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森山安英オーラル・ヒストリー 2017年2月4日

北九州市戸畑区、北九州テクノセンターにて
インタヴュアー:小松健一郎、細谷修平、黒川典是
書き起こし:小松健一郎
公開日:2018年7月15日
 

小松:今日、明日のインタヴューでは〈集団蜘蛛〉の話が中心になっていくんですけれども、主要メンバーの春元茂人さんとは大学で知り合ったんですよね。

森山:そうです。彼はもともと私より一学年上でですね。長崎県の五島出身で、五島高校(長崎県立五島高等学校)を卒業して、長崎の営林署に入ってたんですよ。で、次の年にどうしても美術がやりたいっていうんで辞めてですね。佐賀大学に特設美術科(教育学部特別教科教員養成課程)があるっていうんで。高等学校の美術の教師の資格を取れるわけで、入ってきたんです。そのとき、もう私は入ってて(注:春元入学時に森山は2年生)。筑紫野寮っていう寮で知り合ってですね。(特設美術科の学生は)何人ぐらいいたのかなあ。30人ぐらいいたと思いますけど、僕はほとんど寮におるもんやから、特設美術科のなかでも浮き上がっとるっちゅうか、友達もまったく作らないし。春元だけが同じような考えで。ただ、春元は学校の先生になるのを条件に来てたんですが、僕に引きずられて全然授業に出らんもんだから、僕がいなくなっても卒業できんで、結局、7年か8年ぐらい行って卒業しましたね(笑)。

小松:卒業して、中学校の先生に。

森山:今の熊本の地震(注:2016年4月14日以降の熊本地震)の上益城(ましき)郡(実際は下益城郡)っていうとこですけど、そこの中学(砥用(ともち)町立砥用東中学校、現・美里町立砥用中学校)の先生になりまして。僕もこっち(北九州)に帰ってきてから縁が切れてたんですけど、僕がけしからんことを考え始めてから、春元を呼んで、「何かできんかな」とか。

小松:それは芸術活動というか。

森山:そういうことです。

小松:〈蜘蛛〉につながる活動をしようと思って?

森山:〈蜘蛛〉とか考えていませんでしたけどね。僕は足立山で乞食をしとって、ろくにその頃は働きもしてなかったんですけど、友達から借金して毎年熊本まで行って、何日かおって飲んだくれて「(教師を)辞めろ」っちゅうてから。春元っていうのは純朴な、律儀な男で、「今受け持っとる生徒を放り出すわけにはいかん。3年待ってくれ」っちゅうんで。

小松:その頃、森山さんは絵画教室をして。

森山:春元が来る頃はもう始めてたのかな(注:春元が北九州に移ったのは1966年。森山が寺などで絵を教え始めたのは1962年頃だが、自宅に絵画教室を開いたのは67年)。生活のめども立つからって、言いよったんですけどね。女房が幼稚園の先生をしてまして、その関係やらで、春元が〈蜘蛛〉を辞めるまで一緒にやってました。

小松:じゃあ、〈蜘蛛〉の活動と並行して教室を。

森山:そういうことですね。ただ〈蜘蛛〉の活動自体はあっという間に終わりましたんでね。春元はすぐ「(〈蜘蛛〉を)辞める」って言い始めて、反博(1969年5月3日〜5日の「[大阪]万博破壊九州大会」)のあとに辞めました。やっぱり春元は若い頃からずっと一緒に私とおるもんやから、これはヤバいと思ったんでしょう(笑)。

細谷:春元さんが「ヤバい」というのは、どういったところなんですかね。

森山:まあ、これは僕と春元しかわかりませんけど、やっぱり犯罪につながっていくんじゃないか、っていうような予感はあったでしょうね。

小松:呼び寄せてから何をやるかという打合せみたいなものは。

森山:その頃からフクニチ(新聞)の深野治さんとか、毎日新聞におった田中幸人さん(注:毎日新聞社退社後、埼玉県立近代美術館長、熊本市現代美術館長を歴任)やらが、さかんにいろんな展覧会の企画に首突っ込んできたりしてましたんで、それに相乗りするかたちで僕らも入ってですね。最初が深野さんやら、西日本新聞の谷口治達(はるみち)さん(注:西日本新聞文化部長、九州造形短期大学長、田川市美術館長を歴任)が企画した(注:実際には深野のみ)、グループ連合による何とかっていう展覧会(注:「グループ連合による芸術の可能性展」[以下、「グループ連合展」]、1968年5月7日〜12日、福岡県文化会館)だったもんだから、(深野が)「北九州でもグループを作ってくれ」って言って。その話が誰のところにいったのかな。とにかく、それでかなりの人たちが集まって、モダンアートの人たちですけど、これに便乗して(グループを)旗揚げして、(その後メンバーを)辞めさせていこうっていう考えを起こしまして。
 最初の段階で、いろんな人がおったんですよ。コンクール作家やら団体展に出してる作家だとか、ただ仲良しのグループみたいになっとるわけで。深野さんなんかの考えも、最初はそれでいいと。いろんなグループをぶつけて、うねりを作っていこう、そのうちに何か起こるだろうっていう、新聞記者やから、そんな考え方でしょうけど。僕の方ははじめから、次の段階から(メンバーを)削っていこうや、っていうかたちで、その展覧会をきっかけに半分ぐらい落としまして(注:実際には8名中2名が脱退)。落とす理由はないんですよ(笑)。(森山らが)「辞めてくれ」って言うから、(相手が)「なんで」って言うと、「お前が嫌いだから」とか、でたらめを言うわけですよね。ケンカに持ち込んで、向こうから出ていくように仕向けるっていうかたちですね(笑)。

黒川:森山さんはそのときに運動を志向していたんですか。

森山:そうですね。

黒川:それは美術運動ですか。

森山:うーん…… まあ、一応、美術の現場でやってるもんだから、美術運動でしょうけども、その基準を美術に限らんようにしてたからですね。だからコンクール作家なんか最初から許せんわけで。それから団体展の作家も、動機が不純であるという理由で切るっちゅうかたちで、だんだん先鋭化していって、3人ぐらいになってしまったんですね(注:3人になったのは1968年9月の「蜘蛛蜂起」展終了後)。それを黒ダ(ライ児)やらは「真正蜘蛛」っていうような言い方をしていますけど。その間の1年ぐらいは、それこそケンカだらけですよね(笑)。そのへんの工藤会とあんまり変わりゃせんので(笑)。

黒川:それは運動の方針などを巡ってのケンカですか。

森山:もちろん、それもありましたけどね。「コンクールに出すな」って言いながら、ときには「出していい」と。「出していいけど、賞金を半分(注:実際には2〜3割)〈蜘蛛〉に納めろ」とか言ってみたり、ケンカして追い出すのが目的やから、もうメチャクチャなんですよね(笑)。要するに、運動で何をするかっちゅうのを、まず出していないわけですよ。それを出すと、そこで終わってしまいますんで。そんなふうにして、福岡の方で展覧会をしたりしてたんですね。菊畑(茂久馬)さんが「(第3回)九州・現代美術の動向展」(1969年2月25日〜3月2日、福岡県文化会館。注:菊畑は事務局長)をやるときは、もう3人だけになっていて。

小松:森山さんが参加するのは2回(「第2回九州・現代美術の動向展」、1968年2月27日〜3月3日、福岡県文化会館)からですけど。

森山:3回じゃなかったですか。

小松:2回のときにも出品されているはずです。これはフクニチ新聞(1968年3月2日)ですけど、写真の石膏の額縁は森山さんの作品……

森山:これは動向展じゃないですよ。

小松:いや、2回目の動向展です。

森山:そうかなあ。

一同:(笑)。

小松:見出しに「九州・現代美術の動向展」。「森山さんの作品」と記事のなかにも。フクニチだから、書いたのは深野さんかなと思うんですけど。

森山:これ(作品)は覚えてますけどね、グループ連合やったかと思ってました。

小松:同じ作品を2回出されているはずなんです。

森山:ああ、これは時期が比較的近かったんですよね。動向展のときは、作品を撤去して壁だけにするっていうコンセプトだったんですよ(注:実際に撤去したのは「グループ連合展」)。だからグループ連合に出したときは、これを作品として並べてたんですけど、撤去する前に写真を撮ったんだな。いや、思い出しました。

細谷:その撤去は、どういうタイミングでするんですか。

森山:初日だけで、あとはもう全部なくしたと思います。で、なんでないのか、っちゅうことを書いて。

小松:理由まで書いたんですね。

森山:と思いますけどね。ちょっとよく記憶もないなあ、50年も前の話だから(笑)。

黒川:メンバーを先鋭化していくときに、春元さんと加藤(勲)さんには、はじめから残って欲しいと思っていたんですか。

森山:まあ、そうですね。春元ははじめからそうなんですけど、加藤はコンクール作家だったんですよ。学生時代から、金沢(美術)工芸大学かな、シェル(美術)賞に出して賞をとったり(注:1967年の「第11回シェル美術賞展」で佳作賞受賞)。小松豊さんなんかと一緒で(注:第8回シェル美術賞で二等受賞)。石子順造が評価したりしてた、将来有望な作家だったんですよね。それがたまたま帰ってきて、今の九州国際大学付属高校、昔は八幡大学って言ってたんですけど、そこの女子高(八幡大学附属高等学校女子部、現・九州国際大学付属高等学校)の美術の教師になったんですよ。そのときに彼をグループに入れたわけですね。「コンクールに出すな」って言ったとき、小松豊さんやら松本芳年さんたちとは大ゲンカになりましたけど、彼は「わかった。俺もなんで出しとったのかわからん」とか言うて。彼は当時「6」っていう数字をグラフィック風に描いて評価されてたんですけど、「こげなもの、つくりたいわけでもない」ってから、全部捨ててしまったんですよね。それを見てて「この人は何だろう」っていうのがありましたね。あとから聞いたんですけど、「なんで俺は絵を描いとるんだ」みたいな、もっと根源的なところで悩んでたらしくて。要するに、こんな教養みたいなかたちで絵をつくっていくのは虚しいっていうようなことで、全部捨てると。だから僕らもそうですけど、当時の作品は一点もないですよ。

黒川:そういう考え方が共鳴できるので、一緒に活動していけるなと。春元さんもそうですか。

森山:そうですね。春元は器用な男だから、何でもできるんですけどね、技術的に。〈蜘蛛〉が始まった頃、田中幸人さんが小倉のギャラリーで〈蜘蛛〉の展覧会(「蜘蛛集団のアート・フェアー(現代美術の即売会)」、1968年7月13〜21日、めがねのセコール2階/北九州市)をやったことがあるんですけど、そのときに銅版画の作品(《無題(吹き抜けの室内)》1968年、福岡市美術館蔵)をつくってくるわけです。エッシャーなんですよ。しかし春元はエッシャーを知らんのですよ(笑)。「エッシャーだ、エッシャーだ」ってみんな言うけども、「なんじゃ、そりゃ」みたいな(笑)。そんなふうに、技術的にもセンスも抜群だし、何でもできるわけですね。ただやっぱり、「俺がしたのは何やろうか」みたいなところがありましてね。僕も当時まで、オブジェやら〈九州派〉みたいにつくってましたけど、やっぱりアメリカの焼き直しだし。オリジナリティに対する疑問やらがずっとつきまとってまして。現代美術としてブランド化されていくものに対する苛立ちみたいなもの、あるいは自己不信みたいなもの、それが〈蜘蛛〉の出発点じゃないかと。3人ともそう思います。

