文字サイズ : < <  
 

工藤弘子オーラル・ヒストリー 2011年4月9日

東京都北区、工藤弘子自宅にて
インタヴュアー:島敦彦、池上裕子
書き起こし:小野尚子
公開日:2011年11月27日
 
工藤弘子(くどう・ひろこ 1934年〜)
工藤弘子は前衛美術家、工藤哲巳(1935年〜1990年)の妻。1954年に工藤哲巳と出会い、1959年に結婚、1962年に渡仏。東京時代から制作を手伝い、渡仏後も作品やパフォーマンスの撮影をするなど、公私にわたって工藤を支えた。聞き取りは国立国際美術館の学芸員、島敦彦を聞き手として行われた。第1回目では工藤の生い立ち、初期の代表作である《インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生》(1961年〜1962年)、渡仏後の生活などについて語っている。第2回目ではヨーロッパでの展覧会歴、子育てと制作アシストの両立の苦労、工藤のアルコール中毒治療について語ったほか、1987年に東京藝術大学教授に就任した経緯についてお話しいただいた。

池上:今日はよろしくお願いいたします。最初は私から、オーラル・ヒストリーの聞き取りに共通の質問を2、3させて頂こうかと思います。哲巳さんとの区別がつきにくくなるので、弘子さんと呼ばせていただきますね。まずはお生まれと、どういうご家庭でお育ちになったかということをお聞かせ頂けますか。

工藤:はい、生まれたのは東京なんですけど、1934年の12月2日生まれです。生まれた所は、今は江東区ですかね。昔は深川区って言ったんですけど、深川の牡丹町というところで生まれました。

池上:ご両親は。 

工藤:両親は、父は小さな文房具とか、紙を売っているお店をやっていました。

池上:お母様は、お仕事はされて……

工藤:していません。

池上:御兄弟はいらっしゃいますか。

工藤:兄弟は、妹一人と弟一人。三人です。

池上:ご家庭の環境としては、特に美術に何か関わりがあるというようなことはございましたか。

工藤:特には無いです。生まれた所も、小学校一年生の頃に戦争が始まったんですね。だから小学生の一年生に入学したのは覚えてるんですけど、一年の終わりか二年の途中でもう疎開してしまったんです。そこは埼玉なんですけど。美術には関係なかったんですけど、小さい時から私自身は絵を描くのが好きで、文房具なんかも扱ってたもんですから、クレヨンとかそういうものはあったんですね。そんなのを使って、よく絵を描いていたのは覚えてます。

池上:終戦まで疎開先におられたんでしょうか。

工藤:もう疎開したらそのまま東京に帰ってこないで、そのまま今でも。だから実家のようなものですね。埼玉県の戸田と言う所なんですけど、弟は今もそこに住んでるんです。

池上:じゃあ小さい頃に、そういう造形的なことがお好きだったっていうことから、小学校、中学校、高校と進まれると思いますが、その中でなにかその興味が発展していくっていうようことは。

工藤:そうですね。中学校から東京の方の学校に行ってたんですけど、ずっと絵を描くっていうことには興味があったんです。別に具体的に絵描きになりたいとかいうことじゃなくて、なんとなく好きだっていう感じで、工藤に会うまでもずっとそんな感じだったんですけど。

池上:特に美術部にいらしたとか、そういうことではなくって?

工藤:中学とか高校のクラブ活動ですか。美術部に入ってたのは覚えてますけど。

池上:入ってはいらしたんですね。

工藤:はい。個人的に研究所とかそういう所に通って、クロッキーとかデッサンとかそういうことはやっていました。

島:じゃあけっこう熱心にされてたんですね。

工藤:そうですね。でも今から考えるとやっぱり趣味っていう感じですか。

池上:美大に進もうとかそういうようなことは。

工藤:一応考えたことがあるんです。それで、工藤に会ったのも藝大とか、それから研究所とかで会ったんですけれど。なんかその、美術学校に行ってらっしゃる学生さんを見ている間に、なんか私のやることではないなっていうようなことが分かってきたんです。

池上:それはどの辺が少し違うと思われたんですか。

工藤:趣味で絵を描いて、見たものをきれいに描けるとか、上手に描けるっていうことだけが絵描きになるっていうことではないんじゃないかって、なんとなくそういう風に考えるようになって。で、もうそれは諦めました。

池上:その頃に工藤さんに会われたんですね。

工藤:はい。

池上:弘子さんが何歳ぐらいの時ですか。

工藤:はたちぐらいの時ですね。

池上:その頃工藤さんはもう東京藝大に入っておられた。

工藤:はい。

池上:弘子さんは、美術研究所の研究生というような感じでいらしたんですか。

工藤:だから初めのうちは藝大に入ろうかなとも思っていたんです。だけども工藤に会ったらなお、藝大に入るのはもうやめようと自分で思って。絵を描くこともやめました。

島:哲巳さんが35年生まれだから、一つ違いになるわけですね。

工藤:そうですね。

池上:すると、哲巳さんは一浪して入っておられて。19歳だからもうほとんど藝大に入ってすぐぐらいの頃に出会われたという感じなんですね。

工藤:そうですね。私の記憶では、確か工藤が藝大の2年生ぐらいの頃だったと思います。

池上:最初の印象はどういう感じでしたか、哲巳さんに会われた時は。

工藤:学校の科目としてデッサンとかいろいろやっていましたけど。なんか自分で描いていながら、それが自分の思うようにいかないような感じで。年中いらいらしてるような不思議な人だった(笑)。

池上:出会われたのが1900何年になるんでしょう。50…… 

島:1954…… 

工藤:卒業したのが1958年なんですね。

島:そしたら1955年ぐらい。1955か1954かね。

工藤:うーん、そんな感じですね。

池上:もう学生時代をずっとご一緒に過ごされて、1959年にご結婚されたという。

工藤:学校を卒業したらきちんとしなければいけないと親に言われて、それでちゃんと。

池上:弘子さんのご両親ですか。

工藤:いいえ、私の両親はそんなに難しいことは言わないんですけども。工藤のお母さんは、そういう方で。

島:旧姓は栗原?

工藤:そうです。

池上:哲巳さんの生い立ちについてもお伺いした方がいいですよね。哲巳さんは大阪でお生まれということなんですよね。

工藤:はい。

池上:大阪は特に縁があってそこでお生まれになったんでしょうか。

工藤:私が聞いてるのは、両親が大阪で学校の先生をしていたようなんです。特に父親の方は絵を教えていたっていう話を聞いてます。

島:堺市の方だという風に聞いておられましたね。

池上:じゃあ南の方ですね。

島:ええ、お母さんも加古川の方で先生をされていたという。

池上:じゃあ哲巳さんの方は美術的なバックグラウンドがあるご家庭にお生まれになった。

工藤:そうですね。

池上:そこから青森に移られたというのは。

工藤:父親が体が弱くて、それで青森の実家の方に静養のために行ったようなことを聞いてるんですけど。

池上:哲巳さんのお父様の御実家が青森で。

工藤:はい。

池上:そういうことなんですね。

島:哲巳さんの対談の中には、疎開をしたというようなこともちょっと書いてあった。要するに戦争がやっぱりひどくなってきたことと、お父さん自身の体調のこともあって、両方かもしれませんね。

工藤:そうですね、きっと。

池上:じゃあお二人とも疎開を経験されているわけですね。

工藤:はい。

池上:その青森ですとか、あるいは哲巳さんのお父さんが亡くなってから岡山でも暮らされてたっていうことなんですが、それぞれ青森だったり岡山だったりという土地について、何かお話になっていたことっていうのはありますか。

工藤:岡山は、工藤の母の実家が岡山だったようなんですね。それで、工藤は父親が亡くなって、その時はまだ小学生だったんですけど。中学の途中まで弘前にいて、その後母親が、岡山の方が将来勉強するのにもいいんじゃないかと言うんで、中学の途中ぐらいから高校にかけて岡山で過ごしたみたいです。それで藝大を受けるんで、東京に出てきたみたいですね。

池上:その幼いころにお父さんを亡くされたっていうのは、なにかおっしゃってましたか。

工藤:ええ。結核だったんですね。それで戦争中ですからお薬がなくて。もしかしたら助かっていたかもしれないんですが、ちょっとそれは無理だったようで。終戦の時かなにか、なんかとても若くて亡くなったようですね。

池上:それは哲巳さんの中ですごく大きな、傷と言いますか、というようなことになってたというようなことはおっしゃってましたか。

工藤:そうですね、あまり詳しくは話さなかったんですけど、小さい時は音楽も好きだったようなんですね。だけどなんか病気をしたせいで、中耳炎かどうか分からないんですけど、耳があまり良くなくなって、お医者様に「音楽は諦めた方がいい」って言われた、というようなことも言ってましたね。で、工藤の母は、お医者さんにしたかったみたいなんです。でも、絵描きになると決めたのは工藤自身だったようです。

池上:それはお父様が美術をされてたっていうことと、やっぱり関係あったんでしょうか。

工藤:そうですね、なんかお父さんの仕事をするところを見ていて、もう亡くなるまですごく一生懸命描いていたそうです、絵を。それを見ていて、なんかやっぱり自分もやりたいと思ったらしいです。

島:お母さんが小磯良平さんの所に、岡山から連れて行かれたというような話があって。

工藤:そうですね。通って教えて頂いたっていうのではなくて。きっと自分で描いたものを持って行って、ときどきお邪魔したんじゃないかと思いますけど。

島:亡くなられたお父さんも新制作(派協会)で、小磯さんも新制作という、まあそういうつながりもあったんでしょうかね、多少は。 

工藤:そうですね、きっと。それで、小磯さんの方が工藤の父親より先輩だったんじゃないかと思うんです。

池上:そういうご縁もあって。

工藤:ええ。

池上:きっとお母様も教育熱心な方でいらしたんでしょうね。

工藤:はい、なんか教育ママだって言ってました(笑)。

島:哲巳さんのお名前って、元々は「哲美」と書かれて。ある時期から、哲巳の方に変えた。何かそれについておっしゃっておられたことはありますか。

工藤:それは哲巳自身がやはり小さい時体が弱かったんだそうです。それで、昔はよくそういう名前のことで、聞いて…… 何というのかしらそういうの。

池上:姓名判断のような。

工藤:そうです、ええ。で、聞いたら、字がこれでは体が弱くなるからって言うんで、変えた方がいいと言われて、変えたんだそうです。

島:だから戸籍上は「美」になっているんだけども、もう通名として、「巳」にしてしまったわけですね。

工藤:ええ。

島:わりと早い時期に。小さい頃に描いた絵には「美」という「哲美」というね、入っていますよね。

工藤:そうですね、まだ小さい時にはね。

島:ある時期から完全に「巳」の方に変わっている。まあいつかとははっきりとは……

工藤:分からない。私が会った時には「美しい」じゃなかったですね、もう。

池上:もう変わっていた。

工藤:はい。

池上:最初はやっぱり美術の「美」ということで名前をお付けになったんでしょうかね。

工藤:なんか美に徹するっていう感じじゃなかったかと思うんです。

島:ええと、多少相前後するかもしれませんけど、操山高校っていう岡山の高校は、多分地元では進学校になるのかなと思うんですけれども。

工藤:はい、なんかそんなことを聞いてます。

島:そこで出会われた吉岡康弘さんのお話はどういう風にされてましたか。その後かなり付き合いは長くなられたということですけども。

工藤:そうですね。吉岡さんは高校の後、確か大学は早稲田だったように思うんですけど。私がお会いしたのはだいぶ後なんですね。なんか、しばらくお会いしない時期があったみたいです、高校の後で。

島:そうでしたか。

工藤:それで、吉岡さんにお会いしたのは…… その頃吉岡さんも東京にいて、私を連れて工藤が吉岡さんのお仕事してる所に伺ったのは、藝大を卒業するかなんか……

島:その前後。

工藤:はい、その頃だったと思うんです。

島:吉岡さん自身も読売アンデパンダン(「読売アンデパンダン」展)に出されるようになって。女性器をアップにした写真作品で、ちょうどスキャンダルに。展示拒否を受けたりしたんですよね。

工藤:そうですね。吉岡さんは私が初めてお会いした時は、まだ会社にお勤めだったみたいです。どこの会社かよく分からないんですけど。それで趣味って言うか、写真を撮ることが好きだったらしいんですね。それで工藤に会ってから吉岡さんは会社はやめて、「俺写真撮る」っていう感じで(笑)、あっさりと写真の方に。

島:そうするとかつての同級生であり、一緒に読売アンパンなんかに出し始めたら、触発されてその世界に入って行かれたということなんですね。

工藤:そうですね。

島:その後確か映画を撮られるようになったんですよね。

工藤:その後ですね。まず最初に写真集を作られたみたいなんです。その後で勅使河原(宏)さんとか、大島渚さんにお会いになって、それで映画も撮るようになったみたいですね。

島:このカタログにも吉岡さんの写真が随分載ってますけどもね(注:「工藤哲巳回顧展——異議と創造」展、国立国際美術館、1994年)。

工藤:はい。

島:あと、藝大在学中なんですけれども、林武さんと一緒にいて、これはいろんな所に哲巳さん自身が喋ったりされてますけども、いわば林さんは反面教師として、対抗する相手としていつも話されていたという。 

