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松本武オーラル・ヒストリー 2013年6月26日

国立新美術館にて
インタヴュアー:平井章一、池上裕子
書き起こし:永田典子
公開日:2014年8月24日
 

平井:前回、生い立ちのお話とか東京画廊に入られた経緯とか、あとコレクターの方のお話をいろいろお伺いできて非常に面白かったです。だいたい具体(美術協会)の吉原さんと東京画廊でのお付き合いが始まるあたりで話が終わったかなという気がしております。

松本:はい。今日、前回に懲りずに恥も考えずにお答えいたしますけど、どうぞ、このへんからこんなふうで、とおっしゃっていただいたら、一所懸命思い出してお答えします。

池上:よろしくお願いします。具体の作家さんたちとのお付き合いのあたりから、今回お伺いしたいと思います。

平井:そうですね。

松本:それでは具体と東京画廊ということですね。われわれは、前回も申し上げたとおり、うちの山本(孝)がこのあとはきわめて前衛的な美術の時代が来るだろうということで、いろんな方にお願いをして、相談をして、そして自分もリフレッシュしていろいろやってきたんですね。昔のカタログがここ(国立新美術館)に届いているのですが、加山又造さんのブリューゲルにそっくりな絵とか、それからその前に萬鐵五郎さんの展覧会をやって。これ、《草上の裸婦》というのはうちに並んでいた絵なんですよ。まあ自分としては一所懸命新しい絵をやってきたつもりだし、斎藤義重さんというのは瀧口(修造)さんのご紹介で知り合いになったわけで、その斎藤さんなんかのお話を聞きながらやってきたなかで、関西にすごい具体グループというのがどうもできておるらしいと。「松本くん、見に行ってこい」と。「おれもこのあいだ見に行ってきた」と。そうこうしているうちにピナコテカがオープンになりまして、見てきた。
 それで「すごい」と思うんだけど、あれをなんとかしたいんだけど、お話によると大変強力なグループであると。よそからつついても、その中の人たちのものを見るとか、運び出すとか、商売にするというのはできない。要するに一枚岩であると。吉原治良をキャップにした一枚岩である。どうしようか。でもやっぱりわれわれとしては個展でやっていきたいな、どうしようか、とずいぶん考えました。それでいろいろな人に聞いてみると、やっぱり吉原治良さんという人の、絵のことじゃなくて、グループを統率する人間的な力、経済力も大きいんですね。

平井:ええ。

松本:で、手も足も出ない。でもなんとかしなきゃいけない。誰から崩そうか。吉原さんのところのお弟子さんの誰を、最初に東京画廊の個展をやってもらうかというので、ずいぶん考えましたよ。私も山本も一緒にみんなで考えた。それじゃ白髪くんから行こう、というので白髪一雄さんから個展(1962年3月12−24日)をやる。白髪さんの個展を東京画廊でやるについて、白髪さんが吉原治良さんに了解を取るのが大変だと。年代も違うんですけど、ものの組み立て方が違うんですね。なので、「そんな、東京くんだりでそんなことしよる」、ひと言で終わりですよね。それでまあ白髪さんがやって。
 ところがそれが評判が良くて、売れたりして、じゃあ第2弾。最後は吉原さんの展覧会をやらしてもらうつもりですよね、本陣ですから。第2弾が元永(定正、1922–2011)さん(1961年9月18−30日)。元永さんが東京に出てきて、いい具合に新聞かなんかで評判が良くて。そうこうしているうちに具体グループと、グタイピナコテカの中でいろんな催しを、個展だけじゃなくてやるはめになった。もちろんパリから(ミシェル・)タピエ(Michel Tapié)が来て、(クリスト・)クッツェー(Christo Coetzee)の展覧会とかフランコ・ガレッリ(Franco Garelli)の展覧会とかいろいろ持って来るんです。それから(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu)なんかも連れてきますよね。そういうニュースをわれわれは横目でいやになるほどわかっているわけです。僕がたまたま関西の担当で、西宮に派遣されていたもんですから、その辺を突き崩すのが僕の仕事だったんです。そこでのグループへ、日参とは言いませんけど、しまして。具体のアーティストもいい仲間ですよ、ほとんど同じ年の、みんなあんまりお金のない、ひもじいグループ。あそこに(ルーチョ・)フォンタナ(Lucio Fontana)の大きな、脳みそみたいなでかい焼き物、それから絵が来てました。お互いにグタイとフォンタナとコレポン(注:コレスポンデンス、海外とのやり取りの意)がある。うちもフォンタナ展をやってるんです。それをテコにして吉原さんに頼んで、僕が東京画廊として、「フォンタナと(ジュゼッペ・)カポグロッシ(Giuseppe Capogrossi)の展覧会をここでさしてもらいます」と言って。「そうか、ほな松ちゃんやってみ」って言われて。それから運びました、全部汽車で。列車へ乗せて、何回にも分けて。予算が出ないものですからね。向こうも予算ないんですよ。うちの、東京でいばっている山本は、「そんなのお前が勝手に言ったんだから。絵は貸してやるけど」って。フォンタナとカポグロッシの展覧会(1962年、1963年)をやりまして。大きなポスターもできましてね。
 画期的なことだったんでしょう。それで吉原さんやグループの人たちの心証が良くなった。というのは、白髪が評判が良かった、元永が評判が良かった。それから実際に展覧会は、「松ちゃん、ウソでなしにほんまにフォンタナとカポグロッシの絵をようけ持ってきて並べよるわ」「あれやるで、おい、あの男」てなもんで、なんとなくみんなに認められたというかな。それで具体のピナコテカを挟んでのグループと、うちの東京画廊との間に、一つの、何て言うかな、パイプができた。ですからいろんな展覧会をそのあとやりました。たとえば「エディション・マット」(1965年12月4−18日)という、これはアメリカで出したもの(注:ダニエル・スポエリとカール・ゲルストナーが企画しドイツ、シュピゲール画廊で開催されたもの)ですがそういう展覧会とか、それから何回かピナコテカを借りて。

平井:カール・ゲルストナー(Karl Gerstner)ですか?

松本:カール・ゲルストナー、そうですね。それから「世界のポスター展」。あれもそうですね、250種類ぐらい世界中の人の個展のポスターを持ってきて吊るんですけど、費用が出ないんですよ。だからとにかく自分でやんなきゃいけない、糸で吊って。そうするとそういうのを見てて、吉原さんという人は、ええとこの、言ったら申し訳ないけど、ええ家のぼんですから。「おおきに、おおきに。松ちゃん、ごくろうはん」、「おおきに。ええなあ、よろしなあ」、「ほな、お願いな」って(笑)。でもそのときに、やっぱり吉原さんが持っている具体の中における力と、彼が選んだ作家との力関係、それからグループの人たちの横のつながりというか力関係、それが私は肌でしみました。それはやがて(大阪)万博の会場、フジパビリオンかな、「グタイ」という一つの大きな作品を出せといって、予算がついて。

平井:みどり館ですね。

松本:ああ、みどり館ですね。それでディスカッションをしょっちゅうしておって、やがてなめくじのお化けみたいな大きなのが出来上がる。そういういきさつを横目で見て、「具体というのは何だ」ということがよく分かった。たとえば、吉原さん、あの人は12月に誕生日かな。そうするとお誕生日(会)をやるというと、こんな大きなケーキを持って行ったりね。当時、具体のグループの人たちってなかなかモダンでしたよね。サントリーに勤めている人、それからいとこさん、それから宣伝をやってた人かな、それから設備を作っている会社に勤めていた人、そういう若い人たちはみんなジャズの演奏をするんですよ。自分たちで作曲してね、「ピナコテカ・ブルース」なんて(笑)。いまあのフィルム、あの音楽があったら面白いのになと思って。吉原通雄さんはピアノを弾いたのかな。

平井:通雄さんはドラムだったかもしれませんね。

松本:ドラムだったね。それと(吉原)淳夫というのが。

平井:淳夫さんね。

松本:それからベースをやってるのがいた。

平井:向井(修二)さんがベースをやっていた。

松本:それでね、これが面白いんですな。具体をヨーロッパに猛烈な勢いで紹介していったミシェル・タピエという人、あれがベーシストですよ。

池上:タピエさんは楽器もできたんですか。

松本:というより、スタートはベースですよ。クリスティーズというオークション会社があるんですが、これが一昨年かな、面白い展覧会をやったんです、パリで。これはオークション会社ですからものを売るための会社なんですけども、面白い企画で立派なカタログを作ったんです。『ミシェル・タピエとその考え』という(注:Un art autre? : artistes autour de Michel Tapié (Paris : Christie’s, 2012))。ですから彼は、最初ベーシストで出てきたあたりの写真が全部残っていて、それからマニフェストを何通りも書いて、やがて現代美術の旗手に祭り上げられて。旗手になるとほとんど同じように日本へ来て、具体グループと知り合って、それをまた大量にヨーロッパに持っていった。
 トリノに現代美術研究所という、立派な建物でしたよ、それを作りまして。自分はそこに寝起きするんですね、あの人は。現代美術研究所のトリノの場所を提供した人は、タピエさんが可愛がっていたミノラ(Minola)という男性の作家がいましてね、その人の妹さんだと思ったな、アダ・ミノラ(Ada Minola)という、べっぴんさんの作家がいて。どうもそれと非常に親しくて、そのミノラのファミリーがタピエにカネを出したという。

平井:私も行ってみました、2、3年前に、トリノ。

松本:ああ、そうですか。あそこね、今どうなってるかわからないけど。

平井:もう廃墟になってました。建物はありました。

松本:あそこは立派な建物でしてね、ギッチリ具体の絵が入っていた。トリノのそこに具体のものが全部残っている。しかもそこは今空き家だと。タピエは、アダのファミリーに世話になっていたんだけど、アダはミノラのファミリーのどうもこれ(注:問題人物の意)なんで、あそこを引き上げちゃって。タピエはもういないんだから、あそこをなんとかして紹介するから、お前それほど興味があるんならって、僕に行って、踏み込んで、調べて写真を撮れと言った人がいるんですよ。それが (ロドルフ・)スタドラー(Rodolphe Stadler)。

平井:ふーん。

松本:というのは、スタドラーという男は、日本から具体のものが来ると全部買ってたんですよ、パリで。スタドラーというのはスイスの金持ちの息子ですよ。で、そこへスタドラーの紹介で行くんですけど、タピエさんはもうそのときいなかったと思います。タピエに息子が2人いるんです。一人が映画監督で、一人が出版社か何かをやってたかな。その片一方を連れてトリノへ3日間ぐらい、メシも食わずに撮りましたよ、写真。6×6で。その写真が後で山村コレクションになる。私が踏み込んだときは、(ジャクソン・)ポロック(Jackson Pollock)もありましたし、フォンタナの大きいものもあったし、そこはビッチリありました。今、先生方ご存知かな、東京都の現代美術館に入っている吉原治良の絵で、丸になりかけの絵、Gという字に似てる(《作品》、1962年)。

平井:はいはい、ピナコテカのマークになっている。

松本:あれがそこに寝そべっていた、その壁に。 

平井:ほーお。

松本:僕はその写真を撮りながら、「あ、これ治良さんの出世作だ。具体のマークにした絵だ」と思って一所懸命写真を撮って。すぐ東京へ持って帰ってきて、東京都(美術館)の萬木(康博)さんに話をした。でも「カネない」って。「ない」って、今逃したらあれ持っていかれちゃう、もう今しかないって。などなどエトセトラ、そういう話がずっとあるんですけどね。そのときにタピエさんという人は、具体だけじゃなくて、非常にカリグラフィックなものにあこがれを抱いていた。それはどうも音楽から来ているんじゃないかと。ベッドがありましてね。日本風のたたずまいにして。そばに大きな自分が弾いていたベースが置いてありましてね。おそらくそれはミノラ・ファミリーの中の娘さん、アダ・ミノラがそこを面倒みたんだと思う。
 残念なことに、そのときの現代美術研究所のカタログを僕は持ってたんですが、誰かに取られてしまった。ただ、かろうじていくらか写真が残っています、自分の手元に。それでそれを、トリノの話ですから写真の現像屋なんて僕は何が何だかわからない、それを抱いて急いでニューヨークへ行って、近藤(竜男)さんとこへ頼んで、現像して、持って帰ってきて。それで買えるものは買っちゃおうというので、買って、話をしているところに山村徳太郎さんがみえて、「それ、私一枚かませてもらいます」、というのが山村コレクションの母体です。ですから元永さん、嶋本(昭三)さん、それから吉原さん、白髪さん、ずっとトリノに行ってたものが、名作が入ってきた。で、山村さんはそれだけじゃなくて、その次の年代の人、たとえば松谷(武判)くんなんかの年代の人というのは、これは後で山村さんは買い足すんですね。トリノには行ってない、年代的に言うと行ってないですね。
 そんなことでその頃、具体というのはピナコテカというのがあって元気にやってたけど、逆に言うとそれを買おうなんていうのはいなかった。白い目で見られた。この本が見つからないので僕は残念なんですが、私より2、3ヶ月前にどうも乾由明さんがトリノへ行ったらしいんですね、私が踏み込む前に。そしてミノラ・ファミリーに、「こういう日本の絵があるけど見る?」って言われたらしい。彼はものすごく忙しかったので、「あ、見る」って、いいかげんにちょっと斜めに見たんですね。するとものすごい量があるというのがわかった。それを、帰ってきて『藝術新潮』かなんかに書いてるんですよ。「あの頃盛んだった人たちの亡霊を見る思いがした」と書いてある。それでその「亡霊を見る思いがした」というくだりにうちの山本が過激に反応しましてね(笑)。

平井、池上:(笑)。

松本:ものすごい過激な反応をして僕にくってかかったんです、「なんてことを言うやつだ」って。僕は「まあまあ」って。そう思われても仕方がないほど具体の絵は売れてなかったんです。つまりトリノにある絵も、最終到着駅ではあったけど、ミノラ・ファミリーも「さあどうしよう」と思ってたんじゃないですか。

