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元永定正オーラル・ヒストリー 2008年12月9日

宝塚市逆瀬川のアトリエにて
インタヴュアー:加藤瑞穂、池上裕子
インタヴュー同席:中辻悦子(美術家、元永定正夫人)
書き起こし:川井遊木
公開日:2011年1月23日
 
元永定正(もとなが・さだまさ 1922年〜2011年)
画家
具体美術協会(1954年〜1972年)の第一世代を代表する作家の一人。色水をビニール袋にいれて吊すインスタレーションや、たらしこみの技法を取り入れたタブロー、また独特のかたちと色を組み合わせた絵画で知られる。伊賀上野での生い立ちから神戸に転居するまでの様々な職歴、1955年に具体に参加した経緯や初期の具体について語っている。第2回目ではマーサ・ジャクソン画廊や東京画廊とのつきあい、1966年ジャパン・ソサエティの招聘によるアメリカ滞在、また1970年大阪万博での「具体美術まつり」がきっかけで具体を退会した経緯についても話していただいた。インタヴュアーは当時芦屋市立美術博物館の学芸員だった具体美術協会の専門家、加藤瑞穂が務めた。

池上:では早速なんですが、先生は1922年に三重県の上野でお生まれということで。

元永:そうですな。

池上:どのような雰囲気のご家庭でお育ちになったかということをお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか。

元永:よろしいです(笑)。

池上:お願いいたします。

元永:わたしはね、三重県阿山郡上野町桑町というところで生まれました。現在の伊賀市上野です。

池上:ご両親はどのようなお仕事をされていましたか。

元永:親父はね、能登半島の羽咋(はくい)というところで生まれました。羽咋郡円井(つむらい、現在は羽咋市円井町)、円という字に井戸の井ですな。そこで生まれています。親父の話を聞いたら、本当は音楽学校へ行きたかってんけど、親の反対で行けなくなって、それで車の運転手になったと言ってました。車の運転手っていっても、その頃はまだあんまり自動車のない頃やから、非常に格好ええ仕事やったんだろうと思いますな。それから、ハイヤーとかタクシー(の運転手)をやってて、転々として、流れ流れて伊賀に来たと、そういうことらしいんですね。そこで母と出会って、結婚したらしいんですわ。僕が生まれたのは、親父が22歳で母は18歳のとき。母は「おきんさん」。伊賀での名前は、町野というんですわ。「町野きん」さん。

池上:はい、お母様が「町野きん」さん。

元永:そう、「おきんさん」、「おきんさん」って言われてて。で、家にはおばあさんが居ました。「おツルさん」っていう。なんや誰かと似てるんやけど(笑)(注:山崎つる子のこと)。「おツルさん」、「おツルさん」って呼ばれてました。桑町の家では駄菓子屋みたいな店をやってまして。うどんも店で食べさせてたんかなぁ。そういうふうなことをやっていたらしいです。で、僕が生まれた時からの、最初の記憶は、誰かが「お菓子が空から降って来るよー」って言うねん。おばあさんかお母さんか知らんけど。そしたら、ほんとに空からパラパラとビスケットが降って来て、「いやー、面白いなあ」と思ったんやけど。誰かが上からお菓子を落としてたんや(笑)。でもほんまにお菓子が空から降ってきたように思ったのが、子どもの頃の初めの記憶かな。

池上:それは先生がおいくつくらいの時ですか。

元永:さぁ、いつか覚えてないけど、2歳くらいかな。そこに何歳までいたんかなぁ。その家の向かいはね、大きな薬屋さんやったんやわ。それで、うちの中に差し込んでくる太陽を鏡で向かいの薬屋さんの店の中にチカチカと照らす、それがおもしろうて。あれが最初のパフォーマンスやったんかな。鏡でチカチカとしたらおもろいやん、店内で光が動いて。向かいの人はビックリして、「なんやろう」と驚いた。それが、こっちには楽しかった。

池上:ちょっと悪戯のような感じでされてたんですか。

元永:悪戯ですわ。

池上:顔に当てて眩しい、というような。

元永:そうそう、家の中がピカピカと光るからさ。中島っていう薬屋さんやけど、今でも同じところにある。

池上:怒られませんでしたか。

元永:そうやね、あんまり怒ってなかったな。俺が向かいのうちの子供やから、怒れなかったんちがうかな。「ピカピカ光るからなんやと思ったわ」と、そのくらいのことやった。

池上:その他に、子どもの頃の出来事で、特に印象に残っているような原風景とか原体験のようなことはございますか。

元永:そうねえ、向かいは薬屋で右隣は鍵屋っていう、写真屋さんやったかなぁ。そんなことしか覚えてない。桑町っていうたら、上野町の街外れのほうやったから。そうやね、近くに「おやまえ町」という町があって、遊郭です。そんな町もあったし。今でもその通りはありますけども。そんなのがあったのを覚えてますね。それで、近くに愛宕神社っていう、お宮さんがあって。近くっていっても、歩いて10分くらいはかかります。おやまえ町を通り抜けたら愛宕神社という。

池上:そしたら、先生のご両親やご親戚のかたで、美術に関わりのあるようなことをされていた方というのは。

元永:誰もいません。

池上:いらっしゃらなかった。

元永:不思議にねぇ。母親の関係で八百屋をしてたり、それから、食堂をやってたんかなぁ。そんなのはあるけど、作品を作ったりとかは、なんにもないですなぁ。

池上:お客さん相手のお仕事をされている方が多かったんですね。

元永:そうでしたね。それからしばらくして、西日南町に移って。西日南町には、みのむし庵という芭蕉の庵がありまして。すぐ近くに大きな家があって、両親が芭蕉園という屋号で料理屋を始めたんですわ。両親といっても、親父は運転手やってたから、母親とおツルさんと、二人でしていたと思うけども。上等な料理屋じゃなくて安い料理屋ですけどね。そんなのをやってましたな。で、そこから僕は幼稚園に行ったんや。幼稚園っていうのは、今は誰でも行くけど、当時は行く人は少なかったと思うけども。白鳳幼稚園って覚えてますわ。

池上:立派な名前の幼稚園ですね。

元永:はい。

池上:じゃあ、ご両親やご家族は特に美術に関わりがなかった。

元永:何にもありません。

池上:では先生が、結構小さい頃から絵を描かれて、ということは?

元永:そんなこともないです。

池上:そうでもなかったですか。

元永:そうでもないです。小さい時は、学校の授業で絵を描きますね。でも特に上手やと思ったことも言われたこともありません。幼稚園を出て、小学校へ行って、運動が好きやったから、走り回ってた。それと、いつ頃からかな、算盤を習いに行った。算盤学校があってね。それから、小学校の5年生から町の道場で柔道を毎晩やりに行ったりね。強くなりたかったんかな。

池上:じゃあ、お絵かきはご自分でも特に得意とか好きっていう意識は。

元永:絵の時間は好きやった。小学校の友達で、山下くんっていうのが、漫画を描くのが上手やってね。「いやぁ、上手やなぁ、俺もあんなうまいこと書きたいな」とは思った。その程度で、特に絵は神童とか言われたこといっぺんもありません。普通です。でも昔の成績は甲・乙・丙なんやけど、図画は甲でしたわ。

池上:一番良い成績ですね。

元永:甲・乙・丙の甲でした。

池上:先生がお書きになったものを読ませて頂いたんですが、その中に小学生の頃、将来は映画俳優か、歌手か、絵かきになりたいとおっしゃったということなんですが。

元永:それは、小学校5年生くらいのとき。僕、学校ではサッカーもやってたんですよ。その頃は蹴球といっていた。サッカーとか中距離とか走り高跳びとか、やっぱりスポーツが好きで。スポーツマンになろうと思ったことは無かったけど。でも小学校5年のときに、「何かして生きていかなあかん、同じ生きるなら、好きな道で生きたい」と思って、「映画俳優、唄うたい、画かきになりたい」と母親にいうたら、泣いて怒られて。全部「極道商売や」って言われた(笑)。

池上:それはやっぱりお母様が、お客さん相手のお仕事をされていて、ご苦労されていたから。

元永:それもあるし、「そんなどうなるか分からへんことするな」ってことやったと思う。そりゃ、その道で生きられるかどうか分からへんからね。それで泣き止むのを待って、「どないしたらいいねん」って言ったら、「堅い仕事しなはれ」って言われた。それで、家は料理屋で、商売人やから、その頃出来た商業学校っていうのに入れられたんですわ。当時は上野中学っていう5年制の中学があって、中学校は進学校ですけれども、「商売人の息子は、進学せんでもええ」っていうので、商業学校が出来たんです。

池上:お母様は、その料亭を継いで欲しいとかいうことは、なかったんですか。

元永:そんなこと言われたことないねぇ。あんまり、子どもに継がそうとかそんなことは思ってなかったらしい。

池上:で、商業学校にお入りになって。

元永:商業学校はね、3年制ですわ。3年で卒業なんです。

池上:ということは、商業学校をご卒業された頃は、まだ15歳ぐらい。

元永:そんなもんですわな。小学校の頃から算盤がうまかったからね、先生より速いくらいやったし。伝票めくって算盤入れるんやけど、もう出来たっていったら、まだ先生やってるくらいですわな。それぐらい、算盤はうまかったから、算盤の試合とかはよく行きました。

