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宮脇愛子オーラル・ヒストリー 2009年1月10日

横浜市 横浜ライフコミューン たまプラーザにて
インタヴュアー:由本みどり、小勝禮子
書き起こし:上原真依
公開日:2009年6月1日
 
宮脇愛子(みやわき・あいこ 1929年〜2014年)
彫刻家
東京都生まれ。インタヴューの前半では、小田原高等女学校、日本女子大学、文化学院、阿部展也アトリエなど、20代の教育背景に始まり、アメリカ留学、ミラノ、パリ、ニューヨークなどの海外滞在経験や交友関係(マン・レイ、ピエロ・マンゾーニら)を中心に語る。ミラノ・パリ時代には、大理石の粉を混ぜて表面に凹凸をつけた抽象絵画を制作していたが、ニューヨークから帰国した1960年代半ばから主に金属を用いた彫刻に移行する。隣の部屋に住む芸術家の山口勝弘も途中でインタビューに参加、宮脇と共に参加した1966年の「空間から環境へ」のいきさつなどについて詳細に語る。最後には近年の屋外インスタレーション彫刻である《うつろひ》シリーズの国際的な展開について触れる。

由本:宮脇さんのドキュメント(注:『宮脇愛子ドキュメント』美術出版社、1992年、以下『ドキュメント』と省略)で、詳細な幼少時代からの御回顧はもうなさっているので、なるべく60年代まで、話をかいつまんで省略させていただきます。宮脇さんは高等学校時代から、絵はなさっていたんですか。

宮脇:絵を描くのは好きでしたね。

由本:お一人で。どんなものを?お花だとか、風景だとか。

宮脇:いや、そんなに。勝手に自分で思ったことを描いていたの。

由本:思ったことを。

宮脇:そういうものを。

由本:同人誌の出版をすでに女子大でなさっていたと。

宮脇:それは女学校の時ね。グループみたいなのがあって。同人雑誌のグループみたいな。

由本:それは日本女子大に入ってからではなくて?

宮脇:入ってからではなくて、もっと前。

小勝:熱海で、疎開した学生が集まって。

宮脇:そう、熱海には疎開した人がいっぱい来てたから。だから、グループはもう、色んな人と付き合ったんですよ。男も女もみんな入っててね。

由本:ああ、すばらしい環境ですね。

宮脇:『揺籃』っていう雑誌ですけどね。それがどういう訳か見つかんなくてね。

由本:まだ見つからないんですか。掲載もされたっていうことですけども。(注:『揺籃』はのちに『銀漢』と名前を替え、廃刊。『週刊新潮』の掲示板に宮脇が書いたため、送ってくれた人がいたが、またどこかにいってしまったとのこと。『ドキュメント』p.10)

宮脇:なんかね。

由本:その後、絵の方を本格的になされるようになったのは、日本女子大でクラブに入ってからなんですか。

宮脇:女子大でね。そう、色んな事をやっていたんですよ。ピアノも教えてたし。ほら、子どもの養護学校みたいなのあるでしょ。そんな小さい子たちにピアノを教えてたの。学校へ入る前。日曜日に行っては教えてたの。

由本:そうですか。それはアルバイトみたいな形で、お金を貰って。

宮脇:そうそう、でもそれに、私、子どもが大好きだったんです。だから、教えた子どもは結構ね、いろいろテレビ、じゃない、昔だからテレビじゃなくてラジオかな、そういうふうな所に出たりね。上手くなっちゃった子が大勢いましたよ。平田義宗(1898-1969、ピアニスト)さんっていう方の、初歩のためのピアノの本があるでしょ、ご存じない?

由本:存じ上げないんですけれども。

宮脇:義宗先生が目白にいらっしゃって教えてらして、特別に。普通の先生じゃ無かったからね。普通の日本人は皆こうやって弾くでしょ(ピアノを弾く仕草をして)。その先生はちゃんとドイツで習った(ピアノを弾く手を上下させながら)。指のあれをうるさく言う先生。その先生に習い直したんです、私。女子大行ってから。それで平田先生の家の側に引っ越しちゃってね。それで一生懸命ピアノ習ったんです。私。だから教えるなんてこと言い出したんです。たまたまよく知っている方が幼稚園をやってらしたので、教えたんです。「うち、来てちょうだいよ。」なんて言われて。

由本:じゃあ、その音楽への興味から、次第に桃山美術などの研究もなさって?女子大の時に。

宮脇:女子大では歴史科にいたんです。大類伸(おおるいしん、1884−1975、西洋史学者)って知ってます? 大類伸って有名な歴史家。あの先生が日本女子大で教えてくださったの。だからまあ、歴史はね、すごい良い先生がいっぱい来てくださって。ちょっとね、珍しいくらいに。東大の先生方が皆来ちゃったくらいに。

由本:そうですか。その頃、狩野派の美術が特にご専門だったっていうことなんですけど。

宮脇:専門というか、卒論を書いたの。

小勝:こちら(注:『ドキュメント』、p. 28)にね、障壁画の模写をなさっている写真が。

宮脇:ええ、京都でしょ。

由本:その時に、研究なさるだけではなくて、日本画を少し学ばれたり、描くのもなさったりしましたか。胡粉の使い方なんかも学ばれましたか。

宮脇:一応ね。でもね、日本画がどうも気に合わなくてね。オリーブの、オリーブって、油絵の方がなんか気に入っちゃって、そっちばっかりやってたの。

由本:それを同時になさっていた感じなんですか。

小勝:ピアノを教えてらした頃、阿部展也さん(あべのぶや、1913−1971、本名・芳文)のアトリエにももうお通いになって。

宮脇:そうなの。私は阿部展也先生の直弟子でした。とってもうるさい先生だったのでね。世界中の人たちみんな知り合いでね。私、これ(『ドキュメント』pp.12−21)にも書いているけど、先生に伺えばたいてい知らないことがないくらい、歴史から何から現代から。

由本:それは義理のお姉様の、神谷信子さん(かみやのぶこ、1914−1986、画家)からご紹介が?

宮脇:そう、神谷信子さんがね。私、女子大を卒業するちょっと前に結婚しちゃったんですよ。宮脇俊三さん(みやわきしゅんぞう、1926−2003、編集者・作家)っていう人と。もう亡くなりましたけど。

小勝:鉄道紀行(『時刻表2万キロ』(河出書房新社、1978年)他、多数)で有名になられて。

宮脇:もう亡くなっちゃいましたけどね。旅好きでね。小学校の時から一人で歩いちゃったんですって、日本中。

由本:すみませんが、それでは宮脇姓になる前の姓は、何でしょうか。

宮脇:私、荒木っていうの。

由本:荒いに井戸の井ですか。

宮脇:き、木。

由本::あ、木。あぁ、そうですか。

小勝:お父様とかお母様のお名前などは、教えていただいてよろしいでしょうか。

宮脇:そんなことまで書きたくないわ。親まで引き出して。

小勝:そうですか、わかりました。

宮脇:母はまあ、自慢してましたけどね、自分の名前。松子。木の松の。

小勝:木の松の子ども、松子さん。

宮脇:母はね、もう気が強くて自慢屋でね。自分のことをいっぱい自慢していましたけどね。

由本:それで、ご結婚なさる前から、神谷さんをご存じだったんですか。なんか一度お目にかかったか何かで。

宮脇:そうね、結婚する前からグループにいたんですよ。宮脇俊三さんって。で、文章がとっても上手い、東大でね。

由本:グループとおっしゃるのは、美術文化?

小勝:いえいえ、美術文化じゃなくって、宮脇さんがいらしたグループとおっしゃるのは、美術じゃなくて、ものを書くほうの。

宮脇:要するに『揺籃』っていう。

小勝:ああ、『揺籃』のグループでいらしたんですか。

宮脇:だから、ものを書くの、みんな。文章を書く方の。でももちろん挿絵も描いたし、みんなやってた、自分たちで作ってた。でもそれが見つかんないのよね。

由本:じゃあ、神谷さんはそれほど年代が違わないでしょうか。

宮脇:やっぱり相当先輩ですね。神谷さんはね、宮脇家から神谷ってほら、ぶどう酒の……

小勝:神谷バーですよね。

宮脇:バーじゃなくて、神谷酒造。お酒作ってる会社ね。有名な会社です。それの娘ですよ。(注:神谷信子は、宮脇俊三の姉(三女)。葡萄酒醸造の神谷シャトーの四男と結婚したが、戦争で死別)

小勝:その神谷さんの作品、(宮脇)先生にもご出品いただきました私の「前衛の女性展」で、神谷信子さんの作品も見つかりまして。

宮脇:そう、絵描いてらして。だから斎藤(義重)先生もみんな神谷さんからご紹介。

小勝:先生、このあたり(『前衛の女性 1950−1975』展図録(栃木県立美術館、2005年)を指して)覚えてらっしゃいますか。神谷さんの作品。

宮脇:そう、色んな絵書いてらっしゃる。そう、これ(『前衛の女性』、p. 35、cat.nos.5_6)、有名な神谷さんの絵(《アパートの人たち》1950年)。

由本:彼女は岡本太郎さんなんかも出入りしていた、美術文化(協会)っていう……

宮脇:もちろん、みんな知ってる。美術文化に入っていた。それも変わっているのよ。(神谷さんは)国文科出身なの。

小勝:神谷さんが。そうですか。

宮脇:それで絵を描いてたの。

由本:美術文化にも宮脇さんもよく出入りされていたんですか。

宮脇:いや、私は入らないから。そりゃ偉い人ばっかりですよ。私なんかよりずっと先輩の。世代が違う。

由本::そうですね、もう一世代二世代上の。で、文化学院の美術科に?

宮脇:それはたまたまね。女子大卒業してから。文化学院、ユニークでしょ、あの学校。だから行ってみたくなって、行ったら、偶然そこに女子大の卒業生がいたりして。

由本:ああ。そうですか。

宮脇:案外、女子大卒業してからそんなとこに、みんな行く人もいるんですよね、私ばっかりじゃなくて。

由本::そこではどのくらい、居られたんですか。

宮脇:やっぱり2,3年居たかしら。

由本:そうですか。それと阿部先生のアトリエに行かれたのと並行するような感じで。その美術文化学院ではどんなことを学ばれたんですか。

宮脇:文化学院は普通の美術の先生が来てくださるの。

由本:ご自分で絵をお描きになって?

