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桑山忠明オーラル・ヒストリー 2009年2月11日

ニューヨーク、桑山忠明スタジオにて
インタヴュアー:富井玲子、池上裕子
書き起こし:礒谷有亮
公開日:2009年8月30日
 
桑山忠明(くわやま・ただあき 1932年〜)
美術家(絵画、彫刻、インスタレーション)
東京藝術大学で日本画を学んだ後、1958年に渡米し、以後ニューヨーク在住。1961年にグリーン・ギャラリーでデビュー、絵画概念の解体につながる色面による制作はミニマル絵画の嚆矢となり、1966年グッゲンハイム美術館で開催された「システミック・ペインティング」展などに招待されるなど、欧米で高い評価を受けた。日本画の技法から出発して、アクリル、自家製紙テープ、メタリック・ペイントやスプレー・ペイント、また金属箔やクローム、アルミのフレームによる画面分割など、作家独自の「材料」へのこだわりを通じて作品展開を語ってくれた。また、アートを「もっとオープンに見られないか」という発想から、展示室の空間まで含めた体験としての作品をめざしていることが寡黙な口調のうちに感じられる。

富井:お生まれは1932年に名古屋という形で、聞いてるんですけれども。

桑山:そうですね。

富井:名古屋のどこですか。

桑山:市内です。名古屋の中区です。

富井:ご両親はどういうバックグラウンドの方だったんでしょうか。ご職業というか。

桑山:なんて言うのかな。(しばらく考えて)神様に関したこと(笑)。そういう仕事なんです。

富井:宗教?

桑山:宗教じゃなくて。宗教の容れものを作る。神社(じんしゃ)仏閣。仏閣じゃなくて神社の方。

富井:じゃあ日本語で言うと……

池上:宮大工さんですか。

桑山:大工、じゃないんだけど。そういう仕事なの。大工はまあいっぱいいて。こう神社を建てるっていう。

富井:ちなみにどんなものを建てられたんですか。もしご存知でしたら。

桑山:いろんな神社建てたんだと思う。僕はよく知らないけど。(注:インタヴュー後の会話の中で、神棚や結婚式の祭壇、神道関係の道具などを一式作っていた、という説明があった。富井による補足)

富井:お母様は。

桑山:ワイフ(笑)。いわゆるハウスワイフ。

富井:じゃあ、美術というか建築との関わりっていうものは、子どもの時から(あった)。

桑山:別に関係ないです。

富井:あんまり関係ないですか。ご両親のほかにご兄弟とか、親類の方とかでアートに関わっていた方、っていうのはいらっしゃいますか。

桑山:僕の周りに?

富井:ええ、周囲に。

桑山:いないです。

富井:じゃあ桑山さんが美術というか、芸術とか、そういうものに関心を持たれるようになった(きっかけ)というのは。たとえば絵描きさんですと、子どもの時からお絵描き上手だった、みたいなそういうことはよく聞いたりするんですけれども、桑山さんの場合はどうでしたか。

桑山:好きだったですよね。

富井:お絵描き。

桑山:絵を描くのが。

富井:よく赤瀬川(原平)さんなんかだと、なんかもう近所の人がみんなお絵描き上手だ、っていうのを知ってた、とかね。そういうことがあるんですけども。お絵描き天才(だった)みたいなところを面白おかしく語りますけれども(笑)。

桑山:いや、それほどでもなかった(笑)。

富井:基本的にはお絵描きですと、クレパスとかそういうものを、メディウムとしては。水彩?

桑山:そうでしょうね。中学の頃は水彩ですよね。

富井:油彩はいかがでした。

桑山:それは、やんなかったです。

富井:最初にそうしたらアーティストになろうか、という形で考えるようになったのはいつごろになりますか。

桑山:まあ芸大に入ってからですね。

富井:えっ。芸大に入ってから(笑)。

桑山:ええ(笑)。

富井:じゃあ、どうして芸大に行かれたんですか、という質問になってしまいますね(笑)。

桑山:あれは世の中を知らないから行ったんだと思う。

富井:そうなんですか。

桑山:それと、やっぱりチャレンジみたいなのあるでしょう。ただそんなことだったと思う。でも、絵描きにはとてもなれない、と思った。

富井:日本画科でしたよね、確か。

桑山:ええ。

富井:日本画科ですと、一応やっぱりデッサンとかあるわけですか。試験に。

桑山:ありますね。ありました。

富井:じゃあ一応芸大だから、パスしたっていうのはそれなりの技術をお持ちだったということですか。

桑山:まあ、そうなんだろうねえ。

富井:じゃあ別にこういう美術展を見て感銘を受けたとか、中学、高校の頃に。

桑山:そういうんじゃないと思うんです。僕のは。

富井:じゃあチャレンジとして。

桑山:うん。それにね、そういうアートやる、っていう人が行く学校じゃなかったわけ。

富井:芸大が?

桑山:ノーノー。僕の高校も、中学も。

富井:普通の高校という意味ですか。

桑山:ええ。それに上手な人がいたんですよ、クラスでも。油を描けるような人。僕はそういうのできないし(笑)。ただ、先生は僕のことをよく言ってくれたね、いつも。

富井:美術の先生ですか。

桑山:美術の先生。

富井:それは高校の時の。

桑山:中学の時の。だけど、自分ではそんなことは思ってなかった。

富井:じゃあ他の、普通だと文系か理系かとか、そういう形でみんな進路分けていくのかな、と思うんですけども、全くそういうことなしに芸大、みたいな感じに。

桑山:でしょうねえ。高校3年になるまでそんな受ける気なかったの(笑)。

富井:なるほど(笑)。で、芸大行かれたわけですけども、それはやっぱり一応東京の芸大が一番、ということで。

桑山:そうですね。他はどこも受けなかったんで。

富井:日本画科に進まれたのはひょっとすると、油絵はできないから、とかそういうことですか。

桑山:高校の時にね、(絵の)先生に付いてたわけ、学校とは別に。というのはあの頃、うちの家庭として、お茶を習うとか、生け花をするとか、兄弟みなやってたわけ。それは嫌だったから(笑)。それだったら絵を習った方が(いい)。どうせ何かしないと、世の中が良くなかった頃でしょ。だからなんか「学校終わってから、ちょっとそういうことをした方がいい」、っていうことを言われた。だったら日本画の墨絵をしたいと思った。

富井:名古屋の方。

桑山:僕の友達のね、表具屋があるんですよね。その表具屋の人に聞いてみたわけ。「誰か日本画でも教えてくれる人いないか」って。日展の人だったんですけどね。その人が週に一回教えてくれた。で、通ったわけ。

富井:それは何年ぐらい。

桑山:高校の3年生の時。だけど「付けたて」ですよ。「付けたて」ってあの、墨でシュッシュッって描くのがあるでしょ。あれを習ったの。

富井:ご兄弟は何人ぐらいいらっしゃったんですか。

桑山:兄弟はね、僕を含めて9人。

富井:えっ。大家族ですね。

桑山:大家族なんです。

富井:桑山さん、下の方ですか。

桑山:下の方です(笑)。

富井:今のお話を聞いてると(笑)。じゃあ、ご家族でそれだけ皆さんお茶習うなり、お花習うなり、っていったら結構な、ある程度のおうち、みたいなことになりますよね。

桑山:もう厳しいですよね(笑)。

富井:ねえ(笑)。

桑山:それだけ人間がいたんだから。

富井:そうですよね。

桑山:女の方は、琴をやってましたよね。それから、お茶と花、っての。僕の兄は、やっぱり、花とお茶をやったのかな。そういうことをした。

富井:その道に進まれた方というのはいらっしゃるんですか。

桑山:それはいない。ただ、そのぐらいはしなきゃいけない、ってあるでしょ。

富井:ええ、たしなみ(笑)。

桑山:そうそう(笑)。

富井:それで芸大の日本画科ということで。

桑山:そうなんですよ。その先生が日本画家だったからね。

富井:表具屋さんっていうのは。

桑山:表具屋さんっていうのは、軸とか襖を作ったりする人。日本画と関係がある職業の人です。

富井:そうしましたら、大学に進学されて、皆さん、先生がいらっしゃると思うんですが、先生はどなたでしたか。

桑山:先生はね、前田青邨でした。

富井:前田青邨先生ですか。

桑山:教授が。

富井:じゃあ前田青邨教室みたいな感じで。

桑山:教室っていうことはないんですけども。僕たちの前がね、(奥村)土牛。あの人が先生で、教授だったんですよ。僕たちの時にちょうど土牛さんが辞めて、前田青邨に代わったとこだった。だからみんながよく言うのは、間違えて入れたんじゃないかな、っていうの(笑)。

