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松本哲夫オーラル・ヒストリー 2010年10月25日

新宿区下落合、剣持デザイン研究所にて
インタヴュアー:齋賀英二郎、辻泰岳
書き起こし:成澤みずき
公開日:2012年2月19日
更新日:2013年8月19日
 

辻:お生まれは1929年ですよね。

松本:1929年の11月26日です。1929年っていうのは、後で知ったことだけど、やっぱり世界大恐慌の一番酷い時期ですよね。恐慌は少し前から始まっていたけど、その時によくうちの親父とお袋は結婚したなと思います。

辻:どの辺りでお生まれになったんですか?

松本:生まれたのはね、東京です。でもオギャーっと生まれたのは実はね(違います)。実家が日本のしきたりとして、うちのお袋は長女だからね。長女が最初の子供を生む時は(実家で産んだ)。恐らくそれはね、今考えてみてもそうだとは思うんだけどね、子供を産む経験なんて初めてじゃない?最初の子供だからね。そうするとそばに自分のお袋がいれば、間違いなく、だから僕にとっては婆さんがいれば、彼女を産んだ婆さんだから、色んな意味で助けてくれるんだよね。それで僕のお袋は長女で、その下に男ばっかり6人もいたから(笑)。それは全部叔父なんだよ。一番下の叔父なんて僕と6つしか違わないんだよ。だからそういう環境で育ったから、結局僕はお袋の実家で産まれたんですよ。それは今の四谷見附の側にあったね。(母方の実家は)「カワエイ」っていう店名を持った材木屋なんですよ。材木屋の娘なんです。そこで僕がオギャーと産まれたことは間違いない。だから叔父たちは、初めて赤ん坊を見るわけだね、自分が赤ん坊だった頃は知らないわけだから(笑)。だから結局僕は相当叔父たちに可愛がられたわけだね。男の子だったから尚更ね。それで実際に親父たちが所帯を持っていたのは、(家の)地面(土地)は借りていたみたいだね。昔はみんなそうみたいだけど、大きな地主さんがいてたくさん土地を持っていて、それを住宅地として(貸していた)。今は聖学院って有名な学校になっちゃったけど、駒込なんですよ。駒込の聖学院っていう、僕らの頃は中学校だけど。こういっちゃ何だけど、あの頃は成績がいい人と悪い人で、もう先生がここに行きなさいっていうようにやってるけどさ、(成績が)中から下の人が行った中学校だったんですよ。そこは僕らの通学圏内にあった中学校だったんです。ミッション系なんですよね。要するにキリスト教系の、聖学院っていうくらいだから。今は聖学院大学っていうかなり立派な大学だしさ、聖学院中学も結構私立大学の中でも進学率のいい学校になっちゃったしさ。でも僕らの頃はそうじゃなかった。それで、女子聖学院っていうのもあったんですよ。女子聖学院の方はね、すごく優秀な人たちが集まっていたんですよ。とにかく学校の校内とかにそういう宣教師とかね、あるいは英語を教えている先生だとか、外国人たちが住んでいる教員用の住宅とかがね、何棟も建っていたという、かなり面白い、今考えてみると相当しっかりした学校だったんですよ。そこの庭に柿の木があってね。いつもそこに赤い柿がなるんですよ。そうすると我々ガキがね、塀をよじ上って夕方暗くなってからね、取りに行くんですよ。

齋賀:おいしかったですか?

松本:うん(笑)。甘いってわかったもんだからさ、まあ灯りがついて怒られたことはないけど。植木屋さんにあったやつをやったならば、植木屋の親父が出て来て木から下りられなくなって困ったことがあった(笑)。

辻:1945年のときは16歳ですよね。今のお話はちょうど戦中の頃、まだ小学生ですよね。

松本:僕が小学校に上がるのは、昭和11年くらいか。数えだと6、7歳。だからその頃ですよね、満州事変があったりするのは。ほぼ15年戦争っていわれるその頃は、学校的には軍国少年って言われるくらいの教育をされたわけですよ。

辻:空襲が当時あったと思うんですけど、その時疎開はされたんですか?

松本:戦争中はどうだったかな。とにかくね、12月4日。っていうのは六年生なんだよ。あの朝、もう学校に出るんでって、そうしたらもう軍艦が来て西太平洋において戦闘状態になるっていう発表を聞きながら、あっ戦争始まったって。でもね、アメリカと戦争するんだっていう雰囲気は、その年の半ばくらいからかな、だいたいはみんな何となく感じた。それと恐らくこれもまた新聞なんですよね。あの頃はまだテレビなんか無いから、ラジオと(新聞だけ)。でもNHKのラジオではそんなに。結構新聞がそういう雰囲気を作っていたかとは思いますよ。どちらにしても日本側で言っている支那事変では、もう完全に小学校上がる頃には、そういう雰囲気だったから。だから小学生の頃はよく中国に向けてね、東北の兵隊たちがみんな船に乗るのが、どういうわけかね、品川とかねあの辺で乗るのが多いんですよ。今、新宿池袋を通っている湘南ライナー(湘南新宿ライン)とかさ、いっぱい走ってるでしょ。あれは貨物線なんですよ昔のね。僕の子供の頃は貨物線が走っていた。そこは貨物線なんだけど、客船を引っ張っている蒸気機関車が出て来て、それで僕が小学校へ通う時に、東北から来た列車は一回貨物線に入って、トンネルを抜けて、それで僕らの住んでいた駒込近辺に出てくるわけですよ。前もってそういう情報が来るみたいだね。崖の上でね小学校だった僕らは日の丸旗を持たされて、そこで兵隊さんに向かって一生懸命こうする(旗を振る)わけです。少しカットして走るわけだけど、まあ斜面が緩いから、この上にいると子供たちの顔が見えるわけですよ兵隊さんから。そうすると兵隊さんたちが顔を出してみんな一生懸命手を振ってくれた。それが嬉しくて僕も一生懸命やってたんだけど、考えてみればそれに乗って、結局貨物線で多分品川か、横浜かあっちに近づいていくわけだ。まあどっかで船に乗せられて、それで中国大陸に連れていかれる。でも東海道走っていくかな?行くとすれば下関まで行っちゃうんですよね。僕はどうも東京湾のどこかで、横浜とか川崎とか品川くらいの間のところで船に乗せられたんじゃないかなって思うんだけど。だからそういうような状況はもう小学校低学年くらいの頃からあったの。これはね、もう克明に覚えているけどね。もう一つはさ、授業が無いからさその時は(笑)。子供っていうのはさ、授業やらなきゃいけないことはわかっているけど、なんかどっかいくとかね、喜んですぐいっちゃうわけだよ。

齋賀:そういうのは先生が引率して行くんですか?

松本:もちろんもちろん。自主的なんてあり得ない。全ては指導者がいて。

齋賀:そういう連絡が先生のところに入って、行くんですか。

松本:もちろんそうでしょうね。だってそんな軍用列車が走るんだからね、そんなもの一般の人が全部知っていたらね、やっぱり問題が起こる。だから突然言われるわけですよ。でもどういうわけか、僕らは何回もやらされたね。面白いよね、考えてみると。だからそういうような雰囲気が国全体にあったんだと思うんです、後で考えてみればね。だから南京がああいう問題が起きた後で知ったわけです。その頃は南京が中国政府の首都だったわけですよね。だからあそこで蒋介石主席がああいうふうに陥落したっていう、提灯行列ですよ。みんな提灯もって万歳万歳って街中を練り歩くわけ。それはどこがどう指導したかはわからない。でも恐らくまだあの頃は東京市だったわけだから、少なくとも東京市が指導したんでしょうね。だからもちろん球場前にいっぱい集まってくる人たちがいたわけですよ。自発的っていうよりも、今でも町内会ってあるけど、あらゆる組織がさ、きちっとできていたわけだよ。最後は隣組っていうのがあって。今でもあるけどね。今ではあんまりそういう意識は無いけど、回覧板だけは今でも廻ってくるでしょう。そういう町内会があって、提灯なんてみんなそういうところから来るんですよ。自分が求めて持つわけじゃない。誰もがそれに参加するわけ。いや、私は戦争に反対だからだとかね、なんて言おうものならたちまち警察に連れていかれてしまう、あるいは憲兵がきちゃう。

辻:そういった状況の中で、例えばその後の経歴に関わるような、例えば造形に興味をもつきっかけだとか、建築やデザインに興味を持つきっかけはどういったことがありますか?

