだけど、大体不良は皆その中央通、飲み屋街を通っていくのね。そのはずれで高校に近いところに風月堂っていう喫茶店があって、60年代の頃からヒッピーのたまり場みたいになったりしていて。風月堂の吹き抜けの1階、2階の壁全面にLPレコードがびっしりあって、いつもジャズが流れている。そういう雰囲気のところでね。ひそかに池辺と一緒に行ったりとかね。

加治屋:ああ、そうなんですか。

小清水:それから新宿の校門出てすぐに名画座みたいな映画館がいっぱいありましたから。その当時コーヒー1杯と同じ値段で映画が観れたのかな。よく映画館に行きましたね。名画を見にね。それとあと、アートシアター系の映画ばっかりやっている映画館があって。映画ももちろん観ましたけど、映画がはねた後に、夜何時ぐらいかな、9時前ぐらいから実験的なお芝居をよくそこでやっていて、それもよく見に行きましたね。

加治屋:そのお芝居ってどういうグループがやっているものですか。

小清水:いわゆるアングラの芝居はそれこそ花園神社でテント張ってやっていたんですけど、そうではなくて多分俳優座とか青年座とか文学座とかで勉強した人たちの中でユニットを組んで、劇団ではやれないようなことをやっていてね。その当時は(ベルトルト・)ブレヒト(Bertolt Brecht)の芝居とかね。あるいはあれ何って言ったっけな、忘れちゃった。ヨーロッパの前衛的な芝居をよくやっていましたね。それと時々日本人の若い戯曲シナリオライターが書いた芝居をやったりとか、非常に実験的なものをやっていましたね。

菊川:そういった前衛的なものを見る中で、美大に行ってもいいかなという気持ちが芽生えてきたと。

小清水:まあそうですけど、有り体にいえば美術学校ぐらいしか行くところが残されてないっていうか。さしたる将来に対する展望があったわけではなくて、なんとういうか、それこそ友達が早稲田大学を受けるって言ったら「じゃあ僕も一緒に早稲田受けよう」とか言って受けてみたりとか、ほかのところも受けたりしていました。ほとんどお付き合いで大学受験みたいなことをしていて。僕が大学に入るっていうと美術系しかないから、とりあえず東京藝大を見に行ってみようと思って東京藝大を受けました。絵も描かないのに受かるわけないですよね、今から考えれば。

加治屋:それはどの専攻を受けられたのでしたか。

小清水:僕はデザインをやろうと思っていたから、その当時工芸科にいわゆる意匠デザインがあったんで工芸科を受けました。僕の同級生の中で東京藝大の油絵科に現役で入ったやつが一人いて。それからもう一人、一緒に歌を歌っていた1年後輩のやつがいて、こいつが絵がすごくうまくて。彼は僕より1年下ですけど、僕が浪人しているときに彼はやっぱり現役で油絵科に入って。そういう連中が周りにいたので。ただ同級生で藝大に行ったやつ(古川秀昭)は、最後に再会したときには岐阜県美術館の館長をしてました。今は日比野(克彦)くんがやっていますけど。
それと高校3年になってからかな。美術学校へ行くんだったらデッサンの勉強しなきゃいけないって(言われた)。僕は美術部には籍を置いてなかったのでね。さっき言った現役で入った連中とかそのほかに美術系のところに行った連中は皆、美術部でやっていた。その当時の美術の先生が「受験用のデッサンを見てやるから美術室へ来なさい」って言うので(デッサンを)やったんだけど、「おまえは到底見込みがないからやめたほうがいいよ」って言われましたね(笑)。

菊川:当時も藝大を受けようと思うと、外の美術の予備校に行かれる人もいたんですか。

小清水:多分ね、すいどーばた洋画会とか杉並のほうの阿佐ヶ谷美術研究所とか、そういうところに皆通っていたと思うんだけど、僕は高校に在学中は行ってなくて。3年浪人していますけど2年目ぐらいから、すいどーばたと阿佐ヶ谷とそれから新宿美術研究所、その順番に行ったんだけど、なじめなくて(笑)。特にすいどーばたはなじめなくて。阿佐ヶ谷もなじめなくて、結局、新宿美術研究所へ。ここが非常に自由でね、行くと真ん中にモデルさんが立っている。それを皆自由に好き勝手にいろいろ描いたりできるところで。それも月謝ではなくて1回いくらというふうなチケット制みたいな感じでね。そこに時々行って好きにデッサンしたり絵を描いたりしていましたね。本当に真面目に受験勉強っていうのができない。できないたちなんですね(笑)。

菊川:3年間浪人生活を過ごされて予備校にもたまに行かれたり。あとの時間は展覧会を見に行ったりアルバイトをされていたのですか。

小清水:高校を出て最初、どうだったかな。出てすぐは一人で旗の台っていうところに下宿していて。僕の姉が教師をしていたから同じ小学校の同僚の人の部屋を借りていた。それで…… そうだな、家庭教師をしましたね。近所の小学生の家庭教師を頼まれて。週に2回教えに行くと、その子は可哀想だったんだけど親が飲食店をやっていて夕方から一人きりになってしまってね。小さい子だったんだけど、遊び相手みたいな感じで家庭教師をして。そのときに店屋物だけどちゃんとした食事をさせてくれるのね。週に2回そうやって腹いっぱい食えて、それ以外のときは金がないもんだから牛乳だけ毎日2合ずつ(飲んでいた)。2合瓶っていうのがあったのね。それを配達してもらって。牛乳はその場で払わなくてよくて1カ月後に払えばいいのでね。家庭教師のお金が入ったら払うっていう感じで。普段は牛乳飲んで、時々自分でマカロニゆでたりしてね、食べていました。あとはね、相変わらず僕、歌を歌っていた。高校の卒業生がやっている合唱団があったんですよ。アルベルネ・ユーゲントコール(Alberne Jugend Chor)っていう合唱団があって、週に1回新宿の幼稚園を借りて、夜集まって皆で合唱をする。浪人している間、美術学校を受けるって言いながら、やっていることは音楽ばっかりっていうようなね。多摩美に入るまでメインは歌を歌うこと。それから池辺の家に行って、池辺はもう大学生になっていたんだけど、彼の伴奏で歌を歌うとかね。それがメインで時々絵を描いて(笑)。

加治屋:さっきからお話を伺って、先生、すごい声がいいですよね。

小清水:そうですかね(笑)。歌は好きでしたね、その当時は。そうそう、夢は歌のお兄さんになることだった。

山下:宝塚(歌劇団)に最近行かれる理由がよくわかってきました。

小清水:分かってきましたか。それはまた別なんですけどね。

菊川:お母様がお医者さんになってほしいと思われていたそうですけど、美大のために浪人していることについては特に反対はなかったんですか。

小清水:多分、じっと我慢していたんでしょうね。だけど3年浪人して4年目に突入するかっていうときに「さすがにもうこれ以上は認められない」って言われて。それで「もし大学に入れなかったらもう諦めて働きなさい」っていうようなことを言われた。僕は当時の高校時代の友人とずっといまだに付き合いがあるんですけど、親しい友人が何人かいてね。それで彼らを家へ連れていって、僕は大学には入れないけど一生懸命やっているっていうことを証言させる(笑)。そんなことをして親を説得したりして。
そう、忘れていたけど3年目の浪人のときにたまたま人の紹介で絵描きが使っていた割と広いアトリエを貸してもらったんですよ。あれ、どれぐらいあったかな。多分この部屋の倍ぐらいはあったと思うんだけど。昔、玉電(玉川電気鉄道)っていう電車が渋谷と下高井戸の間を走っていた。その玉電松原っていう駅のすぐ前にそういう部屋を借りることができて。たまたまそのときの家賃が僕一人ではまかないきれなくてね。僕が半分出して、高校時代の友人たちが、皆まだほとんど大学に通っていたんだけど一人千円ずつ出してくれて、それで家賃を払って。その代わりその空間はいかなる時間でも自由に出入りして使っていいと。そういう仕組みにして一種のたまり場みたいなものを作って。僕は片隅に畳を2枚敷いてそれがプライベート空間で、それ以外のところは友人たちが自由に使う、そういう空間を作ってね。皆学生だから毎日大学が終わるとやってくるんですよ。それで集まっていろんな話をしたり、いろんな話をするついでにマージャンをしたり(笑)。そういうので、松原っていうとこは割と郊外ではあるけれども足場のいいところで、皆なぜかやってきていましたね。その友人たちがまた自分の友達を連れてくる。例えば記憶しているのは、早稲田に行っていた友人がいたので詩を書いたり童話を書いたりするような女の子たちを何人か連れてきて、その場で話をしながら池辺が彼女たちの書いた詩に即興で音楽をつけてそれを僕が歌うとか。

菊川:すごい。

小清水:そんな今から思うと嘘みたいな楽しい時代がありましたね。

加治屋:その場所はどのぐらい使われたんですか。

小清水:人数ですか。

加治屋:期間は。

小清水:期間はね、大学に入って1年半ぐらい、都合2年半ぐらい続きましたかね。ちょうど20歳ぐらいから22歳ぐらいまでの間ですかね。だから友人たちでまともに東大に入った連中が皆卒論を書き終わったぐらいにそこを解散しましたね。その中の一人で読売新聞社に入って、外報部畑で最後はアメリカ総局長をして日本に帰ってきて、ちょうどネットの新聞をそれぞれの新聞社が試行錯誤し始めたとき、新しい部署の責任者になって定年で辞めた友人がいるんですけど。彼の卒業試験のレポートを1科目だけ代わりに書いた。

一同:(笑)

小清水:彼もヨットマンでヨットばかり乗っていたからだいぶ溜まっていてね、卒業単位のためのレポートが。それで皆で手分けして書いた記憶がありますね。

加治屋:お名前は伺ってもよろしいですか。

小清水:藤本直道っていいます。読売新聞のもうだいぶ年齢的に上のほうの人たちはまだ記憶していると思いますけど、割と外報部の中では頑張っていたやつだと思います。残念ながら十数年前に、新聞社を退職してすぐに癌で亡くなってしまいました。読売新聞の菅原(教夫)さんという美術記者がいらっしゃいますけど、彼なんかは藤本のことはよく知っていましたね。

加治屋:浪人されている間は最初は工芸科を受験されて、そのあとはどの科を受験されたんですか。

小清水:現役のときから浪人3年までの4回、工芸科ばっかり受けていて、それ以外どこも受けなかったんですよ。さっき言った2浪まで一緒に付き合った友人が早稲田を受けるときに、一緒に受けましたけど全然歯が立ちませんでしたね。親からこれが最後って言われたときに、初めて多摩美を受けたんです。あとは和光大学ってのができたばかりだったんですね(注:1966年開校)。多摩美もだめだったら和光大学を受けるかなと。僕は親には、大学は無理にいかなくてもいいんじゃないか、アテネ・フランセにでも行ってフランス語の勉強をして、それでいきなり外国へ行くのはどうだろうってなことを持ちかけていました(笑)。そんな、一生懸命さぼることばっかり考えていた。

菊川:でもずっと工芸科だけを受けてらっしゃったのは、やはりデザインがお好きだった。

小清水:別に方針があったわけじゃなくて、漠然と世の中に出ていくためには今の時代デザインがいいだろうというふうに思ったので。

菊川:ファイン・アートの絵画や彫刻ではなくて。

小清水:ではなくてね。さっき言い忘れましたけど、絵画とか彫刻とかは僕の後輩の亡くなった大矢寛之っていう才能を見ているのでね。その才能を見ているから僕が立ち向かってもしょうがない。音楽も、池辺の才能に僕は立ち向かうことはできないって思った。同じような理由で。違うデザインの分野でって、その当時は思ってましたね。