富井:先生が間違えて入っちゃった、っていうことですか(笑)。

桑山:ノー。生徒が。

富井:あっ、生徒が。

桑山:絵の描けない生徒がいた、っていうの(笑)。

富井:それ桑山さんのことですか。

桑山:ノー、僕のことじゃない(笑)。

富井:では、だいたい日本画科に入るとどういうことを勉強されるんでしょう。やっぱり学科とかあるわけですか。

桑山:なんですか。

富井:学科。大学で習ったっていうこと、学科と実技みたいになるわけですか。

桑山:そうですね。午前中が実技で、午後が学科じゃないですか。あそこは。

富井:前に一回伺った時に、あんまり真面目に勉強しなかった、みたいな言い方をされてたような記憶があって。

桑山:ええ。入ってから僕はアートを知ったんですよ。日本画以外の、ほんとのアートっていうの。

富井:それはどんなものを。

桑山:僕たちの時はね、まず抽象っていうのがあるでしょ。それをすると放校。

富井:抽象やったら大学から出て行かないといけない、っていうことですか。

桑山:うん。もう放校する。それから展覧会に出したら放校。

富井:展覧会っていうのは団体展とか、っていうことですか。

桑山:何にしろ。

富井:厳しいですね。

桑山:そういう時代だったんですよ。で、みんな日本画家になるつもりで入ってきた連中ですよね。だから先生が全部院展でね。

富井:院展ですね。土牛さんも、青邨さんも。

桑山:院展系っていうことは、院展に出す、というのがコースみたいな風になっちゃうでしょ。そういう雰囲気だったんですよ。

富井:でも在学中は出したらいけないんですか。

桑山:ええ。在学中は全然駄目。

富井:じゃあ卒業してから。

桑山:でしょうね。もう学生の時に興味なかったです、そういうものに。

富井:院展とか。

桑山:そういうもの一切興味なかった。

富井:でも一応日本画は描かれてたわけでしょ。

桑山:ええ(笑)。材料は日本画でしたけど。だけど、もう日本画らしいものは一切やりたくなかった。

富井:何を描いてたんですか。

桑山:何て言うのかな。描いてたことは描いてたんですよ。だけど、そんな日本画らしいもんじゃなかった。

内藤楽子(以下、内藤):抽象は描いちゃいけないから。

富井:抽象は描いちゃいけなくって、日本画らしいのものじゃなかったら(笑)。

内藤:材料が日本画だった。

桑山:材料は日本画の材料だったんですけど。

富井:じゃあたとえば、すごく素朴な聞き方をしますけど、風景を描いてたとか、静物を描いてたとか、人間を描いてたとか。

桑山:最初はそういうのをやってたんですよ。だけど、最後のあたりはもう描かなくなりましたね。

富井:描かない。

桑山:ええ。

富井:全く。

桑山:ええ。それでもう日本画というシステムに興味がなくなっちゃって。で、世の中を知りたくなった。

富井:自分で読書をしたりとか、そういうことをなさった、ということですか。

桑山:そうですね。あの頃は特に、印象派にしろ、立派な本があるじゃないですか。それからピカソにしろ何にしろね。

富井:全集のようなもの。

桑山:ああいうもの「見ちゃいけない」って言われたの、学校で。

富井:えっ、それも見ちゃいけないんですか。

桑山:それも見ちゃいけない。

池上:すごいですね。

桑山:だから、駄目だと言われれば余計したくなるよね、人間っていうものは。

富井:じゃあ、家で隠れて見てたとか。

桑山:うん。だからそっちの方に興味があったわけ。日本よりも。

富井:「見ちゃいけない」って言われた西洋系ですね。西洋近代ですか。

池上:先生とのご関係はじゃあどうだったんですか。

桑山:先生ね。よくしてくれた先生がいるんですよ。僕のことを。

池上:前田青邨先生ではなくって。

桑山:じゃなく。だからその人のうちへ行って、見してもらったり。

富井:なるほど。学校で見れない、たぶん図書室とかで見たらいけないだろうからどこで見たんだろうと思いましたけど、じゃあその先生のとこ。洋画の先生ですか。

桑山:いやいや、日本画の先生。映画の話したり。それから、夏休みになると仕事するじゃないですか。

富井:アルバイト。

桑山:アルバイトじゃなくて。アルバイトは僕したことないんですよ(笑)。絵を描くっていうの。

富井:制作ですね。

桑山:うん、制作。それでできあがったものを(持って)学校に、戻るわけでしょ。僕は(実家が)名古屋ですから。だけど学校には見せなかったの。

富井:家に置いていたんですか。

桑山:その先生にだけ見せた(笑)。

富井:その先生のお名前伺ってもよろしいですか。

桑山:田中青坪(せいひょう)、って言うんですけど。院展の作家なんです。

内藤:「青い坪」、って書く。

桑山:うん。「青い坪」、って書く。その先生、僕がずっと後になって、日本で展覧会をした時に手紙くれたんですよ。その作品がね、(カタログをめくり)この作品(《赤》、1961年)。

富井:もう色面ですね。すると61年にこの作品を日本で見せた時に。

桑山:日本で見せたのは、だいぶ後になってからですけど。

富井:65年ぐらいですか。

桑山:いやいや、もっと後。(ギャラリー・)イケダで見せたんだもの。

内藤:そうじゃない。その前に東京画廊の展覧会にも先生来てらしたでしょ。

桑山:ああ、東京画廊の時にもその先生来てくれて。その頃、東京画廊ってのは、すごい画廊だったわけ。いわゆる現代アートの。その時にそういうところで僕がショウ(展覧会)をする、っていうことをすごくよく言ってくれたの。

富井:1967年になってますから、篠原(有司男)さんがやった後ぐらいですね。

桑山:その頃僕は初めての日本だったから。で、その後にこれを見せた。大きいんですよ、作品。

富井:254 x 204センチになってますから、かなり大きい作品ですね。

桑山:ええ。かなり大きい。その時に、「僕にはよくわからないけど」って彼は(言った)。「僕には、こういうのは見て、何が描いてあるかとか、そういうのはよくわからないんだけども、この作品は気品がある」、って言ったんですよ。

富井:気品ですか。なるほど。

桑山:で、後で手紙をくれて。「すごい感激した」、って言うの。「だけど自分はよくわからん」、と。だから僕は「現代アートってのはそういうもんですよ」、と(笑)。

富井:そうですか(笑)。いい言葉ですね、気品って。

桑山:ええ。

富井:ぴったりの言葉のような気がします。

桑山:やっぱりその先生っていうのは、僕にはすごくいい人だったな。

富井:そうすると、56年に確か卒業なさったと思うんですけども。

桑山:そうですか。

富井:一応年譜見たらそうなってますので(笑)。普通何か、卒業制作とかもあると思うんですけども。

桑山:卒業制作ありました(笑)。

富井:一応なんか出してしのがれたわけですか、じゃあ(笑)。

桑山:だけどあの作品は今ね、寺田っていう、当時の学校出入りの額縁屋さんのところに放ってある。

内藤:あ、ほんとに。

桑山:うん。

富井:じゃあ別に焼いて捨てたとか、そういうことではないんですね。

桑山:そういうことではないです。どうしてそこにあるんだろう。随分後になってから、千葉の美術館で展覧会あった時に(寺田さんが)来て、(その作品を)「持ってる」って言ってたの。なんであそこにあるんだろう。

内藤:多分置き場所がないから置いてもらってたんじゃない。

桑山:置いてもらってたのかなあ。

内藤:あの時の作品は台風とか何かで全部なくなった。

桑山:うん。なくなったの。

富井:名古屋に置いてたものは。

桑山:ええ。だから、さっぱりしていいわけ(笑)。ないんですよ。昔の作品。

富井:じゃあほんとにないんですか。

桑山:ないんです。

富井:こういう回顧展のカタログとかだと、よく白黒とかで後ろの方に小さな写真が出てきたりするんですけども、ほんとにじゃあない。

桑山:ええ、ないんです。

富井:じゃあその額縁屋さん、卒業制作した額縁屋さんが持ってる作品だけあるということで。

桑山:それとね、たぶん友達が、(僕がアメリカに)出てくる時に、2、3点持ってるんじゃないかな。

富井:ちょうど58年に渡米なさいましたよね。

桑山:そうですね。

富井:その2年間の間っていうのは展覧会したりとか、そういうことはなかったんですか。

桑山:展覧会っていうのはね、1回。僕、仲間がいるんですよ、学生時代の。本屋で画廊をやってたのなんていうんだっけ。

富井:紀伊国屋さん。

桑山:ノー。美松画廊? 新橋にあったんですよ。友人から「そこで展覧会をするから、出さないか」、って言われて。だから友達だから、「それじゃあ」、って言って出したことはあるんですよ。

富井:じゃあ1点か2点ぐらい。

桑山:もう1点だけ(笑)。ちっちゃいの。だから、展覧会っていうんじゃなくて。

富井:じゃあほんとにいわゆる発表した、っていうのは卒業展以外はそれ。日本の中では。

桑山:ええ、まともなのがない。

富井:それだけになるんですか。

桑山:ええ。

富井:なるほど。それで58年にアメリカに来られたわけですけども、最初からニューヨークに来ようと思っておられたんですか。

桑山:ええ。

富井:それはどうして。

桑山:それはね、アートっていうのは経済が一番発達したところに栄えますよね。金がないところはもう全然駄目になる。戦後のフランスがいい例だったんですよ。だけど日本人は全部パリへ行ってたじゃないですか、あの頃。まだ。

富井:パリ行った方のほうが多いですね。まだあの頃は。

桑山:でも僕は絶対に、アメリカっていうのは戦後一番力のついた国であって、お金が一番あるし、そういうところに現代アートっていうのは栄える、と思って。

富井:じゃあもう最初から現代芸術、ということで。

桑山:最初からニューヨークしか駄目だと。

富井:どういう形で渡米なさったんですか。

桑山:一応、学生ビザ。でないと出られなかったんです。あの頃。だから留学生って形で。

富井:留学生。ブルックリン(の美術学校)とか、色んなところがありますけども。

桑山:最初にね、アート・ステューデント・リーグ(Art Students League)。あそこに籍を置いて。だけど、ほとんど学校行かなかったんじゃないかな。サインだけして(笑)。

富井:出席簿に名前だけ書いて。

桑山:朝行って、名前を書かないといけないわけ。イミグレーションのために。

富井:出欠取らなきゃいけない、っていうことで。

桑山:そうそう。それで、サインしに行ったぐらいで。それで、スカラシップを取ると月謝タダになるでしょ。それまでは自分で払ってたわけだな。

富井:それはじゃあご両親の方から仕送り。

桑山:いやいや、もう全部僕は自分でやってたの。日本を出た途端に日本とは縁切ったわけ(笑)。いや、ほんとに。

富井:じゃあアルバイトのようなことをなさってたんですか。

桑山:うん、こっちへ来てからやったの。

内藤:ご両親は大分前に亡くなってたものね。

桑山:うん。僕の両親はもうとっくの前にいないんですよ。

富井:じゃあお兄さんかどなたかが家業を継がれた、っていうことで。

桑山:そうですね。

富井:そうすると自分でなんとかやっていく、というのがどうしても必要になってきますね。じゃあいわゆるアルバイト、って言うと、それこそ皆さん皿洗いをしたりしてましたけども。

桑山:うん。一番長く続いたのは、ジャパン・フォーク・クラフト(Japan Folk Craft)のセールスマンだっけ。あれってどんくらいやったんだっけ。

内藤:一年ぐらいじゃないの。

桑山:一年もやった?