松本:僕はね、どっちかっていうと絵は好きだった。子供のころから絵を描くのが。お絵描き好きな子って今でもいっぱいいるじゃない。好きだったんですよ。それでたまたまね、小学校っていうのは6年間行く間に1、2年生は男女共学なんですよ。1年生の先生は2年まで持ってくれるわけ。僕の時は江島さんという人でね、男性だったけど。あとで九州大学を出て、結構国文学か何かをやっていて、少しは名前の出て来た人だったんだけど、最終的には中学だったか高校の先生で終わるんだけど。その人に教わったんです。優しい、いい先生でした。それで3年生になって、今度は男女が分かれるわけですよ。4組まであってね、1組2組が男子生徒、3組4組が女子生徒。そこで3年の時だけ担任の先生になったのが相馬さんっていう太った先生だった。でも僕が4年になる時にその人が辞めちゃって、それで4年、5年、6年と進藤正一郎っていう弘前出身の人なんだけどね、それで柔道をやっていたと思うんだけど、手がね、少し痛めたらしくって少し曲がっているんですよね。がっちりした人だったんですけどね、その人絵描きさんだったんです。5年、6年の校舎っていうのは新しい校舎で2階でね。下は雨の時なんかは少し体操なんかできるくらいのコンクリートの床面の、体操場っていうほど広くはないけど、そういうところだった。そこからね、階段を上がって行くとメザニン(註:中二階)のところにね、小さいけれどこれくらいの部屋があったんですよ。それがね、伊藤さんていう名前の進藤先生よりはもう少し若い先生なんだけど、そこで絵を描いている美術の先生がいたんです。それで進藤先生とその先生は仲がいいわけです絵描きだから。それで進藤先生が入っていた団体が示現会っていう、今はもう無くなったかな(註:2011年の現在も示現会は存続している)。そこの会員だったのね。結構ずっと油絵を描いていたんですよ。僕が覚えているのはね、僕は絵が好きだからその部屋へ入っちゃうわけですよ。そうすると先生方が話しているわけですよ。そこにあったものを僕は今でもよく覚えている。あれは満州でね、いわゆる忠霊塔と称するね、要するにね、モニュメント、記念碑を作るコンペがあったんですよ。それにね、どうもね進藤先生と伊藤先生と2人でね、共同で応募してたんだな。それでね、これくらいの大きさのね、わりあい厚紙で作ってあってね、グレーのポスターカラーなんかできっちり塗った模型があったの。それでこれは何って聞いたら、これは忠霊塔のって、その時はコンペなんて言わないからね。それに応募したんだよって聞いた覚えがあるんですよ。それはね、現実には誰がやったものだかは知らないけど、確かね、満州に建ったはずなんですよ。その時僕は小学校4年とか5年くらいだったから。6年だと12月4日になっちゃうから、それより前ですよ。興味あったんですよ、そういうものにね。だから時々覗きにいっていたんですよ。それで僕も授業であるから絵を描くわけでしょう。そうすると結構いい点くれてね。絵描きになろうとは思っていなかったけど、先生がそういう絵描きさんだしさ。だから少しそういう刺激があったことは事実です。それで中学に入る。中学はあの頃は一応試験があるんだけど、ほとんどね、先生が(学校を)割り当てるわけよ。僕らのところでは当時、東京府立第五中学校、それと第九中学校。第九は板橋で、第五は今の千石のところ。それでね、あそこは駕町っていう交差点だったんですよ、今は千石って言っている。それでどういうわけか僕は1回、2回くらい級長にさせられている。でもいつもは副級長なんだよ、先生が決めるわけだからね。それで隣の2組にも1人副級長がいて、それは菊池っていう奴でね。あとで東京大学の教養学部の教授をやった人なんですよ。彼と僕は九中を受けろって言われたんですよ。それで級長をやっていた男には五中を受けろって言ったんですよ。でも俺は開成に行きたいっていう人がいれば、それは行ってもいいんですよ。だから僕らのクラスの級長をよくやった男はあの近辺の大地主のせがれなんだけど、今でも時々会うんだけど、こいつは開成行ったんですよ、自分で手を上げて。僕らのクラスで級長もう一人いたんだね。そいつはおばあさんと一緒に住んでいてね、どうも都立はって言われてね、自分からやっぱり開成に入ったんですよ。だから私立学校はどこ受けてもいいのね。でもあの時代は学校が田端の駅よりちょっと丘の下に下がった所にあるもんだから、あの近辺で優秀でいい学校でしっかりした生徒が行く学校としては、開成中学校。日暮里に今でも開成学校ってあるよね。西日暮里から近いのかな。それで僕のことを言えばそういうわけで、府立九中に行った訳ですよ。僕が入ったときは府立九中だったけど、そのうちに東京都になっちゃった。それで都立第九中学校に通うわけ。それで僕と菊池は九中に入ったわけですよ。まあ一応試験があったわけだけど、ほぼみんな推薦で受けにくるから、だいたい落ちるやつはほとんどいなかったんじゃないかな。でも一応試験はあるんだよ。ちゃんと一日中、弁当もっていった覚えがあるから。だからその時まだ何になるなんて気はなかった。その時ははっきりいって、いわゆる第二次世界大戦入っちゃって大東亜戦争になっちゃっているわけだから。だから結局入った年の1年生のときだったかな。空襲があるわけですよ。航空母艦で発砲できない爆撃をさ、それもまたすごいんだよねえ。あれはまた志願でやらせるんだよ。陸軍の飛行機をさ、海軍の航空母艦に乗っけてってさ、日本近海まできて飛ばすんですよね。それで東京が爆撃受けるわけですよ。早稲田大学の学生なんかが、直撃受けて死んでいた。だいたいはこのくらい小さい焼夷弾なんだけど、後で学校でみんなにそれを見せて回るんだよ。こういう焼夷弾を落とされているから、アメリカをやっつけなくっちゃダメって戦意高揚のために教材にさせられちゃう。中学入って1年くらいから、毎日板橋駅から赤羽の方向に向かってね、カッコいい陸軍の将校たちがね、いっぱい僕らが登校する時間帯に電車乗ってあそこで降りるわけですよ。それはね、いわゆるエンジニアなんだよね。だから技術将校っていう。何やってるかわかんないけどみんなカッコいいの、軍服着ているしね。若い将校たちですよ。僕はずっと小学校4年生から眼鏡をかけていたから、ああやっぱり国に尽くすためには普通の兵隊では役に立たないから、じゃあ技術屋になるって。技術将校だったらいいって思ったんです。その頃からね、まあ小学校の頃からそうなんだけど模型飛行機を作るのが好きでね。グライダーってドイツのものがあったのね、わりと大きなものを作っていたの。キットが売っているわけです。あとは全部自分で竹ひごを曲げたりして紙もはったりして。でもそれを飛ばすところが無いわけですよ。それでさっきの聖学院中学に日曜日に学生いないしさ、用務員もあんまり時間帯によってはまわらないからさ、中にもぐりこんで飛ばすわけ。かなり長く飛んでくれるわけですよ。そういうようなことをやっていたんで、飛行機好きでしょう?あの頃の子供達ってみんな飛行機大好きだから。軍艦か飛行機だね。だから飛行機の設計とかで戦争の役にたたないかなって思い出したわけ。五中も九中もだいたいお正月になると卒業生がみんな海軍学校へ行ったり陸軍士官学校へ行ったり、それが必ず正月に来るんですよ1月1日に。それで在校生に檄を飛ばすわけ。しっかりした体格で、海軍がいいぞ、陸軍がいいぞってやるわけだよ。それでもうこっちはそういうのを横目でみるしかないわけ。僕は背はでかいけどひょろひょろしてるし、眼鏡かけてるし、ド近眼で。それでダメだなって。じゃあ飛行機の設計だったら国の役に立つって、ずーっと最後まで思ってた。敗戦のその瞬間までね。人生の目標だったわけだからね。それが8月15日を境にさ、えーって感じでしょう。それまでにさ、空襲は確かにB-25が飛んで来て、あれは不意をつかれてさ、何か真っ黒な飛行機が飛んでるなあ、飛行機じゃないのかなあ、と思って眺めてたからさ、空襲なんて意識は全く無かったから。だから空襲なんていうのは実感としては無かったんだけど、もう敗戦の年の前の秋くらいからね、学生も工場に行かされたりするような勤労動員と称するものが始まっていたんですね。それで僕らのクラスは不思議なことにね、防空壕堀りをやらされたの。それも横穴のでかいやつなんだよ。今、朝霞っていうところがあるけどさ、あそこに飛行場があったんですよ。恐らく空襲が来たときにB-25に向けて飛んで行って戦うっていう飛行機の所だったと思うんだけど、格納庫みたいなものもあったんでしょう。僕らが掘っていたのはねえ、本当に関東ローム層がそのまままともに現れている高さの4mか5mくらいある高さの、断層でもないと思うんだけど、そこの横に高さ3mくらいある大きなアーチ状のものを掘ったんです。もちろん手堀りです。どうも後から聞くと、飛行機を入れるルートがないから、多分整備工場なんかにあった機械をみんなそこに入れたんじゃないかって言われているんですよ。今それがどうなっちゃったのかはわからないけどね。それでそこにしばらくいて、終わったら学校に戻されてさ。2月の始めくらいにもうその仕事終わっちゃったからさ。それで学校戻れって、2月からは授業をちゃんと受けていたんです。それでね、英語の授業もあったんだよね、不思議なことに。そしたら3月の10日に大空襲があった。僕の家の近所もちょうど上野から続いてくる台地でね、聖学院中学校も台地に校舎があって崖があって、崖の下が割と広い原っぱでそこが校庭だったんです。僕の家はそのすぐ側の、崖を降りて来て、間に1つ道があってね。2棟あってその路地の先が僕の材木屋のおじいさんがもともと作っていた家があってね。それでその裏に借家があって、そこの家賃も多分お袋のためにあがってくるようにしてあったんじゃないかな。それでわりあいとそこで生活していたわけなんですよ。それで一回建て替えるんで、もう一軒あった借家に移って、二棟並列で新しい家を作ったんですよ。それで大きい方に僕たちが、もう一方にはお医者様が借りて入って下さった。診療所は駒込の駅の中間くらいにあったんだけどね。それで新しい家になってそこで生活していたんです。その頃にだんだんだんだん戦争が激しくなっていったんです。親父は3月10日で、自分が勤めていたというか、共同経営者みたいなものだけど、万年筆の工場をずっとやっていたんだけど、南千住で、でもそれが燃えちゃうわけですよ。それでもうこれは大変だっていうんで、もうこれは疎開するしかないと。その前も秋頃にみんな子供達全員をお袋と一緒に親父の郷里へ疎開させるんですよ。疎開させるっていっても、そこは今の伊勢市なんですよね。あの頃は宇治山田っていったんだけど。そこの川崎地区っていうところにね、広い川のすぐ脇の借家にいたんですよ。それで敗戦の前の年の12月にね、いわゆる東南海地震が起こるんですよ。それがものすごい被害があって、伊勢湾からものすごく高い津波が来ちゃってね、それでうちのお袋たちも地震は嫌いだから、娘の時に関東大震災やってるからさ。だから、地震っていうとすぐに飛び出しちゃう人なの。それで子供連れて飛び出したらしいんだよ。そうしたらやっぱり川縁にある大きな土蔵が崩れてこっちに流れて来ていた。まあ大変な死ぬ思いをしたらしい。僕はちょうどその時、空襲警報が鳴って家の前にいたんですよ。そうして立ってたら地面がよろけそうなくらい揺れるんです。それで防火用水っていうのが各家にみんなあったんですよ。60、70pくらいあるコンクリート製のね。そこに水がいっぱいあったわけですよ。それがね、みんなザバザバと落ちるわけよ出ちゃうわけ。それで見てみたら後で水が30pくらい無くなってるんだよ。ものすごい大きな地震だったわけよ。どこが震源地だかわからないし、ラジオもそんなこと言わなければ、新聞には伊勢の方ってあったとか、名古屋地方だとか、色々あった。だけどその時はもう渥美半島だとかは壊滅的だった。名古屋港にも相当高い津波がきているはずなんですよ。それで三菱の飛行機の工場があったんだけど、あそこも零戦作ってたんじゃないかな。そこには僕らのクラスのやつらも行ってたんだけど、動員でね。僕は宇治山田中学校というところに移るんですよ、親父がもうダメだっていうんでね。3月いっぱいで引き上げるってね。僕は残りたいんですけど一人では残れないからそれで泣く泣く(移った)。しばらくは叔父たちと一緒にいたんだけど、もう3月で引き上げるってなって。それで仕方なく机とかさ、受験参考書とかいっぱいあったから全部くくって。それで送り出すようにして、それで行ったんですよ。それで僕は県立宇治山田中学校に入ったんです。

辻:では終戦の時は、宇治山田中学校だったんですか。

松本:そうです。15歳でもうその年の8月で戦争は終わっちゃいます。だからもうちょっと頑張っていればなんとかなったのかとも思うけど、やっぱり空襲があったから、北区とか豊島区とかこのあたりもみんな空襲にあって焼けちゃうんですよ。

辻:その後、東京に戻って来られるということですよね。

松本:そうなの。だけどそれは結局敗戦と同時に。だって飛行機の設計技師になろうと思ってたけど、突然全部パーになっちゃったわけだからさ。もう受験期が近づくわけですよ。だからどうしようかどうしようかと思ってさ。それで弱ったなあと思ったねその時ね。小学校以来、学校で教わって来たことは、全部価値が無くなっちゃうわけだからさ、その瞬間に。今までもそう言われてやってきたのに、今度はまた教師たちが民主主義が何とかとかってね、もうダメだね眉唾になっちゃうわけだよ、信用できなくなっちゃうわけじゃない瞬間的に(笑)。それで4月になってからさ(高校に)行けなんて言われてさ。みんな最後のさ、予科練なんて行っているやつもいるわけだよ。そいつらなんてさ、乗る飛行機も無ければさ、何も無い。海岸かなんかでさ、たこ壷なんかを掘らされてたんだよね。そこで潜んでてさ、敵がきたら一人何人か殺せばいいっていう、そういう訓練をさせられていたわけです。だもんだからそいつら帰って来たらみんな荒れちゃってさ、お前のおかげで酷い目にあったってさ。剣を持って来て、殺すっていって教師を追っかけるんだよ教室で。教師なんて来なくなっちゃう学校に。後で聞いたんだけど、都立九中でも同じことが起こっていた。だって英語の先生までもが軍国主義的教育をしていたわけだから。それでそいつは皮のスリッパ履いてくるんだけどさ、気に入らないんでみんなで「スカンジー」ってあだ名で呼んでいた。その先生はスリッパ脱いでひっぱたくんだよね。片っ端から叩きのめされて追い出されて。たまたま体操の先生が中学生をいっぱいつれて歩いているところを新宿で会ったことがあるけど、忘れもしない平岩ユウジ(表記不明)っていうんだけど。平岩先生って声をかけたら、はっと振り返って、ん?っていう顔をして。まあ覚えちゃいないわな、3年くらいしか一緒にいなかったから。そしたら今、中学の先生をやっていてこんなかっこうだよって、いったんだよね。まあすぐ別れたんだけどさ。でも後から聞くとそいつはわりあいと子供達には親切な教師なんだけど、やっぱり怖い先生ではあった。そのかわり、お前らはやっちゃダメだぞなんて言って、屋上のフェンスの上でね、体育の教師だからね、こういうところに手をついてね、いきなり身体がぐにゅーっとなるわけだよ。あれはね、腹筋と背筋がないとできないよ絶対に(笑)。向こうにおっこったら死んじゃうもん。だって地上恐らく10m以上あるんだからさ。そういう面白い教師だったんだよ。だからわりあい人気はあったんだよね。そんなに人をひっぱたかなかったからね。だけど他のやつはみんな叩き出しちゃったみたいだね。だからやっぱりそういう時代に育っちゃったんだよ。だからみんな荒れたよね戦後。僕なんかもうふて腐れちゃってさ。それで伊勢には神宮皇学学会(神宮皇学館史学会)っていうのがあったんですよ。今は皇學館大学っていう名前で復活したけど。頭に神宮がついていたんです。まあ国家神道を教える、極めて国家神道的な大学だったわけでしょう。そこの学生たちがそこの本を売ったんだろうね、古本屋にいっぱい本があるんだよ。焼けたんだけどそれはみんな個人が蔵書として持っていたものだから。だから掘建て小屋みたいなところで古本屋会みたいなのをしていて。安いのよ。それともう一つね、あいつらが僕らに教えたことが間違いだったとしても、今教えていることが本当なの?それも納得いかねえなあと。じゃああいつらが教えていたことが間違いだって、自分で検証したいって思ったんだよね。まあ中学4年生でよくそんなこと考えたと思うけどね。それでなけなしのお小遣いでさ、色々な本を買い込んだの。その中にね、ヒトラーの『マインカンプ』があったんですよ。『我が闘争』って日本語で訳されている。安いんだよ、もう二束三文だもん。それからね当時の戦争賛美者の1人だったんだけど『青少年に与うる書』(註:室伏高信『青年の書』(モナス、1936年))って言うのがあったんですよ。そんなもの僕らはその頃、読む気も無かったし、買うお金も無いし。それからね今思い出したけどどういうわけか『神皇正統記』っていうね、それも一種の忠君愛国の1つのあれだよね。天皇をどう奉るかっていう話なんだけど。それだけ今覚えているんだけど。それでそれをね、懸命になって読んでみたよ。だけど食うものがなくって、それでも朝礼必ずやるでしょ、そうすると冬になると立ってこう朝礼で先生の話を聞いているでしょ。そうするとだんだん指先から白くなっていくんだよ。血がいかなくなっちゃうわけ。血液が薄くなっちゃうの。そのぐらい酷い生活だったよね。着るものはもう戦争中に、中学に入る時に買わされたカーキ色の服しかないわけだから。だから寒いし、栄養失調でしょう。やっぱりねえ、よくあれで生きていたなあと思うよね。そういう時代を経て、あとですごく役に立ったのはねえ、防空壕を掘ったりして、あとはどこへも行っていないからね。宇治山田中学校へ転校して、最初に1組に入れって言われて。1組は四日市の海軍校舎へみんな行っているわけですよ。みんな、そこへ行かせる。そしたらご近所の人も含めてさ、いくらなんでもそれはかわいそうだって、家から通えるように組替えさせろってそういう話が出てさ。それで結局ね、3組っていう組になって。そうしたら「宮川モスリン」っていうね、宮川っていう海に注いでいる川があるんですよ。それで宇治山田に入る1つ手前の駅があるんですよ、宮川、その次が宇治山田なんですよ。そこにね、大きな毛織物工場があったんですよ。モスリンっていうのは毛織物なんですよね、着物なんかにも使われているんだけど。ところがその頃はね、豪州、オーストラリアの羊毛の原毛をたくさん持ってたんですよ。敗戦の時もまだいっぱいあったよ。あれ、その後どこいっちゃったんだろう。それでその原毛から織物まで一貫して生産した工場だったんですよ。だってあの当時でさ、僕が配属されたのが織物の工場なんだよ。そこが湿度調整をするためにね、夏に向かって冷房してるんだよ。だから工場にいたら涼しくて、表に出たら暑いんだけど。水をくみ上げて冷たい水をそのまんま工場の方へ回して、それで扇風機で温度を下げて、湿度が適当に一定の湿度にさせているわけですよ。それでそこで織機の油差しをさせられたんですよ。若い行員さんたちはもうみんないなくて、あとは女工さんと、宇治山田高等女学校の学生たちが機械を動かしていたの。それで男子学生は出来るだけ力仕事をさせられて。それで工場と伊勢湾との間にちょっと林があって、林の向こう側は伊勢湾に面しててね、飛行場があったんですよ。明野っていう所でね。それは隼っていう戦闘機でね、陸軍の工場ですよね。それがいっぱいいた所なんです。それで関西圏の空襲がくるとね、そこへ狙って行くわけですよね。それで海から入って来てね、それで林を越えると向こう側にさ、すごい工場がダーっとあるわけじゃない。それをまた機銃操作していくわけですよ。僕らは工場の脇に掘ってあった(防空壕)、素堀りですよ、上にちょっと板が貼ってあってさ、土が盛ってあるような(防空壕)、入り口はむしろが下がっているだけで。それで女工さんとか女子学生を先に入れて、男子学生は一番最後まで残れ、とか言われてさ。それで一番最後にそこに潜り込むでしょ。そうすると頭の上をダダダダって。逸れてたら、俺死んじゃってたもんね。それはもうすごかったよ。それで(戦闘機が)行っちゃうと、学生出てこいって、男子学生だけ呼び出されてさ、屋根に登れって。それで屋根に登るとね、煙があちこちから出ているんだよ。機銃だったら要するに穴があくだけなんだよ。でも10発に1発だったか20発に1発だったか、曳光弾っていってね、夜撃つ時に光を発しながら飛んで行く弾があるわけですよ。それが着弾しているかどうか見ながら、ガイドラインですね。煙を出す訳だから、火があるから、それが屋根に突き刺さるわけ。こんなに厚いコルクの板がね、天井に全部貼ってあるんだよ、鉄板の下に。だから完全に断熱材がばっちり入っていたの。だからそれに刺さっちゃうから燃えるに決まってるじゃない、木だもん。そうするともう大変ですよ。消火作業でバケツもって一生懸命。そういうのがいつも男子学生の仕事なの。だってあと男性っていうとおじいちゃんしかいないんだよ。だけど僕はそこでね、刈ったばっかりの原毛からそれを苛性ソーダの中に入れて、それでだんだんだんだん熱を入れながら乾かして。それでまたこれがすごい設備だと思うんだけど、一棟大きな建物があるでしょ、その間を車が通れるようになっていて、地下に太いパイプがあって、そこから圧送してね、次の工場に行くんですよ、それが。そこでもって今度はだんだん細く依っていく、毛糸がだんだんだんだん細くなっていく、最後はスピンかけて。それで染色もその間にやって。それでカーキ色に染まったやつが、今度は縦糸と横糸にまた分けられてさ、それでゴーッと回っている。それを全部見ちゃった。それにすごい興味が出て来てね。それで織機についてもさ、どうしてああいうものが織れるのかね、だんだん興味が出て来てさ。それで工場長室へ行ってさ、いや実はこういうことにすごく興味が出て来たのですが、なんかすごく簡単にわかりやすい本は無いでしょうかって聞いたらさ、すごい工場長が面白がっちゃってさ。だって普段僕は油差して(織機が)動いているところを見てるわけだしさ。だからなんでこういうように、12枚もある上がったり下がったりする板があって動いていて。普通の綿なんかを織っているわけではなく、将校用の冬服の生地を織っているわけだから、ものすごいしっかりした織物なんですよ。それがめちゃめちゃ面白くてさ。それ(借りた本)を一生懸命家に帰って読んでみたりしたらさ、だいたいわかってきたわけ。要するに簡単に言えば板を上げたり下げたりするね、メカを指示するのが碁盤の目みたいな図面に縦横になっているだけなんだよ。それを全部かなり大きな幅の長い全周4mくらいあるものをぐるぐる回しているわけですよ。そこから出て来る指示に基づいて、単純な構造で動いているんです。でもね、面白かった。

