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熊谷寿美子オーラルヒストリー 2回目
2018年9月17日

京都市東山区旧アートスペース虹(現・虹の事務所)にて
インタビュアー:原久子、伊村靖子、宮田有香
書き起こし:武石藍
公開日:2021年1月17日
 

 後半となる2回目は、事前に提供された約1,450(注:熊谷より画廊スケジュール管理データを提供してもらい、ホームページと『京都画廊連合ニュース』(1975年4月発刊、月刊)を参照し展覧会数をカウントした。当時発行された案内葉書類との照合作業は行っていない。)の展覧会スケジュールを参考に、1981年8月の画廊の立ち上げから2017年12月の閉廊までを聞き取りの範囲とし、熊谷が長年にわたり企画展を開催した作家との交流を中心に、関西の美術動向や画廊に集った関係者について語っていただいた。関西を拠点にする若手作家の多くが初個展を開催し継続して発表の場に選ばれた画廊である。企画展に加えて貸し画廊としての機能、出版物の企画・発行の背景から、アートスペース虹の特色が窺える。
 インタヴューでは参照資料として利用案内やスナップ写真をご用意いただいた。以下に「使用案内書」を掲載する。平面図や条件等、インタビュー内容と合わせてご確認いただきたい。

アートスペース虹ウェブサイト http://www.art-space-niji.com/ 参照2021年1月17日
アートスペース虹使用案内書(表・裏)

アートスペース虹使用案内書_表

アートスペース虹使用案内書_裏

画廊外観(左・三条通の向かい側から/右・開口部)

三条通の向かい側から 開口部


伊村:今日のインタヴューは、1981年の画廊の立ち上げから、2017年12月の閉廊までの時期についてお伺いしたいと思っております。早速ですけれども、1981年8月8日に開廊したアートスペース虹の特色についてお伺いできればと思います。

熊谷:この場所は三条通に面していて、たまたま住居の一部、玄関の部分をスペースとして開放することにしましたので、引き違いのガラス戸4枚が開くようになっていて開口部が広いという特徴があります。それから、通りから展示が見えること、自宅の一部なので水も使えますし、火も使えますし、音を出すこともできるというのと、もう一つ搬入時間が制約無く使えるというのもあったかなと思います。

伊村:特に実験的なことができるような環境というのは当時にしても珍しかったということですよね。

熊谷:そうですね、後で気づいたんですけどね(笑)。重い物も三条通にユニックを停めると、直接ビシャモン(注:手動油圧式ハンドパレットトラック)に載せて、搬入がすごくスムーズにできるので、やっぱり後で思うとね、そういう役割もあったのかなと思いますね。その頃はまだ塊とか重さとかそういうものがある彫刻作品も多くありましたので、一つの役割だったような気もしますね。

伊村:三条通に面しているということで、例えばこの蹴上の駅から降りて、西へ下って行くといろんなギャラリーを見て回れるという地の利の良さ、それから美術館が近いということもありますし、その美術館の関係者の人達が見て回る一つのコースになっていたっていうこともありますよね。

熊谷:ところがですね、オープンした頃はギャラリーココさんがあっただけだったんです。星野画廊も三条京阪でしたし、(ギャラリー)16さんは新京極の中(注:寺町通三条下ル一筋目東入)でしたし、この辺にギャラリーは、ギャラリーココさんだけだったんですね。それで、その頃は河原町通りを縦につながないと、ギャラリーはダメって言われてた頃ですので、突然ポツッとここができたっていう感じだったんです。コースになってなかったんですけど、河原町三条の信号を渡りながら、主人とあの場所とこの場所と美術に興味を持つ人の比率は、どっちが高いだろう? みたいな話をしたことはあります。それで、美術館が近くて、例えば映画館の近所に喫茶店があるんですけど、すぐ隣の喫茶店に誰も入らない。歩いて数歩のところに入るとかいうのを(笑)、聞いてたんで、そうなればいいなあっという希望的観測で、まあここでもやってみてもいいんじゃないかみたいなことを話したのは覚えてますね。

伊村:画廊を始めた頃のお客さんは、美術関係者もいると思いますけれど、例えば観光客が入ってくるというようなことはありましたか。

熊谷:なくはないですけど、主に作家の知り合いですね。そこから段々広がっていくっていう感じで。主人は60年代に画廊回りをしてたみたいです。グラフィックの仕事してましたので。それで、射手座さんで展覧会してた作家を連れて来たんです。それが、オープニングの展覧会。工繊大(京都工芸繊維大学)出身の方で、シルクスクリーンの版画だったんです。そこへ、建築家の、住宅建築の中村好文さんが偶然来られまして、都ホテルに泊まって、ご本人がおっしゃる通り言いますとね、「自分は才能がないから、贅沢をさせてやらないとダメなんだ」っておっしゃって、吉村順三さんの事務所に入られる前の話なんかして下さって、「5年間も入れてって言って、やっと入って」っておっしゃってました。そののち、八ヶ岳の(高原)音楽堂の椅子なんかを設計されるんですけど、都ホテルに泊まって、実測をして、スケッチをして、実際に自分の体で確かめる。お蕎麦屋さんを教えてあげたらすごく喜んで召し上がってたりして。その頃都ホテル、プールがあって若い人がいっぱい来てたんです。表に立って「面白いよ、寄って行きなよ」って、呼び込みをして下さったり(笑)。

宮田:中村さんがですか。

熊谷:中村さんが。ちょっと考えられないでしょう(笑)。お二人(中村さんと石川さん)が意気投合されて、それで、吉村順三さんの別荘があるんですね、松本かどこかに。その建築は、図面にしても、本当の良さは文章で書いても伝わらないと思うんだよって(中村さんが)おっしゃって、二人で本を作りたいって、おっしゃってたんです。東京へ来ないのっておっしゃってて。(石川さんは)一つのことでは行けないけど、三つぐらい重なったら行くっておっしゃってたんですね。ご実家が静岡だったのかな。それでちょうど三つぐらい重なって、3回目ぐらいの展覧会の時に東京行かれて、西武のイラストをいっぱい描かれて、東京で立派に活躍されるイラストレーターになられたようです。その後、関西ではあまり。

原:お名前をうかがってもいいですか。

熊谷:石川哲司さん。

宮田:1回目の8月8日からの方ですね。

熊谷:はい、石川哲司さんっておっしゃって、画廊での最後の展覧会にも出していただきました。その方、「例えば、電車の中でもスケッチすると揺れるだろう」って。「ぱあっと線が歪んだら、その線をまた生かして描くんだ。転んでもただでは起きないんだ」っておっしゃってました。それで、ご近所に挨拶に行かないといけないと思って、ココさんへ挨拶に行きましたんですけど、その時オーナーの柴谷清子さんはもう隠居されてて、河本信治さん(注:オーラル・ヒストリー1回目参照)がおられたんですね。とても親切な方で、私が何も知らずに画廊を始めたと言ったんで、その頃は版画が隆盛でしたから、「版画の刷り師を紹介してあげよう」と言って二人紹介して下さいました。一人はすごいやり手そうな人で、もう一人はすごく厳しい人だったんです。真面目そうだけど。その真面目そうな人に安心して(笑)、いろいろお聞きしたり、紹介していただいたりするようになったんですけど、それが東郷幸夫さんという版画の刷り師で、実験工房GOUT(ヨミ:ぐう)というグループでも活動されてる方で、その人にも作家を紹介していただいたりしながら、展覧会を始めました。厳しい人で、「学生はやったらダメだ」と言われて、最初の頃は学生さんの展示はしてないです。

原:当時東郷さんはおいくつぐらいでしたか。

熊谷:まだねえ30代だったんじゃないかなあ。厳密には聞いてないですけど。

伊村:初めの頃はやはり東郷さんのご紹介で作家と知り合って、展覧会を企画することが多かったんですか。

熊谷:そうですね。石川さんが射手座で展覧会されてた時のお知り合いとか、その時に来られた方とかもう行き当たりばったりですね(笑)。それで、その頃はギャラリーココは版画のショップみたいになってましたんで、河本さんが、東京で企画して流れて来てた版画の展覧会を紹介して下さって、最初の企画展はその福田繁雄さんのシルクスクリーンの版画展です(注:1981.8.15-10.1)。それを何枚か売らないといけないらしいとかいって、たまたま来た工繊大の学生さん、2回生という人をつかまえて、売らないといけないらしいんだけど、売れそうにないのよねえとか言ってたら、じゃあ僕姉ちゃんにプレゼントするから買うよって言って、今から思うと学生さんに頼っている(笑)。まあでもその人も、最後の展覧会で、生田(丹代子)さんの10万円の作品を買ってくれたりした。

原:その頃学生さんだった人がその後…… 

熊谷:そう、その人、4回生ぐらいの時に、安藤さんの企画展を組んだりされてて、大学の中で。

原:安藤忠雄さんの。

熊谷:安藤忠雄さんのね。で、彼はお金を貯めて、地球を放浪するっておっしゃってたんですよ。タイムズビルが建つ時、藤木工務店の社員ということにしてもらって、現場に貼りついてて。タイムズビルが建ち上がって、いよいよ放浪するっていうからね、その前に、私と東郷さんとガラスの作家の生田さん、彼ともう一人誰がいたんやろ。その5人でタイムズビルを見学したの。何がいいかっていうのを全部教えてくれて、ブロックを、あそこのために作ってるんですね。みんなブロックで設計したら面白い。

宮田:タイムズビルってどこにあるんですか。

熊谷:三条木屋町の角っこのビル。

宮田:あれタイムズビル(注:TIME’S、1984年施工)っていうんですね。

熊谷:ほんとは他の人が設計するはずだったのに、テナントが安藤さんじゃなきゃ入らないって言ったからっていうことでした。

原:最初は結構、イッセイミヤケとか、そうそうたるブランドショップが入っていましたね。

熊谷:そうそう、そうなんです。あそこのために作ったブロックを、結露しないようにダブルにして、手積みで上まで積んでるんですよって。

宮田:作った人にしかわからない。

熊谷:ブロックと窓枠の間を1センチ引っ込めてるんですって。それでそこがスコーンと抜けて見えて、窓枠とかは全部無垢を使ってるとかね、そういう違いで、そういうふうに見えるんだみたいな話をしていました。

伊村:少し戻ってしまいますけど、画廊の特色の一つとして伺っていたのが、機材を準備しているということだったんですけど。

熊谷:機材ね。これは、あとあとどんどん充実してきたので、最初はそうではなかったんですけど、カメラぐらいから始まったと思うんです。三脚も、プロジェクターも、スクリーンも買いましたね、自立型の。それは、あそこのお寺(注:近所の良恩寺)で「夜話」(注:作家の話を多くの方と共有したいと始めた虹主催の講演や演奏などの催し。熊谷によれば「アーティスト・トーク」という名称には抵抗があり、東北地方で行なわれている「よばなし」に以前より憧れがあり、作家にとっても自作や自身の制作について話すことは訓練になると考え依頼したという)をするのに必要だったということもありますし、ビデオも、絵とかだけじゃなくて、映像とかインスタレーションが増えてくるにしたがって、機材がやっぱりいろいろ必要になってきて。レーザー水準器というのは、ここだから必要なんです、逆に言うと。ここは水平垂直が全くないので、あれがないとね、手も足も出ないというか。わりと早くに買いました。

伊村:作家達にとっては新しいことに挑戦しやすい環境が少しずつ、

熊谷:あったかもね。

伊村:整っていったっていう感じですよね。

熊谷:カメラっていうのはどんどん新しいのが出て、学校では学校のカメラを使ってるけど、卒業すると自分で撮影できないみたいなことが起こってきたので、成安造形大の若い人達が展覧会する時に買って貸したりしてましたね。

伊村:(カメラは、展覧会の記録のためだけでなく)制作の時にも貸していたということなんですね。

熊谷:そうですね。でも、あっという間にそれももう今となっては古いカメラ。広角のレンズっていうのは、この6メートルの壁をひとつに撮ろうと思うと、この引きでは撮れない。どうしても広角のレンズが要るので、コンピューターが出だした時に、まず広角レンズを買ったんです、カメラより先に。というのは、レンズって最後は手磨きって聞いてたんです。手の技術が落ちるに違いないと思って、真っ先にニコンの広角、13万いくらかな。高かったですね。カメラは中古で5万ぐらいのを買ってて、それで、孫(雅由)さんの展覧会、(福岡)アジア美術館の展覧会を撮影したんですね。

原:その撮影はどなたがされたんですか。

熊谷:もう最初の頃はね、自分達でやってました。最初のスタッフが、雨森(信)さんだったので、雨森さんがやったり、もう全然使い方も何もわかってないですよ。撮影に関しては、途中からトム・シュヴァーブ((注:Tomas Svab、2006年からアートスペース虹での撮影を手がける。後日談によれば、Svab以外にも、堀尾貞治展は東郷幸夫、やなぎみわ展は木村三晴、市川靖史、宮永愛子展は畠山直哉、國府理展は豊永政史など、作家と信頼関係の深い写真家が撮影するケースもあった)さんが担当するようになりました。彼はカナダの美術館で、撮影してアーカイヴする仕事をされてたんですが、最初は美術館に行かれたんだけど、日本でまだそんなことはどこもしてない時で、京都市美からうちへ紹介されて見えて、私に何をしろと言うんだって感じでしたけど(笑)。撮影を頼む以外のことを何もできないので、じゃあまあ撮影をお願いしようかみたいなことで、ずっと。いい写真を撮って下さるので、お願いしておいてよかったと思ってます(注:2010、13、17年に個展も開催)。

伊村:画廊での記録用と、

熊谷:そうですね。

伊村:あとは作家にもその写真を提供していたわけですね。

熊谷:そうですね。

原:それは何年頃ですか。

熊谷:それをね、調べようと思ってて忘れて。それまでは東郷さんに撮影お願いしてたんです。

原:そうですよね。ずっと記載されているのが、「撮影:東郷幸夫」。

熊谷:そうそう。

原:私自身もお借りした写真が東郷さんの撮影でした。

熊谷:そうなんです。東郷さんに頼んでて、でも東郷さんが段々その、あんまりね、そういうことをしなくなってきてたのかな。私も、東郷さんと親しい作家の時には東郷さんに頼むし、その時々でふさわしい人にお願いするようにしてたりしました。後で記録が大事だというのに段々段々気づいていくんですけど。その頃はそんなにみんな熱心に記録も取ってないし。

伊村:ええ。画廊としては企画展と、貸し画廊としての機能もありましたけど、両方とも、記録は同じように取られていたんですか。

熊谷:そうですね、貸し画廊の時は大体ご本人がお撮りになりますけど、重要だと思う時は頼んだりもしてましたね。貸しの時でも、やっぱりお金はかかるから大変じゃないですか。半分出すからみたいな感じになっていくので、ずっと貧乏がつきまとって(笑)、ですね。

伊村:企画展と貸し画廊としての展覧会の割合はどのくらいだったんですか。

熊谷:うーん、最初の頃は半々ぐらいだったかもわからないけど、時期によってバラバラで、段々やっぱり企画展の方が増えていきますよね。半々を目指したんですけどね。でも準企画みたいなものがどんどん増えて、全額払ってもらってた人はほんとに少ないですね、最後の方は。積極的な企画展も、やらないとしょうがないなみたいなのもいろいろ混じってます。自分が企画展を組む時には、できるだけいいものをお見せしないといけないと思ってるわけですよね。当然企画展というのは大事だと思って、自分でこの作家のこの作品がいいと思って、企画する時もありますし、私自身がもう少し学びたいから、ちょっとこう、手元に引き寄せて、企画展をしてみることで、見たり関わったりすることで、学んでいくっていうのもありました。よくわからないから、企画展、展覧会をしてみたら、きっとわかるだろうと思うものの中には、周りの人から何やってんだよと思われるものもあったと思います。
「ノート」の最初の方(注:「ノート'88」1988.7.26-8.7)とか、そうですけどね。見てるうちに、最初の頃のノートは、本来美術って言われてるものと、もっと別の探求、それぞれの道で探求されてるものと、どういう違いがあるんだろうって思って。知りたがりなので、やっぱり根源を追究したくなって、違うジャンルの方々にお願いして、「ノート」をやってるんですよね。そうすると、地学の方に伺ってたら、ご両親が日本画家と洋画家だったりしてね(笑)。熊谷さん、一緒なんですよって言われました。例えば河原にいっぱい石があるでしょ。どれを取ってサイズを測るかなんていうのは、全く一緒ですって。どの風景を、何を画材にするかと何も変わらないですよって、おっしゃいましたし、その科学絵本の原画描いてらっしゃる方がいらっしゃる時に、たまたま桜の絵を描いた作品を持った方が見えたんですよ。そうしたら、「君ね、この葉っぱのついてるとことか、枝のついてるとこは、命がつながっていくとこやから、こんなかたちなわけないやろ」とかおっしゃって(笑)、「ああそうなんや」とかね、まあ、面白かったですね。「あてなるもの」(注:「あてなるもの」1991.9.10-18)の時も、ほんとはそういう方向を考えていたりしたんですけど、それは思うようにはいかなかったです。それは、絵を描いてない人にも出していただこうと思ったんですね。10周年記念展。(京都市立)美術館の元井能館長の奥さんがいらして、その方にも出してもらおうと思ったんだけど、実は、その方は絵更紗の作家だったんです。作家やと思わずに頼んだら。でもその方は、最も美しいと思われるようなものを出していただきたいと言ったら、ご主人の作品をお出しになってました。館長が自宅で絵を描いてらしたんだなというのをその時わかったんですけどね。

伊村:その館長さんの作品を。

熊谷:「あてなるもの」ですから、自分が美しいと思うものをお出しいただくという趣旨でした。インドの、詩人の奥さんにもお願いしたんですけど、その人は、たまたまお身内が亡くなられたか何かで出してもらえなかったり。来ていた毎日新聞の女性記者の阿部菜穂子さんが国際部にいらっしゃる時に、この人はそんな美しいものばかりを見てこられたわけじゃないと思って、お願いしたんですけど、ちょうどイラク戦争が起こって、出せなくなりました、というようなことも、ありました。

伊村:「ノート」と「あてなるもの」というのは、すでに最初の企画展として紹介して下さったと思うんですけれども、次に(事前にメールで頂いた展覧会スケジュールを元に)時系列的に、最初の頃からの展覧会についてお伺いしたいと思います。今もお話があったように、やはりアートスペース虹というのは、関西を拠点とする多くの作家達が初個展を開催したり、活動を継続していくための支えとなったスペースだという印象があります。その中で、取り立てて挙げるというのは難しいかもしれないですけれども、最初の時期から、特に長年にわたってお付き合いのあった作家との関わりについて、伺いたいと思います。