加治屋:そのときご覧になっていたデザインって何かありますか。

小清水:デザインですか。その当時は資生堂のショーウィンドウがね、すごくよかったんですよ。毎月変わるんですけど、いつも見に行っていましたね、面白くて。資生堂と和光のショーウィンドウが面白かったんですよね。

加治屋:じゃあデザインといっても、グラフィックデザインではなくて。

小清水:今で言うとディスプレイデザインとかそういうことなんでしょうけど、でもデザイン全般でそういうものが好きで、そういう世界に行こうと思ってましたよね。

加治屋:ちなみに、もしかしたら全然関係ないかもしれないですけど、高校に入ってオリンピックがあったと思うんですが……

小清水:64年ですね。

加治屋:そこでもいろんなデザインをご覧になったりとかは。

小清水:亀倉雄策のポスターとか、そういうのはいまだに鮮明に覚えていますね。非常に思いっきりのいいデザインで。うーん…… その頃は特にデザイナーを絞って彼のデザインが好きというのはなかったですね。大学に入ってから杉浦康平とか、田中一光とか知るようになりました。

菊川:予備校なんかに出入りしていると、やはり美術関係の友人も増えるかと思うんですけれども。

小清水:全然なかったです(笑)。友人は別な世界の人ばっかりで。

菊川:ああ、そうなんですね。例えばさっきのデザインの話とかをどこから情報を得ていらっしゃったのかなと思いまして。例えば雑誌とか。

小清水:それは街を歩いて自分の目に飛び込んでくるものばかりですね。誰かデザイナーに会ってということは全くないし。ただ西村正次先生っていう、中学のときの担任が、自分の教え子だと言って、僕より前に東京藝大の建築科に入った人を紹介してくれて、僕が描いた絵を見てもらう。それが二度ほどありましたかね。

加治屋:藝大はデザインのほうで受験されたけれども、多摩美は彫刻を受験されたのはなぜなんでしょうか。

小清水:それはね、全く不純な動機で。多摩美も僕は入れると思っていなかったんですよ、受験しようとしたときはね。後々の言い訳のために一番募集人員の少ないところを受けてやれと思ってね。それで彫刻が一番少なかったので受けたんです。たまたま僕の兄が建築をやっていたこともあって、建築雑誌はよく見ていたんですよね。だから空間的なことに関する興味はありました。でも多摩美の入学試験で面接があって、いろいろ聞かれるんですよ。どういう彫刻家が好きかとか、なぜ多摩美の彫刻科を受けようとしたかとか。そういうのは受験する前に分かるじゃないですか。想定できるでしょう。それこそつけ焼刃で、萩原守衛なんていう名前を記憶したりとかね。大学の先生で建畠覚造なんていうのは、これは押さえておかなきゃいけないと思って(笑)。「どんな彫刻が好きですか」って言ったら「萩原守衛のあれが好きです」とかいうふうなことを答える、その準備をしたりとかね。ちゃんと調べて、建畠覚造っていう人が教授らしいから「建畠覚造の〈ORGAN〉シリーズは、僕は好きです」とか言って(笑)。

一同:(笑)

小清水:本人目の前にして。知らないんだけど。

加治屋:それで見事に入られるわけですね。

小清水:うん、なんかね。

菊川:彫刻科でどういった教育が当時なされていたのか、少しお伺いしたいんですけれども。

小清水:多分、その当時のオーソドックスな彫刻教育と、それともう一つは建畠さんなんかが中心になって考えた彫刻の勉強を抽象化していく(教育)ね。要するに昔のただ素描をすることだけじゃなくて、点、線、面とか分析的に構成していく、そういう教育が始められたばかりの頃でね。その両方がありましたね。だから大学に入ってすぐは、まず模刻。例えばベートーヴェンのマスクとかね。そういったものを見ながら模刻していくことから始まって、その次に自分の手を作る。その次に人間の首を作る。その次は人間の胸像を作る。その次はトルソを作る。全身像を作る。だんだん大きくなっていくという。それをやった後に、今度は技法教育っていうのかな。鉄の溶接で作品を作るとか、石を彫るとか木を彫るとか、それから合成樹脂を使った作品を作るとか。建畠さんがいたからだろうと思うんですけど、合成樹脂といったものも取り入れて教えることになっていましたね。ただその当時、建畠さんのほかに笠置季男さん、圓鍔勝三さん、早川巍一郎、それから田中栄作といった人たちがいたんだけど、そういう先生から普段教わることは一切ないんですよ。何カ月かに1回出された課題の採点に先生が集まって、それで一人一人の作品の講評してもらう。そのときだけ教授に会うんだけど、それ以外は一切何もないんですよ。

菊川:技術的なことを教えてくださるのは、また別の方がいらっしゃるんですか。

小清水:多分ね、助手がいたんだと思うんだけど。その助手が、例えば電気溶接の注意事項とかね、そういうことは注意する。あと講評のときに土谷武さんっていう人が講評のときだけ外部から来てくれて。その当時、日大(日本大学)の芸術学部の先生をしていたのかな。建畠さんのお友達で、新制作か何かの人でしたね。僕は建畠さんとそれから土谷武さんの言うことは素直に聞いていたんですけど(笑)。残念ながら笠置季男さんは僕が1年のときに亡くなられてしまって、一度か二度しか講評してもらったことがなくて。あと圓鍔さんと早川さんは、言うことが全然耳に入らなくて、「とんちんかんなことを言ってるな、この人たちは」と思って。今から考えれば不遜な考えですけど。後から同級生に指摘されたんだけど、早川さんと圓鍔さんが僕の作品について話をしているときに、僕は煙草をふかして横を見てるって。

一同:(笑)

小清水:今、僕の前で煙草ふかしているやつがいたら、ぶん殴りますけど(笑)。土谷さんは丁寧に接してくれる人でね。学生をちゃんと対等に見てくれる。だから学生に対してもあの人は敬語を使うんですよ。他人として、一人の大人として敬語を使う。そういう接し方でした。考えてみれば京都生まれの人だから、非常に対人関係に最初から距離を置いているってことだったんだろうと思うんだけど。でも僕にとってはすごく何でも相談しやすくて、講評される内容も自分の腑に落ちるんでよく聞いていましたけど。ただ教授がたまにしか大学に来ないのと同時に、僕もたまにしか大学に行かないのでね。だからその偶然と偶然が重なる確率は非常に少ない。

菊川:じゃあ、いつもアトリエに残って制作されていたということはないんですね。

小清水:多摩美に入ってすぐのとき、同級生たちは、集まって芝生でギター弾きながらボブ・ディランか何かを歌うっていう(雰囲気だった)。僕はどうしてもそれになじめなくてね。三つ年が違うとね、だいぶずれているし。僕の友人たちっていうのはそういう雰囲気じゃなかったのでね。歌はクラシックだし、ボブ・ディランではないしね。だからどうしてもなじめなくて。それで課題の説明を受けるときと課題の提出のとき、基本的にはその2回の間にちょこっと行って一応作品を作っておくという、本当にその程度しかやってなくてね。もっぱらその当時は毎週、新橋の駅を降りて、画廊で開かれる展覧会を第七画廊から始まって全部ジグザグに歩いて見る。それはやっていましたけどね。

菊川:それはお一人でされるようになったんですか。

小清水:一人が多いですね。時々は後で知り合いになる成田克彦とかと一緒に回ったりもしましたけど、基本的には一人で見て回る。その途中で教授に出会う(笑)。そうすると最後の神田にあるコインを入れるとお酒が出てくる立ち飲み屋で、決しておごられることなく自分のお金で、建畠さんなんかと飲んだりして。だから大学で話をするよりは街の画廊で話をする、そういうことが多かったですね。

加治屋: 大学の入学は何年ですか。

小清水: えーと、60……

菊川:66年です。

小清水:66年か。そうですね。オリンピックのときは僕はちょうど20歳になる年で、誕生日をアルバイト先で(過ごした)。その当時住み込みのアルバイトをしてたもんだから。富士宮のあたりに富士根っていう町があるんですけど、そこで梱包の作業を毎日やっていた。オリンピックの開会式のテレビを住み込み先で見てね。世の中は浮かれ立っているのに、僕はいまだに浪人をしていてしょうがないなと非常に反省をしてました(笑)。66年だから僕は21歳か。21歳のときに大学に入ったんですね。

菊川:彫刻科に入られて2年目の67年頃に、成田さんとお知り合いになるということなんですが。

小清水:多分ね、66年の秋ぐらいかな。僕が入って半年ちょっとたった頃に、成田とそれから林という油絵科の成田の同級生と、もう一人誰かいたな、3人ぐらいが僕が借りていた玉電松原の広いアトリエに突然訪ねてきて。「自分たちはVOYANTっていうグループ名で展覧会やっているんだけど一緒にやらないか」って言って誘いに来たんですよ。

菊川:小清水先生の作品をどこかでご覧になっていたんですか。

小清水:ううん。じゃなくて彼らは僕が広いアトリエを借りているから、あれを使いたいっていうこと。

一同:(笑)

小清水:つまり、押しかけて乗っ取ろうぜっていう感じ(笑)。後からわかったんだけど、そういう魂胆があったみたい。多分、僕の同級生か誰かから聞いたんでしょうね。結局は乗っ取られませんでしたけど、そのグループ展には参加することにして、それで作品を作って発表する(ことになった)。

山下:入学されてから、課題をこなすだけじゃなくてご自分の作品も作っておられたんですか。

小清水:いやいや。(課題の)作品を作りながらいただけで、何か新しい自分の作品を作ろうっていう意識は全くなかったんですよ。ただ成田たちに誘われたのがきっかけで、じゃあ大学でやっている課題以外の作品を作らなきゃって。そこで初めて作りました。そこにあるかな、写真。『美術手帖』に一度だけ載せたことがあります。初めて作ったのはね、角材とそれから丸い玉。

菊川:これですか(注:乾由明「作家論:小清水漸 物質とかたちのはざまの往還」『美術手帖』1975年5月号、p.104掲載の作品写真)。

小清水:これこれ。その1点だけ残っていたのでその写真を載せたんです。10cm角の木の柱と直径10cmの丸い玉の組み合わせで、そのとき随分たくさん作ったな。6、7点作ったんですけどね。それは、丸と四角の組み合わせで構成をして、それを立体的に立ち上げるっていう作り方なんですけどね。柱と柱の間をボルトで繋いであって、石膏で作ったボールにねじを埋め込んでそれを角材にねじこんで、あたかも角材で挟んで止まっているという見せ方。上から見た平面図で見ると、ちょっとだけ前後しているといいますか。この部分が奥にあるのかな。柱半分ぐらい奥にあって、ここの部分が出ているっていう感じで。