辻:工業デザイン、そういうものに興味を持たれて、東京に戻られて今の千葉大学に進まれるということですか。

松本:まあその間にもう一つある。それはそれなりに戦争中だからさ、興味はあった。結局僕は中学があの頃は5年間あったからね、今の高校2年くらいですね。だって進路が決まらないわけだからさ。だから海軍学校なんて行ったやつらはずーっと毎日勉強しっ放しでさ、血色よくてさ。とにかくそれで薬局のせがれなんかはさ、海兵学校行って4年で東大の医学部入っちゃうんだよね。まあ医学部っていうかあの頃は理Tかな。だから一高に入って、それから医学部に行くわけですよ。それで医者になっちゃったんだけどね。だいたいそうやって陸軍士官学校や海兵学校に行った優秀で成績もいいやつら、できるやつらが(進路が決まっていて)、あとのやつらは目標が定まらない。ぼあーっとしてる。材木屋のせがれはね、東京高専の木材科に入っちゃったんだよ。でも僕は目標が無い。それでぼやーっとしながら4年がすぎて、5年になっちゃって、どうしようかなって思っててね。それでたまたまその頃には東京とも文通ができるようになっていて、小学校の時に1年上なんだけど、一緒になって悪い遊びばっかりしていた奴がいてさ。それが早稲田の工業専門学校みたいなところに行ったんだよね。そこで建築を出てね、大江(宏)さんの事務所にいたんですよ。大江さんの第一号の所員なんだよ。それでそいつに連絡をとったら、こういうことをやってるって言って。なるほどなって。でもあんまり建築っていうところまでいってなかったの。まあでもどんなことやっているかわかんないし、とにかく東京出てくるきっかけが無いと困っちゃうから。それで親父口説いてさ、それでとにかく東京に来たのよ。それが戦後2年目、昭和22年です。それでその間にもう1つあるんだな。目標が定まらないから、旧制の最後の数学の授業が受けられたんですよ、5年生でね。たまたま親父の燃えちゃった工場が、天竜川が稲田に入るところに辰野っていう街があるんですよ、長野県に。そこにもうとにかくしょうがないっていうんで、伊勢の方には食い物がないから、もう3月、卒業式が近づく頃に行って。そこの方がまあいくらかは伊勢よりましだからって。それで移ったんですよ。それだったら旧制の松高(註:旧制松本高等学校)だったら受験できるから、旧制の松高を受けることになって、それで受けたんだよ。浅間温泉のところに泊まってね。受けたんだけど、案の定どべってさ。それで行き場がまた無くなっちゃったわけなんだよ。その頃、さっきのガキ大将がそう言っていたわけなんですよ。それで東京へ出て行った。今度は伊勢から東京へ行くよりは近いからね、中央本線で行けばいいんだからね。東京で叔父たちが所帯持っていたりしていたから、そこへ潜り込めばいいやって。それで行ってみて建築ってどんなことをやってるんだろうって。それでまだ三菱村があった丸の内で、レンガの建物がまだあって、そこに行ってみたの。先輩が図面を見せてくれたり、女の子がお茶を出してくれたりしたの。そうしたら奥の方からね、カッコいいすらっとした人が出て来たの。そしたら先輩がちょうどいいからって、大江さんが出て来たの。それで紹介してくれたの。その時によせばいいのにさ、先輩がこの松本と子供の頃、団子になってよく遊んだって言っちゃったの。そしたら大江さんが「君、建築に興味あるのかねえ」って言うわけよ。だから「どういうことをやるかよくわからないんで、スケちゃんのところに覗きに来たんです」って言ったんです。そうしたら「まあ、建築も面白いよ」って(笑)。それでなんかカッコいいなって、そのへんがミーハーだよな。でもやっぱり飛行機の設計というように、設計には興味があったから、でもなんで船の設計をやろうと思わなかったのか、それはわからないけど、そこで感化されちゃった。大江さんに目が移っちゃった。ああ建築家っていうのも悪く無いなあって。それで結局、建築家になっちゃった(笑)。これ、本当の話だよ。それで一番最初の、大学院のピロティがあった、大江さんの作品で法政大学の設計(《法政大学大学院(53年館》》1953年)をやっている最中だったの。それで事務所にすぐに人をもっと増やさなきゃならないっていう時で、加治町の交差点のところに後で三和銀行になるところだけど、そこの銀行の敷地内に細長い木造の建物があってね、そこに(事務所が)移ったんです。それで僕は建築やるって決めちゃったから。本当は最初、早稲田を受けたの、受かっちゃったの。そしたら親父が入学金と授業料見てさ、とても出せないって(笑)。バイトしても、お前無理だぞって。だから安い大学に入れって、国立大学しかないって。確かあのときね、松高に入っていてもね、国立の新制大学になっていたんですよ。だけど僕はどべったからね、伊那北工業学校というところに行ってたんですよ。辰野から伊那北まで通ってね。僕にとっては青春時代ですけどね。たくさん友達ができてね。伊那北高校に最初に行ったときね、教室に行ったら誰もいないんだよ(笑)。まさか遅刻したわけじゃないし、変だなと思ってたら、ずーっと遠くの方で太鼓の音がしてね、ドンドンドンドン奇声上げてる声が聞こえるんだよ。何だろうなあと思って覗きに行ってみたら、旗を掲げてデモやってるわけだよ。それでそばに寄って行って何やってるんだって聞いたら、1人(生徒で)戦後すぐに東京へ帰って、頭(髪の毛)伸ばして帰って来たやつがいたらしいんですよ、新制高校1年やるために3年生が。それでそいつに頭を刈れって学校当局が言うわけだけどさ、そんなの自由だって、まあどこでもある話ですね。当時、長髪騒動って有名なんですよ。それでみんなストライキやっちゃってさ。教室に出ないんだよ。先生もそこにいないわけだよ。その日一日学校行ったけど何も無いわけですよ。それで次の日行ったら、みんな教室にいた。そしたら担任の教師が入って来てね、「転校生で学帽を被って来てないやつがいるらしい、この教室にいるか」って、それ僕のことなんです(笑)。ハイって言って。だって僕は上はジャンパーでさ、下もヨレヨレのズボン履いてさ、登山帽被って行ったんだけどさ、(先生に)なんで(学生帽を)被って来ないんだって言われてさ。そんなもの戦争中に戦闘帽なんかボロボロになって無くなっちゃったって。それに着るもの無いから、特に信州は寒いから親父が昔作ったジャンパーを着てきてどこが悪いんですかって言ったんです。そういう言い方するからさ、「何言ってるんだ!ここは伊那北高校だ、学生は学生服を着て、学生帽を被って来なくてはダメだ」って言われたから、「ダメだって、じゃあ入れてくれないんですか、だいたい家にはそんな金はありませんよ、僕はバイトもできないし」って、もうそれで押し通したんです。そしたら教師は何も言わなくなっちゃって、僕もああマズいのかなあって思っちゃって。それでたまたまね、昔々の家の裏に借家があった時代、そこにハヤカワ(表記不明)さんという絵描きさんがいたんですよ。その人の長男が僕より一年上なんですよ。よく遊んでもらった1人なんですけど。その人が早稲田の高等学院に行っていたんですよ。ところがやっぱり敗戦と同時にお金が続かなくなっちゃって辞めちゃったの。それで早稲田の帽子だけ残っていたの。先輩からもらったっていう、早稲田の丸い帽子で蛇腹がついているんだけど、蛇腹を外したら被れるよって言うんでもらったんです。だけどね、それすごいバンカラ帽だったんです(笑)。代々受け継がれて来た帽子を彼は被っていたわけですが、もう俺はまもなく学研に入るから被らないから、これあげるからって。上はジャンパーでいいからせめてこれ被って行きなよって(笑)。それでね、それを被って学校に行ったの。そしたらみんな、わあ、なんかすごく貫禄のある人がって、またまた尊敬の的(笑)。教師はもう渋い顔しているわけだよ。僕は「先生被ってきましたよ」なんて言って。「なんだその帽子は」って言うから、だってこれは由緒ある帽子だからって。まあ記章だけはしょうがないんでね。新しいのヤダからさ、一生懸命汚してね、開成は(校章が)剣とペンなんですけどね、早稲田はペンが2つクロスしているんですよ。そこに中学だから「中」って入っていたんだけど、高校だから「高」にして。そうしたらそこだけ白いからさ、そこをいろんな方法で汚して汚してそれで古びたようにして。という馬鹿な話があります(笑)。でもね、やっぱり面白かったあの一年は。あとで中央に行ってバスケの選手になる奴がいるんだけど、割に背は小さいんだけどクリーニング屋のせがれでね。仲良くなっちゃってね。バスケット教えてやるからって言ってね。中学校の校庭に連れて行かれてさ、それで教わったの。だからいろんなショットができるようになった。だけどドリブルだけはやっぱりできないねえ。あれは難しいね。奴は背は小さいんだけどね、太ってるんですよ、それで手が骨張っていなくて大きいの。だからボールを片手でつかんで投げられるわけだよ。俺なんかボールを持てない。やっぱりねえ、あれは面白かったなあ。それでバスケットの選手になろうとは思わないけどさあ、面白かった。そういう遊びをしたりね。それと家にポータブルだけど蓄音機があったんですよ。もちろん針のやつでね。あんまり詳しくはないけど親父が趣味で持っていたんだろうけど、疎開疎開していたわりには、それがちゃんとあったんだよ。それを持ち出してさ、バスケの選手と彼女と小学校の教室借りてさ、レコードコンサートやるか、なんて言ってさ。少しでも女の子の気を魅こうと思ってやっていた(笑)。