熊谷:そうですね、堀尾(貞治)さんが、一番回数から言うと多いと思うんですけど、堀尾さんって、うちでやった展覧会は、ほとんど全部実験だったような気がしますね。最近はそうじゃなくなってきてる気がしますけど。この本(注:熊谷寿美子編『堀尾貞治80年代の記録』光琳社出版、1998年、281ページ、和英併記)を作る時に、本を作ろうと思って作ったんじゃなくて、一度もカタログを作ってなかったので、12ページぐらいのカタログを作ろうと思って。作りましょうかって言ったら、資料を段ボール2箱お持ちになったんですよ。そう、とても12ページには収まらないので(笑)、もう、ほんとに頭変になりそうでしたね。でもこれをやったおかげで、私は画廊を続けられたと思います。それは、これやった後で、『方法序説』を水野(和久)さんからもらって読んで、ああわかりやすいと思ったんだけど(笑)、ああいうふうに、升目を作って、ポンポンポンと入れられるのであれば、すごい楽でした。この作品はこことここの間のこの辺で(載せて)、奥行きはこれぐらいで、みたいに。作品としてはね、そういうところ、1個ずつつぶしていってるような、感じなんですよね。だから、(堀尾さんが)何を考えてるのかっていうのを、私も一生懸命考えないと、わからないし、ちょっと説明があるとわかるけど、写真だけ並べても、全然わからないんで、堀尾さんに、これはこういうことですかって聞くと、堀尾さんから返ってくる言葉は、私にはわかるけど、第三者が聞いてもわからんやろ、みたいな言葉で。それを直して、「東郷さん、これでいいと思う?」とかいうのをいちいち確認しながら説明を付けたんです。それで、すっごく勉強になりましたね。

原:これは何年に出版されたんですか。

熊谷:何年でしたっけ。もう、出版しようと思ってから、

原:1998年。

熊谷:途中でお金を使い込んで、結局印刷代が無くなって、出せずにいたんです。そのうちにコンピューターがどんどん進んでいって、最後はコンピューターで原稿を作り直しましたけど最初は写植で貼り込んでました。でもそれ、何の役にも立たなかったんですけど。最後はコンピューターになりましたから。

伊村:80年代の記録ということは、90年代の初めにはもう着手されて、そこから長く時間をかけて。

熊谷:そうですよね。7年間寝かしてたんですよ。それで、出せたのは、宗偏流の山田宗偏さんが、堀尾さんの作品を結婚祝いの引き出物に使うって言ってくれはったんですよ。びっくりなんですけど。それで、ええって思って、そのまま渡したらね、もうかなり皆さんびっくりされるだろうと思って、それで「桐箱だけは作ります」って言って、桐箱を作って、で、堀尾さん箱書きしてお納めしたんです。200。そのお金でできたんです。で、1000部は少ないって言ったんですよ、堀尾さんね。だけど、芦屋市美術館に田中敦子さんの(カタログ)何部でしたって聞いたら500部っておっしゃって、それでも余ってますっておっしゃったんで、1000部が限界だなと思って、で、途中で出版社潰れました。私が本出すと出版社潰れるっていうアクシデントがあるんですけどね(笑)。潰れてないの青幻舎だけですよ。光琳社出版、それで潰れたというわけではないですけど、いわば自費出版ですからね、そうなんです。

伊村:堀尾さんのその初期の活動を、一番最初にまとめた書籍ですよね。

熊谷:そうですね。外国の方が結構持ってらして、よくぞ英語訳したなあと思いますけど。

原:たくさんの方が翻訳にも関わっておられますね。

熊谷:そうです。またうまいことね、この時、井上進一っていう暇そうな方がおられて、喜んで引き受けて下さったんです(注:翻訳者はほか7名)。

原:国立国際美術館にもいらした松谷(誠子)さん。

熊谷:そうですね。榎忠さんに、「ぼんくら」っていうところのことを書いてもらってね(注:榎忠「私にとって ぼんくら とは、」pp. 270, 279)。

伊村:1985年からは毎年、堀尾さんの個展をお願いしている。

原:1月に。

熊谷:はい。画廊って1年やってると、やっぱりね、何か溜まるんですよ。それを、1年の初めに、堀尾さんに展覧会してもらうと、こうお払いみたいな感じに(笑)、なって、初心に戻れるので、お願いしてたんです。でも、堀尾さんは年頭の展覧会すごいプレッシャーなんですって。それが済むと、やれやれっていう感じになるっておっしゃるんですけど。堀尾さん、何でそうするのかわからなかったんですけど、最初の頃はね、ずっと展示替えされてたんです。まだお勤めになってましたし、お休みで見えるたんびに展示替え、だから、私もね、さすがにヘトヘトになってね、堀尾さん一度展示替えのない展覧会しませんかって言ったんです。例えば、バアッとここに直に塗ったりもするわけでね、それをメンテナンスもしないといけないじゃないですか。大きく「へのへのもへじ」描かはりましたからね。なかなか消えない。そしたら、はい、じゃあそうしますって言って、次の年ね、プッシュピンに1年間毎日色を塗ったのが1つ、でこっち(左)には押しピンに四角い紙貼って1年間色塗ったのが1つ。そこへテーブルをいつも置いてたんですけど、そのテーブルの上に風船に、1年間毎日色を塗ったのが1個っていう展覧会だったんですよ。まあ、すっからかんなんですよね。なんて極端な人なんだろう、誰もそこまで言ってないやんて思うのに。そしたら、その年に震災があったんです。搬入、搬出は楽でした。それからもう、(堀尾さんは)家の中土足で歩いてたっておっしゃってましたからね。それで、自分の家も、設計した人と一緒に建ててますし、「ぼんくら」を再建してますし、もう一人なんかお知り合いの方のお家も、3軒、自分達で建ててはりますね、堀尾さん。

伊村:浅野弥衛さんのことも、お聞きできますか。

熊谷:浅野弥衛さんは、その頃、東京も見ないといけないと思って、どなたかが東京で展覧会されるような時に、東京へ行ったんだと思うんで、あ、河口龍夫さんかもしれない。初め銀座とか、歩きまわっていたけれど、何も収穫無くって(笑)、そのうち何か目星を付けて行くようになったんです。その時行ったINAXギャラリーで、見たんです作品を。それで、もうこの人しかいないみたいに思って、それで、いい展覧会をしようと思って、お願いした方ですけど、はじめ名古屋の桜画廊にお願いに行ったら、「ゆうときますわ」って言わはって、後で聞いたら、ダメだったんですよね。そんな話を、建築の書籍でお世話になってる、狩野(忠正)先生(注:建築家、当時は竹中工務店所属)に言ったら、「そんなことないと思うよ、京都ですることに意義があるから、もう一度頼んできたら」って言って下さったんで、もう一度お願いしに行ったら、どうもご本人には伝わってなかったようで、やっていただくことになったんです。でも、ここだけでは作品をわかってもらえないと思って、三条京阪に嵯峨美のギャラリーがあったので、そこをお借りして、2箇所で同時進行で展覧会をしました(注:1991年)。(嵯峨美のスペースは)、片壁面12メートルで、24メートル以上ある空間なのに、釘で直付けできなくて、紐で吊るのを、当日搬入だったんです。それで(笑)、終わってから、芳名録を添えて報告書っていって、巻紙でね、墨で、画廊の壁と床は作品を展示するためだけにあるので、床は模様じゃない方がいいし、壁はできれば直に釘が打てる方がいいとか、ライトも、蛍光灯じゃないライトがあった方がいいとか、学生のための空間だったので、嵯峨美の学生だけって言わずに、他流試合をさせた方がいいって他の学校も受け入れた方がいいとか。それから、学生にも同じ条件で展覧会させた方がいいとか、それから人が大事だから、今いる人、ほんとにろくにそこにいてくれなかったんですけど、いい人だから、その人を必ず付けた方がいいとか、企画展は大事なものだからやった方がいい、みたいな偉そうなことを書いて出したら、1年もしないうちに全部その通りにして企画展されたんです(笑)。すごい繁盛しすぎて、それまでは先生も展覧会するの嫌がってられたのにね。でも、逆になくなっちゃったんです、目立ちすぎて。相続問題か何かあったらしくて、借りてらしたんだけど。

原:INAXの浅野さんの展覧会、これは…。

熊谷:INAXはね、その頃中原佑介さんが企画されてた。入澤(ユカ)さんがおられた頃で、河口龍夫さんの展覧会をした時に、入澤さんがちょっとアクシデントがあったらしくて、お詫びに見えてたんですよね。

原:83年のINAXギャラリーって書いてありますけど。

熊谷:その展覧会、結構みんなご覧になってて。

原:ご覧になったのは、83年の展覧会をご覧になって、それでお願いされたということでしょうか。

熊谷:はい。

伊村:最初の個展は87年ですものね、こちらではね。

熊谷:そうですね。多分、ちょっと経ってたのかな。

宮田:その判型にこだわりがあったんですか。

熊谷:この印刷の価格帯の、わりと割安にできる大きさなんですね、こういうの。だから、これ2丁付けですると、わりと安い。この頃はほんとに、主人が印刷屋さんと打ち合わせをしてるのを見て、え、このサイズでもほんとに同じ値段なの? 版代やって言わはるからそうなんかって思って、その頃は葉書をこう印刷するのに、モノクロームでも3万ぐらいかかったんですよね。で、それで、このサイズに何枚付けても一緒なら、やるぞって思って、うちの分をまとめて、他の人のも引き受けて、やってたんです。だから、それを2万5千円で、やってたのかな。でも手貼り原稿だし、1字打ち間違っても写植屋さんまで行って、打ち直してもらって、貼り込んでみたいな原稿、自分で原稿作って、これでいいですかなんて、ようあんなことやってたなと思うけど。それで、うちで、案内状印刷してたんです。嶽本野ばらさん来ましたよ。ランニングとスカートで(笑)。初個展かなんかの案内状多分お手伝いしたと思うし、森村(泰昌)さんのあの、笛を吹いてる案内状もうちでお手伝いしましたよ。そのうち安い印刷をしてくれるところが出てきて。

伊村:大体、2000年に入るぐらいまでは写植だったのですか。もしご記憶があれば。

熊谷:この堀尾さんの本がいつでしたっけ。

宮田:98年。

熊谷:98年。うーんそれぐらいがちょうど過渡期と思いますね。そのうちアルプス(電気の個人用)プリンターというのが出まして、で、それを自分で貼り込めるようになったんで、1字間違ってても自転車で走るというのはしなくてもよくなったんですけど。きれいにプリントできる。で、その後、データ印刷になったんで、その頃はまだ、データ印刷じゃなかった。いつ頃からデータになったんかなあ。この辺のは全部手貼り原稿ですね。

原:わかります。

熊谷:ねえ。それで、私の眼鏡はね、縦横ひずまない眼鏡になってるんです。老眼になって、縦横ひずみのある眼鏡で貼ってね、ゆがんでるみたいなことが起こるので(笑)。老眼出始めてからもう辛かったですね。

伊村:植村義夫さんのお話も伺って良いですか。

熊谷:浅野先生も私にとっては先生ですけど、植村さんも先生で、全然そんな顔をなさらないんですけど、教育してやろうと思っていて下さったような気がします。60年代の映像の作家ですよね。だけど、その一番最初の時(1982年)は、自分の瞳をずっと撮ってらっしゃる、夕陽がずうっと沈んでいくのをご覧になってるようなんでしたけど、その後は、真っ暗にしてブルーフレーム(石油ストーブ)とノイズのモニターとか、そういうふうに五感を駆使するような展覧会をして下さってましたね(注:1984、1986、89、91年に個展開催)。話すと長く、それは後で気づいたんですけど、ブルーフレームの明かりとモニターのノイズだけで、このドア(注:北側のガラス戸)をアルミホイルで覆ってカッターナイフでこう穴を開けると夜空みたいになるんですね。星みたいに。はじめは外に誰か来たらわかるようにモニターを置くっておっしゃってたんですけど、影がちょうど見えるので、ああもうその必要はもうないわっておっしゃって。で、入ってきて閉めると、その時はもう真っ暗なので、何も見えない。そんな暗い中で椅子を勧めたり、ワインを勧めたりして。それもね、その時気づいてなかったけど、とびきり上等のワインだったと思います。勧められた人が椅子に座って、だんだん目が慣れてきた頃に、タイミングによっては次の人が来るわけですよね。面白がって、そのお客さんも同じようにあそこに椅子ありますよとか(笑)。こうリピートするような感じで面白かったです。

伊村:この空間全体を使った作品が作られているということですね。

熊谷:そうですね。

伊村:それ以前に、そういう空間の使い方をする作家の方はいらっしゃいましたか。

熊谷:えーとね、実は、その空間に対する意識は、児玉靖枝さんは学生時代からすごい高い人で、そこ(入口のガラス戸の上)に今クーラーがついてますけど、昔は無かったんです。あそこにね、絵をこういうふうに下から見上げるように、3枚か4枚並べて、あそこ全体を覆う、雪の降ってる(絵画作品)。(児玉さんは)まだ学生さんでね、京都芸大が(京都市)美術館で展覧会する頃っていうのはいっつも冬の一番寒い時なんです。

伊村:そうですよね。

原:2月。

熊谷:2月のね、2週目か3週目でね(注:1986.2.11-16)、もうほんとにいつものように雪が降ってるんですよね。そういう時だったので、雪の絵をずっと吊して、

原:児玉さんの大学院生の頃ですか?

熊谷:ぐらいの時ですね、まだ在学中の。

伊村:お客さんは入口から入って、扉の上側に作品があるってことは、背中側ですよね。鑑賞者は振り返った時に初めて、

熊谷:初めて見える。

伊村:外の景色と一緒に作品が見えるような。

熊谷:そうですねえ。私はね、今言われてああそうやったんやと思うぐらい気づいてない。スーパーリアリズムの絵を描いてらした頃です。そういう芽ばえというかね、そういうもんがあったんだなあと思いますね。今につながってる気がします。
もう一人はヨシダミノルさん。ヨシダミノルさんは、(家が)近かったので、よくいらして下さってたんです。それで、早くに展覧会してますけど、(以前はここに)パネルがあったんですよ、4枚ね(注:冒頭の挿図、パンフレットを参照)。もうそのパネルがほんとに何も展示してもよく見えないので、はやばやと廃棄したんですけど。両サイドに置いたりすると壁面が稼げるので、半分をここ(入口)側の通りに平行に立てて、外からも見えるようにしたりしてたんです、一時。

原:仮設壁。

熊谷:仮設壁ですね。それをここにダーッてやってね、もう全体をドローイングで埋め尽くす展覧会をしつつ、外でパフォーマンスをされて。今は家がないですけど、(西側の)お隣の方に警察へ通報されまして(笑)。それで、夕方お巡りさんが二人自転車で駆けつけてきて、すっごく腹が立って、明くる朝、許可を取ってきたらいいんですねって言って、警察へ行って、それで、通りを使う許可を欲しいんですけどって言ったら、「何をするん。」「街路樹の下にキャンバスとイーゼルを置きたいんです」って言ったら、「キャンバスとイーゼルって何や」って言わはるから「いや、絵を描くんです」って言ったら、「絵なら公園行って描いたらいいやないか」って言われて(笑)。「そういうもんじゃないんです」って言って、「例外があるでしょう」って言ったら、「お葬式と撮影」って言われたんですよ。「撮影するんですよ、撮影」って言ったら、「今絵を描くって言ったやないか」って、「いや絵を描いてるところを撮影したりするんです」って言って。で、「昼から出直してこい」って言われて、許可をもらって。そんな必要全然ないというのはわかってるんですよ。でも、意地ですね、もうその辺は。(作家に)堂々とやってほしいと思ったんだと思うんですけど。で、また大っぴらにアルミホイルで車を包んだり、パフォーマンスをされました。

原:ヨシダミノルさんは何度かやられてますね。

熊谷:2回ぐらいはやってると思いますけどね(注:1982、85年に個展開催)。

原:それは(京都)アンデパンダンの同時期ではなく、個別にこちらで開催されたのですか。

熊谷:どうやったやろう。アンデパンダン展の時にやるべきでしたねえ。調べときます。(注:1982、85年に個展開催。82年は京都アンパン直前、85年は会期中に開催。)

伊村:最初は82年ということですものね。

熊谷:そうですね。

原:だから、画廊ができてほんとに間もない頃ですね。

熊谷:間もない頃ですね。

原:さきほど、当初、周りの方達が勧められた方に、展示をやってもらっていたとおっしゃってましたけど、かなり早い時期に、ヨシダさんの展覧会があったのですね。

熊谷:そうですね。ヨシダさん自らいらして下さって、展覧会をして下さいましたね。まだ、省念君とか朝麻(アサオ)君、朝麻君はまだいなかった時です。省念君は、オムツしてたと思う。それこそね、写真。これ、ヨシダミノルさん。

原:あ、若い。息子さんと。

熊谷:省念君と。これ、

宮田:普通のおじいちゃんみたい(笑)。

熊谷:これは、岩村伸一さんの展覧会でね(注:1985年)、樹脂のお皿を持ち込んで、ここ(画廊)で組み立てるんですけど、そこへ干しておいた草を置いて、バーッてインスタレーションした時に、中国の人、中国じゃないなあヨーロッパか、一番最初に見えたん。(写真を見ながら)この人が、初日じゃないんですよ、搬入の夜入ってみえて。

宮田:たまたま通りがかっただけで(笑)。

熊谷:通りがかって、手伸ばして(笑)、パーッて(草を手に取って空中に広げてみせる仕草)。「ああ、もうこれで展覧会成立した」って岩村さん言ってましたよ。何か、頭の中が、こう自然にものを考えていくような、不思議な展覧会でした。

原:ヨシダミノルさんもたまたまここにご家族で通られて、参加されて。

熊谷:そうそうそうそう。

原:岩村さんも何度もこちらで展覧会されて。

熊谷:はい、何度もしてます(注:1983-87、89、96、99、2002、05、09、12、14年に個展開催)。これが空太郎君です。まだ遠君は生まれてない。

原:これ、

熊谷:あはは。

原:熊谷さん。

伊村:あー!