宮脇:わたし老いぼれてもう名前忘れちゃったけど、偉い先生いっぱい来てくださったの。

由本:その二つの学校といいますか、阿部先生のところと文化学院とで、全く違うような教育を受けたのでしょうか。

宮脇:いや、そんなこと無いわよ。やっぱり阿部先生も教えてらしたんじゃない?

由本: ああ、阿部先生もそこで重なって教えてらしたと。

宮脇:教えるって、年中行ってるわけじゃなくって、週一回とか、一月一回とか。そういう先生ばっかりですから。ご存じでしょ、文化学院ってどういう学校か。

由本:はい、少しだけなんですけど、私の方は(笑)。

宮脇:普通の学校と全然違うの。

小勝:そうですね。もともとは(西村伊作が)ご自分のお嬢さん達を教えるために学校を作ってしまわれた、というね。

宮脇:西村伊作さん(にしむらいさく、1884−1963)とか。

小勝:西村伊作さんとか、与謝野晶子さんとか。そういう時代の有名な方々が創立された。

宮脇:だから、ぽつんと教えに来るような先生ばかりでしたよ。年中教えてくださっているんじゃなくて。(注:画家の講師陣として、東郷青児、棟方志功、村井正誠など)

由本:阿部先生のところでは、ジャーナリストの方々などが出入りしてましたか。

宮脇:出入りしてましたね、随分いっぱい。

由本:そこで山口先生にもお目にかかって?

宮脇:そうね、山口さんは随分色々、色んな方を知ってらっしゃいました。

由本:じゃあ、50年代の最初ですから、彼がもう実験工房なんかで活躍され始めたころですね。その阿部先生を通して、戦後のアメリカやヨーロッパの美術を?

宮脇:そうなの。阿部先生もアメリカのことなんか、皆すごい詳しくて。

由本:またびっくりするのは、アメリカだけでなく、ヨーロッパでもポーランドだとか、そういったところのマイナーな美術にも詳しくって。

宮脇:そうなの。ポーランドはそれこそね、アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda, 1926-)さんの映画『灰とダイヤモンド』なんか、ああいうのを見て、私は憧れたんです。これ(身につけたネックレス)いただいたの、アンジェイ・ワイダさんから。だから、毎日付けてるの。あの、ワイダさんの写真もあったでしょ、ここに(『ドキュメント』の本を軽く叩いて)。日本にいらした時に一緒に。

小勝:京都賞か何かをお取りになった時(1987年)ですね。

宮脇:箱根連れて行ったり、いろいろ一緒に、よくお会いしていたもんだから、そのお礼にってこれをくださったの。

由本:50年代から、ポーランドの情報まであったというのは、すごいですね。本当に。

宮脇:ポーランドはね、憧れてたの。ポーランド語もちょっと習ったりしてね。

由本:そうですか。それはイタリアに行く前に?

宮脇:(頷いて)だけども、今は忘れちゃっているけども。

由本:イタリアよりも前に、もうポーランドの美術をお好きになって、という感じですか。

宮脇:そう、作品をね。

由本:あまりまだ私は存じ上げないんですけれども。

宮脇:ポーランドの、それこそ戦前の、とってもいい先生がいたんですよ。

小勝:ユニズムの。

由本:ああ、ユニズムの。斎藤先生からも同じ頃ご指導を受けて?

宮脇:斎藤先生はね、神谷さんの紹介です。で、わたしの家にもいらしたりして。私の絵をご覧になって、「あなたこれ、一人で描いてるのもいいけど、展覧会しなきゃだめですよ。」って仰って、それで展覧会をやって。

由本:それは、ようしんどうで。

宮脇、小勝:ようせいどう(注:養清堂画廊)。

由本:養清堂(画廊)で展覧会なさるのは59年でしたか、そのくらいですから、もう少し後のことですか。斎藤先生にお会いしたのは。

宮脇:いや、もっと前ですよ。斎藤先生にお会いしたのは。「まだ展覧会も何もやりたくない」って言って、一人で部屋にこもって描いていた頃。神谷信子さんのとこに斎藤先生がいらして、私のところにたまたまちょっと寄ってくださって。

由本:それから、50年代初めに先生にそういうふうに言われて、見せようと思って、絵を沢山お描きになって。

宮脇:それで展覧会もやるようになったんです。

由本:その後、でもサンタ・モニカ・カレッジの留学が間にありますよね。

宮脇:それはもっと前でしょ。59年でしょ。

小勝:57年ですね。養清堂が59年で。

宮脇:ええ、前です。サンタ・モニカってね、本当に田舎の学校でしょ。だけどとっても良かったです。

由本:その時有名なスキーヤーの方(注:ジル・キンモン、Jill Kimmon)の弟さんから、ご紹介を受けて。

宮脇:そうそう、いたわね。名前忘れたけど。一緒に写ってるわ。どっかにない?(注:『ドキュメント』p.14, p.30)

由本:でもその方とはどうやってお知り合いだったんですか?

宮脇:学校でね。

由本:こちらの学校で?

宮脇:いいえ、アメリカの。

小勝:ロバート・キンモン(Robert Kimmon)さんですね。

宮脇:そう、このキンモンさんの弟さんと私が、たまたま美術のクラスで一緒だったの。それで、家が空いてるからいらっしゃいって。

小勝:そもそもサンタ・モニカの大学に留学されるっていうのは、どういうきっかけでお決めになったんですか。

宮脇:だから、私やっぱり少し、斎藤先生じゃないけど、外の世界を色々知りたいと思ってアメリカに留学したの。英語もロクにできないくせにね。

由本:じゃあ、別にこのスキーヤーの方をもともと知ってたわけではなくて?

宮脇:知ってたわけでなくて、大学で同級だったの。同じ絵のクラスにいたんです。そしたら家が部屋が空いてるからおいでって言ったの。それでこの頃のアメリカ人ってのは、すごい大らかなの、みんな。家が空いている人がそこら中にいてね。週末はみんな「来い来い」って言ってくださったの。

小勝:フランス人の親子に(笑)。

宮脇:そう、こう呼ばれたりね。

由本:では、この大学を選ばれたのはどうしてですか。

宮脇:だって、私が入れるような大学って、それくらいだったんじゃないんですか。その頃は。サンタ・モニカ・シティ・カレッジですよ。

由本:誰かそちらにいらした日本人の方が呼んで。

宮脇:そう、日本人じゃないけど、誰かが、「まあいい学校だから」って。でも試験は受けたんですよ。一応、留学の。大変勉強はできなかったけれども。英語でね。

由本:それでは日常会話くらいは出来るようになってから。

宮脇:学校行ってから出来るようになったの。行ったらすぐに覚えちゃいますよね。だって英語しか通じないもの。

由本:その頃、割とアメリカ時代、天気もよくて……

宮脇:日本人は行っていなかったですよ、あんまりね。

小勝:それはやはり、宮脇先生のお宅が裕福でいらして、と言いますか、ご結婚されていて……

宮脇:いや、そうじゃないの。試験受けていったんだから、お金なんて持っていっちゃいけなかったの。日本円なんて使えなかったの。

小勝:そうですよね、外貨持ちだし制限が。

宮脇:持ちだし制限で駄目だったの。だから向こうでアルバイトしてね。ここに書いてるでしょ(『ドキュメント』を指して)、このお友達と一緒に、手伝って頂いてアルバイトして、それで月謝を払ったんです。

由本:その時は何のアルバイトをなさったんですか。

宮脇:お茶の先生をしたりね。

小勝:お茶はその叔母様と一緒に。

由本:だから和装で。

宮脇:叔母に私、お茶を習ってたんで、子どもの時から。だからこの人達にお茶を教えてあげてたの。

由本:和服も自分で着付けされて、素晴らしいですね。それと同時にガムラン音楽のことにも…

宮脇:ああ、とってもガムランのね、その時初めてインド音楽を聞いてね。なんて素晴らしいんだろうって思って。それでインドに憧れてたの。

由本:本当にご興味の幅が広いですよね。

宮脇:父がインドに憧れてたの。「一生に一回はインドで暮らしたい」って、いつも言ってた。まあ母や父はとっくに行ってたんですけど、私はインド行ったことなかったから。インドは憧れていました。

由本:その後で結局59年にイタリアに行く途中に、インドへ寄って行かれますけれども、

宮脇:ええ、インドに寄ってったの。

小勝:ええ、(ホテルで撮られた)素敵な写真が(ありますね)(『ドキュメント』p.15)。

由本:(インドは)思った通りのところでしたか。

宮脇:インド人の友達がいたんですよ、私。日本に来てた留学生の。

由本:それも阿部先生のところでお知り合いになったと。どういう方だったんですか。

宮脇:すごくね、ハンサムな素敵な青年でしたけどね。私が行く先の場所に「行くな行くな」って言うんですよ。

小勝:カルカッタですね。

宮脇:「カルカッタとか、そんなとこ行っちゃ駄目だ」って。「もっと北の方に行け」って。ボンベイとか。言われたけど行っちゃったんですよ。本当にひどいね。

由本:そこは2泊くらいで、すぐにイタリアに向かって発たれたんですか。

宮脇:イタリアは良かったですよ、とっても。

由本:それはそうでしょうね。

由本:その途中でウィーンの世界美術家会議に出られたと伺ったんですけど。

宮脇:それがあるから、ちょうどヨーロッパに行けるってことで。

由本:それはどなたかに推薦されて?

宮脇:それは、瀧口(修造)先生とかみんな、あれ(注:AICA、国際美術評論家連盟の意)に入ってましたから。瀧口先生がちょうど日本に帰ってらしたときに、私が「これから行くんです」と言ったら、「絵を持って行きなさい」って仰って。初めは何にも持っていくつもりは無かったんだけれども、いっぱい絵を持って行ったんですよ、送ったんですよ。

由本:どれくらい送ったんですか。

宮脇:こんな小さな絵を4、5点送ったんですけどね。それでもよかったんです、持って行ったのは。

由本:それは全部油絵ですか。

宮脇:(頷いて)みんな売れたの。

由本:すごいですねぇ。それはもうすでに抽象だったんですか。何にも、見てなにかと分からないような。

宮脇:だから、瀧口先生が「貴女の絵はイタリーに向いてますよ」って仰ったんですよ。

由本:それを見て?

