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峯村敏明オーラル・ヒストリー 2008年12月11日

峯村敏明氏の仕事場にて
インタヴュアー:暮沢剛巳、加治屋健司
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2013年9月15日
 

暮沢:今日はインタヴューの後半です。先週は生い立ちとか学生時代の話に始まって、マルローに影響されて芸術に興味を持ち、毎日新聞に入社されて事業部で美術展の仕事をされた。それが1970年の「人間と物質」でまとまりました。その後に毎日新聞を退社されてフリーのもの書きとして活動を始められて、多摩美術大学に着任された。そのあたりまで伺いました。
今日はその以降の話に主軸をあてたいと思います。峯村さんの批評活動の中で軸になっているのは、もの派ですね。具体的な活動としては、1986年鎌倉画廊で「モノ派」展が行われましたが、それに関わられてカタログで文章をお書きになった。その翌年に西武美術館、後のセゾン美術館ですけども、多摩美の主催事業ということで「もの派とポストもの派の展開」という、当時としては大規模な展覧会が開かれまして、それにも中心的に関わられた。基本的にこの二つの展覧会がきっかけになって、峯村さんといえばもの派というような先入観が我々の間では形成されたと思うんです。
もの派という芸術運動はそれよりずっと前、1970年代、まだ峯村さんが毎日新聞にいらした頃にピークだったと思います。当時から関心を抱いていらしたと思うので、もの派との出会いといったところからお話を伺えたらいいなと思います。お願いします。

峯村:あのね、恐れ多いことを言うと、今年はノーべル賞のことで、日本から4人のサイエンス方面の人が受賞したので、ちょっと今までになくものすごく新聞テレビが報じていますね。報じている仕方を見ると非常に違和感があるのは、私は文系ですからね、私はそういうのをとても知りたいと思う。例えばアメリカにずっといらっしゃって、授賞式に出ないみたいだけども、対称性の破れというような宇宙そのもののあり方、宇宙だけじゃなく物事の根本に触れるようなあり方を提唱して受賞していらっしゃるその理論というのを、何遍でも飽きるくらい繰り返し新聞とかなんかで書いて欲しいと思う。本当は知りたきゃ専門書を読めと言われるんだけども、僕らは専門書を読んでも逆に分からないところがあるんでね。ところが、そういうふうな理論が出てきたときに、一体何故そのような理論が出てくることになったかという時代背景なり、その理論が出たときのことを、もうちょっと丁寧に想起させてくれるような報道のあり方があればいいと思うんですけどね。だけど何人かノーベル賞が出るから急にわいわいやりだして、あまつさえグスタフ王の主催のもとに華やかな晩餐会、その食器のことまでこと細かに報道して、益川(敏英)さんなんか大人気者になってパンダを追っかける具合にテレビが追っかけている。まあ人間の社会ってそういうものだと思うけど、違和感があるわけですよね。
それとはレヴェルが違って申し訳ないんですけどね。でも、もの派というのが今おっしゃったように1970年前後の動向で、それからだいぶ時間が経ってから、私とそれからもう一人若い評論家では千葉成夫君がそれに注目して、これももちろん後からですけどね、文章でそれを紹介したり、分析したりということをやって、少しずつ、少しずつ世間に広まり始めていた。ちょうど鎌倉画廊で「モノ派」という展覧会をやる時に詳細な年譜をつくって、分かる限りの作品の分布図みたいなものをこしらえたりしたんですね。
その翌年は大きな美術館(注:西武美術館)で、大規模なもの派を中心にした展覧会をやったもんですから、そこで一気に社会的に日本だけじゃなくて外国にまで知られるようになったんだけども、益川さんがとぼけたように、ここで賞をもらうからって何も特別に言うことないですって言っていたけど、そういう感じはあるわけですよね。でもそれ言っちゃあお仕舞いなんで、もう少し丁寧にしゃべります。
これはその時に一挙に知られたようには見えるかもしれないけど、知られるようになるまでしばらくかかっていた。だけど、なかなか知られないんですね。それはまあ1970年前後、正確に言うと、1969年、70年、71年がピークなんですけども、私自身はその半ば位までは毎日新聞社に属していたものの、はっきり評論を書く意識が強くなって、文章も書いてました。それで、展覧会を通してでもいろんな機会に、もの派に対する批判と同時に、ものすごい関心を示していたんですね。その当時の他の似たような動きと比べると際立った特徴があって。後でお話しますけどね。だけど、どうしようもできないところも強くあって、これは同調できないから知らん振りにしちゃっていいようなつまらない現象とはとても思えないので、何とかそれを日本の批評界が正当に扱うべきだと思っていたんですよね。
よく世間に誤解されているんですけども、これもずっと後になってから、私たちがやったもの派の催しの後で、いくつかの地方の美術館、岐阜とか埼玉が中心になって1970年という時代に焦点を合わせて、その頃の日本では芸術の根源を問うというような姿勢の動きが強かったのではないかということで、確か「根源を問う芸術」に、プラスもの派という文字をタイトルに入れたんですね。そこで別にもの派をタイトルに入れなくても、当然もの派も加わってくるんですが、ようするにもの派も加えて70年全体を見ようというのがその趣旨だったと思うんです。
 あの展覧会、正式には1970年、今ちょっと見ますね。「物質と知覚―もの派と根源を問う作家たち」というタイトルなんですが、展覧会としては非常に良くできたいい展覧会なんです。それでなんか誤解されちゃってるところがあるんですね。タイトルがもの派と物質と知覚となっていて、1970年の同じ時期にあった東京ビエンナーレ、「人間と物質」というタイトルだったんで、それに引き寄せられたのか。70年というと、この「人間と物質」展、東京ビエンナーレが中心的なファクターであったんだけど、それは間違いないんですが、同時にもの派も同じような状況だったかというと、東京ビエンナーレの中にもの派がくっきりと姿を現していたかのごとく示しているが、事実は違うんです。むしろ東京ビエンナーレというのは、もの派というような名前はなかったけれど、そういうものに対する特別な考えはなかったですね。この時の中原さんにはなかったですね。ただ「人間と物質」という言葉で分かるように、人間と物質があのままで、旧来の形式によらずに、何らかの様々な形をとるものの、何らかの直接的な切り結び方があるとしても、それが現代の特徴であるといったことの図式をそのまま使うと、もの派もその中に入る。ただ李禹煥ですね。菅木志雄は全くその中に入っていなくって。まあ出てきたばっかりの用語っていうこともあったけども、多分中原さんの中に、もの派的なものにちょっと同調したくないところがあったと思うんですね。
ずっと後になって、もの派が非常に大きくなってしまうと、東京ビエンナーレにもの派というものがあったと漠然と見なされて、みんなそういうふうに思い込むようになっちゃいましたけど、大きな視点から見れば、共通の要素があると同時に、そういうふうに雑駁に一つの時代的な表現、あるいは時代精神というようなことで括ってしまうと、芸術の運動の固有性、それが引きずっている問題やデメリット、後に受け継がれる要素の強いものと弱いものといったものがみな見えなくなっちゃうんですね。
もの派というのはそこに異常に強いものを持って、その分だけ逆にマイナス、欠点みたいなものを強く持っていた非常にユニークな動向だったと思うんです。同時代の他の比べると極めて違う様相を持っていたと思うんです。そこのところが同時代の全般的な動向とちょっと違うというところが、逆に鋭い批評性を持っていた。もの派そのものの中に思想的に強い文明批判的な要素が強くて、多分、ジャーナリズムには乗りにくいところがあったんですね。写真なんかあれば、非常に分かりやすいですから、それはすぐ使われることがありましたけど。
おそらくもの派が出てきてすぐの頃、1970年2月に、『美術手帖』がそのときのアーティストを、まさにもの派と今日認定されているアーティストを集めて座談会をやっていますね。それが例外的に、ジャーナリストがその頃出てきたものをストレートにキャッチした例だと思う。これが例外的にうまくいったのは、誰と誰が中核であったのかということはまだ詮索できなかった中で、それがわりとちゃんとしたメンバー選びになっている。作家自身にかなり作家を選ばせているんですね。ですから、同じ考え方、一つの時代の中でみな似たようなことをやっているように見えながら、あいつは自分たちとかなり話せるものを持った同志とまではいわないまでも、そんなふうなことを感じた。それは恐らく李禹煥が中核になって、彼の意見が強く出て、今日もの派と言われる人たちの中核が顔をそろえることになったんですね。それはそれで全く正しいと思う。その輪郭づくりは。
それからあとで、全然別のルートから研究をはじめた。千葉成夫がですね。その点に関しては全く同じ見解を持っていますね。しかし、それでも長いこと他の一般の人たちには何となく煙たがられたのか。何でしょうかね。あんまりすんなりと受け入れられていないですね。私自身が、高く評価するとか、非常に好きとか、私の芸術観に非常にぴったりと合うというようなものではないから、ちょっと微妙な立場なわけですよね。同時代に何となくそういうものがあるという動きとは違っていた。それは特に李禹煥が文章を書いていたこともあるけども、菅木志雄の作品とか成田克彦の炭とかですね。吉田克朗の非常に才気走ったと言えるような物質と物体の扱い方とかですね。こういうのがものすごく周辺の同時代のアーティストたちに影響を与えたんですね。にもかかわらず、批評とかジャーナリズムのレヴェルで出てこない。それほど好きじゃない動向に対して、これでいいんだろうかと思ったのは、結局否応なしに、その次に出てくる世代というのは、もの派をどういうふうに捉えるか、どう評価するかという設問からスタートするわけですね。

暮沢:ポストもの派ですね……

峯村:そうです。ポストもの派はまさにそうですね。ポストもの派っていったって、世代的にいえば、後はみなポストもの派みたいなもんですけども。私はここではもの派が提起したもののある角度、それぞれいろんな多面性があるんだけど、それに対してそれなりの批判性を持つことで時代を始めている人たちを、ポストもの派というふうに言ったわけですね。
それでポストもの派に私が同調するかというとそうはいかなくて、やっぱり批評家としては、同時代に出てきた真面目な人たちのやっていることに関心は強く持っていてもいろんなケースがあるわけですね。その人たちのことにしても、それから、私自身非常に強く評価したい動向を強く語らなければならないという時に、前提として、あるいは否定的媒介項としてもね、もの派を全然誰も知らないと、非常に語りにくいことがあるんですよ。
そういうことがあって、何度か雑誌の編集者、具体的にいえば美術出版社、『美術手帖』と『みづゑ』の編集部の方々に何度となくこれを特集するなり、そうしたことをやらないかと話していたんです。でも、その時『みづゑ』の編集部にいた方なんか、「峯(みね)さん、まだもの派なんて言ってるの? そんなものはいいでしょ」って呆れられちゃいましてね。これは駄目だなあと思っていました。このまま行っちゃうかなと思っていました。
その後チャンスが来て、美術出版社の中で人事異動がありましてね。かなり大きな人事異動で、その時たまたまその手の方の編集の任にあたって、増刊号を扱う立場になった人が、やっぱり今までそういうものが表に出てこなかったことに対して、その人自身がもの派がちゃんと浮上すべきだと思っているわけじゃないけども、まあ峯村がそこまで熱心に言うのなら、やっぱり何かあるのだろうということで。じゃあ30年を回顧するという催しになったんですね。これは『美術手帖』の30年記念号だったのかな。

加治屋:そうですね。1978年。

峯村:それで、私がまだ若造だったから、一番新しいところで執筆してくれと言われた時に、大体お分かりのように万博以後とか、それからコンセプチュアル・アートがどうのこうのと言われるわけですよ。しかし、座談会とかいろいろ盛りだくさんなんで、まさにジャーナリスティクな扱いで、時代を扱うしかないんだなと思った時に、これは困ったなと思ったんですよ。
この時代にあったことは誰もがよく知っているはずなのに、あたかもそんな重要じゃなかったかのごとく、あまり語られないというのはおかしいわけで、そのことを一生懸命説いたら、じゃあそれで書いて下さいって言われて書いたの。表紙にまでなっちゃいましたよね、関根伸夫の(《位相―大地》が)。今やあちこちで再制作されるようになっちゃったね。この時の僕自身の文章は悪い。何故かと言うと、あまりそのことについて否定されたりいろんなことがあったりで、感情的になっていたこともありましてね。人間、感情的に書くと文章も良くなくなる。あまりいい文章を書かなかったんですけど、一応はじめてはっきりもの派という言葉を出したわけですね。
その後、もの派という言葉はなかったのに、誰が一体あの名前を付けたんだということを言っていますけどね。名前なんてのは、芸術家が付けなければ外から勝手に付けられる、そんなことは当たり前な話なのに、どうしてそういう末梢的な議論が出てくるのか疑問に思うんですけどね。印象派なんてまさにその最たる例です。
ちなみに言えば、私の印象の中で、もの派というのは、時代は随分違いますけど、フランスの印象派が運動として――自発的な運動だけど自分達が決めたわけじゃない――おのずから新しい芸術観、手法をはっきり抱いて、だからといって別にグループ性を成したわけではないけど――そういうふうに動きを形成したという点で、それから名前が外から多少ペジョラティヴ、多少侮蔑的な扱いを突きつけられたのが定着したという点で非常に似たところがあるんですね。
それからもっと言えば、知覚の解放あるいは現象学的なアプローチという点でも、もの派と印象派というのは時代を飛んでちょっと似たところがあると思うんです。それを比較して考えると分かりやすくなると思うんですよね。同じじゃないんですが、パラレルなものだと思えば分かりやすくなる。
さっき話したように、その後すぐに、千葉成夫が、彼は長いことフランスに留学している間に、鋭く日本を語らなければいけないという切迫した気持ちを持って帰ってきて、もの派だけじゃなくて、もの派の後のポストもの派に入る美共闘ですね、それに対応しようとしてよくやったと思います。私は美共闘というのは全く興味がないんで、語りません。あれは芸術ではない。芸術以前の動きですので、私はそういうことは語りたくないのでやりません。
私はたまたまいち早くそんな文章を書いたことがあったんです。画商さんがおもしろいと(私が)思うのは、鎌倉画廊が、もの派の作品はもう残ってないけど、これを再制作したら美術館かなんかに売れるんではないかと。これは悪いとも言いかねる。画商さんというのは売るものですからね、はしっこいところを見せたわけですね。そしたら作家たちも随分時間が経っていてね。1986年でしょ。15、6年経っているわけですよ。懐かしいって感じもあるし、自分達が昔やったことがひょっとしてきちっと見てもらえるきっかけになるかということでちゃんと対応して、再制作してくれたわけですね。そのときには、同時代の中でも極めて近いところにいたけれど、もの派とは違う様相をもっていた三人(が参加した)。日大の出身の人が一人と芸大出身の人が二人。

加治屋:榎倉さん、高山さん、原口さん。

峯村:それは私の許容範囲で、悪くないと思う。ただこの「モノ派」展は私が人選したものじゃなくて、鎌倉画廊が独自に決めたものですね。ただ、私がすでに文章の中で、つまりこの1978年の『美術手帖』の中ではっきりどういうふうに違い、どういうところで共通しているかということを含めて、9人の名前を出していたので、それをそのまま使ったんだろうと思います。そういうことで当然文章を書いてくれと言われたわけですよね。画商さんとすれば売るのにしかるべき文章がついていた方が箔が付くと思いますし、それはそうでしょう。だけど私はその時に、それは駄目だと言ったんですね。そこが重要な問題だったんですね。私が適当に1ページかそこいらの文章を書いて送ったって、それはそれで別にかまわないのかもしれませんけども、ずっとほったらかしにされてきたもの派が、1978年に文章を書いた後もまた10年ばかり放っとかれているわけですよね。10年じゃない、8年。で、1986年にブランクが無かったかのごとく、そこそこの文章でもの派ってこうだとかそんな簡単に言えるとは思わないし、みんながもの派って何だか分からない時に、あの再制作されたわずかの作品だけでこれがもの派ということになるのも変なもんですよね。だからやるならば、雑誌でもできなかったちゃんとした徹底した調べをして、どういう作品が実際に制作されたか、それは年代関係、時代関係がどうだったか事細かにやりたいと。

暮沢:それがこの結果ですね。

峯村:そうですね。

暮沢:この文章一番上の方にもの派の定義というものがあって。

峯村:定義と言われるけど、定義と言えるのか。一つの芸術のありようを定義なんてとても。簡単に数行で。

暮沢:何度か僕も使わせていただきました。

峯村:これは、別に間違っているとも思わないけど、椹木野衣君みたいに、これをもの派の定義と言われても困ると言う(人もいる)けどね。私は別に定義したつもりじゃなくて、全体を読んでくれれば、非常に丁寧に語っている。今大抵もの派についての議論とか疑念というのはみんな書いてありますよ。そうするとみんな全然読んでくれてないんですね。何故私はその狭義のもの派を多摩美系と李禹煥と合わせたものにし、あとの3人を含めて広義としたか。これはあの千葉君の用語とはちょっと違いますけどね。両グループの間では全然認識が違いますよね、
多摩美系と李禹煥には際立った特色があるんですね。これは私の言い方で後でちゃんとまとめて書いていますが、「高松次郎以来の存在を問う美術の系譜」というのを中核で担っているところがあるんですね。これは人間関係からしても多摩美ですから、高松次郎が教えていたこともあって、李禹煥と高松も全く同時代人で不思議なことに私峯村もそうですけど、ちょっと存在というようなことに心惹かれる世代ですね。

暮沢:李さんの言われる「存在」は、ハイデッガーですよね。

峯村:そうですね。ハイデッガーを読んでいた人はそんなに多くはないですよ。ただ、明らかにあります。ただ、僕はそういうことの経緯など全部事細かに書いた。一番最近のは評論家連盟の『美術批評と戦後美術』のアンソロジーの中。これはもの派ということが批評界でどのように認められてきたかということを書いて、おのずからもの派論の一文にもなっている。それからもう一つ前にね、大阪の国際美術館でやった「もの派―再考」という非常に丁寧な、中井康之君が一生懸命やった展覧会で、ここに私が寄せた文章はまさにもの派というのをいろんな角度で切れると思う。
だけど、僕はやっぱり、よその国ではちょっとこれほどの集中度が見られないと思うんですが、日本の現代美術の中で数奇な集中をした、ひとつの脈絡を成しているものとして、高松次郎に始まる存在を問うという系譜がある、というので書いたわけですね。それでもの派というのをある程度相対化して全体の中で見たいというのがあると同時に、もの派は今、もの派にばっかり目がいくようになって、困ったことに日本には具体ともの派しかなかったみたいに外国じゃ思われているみたいだけど、もっと出てくるのに背景があり、厚みがあるわけですよね。それを言いたくて書いた。
その二つと、それから一番最初にきちっと書いた鎌倉画廊でのもの派論は長い文章じゃありませんけども、せいぜい4、50枚かな、これはかなり圧縮しているけど、言うべきことを書いているんですね。高松次郎からの系譜であるから、6人は「トリックス・アンド・ヴィジョン」の時期を経て、知覚の詐術というひとつのアイロニーを散りばめながら、それを批判的にそこから脱した時にもの派というものになっているということ、これは繰り返し繰り返し、いろんな機会に述べているんです。大体私のもの派観というのは、最初の「〈モノ派〉とは何であったか」という文章の中に、鎌倉画廊のカタログの中にちゃんと書いていたと思います。