熊谷:(岩村さんの展覧会の写真に写った熊谷さんの姿を見つけた後で)そんな時もあったんですねえ。この展覧会、リバイバルしたい展覧会の一つですね。

原:みんなで(干し草を)揉んで。

宮田:揉んで、香りも。

熊谷:そうですね。これね、草が湿ると、こうキュッてした時にぐちゃぐちゃって潰れるのがすごい気持ちいいんですけど、潰れなくなるので、乾かしてるんですよ、段ボールに布団乾燥機を差し込んでね。それでね、だんだんこの中(の干し草)は無くなっていくんですけど、新しく来た人にもさしてあげたいと思って、ちょっと取ってたんですよね。そのへそくり癖が搬出の時にバレました (笑)。

原:この高校生、東山高校の学生ですかね。

熊谷:あ、東山の学生さんね。画廊回りを勧めてくれる先生がいて、つい最近までね、ずっと来てくれてました。

宮田:東山のどちら側ですか。

熊谷:(北東を指して)こっちにあるんですけど、東山高校。

原:すぐ、南禅寺の横にあって。

熊谷:いいなあと思って。

宮田:学生服で画廊めぐり。

伊村:いいですね。写真を見ていても、いろんな年齢の人が参加できる展覧会だったということがよくわかります。

原:ねえ、赤ちゃんからおじいちゃんまで。

熊谷:そう、井上さん、何か「ああ」とか言いながらやってましたね。

原:あ、これ井上さん。

熊谷:うん、井上明彦さん、若い井上さんおるでしょう。

伊村:作家のコンセプトとしては、これはもう最終的には干し草は無くなってもいいということなんですか。

熊谷:粉々になるっていう、どこまでなるかは想定してないけど、バッとこう投げたら、そこからは成り行きっていう展覧会だったと思うんですけど。

原:岩村さんは葉っぱを使われたり、泥であったり、自然の物を使っていらっしゃいましたね。

熊谷:そうですね。最初の、これはこういうところから、漏れたやつにまた火を点けてたりして。井上さん一生懸命粉にしてましたね。誰かがやったんですよ。本人じゃなくて。

原:本人の意志とはまた違ったところで、どんどん作品が進化したのですね。

熊谷:そうそう、勝手にね。

伊村:解釈されて。

宮田:参加者によって。

原:ディヴェロップされ(笑)。

熊谷:うん、好きな展覧会でしたね。それから、坂井ユウジローさんはね、ヨーロッパ旅行から帰ったところで、いろんな絵葉書じみた絵をいっぱい描いてて、それをバーッて画廊中に貼って、表に「バーゲンセール」っていうのを、こう大きく横に貼ったんですよ。そうすると、この家を売りに出してるみたいに見えるぐらいにね(笑)、だったんで、いやちょっと主人に聞いてくるわって。ええかって聞いて、了解取って(笑)、大丈夫やったんですけど。それこそ、お向かいの警備保障の人が買い物に来てくれたり、普通ではあり得ない、エッフェル塔とピサの斜塔と何かが一緒に描いてあったりするのを、2千円とかやって、これは高いし売れへんと思ってたら、2枚も買っていってくれたりね(笑)。1回帰ってまた、誰か連れて来てくれたり、しましたね。何か面白かったです。

原:じゃあいわゆるコレクターとか、美術愛好家ではない人達ですか。

熊谷:そうそう。

原:ご近所の方も気楽に。

熊谷:巻き込んでましたねえ、その時は。ここで10年現代美術を見せたら、何か変わるかなって思って。10年では全く変わらなかったですね。うん1ミリだに動かないっていう感じでしたけど、20年ぐらいから、何か、見慣れてきた、何となく、雰囲気は変わってきたような気がします。

原:でもその後、80年代にもう既に(ギャラリー)すずきさんも画廊を開かれたり(注:1983年)。

熊谷:うん、うちとほとんど変わらないんですよ。半年か、1年ぐらいしかね。

原:じゃあ、(ギャラリー)ココさんが少しだけ場所移られて。

熊谷:うん、こっち(神宮道)へね、引っ越して来られて。それで、すごくやっぱり、ココさんも、最初はね、うちが始めた頃は年に4回ぐらい、3、4回って感じかな。あの、年末はミニアチュールの展覧会されて、あと、2回か、時々展覧会されてる程度だったんです。

原:すごく場所も狭くて、私の覚えているのでは、箱がこうずっと入口から、(並んでいて)。

熊谷:そうそうそう、カート、あの、何というか、版画の引き出しとかね。そういうのがあって。まあ、ね、逆にうちのようなスタイルに、変えてこられたんですよね。

原:展示がメインの方になっていくんですよね。

熊谷:だから、ココさんが始められた頃は、1ドル360円の時なので、(版画が)すっごい売れてたんですね。海外から仕入れに見えてたんですよ。日本人が外国行って安かったっていう感じだったと思いますね。だから最初の頃はアメリカ人のコレクターの方とか、見えてました。ついでに寄ってくれたりは、時々してましたけど。でも、その海外の人に全く売れないかというと、年に1、2回は売れるんですけど、当てにできる程ではないです。当てにしてたら潰れちゃうっていう感じですね。でも、やっぱり、何て言うんだろう、国際的な感覚というのはわかりますね、何となく。

原:坂井さんから。

熊谷:坂井さん、

宮田:1周年記念。

熊谷:ああ、1周年記念、篠原猛史さん。その頃西武(美術館)の版画大賞展というのがあって、この方は優秀賞(注:1981年受賞)だったんですけど、その伸び伸びした感じはすごくいいっていうので、1周年記念展をお願いして、堀尾さんのこの「メモ」っていう展覧会は、灰もダイアモンドも値打ちは一緒っていうのも、主人はすごく気に入って、全部千円で売ったんです。

原:作品を。

熊谷:60年代の作品も、今だったら(一体どれほどの値がつくのか?)というような作品を全部千円ですね。で、安松洋子さんていうのは、石の作家で、「行動展」に出してらっしゃる方。その石の展覧会してる時に、イサム・ノグチさんが見えたんです。最初夜に見えて、その時、たまたま、行動(美術)展にも出してらして、夜ここに三尾公三さんがおられて。いつものように(芳名録に)「サインをどうぞ」って言うと、筆でバッて書いていかれて、何も気にせずにいたら、(三尾さんが)「今のイサム・ノグチに似てたけどなあ」っておっしゃったんで、サインを見たら、「イサム・ノグチ」って書いてあったから、「ああっイサム・ノグチさんだった」って言って。明くる日また、来られたんですよね。通られたんです。(安松さんは)その時(京都市美術館で開催中の)行動展にも出してらして、安松さんが、「美術館にも実は出してるんですけど、どうしよう、(招待)葉書にパンチで穴開けてしまったから、使えないかしら」って言ってたら、(ノグチさんが)「大丈夫、僕行けます」って言って(笑)、ほんとに見に行って戻っていらして。(美術館に展示した安松さんの作品は)能勢の黒御影をこう(縦に)、積んでいらしたんです。それをワイヤーで傾けていらした。傾けるよりこっちの方がいいよって、ちゃんとね、アドヴァイスして下さって。
その前に、薮内(弘)さんっていう石の作家の展覧会してて、石の展覧会、わりとしてたんですよね。彫刻家のリストアップをしてほしいって建築の人から頼まれて、3年目だったから、僭越だと思って辞退したんです。悪いことをしたな、できなくはなかったと思ってたんで、「彫刻の好きな建築家がいるんですけど、会っていただけますか」って(ノグチさんに)聞いたら、「いいよ」って言って下さったんですね。それで、すぐ電話して、『HIROBA』という建築士会の機関誌があって、その時のその編集長の人が、飛んできて、ここでインタビューされたんです(注:イサム・ノグチ、二村和幸「イサム・ノグチが語る「庭、建築、彫刻」 」『HIROBA』228号、1983年4月、近畿建築士会協議会、pp. 47-50)。

伊村:ということは、その、建築家の方からその彫刻のリストアップをしてほしいと言われたというのは、建築の中にどの彫刻を入れるかという意味だったのでしょうか。

熊谷:その時はね。その時言った人と、後の人とは、編集長さんが途中で変わってるんで、先の人は、深い意味があったかどうかわからないんです。でも、そんなことがあって、逆にその次、その時に一緒についてきてた編集者の人から、『HIROBA』の表紙に、彫刻作品を使うことになった。名前は高橋亨先生がリストアップされたけど、どんな作品で、どこに誰がいるのか全くわからないから、手伝ってほしいって言われたんです。それで、私がまた、本の表紙はヴィジュアルだから二次元だし、彫刻は三次元だから、表紙のために作品を撮影しなおしてくれるのであれば手伝いますっていう条件を出して。その前の年まで、(表紙は)絵画だったんですよ。ところで、これ手伝ってた画廊さんがあるでしょって言ったら、いや、画廊を替えてほしいって言われたっておっしゃって、それで、まあそやったら引き受けますって言って、引き受けたんです。それで、1月号に間に合わなくって、北山善夫さんだったんですけど、すでにあるポジフィルムを使って、2月号が福岡(道雄)さんだったんですけど、2月号から畑祥雄さんが撮影に行ってくれて。畑さんは、そういう撮影に行ってる間に、作家のアトリエ行くのにはまっちゃったんです。

原:それ『西風』の頃ですよね(注:『西風のコロンブスたち:若き芸術家たちの肖像』ブレーンセンター、1985年)。

熊谷:そうそう、これなんです。作品はそういうきっかけで生まれたんです。(作家)にポートフォリオのファイルを送っていただいて、お預かりして、その中からどの作品を使うっていうのを狩野先生が決めて。それを畑さんが撮影に行って、上がったポジから選ぶっていうのを、半年ぐらいやってるうちに、私はもうボランティアでやってたから、あんまりにも気の毒やって、ノマジマさんっていう編集者が言って。編集長に紹介してくれて、私はやっぱりこれはできることなら実作品を見る機会を作ってほしいって言ってたら、文化情報センターで、シンポジウムと共にその実作品をお見せする機会を作って下さって、それからずうっと何だかんだってお世話になって続いていきますね。

原:大阪の文化情報センターですか。

熊谷:現美センター(大阪府立現代美術センター、北区中之島)と、あったでしょう。(大阪府立)文化情報センターに、展示台を置いて。 建築家は、山崎泰孝さん。亡くなられましたけど、ルナ・ホール(芦屋市)設計された方と、その編集長の狩野忠正さんと、元永(定正)さんと、高橋亨さんで、シンポジウム。評論家が高橋亨さんだったか、ちょっと憶えがないです。

原:当時多分、現美センターの館長さん。

熊谷:館長さん鈴木敬さんって人でした。

原:あ、そうですか。じゃあその後、高橋さん。

熊谷:その展示してる間ね、生田さんのガラスの作品だけは誰かぶつかって壊れたら困ると思って、館長室にちょっとここに預かっていただけますかって置かしてもらったんです。窓際に。終わって、持って帰ろうと思ったら、「えっ、それ君持って行ってしまうの?」っておっしゃって。「はあ持って行きますけど」って言ったら、「いや僕欲しいんだけど」っておっしゃったんで、「いくらいくらですよ、ありがとうございます」って言ったら、「えっ僕に売るつもりか」っておっしゃったんです(笑)。でも私としては、「えっ、あのそうなんですけど」って。「じゃあ、いついつまでに払うから」っておっしゃって、「僕に作品売った人初めてだ」とおっしゃいました。ずっともらってはったんでしょうね(笑)。そう言ったらもらえると思ってた。それで、次に行ったら、ガラスを貼った作品をこう斜めに立ててたんです。行ったらね、ペタッとこう、直角になっててね。「エッ」て言ったら、「いや、何か落ち着かなくてね、この方が僕落ち着くんだ」っておっしゃるから、「いやもうこれは先生の作品です」って言って、帰って来ました(笑)。確かにね、その窓際に置くとね、外の川、淀川かな、淀川とこう光が重なって、ほんとに良かったんです。みんなもわかってくれたらいいなあと思うことでした。

原:建築の方達もたくさん、そのシンポジウムには参加されて。

熊谷:そうですね。

原:皆さんやっぱり実作を見て、そこから興味を持って。

熊谷:そうですね。これを続けたいですって言って、次の年もそういう展覧会をして、で、それは、何か続けたいですって言った時に、学生のコンペの展覧会はどうかねっておっしゃったんですよ。コンペで大体仕事を取っていらした方なんですけど、コンペは嫌いですって言っちゃったんです(笑)。「うん、そう言うかと思ってって言って、伝統技術が現代建築に使われているのはどうかね」っておっしゃって、「それだったらやりたいです。私も元職人なので」って言って、職人の仕事を紹介することになっていきますね。これですね。

伊村:それが「現代建築と伝統技術」シリーズという書籍。

熊谷:そうですね。このシリーズですね。

原:4冊。

熊谷:4回で終わっちゃいました。4回でバブルが弾けたんです。

宮田:表紙、素敵ですね。

熊谷:そうですね。これが評判が良くて、INAXも逆に飾り金具の展覧会をしました。この(「磯村の仕事」の)展覧会は、こういう技術があるので、使って欲しいっていう展覧会だったんですけど、来る方が「昔はこういう技術があったんですね」っておっしゃるので、「いいえ違います」っていうのをずっと。

伊村:むしろ使って欲しいんだっていうことですね。

熊谷:そう、「今もできるので、使って下さい」みたいなことをずっと言ってました。これ(『鋳造 傳來工房の仕事』、注:以下ページ数は同文献)が面白かったのは、鋳造の展覧会(注:「現代建築と伝統技術 鋳造」1987.9.8-20)なんですけど、これは、難波(上本町)の都ホテル大阪(設計:村野藤吾、現シェラトン都ホテル大阪)なんですけど、皆さん(給排気塔の素材を)コンクリートだと思ってるんです。実は鋳造なんです(pp. 4-7)。中は換気チャンバーとかいうのかな、空気が通っているんですね。この上(外から見えない部分)が雨樋になってて、これは模型(が残って)無かったんやけど、この模型に水がどう流れるかっていうのを何回もやらされたって、現場の所長さんだった方が見に来られておっしゃってました。

原:贅沢ですね。

伊村:鋳造の技術を紹介する、一種のデモンストレーションという面もあったんですね。

熊谷:これは文楽劇場(pp. 10-11)ですけど、みんな西側の入口から出入りするので、ほとんどこれを知らない(笑)。

伊村:これも鋳造なんですか。

熊谷:鋳造なんです。国技館も、これ(正面入口の庇の部分)が鋳造なんです(pp. 12-13)。何かねそういうことにえらい詳しくなりましたね。ここがよくテレビにも出てきますけど、最高裁判所(p.16)。これ、鋳造の電解発色なんですけど、1個だけ色が微妙に違ったりするんですよね(pp. 16-17、軒先レリーフの左から5つ目を差す)。これは、三輪そうめん山本本社(pp. 18-19)なんですけど、屋根が大きいから樋が壊れちゃうのでここだけ鋳造の樋。

伊村:建築をこういう視点で見るということ自体、普段はなかなかないですよね。

熊谷:そうですね。すごい勉強になりました。何て言うんだろう、建築って、言語が違うぐらい違う感じがしました。でもやっぱりそれで、わりといろんな仕事をしていく上にも、現場のことが多少はわかるし、よかったと思いますね、結果としては。

伊村:これは書籍としてのみお仕事されたということですか。画廊でも何か企画をされましたか(注:いずれも「現代建築と伝統技術」シリーズで、先出の鋳造展以外に1986.9.9-21[磯村の仕事関連飾り金具、打ち出し金物]、1988.9.6-18「アガタモザイクの仕事」、1989.9.5-17「石野瓦工業の仕事」を開催した)。

熊谷:これはね、私よりも、レイアウトの隅々まで狩野忠正さんがされて、それで、写真もその東出清彦さんってもう亡くなられたんですけど、神経遣い過ぎたと思いますね。もう必死で撮って下さってました。

宮田:企画はアートスペース虹になってますね。

熊谷:ということになってますけど、名前だけですね。はい。ほとんど。

宮田:『HIROBA』は当時は近畿圏の建築士が。

熊谷:そうそう、近畿建築士会っていう。

宮田:なので広範囲のエリアの建築家がすごく見ていたという(注:『HIROBA』は2005年12月、500号まで刊行。近畿建築士会はその後、各府県の建築士会に分かれた)。

熊谷:そうですね。この時期の『HIROBA』は機関誌なのに、すごく充実してたんです。だから、この村野藤吾さんの最後のインタビューも、その後すぐ亡くなられたので、全文掲載で、追悼文まで出てるんです。それ、コピーしてはいろんな人に差しあげてました。
大橋勝さんは映像の作家なんですけど、ここ(入口)にレンズを1個つけてね、そのレンズから外の光が中に、もうほんとにカメラ・オブスキュラですね。ここに紗幕を張って、(三条通りを走る)車が上下逆になってバーッとこの中を走り回るっていう。で、夕方になると、そこに天(地を示す)の矢印のネオンを1本置くんです。逆に中ではこう展示が逆になってて、カメラ・オブスキュラって知らなかったので、面白かった。そうやって展覧会通しては1個ずつ勉強していくっていう感じですね。次の時は、古いモニター、次の時は積み上げて、本人がいる時は(入口)ドアも外しちゃって、外から光の壁が見えるみたいな。にして、それも古い、わざわざ古いモニターなんですよね。ちゃんと積み上げられる、柵を作って置いてて、同じ映像なんだけど1個ずつ色が違う。20台ぐらい積んでたのかな。

伊村:チューニングを変えてあるということですか。

熊谷:いや、古いとね、その通りの色を反映しないんですよ。昔のブラウン管のモニターだと。だから、それはそれで、面白かったですけどね。草が風にそよいでるような画像なんですけど。
それで、中島一平さん(注:1983.1.18-23)。3年目でこの頃、シェイプドキャンバス何だかんだって言ってた時期です。池田周功さんのね、展覧会(注:1983.2.1-6)してたのを、今回調べて、初めて気づいたんです。

宮田:会期スケジュールを整理されていて。

熊谷:「フジヤマゲイシャ展」って、もう80年代あれだけでええやんって思うぐらい関西ニューウェーブって言われた頃ですよね。池田周功さんがいなかったら、あれ実際みんなやってたかどうかなって、私。

原:そうですね。それは、「フジヤマゲイシャ」関係のインタビューをした時に、皆さんやっぱり一番重要な人物というふうに。

熊谷:ですよねえ。と、思います。

原:それだけじゃなくて、他のイベントもされたりとか。

熊谷:そうですねえ。っていうことを、わかってなかったという(笑)。
この年は、紙会議(注:「国際「紙」会議'83」京都会館ほか/詳細はオーラル・ヒストリー1回目参照)というのがありまして、それでうちもスケジュールが決まっていたんです。太田堯子さんっていって、紙をこうバーッて破いていった跡が等高線のように見えるような作品を作っていた方で、もう一人は、墨と漉き込むような作品を作ってる人が決まってたんですけど、学生さんに「どんな展覧会見たい?」って言ったら、「河口龍夫さんの紙の作品が見たい」っておっしゃったんです。それで、その展覧会で、壁に(作品を)お願いできませんかということを半年も前に(河口さんに)言って、「まず空間を見に行きます」っておっしゃって。それこそ東郷さんに連れてってもらって、まだお顔も知らないし、どなたか見えるたんびに、あの人かな、この人かなって言ってたら、展覧会してた人が「私が知ってるから教えてあげます」って言って下さって(笑)。それで空間を見ていただいて展示したんですけど、プラスティックの額を作ったつもりが、当日の朝になったら、その額を作るっていうはずの人がですよ、「全部額が落ちて壊れてました」って言いに来たんです。それで、エーッてなって、(河口さんに)「どうしましょう」って電話したのが、10時ぐらいかな、違う、9時半ぐらいかな。で、(河口さんが)「ともかく行くから」っておっしゃって、知り合いの人に相談したら、近くに美也古商会産業というのがあって、厚みのあるスティレンボードがそこにあるっていうんで、注文して、12時に持って行くっておっしゃったんですよ。でも、私もう人間不信になって、ほんまに12時に来るんやろかと思ってたらほんとに12時にちゃんとそのスティレンボードの厚みのあるのが来て、それで搬入して無事にオープンしたんですけど。ドサッとパーティの最中に作品が落ちるっていうことも(あった)。むきだしで、作品を展示して。河口龍夫さんに、ピンチに強い画廊だって言われました(笑)。
でも、河口さんにもいろいろ相談しましたね。何かわからないことがあると、何でも相談するので、例えば、「パーティのお誘いというのがいっぱい来るんですけど、どうしたらいいでしょう」って聞いたんです。そしたら、「行きたければ行けばいいし、行きたくなければ行かなくてもいい」っておっしゃって(笑)。ああそうなんだって思ったことがあります。