加治屋:下の真ん中の2本が奥で、上の真ん中の2本が手前にきているということですね。

小清水:そうですね。だからこの玉が平面上にはなくて、ちょっとだけずれながら動いているような感じですかね。それ(写真の作品)は六角形ですけど、それを八角形で構成したものとか。そうすると割と円に近いような構成になっていくんですね。そういうものとか、それから3本の柱をボルト1本で締め上げて真ん中のやつをちょっとずらすと、真ん中の柱がちょっとずれたような構成になって。それで一番上のところに玉があって、真ん中の柱が元に戻ろうとするとその玉を弾いてしまう長さのやつ。それからその玉の直径ぶんだけ短くした柱で、元に戻ってもストンと入るのとかね。それからあとは、交差する2本の柱の真ん中の部分に玉が入っているような、壁にかけるものとかを作ったんですね。

菊川:じゃあこのときに出していらしたのは、この作品以外にも何点かあったということですね。

小清水:それと、八角形のやつと、それから柱3本のやつが二つかな。それと壁にかけるのと。それからもう一つあったのか。柱4本の間に玉が螺旋状にだんだん上がっていくようなね。6点。

加治屋:玉の大きさはどれぐらいでしょうか。

小清水:10cmぐらい。

加治屋:直径10cmぐらい。色も塗っているんですか。

小清水:色はラッカーで。それは6色か。色を塗り替えてありますね。それは大学1年生のときの後半に作ったので、そのときに僕が身につけていた技術っていうと、石膏取りするぐらいの技術しか身につけてないから。あと木を使うのは子どもの頃からやっていることで。何をその石膏のボールの原型にしたのか自分で覚えてないんですけど、分厚い石膏で二つの型を作ってね。その型の内側にラッカーで塗膜を作って一つの型から何個も抜けるようにして、それで作った作品ですけどね。

加治屋:これはタイトルはついているんですか。

小清水:ついていました。一つ一つはね。今、覚えているのは1個だけで《堕落した王》というようなタイトルがついていて。それはさっき話をした3本の柱で元に戻ると玉を弾かないものがあって、そのタイトルなんです。王は「玉」という字の点を取れば「王」という字になるんで。

加治屋:ああ、そうか(笑)。

小清水:今、本当に覚えているのはそれしかないんですけど、全部それぞれそんなふうなタイトルをつけてあったんですよ。そしたらその当時、評論家のね、名前を度忘れしちゃった。早くに亡くなられた…… 。

加治屋:宮川淳さん。

小清水:そうそう。宮川さんが見てくれて、タイトルに注目して「随分文学的なタイトルだね」って(笑)、感想を述べてくれたことがあって。宮川さん、なぜか僕の最初のその作品以降、全部見てくれているんですよ。71年にパリ・ビエンナーレ(第7回、パリ市立近代美術館、9月15日-10月21日)に僕が行ったちょうど同じときにね、宮川さん、パリにいたんですよ。彼、なんか時々ふっとパリに行ってらしたらしくて、誰かが「シテ島の何とかホテルに来ているらしいよ」って言うんで、僕わざわざ訪ねていって。ちょうど外出していて留守だったんですけど、近所のカフェでコーヒー飲んでいたらちょうど帰ってこられて、それで話をしたりした記憶がありますね。早く亡くなられて残念でしたけど、一番僕の作品を知ってくれている人だったんですね、その当時は。

菊川:作品の話に戻りますけれども、彫刻科の課題で出たような作品とは随分違うものをお作りになったと思うんですが、こういった作品を作られるきっかけはあったのでしょうか。人体ではなくて抽象的なものがやりたいとか。当時見られてたものはあるんでしょうか。

小清水:それもね、明確にあったんではないと思うんですよね。人体を作っていても、全然実感がないっていうか、充実感がない。僕が漠然と望んでいるものとは随分違うなっていう感じはあったんだけど、じゃあどういう方向でやればいいかっていう自覚はそのときには多分なかったと思いますね。なかったんだけど、街の画廊で見たり美術館に行って展覧会を見たりして、その当時の60年代の動きは何となくわかってきているから、そういった中で自分ができることとして作ったものですよね。それは本当に、非常に素朴に作った作品ですよね。抽象作品とも呼べないような、単なる空間構成でしかないですけどね。

加治屋:どうしましょう。一旦少し休憩を挟みましょうか。

小清水:そうしましょう。

(休憩)

加治屋:じゃあ、再開させていただいてよろしいでしょうか。

小清水:はい、どうぞ。どんなところまでしゃべったんだっけ。

加治屋:67年のグループ展の話は終わったんですよね。ちなみに大学時代は何かサークルとか部活動はされたんでしょうか。

小清水:いや、全く何も大学ではやっていませんね。さっきも言いましたけど、多摩美の今の上野毛の校舎の真ん中に芝生があって、そこで同級生がギター弾きなが歌ったり、それが終わると皆で多摩川の河原に行って「ドッジボールしよう」とか言うのにどうしてもついていけなくて(笑)。大学時代の同級生とは何人か同期会みたいなのをやると、5年に1回ぐらいは顔を出して旧交を温めますけど。

菊川:さっき見せていただいた作品ですけども、当時の彫刻科の学生さんで、抽象的な作品に関心があったり作ったりするような方っていたんですか。

小清水:そのときには誰もいなかったですよね。もう皆、真面目に塑像の勉強していたから。こういうのを僕が作って発表したときに、同級生でこんなことをするやつがいるって皆、驚いたっていうか。

菊川:むしろ油画専攻だけども、成田さんとたちのほうが気が合われたのでしょうか。

小清水:そうそう。特に成田とか、一緒にいた林とかいうのは割と早熟でね。僕と年が一緒だけど学年が上だったので、彼らはその当時の日本の現代美術界の風潮をわかっていてそれを目指すところがありましたよね。僕が入学する何年か前に斎藤義重さんが油絵科の教授で入ってきているので、多分その影響もあったんだと思うんだけど。

菊川:成田さんは高松(次郎)さんのところで制作の手伝いなんかもされたと思うんですけれど、そういった話をよく聞いたり一緒に行かれたりしたんでしょうか。

小清水:成田が高松さんの手伝いをし始めたのは、もうちょっとあとなんですけどね。東京画廊を通じてですね。関根伸夫もしばらく助手をしていたことがあるし、僕もほんの短い期間手伝ったりしたこともあるんですけどね。どういう関係か知らないけど、高松さんが〈影〉の絵で東京画廊で初めて個展をして、そのあと多分、高松さんと親しかったのが中原佑介さんで。中原さんもまだ30代だね。高松さんのアトリエに多分住まいが近かったこともあって、よく出入りしていて。それで東京画廊には中原さんと高松さん、斎藤義重さんもいるから、その生徒の関根伸夫とか、それから同じ多摩美の成田、そういう連中を助手としてアルバイトで使う関係があったんだと思います。
話が飛びますけど、東京画廊の主人の山本孝さんという人は、割合ね、若い僕らを育ててくれたというか。僕と成田はしょっちゅう山本さんの家に遊びに行って。ただ遊ぶんじゃなくて、山本さんが自分の子どもたちの教育のために、数学者だとかいろんな学者を呼んできてお話をしてもらう。そこに僕らも同席して話を聞く。で、めしを食わせてくれて。僕が学生時代、割と頻繁にそういうことがあってね。ただ、我々の展覧会をやるっていうほど僕たちは育ってないので、ちょっと餌を与えるというふうな感じで(笑)。

一同:(笑)

加治屋:斎藤義重さんとの出会いについてお聞かせいただければと思うんですが。

小清水:義重さんはね、油絵科の先生でしょう。僕は彫刻の学生だから直接の接点はないんですね。だから成田なんかと付き合うようになって、「大学のキャンパスを歩いている漁師の爺さんみたいな人、あれが斎藤義重だ」と教えてもらってね。それで作品は知っていたので、多摩美の中で今、僕が直接話をしたい人っていうのは斎藤義重ぐらいしかいないなと思って、僕は一人で義重さんの横浜の自宅に突然訪ねて行った。その頃、もう多摩美の油絵科の大学院の院生だった関根伸夫なんかが作品の手伝いをしていたんですよ。その斎藤さんの助手をしていた。そういう話を聞いていたから、突然行って「彫刻の学生の小清水ですけど作品の手伝いをさせてください」って僕のほうから言った。そしたら斎藤さんに「今、手伝ってもらうことはないんだけどね」とか言われて(笑)。でも立場を逆にして今から考えたら、見ず知らずの学生が突然やってきて「仕事手伝わせてくれ」って言われて何時間かその場にいられたら、嫌だなあと(笑)。

一同:(笑)

小清水:でも、斎藤さんのアトリエにその当時(ジュゼッペ・)カポグロッシ(Giuseppe Capogrossi)の小品とかね、何点かそういうのがあったりして、そういう話を取りとめなく聞かせてもらいましたね。それが最初の出会いで。それから数カ月して斎藤さんが自分の作品を作るときに「プラスチックの玉が作りたい」と言うんで、そういえば彫刻科にそういうやつがいたなっていうんで呼ばれて彼の作品に使うプラスチックの玉を作った。それが手伝いの始めですかね。長岡に大光相互銀行っていう銀行があったんですよ。今潰れてしまいましたけど、そこのオーナーの駒形(十吉)さんという人が大変なコレクターで。長岡現代美術館賞っていう賞を大光相互銀行で主催した、日本でも数少ないコレクターの一人だったんです。そこの長岡の本店のショーウィンドウに、斎藤義重さんの作品を新しく作って展示する仕事があってね。それを作ったのが実際に手伝った最初ですね。それは67年の終わりぐらいか68年ぐらいですね。

菊川:斎藤さんのゼミに出られていたわけではなくて、本当に徒弟関係のようにお仕事の手伝いを通して、斎藤さんから学ばれたんですか。

小清水:それが主ですけども、斎藤教室のいわゆる合評会っていうのがね、これは面白いんで、ちょこちょこもぐり込んで合評に参加していました。

菊川:その当時、彫刻科の学生さんでそういうふうに油画のゼミにもぐる方はほかにもいらっしゃったんですか。

小清水:いや、なかったでしょうね、多分。僕は図々しかったから。東京藝大の授業も受けに行った。紛れ込んで聞いたりして。

加治屋:どなたの授業ですか。

小清水:実技の授業はさすがに難しいので、学科の授業でね。池辺がいたから彼が受けている学科の授業に一緒に入って「今日は同級生が欠席しているから代わりに返事しろ」と言われて。三枝成彰っていう作曲家の代返をしたことがある。

加治屋:そうですか。すごい(笑)。

小清水:それとかね、東京藝大は外国からいろんな人が来て講演をしたり、それから特別授業をやったりっていうことがあって。美術ではなくて音楽のほうの授業をもぐり込んで聞いていましたね。

加治屋:合評会で斎藤さんはどういう講評をされるんですか。

小清水:斎藤さんはね、作品を一人一人前に持っていって説明するでしょう。そうするとね、黙って聞いていて最後にどんな作品でもいいところを言うんですよ。「ここがいいね」とか、いいところしか言わないんですよ。それは傍目で見てても面白くない作品なんだけど、そこからいいところを探して言う。それは非常に勉強になりましたね。学生の自分が見てもこれはいいところ探せないだろうっていうふうなものでも、ちゃんと探して。要するに学生が自分の作品を目の前に出して、皆が見ている中で説明をするでしょう。それを同じゼミの連中がああだこうだって言っているのを黙って聞いていて、それで最後に「ここはいいよ」っていう話をすると、皆が否定的でなく肯定的に作品を見る雰囲気ができあがっていってね。あれは本当に勉強になりましたね。