池上:松本さんがトリノに行かれたのは具体の解散前ですか、後ですか。

松本:いや、あと。

平井:いまのお話だと1980年代の頭ぐらいですね。

松本:そうです。僕がトリノへ行ったのは、私の日記では出てきますけどね……(メモを繰りながら)ピナコテカが開いたのが1962年ですよね。

平井:8月かな。

松本:そうそう。それでピナコテカで、カール・ゲルストナー(Karl Gerstner)の展覧会(1968年)とか(エンリコ・)カステラーニ(Enrico Castellani)とかの展覧会(1966年)を僕が一所懸命手伝わしていただいた。ですね。えーっと、僕は78年の10月にトリノに滞在していますね。

池上:じゃあ解散してしばらくしてから。

松本:そうです。

池上:みなさんご苦労されていた時期ですね。

松本:そうです、そうです。

平井:まだ具体がリバイバルする前。

松本:まだ誰も見向きもしない。

池上:終わってしまった団体というふうに思われていたんですね。

松本:その頃、パリのグラン・パレではアートフェアなどというのがあったのでね、東京(画廊)も参加したんですけど、紙一枚売れなかったという。南画廊の志水(楠男、1926–1979)さんも同じときに出してたんですけど、彼も売れないんですよ。帰りの飛行機が私と志水さん一緒で、結局、そのときに志水さんはめずらしく、こう何と言うか嘆いてね。結局、帰ってきてそのままになっちゃった。だからあの嘆いたのは、あれは本気で嘆いたんですね。「松ちゃーん、どうしよう」って言った。あれは本気だった。本気でどうしよう、だったんですよ。で、こっちはわかんないから。兄さんみたいな年の人でしょ。こんな体格のいいねえ。「いや、志水さん、そういうこともありますよ」「いや、そんなこと言ってんじゃないんだよ、松本くん」「松ちゃ〜ん!」とか言って。あのパリの飛行機の中で彼が懸命に嘆いたのを僕覚えてます。まあまあそんなことですね。これ(日記)で見ると、78年の10月にパリ、トリノ、パリと往復して、帰りにニューヨークへ行って、現像をして持って帰ってきています。

池上:山村さんはそこから何点も重要なものを買い物されて?

松本:それはもうちょっと経ってからです。話はするんですけど、まだ彼は自分の身の回りで、それだけのお金をちょっと用立てできないというか。

池上:具体以外のものは買われなかったんですか。トリノには具体以外の作品もたくさんあったのに。

松本:ポロックはもうアメリカ人が買っちゃいました。フォンタナはイタリア人が買ってしまいました。

池上:手をこまねいていると売れちゃう(笑)。

松本:そうそう。もう僕が撮ってるそばから。要するにミノラの家族にしたら、とにかくカネになるものはなんでもいいから売っちゃえと。親不孝な娘だ、あんな変な男にひっかかってこんな目になってって、まあ言わないけども言わんばかり。そういう裏事情を全部、あのスタドラーのおじさんは知ってたんですね。スタドラーという人も、やっぱり白髪の絵やなんかを持ってましたよ、買わせられて。それがまあ今兵庫の美術館、山村コレクションに入っている代表作二つ、三つ、スタドラーが持っていたものです。

平井:その買うというのは、タピエの息子さんから買ったかたちですか。

松本:いえいえ。これも面白いんですよ。もう日本を離れて何年も経っているので、所有権が誰のものだかわからない。たしかに仲介をしたのはスタドラーさんだけど、それで「お金を日本へ送った」って言うんですよ。ところが日本の作家に聞いてみると、「私、一銭ももろてへん」「あの絵、タダで取られたんや」。元永さんなんか、象の鼻みたいな絵。

池上:「タピエ氏に捧ぐ」と書かれている(注:《作品》、1958年)。

松本:「松ちゃんな、あの絵な、わしカネもろてへんで」てなことを、帰ってくるとそのピナコテカで言われるんですよ。それからまたスタドラーに頼んで、念書をパリの裁判所に作ってもらいましたよ。所有権が、所有者の管理がこれだけ時間が経ったら、元の作家からの所有権の請求権は裁判所として認めない、というような念書を一点一点全部作ってもらいましてね。それはスタドラーが骨を折ってくれたんです。その紙を握って、日本へじゃあ持って帰ろうじゃないかと。で、日本へ帰るときに、じゃあ誰に金を払ったらいいんだ。所有権ないんですからね。それでその紙を、要するに権利書を作ってくれたスタドラーは、僕が裁判所へ呼ばれたら僕が全部引き受けるから、まずお前持って帰れ。金はおれに渡せ、おれはあんたの顔をつぶすようなことはしないから大丈夫だといって。「そうかい」というんで、まとまったカネをスタドラーに送って、あるかたまりが2回に分かれたかな、日本へやってきた。それでそのかたまりを見て、山村さんがそれをほとんど、「これもいただきます、あれもいただきます」になった。

池上:じゃあミノラ家にはお金は払わずに。

松本:それをスタドラーが払ったかどうかな。

池上:スタドラーさんに渡したものを、彼がミノラ家に渡した、かもしれない。

松本:渡したかどうかはわかんない。それからミノラ家では、もうとにかくあの邪魔な絵がなくなることが嬉しいんだよ。商品価値としてどうだなんて、今と違いますからね、とにかく、とにかくこの邪魔なものをなんとかしてよという。

池上:場所を空けたいという。

松本:うん。磯辺(行久)がたくさんあったんですよ。写真で数えたらわかるんですけど、あの大きいの、あれベニヤ2枚の大きさですから、6尺掛ける6尺、ね。あれが30枚ぐらいありましたよね。そうすると、あれ一人で持ち上がらないんですよ。今はなんでも持ち上がりますけど。それが30枚も壁にぎっちり入ってたら、そらミノラ家としては邪魔で困っただろうなと。

池上:大変ですね(笑)。

平井:私はそのトリノでジオ・ミノラ(Gio Minola)さんにお会いしました。

松本:それは弟さん。

平井:弟さんですかね。

松本:ジオ、はい。その姉ちゃんの「いい人」だったんじゃないかな、彼は、ベーシストのおじさんは。

平井:タピエ。

松本:じゃないかと思う。なかなかタピエさんというのはそういう意味では達者な人で。日本へ来たときの宴会の写真とか、日本へ来て吉原さんがもてなして全部吉原さんが面倒をみたとき、必ずすごい美女が一人隣りについて。

平井:いつも写っている人がいますね。

松本:そうそう。あの人、具体が解散して、『具体美術の18年』を出したときに(注:「具体美術の18年」刊行委員会、1976年)、なんとかこの子を捜し出せばもっといろんなことがわかるだろうと思ってずいぶん捜したんですけど。やっぱりね、女性としては、タピエさんが来なくなったことで自分の仕事は終わりというので、自分はどこかへ身を隠しちゃうんですよね。で、ようとして行方知れず。当時、フランス語と日本語の間をやってくれていたのが、京都の大学の学長さんになられた方で、よく通訳をずっとしておられた……

平井:芳賀(徹)先生ですか?

松本:芳賀さん。芳賀さんもねえ、「先生、芳賀さんとしても捜したいでしょ?」ったら、「そうだよねえ。あの人出てくると、僕、ずいぶんいろんなことわかるんだけど」って一所懸命捜したんだけど、ようとして知れず。何と言うかな、きわめて日本人らしい。

平井:通訳をされていたんですか、彼女は。フランス語ができた?

松本:いや、そうじゃなくて。どうして彼と一緒にしょっちゅういるんだかわかんない。だれかが紹介したという痕跡もないんです。ただ離さなかったですね、タピエさんという人が、日本にいるときはいつも。えーっと、何と言ったかな。

平井:なんとかルミさん(笑)。

松本:そう、ルミさん。だからたぶんタピエさんという人は、トリノへ行ったときは、そのお会いした人のお姉ちゃんが「ルミさん」だったんじゃないか。

平井:あちこちに彼女がいたんでしょうね(笑)。

松本:それと美術と関係ないといえばそうだけど、お金が流れますからね。まあ余計なことですけど。

平井:いまのお話ですと、具体には東京画廊のほうから接触をされたということですね。

松本:そうです。懸命に穴を開けてとっかかりを作って。それで僕は今変なことを覚えてるんですが、その具体で白髪さん、元永さん、吉原さんとやっていく途中で年末がありましてね。年末年始に集まって、句会というか、面白おかしく遊ぼうというのでみんな宴会みたいなものを。そうしたら山本孝さんが、「今年は俳句なんかやんないんで、なぞかけ問答だからな」って。それでみんなで「一席の人には1万円出すからな」って。てめえの給料が1万円ちょっとぐらいのときに大きいですよ。それでみんなでこそこそ作った。そしたら僕が、そのときにその間の事情をよく知っていたものですから、「具体とかけて、遊び人の息子と解く」って言ったのかな。「その心は吉原と切れない」って。つまり白髪と元永を東京画廊へ出すのに吉原さんの強烈な抵抗があった、それをそういうなぞかけ問答を作って、1万円もらって帰って、えらいかあちゃんに喜ばれて。

池上:1等になったんですね(笑)。

松本:そうそう。どうだっていいんですけど、そんなことが。つまり吉原さんというのは、自分のグループをいろんな人からちょっかいを出されて崩されるのがお嫌だったんですね。

池上:そのようなことは聞いています。

松本:ええ。だから強烈でしたよ。今度はもう一つ、これは申し上げていいのかどうかわかんないんだけど、(ウィリアム・)リーバーマン(William S. Lieberman)が日本へ来て、日本の現代美術展をやると。それで黒い表紙のカタログ(注:The New Japanese Painting and Sculpture (New York: Museum of Modern Art, 1966))ができました。あれを、日本全国いろんな人のところを歩いて、そして取材をした。当然具体へ行きますね。当時は、こういう8×10という大きい写真は、写真機を持っている人がいなかった。東京に3、4台しかない、大阪に1台しかなかった。それでリーバーマンは、そのときに「8×10の白黒の写真を、この次来るまでに各自3枚ずつ用意するように」と言い置いて帰っちゃった。そんな前時代的な時代の話ですよ。
 それで具体の人の中でリーバーマンが選んでいった。具体じゃない人ももちろんたくさんいたんです。関西からも京都の人たちとかね、現代作家のずっとこう。具体の人では元永さんと白髪さんが入ってるんだけど、吉原さんが入らないんですよ、その8×10の写真を撮れというリストに入ってない。それでうちが困っちゃいましてね。これ吉原さん、もしアメリカの現代展に出さないということになったらめちゃくちゃになっちゃうぞ、なんとかしようじゃないか、と。よし、じゃあなんとかリーバーマンを口説け、ということになって(笑)。寄ってたかってリーバーマンに下手くそな英語で、みんなで一所懸命言って、いかに彼が具体グループに大事な人か、これを入れなかったらどうにもならないと。それで彼は「どうしてこの絵を入れるんだ。これは格が違うだろう、他の人と」って。アンフォルメルの、今、兵庫に入っているでしょ、山村コレクション。あの時代ですからね、まだこれ(円)にならないんですよ。「こんな描きなぐって描いた絵を、おれ持って帰れないよ」と彼が言うんですよ。「それでもなんでもいいから、これをとにかく選ぶとお前の仕事がやりよくなるから選べ」って、それでようやく入って。もちろんその辺のいきさつは吉原さんに言うわけにはいかない。それであの日本の現代美術展というカタログが。

池上:カタログを見ると全員の名前と写真が出てきますけど、いかにも当然のように入っていますよね。

松本:そうそう(笑)。それで今度は具体グループの若手の人たち、みんなその裏話を知ってるわけですよ、噂で。だから逆にインドのトリエンナーレ、あれで賞をもらったときはみんなで万歳三唱しましたよ(笑)。(注:吉原は1971年のインド・トリエンナーレでゴールド・メダルを受賞)

平井:よかったって(笑)。

松本:よかった、よかったって。一番喜んだのはたぶんご本人でしょう。そのときのコミッショナーが富山(秀男)さん、(東京国立)近代美術館の。あとで富山さんがすごい喜んで、あんなに人間が喜べるもんかと思うくらい喜ばれたような。当時、吉原さんという人は、まあいい家のぼんぼんで悪い遊びをしなかった人ですから、藤田(嗣治)が日本へ来ると、京都のお茶屋へ居続けをする。そのお金を親父からもらっては払いに行った、吉原さんが。ですから藤田との親交というのはよくわかるんですけど。でも吉原さんはそのまますっと帰ってきちゃうような人で、何もなかった。その吉原さんが、そうですねえ、何をどう思い違いされたかはわかんないけど、具体で、こういう華やかなインドのトリエンナーレで賞をもらう2、3年ぐらい前から、なんかこう夜に目覚めたというか。それでトリエンナーレのペンダント、あれを首に下げて東京へ遊びに来るんです。

平井:へえー(笑)。

松本:そんなこと言うと吉原さんは今ここへ出てきて、「松ちゃん、そんなこと言うたらあかん」と言うかもしらんけど。「先生はおえらい人で、そんなんもろたんか?」とかってオミズのおネエさんが聞くでしょ。「見せよか〜」って(笑)。

池上:ちょっと可愛らしいですね。

松本:そう。そのときほんとにあれがあったからよかった。当時、うちの山本がアメリカの大使に任命された人とあるつながりがありまして。アメリカの大使館に古い絵が掛かっていて、いっぺん日本の現代美術の絵で飾り直すんだということになりまして。じゃあ今のバリバリの元気のいいのでやろうじゃないかということで、外務省と交渉をして。そしたら外務省っていうのはすごい、あれ、「運賃は出すけど、絵を描かせるのはお前らの勝手だ」といって。「ああそうですか、じゃあいいですよ」って、斎藤さん、吉原さん、前田(常作)さん、関根(美夫)さん、あと誰だったかな、とんでもない大きな絵を描いてもらったんですよ。で、大使館も立派に飾った。ロックフェラー夫妻が来て、「ようやく日本の大使館は現代になったわね」と言ったとか言わないとか。それはどうでもいいんですが。その牛場(信彦)さんとおっしゃる大使が日本へ帰国することになって。その牛場大使のためにその絵が掛かっていたわけですからね、数点の巨大な現代美術が。牛場さんがお帰りになるったら、外務省は「これいりません」って。

平井:えっ!(笑)。

松本:ね? もうしょうがないじゃないですか。今度はこっちが取りに行って、飛行機に積んで持って帰ってきた。大きいんですよ、それが。それでどうにも大きくて困っていたら、万博跡の国立国際美術館が開くことになって、吉原治良さんのあの巨大な丸がそこに並んだ(注:《無題》、1971年。大きさは230.0 × 315.5cm)。

平井:なるほど、そういうことなんですね。

松本:ですからあの絵は不幸な絵なんですよ。吉原さんはもう命がけで描いたのね。山本はああいう男だから、「いい絵だね。先生、いい絵だね。いやあ、さすが」ったら、「そうでっしゃろか。わしもまあね、これでインドで弾みがついてな」とかって描いた。それで牛場大使が帰ってくるというと、外務省は「そんなのいらん」って。「好きに、どうにでもせえ」って。それで持って帰ってきて困ってた。そしたら建て直しのとき本間(正義)先生が、「山本くん、大きな絵で困っとるんなら、ほなうち引き受けるわ」って。という裏話というかな。

平井:ちょうど具体とのお付き合いが始まった頃、具体のそういう戦略があって西宮にお引っ越しされた。そうではない?