原:次は、孫さん。

熊谷:孫さんの展覧会も、何度もしてるんですけど(1983、85、94、96、97、2000、2001、03、10年に個展開催)、ある時なんか、私はこの狭いスペースで、孫さんの断片しか見てないっていう気がしてきたんですね。何度も展覧会してるんですけど、アジアの中で見たら、どう見えるんだろうかと思ったんです。それで、アジア美術館、福岡の美術館がアジアのことをやり始めてたので、福岡市美術館の山口洋三さんに、「そこはお借りできるんですか」って聞いたら、「アジア美術館ができるから、そっちの方がいいよ」って言って下さって。そのうち孫さんがガンになって、もうこういうところ(首の回り)に大きなコブができて、もうやるしかないって、コレクターの人達5人に、「20万出していただけませんか」ってお願いして、私も20万出して、で120万あったらできると思ったんですよ。とんでもなかったんですけど(笑)。それで、できると思い込んでね、アジア美術館に行って、黒田雷児さんにお願いして、お借りして、その日のうちに『美術手帖』(増刊号)の裏のところに全部あの、その頃は、住所も電話番号も出てたんです。で、九州の地元の新聞社と、出版社か何か行って帰って来て、準備をして。もうそれこそチラシも、館内に貼るポスターも、知り合いがその頃、九州芸術工科大学(現在の九州大学芸術工学部)にいて、そこへデータを持って行って、ポスター10枚を材料代だけで出してもらって、それを貼るみたいな、ぐらいのことをしつつ。2週間の展覧会(2001.7.12-24)だったんで、雨森さんは2週間滞在してもらって、私は搬入に行ってひと晩だけ泊まって。オープニングのセレモニーに、高麗のお茶のセレモニーをしてもらって、それも水も火も使ってはいけないっていうセオリーだったんですけど(笑)。でもね、ほんとに、美しかったんです。孫さんの依頼で、白の衣装にして、作品の前に、座布団みたいな薄い物が、ブルーと赤と互い違いにこう置いてあって、白いチマチョゴリの人が、ふわあっと花が滑るように木の床で動いてね、すごく美しかったのを覚えてるんです。そんなことがあって、ともかく人が入らないんですよって黒田さんに散々言われてたんですけど、後で聞いたら、2週間でアジア美術館で一番入ったんです、って。搬入が終わって初日終わって帰って来たら、黒田さんから電話かかってきて、何言われるんだろう!? と思ったら、「ライティングを少し直してもいいですか?」って。「展覧会はすごくいい展覧会で」って言って下さって。1日で搬入してるんですけど、10メートルの作品も併せて110何点を、搬入してるんですよ(注:『孫雅由展 立ち現れる物/身体・物質・宇宙 60年代後半から最新作までの35年間の仕事』孫雅由展実行委員会による作品集/展覧会は福岡アジア美術館と福岡県立美術館2001.7.10-15での同時開催。カタログの奥付には協賛者の一覧あり)。

伊村:大規模な展覧会ですね。

熊谷:「ライティングをどうしたらいいかわからなかったんです」って言って、(黒田さんが)「前の展覧会のままになってると思うから」っておっしゃって。この作品(《色の位置OC87-14》1987年、油彩・綿布、194×521.2cm)をコレクションして下さって、安永幸一館長が、もう1点ね、これ(《空間の間合AC95-07》1995年、木炭、顔料、アクリルメディウム・綿布、336.7×145.7cm)をコレクションして下さったのかな。そのおかげで、赤字を出さずに済んだんです。270万ぐらいかかったんかな、最終的に。在日の九州にいらっしゃる方がみんな手伝って下さったんです、搬入を。だけど、ことごとくと喧嘩してるわけ、それを(笑)。

原:手伝いに来られた方と孫さんが、ですか。

熊谷:それで(笑)、その搬入の後、会食でそれを取りなす仕事をして。一人はね、もうそれもいらんって言って帰っちゃったぐらい。展覧会をした作品が返って来なかったのかな、何かあって、孫さんのせいだけではないんだけど、まあいろいろ、長年トラブルがあったみたいで。

原:そのコレクターさんというわけでもなく。

熊谷:なく。作家の人が手伝ってくれたので。在日の人達同士、北の国籍になってる人も南の国籍に変えた人もいろいろいて、すごく関係が複雑。みんな、政治の話になると大喧嘩になるっていうのをずうっと続けてるのは知ってたんですけど、ことごとくそうなんだっていうのを勉強しましたね。なかなか難しい。みんな問題を抱えていつつ、でも本当に無謀だけど、知らなかったからできたみたいなことはいっぱいあります。
この本もね、ほんとは、孫さんは私抜きで、作品を売るためのショッピングカタログを作ろうとしてたんですよ。田中恒子さんが、このシリーズを買って下さったお金があったので。でも、どうせカタログを作るのなら、ドローイングを入れた方がいいと思って、途中から私が入ってひっくり返しちゃって。孫さんはこのデリケートな版画でいっぱい受賞してたりするし、これ無しに作るのはおかしいんじゃないかって言って、その時もそれなりに悩んだんですけど。つまり、悩ましかったのはね、この辺の作品は、描くことと消すことを同時進行で進めてるんですよ。それを拡大縮小すると、みんなグレーになっちゃうんです。それで、拡大をこう使おうと。でもディテールがわからないんで、シリーズごとに扉を付けることで、やっと解決したんですけどね。ひどかったのは、うちで展覧会する時に、他でもどこかないかって言うんで紹介した画廊に、この作品を展示してて、画廊の人に無断でコレクターに売ってしまってたりね(笑)。(アジア美術館での展覧会は)関わりのあったところにみんな実行委員に入っていただいて、怒ってる画廊の人を説き伏せて、お願いだから会計をやってって言って、もうあなたが言うなら仕方ないって言って、引き受けて下さいましたけど。これ(作品集)はそれまでに作ってて、そのアジア美術館の時のカタログはこれしかないんですね。

伊村:ああ、そうなんですね。

熊谷:うん、お金、ないので。でも、これが出てるので。

伊村:実際にその150点展示されたものの目録は付いてる。

熊谷:付いてない。どっかにあるかもわからないけど、能力不足でできてません。という孫さんの(質問の)ところまでいきましたね。

宮田:孫さんとの一番初めの出会いは?

熊谷:孫さんが画廊に見に来てたと思います。

宮田:それで、展覧会をやりたいと。

熊谷:そうですね。

伊村:でも、ここまで一人の作家を、展覧会までお手伝いしてっていうことは、他の方に対してはなかなかないですよね。

熊谷:そうですね。できたらしたいと思ってるのは、森本(紀久子)さんですけどね。何か、帳尻が合わないというか、素晴らしい作家なのに、ちゃんと認知されてないみたいなのは、すごく気になりますね。作家も作品もあるべきところにあるとスッキリするみたいな。
そして、生田さんね(注:1983、85、87、90、2011年に個展開催)。生田さんは、白川のところにアトリエがあったんです。それで、(アートスペース虹に展覧会を)見に来て下さってて、「何してんの?」って聞いたら、「ステンドグラス」っておっしゃって。「あんな面白い素材をね、どうして横に平べったくばっかりしてるのかしら」って言ったら、「実はやってるんです」って言って、これぐらい(30cm四方くらい)の作品を、3、5枚ぐらいかな、こう、9コマに積んだのを持って来て下さって。「面白い、どんどんやったらいいのに!」って言ってたら、いまや、ニューヨークでは5分で完売する作家におなりあそばして、しかし京都にはコレクションが無いという。 次は、山口牧生さんですね。山口さんの石の展覧会も、やっぱり、好きな作家で、やってたんですよね。ある時、井上さんから電話かかってきて、

原:(井上)明彦さんですか。

熊谷:ううん、ギャラリー16の(井上道子さん)。で、「山口さんの展覧会引き受けて」って言われて、「あんたんとこやってるやん」ってなって。「いいですよ。でも、何で?」って聞いたら、ある画廊さんが広いスペースで企画されてて、突然失踪されたんですって。この頃もやっぱり私、(画廊を)閉じようかと思ってた時で(笑)、そうか、突然閉じることもできるんだと思ったんですけど(笑)。その広い場所の作品も作っておられて、その作品が余ってしまう。重い作品をここで展示してって言われて、いいですよって。ここは搬入が楽じゃないですか。今はもうね、危ないから、業者さんに頼むけど、その頃、芸大の関係者にお願いしてて、終わった途端、あちらもお願いしますって(山口さんに)言われたんですよ。ええって私、そんなつもり全くしてなかった。三条京阪(にあるギャラリー16が入っているビル)のエレベーターで5階に上げて、おびただしい量の石を。結局運んで、ケガがあるといけないから、結局私も貼りついて、積んでエレベーター動かしたら、人間が乗れないみたいな。上で誰かがいてみたいな、危ないことをして、終わった途端、搬出も。ちょっと待って下さい、ちょっと待って下さい。で、搬出は倍の人数で、やったこともあります。でも、結局、学んだことはね、山口さんの作品も、浅野先生の作品も、基本的に傷なんですよ、作品ね。線で引っ掻いてたり、彫ってたりするけど、それが美しく見えるっていうのは、やっぱりそれなりのものなんですよね。ああ私はこういう作品が好きなんだなと思いました。
そのうち、折元立身さんが来ますね。でね、実はあとでわかったんですけど、16の井上さんが、うちにも来はったって(笑)。私、お人好しなんで、年末1週間しか空いてへんけど、いいかって言って、最初の展覧会(1984.12.11-16)をしてるんですね。ニューヨークの裏街で、箱から出たり入ったりするパフォーマンスをやってる作品で、最初やって、そのうちに、やっぱり、こういうの作るはめになります(『折元立身の仕事』青幻社、2007年、86ページ和英併記/「折元立身の仕事出版記念 ドローイング展」2007.1.30-2.4/注:折元の個展はほか1999年と2005年の計5回開催)。でも何とかしてあげたいと思ったんでしょうね。で、やっぱり略歴も整理できてない、みんな。そういうところから始めるので、やっぱりそれは、大変です。

伊村:そうですよね。

熊谷:略歴の整理、データ化が一番大変だったかな。キャプションも無いし。この後、(ギャラリー)21+葉の黒田悠子さんと、どこの画廊やったかな、2軒でまた別の本も作ってらっしゃるんですけど、元の整理ができてたからね、もうその時には英語訳も。

伊村:折元さんもその時はどこか画廊がついてるということではなくて、探していらした時期だったんですね、活動する場所を。

熊谷:小名木陽一さんは、理路整然とした方で、彼のそれこそオーラル・ヒストリーは、誰か是非取ってほしいなと思うぐらいなんです。染織のことをあまり知らなかったんですけど、染織というのは、結局こう、床に敷くか、壁に貼るか、吊すか着るかだっておっしゃるんですよ。うちの最初の展覧会(注:1985.4.2-14、以降1999、2002、17年の計4回個展開催)は、こういうの(吊す作品)だったんですけど、この、ちょっとこうなってる加減(向こう側が見えないような吊るし方)とかが、大事なんかなあとか思ってたら、ぴゃあっとめくる人がいるんですよ。飛び上がりそうになって、「先生、さっきこれこんなしはったんですけど」って言ったら、「いいねん」って、「染織は触ってもいいことになってるんです。」っておっしゃって。これの前に、<自立のシリーズ>というのを作ってらして、これは、中身を詰めてこういうふうに形を作るか、何かっていう末にですね、やっぱり自立させたいと思って<自立のシリーズ>作ってらっしゃるんですけど、それはやっぱり無理があるというので、(吊している部分の)支持体も見せてしまってもいいんじゃないかというのがこのシリーズだったんです。それで、このグラデーションは、1本の糸にグラデーション、普通このつづれ織りっていうのは、糸を変えながら織っていくものなんですけど、1本の糸でグラデーションをつけたいというので、散々考えて、黄色に染めてから、赤い染料を作ってそこにこう、たぐりながら入れていって、時間差でグラデーションをつけるみたいなことされてるんですけど、ここを、取り出し口1箇所間違ってるんです。で、グラデーションがうまくいってない(笑)。

伊村:たぐりながらっていうのはどういうことなんですか。

熊谷:つまり、こう染料がありますよね。そこに糸を入れると、その入れた糸がどんどん染料を吸っていくので、染料がだんだん薄くなっていく。それを利用してグラデーションをつけるというわけですよね。それをどうしたら、もつれずに、それができるか。金網で沈めてみたりとか、いろいろ工夫なさったみたいです。

伊村:浸透圧を利用してグラデーションを作ってるんですね。

熊谷:そうですね。だからこの中に何も入れない。この頃、石屋町ギャラリーさん(指山健主宰)ができるんです。それで、私が、かねがねやめようと思っていたので、好きな作家を全部紹介して、1年間、お手伝いしたんです、陰で。東郷さんと二人で、どんな作家になさいますか、みたいなの。そして…… 

原:松井紫朗さん。

熊谷:松井紫朗さんと(中原)浩大さんですね。この頃、制作展(注:「京都市立芸術大学作品展」)見に行った時に、浩大さんの作品見て、主人が新しい! って言ったんですよ。ほんとに横にブワーッて広がってる作品だったんです。彫刻ってこう、どうしても、立てようとするんだけど。それで、やろうって言って、二人の展覧会を1週ずつ、1週間しかやってないんですけど、もったいないと思うけどね。面白かったです。

伊村:これは松井紫朗さんと中原浩大さんの二人展ということでは?

熊谷:ではなくて、狭いから、1週間ずつで(注:「松井紫朗展」1985.4.16-21、「中原浩大展」1985.4.23-28)。松井さんはこの、大きなスサの入った土の団子と、こう上に乾いた、何て言うの、ひびの入った赤土。下は童仙房の濡れた土、乾いてひびが入った赤土で、木がこう刺さってる。それで、その童仙房にずっと霧吹きで水を掛ける。芸大の霧吹きを彼が持って来て。浩大さんは、油粘土貼ってあって、布がこう巻き付いてる巨大な作品(注:《着衣》1985年、塑土、油土、顔料、F.R.P.、インド綿ほか、390×250×260cm)。

伊村:はい。二人とも最初期ですよね、作品が。松井さんはラテックスになる前ですものね。

熊谷:そうですね。その時に原美術館の原(俊夫)さんが見えて、すごい、いいなあって。(浩大さん、)あの《光のミミズ》を作りたいって言ってて、まだ《光のミミズ》作れてないときで、生田さんとガラスをどうやったら徐冷で割れないように、あんなんできるんかなあみたいな話を、してましたね。その後、原美術館で展覧会をしてますね(注:京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻修了時の卒業制作で《光のミミズ》を制作。「第6回ハラ アニュアル」1986.3.29-5.11で《持ち物:光のミミズ:象柱》1986年を出品)。

伊村:そうですね。

熊谷:この頃、「おもしろサンデー」っていう読売テレビ番組がありまして、その関係の人が来てくれてて、その「おもしろサンデー」っていうの、由紀さおりと桂文珍が司会してるんです。この二人の後ろに作品を1点ずつと、ここに立体を1点というのを、何回かやって。浩大さんと八幡はるみさんと、近藤令さんっていうもう今は辞めてますけど、精華大学の染織の出身の人で、やってました。

宮田:それはテレビ局に行って設置するんですか。

熊谷:いや、担当の人が板を持ってきはるのね、これぐらい(A4サイズくらい)の。ここに作品作ってって言って(持って帰る)。そこに、(中原さんが)最初の時はね、寒水砂の作品を作ったんですよ。それを浩大さんに返したら、もうそれしか寒水砂が無いんですって、どんな色でどんな粗さの寒水砂だったっていうの、それでしかわからんって。アトリエ燃えたでしょう(注:2010年に中原の倉庫兼アトリエが全焼した)。なので。

伊村:毎回、その番組ごとに違う作品が?

熊谷:1ヶ月ぐらいとか、使ってたんじゃないかな。今月のみたいに。

伊村:ちゃんと作家には対価が支払われるんですか。

熊谷:うん、その時ね、多分5万ぐらい払ってて。作品そんな売れるわけじゃなかったので、何とかって思うわけですよ(笑)。もうほんとに、何か、ひらうように(笑)、仕事。そう、それで、杉山知子さんの展覧会してるんですよ(注:1986.4.22-5.4)。杉山知子さんもお願いしたんです。作ってくれはりましたね。裏に(作品が)あってそれを出しとこう思って、出せてない。

伊村:これから活躍しそうな作家達に声を掛けて、活動資金を。

熊谷:仕事をね、ちょっとでもね。ただ2回目は、この板に直に描いたんですよ(浩大さん)。クレパスみたいなので。多分パステルだと思うんだけど。それをちょうど伊丹(市立美術館)の大河内(菊雄)さんが館長になられた時、お祝いのパーティに行かなかったんで、それどっちかお祝いにいかがですかって。手と足と描いてたんで、手がいいですか、足がいいですか、って言ったら、そりゃあ手だな、でもそんないらないよっておっしゃるんですけど、浩大さんの作品ばっかり、すごい悩まはった。でも足もいいんですよ、ちょっと紫っぽくってって言ったら、うーんって悩んではって、浩大さんにそう言ったら、いや僕描くわって言って描いて、じゃあ私額にするわって言って、結局それは、(その後寄贈されて)伊丹のコレクションになってる(注:《手のドローイング》《足のドローイング》どちらも1986年、クレヨン、板)。

伊村:そんな経緯があったんですね。

熊谷:館長の自分のものにせずに、コレクション。それ最初はね、自分の(席の)うしろに掛けてて、来た人来た人に、いいだろうって言って。何ですかそれって、カマキリの絵なんですけど、知らないだろうっていって言うのがご自慢だったようです(注:《カマキリ》1987年、クレヨン、鉛筆、水彩紙)。 それで、橋本真之さんね(注:1986.10.14-26)。その頃、福永重樹さん(注:当時、京都国立近代美術館主任研究員)が難しい顔で回って下さってたんですけど、お茶出してもお茶も召し上がらなかったんですよ。

原:お酒だったら召し上がった。

熊谷:そうでしょうね。うち、お酒出さないもんで(笑)。それで、ある時、頼みたいことがあるんだけどっておっしゃったんですよ。また、何でうちなんですかって聞いたら、ここしか入らないっておっしゃったんです。この橋本真之さんの作品ていうのは、こううねうねと、つながった作品なんですよね。写真がなくて。

原:多分エーシー(『A&C』)に出てたんじゃないかな。

熊谷:ん?

