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元永定正オーラル・ヒストリー 2008年12月19日

宝塚市逆瀬川のアトリエにて
インタヴュアー:加藤瑞穂、池上裕子
インタヴュー同席:中辻悦子(美術家、元永定正夫人)
書き起こし:川井遊木
公開日:2011年1月23日
更新日:2018年6月7日
 

加藤:先日、《タピエ氏》(1958年)を制作された頃のことまでお伺いしたので、その後のことからお伺い出来ればと思います。1960年に、マーサ・ジャクソン画廊と契約をされるんですが。これは、タピエさんの紹介で。

元永:もちろん彼の推薦やと思います。

加藤:どのような契約だったのでしょうか。

元永:毎月ね、大きな作品と小さな作品を2点、送れっていうんですわ。マーサへね。それで、契約金は、7万円。

池上:日本円で、ですか。

元永:そうです。「大きいのと小さいの」というだけで。僕は、150号と100号位の作品を送っとったんです。それも、もちろん毎月送ってるわけじゃなくて、まとめて送ったんですけども。そういう契約ですわ。それも、今から思ったら、材料費みたいなもんで。その頃は、7万円もらえるっていうのは、嬉しいことですけども。でも具体が3割出せって言うんですよ。僕は「そんなん、絵が売れたんやったらいいけど、契約金やさかい、少ないで」って言うたんですけど、通じへんかった。で、3割出したら、あと4万なんぼか。それで150号と100号と2枚描いて、送り賃は勿論、入ってないけども。それで1年間に何回かに分けて、ニューヨークに送ってました。

加藤:150号と100号って、ほんと大きいですよねえ。

元永:大きいですよ。大きいのと小さいのって、100号と50号でもよかった(笑)。そやけど僕らも、大きいといえば150号くらいやと思ってるし。100号といえば、小さいくらいやと思ってたからね、その時分。お金もないし、まあ、4万円でも(助かった)。女房と一緒に住みかけてた頃やったさかい。

加藤:ちょうど、中辻さんとご結婚された頃だったんですね。

中辻:そうですね。結婚式はしていませんが……

元永:ずるずると住みかけたんやさかいにな。その頃ですわ。

池上:銀行に送金がされてくるという感じだったんですか。

元永:銀行? あれは、どうやったんやろうな。

中辻:具体へ入金されて、具体からもらってたのかしら。

元永:具体へ来てた? 銀行やったんやろうか。

中辻:うちから具体へ払ったっていう記憶があるような、3割を具体に納めるっていうのはあったように思うけど。

元永:あったわなあ。具体やったんやろうか。よお覚えてないんです。ほんま、正直な話。

加藤:それに対して、吉原先生は、何かおっしゃっていましたか。

元永:一言も言うてない。何も聞いた覚えないわ。

加藤:その翌年にも、今度は、トリノにあるタピエの国際美学研究センター(International Center of Aesthetic Research)というところとも、契約されている。

元永:それはね、マーサ・ジャクソンとは1年契約でした。次の1年間は、美学センターにタピエが契約してくれて、変わったわけですね。だから次の1年はトリノに、マーサに送っていたのと同じような条件で(送っていた)。

加藤:1961年に、今までマーサ・ジャクソンに送られていた作品が集まったので、個展をされたという。

元永:そうそう、そうらしいです。

加藤:その時の個展はどういうふうな。

元永:知りませんねん。行かへんから。行ったらよかったのにねえ。全然行かんと、「ええやんもう、別に勝手にすればいいやろう」って行かなかったんです。

加藤:何か現地では、こういうふうな、反応がありましたってことは(聞かれませんでしたか)。

元永:何にもないです。

加藤:そうですか。

中辻:あれは、どうしてだろうねえ。記憶にはないけれど、どこかに何か手紙があるかもしれないわね。案内状なんかも送ってきていたから。

元永:やっぱり、タピエさんっていうのは、半面画商やさかいな。「安く召し上げろ」っていうようなことやったんちゃうかな。むちゃくちゃやもん。僕ら、契約されて嬉しいさかいに、儲けるなんてこと考えてないしやね。「何や、考えてみたら材料費やな」って思ってたんやけど。今から思ったらめちゃくちゃですわ、もう。