松本:まあ半分か、3分の1ぐらいそうですね。大橋コレクションの大橋(嘉一)さんとの売り込み、その他「新しいお客さんを開拓せえ」と。大林芳郎さん。

平井:前回伺いましたね。

松本:生け花の、未生流の肥原さん。それから山の上に生け花の館を作ってた、一派を成した方もいた。それから今もやってますけど……

平井:小原さん。

松本:そう、(小原)豊雲さん。豊雲さんも元気だった。あの頃、面白い、関西では「八の会」。今でもあるのかな、8月の8日に関西の文化人が集まって、暑いからなんとなくビールを飲む会っていうのがあるんです。それでその会場が小原豊雲さんの館なんですよ。小原参考館(注:現在は豊雲記念館、神戸市)の上なんです。それでその「八の会」に呼んでもらえない人は、阪神間で文化人でないんだな。と言われた。そしたらうちの山本が、誰に頼んだのかわかりませんけど、僕のとこに招待状が来た。小磯(良平)さんに頼んだんじゃないかな。というのは、小磯さんの絵というのは画商の組合でしょっちゅう売り買いされてます。小磯さんというのは大先輩ですからね。それで僕も「八の会」へ何回か行きましたよ。デザイナーの、今こっちへ来てしまった、喫茶店を作っていたデザイナーの人とか、小原さんとか、それからコスチュームを専門にやってた人とか、それからファッションの仕事をしてる人たちとか若い人が来ましてね。ずいぶん関西って違うもんだな、東京にはないなと思って。そしたら要するにコミュニティが小さいんですね。だからまとまる。東京みたいにバカみたいにでかくない。でかくなっちゃうとできない。阪神間の人だけなんです。そんな集まりが。で、小原さんのとこでも、ダリが大好きということで、ダリの絵をずいぶん買ってもらいましたよ。

平井:ほーお、小原さんに。

松本:うん。それでお金があるんだかないんだかわかんないんだ。ものすごい値切られて、なかなかもらえないんだ。だから一説によると「ないんだ」というのよね。一説によると、「松ちゃん、あるんだよ、出さないんだよ」って。ダリの絵が好きな人で、ダリの絵を持っていくと喜んで会ってくれた。「よろしな、うん、よろしな」。「よろしいな」というんだから買ってくれるのかなと思うと、「ほなまたな」って言うんです。今、三代目の方が継いでるかな?

平井:そうですかね。

松本:豊雲はやっぱり吉原さんなんかと非常に親交があって。小磯さん、吉原さんというのも親交がある。そこへサントリーの佐治(敬三)さん、三和銀行の渡辺(忠雄)さんなんかが経済人で入ってましたよね。面白い社会でしたね。それから山発コレクションの山本發次郎さん、モジリアーニを持っている、彼ね。そういう人が八の八というときには、夕方ふっと現れるという、八の会。だからそこにみんないるのは、白髪、元永はじめ、吉田(稔郎)くんとか、そういう具体の。

池上:作家さんたちも来られて。

松本:ええ、そうそう。それから地震のとき亡くなってしまった津高(和一)さんなんかもよく見えてましたね。それから大河内(菊雄、美術評論家)さんなんかも出入りされてたかなあ。それでいろんなニュースがそこで流れてきて、ああいう人がいる、こういう若い人が今度展覧会やる、今度元町画廊でこういう人が展覧会やるってニュースが入ってくるわけです。それを見て眺めて、感想を東京に流して、また山本と相談してという、それが僕の。

平井:では関西の窓口をいろいろ。

松本:ええ、そうですね。ところが東京で僕と同じように山本孝の助手をするのが、一人辞め、二人辞めて、パタパタとお家の都合で辞めちゃったもんだから、東京が人手不足になってそれで僕が呼び戻されちゃう。ほんとならあのまま居ついてもいいかなと思ってたくらいですけどね。でも逆に僕が東京に帰ってきたおかげで、山村さんは一所懸命自分で山村コレクションを作ろうとなさったんじゃないかな。

平井:吉原治良さんは、もちろん私は直接お目にかかったことはないんですけど、かなり好き嫌いの激しい方で。

松本:ええ、あのねえ、非常に気むずかしい人でした。いつもここへこうシワが寄ってるんですよ。

平井:新聞の美術記者の方でも、わりと親しく招き入れられた方と、「あんた来なくていい」と言われた方(笑)、すごくそれがはっきりされていたと。

松本:僕、自分の目の前で起きた事件ですけど、梅田画廊の跡取りが来て。ピナコテカでね。ちょっとまあ「オレ、梅田の跡取りやねん」なんてな顔して。「松ちゃん、あれ何でっか、あの人?」「いや、こういう人です」「そうですか、まあよろしわな」って言ってた。大きい絵でしょう、みんな。ピナコテカの中にでかい(絵が架けられていた)。そうしたらツカツカと来て、「ほな吉原先生、お邪魔しました。ようけ大きな絵がおまんな。これ全部在庫品でっかいな」って言うてしもた。

平井:はあ(笑)。

松本:まあそら商人だから言いますわな。

池上:でも本人の目の前で言わないですよね(笑)。

松本:そしたらこう、そのとき大きな声は出しませんでしたけれど、「もう二度と来んように」言うてな。「もうわしもここで帰るわ」つって、ものすごいむくれて帰っていった(笑)。吉原さんというのは吉原製油の、まあお兄さんが、社長になるべき人が病気で夭折なさって、それで心ならずも自分が製油会社の跡を継いだ。食べ物の、ゴールデンサラダ油の会社。それで絵描きさんと二足のわらじ、そのかわり親の財産全部受け取った。ですからピナコテカの建物のとこへ来るのに、外車のでかーい、とんでもない、アメリカのクルマそのまま改装してないのに乗ってくるんです、運転手付きで。そうするとご存知のとおり音が違うでしょ、ドドドドドッと来るじゃないですか、シッポがピュッとこうなってる。「もうわしは今日帰るわ」って、ビャーンと閉めてドドドドドッと。みんなは「あーっ、えらいことになった」って(笑)。

平井:それは芦屋のお家に帰られるんですか。

松本:そうそう。

平井:お向かいにも本宅があったんですよね。

松本:ええ。あれ面白い。これもまた大林さんが出てくるんですがね。そのピナコテカというのは、中之島にあった、私の聞いている範囲では、油を絞るための穀物の倉庫なんです。穀物の倉庫ということは、俵に入っている穀物を壁のところに積みますから、壁が傷まないように縦に板がずっと、柱がついている。あれは壁の崩れよけですよね。で、それがそのまんま残っていた。だからあのピナコテカができた。その倉庫の続き屋敷の向かいがわに大きな日本邸宅があった。それが本家。要するに吉原さんのお父さん、お母さんがそこで油屋をやってたんですわ。だからその辺一帯全部吉原家のもの。だから本家の日本屋敷にはイサム・ノグチなんかが泊まってます。ところが、ピナコテカと本家の屋敷のところに高速道路ができて。

平井:なくなっちゃった。

松本:高速道路の車寄せの、上がるところの縁にもろにかかって、なにがなんでもそれは大阪市、国土庁か何かからお買い上げになられてしまう。どうしてもそれは手離さないかんことになってしまうんですね。それでお金が入ってくるんですけど、その代わりを、自分の住むとこをせないかんということで、芦屋の今のお屋敷の土地を手に入れてそこへあの家を建てるんです。前のお家というのは日本家屋の、川のへりの、ちょっと離れたところにある古いお家ですよ。

平井:阪神尼崎のすぐ近く。

松本:そうそう。あの家というのは、谷崎潤一郎の三姉妹か四姉妹の話の中で(注:『細雪』)、芦屋川が氾濫して家が押し流されたときに、末の娘さんがその水害を助ける話が出てくる、その舞台になった家ですよ、吉原さんの家というのは。それでね、これはもう釈迦に説法ですが、その頃吉原さんが打ち解けて僕によくいろんな話をして。どうしようかな、家を建てるのに誰に頼もうかな、どういう家がいいかなとか、迷うだけ迷うといろんな相談をかけられて。それで阪神間、要するに芦屋のお金持ちたちの言い伝えとして、大きな家を作るときに質問、「船に何杯(石を)入れはった?」と聞くんだそうです、石を。

平井:ほーお。

松本:それが家の大きさを表すんです。吉原さんが僕に教えてくれた。「吉原さんところは、こんどのお屋敷は船に何杯石を入れはった?」と。そのときに「いやあ、うちはね、小さいんですわ。10艘ですわ」という。「ああそうか。でもよろしな」「お宅は?」「うち30艘ですわ」と。それはね、家の、土地の大きさを表現するんですって。それは何だというと、阪神間って山と海との距離が短いでしょ。すぐ氾濫するんですって。だから家を作るということは、イコール四国から巨大な石を運ぶということと同意語なんですって。

平井:へーえ。

松本:僕知らなかった。

池上:石垣を作って。

松本:そうそう。まず洪水が起きたときに自分の家の土地は流されないように、とにかく水路を確保して。それで石を積んで、こっちは僕のとこ、これはお向かいさん、この水路だけは石でしっかり、どんな大水が来ても、というために石がたくさん必要なんです。それは全部四国から運んだそうですよ。だから「船に何杯でっか」という質問です。

平井:へえー、面白いですね。

松本:面白いね(笑)。で、お伺いした今の屋敷になるんですが、あれは大林が作る。大林の芳郎さんが設計する。あの家と山村さんの家とそっくりなんです、たたずまいから。なんでこんな同じような家を作るんかいなと思うくらい(笑)。あれが当時としては大林組の最先端の個人住宅の作り方だったんでしょうね。

平井:すごいモダンなお家ですよね。

松本:そうそう(笑)。まあ余計な話ですけどね、吉原さんがよく、どうしようかと思っていたと。結局、もらったお金を使ってしまわないと税金で取られてしまうので、あの土地を買うて、西側が斜めになっていた崖だったけど、石を入れてかさ上げをして、あの屋敷にしたと。

平井:すごい石垣ですもんね、あそこ。お庭が張り出していて。

 

松本:そうそう。そのときには「船に何杯石を入れて」と。

平井:はあ、石をたくさん使いたかったんですかね(笑)。

池上:たくさん入れたんでしょうね(笑)。

松本:そんなことを僕は吉原さんから聞いて。吉原さんは要するに経済同友会か何かの役員をなさっていたでしょ。阪神間の経済同友会。JC(青年会議所)から上がっていって、ロータリー・クラブでやがてそうなるんでしょうけど、そのときにみんな経済人とのつながり。そういうなかで一所懸命ピナコテカを指揮してやるんだけど、リーバーマンからはなかなか(笑)。

平井:当時、具体の作品を買われる方というのは、東京画廊でいわゆる商品として扱われるようになって、どういう方がそれを買っていかれたんですか。外国人ですか。

松本:いや。ほんのわずかに時々売れるだけですよ。たとえば白髪一雄さんが展覧会をやると、大きいのが2枚出て、中くらいのが2、3枚出て、小さいのが1枚か2枚しか売れない。ただ、とにかくお金になるんだから、当時としてはね。これは面白い話なんだけど、材料が必要ですよね、絵描きさんは。元永さんみたいな材料だと、あれはエナメルですからいいですけど、白髪さんみたいなのは材料がいる。その材料代に事を欠く。やっぱり霞を食べているわけにいかないし、それから生きているからにはお小遣いもいりますわな。元永さんというのはそれを言うてこなかったんですけど、白髪さんは、よう山本のとこに「ゼニがおまへんねん、ゼニがおまへんねん」って。それで「山本さん、白髪のオッチャンまた言うてるでー」言うたら、「ないって言え、お前」って。「うちもないんよ」「そうでっか、困ったなあ、どうしようかなあ」って。それで白髪さんはそれを担いで大橋のとこへ行くんです、会社へ。10号、20号、それで「まとめてなんとかしてくんなはれ。女房もおるし、子どももおるし」「あんたのとこ呉服屋ちゃうんか」「いやそれはそうですけど、ゼニもいりまんねん」「そうか、しゃあないな」。それが今奈良へ入っている。