加治屋:今お話をうかがうと、峯村先生は、この時代のもの派の運動に直接交流がおありになったかもしれませんが、どちらかというと、その後にいわば歴史家的な役割を担われたという方が大きいんでしょうか。

峯村:全く違いますね。彼ら別に運動をやっていたわけじゃないけども、仲のいい人たちがやっていたわけですね。それを少し冷ややかに見ながら非常に間近で観察はしていた。だけど彼らの仲間じゃないからそこまで入ってはいない。だけど個別的にはたとえば李禹煥とは同年生まれということもあって非常に親しい感情もあったし、それから菅木志雄の作品は作家としては非常によく見てフォローしていました。ただそれが一人二人突出した傑出したアーティストがいるというだけではなしに、まとまりとして、ある時期に出るべくして出たんだなということを深く納得するようになって、肯定的な面、否定的な面を含めてなんとかこれを位置づけなければいけない、まとめなければいけないという意識を強く持つようになった。時とともにですね。

暮沢:もの派が大きな影響力を持ち得たとすれば、名前挙げられた李禹煥と菅木志雄、この二人が作家としても理論家としても優れていたと。

峯村:大きいですね。全くその通りです。

暮沢:あと、田畑書店から当時も本(注:李禹煥『出会いを求めて』)が出版されていました。出版されてからお読みになったんですか。

峯村:出版される前に彼(李)の文章はあちこちで書かれていましたよね。それでそういうのは、全部ではないけどかなり読んでいる。というのは、その頃のあの人の独特のばねのある挑発的でもある文章で、その文章を読むということ自体が愉快ではなかったですよね。非常に挑発的な文章ですからね。
私はどちらかというとモダニストですから、フランス文学はとっくにやめてはいたものの、ヨーロッパのものの考え方が礎になろうかという考えを持っていた。東南アジアとかそういうものもずっと好きでしたけども。それ(西洋近代)を頭ごなしに否定するような言葉を書かれると愉快ではない。でも、言葉の力って非常に強いものを持っていて、やっぱり読まざるを得なかったと思いますね。他の誰の文章よりも読まざるを得なかった。で、読んですごく反発も感じるし。でも李禹煥は戦っている最中だったから、ああいう視点、そういう文章になっちゃったんですね。で、もうクリティックはやめたと言って、それでやめるきっかけになったのでしょうね、1971年にそれまでの文章をまとめて『出会いを求めて』にした。その後大体クリティックな文章は書かなくなりましたよね。

加治屋:李さんほどきちんとした文章を書かれた人というのは、なかなかいなかったと思うんですけども、やはり衝撃的な登場だったんでしょうか。

峯村:いや、美術家にはいい文章を書けるのはいくらでもいます。高松だって非常な文章家です。ただ、時代との接点、切り結び方が李さんの場合は非常に鋭いのと、これはインテリや美術家が信じていたような、こういうふうに世界は考えていけばよろしいかと、なんとなく思っていたことを根底から否定してきている言葉遣いとか。それを、「随分いい気な、勝手なことを言っている」と完全に否定はできない。それは、それなりの時代認識、観察をもとにして書いているからですね。ずいぶん多くの間違いがあると指摘されたものの、でも彼が必死になって近代美術、現代美術をそれなりに美術家として勉強した上で書いているものだから。例えば、よく弁の立つ美術家が現代の芸術の陥っている隘路を糾弾する時に、古臭い昔の美術を基準にして語ろうというのが多かったんだけど、李禹煥はそういうことなくて、一番先端的なことまで見た上で批判している。それはやっぱり同時代の若い美術家たち、李さんより少し上の世代の作家たちにも非常に大きな衝撃だったと思います。外国なんかでも、1970年代のはじめに、ニューヨーク中の日本人アーティストが買って読んでいたけれど、それでみんなこんなの読んだことないって。
李禹煥と私の最初の出会いは非常に不思議。まだ彼が世に出る直前、美術出版社の評論募集で佳作を取った直後だと思いますけども、上野公園でちょうど1969年の毎日新聞の現代日本美術展のコンクールに出品した作業を終えてからかな。石子順造さんと二人で帰っていく途中、石子さんに紹介されたんですね。まあそういうのって当然ですけど、会った瞬間、この人はできる人だなあと。やっぱり普通の人と違って、非常に謙虚な挨拶を交わしたんだけども、強い印象受けましたね。
ただ、李禹煥という人は言い過ぎちゃったことがあってね。困ったことに活字になっちゃうととりわけ狭いところがある。言わんとするところは分かるけども、これはちょっと言い過ぎたってところがあって。しかし、どちらかというと彼の言っていることよりも、もの派を過ぎた後、1970年代半ば過ぎから後の彼の絵画の、精進してあそこまで来たあれは、非常に強く共感するところがあった。
結局もの派というのは、一回性。自然流という言葉がありますけど、自然との和解というふうなことです。芸術ってもともと虚構の世界で組み立て成り立っているわけですから、そのことと自然性ということをどういうふうに了解するか。難しい問題なんだけど、もの派の人たちが関わっていたことが、事実とか、事実が形成されるための反復ということから反対の側に位置し、極めて一回性のもの、ということは、スペクタクルにどうしてもなってしまうわけですね。その時に光景がそのようにもよおすと、そのことにしびれるというですね。ということになれば、しびれるのは素晴らしいことなんだけど、しびれる光景をもよおすのに、どういうふうに芸術の仕組みがなっているかというのは、絵画だと一番重要な問題にしなければいけない。だけど、そんなことをぐたぐだ言ってると昔ながらの絵と同じになってしまうということで、あえて過激な言葉遣いが出てきたと思うんですね。それから、記憶の中から何かを引き出してくる、何かを想起するという、非常に重要な精神の働きに対する配慮がほとんど感じられない。ないわけじゃないんですけどね。
まあ恐らく、もの派の人たちは、人が普通に想起することよりもっと大きな、人レヴェルの根源を想起するという姿勢はあったと思うんですよ、当然のことながらね。だけどその間が繋がらないんですね。何をどういうふうに形成するかとなると、そのための繰り返しとか、それからものを継承するということがストンと抜けるので、抜けた分だけパンチが効くわけですよ。そういうくだくだしいことを外しているわけですからね。しかしそういうことだといいねえと言っている分にはいいんだけど、そこから美術の問題は深まっていかないので、まずいかなあと。
それから後でお話しすることになると思うんですけど、システムという考え方、これはまあ当時の誰もそんなこと分からなかったからしょうがないんだけど、システムという考え方自体を全く受け付けないところがあった。つまり人が芸術行為を成して、芸術が芸術として社会に入ってくる、この中で維持する、認められてみんなに担われるっていうのは、僕はまあ一つのシステムだと思っているんだけど、そういう考え方はこの人たちには想定外だったようですね。
ま、そんなことがあって私には批判しなければならないという想いはあったんですが、だけど李禹煥の仕事を見ていると、他の作家は途中で消えてしまったとか、どういうふうにしていいか分からなくなってしまった場合でも、彼の場合、絵画をもう一度やり直すってことや、今私が申し上げたようなことを、ほとんどみんな自分のものとして取り上げて、しかも深めていくんですね。そこがやっぱり並みじゃない聡明な芸術家だと思うんですね。もともとそういうことができている作家なんだけど、やはりヨーロッパの近代を彼ふうにまず批判しちゃおうと。言い過ぎというか西洋批判を直球でやったためにちょっと欠けたところができちゃったのかなと思うところがありますね。

暮沢:いま李禹煥の名前が出てきましたけど、他の作家にも何かあれば。

峯村:僕はどちらかというと人間にはあまり興味がないので。ただ、やってきたことで言えば、その次に重要なのは、はっきり言って菅木志雄ですね。菅木志雄は非常に文章が難しい。やさしいようだけども、李禹煥は私らと同じような言葉遣いするんだね。だけど菅木志雄の言葉遣いというのはちょっと難しい。僕なんかには難しいですね。彼の作品はずっと見てきていて、非常に強くおもしろいと思うところがあって。それで、さっき言った私が否定的に見ていた要素も含めて、みんなひっくるめて、それが彼の中ではもの派というものが、もし芸術のあり方、そこに新しいあり方を突きつけるとしたら、こういうものが新しいあり方だなと感じさせてくれるような、全く今までに例のないことをやってきていると思うんですね。
今までに例のないことをやってきているというのは、多くの人が彼のやっていることを見ていて認識していることだと思うんだけど、今までやったことがないことなんて人類ができることじゃないから、それはやっぱり矛盾があるわけですね。どっかに彼の芸術が芸術として成り立つ肝心なことがそこに働いているわけですよね。それはちょっとよく見えないだけの話かもしれない。ただうわべは完全に前代未聞なことをやっている。ただしもっと奥を追っていくと、これが芸術として成り立つと納得させてくれるものがなければおかしい。なければ私がそれを感じるはずがないわけでね。私に言わせれば、人が感じるっていうのはやっぱり感じさせるシステムが働いているわけでね。
僕は、その前から、菅木志雄がおもしろいと思って、いろんな文章ちょこちょこと書いていますけどね。しかし彼が厚い作品集を出しましたね、1と2。1の時に書いた文章はまだそれほどじゃないんですけど、それからまた10年くらいして出した本の時に書いた文章で、ようやく僕は責任を果たしたような。それはつまり菅木志雄というのは全く過去に例を見ないような新しい芸術観、形式に乗っとらないようで、つまり継続性とか継承性とか繰り返しとかシステム性とかを一切無視したようなことをやっているようだけども、実はそうではないだろうということで、その論拠をごちゃごちゃ書いて。私はずっと菅木志雄の作品のユニークさに惹かれながら、理論的にどうあってそれを理解したら良いのか、つまり、ここまで形式を無視したものをどうして私がひとつの芸術現象として受け入れようとしているのか、そこが分からなかった。そこのところになんとか筋道をつけられたなと思ったんですね。僕にとって批評的に大きな挑戦を絶えず受けていて、それを僕なりに果たしたかなと思いました。果たしたら後はもういいです(笑)。
他は、小清水さんは非常に見やすい彫刻じゃなくて、彫刻というものが考えられてきた、彫刻において人類が考えてきたことをひとつひとつ丁寧に追体験し、自分のものとして獲得していくわけですよ。これはある意味でもの派的な考え、観点から離脱しているわけですよね。そんなわけで私は彼を――彼は絵画は無理なんで、彫刻ですけど――もの派の事物観を踏まえた上で、新たに人類の彫刻の取り組み方に接続させてきた人ということで評価してきたんですけどね。まあ後はいいでしょう。

暮沢:多摩美系の作家のもの派のユニークなところは、小清水さんも彫刻だって言われたけど、彼以外はほとんど絵画科の出身、斎藤義重教室の出身だという共通点があります。そのところはどのように考えられますか。

峯村:斎藤義重教室というのは、とっても重要な問題だと思うんです。私たちはよく影響関係というけれど、影響というのは非常に多角的にあるものだから、それを単純化しては危険だなというのがあるんですね。斎藤さんは何しろ大先輩、芸術家としての先輩で有能な若い作家たちの資質を見抜く力がある。だからできる奴は可愛がるけどできない人のことは知らん振りという冷酷な面がある。当然のことですね、これは。それで、人をどのような方向に導くということはなくて、方向性を指し示さない。むしろ何を考えているのか、どういうものを読んでいるのか。
関根伸夫の鍛えられ方というのは、彼自身が言っていましたけどもね、次から次と最も時代の先端的な議論、研究の成果を持った文献をそれとなく斎藤さんが教えて、読んで、ようやくここまで来たと思って意気揚々として斎藤さんのところに行くと、よし、じゃ、これを読みなさいと、また次に難しいのを薦められて、精神的にくたくたになっちゃったというようなことを言っていましたが、そうだろうと思います。これはどの方向に行けというんじゃなしに、若い芸術家がどのように目を開いていくか、それをそそのかした、助けたという点では非常に大きいと思います。
それから、普通の絵筆を使って油絵具を塗りつけるというのと全然違うことをやっていたということ、これは無言のうちの大きな資産にはなっていた。何かやろうというときにベースを作ってくれていたと思いますけどね。でもいろんな要素があると思います。
斎藤さんには、僕が言った存在を問うという意識はそれほど強くないんです。ないことはないですが、それほどはね。むしろ高松以来ですね。高松がこの人たちみんなの兄貴分ですから。李禹煥は別にして。後の人たちにとっては、当時最も輝いていた先輩、兄貴分の芸術家ですから。その輝きはまぶしかったし、高松のやっていたこと、作品行為のはらんでいた設問に、意識的にも無意識的にも侵されていたというところがあるんじゃないかしらね。例えば、この人たちは、ある時期みんなトリッキーなことを、強度に違いこそあれ、やるんですね。トリッキーっていうのはどういうことかというと、我々が何かそのものについて認識しようとすると、現象していることと、実体というものがあるかどうかは別として、実体との食い違いということ、つまり存在しているものの見え方と、それらのあり方との違いということを突くわけですね。これはやっぱり無言のうちに存在とは何かということが極めて大きなテーマとして与えられたといっていいと思うんです。
絵を描くより、よほどそっちのほうがおもしろい。絵画はその問題を扱えない。彫刻はそれを扱えるんだけど、伝統彫刻では難しい。むしろ絵の方から出発して――絵だから知覚問題をいじるわけですね――それを知覚から存在の方に向けて転移させようとすると、それがもの派ふうのインスタレーションになるわけですよ。あるいは物体彫刻、オブジェ彫刻になるわけですね。高松以来の設問というのはうまく生かされたんじゃないかな。

暮沢:もの派について、峯村さん自身の仕事、千葉成夫さんの仕事、それから椹木野衣さんの仕事、この3人の仕事を比較検討すると、もの派というのはこのように評価されて、受容されてきたんだなと細かな分析をされていることが分かります。
それと一方で、もの派に対する激烈な批判というのがあります。例えば代表的なもので言えば、藤枝晃雄さんのようにフォーマリズムの立場からの批判があります。作家で言うと、彦坂さんのような美共闘の批判があります。彼らが執拗に批判し続けるうちに、逆説的にもの派の重要性が浮かび上がってくるという構図があったように僕には思えます。その辺はどうですか。

峯村:藤枝氏の批判というのは、私はそれほど内実があるとは思っていない。いつもアメリカとの比較をやってるんで。
アメリカでもやはり物体を扱うということがあります。ミニマリズムもそうですが、形式批判を踏まえていますね、やっぱりモダニズムですから。例えばジャッドやロバート・モリスなんかが、ものをそこに存在するように作家の力で位置づけたときに、それがどのように知覚の場に位置するのか、どのような働きをするのかということを非常に冷静に見極めながら分析的に考察するというようなことがあるけれど、もの派の場合はないわけですね。もういきなり直観的にストンと持って来るわけですよ、一種の賭けみたいなもんですね。
だから、それは乱暴といえば乱暴で、確かにそういう点でいうと欠陥があることは間違いないんだ。だけどもともと出方が違うわけですからね、もの派とミニマル・アートでは。だからミニマル・アートをよしとして、その眼でもの派を駄目だと言うのはちょっと違うんじゃないかと思うんですね。全然別なんで。ミニマル・アートはすべて正しいとか、いいことだと言うわけにもいかないものだから、私はあまり重視しないで考えています。
それから美共闘、彦坂尚嘉なんかの場合は、彼のパーソナリティの問題でもあるんだけど、生存競争なんですよね。自分で自分を押し立てるというのは絶対に至上命令ですから、これは必ずしも悪い意味で取っているんじゃないんです。芸術家というのは強欲だという言葉で片付けられない問題があって、昔、彦坂がいい言葉で言ったことがある。私もそれに非常に強く共感するんです。
さっきちょっと言い忘れたけど、僕がもの派で一番高く評価しているのは、まず議論や議論の立脚点を日本の中に置こうとしたこと。日本だけじゃなくてアジアでもいいんだけど、我々の今生存しているこの場で立ち上げようとしたこと。これは実に大きいと思います。だから、例えば宮川さんとかが、何かと口を開けば外国の文献を持ってくる。アーティストもそのマネをして、読めもしないフランス語のものを持ってきてというのがずっと続いていたわけですよ、1970年代は最も多かったんじゃないですかね。だけどそれをもの派の人たちがスパッと切るような姿勢を見せた。これは一番大きいと思います。何が大きいってこれが一番大きい。
それからもう一つは、思想的にはヨーロッパの構造主義と共通しているようだけど、別に構造主義を知っていてやってるわけじゃないんだが、もの派の人たちの芸術観とか世界に対する向き合い方、あるいは自分の作品の提示の仕方、作品の成立のさせ方から、人間主義的な要素がほとんど払拭されているんですね。ヒューマニズム、人間中心主義。言葉の上で言ったら李禹煥ははっきり人間中心主義批判ということを言っています。ヨーロッパ近代批判のひとつとして人間中心主義批判というのがある。僕の場合はそれだけじゃなくて、近代批判よりもっと根の深い問題として芸術の人間主義を批判したいという気持ちが、当時以上に今非常に強くありますね。だからもの派はその点で非常に大きなものを出したと思うんです。
それでさっきの話に戻しますとね。いわゆるポストもの派と言っても、非常に強烈なのは彦坂尚嘉ですけれども、飽くなき芸術家としての自立を押し立てるというのは共通なわけですね。ただ言い方を変えるとこういうことが言えるわけですよね。芸術家は自分が可愛いというよりも、自分が抱いてしまった芸術を育てなきゃならない。
彼は昔そういうようなことを言っていました。「峯村さん、鳥を飼ったことがないでしょう」「いやあるよ」「ちゃんとは飼ってないでしょ。鳥はね、餌を与え水を与え、細心で育てないと死んでしまうんですよ」と。「鳥を守るのは私の責任。つまり芸術家というのは鳥を飼っている人間と同じだ」と。これは大変素晴らしい言葉で、実は彦坂とは何の関係もない人だけど、イタリアのアルテ・ポーヴェラの作家でヤニス・クネリスという作家がいましてね、あの人が1967年頃かな、作品が絵からレリーフ、立体に移っていく途中で、生き物を使うんですよね。で、鳥を籠の中に入れて、タブローの両端に付ける、いくつもね。それで、生きた鳥のまま展示し、それをただ展示しただけじゃないんです。彼はちゃんとコレクターに売るわけ。その時に彼は何を言ったかというと、これを持った人は鳥が死なないようにちゃんと世話をして欲しいと。これがおもしろいと思うんですよね。この場合は絵画というのは生命のごときものという観点から、それを最も直接的に生命そのものを入れたということもあるけれど、芸術というのは、その生命を守るようにする働きがあってはじめて成り立つと。だから作家というのは何かというと、それを助けるための産婆さんかお守りみたいなものだと。だから一見作家の強欲のようなものだけれども、実は強欲じゃなくて作家は謙虚な立場にいて、本当は引いているはずなんです。
それにしても彦坂のもの派批判というのは激烈すぎてね、どうしても引きずり下ろさないと自分達が浮かばれないということなんですよね。そうかというと彼はやっぱり芸術の機微をよく知っているから、何かは否定されながらもちゃんと受け継がれているものだというのもよく理解していた。だから、もの派があって自分達がその後を襲うようにしているという関係も充分に認識しているわけですね。だからしょっちゅう言うことが揺れるけれども、ずっと後になって、李さんが叩いても叩いても潰れないってことが分かってきたら、今度はみんな李さんの真似をするんだと。作品の出し方から、画廊との付き合いのしかたまで、みんな真似をするんだと言うんですね。それは、彼の愛憎、もの派との切っても切れない関係を示していると思うんですがね。そういうことはアーティストの一種の生理に属しているもので、私はそういうものを重視して考えないんです。へんな個人的なクセだと。ちょっと極度のね。ただ、埒もないとも言えなくて、理由もあると思うからあまり悪くは思わないようにしているけども、あまり重視はしない。書いていることも少し割り引いて読むといいですよ。
これはもの派に対する姿勢じゃないんですね。多摩美に対してですね。実は展覧会(「もの派とポストもの派の展開」展)をやるときに、私が、特に一番好きかということと違って、一番重要だということで、彦坂と堀浩哉は欠かせないと思ったんです。ポストもの派の中で。もちろん他の人もいる。これは最後に申し上げますが、一番好きなのはお分かりのように、戸谷(成雄)とか黒川弘毅とか、ああいう人たちが出てきてこそ私は浮かばれるという想いなんです。でも彦坂、堀を僕は非常に重視していることは間違いないんです。この時も、もちろん二人が出てもらわないとまずかったんですよね。だけどくどいてもくどいても駄目だったんですね。ただ二人の言い草はちょっと違っていましてね。彦坂は一緒に飯まで食って時間をかけて口説くんだけど、結局最後まで駄目でね。多摩美の学長からの出品依頼ですからね。彼らは多摩美の学長名で退学させられているからね。