内藤:もう少し。一年半ぐらいはやったんじゃない。

桑山:一年半ぐらいやったかな。他は何やっても僕、駄目だった(笑)。

富井:そうですか(笑)。その頃どの辺りにお住まいでした。

桑山:その頃はね…… ヴィレッジの方だね。

富井:やっぱりダウンタウンの方が物価が安い、ということで。

桑山:あのへんしか知らなかったんじゃない。最初に。

富井:じゃあもう最初からヴィレッジのところで。

桑山:ええ。

富井:一人でいらっしゃいました?

桑山:いえ、(内藤と)一緒に来たんですよ。

富井:じゃあ、内藤さんは学校でお知り合いになったんでしたっけ。

桑山:そうですね。

富井:内藤さんは日本画科でしたか。

内藤:おんなじ。卒業58年。

富井:じゃあ後輩で。

内藤:はい。

富井:じゃあちょうど卒業なさって、それを待って(一緒にアメリカに)いらっしゃった、ということになりますね。そうすると。

桑山:ええ。

内藤:そういうことです。

富井:じゃあ奥様もやっぱりアルバイトとかなさって。

内藤:やっぱりなんかそういう日本の。あの頃は日本のお土産屋さん、と言うのかしら。言い方はおかしいけど。日本のものがあるでしょ。色々。お茶碗とか提灯とか輸入するような会社。そこの会社で半日働いてたかしら。半日学校行って、半日働く、っていうことにしてて。

桑山:そうそう。

内藤:そこから卸したものを売ってる。

桑山:小売屋(Japan Folk Craftのこと)だね。

内藤:小売屋さん、グリニッジ・ヴィレッジの。そこで働いてた。

桑山:「いらっしゃいませ」って言ってたわけ(笑)。

富井:なるほど(笑)。じゃあやっぱりそういう方面もやってらっしゃったわけですね。

桑山:そうですね。

内藤:でもそれをやったのはほんとに60年。60年まで。

桑山:までだね。

富井:その後は。

桑山:その後は僕、58年の来たのが9月なんですよね。秋でしょ。で、60年の、秋頃にはもう画廊があったわけ。

富井:グリーン・ギャラリー(Green Galley)ですか。

桑山:ええ。

富井:じゃあグリーン・ギャラリーと知り合われたのは随分早かったんですね。

桑山:早いですね。マーク・ディ・スヴェロ(Mark Di Suvero)で最初にオープンして。その時なんです。

富井:オープンした時から。

桑山:ええ。

富井:それはどういうきっかけでお知り合いに。

桑山:僕はスカウトされたんですよ(笑)。

富井:でもスカウトされるためには何か作品見せたとか、誰かから聞いてきたとか。

桑山:うん。誰かから聞いてきた、っていうのが正しいでしょうね。その、アート・ステューデント・リーグに行ってた頃に、友達ができるじゃないですか。それがね、アメリカ人のデザイナーだったな。漫画を書く人かな。

内藤:後にデザイナー。

桑山:後にSVU(School of Visual Art)で教えてたけど。それと仲良かったわけ、僕は。それがうちによく来てて。彼が自分の知ってるなんとか、っていうのに「見せろ見せろ」、って言うわけ。で、その人が来て、僕の作品見て。それからアイヴァン・カープ(Ivan Karp)、っているでしょ。彼に聞いて。アイヴァン・カープがうちへ来た時に、「来週、ミュージアム・オブ・モダン・アートと、メトロポリタン、そういう連中を連れてくる」って彼が言ったわけ。だけどそんなことジョークだろう、と思ってね。こっちは(笑)。そしたら、その時にヘンリー・ゲルツァーラー(Henry Geldzhaler)とか、ビル・サイツ(William C. Seitz)。それからもう一人、ピーター・セルツ(Peter Selz)、そういう連中がうわっ、と来たわけ。

富井:それがじゃあ59年って今おっしゃいました。

桑山:ノー、60年のね。

内藤:始めあたり。

桑山:始めっていうより夏ごろじゃないかな、あれ。

内藤:そうだったかしらね。

桑山:うん。それとディック・ベラミー(Richard Bellamy)が来たわけ、一緒に。僕はただ自分のしてる作品を見せただけね。で、みんな一応帰ったわけ。別にそんなもんか、と思ったら、一人戻ってきたのがベラミーだったわけ。すぐに戻ってきた。「自分は画廊を開いたとこだから、一回来て、見に来て欲しい」って言われて。で、それを見に行ったんですよ。まだ、僕からしてみると、彼も若かったし。あの時ね、31、2じゃない。

内藤:なってなかったんじゃない。

桑山:なってなかったかな。僕は20いくつなの。

富井:じゃあそんなに変わらないわけですね。

桑山:そうです(笑)。

内藤:ちょっと年上。

桑山:3つか4つ上だな。で、画廊を見に行ったんだけど、その画廊が良いものか悪いものかもわからないし。57丁目だったかな。だから見に行って、見終わったから「グッバイ」、って言ったの。

富井:はい。

桑山:でしょ(笑)。僕は帰るつもりで「グッバイ」、って言ったの。で、その後でアイヴァン・カープから電話があって、「グッバイなんて言ったらいかん」って言うわけ。それで、「あそこの画廊でやれ」って言うわけ。「向こうが欲しい、って言ってるんだから、ノーなんてことを何で言う」って言われたの。

富井:「ノー」はおっしゃったんですか。

桑山:「ノー」と言ったわけじゃなくて。ただ僕が「グッバイ」って言ったのは、グッバイっていうのはもう「さよなら」っていう意味だから。向こうは蹴られたっていう風に(受け取った)。

富井:社交辞令の「グッバイ」じゃなくって、「ではさよなら」みたいな感じで言った。

桑山:って僕は言ったつもりなんだけど。向こうはそうじゃなくて「グッバイ」ってこう、言われたと思ったわけ。

富井:画廊見て、「これじゃ駄目だ」みたいな感じですか。

池上:誤解されたんですね。

桑山:それですぐ電話かかってきて、「あそこでやりたいって言うんだから、ノーと言うな」って。「やれ」って言うの、そこで。

富井:アイヴァン・カープはあの時、カステリ(Leo Castelli)のところですか。

桑山:カステリの。そう、ディレクターだったの。それで別に「ノー」っていうんじゃないけども。で、他に人にも聞いてみたの。この画廊どう思う、っていうの。だけど、知ってる人いないじゃない。

富井:まだ開いてないんだからしょうがないんじゃないですか(笑)。

桑山:ほんとに新しい画廊で。で、まあそこでしよう、ということになって。だからすぐショウをしたわけ。

富井:61年ですもんね。

桑山:61年のそれもしょっぱな。もう、1月ごろだな、あれ。

富井:じゃあ、その60年に、ベラミーとか、MoMAとかメトロポリタンの人たちが来たときの作品はどういうものだったんですか。

桑山:あの時の作品はもうないんじゃないかな。

内藤:そこに写真入ってるんじゃない。

富井:(カタログを見ながら)61年ぐらいだと。

桑山:どっちかというとこういう類(《緑青 銀箔》、1960年、《赤 銀箔》、1961年など)。

富井:じゃあその時はまだ日本画の材料使っておられたんですか。

桑山:うん。材料は全部日本画だったわけ。だけどね、もうこの頃日本画の材料じゃないよ。これはアクリル。日本画の顔料はね、にかわがつかないわけ。乾くと落ちちゃう。

富井:湿度の関係で、って前おっしゃってました。

桑山:うん。その頃サム・フランシスと知り合って。彼が「アクリル使ってみないか」、って言うの。で、くれたな、かなりアクリルを。紙は紙なんですよ、これ。

富井:和紙ですか。

桑山:和紙ですね。

富井:じゃあ和紙をパネルの上に貼った、ということですか。

桑山:カンヴァスの上に貼って。

富井:和紙で描いてから貼るんですか。

桑山:貼ってから。

富井:貼ってから描くんですか。これ61年ぐらいだと箔も使っておられますよね。

桑山:ええ。

富井:このあたりは58年にこっち来られる頃からずっと、こういう色面の絵画にもうなってたわけですか。それとも。

桑山:厳密に言えば、やっぱり一年ぐらい期間があったと思う。その前に学校行かなきゃいけなかったでしょ。

富井:アート・ステューデント・リーグに。

桑山:ええ。で、オイルを買ってきて。描けないじゃないですか。オイルなんてものは。やったこともないし(笑)。でね、スカラシップの制度があって、あれはスカラシップ取ると、月謝タダになるのかな。もうどうしてもはねられるわけ。すぐに。

富井:技術がそれに到達してない、ということですかね。

桑山:僕のしてることがやっぱり違ったからもう。ああいう、絵じゃなかったわけ。

富井:アート・ステューデント・リーグはあの頃も、まだ具象ですよね。

内藤:そんなこともないんじゃない。

富井:そうでもないんですか。

桑山:そんなこともないけどもね。みんないかにもペインティング、みたいなのを描いた。生徒なんてのは。

富井:でもそういう絵は描いておられなかった。

桑山:それ用に一生懸命描いたんだけど。スカラシップ欲しいから。それがうまくいかなかった。それも描いてもらったんじゃない、楽子に。

内藤:私が代わりに描いたと思う(笑)。

桑山:代わりに描いてもらったんだ。そう。ちっとも描けないからって(笑)。

内藤:もらえた。

桑山:もらえたんだっけ、あれ。

富井:じゃあ奥様の腕ですね(笑)。

内藤:私の方が先にスカラシップ取れたから(笑)。

桑山:楽子はすぐ取れたの。

富井:そうなんですか(笑)。

桑山:僕は取れないの(笑)。そう言ってる時にね、ブルックリン・ミュージアム(Brooklyn Museum Art School)が来たわけ。オーガスタス・ペック(Augustus Peck)ですか、校長。彼が来て、「スカラシップやるから」って。で、「来なくていい」、って言うの、学校に。そのかわりに「うちで絵を描いてていい」って。