平井:なるほどねえ。

松本:ですから思ったよりずっと経済的にみんな大変でしたよね。僕なんかぼーっとして西宮におるけど、馬鹿面してたらてめえもメシが食えない。まあ給料は決まっているようなもんの、「お前、自分で稼げよ」って言われてるんですから、なんとかしなきゃしょうがない。そうするとやっぱり自分としてもどっかへ何かを売ってこなきゃかん。そうすると山村さんと大橋さんだけじゃないんで、トコトコ列車に乗って大原美術館へ行ったりして、「なんとかしとくんなはれ」と言わざるをえない。だからうちの家内なんかからすると、「ほとんどお金に余裕があったためしがない」と言ってますよ(笑)。

池上:売るほうも、売ってもらう作家さんのほうも、皆さんカツカツで。

松本:そうそう。仙台に具体がひと山あるでしょ。

平井:宮城県美(宮城県美術館)。はい。あれは不思議なコレクションですね。

松本:そう。宮城県美の準備室ができた。そしたら高畠さんという、アートサロン高畠というのが大阪の御堂筋からちょっと入ったとこにあったんです。高畠さんというのはおじいちゃまでね、実業家だったので何かの会社をやってたんですね。お金をたくさん握って、その会社を人に売って、またお金を握ってね、若いおかあちゃんと二人で京都へ引っ込んでしまった。ところがあんまり退屈なんで御堂筋にアートサロン高畠というお店を出すんです。お金があるもんですから、そこのお店はとんでもない高い絵をどんどんパリへ行っては買ってきて並べる。たとえば(ポール・)デルヴォー(Paul Delvaux)の大きな絵とかね。それから(ルネ・)マグリット(René Magritte)。「よろしな。ほな、わしマグリット買いに行ってくるわ」って、そういう人ですよ。奥さん連れて、飛行機乗ってマグリット買いに行くんだから。
 それで買ってくると、「松本さん、山本くんにマグリット届いた言うて」って。それを見に行くんです、山本と。「ほーすごいな、これどうすんの」って。「いやあ、日本で売れないんですわ、これ。困っとるのや」っていう面白いお金持ちのおじさんがいた。すぐまたご商売やめちゃうんですけどね。その人が宮城の県知事かなんかの知り合いだったのかな。それで準備室ができるんです。その高畠さんというおじいちゃんは変わった人で、アメリカへ遊びに行って、若い奥さんが「これがええんとちがう?」と言ったのが、(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)らしいんだな。帰ってきた高畠さんというのは、オルデンバーグだかハンバーグだかわかんないんだけど、その県知事の周りの準備室の人に「こういうものを買わんで何を買うんですか」とやっつけたらしいのね。それで今シャベルか何かのでかいのがボンと置いてある。
 で、「あとなんぞ置くもんがありまへんか」って。で、うちの山本は斎藤を売らなしゃあないから、「斎藤」と言ったら、「斎藤なあ。わからんなあ、これはただ黒いばかりで」って。「そうや、大阪には具体ちゅうのがある。それしよか」と。それで山本が仲介をして、吉原さんとか白髪さんとか元永さんとか嶋本さんかな、そこらへんの古い連中のものが一応入るんですけど、もうちょっと新しいものをなんとかせえと。なんとかせえと言われると、だいたい山本は「わかりました」といって僕のとこに言ってくる「なんとかせえ」って。「じゃあなんとかしますわ」って。それで僕は大阪におったというコネを頼って、第一グループじゃなくて、第三グループかな。

平井:そうですね、最後のほうの方が網羅されていますね。

松本:そうそう。それをみんな1点ずつ入れるんですよ。それで当時、松谷くんかな、それからパリへ行ってしまった人、それから絵だけ置いてしまってほとんどうちへ寄りつかない人。向井くんなんかもそうです。お父さんとお母さんが残ってるんだよね。それで息子は西宮の自宅から離れてしまって、おりまへんねん。それで出かけていって、置いていった絵を、作家のお父さんと私で、庭へ全部並べて。全部買うんじゃない、たった1枚ですけど、それを譲ってもらって、宮城へ入った。それがあの宮城のコレクションです。宮城へ売ったときはみんな元払い。作家は10万円。だから全部あれは10万円。

池上:値段一緒なんですね。

松本:うん。だって甲乙つけるわけがない。

池上:まあそうですけどね。

松本:僕だって専門じゃないんだからさ。ただ「なんとかせえ」と言うからなんとかしてるんです。

池上:東京画廊から納められたんですね。

平井:そうそう。

松本:その高畠老が間に入って宮城からお金を取ってくれて。奇妙なコレクションがあそこにポツッと、具体のものが。

平井:土地的には全然ゆかりのないところに。結構後半の方の作品がいっぱい入っている(笑)。

松本:そうそう。それでわりあいに選んであるから、良き時代のものも入ってるんですよ。難しい、こんなもの買えないだろうなと思う頃のものが入ってるんですよ。

池上:ニューヨークの「GUTAI」展(“Gutai: Splendid Playground” Guggenheim Museum, New York, 2013)にも結構出てましたね。

松本:そうそう。

平井:猶原(通正)さんなんてあれ(《作品A》、1970年)しかない。

松本:そうそう、あれしかない。行方不明で、もうない。

平井:震災の後亡くなって、お家も壊れて。

松本:家も壊れて何も。ただ名前が残った作家が、あれしか残ってない。

平井:あの1点だけですよ。

松本:面白い残り方をしたんですよ。「なんとかせえ」と言われたから僕はなんとかしたんであって、私も一所懸命、宮城に惚れたわけでもないし、その頃の、後から具体のメンバーに入ってきた若い人たちに特別僕は何か思いを寄せているわけじゃないんですよ、私の中にはね。ただそういうメンバーがおるから、入れとかなしゃあないなという(笑)。そんなこと言えませんけどね。

池上:でも結果的には良かったわけですね。

松本:そうそう。

平井:今ほんとにそれが、活用というと変ですけど、いろんなところに出品されてますもんね。私の、ここ(国立新美術館)での「具体」展(「具体 ニッポンの前衛18年の軌跡」、2012年)でもお借りしましたけど。

松本:あそこは良き時代の。バカでかいのがないんですよ。みんな100号か100号以下。というのは個人の家にあって、玄関脇の靴ぬぎのとこに積んであんのを一所懸命お父さんと一緒に表へ出して、「ほなこれもらいますわ」、「あ、そうでっか」てな(笑)。

平井:具体のお話をいろいろとお伺いしたのですけれど。当時の東京では、特に南画廊なんかが、やはり現代美術を扱う画廊としては東京画廊と並んで同じ時代にずっとあったと思うのですけど、それはライバルという感じだったのでしょうか。

松本:もともと山本孝というのは骨董屋さん、平山堂の骨董屋さんで修業した人ですね。それで画廊をなんとかやろうと思って、並木通りの材木屋の店を借りて画廊らしきものを作ろうと思った。で、誰か助手がいないかなと。そうしたら進駐軍の通訳をしている男で面白い男がいる。志水楠男さんという。「じゃあ志水、手を組んでやろう」と、はじめは二人で始めた。ですから最後まで二人とも仲が良かった。ライバルにならなかったですね。

池上:途中で志水さんが別の画廊を立ち上げられたというのは。

松本:それは、「山本くん、僕もう別にするよ。僕、日本橋に出るから」「志水、そうしろ、そうしろ」って。山本さんという人は実にその辺がさっぱりした人で。僕の時もそうでした。「ああそうせえ、そうせえ」って。「そのかわり暖簾なんか分けるなんて気取ったこと言わないよ。勝手におやり」って。「反面教師でいいじゃない、お互いに仲良くやろうよ」、それで終わりっていう。だから宴会をやったわけじゃないし、パーティやったわけじゃないし、握手してこれで終わりって、そういうのもないんです。「そうしようよ」って。非常に現代風の人でした。
 この志水楠男さんという人も、そういう山本と袂をわかって南画廊でやる。南画廊を始めて、南の志水さんのキャラクターに惹かれて、東郷(青児)さん、それから詩人だった大岡信さん、ああいう人たちが。うちの山本のほうへは、どっちかというと瀬木(慎一)さんとか、それから針生(一郎)さんとか、中原(佑介)さんとか、そういう人たちがなんとなく。それでみんないつも、いま申し上げた人は同じ穴のむじなですからね、同じ金魚鉢の中に入ってるようなもんで。色が黒いか赤いかだけですから。同じ餌食ってるわけですから同じなんですよ。だからプランもお互いになあなあでね。「今度山本くん、フォンタナやるんだってね」「おうおう。お前とこどうする?」「うちはフォンタナやりませんよ」なんて。「あの人は気をつけたほうがいいよ」とか、「あの人はこうだよ」とかね。たとえば(ジャン・)ティンゲリー(Jean Tinguely)の展覧会をやってるでしょ、志水さん。

池上:1963年ですかね。

松本:あのときは志水さんはもう、ほんとに命をかけてティンゲリーをやったんです。立派なカタログですよね、今見ても。番号も入って。大橋さんに1点買ってもらってね。大橋さんはティンゲリーに寄せる文章を自分が作って、カタログにまたカタログを付けたりなんかして。だから志水さんの中にあるのは、山本のところの下にいる人たち、僕たちは、他人のような気がしないんですよね。で、志水さんとこに働いていた人たちも、山本はやっぱり他人みたいな気がしない。だからライバルでありながら良きライバルであって、競争相手であって、逆に言うと共同経営者。だから志水さんが亡くなったとき一番嘆いたのは山本ですよ。

平井:盟友って感じだったんですかね。

松本:うん。「やっちゃったー」って、あの鬼の山本が泣きましたもん。その志水が自殺をすることになった原因というのは、山本はよーくわかっているわけですよ。あれがこうなって、これがこうなって、これがこうなって、これがこうなって行き詰まって自分で…… それで飛行機の中で「あーっ」て嘆きましたよね。だから残ったものをみんなで買ってやろうと、志水さんの。そのとき大した給料をもらってないサラリーマンの我々まで声がかかって、私なんかも一所懸命買いましたよ。というのは、やっぱり良き仲間だったかなあ。だから前にお話しした、志水さんとこって九州のあの人の個展のとき。

平井:菊畑(茂久馬)。

松本:菊畑のとき(1962年)に大橋さんが来て「ここからここまでいただきます」と言った、あれなんかでもその日のうちに志水さんが来て、「山本くん、こんなことで、はははははっ!」って大喜びしてたの覚えてますよ。だから僕のとこ、東京画廊でフンデルトワッサーでヒットして、フォンタナでヒットして、やがてそれが具体となって、吉原さんになってというのは、もう志水さんはよーくわかって。

平井:田中敦子さんは南画廊で個展されていますね(1963年)。

松本:田中敦子さんという人は、具体のメンバーとしては当初からの人なんですが、旦那さんがやっぱり絵描きさんですよね。

平井:金山明さん。

松本:お二人とも、同棲して一緒に作家になるのはわりあい同じ時期、同じ頃なんですね。で、金山さんと白髪くんは出た学校が同じなんじゃないかな。

平井:中学校が一緒かなんか。

松本:どっかで同級生なんですよ、あれ。

平井:幼なじみなんです。

松本:仲がいいんです。「おい、白髪な」、「金山のやつがな」とかって。その金山さんと白髪さんとの仲の良さが逆に、私たち東京画廊として、金山さんと田中さんとこへはちょっと敷居が高くなってしまって。だから彼らがむしろ南のほうへ行ったのは、「東京画廊の山本とか松本のとこへ白髪が行っとるんなら、わしら向こうへ行くわ」、そういうとこじゃないかな。そんな深い理由はないんですよ。ただ一つ言えることは、田中敦子さんという作家を作家として一所懸命売り出したのは、実は金山さん。だから死んだ山本は「ギャラリー金山」と言ってました(笑)。「松ちゃん、ギャラリー金山が来てな」とかって。「何ですか、それ」「志水のとこへ、またえらい高え値段言うたらしいで」いうて。「そうですか」、「それしゃあない、お前、ギャラリー金山だもん」って。

平井:マネージャーみたいな感じでしたね。

松本:そうそう。作家というのは、そんなこと言っちゃいけないけど、ご自分がマネージャーになる人、それから家族がなる人、それからまったくそういうのやらない人、いろいろですからね。

池上:金山さんは具体の事務的なことも。

平井:当初ね。

池上:結構されていたというから、お得意だったのかもしれません(笑)。

松本:そうそう。もともとそういう資質を親からもらってきてるんでしょうね。

平井:山村さんなんかも南画廊でも作品をお買いになってますね。

松本:買ってますね。ティンゲリーのときは山村さんは3点も買ってる。大きいティンゲリーね。

平井:どこ行ったんでしょうね(笑)。

松本:いやいや、それで面白い。それでいよいよ自分が山村コレクションにエンジンがかかると、それみんな売るんですよ。

平井:洋ものはみんな手放されたんですよね、日本のものにみんなシフトして。

松本:そうそう。フンデルトワッサーなんて100号ですよ。われわれが知ってるものの中では一番大きいものの一つですよ。傑作ですよ、それ。それはやっぱりあの倉庫に入ってた。私一所懸命入れたんだもん。そしたらあるとき呼ばれて行って、「あのー、売りますわ。お金にしてください」なんてひと言だもんね。しょうがねえや。だから山村さんというのは日本画もずいぶん持ってました。加山(又造)も持ってました。《悲しき鹿》(1954年)かなんかを持ってましたよ。山村さんのとこではそういうものが倉庫にいっぱい入ってましたよね。それがだんだんみんな(戦後日本の前衛美術に)替わっていく。ああそうそう、ザオ・ウーキーの大きいのをね。

池上:そういうのも手放されて?

松本:もうみんなね。速いですよ、売るのが、山村さんもその気になると。上作の2枚続きの傑作ですよ。これも売ってしまって。やっぱり山村さんのとこにあったものですよね。

平井:山村さんがお持ちだったものって大きい作品が多くて、お家に掛けて眺めるっていうスケールじゃないものが結構ありますけど、やっぱりゆくゆく美術館に寄贈するとか、何かご自身でコレクションの美術館を建てるとか?