中辻:料理屋さんの頃にね、女中さんたちにものすごく可愛がってもらったっていう話をよくしてましたね。

元永:そうやね、料理屋には芸者さんなんかも来ていたから、一緒に座敷に連れていかれたことがありますわ。芸者さんと一緒に。こた奴(やっこ)っていう芸者の。そんなんは覚えてるねん。それでお座敷に連れて行かれて、何も分からへんから「へぇー、珍しいところやな」と思って(笑)。

池上:で、その商業学校をご卒業になった後、機械工具店の店員になられたということで。

元永:それは、学校からの就職案内で行った。大阪の白髪橋っていうところで、住み込み店員ですわ。そこで荷物運ばされたんですわ。400キロくらいのモーターを積んで、「西宮へ持って行け」っていう、それから始まった。

池上:すごくきついお仕事ですね。

元永:そりゃもう、重労働ですわ。そんな400キロ積んだもの引っ張ったって、動かへんですよ。思い切り力を入れてジワーッと動くの。それを、自転車にも乗れないし、歩きながら引っ張って、鳴尾の坂は上がらへんし、途中で雨が降ってくるしねぇ。なんでこんな辛い仕事せないかんのかと思った。僕は体には自信があったからやれたと思うけども、やっぱり弱い子は夜中に心臓麻痺起こして死んでしまったこともありましたね。

池上:重労働だったんですね。

元永:月給は、10円やったかな。忘れた。10円くらいやった。こんな仕事はかなわんと思って、すぐ辞めたんです。

池上:その後は。

元永:その時分は親父がね、大阪でタクシーの運転手やってたので森之宮に住まいがあったから、親父に泊めてもらったりしてたんやけど。「そんな嫌な仕事すぐ、辞め、辞めぇ」って、親父が言ってくれてね。あれがよかった。「嫌な仕事でも辛抱せぇ」とかいう親父じゃなしに、「やめとけ」というのは、やっぱり嬉しいな。今でも「嫌やったらすぐやめなはれ」と、僕は人にも言うけどもね(笑)。辛抱せんでもええと思う。それで辞めて、今度は砲兵工廠へ行ったんやね。それも仕上げ工っていう、やすりで、ゲージっていうんかな、物差みたいなものを作る仕事で。鉄板をハンマーで叩いて切ったりする。ガーンと手を叩いたりして痛かったのを覚えてます。それも、こんなことやっててもしゃーないなと思って、辞めた。それでいっぺん伊賀に帰ったんやな。

池上:そこで、その後国鉄にお勤めになった。

元永:そうそう、伊賀に帰って、知り合いがやってた大勢楼っていう料亭があるんやけど、そこの養子のおっちゃんが、国鉄三宮の駅長してたんですわ。で、紹介してもらって、「鉄道へ入るか」って話になったんやけど、試験が20人に1人しか通らないぐらい難しい。まず学科で落とされるんですけど。僕も1回目は落ちたんですわ。それは、商業学校では、幾何みたいなものは習ってないのに、試験には幾何が出るんです。中学5年卒業のレベルの試験ですので。僕は3年制で、幾何なんか習ったことないからできない。それで塾に行って、幾何を勉強したんですわ。その頃は男の子と女の子は喋ることなんて絶対できない世の中なんだけど、塾に行ったら、女の子も一緒やねん。「いやぁ、女の子と喋んの」っていうぐらい珍しかった。その塾で1年間くらい勉強したんですけど。

池上:で、2回目にお受けになったら。

元永:やっと通ったんです。

池上:お母様が望まれたような堅いお仕事ですね。

元永:そうやね、堅いですよね。鉄道です、国鉄って名前もかたいし(笑)。それで、一番初めの仕事が京都の駅でした。

池上:国鉄にお勤めになられた頃に、漫画も描き始められたというふうに聞いたんですが。

元永:そうやね、せめて漫画家になろうと思って、漫画の勉強してましたね。講義録をとったり。

池上:講義録。

元永:漫画講義録っていうのがあるんです。通信教育みたいなもんですわね。どこから出てたのかな。それで漫画の勉強し始めたんですなぁ。雑誌なんかで投稿できる本があるので、そこに漫画を投稿したりして。それは大阪駅にいた頃ですね。京都駅で掃除やっとった頃はあんまり出来へんかったな。そこでは、電車が着いたら、忘れ物がないかパーッとみて、電車の中とか、プラットホームを掃除するんです。天皇陛下が来はったら、プラットホームを雑巾で拭くんです。京都の駅で雑巾がけをさせられて。だから今でも京都の駅へ行ったら、「僕の拭いたプラットホームはどこかいな」って見るくらいですわ。

池上:プラットホーム自体は変わっていないんですかねえ。

元永:そりゃ、変わってんのちゃうかなぁ。

池上:駅舎は新しくなってますよね。

元永:なってるわねぇ。駅も全然変わったし。鉄道っていうのは、一昼夜で交代なんですわ。今日行って、明日の朝まで。で、その次の日は帰って、一日休みです。最終電車が済んだらちょっと寝るんです。3時間ほど寝られるんですけどね、京都の駅で。難儀な仕事やなぁと思っとったんですけど、しばらくしたら勝手に出世するんです。「大阪駅の案内係を命ずる」って。案内係は、ちょっと偉い。

池上:お掃除はしなくていい。

元永:案内です。駅の通路で、案内係りっていうのが腕章巻いて立ってますね。「九州行くのにはどういったらいいか」とか聞きにこられるんです。それとか、ラッシュになったら、お客を電車に押し込む役。

池上:その頃からもうあったんですね。

元永:ものすごいです。大阪の環状線は、昔は城東線っていったんですけど。そこで、ラッシュ時に押し込む役でした。もうすごい人で。

中辻:それは戦前ですか。

元永:戦前や。十代やもん、まだ。だから、戦前から漫画書こうと思ってたんやな。それで、戦争が始まってきて、敵が蒋介石とルーズベルトと、それからチャーチルやった。「それをやっつけろー」とか漫画で全部描いて投稿したことありましたね。

池上:そういうちょっと、愛国的なものも描かれた。

元永:それは政治漫画です(笑)。そういうふうに描いたらね。ナンセンス漫画も描いてたけれど、政治漫画みたいなものも描いたり、色々やってました。それで漫画を描くには絵を勉強しないといけないというので、中之島美術研究所に行った。やっぱりデッサンやらなあかんし。(注:現在は中の島美術学院という専門学校)

池上:じゃあ、絵は漫画のあとからきたような感じだったんでしょうか。

元永:そう、最初は漫画を描いとって、漫画を描くには絵を勉強せなあかんということで、絵も勉強し始めたわけです。

池上:漫画を最初に選ばれたのは、どういう理由だったんでしょうか。

元永:そりゃ、「漫画家のほうが飯が食えるやろうなぁ」と思って。絵かきはそんなに飯食われへんし。本当を言ったら、油絵っていうのはあんまり好きじゃなかったんや。ゴテゴテっとしたのは、僕は好きやなかった。

池上:そうなんですか。中之島の美術研究所では、デッサンのレッスンを受けられたんですか。

元永:そうやね、やってたけども、覚えてないぐらいですわ。ちょっと行っただけやと思う。まぁ、中ノ島美術研究所っていったら有名やったから、ちょっと行った、って書いたらハクがつくみたいな感じや(笑)。そんなにそこでは描いてなかったと思う。

池上:本格的に絵を学ばれたのは、国鉄をお辞めになって、上野に帰られてからのことになるんでしょうか。

元永:そうやね、国鉄も、大阪駅に行ってから、サボってばっかりいたから左遷されたりして(笑)。昼は暇やから、腕章はずしてミナミで映画見て帰ってきたり、そんなアホなことよくしてたけども。プラットホームではマイクロホンの前で、電車の案内をいうたり、させられたりしました。これは笑い話になるんやけど、夜10時を過ぎたら暇になるから、僕は演歌好きで、演歌歌ってたら、マイクのスイッチ切るのを忘れて、大阪駅のプラットホームで俺の歌声が流れたっていうこともあったり(笑)。それから、僕はあまり上等な職員じゃなかったから左遷されて、「西宮の駅務係を命ずる」って。駅務係っていうのは何だと思ったら、荷物の番したらええんですわ。戦争でものが無くなってきたから、米を盗みにきたり、砂糖とりにきたり、プラットホームに積んである荷物を狙ってる泥棒がいたんですな。そやけど僕は、「そんな荷物みたいなもんどうでもいいわー」と、漫画のことばっかり考えてた。で、そこの助役さんとなんかしらんけど喧嘩して、僕は権力を笠に着て偉そうなことをいう奴が嫌いで、「なんやねんお前」ってすぐ言うほう。普段はへらへらしてるねんけど、勘に触ったら、すぐカーッとなるほうで、その助役とあわや大乱闘になりかけたんやけど。その助役さんは人をすぐ殴るほうで、「殴って来たら俺もやっつけたるでー」と思ってたんやけど、僕が強そうやからね、助役さんはよう殴らんかった。それでまた左遷です。「塚口駅の踏切番を命ずる」って。踏切番って踏切小屋に入って、ランプがついたら遮断機を手で降ろす係。僕は漫画のことばっかり考えてるからそんなもん、踏切小屋で一所懸命番なんか出来へん。そしたら、踏切降ろすの忘れますやん。「そしたらどないなるか」と思って、「えらいこっちゃ、刑務所行きになるわ」と思ったりして。こないだ事故があったすぐ手前の、宝塚よりの踏切ですわ(注:2005年、JR福知山線の塚口駅と尼崎駅の間で発生した脱線事故)。だから、もう1日もいてまへん。「こんなところにいたらえらいことや」と思って、逃げ方を考えて、「そや、腹痛おこそう」って。「腹が痛くなって、こんなとこ座ってられませんわ」っていうて逃げて帰ったんですわ。4年ほど務めた鉄道も、それっきりもう放っといたんです。もう辞めたんです。それでまた伊賀に帰ったと、そういうわけですわ。それから何をしたかな。