菊川:また作品のお話をお聞きしたいんですけれども、68年に作られた《梱包》という枠の作品についてなんですけれども。

小清水:それはね、その前の作品、《框(わく)》(1968年)っていう作品があるでしょう。それの次に作った作品で。彫刻科で勉強をしているときに先生たちがよく「空間」って言葉を使うんだよね。「空間って何だろう」っていうふうに、理屈で追い求めていくとなかなか解決がつかない。それで50cm立方という一つの具体的な空間を決めて、その50cm立方を形作るものを作ったのが、その《框(わく)》というやつで。例えば1cmの枠で作っていく。その枠を今度2.5cmにする。5cmにする、10cmするって増やして25cmの枠にすると詰まってしまうのね。立方体になってしまう。それを図式的に作ったのがこれなんです。ところがそのときに解決がつかなかったのが、枠がゼロのときの表現はどうなるんだって。結局そのときは、22、3cmの枠で作った残りの空間を、縦、横、高さみたいな感じで作ったんだけど、どうも自分でもそれが最終的な答えではないなという疑問が残ったままいたんですよ。それでいろいろ考えて、じゃあ50cmのその立法体を縄で梱包して、縄で縛って中身を抜いてしまえば枠がゼロっていう表現ができるんじゃないかというふうに、理屈で追い求めた結果の作品なんですね。

菊川:《框》の作品になってくると、随分観念的に空間を捉えようとされていると思うんですけども、そこで一つ大きな変化があったのかなと思いました。

小清水:そうですね。非常に素直に作品を作るということから、非常に理屈で作っていく。これはちょっと彫刻科で勉強してしまった結果のことだと思います。

菊川:それはやはり、成田さんや斎藤教室の皆さんと関わる中で変化されていったんですか。

小清水:まあそうですね。ただそれ以上に、やはり街や美術館で見る作品とか、美術雑誌なんかで見る情報とかが影響していると思うけど。だけど身近にいる成田や関根伸夫やなんかとの付き合いの中で話をして考えることがやっぱり一番強かったかもしれませんね。

菊川:この二つの作品なんですけれども、これを出品された68年に村松画廊で行った展覧会「OOOX」(1968年5月28日-6月3日)。これは何と読むんですか。

小清水:オーオーオーエックス。

菊川:オーオーオーエックスと読むんですか。この展覧会に出品をされているんですけれども、これは斎藤教室の学生さんたちとのグループ展ですか。

小清水:そうそう。斎藤教室の人たちがね、卒業生も含めて下級生まで一緒にいつもグループ展をやっていたんですよ。そこに初めて混ぜてもらって出したのが、その斎藤教室の人たちと実際に一緒に展覧会をした最初の経験です。ただ、どちらの作品も最初の発表は別のグループ展なんですよね。《框》のほうは、彫刻科の同級生と3人で秋山画廊でやったグループ展(1968年3月4日-9日)で出している。それから《梱包》のほうは成田と僕とシルバーノ・ベラルディネリと、それから河野健二っていう東京藝大にいたやつと4人展か何かをしたときに、最初に確か出しているんですよね(注:おぎくぼ画廊、1968年5月6日-12日)。

菊川:ちょっと気になっていたんですが、この村松画廊での展覧会というのは、5月から6月に開催されるんですけれども、ちょうど同じ時期にこの村松画廊と東京画廊で「トリックス・アンド・ヴィジョン」(東京画廊:1968年4月30日-5月18日、村松画廊:4月30日-5月11日)という展覧会があるのですが、これは関係があったのでしょうか。

小清水:関係は全くないですね。「トリックス・アンド・ヴィジョン」は僕らよりちょっと上の世代の人たちがやった展覧会で、これは中原佑介とか石子順造が東京画廊と組んで組織した展覧会ですよね。「OOOX」との関係は基本的には何もなくて。ただ斎藤義重という人を媒介にして東京画廊との接点があるから情報としては知っているし、それから「トリックス・アンド・ヴィジョン」を皆注目して見たことはあると思いますけどね。ただ僕は彫刻科にいたもんだから——そういう当時の現代美術の動きって、彫刻じゃなくて絵画のほうから皆動いていったんですよ。彫刻っていうのは、どっちかっていうともうちょっと遅れているんですよね。彫刻に関する展覧会で一番活発にやっていたのは秋山画廊っていうところで。そこぐらいしかなかったんですよね。そこの人たちも、基本的には新制作協会とか二科展とかそういったようなところに属している人たちがやっているっていうことがあって。多摩美の先生たちもそうですけど、基本的には新制作あるいは二科会の会員であったりしてね。そういう人たちがやっていたので、その当時の日本の彫刻界というのは団体展の流れの中でしかなかったんですよ。

加治屋:「OOOX」展に出されたとき、反応というか何かコメントはあったんでしょうか。斎藤さんから何か見た感想などあったりしたんでしょうか。

小清水:斎藤さんはね、何にも言ってくれなかったな。斎藤さんってね、普段会話をするぶんにはいろんな話をしてくれるんだけど、ゼミのときに学生の作品を講評する以外はほとんど作品に関して言わない人でしたね。だから街の画廊で展覧会やっても、「うん、面白いね」ぐらいしか言わないですよね。ただ僕がテーブルの作品をずっと発表していた頃に——80年代になってからですけど——東京画廊で僕が出した作品を見て、ぽつっと、「これは無限に作れるね」って言ったんですよ。それで、作り続けちゃいけないんだと思って。僕はそのとき、本当にいくらでも作れると思っていたの。自分が考えたテーブル状のシステムで作品を作ることはね。無際限に作れるって。だけど、斎藤先生にそういうふうに言われたことによって、「同じことを繰り返していてはいけないな」って、そのときに思いましたね。それでしばらくテーブル状の作品はやめました。やめなきゃよかったと今は思っていますけど(笑)。でも斎藤さんも多分、率直にその可能性について言ってくれたんだと思うんですけどね。

山下:彫刻の先生の課題はこなしつつも、こういう展覧会のときは頭のスイッチを切り替えて、その両方をこなされていたと。

小清水:課題はもう本当に、夏休みの宿題をやるみたいな感じで出していただけで。課題で真面目に考えて作ったのは、土谷さんが来ていた頃に出されたポリエステルの技法を教わるときの作品。僕は、それは真面目に自分の作品として作りましたね。今から考えてみると、テーブルの作品の原型になったような仕事です。円を傾けた透視図みたいな楕円形で滑らかな板と、真っ黒な台を作って、そこに5cm立方の透明な四角と黒い四角を並べて、最後に透明な卵と黒い卵をぽんと置くというもの。もう1点はそれを少し小さくして蛍光色のようなブルーの板を作って、ブルーの卵を1個置くというふうな課題を提出したんです。そのときだけ課題と自分の作品とをちゃんと合わせて出しましたけど、それ以外は、やらないと成績くれないからしょうがなくやるというスタンスでしたね。

山下:《梱包》のような作品を生み出すときは、アイデアは試行錯誤じゃなくて割とすぐひらめいていたんですか。

小清水:そうですね。今も一緒ですけど、僕、作品作るときにデッサンしたりとかしないんですよ。絵に描いて作品作るってことはまずなくて、ずっと考えている。考えていて最終形が出てくるんですね。ぽん、と。それを実現させようっていうので作っていく。いまだにそうですけどね。作品を作るためにデッサンをするっていう習慣が僕の中にないのでね。

加治屋:思いつかれてぽんと出たものは、実際に作る中で変わっていったりするんですか。それとも大体ほぼ最初の思われたときのものなんでしょうか。

小清水:ええとね、9割ぐらいは変わりませんね。ほんの少ししか変わらないです。それは、具体的に材料が思っていたより大きいとか小さいとかいうふうなこと、その程度でしか変わらないですね。作品が自分の中でわき上がってきたときに、それをスケッチブックに絵に描きながら推敲していく、そういう過程を僕は取らなくて。本当に頭の中に浮かんできて、それを実現するためにどうしたらいいかずっと考えていく中で変わっていく、そういう作り方ですね。だから周りから見ていると普段の僕は、ただぼーっとしているふうにしか見えないと思います(笑)。僕の中では作品をずっと考えているんだけど。

菊川:展示される空間と、作品の材料の規格と、ご自身の身体が把握できるサイズとが、頭の中で組み合わさって形が組み上がっていく感じなんですか。

小清水:そうですね。絵を描くときは本当にどんな比率にするかとか、今度の画廊のスペースに合わせるにはどうするかとか、寸法のあたりをつけるぐらい。その程度のことしかやらないですね。

菊川:ちょっと話が戻ってしまいますけども、学生であった頃ドナルド・ジャッド(Donald Judd)とかミニマル・アートのアメリカの作家なんかを特に意識されていらっしゃったっていうことを記事で拝見しましたけれども、そういった情報は、やはり日本の美術雑誌とかそういったところから得ていらっしゃったんでしょうか。

小清水:多分そうだと思うんですけどね。多分というのは、僕、美術雑誌買わないんですよ。誰かが持っているやつを見たりとか、図書館にあるのをたまに見たりとかっていうぐらいで、自分でお金出して買うってことほとんどなくて。学生時代から。あとミニマルに関しては、例えばロバート・モリス(Robert Morris)とかドナルド・ジャッドとかっていう作家については知っていたんだけど、それは多分、東京画廊に昔ね、洋書を売るコーナーがあったんですよ。

加治屋:えっ、そうなんですか。

小清水:特にアメリカの美術関係の本を売る、置いておくコーナーがあってね。そこでぱらぱらっと見る。その中に『ミニマル・アート』っていうこんな分厚い本があって。大判じゃなく小さいんだけど、それで見た記憶があるんですよね。『美術手帖』なんかもロバート・モリスなんかは時々情報として載っていたと思うし、その程度ですかね。その頃はまだ実物が日本に来ていないですからね。だから僕が大学の4年生ぐらいのときに、特にジャッドの四角い箱の天板がちょっと沈んでいる作品を見て「これはすごいな」と思った記憶がありますけどね。

加治屋:それは写真で見て。

小清水:写真で見て。

菊川:例えば斎藤さんの教室なんかでたくさん海外の図録を見せてもらったとか、そういったことは。

小清水:全くないですね。彫刻の授業でも建畠さんが一度だけスライドショーをしてくれたことがあるんだけど、それはもう本当に(コンスタンティン・)ブランクーシ(Constantin Brâncu?i)とか(ジャン・)アルプ(Jean Arp)とかね。そういう、ちょっと前の時代の人たちのものしか教わっていないですね。多分その頃の学生で、ドナルド・ジャッドとかロバート・モリスとかミニマル・アートを知っていた彫刻の学生は少ないだろうと思いますね。ただ、それこそ田中信太郎さんとか僕らよりちょっと上の世代の人たちは、非常に意識をしていたと思う。学生のレベルまでミニマル・アートが入ってきていることはなかった。せいぜいプライマリー・ストラクチャーって言われていた非常に基本形態を組み合わせて作る彫刻の作り方、その程度だったと思いますけどね。

菊川:じゃあ斎藤さんが特にそういうのを紹介することはなく、その周辺の学生さんたちで話を共有したり、たまたま誰かが持っていたものを見たということですか。

小清水:学生同士で話をするってこともまずなかったですね。ただ、いつ頃だろうなあ。関根伸夫が《位相−大地》(1968)を作る1年ちょっと前ぐらいか。その頃に福嶋敬恭さんがアメリカから帰ってきて、68年の毎日現代展にミニマルな仕事を出したんですよ(注:福嶋は66年帰国。このとき《20 Pieces》を出品)。それを見て、「あ、ミニマルだ」と言った。「ミニマル」って言葉を口走ったのが、僕が仲間内でミニマルについて話をした最初の記憶ですね。そのあと成田克彦なんかと街の喫茶店でおしゃべりをしているときに、ミニマルについてちょっと話をした、その程度かな。