暮沢:そういうことにこだわっているわけですね。

峯村:いや、こだわったふりをしているだけでしょう、おそらく。もうこだわっていないよと言ってしまえるのが堀だったんですよね。俺もいろんなことがあって、いろんなことを経験してきて、そのときのままの自分じゃないから、もう自分はいいと。多摩美の学長から出品依頼が来ようと、多摩美そのものにのこのこ戻ったと言われようと、それは一向にかまわんと。今、芸術家としてやっているんだから。ただ困るのは、彼(堀)が委員長をやっていたでしょ。旗を振ったわけでしょ。その旗のもとに多くの友人、後輩が巻き込まれた。後輩が大学に一緒にいられないようになる。つらいことになったんですね。堀は非常に華やかな存在だから、そこを抜けた後も独自の芸術家活動をちゃんとやってこれたけども、うまくいかない――あの闘争で立ち行かなくなっただけかどうか分からないけども――うまく人生を送れない人も結構いるわけですね。その連中に対して、責任というか自分だけ戻るというのはできないから勘弁してくれというのでね。ちょっと理由は違うんですけどもね。何か二人で連絡をとり合ってお互いに足を引っ張って、絶対受けないようにしようと言っていたんだと思うんです。少なくともあの頃二人は、毎日何時間も電話して話し合っていた仲だから。

暮沢:今は違うみたいですね。

峯村:違うみたいですね。しかし、非常に残念には思いましたが、仕方なかった。私は別に多摩美の展覧会だと思ってないんで、私がやりたいからやった。ただ、多摩美が60周年記念でしたっけね(注:50周年記念事業)。

暮沢:さっき鎌倉画廊のことをお話しましたよね。その翌年だからこれということは……

峯村:翌年が60年記念で、大学が何か事業をやりたいということで、私は……

暮沢:50周年ですね。

峯村:50年ですか、ごめんなさい。ちょっとうとくて、そのことをそんなに意識していなかったんですけど、東野さんはすでに幹部ですからね。幹部というか、芸術学科の科長ですね。彼は大学全体のことがいつも視野に入っていて、「何かやろう」的なところはあったみたいですね。
私は、実は鎌倉画廊の催しのために1986年の夏一杯、当時上野毛にあった研究室にこもって必死になって整理、研究していたわけですよね。一緒にやってくれたのが今、水戸芸術館にいる森司君ですね(注:2009年より東京アートポイント計画 ディレクター)。非常に有能な人で、彼は菅木志雄の作品に非常に惚れこんで、その時は半ば助手みたいな感じだったんですが、それで一生懸命その時にやって。
隣が東野さんの研究室だったんですね。東野さんは出入りするときにいつも僕の研究室の前を通るんだけど、昼夜を分かたずというような感じで辛気臭い文献いじりと年表作りとやっていてね。やってられんなと思ったんじゃないかと思いますけどね。ちょっと感じたところがあったんじゃないかと思いますね。あそこまで打ち込んでやっている、それが鎌倉画廊でこういう形になって出ましたでしょ。こういうものだったのかということで。東野さん自身はもの派という言葉が嫌いだし、テキ屋の名前みたいだとか、何て言ったかね、何か変な名前を付けたよとか言っていました。ただ、並んでいる顔ぶれの多くは、東野さんはよく認知して非常に評価している作家たちだし、東野さんは東野さんなりに、「ボソット・アート」なんて言い方で、メンバーは違いますけど、ちょっとおもしろい表現でパリ・ビエンナーレまで持って行ったことがあるんです。東野さんにとっても近しいものがこれだけ形になるんだったら、これをまとめてもっと大きな展覧会でやったらどうかという気になったと思うんですよね。
私は力ってものが全くない人間だから、政治力というか世間の力が全くない人間だから、どこかの美術館に持っていって売り込むなんて力はまるでない。ところが、東野さんはそこが見事で、西武美術館の顧問のような、信頼を得ていた人なんで、西武美術館に売りこんでくれたんですよね。ただ、専門的には私が中心になってやらないとならないからってんで、森司君にも引き続きがんばってやってもらったんですね。だから、多摩美術大学の50年記念は、やっぱり予算のこととかでやり易いからだったんだけど、大学のためにやったという意識はない。それが何だったかな、つまらんことを言う下司な勘ぐりでね、鬼の首を取ったみたいに、「何であんな本格的なことやったのかっていうと、多摩美の何とか記念だよ」とか言ってね。(もの派は)多摩美の人が多いでしょ、だから多摩美の名誉のためにやったんだという馬鹿なことを言う評論家とも言えないような人もいました。そんなくだらんことを考えるなんて、夢にも思わなかったですね。

暮沢:展覧会ですが、もの派の6人はすんなり決まったと思うんですけども、ポストもの派というところは……

峯村:お話ししたように、私が1978年の文章の中で、もの派を広げればこの3人を加えて9人くらいまで一つの枠付けができるということを出していたもんだから、それにもとづいて鎌倉画廊の方でもの派展をやるときに9人でやったわけですね。
しかし、僕の文章にも書いてある通り、もの派が突きつけた問題とそれに対する批判の、批判の出しどころを考えると全然違うんですよね、性質がね。多摩美系プラス李でできた6人というのは、その前から、多摩美時代からずっと引きずってきているものがある。彼らはそんな意識はないですよ。ただ私の中にはある。その後彦坂とかの批判を呼び起こすようなものとして与えたものとなると、圧倒的にこの6人というのは同質性があるんですね。それを取り上げると、ポストもの派というのとうまく繋がると思った。
肝心の、強烈な李禹煥批判、もの派批判者の彦坂君が落っこっちゃったんで、そこのところの楔の一つが抜けた感じになりましたけどね。

暮沢:この6人以外のメンバーは、どういった観点で人選が行われたんですか。ポストもの派といわれる人たちですけど。

峯村:展覧会について残念に思った最大のところが…… 東野さんが先輩として関わっていて、しかも多摩美を西武美術館につなげてくれたのは東野さんなんですね。私と東野さんとは考え方が非常に違うところがありまして。その頃の東野さんは、1980年代に入ってからもう一度巡ってきたポップ的な季節ということで、非常に華やぎを取り戻していた時期なんですね。それで、くっきりとそういうタイプのアーティストを入れたいということで。私はちょっと問題がぼけてしまうかと思ったんですが、そこは珍しく私も妥協しまして。それで混成部隊になっちゃったんですね。それから、東野さんは1980年代に入って、82年頃から、日本に出てきた女性アーティストを「超少女」なんて呼んだりして。キャッチフレーズが非常に見事な人だったんで、そういう人たちをちゃんと入れたいということなんですよね。ポストといったらみんなポストですよ。後なんだからポストになるけども、なんていうのかな、内面的なつながりが全くないですよね。いわゆる「超少女」って、もの派も何も私は知らんというものが出てきたことの目新しさだったわけでしょ。だから関係ないと思ったんですけどね。私はちょっと妥協したので、内心忸怩たるものがあります。

暮沢:このなかで、もの派とポストもの派の関係は、印象派とポスト印象派の関係をなぞったものと説明されていたかと思うんですけど。

峯村:そうでしたね。

暮沢:「超少女」とか入ってくると、その内容がちょっと……

峯村:分かります。私はいつも言うことなんですがね、もの派っていうとどうしても人々の習慣で、人、作家っていうのが強烈に無理に入りますね。作家あっての芸術なんだからいっこうにかまわないんだけど。
しかし、もの派っていうのは名前の付け方が悪かったかな。もの派運動なり、もの派芸術とか、そういうひとつの正確な仕組みをもった芸術の出方をしているわけだから。69年、70年、71年くらいまでが、最ももの派の凝縮した純粋な作品の出方だったんですね。そういうもののことを「もの派的芸術」と言っているわけで、もの派芸術っていうのが大げさだから「もの派」って言ってる。私はいつもそういうふうにしか意味してない。
だから、さっきお話した李さんとか他のアーティスト――たとえば小清水の彫刻とかですね――これをもの派という言葉だけでそのまま引き続き書いていくと、極めて異様なことになっていっちゃうわけね。ずっと後になってから「これ、もの派かいな」なんて言われても、それは作家だって変りますし、経験で今までの無かったものを積み上げたりしていきますのでね。

暮沢:さっき西武の「もの派とポストもの派の展開」展の話を伺ったときに、ポストもの派の作家の中に戸谷成雄とか遠藤利克とか黒川弘毅といったもの派の後の世代の人たちが何人か含まれていたのが目に留まったんですが、これらの作家たちは峯村さんが平行芸術展の中に取り上げてきた人たちでもありますよね。

峯村:早い時期にね。

暮沢:平行芸術展というのは、峯村さんが多摩美に着任されて間もなく1981年頃から始められまして。2005年まででしたか、最終回は。

峯村:そうですね。

暮沢:20年以上の長きに渡って続けられたので、実質的にライフワークと言っていいお仕事なんじゃないかなと思うんです。恐らくもの派とのお付き合いの中から、もの派の次の世代の人たちなんかも観察しながら、峯村さん独自の芸術観というものが形成されてきて、それが反映されたものとしての展覧会だろうと僕の方では感じているんです。この平行芸術っていうのはどういうものでしょうか。

峯村:はい、最初にそう思われているのを一度壊しちゃっていただきたいんですけど、私はそんなにもの派と関係付けて語られると困っちゃうのは、私は別にもの派と付き合いながら批評をやったわけじゃなくて。それは重要な要素ではあったけども、いろんなことを考えながら経験しながらいたんで、みなさんの中で重要性があって受け止められているのがもの派だというだけの話で、私の中ではもの派だけが重要であるということは全くないわけでね。
もう一つ言うと、もの派の後の世代をどう見るかっていうのは、確かに私の大きな設問でしたから、おのずからその後の世代をくみ上げるような形で、自分で独自の展覧会をくみ上げるとなると、当然私とともに、私の評論活動とともにいた人たちですね。
今、ライフワークというふうにいわれて困っちゃったなあと思うんですけども、別にそんなものがライフワークになっちゃ困るわけで。そんなものって言っちゃいけないけど。私は一回一回一生懸命やって大切にしてはいたものの、展覧会というのは私に与えられたチャンスだから嫌いでもないしやりましたけども、展覧会をやるってのは、私にとってライフワークたりえないわけなんです。だから最初の10年間っていうのは、パンフレットも出してもらっていたわけではないので、文章を書けなかったから、私にとってはライフワークどころか、まあ一つのお付き合いですね。

暮沢:文章を書けないというと、どういう趣旨で企画して、どういう趣旨でこの作家を選んだかって他の人に分からないですよね。

峯村:そうですね、じゃあそこからお話しましょうか。これは長きにわたって、最後の4年間は切れましたけど、それまでの16回分は全部、生け花の小原流が財政的にも場の提供もしてくれたんですね。
どうしてそういうことになったかというと、1970年代に入って間もなく、ということは私が評論活動を始めてそれほど経ってなかった頃――正確に覚えてないですけど1975年前後かと思います――その頃から、私がほとんど毎号のように小原流が出してる雑誌、機関誌に文章を請われて書くようになったんですが、それが機縁になって、70年代の終り頃――80年だったかもしれません。長いことその生け花の雑誌とつきあってきたんで。生け花の人たちから見ると、もの派の人の作品はとっても注目の的だったんですよ。やっぱり生の木を使ったり、水を使ったりするからね。
1970年代に入ってから、生け花の若手のアーティストたちのかなり多くの人がもの派を意識した、もの派から影響を受けたような作品を作るようになったんですね。それのことを「現代いけばな」という言い方になったんです。昔から生け花の世界っていうのは時々前衛的な気風が沸き起こってきて。例えば勅使河原蒼風さんと組んで非常に強力にやった小原流の小原豊雲って大物がいたんですね。この人たちが「前衛生け花」っていう言い方で従来の生け花から20歩も100歩も踏み出したようなことをやろうってんで。基本的にはオブジェ志向ですよね。オブジェ的なもの。特に小原豊雲さんの場合、シュルレアリスムに造詣があってシュルレアリスムの影響があった。それから蒼風さんもシュルレアリスムの影響があったと思うし、まあ骨太な造形感覚のある人だったからそれで前衛生け花という言い方が出てきたんですが、それが70年代に入ると現代生け花という言い方になったんですね。どうしてか知らないですけどね。その頃の人にとっては、現代美術っていうのはほとんどもの派とイコールに見えたのかもしれません。そうするともの派から強い示唆を受けてやることが自然に…… まさかもの派生け花とは言えないしね。それほど丸ごと真似してるわけじゃないから。
そうすると、現代美術と同じ並びでやっているって意識で、「現代いけばな」になっちゃったんですね。実際その当時、一種のアンデパンダン展、生け花アンデパンダン展があって、見るとものすごいんですよ。生半可な現代美術よりおもしろいって時があったりしてね。工夫してね、吊るしたり、逆さにしたり、ぶちまけたり、たらしたり、固めたりと、いろんなことやってる。現代生け花と昔の前衛生け花の大きな違いは、現代生け花ってのは素材にこだわるんですね、特に植物という素材。年配でそういうのにすごく経験豊かな人、中川幸夫なんかは、ああいうふうに花をいたぶるような、愛でるような、埋めつくすような花びら、真っ赤な花びらを(使う)。今で言うと、蜷川実花さんの写真みたいな。ああいうのもひとつの典型だ。それから、菜っ葉、ほうれん草が大量にあったりとか大根を並べたり(する作品もある)。そういうのが、どこかもの派を中心とする現代美術、あるいはもの派の影響を一番強く受けた、もの派よりもっと物質依存度の強い現代美術と非常に近いものに見えたんでしょうね。確かに外見からはそう見えたんでしょう。
それで設問があって、現代美術の側でも、ものすごく植物的な素材を使っているんではないかと。私はそれほど意識してなかったんだけど、言われて見れば確かにそういうところもあると思う。日本もだし、外国も。外国では昔の彫刻だったら木を使うなんてのは国によってあまり使わないところもあれば使うところもある。現代で言えばカール・アンドレなんか、木を使ったり干草を使ったりしましたよね。それからイギリスのあの作家、日本のもの派みたいな。林の中の枯れ木を引きずり出してきて枝を切って造形する…… 何て言いましたっけね。

加治屋:(アンディ・)ゴールズワージー(Andy Goldsworthy)。

峯村:そう。そういうのが外国でも結構ある。つまり昔の普通の彫刻とは違うやり方で、植物的な素材を使うところもある。もっと後でいえばウォルフガング・ライプ(Wolfgang Laib)ですか、あの人なんかもまさにそれだ。

暮沢:米と牛乳と。

峯村:そうそう。それから花粉ね。それも使いましたからね。(植物を使う作品は)日本にものすごく多かったんですよ。それで記事としてまとめてみる気がないかと言われて、とことんまで資料引っ張りだして、これでもかこれでもかっていうくらい例を出してまとめて。それを見て小原流の幹部の人がおもしろいなあと思ったんでしょう。
ここまで来ると現代美術と生け花の世界っていうのはかなり対話可能なんじゃないかと思われたんじゃないかと思いますね。その頃、小原流が他流派の若手も呼び込んで、「マイ生け花」というおもしろい催しやってたの。つまり流派のやり方を一度忘れて、マイ生け花、自分流の、個人としての人間として生け花をやってみようという、一年に一遍の催しだったんですけどね。それは非常に活気があっておもしろかった。それの第三回目か四回目かしらね、じゃあそれと同じ時に現代美術展を企画してやってみてくれないかと言われて。
それを言われたとき突き詰めて考えましたね。いや、似ているっていうけれど、そう簡単じゃないですよね。筋道が違いますよね。系譜が違います。見かけの上だけで物事をやっているわけじゃないので、どういうふうにそれを考えるかというので非常に…… 同様な問題を提起しようと思って一緒に考えたんですね。現代美術は、アメリカの方からやってきたジャンルの壁はもはや意味がないというような考え方があって、1950年代の終り、60年代はずっとその方向できていましたよね。日本で一番早いのは50年代の実験工房がジョン・ケージの考え方とかカニングハムのダンス(を受け継いだ)。それから美術だとラウシェンバーグとかね。