工藤:そんなことですね。あの頃は、学生は展覧会をやってはいけないっていう規則があったみたいなんですね、在学中は。ところが、そういうことを無視してグループを作ったり、あるいは一人で個展やグループ展をやったりしてたんですね。おまけに、学校で教えてもらっているようなデッサンとかそういうものじゃなくて、なんか訳のわかんないものを描いてやってるっていうのが教授達に分かっちゃって。それで林武が言うには、「絵というのは目で見るものだから、目で見て分かるものでなきゃいけない」って(笑)、学生に向かってそういうお話をしたんだそうです。それで工藤が、「人間は目だけで生きるものではない」ということで、議論が始まって。ある日、真っ暗になっても帰ってこなかったんです、学校へ行ったまま。どうしたのかしらと思っていたら、真っ暗になってから帰ってきて、興奮して(笑)。なんか林武と喧嘩したって言って帰ってきたんですね。なんか延々と芸術論についてやってきたみたいなんですね。それ以来林さんはだいぶ懲りたみたいで(笑)。工藤がもう卒業した後で、その後から入ってくる後輩の学生に向かって、「昔、俺の教室に工藤という学生がいてなぁ」っていう話を聞かされたっていう後輩の方が何人かいました。

島:そういうやっかいな学生ではあったけども、そういう学生ってそんなに多分数はいなかったから、すごく印象に残って逆に頼もしいという気持ちもお持ちになられたのかもしれませんね、林さん。

工藤:本気になってね、かかってくるっていうところがもしかしたら(笑)。

島:なんか見込みがあるように、思われたかもしれませんね。特にその当時哲巳さんが描かれてた絵っていうのは、点を描いてそれを増殖させていくような、あるいはそれ以前だと弘子さんもさっき言われた、なんだかちょっと破壊的で暴力的な感じで、とにかく絵の具を塗りたくるようなものが多くて。ちょっといらいらされてたというお話もあったんですけど。そういう絵を描かれているものがある程度システム化されるようなことになってきて、移行されたと思うんですけども。その当時の絵をご覧になってて、どういう印象を覚えましたかね。

工藤:最初会った頃には、一応形のあるデッサンやなんかを描いてたんですけど、それがどうしても自分の思うように描けないような。なんか「こうじゃない」っていう、いつもそういう感じで。ほとんどまっ黒けなデッサンなんです。上にどんどん描いていったりして、最後にはまっ黒になっちゃったり。で、そんなことの繰り返しばかりやっていたんですけど、だんだんそういう形のあるものから、さっき島さんがおっしゃってたように、点とか、点を打ってはピンとこうやったり、そういうことを始めるようになって。そのうちに油絵の具というマチエール、材料が自分には向いていないって言いだしたんですね。私もどうしてなのかよく分からなかったんですけど、多分、この瞬間に油絵の具は描いては乾くのを待たなきゃならなかったり、色を混ぜるのに、やっぱりうまく自分の思うようにいかなかったり、まどろっこしいっていう感じだったんじゃないかと思うんです。それで、速く乾く絵の具にだんだん移って行ったんですね。

池上:ちょうど56、57年っていうと、東京でもアンフォルメルがすごく流行った時期だったと思うんですけども、それについては何かおっしゃったり、ちょっとそれ風のものを描いてみたりっていうようなことはございましたか。

島:(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu)がデモンストレーションをやったりされてたんですけど、そういったことについては。

工藤:高島屋だったか、なんかデパートでね。

池上:白木屋かな。

工藤:白木屋ですか。なんかすごく派手に宣伝をして、賑やかだったんですね。それで、面白がって一緒に私も見に行ったりしたんですけど。別に真似をするということでは無いんですが、今までの絵の描き方とはちょっと違うっていうところは、興味を持っていたようです。

島:ミシェル・タピエ(Michel Tapié)が何度か日本に来た時に、工藤さんの絵画作品を、具体美術ですとかと同じように、かなり激賞に近いような感じで評価されたように思うんですけども、それは何か哲巳さんはおっしゃってましたか。

工藤:本人も私もすごくびっくりしたんですけど。全然ミシェル・タピエとは一度も会ったことないし。読売アンデパンダン展にも、ただ規則書に書いて作品を搬入して、あとは会場に並ぶだけっていうことだったんですけど。いきなりタピエが工藤の作品を取り上げて、なんか書いている記事がばっと出て、っていう新聞をある日見て、本人もびっくりしたんですけど。それでそういうことがあって、読売のオーガナイザーが急に訪ねてこられて(笑)。読売の方もびっくりしたみたいなんですね。いきなり誰も知らない、会ったこともない、話したこともない作家を取り上げたっていうので。タピエの言ってることを全部は覚えてないんですけど、一つだけ質が優れているっていう風に書いてあったことがあるんですね。

島:ありましたね。

工藤:で、何て言うのかしら、形も無いような。あの時はね、キャンバスに水彩絵の具とお米の粒やなにかを貼り付けたものだったんです。だからそういうのを見て、どこが質が良いってすぐに分かるんだろうと、私はびっくりしたんですけど。で、工藤もそれ見てびっくりして、知らない人でもこういう風に見る人もいるんだっていう。それがデビューになったみたいですね。

島:外国の批評家が日本に来てそうやって評価してくれるっていうのに、当時みんな20代の前半か20代の半ばかくらいでね、みんなそうやって取り上げられることをすごく喜んだというか、反応が大きかったっていうのをね、見たことがありますよね。

工藤:もう読売アンデパンダンの搬入の頃になると、今年はあいつは何を作るか、何を発表するかっていうんで、みんな興奮して。俺が一番目立つとかね、俺のが一番だっていうような感じで。すごく楽しかったですね。

島:タピエが評価したのは、どちらかというとその絵画の方で、その後結び目に変わっていく頃は、タピエとはちょっと違う…… むしろ東野芳明さんとか中原佑介さんなんかが東京でわりと書かれるようになったのかな。

工藤:そうですね。タピエが取り上げた頃は、まだ平面だったんですね。

島:そうですね。

工藤:だけど、四角いキャンバスじゃなく丸いキャンバスで。直径が何メートルぐらいあったかしら。だいぶ大きい作品なんです。

島:今はちょっと所在不明になっている作品ですよね、その辺りのものっていうのは。

工藤:ええ、多分もう消滅しちゃったんじゃないかと思うんですけど。で、その後でその平面に描いた点々が、オブジェ化してった。

島:結び目に変わっていく。あるいはたわしとか。

工藤:そうですね、立体になったりとか。

池上:それは油絵の具のマチエールがどうも向かないんじゃないかっていうのに気付かれて、立体にだんだん移行されていったっていうことなんでしょうか。

工藤:そうですね。油絵の具はまず第一に高いですよね。それで、自分が表現したいように作るのには、やっぱりチューブごとぎゅっと使っちゃったり、それで一本終わりっていう感じに、すごく高いのを(笑)。だから芝居の舞台装置を描くような泥絵具とか、そういう安いのからだんだん使い始めて、後はもう量を増やすために、メリケン粉に(笑)。

島:それで蛆が湧いたりしたんですね(笑)。

工藤:そうですね、メリケン粉に色を混ぜて、使ったりして。

島:ボリュームを出すのにね。で、個展やグループ展がかなり早い、1957年ぐらいから、在学中から発表され始めて。1959年の南画廊(「工藤哲巳個展」1959年9月14日〜19日)、それから文芸春秋画廊で二度目の個展(「工藤哲巳個展[インポ哲学 インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生]」1961年11月6日〜11日)と。このあたりが非常に重要な個展になったと思うんですけれども。その個展を開くようになったきっかけと言いますか、そういったことは何か聞いておられましたか。

工藤:やっぱり南画廊で個展をやるきっかけになったのは、タピエの評論だったと思うんです。それで、最初に南画廊で個展をやった時にも、確かタピエが、プレファス(序文)をカタログに書いてくれたんですけど。

島:そうすると、南画廊のオーナーの志水(楠男)さんが、例えば読売アンデパンダンを一生懸命見て回って選んだっていうことではなさそうですね。

工藤:そうじゃなくって、あの頃読売にいらした海藤(日出男)さんとか、評論家の瀧口(修造)さんとかが推薦してくださったような感じですね。

島:あと文芸春秋の時は、かなり弘子さんが手伝って。まあ日頃からもちろんお手伝いされることが多かったと思うんですけども(笑)。61年だとちょうど今青森(県立美術館)に所蔵されている作品が出た時でしたかね。

工藤:《インポ哲学》(1960-61年、麻布、木、プラスチック、ポリエステル、110.0×540.0×90.0cm)というのですね。

島:ええ。

工藤:あの頃は紐の結び目とか、コッペパンとか。

島:コッペパンが出てきたり。あと真空管も使われたりし始めた時期ですかね。

工藤:はい、それから写真のフィルムが巻いてあるリールを使い終わった後の…… 

島:空のリールがたくさん。

工藤:そうですね。だから、みんなそれが絵の具の代わりなわけですね。点を打つものの代わりとして、いろんな、自分で思いついたもので表現していくようになる。

島:時々、対談なんかで、とにかく安いということが非常に重要だと。釘も五寸釘ですかね、何貫目っていうんでまとめて購入ができて。それを木に打ち付ける、という風なことでね。何度もいろんな対談で、後日話されたりしてますね。

工藤:そうですね。

島:読売アンデパンダンに関してですが、一部の出品者はかなり過激だったんですけども、展示風景を見るとごく普通の油絵もけっこう掛ってたような。そういった中で間近でご覧になってて、読売アンデパンダンに計5回出されてますけども、その間の変化と言いますか、特に哲巳さんの作品に関してはどのように感じられましたか。

工藤:初めのうちは、キャンバスって言うんですか、四角い平面に絵の具で描いて。水彩とか油絵の具じゃなかったですね、もうあの頃は。油絵の具は使ってなかったかな。油絵の具も一、二点、一回ぐらいは出したかもしれないんですけど。それが、だんだんと立体に変わっていくんですけど。ちょっと今はっきり何回目にはこれを出したっていうのが思い出せないんですが、最初のうちは平面で、だんだんと立体になって、最後に出したのが、天井からぶら下がった作品。

島:《インポ分布図》(《インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生》、1961-62年)。

工藤:はい。その前あたりが、たわしとか紐の塊、こぶの作品とか。

島:僕の印象では、《インポ分布図》というあの作品は、赤瀬川(原平)さんが「最大傑作」だったというような形容をされたりして。あの時期ああいう風に展開するっていうのはね、立体として作っている分には、彫刻の延長上にも見えたりするんですけれども、部屋全体を使うっていうのは、今から考えても非常に先駆的だし、思い切ったことだなあと思うんですけど。とりわけあの作品に関しては、そばでご覧になってて、どういう風なところが。デッサンも少しされていたんですけど。

工藤:あれは何て言うか、その場に行って組み立てたんですけど、最後に組み立てるまでは私もどういうものか全く分からなくて(笑)。それで出品規約っていうのが……

島:出品規定みたいなもの。

工藤:規定ですか。それに壁面を何メートル使うかというのを申告して出すんですね。で、自分はこういうものを出すということを言うんですけど、それは壁だけしか書いてないわけですよ。天井のことは何も書いてなかった。それで工藤は、これなら天井も、壁の面積を言えば、天井も使っていいっていうことになるだろうと自分でそういう風に決めて、計画したみたいですね。で、最後までそれを私には言わなくて(笑)。で、いよいよ明日搬入だっていう時まで作ってたんです、一つずつのあのぶら下げるのを。

池上:それはご一緒に作られてたんですか。

工藤:ええ、もう徹夜で一生懸命。新聞紙を丸めて、中に針金を芯に入れて、それで糸を巻くようにして、黒い絶縁テープで巻いて。で、先端のところにフラッシュバルブを。写真を撮る時に、フラッシュをたく時に使いますね。一個ずつ捨てますよね。それを友達に頼んでたくさん集めておいたんです。それを先端にしてっていう風に、いろんな形のができるわけです。それをウィスキーを飲みながら、もう一晩中かかって作って。ぶら下げるためのネットも、なんかシュロ縄の緑色のを買ってきてあったんです、束で。それを自分で何センチ画に作っていくっていうんで、それもやったりして。それで、当日会場で本人が全部やったんですけど。私も見た時には本当にびっくりしました(笑)。

池上:その時初めて、ああこういう完成予想図だったんだっていうことが、お分かりになったんですか。

工藤:そうですね。私は部分だけは分かってたんですけど、その全体がどうなるかっていうのは。

島:まさかそういう風につり下がって、壁にもこうぶら下がるということは、絶対想定できなかったですね。

工藤:ええ。それで、タイトルの「飽和部分に於ける保護ドームの発生」っていう場所のことなんですけど。茹で麺ってあの頃売ってたんですね、茹でたうどんを。そういうのを売ってるうどん屋さんのようなとこがあって、それも朝になって、「それを買ってこい」って言われて。一軒行って買うと、このぐらいしか量としてはないわけです。で、一軒じゃ足りないから、また二軒目三軒目と、私が全部うどん屋さんへ行って、買い占めて。それからコッペパンですよね。コッペパンも一軒行ったって間に合わないから(笑)。なんか(コッペパンを)背負って歩くような感じで。それを当日全部。今で言うとインスタレーションですか。