黒川:〈九州派〉はどのようにご覧になっていましたか。

森山:僕は佐賀におったもんやから、学生時代。福岡は全然、〈九州派〉があってることも知らなくて。(大学を)辞めて(北九州に)帰ってきてからだから、〈九州派〉はもう立ち上がっとったんです。

黒川:知ったきっかけは何だったんですか。

森山:僕が足立山に逃げ込んで乞食しよって、オブジェやらつくったりしよった頃に、ときどきヒョロヒョロ街に下りて行って、友達にたかったりして。友達ったって、絵描きやらおらんわけですよ。中学校のときのガキ友だちとかから金を巻き上げたりしてから。「アベベ」っていうモダンジャズの喫茶店があったんですよね。そこが文化人の溜まり場になっとって。文化人ったって警察から嫌われるようなのばっかりです。かなり反体制的な連中がたむろしとって。そんなかに働(正)さんがおって知り合ったんですね。それから川上省三さんとか、〈九州派〉の北九州におるメンバー。それがきっかけですね。

黒川:では作品より先に人というか、付き合いが。

森山:そうです。酒癖の悪いのがおってから、とにかくもうガラは悪いし、いばりまくっとるし。そういうのはやっぱり類は友を呼ぶで(笑)、「おう、お前もオブジェやらつくりよるんか」っちゅうようなもんで、遊びに行くようになってから。それで働さんの作品やら見たり、働さん経由で〈九州派〉だとか、あるいは〈ネオ・ダダ〉だとか〈ハイレッド・センター〉の情報やら知ってですね。

黒川:それを知ったうえで前衛美術に対する疑問が出てきたんですか。

森山:その前からですね。作品が全然残っとらんのも、ひとつそれがあるわけですよ。興味も何もないし、「こんなもん、つくってどうするんや」みたいなのがあるし。働さんも作品が全然残っとらんですもんね。(現・北九州市小倉北区)砂津に遊びに行きよった頃は、もう家のなか作品だらけみたいにゴロゴロしとったけど、(今は)一点もない。〈九州派〉の展覧会やら出してたけど、みんな終わったら捨ててしまいよるわけで、ろくに写真も撮ってないですもんね。息子が今、大牟田で働さんのあとを継いで画塾(西部美術学園)やらやってまして、淳っていうんですけど、淳くんに聞いたら「大牟田までは作品を持っていっとったみたいやけど、それも全部焼き捨てよったなあ」とか言ってますけどね。だからやっぱり、根っこのところで、作品を残す気持ちが希薄っていうか、あるいは創作自体をそういうふうに考えていないっちゅうか。働さんと僕とが接触するようになって、だんだんそれが2人の間で相乗効果っちゅうか、エスカレートして(作品を)つくらんようになるし。「結局、作品しか残らん」っていうような言い方があるでしょう。それに対して2人とも疑問があったっていうこと。それは芸術至上主義じゃないかっていうような、そのへんは〈九州派〉でも働さんと菊畑さんは相当違いますよね。菊畑さんはやっぱり作品主義だし、〈九州派〉のなかでも少数精鋭、つまり作品の質を言ってるわけですから。桜井(孝身)さんの方は、「ゴチャゴチャ言って、それを運動と名づける」みたいな言い方をしてましたけどね。「中身はどうでもいいんだ。民衆連合による人民戦線をつくる」みたいなこと言って。「それは美術の問題じゃないだろう」って言う人もおりましたけど(笑)。僕はやっぱり、そっちに近かったですね。

小松:そういう芸術や作品に対する疑いが、こういう額縁の中に何も入っていない作品に?

森山:(関係が)あると思いますよね。

小松:第2回の動向展のときは、それを運動にしていこうというよりは、まだ作品としてというか、モノとして展示はしているわけですよね。

森山:だからそれも不満で、作品を撤去するっていうような行為を入れたんじゃないんですかね。現にこれを立体作品として捉えると、プライマリー・ストラクチャーみたいなもんで。そういうことに対する疑問が僕のなかにあるし。作品を技術的に純化していって、ひとつのモノをつくるっていうようなことじゃなくて、何かをやって、それを作品と言わなくてもいいんだけども、そのモノ自体は運動の触媒にすぎんっていうような考え方ですね。

黒川:そういった考え方はどうやって醸成されてきたのでしょう。働さんとお会いしてからはいろいろあったと思うんですが、それ以前から現代美術に対する疑問があったと先ほどおっしゃっていましたけど、その頃、現代美術についての情報とか、あるいは思想的な側面で、何か読んだとかありますか。

森山:いや、よくわからないですね。子どもの頃から絵が好きっていうのはありましたけど、それは誰でもですもんね。みな初めは中学のときの先生に褒められたからとか、そんなのが多いんですけど(笑)、絵描きになろうと思った形跡もありませんもんね。だから僕は大学の試験を受けるのに、高知大学の文学部を受けてますもんね。当然、絵描きの意識はないわけで、なんで文学部やったかもわからんわけ(笑)。親父が新日鉄の下っ端の工員ですけど、「生活できんとつまらんじゃないか(注:「つまらん」は方言で「だめ」「いけない」の意)」って言うからですね。うちは裕福な家庭じゃないし、子どもが5人もおりますし、長男ですし、だから、高校(の美術教師)の免状、資格が取れるっちゅうんで、やるかっちゅうことだったんですけど。たまたま絵が得意やったとかっちゅうことは、あとからの話ですね(笑)。

黒川:高知大学は受かったんですか。

森山:受かってます。当時は一期と二期とありまして、両方受けられたんですよね。高知が一期で、佐賀は二期。

黒川:両方受かって佐賀を選んだのはなぜですか。

森山:一応、就職できるからですね。

黒川:じゃあ、入学当初は就職する気があったんですね(笑)。

森山:いやいや、はじめの一ヶ月ぐらいのもんですよ(笑)。全然面白くないし。もちろん一般教養とかが面白くないのは、どの学部でも一緒やけど。

細谷:これは影響を受けたなっていう本とかありますか。思想的に響いたみたいなものは。

森山:いやー、高校の頃までは何もないですね。ただ悪いことばっかりしてました。停学やら何回もくらってるし、学校にもあんまり行ってませんし、まあ不良ですね。当時「ヒロポン世代」って言われてですね、教室でヒロポン打ってましたもんね(笑)。

一同:(爆笑)

森山:僕だけやないですけどね(笑)。ムチャクチャですよね。

細谷:大学に入ってからは本を読まれたりとか、あるいは詩とか、そういうものに関心はあったんですか。

森山:2級上の久保田済美さんっていう人に(出会って)。やっぱり僕にとっては青天の霹靂でしたね。当時、50年代の初めぐらいですけど、抽象絵画であれだけの作品をつくってる人、日本にいませんよ。岡本太郎とかいますけど、岡本太郎は彼自体が運動体みたいなもんだから。作品がどうだっちゅうよりも、思想家みたいなところがあるし、別格ですけども。

黒川:岡本太郎が書いたものはお読みになりましたか。

森山:読みました。やっぱり刺激を受けましたね。その頃から久保田さんなんかと少しずつ離れ始めたのかな。久保田さんちゅうのは、とにかく絵がすばらしいんですよね。「すばらしい」っていう言い方は難しいんだけど、何て言いますか、おいしい酒を飲んでるみたいな感じ。おいしい料理だとか、いい女だとか(笑)。だから芸術の、「いいものはいい」みたいな言い方があるじゃないですか。「ブルジョワ的だ」っていう批判もありますけど、やっぱりあると思うんですよね。

黒川:それは先ほど否定した作品至上主義とか、芸術至上主義には結びつかないんですか。

森山:おそらくそういうものを、久保田さんに接して何年間も(経験)してきてるから、それに対する反動として、違う世界に行ったんじゃないでしょうかね。だから僕は自分でも自称しとんですけど、「久保田さんの弟子だ」と。みな不審そうに「信じられん」とか言ってますけど、やっぱりそういう意識は芽生えてきたんだと思います。だから〈蜘蛛〉が始まる直前ぐらいから、絶交しましたもんね。近頃、もう歳とったから、「やあ」とか言って会ってからしてるけど(笑)。

黒川:でも今でもいい作品だと思っているわけですよね。

森山:いいと思いますね。そりゃあ、日展に出してる連中と同じ具象でも別格に見えますもんね。若いとき食い詰めてから、「ほんとはやりたいけど抽象じゃ食えんから」っちゅうんで、具象に戻ったっちゅうか。学生の頃から具象も描いてましたけど、やっぱりすごかったですよね。僕にとっては、なかなか越えられん壁だったですね。その反動が〈蜘蛛〉みたいな面もありますけどね。美意識の世界には才能っちゅうものが厳然としてあって、それは持って生まれた、努力してもとても手に入らんもんで、っちゅうのを(久保田と)一緒にずっとおって、骨の髄まで見せつけられるわけですよ。まあ、ひとつ大きな原因だと思いますよ。当時からメチャクチャしていて、みんな不審そうにしてましたけど、親に反抗するのと一緒ですよね(笑)。結局、親を殺さないと前に行けないもんだからですね。春元やらは、やっぱりそれを知ってたと思いますよ。

小松:加藤さんはどちらかというと才能の方にも思えますけど。

森山:そうそう。加藤は何ていうかなあ、美術も含めて、世間に対する怨念みたいなものがあるんじゃないでしょうかね。今、作品制作を再開してますけど、そんなのがないと、50年も描いとらんでから再開しないですよ。

小松:グループ連合展のとき、『批評』(「批評」同人会、第1号、1968年5月)によると深野さんが企画をして、最初、小松豊さんにグループ結成の打診があったと思うんですけど、そこからどうやって。

森山:僕もよく知らんですけど、とにかく小松豊さんやら、そのへんの人が周りに呼びかけてですね。知らん人ばっかやったんですけど、グループ結成しようっちゅうことになって、(福岡県)芦屋(町)の遠矢政巳さんっていう人のところに集まって。遠矢さんっちゅうのは、よく知らんですけども、「上組」っていう運送会社があるんですよ。かなり大手らしいんですけど、そこの重役(注:実際には相談役か)でね。会社からお金をもらって好きなことをやっとる、ってなことを言ってましたもんね。立派なアトリエも持ってましたし。

小松:他のメンバーより年上ですもんね。

森山:そう、当時、僕らが30の初めぐらいやったかな。50ぐらいになっとったんやないですかね(注:実際には1929年生まれで森山より7歳上)。

小松:その前は面識がなかった。

森山:全然。

小松:同じグループを結成する前提がないような(笑)。

森山:誰とも面識がなかったんですよ、僕は。春元はよそから来とるから。

小松:田代恒雄さんとは。

森山:田代さんは、遠矢さんところの画塾に絵を描きに来よったんかな。新日鉄の工員でですね。

小松:松本芳年さんは。

森山:やっぱり、そんとき入ってきたと思いますよ。

小松:松本さん、新聞記事(西日本新聞、1994年3月13日)では森山さんに熱心に誘われたって書いてありましたけど。

森山:全然違いますね(笑)。

小松:富浦静男さんは松本さんと一緒に〈九州制作会議〉も。

森山:うん。結局、教師グループなんですよ。ほとんどの場合、教師っていうのはコンクールに出してですね。富浦さんは行動(美術協会)だったと思いますよ。松本さんは団体じゃなくて、コンクールに出してたんだろうと思いますけど。

小松:もう一人、山口精之助さん。

森山:お父さん(山口正雄)が大牟田で画塾(西部美術学園)をやって、働さんが引き継いだ、その息子さんですよ(注:西部美術学園は山口正雄から谷口利夫、さらに働正に引き継がれた)。彼はグループ連合(展)のとき一回だけ参加して、〈蜘蛛〉の結成の段階では降りてます。