暮沢:ネオダダ。

峯村:ネオダダはもっと本能的にぐちゃぐちゃっとやっちゃった。その方向はもう歴史の必然であるというような、かなり暴力的な言い様で現代美術の性格付けがなされるようになってきていて、私だんだんそれに疑問を持つようになっていたんですね。もの派を批判するときも、もの派っていうのが余りにも形式ということについて、そういう手続きを取ろうとしないわけですよね。無頓着なわけ。歴史を考えようともしない。考えた上で形式を突破するというのだったらアメリカのミニマル・アートのやり方になるんだけど。
考えてみると、やはりジャンルとか形式の別は、ゆくゆくは超えられるべきだというのは、国境がすべて廃絶されて世界同一の共同体になるという夢みたいな話で、イデオロギー的にはおもしろいけれども、実情には沿わないわけですよね。これは後でもっと話しますけども、言語というのは一個の生けるシステムなわけで、それぞれの国語がそれぞれの国語のサブシステムとして奇妙なものを持っているわけですね。変形しながらも同一性を持っている。で、どこかの国の言葉かエスペラントに統一してしまおうっていうのは、一体誰のためにそんな乱暴な普遍性志向をやるのかって馬鹿げた話なわけで、人間の存在そのものの否定になってくる。
そういう疑問をいろんな形で持ち始めていた時だったんだけど、生け花と現代美術が限りなく似ていますね、だから一緒にやってみませんかと言われたときに、やっぱりこれはうかうかとしてられないと思ったんですね。その時考えたのは、物事は直感として出てきますから、言葉の使い方も深く考えた上で平行芸術という言葉を選んだというよりも、やっぱりこれは平行性ということを出さないといけないということでした。でも、平行芸術という言い方はおかしいですよね。平行芸術という芸術があるわけじゃない。でもね、僕は英語にするときは芸術における平行性というんです。

暮沢:パラレリズム・イン・アート(Parallelism in Art)でしたっけ。

峯村:パラレリズム・イン・アートです。だけど日本語で展覧会に起こすときに、そんなまどろっこしいことを言ったら見に来てくれない。そこで、これは自分でも納得して平行芸術という名前にしたんですね。
でも、最初は、生け花と現代美術は、その当時接近して似ているようだけど、そのことは否定しないけど、そういう時に逆に考えないといけないのは、どうしてそれが一つになり得ないかと、同じものではないのかと。平行性ですね。だから早いうちにそんなことを書いたんですけども、批評的に言うと、まあ経度、東経西経のそれの北極に、極北まで行けば一つになると分かるんです。私は、実を言うと今でも北極に行きたいんです。そこで海の水の渦はどういうふうになるんだろうなあと実際見てみたいんですよね。

暮沢:温暖化しているから……

峯村:見れるかもしれないですね、ちゃんと。方位がゼロになるわけですね。方角というものが意味を成さなくなる、そういう事態に対する私的観念的な関心がおおいにあるんだけども。文明圏っていうのはほぼ北緯35度ですね。南極まで行ってもますます同じなので、結局人類が生存に適した場所というのは、経線は(関係)あるんですね。時間差というのもそこにあるんですね。時間差があるっていうので「25時の表現」なんて書いたことある。一日24時間っていうのは体内時計になっちゃってるけど、これはもともと地球の自転によって決められていることで、人間が勝手に制度として決めたことではないわけですね。
芸術の成り立ちってのも、我々がいつのまにか動脈硬化を起こして、いくつかの形式に分化するというふうになったほど単純なことではないはずで、もっと本質的に芸術的なありよう、システムとして違いがあるはずじゃないかって思うようになってきた。その想いはだんだん強くなってきましたが、最初にそれを平行性、平行主義という言い方で出したのが良かったなと後で安堵したんですね。僕は直感人間だから、何か始めるときに全てを考え尽くした上で、これで間違いないからってそんな慎重なやり方はできない人間なんで、「まあこうだろうな」っていうのが出ちゃうんですよ。それが大間違いだったら後が大変なんだなあと(思っても始めてしまう)。この時は良かった。逆に、芸術における平行主義っていうのはその後何か機会があるたびに反芻して、あれで間違っていなかっただろうか、それにどれだけの射程があるだろうか、どれだけの意味を持ちうるだろうかということを考えてきて今に至っているわけだけど、大筋のところ、まだ北極に至っていない。私としては、あるいは我々人類としては。やっぱり平行主義ということを考えないといけないと思っているんですね。

暮沢:結局、計20回くらい行われたんでしたっけ。

峯村:ちょうど20回ですね。

暮沢:いろんな作家を取り上げてこられたと思うんですけども。

峯村:はいはい。

暮沢:どういった基準で。

峯村:もうその年、その年で。

暮沢:原則としては、ポストもの派世代の若い作家が中心になってるような印象は受けますよね。

峯村:でもさ、ポストもの派っていうけど、もの派の時期を過ぎればすべてポストもの派になるんだよ。いつまでそんなポストもの派なんて使ってもらいたくないよ。私にとっては、もの派っていうのはもう、もの派の時でおしまいなんだよ。その言葉のふくらみもね。
あと、私はもの派なんてこと全く考えないでものを観察しているわけですよね。私のなかで最も強力に私の関心を強く引くようになってきたのは、1971年頃から付き合い、作品をずっと見てきている長沢英俊というのがいましてね。その人は、私が今でも最も信頼するアーティストなんだけども、彼と、彼より大体後輩だけどどこかで精神的に共通の基盤を持っているような人たちが私にとっては一番大切なアーティストになってきたんですね。もうすべてその(「平行芸術」展の)中に、彼はいつでも入ってもらっていいのだけども。一番最初は1984年(の「並行芸術」展)ですね。というのは、長沢はミラノに住んでいるので、作品送ってもらうそんなお金ないですから。チャンスを狙っていたんですが、ちょうど東京画廊で出品したものを貸してもらえるってことが分かってね。彼を取り上げる時に、何らかの形で私が共感して見てる人たちを、ここで一挙に出したかったんですね。もちろん長沢とそのまま通じるわけではないにしても、いろんな観点でね。その時点でそう思ったってことが。

暮沢:後で出てくると思うんですけど、峯村さんがお書きになった『彫刻の呼び声』という彫刻評論の中で、類彫刻とかかたまり彫刻といった概念が提出されているのですが、これもやはり平行主義、平行芸術展のなかで形成されてきたものなのでしょうか。

峯村:人間って、幾つかのことを平行して考えている存在でね。これも平行芸術展とそんなに無理に重ねていただかなくてもいいんだけど。もし縁があるとすれは、平行芸術という考え方は、彫刻に非常に強く目を向けるようになったことにもよるんですよね。もともと私は彫刻なんて分からない人間だったんだけども、ガキの頃一番強く私が惚れ込んだのはジョルジョ・デ・キリコ。これはまた後でお話しできればと思うんだけども。ジョルジョ・デ・キリコだけじゃなくていろんなものがある。マティス、ボナール。モネなんてのはまた好きな画家の一人だけど。大体が画家ですよね。中国の絵画、インドの絵画。ヨーロッパだけじゃなくて。大体絵画が好き。彫刻はなかなかいいものがないんですよ。日本には仏像なんかに非常に素晴らしいものがありますが、中国の彫刻は必ずしもそれほど好きじゃない。インドは昔夢中になって研究したこともある。ヨーロッパははるかに彫刻が多いわけですよね。でも、多いんだけど、いいものの数が少ない。自分が彫刻をやっているわけでもないし、集中的に勉強したわけでもないから、少し縁が遠かったんですけどもね。
あの、私の前に現代彫刻についてちゃんと書いてくれたのは中原佑介さんですね。昔です。彼にとっても早い時期の(著作です)。

暮沢:『現代彫刻』ってタイトルの本がありましたよね。

峯村:そうです。『現代彫刻』ね。あれは非常に早い時期に、中原さんの文章をよく読んでいた頃に読んで。良い本だと思いながらも釈然としないところがある。私は何を読んでも釈然としないところがあるから。だから自分で書きたくなるんですね。非常に敬意を示すんですけれども。中原さんはとっても彫刻の勘所をよく分かってる人だなあと思いながらも、今ひとつ納得しなくて、いつか自分で書きたいと思って。今でも思い出すと、70年代に入って、75年位かしら、私は外国に行くとか何かの文献を読んで、強烈に現代彫刻の展開に興味を持ち始めたんですね。アメリカかイギリスにエルセンっていう近代彫刻の研究者がいたよね。ロンドンとかニューヨークでとてもいい展覧会を組織して文章も書いている人で。何エルセンって言ったっけ?

加治屋:スタンフォード大学の先生ですよね(注:アルバート・エルセン Albert Elsen)。

峯村:その人のカタログ、私は3冊くらい同じのを持っているってことがあって。なんか夢中になって買っちゃった。そういうので少しずつなじんでいるわけね。それから、パリに何度も行くようになった時に、近代美術館の中にブランクーシのアトリエを移築したのがありますね。

暮沢:今、ポンピドゥーの隣にあります。

峯村:そうです。同じ近代美術館ですからね。とかなんとかで少しずつ彫刻の世界に参入してきて。70年代っていうのは、イギリスを中心に彫刻論がふつふつと興ったことがあるんですね。そのエルセンの彫刻展っていうのがそのひとつだったんだけど、展覧会も……

加治屋:ロダンの展覧会ですかね。

峯村:いや、近代彫刻全体のがありました。

加治屋:そうですか。

峯村:「近代彫刻のパイオニア」(Pioneers of Modern Sculpture、Hayward Gallery、1973年)ってやつですね。それから、そういうのが下地になって、ロザリンド・クラウスが後になって、彫刻を本気にやってやろうという気になって書いたんですね。だから似ているんです。何か先駆的な研究者がいい催しをやったりしてくれたおかげで、あ、こんなに素晴らしいものがあるんだって気が付いていくんですよね。そうこうしているうちに、自ら彫刻家でもあるウィリアム・ターンブル(William Turnbull)だったかな、非常に優れた現代彫刻論を書いた。わがままに自分がいいと思う彫刻だけを取り上げて、でも非常におもしろい。てなことで段々そっちの方に入っていった。
それから、現代美術でもね、東京ビエンナーレにも出したカール・アンドレとかリチャード・セラとかですね。特にカール・アンドレってのは、しっかり彫刻の歴史に根付いてるところがあるでしょ。ブランクーシを引きずっていますからね。つまり、なんとなく現代美術ふうの立体作品よりも、彫刻というものをきちんと、そのセンスを掴めている仕事に非常に強く惹かれるようになったんですね。
そんなことがあって、1971年に最初に知り合ったのかな、長沢英俊に出会って。それは非常に大きかったですね。肉付けしてもらったということですね。彼は1973年のパリビに僕が選んで、行ってもらった。だから72年には彼と非常に親しく話を交わすようになってから、彼の作品を夢中になって見るようになったんですね。それでやっていくうちに、20世紀というのは実に奇怪なんじゃないか(と思うようになった)。形式批判の行方が、キュビスムのコラージュ――切り貼りって意味ですよね――などから、シュルレアリスムでオブジェに行って、妙な具合に収斂しちゃったけども。もっと構成主義的に展開を遂げると、これは日本人なんかに受け入れられるくらい、安いインスタレーションのところまできているわけですね。しかしこれは、僕に言わせると何かを忘却する歴史ですね。芸術の根源を忘却する方向です。切った貼ったっておもしろいですから。子供の工作もそうですけどね。タトリンに受け継がれて拡大した構成主義のあり方なんかが典型で、これは非常にまじめなものですけど、しかし、ここのところから出てきた彫刻ならざる立体造形というものは、その根っこに彫刻として見るに値する根拠があるものであれば、これは彫刻の歴史の中に迎え入れていいわけだけど、さっき言ったように何かを全て忘却したところでハッピーにやっているだけのものっていうのを、果してこれを形の上だけで見て、これも現代彫刻の拡大した姿だって言っていいだろうかって深刻な疑念が出てきたわけですね。
そうかといって早急にこれは駄目というふうに断罪するよりも、一種の煉獄時代だと思ったんです。20世紀ってのはね。全てが掘り返されて、試練にかけられる対象だから、そのうちに必ず総括される時期がくる。それまでは類(るい)なんであって、それそのものでない。「彫刻に類するもの」と(私は)言っている。20世紀は、多くの造形家にとって、そのレヴェルでしかものを考えていなかった形跡があるという感じですね。

暮沢:固まり彫刻っていうのはどういう……

峯村:うん、あれはそれ(類彫刻)に対するアンチですね。

暮沢:いわゆる量塊系というのかな、ボリュームのあるもの。

峯村:ボリュームじゃなくてマッスです。マッスってのはもうちょっと凝縮したものです。(固まり彫刻というのは)マッスを機軸とするもの。空洞性も非常に重要なものだと思っているんですね。マイナス・マッスだな。それをまとめてみたいっていう願望もあってやったんですけど。
彫刻に対するこれまでの思いを全部吐き出したのは、この間出した『彫刻の呼び声』です。あの中で、彫刻ということで最もプラス方向で私に強い影響を与えてくれたのは、ひとつはドナルド・ジャッドなんですよね。ジャッドはまさにマッス否定ですから。一見すると、あれは類彫刻の典型なんですよね。彼のは、絵画から出てきて絵画の形式批判を推し進めていったときにああいうものになってきた。しかし彼の場合は、最も優れたマッスの彫刻と同じくらい、存在をどのように提示するかっていうのが根本の命題になっているんですよね。作品を見ても実際そうなんですね。そういうふうに受け取れるものです。それで、昔からの人体彫刻の時にはうまくできなかったような視覚とか周りの環境というものを考慮に入れながら、なおかつ今言った中心的な課題に答えるというのがあるので。だけどそれは一方の極端ですね。一見類彫刻の親玉のようなドナルド・ジャッドがいて、そしてその対極に全くマッスを持っていて非常に重要な問題をしっかり押さえているメダルド・ロッソ(Medardo Rosso)がいる。現代では私の友人である長沢英俊。長沢英俊だってマッスといっても、実際には別に固めたもので作っているわけじゃないんですよね。でも明らかにジャッドとは違う方向で出てきたものですよね。その両方を両極睨みで、彫刻をもう一度再定義できるんじゃないかと思ったんですね。それで大体彫刻についての思いは……

暮沢:まとめられたかと。

峯村:これで死ぬまでは大丈夫かと。いや、分からない。また、むらむらっとどこかから、違ったぞなんて思い出すかもしれない。今のところは彫刻についての思いは果たしたかな。

暮沢:最近出された論集にお書きになられていた気がしますが、陶芸にも関心がおありなんでしょうか。

峯村:全くないです。それは頼まれたから書いただけです。あれは八木一夫さんってオブジェ(焼き)の作家ね、あの方を特集する研究会があって。なぜ私がその研究会に呼ばれたかというと、そのシンポジウムみたいなところでスピーカーになって来てくれと言われて。京都の日文研、国際日本文化研究センターですか、あそこの研究員に行っていたのが、樋田豊次郎でね。樋田豊郎(とよろう)って改名しましたが、前の近代美術館の工芸課にいた人ですね。彼が私の批評に注目してくれたんですね。1996年に目黒美術館で私が多摩美の同僚たちと一緒にやった「1953年ライトアップ:新しい戦後美術像が見えてきた」展ですね。
その時に僕が取り上げた作家について書いた内容というのは、かたまり彫刻の考え方をもっと歴史的にずっと引き伸ばしていったんですね。しかも、彫刻だけじゃなくて絵画の人も入れて書いたんですね。これを彼が何度も読んで。このことと八木一夫さんを解釈する、再評価するってのがどういうふうに結びつくのか実は僕は分からなかったんですが、結局オブジェということだったんですね。
オブジェっていうのは、基本的にヨーロッパのフランスのシュルレアリスト、その前のキュビスムもやったけど、そこから出てきた、ようするに対象物ですよね。これは、美術の流れの中で、20世紀の類彫刻の盲腸みたいなところにストンと押し込んだようなもので。オブジェってのは、私はあまり評価していないんです。というのは、人間にとっての認識の対象としてのオブジェクト、そして物体(としてのオブジェクト)ですね。で、サブジェクトとオブジェクトを分けた上でのオブジェクトの中に、逆に、人間の認識の対象、人間にとって認識されるものとしての対象があるというふうになって。それを突破するこれからの芸術のことを考えるときには、ちょっとまどろっこしいんですね。大体シュルレアリスムの作っているオブジェって大体嫌いですから、僕は。遊びみたいなのはね。だけど八木一夫さんがオブジェ焼きというのを考案した当時、オブジェっていうのは、生け花の方でも焼きものの方でも、ファインアート以外での工芸やそれに類した世界では、フランスから渡ってきた言葉だけに非常に新鮮で、何か新しい物を切り開いてくれると思われていたところがあって、それでそんなふうにしたと思うんですね。
私は実を言うと、あの展覧会(「1953年ライトアップ」展)で八木一夫さんを入れたいがどうしようかと思ったんです。なんか焼きものの人も入れたかったんですよ。書道の方の人まで一人入れてるくらいですからね。八木さんをと考えていたんだけど、結局あれじゃないなと。あれはまだ、彼の持っているエスプリ、極めて人間的エスプリの作品であって、それでは僕の思いがかけられないと思って諦めたことがあってね。

暮沢:この1953年というのは、たしか美術上重要な年ではないという理由でタイトルになったと聞いています。針生さんが書いていますし、池田龍雄さんがクレームをつけたということもありました。他にもいろいろな展覧会に関わられてきたと思うんですけども、何か印象に残っているものはありますか。

峯村:今言われたから、ちょうどいい機会なので。1953年は何もないなんて、そんなこと書いてませんよ。ところがねえ、やっつけたくてしょうもない人は、相手の発言を正確に引用しないで、非常に幼稚な言い方で歪曲してくるわけ。針生さんなんてそんなのの最たる悪人でね。「峯村に言わせると、53年の、針生が推奨しているルポルタージュ作家というのは、まだ芸術として未熟だからと言って切り捨てた」って言うんですよ。僕はそんなこと一言も書いてないんですよ。未熟だなんて書いてない。未熟じゃなくてはじめから駄目だと言って書いている。僕の真意はそれなんですよ。つまりルポルタージュということが芸術として成り立つのであれば、私は本当にそれを実践的に見せて欲しい。そしたら私は簡単に触発されますから。しかし、現実の社会的、政治的な状況を踏まえてということで、そんなのを芸術の彩りにしたくらいなものを、私は論ずることはできない。そういうことをやれば現実に根ざした彫刻になるんだという言い方が根底からして駄目なんです。芸術の問題じゃないんですよ。だからそういうことを言っていたら何年絵を積み重ねたってまともな芸術になるわけない。だから未熟だなんて言わない。未熟じゃなくて最初から駄目なんですよ。だけどそれを正確に言わなくて、そうやって思い込むと、針生さんは、何回も言うわけですよ、同じことを。原文を読まない世間の人はみんなそう思い込むわね。
それから、何もない年だったからって(言ったと言うけれど)、何もないのはありっこないでしょ。そのときそのときに何かありますよね。53年だって、他にあることを知らないわけではない。ただそのことを客観的に言うだけだったら誰か言うでしょう。今までだって誰かに指摘されている。ただ横に、横断面でその時代の様々な問題をあぶり出していくようなことをやるのには、それなりの適切なテーマがないと駄目なわけですね。それに値するような、それに相応しいような何かが何もないという意味なんですよ。だから言葉尻を捉えるんですよね、人を批判するときってのは。それで、困っちゃったんですけども。それから、他の展覧会?