宮脇:(頷く)

小勝:そのうちの一点(《作品5》1958年、『ドキュメント』, p.19)が国立国際美術館にも収蔵されているんですよね。なにか大橋さん(大橋嘉一、1896−1978、化学者・実業家、現代美術コレクター)が買われたとか。それはミラノの個展で買われたわけですか、確か。

由本:ああ、そうですね、書いてありましたね。

小勝:あの、アンフォルメルみたいな。

宮脇:ミラノのね、屋根裏部屋みたいなところを借りられてね。タダみたいに。いい家の屋根裏だから、広いんですよ。そこで絵を描いてた。

由本:どなたかコレクターの方のお家ですか。

宮脇:そう、名前忘れちゃったけど。有名な人の家ですよ。

由本:建築家の人のお家でしたか。

宮脇:ミラノで有名な人。

由本:あ、建築家の弟さんにお目にかかって、その建築家の人のお宅を借りたんですね。

宮脇:そう、駅の前に有名な建物を建てた人ですよ。書いてあるでしょ、どっかに。

由本:はい、わかりました。

小勝:この時期、(留学して)女性がお一人で絵の勉強(をするというのは)、しかもすでにご結婚されてらして……

宮脇:だけど離婚してる。

小勝:あ、もう離婚されてたんですか。

宮脇:離婚というか、もう別れてたの。

由本:それはアメリカ留学の前に、ですか。

宮脇:いや、前じゃない。あーそうね、やっぱり前に別れてるわ。正式には別れてなかったけど、帰ってきて正式に別れたの。アメリカから帰った後に。(注:1960年イタリア行きを機に別居し、1965年正式に離婚。)

由本:それは留学することに対しての反対もあった為もあるんですか。

宮脇:誰が反対?

由本:旦那様の。

宮脇:いや、そんなことないですよ。すごく自由な人でしたから。

小勝:宮脇愛子先生がイタリアに行って、もう画家としてお進みになりたいってことで、お別れになったということですね。

宮脇:あと、宮脇さんが、「僕はもう他に仲良くしている人がいる」って、ちょっと言ったんですよ。それで私がカンカンになっちゃって別れたの。

由本:当時、瀧口先生と阿部先生の共作の『妖精の距離』(1937年)というのを通じてシュルレアリスムにとても関心を持たれたとおっしゃっているのですが。

宮脇:そりゃあ瀧口先生なんて、詳しかったですものね、色んなことに。

由本:でもそれは、さっきのお話にもありますように、最初の、宮脇さんの50年代後半の作品っていうのは、シュルレアリスムというよりは、作風的にはアンフォルメルっていうふうに、形付けられると……

宮脇:でもアンフォルメルってのは、自分では…… 私は人の真似するの嫌いだもの。

(一時中断)

由本:ちょっとミラノの話に戻ってもよろしいでしょうか。そうですね、まずこちらから。

宮脇:(本を見ながら)パリではね、マン・レイ(Man Ray)に世話になったの。

由本:ミラノに戻ってお話をお伺いしたいんですけれども。

宮脇:ミラノはもう、大好きなところですよ。

由本:最初に、瀧口先生や阿部先生からミラノというか、イタリアを勧められたと言うことなんですけど。

宮脇:ええ、ミラノへ行きなさいって言われた。

由本:アンフォルメルから少し距離を置くっていうようなことも、あったんでしょうか。あまりイタリアではアンフォルメルっていうのは無かったでしょうね。

宮脇:そうね。でも本当に、ミラノはそんなに日本ではね。美術の人はみんなパリへ行っちゃったでしょ。ミラノなんかに行く人なんていなかったんですよ。

由本:豊福(知徳)さんは、もう行ってらっしゃいましたか。

宮脇:豊福さんは、後から来たの。

由本:あ、後からいらっしゃったんですか。

宮脇:吾妻(兼次郎)さんは、前からいらした。ずっといらした。

由本:その方達と親しくなられましたか。

宮脇:ええ。だって3人しかいなかったんですよ、ミラノ。日本人の絵描きは。パリはもう、歩けば棒に当たるじゃないけど、絵描きに当たるくらい居たんですから。だれでも皆パリに留学したの。

由本:それもまた、(ミラノの)その方達も、彫刻をやってらっしゃいましたよね。あの、吾妻さんと豊福さんと。

宮脇:吾妻さんは彫刻家よ。豊福さんも彫刻家です。

由本:そうですね、日本人の皆さんの間で、彫刻をやるならイタリアみたいな、そういった考えがあったんでしょうかね。

宮脇:あったのかもしれませんね。

由本:特にでも、宮脇さんは彫刻をやろうと思って、イタリアに行かれたわけじゃないですよね。

宮脇:そういうわけじゃないです。

由本:(ピエロ・)マンゾーニ(Piero Manzoni)だとか(エンリコ・)カステラーニ(Enrico Castellani)とか……

宮脇:マンゾーニとカステラーニは大親友でした。まったく無名でしたけどね、はじめは。後ですごい有名になっちゃったでしょ、二人とも。

小勝:ただ宮脇さんもご自分の作品を送られたので、彼らとも同志というかお仲間のような感じで。

由本:彼らからギャラリーの紹介なんかは特に無かったんですか。彼らも無名だったので。

宮脇:そうですよ。ジオ・ポンティ(Gio Ponti)の(娘の)リーザ・ポンティ(Lisa Ponti)が紹介してくれたんです、画廊は。その画廊も別に、特別有名な人がやるっていう画廊じゃ無かったけども、全部売れたんですよね。

由本:ミニマ画廊(Galleria Minima)ですか。

宮脇:そう、ミニマ。だからミニマって事は、つまり大きな画廊じゃないですよね。

由本:それは、ブレラ美術館の館長さんからも紹介があったって聞きましたけれども。

宮脇:うん、いい画廊だっていうの。ただ、質はいいけどミニマっていうから、小さい、小品展をやる画廊ですよね。

由本:そこでは、日本から持っていった4,5作品と、それとミラノで制作された……

宮脇:屋根裏部屋でずっと描いていたの。

由本:それは、水彩画が沢山売れたっておっしゃってるんですけれども、水彩画も展示されたんですか。油彩と一緒に。

宮脇:ええ、そうです。墨絵みたいなのもやったし、自分でできること何でもやってましたよ。

由本:そういうのは、今はもうミラノの何処にあるかなんて分からないんですか。

宮脇:分かんないわね。

由本:コレクターの名前とか。

宮脇:もう忘れちゃいましたね。

由本:ちょっと行って、探してきましょうか(笑)。

宮脇:そんなコレクターだって、死んじゃってるわよ、もうとっくの昔に。

由本:そうですね。

小勝:ミニマ画廊自体ももう無いですものね。

宮脇:ねえ、無いもの。だって私が80(歳)ですもの。それが、30代でしょ。そんな人間がやった頃に年寄りだった人が生きている訳ないじゃないですか。

由本:そうですね。

宮脇:みんなもう死んじゃって……

由本:この頃、徐々に宮脇さんの代表的なスタイルの一つである、大理石の粉を織り交ぜて油絵の具にこうやって混ぜて…… 高階(秀爾)先生の言葉ですと「溶岩のようなマチエールの肌に」っていう風におっしゃってますけど。

宮脇:あぁ、高階先生、書いてくださったのね。

由本:そういう風におっしゃってますけども。そういったスタイルに到達されるんですけれども、それに対するインスピレーションみたいなのは、ある日突然来たっていうわけではないですよね。

宮脇:そんなこと忘れちゃったわよ、昔々の話。

由本:繰り返し線を乗せていくだとか。

宮脇:どうせ、やりたいからやってたんですから。

由本:私の中では、狩野派の勉強をなさっていた時に、ちょっと胡粉のことを考えてしまったんですけれども。

宮脇:ああ、胡粉ね。

由本:そういうことは全然?

宮脇:そういうこともあるかもしれませんよ、みんな。でもそんなこと一々一々…… 歴史家じゃないんだから。

由本:その個展をなされた時に、マンゾーニやカステラーニら、そのあたりのモノクロミズムをやってた人たちに、愛子さんもそれに参加しろなんていうことはなかったんですか。

宮脇:あったんですよ。グループで。だけどそんなイタリア人に入っちゃうこともないから、私は私でやってた。でもとっても仲はよかったわよ。カステラーニなんて全然無名でしたものね。マンゾーニはまあ、割合知られていたけど。

由本:イタリアに行って、もう彼らと十分日常会話はできるくらいにイタリア語を?

宮脇:ええ、イタリア語はね、割合早く覚えちゃって。フランス語は子どもの時からやってたくせに、発音が悪いって言われたけどね。イタリア人ってほら、親切じゃない。だから、「Lei parla bene italiano!」
って誰でも言うんですよ。「上手いねー、イタリア語が」って、お世辞で言ってくれるの、どんな人でもね。だからどんどん上手くなっちゃうの。

由本:発音も日本語にちょっと近いところがありまよね。発音もはっきりしていて。

小勝:フランス語ともちょっと近いですしね。子どもの頃からフランス語は習われてたんですか。

宮脇:フランス語はね、フランスにずっといた先生が家の側にいらして、星野先生って。どっかにでているかしら。

由本:いや、それはそこではお伺いしてなかったですけれども。

小勝:熱海のお宅ですか。

宮脇:ええ、お嬢様が有名なバレリーナでしたけども。どっかに写真が後ろに……

由本:やはりそういう素地があると、やはりラテン系の国に行かれてもあまり普通の日本人ほどに抵抗が無かったんですかね、フランス語を小さい頃からやってらっしゃると。

宮脇:だから豊福さんなんて全然イタリア語できなかったですよ。吾妻さんはよく喋っていたけれども。

由本:そうですか。彼らから日本人としてアドバイスなんていうのはなかったですか。

宮脇:彼ら?

由本:ええ。

宮脇:あんまり人の事知らないもの。でも豊福さんなんかは、良い彫刻を作っていましたからね。日本でも有名だったし。吾妻さんはもう、小さいときから行ってたんじゃないかな。小さいと言っても、若い、中学高校の若い頃から。豊福さんは有名になってからいらっしゃった。私が行った後ですから。

由本:この頃、フォンターナ氏とも、知り合いになられるんですよね。

宮脇:誰?