加藤:マーサ・ジャクソン画廊で個展があった少し前に、東京画廊でも個展があって。東京画廊での個展は、いかがでしたか。

元永:東京画廊の個展は、初めオーナーの山本さんが直接「個展せえへんか」って言ってきたんやけど、やっぱりこれは(吉原)治良先生に言わないと怒られるさかいに。で、「個展の話、あるんやけど、どないでっしゃろ」って言うたら、「タピエさんに聞いてみたるわ」って。タピエがオーケーするかどうか。長い間待っても返事ないねんわ。それで、治良さんに「タピエはどない言うてましたか」って言うたら、「タピエはいい顔してへんかったで」って言うねん。だから、しばらくしてから、タピエに会うて、「タピエさん、個展したらあきまへんのか」って言ったら、「そんなすごいこと、いい話やんか」って、えらい喜んでくれはって。その次また、治良さんに「タピエは別にいいって喜んでくれましたわ」って言ったら、「君は勝手に何聞いたんや」って、叱られた。こんな感じです(笑)。

一同:(笑)

元永:何でかいうたら、やっぱり東京画廊っていうのは、一番先に吉原治良の個展をせないかん画廊なんやろうね。「生徒のお前らが、何で先にやる」って、そういうのがあったんやと思うけどね。それから、「畜生、あんなところで個展の話があって」っていうような、腹の中では怒っとったんちがうかな。ほんでやめさそうと思ったんやけども、俺が直にタピエに聞いたさかいに、それで治良さんまた怒ったんや。そういういきさつがあって、図録が出来て。

中辻:図録じゃなくて、個展のパンフレットですね。

元永:パンフレットが出来て、吉原治良の紹介文が書いてないねん。誰が書いてくれたかな。

中辻:瀧口修造さんが書いてくださった。

元永:瀧口さんやったなあ。それで治良さんは、「何で元永は、文章を頼みに来ないんだ」っていうんで。でもこっちは、「怒ってはるのになあ」と思うてやなあ、頼めなかった。せやけど、「やっぱり俺が書かんと格好つかへん」ってゆうような感じやろう。

中辻:なんか「寂しい」とか言うてはったね。

元永:「寂しいやないか」とか言って。最初は怒っといてやなあ、そんなん言いはんねん。だから、「そんなら、すんませんなあ、遅いけど頼みますわ」って頼んで、書いてもらったんですよ。

加藤:そうですか。

元永:そしたら、もう印刷に間に合わなくて入れへんねん。仕方ないから差し込みや。で、書いてもらって、パンフレットに差し込んだ。あれ、どこ行ったんかな(笑)。

中辻:どっかにあるでしょうね。

元永:どっかにあると思う。

中辻:なんか、一冊もスペアがないものね、あのカタログは。

元永:その頃、治良さん自身が、まだ制作に困ってはったと思うねん。うまいこといかへんので。だから、「なんか調子出やがって」と思って、生徒に嫉妬してはったんちゃうかな、と思うねん。