原:ああでも、これ、86年か。じゃあ、『A&C』はまだ刊行前です。

熊谷:それ(写真)用意しとこうと思っていて。

原:でも作品はすごい大きいです。

熊谷:どこかにあったんですけどね、何か今わかんなくなってるんで。銅板の打ち出しで、大きい塊で、それがこううねうねとつながってて、確かにここしか入らないんですよ。(入口のガラス戸が)4枚バッと開かないと。それで、それじゃあわかりましたって言ってお引き受けして、やりました。

宮田:そういうオファーもあったんですね。

熊谷:うん、そんなに度々ではないですけどね、それはもうお引き受けすべきものだったと思いますね。 これは、堀尾さんの展覧会をお茶の水画廊・淡路町画廊(東京)と京都でやった時の案内状なんですよね(「あたりまえのこと 場に沿って」1999年)。堀尾さん直にここは描いてたと思いますね。(A4横三つ折りで、表紙になる左右の面にそれぞれの画廊名と会期が印字され)うちから出すのはこうやって(右を表に)出して、お茶の水画廊は(左の表に)こうやって出す。
この東京の時に撮影を京都から行ってしてもらうわけにいかないので、たまたま知ってた横浜の写真家にお願いしたんです。そしたら、こんなところで撮影できないって帰ってしまはったんですって。なんか断りに戻ってくるって言うてはりましたよと聞いて(笑)。ていうのは、裸電球のある空間だったんですよ。それで、断りに戻ってきた人つかまえて、何でやってくれへんのって聞いたんですよね。そしたら、好きなように撮っていいなら、撮るとか言ってくれたんで、撮ってって言ったら、明くる日1日がかりで、もうね、カメラばらして中で組み立ててみたいなことをして撮らはって、すっかり仲良しになって。この橋本真之さんとそのカメラマンの高橋孝一さん。それで、西武で展覧会する時(「橋本真之展MASAYUKI HASHIMOTO EXHIBITION」1988.12.1-1988.12.13、シブヤ西武工芸画廊)は、それをカタログに使って下さって、そのあと二人展したりしてね、ずっと仲良く(笑)。

宮田:東京のギャラリーと一緒に企画をするとういことは。

熊谷:ちょこちょこありますねえ。

宮田:それは熊谷さんからお声がけしたり。

熊谷:そうですね。私、お茶の水画廊何でこんなに親しくなったのかわからないんだけど、堀尾さんの展覧会してもらったんですよねえ。びっくりしてはりましたけど、すごい喜んでくれはりました。大体私、人に無茶ぶりするんですけど、これだったらやってくれそうっていう内容を、やってみたいなと思うような感じの人にお願いするので、大体上手くいきますね。断られてない気がします。

宮田:その当時、東京の画廊回りを頻繁にされてたんですか。

熊谷:そうですね。最初の頃いっぱい回ってたんですけど。その前に、うちで展覧会した高田暁美さんが、お茶の水画廊でも展覧会されてたんです。その時に行って。全く関係無いところへは行かなくなりましたね。無駄に回ってもそんなに大したものは見られないというのがわかったんで。でも、わりと、頻繁にドリームバスで日帰りですけど。

宮田:日帰り(笑)。

熊谷:朝行って晩帰ってくるの、まあ、無泊で、よく行ってたので、東京まで行って、東京からハイウェイバスに乗って水戸へ行くっていうのがコースになってたんで、よく水戸へ行けてました。その頃ね。でも最近もう全然行けなくなってしまいましたね。そして、そうこうするうちに、松本秋則さん、どうして知り合ったのか思い出せないんですけどね。松本秋則さんという人は、竹でサウンドオブジェを作る人で、また、「文殊の知恵熱」(パフォーマンス・ユニット)というのも3人でなさってて。

原:村田(青朔)さん。

熊谷:うん、そうそう。面白いよねえ。

原:横浜でやられていましたね。

熊谷:そうです。横浜ですよね。で、ジーベックとか、キリンプラザのあった時は、ああいうところでも、やったんですけど、(アートスペース虹でも)何回かやってます(注:1988、91年に個展開催)。

原:松本さん自身とっても交友関係が広いというか、いろんな方と繋がりがあって。

熊谷:そうですねえ。1回松本さんに聞いたらわかるんかなあ。思い出せないんですけど。そうですねえ、岩野(勝人)さんは石の彫刻で、ちょうど国際交流会館をみんなでディスカッションして作ってるような頃にここで展覧会して(注:1988、89年に個展開催)、結構、空間に一緒に。芦屋の方のマンションに、ここどうやって入れたらいいの? みたいなところに納めたりしました。ま、ひらうように、うん。そう、山下里加さんの展覧会も2、3回やってるというのがわかりました(注:1987、88年に個展開催)。焦げた木を持って来て、1日中こう壁に立ててみたり、床に置いてみたり、いろいろ試して、最終的にどうだったか覚えてないという(笑)。面白かったです。
それで「ノート」ですね。「ノート」のことさっきお話しましたね。でも、この頃の「ノート」と、また後でやってる「ノート」と微妙に違ったりするんですけど(注:「ノート」は1990、99年にも企画)。ひとつは、ここで見てる作品は、実は、結果であって、おこぼれに与ってるような気になってきた時があって。本人が想起したり、悩んだりしてる時が、多分一番エキサイティングなんだろうなあと思って、それにもうちょっと踏み込みたいと思った時に、私なんかね、アトリエを聖域みたいに思ってて、画廊さんの中には、ギャラリーはアトリエ見て決めるんや、みたいにおっしゃる方もいらっしゃるし、それもわからなくはないんですけど、私はね、踏み込みたくなかったんですね。それで、やっぱりノートの中に何かあるような気がしてやってるというのもありますね。あ、最初のヤノベ(ケンジ)さんの展覧会は、まだ学部生だったんですね。その時(1988年)は《タンキング・マシーン》じゃないんです。
栗本(夏樹)さん、作品を初めて売ったのは多分この時だと思います(注:1986、89年に個展開催)。その後、山口牧生さんのコレクターの人のおうちを建て替えしはるんで、お祝いをしようと、その大きい作品を買って下さってたんですよ。山口さんのコレクターがね。(私も)そのコレクターにお祝いしようと思って、栗本さんに作品を作ってって言ったら、何か、かぶり物の作品を作りたいっていうんで、(コレクターさんは)真珠屋さんやったんで、真珠を買って、それを栗本さんに渡して、かぶり物作って。逆にその家を設計した人には、時計を注文されて、美味しかったと思いますよ、栗本さん。

宮田:真珠はどういうふうに使われたんですか。

原:螺鈿。

熊谷:螺鈿じゃなくてね、ほんとに真珠屋さんなんで、真珠そのものを買って、この飾りに埋め込んだと思います。

伊村:美術館なんかに納める作品とはちょっと違っていて。

熊谷:違う、うん。

伊村:宛先のある作品。

熊谷:そうそう。

伊村:というところが面白いですね。

熊谷:その後その建築家に頼まれて、秋田かあっちの方の旅館のこの、拭き漆の仕事をもらって(笑)、下級生を連れてそこに、温泉入りながら仕事したって。私に報告は、もう随分経ってから、風の便りに聞きました。その後ヤノベさんの「タンキングマシーン」ですね(注:1990年)。

宮田:児玉さんは。

熊谷:児玉さん、そうですね、さっき言ったような感じですね。初個展。それからずうっとやってますね(注:以降、2週間会期の個展を1989、2005、09、10、15、17年計6回開催)。石屋町さんができた時に、石屋町さんも児玉さんを気に入ってくれはったんで、(私は画廊を)やめようと思ってたんだけど、続けちゃったんで(笑)。好きな作家結構ダブってるのは、そういうわけです。岩村伸一さん、それから、伊庭靖子さん。で、この小名木さん。いろいろね、1年間、どうされますかっていうのやってましたね。でもチョイスされたのは、石屋町さんなんで。
10周年の時に、「あてなるもの」と、一歩枠の外へ踏み出したいなと思って、当時京都(国際現代)音楽フォーラムというのを、藤島(寛)さんとか中川(真)さん達がなさってたんで、藤島さんに美術と関連があって、音にも関係するような作家を紹介していただけませんかって言って資料で拝見して。で、(ロルフ・)ユリウスを選んで、ちょうどユリウスの、何か他にもイベントがあったんだと思います。それに合わせて、うちでも展覧会したのが最初なんですけど、それはカタログを作ってましたね(注:初個展は1991.9.19-29)。

原:ユリウスのイベント、仁和寺はその後ですか。

熊谷:仁和寺は、この後ですね。ユリウスは2回展覧会してて、この貧乏な画廊としては2回分を1冊(のカタログ)にしてるんです。91年に最初の展覧会してて、94年(10.4-16)にこれを作ってるんですね。1回目の展覧会が、サウンドインスタレーションで、ここ低い音が出てて、イヤフォンが入ってて、ここから高い音、スピーカーそのもののですね。スピーカーの上にプレート置いてて、実はルーバーの外にもスピーカーがあって、それが磁石ですからね。スピーカーがついてるんですけど、外の音がここ(画廊に)入ってくるでしょう。外の音と一緒に、ここに入ってくるっていう。最初はスモールミュージックなので、外の音入って来ますけどどうしましょう、大丈夫ですかって散々聞いたんですけど、ノープロブレムって何べんも言ってくれて。夕方になると電車(京阪京津線)の音も、警笛をこの辺でバーッて鳴らすんですけど、外の音を受け入れたサウンドインスタレーションで。2回目がこの嵯峨野でやった時で、ここではこのドローイングと、ここにちょっと音があるんですが、ドローイング中心の展覧会。この時は、チープ、チープって言っていっぱい蚊にかまれて、とってもかわいそうでした(笑)。そんな感じですね。

伊村:今お話があったように、京都音楽フォーラムと、その後に、

原:京都国際現代音楽フォーラム。

熊谷:そうそうそうそう。それも、

伊村:その続きで仁和寺であったり、いくつか他に京都で行われている企画に合わせて展覧会をするっていうことが。

熊谷:例えば、交通費とか出せないので、来てる人にお願いするっていう感じだったんだと思います。まあ、協力関係ですね。逆に、京都音楽フォーラムで鈴木(昭男)さんが白川でインスタレーションをした時は、私が中川さんを連れて町内会長の家をずっと回って、お寺に集めて。その時は町内会長さんの家で鈴木さんがパフォーマンスするとか、鈴木さんも知恩院の入口にある塔頭に泊めてもらうとこが運良く見つかったり、ていうようなことがありました。大体現代音楽人口、200人っておっしゃってたんですけど、ここで「京都アートマップ」と合わせて展覧会した時は、500人以上で来て下さって、やったあ! っていう感じでしたし、ユリウスがガンになったので、近美で夜だけの、5時から8時までかな、展覧会の時にパフォーマンスをホワイエでされたんですけど、その時はね、私は行けてないんですけど(注:「ノイズレス 鈴木昭男+ロルフ・ユリウス」京都国立近代美術館、2007.4.3-15/夜間のみの開催/ライヴ・パフォーマンス「ノイズレス/サウンドレス」は7日開催された。詳細は京都国立近代美術館ウェブサイト参照<http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2007/353.html>参照2021年1月17日)。

原:行きました。

熊谷:あ、満員やったんですよね。

原:すっごい人でしたね。

熊谷:ねえ、びっくりしたけど。

原:私なんかより若い方達が中心で、フロアにしゃがんでずっと見たり、近くに移動して聞きに行ったりして。こんなに現代音楽やサウンドインスタレーションに興味のある人達がいたのか! と逆に驚くぐらいたくさん来られました。

熊谷:ねえ、何か東京からも結構見えてたみたいです。

原:たしか西岡(勉)さんがデザインされた素敵なフライヤーがあったような気がします。

熊谷:そうなんです。ていうようなことも、あってですね(注:「ユリウス追悼展」2012.2.21-4.15)。

伊村:個別に伺わないとわからないことが多いので、ちょっと申し訳ないんですけど、丁寧に。

原:橋本真之さんって、何度かやられましたか。

熊谷:3回ぐらい。

原:ですよね。

熊谷:橋本さん、3回か4回やってますね(注:1986、89、94年に個展開催)。うねうねしたのが2回と、あと断片を敷きつめたの1回としてますね。銅だけ作ってこう、銅板をこう切ると、クルッと丸まるんですけど、その切れっ端をダーッて。

原:何かプラネタリウムみたいな感じの。

熊谷:そうそう。

原:光が、透過する穴が開いてて。

伊村:80年代にはわりと大きな彫刻が多い印象があって、絵画も彫刻も大きかったですよね。だから、こういうところじゃないと搬入ができないっていうことがあったんだと思います。

原:彫刻の学生の人達は、制作展の時に、大きいもの作んなきゃいけないといった、何かプレッシャーみたいなもが当時はあったと思います。どんどん社会の状況が変わってくる中で、60年代とか70年代とかとは違って、コンセプトがどうのっていうよりは、素材に対する意識みたいなものも強くて。素材をテーマにした展覧会も、90年代とか80年代の終わり頃も多かったですね。サウンドインスタレーションなんかも多かった。

熊谷:そうね、止まってる人もいますけどね。

原:ぼんやりもうそのまま。

熊谷:素材をテーマにした展覧会も多かったし、マッスと存在感とか、今「存在感」なんか言わないじゃないですか。

伊村:そうですね。

原:例えば彫刻の作家や、大学で専攻している人達の人数自体も減ってきてますね。

熊谷:そうですね。

原:素材についての意識は低くなっていて、もの(物質)を重視する作り手より、プロセスや関係性について問うような作家が増えている印象ですね。

熊谷:90年代ぐらいまでは、京芸の学生さん達もプロ集団でしたよ。准教授ぐらいの人が、先生の搬入を手伝う。

伊村:そうですよね。

熊谷:私も、そういう人に、タダで手伝ってもらうっていうのはちゃうと、お小遣い程度ですけど、お支払いするんですよ。安心して頼めるわけ。業者さんよりも気が利くから。位置決めるのとかね、もう、仕切る人はちゃんといて、お前もうちょっとってぼやぼやしてたら叱られるみたいな感じやった。けどもうね、怖くて、業者さんにしか頼まない、今は。

原:(笑)

伊村:土岐謙次さんから小清水(漸)さんのアシスタントをしていた時のお話を聞いたことがありますけど、

熊谷:うん、漆ですね(注:2000年に個展開催)。

伊村:徒弟制とは言わないまでも、多分搬入の時もいつも同じ車に乗っていたような深いお付き合いで、どの作品をどこにどう設置したらいいかわかっているという感じが、話を聞いているだけでもわかりました。

熊谷:そうやね。

伊村:重たい物だったりすると、動かすテクニックとかありますものね。

熊谷:そうですね。

原:ものの扱いとか、そういう。

宮田:そうですね。作家さんのちょっとしたこだわりとかも。

伊村:と思いますよね。

原:それこそ、言葉とかでも、「フェティッシュ」っていう言葉とかよく聞きましたね、今は死語のようになっていますが。

伊村:そうですよね。

原:当時はそういう用語も頻繁に使われたし、マチエールがどうのこうのとか、同じような用語が、頻繁に言語化した時に出てきて、流行だったのでしょうね。

伊村:メディウムに対する意識が変わってしまったから、というのはあるかもしれないですね。

(休憩)

伊村:では、後半からよろしくお願いします。早速ですけれども、作家や定期的に画廊を訪れる美術館学芸員、それから批評家、ライターや美術系の学生などの交流の場としても、このアートスペース虹が機能していたと感じているんですけれども、熊谷さんご自身が画廊活動で心がけていたことについて、聞かせて下さい。

熊谷:はい。少しでも作品を長く観て欲しいとか、作品ができるだけクリアーに伝わるようにっていうので、お茶を出すようになったんですけど。ある時、私自身が一番邪魔だということに気づいて(笑)。作品に合わせてこの空間が大きくなったりちっちゃくなったりできないものかと思ったけど、それは無理なので。何とか私自身の存在を消せる方法はないかと思って、いつも同じ格好してると、認識せずに済むんじゃないかというので、夏はいつも白いブラウスで、冬は黒っぽいものを着るようになっていきました。それこそ、1分1秒でも長く留まってほしいと思って、お茶を出すようになったんですけど、何かみんな、画廊がなくなってもお茶のことを覚えてる(笑)。

宮田:美味しいお茶を淹れていただいて、ホッとしながら観るみたいな(笑)。

熊谷:最初はほんとに単純に、ちょっとでも引き留めようと思って出してたんですけど、まあ悪いことではなかったんだなと思って(笑)、ほっとしてるような感じですね。

伊村:初めて画廊に行く時って緊張することもあると思うんですけど、不思議とそういうことがない空間だった印象がすごくあります。

熊谷:うん、なんか、聞きやすいらしくて、言いやすいのかなあと思ったんですけど、いろんなことを聞かれましたね(笑)。

伊村:それは特に作品についての質問ですか。

熊谷:いや、そうじゃなくって、何か、他の画廊のことについてとか(笑)。作品のことについてとか(笑)。他の画廊じゃちょっと聞きにくいのかなと思うようなことを、聞かれることもありましたね。もう、忘れましたけど、どんなことだったか。

伊村:アートスペース虹に寄られた方の中で(印象に残っているのは)、先程もお話があった、イサム・ノグチさん。

熊谷:イサム・ノグチさんは、その後もよく寄って下さって、最初に私を励まして下さった方ですね。こんな小さい空間でって言ってたら、大きいばかりが能じゃないよって。小さいものには小さいものの良さがあるだろって。大きければいいっていうものではないって。大きいものには、威圧感があるだろうっておっしゃったんですよ。それで、「光・音」っていう展覧会をしてます(注:1987.12.8-20)。20センチ立方で、光、音っていうテーマで展覧会。

原:何人ぐらいですか。

熊谷:55人。その時に、調べてみたら、いろんなジャンル。それも、建築家の方にも、藤島さんにも出してもらったし、それこそ、松尾惠さん(VOICE GALLERY主宰)にも出してもらってますね。彼女はロウソクでした。小さいロウソクだから、10分かそこいらで消えちゃうんですよ。これがなかなか忙しかったんですけど(笑)。

宮田:点けては(笑)。

熊谷:はい。

宮田:55人も出したら。

熊谷:忙しかったですね。藤島さんはね、サティの音楽がエンドレスで鳴ってるカセットテープだったんです。そうするとね、19時にここを閉じるでしょう。それで奥に入ってもずうっと耳の中でサティの音楽が鳴っててね(笑)。不思議なもんだなあと思いました。堀尾さんは箱の中に何か入っててこう、ゴトッていう、何が入ってんのかわからないけど、ゴトッていう音だったり。

伊村:小さい空間なんですね、20センチ四方。

熊谷:20センチ立方。それこそ建築の狩野先生にも出してもらってますね。狩野先生は鋳造してね、そこに紙のシェードを付けたランプだったんです。「熊谷さん、20センチは厳しいよ。せめて30センチにして」って言われて(笑)。それで逆に、自分の会社へ持って帰って、30センチ立方の展覧会をね、自分達で企画して。

伊村:画廊のアイデアを、発展させた(笑)。

熊谷:よっぽど面白かったらしくってね、それで、しまいにね、ソニーのビルあるでしょう心斎橋の(注:SONY TOWER、2006年頃に解体)、あそこで展覧会したりね。そこにいた人が、転勤されるじゃないですか。で広島とか名古屋でも、やってはってね。一時でもその作ることの面白さとか、逆に作品ってどんな大事なものか知ってもらうためにはね、良かったと思いましたけど。だから竹中(工務店)の現場は、作品持って行っても、もう現場の所長さんまでわかってくれてて、それは大事なもんだからっていう扱いをして下さったので、とてもありがたかった。うっとうしがられるんです、他のところは。こんな時にこんなもん持って来てっていう感じで、何となく迷惑がられるんだけど。教育して下さったんだなあと思いました(注:狩野は自身の個展も開催。「TAKENAKA ART FORUM '91 (竹中工務店N6計画作業所) 圧縮と引張 狩野忠正による空間への試み」。同時開催:信濃橋画廊、大阪)。

伊村:すごい普及力ですね、それは。展示はどういうふうにされたんですか。

熊谷:展示台を使って、ちょっと低めにしてたのかな。展示、20センチ立方なので、でも、松尾さんのは壁にこう取り付けるものだったと思いますね。壁と真ん中の展示台とで。何かコンセントがいっぱいいったのね。電池も。電池とコンセントがいっぱいいったのしか覚えてないです。