池上:それで、上野に帰られた頃に、特定郵便局の局長をされていた濱邊萬吉(はまべまんきち)さんに絵を学ばれるという。

元永:そうそう。濱邊さん有名な人やったさかいに。「漫画描いてますねん」いうたら、「漫画は知らんけど、絵やったら見てやる」ということで、絵を見てもらい始めたんですわな。

池上:どういう絵を描いてらっしゃる方だったんですか。

元永:日展系です。絵はなかなか格調のある、良い絵描きやったと思います。日展に7回ほど連続入選とかいったら、昔は偉いことだったんですわ。三重県中に名前が鳴り響いとった偉い先生でしたね。伊賀に帰っても就職せな、なんかそうせんとお金がないさかい生活でけへんって思って。見つかったのが、やっぱり軍需工場でした。豊田式織機っていうんですけどね。そこでまた、工具屋ですわ。工具室で工具を渡す役でしたな。そこで、終戦になったんです。

池上:上野におられても、戦争の影響というものは大きくあったわけですよね。

元永:それは、そうですわね。大阪駅にいるときでも、戦争の影響はあったし。今頃はこういうことを言ったら怒られるかもしれないけど、夜中の汽車で、女性が戦地に運ばれて…… もちろん軍隊も。夜中に大体通っていくんですわ。満州の方へ皆、ぞくぞくと。なんかそういうことを覚えてますね。まだ十代やから、戦争に負けるとか、そういうことはあんまり分からない頃でした。鉄道というのはやっぱり、ものを輸送するにしたって、大事な機関ですから。そういうのを見たんですけどね。

池上:それが慰安婦の方達だっていうのは、どういうところでお分かりになったんですか。

元永:みんな、広報が入って来ますやん。何時にどんな列車が走るとかいって。そやからそれで分かりますやん。

池上:それで、女性ばかり乗っているからという。

元永:もちろん全部女性ばっかりです。それから、レプラ(注:ハンセン病)の電車っていうのがある。ライ病患者を運ぶの。車両に車掌をひとりだけ乗せて、ライ病患者を端っこに乗せて、こっちに警察官が座って監視してますねん。もうひとりくらい乗ってたかな。駅で会ったことありますけど、顔を見たらもうズルズルで何も無いんです。鼻も落ちて。レプラっていうのはそんな病気で、あんまりうつらないと最近は言われてますけど、その頃はレプラって怖いと思われてた。それで、レプラの患者が入ると、消毒する役の人が、バーっと消毒しながら後をついて行きます。それでライ病患者の車両にひとり乗せられて、瀬戸内海の島に運ばれるわけですよね。そんなことも、体験してますわ。体験っていったら、プラットホームで女の人がキャーって泣いてる。「何で泣いてんの」って思ったら、「今、入ったー、飛び込んだ」っていうねん。汽車に飛び込みはったんや。それで知り合いが泣いてんねん。そういう時はね、僕たちは係だから、拾いに行かなあかん。下の線路へ降りたら、バラバラやな。足やら手やら千切れて、「首はどこやー」って探したら、プラットホームの下に切れた首がこっち向いて立ってたり。「うわーっ」と思ったね。

池上:壮絶ですね。

元永:それを、丼鉢に入れて、下の安置所みたいな部屋に持って行って、あれはかなわんかったわ(苦笑)。首は、俺が見つけたんや。首を運ばないといけない。そういうのを案内係というのはせなあかん役でしたな。そんで、エピソードっていったら、大阪駅にいる頃、僕は柔道やってるから、案内係と、改札係と、荷物係との試合やとかいうてね、よく柔道の試合に行ったりしました。

池上:そうですか。

元永:そんなことも、4年間のうちにあったけれども、辞めたわけですわ。辞めて伊賀へ帰って、軍事工場に入って、それで、終戦になったんやけども。

池上:その前に先生にも召集令状が来たということですよね。

元永:ああ、召集令状ね。来たんです。あれはいつやったかなぁ。あれは、豊田式織機に入ってる時やったかな。

池上:戦争が終わる前の年ですか。

元永:いつ頃やったかなぁ。それが、僕は海軍にしてもらったんです。本当は甲種合格の体なんやけれども、その頃病気があった。痔ですねん。だから、痔のお医者さんによく行ってたんやけど、召集令状が来て、呉海兵団に行ったんです。軍港の呉に送られて行ったんです。行ったらね、僕は体がいいし、肺活量でもフーッと吹いたら、5000もすぐ上がってしまうの。僕の肺活量は多過ぎて測れなかった(笑)。でも終わりにお尻をバッと見られて、「痔や。家に帰って、じっとしてなさい」って言われて、家へ帰された。不合格っていう判を体にバーンって押しはんねん。モノ扱いですよ、皆。合格やったら、合格の判押しはんねん。僕は不合格の判押されて。でも、何となしにホーッとしたん覚えてるかな。でもすぐ、家へ帰られへんねん。すごく格好悪いから。召集令状をもらって、街の辻で一所懸命演説して、「軍部に精励致しまして」とか言って、日の丸と歓呼の声に送られて出て行ったのに。だから帰られへんのや。親父がいる大阪の森之宮の家で一週間ほどモタモタしてて、それからそーっと帰ったん覚えてますわ。

池上:そうですか。

元永:でも今から思ったら、痔がなかったら、すぐ戦地に送られて死んでたと思うから、そこで命が助かってまして。運が強いんかなぁ。

池上:そうですよねえ。で、上野に帰られて、しばらくして終戦を迎える。

元永:終戦です。それで、行くとこないし、どうしようと思ってたら、郵便局に欠員があって丁度ええわっていうので、郵便局に務めた。

池上:それで、濱邊さんのもとで、油絵を描かれるようになったということですか。

元永:そうやね。やっぱり油絵を描きましたな。何もないから、近くのお姉さんに使い古しの油絵の具もらったりして。それで、生まれて初めて描いた最初の油絵は、油性の写真着色用の色絵の具。それを貰って、人形の絵を描いたのが初めての油絵でしたね。能人形。それも、濱邊さんとこでその人形借りて、描いたんですよね。金色の台があって、その金色を出すのに苦心しました。

池上:その後、しばらくして、今度神戸に出てこられることに。

元永:その前に、三重県の県展に出品したり。第1回の県展ですわ。三重県の。その資料を探してくれって、三重県の毛利さん(注:毛利伊知郎。インタヴュー時、三重県立美術館学芸課長)に言うたら、資料が全然あらへんねんて(笑)。三重県の県展には、なんか1回と4回に出したことになってるなぁ。それで、郵便局も3年ほどで配置転換があって、他の郵便局やったら嫌やから辞めたんですわ。でも、仕事はせなあかんから、材木屋で働けって話になって。最初、事務所に来ないかっていう話やったけど、事務所だと仕事に責任ができて伊賀から出られなくなるから、「現場で働きます」って。それで駅で木をかついで、貨車に放り込む仕事をした。1本の木は、80キロくらいあるんです。朝から晩まで運ぶんです。それも重労働です。

池上:先生、肉体労働にご縁がありますね(笑)。

元永:肉体労働ばっかりや。だけど、わりに平気なんやね。それは。

池上:お強いんですね。やっぱり。

元永:強いんちゃう。4時くらいに起きて、職場まで8キロほど歩いて行って。朝、一人やから、なんで一人やったんかな。あの頃もう、おキンさんも死んでたんやろうなぁ。うどんの玉を4つほど温めて醤油かけて食べて、それから、木をかつぎに行ったんですわ。それで、そんなんばっかりでは、耐えられへんので、木かつぎが済んだら、社交ダンスを習いに行ってた。後に神戸に出て来てからは、社交ダンスの先生したりね。何でも身についたことは、金にしようと、やったことありますけど。その頃伊賀では毎晩、社交ダンスを踊りに行ってました。

池上:その頃、わりと流行していたんですか。

元永:そやねえ。流行やね。伊賀にも戦後、音楽鑑賞会とか、文学の会とかできて。それから、終戦の次の日に、濱邊さんとこでお茶の会をやるっていって。あくる日からお茶を習わされた。