由本:フォンターナ、ルーチョ・フォンターナ(Lucio Fontana)。

宮脇:フォンタナは訪ねて行ったんですよ。連れて行ってもらって。

由本:それはどなたの紹介で?

宮脇:だから、マンゾーニとか、カステラーニとかあの人達に連れてってもらったの。

由本:その後も個人的にもお知り合いになって?

宮脇:とっても親切でしたよ。イタリア人って親切ですからね、もともと。特に外国人が行ったりしたら。

小勝:外国人の女性に対して(笑)。

宮脇:日本だったら難しいでしょ。会ったこともないでしょ、みんな誰も(それまでに)。それで「Lei parla bene italiano!」ってお世辞で言ってくれるの。それでどんどん喋れるようになってくの。フランス語は「Je ne comprends pas.」ってすぐに「分かんない、分かんない」って言われるでしょ。「そんな下手な発音で言ったってわかんないよ」って。フランス人は。

小勝:フランス人はちょっとね…… (外国人には)駄目ですよね。

宮脇:ただフランスでは私、フランス人の家において貰ったから、すぐ覚えちゃいましたけどね。

由本:この頃、東京画廊の山本(孝)さんがミラノにいらっしゃるんですか。彼は別に日本に……

宮脇:遊びに来たんでしょ。

由本:それで宮脇さんのことを初めて知って、作品を見て、東京画廊で個展をすることになったんですか。

宮脇:そうでしたね。豊福さんとか瀧口さんとかみんな知ってるでしょ、だから。

小勝:瀧口さんや阿部展也さんのご推薦みたいなものもあったんですか。

宮脇:ありましたよ、もちろん。

小勝:そうですよね。女性の画家の個展というのは、東京画廊では先生が初めてですか。

宮脇:私、男とか女とか考えたこともなかったの。考えたことないの。

小勝:そうだろうとは思いますけれども、ただ日本の社会では当時はやはり女性はなかなか個展はできなかったと思うんです。あぁ、桂ゆきさんなどは、やってらっしゃいますけれども。

由本:それで、東京画廊の個展を見たアンドレー・シェレール(Andre´ Schoeller)が契約を申し込まれて。

宮脇:そうなの。シェレールは、どういうわけだか、私の(作品を)すごく買ってくれたの。

由本:ああ、そうですか。

宮脇:なんか全部買っちゃったんじゃないかしら。

由本:それで結局滞在付きでパリに行かれたわけなんですけど、どのくらい滞在されたんですか。

宮脇:だから一年以上ですよね。そのあと、ミラノに行ったんでしょ。

由本:それはあの、(パリは)ミラノの後なんですけど。

宮脇:あぁそうね、後ですよ。パリはだから、シェレールのおかげで行ったんですよ。

小勝:一年間何か、契約をして、ですね。

由本:じゃあその制作滞在中にできた作品は、すべて彼のところの個展で売りますっていうことですね。で、モンパルナスにアトリエを構えられて。素晴らしいところですね。

宮脇:だって本当、昔の人ばっかりしかいないくらい。中庭でこう、囲んでね、こう。写真どっかにあったわね。

由本:(『ドキュメント』をめくりながら)そこには、その中庭の写真はなかったですけれども。

小勝:中庭はないですね。その前にマン・レイさんのアトリエを訪ねたりされているんですよね。

宮脇:そう。

小勝:59年に個展をされる前に一度パリに遊びにいらしているっていう…

宮脇:リヒターが連れてってくれたの。ハンス・リヒター(Hans Richter)って名前。マン・レイの親友でね。で、マン・レイは別に、誰が来ても「ああそうか」っていうようななもんですよ。だからこんなに有名な人とそばでね、会えたのも、みんな不思議な感じよね。

小勝:本当にすごいメンバーですよねぇ。マックス・エルンスト(Max Ernst)までいて。

宮脇:ねえ、こんなところで。こんなそばでね。「あ、これ誰だ、ハンス・リヒターだ」って、みんながびっくりするぐらい。

由本:もう2つくらいしか、66年の前の質問はないので、そこまで終わらせましょうか。

宮脇:マン・レイなんか、日本で有名だったでしょ、割合。

由本:ええ、有名ですよね。

宮脇:でもリヒターはミラノで会ったんですよ。ミラノにね、その頃みんな来てたの。どっかに写真があるでしょ。いっぱい色んな人に会った、ミラノで。パリから来た人とか。どっかここになかったかしら(本をめくりながら)。

松田昭一(宮脇さんのアシスタント):アラン・ジュフロワ(Alain Jouffroy、フランスの詩人・評論家)とか(ピョートル・)コワルスキー(Piotr Kowalski、ポーランド人彫刻家)とか、ヨーロッパの作家が、ほとんどミラノに来てましたね。そこで色んな人に愛子さんはお会いになってるんですね、すでに。

宮脇:そうなのよ。ミラノで会ってるのよね。

松田:その59年と60何年かの間に、ミラノは非常にアートの……

由本:拠点だったんですね。結局パリから、ニューヨークにも行かれるわけですけども、63年に。

宮脇:帰りに、日本に行く前に、ちょっとニューヨークへ寄ろうと思ったら、ちょっとが二年になっちゃって。

由本:で、チェルシー・ホテル(Chelsea Hotel)に滞在されて。

宮脇:チェルシー・ホテル、やっぱりいいよって、教えてくれた小母さんがいたでしょ。

由本:はい、アニー・ダマス(Annie Damaz)さん。

宮脇:アニーがもうね、連れてってくれた。ホテルも部屋をすぐくれたし。それで私、絵を渡したら、絵のお金で何年もいたんです。

由本:結局、ベルタ・シェファー・ギャラリー(Bertha Schaefer Gallery)でも、個展を出されて。

宮脇:ええ、個展をやって。ベルタもね、もうおばあさんの画廊でしたけれども。売れたんですよね。

由本:素晴らしいですね、次々と個展をされて。結局ニューヨーク滞在期の最後の方に、オルブライト・ノックス・ギャラリー(Albright Knox Gallery)だとか、ニューヨークの北の方のグループ展なんかにも入られて。そのままニューヨークに残られて、もう少し発表してみたいなっていうお気持ちは無かったんですか。

宮脇:だって本当は、一週間くらい寄るつもりで行ったんですから、そんな長くいるつもり全然なかった。

由本:ああ、そういえば、ビザの問題とかはあったんですか。

宮脇:うるさかったですよ。

由本:そんなずるずると滞在できないですよね。どこか学校にでも在籍しないと、その頃難しかったですよね。

宮脇:そうでしたよ。だから籍を置いていたの、サンタ・モニカに。

由本:あ、そうなんですか。

宮脇:それでシティ・カレッジに行ったり、カリフォルニア大学に行ったり。

由本:あ、そっちにも行かれたんですか。

宮脇:ニューヨークの大学の、あれがあるでしょ、あの、予備校みたいなの。

由本:アート・スチューデンツ・リーグ(The Art Students League of New York)ですか。

宮脇:そういうのに、みんな、籍を入れて貰ったりなんかして。アメリカ人、親切だから。

由本:ただ、アメリカでは、ミニマル・アートなどと簡単に言われることもありましたか。その頃は。

宮脇:でもそんなに……

由本:そんなにそういう風には言われなかったですか。

宮脇:ニューヨークってみんな、自分勝手なことやって、全然人のことなんて気にしない。

由本:そうですね(笑)。じゃあその、個展での反響は。

宮脇:ホテルでも絵描いてる人ばっかり、いっぱいいましたからね。チェルシーは。絵描きさんがいっぱいでしたよ。普通の部屋も、だからもう汚いのよ、絵の具で。

由本:アメリカから帰国されたのは、ニュー・ハンプシャーでまた個展があった65年の後ですか。

宮脇:後ですよね。

由本:66年にもう入ってましたかね。その辺りがちょっと。

宮脇:忘れちゃったわ、もうすっかり。詳しいことは。

由本:その頃、日活アパートというところに、住まわれていたんですか。

宮脇:日活アパートへ入ったの。

由本:それはどういうところなんですか。

宮脇:いや、普通のアパートよね、日活。いいとこですよ。

由本:その頃もうすでに東大の建築学科の学生の方々が。

宮脇:学生がみんなね、アルバイトに来てたの。真鍋(恒博)くんとかね。

小勝:鈴木博之(すずきひろゆき、建築史家)さんもでしたか。

宮脇:そうなの。博之くん。博之くんなんかもうちょっと来たわ(笑)。

由本:その頃、彼らにどういう手伝いをしてもらっていたんですか。

宮脇:だって、私はやることがいっぱいあるんですよ、今、松田(昭一)くんがやってくれているけど。

松田:パイプ切ったり。

宮脇:パイプ磨いたりね。

小勝:金属造形なんかですね。

由本:もうこの頃、66年、金属に入ってましたね。

小勝:その金属のパイプは日本に戻られてからなんですか。

宮脇:そう。あのね、この金属の会社に材料探しに行ったの。そしたらこれ、このパイプって長いんですよ。その長いのを私がこうやって覗いたら、すんごい綺麗なの。そんなことする人いないんですよね、パイプなんか。それで外を見るもんだから。それで、これ(金属パイプを使った作品)をやりだしたの。だからこれは本当に私の作品だけですよ。

小勝:それで、その建築の学生達はこういう……

宮脇:磨いたり。

小勝:磨いたり、ああ、なるほど。

由本:それはアメリカで立体をやりたいなっていうようなお気持ちも出てきたりしたんですか。

宮脇:そう思ってたんですよ。

由本:そうですか。

宮脇:立体をやろうと思っていました。

由本:それは、どなたかの作品を見て発憤されたとか、そういう事はないですか。

宮脇:いや、自分でやっぱりやっているうちに。

由本:立体的なものが出てきて。

宮脇:だって、はじめはレリーフみたいなもんでしょ。段々に(立体へと向かって)。

由本:それではもう、66年まで来てしまったので、山口(勝弘)先生もちょっとご参加願いましょうか、少しだけ。内容が触れるんですけれども。(注:山口勝弘は宮脇愛子と同じ横浜ライフコミューン、たまプラーザに住んでいる)