宮田:よくブレーカーが落ちなかったですね。

熊谷:いえ、20センチ立方なので(笑)。あんまりね。

伊村:鳴りっぱなしっていうわけでもなさそうですものね。ひとつひとつ聞けた。

熊谷:そう、だから、鳴りっぱなしのものもあるし、その鳴りっぱなしのは、(例えば)藤島さんのは、電池がいっぱいいるわけですよ。電池のものが結構ありまして。

伊村:藤島さんとの出会いは。

熊谷:藤島さんはいらして下さってて、知り合ったと思います。でもコレクターでもありますから、音楽フォーラムのことを知る前に何か買っていただいてた可能性もありますね。
イサム・ノグチさんはここを下りていったとこに、「山きく」っていう、今ないんですけど宿があって、そこにお泊まりになってたので、私が表掃いてる時間帯と彼がここでタクシーを止める時間帯が一緒だったんですね。バス停の前の本屋さんみたいな感じなんやなと思ってたんですけど。例えば、山口牧生さんの展覧会の時にお姿を見たら、お宿に案内状を持って行くと、普通だったら、行きがけに見てって感じになるでしょう。それが、わざわざ、京子さんと一緒に見に来て、しばらく落ち着いてお話されて、ちょっと急いでるんだって言って一旦帰って、またここでタクシー止めてらっしゃる。やっぱり、すごいなあと思いました。作家に対する態度というかね、作品に対する態度が、すごいきちっとしてる人なんだなあと思ったことがありました。それで「ノート」ですね。「ノート」が、いろんな人のノートを出してもらってますね。やっぱりコレクターとか水上(旬)さんも、実験的な音楽の作家なので。

伊村:そうですね。

熊谷:それから、「ノート」で、井上(明彦)さんと浩大さんと、この「ノート」は結構面白くて、浩大さんはこの辺に、自分の学生、高校生時代からのスケッチ全部出してくれたんです。

原:覚えてます。

熊谷:机の前に置いてるオブジェとか、自分が球の作品(注:《コウダイノモルファ》1988年、合板に油彩、直径120.0cm)の色のヒントにしたレコードジャケットとか、井上さんは井上さんで、何か調査に行って途中でカメラを盗られて後スケッチで描いてみたいなのをいろいろ書いてて、「えっこんなの読んでいいの」って読んでた人が(笑)。それで、狩野先生は、その前に、村野藤吾さんとの対談の中で、粘土の模型について話してられて、その粘土の模型のドローイングを出しておられたりしました。でどんどん行かないと。その次が、柏原えつとむさん、藤本由紀夫さん、東郷さん……。あっそうだ、「ノート」では、ここも、森村さんとやなぎ(みわ)さんとヤノベさん、「京都アートマップ」に合わせて、「ノート」展示してもらったんです。この頃まだパソコンのノートはそんな一般的ではなかったんですけど、ノートパソコンを出して下さったんです。本当はそこで「森村デパート」を見せるはずだったんだけど、何か上手くいかなくて(笑)、結局、この時の森村さんのノートはあんまり機能しなかった。何でやったんかな、インターネットがまだ遅かったんか、何か設定が上手くいってなかったかして、99年(5.11-5.30)。

宮田:パソコンでノートを見せようとした。

熊谷:パソコンの「ノート」を出して下さった。 やなぎさんは、展示台の目線の高さで、フィルム、アナログのフィルムの35ミリのリバーサルをずうっと。フランスのパサージュのようにお店の入口だけがこう並んでるように写真を撮ったフィルム。を何本かね、こう、台の上に載せて、よーく見ると見えるみたいな。

伊村:それは面白いですね。

熊谷:それで、ヤノベさんは、ショーケースに6年生の頃に描いたマンガ、ね、オブジェ、そういう資料的なものを。面白かったケースね。それたしか、美術館に入ったんかな、わかんないけど。そんな感じで。

伊村:初めの頃の「ノート」は先程言われたみたいに、アトリエに直接足を踏み入れるのではなくて、記録されたものを通してその作家を考えるようなところがあったと思うんですけど、今お話を伺っていると、記録媒体自体ももうちょっと広い意味を持ち始めていますね。

熊谷:丸投げなんで、作家自身が好きなように解釈して出してきてますね。最初のこの、井上さん達のここまでは、企画書書いて。ここ(1990年)ですね、浩大さんとかまでは、企画書書いてますね、一応。だけどそこから後はもう、皆さんの解釈による、みたいになってしまって。

伊村:作家同士は、お互いに何を出すか知ってたんでしょうか。

熊谷:いや、ヤノベさんとやなぎさんは近いから、知ってたかもしれないけど、わからないですね。

伊村:最後が國府さんの。

熊谷:そうですね、國府さんの「國府ノート」(注:2015.3.17-29)は、私はどうしても、追悼の展覧会を、ソーラーカーの事を、やっぱり、紹介したかったんですね。ひとつは、(《HAASプロジェクト――ソーラーカーによるアメリカ大陸横断》(1999年)が)野村(仁)先生の作品として、最初に紹介されたことが、すごい、こう、やるせない気持ちがどうにもおさまらなくって。あんなにみんなが来る日も来る日も働いてはお金稼いで注ぎ込んでってしてたのになあみたいなのがあって、ここでそのノートを出したいと思ったんですね。その影響を、あの世代の人がすごい受けて、あれに関わってた人達はね。一番中心になって。お金稼いで助成金を受けてって一生懸命やってた吹田(哲二郎)さんはもう体壊してアメリカ横断に行けなかった。それもすごい切ないんですけど。それは、ギャラリーA4(注:「國府理展『オマージュ 相対温室』」ギャラリーエークワッド、2016.3.7-5.9)の時に話してもらってて、わかったんですけど、豊永(政史)さんが言うには、アメリカ横断してる時に伴走の車がね、ガソリンが無くなっては補給しないといけないのに、ソーラーカーはバンバン走ったっていうんですよ。逆に、伴走する車が(笑)、しょっちゅうガソリンを入れんとあかんかったって言うのを聞いてて、もうそれの影響をすごく彼は受けてたと思うんですよ。そのソーラーカーのこともあって、彼の全貌をこう皆さんに見てもらうためには、ノートしかないと思って、まあ象徴的に初期の自転車は展示しましたけど、そんなことですね。これはやっぱり、國府家のご協力があっての賜物だったと思います。 (2000年の)この「非在の庭」。これ東郷さんに相談して、決めましたね。皆さんわりとあっさり受けて下さって。

宮田:柏原(えつとむ)さんも藤本(由紀夫)さんも。

熊谷:はい。東郷さんは<水のフィルター>(公式ウェブサイト<https://togoyukio.jimdo.com/フィルター-水/>参照2021年1月17日)というのをずっとやってたんですけど、<水のフィルター>集めて、ここでは実際にないような水のイメージをよしとして、来た人にインタビューするっていうことを中心にやって。藤本さんは、搬入の日に、搬入日の前の日だったかな、早い時間に一人で来て、ここへこう、キューブを積み上げていくとバシャッて倒れるのを録音して、キューブは置かずに、芳名録の下に音だけ入れおくっていう。音だけの作品だったから、柏原先生の作品とか見てると、ドンガラガッチャン! っていうんですよね、キョロキョロ、

伊村:びっくりしました(笑)。

熊谷:(みんな)キョロキョロという、展覧会でした。これが「非在の庭」。これね、「非在の庭」ってまああの、ちょっとこう絶望的な中で、何を見出すかみたいな感じだったんですよ、元々は一番。直接展覧会に関係ないんですけど、「非在」って英語訳がいまだにちゃんと何が正しいのかわかってない。適切な言葉が。だから一応、訳されてますけど、ほんとはもっと適切な訳があるかもわからへんなあぐらいで、あらざる、「不在」と「非在」と違うでしょう。本当に無いっていうことなので、どっちかというと、心理学の方に近いんかなと思うんですけど、実際には無い。本当に無い。だけど、ちょっとややこしい。

伊村:二重の意味があるわけですね。

熊谷:そうですね。

宮田:柏原さんはどういう作品を出されたんですか。

熊谷:柏原さんね、ガチッとした箱の中に、戦う道具が(笑)。メスやら何か入ってたり。 宮永(愛子)さんと人長(果月)さんは、週を変えてひとつの展覧会として、カタログを(『非在の庭 Garden of Absence』2005年、12ページ。「人長果月 胡蝶の夢」4.5-10、「宮永愛子 そらみみみそら」4.12-24)。その時に、宮永さん、貫入の音の作品、私あの展覧会好きでした。すごくきれいな展示をしてくれて、カタログには写真が間に合わなかったので、後で貼り込む予定でいまだに、写真もらったんだけど、貼り込めてない。その後(「非在の庭」2010.9.28-11.7)が、この石塚(源太)さんと吉岡(千尋)さんと矢津(吉隆)さんと、狭いから、個展を重ねるみたいなことでやってます。井浦(崇)さんと二瓶(晃)さんも、同じやり方ですね。

宮田:これもそれぞれテーマを作家さん達にお願いして、参加してもらう感じなんですか。

熊谷:うん、もう、丸投げですね。

伊村:どういう作家の方にお願いするかというのは、何か意識していらしたことってあったんですか。

熊谷:うん…… ま、本能的なものですね。その時の作家の状況みたいなの、ありますね。

伊村:タイミングがありますよね。

熊谷:うん、後で出てくるけど、「田村画廊の仕事」かな、紹介したことあるでしょう(注:2014.6.10-15)。あの時に、あの本作った竹内博さんが言ってたんですけど、「そろそろ展覧会したいなあと思ってると、声がかかった」っておっしゃったんですよ。何か、やっぱり、ずっと見てますよね、気にして。で、そろそろ何か、お寂しそうだなと思ったら声をかけるとかね。やっぱり私の方針としては、不遇の時に寄り添うという。もうみんな立派になったら、他からも声もかかるし、どんどんやっていけるからもう大丈夫ね、みたいに手放すという感じですね。またしんどくなったらいつでも帰ってくればいいし、みたいな、感じでいました。

伊村:そっと後押しするみたいなところが。

熊谷:うん、余所で展覧会してても、宣伝するみたいな感じですかね。矢津吉隆さんはね、ちょっと違うんですよ。Antenna(アンテナ)に入ってたんですよ。(大阪府立)現代美術センターで展覧会してたりした後、何かね、何か寂しそうなんですよね(笑)。本人は寂しいと思ってなくても、何かこう、元気出してほしいなと、私は思ったんでしょうね。声かけたんですね。そんなことでしたね(注:矢津は京都市立芸術大学在学中にアーティストグループAntennaに参加。2007年に脱退し9月にアートスペース虹で初個展を開催した)。

伊村:それが「非在の庭」(2017年)。それから、画廊の空間の使い方に関して、先程児玉靖枝さんの話をしていただいたんですけど、やなぎみわさんについてもお聞きしたいです。

熊谷:そうですね、やなぎみわさんね、やなぎさんは、やって来てくれたんですよ。私展覧会を見れてなかったけど、この、(「ノート」の)前の方に出てるコレクターの弓削権八さんから、すごい作家がいるよって噂は聞いてて。
無鄰菴で展覧会も予定されてるような時に企画書を持って、もう、今までの私の作品とは違うんです! ばっかり言って、ここをって、使いたいって言って下さったんで、ああどうぞどうぞって、やったんですけど。写真のようにエレベータールームにここをして、液晶、液晶じゃない、ライトボックスの作品をこう4点展示して、そこに女の人がずっと1週目は2人、お見合い写真みたいなのをこうひらけて見せる。2週目は、人形のように固まってスツールに座ってるっていう展覧会なんですけど。エレベーターのドアの裏側が楽屋になってて、ほんとに足の踏み場がないようにいろんなものがとっちらかってて(笑)。他に何もすることないわけで私は、裏にいるしかないみたいな感じで…… 片付けしてましたね。のちにそれを作品にしてはるんですよ(注:《White Casket》(参考図版:1994年、国立国際美術館所蔵、<search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=54021>参照2021年1月17日)を指す。後に宗偏流の家元に収め た同タイトルの作品について語られるが、国立国際美術館所蔵作品とは同一タイトルだが別の作品)。何か、すっごい長い長い作品で、床にバーッて散らかってるのはその時の様子を思い出しますね、あれ見たら。まあ、頑張ってますねえ、やなぎさん。

伊村:普段は、熊谷さんは大体こう奥に座ってらっしゃるんですけどその時はもう完全に。

熊谷:完全に奥に。

伊村:パフォーマンスのみの空間だったんですね。

熊谷:はい。そうそう、ちょうどその頃、外国でも人を展示するのがすごい話題になってて、それを引き合いに出されてましたね。触ろうとする人とかいてね。まあ出たり入ったり、こう裏から出て、こっち(入口)から出るとまずいので、裏の家からこう来て出たり入ったり、してましたけど。

伊村:見に行かれてます?

原:はい。やなぎさん以外にも、杉浦(隆夫)さんのは金魚鉢のように、大きな透明なボックスに人が入っている作品が展示されていました。

熊谷:そう、杉浦さんも2メーター四方かもうちょっと大きいぐらいの、

原:透明の(展示ケース)。

熊谷:箱を作って、アクリルで、下から風が入るように下に扇風機置いてね、窒息しないようにちゃんとして(個展「人の展示―何もしない・人を見る―」1993年、人、展示ケース等)。その時は、2時間に1回、15分完全にクローズにして、幕も張って、完全にクローズにして、人を展示してたんです。やなぎさんより先に、人を展示したのは杉浦さん。杉浦さんは、一番最初は、鉛筆を削って、鉛筆だけで立体の動物とか(注:1986年初個展以降1995年まで毎年と、2002年に個展開催)。

原:鉛筆が延々とつながった彫刻作品。

熊谷:そうそう、ぽっと触ったら折れるような、華奢な作品なんだけど、そうギリギリに成立してる作品を、(1986-88年の)3年、「鉛筆の杉浦」って言われるぐらい。

原:そう。

熊谷:鉛筆で作ってたんだけど、実は3年ぐらいで。

原:その印象がすごく強いんですけど、その後も蛍光灯を立てかけてるだけの、倒れるか倒れないかのギリギリの境界線にあるインスタレーションもありましたね。

熊谷:これより長い蛍光灯を、壁に立てかけてたり(笑)。

原:あと、斜面に車を置いて、ずり落ちないで止まっている彫刻作品もありました。

熊谷:ふふふ(笑)。

原:ギリギリのところを見せる作家でした。

熊谷:そう、それも、(ラジコン)模型のソーラーカーが、ライトを背負ってるんですよ。そのエネルギーで登ってる。

原:登りきってしまうことのないところで止まるバランス。

伊村:うん、落ちない、

原:絶妙な均衡を保つ作品でした。

熊谷:(笑)。

原:いずれも微妙な均衡ですよね(笑)。

熊谷:ギリギリ。

原:ほんのちょっと動けば、落ちたりとか割れたりしてしまう。

熊谷:うん、ギリギリの。

原:そういうのをずっと。でもその彼が、「人」をある日展示して。

熊谷:展示する。面白かったのはね、島袋(道浩)さんが見に来たんですよ。パフォーマーなので、見て欲しいわけ。外から一生懸命アプローチしてるのに、「人」にいくつか約束があって、本を持って入ってはいけない、時計も持って入ってはいけない、(見に来た)人に反応してはいけないとか、そういうのがあったんで。見て見ないふりをしないといけないの、中に入って。大変だったと思いますけどね(笑)。最後まで、見て見ないふりをしてたら(笑)、外から、何でこっちを見ないのって貼り紙をして(笑)。それで帰ったんですよ。すごい大変だったって(中の「人」)言ってましたやっぱり。

伊村:中に入る人は交替で何人かが演じた。

熊谷:えーとね、1日1人です。2人ぐらいの人が、交替でバイトでお願いしてたみたい。面白かったですけど。

原:やなぎさんより前ですよね。

熊谷:やなぎさんより前です、杉浦さんの方が。それもちゃんと書いとかなあかんの、ほんとはねえ。

原:いえいえ。

熊谷:模型ソーラーカーが、床をグルグルグルグル走ってるというのもやってましたね。大阪の時とか、まあ他の、名古屋とかでもね、やってた人ですけど。

伊村:次は、西山美奈子(西山美なコ)さん(注:1988.7.19-24)。

熊谷:西山さんわりと早かったんですけど、西山さんはそう彫刻の出身、その前何やったかな、自分のベッド、ベッド回りの物、お布団まで持って来て(笑)。で、インスタレーションで、壁に直に何か描いてたと思いますね。要するに「少女の部屋」の出発点の展覧会だったと思うんですけど。篠原(資明)先生が見えて、こんなベッドの下の物まで持ってこなくてもいいやんて(笑)。ものすごい正直だからベッドの下の物も持ってきて、おっしゃってたの覚えてます(笑)。

原:その後、実物大ドールハウスというか、いわゆるリカちゃんハウス的なものにどんどん作られ。

熊谷:はいはい。

伊村:そうですね。初めは、ここを部屋に見立てた展示だったということなんですね。

原:次は、フジタマさん。

熊谷:フジタマね、これ1回目はね(注:1997.7.29-8.3)、テレビの画面がこうあって? あ、テレビを担いでるの。

原:「テレビを担ぐ人」。

熊谷:1回目はテレビを担いで、何かサスペンスとかの音を流してたんかな。ここにまな板置いて玉ネギ切りながら、(指で「2」のサインを見せながら)200万って(笑)。こうしながら、玉ネギトントントントン(笑)。マイ包丁持ってて、もう、来た人は目が痛くなるってすごい目をやられて。本人がいる時は、もう床にも散らばるし、みたいな感じで、玉ネギ切ってて。最初の展覧会はそれで、2回目の時は(1999.8.31-9.5)、「イカとスイカ」という展覧会で、ここに畳を持ち込んで部屋を作って、四畳半の部屋で、テレビが欲しいんやけどなっていうから、テレビ買ったんです。モニターとテレビが両方に使えるのが、ちょうど出た時で、まだ2階にありますけど。じゃあ大きいテレビ、よう買わんよって言って、20インチモニターを。何でイカとスイカやねんって言ったら、それは随分勉強になったんですけどね、例えば、タコとレモンって言ったら、レモンのイメージってね、すごい決まってて、タコのイメージもスカッと決まってる。でも、「イカとスイカ」って言ったら、周りにあるものがスコンと落ちないやろって言うんですよ。なるほどーと思いましたね。「イカとスイカ」。

原:矛盾していますが。腑に落ちない、でもそれが腑に落ちたっていう(笑)。

熊谷:レモンっていったら爽やかとか、何かそのレモンのイメージが固まってしまってるって言うんですけどね、スイカも大概固まってるかなと思うんですけど(笑)。イカのぬいぐるみを着て、たこ焼きを焼くっていう(笑)、わけのわからん展覧会でしたけど、まあ面白かったです。

伊村:これはDVDも作られてますか。

熊谷:あのね、DVDは、民族学博物館の時の、まさると何とか、だったと思います。

原:はい、「ブリコラージュ展」の時の(注:「『きのうよりワクワクしてきた。』 ブリコラージュ・アート・ナウ 日常の冒険者たち」国立民族学博物館、2005.3.17-6.7、山下里加ほか企画)。