島:インスタレーションですね。

池上:そんな言葉はない時代ですよね。どういう風に呼ばれてたんですか、そういう作品形態のことを。

工藤:何て言ってたでしょうね。

池上:絵画でも彫刻でもないわけですよね。

島:絵画・彫刻ではないですよね。まだ立体っていう言葉もあまり無いかもしれませんね。

池上:その頃は多分ないですよね。

工藤:それと、床にいろんな写真とかなんかを、プラスチックの袋に入れて、それをそのうどんで囲うように中にずっと並べたんですけど。それも、もう時間が無かったもんですから、当日会場で透明なビニールの袋の中に入れて(笑)。で、それも並べたんですけど。

池上:その「インポ」という言葉をタイトルに使われたのは、これが初めてになるんでしょうか。

工藤:文芸春秋画廊の時に(1961年)、ちょっと出てきたんですけどね。でも、「インポ」とは言ってなかったかもしれません。

池上:じゃあ作品タイトルとしては、これが初めてで。その後ずっと非常に大事なキーワードになっていくわけですけれども。この時点では、この言葉で哲巳さんが意味されていたことっていうのは、どういうことなんでしょうか。

工藤:「インポ哲学」のことですか。

池上:ですね、はい。

工藤:何て言ったらいいんでしょうか。今までの絵画やなにかのことを言ってるんじゃないかと思うんですけど。島さん、助けてください(笑)。

島:これはけっこう難しいですね。哲巳さんはいろんなことを喋っておられるんだけど。それを多くの人に分かるように話すのって、けっこう難しいところがありますすね。

池上:私もいろいろ読んだんですが、なんとなく掴みきれないところがありまして。弘子さんはその哲学をどういう風に理解されておられるのかっていうのをお聞きしてみたかったんですけど。

工藤:タイトルそのものだと思うんですよ。分布図なわけですよね。一つ一つぶら下がってるものは、いかにも「インポ」っていう感じでこう、だらんと。

池上:ちょっと男根的な形状をしてるんですよね。

工藤:そう。それがちゃんと網の目のように規則的に全部ぶらさがってるから、いかにもそれは分布図なんです。それで「その飽和部分に於ける、保護ドームの発生」っていうのもタイトル通りなんですね。あの、たくさん密集して…… 

島:密集して降りてきてるのがね。

工藤:ええ、降りてきてるところがあるんです。

島:それが二か所ぐらい確かありますね。

工藤:それで、「保護ドーム」っていうのがプラスチックの透明のボールの中に入っているんですけど。その中に象徴的に、ビタミン剤とか、なんかそういう薬も入っている。

島:強壮剤みたいなものでしょうかね。

工藤:ええ、錠剤とかアンプルとか、そういうのが一緒に入っていて、いかにも病院かなんかに入れられて大事に守られてるような感じで。もう一つの方は、一つずつが透明のプラスチックに入れられてる。最後にうどんが、精液のような感じでこうわーっと出てきて、一番大きなところは「飽和部分に於ける保護ドームの発生」。そのドームからも、わっとあふれているように、そこにいろんな芸術とか、写真やなにかが。その頃流行ってたジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)とか、流行りの絵ですね。それからダンスだったらツイストとか。それから建築だったらフラー・ドーム。

池上:バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)の。
 
工藤:ええ、要するにあの頃の一番前衛的なものがわっと出てきているっていう。

池上:それは作品としては、読売アンパンの後は、そのままはとっておけないですよね。

工藤:ええ。

池上:そのまま廃棄されてしまったのでしょうか。

工藤:いいえ、それが。

島:それが全部保管されてね(笑)。

工藤:三個の段ボールの中に全部それがおさまるんです。

池上:あ、そうなんですか。

工藤:ええ、2メートルと60センチぐらいのかしら。

島:結局、パリにそれを持って行かれるんですよね。

工藤:ええ、そうです。

池上:じゃあコッペパンとかうどんだけ取り換えるっていうことですね。

島:そうですね、うん。ちょうどそれについて僕は今、文章を準備してて。(1994年の回顧展図録を見ながら)これですね。これがパリのブーローニュ(Cinéma-Studio de Boulogne, Paris)という映画スタジオでやったハプニングで。その時に読売アンデパンダンの出品作の大半が再展示されて、ハプニングも非常に迫力がある。僕もちょっとこの前調べてみたら、これはその前の年に、「破局の精神を祓いのけるために」展をギャラリー・レイモン・コルディエ(Galerie Raymond Cordier)でやられた(注:「破局の精神を祓いのけるためにPour conjurer l’esprit de catastrophe」展、1962年11月27〜12月13日)。これは日頃「カタストロフ」って言うんだけれども、実際には、「破局の精神を祓いのけるために」というタイトルが正式だって、企画者のジャン=ジャック・ルベルさん(Jean-Jacques Lebel)から、1994年の回顧展の時に手紙が来たんですね。

工藤:あぁ、そうですね。

島:それでそれも修正しなきゃいけないんだけど、この作品がそのままパリに。

池上:この展示は、第14回アンデパンダンの時(1962年)のですね。

島:アンパンの展示ですね。だからこれをそのままパリへ持ち込んで、パリのアーティストとか詩人とかに見せたら、みんなが驚いたとかいう記事があったんですけども(笑)。なんかこのハプニングをやる以前、最初にそれを運ばれた到着されて間もなくの頃に、一度ヴェニス・ビエンナーレに行かれたと。その時に、アラン・ジュフロワ(Alain Jouffroy)とかいろんな人に会われたっていう。

工藤:サン・マルコ広場で。

島:その頃の話をちょっと、改めてしていただけますでしょうか。

工藤:工藤は、急にパリへ行くことが決まったわけですね、そのアンデパンダンの後で。汎太平洋青年美術家展(第2回国際青年美術家展(汎太平洋展)、銀座松坂屋7階、1962年2月13日〜18日、工藤哲巳が大賞受賞)っていうので、いきなりパリに行くってことが決まっちゃって。それで、やっぱり手ぶらで行くっていうのはだめだと思ったらしいんです。自分がどういう仕事をしているかっていうのをまず見せて、できれば展覧会もやりたいし、なんて思ったんだと思うんですね。それで三つの箱に入れてあったものを全部運んだんですけど。着いた年が62年で、ちょうどヴェニス・ビエンナーレの年だったんです。それが6月だって聞いたんで、私達が5月に着いて、パリなんて面白くないって思ったもんですから、ヴェニスに遊びに行くのはどうかって誘われて、「それは面白いかも」って行ったんですけど。その時にも写真を全部持ってったんです。船で送ったからまだ品物は届いてないんですね、パリまで。写真だけは持っていったら、サン・マルコっていう広場がものすごく賑やかなんです。いろんな国のアーティストが来てて、わいわい飲みながら喋っているところで、なんとなくいろんな人に会うことになって。 

島:最初(フリーデンスライヒ・)フンデルトヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser)に会われたって。

工藤:そうです。

島:フンデルトヴァッサーはちょうど61年に東京画廊で個展をされてたんですね。多分その時に出会われたんじゃないかと思うんです。

工藤:ええ、フンデルトヴァッサーには東京で会ってますね。

島:奥さんはまだ当時日本人で。

工藤:奥さんは日本人でかわいい人で。その人たちにも会ったわけですね。それで喋っていたら、そこへジャン・ジャックとかなんかが来て。 

島:ジャン・ジャックとアラン・ジュフロワ。あとフェロ(Ferró)ですか。当時まだフェロって言ってたんですね(注:後にエロ(Erró)と名乗るようになる)。

工藤:そうですね。そしたらジャン・ジャックがその写真見て「これは面白い、一緒になんかやろうよ」っていうことになって。それでパリに帰ったら、早速やろうって言うんで決まったのがレイモン・コルディエ画廊で。 

島:レイモン・コルディエでの展覧会とハプニングですね。それからさらに先ほどの写真の、ブーローニュの会場でも開催されたっていうことですね。

工藤:それから、ジャン=ジャック・ルベルのお父さんで、ロベール・ルベル(Robert Lebel)。(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)の研究を。

島:デュシャン論を最初に書いた、ええ。

工藤:その人が、61年だったか62年かにグループ展を企画して。サンジェルマン・デ・プレにある、ギャラリー・ドゥ・セルクル(Galerie du Cercle)っていう所なんですが。そこで何人かのアーティストが。誰がいたかしら、有名な人なんですよ、わりと。きっと、ジャン=ジャック・ルベルのお父さんのコレクションとか、それから違うコレクターから集めたんだと思うんですが。(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)もありましたね。そこに呼ばれて、工藤はサイコロのオブジェを出したんですね。62年か3年ぐらいでしょうかね。

島:「コラージュとオブジェ」(「Collages et Objets」、Galerie du cercle、1962年10月24日〜11月17日)ではないですか。アルマン(Arman)、(ジャン・)アルプ(Jean Arp)、(ハンス・)ベルメール(Hans Bellmer)、(ジョゼフ・)コーネル(Joseph Cornell)、デュシャン。(アンリ・)マティス(Henri Matisse)やマン・レイ(Man Ray)も載ってますね。

池上:錚々たるメンバーで。

島:まだみなさん、おおむね元気な頃ですよね。

工藤:そこに頼まれて、工藤も一点出したの。

島:だから1962年のアンデパンダンから言うと、これがヨーロッパデビューですね。

工藤:そうですね、63年ぐらいですか。

島:62年の秋ですね。10月から11月。その後引き続き、ジャン=ジャック・ルベルの企画による「破局の精神を祓いのけるために」展ですね。

工藤:ええ、この時に、パリに行ってすぐに作り始めたのがサイコロだったんです。

島:サイコロシリーズだったんですね。

工藤:ええ、その第一号を出したの。

池上:ちょっと東京時代のお話をもう少しお聞きしたい所があったんですけれど。絵の具が高いから安い素材をっていう作家は、当時他にもいらしたと思うんですね、ネオダダの近辺の作家さんたちですとか。哲巳さんもネオダダの集まりにはよく行かれていたんですが、グループには結局参加はされなかったっていうことなんですけども。それは、明確な理由みたいなものがあったんでしょうか。

工藤:そこが分からないんですが。とにかくネオダダのグループに入るのが、工藤は嫌だったらしいんですね。よく吉村(益信)さんのアトリエに集まって、ネオダダの人たちがパーティなんかやってたみたい。

池上:そうですね、ホワイトハウスと呼ばれて。

工藤:私のことはどういうわけか一度も連れてってくれないんです。 

池上:そうですか(笑)。

工藤:なんかね、相当乱痴気騒ぎになったようなんです。

島:裸になったり、なんだか、かなり…… 

工藤:ええ、お酒を飲んでね。絶対に私のことは連れてってくれなかったんです。

島:危ないと思われたんじゃないですかね。

工藤:そうかもしれませんね。

島:弘子さん連れてくと、なにされるかわからない。

工藤:三木富雄さんもよく行ってたんですけど、彼も入ってなかった。

島:仲間に入らなかった。

工藤:ある日、なんか三木さんなんかと会ってて、これからじゃあネオダダの集まりに行くって言うんで、みんなでタクシーに乗って行こうって言うから、私、「あ、今日は連れてってもらえる、嬉しいな」って思ってわくわくしていたら、途中で急に工藤がタクシーに、「ちょっとここで止めて」って言って、「お前降りろ」って(笑)。私だけ一人で放り出されて。どこか分からないようなところで放りだされて、みんなで行っちゃったんです。そういう感じで、私一度も連れてってもらえなかった。

池上:わりと男性的な集まりだったんですね。

工藤:ネオダダには女性の人もいました、平岡弘子さんとか。

島:でもやや男性の方が主流ですよね、確かにね。ネオダダ周辺の人たちで交流があったのは、同世代では高松次郎さん、荒川修作さん、篠原有司男さん、赤瀬川原平さん。数多くいらっしゃるんですけども。特に親しくされた方々とかっていうのは、どんな感じだったんでしょうかね。

工藤:そうですね、三木さんと篠原さんとはわりとよく会ってたと思います。そうだ、あれは誰にお聞きしたのか忘れたんですけど、三木さんだったかしら。アメリカ人の女性が英語を教えてくれるから、一緒に英語を勉強しないかって誘われたんです(笑)。それで時々三木さんのお宅にお邪魔したのを覚えてます。それで工藤でしょ、三木さん、それから篠原さんがいたのは覚えてますね。

島:先ほど池上さんが、《インポ分布図》の作品が無くなったんではないかって言われたのは、当時やはり多くの人たちが作品をあまりちゃんと残さない、あるいは結果的に残せない人が多かった中で、工藤さんはかなり残ってる方かなと思うんですね。もちろん哲巳さんの作品も、もう無くなってしまったものもあるんですけども。それについては何か。

工藤:そうですね、できるだけ残そうとしたんですけど、作った後がやっぱり困るんですね。置き場所が無かったりして。だからタピエが言った丸い絵っていうのも、大きすぎて置き場所が無くって。確かあれは、あの頃アトリエとして使わせてもらってた劇団演出劇場ってあったんですけど、そこの稽古場に置きっぱなしにしてきたのを覚えてますね。でもギュウちゃん(注:篠原有司男)も竹を組み立てたりして、やっぱりそういうのも置き場所が無くて、野ざらしになったり。工藤も初めのうちそんな感じだったんですけど、タピエが一度訪ねて来たことがあるんです。世田谷にいた頃なんですけど。それで言われたんですが、作品はなるべく丈夫に作っておいて、後まで残るようにするのがいいって言われて、なるほどって思って(笑)。それから材料にも気をつけるようになって、できる限りとっておくようにしたんですけど、やっぱり大きいものはなかなかとっておけないものがありました。