加治屋:当時ご覧になった展覧会とか書籍、ミニマルに限らず何か特に印象に残っているものはありますでしょうか。

小清水:展覧会っていうのが…… 。

加治屋:例えばさっき「トリックス・アンド・ヴィジョン」の名前が挙がりましたけど、こうした展覧会は。

小清水:「トリックス・アンド・ヴィジョン」は特に衝撃を受けた展覧会ではなくてね。記憶にはありますけど、その記憶もほとんど薄れかけています。あとその当時の東京画廊で開かれる展覧会で(見たものに)、例えば田中信太郎さんの《点・線・面》(1968年)っていう作品があります。それから南画廊で宇佐美圭司がレーザー光線を使って発表した作品があります(注:《レーザー・ビーム・ジョイント》1968 年)。その二つはよく覚えていますね。それからあとは高松次郎の〈逆遠近〉の仕事とか。それは直接アトリエでちょっと手伝ったりしていたのでよく覚えています。それからあとはちょっと時代が過ぎますけども、やはり高松次郎さんの石ころに0.いくつっていう数字を入れるやつですね(注:〈石と数字〉)。それはいまだに覚えていますね。あとは、まだ東京近代美術館が京橋にあった頃、今のフィルムセンターになっている場所でやっていたときに、大学に入ってすぐかな、ダリの個展をやったんですよ。その作品を見てすごく面白いなと思った記憶があります。僕は浪人中は(アルベルト・)ジャコメッティ(Alberto Giacometti)の彫刻じゃなくて絵とか、それからギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)の水彩とかね、そういうふうなものが好きで。今自分がいる世界のようなものには、全く知識もないし興味もなかった。

菊川:ああ、そうなんですね。

小清水:うん。やっぱり僕はジャコメッティの絵はいまだに好きですけどね。

菊川:そうですか。では、次の質問に移りたいと思います。68年に第1回現代彫刻展で、関根伸夫さんの《位相−大地》という作品の制作のお手伝いをされるかと思います。巨大な作品でしたけども、彫刻科に籍を置いて勉強されていた小清水先生にとって、この制作がどういった経験になったかということを改めてお伺いできればと思います。

小清水:それの話をする前に、関根伸夫と出会ったのが多分67年の頃だと思うんですけどね。斎藤義重さんを中心にして横浜で富士見町アトリエっていうところで、ゼミを開いていたことがあって。僕はそれは知らなくて、偶然なんだけど横浜にその頃僕住んでいて。僕が住んでいるところとゼミが開かれている場所がほんの数百メートルしか離れてないところで、偶然夜、僕が関内の駅を降りて家のほうに歩いていたら、逆に駅へ向かう関根伸夫とばったり出会って。僕は関根伸夫のことは先輩として知っていたんで「こういうものです」って声をかけて話をして、それ以来知り合って。「こういうゼミがあるから君も来ないか」って言うんで、誘われて富士見町アトリエに出入りするようになった。それから、本当に全く偶然で、僕が住んでいた団地のすぐ裏に作業場があったんだ。斎藤さんの教え子の一人の実家が持っているスペースがあって、そこは材木屋(伊勢森材木店)さんだったんだけど、材木屋さんの一角に、どれくらいだろうな、多分50平米か60平米ぐらいの空間があって。そこで斎藤教室の皆が大学を卒業してからそこで作品を作る、そういう場所があるんですよ。そこを僕も一緒に使わせてもらうようになって。だから《框》っていう作品と《梱包》っていう作品、その頃は富士見町アトリエのその作業場でね。

菊川:そこで作られた作品なんですね。

小清水:そこで作るようになったんですね。それでその頃は関根伸夫も吉田克朗もそこで作品を作っていたんで大体、皆手伝うんですよ。お互いに作品を作っているときはね。特に関根伸夫の《位相−大地》の前の〈位相〉っていう半立体の作品を作るときは、もう本当に一緒に皆手伝ってやったりしていて。そういうことをやっているときに、一方でお互いにアルバイトをしなきゃいけない。その当時、今でいうクラブの小型版みたいなサイケデリックバーとかゴーゴー喫茶という場所がはやっていて、関根伸夫と僕と、吉田克朗と、その当時の関根伸夫の最初の奥さんになった櫛下町(順子)さん、その4人でチームを組んでそこの壁画を蛍光塗料で描くんですよ。そうすると、ブラックライトを当てるとバーッと派手な絵が出てくる。そういうアルバイトを一緒にやって、自然に仲良しチームができあがって。それでお互いに作品の話をすると面白いので、一緒になってやっていて。
それから〈位相〉の作品で彼が(第8回)毎日現代展でグランプリをもらうんですよ。それで突然、彼は絵描きなのに第1回の須磨離宮の野外彫刻展に呼ばれて、彫刻作品を作ったことがないのに野外彫刻を作らなきゃいけないっていうんで彼は一生懸命考えて。彼が最初に持ってきたプランが、地面に穴を掘ってそれを移し替える、もう本当に土饅頭のようなもので。それで、その作業場で4人でああでもないこうでもないって話をして、次第にあの形が円筒形という形に変わっていくんですね。関根伸夫も穴を掘るっていうことは観念的にわかるんだけど、それを積み上げて固定する、そういうことには技術がないのでね。そういうことについても、いろいろ話をして。彼は彼で大学の自然科学の先生に聞いたりなんかしてね。僕は土を固めるために、門松を作るとき竹のまわりに縁を作ってそこに土を入れて、荒縄で縛って形を保つということを覚えていたので提案した。それで、土にはニガリを混ぜて固めると固まりやすいっていう考えがあった。

菊川:ニガリを。

小清水:ニガリ。僕はテニスをしていたから。テニスコートを作るときに土を入れて、そこにニガリを混ぜてローラーで押し固めていくという経験があったのでね。そんなような非常に素朴な話から始まって、実際の手順を皆で話をして決めてやったんですね。やっぱり僕にとってはものすごい衝撃があって。なんていうかな、円筒形を掘ってそれを積み重ねる、そういう意味では非常に観念的なものなんだけど、実際に自分の体で感じた実感とできあがって視覚的にそれを確認すること、それがぴたっと合わさってね。自分の身体を通してできあがっていったもの——ただ穴を掘った労働実感としての体験ではなくて、それを超えた別次元のすごさと面白さが体験できたもんだから。それは本当に、僕のそれ以後の仕事の非常に大事な要素になっています。実際にそれまで自分が作っていた作品にしても自分の体や手を使って作っているんだけど、《位相−大地》のときにはただ自分が体験や経験したことだけではなく、そこから表現が飛躍してできあがっていくんだと実感できたっていうのかな。なかなか言葉にすると難しいんだけど。いまだにそうだけど、やはり自分の身体性と表現として出てくるもの、これは不可分で繋がってでき上がっていくんだっていうのは僕の中にはありますね。

山下:小清水先生のそれまでの《梱包》や《框》と違って《位相−大地》だけはまた土を元に戻してしまうじゃないですか。関根さんがそのアイデアを言っていたときに、最後に作品として残らなくなってしまう衝撃は特になかったですか。

小清水:最後に埋め戻すっていうのは、関根さんのプランの中にはないんですよ。公園だから展覧会の期間が終われば埋め戻されるのは、物理的な条件であって。プランとしての条件には、後で元に戻すというのはなかったんですよね。だからやっぱり一番の衝撃はさっき言った自分の体を通してできあがっていくということ。それからもう一つは、何もない地面に穴を掘って立てれば表現が成立するということのダイナミズムというか。そういうことには非常に驚きましたよね。

加治屋:《位相−大地》って小清水先生もあるインタヴューの中でおっしゃっていたと思いますけど、実際はやっぱりすごく大変な作業で、確か途中で重機を使って穴を掘ったというぐらい大変だったわけですよね。

小清水:そう。穴を掘るでしょう。1mぐらいまでは掘って土が上げられるんですけど、それ以上になっていくと上げられないんですよね。そんなこと当初は頭になくて(笑)。それで跳ね釣瓶みたいなものを作ってね。こういう支柱があって棒があって、その先に籠が結びつけられていて、穴の中に籠を降ろしてこっち側から持ち上げて土を取るという。

菊川:その機械を先生が考案されたって。

小清水:そうそう。そしたら1、2回やるうちに潰れちゃった(笑)。その場で作ったもんだから。

一同:(笑)

小清水:それを見かねた公園の作業に来ていた人たちが事務局のほうでも話をしてくれたんでしょうね。クレーン車を1台出してくれて、クレーン車から下ろした籠の中に土を入れて、それで持ち上げて外へ出す。そういうことをやってくれて実現したようなものでね。あれ、本当に自分たちで手作業だけで最後までやっていたら到底間に合わなかったでしょうね。

加治屋:観念というか頭の中で考えたのとは違うようなことが起こったんですね。

小清水:実際、誰もその土の全体量の質感とか量感とかをやっぱり把握できてなくってね、実際に作るまでは。作ってみて初めて、やっぱり土の重さってのはすごいんだとかね、その労働力が大変なものだっていうのが実感としてわかりましたね。

菊川:作品を作り終わられてから吉田さんと小清水先生が「自分だったらこの作品をこうしたと思った」という話をされて、先生は「穴はなくて円筒だけにしたかもしれない」とおっしゃったそうですが(注:小清水漸「二十八年目の手紙」『「位相−大地」の考古学』西宮市大谷記念美術館、1996年、pp.14-15)、小清水先生はずっと彫刻を勉強されてきていて、関根さんは初めて立体を作られたわけですけれども、やはり立体作品についての考えの違いはあると感じられましたか。

小清水:それはありますよね。ただ、今は、やっぱり穴と立体の両方あったほうがいいって思いますね。そのほうが作品としては面白いっていうのは思いますけど。そのとき作品を作り終わってすごい衝撃を受けた瞬間は、確か吉田克郎はね、「穴と円筒の立体は離してもっと別な場所に(置いて)距離があったほうがいい」ということを言ったと思うんですよ。僕は人工的に作った土の円筒だけあればその土がどこから来たか想像をするから「別に穴はなくてもいんじゃないか」というふうなことを言って。長い間、僕はそれに固執していたところがある。
71年にコペンハーゲンで関根伸夫と何カ月か一緒にいたときに、論争になってね(注:1971年にルイジアナ近代美術館に滞在)。男二人で閉鎖的な空間に毎日顔を突き合せていると、酒を飲むと喧嘩になるんだよね(笑)。何でも論争の種になる。そのとき彼が読んでいた本に『無門関』(法蔵館、1958年)っていう禅問答集みたいな本があってね。山田無文っていう人の書いた本かな。その中にね、歌が出てくるんですよ。旅人が一人荒野を旅していて、日が暮れてきたと。そこで一夜の自分が寝る場所を作らなきゃいけない。そういう情景のときに作った「引き寄せて結べば柴の庵なり 解くれば元の野原なりけり」っていう歌があって。それはさっき彼が言ったように、穴を掘って固めて元に戻すことに似ているんだけれど。草を結んで自分の寝床を作る。だけど朝それを解いてしまえば、また元の野原に還るっていう歌。それともう一つはね、「引き寄せて結びし柴の庵なれば 解かずそのまま野原なりけり」。要するに、別に解かなくてそのまま残しておいてもそれは野原なんだという歌なんでね。その歌の違いで論争したのではなくて、関根伸夫は穴があって立体ができる「その“からくり”が大事なんだ」って言うわけ。「結んで庵にしてそれを解いてまた元に戻すという、その“からくり”が面白いんだ」っていうふうに彼は言う。だけど僕はそうじゃなくて「草を結んで庵にしたら、それはもう自然の中の人間の営為の一つなんだから、そのままで自然の中に元に戻っていくんだ」って。それで論争をしたことがある。それは大乗仏教の大乗的な考え方と小乗的な考え方の違いを言った歌で、たまたま図式的に示した話なんだけど、結構二人で激高して一晩やったことがありますけどね。僕はその“からくり”があるのが気に入らないと思ってね。それよりも、存在だけで見せることのほうが僕はいいというふうにその当時思っていた。だけど今から考えれば、あの作品に関して言えば“からくり”が見えたほうが人には伝わりやすいし、それでこそいまだに語り継がれる作品なんだろうなというふうに思います。という話で、僕がもしあの作品を作ったら、円筒形だけを多分作っただろうなと。