熊谷:「ブリコラージュ」の時、ね。
そして、藤浩志さんですね。藤さんは「ヤセ犬」の展覧会をやったんです。私はどうしても「ヤセ犬」が展示したくて、藤さんに、なああかんのあかんのって言ったら、はじめは断られてたんですけど、何でって言ったら、壊れるっていうことやったんですよ。そんないい木を使ってるんじゃないって、廃材で作ってるんですよね。だから壊れるからそれを直してとか言われたりするのが面倒だからっていうのが理由だったんですけど。私は、外国から帰ってきてね、しばらくの時で、お金を作ってあげたいと思ってたんです(笑)。それ売りましょうと言って、あんまり売りたくなかったんかもわからんけど、どうやったんやろねえ。結構買っていただきました。田中恒子さんもまとめて買って下さったし。その時、絵本も置いててね。彼が作った絵本だったのかなあ、あれ。カラスの言葉がわかるっていうんです。学校へ通う道すがら、カラスがその日によって違うことを言っている、でカラスの言葉がわかる絵本なんですけど、カラスの声の聴き方が変わりましたね。何か今日は誰やらが死んだ、とか言う。
そういうことで、やなぎみわさんは、今言ったように、「京都アートマップ」の時に大体重ねてやってるんです。やなぎさんの「案内嬢の部屋」を、これもまた、宗偏流の家元が買うと言って下さったんです。ほんとは、その中のひとつの作品が欲しかったんだけど、インスタレーションだから、インスタレーションとして売りたいということで、2年がかりぐらいで。《White Casket》というタイトルだったんで、箱に入れる。はじめこういうソーイングボックスをイメージしてたんですけど、最終的に引き出しが5つあるものになったんです、プラスティックの。一番下がライトボックスで、この4つの作品の画像のシートが入ってる。すごい重いんですけど、送って壊れたら困るし、風呂敷に包んで、鎌倉まで持って行ったんですよ。それで、開いて、お見せして、スイッチを入れたら、消えたんです。エッ一瞬で消えちゃったんです。電池でもなくなってんのかと思って、走り回ったけど、そうではなかったのね。それをまた、ほんとは、東京までチケット買ってて、鎌倉にそれを納めて東京へ行くつもりで、それを持って東京まで行ったんですけど、とてもその元気はないということに気づいて、そのまま東京から帰ってきて(笑)。家帰って量ったら、9キロあったんですね。横にあったビールのケースを量って、うん、この重さは私は持つのはやっぱり無理やわと思ったけど(笑)。それを市川靖史さんが修理してくれて、またやっぱり持って納めに行ったんです(笑)。とても怖くて送れない。というようなことも、ありました。
それから、寺嶋眞理さんって映像の作家なんですけど、造形大(京都造形芸術大学)にいて、(宮田さんは)よくご存知ですよね。映像インスタレーションもすごいインスタレーションをする人で、映像もね、すごいんですわ。何しろ、木下(長宏)先生ってね、車椅子の評論家の先生がおられたんですけど、洋式の棺桶を用意しまして、その中に放り込むシーンとか(笑)。

宮田:木下先生をですか(笑)。

熊谷:木下先生を(笑)。藤本由紀夫さんも、使われてましたね。

原:うん、あと、昔よく画廊回りをされていた、元中学校教師の方で、黙ってオープニングの日にいつも来られる、

熊谷:あ、はいはいはい。柏原孝昭さん。

原:柏原孝昭さんではなくて、もっと前に画廊をまわっておられた方も出演されていました。

熊谷:あ、そうですか。

原:普段から車椅子を使っておられる木下先生を、車椅子から転倒させてしまう(笑)、何かもうほんとに奇想天外な作品でしたね。

熊谷:そうですね。天井からプロジェクターで、グルグル回したり。どうして回してたんやろねえ、不思議な気がするけど。

原:シングルチャンネルの実験映像としての評価も非常に高かったんですけれども、それだけじゃなくて、空間を使った映像インスタレーション。

熊谷:そうです。

原:ベビーベッドが並んでるようなインスタレーション作品もあったんじゃないかな。

熊谷:うん、あらゆるものを持ち込みましたね。あの、その棺桶を持ち込んだのは彼女だけですね。それこそスモークも焚いたんですよ、映像を映すために。この空間でスモーク焚くんですよ。大変です。焚かないと映像が映らないのでまあ空中に映像があるようにしたかったんでしょうね。時々換気したりしながら、それでね、お化け屋敷って言われました。

伊村:まるで舞台装置みたいな感じ。

熊谷:舞台装置みたい、うん。暗幕でこう表も完全に閉鎖して、やって。で、バブルの最中でたまたま来た人が何か企画の話なんかしてたんかな。じゃあ、映画を作りたいって言って、スポンサーになって下さい。ウッカリ、いいですよみたいなことをその人が言っちゃった、社長じゃないのに。待てど暮らせどお金は来ないし、会社へ行ってみたら社長さんいたんです。で、その人もう辞めてたんです。でもあなた、元社員が約束したものを守って下さいと迫って、百万円。よく出してくれはったなあと思うけど、あんたも男でしょうみたいな感じで(笑)。百万出してもらって、それはあっけない使い方をして終わりでしたけど、彼女は。もう彼女にかかったら、湯水状態ですね。

原:タブーっていうのがないっていうか、どういうルートからか、ほんとの手術をしているところの撮影だったり、あるいは、食肉の解体の現場であったりとか、ちょっとこれはそれまでの人達が、男女を問わず、あまり撮影してこなかったようなものを、撮っていましたね。

熊谷:不思議やったねえ。

原:すごかったですね。ここにも、何か、漂うものがありましたね(笑)。気というか。

熊谷:うん、そうやねえ。地元の私のお友達なんかも、あの貴婦人みたいにして使ってたし。よく見てるなあと思って、不思議でしたけどねえ。どっからでもこう、これと思ったらしっかり押さえて持ってくるみたいな人でした。でも、「そんなにいっぱいお金使って長いものじゃなくても、俳句を見てみ、あの短くてもね、作れると思うのよね」みたいなことを散々言ったけど、まあ、自分の思うように作らないとやっぱり面白くないんですよね、作品って。

伊村:そうですね。それからサウンドアートですね、さっきユリウスの話もありましたけれど、ピーター・フォーゲル。

熊谷:ピーター・フォーゲルはですね、何でやったんかなあ(注:1994.12.6-18)。あ、そうだ、たまたま主人の知り合いの人が、階段のとことかエレベーターのところに点字が付いてますよね。あの仕事を始めてられたんで、そういうことが一番わかって、いろんな相談できるのは、やっぱりライトハウスか、そういうところだなあと思って、ギャラリーTOMへ行ったんですよ。そしたら、逆に、展覧会を勧められてしまって (笑)。村山知義の(息子さん)。

宮田:松濤にあるギャラリーTOMまで行ったということですか。

熊谷:はい、行ったんです。で、

宮田:岩崎(清)さんに?

熊谷:岩崎さんじゃなくて村山(治江)さん。村山さんに勧められてしまって、ああじゃあやりますか、みたいなことになって(笑)、ピーター・フォーゲルやったんです。でも、和歌山(のコレクション)に入れていただいたので、よかったと思いました、時間はかかりましたけど。

伊村:映像作品やサウンドインスタレーションも幅広く扱っていらした印象があるんですけど、それはその時々に出会った方からの紹介であったり、

熊谷:そうなんです。

伊村:ということが多かったんですね。

熊谷:うん成り行き任せにしてるとこうなるんですよね。私、自分で決めたことがあって、分け隔てしないで、立派な方とも、そうでない方とも、つきあいたいというのがあって、自分ができそうなことを頼まれるとイヤって言えない。受けちゃう。ひょっとしたらできるかもな、と思うと、受けちゃってますよね。
それで、一応、規約みたいにね、レンタルの時の紙には、中止になった時は半分もらっといて、それを返しませんみたいなの、書いてあるんですけど、実際には前もってお金もらったことないんですよ。中止になった時返せないわあと思って、もらってなくて、何年かもらわなくても中止になることはないってわかって。中止になったことは2、3回ありますけど、でもね、とてもね、お金下さいと言えないような事情ね、本人が病気になるとか、会社が潰れるとか、何かのアクシデントで。ほんとはやりたいけどできない事情の人に、お金下さいとはとても言えないので、結局一度ももらったことないし、断った展覧会は1個だけです。それは何かというと、大便を展示したいっておっしゃったんですよ。その写真ですね。できれば本物もっておっしゃったんですけど、まあ写真にせよ、クローズにしといて、見たい人だけが入ってくる分にはいいですよって言ったら、それじゃ意味がない、道行く人に見せたいっておっしゃったんです。それはね、すごく、気持ちはわかるんです。私も、何度も病院に家族が入院してたり、癌の人を看取ったりしたのでね。全部(大便に)結果が出ますよね、状況が。でも、今わかったんですけど、それはハラスメントになりかねないと思って、道行く人に見せるっていうのだけは、ちょっと無理ですって。だから、お断りしました。それ以外は断ってないです。

伊村:以前、開かれた展覧会を見て、もっと実験的なことができるんじゃないかっていうことで、相談に来る作家もいるわけですね。

熊谷:でしょうねえ。だから、コンドームまではしましたよ。それ、ずうっと、アクリルに挟んで、ずうっと展示されてたんです。2回目、もう1回それをするって言わはった時に、当時つきあってはった恋人みたいな人が、やめてくれっておっしゃってなくなりましたよ(笑)。それはそれでよかったんじゃないかと思いますけどね。それから、次は? 

伊村:ジェニファーさんとの出会い。

熊谷:その前に蔡(國強)さんですよね。

伊村:あ、そうですね。河口龍夫さんのご紹介で。

熊谷:河口龍夫さんから、蔡さんが日本に来られた時の話を聞いてました。というのは、蔡さんはアジア美術館であった、脱出口か、非日常、何やったかな。(注:「第3回アジア美術展 日常のなかの象徴性」1989.7.6-8.13を差すと思われる。福岡アジア美術館開館前の福岡市美術館で開催後、横浜美術館に巡回した。)

原:ちょっと覚えてないです。

熊谷:アジア美術館であった展覧会に招待されて、日本に見えるんですよ。日本に来るには受け入れ先が必要だったんです。それで、筑波、

原:筑波大学。筑波大学の学生になる前の話ですか。

熊谷:うん。河口龍夫さんの学生になることで、日本に住まれることになるんですけど、その申し込まれた時に、断ったって言うんですよ、一度。ご夫妻で見えて、学生になりたいという話をされた時に、断ったら、奥さんがポロッと涙を流されたと。それで断れなかったって(笑)。

宮田:河口さんが。

熊谷:奥さんの名前も紅の虹って書くんですね。そんなことを聞いてて、京都遷都二千年記念か何かのイベント(注:「長安からのお祝い−−平安建都1200年のためのプロジェクト」1994年)をされた時に、(蔡さんが)京都へ来られてて、その時に京都の市役所前のロイヤルホテルでお会いして、ご相談したんですね。それでお願いすることになったんです。ヨハネスブルグ・ビエンナーレから、帰って来られた時で、《地球に梯子を上げる》かな、と、<神話−−射日>っていう、ある時、10個の太陽が出て、地球を焼き滅ぼすので、9個までを弓の名人に命じて撃ち落とさせたという神話に基づいた作品だったんですけど、本当は神話も中国では、文化大革命の時に破壊されたものなんですよね。それを保存してあって残ったっていうようなものだったんです。地球温暖化とかけた作品でした(注:1995.4.4-23)。その後ニューヨークに行かれたんですけどね。

宮田:その時の蔡さんの作品は日本で制作されたものだったのですか。

熊谷:こちらのはヨハネスブルグ・ビエンナーレのためのはしごの、その後、一昨年ぐらいに実現されてますけどね。映像で見るとずうっとこう燃えて上がっていく、それのドローイングですね。それから、

伊村:その蔡さんのご紹介で、ジェニファー・ウェン・マさんと会う。

熊谷:そうですね。ジェニファーさんは30周年記念にお願いしました(注:2011.4.5-5.1)。それは、この時に蔡さんと話してて、「日本人はどうしてあんな十年刻みで、何十年代って言うんだろうねえって。中国は百年だよ」って言われたんです(笑)。それは私はすごいショックで、これは中国のことをもう少し勉強した方がいいかなってその時思ってたんです。すごいスケールの違う国だなあと思って。まあそれだけでもないと思いますけどね。それで30周年の時に、やっぱりもう少し知りたいと思って、たまたま蔡さんの作品買っていただいて、トイレも直して、まだあったので、彼女を招聘して打ち合わせをして、準備を整えて展覧会、直前に(東日本大)震災がありました。みんながこう帰っていく中で、来いと言うわけにはいかなくて、彼女は来れないんだけど、もう物が全部揃ってしまってて…… まだ長くなってますねえ。この、桜とか、花屋さんに注文して、鉢もこの展覧会のために用意してくれてたし、この箱もできてて、この石は、息子が見つけて、どれがいいですかっていって聞いて、この石のここをこう彫ってっていうのも彫ってたんです。息子が彫ったんですけどね。それで、もう、やるかやめるか。でも、再生のイメージだから、やるしかない。桜を一旦、墨で全部真っ黒に塗ってるんですよ。やっぱり桜は弾くんです、墨がうまくつかない、でも塗っててっていうような感じです。それで、やって。この石は、東長寺が買って下さった。奥さんとお嬢さんと見に来て下さって。昔は東長寺がP3(注:オルタナティヴスペース、P3 art and environment、東京)のパトロンで。桜もいろんな人が買って下さって、それを京都新聞社を通して震災の復興に寄付したんです。何と、百万円。でまあ、どうにかそれはクリアしました。で、次何でしたっけ。

宮田:田村画廊。

熊谷:田村画廊。あの『田村画廊ノート』(山岸信郎著、2013年、竹内精美堂)を見て、副題が「アホの一生」って付いてるんですよね。何か身に(笑)、この人はアホじゃなかったと思いますけど、身につまされて、損得尽くじゃできない仕事だなあと思って、そういう意味に、私はとって。検証したいと思って、お誘いして、で、展覧会できてよかったと思いますけどね。何か検証になって。

伊村:そうですね、この竹内博さんが『田村画廊ノート』っていう本を出されて。

熊谷:そうそう。

伊村:竹内さんがこの企画を持っていらっしゃったんでしょうか。

熊谷:いや、全然。

伊村:そういうわけではないんですか。

熊谷:うん。たまたま本の宣伝が来たのかな、それでお誘いしました。

伊村:そうなんですね。

熊谷:形が無いわけで、どうしたら実現できるかというのをふたりで相談して、写真はともかく用意しましょうって。お借りするだけですよ。安齊(重男)さんに。でも、焼いてもらわないといけなかったからね。お金あってよかったと思います。その値打ちはあったような気がします。何よりも、見に来て下さった方がみんな喜んで下さったからね(笑)、それでよかったんじゃないかと思います。

宮田:東京の方面からも来られたんですか。

熊谷:たくさん見えてましたねえ。あんなにねえ、ビールが捌けたオープニングは初めて。大方ビールなんですけど、ワインもあらゆる、ありったけのお酒を出して、手伝ってもらってたスタッフの人が、お酒が無いんですけど、何か買ってきましょうか。もういい、もういい(笑)。だから、時代とか作家によってね、随分違いますね。

伊村:田村画廊って伝説的な画廊ですよね、60年代後半は「もの派」の作家達が活動したりして。神田には当時、いろんなギャラリーがあったんですけど、みんな最後はそこに集まってきてお酒を飲んだっていう話を。

熊谷:そういうことか。

伊村:本にも書かれてましたけど。そういうふうに、画廊を偲ぶということと重なってたんじゃないかと思いましたけど(笑)。

熊谷:あ〜なるほど、何かやっと合点がいった気がする。一番飲んでた方は亡くなられたんですよ、こないだね。それは楽しかったですねえ(笑)。やっぱり、何となくみんなオーナーの山岸(信郎)さんは、常に画廊の作家達を見ててね、お声がけしたり、いろいろされてたんだなあって思いましたね。
そして、次が……事業内容ね。そうそう、建築空間に納めるような仕事も、いろんな方がなさってて、うちも、ちょこちょこさせていただいてますね。それは作家を育むことにもなりますし。やっぱり、例えば(すでに)あるものを仕入れて並べるっていうようなことをやらないんですね。その空間に合わせて作品を作ってもらう場合が多いので、その中で育つ部分もありますし、それはそれで、いろんな意味でよかったと思いますね。

伊村:そういう場合には、熊谷さんは作家を担当者に紹介するというような関わり方ですか。

熊谷:そうですね、こういう作品を探してるっていっても、ここにこんな作品が欲しいって思っても、パッとはあるわけがないので、傾向がずれると、もう全然どうにもならないし。まあ先方の方は結構見て回ってらっしゃるんですけど、こういう作品ないですかって言われると、そういう作家なり作品をご紹介したりしますね。幾分か、まあ私の方が見ているということもありますし。1回なんか、設計者に3メーター角の壁に、2メーター角の赤の抽象が欲しいって言われて、

宮田:すごい具体的(笑)。

熊谷:そんなこと言われてもって思ってたんだけど、ふと、谷本天志さんの作品で昔、(ギャラリー)そわかで見たような気がすると思って。そしたら、ピッタリの作品があって、納めたんですけど、安かったんですけど、その後すぐそこ無くなっちゃって。

原:建物ですか。

熊谷:結構無くなるとこありますよ。それは姫路のテレビ工場だったんですけど。すぐ撤退しました。で、東芝の摂津本山の社屋、そこにも、井田照一さんの作品、インスタレーションを、横10メートル、縦10メートル。

原:ええ、ミュージアム・ピースというか。

熊谷:奥行き2メーター70の、私が取ったんですよ。それこそ、競合したのは、東京のあそこでしたけど……、フラムさんだ。アートフロントと競合して、私が取ったんですけど、どんどん規模が大きくなってそうなったんですよ。それで、もうそれを作るのに、大塚オーミに代わってもらいました。

原:その建物が無くなってしまったという。

熊谷:建物あるかないかわかんない。行ってないんで、企業が撤退したんです。

原:東京大学の食堂にあった宇佐美(圭司)先生の作品じゃないけども。

熊谷:ああそうそう。なりかねない。

原:もう作品自体がどこに行ったかわからなくなるっていうことは、今おっしゃったような大企業の場合はわかんないですけど、バブルの時は、ほんとにたくさんそういう話がありました。コミッションワークというか、空間のインテリアとして、壁紙を頼むように発注されるようなことも、バブルの時にはありましたね。

熊谷:そう。

原:同世代の作家達も悲しい思いをした人も多かったです。自分としてはアートワークとして作ったのに、それが次に行ったらまったく違う店になっていて、当然作品はどこにもないっていう話を頻繁に耳にしました。

熊谷:そうですよね。堀尾さんの作品も、襖66枚っていうので、普通の人には頼めんわと思って、予算は極小やし。堀尾さん、いいの作ってくれたんですけど、楠荘の結婚式場(京都楠華殿)だったんですけど、大広間と廊下。知らない間になくなってました。知ってたらもらってたけど、気がついた時はもう。すぐ近くやのに。ここにも、本にも載ってますけどね(注:『堀尾貞治80年代の仕事』pp. 136-137)。何かよくあれ通ったなあと思う感じですけど。4枚並べといて、目をつぶってこう墨を付けてこうしたのとか、襖に1本ずつ、道具を替えて、太い線から細い線になっていくのとか(注:《4本の縦棒・道具と表現》1984年、p.137)。廊下側は光とか雲、五大要素かな、それは良かったですけどね(注:大襖絵《四季》《山》《川》《空》《雲》《光》《風》1984年9月)。