松本:初めからそこまで分かってないんじゃないですかね。文庫蔵という、どこのお金持ちの家にはある、奥の方をずっと廊下で行くと突き当たりに日本のお蔵があるでしょ? 扉で、観音開きで。中に大きなハシゴが付いていて、上が2階になっていて、そういう日本風のお蔵ですよね。で、カギがついてて、それをガチャガチャ開けるの大変なんだけど。で、それしかないんですよ、置くところっていうの。あとお蔵の前は前座敷といって、蔵の前の、よく女中さんたちを置いたりする、前座敷。山村家の場合は板敷きの寒いとこでしたよ。それしかないんだもん。それで「うまいことしまっておくれやす」ってカギは渡すんだけど、しまいようがないんですよ、でかすぎて。入れるのに、こう入れて、斜めに持ってって、もう大騒ぎで。しまったと思うと、「来週来ていただけまっか」なんてことを言う。何だと思うと、「あの奥の茶碗を家内が出したいそうです」って。それでも「はい、はい」と言わなきゃならないほど儲かったということでもありますけどね。

池上:出すためだけに呼ばれるんですね(笑)。

松本:そうそう。もちろん他のこともやるんですけどね。それで最後の最後はとうとう置くところがいっぱいになってどうにもならないんで、瓶の収蔵庫というのが工場についているじゃないですか。瓶の収蔵庫の一角を借りて置きましたよ。それでも置ききれなくなって、どうしよう。で、その頃よく自慢に、「わしは自分の買うたものを見たことがない」って。まとめて見たことがない。「一つひとつは作家の家で見とるけど、わしは見たことがない」。見たことがないとよく自慢していました。「ほなあんた、どこかでいっぺん並べたらどうですか」というのが。

平井:国際(国立国際美術館)の。

松本:国際の。これもどこでやろうかと、まあ迷って迷って、相談をかけられて。当時、美術館の責任者というか、これはと思う方のところへ出かけて行ってはいろんな雑談をして、それで帰ってきて、山村さんと会社の秘書の人と「どうでした?」と。「あきまへんな。石頭ですわ。あの人とは私は手を組みません」とかね。あの人はどうだとかこうだとかいうて、最終的に会場を貸していただいた。小倉(忠夫)さんですよね。ですから展示(搬入)が1日、お見せしたのが1日、撤収が1日。そのときはご自分ががんに罹っておられたのを知ってたんでしょうね。一生懸命新しいものを、何かやろうと思って買った。そこらへんは、構想もおっしゃいませんでしたね。「僕は美術館をきっと作ります」というほど立派じゃなかったです。宣言してないんですよ。というのは、奥さんも家族も息子さんたちも「絵を買うたらあきまへんで」てなもんで。だからだんだん構想がまとまって、この山村コレクションの展示になったんじゃないでしょうか。

平井:わりと日本の戦後の前衛美術の展開を、ずっと見ていくと追っていけるようなコレクションになっていますね。

松本:そうそう。あれはご自分で何が足んないか、何が足んないかってのを考えながら補ったと思うんです。それでもっと新しい人のもの、もっと若い年代の人のもの、もっと次の年代の人は何を考えてるだろうかというのをせっせと作家のとこへ行って話を聞くんですよね、ご自分で出かけて行って。そうすると作家は、天下の山村さんが意見を聞きに来たっていうんで、とんでもない夢をまた一席、二席ぶつんですよ。そうするとそれをまた全部鵜呑みにして帰ってくるんです(笑)。
 たとえば、あれは何と言ったかな、杉山知子さんと言ったかな。レリーフを散らして、壁にたくさん作るような人がいたんですよ、女性で。その人の話なんか聞いたらもうすっかりそれに毒されて、「松本さん、もう収蔵庫はいりまへんで」って。「何です?」っていったら、「全部一つひとつが小さいんや。それを100個ぐらい壁いっぱいに並べるから、収蔵庫はもうほんのわずかで済みます。あんたに苦労かけまへんで」って。誰がそんなことを(笑)。あと、山村コレクションでたぶん今兵庫でお困りになってるんじゃないかと思うんですけど、発砲スチロールで彫刻を。

平井:はい、岡賦」二郎ね。あれはなかなか保存が難しい作品です(笑)。

松本:あれも山村さんがご自分で出かけて行って、買って。

池上:岡崎さん世代のものまでもう買ってらしたんですね。

松本:そうです。

平井:1980年代前半ぐらい。松井紫朗さんとかその辺が最後ですね。

松本:あれもご自分で出かけて行って買って来ちゃうんだもん。

平井:「ART NOW」の出品作ですね、松井さんなんか。たぶん「ART NOW」をご覧になって。(注:「ART NOW」は兵庫県立近代美術館(現兵庫県立美術館)で1975年から2000年にかけて開催された現代美術のシリーズ展。関西の若手作家も多く紹介された)

松本:そうそう。松井さんのとこに入り浸ってね、話を聞いて、翌日また松井さんを呼んで今度はご飯を食べて、それで松井さんの作品を見て回って、「わしこれに決めました。あんじょうしまっといて」と僕に言うんです。あんじょうしまっておくようなもんじゃないですよ。

平井:巨大なだけに(笑)。

松本:それを奥さんが見てて、「またでっか」、「また買うたんですかいな」。

池上:でも純粋な方なんですね、そうやってアーティストの。

平井:当時、松井さんはまだ20代でしょ。

松本:そうです。

平井:20代半ばぐらいじゃないですか。

松本:そうです。あの頃の作家のものは、ご自分が出かけて行って作家と討論をするのが自分の情熱をかき立てる原動力になったんじゃないでしょうかね。そら始末に困りますよ。

平井:買うと思ってないでしょうね、作家さんも。買う人がいると思ってない、あんな大きいの(笑)。

松本:「買うたんよ。松本くん頼むわな」って。頼まれる私にしたら困っちゃって、どこへ置いていいかが。工場のほうへ出かけて行って話をすると、「またでっかいな(笑)。そら聞いてますけどな」「なんとかしてえな」みたいなことになる。だからそれを山村さんはこの中で、「ありがとう」という言葉でね、「皆さんありがとう」って言ってますよね。だから何と言ったらいいかな、大変汚い言葉を使うと、自分勝手。ほしけりゃもう「ほしいー!」って、子どもが何かほしいんだって言ってるのにそっくりでしょ。ほしがるからコレクションというのはできるんじゃないかな。今そんな、だだっ子みたいな人いなくなっちゃったな。

平井:80年代の山村さんの最後のほう、当時を知っている作家さんとか画廊の方なんかは、山村さんが亡くなった後で、ああいうスケールのコレクターというのは関西にはもういらっしゃらなくなったって。

松本:いや、日本中ですよ。そして僕ね、こんな言い方をすると生意気ですけど、世界的規模に、無い物ねだりをする、「ほしいんだー」というだだっ子、あれがやっぱり世界中のコレクションを残したんじゃないんでしょうか。だから大きな美術館のコレクション、みんな最初、元はだだっ子が「あれもほしい、これもほしい、あれもほしい」と言ったのが元じゃないかなと思うんですよ。

池上:常識的な考え方をしてたら常識的なコレクションしかできないですもんね。

松本:みんな破滅する。山村さんは破滅しないけど、ほとんどの人がみんな途中で挫折したり、破滅するでしょ。たとえば長岡の駒形十吉さんなんていう、あの人は国際公開討論による……

平井:現代美術館賞展。

松本:長岡現代美術館賞展なんていうのをやって。あんな田舎でね。結局、それはそれで立派な花が咲くんですけどね。やっぱりご自分は相当大蔵省から痛い目にあってるんですよ、そうでしょ。だから山村さんなんかの場合はうまくいったほうかな。

池上:ちゃんと美術館にまとまった形で入られて。

松本:まとまって、散らさないで。「散らすな」という遺言だったみたい。

平井:163点かな。しかもでかいのばかり(笑)。大きな作品。

松本:ただ、始末に困るものも含まれての話ですけどね。だからやっぱり横紙破りというか、型破りというか、法外というか、常識ではちょっと測れないキャラクターの人が出て初めて、そこへ新しいひとつのコレクションができるんじゃないかなという、僕の独りよがりかも知れませんけれど、気がいたしますね。

平井:山村さんは《女の祭り》(篠原有司男、1968年)とか、東京の特に1960年代後半の作家さんの作品をたくさんお持ちでした。篠原さんと東京画廊とのお付き合いというか。

松本:篠原くんというのは僕と同い年かな? 僕がアメリカへ最初に行きましたときに、何を勘違いしたのか、彼は羽田へ来るんですよ。僕が飛行機に乗る、その僕を捕まえて、「すぐ行くからね」って言ったんです。僕はそのとき驚きました。絵なんて売れたことないし、収入があるわけじゃないし。うちの家内がびっくりしてね。「あの人は変わった人ね。すぐ行くって何でしょうか」。でもそれ本当でしてね。そんなに長いこと経たずに彼はニューヨークへ来るんですね。収入がないまま来るんです。乱暴ですよね。ただ収入がないまま点々としてるんですけど、まあ彼独特のバイタリティですよね。

池上:最初の1年はたしかロックフェラー財団の奨学金を取られて。

松本:そうです。

池上:それが切れてからが大変という。

松本:大変ですね。ただ独特の彼のキャラクターでね、日本からニューヨークに興味を持ってツーリストで来られる人がいたら、それに取りつくんです。この人はお金持ってますよ、必ず。「ない」と言っても自分より持ってます(笑)。その人のお金で食うんですから、すごいですよね。それからJALのツアーのお姉さんとどこでどう話をつけたのか、ニューヨークのジャルパック、それが篠原さんのアトリエへ来るようになったんです。

平井:へーえ。

松本:面白いでしょ。

池上:ツアーの行き先に?

松本:旗を振っておねえさんが付いて、「皆さん、ニューヨークというとこは用心をしてください。恐いとこですよ。ものすごい恐いとこで、本当にここで生きていくのは容易じゃありません」って散々洗脳しといて、「でもここで生きてる立派な日本人がいるんです。よろしかったら希望者を明日アトリエへお連れします!」「じゃあ行こうか」って。

池上:おかしいですね(笑)。

松本:で、来るでしょ。そしたらもうどんどん売りつけちゃう。それでそのお姉さんにもキックバックで払う。でもね、「松ちゃん、今日ごちそうするよ」って。「なんで?」「昨日ジャルパックやねん」って(笑)。それで入って、取っとくということをしないんですね。全部またそれをきれいに使っちゃう。だからあの人、人気があったんでしょうね。僕はニューヨークへその頃よく行ったんで。たとえば5日なら5日いるでしょ。4日目ぐらいに残るお金というのを一所懸命手帳へつけて、「123ドル残りそうだ。よしギューちゃんに電話だ!」って、「ギューちゃん、100ドル残ったけど、明日の夜ご飯に行こう!」ってね。ニューヨークでいっちゃん安い中華料理屋へ彼が連れていってくれる。料理じゃないんですよね。あれ人間が食って大丈夫かね。僕とギューちゃんの間では、食べ物が丼一杯出てくるんですけど、「どぶ」って言うんです。あのどぶどろ(溝泥)の。「この最後のどぶがうまいよなあー」って。彼が一文無しになるまで使ってくれたんで、僕もせっせと一文無しになるまで、最後のほんとになくなるまで、バス代残して彼と別れましたよ。
 ただ不幸なことに彼には奥さんが、そうやって捕まえられてそのまんま彼の懐で暮らしてしまう女性が出る。と、女性はどうしたって身の安全、明日のご飯を考えるから、その野放図な篠原有司男さんを、少しずつ角をたわめてですね、餌を残すように。それは今度は、逆に言うと今までの篠原さんでない篠原さんがどうしても出てくる。そこへ山口ギャラリーの人が。あれがまたすごい経済的にしっかりした人だったんで。だから山村さんは山口(光子)さんと大げんかしてますよ。

平井:山村さんが買うとおっしゃっていたものを別のところに売ってしまわれたとかいう話を聞きましたけど(笑)。

松本:いやいや、まあ大げんかしてましたね。まあそれはどっちがどっちとも言えませんけどね。篠原さんはそのあと、今、私と同い年でまだボクシング・ペインティングなんてやって。私に会うと決まり悪そうですよ。「ギューちゃん、もういいかげんにしたら」「松ちゃんもいいかげんにしたほうがいいんじゃねえか」なんて。お互いに「そうだな」って。やっぱりある意味で篠原くんというのは、戦後の日本を代表した人かもしれません。彼の後を見てると、あのハチャメチャさをコピーした人ばっかりなんですよ。あれのイミテーションですよ、みんなね。あの男はホンモノですよね。腹の底から全部篠原ですよね。でもあれに似たような人いっぱい出てきましたけど、全部篠原を見たうえで、「あっ、こうやると篠原だ」っていうんで、やってる。俊寛の悲しさは俊獅ェ本物ですけど、悲しそうな顔の芝居をやる人は、あれは俊獅カゃない、芝居です。そういう意味で僕は、篠原くんというのは、「あっ、ホンモノだな」と。ただ本物というのはなかなか理解してもらえない。本物は敵が多いですからね(笑)。

平井:篠原さんも東京画廊で扱われるきっかけになったというのは、東京画廊のほうからアプローチを?