加藤:当時、元永先生も、白髪(一雄)さんも、東京画廊でされたり(という状況でした)。

元永:それが、東京画廊で個展のオープニングの日に、白髪が俺んとこに来てくれたんや。そしたら、その日に限って、ジェーン台風かなんかでね、大阪は、えらい台風で浸水になった。大阪の治良さんの本宅が水浸しで、絵もいっぱい置いてあるから、具体の連中が皆手伝いに行ったんや。でも白髪は東京にいるから、おらへんかったんや。治良さんが「お前なんで来えへんかってん」って、後で白髪に聞いたから、「もーやんの個展に行ってました」って言ったら、また怒って。「なんでそんなところへ行くねん。お前みたいなん、具体やめとけ」って、怒りはった。そんなん言うたことあるねん。大分そういうことで、我々は難儀しとったんですわ。治良さんが、我々に「手伝いに来い」って言うねんね、絵が描かれへんさかいに。で、治良さんがアトリエで絵を描いてはるのを後ろに座って黙って見てるんですわ。「お前ら、何しに来たん。何か言えよ」って、言いはるねんな。でも、何にも言われへんやん。そしたら、「お前らは、俺の先生や」って、逆にこんなことも言いかけてやな。「怖いなあ」と思って。でも何か言うたら、怒られるさかい、言われへんやん。ほな、「黙ってて何しに来たんや」ってまた怒りはるねん。ある時は、「点をひとつどこかへ打たないかん。点を入れたいんやけど、どこがええやろ。お前ら言うてくれ」って。それも黙っとったら、「何か言えよー」って言うから、「このへんでよろしいやんか」って言うたら、ほんまに筆でパーッて入れて、「何にもええことないやないか」って。あの時はほんまに難儀しましたな。
 その頃、アメリカのマーサ・ジャクソンで、具体展をやることになって、吉原先生宅にみんな作品を持っていったんです。で、ええとか、悪いとか言ってくれはって。僕のもちょっと、気になるさかいに、自分で「いっぺん持って帰って描き直しますわ」って言うたんや。ほんなら、「今ここに絵の具があるから、エナメルなんか缶であるから、ここで描け」って言いはったんや。それで、描いたんです。その時、治良さんはちょっと昼飯を食いに行きはって、帰って来たら、ええの出来とったんや。ほんなら、怒りはってねえ。「なんや、もーやん、いい気になるな、ひとの絵の具やと思ってみんな使いよって。ニューヨークでも、この絵が売れても、よお売らんで」ってものすごい怒って、松の木を棒でバーンってどついて怒りはってんもん。その時もね、「ちょっとの時間のあいだで、ええの出来よったー」って、嫉妬しはってんなあって思うねん。僕らも、偉い先生や思ってたから、そんなんビックリしますやん。怒りはんねんね、「俺の絵の具全部使いおって」って。「いや、ちょっとしか使ってませんやん」って、ほんまにちょっとしか使ってなかったんやったけど、缶の中に空が映って、空っぽに見えたんですわ。その後、関根美夫がトラックいっぱいに作品を持って来てね。「何もいいことない、描き直せ」って言われて、その絵の具で。それで、全部使って、ほんまに全部使って失敗して。そしたら、治良さん喜んでね。「絵っちゅうのは、そんなうまいことできへんのやで」って。今でもその情景が頭に出てくるわ。ほんま(笑)。全部ほんまに使ったのに、喜んで喜んで。ほんで、「持って帰って書き直せ」って。またトラックにいっぱい、関根美夫が持って帰った。関根美夫はそれで怒って具体やめてしもうた。

加藤:そうでしたねえ。

元永:それから、関根さんはソロバンの玉ばかり描く作家になったんやけれども。そういう話がもうひとつあるねん。現代展で、治良さんも一緒に招待出品して、賞候補になって。僕と田中敦子が賞に入って、治良さんは入らへんかってん。

加藤:優秀賞になられたんですねえ。

元永:その時、僕らは具体でパーティーでもしてくれて、何か言ってくれるかなと思ったら、「不愉快や、そんな話すんなー」って、怒りはってね。もう、とりつく島がないっていうのかな。そんなこともあったりして。その頃、自分の制作がうまいこといけへんかったから、自分でも頭に来てたこともあったんやろうな。

中辻:その年は、忘年会かなんかで、「クーデター起こした」とかおっしゃって……

元永:そやそや、具体の忘年会の時。「もーやんがクーデター起こしよってねえ。勝手に、東京で個展しよった」っていうふうに言われて。僕はそういうの、「えらいすんまへんな」ってへらへらしてますやん。そんなんだからよかった。あれ、ほんまに深刻な人やったら、頭抱えて、どないするかな。僕の前には、上前(智祐)が養清堂画廊で個展の話があった。でも治良さんに同じことで辞めさせられた。「他を世話したるから、やめとけよ」って言うて。ほんで、とうとう世話してくれへん(笑)。あれは阿部展也かなんかが推薦したんやな。それで、「何で、他の絵かきに推薦されるんや」っていうこともあったりして、それで辞めさせられたんやなあ。まぁ、そういう意味では難儀で、先生は精神的に困ってはったと思うし。だから、我々にちょっとええことあったら、「畜生」と思ってはったと思うの。僕らが手伝いに行っている頃でも、「なあ、もーやん、本当は俺が一番よおなかったらあかんねんで」って、本音を言いはったわな。そりゃ、リーダーやもんな。それで、この丸い円になった時は、もう、自分でも満足して。あの円ができる生みの苦しみみたいなものが、治良さんにはあったと思うんやけど。円の絵は、京王百貨店か、東京でやった時ね、「先生、よろしおまんなあ」って言ったら、「ええやろう」って、初めて。会場の真ん中に掛けたら喜びはったね。それからあと、インドのトリエンナーレで大賞になったり、日本でも調子が出てきてね。ほんで、我々一同、やれやれ、ホッとした。手伝いには、嶋本と白髪と、村上三郎と俺と、4人で行っとったんですわ。他の会員はそんなこと知らへんもんな。今思ったら、吉原治良は自分がリーダーやのに、絵がでけへんと思って、難儀してはったんやろうなあ、と思うな。そんなことで、個展については僕が強引にミッシェル・タピエに話したりして、うまいこといったわけですけれども、上前さんみたいな人もいるし。「僕より先にやりよって」っていう気持ちは分かるけど、治良さんがどない思ってはったんか、そのへんは本当はよう分かりません。