富井:それはブルックリンの学校に移って、ということですか。

桑山:そうですね一応(笑)。移って。

富井:ブルックリンのミュージアムのスクールの方に移って、「奨学金あげるから好きな絵を描いてなさい」、っていう形で。

桑山:それで「学校は来ないで欲しい」って言うの。「他の生徒に悪いから」って。他の生徒も「自分だってそれだったら学校来ないようにして欲しい」って言うじゃない。だから「他の生徒に見つからないようにして欲しい」、っての。

富井:じゃあ特待生ですか。

桑山:うん。「向こうから見に来る」って、スタジオに。それをやってくれたわけ。だからもう学校はそれで完全に縁を切ったわけだ。

富井:その時に大体こういう色面になった、ということで。

桑山:そうですね。

富井:どういうところから色面になったんですか。

桑山:というよりも、アメリカへ来てね、やっぱりアートを知ったのはアメリカへ来てからだと思う。いろんな状況を。その頃アメリカはほとんどアクション・ペインティングで。そういうものはしたくなかったし。なんかやっぱり自分のもの欲しい、ってのあるでしょ。あの頃から、こう「アーティスト」っていう気風になったわけ。本当のことを言うと。学生時代じゃなくて。

富井:なるほど。やっぱり自分のしたいもの、自分だけのものが作れた、みたいな確信をお持ちになった時ぐらいから、っていうことですか。

桑山:それといい仲間に恵まれた。ディック・ベラミーとか。ああいう連中が周りにいた、っていうこと。やっぱり自分だけの世界が作れる、っていうの。だから最初にね、僕がグリーン・ギャラリーでショウをした時、61年の1月だっけ、2月だっけ。その頃っていうのは寒いわけね。オープニングに誰も来ないの(笑)。それはディックにも言われたの。「それはみんなこういう絵描いたら、ヘイトする(hate、嫌う)」、って。

富井:まったくの色面ですからね。

桑山:「そういうもんじゃない」、って。「こういう時代にこれをやったんじゃ、そりゃ誰も来ない」、って言うの。それであの時にパーク・プレイス(Park Place Group)って仲間があったわけ。マーク・ディ・スヴェロたちの。あの連中がトラックで絵を運ぶ役だったり。アルバイトをそういう連中がやってたわけ。だからあの頃の連中、僕よく知ってるの。マーク・ディ・スヴェロの仲間の。でもその連中が僕の作品をみんな「嫌だ」って言って、そのことをディックに僕、聞かされたわけ。

富井:パーク・プレイスって比較的、幾何学抽象に近いことをしてましたよね。

桑山:それはちょっと経ってから。あれは60年半ばぐらいになってから。最初はそうじゃないの。みんな。

富井:最初はもっと抽象表現主義だったんですか。

桑山:うん。だからあの連中は誰も来なかった、知ってても(笑)。それで、「どうしてだろう」って言ったら、みんな「嫌いだ」、って言うの。こういう作品を(笑)。

富井:そうですか(笑)。

桑山:それは、言われたよ。

富井:あの時、さっきちょっと文献、誰か何か書いてらっしゃるのかと思ったら、(ドナルド・)ジャッド(Donald Judd)が展評のようなものを書いている。

桑山:ジャッドはあの時アート・クリティックだったから。

富井:もしどういうこと書いていたかご記憶でしたら。

桑山:あんまり覚えてないんだけど。(内藤に尋ねて)あの頃知り合ったのがジャッドね? ジャッドはもう入り浸ってたの。画廊に。

富井:グリーン・ギャラリーに。

桑山:ええ。で、後にショウをするようになって。

富井:そうすると一応これ、今60年、61年ぐらいのカタログで、色面に箔使ったものを見せていただいてますけども、62年に展覧会なさった時はもう。

桑山:(カタログを示しながら)もうこれ(《黒》、1961年)とかこれ(《青》、1962年)。

富井:じゃあ箔はもうやめにして。

桑山:そうだろうな。もうあのジョイントしたものですか。

富井:ジョイントのパネルで。色を色面だけで、ということでなさってるわけですね。これは色はどういう基準で選ばれてたんでしょうか。

桑山:これはね、粉絵具です。全部。

富井:顔料ですか。日本画の。

桑山:顔料です。カドミウム・レッド。ああいったオイルの。オイル・ペインティングにする原料みたいなもんですよね。それをアクリルで僕が溶いて。

富井:自分でお溶きになるんですか。

桑山:ええ。作った絵具なんですよ。

富井:なるほど。じゃあ既成のアクリル絵具ではないんですね。

桑山:ないんです。

富井:それはやっぱり日本画で顔料をにかわで溶く、っていうところからの延長だった、ということですか。

桑山:だと思いますね。それともうカンヴァスの上なんです。

富井:62年になるともうカンヴァスのものになるわけですか。それはやっぱり素材的に。

桑山:そうですね。素材的に。紙っていうのは引っ張るんですよね。特にこの国のこういうヒーティング・システムですから。すごい乾燥するとコーナーに皺がよるんですよ、どうしても。で、カンヴァスを使うようになった。

富井:そうするとやっぱりカンヴァスっていうのは西洋の割と湿度の低い、ヒーティングなんかする環境によく合ってた、ということでしょうか。

桑山:そうなんでしょうね。最初はね、リネンを使ってたんですよ。でも、リネンはまた引っ張りが激しくて、駄目なんですよ。それでコットンに変えてからは、もうちょっと楽ですよね。

富井:色面っていうのは、割とスムーズに表面をいつも作られておられると思うんですけれども、何べんも塗るわけですか。

桑山:そうですね。日本画の影響だと思うんですけど。濃いオイルをこう出して、チューブから出してくると、ぐちゅっ、とこうなるでしょ。あれができないんですよ、僕は。やっぱり水みたいにして何回も塗らないと絵にならない、っていうんですか(笑)。

富井:じゃあ一点作るのに随分時間かかりますか。

桑山:そうですね。それと粉ですから。テクスチャーがちょっと不思議なテクスチャーになってたんじゃないですか。だから表面っていうのにどうしてもこだわっちゃったり。

富井:なるほど。色彩は、こちら赤(《赤》、1961年)、これは黒(《黒》、1961年)ですか。

桑山:黒ですね。

富井:青、割と原色(が多い)。あ、白もありますね。

桑山:これ(《白い和紙のコラージュ》、1962年)はあれですよ。

富井:あ、これテープのやつですね。グッゲンハイムに出てるテープの作品は、あれは何のテープなんですか。(注:インタヴュー時、グッゲンハイム美術館で “Third Mind: American Artists Contemplate Asia, 1860−1989”が開催されており、桑山の《無題》(1962年)が展示されていた)

桑山:あれはね、鳥の子です。鳥の子ってあの、和紙の。

富井:もうテープに切ってあるわけですか。

桑山:いえいえ、自分で切って。あれは襖を作る和紙なんですよ。だからね、表面が、テクスチャーが何もないんです。和紙でもちょっと分厚くて、テクスチャーがあんまりない。

富井:そうですよね。べろっとした紙なので、ほんとに和紙なのかな、と私は思ったんです。最初に見た時に。

桑山:あれも自分でこのぐらいのサイズに切って、で、テープを貼って。

富井:1インチぐらいでね。

桑山:あの時はね、僕もう「絵を描く」という行為から離れたかったの。絵じゃないものにしたい、っていう。そういう多分当時の実験的な作品だと思うの。だから、絵なんですけども、カンヴァスの上とか、色を塗るんじゃないっていう。

富井:あれはテープを貼った上に、アクリルか何かがかかってますね。

桑山:ええ。白いアクリルを。

富井:じゃあごく短期間だけ、あれを作っておられたんですか。

桑山:61年頃からやってるんですよ。だからちっちゃいものが多いんです。あ、それと立体を作ってました。

富井:立体を作っておられたんですか、その時から。

桑山:ええ(笑)。こうスタンディング・ピースっていうの。

富井:ここにこの、3番(《スタンディング・ピース》、1961年)が立体になってますけれども。

桑山:うん。それのもっと大きなのとか。

富井:これは立体、っていうことは後ろもあるわけですか。

桑山:あります。ええ。

富井:じゃあ後ろも塗ってあるわけですか。

桑山:そうですね。

富井:じゃ、カンヴァス。

桑山:じゃなくて。この頃メゾナイト・ボード(masonite board)っていう。木で枠を作って、両側からボードを合わして立体にして、それにあのテープ。紙を貼ったりテープを巻いて、それに色つけた。だから、こういったブランクーシ(Contantin Brancusi)みたいな形にした、こういうのもあるわけ、こういうので。その頃の。

富井:まだ残ってるんですか。

桑山:残ってます。それはいつか見せたいと思うの(笑)。

富井:じゃあ倉庫に入れてあるんですか。

桑山:入ってますね(笑)。

富井:そうですかわかりました(笑)。

池上:名古屋の回顧展で是非(注:インタヴュー時、名古屋市美術館で桑山の回顧展を準備中だった)。

富井:名古屋では見せないんですか。

桑山:名古屋はね、山田さん(山田諭、名古屋市美術館学芸員)によると、予算があまりないんですって。だから日本にあるものでやりたいってね。

富井:輸送ができないんですね。

桑山:日本で集めたい、っていうこと言ってましたけど。

富井:それ拝見してみたいですね、一回ね。ここにこの1ページだけこのカタログで言うと、こう立ってるのでね。これはなんだっていうのをお聞きしないと、と思ってたんですけども。

桑山:これはその62年の時のショウに出した。あのグリーン・ギャラリーの。だから最後までよくディックに言われたわけ。「お前はスタンディング・ピース作ったんだ」って、あの頃もう(笑)。それもグループで。

富井:じゃあ一つではなくて。

桑山:ええ。

富井:その時にいくつかユニットを繰り返してっていうのはもう、(すでに)一回なさってたわけですね。

桑山:ええ。あの頃が一番僕は実験的、っていうとおかしいけど、いわゆる絵じゃないもの(をよくやってた)。全部シルバーに塗ったり。

富井:あの頃からもうシルバーに塗っておられたんですか。それは立体の方で。

桑山:立体の方で。それから、あの頃のね、64、65年ぐらいじゃないかな。スプレー・ペイント始めたんですよ。メタリックの。だけど僕すぐやめちゃったの。

富井:あ、そうですか(笑)。

桑山:やめたけどもその当時の作品がね、あとでグッゲンハイムでシステミックのショウあったでしょ(注:“Systemic Painting”、1966年グッゲンハイム美術館で開催された展覧会)。あれがそうなんですよ。

富井:ローレンス・アロウェイ(Lawrence Alloway)がしたやつ。

桑山:ええ。あれはね、65年?