(一時中断の後、山口勝弘を交えてインタヴュー再開。)

由本:今日は宮脇さんと、ちょっと重なるところで、「空間から環境へ」(1966年、銀座松屋デパート画廊)の話を少ししていただければと思ったんですけれども。

山口:(環境というテーマが)最初に話題になったのは、大阪万博のテーマ館の会議があったんです。それは、岡本太郎の、あのメキシコスタイルの《太陽の塔》ができる前、丹下健三さんの大屋根がまずその広場の上にかけるっていう、大屋根を作るという計画が殆ど決まった状態だったんですけど。

由本:それはもう展覧会の前にそうなってたんですか。

山口:そう、展覧会の前で、それはまず、もっと言うとね、万博の公共空間について東大と特に京大の間で競り合いがあったんですよ。それで結局東大の丹下健三が公共空間のディレクションをやることになったから、丹下健三門下の人が全部協力したんです、《太陽の塔》の。

由本:それで環境というテーマが、浮かび上がったということですね。

山口:そう、出てきたの。その環境というテーマについて言い出したのは、実験工房のメンバーだった秋山邦晴さんです。彼がまず、アラン・カプロー(Allan Kaprow)の有名な本、あの頃出た本、その中にエンバイラメントという言葉が入ってたんです。(Allan Kaprow, Assemblage, Environments, and Happenings (New York: H. Abrams, 1966))それでそれを、秋山くんが、エンバイラメントをキーワードにしたらいいんじゃないかっていう強い推薦があったんです。それでみんな、「あぁ、それならいいや」って言って、空間よりももっと広がりのあるって意味で、なんとなく決まったんです、環境という言葉に。そこで出てきたんです。ところが、僕がその後、ニューヨークに行った頃……

由本:そうですね、61年くらいに。

山口:そう。ニューヨークに行くとまずその頃、パフォーマンスという言葉とエンバイラメントという言葉が確かにあることはあるけど、アラン・カプローのやるイベント、パフォーマンスを見たら、「こんなもんかな」って僕は思ったんです。グリーン・ギャラリー(Green Gallery)で彼がやったのを見たんです。

由本:BTに書いてらっしゃいますね、『美術手帖』に。

山口:よく調べてる(笑)。

由本:「瀕死の芸術観」(『美術手帖』1962年5−6月号に掲載)という。かなり批判的にご覧になってる。

山口:あれはまずヨーロッパの当時の前衛グループも見て、僕は「あ、これはあかんな」と思った。ところがニューヨークで知り合った、オノ・ヨーコさんのグループ、フルクサス・グループ。彼らはそのエンバイラメントでなくて、自分たちのイベントだとはっきり言っている。だからようやく日本でイベントっていう言葉が、環境とまた違った言葉として(入ってきた)。イベントっていうのは辞書で引くと出来事、単なる、何でもない。イベントって言えば、すべてはイベントなんだ。要するに、モノ中心の視点から考えると、コト。ところがまもなく僕は色んな人と会うと、コトのデザインとモノのデザイン、二つのデザイン道があるんですよ。モノをどういう形にするかっていうことと、それからコトをどうするかっていうこと。それで、コトのデザインという言葉が大分みんなが納得してきた。だからその、環境という言葉の意味には確かに、イベント、出来事っていう意味も含まれていた。

由本:そういうご説明は、山口先生が、「空間から環境へ」の準備委員会の会合などで説明されたんですか。やはり実際にアメリカに行った方っていうと、東野芳明先生とか、秋山さんがいらっしゃいましたけれども。

山口:そう、秋山とその後ニューヨークへ行って、秋山と対談したのよ、BTで。(「音と形のあたらしい展望(対談)――1、2――」、『美術手帖』1960年5-―6月号収録)それでやっと、コトのデザインって意味がみんなに理解されるようになってきたんです。

由本:その頃、カプローはイベントに対してハプニングっていう言葉を流行らせて、日本ではどちらかというと、そちらの方が流行ったんですね。

山口:それが、「とんでもハップン」て(笑)。そういう冗談で、みんなハプニングが流行ってきたの。だから、テレビ局はまさにリアルタイム・メディアって言ってね。リアルタイム・メディアってのは、やはりハプニングの効果、言葉としてはやはり流行りやすい。とんでもハップン、何でもハップンって。冗談でみんな言って。テレビ屋さんみんなそれ使ってた。だから、ハプニングの方が流行ったの。

由本:イベントとハプニングは日本では混同して用いられて、まあニューヨークでも割と混同されてましたけどね。

山口:そう?ニューヨークでは、はっきりと、フルクサス・グループはみな「私たちはイベントだ」っていうことで、塩見允枝子さんもイベントって言葉を(使って)。まあ、あの人はフルクサスやってたから。だからそういう風に、あの人はイベント、イベントって全部(言ってた)。だから、「空間から環境へ」展のきっかけになったクラシックデザインのグループの人たちは、まずモノのデザインからやって。それで松屋で、「空間から環境へ」(銀座松屋デパート、1966年)ってことをやりましたね。このときは彼らはモノの見方の方が中心だった。だから、松屋と別に、草月会館を使って、パフォーマンスをやったんです。

由本:そうですか、では最初から山口さんと秋山さんの考えでは、パフォーマンス的なものをこの展覧会の中にも取り入れたいという思いがあったんですね。それがグラフィックデザイナーの方々とか、色々沢山の方、38名もの方が参加されてたので、なかなか全部やるっていうわけには、いかなくなったわけですね。

山口:だから、秋山くんもイベントには随分出てましたよ。草月会館で。

由本:そうですね、ここに写真が(Art Journalに由本が寄稿した論文を見せながら。Midori Yoshimoto, “From Space to Environment: The Origins of Kanky_ and the Emergence of Intermedia Art in Japan,” Art Journal vol. 67, no. 3 (Fall 2008): 34.)。

山口:写真ある?これ、一緒に座って、ひっくり返る椅子だったの。

由本:(写真を見せながら)これですね。これは一柳(慧)さんの作品だったんですけれども、ゆっくりと、椅子からこう。椅子に座って身体をこう傾けるという。

山口:そう。突然ころんと転げる。

由本:そしてこれが塩見さんの《コンパウンド・ビュー》(1966年)という(作品)。これは、宮脇さんも(宮脇に向かって)…… あ、すいません、今「空間から環境へ」のお話を少し伺っているんですけれども、宮崎さんもこの草月でのイベントのほうもご覧になりましたか。

宮脇:(頷く)

由本:そうですか。で、「空間から環境へ」に宮脇さんはこの作品を出品なさっているんですけれども、(Art Journalを見せながら)この三角形の。

宮脇:そんなの、忘れちゃった。

由本:でも、見たら思い出されませんか。

宮脇:こんな作品作ってたんだなぁ、と思って。それでこれ、どっかに売れたのよね。東北か何か。黒川さんが売ってくれた。東北の美術館に。

由本:この作品は、インテリア誌に載ってたカラー写真を見つけたんですけれども、ここに展示してありましたね。

宮脇:山口さんにはすごくお世話になっているのよ。

由本:山口先生が、この展覧会の時の、美術作家の方々の招聘を主に行ったというふうに、考えていいんですよね。宮脇さんとか。

山口:それから、多田美波さんとか、みんな入ってた。

由本:この作品(Art Journal に掲載された山口、『港』の写真を指して)なんですけども、このときに、初めてこのような大型のアクリルを使った作品を作られたんでしたっけ。

山口:違います。この前には、長岡現代美術館の、その長岡の展覧会に出品した作品(《作品》1966年)が、最初。で、そのもっと前は、アルファベットのCを描いて(《Cの関係》1966年)、これは第一号なの、光彫刻の。

小勝:あぁ、これですね。

由本:あ、ありがとうございます。じゃあ、作品の写真を。本当ですね。

宮脇:山口先生はもう、なにしろ何でも知ってらして。

松田:ちょっと待って貰っていいですか。

山口:(写真を指しながら)これは、長岡に出したやつ、これが、その《Cの関係》。

由本:この頃、アクリルですとか、宮脇さんの場合は素材は何でしたっけ、これは。

宮脇:これ(《作品》、1966年)は金属。私はね、これですよね。それをあれしてね(アルミとメラミン材に)、これ(色)を焼き付けているのよ。

由本:こういった工業的な素材を作品に用いられることっていうのは、この頃ちょうど65年くらいから?

山口:いや、僕の場合だったら。

由本:もっと前、ヴィトリーヌの頃(Vitrineシリーズ、1950年代)からそれはありましたか。

山口:それはもちろんそうです。実験工房の頃からも作っています。APNの作品に使われていたのは、全部工業用素材です。出来合いのもの拾ってきて。拾いもの。(注:APNはAsahi Picture Newsの略。『アサヒグラフ』に1953〜54年にかけて連載されたコラムのタイトル。制作に関わったのは主に実験工房のメンバーと山口勝弘、北代省三、斎藤義重など)

由本:ええ(笑)。それはじゃあ、ロシアの構成主義だとか、ダダだとか、そういったところと、20世紀の前半ですが、関連性があるのですか。

山口:ダダですね。それはすなわち、僕はギャラリーの中でパフォーマンス、まあ、イベントやったんです。展覧会があるんです。ワークショップと思うけど。青画廊っていう。そこでカラーコピーの機械を借りてきて、カラーコピーを実際に、コピーしたものを並べる、それでビデオとカラーコピー機、二つの機械を結びつける。そういう展覧会をやった。要するに、イベント、プラス、パフォーマンスをやった。

由本:ちょうどこの展覧会(「空間から環境へ」)の時、宮脇先生が磯崎(新)さんとお目にかかったのは、この時だったんですか。

宮脇:本当にあったのはその時。名前だけは知っていたけれども。

山口:南画廊で、「空間と色彩」展があったときに、磯崎さんも。

由本:参加されてましたね。

山口:そう。(福岡相互)銀行のモデルを出品して。

由本:(Art Journal 39頁の写真を指しながら)これですね。これと同じものを「空間と色彩」展にも出してられたんですか。

山口:そう。

由本:これはまだ、磯崎さん自身にお話を伺っていないんですけど、小さなものですか。モデルは。

山口:そんなに大きくない。

由本:そんなに大きくないもので。原広司さんも出してましたね。

山口:結局、クラシックから、美術から入って、建築まで、展覧会に入ったの初めてなの。

由本:そうなんですよね。そういう意味ですごく画期的な展覧会だったと思うんですけれども。私はある意味で、万博以上に、こうインタラクティヴなアートっていうんですか、それが観客と交感を強いるような作品を集めた展覧会として、非常に画期的だと思うんですけれども。宮脇さんの作品も……