加藤:東京画廊では、たくさん評論家の方とか、作家の方ともお知り合いになられたと思うんですけども。

元永:そうですね、東京画廊で個展開いたときは、東京の作家とも親しくなったりして、岡本太郎なんかでもしょっちゅう来てくれて。東野芳明とか、中原佑介とか、今言った詩人の瀧口修造、瀬木慎一、針生一郎とか。

中辻:武満さんたちも。

元永:武満徹とかな。ジャンルを越えて。向こうに行ったら飲みに行きますやん。山本さん(注:山本孝。東京画廊のオーナー)は、飲まへんねんな。だから、飲みに行くときは、いつも南画廊の志水(楠男)さん。なんでか知らんけど、志水さん、よう飲みに連れってってくれたんや。銀座のクラブなんて、我々は足踏み入れられへんけど、志水さんが作家連れて回ったんやろうな。「ほんでつぶれたんやろうか」、と思うくらい(笑)。

加藤:東野さんが、南画廊の志水さんのアドヴァイザーをされてたと伺ってます。

元永:そうやね。東野芳明はそうやったかな。それから、瀬木慎一が東京画廊やったんやな。岡本太郎さんは東京画廊やったな。

中辻:そうね、東京画廊でしたね。

加藤:東京画廊の山本さんは、どのような方でしたか。

元永:東京画廊の山本さんは積極的やし、やっぱり、いきいきしてたな。うちに来てくれて、山本さんと話してたら、なんか元気が出るな。作家をのせるのがうまかった。そういう人やったわね。せやけど、酒は飲みはらへんねんわ。

中辻:展覧会の会期中、全部じゃないけど、山本さんのおうちに泊めてもらってたこともあったわね。

元永:そんなこともあったな。山本さんとこ泊めてもらったりしたな。

中辻:だからその頃、高松次郎さんとか、色んな若い作家の方もよく集まって、なんか色々朝まで議論したとか、夜中までしたとか。

元永:議論したんかなあ。

中辻:私たちが行った時は、あまり議論はしなかったと思うけど。

元永:議論って、ようせんもんな(笑)。東京へ行ったら、そんなんで誰かと会うたりして、今言うてる、音楽の。

池上:武満徹さん。

元永:武満なんかと、よう飲んどった。僕は演歌好きやし、武満も演歌歌って、「お前と演歌の勝負しようやないか」と、言うててんけど。今から思ったら、前衛音楽の大家に「お前と演歌、勝負しよう」とよう言うたと思うけども。ほんまに武満は演歌好きやったらしい。僕はやったことないねんけど、とうとうね。谷川俊太郎が「好きやで、あいつ」って、よう言うもんね。やっぱり色んな面が人間にはあるなあ、と思うな。そんな、武満徹が演歌を歌うなんて言ったら、みんなびっくりするやん(笑)。

加藤:具体の方で、そういう東京の評論家とか、作家と交流がある方はすごく少ないと思うんです。

元永:そうやね、具体ではわりあいに少ないね。

中辻:なんか言われたっていってたわね。「具体はよくないけど、元永はええ」って。東京では。

元永:そう、アンチ具体が多かったからね。「関西の作家みたいなもの」っていう偏見もあったと思う。(「元永はええ」というのは)何でかというと、一緒に飲みに行ってたから(笑)。そういうもんやと思う。そういう意味では、僕は東京に行って、付き合いしてたさかいに、交流関係広がったなあと思うね。ポール・ジェンキンス(Paul Jenkins)も行っとったね。

中辻:ギューちゃん(篠原有司男)とか、ネオダダの人達も。

元永:ギューちゃんか。うん、ギューちゃんやらとはよう飲んだね。九州派とか。ええと、誰やったかな。

加藤:菊畑(茂久馬)さんとか。

元永:みんな仲よくなってね。俺は、人付き合いええ方やから(笑)。誰でもいいんですわ。仲よくなったらいいわけで。そういう意味では広がったな。具体では、そういう性質(たち)の作家はいなかったね。