菊川:やはりもともと立体物を作っておられた先生と、絵画からスタートされた関根さんとの違いでもあるのかなと思うのですが。

小清水:そうですね。多分、関根伸夫はね、その直前の作品もそうだしその前の作品もそうだけど、やはりトリックがあるんですよ、作品の中に。トリックがあって、その面白さが中心にあってね。彼が《位相−大地》を作ったときにも、どこかしら基本的にはトリックがあるんですよ。そのあと彼の仕事は少しずつ変わっていきますけど、でもやっぱり常にトリックなんですよね。石を宙に浮かせるとか、その柱をステンレスの鏡面で作るとかもそうだし。トリックを作品の中に取り込めるのは、平面の中にイメージの世界として具現化していく絵画の特性みたいなものがあるでしょう。そういう勉強をして考えてきた関根伸夫と、最初から物質を実体として作ろうとしてきた彫刻家のアプローチの違いなんだろうなと思いますね。

加治屋:そのトリックと物質というのは、そのあと例えば李禹煥さんなんかも「関根伸夫論」(『三彩』1969年6月号)の中で、トリックではないところについて書かれたりするわけですよね。小清水先生も李さんとそのあと知り合われて、いろいろとご活動を一緒にされると思うんですけれども、その中で、いわゆるもの派という動きが出てきます。そのあたりについてお話を伺えればと思います。

小清水:多分、もの派というものの捉え方は皆それぞれ違っているんだろうと思うんです。《位相−大地》の(土を囲う)枠を取り払った瞬間にばっと立ち現れた、作品の成立の瞬間。その瞬間に、なんていうかな…… それまでもやもやしていた僕の霧が、本当にいっぺんにパッと晴れた、そういう経験をしたのでね。僕はその瞬間に、もの派が成立したと思っているんです。多分、吉田克郎もその瞬間に捉えたものがあったはずでね。関根伸夫本人もそうだと思うんですよ。自分で考えたものではあるけれども、実際にできあがった瞬間に本当に別次元のものをつかまえたはずだと思っていて。そのあと、僕も吉田克郎も皆作品が変わっていくんですね。変わっていくきっかけになったのがあの《位相−大地》で。人のことはともかく、僕自身はそのときに、どんなふうに今後の自分の作品を展開させていくかやっぱり数カ月考え込んだんですね。要するに僕があのときつかまえたものを、実際に自分の作品として生かしていくにはどんなことが可能かって、一生懸命考えて。あれが9月だから、10、11、12…… 3カ月ぐらい、やっぱり自分の作品を何も作れなくて考えました。そのときに僕は、観念やイメージではなくて実体を見せることを改めて自分の大事なものとして捉えた。
それからもう一つは、不真面目な学生ではあっても一応美術の教育を受けているじゃないですか。その美術教育というのは明治以降、全部西洋からきた西洋の美術の教育なわけですよ。デッサンするとか、あるいは彫刻を作ることも全部、西洋でできあがった技法を日本に移し替えてきて、そこで教わってきた。だから僕がその当時、一生懸命教わったとおりに作品作っていても、何となく自分の肉声ではないという思いがあって。《位相−大地》の体験の後に、自分の言語でしゃべっていいんだっていうことに初めて自信を持てた。西洋の美術に対するアプローチを勉強しなくても、自分が育ってきた世界で自然と身につけていたもの、それを素直に出すということは何の問題もないんだという意識。その二つの意識が僕にとっては大事なことで、それがもの派というものに繋がっていったという意識が僕にはあるんですよね。それをたまたま李禹煥が《位相−大地》を見て、彼の考えていたこととあの作品の成立がうまく噛み合ったので、言葉にしていきましたけど。正直なところ、もの派の世間における捉えられ方っていうのは李禹煥によってリードされていったところがある。それから、そのあとすぐに関根伸夫や僕や、吉田克郎や李禹煥がやっていた仕事を、一つの表現スタイルとして捉える人たちが出てくるわけですよ。それは印象派風の絵画を描くとかと同じように、いわゆる“もの派風”の作品を作る、表面的なスタイルとして捉えられていく。時代が下るにしたがってそういう一面があって。それが僕から見ると非常に不幸というか、ある意味、不幸な結果を招いているところかなと思うんですね。

加治屋:それは関根さんの作品に非常に衝撃を受けられたり、成田さんと一緒に活動されて、共通する関心なんかもあるんだけれども、やはりそれぞれが違う考え方で作品を作っているので、一つのスタイルとしてみなされることには非常に抵抗がある。それは間違いだということでしょうか。

小清水:そういうスタイルがずっと続くんだというふうな捉えられ方が、ちょっと違うかなと思うんですよね。皆それぞれ自分が目指したところは、やっぱり少しずつ違うんですよ。いつも僕が言うのは、1971年の正月に、僕と李禹煥と吉田克郎がそれぞれ別の場所で個展をしたんですよね。そのときの3人の作品って全く違うんですよ。だから僕は1971年の正月の時点でもう、もの派の最初のビッグバンのようなものは終わって新しい次の時代に入っていくと僕は思っているんですね。その鎌倉画廊の年表に(載っている)(『モノ派』鎌倉画廊、1986年)。

加治屋:そうですね。71年のところで三つの展覧会が確かにあります。(注:小清水(田村画廊:1月11日-24日)、李(ピナール画廊:1月9日-23日)、吉田(シロタ画廊:1月8日-16日))

小清水:その年表は結構捏造部分があって、ちょっといんちきなところがあるんです。それを言ってもしょうがないのですが。そういうのが資料としてもう残ってしまっているから、それが当たり前のこととして捉えられていってしまっていますのでね。

加治屋:ああ、そうですか。

菊川:それは誤った記録が書かれているということですか。

小清水:あのね…… まだ発表してなかったようなものがその中に出てきたりするんですよ。ある人たちのものはね。例えば展覧会で発表したものは皆知っているんだけど、そうじゃなくて「いや、実はアトリエでこんなもの作っていたんだ」とか「いや、こんなこと考えていたんだ」というようなものがぽんと出てきてしまうんですね。

加治屋:そうですね。未発表のものが入っていますね。

小清水:そうするとね、何か資料としての歴史年表としてはおかしなことが出てくるんですよ。僕たちは同時代にそれぞれの作品の発表は見ていますから。それが、その年表が作られた時点でちょっと違ってきて、そのまま出回って定説になっていくことも、当事者として見るとなんていうか歴史っていうのはちょっとずつ変わるもんだなって思ってしまいますね。特に今の時代は写真の技術があるから、写真で具体的に残ってしまえばそれがあったものとして了解されてしまいますから。それこそもっと昔のことであれば本当に残された作品でしか検証のしようがないものがね、写真で検証されていくといつその作品が世の中に出てきたかが全くわからないですからね。あるときに「これは昔やったもんだ」と言ったら、それを信じるしかなくなってしまうでしょう。そのあとの人たちは。

菊川:確かにそうですね……。では、次の質問にいきたいと思います。少し年代が戻るんですけれども、69年に《垂線》という作品と《かみ(かみ2)》という作品を作られますけれども、そこに至る経緯など、改めて教えていただければと思います。

小清水:さっきお話ししたように、《位相−大地》の体験から自分の作品を3カ月間考え込んだ。その結果出てきたのが《垂線》なんです。それはそれまで非常に観念的に「空間とは何だ」とかで作品を作っていたのを、観念を実在させる、「垂直である」ということを実在させる意味合いであの作品を思いついたんですよ。そのときに真鍮で円錐形を作ってぶら下げる作品と、同時に石を一つ紐で結んでぶら下げる作品と、どっちを出そうかと思って迷ったんですけど。ずっと展覧会の当日まで迷って、結果的には真鍮のやつを展覧会のときには出したんです。石のやつも同時に写真撮影だけしたので、写真として残っていますけど。多分、今なら石を結んだのだけを見せたと思うんですけどね。その当時は、真っすぐ鉛直な状態を見せるので先のとがったもののほうが伝わりやすいかなと思って、円錐形にしたんです。

菊川:では石を吊るしていたのがあって、その次にこの円錐形が。

小清水:紙のやつはね、その当時はまだ彫刻科の学生だったから、木とか石とか鉄とか、そういう硬くて重くて頑丈なものを作る教育を受けてきたんだけど、そんなに強くも硬くもない、むしろ儚いもので作品作っちゃいけないのかというふうに思って、じゃあ紙を使って彫刻作品を作ってやれと思って。それで90cmの紙の升の中に石をぽんと置くという、その作品〈《かみ》〉を作ったんですけどね。スクエアな形が残っているということと、石が自然石じゃなくて四角い石であるというところは、彫刻を勉強した影響がそのまま残っているんだと思います(笑)。それは(第4回)ジャパン・アート・フェスティバルっていう展覧会のコンクールに出したものなんですけど、そのときのエピソードがあってね。僕のやつは入選して、そのときに落選したのが吉田克朗の作品で。僕が使ったのと同じ広い和紙を使って、四隅に自然石を四つ置く《paper weight》って作品がある。

菊川:《Cut-off (paper weight) 》という作品ですね。

小清水:そうそう、それですね。それは落選するんですよ、そのときには。後で審査をしていた東野芳明に聞いたら、「君のやつは形が残っていたからね」と言うことで。「吉田克郎のやつには形がなかったからはじかれたんだ」というふうに後から聞いた。

菊川:そのときお二人とも紙を使われたのは、何か共通する関心があったんでしょうか。

小清水:それは、吉田克朗はもう死んじゃったから確認するわけにいかないんだけど、全くの偶然ですね。ただ僕は「今度、紙を使うんだ」というふうに言っていたから。

一同:(笑)