島:そうすると結び目を作られた頃からは、わりとしっかりと、作品自体もがっちりしているっていうのもあるので、わりと残っている方なんですね、それ以後のものは。

工藤:鉄骨で芯を組んだり、そういうものはわりと残っている。

島:あと今、東京都現代美術館が持っているエックス型(《X型基本体に於ける増殖性連鎖反応》(1960年))とか、ドーナツ型(《平面循環体に於ける融合反応》(1958-59年)のものは、ちゃんと残りましたね。

工藤:あのドーナツ型もパリへ持ってったんですよ。

島:あれをですか。へえ。

工藤:なかなか展示するチャンスは無かったんですけど。それで、あれは日本で展覧会がある時に日本にまた送ったのかしら。

島:そうすると、80年代に入ってからですかね。その前はなかなかその時期のものを回顧するっていう展覧会もそんなに無かったから。

工藤:覚えているのは、パリで78年にギャラリー・ベルシャス(Galerie Bellechasse)っていうのに、ちょっと出したのは覚えてるんですけど(注:「未来と記憶の中での瞑想:工藤の近作20点Méditation entre futur et mémoire VINGT OBJETS RÉCENTS de KUDO」展、1978年10月4日〜11月12日)。

島:その個展の時ですかね。

工藤:個展ですね。だからそれを日本にまた送り返したのは80年になってからかもしれません。

島:工藤の近作20点ってなってますけども、この時に。 

工藤:古いのを一点だけ。

島:この頃にドーナツ型の作品が出たかもしれないですね。

工藤:そうですね。だからもしかして、三木(多聞)さんのやった展覧会に出したかもしれないですね。はっきり覚えてないけど。

島:三木多聞さんが東京国立近代美術館でやった、60年代を回顧するっていうのが(「1960年代−現代美術の転換期」展、東京国立近代美術館、1981年12月4日〜1982年1月13日、京都国立近代美術館、1982年2月10日〜3月14日)。それには出品してます。

工藤:出てました? ああそうですか。その時に送ったのだと思います。

島:それから日本に所蔵されるようになったんですね、東京都に。それで、第2回国際青年美術家展で大賞を受賞されて、その事務局がパリにあったために、パリに行かなきゃいけなかったということなんですけど。当時周囲の方はもう基本的にもうニューヨークだということだったんですけど、それについてはどういう風におっしゃっておられましたか。

工藤:そうですね、やっぱりパリよりはニューヨークの方に行きたかったようですね(笑)。ニューヨークはあの頃、東野さんやなにかがニューヨークでどういうことが起こってるか なんて書いてらしたんで。

池上:ちょうど62年頃からどんどん書かれるようになりますよね。

工藤:そうですね。賑やかそうですし、面白そうだとは思ってたんですけど。パリっていうのはあんまり気が進まなかったんです(笑)。だけどその賞はパリに行くことっていう風に決められてたんです。行かないんだったらその賞金もくれないっていうんです。だから賞金だけもらってニューヨークに行くっていうことはできなくて、パリへ行くための賞だからって言うんで、パリへ行く運賃ですよね(笑)。飛行機代。それも一人の往復分ぐらいしかなくて。だから初めは一人で行くつもりでいたんですが、私も行かなきゃだめだって周りの人に言われて、行くことになったから、それを二人で片道の旅費に使ったわけです。 

池上:じゃあ本当に行くだけで、生活費なんかはつかない賞なんですか。

工藤:ついてこない。

島:当時1,500ドルという記載がどこかでされてたんですけれども。

工藤:そうですか、はっきり覚えていないんですけど。

池上:往復の運賃プラス1,500ドルの賞金。

島:ということなのか、往復の運賃も含めた1,500ドルなのか(笑)。

工藤:それだけなんです。

池上:今よりは価値があるとは言え、ちょっと厳しい。

工藤:それでも50万ぐらいしかなかったんじゃないですか、日本の円にして。

池上:当時のレートだと、きっとそれ位か、もう少し位ですよね。

島:生活レベルは今とだいぶ違いますからね。

工藤:なにしろ飛行機代で全部消えちゃったのを覚えています。

池上:飛行機代も今より高い時代ですもんね。

工藤:パリに行かないんだったらその1,500ドルもくれないって言うんですね。だからせっかくなら、行ってみたこともないところだからどんなとこか見るだけでもいいかなんていう感じで、初めは行ったんですが。生活費は一生懸命工面して、ある程度は持っていったんですね。最初のうちだけでも、何か月分か。それがすぐに無くなっちゃって、結局帰れなかったんですね。日本に帰ってくるお金が無くなっちゃって。それで展覧会をしたいと言ってもむこうは全然日本とはシステムが違うので、日本みたいに貸し画廊で一週間やって終わりっていう感じではなくて、画廊が全部企画してやるもんですから。

池上:選ばれないといけないんですね。

工藤:ええ。それも一年に二回ぐらいしか無いって言うんで。春のすごくいいシーズンに一回、それから秋に一回っていうんで。それも有名な人をやるとお客さんが来るから、名も無い人なんて全然相手にもされないわけです。フェロなんかにも言われたんですけど、最低二年住まないと個展なんてとてもできるところじゃないって。もうびっくり仰天して、二年なんて生活するお金が無いし。でもせっかく来たんだから、やっぱり展覧会は絶対しなきゃだめだと思ったらしいんですね。それとお金が無いのとが合わさって、結局ずるずるといることになったんですけど。

島:だから最初の半年ぐらいはなんとか暮らせたとしても、工藤さんの文章によるとその後の一年半か二年近くは、バゲットとお水と牛乳、後は四本入りの煙草とかそういうものだけで、だんだん栄養失調になってったって書いてあったんですけども。

工藤:そうですね、あれは何て言う名前だったかしら、パリジャンって言ったかしら、なんか名前だけはいいんですけど。四本をこう紙で包んだような。それしか買えなくて。私は皿洗いをして、それでその日はなんとかパンぐらいだったら食べられたっていう感じ。

池上:お住まいはどういう風に探されたんですか。

工藤:最初はもうすぐ取り壊しになるというホテルなんですけど、むこうはホテルって言っても、なんか住まいになっていて、みんなで住みついちゃってるんですね。なんかニューヨークにもチェルシーなんとかいう所が。

池上:そうですね、チェルシー・ホテルみたいな所がありますね。

工藤:そういう所に、工藤の前に行ってた前田常作さんが、一つお部屋が空いてるからって。前田さんは同じ所の一階をアトリエとして使ってたんです。住まいは違うところだったらしいです。私達は住まいも全部一緒にそこにいることにして。それが大変だったですね、62年に着いたでしょ。で、63年の次の年にはもう取り壊しになるので。電気も暖房も全部切られちゃって。おまけにその62年の冬っていうのが、ものすごい寒かったんです。氷柱が屋根から地面まで垂れ下がって、それが凍って溶けないんですよ、何日も。ものすごく寒い年だったんです。石炭なんかも配給で、みんな1キロ買うのに並んで買ってたっていうぐらいで。大変な時だったんですけど。そこで63年ぐらいまでかな。その後、日本人の知ってる人が、田舎で「住まいの空いてる所があって貸してあげる」っていう人がいるって言うからそこに越したんですけど、そこがトルシーっていう郊外だったんです。もう大変なところでした(笑)。

池上:というのは。

工藤:駅から30分か40分、一時間近くかかって歩く。バスもあるんですけど、一日に何本というぐらいの所で。もうそこの生活が大変でしたね。もちろん暖房なんか無いんです。一番困ったのが、展覧会に出品したくてパリに行きたいんだけども、交通手段も、電車でガール・ド・エストでしたか、東駅から電車で何時間かなぁ。やっぱりフランスって、パリの一歩外に出たらものすごい田舎なんですよ。何本かしか無いんです、数えるほどしか。終電も早く終わっちゃうし。9時頃には終わっちゃう。その時に、たまたまビエンナーレ・ド・パリ(「第4回パリ・ビエンナーレ」、パリ市立近代美術館、1965年9月28日〜11月3日)に出したいと思っていたんだけど、その締め切りを聞いたのが、もう時間が無くて。それで、タクシーを探すにもタクシーも無くって、電話も無いから郵便局に行ってかけなきゃなんないんだけど、その電話もパリと違って、土曜日・日曜日はお休みとか。というので、電話もかけられないタクシーは無い。それであるのは、歩いて駅まで行って電車に乗るしかないんですよね。それがこの二つ目、今倉敷にあるあのオブジェを出そうと。

島:《ラムール》(《L’Amour愛》1964年)ですね。

工藤:ええ、《ラムール》です。あれを二人で風呂敷に(笑)。とことこと駅まで歩いて(笑)。それでもうギリギリにパリに辿り着いたんですけど。あの頭を載せる椅子が無かったんですね。その椅子を用意しなきゃなんないだけども、もう美術館の搬入の所に辿りついた時にはほとんど時間が無いんです。それで私が工藤に、「私がここで搬入の手続きするまでちゃんと頑張ってるから、あなたデパートに行って椅子を買ってらっしゃいよ」って言って。それでペンキも何も塗ってないただの——今うちにも一つあるんですけど——椅子をオテル・ド・ビルっていういろんなものを売ってるデパートへ、工藤が買いに行って。その間私がその搬入の書類を書き入れて頑張ってたんです。「閉めないでね、ちょっとこれ持ってくるから」って。その時、(ローラン・)トポール(Roland Topor)知ってます? それから(フェルナンド・)アラヴァル(Fernando Arrabal)なんかがちょうどその美術館の入り口で、「Voilà, Voilà, Kud? est arrivé(やあやあ、工藤が来た)」とか言って(笑)、すごく好意的に待っててくれたんです。私が一所懸命頑張っていて、工藤がやってきて、そしてとにかく搬入だけ済ませて。それで始まる日にペンキを持ってきて、一所懸命塗ろうと思って。それでその上に載せて出したんですね、作品を。 

池上:ギリギリ間に合った。

工藤:ええ。でもそれで、本当に田舎に住むのはこりごりして(笑)。早くパリに帰って来たかったんですけど。パリってヴェルニサージュ、画廊のオープニング・パーティなんかあるとものすごく夜遅いでしょ。するともう電車も無くなっちゃうんです。

島:それはこの63年の第3回パリ・ビエンナーレ?

工藤:63年の時は違います。日本から出した。そしてあの頭(《ラムール》)を出した時は、フランスから出したんです。63年がサイコロを出した時で。その次だから65年ですか。

島:あ、そうですか。65年…… あ、これだ。第4回パリ・ビエンナーレですね。

工藤:それでその田舎に住むと(笑)、帰るときにお金がたくさんあればタクシーでパリから田舎まで帰れますけど、それもできないし。電車が無いっていうことはパリに留まらなきゃなんないってことだからホテル代がかかりますよね。田舎は安いからいいだろってみんなが言ってくれたんだけど、とんでもない、ものすごく高くつくんですよ。食料までパリより高いの。どうしてかしらと思ったら、一度パリに来て、それからまた来るっていうんだって。パンの味もまずいんです(笑)。それでもういやだって言って、パリに来たんですよね。パリに来てその後どこに住んだかしら。あまり引っ越ししたんで。

池上:そのトルシーっていう所はどれくらいいらしたんですか。

工藤:だから一年…… 63年から64年にかけてかしら。

池上:じゃあまぁ一年ぐらい。

工藤:そうですね。それで日本人の方で、日本に一年か二年か行くことになったので、その間アトリエを貸してくださるっていう人がいて。それでまたパリへ来たのかしら。それが64年くらい。

島:64年くらいですかね。あのハーグの市立美術館に、作品を出されたというような頃ですね(注:「ニュー・レアリスト Nieuwe Realisten」展、ハーグ市立美術館、1964年6月24日〜8月30日[31日の表記もある])。

工藤:ええ、その頃ですね。

池上:お二人ともフランス語は、フランスに行かれてから学ばれたんでしょうか。

工藤:学ばれたというか(笑)。いや、なんとか。

池上:必要に迫られて。

工藤:ええ。なにしろ英語を分かってても喋ってくれないし。ジャン・ジャックはわりと英語を喋ったんですね。だから早く友達になれたんですけど、他の人は、フランスにいたらフランス語を喋るのが当たり前だっていうような顔をして。ホテルでもなんでも全然英語が通じなかったですね。

池上:特に学校に行かれたりして、勉強されたりしたわけではなくって。

工藤:私は初め行ったんです。とにかく工藤はそんな暇ないから、「お前が行け」って言うから勉強に行ったんですけど。アリアンス・フランセーズっていう所なんですけど。大変なんです、予習・復習があって。でもとにかくちょっとだけ行ったんですが、展覧会が例えばハーグであるなんていうと、行かなきゃならないですよね。そうすると学校を休まなきゃなんない。休んで行くともう全然分からなくなってるし。それでもう諦めて学校は行かなくて。あとは一生懸命、耳だけで覚えて。だからもう何年もフランス語をどうやって書くのかも全然分からなかったですね。アルファベットも知らなかったです。だから英語の通じる所は英語で。コレクターとか画廊とかのお話もほとんど英語で。手紙も全部英語だった。一応分かる人はいましたので、仕事のことは大丈夫でしたけど、普段の生活は大変でしたね。