小松:それまで面識のない方が集まっているということは、誰かリーダー的にまとめる人が。

森山:だから遠矢さんが(リーダー役を)しようとしたのを、僕が「やめてくれ」ってから。

小松:このときまではグループ名も遠矢さんが決めていたんですよね。

森山:そうです。〈ZELLE(ツェル)〉とか言ってね。

小松:「ゼロ」と読んだっていう話もあるんですけど。

森山:いや、遠矢さんが「ツェル」って言っただけで、誰も「ツェル」って読みきらんかったもん(笑)。

黒川:黒ダ(ライ児)さんが、「zelle」は英語の「cell」、「細胞」だから、政治運動の細胞とか、そういう意味があるんじゃないかって言っていましたけど。

森山:遠矢さんが知って言いよったんかどうかは知らんけどね。運送会社の重役やからね、知るわけないんよ(笑)。

黒川:資金的に遠矢さんが展覧会とかをサポートしたことはあったんですか。

森山:いや、ないですね。そんな匂いをさせてましたから切ったんですよ。ボス化するなあと思って。

黒川:森山さんが目指した運動の組織体は、強いリーダーがいてというものではなくて、もっと民主的というか、お互いがニュートラルな関係がよかったんですか。

森山:そのときは、まだはっきりしてませんけどね。あとから気がつくと、もっと強力な結社ですね。だから、加藤と春元と3人残ってからは、「義兄弟」ってことになってました(笑)。

黒川:それは少数精鋭主義とは違うんですね。

森山:まあ、少数精鋭っちゃ少数精鋭だけど……自爆テロですからね(笑)。

一同:(爆笑)

小松:そのときの出品作品がこちら(『グループ連合による「芸術の可能性展」作品の記録』、「批評」同人会、1968年5月10日)ですね。こうやって見ると、グループに傾向は…… バラバラというか。

森山:みんな似たようなもんですよ(笑)。

小松:ほかに出品していたグループのことは覚えていらっしゃいますか。

森山:覚えとらんですね。

小松:〈九州派〉も出しているんですけどね。

森山:(〈九州派〉のページを見て)あ、これは覚えてますよ。小幡英資(おばたひですけ)さんが言い出してね。こんときのリーダーですね。「セックス美術館」(注:正しくは博物館)っていう名前で、共同制作だと。だから、僕らから見たら〈九州派〉っちゅうのは牧歌的で、憧れだったんですよね。解放感っちゅうか自由さがあってですね。それから若者らしい反逆精神があって、反俗的でね。いつの頃からか「このやろ」って思い始めて(笑)。

黒川:合流しようと思ったことはないですか。

森山:働さんやら、オチオサムやら、桜井さんやらが「お前も入れ」って言ってから、「わかった」っちゅってから返事はしたんだけど、その後〈九州派〉自体がなくなってしまって、何もしてない(笑)。

黒川:存続していたら入ったかもしれないんですか。

森山:うーん、入ったかもわからんですね。もっと面倒くさいことになったやろな(笑)。自然消滅みたいになくなってるんだと思いますけども、このあとどうするんだろうっていうような感じが、展覧会やら見ててやっぱりありましたね。よく言えばおおらかなんだけど、この時期になると戦略的にも分裂してて……桜井さんなんか、いや、みなそうですけど、「俺は〈九州派〉だ」って、看板になってしてるわけですよね。事実、ある意味でブランド化して、権威になってるわけですから。今でも「私は〈九州派〉でから」なんとかってから、田部光子さんやら一番いい例ですけど。だから僕は「あんたが一番〈九州派〉の悪い部分を継いどるんじゃ」ってケンカするんですけどね。〈九州派〉の一番いい部分っていうのは宮蕗テ之助さんですよ。寡黙でね。

細谷:ひとつ、すいません。「英雄たちの大集会」(1962年11月15日〜16日、百道屋、百道海水浴場/福岡市)がありましたね。そのときに凖之助さんが穴を掘っていたのが印象に残っているってお話がありましたけど、〈九州派〉以外の方、例えば仙台の糸井貫二さん、ダダカンが来ているんですけど、どなたか印象に残っている方はいらっしゃいますか。

森山:僕は当時、まったく名前も知りませんでね。あとから糸井さんが来とったとか、風倉(匠)さんが来たとか、いろいろ聞いたんですけど。凖之助さんも掘りよる最中、夜中だからですね、誰が誰かはほとんど覚えてませんね。ただ、小幡さんが鶏を絞め殺しよった(注:メスや釘で刺殺)のと、田部さんの作品に小幡さんがなんか介入してたのと、田部さんの作品(注:壁に取り付けたマネキンの下半身など)は覚えてますけど。あと、働さんは火をつけて燃やすとか言ってましたけど、それもいつやったのか。みんなバラバラやってますんでね。スケジュールがあるわけじゃないし。ただ、僕としては今で言うパフォーマンスっていうかたちの、ある種のショーですけど、初めてですので、やっぱり衝撃的だったですね。

黒川:それは同時多発的にいきなり始まるんですか。「これから誰が何をやります」とかアナウンスもなくて。

森山:うん、何も(笑)。桜井さんなんかがあんときの仕掛人でしょうけど、桜井さんも全部は見とらんのじゃないでしょうかね。

細谷:そこに遭遇した人だけがわかっているわけですね(笑)。

森山:そうそう。

細谷:なるほど。ありがとうございました。

小松:「グループ連合による芸術の可能性展」が終わって、そのあと話し合いみたいなことをやるわけですか。

森山:なんかあったような気がするな。遠矢さんのとこ(アトリエ)やらで。あっちこっち溜まり場がありましたんでね。福岡に「BOBO(ビオビオ)」っていう、〈九州派〉のメンバーの尾花(成春)さんの弟さん(尾花新生[あらお])がやってた溜まり場がありましてね。ジャズ喫茶ともまた違ってて、ファッションも含めた風俗運動の拠点みたいなかたちでやってたみたいで。そこでもよく会合をやってましたし。遠矢さんを辞めさせたのはBOBOです。

小松:それはどういう理由をつけて。

森山:よくわからんですけど、とにかく議論になって、桜井さんやら菊畑さんやらもおったみたいやけど。議論してるときに、遠矢さんがなんやかんや言うのをね、「お前帰れ」とか言って私が追い返したと。「理由は」っちゅうたら、「あいつは好かん」って言ったって、桜井さんが言いよるんだけど。僕もよく覚えてないんだけど(笑)、大した理由がなかったのは間違いないですね。ただもう「あんたとは一緒にしない」っていう。

小松:遠矢さんとは、抜けたあとは接点があるわけですか。

森山:ないですね。ないっていうか、菊畑さんがやった第3回の動向展に、僕が切ってしまったから参加できなくなってですね。その意趣返しに、八幡(市民会館前広場)で遠矢さんが大掛かりな、「遠矢さんが全部お金出した」って言ってますけど、クレーンとか使った現代美術のショー(「全九州第1回野外芸術ショー 一つの世界をみつめて」、1969年2月25日)を、このへんの若い作家やらを集めてやるっていう話を田代さんから聞いたんですね。田代さんは家が近所で、まあ、はっきり言ったらスパイですけどね(笑)。だから、そのショーやら遠矢さんに付いていった連中と、動向展にあれ(参加)してたのは、そこではっきり分かれてしまいました。分かれたっちゅうかね、遠矢さんがその連中を引きずり回したんだな。ああいうところがね、匂いからして嫌やったのよ、僕は。

黒川:「野外芸術ショー」には石子順造さんと中原佑介さんがいらっしゃったと思うんですが、批評家の方を森山さんはどうご覧になっていましたか。

森山:動向展の頃から針生(一郎)さんやら東野(芳明)さんやら来てるから、話はいろいろ聞いたりしましたけど、僕らの方からすると、〈九州派〉もそうなんですけど、やはり東京っていうのが頭にあってですね。〈九州派〉も建前として「反東京」って言ってて、実際は「東京で有名になろう」っていうのと「反東京」は同義語じゃないか、みたいなことだったんですけど(笑)。そのへんを〈蜘蛛〉の場合は、はっきり拒否するっていうことだったですね。地方の絵描きっちゅうのは、みんな東京でデビューしたかったわけですよ。「反東京」って言いながら、「東京」っていうのはそういうことなんですよね。そういう状況も含めて〈蜘蛛〉にはもうなかったっていうか。僕は東京、トータルで5回ぐらいしか行ってませんのでね。あんまり意識がないんですよ。

小松:中央志向を切って、北九州・福岡だけと最初から決めていた。

森山:そうですね。北九州です。福岡に行ったりして、あれ(展示やパフォーマンス)してましたけど、やっぱり福岡は土地柄が違うんですよね。北九州ってのは明治の八幡製鐵所を中心とした流れ者の街で、福岡は何百年も続く商都ですからね。文化の質が違うわけですよ。よく北九州は「文化不毛の地」とか昔から言われて、「そういうことやない」って行政はさかんにいろんなことやるんですけどね、僕らからしたら「不毛こそが」っていうところがあって、それは故郷(ふるさと)意識とは少し違いますね。僕は親父が大分県の日田から出て来てるんですよね。みんなそんなんでから、あっちこっちから食い詰めた水呑百姓の次男、三男がゾロゾロ出てきとるわけですよ。

黒川:お父さんが新日鉄にお勤めになっていたことは、森山さんにとって何か影響はありますか。

森山:やっぱり筑豊との関係が僕のなかでねじれましたね。結局、新日鉄が炭鉱を搾取してるわけでしょ。その意識は強かったですね。

黒川:引け目というか、コンプレックスのようなものでしょうか。

森山:やっぱりコンプレックスでしょうね。とくに中学生、高校生になってから、労働運動が激しくてですね、(八幡製鐵の)社宅におったんですけど、第一組合、第二組合ができるでしょ。グチャグチャに分裂してから、抗争も起こるし。そんなかで、そういう意識に目覚めるんですけども。第一組合といえども、筑豊から搾取してるっていう意識が拭えんのですよね。だから、大学からその後もですけど、僕はやっぱり(筑豊に)行けなかったですね。なんか……行ってはいけないところみたいな感じがあったですね。行く資格がないみたいなね。やっぱり子どものときの傷っていうのは残るんですよね。谷川雁やら上野英信やら、森崎和江やら、ずっと読んで育ってきとるんですけど、一種独特な負い目ですね。そんなのも〈蜘蛛〉には影響しとると思いますよ。
 筑豊は、まあ聖域というか。だから、僕が逮捕されて勾留されとったとき、〈九州派〉の田部光子さんだとかオチオサムだとか、みんな集まって「森山奪還運動」っちゅうか、していたらしいんです。そのときに裁判を想定して、証人を上野英信さんやらに頼んどるんですよ。上野さんが往生してね。それを僕は全然知らないわけで。手紙を書いたのが深野さんなのか、オチなのか知らんけど。菊畑さんが上野さんと交流があったから、「どうしたもんかな」って言われたっちゅうてましたけど。僕、(留置所から)出てきてそれ聞いたんだけど、情けなかったっちゅうか、もちろん断られてるわけですけど。「なんで上野さんとこやらに行くんかい」って怒ったことあるけど。ずっとあと、菊畑さんの『反芸術綺談』 (海鳥社、1986年)の出版記念会を福岡でやったとき、僕も引っ張り出されて行ったんやけど、上野さんやらも来とった。例の菊畑さんのよく行くクラブ(注:福岡市中洲にあったクラブ薊[あざみ]。菊畑が内装をデザインした)で二次会か何かあって、上野さんと同席したから、その話を持ち出したら「あちゃー」って、何とも言えん顔された(笑)。もちろん僕は上野さんと面識がありませんし、上野さんが本を出したときやらに出版記念会に行ったことがあるけど、名乗ったわけでもないから、上野さんも当然僕を知りませんしね。〈九州派〉っちゅうのは、そういう軽率なところがあってですね(笑)。もう一緒くたにするわけですよ、「これは反体制運動だ」とかね。もっと微妙な問題なんだって思うんだけども。