辻:その後、現在の千葉大学に行かれるんですよね。千葉大学での授業の様子や、先生方のこともお聞きしたいです。

松本:その頃学校が松戸にあったんですよ。松戸に工兵学校があった。その校舎をそのまま使って授業をやり、校庭の反対側にある校舎が全部寮だった。各学科、建築、工学、電気もあったかな。建築の中に精密機械もあったんです。精密機械出たやつなんかは、オリンパスとかに入って結構いいポストまで行ったやつなんかもいるしね。電気のやつらなんか九中の奴らも何人かいて、そこで会った。その中の1人が西田ってやつでね、モーターか何かやっている三菱重工の社長やって会長やってっていうのもいるんだよ。だからね、面白いの。僕らの建築の同期の中にはいろんな奴がいたなあ。旧制鹿児島七高で、そこで僕らよりは年が3つか4つ上なんだけど村田(聖二)っていうやつは、旧制に行けたのにどういうわけか新制に来ちゃって千葉大で僕らと同級生になっちゃった。それで大学院は東大に行って都市計画的なことをやって、卒業してから公団の団地計画とかアパートの設計をやっていた。もうリタイアしちゃったけど、彼が一番年上かな。もう1人いたのが堀内ってやつでね、こいつは僕が入りたいなあと思っていた大江事務所(註:当時は大江新太郎建築事務所、1946年に大江宏が継承し、1962年に改称)に入っちゃうんだよ。なんでだと思ったよ。そうしたら、兄貴が紹介してくれてって、その兄貴が東京都の建築のトップなんだよ。それで大江研だよ。大江さんっていうのは酒飲みで、その僕のガキ大将の先輩もめちゃめちゃ酒飲みでさ。それで法政の一期生も2人とったんですよ。柿崎さんと梅崎さん、これがみんな飲んべえなんだよ。全員飲んべえ。それで大江さんだってお酒嫌いじゃない。大江さんが飲みに連れて行くのは神楽坂なんだよなあ。大江さんいい男だからさ、芸者衆にはモテるしさ、芸者あげてまではみんな飲ませてはないと思うけどね。飲むのは必ず神楽坂。俺は飲めないから入ってもダメだったと思うけどさ。

辻:旧東京高等工芸学校、千葉大学ですけど、そこではどういった先生がいらしたんですか。

松本:先生はね、小泉先生っていう、面白い人で農村建築をやっていた人でした。それが計画系なんですよ。それで森崇っていう助手がいたんですよ。もう一人は仙台工専に長いこといた構造の人で東京工業専門学校に来ていて。最初図案科で集めた学生達が戦争中に図案なんて意味がないって言われて、それで建築科になったんですよ。それで東京工専に建築科ができるんです。その時に東京工専にやってきたのが、辻井静二先生。辻井先生が構造を教えてくださった。あとはハタノ(表記不明)っていう教授がいて、その当時は工専から出た人が多いね。その人が教えたのは、構法とかね、あとは材料学をちょっと教えていたかな。あとは東大から来た本当にエリートといった顔をした人で全然気に入らない奴で名前忘れちゃったんだけど、卒業の時はちょっといい訓辞をたれてね。「人生は賭けみたいなもんだ」って。「そんなに一生懸命考えたってどうなるもんでもないぞ」って。「だいたいお前らな、(総領の)甚六だから」って言われてさ。1期生は、みんな出来が悪いって(笑)。もともとね、力学っていっても、弾性力学だから、もうそういうの嫌なんだよね。だから定性構造物とかさ、そういうのだったらわかりやすいんだよ。辻井先生っていう先生はね、「エンジニアになるやつはちゃんと計算もできなきゃダメだよ。だけど設計やる人はそんなに計算なんてできなくてもいいよ。ただ加重がどこにかかったら応力がどういう応力か、だから簡単に言えばクレモナ図をね、書けるようにならなきゃダメだ」って。だから定性的なことさえわかればいいって。定量的な問題はエンジニアに任せればいいって。そういうことを教えてくれたのよ。4p角くらいのゴムの棒を持って来てね、それで両端を支えるとたわむだろう?そうすると上はしわしわになって下はピーンとなる。これだよ、わかる?そうやって教えてくれたの。僕は今でも思い出すよね。僕にとってはえらい、いい先生だし、大変にありがたい先生だった。卒業の時は彼は学科主任だったから、僕はいくら設計事務所歩き回ってもどこもとってくれないしさ、もうダメだなあっていう時に、「君はバイトまでして学校出たんだから、大学院が無いからこのままいたってしょうがないし、でも大学院みたいに本がいっぱいあってそれを読んで給料がもらえるところがあるんだよ、そこ行かない?」って言われてさ。そこで行ったのが産業工芸試験所だったんだよ。僕の主任はもう一人いるんですよ。東京工業学校(註:現在の東京工業大学)で、京大の建築を出た人なんだけど、赴任して助教授になってさ、それで1年もたたないうちに、文部省留学生でドイツに留学しちゃった。どういうわけか彼はバウハウスに行かないでベルリン大学で建築を勉強して帰って来るんですよ。その人がまた東京工業大学の助教授に戻って、教授になるんですよ。剣持(註:剣持勇(1912−1971)、デザイナー。1932年に東京高等工芸学校卒業。商工省工芸指導所(1952年に産業工芸試験所に改称)を経て、1955年に剣持勇デザイン研究所を設立)はその時、その先生に教わってるんですよ。野村さんっていうんだけど、野村茂治っていうね。野村先生が室内計画っていう講座を千葉大でもったんですよ。そのときはいわゆるちゃんとした(建築)計画系の先生は、千葉大にいなかったんですよ。それでしょうがないなあって。家具はやる気がなかったし、当時家具だけは講座があったんですよ。西海(幸一郎)さんっていう有名な先生なんだけど。今考えてみればそれも勉強しておけばよかったなあと思うんですが。家具なんか冗談じゃねえやって思ってたから。弾性力学なんかにエスケープしちゃってるからさ、単位にならないけどね。それで照明工学っていうのが電気学科にあって、そこへ潜ってさ、授業だけは全部聞いて、試験出したって単位くれないわけだから。あとは機械の授業に潜り込んで。機構学って、簡単に言うと回転運動で面で回転してるものが、回転運動に何かを連結させて、それを水平運動にするとか、そういう構造を勉強する学問。機関車がまさにそうです。それはすごく面白かったね。僕は自分で勝手にそう決めたんだけど、大学なんだから、自分が好きな授業全部聞いて、それで卒業できれば一番いいなって。建築の授業はね、後で一級建築士の問題が出て来るから、一応全部ちゃんと建築だけはとって。そういう意味では僕には大学の意味があったと。あとはまあ、必須でもあったんだけど意匠学科で小池新二さんっていう先生がやってた造形概論。それは一と二と、二つとれば単位くれたんだよ。あとはこれはどこの学校でもやってるけど必修だから、石膏デッサンとかね。それもやらされた。それは赤名宏っていうね、工専で図案科で入って卒業する時は建築学科で卒業してそれで絵描きになったっていう先生なんだけど。あともう1人、山口正城っていってね、細いペンなんかを使って線でいろんなものを構成する、色も入れて画面を作っていく、一種の抽象画だけどね。その先生にも少し教わった。(千葉大には)よその大学には無い雰囲気が、まあ、あった。今、千葉大では建築学科とデザイン学科と分かれたけどね、工業意匠系と、建築系が一緒になっちゃった。それで環境工学科ができて、その中に都市計画的な部分も入って来たりして。ゴミ問題やっている人もその中にいるもんだから、ちょっと違うんだけどね。だけどそういう意味じゃ面白いよね。ただ建築だけは建築学科に一旦戻したね。今年入った学生たちからかな。前はデザイン工学士だったんだよね。だからまた工学科だけの工学士になっちゃうのか。

辻:4年間、松戸で、ということですよね。

松本:いや、何しろ最初でしょ、一期だからね。校舎なんか無かったんだよ、入った時は。理科系の授業は全て一般教養でしょ。医学部、体育とね、医学部の校舎を使ってやっていた。医学部の校舎は千葉の亥鼻台にあって、京成線の千葉駅の方が近いかな。その亥鼻台の丘のふもとのところにあったのが、千葉師範学校だったの。それが千葉大学になって、学芸学部になったんですよ。そこで文系の一般教養の課程を勉強する。大変なんだよ、次の授業まで時間が10分くらいしかないのに、駆け上がらなくちゃならない。駆け下りなきゃいけない。ひどいんだよ、こんなだとは思わなかった。それでまだ西千葉には東大の第二工学部(註:現在の東京大学生産技術研究所)があったんだけど。それで後期に入ってしばらくして、バラックみたいな建物が稲城にできたんですよ。それでみんな全学部医学部も含めて一期生が集まって、そこで授業受けた。その頃から僕はバイトしないと無理なんで、丘の上に建設省の地理調査所(註:現在の国土地理院)っていうのがあったの。そこでバイトを募っていたの。そこで俺、建築行くんだって言ったら、じゃあちょうどいいからって(採用になった)。でもそこ毎日行かなきゃいけないんだよねえ。学校の授業、出られないじゃない。それで昼休みになって駆け下りて来て、また駆け上がって学校行ってさ。みんなのノート借りたりしてさ。いやらしくてねあの頃は。みんな判子を押すんだよね、教師が出席をとるために。だから代返できないわけだよね。だからしょうがないからさ、地理調査場の事務屋がさ、いいこと教えてあげるよって。ガリ版の紙にロウがひいてあるのよ。それを判子の上にのっけてね(ゴシゴシこする動作をしながら)そうしたら、写るよって。それだけだと、判子を押したんだから、少しは掘れてないとまずいじゃない。それは少し爪だってなんだってやればいいんだよ、全部ぴたっとなるわけじゃないんだし。それでみんなに借りては写してやったの(笑)。

齋賀:地理調査場は何をするところだったんですか。

松本:ようするに地図を作っている会社。そこには米粒に文字を書くような人がいっぱいいるわけだよ。全部筆で書いてるんだよね、うんと細いやつで。それで(地図上に)記号とかを書き込んでいくんだよ。それをね、ずーっとやっている人たちがいるんですよ。まあ戦争中は陸地測量部っていう所でやっていて、地図っていうのは軍事秘密だからさ。戦後は国土地理院っていって、建設省に所属したのね。そのうちにね、測量士の試験がはじまったの。測量士の試験の採点業務をすると、少しは足しになるよっていう話があって。マークシート型なんだよね。だから答案用紙が返ってくると、どんどんやっていけばいいんだよ。全部やったよ。それをやったのは上野駅に近い所だよ。西洋美術館のある、あのあたりだと思う。随分やったなあ。なぜ僕みたいなやつが行ったかというと、要するに(土地が)国有財産、自分のところの所管になったわけだから、だけどそれまでの図面が1枚も残ってないんだよ。ようするに陸軍測量部が敗戦と同時にあらゆる資料を燃やしちゃったから何も残ってない。だからそれを作らなければならない。それには誰か助手がいないとさ。建築屋さんいたんだけどね、僕は可愛がってもらったけどね。それで僕が建築学科の学生だって知ってるわけだから。それでカバンもってさ、全部測量して自筆で書き込んでいってさ、それでちゃんとした図面にしろって。学校で教わってないのに、三角定規と直線定規で一生懸命やってさ、図面書いてさ、全部寸法も入れてさ。それでみんな記念にこれを青焼きにしてあげるからって。まだ持ってるよ俺。カッコいい図面なんて書いてないのにさ、一回も。だけどバイトばっかりって言いながらも、結構千葉大の合唱団に入ったりしてさ、歌ったりしてさ。そういうの、サークル活動をやるとね、医学部のやつもね、薬学部のやつもね、園芸のやつもね、みんな友達になるんだよね。だから薬学部のやつなんか武田製薬に入ったやつなんかもいるしさ、園芸のやつはプリンスホテルか何かに入って結構いいところまでいったんだよ。最初は後楽園ホテルか何かにいたけどね。こういう仕事やるようになったから、時々会ってさ。情報交換したりして。まあそれなりにこっちが積極的に動けば色んなことができるんだよ。ただ授業聞いて帰って来て後は遊んで歩くっていうだけじゃダメだろうけど。

齋賀:先ほどのお話ですけど、産業工芸試験所に入ったのは、いろいろ建築事務所をまわってみたけれど、どこにも定まらなかったということなのでしょうか。

松本:定まらなかったというよりも、僕らが卒業した1953年っていうのは、朝鮮戦争が終わりに近づきつつあった時代ですよ。結果的に建築設計事務所は図面が書き上がって渡しちゃうと、それで終わっちゃってたわけ。米軍の色んな施設を作る、それからいっぱい兵隊がきて、将校とか下士官以上だと自分の家を持てたんですよ。青山近辺にたくさんいたんですよ、家族でね。そういう設計の仕事もあったに違いない。みんなそれは一過性のもので、それ以上は無いわけだよ。でも建設工事はまだあったのよ。沖縄でもまだどんどんどんどん作っていたわけ。だけどもう設計事務所は仕事が(無かった)。したがってもう人がいらなくなっちゃったわけ。ちょうどその時に僕らは卒業した。なおかつ千葉大、高等工芸学校建築科なんてのはさ、東京工専だあの頃はね(註:1944年に東京高等工芸学校より改称。1949年千葉大学に包括され千葉大学東京工業専門学校に改称。1951年に廃止)。その建築学科なんてのはできたばっかしのところで、そこから卒業した人なんてね、そんなにね、たくさんはいなかったわけよ。もともとは図案科だからね。だからやっぱり先輩のところへいったってさ、例えば清水(建設)にいた人もいるしさ、森さんっていう助手の先生が、あいつのところへ行ってごらんって言ってくれたけど、行ったってとらないよね。建設会社だって設計の仕事そんなにあるわけじゃないんだから。だから結局どこいったってダメなのよ。八つ当たりしても百くらい当たれば一つくらい当たるかなと思うけど、あちこち顔出してみたところでさ。それでもうしょうがねえなあっと思ってさ。それで僕はその時役人は一番嫌いだったんだけど、それでも食わなきゃさ。親父が1人で働いてたし、僕は自分でバイトしていたくらいだから。だとするとしょうがねえなって。いざとなったら役人にでもなろうって。それで(役所の)建築職を受けて、とったんですよ。だから黙ってそのままどこへ行ってもいいって言えば、建設省のどっかに潜り込んだかもしれない。本省じゃなくてもね。だけどそんなの嫌だなって思ってたの。そしたらそういうこと言う人が出て来たわけ、辻井先生が。それがね、どうも入ってわかったのは、その産業工芸試験所でね、建築出身者っていうのは1人もいないんだよ。でも戦争中はいたんだよ、徴兵逃れでさ。結構建築家とかデザイナーとかね、みんな籍を置いていたの。