暮沢:印象に残っているものは……

峯村:それを言われるとね。展覧会が好きでやってる。(どれも)嫌いではないですよね。

暮沢:規模が大きくても小さくてもかまいませんので。

峯村:そうですね。自分でやってとても気持ちが良かったのは、「かめ座のしるし」展。これは1989年ですね。

暮沢:会場はどちらでしたっけ。

峯村:あれは横浜市民ギャラリーって、関内駅を降りてすぐ。

暮沢:毎年やってる「今日の美術」の一貫でしょうか。

峯村:「今日の美術」だか「今日の作家」だか言ったね。それの一つです。それまでずっといろんな人がやってこられたんだけども、なんか一巡しちゃって、ちょっと手詰まりな感じになってたんじゃないかと思うんです。何かひとつピリッとしたものがなくなってきちゃったなって。ちょうど20年目だか25年目になってたんですよ、「今日の作家」展ってのが始まって。だから少し趣向を変えようってことで、その時に顧問相談に預かっていた人が、もう亡くなった画家の吉仲太造さんで、あの人がどういうわけか、私の動き方がおもしろいと思ってくれたらしくて推薦したらしいんですよ。あいつに少し大きな展覧会をやらしたらどうだろうと。予算がちょっと余分につくというのでね。話を受けたのがわりと間際で時間なかったんだけども、勝手にやっていいって言うから。
で、6月頃かな、約10日か2週間かで、これはこれ、これはこれと、僕の気になっている関心のある作家の作品――作家というより作品――その作品写真を切り貼りして部屋一杯にして考えたんですよ。突如としてひらめいて、構成の、こと細かなことまでみんな決まっちゃった。「かめ座のしるし」という名前もその時に出てきたと思うんですけども、文章を大体どういうふうに書くっていうのも、みんなその時に一瞬にして決まっちゃった。実際書いたのは、その後、ヨーロッパに仕事で行っているときに駅前のカフェかなんかで。夜も寝ないで書いていたんだけども、非常におもしろい経験でした。こういう作品がなぜ自分に訴えるんだろうと。いろんなタイプの作品がありますけど、その時は、作品ってのは一種のアンフォルメルな状況をくぐり越えて、どういうふうに自分の姿を持ったらいいのかが分からなくなっていて、何とか自力で形を取ろうとしたときに、どういう姿をとるんだろうかということのひとつの答えみたいなものとして、甕のような湛える形というのが出てきたんですね。そういうのでまとめたんですが。これはおもしろいことに、東野さんは、その時本当に見直したんですが、見に行って、「いやあものすごくおもしろかった、あんないい展覧会ないよ」とか言って、どこかの画廊のオープニングに行ったら、奥からわざわざ出てきて肩を抱くようにして。東野さんが僕とどっかで通じるものがあったのかな。

暮沢:1989年って、倒れられる直前くらいですね。

峯村:2年くらい後でしたね、倒れられたのは。

暮沢:(当時すでに)健康状態があまり良くなかったとか。

峯村:そんなふうには全然感じられなかったですね。ただ後輩に優しくしようという気持ちは体が弱くなったからかな。それ(「かめ座のしるし」展)は、全く私のわがままでやらせてもらった展覧会で。53年展っていうのは大学の同僚と何か研究会をやろうといってやったわけですから、私の芸術観は、展覧会を実際にやるようになったときにその枠内でやったということくらいでしたからね。あと何かあったかね。すっと思い出さないってことはたいしたことなかったってことですね(注:1989年には「かめ座のしるし」展のほか、ベルギー・アントワープのミデルハイム野外彫刻美術館で「現代日本彫刻展」を組織している)。

暮沢:今はなき東高現代美術館のとか。

峯村:あの時は絵画でしたね(「絵画・日本―断層からの出現」展、1990年)。そうでしたね。一生懸命絵画でしゃかりきになっていたときで、おしゃれな空間でね。あのオープニングの時にものすごくたくさんの人が来てくれて。シンポジウムをやったら、やっぱり大変な数の人が来てくれて。ということはみんな飢えていたんでしょうね。というのは、80年代はすでに絵画が復活していたとはいうものの、何て言うのかな、最初の担い手が女性群で、女性が悪いっていうんじゃないですけども、かなり時代の風潮の中で何となく担がれた感じで、もう少し幅を持って絵画のことを見たい、考えたいという気風が段々増えてきた時で、タイミングが良かったんじゃないかな。

暮沢:わりと最近、2、3年前だと思うんですが、多摩センターの「四批評の交差」とか。

峯村:ありがとうございます。よく覚えていてくださいまして。

暮沢:あれはどうですか。多摩美の催しだと思うんですが。

峯村:学校じゃなくてね、私と私の友人たちですね。学校はあれをやるようにそそのかすわけでは毛頭なくて。
これは、おもしろいきっかけがあったんです。あの催しの数年前から椹木(野衣)君が多摩美に来るようになっていたんだけども、なかなか交流がない。彼は共通教育学科というところに入って、本江君とは同じ科なんだけど、あの二人は合わないよね。だから特に積極的に話し合うというのがなかったのと、大学ってのは結構忙しくて、行けば講義とか何かで、ちょっとすれ違うくらいが普通なんですよね。私と建畠(晢)君は、同じ芸術学科にいたけども、そんなに議論を深くするということもない。議論を深くするには真剣に何かをぶつけないといけないわけですよね。
そしたらある時にね、誰かの退職記念パーティかなにかがあって、椹木君のいた科の先生が辞めた時かな、たまたま私がそこに顔出して話していたら、「椹木君が多摩美に来たんだけど、どうもみなさんと接触がないのはもったいない、せっかくいるのに残念だ」と。「何かやりたいんだけど、やっぱり立場上、峯村先生が声をかけてくれるといいなあ」なんて言われてね。僕もその時は「うん、そうだねえ」なんて言って。大学にしゃれたラウンジでもあると、そこで一杯飲みながらってこともできて、その程度のことで始めようかなと思っていたんですが、そういう場所もない。そもそも暇がないのね、みんな会うなんてことはまず不可能なんです。
そうこうしているうちに、大学が購入した美術館がありましてね、その生かし方とか運営の委員会ってのがあって、私もそこに顔を出してたんだけども、放っておくと現代美術とか、今の世の中にある動きをうまく取り込んだ催しを美術館の人は誰もやってくれないわけですね。我々の中の誰かが、声を上げて企画を立ててやる必要があるという時に、じゃあ私がやりましょうかと言って、それで企画した。その時に思いついたのが、椹木君が言っていた言葉で、「批評家同士で馴れ合いでやるんじゃなくて、ちゃんとした会話が成り立つようなことをやってみたい」というのを思い出しましてね。それで4人の批評家で。名前は、随分みんなで「ああでもない、こうでもない」って言って、「交差」がいいなと。和合じゃないしね、喧嘩というのも悪いし。交差で行こうというので交差と。

暮沢:四批評の方って、あとの3人は建畠さん、本江さん、椹木さんですね。

峯村:ぶっちゃけた話を言うと、多摩美の中でも二部ってのがあったんですね。今は造形表現学部っていう言い方をしています。上野毛の方が本拠地になっていた。そこに、米倉守が、朝日新聞辞めた人が来てたんですよ。だけど誰も彼と親しい人がいないんですね。親しいどころか、いや我々の仲間とはちょっと思い難いと。私は彼とはそれほど年が違ってるわけでもないのと、昔新聞社に籍を置いたということで、そんなに毛嫌いしていたわけじゃなかったんですけどね。みんな一緒にやりたくないようだったんで。それで4人でしたんですね。
椹木君は本江君たちとは真正面からぶつかるだろうけども、それはそれでいいんですよね。ぶつかってもそういうのと別のところでそれぞれ敬意を表することができるのであればね。わりと予算がないところで、カタログもひどいものを作られちゃって、その点非常に残念なところもあったけども、珍しい展覧会ができたなと思ってるんです。私はその時、私が担当した部屋には黒川弘毅君と、絵画は児玉靖枝さんを入れてね。まあ、それぞれ特色のあることをやっていましたね。

暮沢:堀浩哉が出てて、あのときは、学生にパフォーマンスをさせているのが出てましたね。聞いたら、みんな入ったばかりの1年生で、絵を描きたくて入学したのに、入学した途端、変な黒い衣装を着せられて顔を真っ白にペイントされて、パフォーマンスさせられて。どんな気分なんだろうなと思って。

峯村:僕はね、堀浩哉をもし使いたいなら、どうして絵を出さないかなと思ったんだけど、椹木君に言わせると、僕(椹木)が絵を出してもらったらおかしいでしょうって。そんな自分の看板に傷つくと思ったのかな。

暮沢:今までシミュレーショニズムをやっていたから、オーソドックスな研究をやったりしたら、かえって何か看板倒れになるってのもあったかもしれませんけど。今、多摩美のお話が出たところで、次のお話を伺いたいのですが、1979年に多摩美に入られた話は先週出てきたんですけども、一番最初は非常勤で始められたのでしたっけ、一年だけ。

峯村:うん、一年だけ非常勤でね。

暮沢:差し障りなければ、多摩美に着任された経緯とか、例えば誰かに呼んでもらったとかいうのがあれば。

峯村:ああいうのは分からないですよね。(大学に)入っていって、よく東野さんは、「俺じゃないよ」ってとぼけた顔して。東野さんは積極的に僕を呼んだんじゃないと言うけど、東野さんにむしろ対抗馬をぶつけたいという連中が画策した形跡があると(思った)。東野さんはみんなに愛されてましたけどね、ただ東野一人じゃなあというところがあって。
それともうひとつは、私がフランス語使いだと思われていたところがあって。実際僕はもうフランス語なんかとっくに忘れてて、外国語なんか全然やりたくなかったんだけれども、ただまあ一応仏文出ですからね、現代美術の専門で、東野さんと同じように評論をやっていて、それでなおかつフランス語も教えてくれたら一番いいというので呼んでくれたみたいですね。

暮沢:じゃフランス語の語学の授業も担当されていたんですか。

峯村:4~5年はやったように思いますよ。だけどつくづく嫌んなっちゃってやめたんで。そのときあてにしていた先生から嘆かれましたけどね。

暮沢:その時(着任時)には芸術学科ってのは存在していませんでしたよね。

峯村:まだですね。

暮沢:そしたらどこに。

峯村:えーっと、のちに芸術学科と言いますけど、その時はただ学科という変な名前だったんですね。教養的な講義を担当する人たちを集めた科だったわけですね。教師の溜まり場、飯場みたいなもんですね。

暮沢:間もなく1981年でしたっけ、芸術学科が設立されたのは。

峯村:そうですね。

暮沢:じゃあ移籍される形ですか。

峯村:東野さんが中心になってその構想を立てたんですよね。私はどうもそういうことって得手じゃないから。誘われてみんなで相談しようよと言われて飲みに行くんだけども、なんかみんな好きだなーと。私は大学のことってそんなに興味ないんですよね。だから芸術学科って、そんなに情熱を込めて作るに値するものかよく分からないままにね。

暮沢:どういう主旨のもとにとか。

峯村:主旨はよく分かるんですよ。それは東野さんがいつもよく言っていた。うまいキャッチフレーズがあったけど、今までの日本は作り手ばっかり育てて来たけれど、それは片手落ちじゃないかと。東野さんには前から観衆論っていうのがあって、観衆あっての芸術なのではないかという考えを持っていた。
特に学内政治からいうと、どうしてもアーティストばかりが中で大きな顔をして、集団的にもものすごい数ですからね。それはおもしろくないと。だから理論や歴史をやっている我々がちゃんと評価されるべきだという想いはあったと思うんですよね。それから実際、社会的に見て美術館が雨後のたけのこの如くできた時代でしょ、80年代通してね。実需があるように見えた。実際には寒い(笑)。作り手じゃなくて送り手、あるいは受け手。ないのはまずいじゃないかと。これはとても的確な状況認識だったと思いますね。恐らくよその大学が手がける前、最初に多摩美がそういう方向に踏み出したんじゃないかな。

暮沢:今だったら(東京)造形(大)、武蔵美……

峯村:ちょっと後ですよね。多摩美の芸術学科って、言葉が的確かどうか知らないけど、そうやって計画は非常にはっきり打ち出した。送り手を育てる、そして良き受け手、積極的な受け手をですね。

暮沢:芸学出身のアーティストの人もいますよね。

峯村:そこがおもしろいの。東野さんは評論家なわけだから、作り手を愛しているわけですよ。それともうひとつは、あの頃、学科というところには李禹煥と宇佐美圭司の二人のかなり力のある作り手がいたわけですね。手も立つ、弁も立つというこの二人を東野さんは非常に愛していて。新しいことをする時は、東野さんのいうことをよく聞いてくれるしね。アーティストだと逆らわないし。非常に個性の強い優れた知性の持ち主。彼らに入ってもらいたいと願い、それには送り手だけじゃなくて、作り手もいた方がいいと。それでこれからの芸術学科というのは片寄らないで、良き新タイプの作り手も養成すると。
これはちょっと欲張っちゃったんだね。最初はみんなすごい乗り気で、そういう方向で動いたんですけどね。いくらその二人が優秀でも、それで優れたものができるかと言えば、環境としてちょっとうまくなかったんですね。一番研ぎ澄ましたエッセンスだけがポンとあるけど、眼に見えない様々なものを醸し出してくれるものがないと、アーティストは育たないのだろうと思うのね。それでほぼ10年やってみて、東野さん自身がこれはまずかったっていうので、撤回することにしたんですね。やめることにした。

加治屋:スタディ系、プロデュース系、あとワーク系という言い方があったと思いますが、そのワーク系がなくなって。

峯村:そうですね。

暮沢:芸学には今でも海老塚(耕一)さんが専任教員として作家で唯一残ってらっしゃいますけど。

峯村:彼は、さっきも言ったように東野さんの助手みたいなことをしていて、非常に東野さんに可愛がられていてね。また、彼もとても良くできる人で、いろんなことができる。若いけれども、博覧強記という言葉はちょっと当てはまらないかも知れないけど、よく物事を知っているし、いろんなことに理解のある人物でね。作家ではあるけども、ただの作家というのとは違う。李禹煥、宇佐美圭司という人がいたとすると、それよりぐっと後輩というよりも、最初は学生だったわけですからね。でも、タイプとしては芸術学科にはいいということでやってもらっていたんでしょう。それで芸術学科からワークがなくなった後も、彼の存在はいろんな面で役に立つって言うと言い方が変だけど、有意義なんで。作家としているというよりも、作家的な質を持っている多芸の人と言ったらいいかな。もともと彼は建築科の出身なんですよね。ガウディなんかに夢中になっていた人で。芸術についても総合的な理解がある人だから、下手な評論家よりもかなりましというところがある、というより大いにましなところがあるんじゃないかな。
まあ今お話ししているのは学校のことで、私には関係ないですよ。私は大学のことはほとんどあまり何の足跡も残さず。

暮沢:でも27年。

峯村:いたみたいですね。

暮沢:毎日新聞が11年ですから、それよりもはるかに長かった。27年いらして、教育上、研究上で印象に残っている人がいたら。自分が目をつけていた人がいて、後になって結構出てきたとか、そういうケースがあったりしますよね。

峯村:あのね、教師をやっていて、自分では毎回同じような埒もないことを話しているつもりでも、学生は僕から聞いたことを良く覚えていますよね。そういう中からね、何人か後になって聞いてみると、かなり影響を受けたり、影響という言葉があてはまらなくても、芸術について何が重要かということについてのひとつの心構えみたいなものを言っておられたとか(言ってくる)、そういう人がいたと思います。アーティストとして活動するようになった人が何人か。
私は、実技の生徒は教えていないんだけども、4年になったときだけ、私のゼミを受講できるわけです。私だけじゃなくて他の人のもね。だからほんの一年の付き合いなんだけど、昔は非常に反応が良くて、そういう学生がよくきてくれたんだけど、だんだん世の中と私と合わなくなって、私がもう駄目な、世間と合わない存在になってくると、学生もよくしたもので、なかなか顔を出してくれなくなりますね。昔(大学に)行ったばかりの頃は結構いましたね。東野さんももちろん人気のある先生だったけれども、僕のところはまた違うタイプがきて。それは当たり前のことですよ、大学にいたんですから。それ以上の意味はないです。

暮沢:次の質問にいきます。美術評論家、批評家という肩書きで長いことお仕事をされてきたわけですけども、峯村さんの場合、フリーの評論家になられる前は毎日新聞に勤めてらした。前職と比較して、評論、批評に対してどのような感じをお持ちでしょうか。

峯村:まあ、自分で勝手にやってることなんですね。昔の新聞社にいたのは、これは大学を出てぶらぶら遊んで勝手に何か好きなことやってるほど恵まれた環境だったわけじゃないもんですから、就職ということがあって。別に新聞ということに強い関心があったわけじゃなくて、美術のことをやりたい、美術の学者にはなれないから、実践的に美術の勉強をしながら美術の展覧会をやるとか、そういうことをやりたいって(新聞社に)いただけなんで。
その後批評家として何かやろうというのは、批評家とか評論家とか、これは別に世間がそういうふうに眺めるからやっているだけで、私は美術に関わる文章書きだと(思っている)。今でもそうですけど、文章書くというのが一番私にとって重要なことで。苦しいこともある半面、書くことで発見があるわけですよね。ものを見たり読んだりすること以上に書くことが一番私にとって重要。それはもの書きみんなそうだと思います。絵描きだって人の絵を見て、自分で描くことが一つ一つものを理解し発見していく場だと思う。そのためにやってる。だから勝手に、自分が美術が好きで、芸術ってのは何なのか、人類にとって何だったのかを理解するためにやってる。それは、美術が好きだからそういうことができてるわけですが、それをやる前に、もともと文章を書くことが適していた場だからそれ(新聞社の勤務)をやってるんです。それが批評家という形をとる、どういう形をとるというのは、社会との関係でそういう形になってるわけで、名前は本当に(重要ではない)。若いときは批評家というのに多少憧れがありました。私の前にやってる先輩たちが格好良く見えた。だけど、格好良く見えなくなったらどうでもいい。