小松:遠矢さんと山口さんが抜けて、〈集団蜘蛛〉を結成するときに田中幸人さん、佐藤明美さん、安部福一さんが加入するんですけれども、特に田中幸人さんはどうして。

森山:田中幸人さんは、毎日新聞の西部本社の初めての美術記者でね。毎日新聞もコンクール(現代日本美術展)やってたし、田中幸人さん自身は、記事を書くのにいろんなところであれ(取材)するから、作家との付き合いもあるし。北九州でそういうグループ活動があるなら、自分も企画やら立てるから協力させてくれ、って入ってきて。

小松:森山さんのところに来られたんですか。

森山:いや、そうじゃないと思いますよ。当時、僕なんかよりも、松本さんたちやらコンクール作家ですからね、ずっと面識があったと思うし。

小松:グループ名も「ZELLE」は使えなくなって。

森山:うん、「ZELLE」は使わんって僕が言ったのかな。みんなが賛成したのか、よう覚えとらんけども。とにかく新しいのをつけようやって話で、みんな考えたのを持ち寄ることにして、日にちと時間を決めて集まるようにしとって、僕が遅れて行ったらもう決まっとった(笑)。で、田中幸人さんが「集団蜘蛛」っていう名前にすると。それは古代の大和(朝廷)に立ち向かった「土蜘蛛」に由来すると。「面白いや、面白いや」って(笑)。

小松:みんな賛成だったんですね。

森山:そう。

小松:ほかにどんな候補があったとか。

森山:いや、知らん(笑)。

黒川:森山さんはどんな候補をもって行こうと思ったんですか。

森山:覚えてないよ。考えてなかったんじゃないですかね(笑)。

小松:安部福一さんっていうのは。

森山:会った記憶はあるけど、覚えてないんだな。この辺は行動(美術展)に出してる人が多かったからですね。それかコンクールに出しよったか、どっちかでしょう。だから、僕は作品も全然知らないし。佐藤明美さんっていうのは教育大(福岡教育大学。当時は福岡学芸大学)の学生でね。

小松:田中幸人さんは「佐留透」っていう変名で。やっぱり記者としては本名を出せなかったんですかね。

森山:そんなこともなかろうけどね。まだそのときは〈蜘蛛〉が正体を現してないからさ(笑)。

小松:〈集団蜘蛛〉が最初にやったのが、「蜘蛛集団のアート・フェアー」っていう、眼鏡屋の2階での展覧会。

森山:「(めがねの)セコール」っていう眼鏡屋が(現・北九州市小倉北区)京町か何かにあってね。これは田中幸人さんの企画でやったんよね。

小松:〈ZELLE〉から〈蜘蛛〉になったときに、こういう活動をしようみたいな話し合いはやったんですか。

森山:よく覚えとらんけど、田中幸人さんがこのアイディアを出して、どうするかっていう会合はやったと思うよ。「アート・フェアー」って何かって聞いたら、「現代美術の即売会」って言うたの覚えとるけど(笑)。僕らはわからんし、「どうするんや」って聞いたら、「アート・フェアーやから売るんだ」と。「一応、売るっちゅうことを念頭に置いて作品を出してくれ」っていうようなことを言ったのを覚えてる。「そげなこと言うたって」って、みんな言ってたけど、別になんていう作品もなかったよ。

小松:どなたか売れた作品はあったんですか。

森山:ないよ(笑)。そんときに春元がエッシャー風の絵をね。力作だったよ。エッチングですからね、大変なんですよ。それを4〜5枚、徹夜で彫りよったですけどね。見たこともないエッシャー、聞いたこともないエッシャーを(笑)。誰が見たって信用できないよ。

小松:似すぎていてってことですか。

森山:いやー、まったく一緒よ。そやけど、見て描いたわけでも、真似して描いたわけでもないよ。似ても似つかんもん。遠近法がこんがらがっとったり、2階の階段と1階がつながっとったりするようなトリックは、彼のなかから出てきたもんだろうと思うよ。ガックリきとった、「エッシャーっていうのがおったんか」って(笑)。

小松:森山さんは。

森山:僕はね、その頃からおかしかったのよ。手描きのエロ写真を出したの。春画じゃなくてエロ写真です。モノクロのエロ写真をボールペンで(模写して)ね。何枚ぐらいつくったかな。精密に描くわけ。それをズラッと並べたの。さすがに幸人さんがびっくらこいてから(笑)。ただ、「撤去しろ」とは言えんもんだからね。「腹くくらなしょうがないな」って。「売るっちゅうんやけ、これは筋が通っとろうが」とか、わけがわからんこと言うもんやから(笑)。

小松:それは実際に売られていた写真を、そのままの大きさで模写したんですか。

森山:そうです。「アート・フェアーって、これアートじゃないやないか」って言うからね、「民衆芸術って言えんかな」って言ったら、「言えんよ、そげなもの!」って(笑)。「民衆の潜在的欲望としては理解するけども」っちゅう、そりゃ新聞記者やから正しいことを言っとるわけでね(笑)。

細谷:でも一枚ずつ精密にボールペンで描くとなると、結構時間がかかったんじゃないですか。

森山:それが、あとの「蜘蛛蜂起」展(1968年9月21日〜28日、北九州市立八幡美術館)のね、等身大のエロ写真につながったのよ。等身大のときはさすがに大変やった(笑)。それは鉛筆とコンテやったかな。

黒川:お客さんはいらっしゃったんですか。

森山:アート・フェアーですか。全然知りません。ただこのときに、春元と松本芳年さんがパフォーマンスをやったんですよ。そんときは人だかりがすごかった。それは会場の外ですからね。松本さんが(ジョルジュ・)マチウみたいにアクション・ペインティングをやるっちゅうて始めたわけ。「マチウは目を開けて描いた。俺は目隠しして描くんだ」とかってね。無意識のなんとかかんとかって言ってたけど、春元が「くだらんことやって、人の真似してから、消してしまう」って。「やれ、やれ」って言ってね。春元がバケツに石油をいっぱい持ってってから、ボロ布(キレ)に浸けて片っ端から消していくわけよ。もう周りはわんやの大騒ぎで(笑)。油絵具ですからね、100号ぐらいの大きさやったから飛び散るし、商店街から苦情が出るわ、通行人が服にかかったとか言うてくるわね。

黒川:それは眼鏡屋さんの前でしょうか。

森山:そうです。眼鏡屋のショー・ウィンドウに絵を立てかけてですね。

小松:今もある京町の銀天街ですか。

森山:そうそう。角やったからね。

黒川:展示は眼鏡を売っているところとは別のスペースですか。

森山:眼鏡は1階。2階をギャラリーにしてたんですね。

黒川:じゃあ、普段から展示みたいなことはよくやっていた場所なんですか。

森山:いや、僕は全然知りません。田中幸人さんが持ち込んで、「店の宣伝になるから協力しろ」っちゅうことやなかったんかな。

小松:松本さんがかわいそうだといって、小松豊さんが油絵具を買い足して応援した。

森山:うん、何か言ってたけど、誰も気がつかんやった。洋文堂っていう絵具屋が近所にあったわけよ。そこからどんどん絵具を追加したとか(笑)。

小松:〈蜘蛛〉のメンバーだけじゃなくて、ほかの方もいっぱいいたんですか。

森山:そうそう。みんな来てたからね。大騒ぎになってから、幸人さんは外部の人の応対に忙しゅうてね。謝って回ったり(笑)。下はタイルやったんやけど、道路は絵具だらけ、油だらけになって。汚れるって商店街からワーワー文句言ってくるのを、田代さんが棒雑巾で「すいません、すいません。掃除します、掃除します」って、どんどん広げていくわけ(笑)。

一同:(爆笑)。

森山:それこそ〈ハイレッド・センター〉の清掃計画(《首都圏清掃整理促進運動》)じゃなくてさ、汚しよんや(笑)。

細谷:でもガソリンって、火がついたら大変ですよね。

森山:だからね、最後に僕が火をつけようとしたわけ。みんな寄ってたかって止めたけどね(笑)。田代さんが全部側溝に流し込むからさ、それに火をつけたらバアーッといって、面白いと思ったんだけど、放火犯で捕まるところ(笑)。

小松:松本さんは知らされてなかったわけじゃないですか。

森山:そうそう、目隠しを外してから茫然としとったよ。

小松:怒らなかったんですか。

森山:いやもう、怒る元気もなかったね。彼はアクション・ペインティングに一生懸命やったからさ。余力が残っとらん(笑)。

黒川:時間にしたら、どれぐらいやっていたんですかね。

森山:さあ、15分か、30分はもたんのやないかなあ。人だかりが多くて、それから、ワーワー文句が出てね。そうは続けられんやったと思う。

小松:アート・フェアーのパンフレットは、内容的にはみなさん考えて、それを田中幸人さんが文章に。

森山:そうよ。

小松:森山さんは犯罪とエロが前面に出されていますけど(『機關16 「集団蜘蛛」と森山安英特集』海鳥社、1999年、57頁参照)。

森山:だから、この時点で田中幸人さんは気づいてるわけよ。「犯罪」なんて言葉、僕はそれまで一回も使ったことないもんね。

小松:ちょっと面白いのは、「描きもしない前から“芸術とは虚しいもの”と決めてかかるのが玉にキズ」という、これは田中幸人さんが森山から聞いて書いたっていう。

森山:いやいや、全部自分勝手に作っとるだけ。〈蜘蛛〉で「犯罪」っていう言葉が出た最初じゃないですかね。僕じゃないですよ(笑)。

一同:(笑)。

小松:次に「九州・新鋭画家新作展」(1968年9月6日〜11日、博多井筒屋6階/福岡市)っていう案内ハガキが。

森山:これ全然知らないんだよなあ。

小松:お名前はあるんですけど。

森山:誰が企画したのかな、わからない。

小松:この案内ハガキには深野さんが文章を書いているので、本人の了解を取らずに勝手に名前を、ということでしょうかね。

森山:そうやろ。やりかねんよ。「反対する理由はなかろうもん」っちゅうて。

小松:実際には参加もしていない。

森山:参加もしてないし、見にも行ってないし。

小松:ちょっと確認ですけど、「蜘蛛集団のアート・フェアー」のときは、まだ〈集団蜘蛛〉の呼び名が定着していなかったんですか。

森山:〈蜘蛛〉だったんかな。

小松:次の「集団蜘蛛蜂起」展のときから〈集団蜘蛛〉に定まって。

森山:これ(「集団蜘蛛蜂起」展のポスター)、田中米吉さんが入っとるでしょ。田中米吉さんっちゅうのは山口の外郎(ういろう、店「御堀堂」)の主人でね。この人が、このとき大賞(朝日新聞社賞)をとったんですよ。同時にあった、朝日コンクールか、毎日やったかな(「第1回朝日西部美術展」、1968年10月1日〜13日、北九州市立八幡美術館)。その会期中に審査があったんですよ。松本芳年さんやらがね、「集団蜘蛛蜂起」展に出しとる作品を外して審査にかけたわけ。それで僕らが「除名だ、除名だ」っちゅうてね、全部(メンバーから)外して。「作品撤去」って書いてから。何人かおりましたね、富浦さんとか。田中米吉さんはこんときだけ入ってきて。田中幸人さんが入れるからっちゅうて。そんときに「コンクールに出す」って言うから、「出してよかけど(賞金は)半分よこせ」っちゅうて。大賞とったら「やめた」っちゅうて、金よこさんかったから、内容証明付きで手紙を送りつけてね(笑)。