池上:非常に優雅ですよね。終戦の翌日に。

元永:そう、ある意味で優雅。濱邊さんが、そういう文化人なので、濱邊さんの家に京都の裏千家の家元の直弟子が疎開で来てはったんで、ほんならお茶やろうかっていって。その時なんかは、大島紬を着て、角帯を締めて、白足袋はいて。うちにそんなんあったんやなぁ、と思うけど。お茶をしに行ったことがありますな。

池上:戦争に負けたショックとかそういうことは、置いておいてってことですか。

元永:ショックよりもホッとしたんやなあ。

池上:そうですか。

元永:やれやれ、これからは何をやってもいいということで、まずお茶の先生いるから習おうか、ってことになったんやろうと思うけども。習いに来てるのは、小説書いてる連中とか、出版社の社長とかね。いわゆる文化人が集まった。濱邊さんとこやからできた。その頃から郵便局に勤めて、それから木かつぎ屋(材木仲仕)が始まるんですけども、合唱団っていうのもあったので、合唱団に入って僕はテノールを歌ってた。音楽鑑賞会っていうのがあって、巌本真理とか諏訪根自子さんとか呼んで音楽会したり。

池上:先生のお若い頃は楽しそうですね。

加藤:それでも(生活は)厳しいですよね。

池上:厳しいお仕事をされている反面、非常に楽しまれて。

元永:もちろん、生活するためにお金儲けなあかんさかいに、色んなことやりました。でもそういう文化的な会に全部入ってました。「文化会」っていうのもあったんや。だけど、メンバーは大体同じ顔ぶれや(笑)。田舎やさかいな。そういうの好きなひとは、大体同じ嗜好やな。

池上:では少し、神戸に転居されてからのお話をお聞きしたいんですけども。

元永:それで、木かつぎやってた時に、社交ダンスに行っとったんですが、お昼休みに、スケッチブック持って行って、クロッキーしたり、風景描いたり、友達の仲間の顔を描いたりしとったんです。ある時、専務の娘が社交ダンスに行きかけたんですわ。そしたらお前が誘惑したんやろって怒られて。こっちは「そんなん知らんやんか」って思うし、向こうは「絵かきさんは、使いにくい」っていいよるんですわ。木かつぎって奴隷みたい仕事なんですわ。「われ、なにせえ」とかいうむちゃむちゃな、人間性を無視したような仕事で。それで、絵かきなんて使いにくいっていう腹が、専務のどっかにあったらしいから、「クビだー」ってクビになったんですよ。その時、あんまりいつまでも伊賀にいたって、ろくなことないし、仕事も無いので、大阪へ出るか、東京へ行こうか考えた。ちょうど弟が神戸に行っとったんで、そこにまず行こうかと思って、神戸に来たんです。それが、出てきたきっかけですなぁ。魚崎ですわ。

池上:神戸の印象というのはどのような感じでしたか。

元永:お金無いし、働かなあきまへんがな。それで、神戸へ出て来る時に電車の中で会うた人に、大阪の工藝社みたいなところ、いや日展や、そこへ入れへんか言われて、働かなあかんから行ったんやけど。日展に行ったら、字を書く人がみんな職人ばっかりやねん。すごくうまいねん。もうビックリしてね。こんな仕事やっとたら、俺は絵かきになられへんって思って、辞めたんやけども。ほんで、神戸で仕事探しですわ。やっぱり、絵は描かれへん。初めての仕事がアイスクリームのセールスマン。「アイスクリーム買うてくれませんか」って。ええと、あれはどこや。花隈の方に事務所があったんですわ。専務が大阪にいて、ブルーシールを売りかけて。

池上:アメリカのアイスクリーム。

元永:そう、アメリカのアイスクリームやった。そんなんで、俺も大阪のほうへ行かされたりしてて。だけど、専務が社長に内緒で売りかけたらしいんやわ、ブルーシールを。それで「お前ら、なんで社長に言わへんの」って。「そんなん知りまへんで」って言ったら、社長がえらい怒って、今度も「クビだーッ」とクビ。そしたら同僚はね、「知ってるくせに」とか言って、社長に告げ口しよるんや。「こういうやらしい世界があったかな」と思ったな、あの時初めて。それで次は、読売新聞の拡張員やったんやな。そしたら、ちっとも新聞取ってくれまへんねん。2、3件は取ったけどね。何でこんなに取ってくれへんのかと思ったら、回ってるところが悪かった。甲子園の辺りばっかり回っとったんや(笑)。そら、読売じゃあきまへんがな。ジャイアンツは敵やさかいな。それで辞めて、西宮の職安に行って、「何か仕事ないか」って言ったら、進駐軍の荷扱い夫があった。「それでよろしいから」って、行ったんですわ。朝5時から働くねんで。5時からね、昼の2時まで。

中辻:二部制になってたの?

元永:せやねん。二部制やねん。あの時は、三ちゃん(注:村上三郎のこと)ところかな。いや、まだあの時は、三郎のところ知らんかったんや。それでその仕事に行っとったんやけど、月給も1万2千円か3千円かくれるようになって、やっとお金入ったと思って、よかったんですわ。それで、やっと絵を描こうか、という気持ちになって、西宮の美術教室を教えてもらって、絵の勉強を始めた。クロッキーですけどね、やっと始めたんですわ。西宮の市展に出して、会員にもなったんやけど、斉藤君っていう美術教室に居た人が、「芦屋にも市展あんねんで」って。「ほな、出したらいい」って思って、裸婦の絵を芦屋の市展に持ってったんですわ。伊藤継郎さんが審査員やってて、あの裸婦が良かったのか、ホルベイン賞を貰った。でもその頃から、芦屋はほとんど抽象画ばっかりやった。僕はびっくりしてん。それで「やあ、これは、面白い」と思って、抽象画に変わったんです。

池上:抽象画というのは、それまでは、全くご覧になったことがなかったんですね。

元永:知らんかったんですわ。僕がその頃描いていた油絵は、野獣派ですねん。野獣派っていうと、形をデフォルメーション、自分流に変えて。それで自分流の作品を作っとったけれど、対象物が絶対あるねんな。「何とか対象物から逃げられへんかな」と思ってた矢先に抽象画に出会って、「やあ、抽象画は自由やなあ」と思って、もうその日から抽象画を始めたんです。

池上:その日から。

元永:野獣派を瞬間にやめた。

池上:元から抽象の方向に行こうとされていたわけではない。

元永:いや、何も分からへん。そんなん知らんもん。知らんけど、パッと見た途端に「やあ、これはええなあ」と思ったんですわ。

加藤:その時は、吉原(治良)先生に作品をお見せになったんですか。

元永:神戸へ出て来る時に、会いたい人が二人ほど居たんです。須田剋太と吉原治良に会いたいなと思っていた。それで芦屋の市展に出したときに、吉原治良先生にお会い出来たわけやな。ホルベイン賞の裸婦の絵を持って行った時には、あんまり分からんかったけど、その次の年に、抽象画の絵を芦屋に出品したんです。それで、後で聞いた話やけど「こんなん絵になってない」って、落選しかけた僕の作品を、吉原治良さんがオシッコ行ってはって、帰って来て、「いや、これおもろいやんか」っていうて、「賞にしようか」って、えらい褒めてくれはったと聞いてね。それで自信ついたんです。こんな絵やったら、なんぼでも描けると思った。

加藤:それは摩耶山を描いた作品。

元永:そうそう。摩耶山をヒントにしたんです。山を描いたわけではない。

加藤:《寶がある》(1954年頃)っていう。

元永:そうそう。抽象画っていうのはどうして描いたらいいか、分からへんから、しばらくどないしようかと思ってたんやけど、ある時夕暮れの魚崎から神戸の方見たら、摩耶山があって。その黒い、お碗をふせたような形に、ネオンサインがいっぱいついてたんですわ。昔は遊園地かなんかあったんかなあ。

加藤:そうです。摩耶の山頂に。

池上:そうなんですか。

元永:ちょっと何年か前に、テレビの取材で現場に行ってみたら、今は何もあらへんねん。ビルも家も建ってるけどな。それで、摩耶山のネオンサインを見て、「神戸の山はえらい綺麗やなあ」って思った。伊賀の山は夜になったら真っ黒けやけど、「神戸はえらいお洒落やなあ、これを何とか作品にできんかなあ」と思って。それで絵にしたのが、《寶がある》(1954年頃)という作品。皆が「こんなんでいいの」って言ったらしいんですけど、治良さんが「おもろい」って言うた。それは、見方が違うわけや。吉原治良は、新しいものを、今まで見たことのないようなものを、目指してはったんで、僕の絵はそういう意味では、何も知らん人間が描いた絵やから、新しい絵に見えたんやわ。ほんで、えらい褒めてくれはってんけども、「絵になってない」って言う人は、「絵はこう描かねばならない」っていう概念で見るわけや。絵の具のつきかたがめちゃくちゃだとか。そんなん、めちゃくちゃに決まってまっしゃろ、俺はそんなん描いたことないんやもん。そういうのは、知らんから良かったと思うな。それで、いきなり芦屋の松林で、具体の初めての展覧会があって、「そこへ出せ」と言われた。でもお金もないし、松林にどんなものを出したらいいかと思って、松林を見に行ったら、水道の蛇口が見えて、「あ、水はタダやな」と思ってね。それでビニール買って来て水を入れて、それをインクで染めて。松の木にぶらさげた。それが、最初の水の作品ですわな。