富井:システミック・ペインティング自体は66年だと思います。

桑山:作品は……

内藤:作品は65年。

桑山:65年です。あれメタリックのスプレーなんです。

富井:でもそれもまた早いですね。

桑山:ええ(笑)。それが名古屋の美術館のコレクションなんです。

富井:それをまたもう一回後になって。メタリックのペイントを70年代になってまたお使いになりますけども、その前にもう60年代の半ばで実験しておられた、ということですか。

桑山:ええ。その時かなり作ってるんです。

富井:ちょっとお話戻りたいんですけども、その頃、ですから61年に最初にグリーン・ギャラリーに出して、パーク・プレイスのグループの人でさえ見に来なかった、と。まあそういうテープ使ったり、絵画じゃないもの、あるいはそのシルバーのメタリックスプレー吹いてた、みたいな形で。そうすると、売れてたんですか。

桑山:それがね、あの頃すごい安いんですよ、みんな。安いって、大体アメリカ人みんな売れてなかった時代ですね。アートってのは。売れるってことはあんまり口に出してもいなかったし、それより作品をもっと、今の人に比べると、もう少し真剣だったんじゃないかなと思う。

富井:作ること。

桑山:作ることに。今はもうすごいコマーシャル化しちゃってるでしょ、アートが。意外とね、売れたと言やあ、売れたことは売れたなあ。

内藤:生活できてたからね(笑)。

桑山:うん(笑)。

富井:さっきアルバイトしないですんだ、とおっしゃっていたのでね。

桑山:だけどもそんなに。今の値で言ったら、とても豊かな生活じゃないし。

富井:よく画廊と契約すると、月々お手当てみたいなものをもらって、作品を出す、というようなシステムもあるようですけれども。

桑山:あの頃ね、それをやってたのは、マルボロ(Marlborough Gallery)ぐらいのもの? アイドントノウ。

内藤:マルボロとか、レオ・カステリ。

富井:カステリのところはやってたと思いますけども。

桑山:やってたでしょうねえ。

富井:そういうのではなかったんですか。

桑山:そうのじゃなかったです。あの頃はもう、そんな金をもらってるようなのは、僕の周りでは一人もいなかったし(笑)。

富井:いや、一応念のために(笑)。じゃあ、生活が立つ程度には売れてた、ということですね。

桑山:そうでしょうねえ。割と最初に僕の作品を買った美術館がオルブライト=ノックス(注:Albright-Knox Art Gallery、ニューヨーク州バッファローにある美術館)なんですよ。あれは62年の時のショウから買ってるし。それからね、いいコレクターが買ってくれたの。それはディック・ベラミーのおかげだな。彼はよくいろんなとこに最後まで売ってくれたの。だけどもとてもそんな裕福になるほどは、入ってこないでしょ、お金は。

池上:それは当時は、1点1点もそんな高く値段を付けてなかった、っていうこともあるんですよね。

桑山:ありますね。

富井:何百ドルの単位ですか。

桑山:そうです。最初の僕のショウを決める時に、値段をいくらに決めるか、って(相談する)。だから(カタログを見せながら)こういったサイズの作品ですよ。こういったサイズの作品をどのくらいの値段に決めるかっていうの。

池上:何センチぐらいですか。

富井:縦2メートルぐらい。

池上:大きなものですよね。

桑山:うん。僕も初めてだし、よくわかってないし、そういうこと。あれアイヴァン・カープに相談したんじゃないかな。で、アイヴァン・カープがね……

内藤:1,200ドル。

桑山:「1,200ドル」とか言ったの。「1,200ドル付けろ」、って。スタートで。僕はそういうもんかな、と思って。ディックに、「アイヴァンが1,200ドルって言った」、ってこう言ったわけ(笑)。

富井:割と正直ですね(笑)。

桑山:そしたらディックが、「そうかい」、って。(マーク・)ロスコがすごく有名だったんですよ。ロスコがすごく有名で、彼の作品が1,200ドルだった。

富井:いや、私ちょっと1,200ドルは高いんじゃないか、と思ったんですけどもね(笑)。600ドルと思ったんですけどね(笑)。

桑山:それでね、800ドルでスタートしたの(笑)。

富井:あ、それで800ドルで(笑)。

桑山:だけど、そんなもんだったのね。

池上:最初からロスコと同じというのは(笑)。

桑山:うん。だけどさ、人の値段ってのはわからないでしょ。まだ若いし。それにアイヴァンはよく画廊をやってるわけだから。ディックは初めてだし、と思ったわけ。だからアイヴァンに聞いたらいいだろう。アイヴァンに聞いたら「1,200ドルって付けろ」、って言うからそういうもんかな、と思ってディックにそう言ったら、そう言われた(笑)。だから、そんなにね。何百ドルの時代だったの。

富井:そうですね。これ分割作品は、縦2つ(《赤 青 白》、1963年など)とか、あるいは「田」の字っていうんですか。こういう4つ(《白い和紙のコラージュ》、1962年など)とか、そういうものが比較的多いみたいですけれども。

桑山:そうですね。

富井:このあたり例えば63年から64年のこの原色の作品(《赤 青 緑 黄》、1963-64年)、原色って言えばいいんですかね。こういうのはどうやって色を決めてたわけですか。

桑山:どうやって決めてったって、大体3原色に、一つ余ったのをグリーンにしたんじゃないですか。これはね、表面がつるつるなんですよ。これでまたもめたね、あの頃。

富井:どうしてですか。

桑山:っていうのは、世の中がそういう絵、なかったんですよ。

富井:63年から64年ですね。

桑山:アメリカはみんな、ペインティングは光ってないわけ。特にアメリカの。それから、特にグリーンバーグ・スクールのステイン(stain、滲み)のああいう時代の走りですよね。だからこれやった時に僕は、世の中が全部そうだったからやりたくなかったわけ。でね、最初に作ったのはジル・コーンブリー(Jill Kornblee)に見せたんだな。そしたら、「これは嫌いだ」って言うの。

富井:コーンブリーも出されてますね。個展。

桑山:こういう表面がまず光るっていうのは「とても我慢できない」、って言うの。「何で光らせるか」、って言うわけだな。「みんな光ってないじゃないか」、って(笑)。

富井:じゃあおんなじにしろ、っていうことですか(笑)。

桑山:はい。でもこれはすごく計算した作品でもあるわけ。僕には。色んな意味で計算をして作った。

富井:それはたとえば構図。構図っていうか、構造っていうんですか。

桑山:構造をなくそう、っていうの。

富井:あ、構造をなくすわけですね。

桑山:それから原色を使うことによって、色の変化をやめよう、とか。

富井:あと、たとえばカタログの9番の作品(《赤 青 緑 黄》、1963-64年)が確かこれ、黒く縁も描いておられましたよね。

桑山:ええ。この枠を、マスキングテープを使って。

富井:かなりきっちりした作品でしたけど。

桑山:これ(《メタリックの青 赤》、1965年)はそのメタリックの作品なんですよ。

富井:これがメタリックのなんですか。(カタログの)11番。これきれいな作品ですよね。

桑山:これもシステミック(“Systemic Painting”)に出したやつなんですよ。これ大きいですよ。かなり。

富井:そうですね。247センチ縦になってますね。これは確か枠はアルミでしたか。これ金属ですか。

桑山:クロムです。クロムで、中入れて。黒い線を付けて。

富井:それはやっぱり、縁を作るということですか、それとも。

桑山:縁を作って、っていうより、どう言うのかな。パネルのジョイントを強調する。

富井:例えば最初の頃のこの赤いやつ(《赤》、1961年)なんかは何も。

桑山:何もないです、はい。

富井:たとえば4番の作品なんかは一応枠は入ってる。枠っていうか。

桑山:木の枠ですね。プロテクションのため。

富井:そうですね。でもこれ基本的には単に2つカンヴァス並べてあるだけで、このシステミック・ペインティングの65年の作品になるともう、かなりいろんな仕掛けになってるんですけども。

桑山:そうです。

富井:よく「事物」とか、そういう表現を日本の批評ではするようなんですけども。

桑山:そう言われればそうかもしれないし(笑)。僕なりに計算があったんですよ。それと、アートっていうのは、画面があって、普通絵描きってのは色を塗っていくじゃないですか。で、徐々に仕上げますよね。で、ここにちょっと黒いのがあったらここに赤いの入れるとか。構図っていうんですか、コンポジションですよね。僕はそれが絶対ない作品を作りたかったわけ。だから最初に作る前に作るものを自分で知ってないと、作ってはいけないと思ったわけ。そういう作品の走り。僕の作品の中の。だから全て計算で作る、っていうの。

富井:まだ65年、60年から65年までそういう形で作品作っておられる、っていうことは、随分他とやっぱり違うことをしたい、っておっしゃってたけど、全く違うわけですけれども。違うっていうのが、一つのプリンシプルだったんですか。

桑山:違うっていうより、やっぱり自分のものを作らないといけない、っていうの。

富井:だんだん60年代の半ばぐらいになると世の中が追いついてきましたよね。

桑山:そうですね。

富井:フォーマリストの展覧会、ワシントンでなさったやつとか、もちろんアロウェイのシステミック・ペインティングとか、オルブライト=ノックスでも幾何学抽象の展覧会やってるんじゃないかと。そういうのに全部桑山さん、当然のように入っておられて。

桑山:ええ。それとね、ヨーロッパのステデリック・ミュージアム(Stedelijk Museum)でやった、「カラー・アンド・フォーム( “Vormen van de Kleur” (New Shapes of Color))」っていうんですか。あれがね、何年だっけ。