島:その一、二年後の、生活も大変で食べるものにも事欠いた時に、にもかかわらずけっこう写真は残されているんですよね。それはすごいなと思ったんですけど。

工藤:新聞記者なんかに写真くれって言われるんですね。でも写真家を知らなかったし、頼むとしてもすごく高いっていうのが分かったんで、じゃあ自分でやるより仕方がないと思って。カメラは持ってたんでフィルムだけ買って、私が一生懸命やり始めたんです(笑)。だけど最初のうちは分からないから、いくら撮ってもなんかボケてたりまっ黒だったり。現像は出しに行って。現像代だけでもう大変だったのね。そのうちに、そういう美術作品を撮った写真を現像する、特別な現像所っていうのも教えてもらって。「そこに行けば丁寧に現像してくれるから」って、そういう所を教わって行くようになったんですけど。お金が無いから、「作品と交換してくれるか」っていう風に頼んだり(笑)。すごく私が一生懸命やってるんで気の毒に思ったらしくって、写真屋さんが。「露出計は持ってないの?」って言われたんです。あまりにも私の写真がばらばらなわけですよね。「持ってないの」って言ったら「えーっ、それじゃあ窓からお金捨ててるみたいなもんだよ」って言って、「露出計あげる」とか言って、露出計をくれたりして(笑)。それで一生懸命撮って。この写真は、シャッター・スピードがいくつで、露出をいくつで撮ったものだっていうのを私が一応メモしてあったんです。そしたら「これを撮る時には、もう少し露出をこうして、シャッター・スピードはこうした方がもっと良く撮れるよ」とかっていうのもだんだん教えてくれるようになって。それで一生懸命やってるうちに、なんとか撮れるようになったんですね。

島:日本にいるうちから少しは撮影されてましたよね。

工藤:でももう、本当にただのスナップぐらいのもので(笑)。

島:本格的なのはむしろパリに行かれてからの方が。

工藤:ええ、やっと撮れるようになったんです。でも、いつも自信が無くて。

島:僕これ(注:1963年2月のブーローニュ映画撮影所での工藤のハプニングの記録写真)は名ショットだと思いますけどね。

工藤:みんなに言われるんですけどね。

島:これは本当に素晴らしい写真だと思います。

工藤:でもね、いつも私は偶然だと思っているんですよ。偶然良く撮れる時もある。

池上:なんか迫力というか、興奮が伝わってくるような。

島:実は今度美術館ニュースに、これを元にした書きかけのものがあるんで。今日のお話を伺って、来週か再来週ぐらいまでになんとかまとめて見てもらおうと思います。

工藤:この時はこっちの高い所に登れる所を探したんです。映画のスタジオなので、鉄の柱なんかがあったんですよね。そういうのに思わず、後で気が付いたらよじ登ってた(笑)。

池上:わりとご自分で暗中模索というか、写真については手探りで学ばれたという感じなんですか。

工藤:今でも素人だと思ってます。だから何枚撮ってもそのうちの何枚が使えるか全く、できあがってみないと分かんないっていう感じで。

島:アラン・カプロー(Allan Kaprow)の『Assemblage, environments & happenings』(Harry N. Abrams, Inc., 1966)っていう名著があるんですけども、その中に弘子さんと別の方が撮影された、哲巳さんのこの時の写真が何枚か入ってるんですね。しゃがんだりしてるところ。それを見たアメリカのマイク・ケリー(Mike Kelley)が、その本に触発されて工藤のことを知ったというようなこともあるんですね。

池上:そちらのウォーカーのカタログに彼が寄せた文章に、書いてありますよね(注:Mike Kelley, “Cultivation by Radioactivity,” Tetsumi Kudo : Garden of Metamorphosis, Walker Art Center, 2008)。

島:そうですね。ですから、そういう意味でもこのイベントは、何て言うんでしょうね、ヨーロッパだけでなくて、アメリカでも。アラン・カプローの本が66年に出てますので、非常にそういう意味で同時代的に受容されて。特にハプニングに関しては、アラン・カプロー自身が、確か1959年にやったハプニングあたりからジャン=ジャック・ルベルも関わり出して。その本には草間彌生さんから具体の白髪さんが泥の中で絵を描いているようなのも含まれてまして、そこに工藤さんの、この時のものがちゃんと載ってるんですね。

工藤:ああ、そうですか。この時に、ここにも写ってるんですけど、ちょうどニューヨークのギャラリーが、パリにギャラリーを開くというので。 

島:イリアナ…… 

工藤:ええ、イリアナ・ソナベンド(Ileana Sonnabend)とか。それからロベール・ルベルもいるんです。

島:ソナベンドがこの方ですね。

池上:ああ、本当だ。ちょっと、頭を大きく結って。

工藤:そうです。ロベール・ルベルがこれですね。で、この人が(フランソワ・)デュフレーヌ(François Dufrêne)。

島:デュフレーヌってあのポスター破りの作家。あ、じゃないか、言葉を使う人だ。

工藤:ええ、デュフレーヌ。で、わりとこのハプニングの時も、アメリカ人なんかもいたかもしれないですよね。 

池上:そういう意味でも貴重な写真ですね。

工藤:そうですね。私が知らなくても他にもけっこう有名な人が。

島:多分いろいろな人が入ってる。僕がちょっと調べて、このウォーカーのカタログにも書いてあるんですが、これは、映画を撮るために使われたという風に記述されてましてね。

工藤:ええ、そうですね。

島:イタリア映画なんですけれど、日本でも公開されて、『ゼロの世代』っていう映画となって出たというんで、週刊誌ネタになって(注:原題はI Malamondo、監督:パオロ・カヴァラPaolo Kavala、ドキュメンタリー映画、1964年日本公開)。それで池田満寿夫さんがその映画を見ている時に、工藤がいるって発言したり。それから、東野芳明さんも前田常作さんも何かその情報を得て、コメントが週刊誌に出てくるんですよ。

工藤:ええ、なんかどっかで(笑)。私自身は見てないんですよ、この映画。フランスでは公開されなかったんじゃないかしら、分かんないけど。

島:どちらかというとスキャンダラスな。裸でスキーをするヌーディスト達であるとか、ほっぺたを剃刀で切ったりとかね、非常にエキセントリックな映画だったようなんですね。

池上:ドキュメンタリーなんですか。

島:風俗ドキュメンタリーのような感じなんですね。その一部に、このハプニングのワンシーンが出てくるらしい。で、哲巳さんがこの、弘子さんと一緒になって作られたものを体につけて、体をこう動かしてるシーンが出てくるようなんですね。

工藤:そうなんですか。これには写っていないんですが、こっちにはジャン・ジャックのハプニングがね。

島:同時多発的にやってたんですかね。

工藤:それが、お風呂のこういう入れ物ありますよね。あの中に赤い水が入って、血のつもりなんでしょうね。その中で、ケネディとフルシチョフなんかのお面を被って、お風呂に一緒に入っているところとか(笑)、すごいめちゃくちゃだったんですね。で、エロ(Erró)が自分で作った機械のようなもので、こうやってロボットのような感じになって。それでおしっこをしているように(笑)前からピューッとお水が出てたり、そんなのもあったりして。それでふらふら歩いてるんです。

島:それで二枚目の写真を見ると、ここで撮影をしているように見えるんです。

工藤:そうですね、これは映画の人だから。

島:それが映画の人ですね、やっぱりね。

工藤:ええ、そうですね。なんかこの辺にスクリプト・ガールがいて、やっぱり「テリーブル(terrible)」って言って、もう呆れかえっているのもありましたよね。

島:じゃあ次に行きましょうか。活動だけ追いかけてると何日お話を伺ってもきりがないんですけれど、もうひとつ有名な写真を一つ(注:ハプニング「ゆるやかな出来事、あなたの肖像Quiet event, Votre portrait」サン・マルコ広場、ヴェニス・ビエンナーレ開会前後)。サン・マルコ広場ですね。パリへ着かれてすぐ行かれたサン・マルコでは、フンデルトヴァッサーを通じてパリのいろんな詩人とか、美術関係者に会われたんですけども、66年に改めてまた行かれて、その時は出品者というよりもハプニングをやるためにわざわざ行かれたように聞いているんですが。

工藤:ええ、そんな感じですね。

島:この時は展覧会場にも行かれたんですか。

工藤:この格好でですか。あんまりはっきり覚えていないですね(笑)。展覧会場には行かなかったと思いますね。

島:服装はどんな感じだったんですか、この時は。

工藤:ちょうどこの直前に、パリで「サロン・ド・メ」で作品を発表した時(注:「第22回サロン・ド・メXXIIe Salon de Mai」、パリ市立近代美術館、1966年5月2日〜22日)に、こういうコスチュームと、型ですか。この型は作品の一部なんですけど、全部蛍光の緑色なんです。それでサングラスもミラーのをしてて(注:ハプニング「あなたの肖像Votre portrait」、サロン・ド・メでのハプニング)。靴から何から緑なんですけど。ヴェニスでもこの服装で、キャフェでビールを飲んでいたんです(笑)。籠をテーブルの上に置いて、それで鳥の鳴き声のなんかピピッて鳴らす笛みたいなのを鳴らしながら楽しんで飲んでたんですけど。そしたら人だかりができちゃって、みんなが何だ何だって後から後から。とにかくビエンナーレやっている間はいろんなことがあるもんだから、みんな野次馬がたかってくるんですね。それでいろいろ質問をされるんですけど、工藤は何も言わないでただ黙って座ってる(笑)。それで仕方なく私が一言二言返事をしているうちに、ますます大きくなっちゃって。それでもうこれじゃあ大変だと思ったから、ちょうど持ち合せていたアムステルダムでやった個展(「工藤哲巳個展KUDO」、ギャラリー20、アムステルダム、1966年4月)のカタログを持ってたんです。「じゃあこれを見てください、読んでください」とかって見に来た人に渡してたら、ますます人だかりがしてきて、そのうちにポリスに気付かれて。ポリスがやってきて「何をやってるか」って言うんで、「別に何もやってないんだけど」って言ったら、「こういう所で人だかりがするようなことをされると困るから、それには許可証がいる」って言うんです。「許可証を持ってればやってもいい」っていうんで、「じゃあその許可証をもらうにはどこへ行けばいいんですか」って言ったら、なんか指さして「あっちの方に行けばあるから」って言うんで、「じゃあ許可証をもらってきます」って立ち上がって。そしたらその歩くのにも工藤は傘をさして籠をぶら下げているもんだから、またみんながどんどん(笑)。それでもう私ももうこうなったらって思って腹を決めて、ちょうど作品のタイトルを書いた看板のようなものを持ってたんで。

島:これが「郷愁病」。

工藤:「郷愁病」。「For Nostalgic Purpose」って書いてあるのかしら。もうついでだから私も黙ってこの看板を(笑)。

島:キャプション係で。

工藤:そいで並んで歩いていたら、これを写真家が撮った。 

島:この時は、シャンク・ケンダー(Shunk-Kender)っていう二人組の写真家が。

池上:アメリカの二人ですね(注:シャンクはドイツ、ケンダーはハンガリー出身だが、1967年までパリで活動した後、アメリカに移住した)。

工藤:ご存じですか。

池上:面識は無いのですが、いろんな所で美術関係の撮影をされてる二人組ですよね。

工藤:その二人組に初めて会ったのはギャラリーJ(Galerie J)で個展をやった時(「工藤哲巳個展 すべてきっちりと KUDO Rien n’est laissé au hasard」展、1965年2月26日〜3月25日)だったんですよね。それ以来知ってる人なんですけど、こういう所にもちゃんと来てるんですね。

池上:さすがですね(笑)。

工藤:あと驚いたことに、鋸山まで来たんです。そのシャンク・ケンダーが。

島:安齊(安齊重男)さんみたいなものですね。

工藤:そうかもしれませんね。

池上:こちらの方は、わりと意図せざるしてハプニングになってしまったというような感じで。66年は草間彌生もゲリラ的にパフォーマンスをやってましたよね。それはすれ違ったりはされなかったんでしょうか。

工藤:えーとね、彼女はなんか…… 

池上:なんかミラーボールを2ドルで売るっていうような。

工藤:ハプニングのようなことをやってたのは、見なかったんですけど。彼女は確かその時にフンデルトヴァッサーの家に泊めてもらっていて。なにしろお金が無いからって言うんで。フンデルトヴァッサーの奥さんが泊めてあげたらしいんですけど、それで日本館かなんかにも現れて、着物を着て。それは見ました。 

島:確か草間さんも別に正式に呼ばれてるわけではないんですよね。

池上:ではないと思います。勝手にやったという感じだったと思います。

工藤:出品していなかったはずなんです。あの時もなんか大変でしたね、それで(笑)。フンデルトヴァッサーのお家に泊ってそこをなんか根城にして、世界中に電話かけているんですって。長距離電話を。自分の宣伝のために。