加藤:それは知りませんでした。読売アンデパンダンに出されていた作家とか。

中辻:そうですね。だから、彼の最初の東京画廊の個展というのは、ああいう人達にとってものすごく鮮烈だったのね。読売新聞の海藤日出雄さんなんかともよくお会いしました。

元永:気の合う連中ばっかりやった。そういう意味もあって、本当、具体みたいやと思ってた。酒を飲むし、俺は幼稚やし、というような付き合いをしてくれはったと思うねん。それから、サム・フランシスなんかも、うちに泊まったことあるし、ポール・ジェンキンスと絵を交換したこともあるし、広がりが出来てよかったなと思った。東京で個展せえへんかったら、東京の作家との付き合いってなかったと思うしね。そういう意味では、よかったなあと思う。

中辻:サムの東京のアトリエへ行って、なんか絵を描いていたね。

元永:俺がか? あ、サムんとこ行ったな。そうやな。

中辻:アトリエには私は行ってないけど。サムが「勝手に絵を描いたらいい」って言って、自分のスタジオを提供してくれたこともあったわね。

元永:ああ、そういう付き合いでやってたんですわ。で、サムのところに泊めてもらったんや、東京で。サム・フランシスに目玉焼きを作ってもらったりして(笑)。あれはよく覚えてるわ。あ、サムが目玉焼きやりよるなあ、って。サムはわりあいよく付き合いしたな。サムは女房何べんも変わってるし、(出光)真子ちゃんが最後でもなかったんやな。

中辻:また、あったようね。

元永:出光真子ちゃんとは、今でも女房なんかは付き合いがあるけれども。そんなんで、その前の嫁はんは誰で、真子ちゃんと別れたら、また誰かと結婚したとか言うし。えらい盛んやなと思ってたけど、サムも死んでもうたしね。いつのまにやら。

加藤:ちょうどその少し前に中辻さんとご一緒になられて、生活っていうのは変わられましたか。

元永:ん?

加藤:ご結婚されてから、生活というのは変わられましたか。生活のパターンとか。

元永:そりゃ、ふたりでいるんやさかいに、ご馳走もしてくれるし(笑)。それと、俺はお金無かったけど、この子は勤めてたからね。暇やなと思って喜んどった(笑)。そうやね、パターンっていうか、ズルズルいつのまにやら一緒に住むようになったっていう感じなんで。宝塚南口の能戸さんという家の二階を借りて、お金も無いし、二人で畳の上にお茶碗置いて、お盆も何も無かった、っていう頃やったわな。あの頃、瀬木慎一が遊びに来たり、前の広場でキャッチボールしたり、っていうのは覚えてるわな。

中辻:あそこはにね、色んな方が来てくださった。なんか東野芳明さんが泊まりはったりとか。

元永:東野芳明が泊まりに来て、俺の寝巻き貸したら、こんな長いさかいに手も隠れて(笑)。あれ、写真写したと思うけど(笑)。

中辻:そうやった?

元永:どっかに写真あるで、あれ。そんなんがあって、東京の連中も来てくれたりして、よかったな。

中辻:工藤哲巳さんとかも来られたわね。

元永:あ、工藤が来たな。瀧口さんも来たやん。修造さん。

中辻:瀧口さんは、こっちの逆瀬川に来てから泊まりに来られたわね。

元永:そんなんで、関西まで来てもらったり。今から思ったら、よかったと思うけどな。

中辻:読売新聞にいた海藤さんなんかも、関西に来たら寄ってくださったねえ。

元永:そや、海藤さんがこれ(注:ガールフレンド)を連れてきてな(笑)。「内緒やで」って言うねん。あれは、結婚しはったかな。

中辻:最後は結婚されたけれども、当時はお忍びで。

元永:彼女は銀座のママやったんやろうな。キャバレーかなんかの。

中辻:キャバレーじゃないわよ。

元永:ナイトクラブ?

中辻:バーだったと思う。そのバーにも、よく連れて行ってもらって。

元永:行ったかなあ。

中辻:南画廊の志水さんや、海藤さんなんかと、一緒に写真写してるのがあるから。

元永:その頃、我々がずっとバーを回って、いつも最後に寄るところは、銀座の8丁目で、何やったかな。

中辻:ガストロ?