富井:66年から67年となっておりますね。

桑山:そうでしょ。あれはね、かなり早いんですよ。あれに出した作品ってのは、こういう大きなので。こういう風にクロームが入ってて、斜めにばってんが入ってるんですよ。

富井:あ、先ほどそういうの。

桑山:ありました? ここ(カタログ)にはないけど。こういう形式で、すごい原色なんですけど。

富井:じゃあ赤とか黄色とか。

桑山:そういうのを僕はあの時出したんです。ステデリックに。あの時僕はアメリカ人として選ばれたわけ。7人ぐらいじゃないかな、アメリカから。それが初めてのヨーロッパの作品だったんですよ。

富井:その後70年代以降随分、ドイツなんかが多いようですけれども。

桑山:ドイツ多いですね。

富井:その頃どういう形で。

桑山:一番最初は、そのオープニングの次の日に、スイスのビショフバーガー(Bruno Bishofberger)ですか。彼がうちへ来たわけ。

富井:ニューヨークへ。

桑山:ニューヨークへ。で、彼も若かったんですよ。彼も20代だな。でも僕もそうでしょ。よく話が合ったんだけど。で、オープニングでそれを見て。

富井:オランダで。

桑山:ええ。で、すぐ来て、「自分とコントラクト結んで欲しい」、って言うんですよ。今度は「お金払う」って言うの。「権利を欲しい」って。全ての。

富井:ヨーロッパの権利っていうことですか。

桑山:ええ。で、そこでまたどうしようかな、と思ったんですけど、「契約を何年にするか」、って言うので、「2年」、って言ったんだっけ。2年ぐらいならいいだろ、って。でも、その時に彼は「こういうの見たことない」、って言うの。今までにこういったものを。で、「これは絶対に自分がやらなきゃいかん、と思って来た」、っての。初めて会うんだからお互いに、信用されないとこあるでしょ。彼は「自分は若いし、信用されないと思うけど、信用してほしい」、って言われた。「自分とやんないか」、って。それがヨーロッパの僕、最初なの。

富井:それで2年の契約で、個展されることになったわけですか。その後はまた契約。

桑山:その後ね、いろんなよその画廊はいろいろ来たわけ、ヨーロッパの。結局、ケルンの画廊でやったのが多いんですよ。レッカーマン(Galerie Reckermann)みたいなとこ。

富井:レッカーマンですね。ケルンですね。

桑山:後であの、ハンス・マイヤー(Hans Meyer)っていますよね。彼に会った時に。あれはうちに来たんだっけ。

内藤:どうだったかな。

桑山:その時に、あれも、そのステデリックで見たのかな。それともアート・フェアで見たんだっけな。

内藤:どっちもよ。ハンス・マイヤーじゃなくて、確かミューラーじゃないの。

桑山:うん。ミューラーも来たけど。

内藤:ハンス・ミューラー(Hans Mu¨ller)。

桑山:ノー。ハンス・マイヤーにも言われたよ。ハンス・マイヤーに言われたのは、「額縁だけしかない」って。「額縁だけしかない」、って言うわけ。遠めに見ると。「中身のない作品」って言うの。「びっくりした」、って言うの。だからそういう見方があるかな、と思ったな。

富井:色はじゃあ見てないんですね。

桑山:この額縁だけの作品と思ってて。だから不思議だったんじゃないですか、そういうのが。それから、ハンス・ミューラーっていうシュトゥットガルトにある、大きな画廊あったんですよ。彼が来て。あれアーティストと一緒に来たんだ。で、(内藤に尋ねて)彼ドランク(drunk、酔っぱらって)じゃなかった? どっちかがドランクだったよな、あれ。それで来てね、「自分とこへ来ないか」、って言うわけ。シュトゥットガルトっていうのは「丘だ」、って言われてさ、緑の丘だとばっかり思ってたの。そしたら街だったわけ(笑)。そこで「ショウを一緒にしないか」っていうようなことを言われたわけ。ところが一緒に来たアーティストが、「これはアートじゃない」って言ったらしいんだ。

富井:作品を見て。

桑山:「これはアートじゃない」って。結局彼とは後でショウをしたけど、その時はしなかった。

内藤:しなかった。でもあの時買ってくれたんじゃないの。

桑山:買ってくれた。色々買ってくれた。もう買って持って行ったの。それからいろいろドイツで彼が、いろんなとこに見せたんじゃない。それで特にドイツで知られるようになったの。

富井:そうすると先ほどアムステルダムの展覧会に呼ばれた時はアメリカのアーティストとして。だからニューヨークで活躍してるアーティストということで。

桑山:そうですね。

富井:呼ばれたということで。自分が日本画でトレーニング、最初にあったので、何回も塗るのは日本画の成果が、とおっしゃいましたけども。その他にたとえば自分が日本人で制作してると、そういうことを考えられたことは。

桑山:もう全然そういうの感じなかった。感じなかったというか、日本はもうさよならだったの、僕。出た時に。あの頃は僕たち船で来たわけ。飛行機ってのは、政府の偉い人たちが乗るもので、普通の人はまだ飛行機じゃなかったわけ。プロペラですよ、飛行機ってのは。ハワイへ着いて、カリフォルニア着いて、って来るんじゃない。

富井:船で乗られたっていうことは最初西海岸にいらっしゃって。

桑山:そうですね。で、大陸横断はグレイハウンド(注:長距離バス会社)のバスで。

富井:じゃあ大陸横断。お二人でなさったんですか。

桑山:そうなんです(笑)。

富井:まあ新婚旅行ですね。ではないんですか。

桑山:そういうことですね(笑)。

内藤:そうそう(笑)。

富井:新婚旅行だったんだ、それ(笑)。じゃあもう自分が日本人とかそういうことはほとんど。

桑山:ほとんど。それに日本に帰れるとは思ってなかったし。

富井:でも一応こちらにいらっしゃったら、日本人のアーティストのコミュニティのようなものはなかったんですか。

桑山:アート・ステューデント・リーグで知り合いになった人が。おんなじようなそういう状態のが2、3人いて。それから、岡田謙三はよく知ってたわけ。

富井:岡田さんは50年にいらっしゃって随分有名になられてましたから。あと猪熊(弦一郎)さんとか。

桑山:彼はあんまりよく知らない、僕は。

内藤:猪熊さんは全然知らないですね。

桑山:全然知らないですね。

内藤:もちろん名前は知ってたけど。

桑山:でもほとんど付き合いなかったですね。僕は。日本のそういうのと。

内藤:岡田さんとだけじゃなかったっけ。

桑山:岡田さんとだけぐらいは付き合いがあった。

富井:じゃあ岡田さん、展覧会見に来てくれたりとか、っていうことですか。

桑山:でしょうね。来た時は若かったしね、こっちも。だって学校出たてみたいなもんでしょ。それで色んな話はよく。岡田さんの話を聞く、っていうのは面白かったの。よく言われたのは、「自分から画廊を探そうなんてことを思うな」、って言われたね。「向こうが来る」って。「いい絵を作ってりゃ向こうが来る」っての。「そういうもんなんだ」って。「だから2年間のうちに、何にも付かなかったら日本に帰れ」、って。もうタレントがない、っていうの。

富井:画商さんが付かなければ、ということですか。

桑山:うん。そう言われたの。だから、そう思ってたな。

富井:58年にいらっしゃって、60年にそうやって(ベラミーが)来たわけだから、ちょうど2年で付いたということになりますね。そうしますと、たとえば日本で、先ほど東京画廊で展覧会なさったって。それはどういうきっかけだったんですか。

桑山:あれは東京画廊の人が、うちへ来たんです。ここへ。

富井:山本(孝)さんですか。

内藤:その前に山本さんじゃなくて、林さんっていう方がいらして。

桑山:あそこ(東京画廊)のパートナーの人で、敷物のビジネスの人がいて。彼は貿易の関係でしょっちゅう来てたんだよな。で、誰かに聞いて来たんだと思います。

内藤:個展をやる前に、65年ごろに「アメリカの5人」っていうグループ展をやって。

桑山:グループ展をやったんですよ。その人が。あのこと書いてないでしょ。

富井:こちらには載ってないですね。「アメリカの5人」って言ったら。

内藤:日本人の。

富井:アメリカにいる日本人5人の展覧会、っていうことですか。

内藤:確か5人だったわよね。

桑山:うん。なんかやって。そうこうしているうちに、66年か7年になってから山本さんが来たの。

富井:それで山本孝さんがいらっしゃったんですか。

桑山:「展覧会をしてほしい」って言われて。

富井:じゃあその時だとやっぱり中に何も描いてない絵。額縁だけの絵になりますけれども(笑)。

桑山:あれひどかったよ。あそこの画廊(笑)。あの時は(カタログを見せながら)この手じゃないかな、たぶん(《芥子色》1967年、《青緑》1967年など)。

富井:じゃあ縦長、横長の結構はっきりした色面ですね。

桑山:こういったものなんですよ。あれ、どこの画廊の人だったっけ。

内藤:ギンザ・イトー屋。あそこに画廊があった。

桑山:イトー屋。その人が奥まで入って行って、「作品はどこにあるんだ」っていうの。(壁に)掛かってるのは、全然作品じゃないと思ってるの(笑)。

内藤:「展覧会はどこですか」、って言われて(笑)。

桑山:そういうの僕、随分日本であるの。

富井:67年、じゃあ東京画廊でやった時ですか、それ。

桑山:そう。大体だいぶ後までよくそういうこと言われたの。「作品じゃないと思った」とか。それから「早いとこ中見せてくれ」、って言われたこともあるしね。

内藤:「どうやって開けるんだ」とか。

桑山:「どうやって開けるんだ」とか(笑)。家具と間違えてたり。

内藤:ヒューズ・ボックスの蓋と間違えてたり(笑)。

桑山:失礼ですよね(笑)。

富井:それはやっぱり、まだ慣れてなかったんだと思いますけども、そういうものに(笑)。

桑山:今でも、よく僕日本で書かれる時に、「わからん作品、作家」だとか、「わかりにくい」とか言って書くでしょ。「なんだかよくわけのわからん」とか、書く人いるんですよ。もうこんなわかりやすいもの世の中にないんじゃないかな、って思うの。