暮沢:それは御三家のことですか。

峯村:そうですね。それより前だって、大きなことを言えば、マルローが深く惚れた最初ですからね。あれほどの存在に自分をなぞらえようなんて、うぬぼれたことは考えないにしても、私を強く引き上げていく力にはなってるんですよ、最後までね。だから直接の批評家としての先輩がそんなに魅力を持てなくなっても、マルローは依然として私の中で強い存在であると。

暮沢:マルローのお話は先週も伺いましたけども、先週話しそびれたことは……

峯村:これは誰が聞いても分かるでしょう。強い魅力を持っているかってのは……

暮沢:御三家ですね。もちろん日本の美術評論には戦前の系譜もあるんですけど、峯村さんが直接接点があったのは、この御三家からだと思います。針生さん、東野さん、中原さんに対して、今までの質問の中で話題としては提示しているわけですけども、先輩批評家のこの三人をどう思うかということを改めて言っていただければ。

峯村:今までも断片的にぽつぽつしゃべっていたように思うんだけどね。それ以上にしゃべることあるかな。

暮沢:なければないでいいんですけども。

加治屋:針生さんとの接点はありましたか。

峯村:あまり強くはないんですが、笑い話だと思って聞いて下されば。私がはじめて針生さんという存在を知ったのは…… 就職が毎日新聞と決まったときに旅に出たという話をしましたね、ぐるぐると回って。奈良に吉野館がありましたよね。そこは有名な、傾きそうな木造の旅館で、美術史をやってる人が必ず行くところで、私もそこに行って泊めてもらってたんです。まあいきなり予約もなしに行ったんで、超満員なんですよね。人気があってね。時期がだいたい大学で休み時期でしょ、混むの当たり前ですよね。それで、おばさんが追い出さないわけですよ。押入れだってみんな一杯だったですよ。いやともかくどうしようもないというと、そしたら玄関入ったところに板の間がある。そんなところで良きゃいいけど寒いですよって。そこにせんべい布団を掛けてくれと(言って)。それしかないと思って。なんでもいですよって。それで泊まっていましたら、1960年3月20日から25日の間くらいですかね、真夜中に、こっちもうつらうつら眠りかけてたら、ドンドンって何か叩く人がいてね。一体なんだろう、こんな遅く一体何してる人かっておばさんが何か言いながら玄関に行ったら、むんずと入ってきて、ろくすっぽ声も掛けないで上がってきて、私のすぐ隣にバンとこの寝具をはいで寝た。翌日起きたらそれが針生一郎さんだった。

全員:ははは(笑)。

暮沢:会話されたんですか。

峯村:しませんよ。だって真夜中だったし。こんな時間に迷惑な奴が来たもんだ、誰だろうと思ったけども。

暮沢:あとになって針生さんにその話したんですか。

峯村:したかもしれないけど、しなかったかも。なんせ針生さんだから覚えていないでしょうね。全く笑い話ですよね。それだけのことなんですけどね。

暮沢:この三人には明確な違いがあります。針生さんは左翼で、社会思想というテーマを持っていて、東野さんは、ジャーナリスティックに軽快なフットワークでアメリカの現代美術を紹介されていた。

峯村:東野さんは、早い時期、本当に勢いがあって文章に魅力がありますよね。作家の持ち味や本質を実にズバリと。すごい慧眼ですね。三人ともそれぞれ優秀であることは間違いないんですが、この間東野さんの昔の文章を断片的にちらちらと見ていたら、やっぱりすぐれた批評眼の持ち主だったんだなと思わざるを得ない。ただ、批評の有り様とか芸術の有り様とか、全体を腰を落ち着けて考察し分析して、その先に論を進めてという作業が得手じゃなかったんですね。だから、その時その時にスパッとものを言うというのがなかなか格好良くて、本質を突いたようなところがあるってね。
でもまあ、やっぱり批評家だからね、自分のことを差し置いて偉そうなことは言えないけども、その程度ですね。そんなに強くは思わなかった。

暮沢:中原さんは物理学出身で、コンセプチュアリズムがお好きだった印象が強いんですが。

峯村:中原さんは物理学の出ではあるんですけども、芸術に対する感度の良さって相当のものがあるんですよね。ただ、彼の中でちょっと驕りがあったんじゃないかと思うのは、物理学者のような目で少し離れた高みから見下ろすとものがよく見えますよね。彼のような姿勢が一番うまく働いたのが60年代、一番混沌としていたときです。世の中が混沌としているときに冷静な態度とるのはすごく重要でしょう。それをやっているうちに彼はすっかり怠け者になっちゃったと思うんですね。だから全然作品を見て歩かなくなっちゃったし、もの派をきちっとキャッチできなかったのもこれのせいだと思うんですよね。高みから芸術固有の論理とかタームとかにわずらわされないで、より高次の概念をすっと動かすことでぱっと物事を掴んじゃうというのは、ある意味でずるいわけですね。
 私は、「学問的落差」とある人が言った言葉を使うんです。つまり、経済学の分野で経済学しか勉強しなかった人のところに、数学の方から来た人が対処すると、馬鹿みたいにしゃんとなるわけです。そういう学問のルールの落差があって、より原理的なところきちっと押さえていると強味があるわけですよね。それは確かにその通りで、その落差の上の方に立てたというのが彼の非常に大きな強みであると同時に、具体的な芸術の実質的な場面を押さえないままにしてしまう。そういうところが時として出る。その後の彼は、いい加減な人じゃないからちゃんと押さえるべきものを押さえてるはずだけど、僕からするとちょっとおざなりにしちゃったところがあるんじゃないかなという気がしてるんです。

暮沢:御三家と同じ頃に出て、ひょっとしたら彼ら以上に影響力があったかもしれない宮川淳という人が1977年に亡くなられます。接点がなかったかもしれませんが。

峯村:ちょっとしかなかったですね。

暮沢:人となりや書かれたものについてどういう印象をお持ちですか。

峯村:格好いいけどいやらしいね。

暮沢:もう少し具体的に。

峯村:文体が好きじゃないですね。この間、僕は三木富雄論の序章を書くために、60年代半ばまでのいろんなものを読んで。宮川さんのあの時期のはまさに始まった初期の文章だけど、読んでみると、非常に犀利な批評のようだけどもやっぱり抜けてるんですね。肝心なところがストンと。その頃の彼は、目の前のたんこぶだった御三家ね、あれをやっつけることに急ぎすぎたこともあってか、非常に喧嘩を売ってた的な、だけど、喧嘩の売り方がやっぱり好きじゃない。率直さがないんですよね。格好つけた文章ばかりで。
だけど、一番僕が文章に疑問を思ったのは、もうその頃から彼はフランスを中心に外国の批評家の論理を引用するわけですよね。ところが肝心なところで引用をしきれてない、モーリス・ブランショのあの……

暮沢:「見ることの不可能性」でしたっけ。

峯村:それはもちろん、彼は非常に書いているんだけどね、作品ということについての理解が全然ないんですね。ブランショは、私からすればかなりはっきり共感のできることを打ち出している。同じ文献を読んでいるはずだと思うんだけど。読んでないことはないと思うんですけども、表現論にとどまっているんですよね。表現のレヴェルから表現論のレヴェルへという主張からして、私からすれば、古い轍に嵌って全然突破できてないって印象を持ったんですね。それで非常に疑問に思いました。
それと、その後の方のもの、彼がその後、構造主義から脱構造主義までいろいろ影響を受けて書いたりして、それもすごく読んでるわけじゃないけど、前に読んだときはこれは違うなあという感じでね。賛成できないと。

暮沢:マルローに心酔していた峯村さんと逆に、彼はマルローが嫌いだった人だから、そういったメンタリティのレヴェルで影響しているかもしれないですけど。

峯村:どこが嫌いなのかよく分かりませんけどね。マルローは行動の人だったでしょう。そういうところではなから嫌いだったのかとすればこれは論外だし。

暮沢:サルトルもあまり好きじゃなかった。

峯村:それは僕も嫌い。好きじゃないですね。

暮沢:そういったことが影響しているのかもしれないですね。

峯村:そうね。

暮沢:今まで伺ってきたのは、峯村さんの先輩にあたる人たちのことでしたが、これから、同時代であった人について伺います。やっぱり真っ先に出てくるのが、これまで名前が出てきた藤枝晃雄さんです。年齢が同じですが、立場が明確に違います。雑誌の対談や座談会で何度も同席されていますよね。70年代の頃から、そのたびにお互いの大きさを感じることが多かったと思うんですが、同世代の批評家として、藤枝さんのお仕事に対してどのような……

峯村:いやあ、今それを言われてもね。それほどそのことを考えてないし。ただ、世間で思ってるほど仲が悪いわけじゃないんで。私はそれほどでもないけど、彼は人のことをやっつけるのが何故か好きな人で、やっつければ誰だってそれは愉快ではないというぐらいの行き違いはありますけども。
私は人の作品を見るのが好きだし、人よりも文章なんですよね。だから中原佑介の文章だって独特で、時間とともにだんだんだれた文章になったけども、昔はきりっとしていたし、東野さんだってはりのある素晴らしい文章だったし、藤枝君の文章も、人の悪口なんかを書くようになる前はやっぱり魅力のある文章で、好きなんですよ。ちょっと読みにくい文章だけど、独特の魅力があってね。

暮沢:瀧口修造とか宮川さんのああいう詩的な文章とは……

峯村:全く逆。(藤枝さんの文章には)独特の身体性があって僕は好きですね。宮川さんの文章の詩的な性格が、僕が詩が嫌いだという根拠になるような。あの気取りの文章って嫌いなんですよ。瀧口さんの文章も詩人的であるところが嫌だけども、もっと平明に書いたものは結構読めるわけで。大体私は詩人が苦手なんです。岡田隆彦が好きでなかったのもそう。
藤枝の文章は、平明な文章じゃないですけどね、何かちょっと分からないような妙な硬い語り口もあるけど、魅力があるんですよ。それで、それなりにいいことを言っていると思うのはいくらでもありますから。まあ、ある時期は闘争というより喧嘩腰で何かやっていたところがあっても、そんなものを私は全然忘れているというか、あまり言わない。それほどのことはない。

暮沢:藤枝さんは明確にフォーマリズムという立場を打ち出しています。

峯村:そういう点でいうと、私には何の刺激も与えない。私があと余生いくばくか、その間に何か考えて何かやっておこうと思った場合に、何の参考にもならない。

暮沢:フォーマリズムの人たちにはそういうお考えをお持ちなんですね。

峯村:フォーマリズムというのは大切なことですよ。

暮沢:ええ。

峯村:その点で藤枝君はしかるべき一貫した姿勢を示したことには敬意を評するけども、私が平行主義ということで考える形式とかジャンルとかいうのは、ゆえなくしてできたものではないし、それをもう一度想起しようというときに、それはアメリカで純粋に追求されたフォーマリズムとはおのずから性質の違うものになります。だから、藤枝さんと同じ世代だからって話題にされても困ってしまう。

暮沢:先週に話されたとき、同じ年の作家が幾人か出てきましたけど、同じような意味で、全く同い年じゃなくてもいいんですが、同世代と意識するような人で、藤枝さん以外で誰かいらっしゃいますか。

峯村:いないんじゃないかな。ただ岡田君は……

暮沢:岡田隆彦さん。

峯村:2、3つ下ですね。興味がなかったけど。それから中村……

暮沢:中村英樹さん。

峯村:近いですね。真面目な方だけど、やっぱり文章が好きでないと私は駄目なんで、あまり興味ないんですよ。それより昨日の夕刊で読んだけど、小川洋子さんって小説家がいますよね。小説も好きだけど、あの人が今毎日新聞で月にいっぺんずつエッセイを書いてるんだけど、毎回可笑しいですね。私はまだちゃんと言い尽くしてないんだけど、ちょうど私がシステムということで書いてることを、実に平明に、彼女の体験に根ざしたところで書いていて、素晴らしいと思いました。私はそういうことが一番の興味の対象なので、美術評論の同業者の参考になるものほとんどない。
ただ、私はやっぱり後学ですからね。藤枝君は何年か前から専門で勉強していた人だし、そういう人たちから――知識なんて後からでもいくらでも入るけれども――その時その時で、何か教示されたり、私の先輩の御三家のものを読んだりして、その限りでは、みんな学を授かっているんで敬意は評しますけどね。今一番強く私の心を領しているものはそんなものではないですね。

暮沢:引き続きで恐縮なんですが、自分より若い世代の批評家の仕事はどうでしょうか。もの派の話で千葉(成夫)さんが出てきました。他にも椹木さんとか……

峯村:千葉さんはね、僕は最初は一番注目したんですよ。非常に勇気を持って日本の文脈に沿ってものを考えようといって実践を始めた人ですね。私はその限りでは非常に期待したんですけれども、どうもあの人の言うことがあまりにも突拍子もなくて。僕に言わせると、彼は西洋批判をやってるのだけれども、反対に彼があまりにも西洋の考え方に強く呪縛されているんじゃないかと思って。芸術・美術とかっていう観念、あるいは彫刻とか絵画とかそういうものはみんな、明治になってから始まったものだとかね。日本は彫刻というものがなかったみたいなね。一種の形式主義者なのかなと思うんですよね。彫刻という言葉は無かった、絵画だって明治以後です。言葉は見当たらないんですけども、実質はあったわけですね。ありすぎるくらい、日本の中に。絵画大国だった。彫刻は決してヨーロッパほどはないけども、仏像はれっきとした立派な彫刻なんですよ。芸術が姿を現して発現する仕方、現れる仕方というのは実に様々な形をとりうるわけですね。つまり本質ってのはどこに宿ってるかが大事で、形は色々取れる。それを西洋的な姿をとって出てないと、日本では彫刻はなかったというんじゃ、これは困るんですね。
そんな認識を根っこにして、日本には本来そういうようなものは身につかないから、60年代にどうしてあんなネオダダ的な反芸術がでてきたか、これはようするに西洋風のこの形式というのが合わないから、それで逸脱せざるを得ない。逸脱こそが日本人の体質なり、テンペラメントなり、考え方なりに合っている。そうせざるをえなかったと。だけどこれは暴論だと思うんですよね。それはなんか粗暴なことをやった犯罪者に対して珍妙なところで動機付けをして認めちゃっているような感じでね。だから、そういう点でちょっと彼のこと、残念に思っているんですけどね。

暮沢:他に戦後生まれの評論家だと椹木さんがいます。

峯村:椹木君の文章の中でうまくはまったものは実におもしろいし、読めると思います。ただ基本的に彼の芸術に対する姿勢ってのはどっかで捻じ曲がっちゃっていると思うので、これは困ったことだなあと思うんですね。だから全体としては評論家としてはまずいけど、でもだからといって全てを否定するのではなく、おもしろいのはね。彼の『現代・日本・美術』。もの派批評史のときに、彼のもの派論を改めて読んだら卓抜ですね。強引なまでに。ようするにあの人、作品を見ない人だからね。菅木志雄の言葉だけたぐりよせていくんだけど、あれよあれよという間に独特の言葉で空間を作っちゃうんですよね。それをおもしろいという私は彼にだまされているだけなのかもしれないけども。まあだましてくれるってのは大変な技術だなと。

暮沢:椹木さんも一時期は多摩美の同僚でしたね。同僚だった人に建畠さん、本江邦夫さんなんかも。

峯村:まあね。生臭くてねえ、近くて。しゃべらないほうがいいんじゃないかな。でも二人とも基本的に美術館出身の人ですよね。それだけではないけども。優れた人たちだな、くらいでいいんじゃないですか。

暮沢:こちらに先ほど話していた『彫刻の呼び声』の現物はありますか。

峯村:いや、あるはずですよ。何冊か置いてあるはずなんだけど、どこいっちゃったかな。

暮沢:2005年に『彫刻の呼び声』を出版されたんですけど、内容に関しては先ほど出ましたんで、出版の経緯について教えて下さい。

峯村:いきさつっていうと何なのかな。

加治屋:何でこのタイミングでこの著書を出そうと思われたのかというところをお聞かせ願えればと。

峯村:特別の事情があるとは思えないんだけども。ようするに私は自分の本を出してくれるところが欲しいんだけども、出してくれるところがない、というほどにはちゃんと運動してこなかった。自分で怠けていたので、人のせいにはできませんけどもね。
書き下ろしのものを書くというのは、ちょうど大学辞めてから、いよいよ人生残り少ないから本気でやらなきゃってんで、今やり始めているところですけどね。その前に今まで書いたものの中から、優先順位をつけてまとめたいという気はあったんですよね。それでもの派について書いてきたものだけでも出したら、潜在的な読者は多いだろうからね、多くの人に薦められるし、自分もそうかなあと思うんだけども、ずっとここでお話してきたように、もの派のことってのは、もの派の人々にとっては重要だけど、私にとってもの派がそんなに重要であるかというと、疑問だらけですね。自分にとって重要で社会的にはあまり喜ばれないかもしれないけども、そっちの方が先じゃないかと思いましてね。何か人々は絵画論が欲しい、絵画論をまとめて欲しいっていうのがあるんですよ。ただね、絵画論っていうのは難しいんでね。絵画についての理解、私はそれを今、情調論っていう考え方で、絵画の方に入っていく道筋をつけようとしているんですけども。実際にはそんな簡単じゃないから、時間がかかります。それで彫刻はどうかと思ったら、彫刻はさっきお話したようなわけで、この本がまとまるしばらく前にちょうどこれの最後のところに入れた文章を書いていたところで、割合に長いこと彫刻につきあってきたなあと。それでそれなりに思いは晴らしたかなという気持ちになっていたものですからね。そうだ、じゃあ彫刻でまとめておきたいと思って。
昔から書いたものといってもさっきお話したように、私が彫刻の方に深入りしたのは70年代半ば過ぎなんですよね。その頃から刺激をいろいろ受けて、実際に彫刻について書き始めたのは78年か79年だった思う。作家論の形でシリーズで書いたのもあるけど、彫刻ということがどういうことなのかを探求するというような、現代彫刻とは何かという連載を割りと早いときにやったりして。その後、意識的に彫刻論を展開しようとしないまでも、ぽつりぽつり書くことがあって。それをとにかく集めていたんですね。そして読んだら何か悲しいようなうれしいような。つまりほぼ25年、四半世紀にわたっている文章があんまり変化ないんですね。それは一番最後に書いた文章で言っているようなことは、一番最初の文章ではまだ言っていなかったかもしれないけど、逆にいえば最初に書いた文章にはそれなりに意見があっておもしろい。それで姿勢としてはあまり変わりないんですよね。まあ、人は慰め顔に、これはぶれてないからいいって言うんだけども、まあ私なりに自己批判すればあまり前進、進歩もしなかったかなと思って。
でも考えてみれば私、進歩主義っての否定しているんですよね(笑)。そんなに前進できるわけはないですよね。ただ私の理解がもっと途方も無く深いところまで行くかと思ったら、まあ今書いたくらいが私の限界かなあと思うんでね。本としてまとめるには、非常にそういう点でやりやすかったですね。あんまり考え方が飛んでいるとなんか変なもんでしょ。だから時間的な厚みをおきながら、少し整理を手伝ってくれた人の意見を聞いて、順序を変えたところもありますけど、大体年代を追ってまとめたんですね。それをやろうとしていたら、ちょうど退職の時期にあったんですね。