松本:そう。あれはね、腹が減ると山本のとこへしょっちゅう行ってた。ニューヨークから帰ってきてね、「山本さーん、山本さーん」って来るんだけど、山本はわかってるわけ、あいつまたカネないんだって。「よし、しょうがない、うち来い」って。面白いと思うのは、山本孝さんというのは、そのとき自分が一番感心してるものを篠原に包み隠さず全部見せるんですよね。たとえば幕末の絵師で、《英名二十八衆句》というのを描いたのかな。

池上:月岡芳年の。

松本:あの残酷もの。あれを手に入れてね。もちろん僕が買ってきたんだけど、「山本さんに譲るわ」って山本が持ってて。ギューちゃんが遊びに来て、「ギューちゃん、この良さがわかんなかったらもう作家やめたほうがいいよ」なんて。「わー、すげえな、すげえな」って、二人で大感動してあれを見たそうですよ。そのあと篠原は芳年の中毒みたいになって、それがあの「おいらん」シリーズになるんです。

池上:もともとは松本さんが買ってこられたものだったんですね。

松本:あれは僕が関西で見つけるんです。

池上:関西で買われたんですか。

松本:うん、揃いで。

池上:あれを東京画廊で見たんだというのがきっかけになったとおっしゃってました。

松本:ええ、山本の家で。山本が夜見せるんですよ、あれを。

池上:また夜というのが(笑)。

松本:そうしてド感動して。まあ感動しなくても、ギューちゃんはそうじゃなくて腹が減ってたんだから、《英名》に感心しなきゃいけなかった、僕に言わせると(笑)。でもそうですねえ、あの血なまぐさいドロドロの絵はギューちゃんにとってピタッときたんじゃないかな。

池上:そのときにすごくそうだったみたいですね。

松本:あれは後まで、「ああ、あれはすごかった、すごかった」とずいぶん言ってますよね。

池上:《女の祭り》という展覧会をされて、彼のキャリアにとっては飛躍的な感じになって。今、具体の作家さんのことをわりと中心にお聞きしてきたのですが、1960年代末から70年代にかけて、もの派の展覧会も東京画廊は数多くされていると思うんですが、松本さんはそちらのほうは関わっておられたのでしょうか。

松本:関わっていたというか、もの派の最初の話をするにはどうしても斎藤義重さんの話を。あの赤い箱のカタログの中に斎藤義重が庭で箱を作って、そこへ吉田克朗が手伝って。あの箱の中に斎藤が座り込んでいる有名な写真があります。これは(東京国立)近代美術館のカタログにも載っているんで。白木の箱を作って、この間ちょっとお話ししました、白木の木だけの画面を作る。

池上:はい、おっしゃっていましたね。

松本:木を並べていくと、木によってみんな色が少しずつ違うから、それをずっと並べていくと一つのリズムが出てくる。それをうまーく取り合わせて一つの画面を作る。板と板との間隔は微妙に違わせたほうが面白いので、間、間に紙を挟んで、それで眺めて「よし!」というんで助手の人たちが留めていった。つまり何でもない、色も塗ってないただの材木の板をこう横にすると立派な絵ができる。それから隙を空ける、スケスケにするとそこにまた画面が二つ生まれる。しかもペアにして形が違う。その作業を手伝わせたんですね、皆さんに。その手伝ったのが吉田くんであって、成田克彦、それから小清水(漸)さんもそうかな。成田、吉田、関根(伸夫)、ね。その他何人か。そういう人たちが入れ替わり立ち替わり斎藤のとこへ、暇ができると遊び方々手伝いに来た。それで奥さんが一生懸命ご飯を食べさせると、ある人は遅くまでいる、ある人は早く帰っちゃう。「じゃあおれ学校行くから」、「おれ明日は勤めがあるから」って斎藤のところで自然に一つのグループが。それは斎藤を手伝ってた若い作家なんですね。たとえば今日午前中板を木ねじで留めて、お昼になった。じゃあお昼食べよう。「じゃあとりあえず午後のをやるか」って、作業を。だから「とりあえず」ってタイトルですよ。《とりあえず1》とかね、《とりあえず2》なんてタイトルができて。
 で、その頃、木を切ったばかりの、削ったばかりの木が持っているみずみずしさ、それが一つの力だということを誰言うとなく感じるんですよね。別に斎藤はそんなこと意識してないけど、自分の作品を作ってもらってるときに、それを身を持って体験するんです。ベニヤ板にはベニヤ板としての発現がある。段ボールには段ボールの発現がある。それで板をスノコ状にして大きな画面を作っているとき、「板だけじゃ面白くないなあ」なんて。「吉田、お前それ何?」「あ、これっすか。これちょっと今日買ってきたんですけど、プラスチック、いいっすか」なんて、白いプラスチック。「ああこれ真ん中へ貼ろう。これ画面締まっていいよ」、「ステンレス貼ろう」、「ちょっと色を塗ろう」、そういうことを若い人と一所懸命やっているうちに、なんとなく、「材料なんだけど、材料じゃない働きをするものが世の中にはある」と気がつくんです。それがもの派の発祥ですよ。だから理屈なんか何にもないんですよ。
 たとえば李禹煥がそれを見て、「おーおー、そうか、これはスゴイな」てんで。そうすると、それを発展させるという。感心した話を聞いた吉田克朗は家へ帰って、「今日停電したのね、おとうさん」、「ああそう」、「どうしたの、撮影」、「しょうがないから電線巻いてあるわよ」、「ああそう。ああこれね、電線」。電気の球と電線ですよ。これ、もの派ですよ。それから大きな鉄管が道にゴロゴロ転がっている。子どもが出入りしてる、危ないよ。「じゃあフタしたらどう?」。フタしないで、真っ白な綿を詰めたらもの派ですよ。完全にもの派。それがある形をとって、まとめて、そういうグループな人たちがいろんなとこでいろんなことを始めたの。たとえば関根は須磨で穴を掘ったでしょ? 

池上:《位相−大地》(1968年)ですね。

松本:あれなんかもやっぱりもの派的な発想があったから穴が掘れた。その前に、関根は、スチレンボード、布団の材料にするような、こんな厚い、やわらかいフワフワした布団の材料にするね、あれの大きなのを大きなまま買ってきてくっつけて、上に鉄板を乗せたら目方でギュッとこうなった。あれでまたお金稼いだでしょ? それで須磨で穴掘ってお金稼いで。「おい、カネにもなる」。(笑)これははっきりもの派ですよね。それで菅木志雄(1944–)なんていうのもやっぱり出入りしてますからね。板が2枚、斎藤のところにある。「先生、この板くれる?」、「うん、いいよ。菅くんどうすんの?」ったら、窓を開けてちょっと挟んで、「これ発表していいかな?」。もう完全にもの派ですよね。塗料の塗った材料が窓で、なんでもない木がそれを支えている。その出会いがもの派ですからね。で、理論は後からくっついた。と、僕は思います。だからもの派の発生というのは、誰かがいて、もの派だよ、練習したとおりさあじゃあ行きましょう、もの派! そういう「もの派」ではない。自然発生。斎藤の周辺でみんなが楽しくワイワイ手伝っているうちに自然発生でもの派が生まれた。

池上:では東京画廊で扱われたというのも、そういう自然な流れといいますか、斎藤さんの周りにいらした方たちだから。

松本:そうですね。たとえば成田くんなんていうのは、山本が「成田どこ行っちゃったの?」、「わかんないけどね、なんか炭焼いてるらしいんですよ」、「山で?」、「うんそう。なんか秩父の方で炭焼いてるらしいんですよ」。そしたらこんな太い大きな切り口で、ちょうどこんなかな、丸太じゃない角材を切ったもの。「そんなの焼けない」って言うのに、炭焼きのおじさんの釜へ無理に入れてそれを焼いたんです、炭に。中は生焼けですよ。外は炭なの。でも材木ですからね、見事な炭ですよね。それを東京都美術館に出した。それは評判になりましたよ。まさにもの派そのものですよ。そのかわり運べないですよね。紐を掛けると崩れちゃう、自分の目方で。でも置かなきゃいけない。置くと崩れちゃう。だから、李さんのガラスの上に石をポンと置く、あれももうまさにそのもの。だから僕は、もの派の説明を聞くと、発生がちょっと違うかなと。でもそんなこと細かく言う必要ないから。つまり具体の発生と違うんですよ。

平井:誰かリーダーみたいな人がいて、呼びかけて。

松本:集めてきて、「いいか、お前らな、誰もやらんことを今後もやっていくんじゃ、わかったか! それは藤田が言うとったんよ、人のやることやったらあかんのや。よーしやろうか!」って具体ができた。そうじゃないんです。自然になんとなく。「斎藤の爺さんのとこ行くとオモロイで、あの爺さんは」。

平井:それは多摩美の方だけに限ってない。

松本:いや、広いですよ。手伝いに行った人みんな影響を受けている。その中の何人かは「もの派は僕が作った」なんて言ってる人がいますよね(笑)。外国の文章に寄稿したりなんかして。まあいいけど(笑)。そらまあどっちでもいいけど。

池上:わりと人によってもの派の発生の解釈が違うのが、作家さんでもありますね。

松本:彦坂(尚嘉)さんなんて後から来て、もの派を全部体系づけて「もの派の哲学」なんて。僕に言わせると全然、そんなこと誰も言ってないし考えてもいないよ、ってなっちゃうんですよ。

池上:具体の方たちはわりと「吉原さん」って皆さんおっしゃいますけど、もの派の作家さんたちはわりとその辺が人によってお話が違う。

松本:全部違うと思う。

池上:それが面白いと思いますけども。

松本:もの派に関わり合った人一人ひとりに「もの派って何でしょうか」と聞いたら、僕は全部違うと思う。30人いたら30人とも違うと思う。そこがもの派の面白いとこ。でも美術館の催し物屋さんたちはどこで括っていいかわからない。ソーセージじゃないけど、ピュッとおしまいのとこと始まりがちょっと括れない。そんな気持ちを僕はもの派に対して持っています。一人だけ、僕はもの派の中の生き残りの吉田克朗くんという人の絵の部分を扱って最後まで面倒をみさせてもらったから、吉田くんとは親交があったんですけど。その吉田くんがよく「松本さん、またもの派って言うてきたんです」、「あんた好きにおし。僕はあんたが何をおやりになろうと全然関係ないから、どうぞおやりください」って。だから捉え方ですね。

池上:当時の、先ほどの白髪さんにしても元永さんにしても、そこまで売れたわけではないとおっしゃってましたけど、もの派の展覧会なんてそれこそ運ぶのも大変なような作品。

平井:売れるものではないでしょうね、形状的に(笑)。

池上:そういう感じがしますが、そのあたりはどうだったのでしょう。

松本:たとえば関根くんなんか、油土(ゆど)っていう粘土の油の黒いとこ、あれをこの部屋いっぱいぐらい積み上げて、個展だって言うんです。油土を運ぶの大変でしたよ。油土のリースなんてないですから。

池上:ですよね(笑)。

松本:そうすると買ってこなきゃいけない。大変なお金がかかる。その油土を、いらなくなったらまた始末しなきゃいけない。でもうちの山本という人はそういうとこは平気な人でね。「まあしょうがないだろ」なんてね。「まあ関根がやりてえって言うんだからしょうがないだろ」という。「やって、やって」なんて自分は帰っちゃうんだから、こっちは大変ですよね。あれ落ちないんですよ、また。

平井:油ですもんね。

松本:そうそう。そういうときに「油土を扱うのはヤマト運輸です」っていうの、僕たち絶対しないからね。それやったらできないんですよ、お金がないんだから。やっぱり油土を運ぶのは自分たち、ベタベタやるのも自分たち、終わったら片すのも自分たち。それは関根も、「お前も死ぬほど働け、おれも働くから」って、お互いに手間は同じようにならないと、関根の油土展はできないわけです。だからそこのところがちょっと今のギャラリストの人たちと違うかな。今は油土の展覧会だと、「えーっと、これを運ぶのはヤマトにしますかね。高いからやめて……」なんて。それだと展覧会にならないですよ。それがやっぱり小清水だとか菅木志雄なんかに生きてますよね。それやると嫌がられるんですけどね。菅さんなんか、ほら全部自分でやらないと気が済まないから、あのクソ重いガラスを持ち込んでね。もちろんプロも使うんだけどさ、美術館の人はまいっちゃいますよね、あんなクソ重いガラスね。

池上:画廊としては、利益は他のところで上げて、そういうお金にはならないものも。

松本:ええ、そうそう。だから持ち出し。

池上:それはやっぱり新しいものを支援していきたいというお考えで。

松本:しなきゃいけないし、なんか稼がなきゃいけないし。それから売れるものを何か考えてくれたら、「それをやってくれよ、頼むからさ。おれたち売れないで困ってるよ」とか。ただ一つだけ言えることは、うちの山本が「明日面白がることをやろうよ」って。今日じゃなくて、明日になってみんなが「ぶったまげたな、何だこりゃ」というのをやろうよっていう精神。つまりお客さん方が、「おれはあれがほしくてほしくて震えがきてるんだ」っていうのに似てますよね。今日の昨日のじゃなくて明日。「よーし、見に来たやつの度肝を抜いてやろうじゃねえか」っていう。そうすると今度僕たち、画廊の下のわれわれも、おやじがそう言うんならやろうじゃねえかという。「ゼニはどうするんですか」「いや、ゼニはないんだけどやろうよ」「うん、じゃあそうしよう」、自分たちでやる。

平井:基本的なことをお伺いしそびれていたのですけど、展覧会のラインナップ、次はこの方、次はこの方というやり方は、基本的に東京画廊というのは貸し画廊ではなくて企画の画廊ですよね。

松本:そうそう。だから作家からお金をもらわない。で、カタログも自分たちが作る。DMも自分たちで印刷したものを配る。それから作家が困ってたら100%手助けする。持ち込みも手助けする。「こういうのがいる」って言ったら、買ってきて揃えてあげるという姿勢は最後まで。ですから変な話ね、とんでもない借金になりましたよ。ものすごい大きな借金ができました。で、その借金ができたことと、私が東京画廊の中で自分が独立した会社を持たしてもらおうと思ったことが、まあ重なり合っていくんですけどね。
 お金を貸している人たちは早く取らなきゃしょうがないですよ。どんどん膨らんで何が何だかわかんないことに。なんとかしなきゃしょうがない。そういう立て直しのための人たちが来られたりして、うちの山本もずいぶんみっともない思いをしました。で、それをカットして、手伝って、無駄金を使うときにせっせと使うほうへ回った僕らも攻撃されましたよ。「お前たち助手だろう。『殿、ご乱心をめさるな。ここから先お金使っちゃいけません!』と言うのがお前の役目だろ。お前がなんで一番先になってお金を使ってるんだ、バカ者」という感じです。ねえ。そこで何年かかかってとにかく巨額の借金は返すようにしなきゃいけない。それにはどうしたらいいだろうか。収益の上がることをやってる男と、持ち出してばっかりいる男と、そこそこ計画ばっかり考えてる男と、それから地方にいいお客さんをいっぱい持ってる男と、作家にいい顔してるけどゼニを稼げない男、そういうのを全部仕分けをして、そして何となくセクト主義じゃないけど、お互いに助け合っていくようにしないかね、という案が出ましたね。
 その頃山本は、「松ちゃん、いつ君は自分の手元を離れていってもいいんだよ」って。「ケンカをしてるわけじゃないからね。ただし僕はあなたに一文も出してあげられないし、あなたに何かをしてあげることはできない。あなたが東京画廊の中で持っている人脈、外に対する人脈、作家に対する人脈、コレクターに対する人脈はそっくり、それは大事だからあなたが背負って行きなさい。と同時に、あなたが上げるであろう利益は、東京画廊株式会社・松本としていいから、料率を決めて利益の還元をしてね」、そういう話になったんです。ですから僕は独立をする前の自分の会社に、要するに看板料ですね、「東京画廊・松本武」と名刺に刷らせていただくかわりに、落とし前をせっせと戻してあげましたよ。それは私だけじゃなくて、もう死んでしまった、もう一人私の兄弟子の石井利治というのがいたし、それから長男たちのセクションもあったし、他の人たちもいた。それがみんな公平にというか、イコールじゃないんだけど力に応じて、お前は20%、お前は50%、お前30%、お前10%、そういう経費の分担みたいなのをして、それで借金だらけの東京画廊を支えた時期があった。これが5、6年ありましたね。

池上:それは独立された前後の?