富井:だって色塗ってあるんですもんね。

桑山:ねえ。たとえばなんかもの描いてあれば、そのものを見ちゃうじゃないですか。

富井:チューリップとかね。

桑山:一体これはアートかどうか、って考える余地もないでしょ。そっちの方がもっと難しいんじゃないかな、って思う。そこでジャッジを下す、っていうのは。だけど、こういったものを見て、こう言われると、ほんとにおかしいんじゃないかな、って思うもん。僕文句言ったことあるんです、それで。

富井:でも今のおっしゃり方で言うと、これがアートかどうか、っていうジャッジメントを求めるような作品、存在っていうのを作っておられるわけですか、そうすると。

桑山:いや、僕はもうそんなことはないと思うの。とっくの昔に。だからそれはたぶんイグノラント(ignorant、無知)じゃないかなと思うの。アートに対する。

富井:その後、60年代の終わりか、70年代ぐらいから結構、日本でもそうやって展覧会があった後で、批評とか評論とかいろいろ出てくるようになりましたけれども。そういうものに対して桑山さん、どういう風にご覧になってたんですか。ああいうものが出ると嬉しいもんなんですか、やっぱり。

桑山:いやあ。それよりね、腹立つことが多いですよね。

富井:どうして腹が立ちますか。もちろん「わけわからん」、って言われたらそりゃ腹立つのはよくわかるんですけども。

桑山:そういったことが多いですよね。僕がしたいことって言うのは誰も触れてくれないの。それは多いんですよ。今でもそうですよ。僕がしたいことっていうのをあんまり触れないで、「つまらんことに興味がある」、みたいな書き方をされると嫌な思いをするし。だからもう無視した方がいいと思うんですよね(笑)。

富井:でもしたいことっていうのはじゃあそれは何ですか、って今もしお聞きしたら、それは答えられない、とおっしゃりそうな気がするんですけども。

桑山:やっぱりアートっていうのはちょっと説明しにくいですよね、実際には。だけど、ヴィジュアルなものでしょ。僕がしてることっていうのは。なんて言ったらいいかな。やっぱり経験じゃないかな、アートを見る見方っていうのは。「違う。アートって言うのはこういうもんだ」っていう風に決められて見られると(困る)。そういうことが多いんですよ。それが僕は嫌なわけ。もっとオープンに見られないか、って。アートに対して。だけど、まあ大体僕は(批評は)無視しますね。気になったらきりがないもの。

富井:若干の方はね。

桑山:それに自分の体調を崩されたら困るし(笑)。無視した方がいい、って。

富井:崩れますか(笑)。

桑山:そうでもないけど(笑)。僕は多分図々しいんだと思う、そういう点は。大体無視ですね(笑)。

池上:じゃあ特に日本の批評家の方と、交流があった方っていうのはいらっしゃらないんですか。

桑山:います。

池上:どなた。

桑山:今でもね、僕と一番仲良くて、お互いに理解しあえるのは、多木浩二さんです。彼は今でも僕会います。

富井:あの方美術評論家っていうよりは、美学者みたいな。写真評論もなさるし、他の歴史評論のようなこともなさいますし。じゃあいわゆる美術評論家ではないですよね。

桑山:そうですね。彼自身は「自分は哲学者だ」って言うんですけど。でも、彼は理解しますね。一番率直に理解してくれる。

池上:どういう風におっしゃるんですか。桑山さんの作品に関して。

桑山:たとえば僕がこういうものを作ってて、僕がしたいってのが繰り返しのものだとか。それから色に関しても、ニュートラルな色を使いたい、とか、色んな話をしてもよく理解してくれます。「そうだと思う」って。

富井:70年代に入るとメタリックで、割とニュートラルっておっしゃったような、言い方によっては、ちょっと日本的な色の選び方みたいな。

桑山:そうですか。

富井:日本の着物の、割と地味な着物のね(笑)。

池上:そんな感じですね(笑)。

富井:割と江戸好みみたいな感じの。

桑山:なるほど。

富井:私は関西なので、こういうのを見ると江戸の色目かな、っていう形でちょっと反応してしまうんですけど。それがあって、あと形態的にも丸とか、さきほどばってんとか、三角も今見たらちょっとあったんですけど。そこからもう少し、立体的に変化が出てくる。それがだいたい80年ぐらいですかね。立体的になってくるのが。

桑山:そうですね。

富井:このあたりも、「どうしてですか」って聞こうと思ってたんですけど、60年代にはもうそれ実験なさってたっていうので(笑)、もう一回戻って。この場合はやっぱり絵画じゃないもの、っていう風に考えておられるのか、あるいは彫刻じゃないものとか。

桑山:そうですね。(カタログを見せながら)これ(《メタリックのベージュ》、1983−1984年)はオープンしたり、縮めたりできるものなんですよ。

富井:屏風ですね、そしたら。そのあとで今おっしゃってたような、現在続いてくるような、繰り返しのユニットで、もう少しアルミとか使った(作品に)。

桑山:そうですね。材料っていうのを。材料にすごく興味あるんですよ僕は。

富井:材料に興味があるんですか。

桑山:興味ありますね。大体、テープの作品だってあれ、材料なんですよね。粉絵具使った時でも粉絵具の材料ですよね。それも僕が勝手に作った材料なんですよ。あれを流してたわけなんですよ。粉絵具で、アクリルでお皿に溶いて、水みたいにして。流すとカンヴァスに引っかかっていくんですよ、粉が。それによって不思議なテクスチャーが。そういう時代もあるんですよ。

富井:それいつですか。

桑山:それはね、60年代の初期。

富井:そういうのもあるんですね。それは見たら流れてるんですかやっぱり。

桑山:流れてるんです。

富井:それは私、拝見したことがないので。

桑山:ないですか。その作品は、61、2年だな。

内藤:そうでしょうね。

桑山:ショウしたよ。あれで。

内藤:そうよね。

桑山:それはね、ちょっと不思議な感じがすると思う。

富井:引っかかるんですよね、粉が。

桑山:引っかかるんです。

富井:カンヴァスの布目にね。

桑山:ええ。

内藤:カンヴァスの、そうね。カンヴァスに引っかかる。

桑山:うん。カンヴァスに引っかかってく。それから紙だと、紙でも引っかかってくれる。

富井:繊維ですね。紙の繊維があるから。

桑山:だからそういう作品もかなり作ったんですよ。

富井:ちょっと意外ですね。

桑山:だからやっぱりね、材料に興味あるんですよ。

富井:じゃあ粉絵具、顔料のようなものですよね。それをアクリルで溶いて。流したり、あるいは普通に塗られたり、あと、クロームで。

桑山:あれも材料ですよね。

富井:材料になるわけですか。クローム自体が。

桑山:クロームっていうのもあれ額縁じゃないんですよ。僕の場合は。あれはパートナーです。

富井:じゃあ額縁と言っちゃいけないんですね。

桑山:言っちゃいけない、っていうんじゃなくて、額縁じゃないんですよ。

富井:なるほど。最初の頃にカンヴァス組んで、木の縁をつけてたのは、あれも材料になるんですか。

桑山:あの頃は材料って言うよりもやっぱりプロテクションでしょうね。あのへんはいい加減な、ラティス(lattice)っていうんですか、ストリップ(strip、細い木片)。あれをただ打ち付けてるだけで。

富井:そうするとクロームになるとやっぱり計算。

桑山:クロームになるともっと考えて、コーナーも45度に切って、きちんとしてるんです。それはもう作品の一部なんですよ。だから中まで入ってるでしょ。

富井:あれはじゃあ自分で作っておられたんですか。

桑山:自分で作ったんです。

富井:人に注文とか出したりしないで。で、最近だと、アルミとか使っておられますけれども、それはもう随分発注されてるんですよね。

桑山:そうですね。

富井:図面はでも(ご自分で)引いて。

桑山:ええ。だからここにあるのはほとんど全部、僕が作ったアルミじゃないよ。

富井:でも材料は選ばれてるわけですよね。

桑山:そうですね。色も。

富井:それはやっぱりテストかなんかするわけですか。

桑山:テストしますね。

富井:こういう材料で作ったらどうなるかとか、色がどういう風に発色するか、みたいなテストはなさって、それで決めて、あと発注していく、っていうことですか。

桑山:そうですね。

富井:随分最近はいくつか、(スタジオにある作品を見ながら)6つぐらい並んでて、こちら(の作品)はもっとたくさん並んでるんですけど、繰り返しの要素をこう並べていくとなんかインスタレーションみたいになってきてるんですね。最近。

桑山:そうですね。で、無限大に行くはずですよね。

富井:コンセプト的には続いていくわけですか。

桑山:無限大の一部なんです。だからどうしてもスペースっていうことが問題になってくるでしょ。ですから、ショウをする時に、ミュージアムのショウの時、フロアプランを持って、その場所でスペースを見て、それがないと僕できないんです。

富井:その場合は、部屋も材料になってるわけですか。

桑山:そうですね。場合によっては壁も作らなきゃいけないし。そういう仕事が多いですね。画廊でもそうですよ。僕はただ作品を渡すの嫌なんで。

富井:自分で行かれて。

桑山:自分で行って、自分で掛けたいし。自分で処理したいっていうの。

富井:じゃあこの間ニューヨークでやられた時も掛けられたんですか、自分で。アップタウンで。やっておられましたよね。

桑山:あれ自分で掛けました。このショウの時も自分でやったんです。

富井:それも自分で掛けられましたか。

内藤:掛けるのは自分じゃないけどね。

富井:ここのこの場所に、みたいな感じで。

桑山:この場所にこの高さで、こういう風にこれだけやる、っていう。

富井:実際の作業は他の人がするにしても、注文は桑山さんが出されるということで。

桑山:そうですね。70年代の九州の尾野正晴さんがまだ福岡の美術館にいた時、ショウやったんですよね。3人ぐらいだっけ、なんかの。

内藤:あれは行かなかったでしょ。

桑山:行かなかったけど。僕はその時に三点一組の作品をフロアから何センチのとこに、どういう風に掛けるかって、図を描いて全部、注文したんですよ

富井:最近のカタログ拝見してると、配置図っていうか、設計図面のような形でいつも出しておられますけど。

桑山:ええ。尾野さんが、「作家がどういう風に掛ける、って注文付けたのは初めてだ」って言われたの。だからその頃っていうのはまだそんなのなかったんでしょうね。

富井:じゃあ90年代ですかもう。

桑山:いや、70年代。

富井:70年代だったらそうでしょうね。

池上:今だったらね、割とそういうのも。

富井:インスタレーション、って言ってしまえばね。

桑山:そうですね。一つの部屋にこういう風にこの場所に掛けて欲しい、っていう図を描いて送って。

富井:桑山さんについて書いているものを見ると、そういう「ピュア・アート」って言うんですか、「純粋美術」みたいな言い方は時々見るんですけども。今ずっとお話うかがってると、ご自分でおっしゃるかどうかは別にして、そういう方向でお仕事なさっているというのが当たってるのかな、と思ったんですけども。