小清水:「紙を使う作品を作るんだよ」とか言っていたから(笑)。それを聞いて彼も、紙を使うにはどんな作品が可能かというふうに考えたかもしれない。

菊川:この頃は富士見町アトリエで制作をされていて、吉田さんはまた別の場所ですか。

小清水:吉田くんも同じところで。

菊川:同じところですか。じゃあ制作過程をご覧になったり。

小清水:僕のやつは紙を自分で裁断して、現場へ行って搬入の場所で作る。吉田克朗も同じで。紙をたたんで持ってきて、現場で広げて石を置く。

菊川:同じ紙を一緒に購入されたりとかそういうことではなく。

小清水:全然ない。

菊川:じゃあ会場でたまたま同じような素材を使っていた。

小清水:同じような和紙を使って。それは本当に偶然というふうに言っといたほうがいいと思いますよ。吉田克朗は吉田克朗なりに考えたのでね。当時の仲間のなかで、《Cut-off (paper weight) 》も彼らしい作品だった。

加治屋:彫刻で紙を使うのはなかなかない考えのようにも思いますが……。

小清水:うん。あの時代ではまずないですよね。

菊川:このときの紙の素材なんですけれども、大判の和紙が安くて強かったからという話を伺いましたが。

小清水:そうです。和紙を使いたいっていうのがあって。和紙で割と肌合いがよくてコシが強くて大きい紙っていうと、雲肌麻紙っていう日本画のキャンバスになる紙、それが一番いいということでね。一応、僕は日本橋の紙問屋へ行っていろんな紙を見せてもらって、それで結果的に選んだのがその紙だったんです。

菊川:やっぱり和紙って独特の風合いと存在感があるなと思っていました。

小清水:それは大事な(要素で)。

菊川:それもあって選ばれたんですね。

小清水:そのときに雁皮紙や美濃紙、石州半紙とかいろんな紙を調べた結果、一応何種類かの紙を買って、30cm角の升を作ってずっと眺めていて。やっぱり90cmにしたらその紙のほうがいいなって。それと大判の紙で市販されていて手に入るのが結果的にはそれしかなかったんですよ。7尺、9尺っていうのが最大の紙でね。2m10×2m70。

菊川:この後、69年にこの大きな石が入った《かみ(かみ2)》の作品が。

小清水:それの前にこれね(注:《かみ》埼玉近美図録、p.396)。写真がそんなわけのわからないものになっているけど、実はそれは(第9回)毎日現代展のコンクール部門に出したやつで、2m50角で高さが2mの紙の升。それは昔の東京都美術館の彫刻展示室で作った。紙の升と、もう一つそれより少し小さい、中が覗き込める高さのやつ、二つ作って出したんですよ。それで搬入のときは仲間たちがもう皆出品してきているでしょう。そしたら「もう今年のグランプリは小清水に決まりだな」と皆に言われて。僕もその気になって「グランプリは僕だ」と思っていたら、審査当日に雨が降って。それで、和紙って湿度でヘタヘタッとなる。今でも障子なんか雨の日にはしわしわになるでしょう。それを僕、その当時知らなくて。

加治屋:ああ(笑)。

小清水:それで審査当日にヘタヘタヘタッとなってね。で、結局2mの高さの白い升というのを見ることができなくて。一応入選はしたんだけど、グランプリどころか。結果的にもう一回具体的な展示作業のときに大きな升の中に小さい升をボンと放り込んで、それで何となくお茶を濁したという僕にとっては大失敗。そのあと同じ頃にね、箱根の彫刻の森の第1回のコンクールがあるんですよ。

山下:69年ですね。

小清水:そのときに僕も応募して、関根伸夫がグランプリを取った。《空相》っていう作品かな。石をね、ステンレスで持ち上げて。そのとき僕は箱根の山の芝生のところを2m50ぐらいの升状に切って、そこに1m50角で高さ50cmの同じ高さの石をその中に置くというプランで、図面だけ書いて実物の石を添えて応募したら、落選しちゃったんですよ。それで結局その石が浮いてしまって手元に帰ってきて。それで紙がへたった二つの失敗を組み合わせて、次の《かみ(かみ2)》っていう紙袋の中に石が入る作品になるんですけど。

加治屋:ああ、そうなんですね。このときの同じ石を使えたんですか。

小清水:そうです。彫刻の森の展覧会で応募した石をそこに使ったんです。紙はそのへたった紙とおんなじ紙をもう一回買ってきて、今度はへたらないように最初から平べったく作って。

菊川:ちなみにこの箱根の彫刻の森の展覧会って、搬入や撤収の費用は全部自腹でまかなうとお聞きしたんですけれども。

小清水:そうそう。コンクールのときの搬入は全部自腹ですよね。

菊川:かなり大きな石ですよね、これ。そういったお金もご自身のアルバイトとかで捻出されていたんですか。

小清水:何とか捻出したんでしょうね。

菊川:この石は東京で購入されたんですか。

小清水:それはね、後に出てくるでかい石を割る作品《70年8月 石を割る》と一緒で。茨城県の稲田っていうところに石切場があって、毎年、土谷武さんが自分の作品を彫りに行っていたんですよ。それで土谷さんにその石屋さんを教えてもらって、そこへ行ってこの大きさの石が欲しいと言って頼んで持ってきてもらった。

菊川:茨城県稲田産と書いているものですね。これは白御影ですか。

小清水:白御影ですね。

菊川:石を作品にするにあたって、石の種類の選定は吟味されたんでしょうか。

小清水:一応、御影にも何種類かあることは知っていたし、それから東京で割と手に入りやすいのは、安山岩の小松石とか新小松石とかね。ああいうのが手に入りやすい石としてあったんだけど、作品として考えたときに、紙と取り合わせるのには白い石のほうが多分いいだろうなと思って、そのまま稲田の石を流用した。あまり癖のない石で、日本人の記憶の中にあるいろんな石の中で割と頻繁によく使われている石です。それでその白御影を使ったんですね。

加治屋:この石は1970年の東野芳明さんが企画された、「現代美術の一断面」(東京国立近代美術館、8月4日-30日)に出品した大きな〈石を割る〉という作品でも使われて。

小清水:そうですね。同じ稲田の石ですね。その次のページにありますね(注:埼玉近美図録、p.399)。

菊川:この作品を考えられた経緯といいますか、「現代美術の一断面」という展覧会に出品された経緯はどのようなものだったんでしょうか。確かこの展覧会はテーマがありましたよね。

小清水:ありましたかね。そんなカタログが残っているんだ。

加治屋:「人間と物質」展(東京都美術館、1970年5月10日-30日)でもの派の作家たちが十分に取り上げられてないと思ったのでこういう展覧会を企画したって、東野さんがどこかでおっしゃっていたと思います。

小清水:ああ、そうですか。「人間と物質」展、東京ビエンナーレを中原さんがコーディネーターとして任されて準備し始めたということは、多分先輩としての東野さんにとってはちょっと癪に障ることだったんだろうと思うんですよ。中原佑介さんはもの派として僕たちを捉えて「人間と物質」展に選んだのではなくてね。実は東野芳明さんのほうが一つの新しい動きとして捉えたのは早かったと言いますかね。69年のパリ青年ビエンナーレ(第6回、パリ市立近代美術館、9月24日-11月1日)に東野さんが「(グループ・)4・ボソット」っていう4人の作家を選んで出しているんですね。その時点で一つの動きとして何か彼はつかまえたんだと思うんですよ。だから“ぼそっと”ものが置いてあるということで「4・ボソット」と言った。成田克彦の《SUMI 1,2,3》と、それから高松次郎と田中信太郎と、それと関根伸夫だったかな。選んで持っていってるんです。その時点で、いわゆるもの派というふうにいわれる僕たちがやり始めたことに、最初に目をつけたのは東野さんだったんですよね。彼もまだ名づけようがないし、どんなふうに捉えていいかわからない状態のままつかまえていて、それで多分、近代美術館に話を持っていったんだと思うんです。毎日現代展とその「一断面」展っていうのは数カ月しか間がなく開かれていて、多分、東野さんには中原さんに対する対抗意識があったんだろうと思うし、中原佑介さんはもの派というものを認めないという姿勢をずっと続けていましたしね。
ただこれは僕の想像ですけれども、彼が「人間と物質」を企画するためにヨーロッパを回っていったときに、例えば「態度が形になるとき」(ベルン美術館、1969年)という展覧会とか、いくつか新しい傾向の展覧会や作品が集まっているものを見ているはずだと思うんですよね。外国の出品者は一人一人違いますけども、そこから同じような傾向の人を選んできた。で、日本の作家を選ぶときに高松次郎、それから彼(中原)と親しかった河口龍夫とかね、小池一誠とか、昔から繋がりのある人たちは最初に選んでいるだろうと思うんですけど、僕は本当に展覧会の2カ月前ぐらいに声がかかって。僕と成田と榎倉(康二)と、それから関西の狗巻(健二)と、その辺はもう本当に最後の最後にピックアップされたんだと思うんですね。結局、関根伸夫はヨーロッパにいたので呼ばれなかったということはあるんだけど、吉田克朗も李禹煥も選ばれていないんですよね。だから中原佑介はもの派を選ぼうとしたんじゃなくて、何か外国の作品と釣り合う作風のものを中に入れ込もうというかたちで選んだと思うんですよ。

加治屋:中原さんが小清水先生の作品を選ばれるにあたって、多分その前に作品をご覧になっているわけですよね。それは例えば〈かみ〉という作品で。実際に出されたのはこの作品ですよね。

小清水:鉄板を磨いた作品(《鉄T》、《鉄U》)。

加治屋:中原さんはどういう作品をまずご覧になっていたんでしょうか。

小清水:中原さんはね、大概のものは見てくれています。〈かみ〉も見ていますし、それから《垂線》も見ています。おそらく《框》や《梱包》の作品も見ているはずですけどね。《垂線》を出したときも3人展で、僕と成田と矢辺啓司っていう3人で村松画廊でやっていますけども、そのときに村松画廊と話をつけてくれたのは東京画廊の山本さんなんですよ。山本さんが「3人を展覧会でやってやれ」っていうことでやらせてもらって。東京画廊は中原さんとすごく近しかったのでね、だからもちろんその作品も見てくれていますよね。

加治屋:その出品にあたって、「こういう作品を出してほしい」というのは特になかった?

小清水:それはなかったですね。2カ月の間に僕は一生懸命悩んで、いろんなプランを自分の中では珍しくデッサンをして(笑)。いまだにその便箋に走り書きしたようなやつが残っていますけど、全く違う作品を二つ三つ考えてますね。それで最終的に鉄を磨いた作品にしました。

加治屋:でも、実際に作る前に中原さんにこういう作品を出そうと思っているというようなことはおっしゃったんですか。

小清水:それも話していないです。

加治屋:じゃあもう「出してくれ」と言われて、自分で考えて作ったものを出す。

小清水:そうですね。

加治屋:今はキュレーターとのやり取りの中で作品を作ることってあると思うんですけど、当時は割と作家の好きなように作ってもらう感じでしたか。

小清水:そうですね。僕、今まで経験で「こういうふうに作ってくれ」と言われたことは一度もない。「こういう傾向のものを」ということを言われたこともないですね。だから自分の好きなものをこれまで作って出していますね。

加治屋:そうなんですか。それまで作られていたものとかなり違う作品なんじゃないかと思うんですけど。

小清水:そうですね。見た目には紙と鉄では全然違うし、石も全然違うし、それぞれ違います。僕のものを実体として出す。ものに対する自分の身体的なアプローチ、そういうことでは全部一貫しているんですけどね。鉄を最も鉄らしく僕がアプローチすると、磨きだして鉄の表情のコントラストをつけるという(ことになる)。それで僕には繋がっているし、紙は紙としての儚さと同時に強さも見せる。それに対して袋、スクエアを作るというアプローチも僕にとっては一貫しているんですけどね。ただ《垂線》だけ、多分わかりにくいだろうなと思って。それは石を縛ってぶら下げるということでは僕の行為はありますけども、非常に見た目のとっつきが悪いというか、手がかりの少ない作品ですからね。本当にぶっきらぼうにただ線が1本あるというそれだけだから。だけど僕の中では観念を実在させるということで、とても大事な仕事ではあるんです。

菊川:鉄の作品からこれ以降の〈表面から表面へ〉に移行していくところで、作業の痕跡を通じて作業の量や時間を作品の中で見せていく傾向に変わっていくのかなと思うんです。ちょっと話が戻りますけど、さっきの「現代美術の一断面」の石を割る作品。あの作品も東野さんと「こういう作品にしよう」という打ち合わせは特になく。

小清水:全くないですね。そのときはね、写真で残っていませんけども《紙の袋》というやつを出してるんですね。室内では《紙の袋》というのを出していて、それで屋外で〈石を割る〉というやつを出してるんです。

加治屋:《紙の袋》というのは、これは壁に。

小清水:壁に取りつけるやつですね。

加治屋:それで袋状になっている。

小清水:袋状に。薄っぺらい箱状で袋になっているんですけど。

加治屋:厚みが少しある?