元永:ガストロというところがあって、そこに行ったら誰かに会うねんわ。小品がいっぱい置いてあるし、サムとかジャスパーとかラウシェンバーグの小品とかも置いてあるし、我々の作品も置いてくれたりして。瀧口修造さんが庭で取れたナツメを。

中辻:オリーブ。

元永:オリーブか、オリーブのピクルス出してくれたり。

加藤:自家製で作られてたんですよね。

中辻:そう、大きな壷があって、そこに瀧口さんところのオリーブが。

元永:あったな。だからそこに行ったから、武満にしょっちゅう会うたりしたんや。

中辻:いつも誰かと会ったわね。

元永:思い出したらそういうの懐かしいわなあ。

中辻:だから(個展は)東京画廊なんだけれども、交流はなんか南画廊関係の人たちと。

元永:そうやねん。南画廊もなんで奢ってくれたんやろう。南画廊の志水さんとばっかり飲みに歩いとったよ。展覧会は、南画廊で全然せえへんのにな。

中辻:まあ、あの頃は、東京画廊の作家は、きちんと決まってたし。昔の画商さんのシステムがあって、手を出せないっていうか。そういうのがあったね。

元永:そうや、厳しいねん。

中辻:今はそんなこと、もうあんまりないのかしら。

元永:そうやろ、なくなってん。だから津高さんが、南画廊やってんけど、グループ展を日本橋画廊でやってん。真向かいで。それだけでもう、縁切ったもん。他の画廊でしたっていうので。そんなことでって思ったけどさ、津高さんも「なんでえな、断わったのに」とか、後で言うてたくらいで。グループ展やで、個展やなしに。そやのに、志水さん怒って、関係なくしたんや。それぐらい厳しい方です。

中辻:だけど、精神的な契約でね。金銭的な契約ではないので。

元永:せやせや。お金なんぼやる、とかいうのとはちゃうわ。

中辻:なんか向こう(海外)ではハッキリしていて、1年なら1年契約で、毎月お金は安くてもきちんとした契約なんだけど、日本はそういうことが無かったものね。

元永:そら、その時の画廊との契約で、マーサ・ジャクソンにしても、「日本ではどこでやっても自由やけども、他の国では、マーサでしかしたらあかん」っていう契約やわな。他では出来へん。でも具体の連中もね、なんか俺に嫉妬してたんやろと思うんやけどね。「ええなあ」って。

加藤:でも、他の方にとったら、やっぱり羨ましいっていうのはあったでしょうね。

元永:そうやろな、いくら安かっても、世界の一流の画廊と契約したっていうのは、やっぱり「畜生」と思ってたんやろう。

加藤:ちょうどその少し後の1962年、具体ピナコテカができますけれども、そのことで、具体の活動っていうのは変わりましたでしょうか。

元永:せやねえ、やっぱり本拠地ができたから、世界から色んな人が来たわね。我々も、そこで溜まり場所っていうのが出来たから、心の拠りどころにもなったし、そらよかった。具体的に広がりが出来たわな。

加藤:特に記憶に残っていらっしゃる海外からのお客様っていうのは。作家とか、業界の方とか、コレクターの方とか。

元永:そやね、やっぱりサムとかジョン・ケージ(John Cage)、それから(フランコ・)アッセット(Franco Assetto)が来たわな。(フランコ・)ガレッリ(Franco Garelli)は来いひんかったな。アッセットはイタリーの作家。

加藤:ガレッリとかアッセットとか来ましたか。

中辻:東京画廊じゃない? アッセットが来たのは。

元永:いや、具体にも来たと思うねん。それから(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)、ジャスパー(・ジョーンズ、Jasper Johns)、マース・カニングハム(舞踏団、Merce Cunningham Dance Company)の男の子が来たりして。女の子も来たんや。ほんで、「男の子はみんなホモばっかりだから、私たちは面白くない」という話を聞いたん覚えてるわ(笑)。「やあ、そんなもんかな」って思って。他に珍しい人は誰が来たかな。ピエール・レスタニー(Pierre Restany)とか、他の評論家も訪ねて来ています。もちろん、(岡本)太郎さんもおったし。関東の作家も、関西に来たら寄るところができたし、タピエの関係もあったから、世界中からも色んな作家が具体に寄って。だからピナコテカっていうのは、よかったんやろうな、と思うわ。