小松:でも、その「朝日西部美術展」は、加藤さんも春元さんも出しているんですよね。

森山:(「蜘蛛蜂起」展出品作とは)別に描いて出した。

小松:参加すること自体はダメじゃなかったんですね。

森山:賞金を取ってこいっちゅう話で(笑)。

小松:お二人とも出したかったんですか、コンクールに。

森山:いやいや、金稼ごうっちゅうんで。

黒川:ほかのメンバーを辞めさせる口実じゃなくて、本気で賞金を取りにいったんですか(笑)。

森山:そうそう。本気で田中米吉さんが取りそうやなって、田中幸人さんが言うから、「(メンバーに)入れろ入れろ」っちゅうてさ。で、「半分よこせ」と(笑)。

黒川:森山さんは諦めたんですか(笑)。

森山:僕は賞をとれるような作品、つくれそうにないからね(笑)。加藤も春元もやろうと思ったらできるんですよ。

小松:じゃあ、加藤さんと春元さんは「蜘蛛蜂起」展には全然違うタイプのものを出したんですか。

森山:そうそう。

小松:どんな作品だったんですか。

森山:ええっとね……いや、よう覚えとらんな。今も建物(注:当時の八幡美術館と八幡市民会館。美術館部分は1974年以降、「八幡市民会館美術展示室」として使用されたが、市民会館全体が2016年3月に閉館。建物は現存)あるでしょ。2階に上がる吹き抜けの踊り場の壁に「現代美術は仇花か?」っていう、あれを加藤が書いて貼り出したのは覚えとる。僕が「仇花」ってしろと。いや、「か?」をつけた方がって、あれ(加藤)が言い張ってから、好きにしろって話になって。

黒川:その「仇花」というワードはどこから来たんですか。

森山:やっぱ現代美術自体に不信感が根強くあるもんだから。例えば、抽象絵画であれ具象絵画であれ、抽象とか具象とかがどうってことじゃなくて、自分が小世界をつくることに疑問があったっちゅうか。エロ写真を写して描いたりするっちゅうことも、まあ、くだらんっちゃあくだらんけど、あえてそれをするっていうような、行為の方に賭けるっていうか。それから先が……田中幸人さんが「あんたのやってることは意味がわからん。展望を言え」ってからさ、「知るか。自分で考えろ」とか言ってからケンカしよった(笑)。もちろん、それに的確に答える言葉をもちませんけども、やっぱり芸術として、美術として、ある価値を社会のなかでかたちづくっていく、そのへんがわからないっていうかね。だから、まず壊すしかなかった。友だちやら言ってから、よく笑いよったけど、「何が見たいんだ」って言うから、「荒野だ」みたいなこと言うわけね。「キザなこと言いやがって」とかってからね(笑)。でも心境としてはそうでしたね。
 やはり筑豊にも行けんわ、現代美術っていうヒエラルキーのなかにも身を置けんわ、みたいなところがあって。その頃は幸徳(秋水)だとか、大杉栄だとかね、辻潤だとか、アナーキストやらダダイストのものを読むようになってたし。それでどうなるっちゅうような展望ももてなかったけど。そやけど、結局は自爆テロでから、メチャクチャに。芸術だけじゃなく、芸術の基盤となってる市民的日常みたいなものを否定するわけですから。そりゃあ、展望やら見えるわけがないんでね。その後(注:裁判が終わった1973年以降)、長い間、空白状態でしたけど、絵を描くようになって……僕にも描いていい絵があるんじゃないか、みたいなね。それは方法論とか技術論じゃなくてね。今泉(省彦)さんが『機關(16)』(4頁)でちょっと触れてたけど、もうあっこまでやりゃ免罪されるんじゃないか、みたいな感じはちょっとありましたね。いろいろ言われましたし、そのときは散々しんどいところもありましたけど、今は描いてて、何て言うかな、大したもんじゃない小さい路傍の花なんかに惹かれるみたいなところがあって、これが終着点かなとも思いますけどね。

細谷:今、幸徳とか大杉の名前が出ましたけれども、彼らは「直接行動」という言葉を使いますよね。そういうものは森山さん、〈集団蜘蛛〉への影響はどうですか。

森山:あると思いますね。性格っちゅうか、性向というか、そういうレベルの話でしょうけども。敗れ去った者に対するシンパシーみたいなものは、ずっとあるんでしょうね。だからっちゅうて、労働運動であれ、政治であれ、彼らみたいにああいうかたちでっていうことは、僕は政治家でも何でもないから、ないんですけど。心情としては、そちらの方に惹かれるところがあってね。サクセス・ストーリーとは無縁ですな(笑)。

小松:「蜘蛛蜂起」展のときに森山さんが出品したのは、拡大したエロ写真の作品ですかね。

森山:うん、うん。等身大で。

小松:美術館側から撤去して欲しいという話があったんですか。

森山:そうそう。

小松:もともとそういうのが狙いなんですか。美術館という場では、そういうものが認められないのはわかっていて。

森山:もちろん、そういうことです。だから、このときは展覧会をやること自体が、展覧会の質だとかそういう問題じゃなくて、展覧会もひとつのツールに過ぎんし、美術館やらジャーナリズムを引っ張り出して、っていうことですね。要するに、表現のための表現じゃなくて、ケンカのためのケンカ(笑)。

黒川:それは森山さん以外の加藤さん、春元さんまでは共有されていたことでしたか。

森山:そういうことです。ただ、田代恒雄さんだけは、「自分もやりたいけどやれないから、ここで別れる」って言ってきました。

黒川:どうしてやれなかったんですかね、田代さんは。

森山:やっぱり違う路線っていうか、コンクールに出して、ファイン・アートとしての仕事をやりたいってことでしょう。「気持ちはわかるし、考え方はわかるし、自分もやりたい気持ちもあるんだけど、とてもリスクを負えそうにない。協力はする」と。その後、彼は僕の裁判を通して、ずっと裏方でやってくれました。

黒川:心情的シンパという。

森山:そうですね。彼と結婚した田代桂子(旧姓は松沢)っていうのがおってですね。この田代桂子さんが「(第3回)動向展」のときに女学生を、自分の(教えていた)高校の美術部の生徒をKBC(九州朝日放送)に連れてきてね。パレードに参加させて、KBCのハプニングに参加させてね。

小松:じゃあ、田代さんだけは、ここで辞めるけれどもケンカ別れじゃなく。

森山:そうです。あとはみんなケンカ別れ。

小松:田中幸人さんとは。

森山:田中幸人さんはね、(「蜘蛛蜂起」展の)会期中に「あんたにはついていけん」っちゅうてね、夜中に。彼が会計を引き受けとったんよ。ポケットからいっぱい小銭を出して並べてから、「これであんたと縁切るばい」っちゅうてね。「そうか」って言ってからさ、コップ酒飲んでね、お別れの酒じゃないですけど(笑)。それから何十年間も会ってませんでしたけどね。村松画廊で僕がずっとあとに個展したとき(村松画廊では「森山安英展」、1991年3月11日〜16日と「「光の表面としての銀色」森山 安英展」、1994年3月14日〜19日を開催している)に来てから、「今日だけ休戦協定結ぶ」とかって(笑)。

小松:「蜘蛛蜂起」展のポスターに除名というか、辞めていった方の名前が黒塗りされているわけですけど、これは会期中なんですか。

森山:会期中です。そのとき、辞めるって言うてきた理由のひとつに、僕が田中幸人さんのことを「敵前逃亡だ」って言ったんだそうです。それは新聞記者に言ったらいかん言葉やったらしゅうて(笑)。

小松:それでどんどん辞めていった結果、「真正蜘蛛」の3人になるわけですか。

森山:そうです。それからの半……1年間ぐらいが〈蜘蛛〉の華でしたね。

黒川:あの旗(注:「前衛芸術集団 蜘蛛」と記した旗。『肉体のアナーキズム』グラムブックス、2010年、445頁、fig.205参照)はどのタイミングで作ったんですか。

森山:山田弾薬庫(注:現・山田緑地。戦前・戦中に帝国陸軍、戦後は米軍の弾薬庫として使用された)っていうのがありましてね、小倉に。弾薬庫に線路がつながってまして(注:南小倉火薬線。1973年に廃止)、旧陸軍の。そこの撤去のデモやらやってました。そのとき旗を持って参加しようっちゅうんで。

黒川:デモに参加するために旗を作ったんですか。

森山:そうそう。そういうことです。

小松:それはやっぱり、ほかのグループが自分たちの旗を持っているから、旗を持っていないと参加できないみたいな(笑)。

森山:そうそう(笑)。

細谷:あの旗の色は、いつも見るのはモノクロ写真なんですけど。

森山:白黒です。やっぱ黒でしょ(笑)。

細谷:黒旗っていう意識はありましたか。

森山:いやー、なかったですね。

黒川:デザインは誰ですか。

森山:やっぱり春元やなかったかなあ。字が書けるのは春元ぐらいしかおらんやったから。

小松:1968年11月に3人のメンバーに絞られて、ここからが「真正蜘蛛」なんですけど、その後の運動の仕方というのは、どうやって決めていったんですか。3人で話し合うんですか。

森山:もちろんそうです。合議制でね。何をやるかっていうようなことから、どうやるかっていうことも全部。決まったら反対であっても協力せないかんと。そういう決まりを作っててね。何をやるとか、どういうふうにやるとかっちゅうのは、アイディアを自由に出して、「それはダメだ」とか「やめろ」とか、あるいは「こうした方がいい」とかっていうのを全部決めて、やるときは全員賛成としてやると。

黒川:最終的に多数決をとるようなこともあったんですか。

森山:まあ、そうですけどね。多数決だけど、最終的には説得して、全員賛成というかたちをとると。嫌々ながらはできないからっちゅうんで。3人ちゅうのはね、そういうもんなんよ(笑)。

小松:どうしても一般的には森山さんがリーダーみたいなイメージもあるかと思うんですけど。

森山:いやー、それは違うんですよ。逆に言うと、そこが一番気を遣ったところですね。どうしても、そういうふうに書かれるからね。例えば、何をするっていうときに、僕は興味がないで、加藤がどうしてもやりたいっていう場合もあったわけですからね。

黒川:具体的にどれか挙げられますか。

森山:うーん、どれがどうかなあ。KBCでの剃髪儀式ね(注:1969年2月25日に放映されたKBCのテレビ番組「ティータイムショー」での春元の髪を剃るパフォーマンス。『肉体のアナーキズム』、448頁、fig.210参照)。あれは加藤のアイディアです。僕は「そんなん、東京でやられとるやろ」っていう意見でしたけど、加藤がどうしてもやりたいって言うからさ。

黒川:ああいったパフォーマンスをやるときに、事前にどの程度まで決めていたんですか。剃髪をやるっていうことは決めますよね。カミソリとか用意しないといけないから。あとは現場で流れというか。