原:じゃあ、作品が納まるというのは、うれしいことでもあるけれども、まあそういうこともあったのですね。

熊谷:そうです。

原:美術館のようなかたちでそこに収蔵されて管理されるっていうことはないのですか。

熊谷:なかなかパーマネントにはならない。

伊村:そういう作品の写真や記録というのは残ってるんでしょうか。

熊谷:ある程度はね。福岡道雄さんも初期のコンクリートの作品、無くなったって。壊してるよって言われて、駆けつけた時は遅かったって聞きました(注:1960年に建築家の片倉健雄の依頼で制作し枚方市庁舎中庭に設置したモニュメント《奇蹟の庭・NO.6》が1970年代に告知なく撤去された)。

原:建物ができた時とかだと竣工写真とか、写真としては残ってる場合も。

熊谷:残っているものも、残っていないものも、ありますね。

伊村:次に、取引先については、差し支えのない範囲で、ですけれども。

熊谷:はい。そうですね、いろいろ、他にも一時、アートスペース部というのがあって、そこを出入り自由にしてもらってたことあるけど、何か大して仕事してないですね。あ、石を納めたことか。7階建てのビルの中庭を作ったんだけど、日が差さないから植物はダメって言われたんで、枯山水にするから山口牧生さんの石をっていうので納めに行ったんだけど。7階建てで、クレーンで真ん中に(笑)。予算が突然半分になって、300万から150とかになって、石1個しか無理ですということになったら、どう考えてもそれ成立しないって山口先生が1個これを付けて下さいっておっしゃったんですよ。さあ困ったと思って、まさかこれをタダでもらわれるようなことはないでしょうねって言ったら(笑)、そのオープニングに先生を招かれるっていうので、まとまった額を包んでお渡しになったようです。まあ、いろんなことがありました。そこライカの隣の、ビルかなんかでしたけどね。まあほんまにバブルの弾けかけぐらいの時じゃないかな。

原:南港。

熊谷:南港。まあまあ、いろんなことがありましたね。長崎プリンスはもう、プリンスホテルがなくなったみたいで、代替わりしたのかもわからないですけどね。ていうようなことがありました。

伊村:プリンスにはそういう、建物の中に彫刻作品を置くとか、絵画を置くっていうことはわりとよくあったと思うんですけど、そこで、納めた作品というのはかなりたくさんあったんですか。

熊谷:大したことはないです。私の手がけた作品なんかは知れてます。ちょこっと、ちょこっとですね。お声がけいただいて、私が応えられる場合には応えなければいけない、みたいな感じでやってただけで、自分から営業をまったくしてないので。まあ美術館もこれ随分昔の話ですよ。やなぎさんとか、ヤノベさんのタンクとか、最近は全然です。次は。

伊村:そうですね。既にお話いただいた部分もあるんですけれども、カタログの出版ですね。それから、いろんな方に、特に、誰に寄稿してもらうかっていうことによって、その作品の評価を作っていくっていう部分がすごく印象的なんですけれども。

熊谷:そうでしょうねえ、ほんとはそこをもっとよく考えないといけないんですけど、実はそこは、ヤノベさんの時以外はいい加減ですね。ヤノベさんの時は、もう、ドイツへ行くというのがわかってたんで、外国でどこの馬の骨みたいな扱いをされては困るというのがすごいあって、で、建畠(晢)さんが一番長く、あのタンクに20分入って出てこなかったので(笑)、建畠さんなら、ヨーロッパの人も名前知ってると思って、建畠さんにお願いしたんです。でも他の場合は、まあ、作家との相性とか、ですね。

原:作品をよく知っておられる。

熊谷:そう。あの、理解していただけてるかみたいなことで、この孫さんの場合(『孫雅由作品集 色波動/身体・物質・宇宙』光彬社出版、1997年、119ページ)は、孫さんが島本(浣)先生をどうしても、って言いましたね。

原:孫さんからのリクエストで。

熊谷:孫さんからのリクエストで、この、アジア美の時は、一番早くに孫さんの作品を美術館に入れて下さったのが中井(康之)さんだったんです。それで、中井さんわかっていただいてると思って。

伊村:作家からリクエストがある場合もあれば、熊谷さんの方からこの方もっていう。

熊谷:この方どうですかっていう場合が多いかな、はい。何となく、ていうたらあかんのかな。

伊村:大体の方はもう、ギャラリーを訪ねて来て、面識のある方ということなんですか。

熊谷:基本は、作品を見て下さってる、ということですね。それから、宮永さんの時なんかも、篠原先生が見て下さってたから、篠原先生。原稿料があんまり払えないので、お茶碗を箱に入れて、お持ちしたら、「トレビアーン」って言って下さいました。よかった、みたいな。薄謝ですねえ、うちね。

伊村:それと、先程もお話のあったことの続きですけど、DMや書籍などの印刷物を最初の頃から作っていらして、そこから作家がウェブサイトを始める時期があったと思うんですね。画廊のウェブサイトを始められたのはいつだったんでしょうか。

熊谷:これ(質問リストを)見てね、いつだなと思ってたんですけど、忘れました。

原:最初は、いろんな、コンピューター周りのことをサポートして下さってたご近所の方とかいらっしゃると思うんですけど。

熊谷:はい。コンピューターを始めて、でもねウェブサイト作る時には、バイリンガルでバリバリのものを作らないかんと思い込んでたんです。で、(Adobeの)イラストレーターは、中島昭文さんという、サウンドアーティストがご近所におられて、その方に教えていただいたんです。1時間ぐらいで1万円とかちゃんとお月謝も払って。でも、それより前には、吹田君に、一番にソフトは買うもんやと、なるほどそうです。その頃はみんな、もうソフト買わずに、作家同士や何か、適当に。こういうとこは買うもんやって言われて、はあそうですかと、思いましたね。で、それまでに100の150の力のないパワーブックで始めた頃に、京都の五条のリサーチパークで働いてた、京大の方が、今に世の中は変わる、インターネットというものがあってって、こういうもんやって、見せようと思うんやけど、つながってないから見せられないって(笑)。いうような時があって、はあそうですか、変わるんですかっていうのだけは、早くから知ってて。この電話からFAXになったように、次はインターネットになるというのはわかっていたし、この逆戻りはないって思ってたんです。なので、わりと早くにインターネットも引きましたし、ホームページはガンガンに作ろうと思ってて、ある時、検索してる自分に気づきました。検索してもウチは出てこないってことは、この世にないっていうのと一緒なんやな、と思った途端、これはアカンと思って、フジタマに頼んで。

伊村:そうだったんですね。

熊谷:はい、ホームページを作るようになって、安ーいので、半年ごとに支払ってたんですけど、一昨年の秋ぐらいに自主的に値上げをして(笑)、自分で作る、自分で何かするって言ったんですよ。そしたら、松本尚ちゃん(注:2004、06-08、11、13、17年に個展開催)にそんなんやめときって、子供もできたことやし、あそこを値上げした方がいいよって、じゃあそうしますって、言うても知れてますけど。で、終わったので、そこからの更新は全くしてないです。何かしないといけないのかもわからないけど、今、自分の中での整理、この整理がついてないので、いずれ何かするかも、状態です。

伊村:コンピューターを導入することで画廊の業務は変化しましたか。軽減されましたか。

熊谷:軽減は全然してませんねえ。むしろ、縛られることの方が多くなりましたねえ。

伊村:ほとんどの作家とのやり取りはメールに変わった時期が。

熊谷:変わりましたねえ。

伊村:あったということですね。2000年代入ってから。

熊谷:作家とも、うん、いつかまたそれもちゃんと調べとかないとダメですねえ。わりと早いと思う。ほら、画廊さんとかスタッフいるじゃないですか。私全部自分、直(じか)なので、それで、案内状の発送も全部自分でやってるんですよね。最後の方、950ぐらいまで行ったんですけど、3週間に1回ね、封筒に詰めて、宛名ラベル貼って切手貼ってって、結構な内職。内職で鍛えた腕なので、できたと思います。 伊達伸明さんの話が抜けていることに気がついたんですが、これは、傑作でした。これ、(大阪の)フェスティバルホールの(建材)。いろんなとこのウクレレ作ったんですけど、フェスティバルホールがなくなる、建て替えというので、じゃあ聞いてみようっていって、フェスティバルホールは朝日新聞社と関係があるというのがわかったんで、昔朝日新聞で来られてた浅野稔さんっていう人に、お電話しましたら、ストライクゾーンだったんですよね。話トントン拍子に、ウクレレは作ることになったんですけど、記念品も作りますかということになって、記念品作ったのが、これなんですけど、私が何か、

宮田:開けちゃって、

熊谷:うんいいんです。

原:それは、フェスティバルホールの開館記念。

熊谷:建て替えの開館の記念品として作ったんですよ。ところが、あるひとりの人が、「新しい開館やのに、古いのを配らん方がええ」って言わはった一言で、これは配られなかった。

一同:えーっ。

熊谷:でももう。

原:お蔵入り。

熊谷:お蔵入りかなんかわかんないけど、これは、エントランス、階段ですね、前のホール。で、地下からの入口のドア。

宮田:凝ってますねえ。すごい。

熊谷:開けると中のエントランスで、でここに謂われが書いてありまして、中なんです。

原:でホールが。

熊谷:それで、これ押すと、開演5分前のベルが鳴るんですけど、ちょっと電池がなくなって鳴らないんです。

伊村:凝ってますねえ。

熊谷:これが、ほんとのあそこのホールの板なんです。

原:エッ!

熊谷:本物なんですよ。有名な反響板なんです、舞台の後ろの。有名な演奏家達がサインしてるんですね。その辺は残しはったんですけど、それでも余った部分を使って。

宮田:ええー。これ何個。

熊谷:2千個作ったんです。これ1枚の紙から実はできてまして。これを、何か折り癖を付けて、伊達さんに送ったら、これを組み込んで、私に送り返す。でそれをまた私が梱包するっていうのをやってたんです。いやあ長くなっちゃった、まずいなあ。ごめんなさい、はい。

原:なんとなんと。

宮田:ちょっと無理です、これは。

熊谷:それで、この時初めて、いろんな材料も買ったりしたけど、伊達さん、初めて私儲けさせてもらったわって言ったの(笑)。全部折半したんです。余った材料もお金も全部折半したら、熊谷さんでもこれ内職代に換算したら似たようなもん違いますかって言われて(笑)、面白かった。もう伊達さんの仕事すごい紹介しにくいので、はじめね、これで考えてたんですよ。B5のこれの裏表印刷して、それでいくらって計算して。そしたら、こんなんがあるから、あ、裏の画像もいるんや、やっぱりこれぐらいいるんやっていうのがわかって、予算が一気に倍になって、これは実はコピーなんです。もう何度も実現不可能みたいな時があって。おまけを付けようっていうので、息を吹き返した。これ、おうちの形なんですけど、これをバラすとウクレレになる、パズル、なんです。これも一応バイリンガルにしてる偉いなあって(笑)。もうほとんどないんですよ。

伊村:展覧会だけではなくてその作品をどう伝えるかって、あらゆる手段を考えて。

熊谷:そうですねえ。

伊村:こういう印刷物を使ってこのパッケージで見せるっていうこと。

熊谷:そう、お金が全然足りなくって、要するに、助成とかでやってるんじゃないので、お金なくなるんですよね。そしたら、たまたま、法然院の和尚さんが、話をしないかみたいな言ってはったんやけど、いや私話はしませんといって断ってて、何か、頼んでもいいような雰囲気やったんで、実はお金が足りないんですって言ったら、いくら? って言われて、いや、10万ぐらい足りないんですけど(笑)って言って出してもらった。これも、無事に完成しました。これも伊達さんのデザインです、全部。

伊村:ありがとうございました。最後に、全体をまとめるような質問になっちゃいますけど、この36年の間に、アートスペース虹の果たす役割や、期待される役割は変化したと思われますか。

熊谷:うん…… 何にも期待されてないと思ってるんですけどね。何か、人間が生きていくみたいに、勝手に生まれてきて、画廊も勝手に始めて、勝手に死んでいくみたいな、感じでいて。その…… 求められたこと、求められるであろうことに、必死で応えてる間に時間が経っていったみたいな感じで、うん。だんだんやりやすくはなってた気はしますけどね、でも、多分、体力的にも、こっから先を続ける自信はなかったんだなと思いますね。変わっていく、ほんとにドキドキするような作家がどんどん出てくるかというと、なかなか難しい気がしました。

伊村:やりやすくなってきたって感じられたのは。

熊谷:こっちが思うことを、こういうのができませんかって言ったら、それをわりとこう、相手も思ってるぐらいのバランスがね、取れてきてたかなあと思うんですけど。何かやっぱり、展覧会お願いしても、その浅野先生みたいに、最初の頃はね、無理がありましたけど、でもまあたまたま浅野先生は、京都が好きで、フェイスブックにも書きましたけど、何か私も、父が生きてたらこんな感じかなあと。性格は違いますけど、でも親子ってこんなもんなのかなあと思ったように、先生も何かちょっと気にかけて下さってた気がしますし、いつもいい作品を出して下さったんです。それで、私も、途中から作品をお借りしないといけないような時は、自分で行って、自分で持って帰るようなことしてましたけど、もう主人に笑われましたけどね。夏に冷や奴を食べさせたくて、お豆腐を持って行くって、クーラーに詰めてお豆腐、笑われましたけど、持って行ったら、それこそ、鰻どんぶりをご馳走して下さったり、台所に自ら立ってね、ステーキを焼いて下さったりしてたので、いい関係でしたけどね。そうですね、やっぱり、人も来て下さるようになってましたし、最後は人に恵まれてね、幸せな画廊だと思います。

伊村:浅野さんだけでなくて多分いろんな作家にとって、たくさん思い出があるんだと思います。それはもちろん、ここで全て聞くことができないんですけれど、今回こういうインタビューというかたちで、全体のお話をひととおりお聞きできたことで、もしかしたら次の作家達につながってくところがあればと改めて思いました。

熊谷:(笑)。

伊村:もうひとつ、原さんが質問に入れて下さってたんですけれど、アートスペース虹の運営を継続したいという人が現れたら、譲ることを考えましたか。

熊谷:もし、続けたいっていう方がおられたら、名前もお渡ししますし、作家達への引き継ぎも、こう相手がどう言うかはわからないですけど、芳名録というか住所録も全部お渡ししますし、できる限りのサポートはするつもりですけど、この場所でっていうのが、難しいんですよね。やめて、やっぱりああここはお玄関だったんだなあと思いますね。家族を裏口から出入りさせてたわけで、何かねえ。なので、本当は手伝いたい気持ちは山々あります。ただこの場所っていうのがね、難しい。後は、経済的に私がこう、資金を持ってて、お出しできたらいいけど、ほんとに無いですからねえ。あれだけいろんなことをしてて、最後の展覧会でも随分買っていただいたりしたのに、画廊の現銀で残ったのが、30万ぐらい。ひとつには、続けていたら、運営経費が2、30万いるんですよね、何もしてなくても。それがきっと払えなくなるぞっていうのも、ありました。そんな順調に、儲かるような作品をバンバン売ってたらあれですけど、やっと売れるようになったらこうどっかへ、上納してるわけで(笑)。でもそれで、残念に思った時もありますけど、途中からは、あ、私には、そういう、生き生きと、若い人が成長するそばにいること自身が幸せだなあと思いましたね。後は、続けていくしかないわけで、それはやっぱり苦労も伴いますし、そこも人に任せてでも、その、海の物とも山の物ともわからん人と付き合ってることに意味を見つけてたんだなあと思いました。いいでしょうか。

伊村:はい、何か追加の質問があればお願いします。

宮田:アートスペース虹のネーミングの理由を。

熊谷:ネーミングの理由ね。ふた文字がいいって主人はグラフィックデザイナーですから、言ったんですよね。それで、私、虹って言ったんですけど、(画廊)紅さんっていうのがあって、紅っていいなあと言ったけどもうあるし。じゃあ虹って言ったら、そんな喫茶店みたいな名前はダメだって言ったんですよ。それで、主人はピーマンと言って私は韮と言って、韮って花も美しいし、左右対称の縦と横だけの字なんですよ。で韮がいいって言ったら、そんなのあかんと2人とも、やっぱり初個展ピーマンとか、初個展韮とか、ちょっと気の毒やなあって言って(笑)、結局「アートスペース虹」になったんですけど、まあ、宗教的には契約も虹だけど、希望みたいなものが、私にとってはメインです。消えても、すがすがしい、心に残るような、イメージが、ずっとそこにあり続けるのがいいなあと、思っておりました。

宮田:じゃあそれを引き継がれて今、「虹の事務所」も虹。

熊谷:どうせ、みんな虹としか言わない。

宮田:そうですね(笑)。「虹に行った?」って。

熊谷:それと、文字通り、事務もねえ、まだ何もしてないですけどねえ。お片付けの事務作業。事務所を残せ残せってすごく言って下さって、それでほんとはもっと理想的な事務所ですよ、おっしゃってるのは。そうなってないだけで。一応、残すことで、皆さん安心して下さればいいなあみたいな(笑)。まあ来たい時に行ってもいいのみたいなこともちょこちょこ聞かれるし、いいですよみたいな部分を残した方がいいかなみたいな。お世話になって今日までやってきたので。っていうような、いい加減な気持ちです。

伊村:今日は長時間にわたり、ありがとうございました。



〈アートスペース虹刊行物リスト〉 インタヴュー実施前に、熊谷が閉廊後に京都芸術センターに寄贈したアートスペース虹刊行物を調査した。リストでは発行情報がアートスペース虹のみの場合は省略した。

『ひろば』228号(近畿建築士会協議会、1983年4月)
『ひろば』249号(近畿建築士会協議会、1985年1月)
アートスペース虹、熊谷寿美子(企画・編集)『礒村の仕事 現代建築と伝統技術』(礒村浩之亮、1987年)
『山口牧生』(galerie16、アートスペース虹、1988年)
アートスペース虹(企画)『アガタモザイクの仕事 現代建築と伝統技術』(アガタモザイク、藤田雄彦、1988年) 『MACHI-AI : The Waiting Space』1989年
アートスペース虹、熊谷寿美子(企画)『石野瓦工業の仕事 現代建築と伝統技術』(石野瓦工業株式会社、石野欣延、1989年)
『長野久人』[1989年]
『時の器』1990年
『Rolf Julius』1991年
『河口龍夫 関係―鳥』1992年
『OKADA TAKESHI SOLO EXHIBITION』1992年
『モーリ・メイソン』1992年
『家住利男』1992年
『ヤノベケンジ』1994年
『ピーター・フォーゲル展』1994年
『福岡道雄』1997年
孫雅由(著)、アートスペース虹(制作協力)『孫雅由作品集:色波動/身体・物質・宇宙』(光琳社、1997年)
『森本紀久子』1998年
『孫雅由新作展:光と大気 コバルトブルー&レモンイエロー』2000年
『伊庭靖子』2001年
『小名木陽一』2002年
『赤崎みま 冬のオリーブ』2003年
『ひらいゆう』2004年
『伊達伸明 建築物ウクレレ化保存計画』2004年
『人長果月 宮永愛子 非在の庭』2005年
折元立身(著)、アートスペース虹(制作)『折元立身の仕事』(青幻舎、2007年)
『石塚源太 wonderment 非在の庭』2010年
『吉岡千尋 ガラスのライオン 非在の庭』2010年
『ジェニファー・ウェン・マ 浪―墨春』2011年