山口:あの、靉嘔(あいおう)の指突っ込むボックスね。

由本:それに遠近法を、なんていうんですかね、見た目でイリュージョンを作るんではないんでしょうか。

山口:イマジネーションですよ。要するに、見る側に委ねたの。作品の鑑賞ってものを観客に渡したんです。

由本:これらの作品の多くというのは、山口さんがこの展覧会の内容をご説明なさって、その結果、このようなものが生まれた、というわけではなくて、もうすでに宮脇さんが…

宮脇:そんなにすぐにできるわけないじゃないですか。絵描いてるのとは違うんだから。

由本:もうすでにあった作品を、この中に入れたわけなんですね。

宮脇:彫刻なんてそんなすぐできないわよ。

由本:そうですね。この作品も、田中信太郎さんの作品も「空間と色彩」展(南画廊、1965年)にも入ってたものなんですね。あの展覧会は、山口さんと東野さんでご一緒に考えられたんですか。

山口:そうです。

由本:東野さんはどのくらい、このコンセプトというか、この展覧会に関わっておられたんですか。

山口:東野さんは、あの頃日本の評論家はみんなそうだけど、ネオダダとかそっちの方へいってた。焦点がね。やっと、パフォーマンス的なものも美術の領域に入ってきたんです。

宮脇:日本の評論家は遅れてるわよね。山口さんの方がよっぽど早かったわよ。

由本:これは、粟津潔さんの作品ですよね。観客が上を歩いてもいいという風に、インテリア誌に描いてあったんですけども。これを見ただけではちょっと何が何だか分からないような。

山口:それと泉真也っていうね。彼は作家でもあるし評論家でもある。泉真也も作品出してましたよ。

由本:この展覧会に参加された方の多くが、万博にも参加されるわけなんですけど、最近出版された椹木野衣さんの『戦争と万博』(2005年)という本はご存じですか。

山口:(頷く)

由本:あれでは、環境の解釈がちょっと戦争のことと関係づけられていましたが、そのことに関しては、どう思われますか。

山口:僕は戦争の絵を描いたことがあるんです。だから、「それはいかん」って。僕は記録魔なの。なんでも絵とか文章で残しておくんです。何かしらの時自分でこう書く、残すってこと考えると、うんうん、と(聞き取れず)。絵もそう。だからそれは残すって。

由本:でも彼はあの本の中で、この空間から環境へのテーマの環境というのも、日本の戦中の帝国主義的な建築の考え方が反映されたものだという風に言っているんですけれども、わたしはこの論文では、もっとあの……

山口:彼はその頭、勉強で、そういうことを言っているんですよ。人間っていうのは、こう、スタンスが変わるからね。僕の場合もそうなんだ。今自分が病気になってここにいるっていうこと、随分ここに入ってから考えること変わってきてる。

由本:この展覧会の後、宮脇さんと山口さん、色んな展覧会でご一緒されることが多かったかと思うんですけれども、大型の彫刻の展覧会とか。

宮脇:山口さんはね、殆どのところは出られるようなそういう感じの方よね。グッゲンハイムの時(1967年)だって、私は賞(グッゲンハイム国際彫刻展の買い上げ賞)をいただいたけれども、本当は山口さんだろうってみんな思ってたの。本当にそう思っていたの、みんな。でもどういうわけだか、私になっちゃったけど。本当にね、みんな間際まで山口さんが賞を取るって思ってたの。でも、誰か買ってくださったのよね、向こうでね。

山口:(宮脇さんが)グッゲンハイムの買い上げ賞をもらったの。

由本:そうですね。山口さんも買い上げされたってことで。お二人とも要するには、買い上げ賞ですね。

宮脇:まあ、私はね、自分が賞を貰うなんて夢にも思っていなかったんですよ。私のはちょっと変わっているということで、それを取ったんだと思いますけどね。

由本:その頃から、海外で見られる日本美術の種類も大幅に変わるわけですね。

宮脇:あの頃大勢出たのよね。7人くらい、日本から。

山口:もっとはっきり言うと、僕はヨーロッパ見てね、ヨーロッパの古い美術館とか、特に建物、ミラノの美術館、あるいは他の、ジェノヴァの美術館などの展示は非常によかった。もう美術館の所謂展示されてる美術作品でも、古いものの展示を非常に丁寧に、天才的なやっぱりデザイナーが居るんですよね。イタリアは。ちょっと捻りながらも非常に優れた展示をやっているんです。結局展示というのは、コトとモノを繋ぐ大事な要素なんです。そうです、展示っていうのはね。コトをモノに、モノをコトにする展示方法っていうのに、非常に僕はびっくりしたんです。昔の「瀕死の芸術観」には、そういうことを書いてなかったっけ。本当は写真入りで書く方に夢中になって…写真入れればもっと分かる、分かるんです。

由本:それは何年にヨーロッパに行かれたときですか。

山口:だからその。

由本:68年の時ですか。もっと後ですかね。

山口:うん。

由本:その頃では海外で、お二人ともグッゲンハイムなどで発表なされて、日本の現代美術もとても……

宮脇:発表って言うんじゃないの、あれは招待。

由本:そうですね、招待。本格的に日本の現代美術が海外でも受けいれられ始めた、というふうにお感じになりましたか。

山口:もっと言うとね、日本の画廊が近代のマスターピースを買って、それで食ってたんです。

由本:それまでは。

山口:うん。だから度胸がなかなか無いんです、現代美術を売ろうという気は最後までないですね、今でもそう。

由本:そうですね。まあ、宮脇さんも東京画廊で見せられて、それがそのままパリの画廊の展覧会に結びついてっていうのも、そういう例外でもなければ、なかなか海外で日本人の作品が買い上げになるとかいうのは、難しかった時代ですよね。ご自分で機会をつかんでいかなければ。なかなか他人任せではどうにもならないと。

宮脇:だから、そのアンドレ・シェレールなんて若い画商で、全然権威とかそういうのは考えないから、全く無名の私のを、平気な顔して買っちゃったんですよね。日本人はね、みんな権威が大事だった。

山口:だから、僕が面白かったのは、最初にニューヨークに行ったときにね、ニューヨークのレオ・キャステリ画廊(Leo Castelli Gallery)、その前に、マーサ・ジャクソン(Martha Jackson Gallery)、2つとも日本で有名だった。

由本:そうですね、具体も見せましたね。早々と58年に。

山口:そう。ところがね、その2つの画廊のやり方を僕は発見したの。まず、彼らは目を付けている作家の作品をね、ニューヨークのMOMAかグッゲンハイム、どちらかに寄託しちゃうんです。それで、みんなの、観客の目を慣らしてるわけです。

由本:で、買い上げか注文が(笑)。

山口:なかなか戦略的なことをやっているんだって、僕は一目で分かった。

由本:日本ではそれはなかなか無いですね。

山口:ないない。しかも日本の今のIT時代、国際メディアを通してね、作品を発表できるから。まあ、あの頃はモノ、作品ってのはモノなんですね。

由本:でもそのモノが工業的な素材にどんどん変わっていったわけなんですけども、こういう工業的な素材を使った作品で、日本の作家の方々はどちらかというと、手が器用だとか、工芸的に優れているとか、そういった言われ方をよくされたのですか。

山口:その、器用っていうことはどういうことかっていうとね、レヴィ・ストロース(Claude Le´vi-Strauss)、構造主義のあの人の本の中に出てくる言葉、「ブリコラージュ(bricolage)」っていう有名な言葉あって、あれを僕は日本語にするにあたって「器用仕事」って僕は訳したんです。「ブリコラージュ」って器用仕事なんです。うつわの器とね、ようは用いる、器用にモノを用いる。才能もある、要するに日本的な持ち味、非常に器用なことをやる。それを世界的に見てそういう人が沢山いるわけ。器用仕事。

由本:でも日本では逆にこういったテクノロジーといいますか、万博に向かってこういういった工業製品やテクノロジーを駆使した美術っていうのが、次第に万博の後、軽視されるといいますか、どちらかというと忘れ去られてしまうようなことが、美術の評論の中であったと思うんですけど、そのことに対してはどう思われますか。

山口:それは、どなたに対して聞いているわけ?

由本:お二人ともなんですけど。

宮脇:私にそんなこと聞いたって、技術なんか無いんだからね。

由本:ええ、技術ではないんですけれども。

山口:僕はまずね、実験工房って言うのは、僕の学校だったんです。実験工房そのものが。バウハウスみたいなもんだった、僕にとっては。僕は、美術は独学ですけれども、美術学校は出ていない。ところが、実験工房は、作曲家も全部独学。秋山も詩人だけど、全部独学の人なんです。だからそういう独学のいいところがあるんです。こだわり無く、度胸があるんです。やろうと思ったらさらっとやっちゃうんです、独学者って。

由本:宮脇さんも、どちらかというと独学ですよね。すべてご自分で考えられて。

宮脇:私は人がやらないことをやるっていうのが、一番大事なコンセプト。

小勝:グループに属さない、ご自分(だけ)でやる。

宮脇:人がやること、やったこととかはやらない。

由本:特に、どのような素材ということにこだわらずに、コンセプトを中心に。

宮脇:だから、人がやらなかったことだけやるっていうこと。

由本:絵画でも彫刻でも素材は媒体にすぎないというようなことを仰ってますけれども、今もそういったお考えですか。

宮脇:私、なんでも人の真似したら意味がないって。そう(真似)したら、アーティストじゃないわよね。

由本:山口先生もこの後、環境芸術っていう言葉をそのままご自分の研究書で使われるわけなんですけど、環境って言葉が次第にご自分の中で変わっていったというふうに、お考えですか。

山口:今でも変わってない。ここの、コミュニティー、組織自体が環境なの、僕にとっては。

由本:そうですか、コミューン自体が。

山口:だから、コミューンで会ってる人を見てる、観察しているの、僕なりに。子どもの頃、現象学、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl)の現象学読んで、それに僕、夢中になっちゃった。だから現象、モノを見るわけ。

由本:今も手で、ペン画みたいなのをやってらっしゃいますね。

山口:どなたが。

由本:山口先生が。

山口:ペン画じゃないです。

由本:水彩でしたっけ。

山口:水彩じゃない。あれは、水彩的な使い方ができる、アクリル樹脂です。

由本:ああ、アクリル樹脂なんですか。

山口:それはまずこの環境の中で、一番すぐに乾く、固まるし。油絵の具ってのは埃が全部くっついちゃうから。で、この環境の中でふさわしい材料を、僕やっと掴むことになったんです。

由本:宮脇さんもご一緒に何かやられて?