加藤:その頃、ビニールのシートっていうのは、もう一般に普及していたんですか。

元永:そやねえ、もうその辺に売ってましたな。大きなのじゃなくて、あれは90センチ四角とか、そんなもんやと思う。

中辻:昔はビニールの風呂敷に包んだって言っていたわね。

元永:そやそや、風呂敷や。長いのはないんや。切れ切れやさかい、90センチ四角ぐらいしか売ってなかったわけで。10円くらいしてたと思うけど。それで、早野さんという近所の詩人に赤インクをもらって、染めて出したんや。そしたら治良さんが来て、「いや、水の彫刻や。おもろい」って言うてくれはった。「世界で初めての水の彫刻やで」って言うてくれはるから、「へえ、そんなもんでっか。こんなんやったら何ぼでも出来るわ」と、こういうふうに自信もってくるわけ。で、「新聞社が取材に来るで」って。「ほんまかいな」って思ってたら、神戸新聞が取材に来て。初めての取材やったけどね。

加藤:その時は木にたくさん釘を。

元永:それは、丸太棒にペンキを塗って、色を塗った釘を打ち付けたやつ(《釘》、1955年)を出したんです。あれも「おもしろい」って言うてくれんねんけど。その頃はとにかく、「お金がいらんもんで、おもろいものは、どんなんがいいかな」って思って一所懸命考えてましたな。だから、金持ちやったら、あんなんできなかったなって思ったりする。

加藤:その少し前には、ざるとか、海辺で拾われたものを使われて。

元永:それは、芦屋の市展に出したんやけど、ざるは、絵ができる前やったんです。魚崎に居たから、海岸に何かおもろいもんないかって、拾いに行ったんですけども。そしたら、ざるとかコルクとかがいっぱい落ちとったんですわ。これを作品にできないかと思って、作品にしたのが、ざると、コルクとすだれですわ。そんなわけで、魚崎の海岸を歩いていて、抽象彫刻を思いついたのが最初です。絵はね、どないしようか思ってた時に、摩耶山を後で見たんですわ。けど、芦屋の市展には、彫刻の部門も、絵の部門も、写真も、日本画もあんねん。もう全部に出した。

加藤:そうですか。

元永:そうそう、で、全部出して、全部賞貰ったりね。そういう時ありました。

加藤:吉原先生が本当にあの頃は全部、審査されていて。

元永:審査委員長やったし、ハナヤ勘兵衛さんっていう人も審査員やったんかな。新しい写真やと思うけども。僕が出した写真は、カメラを使わない写真を考えた。

加藤:どういう作品だったんでしょうか。

元永:記録にはあるけども。

中辻:『きりん』の表紙になっているようなものです。

元永:そう、あんなんです。写真のフィルムを巻いてある銀紙をね、傷つけて、それを引き伸ばし機にかけて、印画紙に直に焼いたの。そういうのは、カメラを使わない。絵と同じですけどね。

中辻:カメラ屋さんをしていましたしね。

元永:そうや、カメラ屋さん、DPE屋さんみたいなん、やったことあるわ。あれはいつやったか、弟と大石に店出してん。あの頃、進駐軍を辞めた時に7万円ほど退職金もらって、全部そっちに注ぎ込んで、7万円が弟のほうに行ってしもうて。そんなこともありました。写真屋さんやってたんや。思い出したわ。

池上:そういうところから、写真の作品も考えつかれたんですか。

元永:ええ、そうです。

中辻:大きい作品はお風呂場で洗ったりして。

元永:そうや、そうや。現像液で現像して、定着液もつけたけども、水洗いは、風呂で洗ったりね。弟も芦屋市展に出してたんや。弟も会員でっせ。

加藤:始めは、野外展も出されてたんですよね。

元永:出してたんかな。何か知らんわ。

中辻:大きな写真の作品とか出品していた。

元永:野外展にもあんなん出してたんか。

中辻:いいえ、芦屋市展の写真の部で。

加藤:芦屋市展も出されていますよね。

元永:まあ、そんなこともありました。

加藤:そうですか。では芦屋市展で、「この人は」というような人を、吉原先生はスカウトされて。「具体の方にどうだ」っていうふうに。

元永:そうそう。野外展もそうやった。「なんか変なことやってる連中を野外展に呼んだれ」っていうので出品した。野外展で「具体に入らへんか」って言われた。僕は具体って何かさっぱり分からんし、友達が全然いないからね。具体に入ったら、仲間ができて、友達できるかなあ。「お金貸して」とかね。「晩御飯おごれ」とか言えるっていうことも半分あった(笑)。もうほとんど、誰も知ってる人がいなかったんです。そういうことで、何か会に入ったら、知ってる人が増えるなあと思って。弟は西宮コーラスとかに入ったけどな。コーラスに行ってたら、知り合いは増えやすいわな。そういう会に入ってたらええなあと。その時は思ったんですね。

加藤:その時、野外展でたくさん具体の人達にお会いになって、その他の作品をご覧になって、どのように思われましたか。

元永:他の人の作品にはあんまり関心ないわ(笑)。けど、皆おもろいことやる奴が多いなと思ったりして、三ちゃんは、アスファルトルーフィングを走りながら破るだけで、「ええ、これで作品」って思った。白髪(一雄)はね、土の作品出したんやな。初め血を入れよってん。赤い血や。「そんなんも作品か」って思ったりしてね。あんまりよく分からんけど、「変わったことをやる仲間やな」と思って、それは性に合うてると思った。変わったことやったらええっていうので、「それやったら俺はいける」と思ったんや。それに友達が増える。そういうことがふたつ重なって、「入ります」って言うたんですわ。

加藤:その頃、生計はどういうふうに立てられていたんですか。

元永:あの頃、進駐軍のベースキャンプに4年いたかな。けど、勤めに行ったら、時間がなくなるし、辞めたらお金が無くなるし、どうしたらいいかなと思った。そういうことがあったんやけれども。友人で城喜くんとか、子どもを教えたりしてるのがいて、「あ、これいいなあ」と思った。それで、幼稚園借りるっていっても、なかなか貸してくれへんし、始めは金山(明)のあとを借りたなあ。春風幼稚園とか。

中辻::金山さんのあとを借りたわけ?

元永:せやせや。

加藤:当時、具体の方々は、子どもさんに結構おしえていらっしゃいましたもんね。

元永:そうやわな。ほんで、考えてみたら皆金持ちやねん(笑)。

加藤:そうですか(笑)。

元永:そうや、白髪にしたって、京都芸大やろ。

加藤:白髪さんはそうですね。

元永:村上三郎にしたって、関学の哲学出身やし。金が無いような顔してるけど。金山にしたって……

加藤:お寺にいらっしゃいました。

元永:田中敦子だって、乳母車屋の娘やったし。おつる(山崎つる子)さんも、メリヤス会社の社長の娘やし。皆お金持ちやねん。上前(智祐)はクレーンの運転手しとったそうやけど、皆「ええしの子」(注:良家の子、の意)ばっかりやった。いいなあと思ったりしたわけや。金が無いの俺だけかな、と思ったりした。でも皆お金持ちやから、「金貸して」とか「飯おごれ」って言えますさかい。

中辻:実際に言ったわけ?

元永:実際に言ったかなあ。せやけど、あんまりお金借りたりしたことは無かったと思う。お金借りたのは、津高(和一)さんに、1000円とか2000円とか借りた。三郎と一緒に借りに行ったんや。三ちゃんもお金無かったんかなぁ、あの頃。けど、家は「ええしの子」でっしゃろ。僕は中学校三年しか出てへんし、土方人夫で生きてきた男やさかいに。(吉原)通雄に至っては、治良さんの息子やし。考えてみたら、そういう金持ちが多かったです。具体に入った時は具体の具の字も知らんし、前衛美術やら何も知らんし、それが不思議やと思うな。「何でそんなもんに興味もったの」って、自分でも思うくらいですわ。

加藤:ちょうど野外展の後、その年ですけれども、東京で第1回の具体展をやって、その時も皆さん東京に行かれるわけですよね。

元永:そうです。あの時もお金無かったんや。なけなしの金が2万ほどあって、20日ほど、それで東京に行っとったんです(笑)。皆は小原会館に泊めてもらったらしい。俺は泊まるところ無いしやなぁ、渋谷のラブホテル探して、「安いところやったらラブホテルがええやろう」、と思って、探したけど泊めてくれへん。「ひとりやったらあかん」っていうし、やっと探して泊めてもうた記憶があるんやけどね。皆、小原会館で泊めてくれたっていうねん。俺は何で泊めてくれへんかったんやろう(笑)。