辻:その工芸指導所時代にですか。

松本:そうです。だけど敗戦と同時にみんな自由業になって出ていったからさ、いないわけだよ。でもどうも建築を勉強したやつがいると、少し、展示のプランニングだとかさ、海外の見本市なんかに出すブースなんかも、デザインでもうちょっとなんとかなるんじゃないかと、剣持がどうも考えたらしいんだよ。それで誰か千葉大に行って、デザインやれそうな奴、引っこ抜いてこいっていう話になったらしい。でもそれで来たやつがね、指導科かなんかにいた奴なんだけど、要するに何と都立九中のさ、1年先輩だったんだよ。だから当然、東京工専の建築科を出てるんだよ。そいつがいたんだけど、そいつはデザイン力なんて無いだろうって言うからさ、それで辻井先生のところへ訪ねてきたんだよ。それで誰かデザインやれそうなやつで、売れ残ってるやつがいないかって来たらしいんだよ。そしたら辻井さんが、ああ、あいつだったらいいと思ったんだろう。それでさっそく成績とか色々な資料をよこせっていわれて、それで辻井さんに渡しちゃったんだよね。だからそんなこと知らないからこっちは。辻井さんはそういう言い方だったから僕に。それで出かけて行ったわけ。それで今日からでも下丸子で遠いけど行きなさいって言われて、それで会社訪問みたいなつもりで行ったんだよ。それで千葉大から辻井先生に言われて参りましたって言ったら、「お前何やってんだ!」って言われて、「何やってるって何ですか?」って言ったら、「今日はうちの採用試験の日だ」って。僕はお昼頃に行ったんだけど、もう午前中に全部学科試験終わっちゃってるって。「何言ってるんだ!」って怒るからさ、「何やってるとは何ですか!」って言って(笑)。「だいたい僕はここに入るって決めて来たんじゃないんだ、どんなところか見に来ただけだから、それならもう帰ります!」って言ったら、いやちょっと待てよって。それでなんだかこしょこしょ言ってね、所長室に行ったらしい。そしたらね、午後に面接があるから、面接だけでも受けて行けって。じゃあせっかく来たからどんなやつがいるか顔を見て行こうかなって思って。それで外に出てうどんか何かすすって戻って来てさ、それでその時間に行ったの。そしたらその時は総務部長をやっていたんだけど、この人も京大の建築を出た人でね、藤井(左内)さんという人なんだけど、この人が後で所長になるんだけど、いきなりさ、「ドイツベルク(註:ドイツ工作文化連盟)って知ってる?」って言う訳だよ。「ああ、学校ですこし習いました。」って言って、「じゃあ知ってるだけでいいからちょっとしゃべってみて」と言われたから、それでまあ僕はこういうタイプだからさ、あること無いことは言わないけどさ、知ってること全部ペラペラ喋っちゃったんだよ。そしたらさ、「そこでいいよ、もういいよ」って言うわけだよ。それで「はい、今日はもうこれでおしまいです、結構です」って言われてさ。まあ入る気も無かったからさ、まあいいやって思って。それでまた次の日学校に行って辻井先生に、こうこうこういうことがありましたって言ったら、「そうかあ、俺も知らなかった」って辻井さん言うわけだよ(笑)。でも辻井さんは、まあいいよって。辻井さんはもうとるって知ってたから。それでその時、正式に受けて2人入ったんですよ。1人は芸大の鍛金を出た男でね、越智(健三)くんっていって、越智君は結局亡くなっちゃったんだけど、僕が辞めてからしばらくしてから学芸大の美術系の教授になってね。残念ながら亡くなっちゃったんだけど。これが面白い男でね。だけどまあ僕は決まったから(仕事に)出てこいって言われて、まあ僕も行くところがないからしょうがないしね。役人より給料安いけどまあいいかって。高い給料なんてどこ行ったってくれるわけじゃないしさ。設計事務所なんてね、全然ね、タダ働きみたいなもんだから。それでまあ一応入ったの。

辻:入所されたときには、剣持さんは1953年のアスペンのデザイン会議(註:第三回アスペン国際デザイン会議)に出席していたために、いなかったんじゃないですか?

松本:僕が入った1953年はアスペンだ。(剣持は)その前に勝手に2ヶ月くらい自分で伸ばしちゃってからさ。ニコンの一番高いカメラ売っぱらってさ、そのカメラを持って2ヶ月視察して歩いたっていう。

辻:それでははじめて剣持さんとお会いになったのはいつですか?

松本:だから僕らは入ると通産省に入るわけだから、工業技術院。そうすると入ったやつ、みんな集められて工業技術院の各試験場をね、3日ずつくらいかけてぐるぐる回されるんですよ。そこで何やってるのかっていうのを全部(見せられる)。それが終わるとね、工芸試験場に入った我々はね、今度は鏡クリスタルとかね、それから面白かったのはね、日本鋼管の造船所があったんですよ。そことかね、それから電縫管を作っている電気炉なんかを使った、鉄を平に伸ばして最後に、ベンチドロー(註:ドローベンチ。引き抜き加工に用いられる金属加工機械)とかね。今考えるとおかしいんだよね。人が4、5人乗ってね、それでやっとこみたいなのをダイスの向こう側に出して、熱いそれを引っ張り出してきてね、ダイスを通して引っぱる。みんなが握るでしょう?あとは自分の力じゃなくってね、台車でダーっと後ろに引くんですよ。そうすると真っ赤っかになって溶けた鉄がさ、ダイスを通してみんな丸まってくる。それがいわゆる電縫管です。それで熱いやつがこうなるからくっついちゃう。あとでもう一回くっついちゃったところを電気溶接でビューってやるんです。あれがいわゆる電縫管の仕事であって、それじゃないと鍛造のパイプって、ものすごく大変なんだよね。塊からどんどん叩きながら引っ張りながら、こっちから叩きながら押していって、それでどんどんどんどん引っ張る。それでこういう継ぎ目の無いシームレスパイプっていうんだよ、を作っているんだけど、それをちょっと見せられたけど、それはもっと大きな工場じゃないと見せられない。それから汽車製造会社っていうのがあったんですよ。東京汽車製造っていうのが。それが今の東西線の竹中工務店のあるあの辺り、東陽町の近くに団地があるんだよ。あの辺にね、あったの。大きな汽車製造会社。僕らが見に行った時は山手線の通勤電車作ってましたけど。そういう所とかね。だから基幹産業じゃないけど、そういうところをみんな見せてくれたんだよ。それが研修なんだよ。それでその度に3日にいっぺんレポート書かなきゃならない。それが終わったところで、2ヶ月半くらいかかったかな。6月の終わりくらいなってから剣持が帰ってきたの。

齋賀:剣持さんはその頃、意匠部長ですか。

松本:そうです。それで誰だ?剣持さんってって。ふっと見たらなんだかキザな感じの男がいるなあって、それが剣持だったんだよ。一番僕が嫌いなタイプだったよ。なんだ、ありゃあって思って。それで向こう(海外)に長くいたから向こうの奴と話せばさ、こう首をすくめたりさ、こんな格好したりしてさ、するわけだよ。英語はそんなに混じった話はしないけどね。圓堂政嘉なんて人も、なんだか知らないけど気持ち悪かったね、あの人もね。そのうち慣れちゃうと平気だったけど。もう半分英語が混じった日本語をしゃべるんだよね。それが彼の一種のスタイルになっちゃってたからあんまり気にならないんだけど、剣持は付き合う前からますますキザに見えるわけだよ。でもだんだんそのうち元に戻っちゃうんだけどね。元は知らないけど。だけどやっぱりちょっと…… 彼はものすごく僕のことを気にしてるわけだよ。色んなことをさ、すぐ噛み付くからね。ジャパニーズ・モダンなんてことを言い出した頃だから。桜貝みたいなね、薄い(酒器に)お酒を入れて、むこうが透けて見えるくらいの、薄い清水焼きがあるんですよ。大変なものですよあんな技術は。歪まないように焼くっていう。ガラスじゃないんだから。そういうのをね、例えばジャパニーズ・モダンだって言う。日本の技術しか(そういうものは)無いわけです。それで僕はすぐ噛み付いたのね。何か意見があるやつって言うから、「ハイ」って。こうやると割れちゃうんだよね、はっきり言えば。日本の技術としてはわかりますよ。だけど日本のデザインっていうのは、これは生活用具じゃない。一般庶民が使っていて、丈夫でしっかりしたものが(デザインなんじゃないか)。だってアメリカ人がこんなもの手にもって、これを美術品としてなんか扱わないでしょう。やっぱりね、これはお酒を飲むものだと思うの。そういうものでしょう。「こんなもので飲むかなあ」ってとかね、色んなことをガンガンンガンガン言っちゃったわけだよ。そしたら芳武茂介っていうね、剣持さんより1つくらい上の人なんだけど、まあその時課長だった。芸大出てて。まあだけど、無くなっちゃうからさ、技術として。だからこれを今作っておくというのは、そしてもし向こう(海外)で興味を持ってくれれば大変に意味があるから、だから是非これは入れたいんだっていうことをおっしゃったわけよ。こっちも(一度)噛み付いたからさ。もっと丈夫で庶民的なものをって(言った)。だって向こう(海外)のプラスチックの容器だってこんなものありゃしない。ものすごくごっついんだよね。それに厚いのよ。メラニン樹脂のコップなんてさ、冷めないよね簡単には。あれだけ厚いと。てなことを言いながらさ、やたらと噛み付いたの。でもみんなしらーっとしているわけだよ、他のメンバーは。でも僕に一生懸命それを説明してくれたの、芳武茂介はね。それからしばらくして、ちょっとやっぱりまずかったかな、あんな言い方して。もうちょっと色々あったかもしれないって、それで謝りに行ったんだ。「先ほどはすみませんでした。ついこういう喋り方をしてしまうんです、勘弁してください」って言ったら、「うん、いいよいいよ。そりゃ君の言うことも、もっともだと思うよ。だけどさっき言ったようにこれは今やっておかないと大変なことになる。もうこういう技術は無くなっちゃう。だからどうしても作らせなきゃならない」でもわかってくれたんだよ。わりあいとね、おおらかな人だった。でもそれからすごく仲良くなったのその課長とも。まあ元憲兵だったっていうね、工業意匠課長は最初はあんまり好きじゃなかった、最後まで。でも僕が噛み付くこと知ってるわけだから、あんまり僕には色んなことを言わなくなっていったんだよ。そのうちにさ、組合がさ、次の産工試のさ、委員長を決めなきゃいけないって、あいつうるさいからあいつにしちゃおうかってみんなが言ってるのがわかったんだよ。それでまた組合の大会のときに噛み付いたわけ。なんかそうやってなんとなく入ったばっかりの僕をね、委員長にしようなんてことをご相談になってるようですが、そんないつまでも僕はここにいるわけじゃありませんからって言っちゃったの。そんなの僕にさせない方がいいですよって(笑)。右も左もわかんないのに。そうじゃなくても個人としての色んな考え方をね、反映させるだけでも、それをどうやってここの仕事と両立させるかだけで、もう今学校出たばっかでヒーヒー言ってるのに。それで組合行ったらばね、もう一つタガがはまっちゃう。そんなの僕は絶対許さない。だからもしも僕を組合の役職につけようとしたらね、即刻辞めますって言ったの。脅しちゃったの。まあ結果的には誰も投票しなかったけどね。でもやっぱりあの時つくづく思ったな。フリーランスだと自分の自由っていうのがあるじゃない、僕が言いたいように言ってるわけだから。だけどそういうポストに就くと、国家公務員だってね、入ったらさ、すぐに所長室の前でさ、憲法に遵守するっていう誓約をさせられるんですよ、読んで、判子押して。そりゃそうだよね、税金から給料もらうんだから。国民に奉仕するのが国家公務員だから、それは研究所の職員といえど、そうでなければならない。それでもかなりタガがはめられてるわけでしょ。ところがまた組合っていうのはそれとは別の組織としてあるから、組織と個人の問題っていうのがね、入った途端にドーンと目の前に迫って来たんだよ。しかも組合員になりたくなくてもね、国家公務員になると同時に自動的に組合員になっちゃうんだよ。否応無しに組合員になっちゃうんですよ。それが国家公務員法で決められているはずなんですよ。だからね、2つの組織にがんじがらめにやられるなんて嫌だよっていうのが僕の本音だった。組織なんて1つだけで結構だよって。それでも剣持事務所が人数少ないっていったって入れば組織だからね。最初は剣持と2人で僕も手伝った。その頃はあんまり組織っぽくなかった。