池上:電話代が大変ですね(笑)。

工藤:それでフンデルトヴァッサーの奥さんびっくりしちゃって、「そんなに電話をかけられたら困る」って言ったら、なんか作品を持ってきたみたいですね。「この作品あげるから電話代の代わりに」って言ったら、そこに画商が現れて「おいおい待ってくれ、それは俺のだ」って(笑)。

池上:大変ですね(笑)。

工藤:なんかそんなスキャンダルがあったっていうことは聞きましたね。賑やかな年だったみたい。

島:ちょっと戻りますけど、1963年の第3回パリ・ビエンナーレでは、この腹切りのパフォーマンス(ハプニング「ヒューマニズムの腹切りHarakiri of Humanism」、「ヒューマニズムの壜詰Bottled Humanism」)ですよね。これはどんなような経緯でやろうという感じになっていったんでしょうか。

工藤:この時もジャン=ジャック・ルベル達が、なんかやるって言うんです。それで一緒にやらないかって言われたんですけど、工藤はこの年は日本のセクションに出品した年なんですね。それでこのハプニングは、ジャン・ジャック達とのハプニングだから、日本のセクションとは関係ないんです。。

島:そうですね、63年の秋に。

工藤:それでジャン=ジャック・ルベルとかエロやアラン・ジュフロアも、それからダニエル・ポムロール(注:Daniel Pomerol、ポムロールは通称で本名はポムルーエPommereulle)も一緒にやったんですけど、その時に工藤が「じゃあこれをしよう」って言って。これはハプニングっていうよりは、ちゃんと自分で…… 

島:しつらえてと言うか。

工藤:はい。演出も考えてあって、この小道具も。

島:サイコロとか。

工藤:はい。段ボールに金色と黒でもってサイコロの目を描いて。ちょうど出品作もサイコロだったんですけど。それで、工藤がちゃんと計画してやったもんです。 

島:これはご自身の腹切りのパフォーマンスというよりも、ここにある人形をカットする。

工藤:人形にすり替えたんです。

島:すり替えたんですか。

工藤:ええ、この人形は始めは隠してあって、見えてないんですよ。だからこの写真の順序がちょっと。それで、腹切りっていうのは有名ですよね、外国でも。日本の侍がやることで。だからもうみんなすごく興味があって。

島:もうドキドキしてみんな待ってたわけですね。

工藤:はい。最初は人形は見えなかったもんですから。脱いで、それでブスッとやる時にはみんなはっと思って息をのんで。これから何が始まるのかと思ったら、なんかさっと切り替えて人形のお腹を切り始めたんで、みんながもう気を抜かれたのと、呆れたのと、いろんなことでもってみんなどっと笑って見てましたね。それで、その人形が最後に壜に入れられて、壜詰にして、その中にアルコール漬けのように。アルコールの壜がどっかに見えてたと思うんです。

島:まむし酒じゃないけども。

工藤:そうそう。アルコール漬けのような壜詰ができて。それを今度はバーテンがやるように、カクテルを作るように振るんですね。そのアルコール壜を(笑)。それでもうみんなゲラゲラ笑って(笑)。そしたら、その人形の壜詰を今度は客席に向かって投げたもんだから、もう本当にみんな大騒ぎして。それで足をこう踏んで、どたどたって(笑)

池上:いいぞいいぞっていうような意味ですよね。

工藤:大喜びしてました。

島:この写真だけ見てるとすごくシリアスな感じに見えますよね。

工藤:そうです、いかにもなんか、本当に(切るような)。 

島:介錯の人がいる写真があったから、まさに本当にすごく息をのんでね。

工藤:これ私なんです。

池上:そうなんですか。

島:目だけだから分からない(笑)。

工藤:全部わからない。歌舞伎の黒子みたいに。

島:観客の反応は、弘子さんの今のお話を伺わないとやっぱり分からないですね。

池上:意外にユーモラスだったという。

工藤:すごく本人は悲しそうな顔をしてるから。

島:ですね、真剣に。哲巳さんは観客がわーっとなってる時に、一緒に笑ったりはしなかったですか。

工藤:しないですね。なんかものすごく…… 

島:じゃあすごく生真面目に。

池上:その笑うというのは、別に意図して笑わせようというつもりではないんですよね。

工藤:ないです。それでこの時、小さなガリ版刷りのパンフレットを作ったんですけど。いくつかハプニングのタイトルを自分で決めてつくって、全部をやったわけじゃないんですけど。その中の一つとしてこの腹切りをやって、それに「Harakiri of Humanism」、「ヒューマニズムの腹切り」と書いて、それでその下に「セレモニーの好きな人たちへ」っていうタイトルがついています。「For Ceremony Loving People」っていう風に書いて。だからみんなが何をするのかと思って、きっと楽しみにしてたんじゃないですか。その他には、カツレツですか、《ヒューマニズムのカツレツ》とか。なんか2、3、何て言うのかしら、芝居のパンフレットか、あるいはレストランの…… 

島:メニューのような感じで…… 

工藤:メニューのような感じで。で、その中のこれをやった。

池上:同じ年に、さっき「カタストロフ」とおっしゃった展覧会の中で、「インポ哲学」のハプニングもされてるんですよね。これはまた全然違うタイプだったんでしょうか。

工藤:さっきのに似てる。こんな感じの。どっかに写真あったと思うんですけど、レイモン・コルディエ画廊でしたのと似たようなハプニングです。

島:これはいくつか記述があって、アラン・カプローの本にも少し書いてある。それからジャン=ジャック・ルベル自身が、日本の読売新聞と『美術手帖』に記事を書いているんですね。特に『美術手帖』に書いてある記事では、この時の様子を「それ(男根の形状をしたオブジェ)を持ち上げながら震えていって」というような記述がありますね(『美術手帖』1963年6月号)。

工藤:あぁ、そうですか。

島:読売の方は当時大岡信さんが翻訳をされて。『美術手帖』の方は、日向あき子さんかな、女性が翻訳をされていますね。だから同時代的に、同じ63年に、それが新聞や『美術手帖』に出たって言うんで。これは本当に印象的な作品というか、ハプニングだったんだなぁと思いますけどもね。これ、この中を通れるんですよね。

工藤:そうですね。このハプニングをやる前に、この出品した年に、一つ作品が陳列拒否になったんですね(《コンプレックスのルーレット》(1962年))。

島:今、倉敷にある作品。

工藤:そうです。どうしてかって言ったら猥褻だからって言われて。三点出したうちの一点を陳列してもらえなかったんです。

島:この時ですか。

工藤:そうです。第3回パリ・ビエンナーレで。やっぱりすごく怒ったんです、工藤が。「猥褻だから」って作品のタイトルにもケチをつけられて。サイコロの作品で《あなたの肖像》っていう。

島:これとはまた違う? サン・マリノ・ビエンナーレではなくって。

工藤:サン・マリノじゃなくってパリ・ビエンナーレです。最初のうちはいろんな所で陳列拒否になったんです。何だったかしら、タイトルが《あなたの体の中にある体温計》っていうようなタイトルだったんです。そしたら「タイトルが悪い」って言うんです。どうして悪いのか私達には分からなかったんですけど。そしたらむこうの人は体温を測るのに、なんかお尻の穴に入れて計るんだそうです。

池上:そういう方法もあるんですね、確かね。

工藤:だからそれを連想したみたい。「えーっ」と思って(笑)。それだからもう、《あなたの肖像》に決めたんです、その時に。それだったらなにもタイトルにケチがつかないから。便利だからもう、次からなんでも《あなたの肖像》(笑)。

池上:すごく不思議に思っていたのですが。

島:ある時期だけのタイトルじゃなくなっていきましたよね。ある意味で工藤さんの作品を、全体を包括するような、一種普遍的なテーマのようにも見えるタイトルになってきましたね。

工藤:自分の肖像でもあるし、あなたの肖像画でもある。最初はだから皮肉のつもりでそれもやったんですよね。タイトルをそういう風に勝手に連想して「猥褻だ」っていう、「お前おかしいんじゃないか」っていう感じで(笑)。そういうことがありましたね。

島:作品のタイトルをすごく毎回工夫してつけてられたんだけども、そういった「どうしようか」というので印象に残っておられるのってありますか。なんかタイトルは「一行エッセイ」なんて言葉を言っておられましたけどね。

工藤:そうですね。例えばカゴが四つぶら下がってる作品で《あなたの居間のために》、「Living Room」のためにっていうと、それからもう一つタイトルがついています。《あなたの郷愁病》ですか。

島:《郷愁病用》でしたっけ。

池上:「ノスタルジア」って、ホームシックみたいな意味ですか。

工藤:そうですね、その《郷愁病用》っていうタイトルをつける時に、例えば薬で言うと処方箋ってありますよね、いろんな病気にかかった時のための処方箋って。そういう意味で《郷愁病用》っていう風につけたいんだけど、それにはどういう言葉があてはまるのかなって一生懸命考えてたことがあります。

島:それはフランス語で? あるいは。 

工藤:あの時は英語でつけましたね。

島:最初に日本語で考えて、それを英語なりフランス語なりにおこす時にどういう風なのがいいかと。

工藤:ええ。だから、なるべくその処方箋風の感じにとれる《郷愁病用》っていう言葉がどういうのがあるのか、一生懸命考えてた時に、あるお友達が「それだったらパーパス(purpose)っていうのがいいんだよ」って。「あ、そうなの」って、それをつけたことがありましたね。

池上:それはタイトルも、弘子さんと話し合いながら一緒に作っていくみたいなところがあったんでしょうか。

工藤:全部ではないですけど、時々ありました。

池上:アイデアをこう相談されて、というような。

工藤:ええ。

島:あとはそういったタイトルについてテキストもけっこう書かれてて、そのいろんなシリーズ、例えば《新しいエコロジー》とか言った時に、必ずそれなりの長い文章も書かれて、それを展覧会の時に見せたり、あるいは説明されたりとかしてたんですよね。

工藤:よく「やっぱりわからない」って言う人がいるんです、作品を見て。ヨーロッパにいる間、むこうの人ってやっぱり頭で考えたり、文章や言葉で説明しないと分かりにくいところがあるんですよね。見て感じるっていうのだけじゃ気が済まなくて、とことん説明をしてほしいっていう人が多いんです。それでそういう風にだんだんなってきたんですけど。アムステルダムのステデリック・ミュージアム(Stedelijk Museum)で個展をやった時(「工藤哲巳 環境汚染 養殖 新しいエコロジー あなたの肖像 Tetsumi Kudo Pollution Cultivation New Ecology Your Portrait」展、1972年2月25日〜4月9日)も、作品についてテキストは自分で書きました。

池上:そうやって書かれることはわりとお好きだったんでしょうか。

工藤:そうですね。まめにメモもよくとっていましたし、書くのはやっていましたね。

池上:書かれたものも作品の一部というような意識は、お持ちだったんでしょうか。

工藤:そうですね。

島:ドローイングみたいなテキストありますよね。そのドローイングの中にも入っていますよね。蛍光色で書かれて、ちょっと絵も入ってたりするね。

工藤:この部分は、どういうことを表すためのものだっていうのを、自分のためにも書いてたし。それが残っていると、それを見ると、作品を見て、そのメモなりノートなりを見ると、「ああそうだったのか」と後になって私も分かったりするんですけど。でもそういうのはあまり人には見せなかったんです。私も亡くなった後で、「えー、こんなに書いてたのか」と思うような。

池上:じゃあ発表用というのでは必ずしもなくって。

工藤:ええ、発表する時には発表するためのテキストは書いてた。それはもしかしたら、タクティックスも入ってたかもしれませんけどね。人にどういう風に説明するかっていうことでね。ただ、自分のためのテキストっていうのはまたちょっと違ってて。

池上:その草稿は弘子さんが今もお持ちなんですか。

工藤:ええ。

池上:非常に貴重な研究資料ですね。

工藤:そうですね、今になって驚くような。だから開けるのが怖いような感じがして。

島:哲巳さんが時々文章を書かれた時に、「パリには2、3年はいるけども、そのうちアメリカへ行く」っていうようなことも、ちらっと書かれてたんですね。ところが結果的にはパリにほぼ20年いらっしゃって。哲巳さんは元々何か抵抗感のあるものを非常に、結果的に求めてらしたような気がするんですね。そうするとパリの方が、何て言うんだろう…… 攻撃の対象としては相応しかったんじゃないかっていう感じもするんですよ(笑)。

工藤:そうですね。

島:保守的な部分もあるし。美術館の中でも、多分アメリカよりもより保守的な部分があったんじゃないかと感じるんです。

工藤:そうですね、確かに。フランス人はなにしろ自分が一番いいとみんな思ってるから。言葉でもそうだし。ある評論家なんかが言うには、「英語をフランス語に翻訳することはできるけども、フランス語を英語にすることはできない」って(笑)。「フランス語はフランス語でなきゃだめだ」って言うんですよね。だから抵抗っていう面では面白かったかもしれません。作品も初めのうちはよく陳列拒否とか、タイトルがどうとかって言われて、その頃は腹が立ったりしましたけども、後になったらもうそういうこともなくなって、どこへ出しても「はいどうぞ」って並べてくれるようになったら、なんか今度は(笑)。