加藤:先生は、ピナコテカでは個展はされていらっしゃらないんですね。

元永:そうやねん。治良さんに怒られた。「お前なんでせえへんねん、ピナコテカやったら売れへんから、やらへんのちゃうか」って言うねん。東京画廊で個展やらせてもらったし、わりあいにあっちこっちで展覧会やってたさかいにな。ほんで治良さんに「なんでやらへんねん」って言われたのは覚えてます。別にやらへんのと違うて、わりかし忙しかったんや思うわ。

池上:ふつうは、吉原先生が、「次は君どうだ」って、割り振られるというようなことをお聞きしたんですけど。次、元永さんやりましょう、っていうことは吉原さんからは。

元永:俺は一回も言うてもらったことはありませんな。言われたらしますやん。忙しいさかい、「もーやんに言うていいもんか」と遠慮してくれはったんかな、と思ったりするけど、分からへん。だけど、そんな話はいっぺんも聞いたことがないわ。みんなはそんなこと言われたんやろうか。それとも「やりたい」って自分から言うて、やったのか。分からへんねんけど、僕も。

中辻:自分から「やりたい」とは言えないと思う。

池上:そんな感じですよね。

加藤:やはりそのへんのところで、元永先生は東京画廊や、マーサ・ジャクソンでされているからっていうのが、あるんじゃないですかねえ。

元永:うん、やっぱり、そうやったんちゃうかなあ。僕は「やるか」って聞かれたことないし。「何でせえへんねん」っていうのは聞いたけど。別にしてもよかったんやけど。

中辻:だけど、「しろ」とは言われなかってんね。

元永:そう、「せえ」とは言われへんかったな。そや、「せえ」とは言わへんかった。

加藤:複雑な吉原先生の心境が。

中辻:あったのかもしれませんね。

元永:あると思うな。

池上:「させてください」、とそんな気安く言えるわけではないですよね。

中辻:なんか、それよりも忙しかったっていうのが、ありましたね。

元永:俺やろ。

中辻:わりあい次々とあって。だから言われたら考えたかもしれないけども、言われなければ、そのままで。

池上:他にもたくさんやることがあって。

中辻:やることがあったと思います。

元永:そうやね、なんか知らんけど忙しかってんね。そやから、遠慮してくれはったんか、知らんけども。「もーやん、あっちこっちで展覧会しよる」って、思ってたのかも。

加藤:当時国際展も、多くなってきて、グラン・パレとか。国内では現代日本美術展とか。あと、ヌル(“Nul”)とか、「ニュー・ジャパニーズ・ペインティング・アンド・スカルプチャー」、「新しい日本の絵画と彫刻」という展覧会(注:“The New Japanese Painting and Sculpture,” ニューヨーク近代美術館とサンフランシスコ美術館の共催で1965年から1967年にかけてアメリカを巡回)。

元永:うん、ジャパン・フェスティバルとか。

加藤:ジャパン・アート・フェスティバルもありましたし。

元永:そやそや。そんなんも関係しとったし。あの時、推薦者は誰やったか。出品したんやな、あれも。なんか知らんけど、いっぱい出品してますわ、あちこち。

中辻:その間に具体展があってね。

元永:具体展もあって、ほかの展示会もいっぱいあって。経歴見たらいっぱい載ってるから。

池上:お忙しかった。

元永:忙しかったんやろうし、別に「具体以外には出すな」ってこともなかったやろうし。公募展に出してもかまへん、っていうてたんや。治良さんは二科を辞めたけどな。

中辻:そのあいだに、現代日本美術展っていうのもあったわね。大作を出してたからね。

元永:僕が審査員になったのは、具体を辞めてからかな。そやな、そやそや。

加藤:そういうなかで、1966年にジャパン・ソサエティーの招聘で、ニューヨークに行かれることになる。

元永:それは、具体で聞いたんです。(ゴードン・)ウォッシュバーンから(注:Gordon Washburn、当時アジアハウス・ギャラリーのディレクター。)8ヶ月間ニューヨークに来ないかという話があったんやけど、あんまり外国へ行くのは好きやない、僕はな。

加藤:そうですか(笑)。

元永:「言葉もできへんし、どないしよう」と思ったけど。それはね、(ひと月に)600ドルくれたの。その頃レート360円やから、今とえらい違いやで。今朝はもう80円代やろ。365円やで、昔は。600ドルの365倍やさかいに。