暮沢:そういうタイミングで踏ん切りがついたのかなという感じで。

峯村:なんつーかね、怠けものなわけですからね。もっと早く出すなら出すで、努力しなくちゃいけなかったのが、退職近くなってきたら、これはなんかもう後は書くことしかないと。その新しいことを書く前にまとめるべきものをまとめなきゃという点ではきっかけになったというかな。
それでありがたいことに、これは大学から補助金が出たんですよ。これのためというよりは、これは理事長に叱られるかな、退職する教師があそこの学内で自由に展覧会をやってよろしいと(いう習わしがあった)。そのときはカタログ制作かなんかでも使っていいんですけどね、補助金が出ることをやっていたんですよ。ところが理論の方で定年までいて辞めたときに何かそういうことをやりたいという人が、今まではいなかったわけはないんだろうけど、みなさん遠慮の美徳というか、そういうものに使った形跡がないみたいで。私はそれは妙でしょ、と。辞めるのはみんな同じなんだから我輩にも出してくれませんかと言ったら、そうだなあ、出さない理由はないなあといって。それで出してもらった。これは出版社に持っていっても、売れないことは目に見えていますから、普通には引き受けてくれない。その補助金のおかげで助かった。

暮沢:実質的には出版助成になったと。

峯村:はい。

暮沢:いろいろ出版社がある中で水声社から出されたのはどういう。

峯村:あとがきにもちょこっと書きましたけども、前の水声社の出版担当をしていた賀内(麻由子)さんという担当者が、この出版社で高松次郎の(本を出した)。二冊まとまったそれがすごい気に入ったんですね。装丁とそれからとにかく文字を端折らないでちゃんと入れているその姿勢が良くって。それからやっぱりその文章をつづった人に対する敬意が感じられるような。つまり編集者や出版社が高みに立って操作しているっていうような、デザインもどうでもいいような線を無理に入れたり、字をやたら小さくするとか配列を特殊なものにするとかそういういやらしさがなくてね。これはいい本だなと。

暮沢:ほとんど無地なデザインですね。これは峯村さんのご希望ですか。

峯村:これは割合気にいっていますけどね。そのときに水声社の彼女がやってくれたってことで。まだそのときは彫刻にするかどうかって考えていなかったんだけども、お願いしようと思っていたんですね。高松の本をデザインしたのがそこに書いてありますけどね、有名なデザイナーの。菊池信義さんね。私は全然知り合いじゃなかったんですよね。ただ彼がデザインして。本当にデザインがいいなと。それとたまたまですけど、菊池さんは平出隆さんと親しくてね。彼の熱心な薦めがあって、私のいた多摩美の芸術学科に客員教授かなんかで来ていただいた。それでも私はお会いしたことなかったですけどね。とにかくそういうことで私は縁がないわけじゃない。ただなかなか引き受けない人だと聞いていたから、でもまあ一応頼んでみようと思って出版社を通してしたんですね。そしたら私が70年代から評論を始めていますね。その頃彼は学生で、その頃の文章も結構読んでいたらしくて、もの派についても結構関心があったんだそうです。彼は全部原稿を読んで、それでやるかやらないかを決めるし、それで装丁を考案するという当たり前といえば当たり前だけどそういうやり方していて、はあ、こういうことなんですかって。つまり今まで頭の中にあったもの派についての理解が随分変更させられたのかな。それで割と乗ってくれて仕事をやってくれた。
ただこれね、菊池さんが大変意気込んでやってくれましてね。こういう風に半掛けずつで、妙な装丁なんですよね、こっちから見てもそっちから見ても見える普通の装丁とは違いますよね。でも色合いは私の注文です。こういう銀白色が欲しいというので。文字並びとかはすべて菊池さんに全てお願いしましたけどね。それから中にこれ(扉の2頁後にある長沢英俊《オフィールの金》(1971/1993年)の作品図版)を象徴的にひとつ入れたいと。でもこれの位置づけ、ページの中にどう配するか、これは菊池さんの案だけど、実にこちらの気持ちが全部ぴたって分かって。この先が彫刻を私が学んでいくのに大きな導きになった長沢英俊の作品ですけど、これも長沢英俊に見せたらもう文句ない、ぴったりだということでね。非常にきりっとして仕立ててくれた。ただ最近本屋に行くと全然違う人の本がそっくりの装丁であるんだな。あれ、菊池さんかなと思って見ると違うんですね。

暮沢:美術書ですか?

峯村:美術書で。だから、随分簡単にアイデアを盗用しちゃうんだなあと思って。

暮沢:今まで、文章を書くのが一番好きだとおっしゃっていました。実際、今まで膨大の量の文章があるんですが。著書という形でまとまったのはこれが一番最初ですよね。ここに編書は何冊かあるけど、これは意外です。峯村さんほどのキャリアの持ち主がまだ著書を持たれていなかったっていうのが、ひとつ意外な印象がありまして。当然今まで出版されるチャンスとかオファーとかもあったと思いますし、一方で本を出さないので、何で峯村は本を出さないんだと批判されたことあると思うんですけども。

峯村:批判っていうか、何やっているんだということはありますよね。昔は東野さんに散々揶揄されましてね。愛情のある言い方で。「お前気取ってないで出せよ、本出さない批評家ってのも格好いいけどな、でもあんまりそんな格好つけるんじゃないよ」とか言っていたりね。私、別に格好つけているわけじゃなくて、なんていうか、ようするにまとまらなかったわけですね。それとね、強く考えていたのは、本は書き下ろしじゃないと本じゃないと(思っていた)。これは今どき通用しない観念だと(思う)。実際には評論集って、そんなに書き下ろしを書くもんじゃないから多くの人がアンソロジーですよね。アンソロジーというほどじゃなくても、いくつかの文章をまとめて出すんですが、何かそれは本当の姿じゃないと勝手に思っていて。それで書き下ろしで書くまで待とうという気がなかったことはないんですね。ただ、結局かき集めなんですよ。

暮沢:先ほどおっしゃっていましたけど、大学を辞めて、これから書き下ろしをやるというお考えなんですね。

峯村:そういうことですね。あんまり力のない人間だから時間のうまい使い方ができなくて、大学にそれほど精魂打ち込んでいたなんてとてもいえない悪い教師であったのにもかかわらず、どうも本腰を入れて文章書きに全て投入というわけにはいかなかった。忙しい時って。昔まあこれでも多少は売れていた時がある。売れているといってもその時その時の文章を書いてそれでほとんどの時間を費やしちゃった。

暮沢:先ほどちらっとお話になった書き下ろしというのはどういったテーマでお考えですか。

峯村:出してもらえるのか知らないですけど、今、序章だけ書いて、来年中には何とか全部書き上げなければと思っているのが三木富雄ですね。

暮沢:(序章というのは)この間の『引込線』の(カタログに掲載されていた論考ですね)。

峯村:そうですね。ただ三木富雄に集中したものになると思いますけど、作品とは何かとか、恐らく私の芸術観を表明するような文章になると思いますが、筋は三木富雄で通そうと。
だけど、これは彫刻でしょ。彫刻は一応彫刻論出したから。でもあと元気が良ければね、メダルド・ロッソは書きたいんですよね。外国のものとしてね。国内のものでは長沢英俊は元気でいるので書き難いっていうか、この先何が出てくるのか分からないから書き難い。昔、水戸芸術館の時に長い80枚くらいの原稿を書いたんだけども、本当は全部見たのを書きたい。彫刻はそれくらいでいいと思っているんです。
でも絵画を書かないとどうもまずいというので。絵画論という形では死ぬまで書かないかなあ。だから作家を取り上げながら、作家論のような体裁をとりながら絵画に迫っていくと。で、今、個別には本当に元気でいたら、本当の余興でピエロ・デッラ・フランチェスカを書きたいんです。これ資料はものすごく買い込んでいる。これは死ぬ間際です、書ければね。
その前に元気があるうちにもっと早く、三木論の次に取り組みたいのが、情調とイデアという私のテーマ、それを絵画論の一環として書きたいですね。とりわけ情調という考え方が絵画にとって根幹になると思っているので。そうすると具体的には与謝蕪村を今研究中。今年の初め頃から取り組んで、かなりまあ、取り組んでいるんですが、いま三木の方が出てきちゃって。蕪村はあくまでひとつの重要な導入。つまり現代日本の画家で私にそういった、それだけ取り組ませてくれるほど本格的な魅力のある画家がちょっといないですから。現代ってそんなに豊かな時代じゃないから、いくつか取りあわさないとならないです。その時にやっぱり過去に目を向けたいですよ、近代以前にね。近代以前だけど堂々たる絵画の王道を歩んだ人ですので、好きな画家他にもいるけど、蕪村が一番。
あとアメリカの画家も扱いたいけど、それほど魅力あるのはいないね。モーリス・ルイス…… アメリカの文明の形態が嫌いなんですね。ところが芸術家はしばしば己の住んでいる文明に逆らいますからね、だからそんなに単純にアメリカ嫌いをそのままアメリカ美術嫌いにスライドさせるということはしませんけどね。
それから私に一番その情調という考え方を、言葉ぐるみで示唆してくれた最初の人がジョルジョ・デ・キリコなんですよね。彼の絵が情調の絵画の典型ということではないんですが、ジョルジョ・デ・キリコの考え方に、情調に対する強い憧れがあって。それは彼が実際に描いたものと完全に一致はしてないんです。むしろ違う要素を持っていながら、なおかつ情調ということが非常に大切だということを言っていた人でね。私は高等学校のときから私の絵画好きの一番の発端になっているのがジョルジョ・デ・キリコの絵を知ったことなんですよね。だからジョルジョ・デ・キリコも取り込みながら、あんまり裾野を広げていると力が及ばないから、少なくとも三人くらいは取り上げないといけないかなあと。

暮沢:でもそれだけあると、幸せな余生だという気もしますけど。それだけの計画があれば。

峯村:はい、それできたらね。

暮沢:質問事項にありますが、今はキュレーターの時代ということで、美術業界の中心にキュレーターの存在が強くあります。先ほども言っていたように批評家の力が弱まっているというか、評論家がやるような仕事まで、今はキュレーターがやるようになった時代になっていますよね。先ほど、戦後日本の美術の系譜ということで先輩の御三家の辺りから始まって、峯村さんや藤枝さんらの戦国時代、そういう系譜の描き方をすると多分椹木さんのあたりで恐らく止まってしまって、その後の展開がほとんどない状態なんですよね。

峯村:あなた自分が評論家のくせに何言っているの。

暮沢:「『日本・現代・美術』の後で日本の批評は言葉を失った」とお書きになられていましたね。これはいくつか理由があると思いますが、批評の退潮と言ってよいかと思うんですけども、そうしたことに対してどのようにお考えですか。

峯村:キュレーターの時代っていうのは、私は俗な言い方だと思っていますけどね。俗な言い方なりの立ってる所もあると同時に、あんまりたいした意味があるのではないというような気もあるんですね。というのは、芸術の姿ってうわっぺりのところで非常に変化しているように見えるけども、本当の実体はそんなに揺るがないはずだと信じているんですよね。ただ、今実際に見ると、ビエンナーレとかトリエンナーレとか、そういう場で大切にされてるものって、私から見れば、「美術風」なんですよ。美術じゃない。これはちょうど私が彫刻について、類彫刻という変な言葉使ったのにあやかると、美術に似ているんだけど美術プロパーではないと。
20世紀以上に21世紀もそれに席巻されることは間違いないと思うけど、そっちの方に全部行っちゃうという進化論的な方向付けがあるわけじゃないと思ってるんですね。というのは人間の知覚の構造は、人間が変わらない以上いくら社会的な構造や生産諸関係が変化しても、根本から変わってしまうことはないんで、その周辺で様々なことが考えられているんですね。ようするに経済的に言えばデリバティブの時代。実体の方も満杯というか、あきらかな派生芸術ですね。派生的な方で工夫が凝らされていくとそこでどんどん元気が出てきて、人が集まり金が集まりそこで膨大な利益が上がる。だけど、バブルの時はデリバティブというのは大いに活動するけれども、それがそのまま行くってことはまず考えられないですね。まず人間が飯を食って生存を続けなければならないということが根幹にある以上、金融工学だけで経済が成り立つわけがない。
同じように、人がものを作り、作品という概念が滅びない限りは、美術が今のような状態でいくことはないと思っているんですね。これからしばらく美術は時代をしのいでいかざるを得ないと思う。そのしのぎの技術をどうやるかだと思っているんですよ。で、実際には優れたアーティスト、私の思うところの優れたアーティストはいくらでもいっぱいいるんですよ。今でも若い人でもね。ただ彼ら我慢しちゃっているの。だまっちゃっているの。というのは批評家ってのは、みんな色めき立っちゃって、ビエンナーレなんか行くとね、なんでこんなのっていうのしか見当たらないという場合でも、ジャーナリズムはにぎやかな方が話題になりますから、どうしてもそっちの方へ目が行きますよね。批評の方もそれで滅びることはない。芸術家もちゃんといる。
そして、同じようにして評論家とか批評家っていうのが必要とされるかはちょっと分からないところがあります。というのは他の外部の人がそれを全部引き受けて、いい形でやってくれれば、いわゆる評論家ってのはいらなくなると思うんだけど、評論家ってのは別に社会からあなたやりなさいって言われてやってるわけじゃないですよね。任命されたわけじゃなくて、勝手にやってるわけでね。勝手にやったときに、結局根本は今の時代どう見えるかという見取り図を示すのが評論家だとすれば、評論家よりも美術館の人のほうが活動力もあるし、いいかもしれない。ところがすぐれた芸術についての言葉を吐くやつが誰かとなったら評論家が書く。ようするに評論といい批評といい、書く言葉が根本だと思いますよね。それは勝手に書いているわけです。
さっきも言ったけど、昨日読んだ小川(洋子)さんが似たようなことを言っている。私も同じ考えを持っている人間なんですけどね。彼女はよくその偽医者とか盗作とかいう言葉を読むたびにどきっとするんです。というのは国家試験を受けて資格を取って書いているわけじゃなくて、勝手に書いているの。そうすると勝手に診療して結構いいお医者さんだと思われている人がいる。でもそれは偽だと言われるとやっぱりたじろいじゃう。ああやっぱり資格ないねと。小説なんか書いていると、そういうどこか根拠不安みたいなのがあって、それを抱えているんですよ。評論家というのは、根拠もなしに自分の想いだけで文章書きをやっている人間で、似たようなものがあると思う。だけど結局小川さんの小説を読む人がいてすごく心動かされる人がいるかぎり、どんなに資格なしで書いたって、成り立つわけですね。
批評の場合、そんなに人気ないけど、読む人いないかもしれないけど、批評家に対して実利的あるいは社会的な機能ばっかり要求する風潮があるからね。もっと単純に文章を読んでおもしろいかおもしろくないかというので、評論というのも読んでいただければ結構おもしろいと思うんですけどね。

暮沢:とはいえ、今は発表するにも美術雑誌がなくなってきていますね。

峯村:それは大きいですよ。だからどんな場所でもいいんですよ。文章を書く場所ってのはね。

暮沢:紙媒体だけじゃなくてブログのようなところにもできるかもしれない。

峯村:私の世代はブログに書けない世代なんでちょっと駄目かな。滅びの世代かな。

暮沢:いままで評論活動に関する話が中心だったんですが、それ以外のところでもお話を伺いたいのですが。峯村さんはいわゆる作品のコレクションをお持ちですよね。MTMコレクションっていうタイトルで。

峯村:作品は持っている。ただコレクションというのは、そういう言葉があるからそれを使わせてもらっているけども、コレクションというほど組織だったものじゃなくて。

加治屋:MTMコレクションと言うのは峯村先生の……

峯村:それはまた別と考えていただいて。

暮沢:MTMコレクションで展覧会を開かれたこともありますよね。

峯村:そうだっけな。後でその本あげますから。そこに書いた僕の文章を読んでいただくとうれしいですけども。コレクションってのは所有という形態ですよね。しかし所有ということに本当にそんな深い意味が、磐石な事実があるかというと、実はこれも根拠が薄いわけで。他の人はどうか知らないけど、私は作品が好きで持つんだけども、それを持っているけど自分に属していない、自分に属していないものを持っているんですね。で、あぶないんですよ、これは。先に足があって逃げていくわけじゃないけども、私とぴったり重なっていても私の支配下に入らない。支配下に入るような弱い作品なら魅力ないわけですね。自分に分からない、分からないけどすごい魅力がある、そういうものに取り憑かれているということ。ですから、本当は所有ということとちょっと違うものなんですよね。

暮沢:当然批評家として、この作品はいいとか悪いとか価値判断される契機が多々あるわけですけども。

峯村:批評家として買ったことは全くありません。

暮沢:ということはそういう価値判断は抜きに。

峯村:作品が欲しいと思うときは、批評家であるという意識は完全に飛んじゃいますね。つまんない話でしょ。だから作品を買うときにその作家を全面的に支持するから買っているというのと違うんだよね。作品は作品本位。いや批評するときも本当は作品本位。で、作家の方から見ていくということはしないですけども、ましてや作品欲しいなと思うときは、簡単に言っちゃうと駄々っ子になるんです。欲しいなと。