森山:いやいや、はじめから。衣装の問題がありますからね。全員女の和服を着るっていうのから全部決めて。ただ、ひとつ手違いっていうか、春元のサプライズっちゅうか。(春元が)「やめた、やめた〜」って言って、会場から飛び出してハプニングが終わったんだけど、菊畑さんは見事な演出だって言ってたけど(『反芸術綺談』、128頁参照)、春元の勝手なあれで(笑)。「痛いでたまるかい」って言いよった、あとで(笑)。石鹸つけるわけじゃなし、ゾーリンゲン(製の刃物)でガリガリやるんやけどさ、血だらけで(笑)。

小松:それで耐えきれなくて「やめた」と出て行っちゃったんですか(笑)。

森山:そうそう(笑)。僕が剃ったんやけどさ。ドイツ製のゾーリンゲンを持ってきてね。そこまでは格好いいんやけどさ。石鹸を忘れとったのか、その気がなかったのか、ゾーリンゲンやったら切れると思ったのか、血だらけで。それをジーっと耐えとったよ。

小松:生放送中だからって、止められたりしなかったんですか。

森山:いやー、騒ぎよったよ。「責任者出てこい」とかって。菊畑さん、逃げとったもん(笑)。

黒川:実際の放送はどうだったんですかね。みなさんスタジオにいたわけだから(笑)。

森山:いや、だから桜井さんだけはさすがやね。現場からサーっと離れてね、ロビーで見よった。

小松:じゃあ、ちゃんと放送されていたのは確かですね。

森山:そうそう。

細谷:実際はカラフルな浴衣なんですよね。

森山:僕らのは訪問着よ。みんな女房の。春元も当時結婚するつもりやった女の人から借りたんじゃないかな。

黒川:みなさん、ご家族との関係は良好だったのでしょうか(笑)。

森山:いいわけないやろ(笑)。僕は覚悟のうえで、女房も半分は諦めとったんやけど、やっぱり兄弟やら親戚やらおるからね。「別れろ」っちゅうような話になるし。加藤やらは奥さんが中国籍で、日本に(帰化)申請を出しとった時期やったもんやからさ。

小松:髪を剃る以外に、セーラー服を脱がすというか、切るというのもやっていますが(『肉体のアナーキズム』、448頁、fig.209参照)、これは事前に決まっていたことなんですよね。

森山:事前に、この子だけに頼んどったんよ。

小松:打合せなしにされたら大変なことですもんね(笑)。

森山:わいせつ罪、傷害罪になるよ。

小松:一緒にパレードをしていた方々の反応はどうだったんですか。

森山:みんな息を呑んで見よったよ(笑)。

小松:静まりかえって。

森山:そうよ。シーンとしとった。

黒川:でも原則的には衣装の問題も含めて、事前に決めてから。

森山:そうですね。衣装もね、加藤が唐十郎ファンやったもんやから。状況劇場の「あんなハプニングにしたい」っちゅうて、女の着物をゾロリと着てね。しょうがないから、女房のを持ち出したりしてさ。みんなメチャクチャになってしもうて(笑)。

黒川:森山さんご自身は同時代の演劇とか映画とか、興味があったというか、共鳴できたものはありますか。

森山:アングラの頃ですから興味はありましたけど、加藤ほど…… 加藤はね、のめり込むっちゅうか、アイドル視するっちゅうか。高倉健(を好きなの)と一緒なんですよ(笑)。そういうところがあってね、「お前はミーハーたい」って言うけどさ、「どこが悪いか」ってね(笑)。だから格好いいっちゅうことに、ものすごく反応するっちゅうか。

黒川:春元さんはまた違う?

森山:春元は全然違いますね。寡黙で、得体のわからんことやらかすけど、ちゃんと本人も意識してないけども、理由があってから。かなり前近代的なね、情念を持っててね。

小松:春元さんのアイディアでやったものもあるんですか。

森山:思い出すのは、牛を引きずり出して首を落とすっていう。「できるわけないじゃないか」っちゅうたけど、残念そうにしとったのを覚えとう(笑)。

小松:実現が難しいからやらなかったんですね。

森山:実現できないですよ、牛1頭買わないかん(笑)。そういう、やっぱ呪術的なもんがあるんでしょうね。

小松:それぞれのもっている志向っていうか、趣味みたいなのが合わさって、運動全体が作られていく感じなんですか。

森山:そういうことですね。等身大の裸のポスター(第3回動向展出品のポートレート作品)もね、裸と言い出したのは僕だけど、シルクスクリーンでやるって言い出したのは加藤でね。で、あの変なポーズ、なんとなくおかしいで、上から撮ったっちゅうこともあるんだけど、頭でっかちで、畸形的でね。それは春元のアイディアですね。

小松:そういうふうに混ぜて、誰かのアイディアじゃない匿名性みたいなものを最初から狙っているんですか。

森山:そういうことですね。あるいは普遍性をもたせたい、みたいなところがあってですね。あの裸のポスターは、ブロマイドじゃありませんもんね。意味不明っていうか、商品性が全然ないっていうかさ(笑)。

小松:そのシルクスクリーンとかに行く前に、まず街中でハプニングをやったという。

森山:時系列がわかりませんけど、小倉駅前と今の(北九州)市役所、(小倉)区役所があったところ、今(北九州市立美術館)分館ができてる、あの前の歩道んところ(注:現在、複合商業施設「リバーウォーク北九州」のある北九州市小倉北区室町一丁目付近)で年末にやったのを覚えてる。

小松:駅前の方は『肉体のアナーキズム』(445–446頁)にしか記述がなくて。どんなものだったんですか。

森山:いや、何もしてないと思う。ただ立て看(板)立てただけで、こう持ってから(棒を垂直に立てて持つ仕草)。

小松:それは何が書いてあったんですか。

森山:いやー、よく記憶してないけどなあ。田中幸人さん、写真を撮っとるはずやけどね。で、記事にしよったもん(詳細不明)。いや、わからん。

小松:『肉体のアナーキズム』(446頁)には「立て看板を置いたり、ショー・ウィンドウに新聞記事を貼ったり」と。

森山:それ桜井さんだ。桜井さんが合同してたんよ、そのときは。駅前の平和通の角のところにビルがあってね。あれ銀行やったんか、何やったか、大きなガラスのウインドウやったよ。そこに新聞を貼ってね、赤マジックでこう(記事を)囲んでね、見たら何の関係もないところを赤でしてあるだけで。あそこから駅まで、相当あるんですよ。どんぐらいあるやろ。100メートル……(注:実際は200メートル程)。それを匍匐前進でね。僕は付き合いきらんやったけど。ほかの人たちもついて行きよったけど、途中で「やめよう。冗談やないや」って言ってから、だけど桜井さん、最後まで行ったと思うよ。

小松:それは桜井さんがいても〈蜘蛛〉としてのハプニングなんですか。

森山:そう。〈蜘蛛〉のハプニングに桜井さんが飛び入りしとるわけ。あと僕らのそういったあれに来よったのは、田部光子さんが8ミリ(カメラ)持って来たのと、尾花成春さんが。彼は反博にも〈ゼロ次元〉と一緒に参加してるしね。〈蜘蛛〉の写真はほとんど尾花さんが撮ってる。

小松:駅前のあとの区役所のハプニング(『肉体のアナーキズム』、446頁、fig.206参照)は誰が撮ったんですか。

森山:深野さんじゃないかなあ。このときなんで深野さんが来たのかわからんのよね。僕は田中幸人さんだと思ってたけど(注:当時の田中の同僚・三原浩良[元毎日新聞西部本社報道部長]か)、撮られたのも覚えてないもんね。

小松:写真からすると、立て看板みたいなものに「NO ARTフェスティヴァル」と書いてあるんですね。これが森山さんですよね。ビラみたいなのを全身に貼り付けて。

森山:僕ですね。これ、加藤だな(注:ビニール紐のようなもので全身をぐるぐる巻きにしている)。

小松:貼っているのは何ですか。

森山:「NO ART」のビラです。「畸型三派(狂乱大集会)」(注:正しくは「蜘蛛蜂起展」)の八幡美術館にも、春画と一緒にこれを並べて。おそらく一部屋に30点ぐらい、水彩の額縁に入れてね(『機關16』、59頁)。そしたら田中幸人さんが、「こんなに文字だけで環境をつくれるのに、どうしてこんなバカな絵を描くか」って怒っとった(笑)。
 椅子が横倒しになったのが春元やね。これも年末、(1968年)12月31日の大晦日でね。寒かったよ。(通行人が)踏んで通るからね(笑)。タバコを捨てるわ、危ないんよ(笑)。

小松:加藤さんは何でぐるぐる巻きになっているんですか。

森山:トイレットペーパーやないかな。違う、結んどるね。紐だろうな。

小松:周りの人たちが踏んづけたり、タバコまで投げつけるっていうのは攻撃的な(笑)。

森山:北九州ですから(笑)。

一同:(笑)。

小松:「蜘蛛宣言」(『肉体のアナーキズム』、447頁、fig.207参照)も配ったんですか、街頭とかで。

森山:これは展覧会用に作ってから、ばら撒いたりしたんじゃないかな。いや、よく覚えとらん。

黒川:ビラの文面はどうやって決めたんですか。

森山:僕が書いたんもあるし、加藤が書いたんもあるし。春元は文章を書かんやったから、僕と加藤が手分けして書いた。

黒川:2人が書いたものを合わせてひとつのものを作るんですか。

森山:それもありますね。

小松:この「蜘蛛宣言」のなかにも「芸術を信用しきれない」という芸術への疑念みたいなのが現れていて、あなた方一般の人は芸術と無関係なのかみたいな、ちょっと告発するような内容があるんですけど、誰宛にというのは覚えていないですか。

森山:やっぱ観客に向けとんやないかな。これ路上でも撒いたりなんかしよったと思うよ。

小松:そのあとの「反博」の、仲間内でやっていくのとは路線が違うんじゃないかと思ってお聞きしたんですけど。一般市民向けというか、どちらかというと1962〜63年頃に街頭で通行人に配った検便マッチ箱に近いような。

森山:ああ、うん。

小松:このあと、もう一回、街中でやったのでは「蜘蛛初詣」(1969年1月1日、八坂神社/北九州市)というのがありますけど。

森山:それはもうお遊びだけどね。当時、アベベは(小倉)駅の南側だけど、(現・北九州市小倉北区)鍛冶町の方、今の(GALLERY)SOAPの近所にフリスコっていうモダンジャズのバーがあってね。そこのママに訪問着を着せて、戸板に乗せて担いで行ってね。初詣やからものすごい人やけどさ、大晦日の12時。「最後に勝山橋から川に放り込んだ」って菊畑さんが書いとるけど(『反芸術綺談』、119頁)、それは大嘘でさ(笑)。

小松:じゃあ、さっきの区役所でのハプニングの夜ってことですか。ちょうど大晦日ってことは。

森山:かもしれんな。

小松:そのまま初詣のハプニングに。ママには急にその場で言うんですか、「乗せて行くぞ」みたいな。

森山:いやいや、着物を着せとかないかんからさ。

小松:喜んで協力してくれるんですか。

森山:喜んで(笑)。そりゃあ、初詣で客やらいっぱいおるのに、このぐらい(肩)の高さのところで担ぐから(笑)。

小松:戸板の上に座っているんですか。

森山:うん。そしてから(神社の鈴を)ガラガラガラガラってやって、いい気持ちよ、そりゃあ(笑)。

小松:周りはどんな反応なんですか。

森山:ワーワー騒ぎよったよ、笑って。お祭りたい(笑)。そういうのは加藤の発案なんよ。祭り好きで、戸畑の提灯山の祇園(注:「戸畑祇園大山笠」。福岡三大祭りのひとつ。「提灯山」の愛称で親しまれる)、あれを若い頃から担ぎよってね。今でも役員か何かしとるんやないかな。

小松:じゃあ、アイディア的には、お祭りとか、そっちの方から来ているんですね。

森山:そうですね。僕は祭り弱いんだよな(笑)。どうも馴染めんね。なんでかなっち思うけど、疎開体験があるみたいね。田舎の祭り、やっぱよそ者だからね。子どものときの体験って尾を引くんよ。うちなんか、そばで提灯山やからね。何十年間かやるんだけども、まず行かないもんね。

小松:なかに入れない感じですか。

森山:うん、行く気しないし。

黒川:その所在のなさ的なものがずっとあるような気がするんですけどね(笑)。

森山:そうそう。それに行政が絡んどると、なおさら行かんようになる(笑)。「わっしょい百万」(注:「わっしょい百万夏まつり」。市制・政令指定都市移行25周年を記念して1988年に始まった祭り。その前身「まつり北九州」も北九州市発足・政令市移行10周年を記念したもの)とかって冗談やない(笑)。なんか邪魔してやろうかと思うけど、もうその歳じゃないし(笑)。

一同:(笑)。

黒川:ちなみに、この「NO ART」の「NO」というのは「反」芸術ではなく、「非」芸術?