池上:ちょっと物足りないような(笑)。

工藤:物足りない、そうそう。「そんな感じになってきた」なんて言って、冗談言って笑ってましたけど。「この頃何にも抵抗が無い」って(笑)。

島:それは哲巳さんのことをみんな認めてきた時期だったっていうこともあるかもしれませんね。

工藤:それもあるかもしれませんね。

島:あるいは作風の変化みたいなこともあったかもしれませんね。

工藤:かえってセックスのようなものがあるものの方が、より好まれたりするようなところがあったりして。なんだかおかしい感じで。

池上:時代が追いついてしまったんですかね。

工藤:ええ、そうですね。

島:ところでパリで親しくされてた方、たくさんいると思うんですけども。時期によって違うと思うんですけどもね、この人との出会い、あるいはこういう人が一番工藤の仕事を理解してくれたんじゃないかなぁというような、弘子さんの感じとしてはどうですか。大勢いらっしゃるかもしれないんだけど、特にどなたかっていうと。

工藤:そうですね、難しいですね(笑)。

島:ジャン=ジャック・ルベルもね、もちろんその一人でしょうし。

工藤:ええ、ジャン=ジャック・ルベルはお友達だし。エロとか。

島:エロ、そうですね。アラン・ジュフロワはやはり重要な一人ですかね。

工藤:そうですね、アラン・ジュフロワね。

島:ピエール・レスタニー(Pierre Restany)は。

工藤:レスタニーも最初のうちはちょっとよく分かってもらえなかったかもしれないですけど(笑)。

池上:そうなんですか(笑)。

工藤:ええ、でも後の方になってからは、お友達っていう感じで。

島:このカタログの一番最後のところにも、レスタニーさんとのやりとりのテキストがありますよね。

工藤:ええ、やっぱりむこうは評論家なんですけど、何て言うのかしら、作家に対する攻撃のような感じで。ある日、レスタニーからなんか小さな小包が届くんですね。突然。何かと思って開けてみたら、あれは鯛かなんかでしょうね、魚の生の目玉がそのまんま入ってるんです。びっくりして(笑)。それに「Artist’s Eyes」って書いてあるんです。「アーティストの目」っていう風に。

池上:(ウォーカー・アート・センターの図録写真を指して)これですか。

工藤:ええ、これは来た時にすぐに私が写真撮ったんです。だから生なんですね。だんだんこのまま放っておいたら、乾いてこういう風になってきたんですけど。それで工藤は挑戦を受けて立つって言うんで、レスタニーを家へ呼んで、ディスカッションですよね。徹夜でやってました。

池上:すごいことをしますね、レスタニーも。

工藤:それでその時のを文章にして、それで最後にお互いにサインをしたんですけど。

池上:立派なコラボレーションというか、共作みたいな感じですね。

工藤:そうですね、共作になったんですね、結果的に。要するに「アートは腐るものだ。だんだんと腐っていくものだ」って。チーズで言えばカマンベールっていうチーズがありますけど、あれの古くなってきたのはものすごいですよね、ぐじゃぐじゃになって。そんなようなこと、二人とももうベロベロに酔っぱらってたけど。それでこれを見て東野さんがすごく(触発されて)、「俺もやろう」って(笑)。

池上:誰に送るんでしょうか(笑)。

工藤:「やりたい」ってなんか言ってましたね。

池上:作家では、どなたか親しくされていたアーティスト仲間っていうような方はいらっしゃいましたか。

工藤:アーティスト仲間ね、難しいですね。一人、もう亡くなっちゃったんですけど、スウェーデンの(エリック・)ディエットマン(Erik Dietmann)っていう人が。

島:ああ、エリック・ディエットマンね。

工藤:飲み仲間でもあったんですけど、わりと親しくしてました。

池上:日本人のパリ在住の作家さんで、お付き合いがあった方はいらっしゃいませんか。

工藤:いないです(笑)。全然。傾向がそれぞれみなさん違うし、いないですね。ドアに「日本人お断り」なんて書いた看板をかけたことなんかがあるんです(笑)。それで、日本人ばっかりじゃないんですけど、仕事中に途中でぶらっと人が来たりすると、すごく嫌みたいで。電話も嫌いだったんですね、電話に出るのも。途中でやめて電話に出るっていうようなのも嫌いだったから。「只今、仕事中」とかって書いて看板をぶら下げとくと、その下にふざけていたずらして、「只今Drinking」とかって(笑)。「仕事中」じゃなくって(笑)。「今、飲んでる最中」っていたずら書きして帰っていく人もいたけど。日本人はそうですね、あんまりいなかったみたいです。

島:まあネオダダにも参加しなかったり、それからテキストを読んでると、瀧口修造さんっていうのは当時わりとカリスマ的な存在で、例えば赤瀬川さんや荒川さんもみんな瀧口さんの後ろをくっついていくような感じがあった中で、哲巳さんは瀧口さんともできるだけ距離をとろうとしてたって、時々文面の中にも出てきてる。一回だけ文芸春秋の個展の時にテキストを書いて頂いたりされてるんですけども。瀧口さんも前衛を支援はしているけども、一つの権威ですよね。それから、ネオダダもある種のグループっていうことで、そういうものに対する距離感のとり方が、どんな場面でも多かったような気がしますね。

工藤:そうです、誰とでもそんなにべったりっていうのはあんまりなかったみたいですね。例えばアラン・ジュフロワなんかとも随分親しくお付き合いしてましたけど、彼が「こういう展覧会をオーガナイズするんだけど参加しないか」なんて言われても、自分がしたくなかったら「嫌だ」って言うし。レスタニーにもそう言ったことがありますね。

池上:本当に独立されている度合いが抜きんでてらっしゃるような気がしますね。

島:そうですね。その後60年代後半にパリの五月革命があって、哲巳さんにはかなりショッキングというか、同時代的になんか感じるところがあったと書いてあったんですけども。

工藤:そうですね、五月革命は本当に…… 

島:どういう状況だったんですか。ご一緒におられた時は。

工藤:ずっとパリにいた間の中で、一番印象的な出来事だったですね。まだフランス語がはっきり分かっていなかったし。でも、政治のせいでああなったのは分かるんですけど、あそこまでいくっていうのは、ショックでしたね。突然、それこそ今度の津波(注:2011年3月11日に起きた東日本大震災)のような感じで、突然襲われたっていう感じで、電気、ガス、それから交通機関、銀行も全部ストップしちゃって。水は出ていたけど、ちょっと暑くなりかけた時だったから、大変だったんです。ゴミの収集にも誰も来ないから、もう家中アブラムシが、ゴキブリがわーっと這って歩くぐらい増えちゃって。電気もガスも無いから、食事の支度ができないわけです。生のものは大丈夫なんですけど。

島:調理ができないんですね。

工藤:調理ができなくて。カフェに行っても温かいものは無くって。温いビールとか、水とか、そういうものしか無かったし。食べる物は、缶詰がもう食べちゃったらもうそれっきりどこにも売ってないし。今回もそうだったんですけど、スーパーの棚は全部空っぽになって。それで、デモが毎日のようにあったでしょ。学生の騒がしいデモだけじゃなくって、労働者がスクラム組んで、大きな広い通りいっぱいに腕を組んでしずしずと進んでくるようなデモなんですよ。なんか見てて、本当にこれは大変だっていう感じでしたね。どうなるかと思いましたけどね。

島:哲巳さん自身がその渦中に入って、そこで対話したりとかいうようなことはされなかったんですか。

工藤:対話は、まだ言葉ができなかったんで(笑)。見に行くことは見に行って。やっぱり感じたいんですね、人の気持ちっていうのを。私も興味あったけど、でもポリスもすごかったんですよね、機動隊がたくさん出てて。催涙弾が飛び交ってましたから。私はあんまり行きたくなかったんだけど。一度一緒に行って、そしたらデモ隊を機動隊が追いかけたんです。デモって言っても普通の学生グループじゃなくて、住んでる人たちもみんなもう、家にいても何にもならないから、電気は無いし暗いし、みんな外に出てたんです。もうパリ中の人が道路にいてわいわいがやがや言ってて。なんか騒いでるうちに、いきなり機動隊が追いかけ始めたんですね。私も一緒になって必死になって逃げたの。そしたら、私のすぐ後ろを走ってたおばさんが警棒で頭を叩かれたみたい。一歩遅れてたら私もされてた。おばさんが「Salaud!」って、「このこんちきしょう」なんて言ってましたけど。それ以来、もう怖いから私は行かない。で、工藤がデモを見て帰ってくると、着ている上着に催涙弾が染みついてるみたいで、私まで涙がポロポロ出るんですよ、帰ってくると(笑)。そこらじゅう鉤裂きにはしてくるし。それで外国に逃げようと思って。長距離のバスが出てるっていうんですね。バスチーユの所に行けば出てるから、それに乗れば脱出できるって聞いたから行ってみたら、もう避難民がうわーっと一杯なんです。バスの屋根の上からなにからありったけの荷物を積み上げて。それを見たらやっぱりすごく悲しくなっちゃって。今はパリの道路はみんなアスファルトかもしれないけど、あの頃はpavéって言って石畳だった。あれを全部学生が掘り起こして…… 

島:ああ、剥がして投石で。

工藤:このぐらいの石ですよね、四角い。それが全部剥がされちゃって。

池上:掘り起こして剥がすのも大変そうですね。

工藤:大変ですよ。それでガソリンもないから、走ってて途中でガソリンの切れた車が置きっぱなしになってたり。シャンゼリゼの真ん中に。そういうのを学生がひっくり返して火をつけたり。大変でしたね、あれは。もう戦争になるかと思って。銀行が開いてないからお金も無くなってくるんですね。 

島:やっぱりその、哲巳さんもだんだん年齢的に少し上になってきて、68年のデモとかに参加したのはどっちかと言うと若い世代がかなり多かったと思うんですよね。それで日本もなんか同じように学生運動が激しくなっているっていう情報を得て、それで、経済的に若干上向いてきたというか、日本へ帰れるぐらいのお金が少しできたというようなことで。69年でしたっけ。

工藤:ええ、偶然だったんですけど。

島:初めて、何年ぶりだろ、8年。 

工藤:8年ぶりですね。

島:ですかね。8年ぶりぐらいで帰ることになるわけですよね。

工藤:ええ。あの頃やっぱり、学生のデモが一番華やかで華々しくてスターだったんですよね。パリのアパートにバルコンってあるでしょ、そういう所にみんな出て、デモが通るのを見てるわけですよね。学生が来ると「あれは何のグループだ」って。まっ黒な旗を持ったグループが来ると、みんな拍手しちゃって。あのおかげで、ド・ゴール(大統領)が結局もうだめになったんですよね。そんなことをしてるうちに、どうして日本に来るきっかけになったのか。工藤が若い世代の力っていうものに、すごく感激して。古い体制をひっくり返したきっかけになったわけですよね、学生たちが。だからもしかして日本も若い世代がそうなのかなと思って、期待をして来ることになったんですけど。そのきっかけが、アムステルダムで「パリがそんな具合じゃ仕事もしにくいだろうから」って、ステデリック・ミュージアム(Stedelijk Museum)の企画で、アーティストに無料でアトリエを貸すっていう制度ができて。 

島:レジデンスですね。

工藤:ええ、そうです。それに呼ばれて、じゃあ半年制作してみないかって言われて。

島:それはいつごろですか。 

工藤:68年です。

島:そうですか。それはその後のステデリックでの個展(1972年)にもつながるんでしたね。

工藤:そうですね。68年にアムステルダムにいた時に、デュッセルドルフでニキ・ド・サンファール(Niki de Saint-Phalle)が個展をやるんで、友達が行くって言うから一緒に見に行って。そしたらそこで工藤もやらないかって話がきて。アムステルダム(ステデリック美術館)も工藤の制作やなんかのアトリエ貸していただいたんで、そのつもりでいたみたいなんですけど。そういう関係でデュッセルドルフで…… 

島:で、まず個展をやることになったんですね。

工藤:はい、そうなったんです。その前に日本に来たわけですね。

島:ああ、そうか。

工藤:それがどうして来られることになったかって言うと、アムステルダムの美術館が作品を一点買ってくださったんです。そのお金で、アムステルダムで飛行機の切符を買って、それで日本に行くっていう。

池上:そういうことだったんですか。ちなみにその作品はどういう作品だったんでしょう。

工藤:それがあれだったと思うんですけど。

島:(ウジェーヌ・)イヨネスコ(Eugène Ionesco)の作品ですか。

工藤:イヨネスコか温室か、どっちかでしたね。

島:温室の可能性があるかもしれませんね。

工藤:温室の可能性がありますね(注:《電子回路の中における放射能による養殖》、1969年)。イヨネスコはその後だと思います。

島:年代的にそうですね。イヨネスコは70年から71年でしたかね。

工藤:はい、72年の個展の時にこれはコレクションに入ったんです。その前だから、温室で…… 

島:グリーン・ボックスみたいになってる温室の作品ですね。あれが入ったんですね。

工藤:はい。それで来た時と同じように、そのお金で日本行きの切符を買って、日本に来たんです。

池上:随分長いことかかったわけですね、帰りの切符を手に入れるのに(笑)。

島:帰国される時は、特に目的は無かったんだけども、でも学生運動も、その五月革命の熱気みたいなものは、日本ではどうなってるんだろうというような興味で、ひとまずちょっと帰ろうということだったんですね。 