小清水:厚みがありますね。東京画廊でやったやつ(《紙の袋(かみ)》1970年) 、それは厚みが10cmぐらいですけど、近代美術館には厚みが30cmぐらいのやつを何種類か持っていきました。実はその前に(第5回)ジャパン・アート・フェスティバルがあって。前に紙と石のスクエアのやつを出して入選したやつですけど、次のジャパン・アート・フェスティバルに実は大きな《紙の袋》を出したんですよ。それも現代美術展のときと同様に「今度は僕がグランプリ」って自信満々で持っていってね(笑)。ただ、そのまま審査の会場で紙の袋を置いておくと潰れてしまう。くしゃくしゃになる恐れがあるので、大きなダンボールの箱を作ってその中に収めて、それで持っていったんですよね。そしたらそのときの審査員が、名前を忘れちゃったけどアメリカから来た評論家でね。三木多聞さんから後で聞いたんですけど、僕のその紙の袋を大きなダンボールの箱の中に収めてある状態で見て、「できの悪いポップ・アートだ」っていうふうに言われて、それで落選してしまったということがあって(笑)。それを僕はすごい憤慨していたんですけど、いたし方ないので結果的に「現代美術の一断面」展のときに作り直して出品したんですよ。そうしたら近代美術館の学芸員だった三木多聞さんが、展覧会のオープニングのときに「とうとう、これ持ってきましたね」と僕に言いました。

山下:「現代美術の一断面」の図録になると、図録に少しずつコメントが入ってきたりして変わってくるんですけど、これは東野さんの考えでしょうか。写真だけじゃないものが少しずつ出てくるようになります。

小清水:ああ、これ。全く初めて見るみたいに感じるな。

菊川:そうですか。

山下:「人間と物質」展でもそれぞれにページが与えられるようになってきたかと思います。

小清水:そうですね。本当だ、一人ずつ違いますね。

菊川:冒頭に書かれている東野さんの文章なんかは(注:東野芳明「70年8月展 企画の弁」)。

小清水:僕、読んだことない。

菊川:そうですか。このカタログには「各作家がそれぞれ構想の観念を発表することになっている」というふうに書いてあります。

山下:小清水先生が提出したってことですよね。

小清水:そうですね。結局そういうことですね。僕がこんなこと書いたなんて。

山下:「人間と物質」のときもいろいろと書かれていました。

小清水:なるほど。こんなものがあったんだな(笑)。

一同:(笑)

山下:図録も少しずつ変化していっていて、作家さんはそれを楽しんで書かれていたのか、困ったなと思われていたのか。

小清水:そうですね。多分、少なくとも僕に関する限り真面目に書いていますね。

菊川:東野さんいわく「展覧会に出品されてる作品を、言葉は悪いがイメージとして読むべきであって、作品というものとは直結させてはならない」と書いてあります。

小清水:ああ、本当に。

加治屋:「人間と物質」展のときも自由に書いてよかったんですか。

小清水:これもそうですね。プランの説明みたいなこと、あるいはプランの写真を送れっていうことだったんだと思うんですけど、僕はその写真がなかったので、鉄を使うっていうことで鉄のことを書いたんだと思いますよ。多分、若気の至りですけど、アイアン(iron)がアイロニー(irony)に変わっていく、それを出したかったんだろうと思います。

加治屋:この二つのカタログの中で、東野さんの文章で非常に興味深いのは、“もの”っていう言葉を、こうやって傍点をふってよく書かれているんですね。ここも全部“もの”。それは実は、“もの”っていう言葉を非常に重視しているように僕は読んだんです。で、実はこの中原さんの文章も読んでみると「人間と物質」で確かにもの派を取り上げるわけではないにしても、平仮名の“もの”って言葉が出てきて。これを読むとこのカタログが書かれたあとに東野さんは書かれているので、何か二人の間の対話というか、東野さんが中原さんの文章を読んでその言葉を使われたのかなというふうな印象がありました。

小清水:それはそうだと思いますよ。中原さんの文章は読んでいるはずですね。時間的に考えて。

加治屋:ああ、そうですか。中原さんはここで「結果としてのものを提示してきた」というふうに、やはり“もの”という言葉を平仮名をわざわざ使って出していて、東野さんは平仮名で“もの”という言葉を強調して使われているなって。

小清水:傍点をつけているね。

加治屋:そういうところで何か、二人の間に繋がりがあるなって。

小清水:実は僕、文章読むのが好きではなくて(笑)。多分、どちらもその当時は読んでいないと思います。

加治屋:そうですか。ちょっと「人間と物質」展の話をもう少しお伺いしたいんですが。その《鉄》という作品、磨かれてこの刃物の部分が出ているわけですけど、これって本当に切れそうなぐらいな感じなんでしょうか。

小清水:そんなことはない。実際には4mm、5mmの厚みが残っていて。そこは丸くしてあるので見た目には本当に刃物のような見え方をしますけど、実際には数ミリの厚みが残っています。

加治屋:ああ、そうですか。こういうふうに壁に立てかけているものと。

小清水:壁に立てかけています。

加治屋:こちらは床の上に何かちょっと置いていますか。それとも直接置いていますか。

小清水:斜めになるように下に台を仕組んで、一番高いところ、一番後ろで30cmぐらい上がっていて、床に斜めにこう(置いている)。

加治屋:斜めになっていて、刃物の部分が床につくようになっているんですね。

小清水:それもその当時いろいろ考えて、その3枚を壁に立てかけて、何もない鉄板2枚と磨いてある鉄板と立てかけるように並べようかとか、いろいろ考えたんです。

山下:東京都美術館と京都市美術館と愛知県美術館に巡回しましたけれども、東京は設営に行かれたというお話だった気がするんですが。

小清水:設営は東京都の美術館でやったときだけ立ち会って、自分で磨き直したりとかそういうこともやりましたけどね。あと地方に回ったときは、もうそれぞれ担当者が展示してくれたんだと思います。ほかの会場を僕は見ていないのでわからないんです。

山下:どういうふうにやってくださいと指示だけ伝えて。

小清水:そうですね。

菊川:刃物同士が向き合うように並べられていたと思うんですけど。壁に立てかけてあるのと、床に置いてあるのと。これは京都会場も同じですか。

小清水:あのね、これ、途中で変わるんですよね。向き合うように結果的には並んでいますね。これ、5月10日時点と展覧会が始まったときの写真ですよね。展示のときにそれこそ渡邊(葉子)さんに指摘されて初めて思い出したんですけど、最初は別な場所だったんですよ(注:「東京ビエンナーレ'70再び」慶應義塾大学アート・センター、2016年2月22日-3月25日)。それが渡邊さんの調査によると、写真で残っているらしいんですね。別な場所で展示されていたことが。多分、ほかの出品者との兼ね合いで場所を変わったっていうことなんだろうと思うんですが。

菊川:展示の搬入では、どなたかと一緒に作業をしたり周りの作家さんと何かお話しされたりしたのでしょうか。

小清水:多分、話しています。というのは狗巻賢二もいたし、それから榎倉もおったし、成田克彦が《SUMI》を出していたから成田もいたし。展示は2日か3日かけてやっていますからね。だからその間に話をしたってことはあります。ただ、外国の出品者とコミュニケーションっていうのはほとんどなかったですね。この会場ではほかの出品者とのコミュニケーションはなかったな。多分ね、外国の作家たちのものを先に場所を決めて展示して、そのあと日本の作家たちが展示するっていうふうな、タイムラグみたいのがあったと思うんですよね。ただ外国の作家とは当時、南画廊がそれこそ(ソル・)ルウィット(Sol Lewitt)とか(カール・)アンドレ(Carl Andre)とか、特にアメリカから来た作家を囲んでパーティーを開くことがあってそういう場所で出会いましたけど。当時は僕らはぺーぺーですからね。まだ学生に毛が生えたような状態で、南画廊の、例えば宇佐美圭司だとか先輩たちの影に隠れて静かにしていましたから。

加治屋:中原さんはこの作品をご覧になって何かおっしゃったんですか。

小清水:中原さんですか。中原さんはね、「おまえの作品が一番古典的だ」と後で言っていましたね(笑)。展示が始まってすぐぐらいの頃かな。どこか街で出会って、画廊かどこかで雑談をしているときにそんなようなこと言ってましたね。

山下:やっぱりキャプションはタイトルだけですよね。

小清水:ええと、タイトルだけだと思いますけどね。

山下:お客さんへの説明は何かありましたか。

小清水:説明ですか。そういうのは当時はなかったように思いますね。多分、峯村(敏明)さんに話を聞けばいろいろわかると思うんですけど、外国の作家たちも、例えばクリスト(Christo)の作品が本当は公園の道を全部覆うやつだったのが、それができなくて大陳列室の内側を覆うかたちに変わったりとか、それぞれ作家がスムーズにいってなくていろんなトラブルを乗り越えて成立していった展覧会だったから、大変だったと思うんですけどね。そんな中で日本人の作家がその都合に合わせて動くのは、日本的おもてなしの一つとしては当たり前のようなことだったんじゃないでしょうかね。

加治屋:この壁に立てかけてある作品は、固定はしているんですか。

小清水:固定は全然してないです。ただ、ぽんと置いてあるだけです。だから一見怖いと思いますね。

加治屋:怖いですね。

小清水:滑るのではないかとか。重いから壁の2点の一直線と三角形の3点がバランスを失わない限りは大丈夫ですけどね。滑り出してくるような距離は取っていません。ほんの20cm程度ですから。

加治屋:こちらの3枚のほうは、斜めになってこう浮いているのは。

小清水:そうですね。それは多分、ぺたんと床に置いてしまうと存在感が消えてしまうというふうにそのとき考えたんだと思うんです。それで、何となく空間にあるような(見せ方にした)。ただ、刃物の先は地面に近いほうがいいという意識だったと思いますね。今なら違う見せ方を多分すると思いますけど。

加治屋:どうしましょう。「人間と物質」展の話を今日は聞いて、明日またそのあとの続きを伺えればと思います。よろしいでしょうか。

小清水:わかりました。

加治屋:じゃあ一旦、ここでお話をやめさせていただいて。どうもありがとうございます。

菊川:ありがとうございました。