森山:おそらく「非」芸術の方でしょうね。こんときは田中幸人さんに相談したんかな。「僕は英語わからんけ」って言うたら、「NOTHING ARTはどうかな」とか言いよったけどさ、「ちょっと格好よすぎるぜ」っちゅうてから。一番わかりやすいっちゅうか、なんか「卑俗な言い方がいいや」ってから。

小松:初詣のあとに山田弾薬庫のデモに参加するんですね。これは3人で旗を持って。

森山:そうです。

小松:これ(注:3人の集合写真。『肉体のアナーキズム』、445頁、fig.205参照)が旗を作った直後ですか。

森山:うん、うん。

小松:場所はどこなんですか。

森山:加藤の家、玄関。

小松:犬がいますね。

森山:この犬ね、捨てても捨てても帰ってくるんよ。下関まで捨てに行っとうけど、帰ってきたからね。前、日明(ひあがり、現・北九州市小倉北区)のフェリー(注:関門海峡フェリー。現在は運行休止)があったもんね。「それに乗って帰ってきたんやないかなあ」って言ってたけど。まさか歩道(関門トンネル人道)通っては帰ってこんだろう。こんとき加藤は結婚したばっかりやけど、いっときしてから、子どもが生まれとったい。で、息子にこの犬の名前つけて(笑)。これ「ダン」っていう犬やったんよ。で、息子に「ダン」って名前つけてから、この犬どっか捨てとったい(笑)。「なんちゅうことするんや」ってから(笑)。

黒川:「ダン」っていうのは漢字(弾)で書くんですか。

森山:そうです。

細谷:森山さんのご長男、「あとむ」さんは。

森山:あれは〈蜘蛛〉の頃やけどさ、「名前つけてくれ」っちゅうけど、忙しゅうて、それどころやないでさ。忙しいっちゅうたって〈蜘蛛〉の忙しさやから、わけのわからん忙しさやけど。特に〈集団“へ”〉と関わり始めてから、のべつまくなしなんよ。日常もくそもないよ。ヒッピーだからね。で、娘がそんとき3歳ぐらいだったったい。だから「娘につけさせる」って言ったったい。まだモノクロテレビしかなかったから、娘がモノクロテレビにマジック塗ってね、「カラー」っちゅうてからさ(笑)。桜井さんが来て「お前んとこの娘はひでーなあ」とか言いよったけど(笑)。したら、当時「パーマン」ってのがありよったんよ。「パーマンってつける」って。「パーマンはちょっとひどいんやないか」っちゅうてさ(笑)。「パーマンはダメってお母さん言いよるぞ」って嘘言うたら、「ほんなら、アトムにしよう」って言うたけん、「それにせえ」っちゅうて。何の根拠もない、無責任もいいとこ。でも息子に言わせたら、嫌な目に遭うたことないって。もちろん社会人なってからも「プラスになっとる」って言ったよ。

小松:この旗を持ってデモについに参加するわけですけど、政治的なものに対してほかのお二人はどんな感じの考えなんですか。

森山:あんまり行きたがらんやったな。加藤はね、ノンポリじゃないんだけども、自分から「やろう、やろう」って感じじゃない。できればしたくないって感じやった。ただ、やると決まったら、やるっちゅうことになってるから、特に反対じゃないけども。だから、辞めて何十年も経ってからの話やけど、加藤には政治に対するアレルギーみたいなのがあって、僕には逆にそういうところに入りたがるような傾向があるもんだから、「蜘蛛が政治化したから辞めた」っていうようなことを言ったって、西日本(新聞)か何かの新聞記者(野中彰久)が書いたんよね(『西日本新聞』1997年12月7日朝刊)。加藤に聞いたら「そうは言ってない」って言ってるけどさ。
 春元はね、いわゆる権力を信用してないし、そりゃあ、日常レベルで嫌っていうほどそういう目に。僕と違って〈蜘蛛〉を辞めたら、何十年間サラリーマンやってるような男やから、それに耐えられるんですよね。そんな男やけど、一切、権力の方に身を寄せたりはしないんですよね。自分から旗を振ってやったりはしないけど、やるっていうことで「協力してくれ」って言ったら、全力を尽くしてやるタイプ。

小松:森山さんはシードラゴンの寄港阻止デモ(1964年)にも参加していますけど。

森山:やっぱり思想に絡めなかったっていう悔恨もありますしね。シードラゴンやらエンプラ(エンタープライズ号寄港阻止デモ、1968年)やらに行くんだけども、居場所がないわけですよ、絵描き、一個人として。みな団体っていうか、政治勢力でしょ。だからデモ自体を相対化してやろうっていう気はどっかにあったと思うね。そのやり方がいろいろやから顰蹙を買うけどさ。つまり相対化っちゅうのは、茶化したり、あるいは妨害したり、要するに、なかに入れないわけですから。

小松:デモの対象というよりも、デモ自体を標的にしているみたいなところもあるんですか。

森山:そうですね。デモ自体がステレオタイプになってるっちゅうか。第一、行って「ワアー」ったって、効果がどれだけあるか(笑)。やることに意味があるのかもしれんけども。しかし、それしか方法がない。それが全然無駄って思ってるわけじゃないけど、やっぱり誰でも虚しさは抱えてるし。

黒川:シードラゴンのときは個人として参加したんですよね。でも山田弾薬庫のときは〈蜘蛛〉を旗揚げして、グループとして参加しているわけですね。

森山:そうです。

小松:エンタープライズのときもお一人で参加しているんですか。

森山:うん。

黒川:個人として参加するのと、グループとして参加するときでは、意識は違いますか。

森山:違いますね。個人で参加っていうのは具体的にはできないです。デモには入れないですね。だから、そういうことをふまえて旗を作って、革マルと一緒だと。入る資格は俺たちもあるんだと。ところが、みんな機動隊から排除されよるんですけどね、僕らは革マルから排除されましたから(笑)。

細谷:それは政治党派ではないっていう。

森山:そういうことです。「俺たちは命がかかっとる」と。「お前ら、ふざけるな」とかってね。

小松:デモを茶化しているのは、その人たちにはバレているというか、わかって排除されるということですか。

森山:そうです。

小松:3人になって、路上でのハプニングとデモへの参加があって、そのあと1969年2月に第3回の動向展があるわけですけど、ここから展覧会に参加するというので変わりますよね、活動の仕方が。

森山:そうですね。具体的に、菊畑さんをターゲットにしようっちゅうことになったからね。

小松:ターゲットが美術館の外だったのが、逆に中に入ってきたような印象があるんですけど。

森山:いやあ、菊畑さんほどピッタリの人はおらんやったもんね(笑)。彼を狙ったらさ、全国的に伝播するだろうって思ったんですよ。

小松:じゃあ、この展覧会に参加するって決まったときには、もう菊畑さんを標的にするっていうことは決まっていて。

森山:そういうことです。

小松:参加するには、菊畑さんから誘われるんですか。

森山:そういうことです。

小松:直接の面識は前からあったんですか、菊畑さんと。

森山:ありませんでした。

小松:じゃあ、菊畑さんもどなたかから聞いて、森山さんたちを誘ったと。

森山:具体的ないきさつはもう覚えてないけども……菊畑さんは「俺たちも入れてくれ」っちゅうて来たっち書いてるけどさ。その前に打診があったと思う。

小松:第3回動向展の図録の冒頭に働さんが文章を書いているので、そのへんから。

森山:そうやろうと思うよ。メンバーを集める段階で、働さんやらと相談してるやろうからさ。そのときに「〈蜘蛛〉を呼ぼうや」って話はあっとるやろうと思うよ。

小松:働さんとは、1965年に(働が)大牟田へ移ってからも、ずっと連絡は取っていたんですか。

森山:ほとんどありませんでしたね。

小松:でも、こういうときは声がかかるんですね。

森山:そうですね。だから次のときはもう、動向展の準備会に「出てこい」っちゅうてきたもん、福岡でね。そんとき僕は初めて菊畑さんに会ったんじゃないかな。あ、そうやないか。いっぺん僕を〈九州派〉に入れようとしたときに菊畑さんおった。

小松:会合の場にですね。

森山:うん、〈九州派〉のね。そんとき画集を作るっていう話で揉めよった。菊畑さんが反対で、オチやら桜井さんたちが推進派でね。結局、流れたと思うけどね。そんときに会ってる。会ってるけど、菊畑さんが僕を知ってたかどうかは知らない。具体的に会ったんは、その(第3回動向展の)準備委員会か何かで……その会合じゃなくて、終わってから喫茶店(風月、『機關16』、21頁)か何かに呼び出して、こういうことをするけどいいかっちゅうて、言いに行ったのを覚えとう。

小松:それは版画の盗作のこと(注:菊畑の版画を無断で刷り増しして〈蜘蛛〉の作品として動向展に出品したこと)ですか。

森山:いや、どんな作品かも知らない段階だからね。版画か何かもわからんわけよ、まだ(笑)。菊畑さんの作品を盗ると。「贋作をつくるんか」っちゅうけ、「そうだ」と。「何でもやっていいって規則に書いてあるじゃないか」って言ったら、「書いてるけども、どういうつもりで」とか、いろいろ言いよった。「まあ、好きにしろ」とかってね。「近頃はユーモアのある人が少ないから、面白いかもわからんな」とか言いよったかな。「ただし、一切の協力はせんぞ」と。「何の作品を出すかも言わんぞ」と。「結構です」って言ってから。

黒川:無断でやらなかったのは、一応、仁義を切ったということですか。

森山:そうです。いやー、もっとみっともないんでね。〈集団“へ”〉の新開(一愛[しんがいかずよし])っちゅうのが菊畑さんのところに居候しとったんよ。そいつは〈蜘蛛〉としょっちゅう連絡をとってたから、「(菊畑に)何しようか聞いてこい」ってから、オフセット印刷の話もあいつにスパイさせたんだけどさ。印刷所から版画を盗ってから、ざまあみろって思ってたんやけど、「手描きしよるぞ」って言うてきたんよ。色鉛筆やらでから彩色しよる。どうにもならんよね(笑)。で、しょうがない、菊畑さんのところに行ってから、大笑いしてからさ。「ざまあみろ」とかって言うてね、「よし、俺が記念に一セットつくっちゃる」とかってから、こうして(彩色する仕草をしながら)4点つくってくれてね。