工藤:そうですね。

島:けれども、結果的に帰国されたことがきっかけで、千葉県の鋸山に巨大な岩盤レリーフ、《脱皮の記念碑》(1969­年)を作られた。これはどういう風な経緯で。

工藤:それは海上(雅臣)さんという方から。日本に来て、(東京国立)近代美術館を見に行ったんですね。なんかの展覧会だったかもしれません。それを見に行ったらばったりと海上さんという人に会って。それで「えーっ」て、びっくり仰天で。偶然だったんでびっくりしたんですけど。そしたら、千葉県の鋸山に庭を持っている人がいて、そこで前にも他の作家が彫刻なんかを作ったみたいで、そういうことをやってる人がいたから紹介してくださって。それで、「工藤もなんかやったらいいんじゃないの」って言われて。「じゃあ、さなぎを掘るんだけどそれでもよかったら」ってことで。一応場所を見に行って、それでどんなものを作るかっていうことで、自分の作りたいものを言ったら、「なんでもいい」って言われたもんですから。それでやることになったわけですね。

池上:それは、掘るのはどなたかの手を借りて。

工藤:はい、石工さんにお願いして。二人。

島:これもついでにやるというほど簡単な作業じゃないですよね。

工藤:そうですね。

島:大変な重労働で。石工さんがいらっしゃるにしても、どういう風に掘ればいいかとか、どれくらいのものにするかということを段取りするだけでも…… 

池上:彼らもどうやって掘っていいか。

島:分かんないですよね。

池上:普段やらないですよね、そういう仕事を。

工藤:そのお話があったのはまだ夏の間だったんですけど。掘り始めたのはもう秋とか冬に近い頃で、寒い時期。どういう風にするかって言うんで、工藤が自分でこの縮小の図面を描いて。何ていうんですか、ここからが比率で…… 

島:こういう角度で掘るといか、ああいうね。

工藤:ええ、そうですね。それで先に工藤自身が壁面に印をつけていったわけです。この幅でここはこういう風に点を打って、こう繋いでいって、ここはカーブでこういう風に掘るっていうのを、一応、簡単な図面を描いて。

島:直接されて、あたりをつけたわけですね。

工藤:それを石工さんに頼んで、掘っていってもらったんです。

池上:どれくらい期間はかかりましたか。

工藤:終わったのが翌年70年になってからです。

島:69年の秋ぐらいから、70年の初めまでかかったんですね。

池上:じゃあ二、三カ月はかかったということになりますね。

工藤:そうですね、お天気の悪い時はできないし。あんまり風が強いとか、雨の日は。

池上:これは、今もここに行けばこのままの状態で見られるんですか。

工藤:ただ、蔦のような…… 

島:そうですね、覆われているみたいですね、今は。

工藤:頼めば剥がしてもらえるみたいなんですけど(笑)。

池上:剥がすのも大変かと(笑)。でもアース・アートという意識で作られたのではないかもしれませんけど、年代的にもそういうものが、いろんな所で出て来た時代ですよね。

島:美術館の中で作品を作るんじゃなくて。全然違う、外へ出ていくという。

池上:非常に呼応していますよね、そういう動きと。

島:哲巳さんは意図的にやってたのかどうかは分からないけれども、同時代的な動きと非常にリンクしている、結果的に。こういうお話を伺ってると、良くわかりますね。

池上:ちなみにここに写ってらっしゃるのは。

工藤:それは、知ってる方ですね。女性の方。吉岡(康弘)さんが大きさを示すのに、人がいたらいいと。

池上:はい、大きさの比較かと思ったんですが。

工藤:そうですね。

島:70年代初めまで制作をされて、それでまたデュッセルドルフの展覧会のために戻られるわけですね(注:「工藤哲巳 放射能による養殖Tetsumi Kudo Cultivation by Radioactivity」クンストフェラインKunstverein für die Rheinlande und Westfalen、デュッセルドルフ、1970年4月17日〜7月5日)。

工藤:そうですね。これはだから五月革命の続きみたいなもので、若い世代がさなぎから蝶にになって、脱皮して変身していくっていうつもりのようですね。

池上:そういう激励のメッセージも込めたような。

島:その鋸山をやってる頃に、堀浩哉とか彦坂尚嘉なんかも、その作業場の所まで来て一緒に飲み交わしているようなシーンが、ドキュメントの中に出てくるんですね。みんなでディスカッションしてる風景が出てきたりですね。彼らもまた、学生運動の渦中にあって、美共闘という活動もやってたりしたんですけど。哲巳さんもかなり嬉しかったんじゃないですか、一緒にその…… 

工藤:そうですね。どんなことを考えているのかとかいう話がしたかったみたいで。だから若い人たちと話ができるのを喜んでたみたいですね。

島:ちょうどこの時、針生(一郎)さんの招きで、美共闘のバリケードで封鎖中の多摩美で講演されたというのが記録としてはあって。

工藤:行った覚えがありますね。

島:その時ご一緒に行かれたんですか(笑)。

池上:美共闘のそういうラディカルな活動について何かおっしゃったりしていましたか。

工藤:工藤がですか。あんまり直接は、聞いてないんですけど。

池上:でも学生運動や安保闘争全般に関しては、シンパシティックで。

工藤:そうですね。だからやっぱり、古い殻を破って、何か違うことをしてほしいというような期待をしてたんじゃないですかね。

池上:御自分は少し上の世代なので、一緒にやるという感じではなくって、でしょうかね。

工藤:そうですね。

島:だいぶ話が進んできたんですが、もうちょっとだけお伺いしときましょうか。全体的な話になりますけど、初期は軍手、たわし、ビニールの紐やロープとかを使われていた。パリに行かれてからはそういったものはちょっと影をひそめて、今度は鳥籠とか、水槽、植木鉢、バケツですかね。そういうものを器として使われたりしてたんですけども。それについて特に哲巳さんは、例えば鳥籠を使い始めた頃とかは、こういう風なものを使った意図みたいなことをおっしゃったりされてましたかね。

工藤:そうですね、鳥籠の前はサイコロを使ってたんですけど。 

島:そうですね、サイコロがありますね。

工藤:サイコロから鳥籠に移るんですが、容れ物としては似たようなものじゃないかと思うんですけど、サイコロと鳥籠が変わっただけで。鳥籠については、「鳥籠の外よりも中の方が広いんだ」っていうようなことは言ってました。「閉じ込められてるってみんなは思うかもしれないけど、逆に中が広くて、もっと自由なものなんじゃないか」っていうようなことも言ってましたけど。

池上:それは面白いですね。

島:サイコロの形が出てきたのは、パリへ行かれてわりと早い段階ですよね。なんでサイコロだったのかなって素朴な疑問があるんですけどね。

工藤:そうですね。私もよく分かんないんですけど。行った頃には、ほとんど毎日のように街を歩いたんです。歩いて歩いて歩きまくって、いろいろ見て歩くわけですよね。言葉が分からないから、とにかく目で見て感じて。その時に、作品を作るのに使うものなんかも、子供のままごとのおもちゃとか、それから台所用品でも日本では使わないようなものとか、そういうちょっと「あれっ」っていう変わったものがあるとすごく興味持ってましたね。今でもはっきり覚えてるんですけど、むこうへ行って、日本にいる間はヨーグルトっていうのはそんなに食べたことが無くて、食べたとしても果物の香りのついた、少し食べやすい甘いような感じだったの。むこうへ行ったらもう、牛乳が腐ってできるヨーグルトそのもので、酸っぱくって。とてもじゃなきゃ食べられなかったんです。そのヨーグルトを象徴するそっくりなおもちゃがあったんですね。そういうのがちょっと引っかかったんじゃないでしょうかね。そういうのがけっこう作品に使われてるんですね。それからおもちゃのサイコロですか。きれいな色したサイコロもよく売ってたりして。それでふっとこう、サイコロっていうものに興味持ったんじゃないかと思うんですね。

島:晩年の作品で、糸を巻いた作品の下の方にサイコロが散らばっているものもあったりしますよね。 

工藤:そうですね。

島:サイコロの形や色とか、そういうものに興味をお持ちだったのかもしれませんね。ああいう形状に対する。

工藤:それからサイコロって勝負とか賭けごとに使うものでしょ。それもあったかも。

池上:ちょっと博打的な要素もあったんですかね。

工藤:あったんだと思いますね。

島:確かに初期に「俺は勝負師である」とかっていうテキストが出てきてますね(工藤哲巳「勝負というもの」『現代の眼:国立近代美術館ニュース』77、1961年4月号)。そういったところもあったかもしれませんね。

工藤:そうですね。

島:あとはイヨネスコについてお話。イヨネスコとデュシャンについてちょっとお話を。最初にイヨネスコとの関わりについてちょっとお話を頂ければと思います。

工藤:イヨネスコと会ったのはデュッセルドルフで個展(1970年)をやっている時に、ちょうどイヨネスコの芝居がかかってたみたいなんですね。ドイツで。それで、なんか映画を作る企画があるっていうことで、その映画の監督をやる人が、イヨネスコを連れて一緒に工藤の展覧会を見に来たんです。その工藤の個展をやってる時に、同じクンストフェラインの下の階で、(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)も展覧会をやってたんです。その頃にビートルズ(Beatles)の映画もあったんですね。「イエロー・サブマリン」かなんか。それで監督がいろいろ考えて、「イヨネスコの映画にアーティストを頼みたいんだけども」って。何て言うんですか、デコールとして。

池上:舞台装置みたいなものですかね。

工藤:ええ、誰がいいかっていうのを探していたんだそうです。「ビートルズの映画も見たんだけども、あれじゃあイヨネスコにはちょっとポップ過ぎて。それからオルデンバーグも、なんかやっぱりイヨネスコのシナリオと合わない」っていう感じで。それで工藤の展覧会を見に来て、「あ、これだ」って思ったそうです。それでそのお話になったんですね。イヨネスコ自身はあんまり、初めっから好きではなかったみたいですね、工藤のこと(笑)。

島:工藤の仕事に対して。イヨネスコも本来だったら前衛の立場で執筆し、作家としてやってた人なんだけども。だんだん保守化していった。

工藤:そう、アカデミーに入っちゃって。

島:それに対するなんか反発みたいなものが、哲巳さんの中にあったんですかね。それとも、撮影の舞台装置を作る時に、イヨネスコに対する、何て言うんでしょうか、感情的なものが…… 

工藤:そうですね。なんかイヨネスコは、やっぱり自分のことをリアルに、オブジェ風に作られると、あまりいい気持ちではなかったみたいなんですよね。そういうのが工藤にも伝わるみたいで。工藤は工藤で、仕事で頼まれたからやってるんで。撮影だと、みんなスタッフと一緒にお食事もするし。そういう時にイヨネスコもすごくお酒が好きなんですね。よく飲んでたんです。そういう時だけは、飲んで気持ちはいいみたいだけど(笑)。いざ仕事となるとイヨネスコが、やれ「今撮影している最中に」フランスのドゥ・シュボーって車(注:deux chevaux、2馬力という意味の車の愛称)分かるかしら、ブリキのようなものでできた、シトローエンの。「あれが通過した」って言うんですよ。それが写ったらこのフィルムの妨げになるからどうとかこうとか、いちいち監督に文句を言って。監督は若い人なんですよ、ドイツ人で。とにかくよくクレームをつける人なんですよ。後から聞いたんですけど、シナリオにもものすごくいろんな書き込みをする人なんですって。「ここはこうしてああして」って、よく撮影中にもめてて。それからロケでノルマンディーの方へ行ったことがあるんですけど、同じホテルにみんなスタッフが泊るんです。イヨネスコが工藤の部屋を見に来て、「俺の部屋よりいい」とか、「俺のが一番良くなきゃいけないのに」とか、嫌なことを言うことがあったんですよ。「デコールのくせに、優遇されてる」とかね。時々嫌なことがあったんです。そしたらもう工藤は、徹底的にイヨネスコを使って作品を作ることに決めたみたいで。映画が終わっても、もうしばらくの間飽きるまで作ってたみたい(笑)。 

島:それでその当時の《あなたの肖像》とか《ポートレート》が出てくると、ほとんどすべてイヨネスコの顔がね。

工藤:ものすごく嫌がってたそうです(笑)。

池上:でしょうね。

島:でも嫌いなのに一生懸命作るっていうのも、ちょっと倒錯した感じがしますけどね(笑)。

工藤:何て言うのかな、毒食わば皿までっていう感じ。転んでもただでは起きないとかね。そういう感じがあったみたいですね、工藤。性格として。

島:あとマルセル・デュシャンについても、けっこういろんな所で発言をされてて。基本的には批判的だったように思うんですけども。それは弘子さんがそばにおられてどういう風な印象を覚えていらっしゃいますか。

工藤:私は素人なので、マルセル・デュシャンのどういう所が良いのかってことがよく分からないんですけど。工藤もあまりデュシャンに傾倒しているっていう感じではなかったんですけど、彼が言うには、「デュシャンの仕事で一番いいのは、彼がチェスをしている時だけだ」って(笑)。

池上:皮肉ですね、発言が。

工藤:そうですか。「チェスをしているって所は、俺は認める」とか。「あとはだめ」とかなんか言ってたように思いますけど。

池上:では、だいぶお時間頂いてしまったので、今日はひとまず。

島:そうですね。こんなところで。

池上:長い時間ありがとうございました。