齋賀:その手伝いに行かれたのは、産業工芸試験所入ってすぐのことだったんですか。剣持さんが独立するのが55年だと思うんですけど。

松本:そうそう。だから僕は55年に剣持が独立すると同時に、夜ちょっと手伝ってくれやとか言われて、仕事があるからって。

齋賀:剣持さんが独立した時の仕事というのは、何を手伝われたんですか。

松本:それはね、日活国際会館の近くにね、的場っていう宝石屋さんがあったんですよ。その的場がどういうわけかサンパウロにね、ようするに日本料理屋を計画していたの。そういう投資をしていたのか、あるいはスポンサーがいたのかもしれない。その建物の図案が来ていたの。それを剣持さんが、そのコンセプトだけでいいから、ちょっと作ってくれませんかって頼まれちゃったの。それで剣持が引き受けたの、仕事は別にないから。彼は独立した時に1つも、例えばジェトロ(註:日本貿易振興機構の略称。1958年に全額政府出資の特殊法人日本貿易振興会として設立)とか、当時いっぱい海外に見本市があったけどさ、そういうところから一切仕事をとらないで、独立するんですよ。あとで独立する豊口克平(註:1905−1991、デザイナー)なんかはさ、モスクワの見本市で(仕事を)抱えて出て行くんだからさ。あの人はわりあいとそういうの、うまいからさ。官庁の仕事、色々やるわけですよ。もちろんオリンパスの顕微鏡なんか、なかなかいい仕事をしていますけど。だけど、剣持はそれを一切やらなかった。あれだけ長い間役員やっていたのに。役人の顔をきかせればいくらでも仕事をとれたはずなのに、一切(やらなかった)。ニューヨーク万博の時だって、前川(國男)さんが設計で、手伝ってよって言われて。わかりました、やりますって言ったけど、それぞれがジェトロと話し合いで決めるっていう(話だった)。ジェトロはとにかく、所員はニューヨーク出張を何回、とかね、日当いくらとか、一切合切そういうの全部出してさ。それで彼(剣持勇)はファーストクラスで行かせる。それでもちろん日当はこれこれって、全部それ(ジェトロ)に合わなきゃやらねえって。(そんな条件をジェトロが)のむわけないんだよな。役人くらいになってファーストクラスに乗って、他の奴は乗らない。だから最初から断るつもりだったんだよね。そしたらやっぱりダメだってジェトロが言い出して、じゃあ受けないって。前川さんに電話してさ、「その仕事は相当体力使うし、これくらい(の報酬を)もらわなきゃダメだ」って言って、全部条件を出したの。でもそれは「出さない」って言われたから、「じゃあそこまで国に奉仕する気は無いから降ります」って、降りちゃったの。前川さんはさ、「なんで剣持君降りるんだ」って僕に電話がかかってきちゃってさ。それで「前川先生、うちの剣持のこと知ってるでしょう」って(笑)。一回ヤダって言ったら絶対うんって言わない人だから。だから前川先生からのお声がけではあるけれど、ダイレクトに向こうとやれっていうお話なんで、条件が満たされないとやらないっていう彼の性格はご存知だと思いますが、ご理解くださいって謝っちゃったんだよ。やっぱりそういうようなところはありましたよ。だから仕事無いんですよ。だからさっきの的場さん(名前確認)の話はうけたわけだから。それでじゃあっていうんで夜ね、彼の家へ行っては、なんかノミがピンピンはねてるんだけど、痒くてしょうがないの(笑)。そこで打ち合わせしては持って帰って、家でちょっとラフスケッチ描いたり、ラフなプランを描いたりして。あんまり正式なスケッチじゃなくって、これくらいの厚みのレポート作って、その表紙を剣持がつけてさ。和綴じの本みたいにしてさ、全部自分で作ってそれで持って行ったの。そうしたら(先方が)「もうこれで十分です、すぐに話を進めます」って言って、些少ですがっていきなり現金が入った厚い封筒をさ出されてさ、「これでよろしゅうございますか?」って、剣持は請求してないからね、何もね。「ハイ、頂きます。ありがとう」って持って帰ったの。それで三信ビルの中にあるレストランで、どうせ昼飯食わなきゃならないからって、生まれて初めてハンバーガー食ったんですよ。あのハンバーガーじゃないんですよ。ちゃんとしっかりしたパンがスライスしてあって、スライスしたトマトがあって、自分でパンにそれらをはさんで食うっていう。うまかったよ。今のあんなふにゃふにゃのね、甘ったるいパンじゃないから。それにああいうようなハンバーグじゃない、そのままハンバーグライスで食っていいようなハンバーグ。こんな型に押してるのじゃない。だってその頃まだ無かったんだもん。マクドナルドも何も出てなかったから。ああうまいものだと思った。それでそこで食事が終わってからコーヒー飲みながらさ、さっきもらったのをパパパって(見たら)、結構あったんだよね。(剣持さんが)半分にしたらね、「これお前の」って。「えっこんなにもらうんですか?」ってもう俺の給料何ヶ月分、こりゃ悪く無いなって(笑)。

齋賀:その頃すでに剣持さんは独立してたんですよね。

松本:もちろん。

齋賀:それが最初の仕事なんですか。

松本:そうです。

辻:それまでの、1953年から55年までの産業工芸試験所から独立までの2年間は、剣持さんにとっては、例えば新制作協会に出展なさったとか、渡米をしたりだとか、JIDA(註:日本インダストリアルデザイナー協会)を設立したりだとか、丹下(健三)さんたちの「例の会」(註:浅田孝、池辺陽、大江宏、武基雄、河合正一、丹下健三、吉阪隆正らの集まり)に出席したりというような、デザインの近代化をめざして、他の分野の芸術家とともに、総合芸術的な方面に関わりを持っていくんですけど、そういった時の剣持さんと、松本さんの距離をお伺いしたいです。一緒について行ったりされていたんですか。

松本:「例の会」なんかは、僕は全然関係ありません。まだ全然、剣持さんとあんまりコミットメントしてなかったから。少しだけ見ていた。ただ仕事としてはね、海外の見本市の政府ブースを設計しなければならないっていうのがあって。一番最初は産業工芸試験所というのは、昔の戦争前の工芸所時代から1年に1回、研究発表会みたいなものがあって、物を作っている所ですからね、基本的にはね。レポートなんていうのはあまり出ない。だからそれが三越本店の催事場で毎年やっていたんです。それがタウト(註:ブルーノ・タウト、Bruno Taut)の時代もあったんだよね。それをタウトが見て、ものすごい批判をするわけですよ。それでたまたま剣持がその側にいて、色々な話を聞いちゃって。もちろんタウトはドイツ語しか喋らないから、剣持はほとんど最初は英語も喋れないでしょ、だから誰か通訳していたに違いない。それでこれは大変だっていうんで、タウトを産業工芸試験所(註:当時は工芸指導所)によんで来て、それで指導を受けた方がいいっていう進言をするんですよ。剣持も言いたいことどんどんどんどん言っちゃうタイプだったんだよきっと。それでタウトが来るんだけど、あまりにもの官僚組織に嫌気がさして、6ヶ月で辞めるわけですよね。
ともかくとしてあの時、剣持が僕と接触しているのは、やっぱりそういう海外見本市だよ。それで展示会もあったのね。僕が入った年の暮れに、といっても3月になってから。そのディスプレイデザインのエレベーション(立面)だけ考えろって言われたんだよ。プラン(平面)はもう決まってるから。それで僕は例によって噛み付いたわけだよ。建築っていうのはプランとエレベーション、同時に考えられなければならない、エレベーションだけ別に考えるなんて、そんなのはおかしい。やるなら全部、プランまで直させてくれるならやってもいいです、と言った。そしたら「それはお前、もう無理だよ。もうだいたいこれで決まってるんだから」って。それがいわゆる彼のジャパニーズ・モダンって言われた、家具類の一番最初の試作品を展示する部分だったんですよね(註:第2回「デザインと技術」展、1954年3月。この展覧会を期にジャパニーズ・モダンへの批判と反論である「ジャポニカ論争」がおこったとされている。吉阪隆正「ジャポニカ是非論」『朝日新聞』1954年4月2日朝刊)。それで「お前に任せるから。すこしは直してもいい。でも全面的には変えられない。この次は全部お前に任せる」って言われたの。でもその次の年のやつは僕はやらなかったの。半年後に入れた僕の同級生の関口(正已)っていうやつがやったんですけど。それは僕はノータッチだった。それよりも前にやらされたのが、ワシントン州シアトルでやった日本の見本市(註:《ワシントン州国際見本市モデルルーム(ショー・ルーム兼商談室)》1955年)だったんですよ。その政府ブースを作る。それをノックダウン(註:部品セットを外国に送り、それを現地で製品に組み立てて販売する方式)で作る。それを全部お前に任せるって言われたんですよ。中に飾るものは全部、剣持が指導して、皆の意見を参考にして選ぶものをそこにディスプレイすると。「柄はお前に任せる」って言うんで、それで最初に剣持のために作ったのが、田の字プランのね。どう考えても田の字プランしかないなって。だから空間そのものが日本的でなければいけない。天井は無いんだけどね。あとはやっぱり展示の一つの要素として、大きな一本引きの障子をつけようって。あとは床は剣持が前に作った皮がついた細い竹で編んだ敷物があったんですよ。それを全面的に敷こうって。そこは人があがって歩く場所なんだって。歩かない所だけ、僕が考えたのは、お習字をやる時に使うブルーの毛氈があるんですよね。わりあい厚いやつでね。それを敷きたいって考えてそういう話をしたんだけど、結局そういうものはなかなか手に入らないんで、ブルー系の絨毯を敷くことになっちゃったんだけどね。その上には(渡辺)力の椅子だとか、剣持さんが連れて来た篠田桃紅さんっていう書家に「炎と水」というテーマで、彼女に言わせれば「墨象」だって言うんですけど、墨の抽象ですね、墨で描いた抽象画(《炎・水》1955年、壁書)。それでそれをパネル仕立てにして組んじゃおうって。あとはがらんどうにして、片っぽだけは障子があって。ノックダウンするためにはジョイント部分は全部ピンにして、ロッドを水平にさせるためにブレース(筋交)を作って。奥だけ全部壁にしちゃって。それから真ん中の柱と正面向かって右側の柱との間は下だけ少し上げてね。上だけは壁できちっと固めて、だからこっち方向の壁は無いんですよ、左右みんなブレースにした。そのブレースのところに障子を引いたり出したり開けたり閉めたりするやり方にして提案したんですよ。そしたら「いい」って言う。それを使おうって。それで外注して作ってもらって。それで産業工芸試験所の講堂でそれを一回組み立ててみようって。講堂の中に入る大きさにしたもんだから。それで現地に行ったら簡単に組み立てられるようにする。だから全部記録を採る。写真も撮る。それでやったんですよ。それでなんだか今まで作ったような変な物は、一切止めさせちゃった。そしたらわりあいそれが評価が所内でも高かったのね。1954年の夏から秋くらいまでそれを作って、終わったすぐの1955年に、ヘルシングボリという所で、建築とデザインの展覧会(註:国際工業デザイン・住宅・家具・工芸博覧会(スウェーデン国際工芸博覧会、通称H55)、1955年6月10日〜8月28日)が行われる。展覧会っていうか博覧会だね。それで外務省に入ったその情報が、ジェトロまでばーって(広がって)、国際文化振興会(註:現在の国際交流基金)っていうのがあって、それを通して結局、通産省に回って来ちゃったんだよね。行く所が無いわけね、文部省ではそういうとこまでやってるところは無いから。それで産業工芸試験所に回って来ちゃったの。それでお前それ担当しろって。それで大きいんだよね少し。どういうプランにしようかなあって思って。まあ幅は前よりも少し奥行きが狭いんだけど中には一応人が入るっていう前提だから、じゃあ床を上げちゃおうって思って。45pまで上げちゃう。それでそこへ上がる橋みたいなのを作っちゃう。それから畳の部屋、それからあの頃はヨーロッパにでもどこにでもある麦わらで編んだカーペットの部屋。あとは厚い木を積み重ねていって壁にする。そういうことを組み立てていってプランを作っていって。時間が無いんだよね。次の日持ってこいっていうから一晩徹夜してさ、ラフを作って書いて持って行ったんだよ。そしたら「これでいいから。今日夕方、丹下さんと会うから、お前ちょっと説明しろ」って。丹下さんに一応チェックしてもらうって、剣持さんは考えていた。それで行ったんですよ。そしたら丹下先生と新橋でさ、なんか森永かなんかの、それこそミルクホールじゃないけどちょっとしたレストランじゃないよね、ティーラウンジみたいなところで、丹下助教授と初めて向き合ったんですよ。それで説明したらさ、あの人ね、どんなに若い人でも「君」て言わないんだよね。必ず「さん」なんだよ。僕、偉い人だと思いました。「松本さん、これいいですよ、これでいきましょう」って、僕の案でOK出ちゃったの、一発で。それでそこでいろんな話をして。それが丹下さんとの出会いの最初。剣持は何回も(丹下健三に会ってる)、「例の会」もあるし。