小松:贋作をつくるっていうのは、どなたのアイディアなんですか。

森山:それ僕です。

小松:菊畑さんを標的にする狙いを、もう少し詳しくお話ししていただけますか。

森山:あとからいろいろ言われたけども、宮川(敬一)たちもまだ言っとるけどさ、「菊畑さんじゃあ、役者が不足だ」と(笑)。ウォーホルやら(を標的にしないと)と(笑)。「バカたれ、ウォーホルなんか知るか」とかって、菊畑さん怒っとったけど(笑)。僕の考えは全然違っとって、要するに闘争っていうのは白兵戦だと。僕の戦いっちゅうのは白兵戦だと。生身のそこにおる人間じゃないとダメだと。

小松:実際、見た方の反応っていうのは。

森山:大騒ぎやったよ。あのグジュグジュ言う針生一郎さんが絶賛しとったからね(笑)。はっきり言うて、動向展の人気をさらってしまったよ、〈蜘蛛〉が(笑)。

黒川:この配置(注:〈蜘蛛〉による盗作版画の至近に菊畑のオリジナル版画を併置)を考えた人は誰かいたわけですよね。

森山:いや、僕らが注文つけた。だから、強気っちゅうか、勢いがあったっちゅうか、あるいはバカのあれでさ、言いたい放題言いよったもんね。「嫌っちゅうなら降りる」って言うから、菊畑さんも「うん」って言わざるを得んわけたい。(展覧会に)穴開けられたら困るしさ(笑)。

小松:針生さんの評価の理由っていうのは。

森山:シンポジウム(公開討論会、1969年2月26日、福岡市民会館小ホール)での発言だからね。理由までは言ってないと思うけど。ただし、〈蜘蛛〉の裸の写真(を元にしたポートレート版画)は「こんなバカなことしてから、くだらん」っち言うた(笑)。「くだらんっち、わかっとるわい」って(笑)。

小松:どこかで「現代美術の作品であるように見せかけたものだ」っておっしゃっていたと思うんですけど(『機關16』、20頁)。

森山:シルクスクリーン自体は、その頃流行やったんよ。印刷屋っちゅうか職人がさ、スクイージーっていうあれで、インク流してから二人でね、両側を持ってダーッと走りよった。横浜やったけど、見に行ったよ。この辺に刷るとこないもん、そんな大きいの。何十万もかかったけど、結局、田部光子さんが裁判のときカンパっちゅうてから「一セットくれ」っちゅうてさ。一セット3万円で売ったんと。宮井陸郎さんが、伊勢丹かどっか忘れたけど、デパートに出品してくれて。尾花さんの弟がファッション関係の仕事しとって。で、出したらデパートから苦情が来て、局部に薔薇の造花をピンで留めたと。「買い取れ」って言ってから、「わかりました」ってから。実は帰りの汽車賃なかったんよ(笑)。3万もろうて(笑)。

細谷:宮井さんとは面識というか、つながりというのは。

森山:どこで会ったんかなあ。わからんけどね。かわなかのぶひろさんから、足立正生さんの《鎖陰》(1963年)をね、〈蜘蛛〉で上映会やるからっちゅうて借りようとしたら、もうフィルムが劣化しとってね。「貸せんから」っちゅうて、(代わりに)《胎児が密猟する時》(若松孝二監督、1966年)っていう、その関係やないかな。九工大(九州工業大学)の体育館であれ(上映会)したとき、(観客が)いっぱい入ったよ。だけど、九州っていうのはガラが悪いっちゅうか、そのフィルムも結局、どこいったかわからんごとなったもんね。盗られたんよ。若松プロに謝ったよ。いくつもあれ(複製)してるから、大丈夫やったけどさ。

細谷:若松プロの作品は、当時見ていたんですか。

森山:そうそう。

小松:足立正生さんは北九州の出身なんでしたっけ。

森山:戸畑の出身。高峰中学校(現・高生中学校)。

小松:面識はあるんですか。

森山:そんときはないよ。たしか高峰中学から八幡高校(福岡県立八幡高等学校)に行ったはず。僕は戸畑高校(福岡県立戸畑高等学校)。

小松:盗作版画とポートレートを出品した以外に、ハプニングも、KBCの生放送(「ティータイムショー」の番組中のハプニング)とか、事前に準備されていたという話がありましたが、動向展のパレードは。

森山:こんときも女子高生を使ったっちゅうんで、学校から抗議が来て、菊畑さんが往生してね。また〈九州派〉やけんさ、「徹底的に闘え」っちゅうのがおるわけよ、働さんやらね(笑)。菊畑さんの奥さんのお父さんがね、もう亡くなったけど、そんときに福岡市の教育長をしとったんよ。それでね、そっちから手を回して抑えてもらったって。それをまたオチたちが怒ってね。菊畑さん、いっつもそんな役回りたい(笑)。「あいつは権力に対していっつもそんな態度とる」とかってね、働さんやら。あの人は純正左翼のつもりやから。「どこが純正かい」ってから(笑)。最後は飲んだくれて、民社党から市会議員選に出ようとしたんやけ。「そればっかりはやめろ」って、菊畑さんと僕と言ってからやめたよ。画塾自体がね、サロンになってたんよ。担がれたら、嬉しゅうなってからさ(笑)。

細谷:「ティータイムショー」、KBCには針生一郎さんも来ていたんでしたっけ。

森山:いや、知りませんね。春元が「やめた、やめた〜」って立ってから、逃走してしまったもんやけ、そのあとを追っかけてね。もう会場から出てしまったから、あとどうなったか全然知らん(笑)。

小松:その場の後始末とか、どうなったかは知らないんですね。

森山:全然知らない。だいたい僕は後始末したことないもんね。

一同:(笑)。

森山:最悪なのが、小倉の労働会館でやった「畸型三派(狂乱大集会)」(1969年7月5日)。糞尿を撒いてるから、あとメチャクチャだけどさ、結局、桜井さんたちが一生懸命こう(掃除して)。これまた拭きよんのか、延ばしよんのか、わからんような状態でね(笑)。たしか、あの会場は加藤が申し込んで借りてきたんやろうけどさ、あとでえらい怒られたって言うて。

小松:さっきの続きですけど、菊畑さんの講演でもハプニングを(『機關16』、61頁参照)。

森山:どっちが前後かわからんけども、事前に「何かやってくれ」と菊畑さんから依頼があって、「何するや」っちゅうけんが、「全然考えとらんから、裸になるしかないばい」っちゅったら、「また裸かい」とかって言ってからさ。「しょうがないけ、そやけど後ろ向きにやれよ」ってから、「わかった、わかった」って言って、いざやるときは一発勝負やからさ(笑)。プロジェクターがあってから、ライトで加藤の影が映っとるんやけどさ。これ、スライドね、シルクスクリーン(版画)と違うポーズだからさ。ネガを映してるんやからね。
 福岡の電通でね。大学のときの後輩に「金ないから撮ってくれんかな」っちゅったら、「頼んでやる」って言ってから、電通のカメラマン(岩田省三)かなんかが、日曜日にこそっと出てきてね。2月の寒いときにさ、裸に。暖房も何もないわけたい、休みの日やからさ。全員あとで熱出したよ(笑)。何時間もやからね。「いろいろアドリブでやってくれ」っちゅうんでさ。「どんどん撮ってくれ。あとはこっちで決めるから」って。金も出さんでさ。

細谷:ということは、スライド投写でいろんなカットが出てくるっていうことですか。

森山:そうそう。

黒川:菊畑さんはプロジェクターを使うということは……

森山:いや、プロジェクターも言ってあった。

小松:脱いでいる間も普通に喋り続けるんですか。

森山:喋りようけど、噛むし、どもるしさ(笑)。何言いよるのか、本人もわからんってあとで言ってた。

小松:出元は菊畑さんだとしても、この2つのハプニングの意図というか、狙いはどんなものなんですか。

森山:僕はこの剃髪にも興味なかったわけで。こんなん(脱衣ハプニング)は依頼主からの注文でやっとるだけの話でからさ。スライドを映して、加藤の趣味なんよ。好きなのよ、そういうのが。あいつに言わすと「格好いい」っちゅうわけ。どこが格好いいかって(笑)。陳腐だろって思うけどさ。「お前がいいっちゅうんなら、やろうや」って。

小松:単純に考えてしまうと、こういう討論会を台無しにするというか。

森山:まあ、悪ふざけですよね。大した他意はないですよ。

小松:でも菊畑さんは自分が事務局長なわけですよね。どういう意図で頼まれたんですかね。

森山:単に余興として面白いと思ったんじゃないですか。「ひどい目に遭うた」って言いよった(笑)。

小松:一方で企画しつつ、一方でそれを壊すみたいなところまで、菊畑さんは考えていなかったんでしょうかね。

森山:考えとらんと思うよ。やっぱり菊畑さんとしては、針生一郎さんとの対談の方がね。針生さんから何とか本音を引き出してやろうって思っとるし。あの二人は狐と狸の化かし合いだからさ(笑)。

黒川:森山さんと菊畑さんも(笑)。

一同:(爆笑)。

森山:菊畑さんっていうのはキャラクターっちゅうか、徳だろうけど、菊畑さんがやると許されるみたいなところがあってね。まあ、妬みはしょうがないけど、菊畑さんを嫌う人はおりませんよ。面倒見もいいし。桜井さんやら、ほかの〈九州派〉の人たちは敵の方が多いけど(笑)。

黒川:桜井さんに対しては、森山さんはどのように。

森山:私は好きですよ。当時からいろいろあったとか菊畑さんやら書いてるけど、やっぱり桜井さんの方が大人ですよ。菊畑さんに勝手なこと言わしてるもん。で、ビクともしとらんもんね。いつやったか、90年代の頃やったけど、村松画廊で田中幸人さんと久しぶりに飲んだとき、あれが東京中をタクシーで引きずり回してさ。あっち行ってこっち行って、朝まで飲んだくれとったんやけど。タクシーでいつまでも走ってるときに「桜井さんっちゅうのは人間が大きい」ってね、田中幸人さんがさかんに言うわけよ。「ああ、そやね」って言っとっただけの話やけど。あとで、あれは働さんの葬式に行ったときか、福岡から大牟田まで電車で行くとき、菊畑さんと二人で通夜と、明くる日。そんときに、ついポロっと「このあいだ幸人さんと東京で飲んだとき、その話言いよった」っちゅうたらね、急にもの言わんごとなってね。ワーワーはしゃぎよったのが急に黙ってしまって。それから帰るまで、昼から出てって夜帰ってきたんやけど、一言も口聞かんで。向こうの人たちともあんまり喋らんし、おかしいなっち思った。そしたら天神に着いてから、「ちょっと付き合え」っちゅうてからさ。行きつけの飲み屋に行って。「俺は人間こまいのお」とか言ってね、落ち込んどるんよ。よっぽど、なんかあったんやろうけどさ。やっぱ桜井さんに対してはね、ものすごく屈折したものがあってから、あれなんだろうけど。いっぺんに菊畑さんが好きになったんだけどさ(笑)。表に普通は出さん表情やったもんね。あの人はやっぱ苦労人やから、素顔を見せることほとんどないんだけどさ。つい出たんだろうけどね。僕と菊畑さんはそういう意味でさ、僕の方からばっかりやけど、ほんと気持ちいい付き合いやった。第一、お互いの間に妬みもなんもないしね。こっちは全部捨てとって、何も初めからないんだからさ(笑)。あの人はまったく威張らんし。

小松:ありがとうございました。また明日続きをおうかがいしたいと思います。