松本:そうそう。そして山本が亡くなる少し前に、一応巨額の借金を全部返せるんですよ。返せるとほとんど同時に、松本くん、もう名前はどうぞご存分に、東京画廊の名前をお使いください、と。君は自分でどうぞおやりください。ただし会場を持ってないんだから、僕は場所を独立してどっか行ったわけだから、東京画廊をどうぞご自由にお使いください、と。だから僕は自分の会社として、プランから、買い付けから、カタログから、印刷から、宣伝から、購入から、販売から、管理から、保全まで、全部自分の会社でやっていながら、実はその催しは東京画廊という名前の画廊の中の催しなんですよ。それでそんなこといちいち印刷物に書くのも面倒くさいから書いてないんですよ。だから白髪一雄さんのカタログなんかにも、だいぶ後になってからですよ、「主催:東京画廊・まつもと」と並列するような感じで。

池上:実際に行われるのは東京画廊という場所でされている。

松本:そうそう。表向きは東京画廊でやる。そのほうが都合がいいしね。外国人にも通りがいいし。「まつもと」なんて聞いたことねえなって。それよりお互いに、中では落とし前の利益の配分。で、やっぱりバブル期に差しかかっていたので、見事にうちの山本孝さんは借金をきれいに返しているんです。

池上:バブル期に入って作品もだんだん売れるようにはなって。

松本:そうそう。それでやっぱり自分のとこの、日本の作家のもんじゃなくて、第三国での貿易、たとえば「ニューヨークでポロックを売り込んでみよう」とか。「それ、ケルンの美術館が買うよ」、そういうニュースだけは確実に握ってるわけだ。それ大きいですよね。

池上:日本の現代作家さんの作品が売れるようになったわけでは?

松本:うーん、あんまり儲からない。

池上:やっぱりそうですよね、バブル期でも。

松本:たとえば横浜美術館が持っている現代美術、たとえば(マックス・)エルンスト(Max Ernst)だとか、ああいうのはみんな私が入れた。言っちゃいけないけど。大きいですよね。大原なんかもそうです。

池上:利益はそういうところで上げる。

松本:そうそう。ただそのニュースでご飯食べてるわけだから、そのニュースを獲得するのにはやっぱり大変な思いをしてます。

池上:そうすると、いわゆる日本の現代作家さんたちとの売買上の取り決めというのは、どのような形なのでしょうか。

松本:何かアグリーメント(同意書)があってサインをしてなんていうのはないですね。山本孝さんと白髪一雄さんの間で、「ほな先生、頼むわな」「うん、ほんならやらせてもらいますわ」って。「松ちゃん聞いとけよ」「ああ聞きました」、それで終わりですわ。

池上:ほほう。

松本:だから外国人はびっくりしましたよね。何だろうかという。

平井:契約書みたいなのがあるのかと思っていましたけど(笑)。

池上:パーセンテージとかもその都度変わるんでしょうか。

松本:いやいや、それはもう売上げの半分ずつ。何でも半分。

池上:よくある取り決めですね。

松本:だから、外国のほうがアグリーメントはきちんとできている。僕は知ってましたけどね。たとえば川端(実)さんとか、そういうのはきちんとアグリーメントがあって、僕はそれを見て知ってるわけだから。

池上:では、作家さんとはわかりやすく、アグリーメントなんかはないけれども、お互いの信頼関係で、半々でされていたという。

松本:ただ、それに気がついて横から手を出す画廊が出ましたね、最後のほうに。

池上:しっかりした契約がないから。

松本:ないのをいいことに。

池上:いわば横入りで。

松本:横から手を突っこんで。おいしそうなとこだけこうやる人が出てきましたね。で、うちの山本は、「やりたいならやらせればいいだろう」って。「そんなのあんた、嫌だとか何だとかって裁判するの面倒くせえよ、ほっとけよ、そんなもの」って。

池上:扱われていた作家さんたちというのは、基本的に東京画廊さんのときからお付き合いのあった方たち?

松本:最初に申し上げたと思うんですけれども、作家も割当がありまして。当番なんです。お客さんも当番。当番制というか割当て。美術館も行く先が全部割当てみたいなね。僕はたまたま、「おいお前、白髪な」「お前、関西だから吉原な」っていう。それから「お前、あそこへ迎えに行ったんだから斎藤だぞ」「ああそうですか」。だから出会いとしては最初の当番制みたいなのがあって。

池上:それを引きつぐ形で。

松本:相性というのがありますよね。いくら「斎藤を迎えに行ったから斎藤だよ」って言われても、相性が悪かったらそれまでですけどね。だから最初から割当て制みたいな。「なんであんた大原美術館なの?」って、大原美術館の担当をしろって言われたからやっただけであって。だから長岡現代美術館賞展の長岡は、僕は手伝いに行くんであって、私の担当じゃないんですよ。

池上:独立をされてから、もっと世代の若い作家さんだったり、新しい作家さんをどんどん入れていこうとはお考えにならなかったんですか。

松本:いや、考えました。ただもう自分が体力的に限界だなと思いました。もう無理だ。つまり自分の背中に背後霊みたいにガッチリ乗ってるのが。

池上:結構大きいものが(笑)。

松本:斎藤義重ですよね。それから白髪一雄でしょ。吉原治良でしょ。まだ元気でしたからね。それから具体の方々、吉田克朗さん、フンデルトワッサーくん、それからイギリスのアネリー・ジュダ(Annely Juda)画廊の作家さんたち、それみんな私の背中にガッチリくっつかれたら、それで新しいの何かやろうって無理!

平井:川端実さんも。

松本:川端実さんもそうですね。それとあの人、女性の、デザイナー(福田繁雄)の娘で。

池上:福田美蘭さん。

松本:僕は、あの人が若い人の次の年代では面白いんじゃないかと思ってひと頃やって。展覧会を3回ぐらいやってますよね。ところが相性が悪いんでしょうね、どっちがどうじゃないけど、やっぱり最後まで続かない。相性の悪いのを無理にくっつけておくことはないし。僕もそうだし向こうもそうだろうからと思って、私はもうきれいサッパリ何にもないんですよ。大辻清司という写真家がいるじゃないですか。大辻さんというのはいい写真家なんだけど売れない人で、もうどうにもなんない。僕は自分の会社の名前でパンフレットを作って。大辻清司展、東京画廊、主催は株式会社まつもとというのは、あれは大辻が最初ですよね。大辻展をやって売れたかというと何も売れないんですよ。面白いね。ほとんど展覧会やって終わりという。ただ大辻さんというのは斎藤さんのポン友(注:親しい友達の意)なんです、義重さん。だからわりあいに親しかったですね。

平井:具体の写真なんかも撮られています。『藝術新潮』に頼まれて写真を撮られていた時期があるみたいですね。

松本:ただ大辻さんて、素晴らしい、いい人で、なんとなく面白い写真を作るんだけど、要するにこれもまた、これから先は言っちゃいけないのかもしれないけど、実利的じゃないんですよね。たとえば、「これとこれ写真撮っといてください」「わかりました。僕はのろいんで時間かかります」「どうぞ結構です」。明日の朝までにはできると思うでしょ(笑)。

池上:写真ですからね(笑)。

松本:いえいえ。翌日行くとまだやってるんですよ。眺めてんの。考えてんの。それで払うお金がほら、写真1枚だからね。お互いにたまんないですよ、それ。立派な人ですけどね。僕キャラクターは好きですけどね。だからあのキャラクターに惹かれたお弟子さんたくさんいますよね。写真家としてはあんなていねいな写真を撮る人はいないんじゃないかな。それが斎藤さんと結びついてるんじゃないですかね。
 面白おかしい話はたくさんあるんです。戦後、東京中の人がお腹が減ってたときに、大辻清司さんの母親が新宿駅南口の坂を下りたところでラーメン屋をやってた。で、食べ物屋だから売れた。掘っ立て小屋でやってた。2階に寝起きするところがあった。下はそのラーメン屋をやってた。2階へ上がったが最後、頭をぶつけるだけぶつけて、もう早く寝ちゃうよりしょうがないようなとこだったって。そこで大辻さんが母親と一緒に暮らしていて、どっか就職しなきゃいけないんで、生活の何とか社という出版社(家庭文化社)に勤めた。そしたらそこに斎藤義重という変わった編集者がいた。それが始まり。

平井:斎藤さんはそこで編集者だったんですか。

松本:編集たって、あの人そういうの全然できないと思いますけど(笑)。ただ難しいこと言ってるだけで(笑)。

池上:どんなふうに編集されてたのかって今思いましたけど。

松本:その頃の原稿が少し残ってますよね、斎藤の原稿とか大辻の原稿がね。瀧口(修造)さんでしょうね。斎藤、大辻、瀧口というとこじゃないんですかね。

池上:独立されて、1980年代の後半になりますと、海外で戦後の日本美術の展覧会が開催されるようになって、具体の再評価も進みました。それでいろんなところに作品が入ったりしていくのですが、そういう状況というのは、松本さんはどういうふうにご覧になっていましたか。

松本:なんべんも申し上げたかもしれないけど、そんな難しいこと自分で考えてないんですよね。ただ今度何とかという展覧会がどこどこである。それは向こうが言ってくるわけだ。何か話の中で、「ああそうか、うんわかった。それでおれ何手伝えばいいの?」「今のとこないけどさ、そのうちに頼むから」って。で、そのうちほんとに頼んでくるんですよ。かくかくしかじかって。

池上:ポンピドゥーの「前衛の日本」展(“Japon des avant-gardes 1910-1970,” Centre Georges Pompidou, 1986)あたりがきっかけになって。

松本:そう。みんなミスターじゃないんです。ファーストネームの呼び捨てですよね。

池上:Takeshiと。

松本:「Takeshi!」「おう? 誰だ!」なんて。「Alfred、お前はな」。

池上:(アルフレッド・)パックマン(Alfred Pacquement)(笑)。

松本:パックマンですよ。「ジャーマンに怒られるぞ、そんなことすっと」。

平井:(ジェルマン・)ヴィアット(Germain Viatte)(笑)。

松本:ヴィアットですね。「アルフレッド、おれはお前のその意見嫌いだな」とかって。私の英語ですからね、もうひどい英語です。なぜいいかというと、彼らも英語は外国語なんですよ。

池上:そうですよね。

松本:僕も外国語。外国語同士だから、悪口のときよく通じるんですよ(笑)。で、思案に余るという場面があるじゃないですか。たとえば明後日の飛行機に乗らなきゃいけない。でも4×5の写真はまだ1枚もデュープできてない。で、土曜日じゃないですか。明後日の飛行機でそれ持って帰れないじゃないですか。「どうするんだよ」「どうするんだよって、だからお前に相談してるんだろ!」って。「よしわかった。なんとかしてやる。そのかわりお前、今日ホテル帰んなよ。お前のホテルの隣の部屋をおれが取る。おれがなんとかしてやる」。それから独特の、人脈を頼って電話をかけまくって、DPE屋の工場のおじさんをたたき起こさなきゃダメなんです。表に看板出してるDPE屋なんて、いくら起こしたってダメなんですよ、工場のじいさんじゃないと。それで工場のじいさん、「お風呂へ入ろうと思ってたんですよ」なんて。「いいから、いいから、いいから。ウソでもいいからとにかくこれ何とかしてくれ」って。「そこまで言うんじゃやりますよ」なんて。間に合うんですよ、それが。僕は何かをしてあげたという意識はないんですよ。それしかないんですよ。