池上:なぜでしょう(笑)。

加藤:そこで、絵の作品と、あとそれから……

元永:《石》(1955年)の作品と。

加藤:多摩川に石を拾いに行かれて、作った作品と、あと《水》(1955年)の作品を出されて。石の作品は、もともとああいう(拾った)石を使っておられたんですか。

元永:初めて出品したのは、芦屋市展に出したんや。それもお金いらんさかいに。石にエナメルで色つけて麦わらをくっ付けたり、軽いものと重たいものとの出会いが面白いやろう、と思ってやったのが、石の作品でした。東京で作るのに、多摩川に拾いにいったんですわ。ドンゴロス(麻袋)にいっぱい石詰めて、重たいんですよ。あれ、何十キロあるか知らんけど、80キロくらいあるか、担いで多摩川から持って来た。渋谷の駅を歩いてる時に、皆に見られてたらしいんやわ。それで、具体の展覧会を見に来て、「いや、あの時こんな石が入っていて、こんな作品になったんですか」って言った男の子がひとりいたね。だから見られてたんやな、と思う。

中辻:芦展に初めて出品した時の石はどこの石かしら。

元永:あれはどこやろう、逆瀬川あたりか、どっかで拾ったんちがうやろか。

中辻:逆瀬川に居た頃の作品かしら。

元永:逆瀬川の石やと思うで。せやけど、僕の作品はとにかくお金のかからないもの、というのが第1条件です。

加藤:今、第1回具体展の資料写真を拝見すると、ほんとに一角を全部、使われていて。絵の作品もたくさん出しておられたし、窓際に《水》の彫刻もあって、すごくたくさん展示されていて、元永さんの大きな展示スペースっていう感じですが。

元永:2階のロビーみたいなとこ、全部もらって、一部屋もらったんですけども。2回目もあそこもらったんやけど、要はあそこの場所、ええ場所や。僕は水をするから、窓際がええということで。よかったなと思うね。

池上:他の方はそんなに大きいスペースは、いただいてないんですか。

元永:いやいや、それは色々あるさかいに。ちょっとしか出さん人もいるし、床に並べた人もいるし、色々特徴があって、白髪なんか、外の庭で泥の中飛び込んだりね。それぞれでしたな。俺は水を並べるから、2階の部屋がええやろうということで、くれましたんやわ。それで、何でか知らんけど、あの頃「鑑賞の手引き」っていうのも僕が書いたんや。

加藤:そうです。第1回の具体展の「鑑賞の手引き」は、元永さんが書いていらっしゃって。

元永:そうやねん、ガリ版で書いてん。なんで俺が書かされたんかわからへんのよ。具体なんか知らんのに。でも、今から読んだら、「うまいこと書いてるな」と思うんやけどな(笑)。

加藤:あれは吉原先生が、「書きなさい」とおっしゃったと。

元永:誰が言うたんやろう。治良さんかなあ。

中辻:そうでないと、書けないでしょうね。

加藤:ええ。

元永:そうやわな。何で俺に言ってくれたんかな。

中辻:展示のお部屋の割り振りも。

元永:そりゃ、治良さんやさ。

加藤:それで、やはり吉原先生が、うまく配置されてるなあと思いました。

元永:それはそうです。

加藤:それぞれの作品の特徴を、よく活かすようなスペースを割りあてられてるなあ、と思いました。

元永:それで、現場で制作したさかいに、金山なんかは、朝までかかって。

加藤:バルーン。

元永:ほんで、会場で寝とったんや。「8時になって人が入ってくる」って、治良さん来て、「えらいことや、お前、お客さん入ってくるのに、なんやこんなとこで寝よって」って、えらい怒られとったん覚えてる。

加藤:金山さんが寝ていらっしゃったんですか。

元永:金山や(笑)。金山って起きられへんねん。寝たら起きへん奴や。

加藤:そうなんですってねえ、私も伺いました。

元永:それと、約束の時間を絶対守らへんねん。起きられへんねんもん、朝。「何時に会おう」って言ったって、よう起きんのやろうね。三ちゃんも、よう起きんかったね。昼の2時まで寝てるんやもん。

加藤:そうですね、夜にお強いと。

元永:夜強いねん。どこやろうな、高校に教えに行っとったけど、起きられへんさかいに、学校へちっとも行かずにクビになったんやて。野外展の時に三ちゃんと一緒で、「うちに部屋空いてるで」っていうから、三郎のところに行ったんやけど、起きへんねん。その頃ね、三ちゃんの奥さんが美容学校に行くからって、家を空けとったんよ。それで、(三ちゃんを)放っとかれへんっていうので、俺に「来ないか」って言ったんやないかと、後になって思うねんけども。

加藤:そしたら、村上さんと、一緒にお住まいになられるようになったのは、村上さんが声をかけて下さって。

元永:そうですな。三ちゃんはご飯もよう作らんし、俺が7時くらいに起きて朝飯作ったら、まだ寝てるんやもん。それで「おい、起きろ、飯くえ」って、食べさせたことなんてしょっちゅうですけど。それが、村上三郎の奥さんの狙いやったんかもしれへん(笑)。俺は早起きやし、ご飯なんぼでも作るし、三ちゃんなんてなんもせえへんもん。夜になったら、酒飲むだけやし。

中辻:その時は、知彦君(注:村上の息子)はどうしていたの。

元永:あの子は、まだ幼稚園に行ってるとか。

中辻:お母さんと一緒だったのか、三ちゃんと一緒だったのか。

元永:どうしてたんやろな。幼稚園か小学校か行ってたの覚えてるわ。でもあの時は、いなかったよな。嫁はんと一緒に行ったんかな。彼も大きくなってしまってねえ。昔のことは、思い出したら、面白いねえ(笑)。

加藤:村上さんと共同生活されていらっしゃったことで、何か得ることっていうか(ありましたか)。

元永:そりゃ、三ちゃんは哲学者やさかいね。俺が普通に言うたことでも、「これはおもろい」、「それはニーチェが言うた」とか、「それはサルトル」とかいっぱい言ってくれはんねん。それで、神戸で酒飲んでるときに、「気が付いたら、俺は俺やった」っていうたら、「えらいすごいこと言うなあ」って、三郎ビックリしてね、哲学的に解釈してくれて。「俺は俺や」って言うたのを、えらいビックリして、褒めてくれはったことあるわ。「なんでやろう」って思ったけど、三ちゃんは哲学やってるさかいに、哲学者のことよく知ってるわけや。で、ふっと言った言葉に、「それは、ニーチェや」とかよう言うて。「えー? 俺が言うたことがニーチェかいな」と思ったり。それで哲学に興味持ったかな、俺は。三ちゃんと会うて、そんなことが、面白かったなあ。で、屋上で一緒に絵描いとって、絵の具ぶつけたりしとったら、近所の洗濯物に飛んでいって汚して、怒られたり。大きな絵を描いとって、階段から降ろされへんから、4階の県営住宅で、下にトラックつけてもらって、屋上から紐でバーッと降ろしたの覚えてるよね。それも面白いし、懐かしいわな。

中辻:三ちゃんところのアパートの、窓の外に、色の水がいつもぶら下がってたね。

元永:そやそや、色の水ブラさげとった。これは俺の目印やとか言って。あんたも(注:中辻さんの意)来てくれたんちゃうか。そう、水を吊ってました。

加藤:それは、何の目印なんですか。

元永:県営やし、同じ家ばっかりで分からへんやん。

池上:ああ、家の目印ですね。

元永:だから「水を目印に、来てな」って、言えるし。そんなこともあったなあ。しばらくして、嫁はん帰って来たからというんで、三郎さんところ追い出されて。それで、お寺へ行ったんや。

中辻:新聞紙が部屋中いっぱいに敷いてあったんとちがうかしら。

元永:三ちゃん? 俺のとこ?

中辻:どっちか忘れたけど。

元永:三郎のとこちゃうか。

中辻:重ねて。やっぱり汚れたら、またその上に新聞を。

元永:そやそや、あれは三ちゃん。

池上:お掃除要らずという(笑)。

中辻:そうそう(笑)。

元永:俺はビニール買うて来たもん。お寺でもな。俺はあんなんせえへん。

加藤:第2回野外展の時(《水》(1956年)は、すごく長いチューブ状のビニールを使われていらっしゃいましたが、あれは、どこで見つけられたんですか。

元永:あれはねえ、ゴミ袋ですねん。あれ、切ったらゴミ袋になる。ポリエチレンで。あれは、まっちゃまち(注:大阪の問屋街、松屋町のこと。「まっちゃまち」と一般に呼ばれる)で見つけました。

池上:ミシン目みたいなものが、本当は入ってるんですか。

元永:いや、入ってへん。

加藤:入らない前。

池上:加工前ということですか。

元永:そうそう、500メートルとか、1,000メートル巻とかで、売ってますねん。煙の《のびる》(1958年)の作品とか、だいぶ使いましたわね。まっちゃまちを歩いたら、アイディアが閃きますねん。面白いもん。ものを見てから、「これ、どないしよう」と思ったり、だいぶしましたね。今でも「いっぺん、まっちゃまち行こうか」と、こないだも言ってたんやけど。おもろいもんいっぱいあるねん。逆におもろいもん見て、「これは作品になる」と思ったりして。ちっちゃなゴミ袋になるやつとか、それもひとつじゃなくてたくさん、あるんですわ。そういうことで、作品のネタ探しに、まっちゃまちによう行きました。