宮脇:ご一緒に、なんてやったことないわよ。全然。(一緒なのは)ご飯食べるときだけね。(笑)

由本:ここには山口先生が先に?

宮脇:もちろん。山口先生のお見舞いに来て、私、隣の部屋が空いていたから、入れていただけますかっていうことで。家をちょうど直していて、どこか行かなければいけなかったの。

由本:そうですよね。大阪のフルクサスの塩見允枝子さんも、今回(私が)大阪に帰ってまして、私(塩見さんに)お話を伺ったんですけども、「お二人にいつも妹のように可愛がっていただいていて。よろしくお伝えください。」と。

宮脇:どなた?

由本:塩見允枝子さん。

宮脇:ああ、塩見さん

山口:塩見さんはオノ・ヨーコの良い性質を受け継いでるね。

由本:そう思われますか。

宮脇:良いとこだけね。

(一同笑)

山口:まず、2つキーワードでいうとね、度胸とね…スウィート。

小勝:スウィート。優しい、暖かいという意味ですか。

山口:度胸がある。ものをやるときには、パンとやっちゃう。塩見さんは。

由本:宮脇さんは、塩見さんにニューヨークでお知り合いになったんですね。

宮脇:ニューヨークで年中私のところに遊びに来てたの。

由本:チェルシー・ホテルに。

小勝:ああ、そうですか。塩見さんは一年間(1964年7月から翌年夏まで)だけいらしてたんですよね、ニューヨークに。

由本:宮脇さんの方が長くいたわけですね。

宮脇:まあ、私もはじめはちょっと寄るつもりでニューヨークへ寄ったんですよ。で、一週間居るわって言ったら、例のアニー・ダマスっていうフランス人の、彼女が「ニューヨーク一週間なんて駄目よ」なんて言って。それでチェルシー・ホテルに居たんです。

山口:似てるな、僕もね、最初にヨーロッパに行ったとき……

由本:61年に。

山口:ジェノヴァから出発して、イタリアをずーっと歩いて。それからミラノ、ジェノヴァ、近いからミラノに行って、あるいはフィレンツェを随分見たの。その行く前にイタリア語だけ勉強して行ったんです。

由本:それは61年のことですか。

山口:うん。その時にね、僕、最初に南画廊の志水(楠男)さんが、アルゼンチン大使館の文化大使のクサリーオ・メンデスって人がいらっしゃるから、その人に絵を教えてくれと。絵を教えに行ってたの。

由本:それだと、ひょっとして宮脇さんと重なってたんですか、ミラノに行かれているとき。全然重なってないですか。

宮脇:帰ってきて話が分かる人は山口さんだけだったの。

山口:いつもそうおっしゃってる(笑)。

宮脇:本当にね。他の人に色んな話しても全然、みんな話わかってくれなくて。

小勝:みなさん、やっぱり日本の中だけで閉じこもって。

宮脇:頓珍漢でね、入れ違っちゃうんですよ、会話がね。

小勝:帰られてすぐは、失語症のように、なんかこう話が通じないんで、失語症のような感じになられたと書いてらっしゃる。

由本:そうだ、その頃、作本邦治さん(『インテリア』誌編集長・写真家)にも紹介されたら失語症の人が来たって言われたって、書いてありました(『ドキュメント』,p. 51.)。

山口:そう、ジャパン・インテリアっていう。

由本:(Art Journal 24頁の写真を指して)この写真、作本さんの写真ですよね。

宮脇:作本さんって懐かしい人ね。早く亡くなられて残念だった。

山口:作本さんね、このジャパン・インテリアっていうような、イタリアの『ドムス』(Domus)っていう有名なデザイン誌が随分日本に入ってきた。

宮脇:だから私はその、リーザが紹介してくれてみんな展覧会をやったり色々したの。ミラノのね、リーザ・ポンティ。ジオ・ポンティのお嬢さん、リーザ・ポンティっていうの。日本でもその雑誌がみんな売れていたのね、だから私のことみんな、磯崎も黒川さんもみんな知ってたの。あんなとこ出たから。ミラノ行ったらすぐにリーザが私の処に来て、インタヴューしたんです。屋根裏部屋に(来て)。

由本:それは当時の作品が、大理石の粉を混ぜたあの作品が出たんですか、『ドムス』に。

宮脇:リーザが出してくれたから、日本でみんなが見たんですよ。

由本:そうだ。68年の長岡現代美術館賞ってのは、お二人とも参加されてましたっけ。

宮脇:いや、私は出さないね、出してない。

山口:あの長岡の展覧会はね、国単位、日本で、彫刻なら彫刻っていう切り口で当時の一番新しい彫刻と、その国の彫刻を(出した)。

小勝:(写真を見せながら)これが、その時の写真ですよね。

山口:そう。

由本:(宮脇先生は)《振動》っていう作品を出されたって。あの、音が出る大きな真鍮の板をモーターで動かして。

山口:ああ、《Work》って作品ね。

由本:グワァンって音を出す。

山口:僕はあれ、すごくいい作品だと思って。それで僕の本にも書いた。

由本:そうですか。それはもう残っていないんですか。

宮脇:どうしたのかわかんないわ。

由本:その作品のことを、ご自分(宮脇)でもエンバイラメンタルな作品で、その当時の状況を象徴した作品という風に回顧されているんですけれども(『ドキュメント』p.56)、それは音で空間を取り囲むような、それがエンバイラメンタルだとお考えですか。

山口:そう。

由本:それで山口さんもよいと評価されたわけですか。

山口:そう。それと環境ってのを、僕は光と音、その二つの要素から捉えるの。

宮脇:だから山口さん、今度のね、私のやってる…… 松田くん、今度行くところ、どこだったっけ。あの四国の。池の。山口さん「音出せ」っておっしゃるの。

山口:そう、音を使いましょうって言って。

由本:そうですか、あ、今度の。

山口:お仕事。《うつろひ》の仕事。

小勝:四国の何処でしたっけ。

松田:丸亀です。

宮脇:広いお池でしょ。

由本:丸亀の猪熊弦一郎美術館ではなくて。

宮脇:だから隣ですよ。

由本:駅前の。

宮脇:だから違うのよ。もっと広いの。そんな駅前なんてもんじゃないわよ。

松田:もともと京極家の、大名が作った庭なんですよね。

由本:そうですか、私はちょっと美術館しか行ったことがないもんですから。

宮脇:庭ですよ、広い池があるの。そこにやろうっていうわけ。やってくださいって頼まれたの。

由本:それは、音が出るっていうのは…… (庭園のカタログを受け取って)ありがとうございます。このような中津万障園。

宮脇:そんな表紙見てたってだめよ。雑誌の中を見なくちゃ。

由本:このような(写真を見せながら)大きな日本庭園ですね。ここに《うつろひ》をインスタレーションなさるんですか。それに音を合わせるんですか。

宮脇:山口さんが「いれよう」って言うの。

由本:そうですか。どのように、っていうのは、それは内緒ですか。企業秘密ですか。

山口:具体的に言うと、《うつろひ》のワイヤーを立てるための円柱があるんですよ。

由本:ありますね、軸のところに。

山口:そこの中にスピーカーを入れる。人間が近づくと音が出てくる。インタラクティブ。それをやったらって。

由本:それは素晴らしいですね。

宮脇:いいとこでしょ。

小勝:そうですね。池の中ですか。

山口:だから僕はね、《うつろひ》の支柱を池の中にもあるといいなと。それをこっちから逆に、そういう《うつろひ》の環境を作るための方法論を考えた方がいいと思う。

由本:じゃあ、池の中にもあり地上にもあり、というような感じで、全体を。

宮脇:場所を見に行くんですよ。いつ行くの、松田くん。

松田:3月です。

由本:そうですか。素晴らしいですね。それはいつまでに完成させて、というような、締め切りはいつですか。

宮脇:松田くんがよく知っているわよ。

由本:(笑)。私たちはいつ見に行けるんでしょう。

松田:4月25日から。

由本:そうなんですか、じゃあ夏はやってますか。

松田:いや、一ヶ月間だけです。

由本:残念ですねそれは。じゃあ、お花見の頃ですね、ちょっとその後か。4月の後半。(カタログを返しながら)どうもありがとうございます。それでは、お二人の共同作品なんでしょうか、初めての。

山口:コラボレーション。

由本:へえ、それは素敵ですねぇ。山口さんは作曲もなさるんですか。

山口:はい?

由本:作曲というか、音は。

山口:作曲は頭の中にある。

由本:頭の中で。

山口:というのは、僕のメモを整理して貰っているの。僕を研究している、今グループがあるの。その資料の中に、僕の楽譜が入ってた。

由本:それを使って?

山口:いや、それは使いません。

由本:分かりました。長岡の時の宮脇さんの作品も、人によって、人がスイッチを押すと鳴るという仕掛けだったんですか。それともいつも鳴っているような?

宮脇:いつも鳴ってないわよ。

由本:ものすごい音だったんでしょう?だから、何かスイッチを押したらガーンって鳴るっていうような形になってたんでしょうか。

山口:光りものと音ものは、美術館は喜ばないの。

由本:喜ばないですね(笑)。

山口:光りものと音ものは駄目。

宮脇:嫌がるようなものばっかりやったの。

由本:(笑)。でも《うつろひ》は本当に色んなところに。

宮脇:世界中に。

小勝:世界中に。すごいですよねぇ。

山口:僕は、地球儀もらったのがあるんだけど、その地球儀に《うつろひ》のポイントをこう、繋いでいくと面白いなって。

由本:ああ、面白いですね。

山口:地球儀の《うつろひ》。地球ってのは春夏秋冬の中に、環境があるんです。ところがそれが、今は変わっているんです。だから、暑いときは、その暑い国の一本こっちの、寒い方に移してもいいんじゃないか、地球儀の上でね。

由本:いろいろな構想を暖めてらっしゃいますよ、どうします(笑)? そのうち中国やロシアにも設置に行かれるかも。台湾にも行かれたんですよね。

宮脇:台湾人がね、えらく気に入っているんですよ。だから割とやっていますね、台湾で。

由本:そうですか。

宮脇:また行くんですって、近々。

小勝:台湾にも?