桑山:そうでしょうね。

富井:これは「ピュア・アート」ってご自分でもおっしゃいますか。

桑山:いえ。言ったこともあると思いますよ。以前。だけど、最近はあんまりそういうこともう言わなくてもすむんですよ(笑)。

富井:みんなわかってきたから、っていうことでしょうかね(笑)。

桑山:そうだと思います。

富井:いくつか見た中では「観念も、思想も、哲学も、理屈も、意味も、作家の人間性さえも私の作品には入っていない」っていうことで。

桑山:それはね、たまたま、63年だっけ。その頃の『アート・イン・アメリカ』の「ニュー・タレント」っていう、若い作家をピックアップする特集みたいなのがあった時があったんですよ。それに選ばれて、コメントを書いてほしい、って。その時のコメントなんです。だからほんとにずっと昔のコメントなんです。

富井:その考え方はじゃあ今でも持ち続けておられるのかどうか、っていうのは(笑)。

桑山:ある程度はそうですよね。だけどちょっと言い過ぎじゃないかな、って自分でも思うことはある(笑)。やっぱり思想っていうのは重要な問題であるし。ただアートの中にそれを持ち込む、ってのは。僕はそれがアートだと言われると嫌なの。だからやっぱりそういう意味ではそうですよね。今でも。そういうもんだと思うんですよ。

富井:じゃあアートと離れて、たとえば哲学書とか、思想書とかはもちろんお読みになってるわけですか。

桑山:ええ。それとそういう話もしますね。

富井:何か特にどういうタイプの哲学っていうことは。

桑山:いや、そういうことはないです。っていうよりやっぱり、アートですよね。僕が話したいのは、いつも。だからそういう点で多木さんと一番話が合うんですよ。

池上:60年代はアド・ラインハート(Ad Reinhardt)なんかも結構似たような考えで、ほんとに構図がない、繰り返しの絵画っていうのをやってたと思うんですけれども、彼に何か共感を覚えていたようなことはありますか。

桑山:彼の存在はもちろん知ってましたし、それに彼の最後のショウっていうの、生きてる間の。僕一緒にグループ・ショウやったんですよ。それが彼の最後だったわけ。

富井:一緒のグループ展だったんですか。

桑山:ディック・ベラミーが選んで、僕と彼と。後、何人かな。そういうショウをやったんですよ。

池上:グリーン・ギャラリーで。

桑山:グリーン・ギャラリーじゃなくて。マディソン・アヴェニューの81丁目のとこに、ディックがオフィスを持ってて。そこの画廊を借りて、彼がそういう企画のショウをやった。彼はその後すぐ死んじゃったんですよ。

池上:確か67年に亡くなってますよね。じゃあ67年のグループ・ショウ。

桑山:ええ。その死ぬ前の最後のラインハートのショウ、ってのは、僕一緒にやったんですよ。その時僕が出したのがこの赤いのだった。最初期の。

富井:これ(《赤》、1961年)ですか。

桑山:(内藤に尋ねて)たしかこれだよな? あの時のは。

内藤:(頷く)

桑山:それからラインハートの黒いのと。

池上:ちょうどやっぱりその頃にこういう色面絵画みたいなものがミニマリズムの文脈の中で再評価されてきた時期かな、と思うんですけども。

桑山:そうなんでしょうね。でも実際僕が作った時はもう全然(笑)。この作品はね、今グッゲンハイムに掛かってるこれ(《Untitled》、1962年、白い紙テープの作品)あるでしょ。これはすごく、僕のステイトメントとして、あの頃すごくしたかったことであるし、すごく自分ではクリアなんですよ、あれ。あれはニューヨークでもショウをしたし、日本でもこの時出したし、事あると僕はあれを出したいわけ。だけど今までずっと無視された作品でした(笑)。

富井:私は桑山さんのあれが掛かってたのでね、桑山さんご自身、まあアレクサンドラ(・モンロー Alexandra Munroe)がキュレーターとして選んだ、という事情は置いて、「桑山さんとしてはあの作品でよかったんですか」、という質問は一応用意してたんですけども。じゃあ、あの作品「が」よかったわけですね。

桑山:というよりね、選んだのはもちろんアレクサンドラが選んで。僕はあれって言われた時に、普通だと、新しいもの、今やってるものを、と思うでしょ。でもあれを言われた時に、「ああ、あれでよかった」と思った。日の目を浴びるっていうの。

富井:あれは歴史的な展覧会なので、今の作品というよりはやっぱり当時の作品、60年代に最初に出てこられた時の作品っていうのは、それはわかってたんですけども。でも特にあれっていうのは結構びっくりしたのでね。じゃあ、あれはお手持ちだったんですか。

桑山:そうです。だから今までも何回見せたって全然だった作品です(笑)。

富井:ああ、誰も買っていないということですか。

桑山:誰も何も無視。ずっと無視されたんです。何回も見せたんですよあれ、画廊で。だけど別に、何にも反響もなかった。あれは。

富井:だってあれはやっぱり見た時びっくりしましたから、今回(笑)。あの周りにあった真っ黒な作品とか、アン・トゥルーイット(Anne Truitt)とか並んでましたけど、あれは基本的には色面絵画の延長というか。あるいはその原型みたいなところで。

桑山:そうですね。

富井:もちろん私の理解の中では、桑山さんのお仕事っていうのは、その早い例として考えていたわけなんですけども、それよりももっと斬新なあのテープの表現が出てきましたので、非常にびっくりしたので。じゃあ彼女が選んだというのも目があった、ということの他に、桑山さんがやっぱり、一生懸命そういう形で思い入れのあったものだ、ということが理解できましたね。じゃあ何年経ってるのかな。45年ぐらい経っちゃってるんですか。45年以上経ってますね。今回作られたっていうことは。

桑山:経ってますね。それでね、金沢(21世紀美術館)ですか。あそこは「全部材料日本で作ってほしい」、って言うんですよ。日本製の材料で。日本って今すごい景気悪いでしょ。予算があるかないかって、しょっちゅう言われるわけ。こっちから送るのはどう、とかさ、日本で作るのは本当にその間際になって。「予算がないから」って言われた時に手持ちの自分の作品がない、ってのはすごく嫌じゃない。だからもし駄目な時でも、ショウをするだけの作品を手で持っていたい、と思ったわけ。で、あれ始めたわけ。すごい苦労して。去年の夏からかな。夏から、ちょうど去年の末ごろまでに出来上がったんですよ(笑)。

富井:どうでしたか、40年以上ぶりに作られて。あれ結構大変じゃないかな、と思うんですけど。

桑山:大変ですよ。

富井:紙をまずピンと張ってないといけないし。あと、微妙に角度をつけて、重ねていかれますよね。

桑山:あれ8点作ったんです。こう並べるように。掛ける。そうすると、美術館でもかなりのスペースいくでしょ。

内藤:16点作ったんじゃない。8点と8点。

桑山:8点と8点作ったわけ。一つは二つパネルで、真ん中にラインがあって。一つは何にもないやつ。両側に掛けるだけ。それをしたかったわけ。

富井:それでほとんど壁、画廊全部、ギャラリーの部屋が全部埋まるという形ですね。

桑山:そうそう。美術館の一つの部屋を。白い部分、ってのを作りたかったわけ。それとやっぱり手持ちのそういうものがないと。あれだけは手作りでないとできないんですよ。

富井:そうですよね。ご自分で作らないとあれだけは。では、アルミのオブジェですが。発注は日本でも。これは日本で作っておられるんですか。

桑山:これは日本です。

富井:じゃあ日本でできるわけですけれども。なるほど。

桑山:それでそれを作り出して、途中ぐらいで大阪の山口(ギャラリー山口)さんいますよね。彼が美術館との間のインヴォルヴ(involve、交渉)してくれて。彼から2ヶ月ぐらい前、電話があった時に、「全部日本で作るっていうことでしたい」、って言われて。

内藤:2ヶ月も経ってないでしょ、まだ。

桑山:1ヵ月ぐらいか。で、チタニウムで作るんですよ、今度は。だから色々楽しみは楽しみなんですけど、日本っていつ駄目になるかわからんじゃないですか、何でも。

富井:そうなんですか。それは私わからないですが(笑)。

桑山:僕もよくわからんのだけど。

池上:金沢は大丈夫だと思いますけど(笑)。

桑山:大丈夫?

池上:はい(笑)。

桑山:だから心配だったわけ、これ。

富井:これはちょっと台形になったやつをなさるわけですか。

桑山:いや、こういう壁に掛けるやつを。チタニウムで。天井が高いですから、もっと大きなもの作りたいんですよ。

富井:最近は結構日本が多いですね。最近日本でそういう大きいインスタレーションのような仕事を随分なさってるんじゃないですか。

桑山:そうですね。

富井:じゃあ最後に一つ。これ皆さんによく聞いてるんですけども。長年、随分長い間作家活動をされてきて、それで食べていらっしゃったわけですし(笑)。一番ご自分で大切にしてきたこと、って言うんでしょうかね。大切に考えてきたようなことが何かあれば教えていただきたいんですが。

桑山:大切にしてきたこと、ってのはやっぱり、どう言うかな。(しばらく考えて)アートに対する、思想みたいなものですか、作家の。そういうものは歪めたくない、っていう。

富井:それは言葉で言うわけじゃなくって。

桑山:言葉で言うわけじゃなくて。ええ。

富井:作品の中で示されるということですか。

桑山:作品の中というより、自分自身の中で。

富井・池上:ありがとうございました。