暮沢:それは理屈ぬきで瞬時にこれが欲しいなと思う。

峯村:それが一番純粋ですね。でもまあ人間ですから前があって、あの作家はいい作家でまだ一つも持っていない、そのうち一点いいものを買っておこうかな、と思ってアプローチすると良くない。まあこの程度ならいい作品、この作家の本質が現れているなんてことで買うと、深い満足はないですね。寄贈は受け入れないです。受けても全然好きじゃない。

加治屋:基本的には自らお選びになるんですね。

峯村:だって、これいいな、これ下さいとは言えないでしょ。で、はいあげますと言われてもねえ。作家が安いときにしか買えませんけども、そういうのでないと。つまり、作品との間に切り結ぶモメントがあるんですよ。戦うんですよね。戦いの証明としてやっぱりささやかでもお金出して犠牲を、血を流さないわけにはいかないですよね。
(壁に掛かって絵を指して)この絵はおもしろいです。たまたまこれが今あるから申し上げたんだけど、これは、ちょっと変わった経緯で。オーストラリアに調べごとで行った時に、シドニーの画廊に顔を出したんですね。そしたらその画廊は大きな画廊だったんですけどね。事務室に二点作品がたてかけてあって、大体これと同じくらいの大きさの絵を見て、ああいい絵だなあと思って。それで瞬間的に欲しくなったの。

暮沢:持ってくるのも大変ですけどね。

峯村:持ってくるのも大変かもしれないけど、旅先でいきなりぽんとお金はたくほど贅沢なことを僕はしたことがないし、その時は涙をこらえて我慢して帰ってきたんですけどね。でもその時に画廊で思わず口走っていたらしいです、いいなあいいなあと。それで作家がいないでしょ、画廊の人だけが聞いていたらしい。すっかり忘れた頃になって、東京のNICAFアートフェアがあって。NICAFに行こうとはそんなに思っていなかったんだけど、私を探している人がいるというわけね。オーストラリアから来た人で、誰かなあと思い出せないままに、NICAFの会場に行ったんですよ、見にね。そしたらオーストラリアから一軒だけその画廊が出店していて、この人の絵だけを出していたのね。その作家にその時初めて会った。作家が画廊のおっちゃんに頼まれて店番をやっていて、来ていた。
どうしてオーストラリアからその店がきて、あなただけが来ているのと聞いたら、実は峯村という批評家が来て、お前の絵がすごくいいと誉めていたと。だから日本に行ったら買ってくれる人がいるかもしれないと言われて来たって。びっくりしてね。それで彼、私に作品を売りつけようとしてきたわけではもちろんない。それでプレゼント。僕の作品を誉めてくれてうれしかったと。それでプレゼントであげるといって6号だったか4号だったかな、用意してくれてね。それで、いやあ、ただで貰うのはまずいですから、結構でございますって言ったんだけど、妙に熱心でね、いや、本当に上げたいんだと。そうですか、そうするとむらむらっと。本当にプレゼント用があったのよ、本当に。ところがこれっていうんじゃなくて自分で選びたいわけよ。出会いたいわけですよ。選んでいいですかって言ったら、その人は本当に仏みたいな人で、うん、いいですよって自分の好きなものをって言ってくれて。これの3分の1くらいの大きさの絵があって、それはプレゼント用に持ってきていた中で一番大きかったの。ずうずうしくもこれって言ったらどうぞ持っていってくれって言って。それは私が選んだんだから気に入ってるんだけど、ただでもらったっていうのはどうも気に食わなくてね。うれしかったけど。それでまた翌日か翌々日にまた出かけていって、ちゃんと展示してあるもっと大きなこれを買ったわけ。

暮沢:コレクターと評論家としてのバランスということでお伺いしますが、峯村さんは1997年にときわ画廊、2005年にギャラリーGANと、2回作品の発表をなさっていますよね。

峯村:いや、個展は2回ですけど、グループショーで制作して発表している。4回やってるかな。

暮沢:作品の制作を始めようというのはどういったことなんでしょうか。

峯村:それは難しいですね。というのは、いつというのを限定できないくらい、作品は作りたいですよ、ものを書くだけじゃなくて。ただ絵はね、子供の頃からそれなりにへただなと自分でも思うようになっていたし、年とるとね、それは何やっても文章以外は全部駄目でね、音楽は耳の構造がちょっと悪いみたいで諦めた。で、美術は好きではあったけども描くのはどうも絵がいまひとつ伸びない。だけど彫刻好きになったでしょ、やってるうちに自分なりの彫刻を作ってみたいなあと。ふつふつと出てきたんだけど、そんな何の教育も受けていませんしね、イロハが分からないからとまどいがある。ずっと続いていたんですけどね、とうとう我慢できなくなって。我慢できなくなったのは何故かと言われても答えようがないですね。噴出しちゃったんですね。
1997年が初個展ですね。で、その年の夏を全部使って汗みずくになってやりましたけどね。そしたらその後、糸をたぐるように機会が訪れて。前から懇意にしていた台湾の石の彫刻家がいたんですよ。それが別に来いと言ったわけじゃないんだけど、他の友人と連れ立って見に来てくれてね。で、見ながらニヤニヤしながら、「まあミスター峯村もうちょっと勉強しないといかんなあ」と率直に言ってくれたけどねえ。まあおもしろいと思ってくれたらしくてね。その人は石の彫刻家だから、彫刻っていうのは石が中核だと思っているんだよね。で、翌年中国の南部の桂林というところでね、場所自体が何しろ石の産地、石の絶景があるところですから、石を中心にした彫刻シンポジウムみたいなのがあって、そこに参加しないかと。作品が永久設置される大芸術庭園みたいなものができるという。その男も参加するからと言われてね。一人ぼっちで行くのは不安だったけど、技術的にも助けてもらえると思ったんで、ほいほいと行ったんですね。それで一ヶ月まるまるなんだけども私の場合は長引いて40日になっちゃって、巨大な彫刻をつくったんですね。それは今でも設置されているんですよ、あとで写真お見せしてもいいですけどね。
それで例えばその時にイタリアから来ていた、これは本当に大理石の鬼みたいな、ものすごい大理石扱いのうまい彫刻家がいて、これまた翌年だったかな、一年あいだがあったかな、イタリアでやる石のシンポジウムというかワークショップみたいなものに、僕が素人だとわかったうえでね、道具も貸すし、教えるから来ないかと言ってくれるから行ったんですよ。そこでやったのが外国で二度目ですね。
そしたらその次に、やっぱりその桂林の後で招かれて参加してきた人ですけども、インドのベナレス、今のヴァーラーナシーというところですね、ヴァーラーナシーにいる彫刻家で日本と縁があって多摩美術大学へ留学していた人でね、三度ばかり日本に来ていた人で私のことをよく知っていて、よくっていってもそんなに親しいわけじゃないけど、知っていた人でね。いつか僕に文章を書いてもらいたいと言っていた人なんだけど。その人がどういうことか、僕を呼んでくれたんですよ、また彫刻シンポジウムみたいなのにね。何人かの日本人が参加して、それとドイツからも。で、その時はじめて石じゃなくて別の素材でやって、一番ハッピーだったですね。

暮沢:どういう素材だったんですか?

峯村:何とも言いようがない、いろんなものを使ったから。でも、私はミクストメディアという考え方は嫌いですから、ごちゃごちゃ混ぜるということはしないで。後で本あげます。見てください。その後は成り行きですけど。去年だったかな、韓国であった日本芸術フェスティバルというのに呼ばれて、新作というよりも、前に作ってあったものを持って行って展示したんですね。

暮沢:今後も機会があれば、作品を発表していきたいというご意向ではあるんですよね。

峯村:ないことはない。

暮沢:先ほどのコレクターのときと同じ質問ですが、批評家としての自分と作家としての自分ってどこかで区別があるものなんですか。

峯村:区別を自分で作っているんじゃなくて、おのずから違いますね。作品を作っている時ってのは、もう全く批評的なマインドは完全にどっかにすっとんじゃっている。ま、それがあるからやりたいですね。全く同じかどうか分かりませんけど、批評家で絵を描いている松浦(寿夫)君が同じだろうと思います。彼、批評家がこんな絵を描いてといわれると頭にくるらしい。だって違う作業しているんだもの。で、私の最初の個展を見た人が、峯村があんな作品作っているっていうんじゃ、峯村にかつて評価された人がかわいそうだと言ったな。くだらない話ですよね。私は勝手にやっているんで、誰に迷惑もかけていない。ちゃんとお金かけてやっているんでね。

暮沢:いよいよラストも近くなるんですが、2006年に多摩美を退職されましたけど、いま美術館長って肩書きお持ちですよね。多摩美の。これはどういったお仕事なんですか。名誉職みたいなものですか。

峯村:そうですね、限りなく名誉職。

暮沢:見に行かれることは。

峯村:最低月に一遍は行きます。会議があったり、催しのときに館長がいないってのもまずいですしね。だから挨拶したり、乾杯の音頭をとったりしますしね。一番大きいのは運営委員会ってあるんですよ。何人か学内の人が参加する。私は教授の時から運営委員のひとりではあったんですけどね。それが館長に横滑りでなって。その運営委員会を主宰する立場。主宰とまではいかないまでも一応、主宰。美術館で何かを試みることができるほど恵まれた場所でもないですからね。私の中では、まあこれも社会との付き合いだと。

暮沢:大学を退職されて時間の余裕があると思うんですけども、展覧会を見て回る頻度は以前と比べてどうですか。

峯村:時間できると思ったんですけどね。なぜか知らんけどやたらめったら忙しいね。とにかく机に向かって仕事したいんですけども、そういうのが妨げられることが多いです。会議とかなんとかで。それからものを見て歩く、これは恐らく死ぬまで、足腰の動く限りはやりたい。で、美術館なんかでの重要な催しはよく行きますね。昨日も栃木県美術館の朝鮮王朝の美術とかいう非常におもしろい展覧会ですけどね、見てきた。帰りに足利美術館に寄って。みなさんご存知ないと思うんだけど、ちょっと変わった、牧島如鳩って聞いたことある?

暮沢:いやないです。

峯村:変な絵。ハリストス正教会に属して絵を描いているんだけど、神仏混淆とは違うけどもキリスト教も仏教もみんな描いちゃうという非常に不思議な。そういうのはちゃんと見ますね。だから私にとっては美術あるいは芸術というのは分け入りたい対象ですから、そういう必要があるものは何でも見に行きます。で、アーティストたちがやっている画廊っていうのは、そういう新しい目を開かせてくれるってものに限って行こうと思っております。

暮沢:回られたりすることはあるんですか。銀座界隈も。

峯村:あります。でもなるべく回るということをしないようにしているんです。それは、惰性になっちゃいますからね。それで回ったって碌でもないことばっかりやられると頭にきますね。だから極力選んで行くようにしている。

暮沢:DMとか見てこれはいいとか。

峯村:当然DM見て、粗選りをしてね。

暮沢:それからプライベートなところでの質問なんですが、峯村さんはよく和服を着ておられます。服装は趣味かとは思いますが、何かあるんでしょうか。

峯村:何にでも屁理屈を付けると笑われてしまうけど、意識としては、みんな明治以後日本人の男児は洋服を着るという、どうしてそういうことを惰性でやっているんだろうという強烈な反発がありますよね。だけど着物がベストだとは思ってないですよね。もっとおもしろい着物があってもいい。それから妙なものを着るほど僕は器用ではないんで。ま、洋服に対抗するのは和服しかないんだったら、だってそれしかない。まさか岡倉天心みたいに道教の服を着るっていうのもやらしいしねえ。インド風ってのも悪くないと思っているけどでも、気候風土が合わないしね。だから日本ではまあ、着物の方が一番気候に合っているわけでしょ。春夏秋冬で全然違った着方するわけですね。これはやっぱり合理性があるわけですよね。だから自分の個人的な想いもある。
それから大学にもよく着物着て行ったのは、若い世代に無言で範を示したいというところがあるんですよね。着物ってそんなに安いもんじゃないから、学生が着ようっていっても難しいですよね。だけど将来自分で稼ぐようになってね、自分で服装を選べるようになったら、ふっと思い出して。そういえばあのとき変な先生、ああいう格好をしていたなあってんで、じゃあ僕もやってみようと、ひとりでもふたりでも着物着る人が出てきたら、少し日本の風景が変わるかなという気持ちがありますね。

暮沢:若い頃から普段から着物着用されていたりしたんですか。

峯村:いや、私たちの育った時期ってのは全くそういうのがないですからね。私の親でも着物は持っていましたけど面倒臭いからあんまり着なかった。特に戦後は着なくなっちゃっていましたね。箪笥のこやしになっちゃったんですよ。私が着るようになったのはワイフが着物のことを知っていて、薦めてくれたのがきっかけかな。私は着物のこと全く知らなかったから、どうやって着たらいいか、分からなかった。

暮沢:それはいつ頃ですか。

峯村:1980年代に入って。

暮沢:じゃあ、多摩美に勤め始めた頃からですね。

峯村:多摩美とは関係ないでしょ。

暮沢:今ご家族の話が出ましたが。

峯村:私はワイフをワイフとして語る気はないですけどね、彼女はなびす画廊というところにずっと勤めていますね。で、そこはやっぱり大切なことで、その画廊でやっているアーティストで、企画でそこでやるような人たちですね、かれこれ10人近くはいるんですが、大体ワイフだけじゃなくて、私自身が非常に好きなアーティストなんですよね。
だから今はエネルギーなくなってそういうことをやっていませんけど、昔、金曜会っていって、一月にいっぺん金曜日の夜に集まって、みなで飲みながら語り合ったりしたことがありますが、それをやるというのは根底で信頼感がないとできないですよね。芸術について、それから人の足をすくうような奴は絶対排除しますね。だから芸術観とか、ものすごく基本的なものの考え方がどこかで分かり合える人たち、だから一種の精神共同体みたいなのがあるんですよ。それは今でも続いていて。それを共有できたってのはハッピーだったですけどね。

暮沢:これが最後の質問になるんですが、ここだけは話しておきたいということがあれば最後に一言お願いします。

峯村:そうですね、これからものを書くときにも、それを遠近織り込んで書くことの一番大きなことは、さっきお話しした平行主義ということのつながりなんですけどね。どうして平行主義ということが言えるかというと、物事、とくに芸術もそうなんですけど、生命と同じように一種のシステムだろうという考えが非常に強くあったんですね。システムという考え方は1970年代のもの派批判から出てきた。もの派っていうのは一つの考えをまるで欠いていた。それはおかしいだろうということで、物事をシステムとして見るということが少しずつ少しずつ膨らんできて。それで74年に、「生きられるシステム」というのを書いたんですが、まだそのときはね、それを全面展開できるほどとは思っていなかったんです。その後、平行芸術展やりながら平行主義ということを考えていくうちに、これは両方とも不可分概念だと思うようになったんですね。ですからいろんな局面で芸術のことについて考えるときに、芸術をシステムとして考えるということがいつもあって、それがいろんな形を変えて出てくるんですね。様々な局面がありますので、いちいちお話できませんけども。
極端なお話をしましょうか。これを言うとみんな、あいつなんて馬鹿なこと言ってと言われるんですが。例えば芸術作品は人類より前にあったと。これは馬鹿だな、ふざけるなと言われるんですが、非常にその考えが強くなっているんですよね。先ほどの「四批評の交差」展ね、あれの四人のオーガナイザー、批評家同士で集まったシンポジウムの場でちょっとそれに類したことを言ったんですよ。そしたら椹木君が鋭く反応してね、どうしてそういうこと言うの、どこにそんな根拠があるんですかって言ってね。でもねえ、これは根拠がどっかにあるから言うってつまらなくて、私そう思っているんで、思うってのはいろんなきっかけがあったから思うようになった。それをその場で短く論理的に言えと言われても難しいんですがね、こういうふうなことを一つ考えて見たらどうかと思うんですけどね。
例えば言語ってありますよね、言語はシステムですね、一個の。と私は信じているんですが。それで言語ってのは人間が作り出したものであることは間違いないとして、しかし作り出したとは言うけれども、勝手にしゃべるのにツールとして言語を作ったらいいなと思って、作ったんだろうかというと、どうしてもそう思えない節があるわけですね。このことを類推するひとつの手がかりは、赤ん坊が言葉をしゃべるようになるのはどのようにしてかということです。昔はそれが学習によると言われていた。特にアメリカの行動主義心理学からきている行動主義言語学だと、全ては刺激と反応という。ニンジンを見れば馬が走るように、ごほうびを与えると動くのをうまく誘導するといろんなことを学習していくという行動主義心理学ですね。チョムスキーは今別のことで有名になっちゃっているけど、チョムスキーは最初は、その行動主義言語学の中にいた人ですよね。でも彼はそれは違うなと気付いて、それで、先験的言語理性というのが人間にあるという考えを持ち出したわけですよね。そのことを考えると、個体発生と系統発生の類同性と言っても分かると思うんだけど、人類が言葉をしゃべるようになったのは、個々の言葉ってのは、段々工夫して段々精緻なものに仕上げたにしても、言語が成り立つシステムそのものってのは先天的に人類に備わっている。人類に備わっているんだけどそれは人類がつくったわけじゃない。ということは人類が生まれるその前からシステム性っていうのは常に宇宙に存在していると考えないと理屈が合わない。人類はそれを発見してくるわけね。発明ではなく発見しているわけですね。で、開発してよりよく使うためのものにしていった。
で、同じようなことが芸術としての作品概念が成り立つとしたら(と考えた)。成り立つというのは人間の制度として成り立つわけではもちろんないし、それからなんとなく長いことやっているうちに積み重なってこうだと決められるようになった、というよりも、根本のところは一つの先験的システムとしてのあるレヴェルがあるのではないかと。システムとして働くレヴェルがあるのではないかと。それを人々はどこかで直感的に感じられるわけですね。だからこれは作品たりえているか、芸術たりえているかって、それはその社会、その文明圏の中で、惰性でこんなのは作品じゃないよと勝手に言っちゃうかもしれないけど、それでも長い時間をかけていると、こういうものは芸術としての高いレヴェルを持っているということをみなが認めるようになる、一種の普遍性を獲得するようになりますよね。それは経験では説明できないことで、やっぱりシステムに触れている。システムを見出すときに作品が作品として見えてくる、芸術が芸術として感じられてくるのではないかなと思うんですね。
だからこういう方を全面展開していきたいんですよ。いろんな局面でね。そうすると芸術についての理解が随分違うものになるんじゃないかなと思っています。私は美学者でもないし哲学者でもないし科学者でもないから、そのことを全面的に理論そのものとして展開していくだけの力はないけど、具体例に即してだったらかなり書ける。これがこれからやりたいことなんですね、予告的に。三木富雄論に少し出ますけどね。

暮沢・加治屋:どうも長々とどうもありがとうございます。