宮脇:もう場所も決まっているんです。

小勝:台湾のどこですか。

宮脇:真ん中でとか、ちょっと北とかね。あちこちで。台湾の写真持ってきてください。どこですかって。

松田:この作品ですかね。

由本:そうかもしれない。でもグラスだから違うか…… これは違いますよね。(東京画廊『宮脇愛子』展図録の65番辺りの写真を見せながら)これは音の出る作品ではないですよね。

宮脇: これはね、やっぱり金属だから(音は)出ますよ。

由本:あ、音が出る作品だったんですか、これも。

宮脇:出るっていうか、自然にでちゃうの。これ(東京画廊『宮脇愛子』展図録)、杉浦康平さんが作ったの。

小勝:えっと、それによると68年には宮脇先生のお名前無いんですよね。ちょっと年が違うのかもしれない。

宮脇:それはいい本でしょ。

由本:はい。ちょっとお話が前後するんですけれども、ロンドンのICA(現代芸術センター)のヤッシャ・ライハート(Jasia Reichardt)さんという女性のキュレーターがいましたけども、「エレクトリック・クリサンテマム」(Electric chrysanthemum)という「蛍光の菊」という展覧会をなさいましたけれども、それは…お二人とも参加されたんでしたっけ?ですよね。

山口:その、蛍光菊ってタイトルを付けた以上、違うものを僕が持って行ったから、それで彼女困ったらしい。

由本:そうですか、それはどのような作品だったんですか。

山口:布彫刻。

由本:布彫刻。へー、珍しいですね。

山口:それでそれは、みんなカイト(kite)って言ってたらしい。ロンドンの人は。「凧」って。

小勝:ちょっと拝見してよろしいですか。これに載っていますか。

由本:それはわざと、違うものを持って行ったんですか。

山口:いや、僕は彫刻というものを考えたときに、光と……

由本:動き、ですか。

山口:光と動きね、そういう、もっと言うとね、人間。光と人間。光っていうのは人間は意外と感じるんです、視覚的に。

由本:宮脇さんは、その「蛍光菊」の時に、中にガラスと光の入っているパイプの作品を出されたって書いてあるんですけれども、それはどんな感じの。

宮脇:忘れちゃったわ。

由本:1本の(真鍮の)パイプに入っているような。

山口:いや、1本って言うか。

由本:沢山のパイプに。

山口:そう。

宮脇:パイプもどこかに沢山あるでしょ。

由本:これに載っているのか、いっぱい。(東京画廊『宮脇愛子』展図録ををめくりながら)すみません、勉強不足で。

宮脇:これだってパイプでしょう(同カタログ47番あたりの作品の図版を指しながら)。

由本:そうですね。68年だから…

宮脇:それもパイプよ、今の。

由本:(同カタログ48番あたりの図版を示しながら)じゃあ、この辺ですかね。

宮脇:これだってパイプですよ、全部これ。パイプ切ってるだけよ。

由本:パイプにでも、ガラスと光が入ってたと書いてあるんですけれども。

宮脇:ガラスなんてないわよ。

由本:ガラスは入っていないと。

宮脇:これは、ガラスの作品(同カタログ72番辺りの図版を見ながら)。

由本:それは後の《メグ》(1972年)って作品ですね。

山口:なんか評論家の会議みたいになってる(笑)

由本:(笑)。そうですか、そんなことはないと。

宮脇:(小勝の持つカタログの方を指して)それ。

由本:ああ、その作品ですか。じゃあちょっと失礼してこれをお借りして(本を受け取る)。

宮脇:もうそろそろお終いにしないとね。

由本:そうですね、長くなってしまいましてすみません。

宮脇:もう5時になっちゃう。

由本:どうしましょうかね。

小勝:それでは結びの質問を。

山口:今度、朝日(新聞)のインタヴューあるんだよ。

由本:あの、一度、上野野外彫刻展の時に、宮脇さんはプラスチックにその頃疑問を持っておられたので、出品を断ったというふうに言ってらっしゃるんですけれども、プラスチックが公害をおこすので、それで作品を作るのをやめようと思われたんですか。

宮脇:材料がね。プラスチックの材料で注文してきたのよ。だから断ったの。

由本:その時に、反発として、石で作品を作ったとおっしゃっているんですけれども。

宮脇:(頷く)

由本:その頃、そういった野外彫刻展で素材を指定してくるようなものは、割とあったんですか。

宮脇:そんなのもあったのね、たまたまね。

由本:たまたまあったんですかね。

小勝:石の、なるほど。(Aiko Miyawaki Escultura (Barcelona: Fundacio´ Joan Miro´, 1992), p.24 を見せながら)この作品のことでしょうか。

由本:その3つに割れた作品ですか。

宮脇:そうしたら、いくら広いところでもどこでも、狭いところでもどこでも(置けるでしょ)。

松田:中の空間を見せようとしているんですよね、3つに分かれたことで、非常に離れた空間を……

由本:で、69年にニューヨークでお見せになられて、でその後、ポーランドのウッジ近代美術館(注:現在の国立ウッチ美術館、Muzeum Sztuki w Lodz)にも行かれるんですけども、そのあとで、《メグ》シリーズに移行されて。どんどん形が変わってきて、一所に留まっておられないという感じなんですけれども、常に実験精神というものを大切にしてこられたんでしょうね。

宮脇:(軽く頷く)

由本:《うつろひ》シリーズなんですけども、通常の彫刻が持っている量感ですとか、一所に留まってどっしりした不動な感じがするっていう、そういった彫刻の性質に対して、反旗を翻す、そういったお気持ちもあったんでしょうか。

宮脇:だから、私は人がやったことの無いことをやりたい、と常に思ってたんです。

由本:最初はでも、パイプで繋いだものだと、それが自由にいかないので、ピアノ線を見つけられて、それからそれが自由にできるようになったんですよね。

宮脇:(軽く頷く)

由本:それは今でも色んなところに設置なさってますけれども。

宮脇:あの、レリーフの作品、松田くんちょっと持ってきてあげて。

山口:僕の部屋にある。

宮脇:私の部屋にもいっぱいある。

松田:見に行っちゃったほうがいい。

宮脇:今の私の、新しい作品だから。

山口:見に行った方がいい。

由本:そうですか、じゃあ、これが終わった後で見せて……

宮脇:だって今話をしているから、1つ持ってきてあげなさいよ。

松田:いや、全部見た方が、パッとわかりますよ。今パッと見に行っちゃった方が。

宮脇:いや、今行ってらっしゃいよ。パッと行って、パッと帰って。

由本:勝手にいいんですか、じゃあ、それでは失礼して。

(由本、小勝、松田に連れられて作品を見に行き、戻ってくる)

由本:山口さんのお部屋にもあるんですね。あれもピアノ線で?

宮脇:(軽く頷く)

由本:そうですか、素晴らしいですね。

宮脇:だから毎日作っているの。

由本:ピアノ線って、こう扱っているときに手に怪我なんか、なさらないんですか。

宮脇:全然。

由本:大がかりなものは何人でもやらないと、反動があって……

宮脇:ああいうレリーフなら一人で、松田くんに手伝って貰うだけで済むから。

由本:宮脇さんのあの《うつろひ》の線なんですけれども、あの線には昔病弱であった頃の、閉塞感みたいなのから解放されたいというような、お気持ちがあったのでしょうか。

宮脇:そりゃありますよ。だから窓から外を見ていると、空を見てるといろいろ想像するでしょ。だから空に線を描くっていうのがあったのが、はじまりで。

由本:まさにあの作品だと、どのような場所に行っても線を描くことができますもんね。

宮脇:(頷く)。あの、こないだの模型はもう持ってっちゃったんでしょ、台湾の。

松田:ああ、あれはまだプレゼンテーションのまだ準備中です。まだです。

宮脇:あるの、ここに? ないんでしょ。

由本:一度この中の、ドキュメンツの中だったと思うんですけれども、《Listen to your potrait》という作品がありますよね。あの作品を作られたときに、「ご自分のお墓のような気持ちで、死ぬと思って作った」というふうに仰っているんですけれども。

宮脇:お墓ね、作ってあるのよ。ね。

由本:あ、そうなんですか。その頃、癌などのお病気があったんですか。

宮脇:まあね、癌じゃないかって言われてたの。

由本:ああ、それではなかったと。そうですか。そういった死に接近したような切迫感から、自由な作品が生まれたというところもありますか。

宮脇:ありますね。

由本:一度、宮脇さんは「芸術家のコンセプトは一生かかって作り上げるもので、人生観とか哲学を表すものでなければ、芸術家ではない」と、仰っているんですけれども、そういったコンセプトっていうのは次第に70年代から80年代に、《うつろひ》に入ってようやく完成してきたという感じなんでしょうか。

宮脇:完成なんていつまでもできませんよ。

由本:完成することはなく。いつまでも。

小勝:ただ初期の頃から一貫されているのが、ご自身も仰っている、この「はじめもなく終わりもない」という、それは、先生のコンセプトの1つと考えてよろしいでしょうか。

宮脇:まあ、そうですね。

小勝:すべての、あの平面から立体の、最後の今の《うつろひ》に至るまで、ずっと一貫したものとしてそれがあるような気がするんです。

宮脇:(頷いて)はじめもなく終わりもなく。なんか本があったでしょ。

小勝:はい、こちらに。岩波の(宮脇愛子『はじめもなく終りもない―ある彫刻家の軌跡』(岩波書店、1991年)。

宮脇:中途半端な本だけどね。これ。

小勝:いえいえ、非常に素晴らしい文章で。

宮脇:もうそろそろいいかしら。

小勝:はい、ありがとうございました。本当におかげん悪いときにどうも失礼いたしました。

由本:ありがとうございました。