齋賀:それはまだ剣持さんが独立する前ですか。

松本:そうです。1954年。1955年には、ものを作っていたけど(独立なんて)場所どこにも無いからできない。それで全部作ってもらって、加工は全部僕が描いた木造の図面で、向こうで作ってもらうことにしたの。それで向こうに早稲田の笠島洋二っていうのがいて、あとで田中(久)さんという人も行くんだけどさ。笠島さんとは先にコンタクトが取れていて、その人に向こうでこっちが描いた図面通りに作ってもらおう。それで僕はどうせ作ってもらうならね、その人のデザイン力が入るのは嫌だと思って。なぜかというとね、実寸を書かないとね、障子とかね、いろいろな物が全部あるわけですよ。そういうものも全部こっちで作って持ってかなきゃならないわけだよ。だからあらゆる部品をこっちで作って持って行って。かなり面倒くさい格子も考えたんだけど、それも持って行って。スレンダーな細い2本(の格子)があって、1本ごとに少し太めのやつ。だから3本に1本は太めのやつという、かなり複雑な縦格子なんですよ。こっちで作れるものは全部作って、それで船積みで送ったんですよ。そのためには敷居にしても、長押にしてもさ、全部原寸で書いて納めてもらわなければダメよって。笠島さんは日本人だから建築家だし、ご存知だと思うけど、でもそこまで書かなきゃおさまらないから、全部書いてやっちゃったわけよ。それでこれだけ渡しておけば大丈夫だろうって。柱と梁、土台に相当する、それをどういうふうにおさめるか、それまで書いちゃった。生意気な野郎だなと思ったかもしれない。僕よりかは年上だからね。一応それで全部の図面を送ったんですよ。そしたらまあ、その通りにできたらしい。それで一番最初に『domus』(註:イタリアの建築雑誌)がそれを特集しちゃったんだよ。そのときね、笠島洋二がデザインしたことになっちゃったんだよ。それで剣持がそれを『domus』が送られて来た時に見て、なんだこれは、違うじゃないかって言ってね、すぐ笠島に手紙書いたんですよ。すると「あれは『domus』の編集が間違えて」って言うけど、あれは嘘だね。それでもって結局スウェーデンではね、H55の日本館のデザインは笠島洋二が設計した、という公式記録が残っちゃったの。それでほとんど同年代の田中さんという人がね。あの頃は大使館じゃなくて公使館だったんですよ。公使がシブサワ(表記不明)さんと言ったかな。その公使が(H55の日本館に)王様と見に来るって、それで写真も撮って笠島がちゃんと写ってるわけですよ。それが公式記録に残っちゃってるんです。それで笠島が設計して、笠島が説明したことになっている。確かに日本側からは他に誰も行けなかったの。お金も無いしね。あとで別の所を回って行った産業工芸試験所の人間が、それを後で見に行って写真撮って来て、『工芸ニュース』にも載るわけですよ。だけど僕はともかくIAI、産業工芸試験所なるものがどこにも出て来ないのはおかしい、不公正だって。田中さんから僕の所へ手紙が来てさ。そしたら出来る限り資料を集めて送ってくれって。そしたら「俺(田中さん)が頑張って、向こうのオーソリティーの情報を出して、それで(本来デザインした者の名前に)変えさせる」って。僕はねえ、何を今更って。55年でしょう?(もうその連絡の時には)70年代半ば過ぎてるんですよ。だから20年くらいたってそれを言われても確かにそうだって。だってそれを証明する方法が無いわけじゃない。だってもう産業工芸試験所は無くなっちゃってるんだから。それで豊口克平に電話してさ。何か証明書いてくれって。確かにこれはやったって証明を書いてもらったり、色んな人に当たってね。丹下さんにだって書いてもらおうと思ったわけですよ。そしたらたまたまこっちで書いた図面の原図が出てきたわけよ。それも全部コピーをとって、全部揃えて(田中さんに)送ったんですよ。それには産業工芸試験所の判も押してあるわけよ。剣持のサインが入っていてさ。僕のはドローイングで入ってる。これだけあればなんとかなる。変えると返事も来たんだけど、結果的には変わってない。それでまたね2年くらいたってからその田中さんから電話かかってきて、日本に来たから会いたいって。こっちは今、その当時ちょうど皇居の仕事をやっててね。時間が不規則で向こうの都合で急に会合が決まったりしたから、とても動けない。僕は何か含む所があるんじゃないかって思って、そのうちに彼の知っている菊竹(清訓)さんだとか、よく考えてみるとみんな早稲田の人が多いんだよな。建築家の所みんなに手紙出してさ。そうするとみんなその手紙が俺のところに戻ってくるの。日本建築家協会にまで出してるの。なんかやっぱりね、同じ時期にいた日本人の建築家の人たちの一人がたまたまそういうチャンスがあって、しかも彼がデザインしたことになって、結構有名になっちゃってる。それで彼の方は割りきってるわけですよね。田中さんはそういう含みは無いんだって、わざわざ言って来るところもね、これは含むところがあるんじゃないかって。だけどやっぱり剣持さんの名誉のためにもね、これは絶対に変えなきゃならないんだってもうすごい勢いで。僕が言うんだったらわかるけど。

辻: 1954年に建築家の著作権を巡る論争がありますよね。産業工芸試験所でテーマにされていた近代日本調、いわゆるジャパニーズ・モダンだったり、ジャポニカと言われていた背景には、やはり先ほどの海外の見本市のブースだったりとか、松屋のデザインセンターもそうですけど、デパート等の展示場を舞台にした通産省による外貨獲得が背景にあったというのはわかっているんですが、当時建築界で盛り上がった運動に、伝統論争があったんですけど。

松本:あれも1955年、54年くらいかな。結局伝統論争はね、針生一郎(1925−2010)が訳したヨージェフ・レーヴァイ「建築の伝統と近代主義」(『美術批評』1953年10月号)っていうね、53年の論文が最初なんですよ。あれが1つのポイントになってるんですね。

辻:そうですね。それでその裏側に、さっき松本さんがお話された組合のお話だったりとか、海外の目を意識した制作活動に対する自己批判がある、ということを書く建築家やデザイナーもいます。産業工芸指導所ないし、剣持さんないし、松本さんが伝統論争をどういうふうに解釈していたのか、どういうふうに捉えていたんですか。

齋賀:ちょっとその話に一つだけ付け加えたいんですが、状況の話も大事だと思うんですけど、デパートなり、国内向けに生活像を提示しようという役割があったわけですよね。もう一つ、海外の見本市に持って行く時には、日本の生活様式をこういうふうに持って行きたいということがあったと思います。ブルーノ・タウトの話が先ほどあったと思うんですけど、ブルーノ・タウトが三越の催事場を批判した時の対象というのは、もともとの人間像の設定が無いじゃないかと、そういう話があったと思います。それが松本さんが関わるようになるような20年の時を経るまでに、剣持さんが色々な葛藤をして、色々な挑戦をしていくと思うんです。伝統論争という大枠も大事だと思いますが、ブルーノ・タウトから始まった剣持さんの生活像の提示という意味での見本市だったり、展示場への出展だったり、どうやって成長してきたのかとか、どういう変遷があったのだろうかとか、松本さんが入ったときには剣持さんがそういうことに対して、どういう考えで対峙していたかということもお聞かせ下さい。

松本:タウトは確かにそういう批判をした。その当時の産業工芸試験所(註:当時は工芸指導所)がやっていた、最も工芸的なものですよ。だからそれは産業工芸と後で言うんだけど、生活工芸と言って美術工芸とは一線を画すということを一生懸命。それを斎藤信治所長の時代から、それでやってるんだけど、現実にそれを作っている職人さん達がもちろん工芸指導所にはたくさんいたんだよ。そのひとたちはやっぱりね、生活雑器というよりはね、美術工芸の方に興味があったんだと、僕は思う。僕はその当時、産まれた頃だから全然わからないけど。ある時僕がそういうふうに言ったら、それはすこし読みすぎだと言われたけど、東北地方の民度の低さというのは、国としてはほっとけなかったのね。だから基本的になんで仙台なのかという。だっていわゆるそういう工芸だったら焼き物だって浜田庄司がいればあそこだってなるし、みんな色んな地方に色んな工芸があったわけだよ。それが生活雑器として、容器として使われる物がたくさんあって作られていたわけでさ。だからそれにも関わらず仙台だ(註:仙台に指導所が置かれたか)っていうのがなぜかっていうのが、ずっと僕はまだ疑問なんですよね。東北地方のそういう問題に対して、日本が一番経済的に困った時代が1929年ちょっと前くらいから、僕らが産まれた直後くらいは、今までの中でも大変な時代だったわけだから。そうすると村役場で娘を売りますなんてね。それは東北で売られた娘たちがみんな吉原なんかにきて遊女になるわけでしょ。それに対して若者としてやっぱりなんとかしなきゃならないって思うかもしれない。だけどそれよりも商工省あるいは農商務省と呼ばれていたあの時代の役人たちだって、それは東北の民度を上げなくてはいけないっていうのは大きな命題だったはずなんだよ。それを、やっぱり東北地方は工芸の色んな技術があるわけだから。雨の時に着る蓑みたいなものだって編まなきゃ作れないわけでしょ。色んなものがあるんで、それをなんとかしてデザイン、あの頃はデザインなんて言葉は無かったけど、それで普通に日本中で使いやすいもの(にする)、あるいは、それらを海外に売りたいと。そうするとドルが入って来るわけだから。だから仙台箪笥なんて相当数いってるわけですよ、当時からね。戦後はアメリカ兵たちがいっぱい買いあさって持って行って、それを家庭の中に持ち込んで使ってるっていう状況を、剣持が行ってる時には見ているわけですよ。だからそういうようなことがバックにあるわけね。恐らく当時の技術者たちはやっぱり東北の民度をあげるためには、そこで作ってる、農村で作られたような、家庭で使う雑器みたいなものを、もうちょっとレベルアップすれば、海外にうけるんじゃないかというふうに考えたと僕は思うんだよね。僕がそういうことを何かにちょっと書いたらね、ある時、「それは違う、全然話しが違う、そうじゃないんだ」と。あくまでも政府の方針としてそうしたんだと。でも依然としてなんで仙台なのか、僕にはわからない。あとで東京本所というのを作るんですよ。東京本所を作ったのは吉武(泰水)さんなんだよね。もちろん戦争で燃えちゃうんだけど。巣鴨にあったのかな。たしか、吉武さんだったと思うんだよね。

齋賀:それが1930年代、40年代くらいの状況ですよね。

松本:そうそう。最初はあそこしかなかった。それで東京本所を作って、剣持は本所の勤めになるんだけど。でも戦争で燃えちゃって、戦後は岩崎通信の長津田かどこかのあの辺の工場に移って、その後で下丸子に庁舎を作って、そこに移って行くわけですよ。それはもう完全に通産省の時代になってるわけだよね。だけど農商務省時代は、農商務省っていうくらいだから、農業と商務と産業とがやっぱりくっついてたんだよ。だからどう考えても僕は東北だと思うんだよ。だって少なくとも東京から西の方はさ、やっぱり民度高いよ、どう考えたって。もっと貧しかったらもしかしたら長野かもしれない。長野県は相当民度が低いと、僕は思ってるんですよね。だから色んな瓦がふけない理由っていうのがね、寒いもんだから瓦に水が染み込んで凍って瓦が割れちゃうということがあるもんで、あの板葺きなんですよ。特に南信州はそうです。北の方はいくらか瓦乗っけてるのがあるんだよね。だから中央線できてもね、小淵沢を越えて長野県の境、茅野の方へ入ると途端にあの板葺きになっちゃうんですよ。それが民度の低さと思うかどうかは別の問題として、何となく貧しく見えるわけよ。でも東北ではわりあいと瓦を乗せている所はあるところはある。だけどそれは大きな農家ですよ。ほとんどはやっぱり(板葺き)、土間住居が残っているくらいだからね。ほとんど土間で生活するんですよね、大きな庄屋さんの家でもね。今でも残っているけど重要文化財になってると思うけど、曲り家でね。馬や牛と同じレベルのところに大きな厚いむしろを敷いて、そこが住居になる。寝る所だけ床があがってるんだけど、そこははっきりいっていっぱい麦わらが敷いてあるだけですよ。だから馬やなんかが寝る所と同じなんだよ。その中に素っ裸になって入るんだってさ。すごい暖かいんだってさ。だって暖房無いんだからね。床に炉があって、だから床でいきなり焚き火するみたいな感じで、そこでみんなまわりに座って飯食う訳だから。それが中村家っていったっけなあ。あるんですよ、上ノ山に。大きな家ですよ。それで格式が高いから、侍やなんかが来た時に入れる表玄関がちゃんとある。それで全部畳敷きで立派な床の間がついている家があるんだけど、そこは全然生活としては使っていないんですよ。だから一般の家ではほとんど全部床の上で、土間の上で生活していた。

齋賀:松本さんがおっしゃるように東北の民度の低さを改善させていこう、という意識が工芸指導所にあったとして、剣持さんも元々そこで働いていたんですよね。

松本:でも彼はね、そこまで意識があったかは別として。

齋賀:それでまた剣持さんが東京に移ってくる時に、急速に建築家たちとの接点を増やしていくわけですよね。

松本:いやまあだけど、それはずいぶん後だよ。東京へ来るのはまだ若い頃だもん。だって東京が焼ける前だからね。それを知ってるんだもん彼は。全部それが灰になって、だけど例の『規格家具』(相模書房、1943年)っていう本を書くでしょう。あれは明らかに国策にそっているわけですよ。いかに小資源で有用なものを作るか。もう桐箪笥なんか作る時代じゃないって、彼は考えている。だけど桐箪笥がもっている、生活用具としての意味はかなり理解していた。だからできるだけすごく立派な材料じゃなくても、生活に十分役に立つような箪笥を作らなくてはならないとかって色んなことをやって、あれを作るわけですよ。椅子や何かが入っているのはまた別の物でタウトとやった何かで安いものを作らなきゃならないってなことも含めてちらっと載っているんだけど。あれのね、ネタ本みたいのがあるんですよ。フランチェスターっていう人が書いたドイツ語の本があるんです。それもかなり彼は訳して読んで、それが産業工芸指導所にもありました。だからそれもある程度ネタにしていると思いますよ。だけどかなりタウトに教わったことがあそこで集大成したのは事実。彼が書いた本は唯一あれだけだもんね。でも相模書房からちゃんと出てるんですよ。そういった意味では彼はあの当時そういうものを書く余裕もあったし、野心というよりも、俺がやらなくて誰がやるという感じはあったと思います。だから周りの状況を読む力っていうのは割にあったんじゃないかな。だから木製飛行機を作らせるというのを自分から売り込みに行ったんだからね、間違いなく。遠藤中将という人のところにね。陸軍だけどね、航空兵器生産本部長っていうのかな。それで木製の飛行機を作ることができる、その技術が産業工芸指導所にはある1回見てくれって乗り込んで行って連れて来てみせるわけですよ。それで成形合板技術を見て、これは出来ると思ったんだよ。だけどソビエトがノモンハン事件の時に木製飛行機をすでに飛ばしているんだよね。それを撃墜したやつを見て、あれはなんだって日本まで持って来て、剣持さんたちが見たんだね。そのとき石炭酸樹脂を使っているというのがわかったんだよ。だからいろんな技術的なバックアップを解析する技術が産業工芸試験所(註:当時は工芸指導所)にはあったんですよ。単なるスタイリングデザインっていう(だけじゃない)。だから剣持がいつも言っていたのは、色んな技術の集積がデザインなんだよって。だからどうやって作るかわからないままデザインしたものなんか、デザインじゃないと。絵に描いた餅みたいなもんなんかがデザインじゃ困ると。作り方がわからないでデザインなんかするなと。そういう言い方になっていくわけだよね。彼は木工技術もやっていたから当然、木工技術もかなり詳しいんですよ。突き板にさえ末と元があるって言い出したんだから。だから「ちょっと極端じゃないの?」って言ったら、いや「でも元は元で末は末なんだ」って。だから天地を逆にして使ったらおかしいって。さかんに言ってたもんね。それは木造の住宅やるならね、まさか木材の末と元を逆にして使うなんてそんな大工はいないよね。必ず根っこの方を下にしてどんどんどんどん使うでしょ。やっぱりね、そういうことを見分ける力があったんだね。それは彼が実践してきたデザインの仕事の中で、非常に重要な意味があったと思う。だからそういう意味で、剣持さんは木材工芸出身だから当然だと思うけどさ、いい加減な知識、技術じゃないんだよね。自分でかなり手を入れてるってことは。