加藤:本当にああいうふうに松林に吊るすと、美しいですよね。

元永:色の水のね。そりゃ、頭の中で、出来たんですけども。

加藤:あれは、子どもがすごく興味をもって、よく破れて。

元永:そう、破りよんねん。低いところのやつを次の日見にいったら、松葉で突いて、破れて水が無い。またやり換えないと。あれ、全部一人でやったけど、今はようせんわ(笑)。いまだにヴェニスでもやってくれとか、ドイツでもやったけれども、デュッセルドルフでもそうや。皆についてきてもらわんと、出来まへんな。大変なんや。よう、あんなんしたな、と思うね。50年ほど前ですさかい、僕が35、6の頃です。

加藤:その当時、たくさん一般の方も野外展に来られて、子どもがよくつついて破れてしまったとか、当時の新聞には大きく取り上げられていて。連載みたいに、今日は元永先生の作品、今日は白髪さん、というふうに取り上げられていましたけど、何か一般の人からの声というか、反応はありましたか。

元永:そりゃ、作品じゃない、遊園地やとか言われたもん。海に行く人がたくさんいたから、その帰りに来た。あんなん、アートと思ってくれへん。遊園地ですわ。だから、新聞記者もね、社会部の記者が来てくれたと思う。

池上:美術担当の方ではなくて。

元永:社会部、アートの美術記者じゃなしに、「アートでは無いけれども面白い」というようなことで来てくれた。東京でもそうでした。「あんなん、アートと違う」とずっと言われたんです。それだけ新しかったんかな、と思うわ。

加藤:野外具体展とかは英字新聞でも取り上げられてまして。当時そういうふうに取り上げられていた美術展覧会は、ほとんどなかったと思うので、やはり外国のひとの目から見ても、面白いと思われてたんじゃないかって想像するんですけれども。

元永:それは、変わっているさかいね。東京の第1回の時は、どこや進駐軍の。

加藤:はい。『Stars and Stripes』(注:進駐軍の新聞)が取材して。

元永:アート、地面の穴やとか言われてたよね。

加藤:あとは、同じ頃に、『具体』の4号に、カタカナの作品がありましたが。

元永:そうそう、「作品文字」。

加藤:あれはどういうところから、発想されたんですか。

元永:やっぱり、変わったことするグループやさかい、変わったこと考えて、あんな作品を作ったわけやけども。あの頃、ええとか悪いとか誰も言ってくれへんし。治良さんからも、一言も聞いたことないわ。けれども、黙認してくれてたから、悪いとは思ってなかったんやろうな。

加藤:もちろん、良いと思われたから。『具体』誌に載るということは、治良さんの目を通ったということで。

元永:と、思いますな。でも、面と向かっては「もーやん、おもろいで」とか全然言ってくれへんのやけど。一言も聞いたこと無いわ。やっぱり「ちょっと、どうかな」と思っていたのかな。けれど、それで作ったのが、『ちんろろきしし』で、やっと本になったというわけですわ。まぁ、せやけど、具体の舞台にしたって、なんか割合にうまいこといったんかなあ。治良さんに褒められたりして。貶されたりしたこと、俺はいっぺんもあれへんな。

加藤:例えばそれはちょっと、って言われたようなご経験は。

元永:何もないの、僕は。せやから、「俺は具体では、優等生やった」、と言うてるわけやけどね。

加藤:そうですね、やはり駄目出しをされる方は、本当によくされたと伺います。

元永:そりゃあもう、堀尾でも、なんか知らんけども、ピナコテカの隅で泣いとったもん。治良さんに怒られて。

池上:ああ、そうですか。

元永:言い訳は聞いてくれへんねん。「お父さんが病気で、お母さんが病気で、私は困って絵もろくに描けへん」って言っても、「そんなこと知らん」って言う。「そういうのは関係なしに、いい作品持ってきたらええだけや」ということです。

池上:「あかんもんはあかん」っていう。はっきりと叱られるんですね。

元永:うん、そういうわけ。「そんな家庭の事情、言うたってしょうがない」っていうことやと思うけども。そんなんで、堀尾が泣いとったの覚えてるわ。

加藤:舞台の作品についてなんですけれど、《煙》(1957年)は、どういうところから発想されたんですか。

元永:僕、あの頃、煙草吸うとったんや。煙草吸うとったら、煙の輪を作って遊びまっしゃろ。その輪を大きくしたら、おもろいかなと思って、大きくしたんです。それに音もつけたり、ライティングもしたりして、作品にしたんやけれど。《煙》(1957年)は、煙草吸うてて、遊んでた経験からですなあ。

加藤:どういう音がついていたんでしょうか。

元永:ピピピピピとかね、金属音です。作曲をしてつけました。おもちゃを買うて来て、テープに吹き込んで3倍回しにするとかね、そんなんで音を作った。

中辻:蝉の声をとっていたこともあったわね。

元永:蝉の声はまた違うわ。あれは、京都でやったときやったかなあ。そういう自然の声を使ったり、まあ、言ったらミュージック・コンクレートやね。そういうのを面白がって、やったなあ。

加藤:実際に公演された時、煙はすごく綺麗な輪になっていたというのが、映像からわかるんですけれど、観客の方が非常に咳き込まれて、皆たじろがれたとか。

元永:それはね、最初は《煙》(1957年)に、発煙筒を使ったんやわ。発煙筒を南方(みなみかた)の花火屋さんに買いに行って、使ったんですけど、煙やさかいに、やってるうちにどんどん充満してくるんやわ、劇場が。ほんで、鼻をハンカチで押さえて逃げていくのが、フィナーレとかね。だから僕の作品、フィナーレしかできませんねん(笑)。

池上:今だったら出来ないですね、多分。

元永:今はね、電気で、煙が起こる舞台用の装置があるんですわ。

池上:そんな煙くならないような。

元永:ドイツでもそれでやりましたし。ええんですわ。

加藤:松方ホールでもされたんですよね(注:「元永定正舞台空間展」、1999年11月27日)。

元永:松方ホールでもやった。

中辻:あれも、煙製造機です。

元永:電気やな。あの頃はもう、舞台では煙が使えませんので、電気で起こしたやつを使いました。今でも、それでやってます(笑)。

加藤::第2回の舞台の時は《のびる》(1958年)っていう。

元永:ああ、《のびる》(1958年)な。あれは煙です。

加藤:あれも、煙を送って《のびる》。

元永:そうそう、ファンで風を送って、膨らまして。発煙筒にマッチを擦って煙を起こしてザッと行ったんですわ。発煙筒じゃないわ。風を起こすやつ。

中辻:ファン?

元永:そう、ファンの傍でたいたら、煙が吸い込まれていって自然に膨らんでいくんですわ。初めは赤色やったんです。赤い煙。赤い煙っていうのがあるんですわ。赤い煙に青い煙、煙は色々売ってます。

池上:最初から色がついているものが売ってるんですね。

元永:ついてます。黒い煙も売ってるねんで。それは、最近ないやろうなあと思うねん。花火に使うもんかなあ。花火屋さんに買いにいったんですわ。大阪の南方に花火屋さんがありまして、どこで調べたか忘れたけど。

中辻:石原花火といったかしら。

元永:せやせや、石原花火や。よう覚えてんなあ。石原花火。そこへ行ったら売ってます。今はどうやろな。あるのかな。

中辻:松方ホールでも《のびる》をしたね。

元永:やったやった。

中辻:あの時は、白い煙で、ライティングで色をつけました。

元永:ライティングやったな。

加藤:1958年の時は、煙自体に色が付いてて、それがライティングになったんですか。

元永:そうやったなあ。

中辻:発煙筒と、ライティングと両方使って。《のびる》(1958年)は、赤い煙じゃなかった?

元永:そや、あれな、見てる人は鼻の穴が真っ赤になったりすんねん。煙吸うたら。

池上:ああ、色がついているから。

元永:つくねん。鼻かんだら、赤やら黄色やらがバーッて出てくんねん。なんにもええことないなあ(笑)。

加藤:1957年の3月に阪急百貨店で個展もされていらっしゃって。

元永:あれ、初めての個展です。

加藤:その時は、どのような作品を出されたんですか。

元永:あれは、具象も出してた。具象と抽象と混ぜ混ぜや。あれはね、阪急百貨店の美術画廊の橋本さんという人が、あそこの係やってね。「新制作」の連中をよう知ってんねん。だから三ちゃんと白髪もよう知ってる。で、招いてもらって、やらしてもらった。

池上:作品も売れたというふうに読んだんですが。

元永:売れた売れた。それはね、売るつもりやったん。無謀にも。お金ないさかいね。「作品売って稼ごう」って。京都の第3回具体展で、作品を作るのにお金がないからと思って、あれで稼いだん。まあ、そんな大したことないけど、絵の具代は稼ぎました。

池上:具体展の制作のために、制作費が欲しかったという。

元永:そうです、それがうまいこといったんです。

加藤:吉原先生はご覧になられましたか。

中辻:何か書いてくれてはったね。

元永:いや。

中辻:案内状に。

元永:あれは、東京の。

中辻:初めての個展のときと違うかしら。

元永:書いてたかなあ。治良さんが見にきてはったら、怒りはると思うわ。あんなん、具象と混ぜ混ぜやってんもん。

中辻:治良さんやったと思う。

元永:あの時は、何も書いてなかったんちゃう。

中辻:こんな、ここが真っ黒になってる葉書だったと思うけれど。こんな案内状じゃなかった?(絵を描いて見せる)

元永:そう言われたらそうかもしれんと思うけども、どこにあるの。そんなの。

中辻:どっかにあるでしょう。

元永:どっかにあるやろな。だけど、治良さんは見に来てないと思う。見に来てたら、怒りはるわ。具象と一緒やもん。あれは、具体入ってから暫くしてからやもん。知り合いもちょっと増えとったんや。だから知り合いが買うてくれたんや。チャーちゃんとか。

中辻:2.5(にてんご)の人たち?