池上:あちら側の言うことをやってあげる。

松本:でもね、自分がそれをどこかで借りてるわけですよね。たとえばピカソ美術館のドミニク・ボーゾ(Dominique Bozo)っていたでしょ。あれにやっぱりずいぶん助けてもらってますよね。それからアラン・カプロー(Allan Kaprow)。変な野郎だったけど助けてもらってますよね。「かくかくしかじかで、どうしていいかわかんねえんだ。おれ困ってるんだけど、どうしたらいい?」「よしわかった。明日の朝来い。何とかしてやる」っていう。助けてもらった。誰に助けてもらったから誰に返すんじゃなくて、母国語の上手じゃないやつに助けてもらったという、僕に言わせるとね(笑)。だから助けてもらったんだから助けてやろうじゃないか。それからもう一つは、多少自分のお財布の中にお金が入るようになった。そうするとお金で助けてあげることさえできるようになるじゃないですか。生意気ですよ。でもたとえば、「この部分の予算がないんだよ」「わかった、いくらあればいいの?」「150万で、明後日までに現金」「わかった。届けてやるよ」。そうするとやっぱりね、その男にお金を用立ててどうしようじゃないんですよ。言葉に困って、外国で震えて困ってるやつを、「あのときおれ、助かったんだよな」っていうそれだけですよ。だから僕はやっぱりいまだにそういう付き合い方にどうしてもなりますよね。
 日本の春を見たい。夕方の春を見たい。「そんな寝言言ったって、お前どうする」。しょうがないな、どうすればいいんだ。それであちこち電話して、電話してみたら京都御所のしだれ桜が咲いている。で、5時に閉まる。よーし、4時半に連れていけば喜ぶ、とかね。そのかわり自分も行かなきゃならない、そこへ。すごいゼニかかって、全部キャンセルして自分が行かなきゃなんないんですよ。でもその夕映えの中のしだれ桜を見て、「すごい美しいものを見せてもらってありがとう」、のひと言ですよね。お金もらうわけじゃない。でも僕やっぱりよかったなと思いますよね。
 癌で死んだ人で、ピッツバーグの国際展を準備に来てた男がいるんです。これも、日本へ初めて来たみたいで何が何だかよくわからないんですよね。ただ一所懸命なことはよくわかる。おじさんですからね。「よしわかった。おれ片肌脱ぐよ。両肌脱いでおんぶしてやるよ」なんて。一生懸命二人で歩きましたよ。ところが一番悪いとき、ゴールデンウィークかなんかでホテルが全部いっぱいで、どこへ行ったってダメなんですよ。「弱っちゃったな、ジーン」。ジーン・バロウ(Gene Baro)、ミスター・バロウなんだけど。「ジーン、ホテルないよ、今日」「困っちゃうな、どうしよう」「あのねえ、日本に連れ込みホテルっていうのがあるんだけど行ってみる?」「行こうじゃない」って二人で。(笑)京都の東山のすごい連れ込みホテル、泊まりましたよ。周り全部電気がついて、連れ込みでね。連れ込みって、ほらものすごい派手じゃないですか。ミロのビーナスみたいなのがこんなになっててね、光が当たって回ってんだよ。「ジーン、今日ここに泊まるんだよ」「オー!」

池上:そこに男性二人で(笑)。

松本:ここしか寝るとこない。でもピッツバーグのインターナショナルの催しのときには、それが招待状をくれて。行かなきゃしょうがない。えらい高いもんにつくでしょ、行ったら。でも呼んでくれたら行かなきゃならない。それは義理でしょ。サムライ精神ですから、行きました。そしたらそのジーンが喜んでくれて。着いた日にパーティがある、これは「いらっしゃいパーティ」と言う。翌日は正式のパーティがある。最後の日は、よく来たね、バイバイっていうパーティがある。三つ出ろって言うんです。冗談じゃない。おれ洋服このまんまだよ。じゃあ正式のときだけおれが借りてくるって。貸衣装ですよね。ジーンが借りてきて、なんだか腹巻きのお化けみたいな、黒いのでこうやるのがあるじゃない。

池上:ありますね。サッシュみたいな。

松本:あれ着せられてね、それで出ましたよ。いい席を、バカだからくれるんですよね。僕なんかにいい席をくれちゃ困る。そうすると主催者の何番目かの大事な人と向き合って座る。男、女、男、女じゃないですか、向こうは。僕の前は女なんですよ。こっちも女で、こっちも女。その隣は男だけど。大事な人たちはみんなカネを出している人たちだから、全部おばちゃまでしょ。ピッツバーグなんてとんでもない田舎じゃないですか。そうすると田舎の金持ちほど大変なもんないですよ(笑)。全員なんかハダカ。肌を出せば出すほど盛装なのかな。何だかわかんないけど。

池上:どうなんでしょう。宝石が映えるようにですかね。

松本:そうそう。それでもう全部無理やりに引き上げたような。それでイカの墨、墨を吹いたように全部しみだらけ。それなのに上げてきて、両側からピーピー言われて、私はもう苦しくてしょうがない。

池上:腹帯が(笑)。

松本:でもジーンは、「マツモトというのは大事な男で、こいつがいたからこの展覧会はできたんだ」と。お笑い話になっちゃうんですけど、「墨イカのババアに囲まれた話」って(笑)。でもそのジーンもやっぱりもともとの英語の国の人じゃないんだね。だからたどたどしいんですよ。一所懸命スピーチしてましたけど。

池上:お互い助け合うという。

松本:さっきのお答えにならないけど、何かがあったんじゃなくて、やっぱり自然発生的かな。

池上:でもそういう方々のそういうお付き合いがあってこそ、こういう再評価も進んでいった部分が。なかなかそれは活字にならないことなんですけど、その裏にそういうことがいろいろあったんだよということが、すごく大事じゃないかと。

松本:だからお金出してますよね、僕ね。どこにも出した痕跡残ってないんです。でも出してるんですよ。それを日本人は知らないんじゃないかな。僕も言わないしね。

池上:でも今日そのお話が聞けたので良かったです(笑)。

平井:そうやってほんとに同時代的に、当時は売れなくて評価もされなかったものをいろいろ支えてこられて。80年代以降にそれが本当に美術館や学術的にも評価されて、作品も活発に売買されるようになって。結構松本さんご自身もお忙しくなられたでしょうけど、パイオニアというかそういう自負みたいなものはおありになったでしょうね。

松本:自負とかパイオニアっていうのは自分ではあまりないんです。ただ駆け抜けたそのフィールドは、「面白かった!」というひと言です。つまり山村さんが、「ほしいものを僕は買った、楽しかったよ」っていうのに似てないかな。白髪一雄さんが「わしな、足で絵描きましたんや。初めは売れんかったけど、最後のほうになって売れてな、ふーちゃん(注:富士子夫人のこと)が喜びました。面白かったで」いうのに共通してないかな。

池上:真面目な質問になっちゃうんですけど、画廊さんとか画商さんの社会における役割みたいなものというのはどういうふうに考えておられますか。

松本:むしろ逆に、自分が面白かった、とっても楽しい人生だった、よかった。だから、間違ったことは「それ違う!」と言っといてあげようと。これは大きい声出して言ってあげなきゃいけない。たとえば偽物、本物があったら、「それは間違いなく偽物だよ、おい」っていうのは死ぬ前に言っといてあげなきゃいけない。それは僕の責任だと思う。というのは、僕こんなに楽しく生かしてもらったんだから、恩返しだと思う。

池上:真贋を判断するボランティアをされているとおっしゃっていた。

松本:そうそう、やってる。それもそう。たとえばどこかでとんでもない展覧会があって、ものすごい見当外れな解説がいっぱいしてあったとしたら、主催者に傷つけるようなことはしたくないけども、その中に何人かの心ある人がいたら、「僕はこれは違うと思いますよ」というのを言っといてあげようと思う。特にもの派なんかの場合ね。立派なカタログまで作って、ああでもないこうでもないって、そんな一所懸命やってる人に「もの派、そうじゃねえよ」なんて僕は言いませんよ。それはそれで結構。ただ、ただひと言言わせていただくと、ちょっとスタートが具体なんかと違うんじゃない?と僕は思ってますよ。僕はそう信じてますよ。ということは言っといてあげようかなと。だから逆に言うと、今日聞いてくださったこのことが、私にとってはやっぱり大きな恩返し。だから逆に言うと、「ありがとう」ってこっちが言わなきゃいけない。

池上:いえいえ、とんでもないです。

松本:と、思います。今そう思ってます。まして自分の年齢を考えると、いつどうなったっておかしくないんです。だったらやっぱり今しかない。だからこの機会を与えていただいた、平井さん、お二人に「ほんとにありがとう」って申し上げたい気持ちです。ほんとに。

平井:いえ、恐縮です。そんなお言葉をいただけるとは。

松本:これからまた少しでも話を聞いてくださる、これは法外の喜びですよ。ありがとうございますって言わざるをえない。

平井:今、昔と違って日本の作家さんもどんどん海外へ売れるようになって、そういう意味では作品を扱う画商さんというか画廊さんも世代交代を非常にしていて。そういうのは松本さんからご覧になっていて、今の状況というのはどうですか。

松本:僕はアナログ。さっきも冗談で言ったんですけど、白い封筒に全部自分で鉛筆で書きなぐって。それしかできない自分にとって、やっぱりすぐコンピューターを広げてサーッと両手で打って、それで「松本クン、血圧の調子はいいよ」なんてお医者さんに言われると、「このお医者さんうらやましいな」と思いますよね(笑)。僕がたとえば病院へ行ってね。「今までどおりのお薬でいいかね、来月はじゃあ7日にしましょうね」なんてお医者さんに言われると、「うらやましいな、この人」と思いますよ。僕できないから。僕、それは世の中でいいんだと思います。それが間違ってるとか、「そんなの変だよ」とか、「アナログの時代はね」とか、そんなつもりはありません。うん。
 今の若い画商さんたちは一所懸命ですよ、みんな。何人も知ってます。今画廊をやっている人たちもたくさんいます。僕もよく知ってます。で、取引があるんですよ。みっともないけどまだものの売り買いしてますからね、マーケットの中で。そうすると取引があります。そうするともう、ほんとに痛々しいほど一所懸命。僕らみたいに、なんていうか、世の中が少しゆるくて、バブルで、ちょっとゆるいなんていう時代じゃないですからね。だから今の人たちのほうがよっぽど真剣ですよ。今の人たちのほうがハングリーですね。それで腹の減り方が痛々しいですよ。僕たち腹が減ったときは、「ねえ腹減ったよ」って、行くと何か食わしてくれたんですよ。今は行くとこないんじゃないの?

池上:大きなビッグ・コレクターみたいな方たちもいないですからね。

松本:いないし、税制で全部縛っちゃうでしょ。だからそういう意味では今の画商さんたちのほうがちょっと気の毒。たっぷりにはなれないし、大きくもなれない。と思います。どうしてかというと、だって植木鉢が小さいんですもん。入ってる泥が小さいんですもん。そりゃ大きな植木にならないですよ。昔は植木鉢じゃないんだもん。そのへんの畑の隅っこへ植えるんです。そりゃどんどんバカみたいにでかくなります。肥やしはやってるし。そういう違いを僕は感じますね。

池上:一方で、具体の作家も、もの派の作家も、再評価が進んで値段もどんどんすごいことになっていっていますよね。再制作したものを売ったりとか。そういう動きはどういうふうにご覧になりますか。

松本:それは世の習いだから。どんどん上がって、どんどん儲かって、どんどん偉い作家になってウハウハしちゃうなら、どうぞたっぷりウハウハしたほうがいい。それが合ってるとか間違ってるとかじゃなくて、ウハウハできるときにうんとウハウハしちゃっていいと思うんです。それで「あれっ、間違ってた?」っていつの日か気づけば、それはそれで幸せ。気づかないで財産残して死ぬ、それもまた自然でいい。ただ実力にそぐわないものが不当に評価されて、お金に換算したらとんでもない、ゼロが二つも三つも多いですよ、って僕に報告してくれる人がいっぱいいるんです。「昔、松本さんから買ったあの絵ね、香港でね、おれが出したんじゃないんだけどね、これだけになって、ゼロが二つ、三つ増えたよ」なんて。「松ちゃん、あれをよくおれに売ってくれた」なんて。「お前だって今売っちゃったじゃないか」って。「で、どうする?」って言うから、「どうするたって……、じゃあしょうがないからコーヒー飲んで別れよう」、僕はそれでいいと思う。世の中それでいいと思いますよ。

池上:それがマーケットというものだと。

松本:それがマーケットというものだし、逆に言うと、それが人間の社会。それで、それがその値段に値する絵であるかどうかはそのとき誰もわからないじゃないですか。

池上:そうですね。

松本:だって大原美術館の収蔵庫、そんなこと言っちゃいけないんだけど、展示できない絵がどれほどあるかわからないじゃない。あの大金を出して買った絵ですよ。ヨーロッパの、当時ヨーロッパのアカデミズムの中の最右翼の先生方のものをしこたま。今、並べられないじゃないですか。作家の名前さえ知らないでしょ。ねえ。だからじゃあ大原美術館がダメかというとそうじゃない。僕はそれがいつまでもそのままでいるかどうかわかんないと思うんだ。あの水辺の牛の絵が、ある日またとんでもない値段になる。

池上:アカデミズムの再評価もありますからね。

平井:それはわかりませんよね。

松本:だからそれを今腹が立つとか立たないとか、そんなの僕どっちでもいい。一所懸命僕に報告してくれる若い画商さんいっぱいいますよ。電話かかってくんの、「クリスティーズのあれ、松ちゃん、いくらになったと思う?」「そうだなあ、2億ぐらい?」「バカ! もう1億上だよ」なんて(笑)。でもあれ昔はたしかにうちの倉庫で困ってたけど、今はそれでいいじゃない。

平井:白髪さんなんかもすごいことになってますよね(笑)。

松本:そうですね。僕はその3億、仮に2億の白髪さんが今の2億の値打ちがあるかどうかは、それはまた別の話。この作家は腕がいいなあ、この人はデッサン力があるな、うまい人だな、と思うか思わないかは別の話ですよ。

池上:値段は一時的なものでもありますからね。

松本:そう。浮世絵の下絵を描いていた絵描きさんたちみんな絵がうまいなあ。筆で一番最初の絵を。で、それから版下ができるわけですね。うまいですよ。「この線引けねえな、みんな」と思いますよね。でもそれはそれ、これはこれ。と僕は思います。

池上:長時間にわたってすごくいろんなお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。

平井:ありがとうございました。