辻:でも戦前のタウトを巡る状況だとか、生活改善という命題に対して、通産省が抱える問題だったりとか、生活の向上という状況は、戦後でも同じですよね。

松本:全く同じ。

辻:戦争という大きな空白とその再開という意味ではなくて、生活改善の受け皿の過程、おおまかにいえば大衆みたいなものが戦後には明らかに状況が違う中で、ただのタウトから続く連続した状況ではなくて、そこにある変化みたいなものに興味を持っていて、伝統論争だったり、戦後に行われたデザイン運動において、やはり日本的なデザインというものを抱える時に必ず戸惑いみたいなものがあったんじゃないかと想像できます。剣持さんにしても、障子とか記号的に意味を持つデザインに、どういった意識があったのでしょうか。

松本:はっきりいってね、ヨージェフ・レーヴァイのあれ(註:前出「建築の伝統と近代主義」『美術批評』1953年10月号)は、僕は産工試(産業工芸試験所)の図書室で読んだんですよね。それと日本でおきた建築の日本化というのは、一緒にむすびついてるとは僕は思わなかったの。やっぱりハンガリーのあれは、あの国のあのバルカン半島での位置とは、すごく大きな影響があるわけじゃない。しかも長い時間をかけてトルコの影響がある。それにウィーンまで含めてプラハまであのへんまで全部行っちゃってるわけでしょう。それでそのあとはまた今度はトルコを追い出しにかかるという。その時ロシアがかなり関わって来たりするわけだよ。そういう色んな文化があそこの中に合流していくというところで、ハンガリーという所は、戦争でフィンランドと一緒にドイツ革命で戦うんですよね。そのくせドイツが入って来ちゃうんですよね。それでそれを叩くために今度はロシアが入って来てものすごく大きくなる。それに比べたら日本なんか単純でそんなものはほとんど無いんだよ。唯一あるのは戦争に負けて、アメリカの文化が、ホームドラマのようなものも含めてね、テレビでそういうものがいっぱい入って来ちゃったんだよ。家の中でお父さんが自分の座る位置が決まってたりさ。だけどそれは誰がどこに座るかというポジションがさ、アメリカにもあったんだということがさ。日本じゃみんな上座と、亭主の場所って決まっていたわけだからさ。同じなんだよね話は。家長がどこ座るかというのは。だけどアメリカのああいう民主主義の中でどうなのか(は知らなかった)。留学する人がいっぱいいてさ。だから知っちゃうわけじゃない。それがしかも焼け出されちゃってね、敗戦後だって防空壕の中に住んでいた人たちが、東京だってたくさんいるんだから、そういう人たちが、まあテレビで見るのは随分後だけど。だからとにかくそういう状況が、アメリカの生活文化が堂々と入って来ちゃったの。それをいち早く見たのが、アメリカ文化センターの図書館(註:CIE図書館)で、日比谷にあったんだけど。そこにみんな向こうの雑誌が全部あるから、建築家もデザイナーもみんな群がったわけですよ。あとは産業工芸試験所が出していた『工芸ニュース』が、あのころ林昌二なんかに言わせると、建築雑誌なんか面白くもなんともなかったけど、『工芸ニュース』だけはずっと、取って見てたって。情報がすごく早くて、しかも海外の情報が非常によくわかったと。あんな薄っぺらな雑誌だったけどね。「あれはすごい」って彼は言っていたよ。まだ『国際建築』があんなに四角い版じゃなくてね、このくらいの版のときに、でもあそこに載ってくるやつは翻訳されてて、あれだったんだけど、やっぱり建築のやつ(情報)は遅いよね。だから結構、建築家の中でも『工芸ニュース』を読んでいた人たちはかなりいるんですよ。後で聞いてみるとね。まあもっと調べたら面白いと思うけど。それでどちらにしてもアメリカの文化がいっぱい入っちゃったの。それで全体にその方向に動く。まあ丹下さんのコンペ(註:「広島平和記念カトリック聖堂」の設計競技)の時だって最初はさ。西部開拓の記念碑の時に、ものすごくでかいんだよあれ(註:エーロ・サーリネン(Eero Saarinen)による《ゲートウェイ・アーチ》(ジェファーソン・ナショナル・エクスパンション・メモリアルの記念碑)の設計競技案を指す)。あの中に斜行エレベーターが入ってるんだ。全部断面は三角でね。それでステンレスか何かですよね、あれ。余談だけどあれの建設記録映画を見たことがあるんですよ。面白いよ、あそこにも鳶(職)がいることがわかった。両方からこう上げてゆくでしょ。最後のキーストーン(註:アーチの最頂部に差し入れて、全体を固定する楔形の石)をはめる時に、日が昇ると温度があがってくると(熱で建物が)伸びて来るわけですよ。間がね、少し縮まっちゃうわけ。でもぴったり上げなくちゃいけない。それでね、星条旗をぶら下げた最後のピースがね、上にあるデリック(註:クレーンの一種)でね、つり上げて行くんですよ。なかなかいいですよ。望遠で撮っているその写真が載っているんだけど、映画ですからね。そうすると中でいっぱい鳶が駆け回ってね、最後のところでジャッキでね、一生懸命調整しているわけよ。伸びて来るやつを押さえてるわけ。そこへ最後のやつが上がって来る。それでバシャっと入るわけですよ。なかなかかっこいい。あれの形が最初、広島の(コンペ案)にもあったんだよ。再現ですよね、これ(ゲートウェイ・アーチ)のね。丹下さんの所にあったんだよ、もちろん今は無いけどね。やっぱりそういう色んな新しい情報っていうのはさ、色んな所から入って来てさ、日本の建築家たちに大きな影響を与えたと思うんですよ。丹下先生がなかなかね、面白いけどね。愛媛(《愛媛県民館》1953年)のシェル(構造)のドームでもさ、あれは丹下事務所の連中に聞いたけどさ、もうヒヤヒヤだったんだよねって言って。これ全部足場組んでてサポートしてて、そこでつってるんだけどさ。あれを外した時に本当に計算通りにさ、リングのところに均等に力が配分されていくのか。配分されないとね、偏って入っちゃったためにリングが全部落っこちちゃうわけですよ。それがもう最初は冷や汗だったんですって。それで非常に最後はきれいにパーって、これが天井リングになるわけでしょう。だってそうでしょう、こうやって(円弧を描くように)押すわけだから。こうやって広がるのを押さえているわけだから。だけどああいう技術というのは日本には無かったわけだから、当然向こうの技術を色んな文献読んで、ああいうのを作っていくんだよね。でも新しいものを次から次へとやるからさ。だけど丹下さんもだんだんご自分のスタイルになっていくわけでしょ。色々言われているけど、丹下さんは次から次へと色々新しいことをなさるというのは、やっぱりすごいですよ。磯崎(新)がどんどん変身していくのとは大分違うんだよね、丹下さんのあれは。だって技術的な問題がその前に無いものをやるんだからさ。図書印刷の工場(《図書印刷原町工場》1955年)があるんだよ。あれだってさ、あの長いスパン(註:柱間。工場建築では、無柱の大空間を確保するために、柱間を長く設定することが求められる)をさ、こういう(中央が厚く、外側にむけて薄くなるような)梁を伸ばすわけでしょ。それでこっちはピン(註:ピン接合。構造計算上、回転力に対して抵抗しない接合部のこと)なんだよね全部。独立基礎を持っててさ。その上に乗せていくわけじゃない。それはあの頃造船業がね、仕事が無くなっちゃってかなり安く作ってくれたんだよ。それであれをワンスパンで、ものすごい長いスパンで大きな無住の空間を作って、そこに印刷機械を配置してっていうのが丹下さんのアイディア。ちょうどワックスマン・ゼミ(註:ワックスマン・ゼミナール。コンラッド・ワックスマンが1955年に来日し、建築家や学生を集めて開いたワークショップ)の頃。僕ら見学に行ったんですよ。途中でね、列車に乗ってね。ワックスマンも確か一緒に行ったと思う。それで丹下さんのご案内でさ、全部連中みんなで見に行ったの。すごかったね。なんでこんなにでかいスパンかけられるんだろうって。そういうことはほとんどの人がやっていないのにも関わらず。格納庫なんてもんじゃないよね。格納庫なんてやっぱりみんなこうなっているのが多いから、あれはまあ、構造的にわりあい確かだった。

齋賀:先ほどの丹下さんとの出会いというお話にちょっと戻るんですけど、H—55というのは松本さんが、基本的には実施設計図面を起こしてやったんですか。

松本:プランから一切合切、僕がやった。だけどもちろん剣持の承認を得てやった。

齋賀:それでこれでやってみたいんだけど、ということを確認するために、丹下さんにお話を伺いに行かれた。

松本:そうそう。剣持が、やっぱりあそこまで規模が大きくなっちゃうとちょっと(意見を聞かないといけない)。丹下さんはその頃、サンパウロの四百年祭(註:第二回サンパウロ・ビエンナーレ国際建築展(1953年)、ブラジル・サンパウロ四〇〇年展(1954年))に日本のブース(《サンパウロ400年祭国際館》1954年)を作るんでね、大林(組)かなにかと一緒に作ったんだよね。一回組み立てて、それで向こうへ持って行ったの。それを剣持も見ているんですよ。だからどうしても丹下さんにH55のやつ(日本館)を見て欲しい。

齋賀:さっきの木工の話ですと、末と元をわかっていなくてはならないとか、経験的に積みあげられていく剣持さんの知識というのがすでにあるわけですよね。でも松本さんの手を借りてプランを作ったり図面を作ったり、丹下さんの目を借りてそれを判断してもらうとか、建築家の手とか目を自分の中に、例えばH55(の日本館)の中にどういうように取り込むかということを、剣持さんは考えていたと思います。剣持さんは、そこまでは自分ではやれないというか、その判断が働いていたと思います。

松本:だから僕を引っ張り込んだんだと思う。どこまでいっても建築を勉強しなかったということは、自分自身でハンディキャップがあるということは自覚していたと思う。だからそれを補完するために、僕を引っ張り込んだんだと思う。だからジャパニーズ・モダンとか、形式の問題じゃないね、その時はね。

齋賀:そうですね、個人の能力のキャパシティとして、建築家の手とか目を取り込みたかったんでしょうね。

松本:だから剣持事務所の所員というのは、僕を含めて5人いたうちの3人は、芸大の建築(学科卒)と、早稲田の建築(学科卒)と、それともう一人芸大の建築を出て工業デザインやってるやつと。あとは叩き上げの、昔は航空機、戦闘機の整備の学校で勉強した男が産業工芸試験所に入って。それに仙台にいた男がいた。それは確か扇風機か何かでね、工業デザインのコンペか毎日デザインコンペ(註:毎日新日本工業デザインコンクール、1952年)の時に、スポンサーがナショナルだったの。それに提案したものがその部門での最高賞もらったよっていうやつがいたんだよ。それは押し掛けでやってきたんだよ。それからもう1人は木工をずっとやって、新潟の高田の工芸指導所で就職して木工のセクションにいた男が、ある早稲田出身の建築家に紹介されてきた。この2人が建築畑じゃないけど、あと全部建築出身者だった。なぜそんなにとったのかというと、やっぱり欲しかったんだね。建築をやっていた人間の方が、多分何をやらせてもできると思っちゃったんだよ。でも僕自身がそこに入っちゃって、結局工業デザインを勉強していたやつらと色々話してみるとわかるんだけど、僕らがそうだというより、剣持がそういう考えをしていたからなんだと思うんだけど、やっぱりどうやって作るかということをね、考えないでスタイリングをどんどんやってしまう工業デザイナーってたくさんいたのね。どう作るかはそんなものは作る人が考えればいい、俺たちは知らないという考えなんです。えーっと思って。だからうちが作るものは全部原寸だからね。そうするとデザイナーに、こんなのいつもやってんのって聞かれて。でも原寸書かないでどうして物が作れるのって聞いて。だからうちは全部そうだよ、一切合切そうだよ。だから建築というのは、どうにでも使えるんだよね。潰しがきくわけだよ。だって材料だってそうでしょう。鉄の引っ張る強度だとか使ってやるじゃない。圧縮だって一応見るじゃない。そういうの(デザイナーは)やってないんだよ。それで工業デザインの材料学っていうのは、こういう材料がありますっていうところまでなんだよ。それでこういうふうに使えますって。やっぱりね、違うもん。それで僕は幸せだなあと思ったのは、建築というのは何に対しても応用問題が解けるということ。そのかわり建築学科を出たからといって、建築の図面がすぐに書けるわけじゃない。そんなの嘘だと僕は思っている。つくる現場を経験しないでそんなことが出来る訳が無いと思っている。だから僕は(法政大学の)大学院の現場でさ、僕は新宿にその頃住んでいたんだけど、工学院(大学)のそばの叔父達のところに押し掛け居候してさ。そこから千葉大に通って。それで後半は松戸でしょう?だから帰ると必ずあそこを通るわけですよ。飯田橋で降りて必ず現場に寄ったもん。色んなことをやっているのがみんなわかるわけ。学校では数値は教わるけど、実際にはやっていない。だから想像できないわけよ。話してる先生は経験してるんだよ。そこまでやってくれないとダメだなあって思ったの。でもそれはやっぱり現場なの。うちはどんな現場でも必ず所員が行っていた。チーフだけではなくって、必ず2人や3人連れていって、図面書いたやつが、自分の図面がどういうふうにして出来上がって行くか、見させないことにはわからないもん。だからそういう意味では建築っていうのは何にでもできるって思ったの。工業デザインだろうと、インテリアだろうと、展示デザインだろうと全部できますよ。事実みんなやってるもんね。イタリアの建築家たちは工業デザインも全部やるもんね。そんなにたくさん仕事無いから。