元永:2.5の連中とか、知り合いばっかりに売れたんや。あれ。早野さんも買うてくれたらしいな。なんやそんなんで、うまいこといったんです。

加藤:2.5というのは、吉原通雄さんのグループですね。

元永:そやそや。

中辻:だから、2.5のところにも、ちょっと、仲間に入れてもらえたって言ってたね。

加藤:そういえば、前に吉原尚美さん(注:吉原通雄夫人)から伺いました。

中辻:一緒にうつしてる写真があります。2.5の方と。

元永:あれは三枚目でも二枚目でもないね。2.5(二枚目半)やということで2.5にしたんです。

加藤:それで、村上さんと共同生活をされていて、その後、奥様が戻っていらして。

元永:そんで、追い出されたんです。

加藤:お寺に行かれたということで、お寺で大作をたくさん描かれたっていうふうに(お聞きしています)。

元永:そう、描きましたなあ。

加藤:大きな絵を、たらし込みの。

元永:お寺の12畳を借りたんですけどもね。畳の上にビニール3枚を重ねて敷いて絵の具流しとったんです。三ちゃんのところよりスペースが広くなったし、倉庫もあったから、そこも借りとったんじゃないかな。

中辻:蔵を借りてたんでしょう。

元永:そう、蔵です。おばあちゃんが一人住んでいて、若乃花が好きで、相撲のね。若乃花と朝潮の時代やったんですよ。朝潮のことは、言うただけでも「大嫌いや」とか言って。

加藤:日本画のたらし込みを応用したような技法っていうのは、どこから発想されたのでしょう。

元永:それは、濱邊萬吉さんの絵を見てると、日本画みたいなんも描いてはったから、たらし込みみたいなのは、濱邊さんの作品を見てましたんで、知ってたんです。

加藤:流される時に、私が以前伺った時、ある程度デッサンといいますか、こういうふうな形っていうのを、予め少し考えていらっしゃったとか。

元永:はじめに形を描きますが、(絵の具を)流したら、どこに流れるか分かりません。形は今と同じで、メモにいっぱい書いて。どこから流すかっていうことも、形を考えているうちに、そういうことも決めて、やってたわけですけども。

加藤:色は大体、黄の上は青、とかいうふうに決められてたんですか。

元永:そんなもの、その時のインスピレーション、閃きですわ。次々と。それで、絵の具は油を使っていたんで、油をようけ混ぜると、シャブシャブになって。それを流すわけですので、重い絵の具は、はやく沈殿して、軽い絵の具は遠いところまで流れていく、ということも発見したわけやわな。

池上:それは、色によって、重さが違ってくるっていうのがあるんですか。

元永:色は全部重さが違うんです。赤はわりあいに重たい。それは、やってるうちに「いや、この絵の具軽いね」って思ったり。

池上:それがこう、何層にもなって、流れていくっていうことですね。

元永:そう、流れていくわけです。それで、複雑な感じの絵が出来たわけですわ。でも見てるとね、やっぱりこう、「いや、こっちに流れる」とか、「こっちに来て欲しい」とか思ったりする。だから、それを見てたらあかんと思って。夕方だったら飲みに行って、帰ってきたら傑作が出来とった、というわけや。飲みに行かなあかん絵やったっていうわけで。それは冗談やけど、重力と時間も関係している。

加藤:ちょうど、《タピエ氏》(1958年)という作品ぐらいから、たらし込みの技法を使われているんですか。

元永:あの頃ですね。もっと小品もありますけども。あれ(《タピエ氏》、1958年)は、タピエの鼻に似たんですよ。タピエを描いたわけやないけど、あんな風になったんで、吉原治良が、「タピエにプレゼントしたらどうや」とか言ったんやわ。

池上:タピエの鼻に似てるということなんですか。

元永:横顔の鼻です。タピエってこんな鼻。

加藤:本当に似てますよね。

元永:タピエってユダヤ系でこんなんやったもん。

池上:なんか、見事な鷲鼻。

元永:お茶が飲めへんかった(笑)。

加藤:当たって?(笑)

元永:大きな鼻がつっかえて、お茶が飲めへんかって……

加藤:私も、初めてあの作品を見た時に、本当に《タピエ氏》(1958年)っていうのが、見事な命名だと思いました。

元永:あの絵は、具体的な名前はつけてないんやけども。だから、ニックネームやな。題は《作品》ですわ。

池上:もとからポートレートを描こうとして、ということではなく、偶然の形が、似てたっていうことで。

元永:全然ない。「タピエに似てるな、鼻に似てる」と言われた。

池上:タピエ氏にそれは、お伝えはしたんですか。

元永:それは、どうやろう、言うたんやろうか。

中辻:でもあれ、「タピエ氏に捧ぐ」って描いていますね。

元永:そう、「タピエ氏に捧ぐ」って描いてるんや。彼にあげたんですけれど、それが帰って来てる。兵庫(県立美術館)にあるんかな。

加藤:はい、山村コレクションに。

元永:それで、「タピエ氏に捧ぐ」と書いたところが消してある。

加藤:あれは、いつから消えているんですか。

元永:あれは、売ろうと思って消したんやと思うねん。タピエさんが亡くなってから。

中辻:それまではタピエのコレクションにあったと思うんだけど、亡くなられたときに多分、売るのに消されたんじゃないかな、と思うんですけどね。

元永:あれ、「元通りに、上から消した絵の具を取ってほしい」って言ってるんですけどね。

加藤:上から白く塗られてますねえ。

元永:せやせや、あれ、「取ってちょうだい」って言うたのに。

中辻:取れるかどうか分かんないけどね。

元永:取れるやろう。(注:その後、2009年に除去されている)

加藤:あれ(《タピエ氏》1958年)が出来た時、先生自身はどう思われましたか。

元永:いやいや、特にどうも思ってませんよ。

加藤:偶然にも面白い形。

元永:まあ、ああいう形をいっぱい描いてましたからね。

中辻:最初はどこに出品した作品なの。

元永:どこやろう。現代展やろうか。具体やろうか。分からへんわ。

加藤:今、ちょっと忘れましたが、アンフォルメルと具体展に出ていたかもしれません。高島屋の。

元永:そんなん出したやろうか。

加藤:1958年ですけれども。

元永:文献を調べないと分かりまへんなあ。

加藤:はい。多分、そうだったと思うのですが。

元永:覚えてないわ。どこやろか。

加藤:そうですね、高島屋の「新しい絵画世界展」ですね。(資料を見せながら)ちょうどここにございます。

元永:ほんま、ほんならそうや(笑)。その頃そんなのを割合にようけ描いてたんや。

加藤:こういうタイプの。

元永:こっちの作品(注:「新しい絵画世界展」に出品されたもう一点)もね。同じやさかいね。その形を使った。こっちの作品はベニヤ一枚ですわ。ほんで、イタリーに行ってた作品もこんなんありましたわ。ちょっと似てるけど。

中辻:これですよね。日本に帰って来てるんですね。その作品はね、イタリアのミラノに行った時に、ミラノ画廊っていうところを訪ねて、「元永だ」って言ったら、すぐにその絵が出てきたんです。

元永:そうやな。

中辻:別に「行く」って言ってなくって、近くまで行ったから、探して寄ったんですね。そしたら、オーナーがすごく喜んで下さって、その絵をすぐに出して来てくださって。

池上:すぐ手元にいつも置いてあるっていうことですよね。

中辻:どこか倉庫の奥に仕舞ってあったっていうんじゃなくて、すぐに出て来たからビックリしましたね。

元永:あんなふうにたらし込みをやってるうちに、はみ出て来て、はみ出るのも面白いと思って、思い切り流したということになるわけや。

加藤:小石とか色んなものも混ぜていらっしゃいますよね。

元永:途中で、「ちょっと、変化つけたれ」と思って、ボンドで石をつけて流したら、石のところだけは、元の色が残るさかい。そういう狙いやった。

池上:あれは、絵の具で定着するのではなくって、ボンドで予めつけてあるんですね。

元永:そう、先につけといてから流したんや。絵の具だけでは、なかなかくっつけへんと思った。

池上:そうですよね。あの、今日はお時間も長くお聞きしましたので、よろしければ、次回に続きをさせていただきたいんですけど。

元永:何を聞きはるか知らんけど(笑)。

池上:先生、アメリカにも行かれたりしているので、そのあたりのお話をお聞きできればと思います。

加藤:東京にも、このあと行かれて。

池上:そうですよね。

加藤:批評家の方とか、東京画廊とか、南画廊の方とかお会いになったっていうへんのこともお伺いできればと。

元永:はいはい。南画廊は、飲みに行ったときやけどな(笑)。

池上:それでは、本日はありがとうございました。