中辻:360円よ。

元永:360円か。そんでも20万くらいやったんかな。今やったらどないなんのやろう(笑)。

加藤:それは、ジャパン・ソサエティーが毎年、作家を招聘するっていう。

元永:毎年作家をね、絵描きを一人とか、文学のほうから一人とか、呼んでくれたんやな。ほんで、絵かきで選ばれたんで、「どうしようかな」って思ったんやけど、「まあ折角来いっていうし、お金ももらえるから、ほんなら行こか」と思って。その頃(中辻さんと)一緒にいたからね。一緒に行ったんです。

中辻:多分ジャパン・ソサエティと、ロックフェラー3世っていう両方からの資金があったんじゃないかと思うんですけどね。ジャパン・ソサエティーから行ってる人と、もうひとつ、JDRからの招聘というのもあって。

池上:JDR 3rd基金という、ロックフェラー3世の財団ですね。

元永:そうそう、一柳(慧)なんかはJDRやった。谷川俊太郎は、ジャパン・ソサエティーやったわ。

中辻:久野真さんとか、香月泰男さんとか、全部ジャパン・ソサエティーからの人でしたね。

池上:元永先生に招聘があったのは、具体を通じてなんでしょうか。それとも。

元永:あれはね、瀬木(慎一)が推薦したって言ってたかな。なんか推薦母体があるんですわ。

池上:どなたが推薦してくださったというのは。

元永:分からん。

中辻:分からないです。私たちも知らないんですけど。瀬木さんなんかは、「僕が推薦した」と言われて。

元永:瀬木がそない言ってたな。

中辻:で、行ったらまず、ウォッシュバーンさんに会って。

池上:その方が、あちらでの担当というか。

中辻:ジャパン・ソサエティーのなんていったかしら。

元永:それからあの、東大出身のなんとかって人。

中辻:佐藤さん?

元永:佐藤さんか。東大一番です、っていう。ちゃうちゃう、あれは芳賀徹の友達やねん。

中辻:渡辺央さんね。

中辻:渡辺央さんって、中央のおうって書くんだけどね。渡辺さんって方がニューヨークのジャパン・ソサエティーの窓口だったので。その方はまだご健在なので、あの頃のことは良くご存知だと思うんですけど。

池上:今はどちらにお住まいなんですか。

中辻:東京だと思いますよ。

池上:そうですか。ウォッシュバーンさんという方もジャパン・ソサエティーの窓口。

中辻:ウォッシュバーンさんって評論家ではないですよね。

元永:俺は知らんわ。

中辻:日本にも、色々調査に来られていたかなんかでねえ。

池上:じゃあ、こちらで行きたいという希望を出したわけではなくて、「来ませんか」という招待があちらから来た、ということですね。

元永:そうや、こっちは知らんわ、何も。俺は外国嫌いやもん。

中辻:向こうからは、そういう人たちが日本の調査に来られているんでしょうね。それで色んなところで調べて、今年は「この人とこの人にしようか」っていうふうな感じで。私たちの時は、谷川俊太郎さんと、ふたりが招聘されました。

元永:せやから、行き違いになったひとは、名古屋の久野真とか。

中辻:だから、美術からと、文学と、音楽と、三つぐらいのジャンルからじゃないかと思うんですけど。

元永:向こうでも色んなひとに会うたわな。高橋……

中辻:高橋悠治さん。

元永:悠治に会うたね。あと、悠治の嫁さんの。

中辻:明本歌子さん。

元永:歌子さんやら、香月泰男にも会うたよ。

中辻:私達の前に住んでおられた。

元永:そう、前に居てはって、もう帰るねん、って言ってたけどやね。

中辻:その頃は富山秀男(注:元西洋美術館長、元ブリジストン美術館長)さんがちょうどいて。富山さんもJDR? どちらで来られたのかしら。

元永:JDRじゃなくて、俺と同じ立場じゃないかな。

中辻:ジャパン・ソサエティーだった?

元永:ジャパン・ソサエティーやと思う。

中辻:で、富山さんはニューヨークの近代美術館に、研究員としておられて。

元永:せやせや。なんや、中がよくわかって、日本と予算の額が全く違うって羨ましがってたわな。

加藤:ちょうど、行ってらっしゃった時に、「日本の新しい絵画と彫刻」展っていうのが、ニューヨーク近代美術館であって。

元永:それのオープニングに合わせて、ちょうど行ったんやわ。ほんでその時に、ロックフェラーで、歓迎パーティーみたいなんしてくれはって。

中辻:ロックフェラーじゃなくて、多分近代美術館が。

元永:美術館がやったんか。まるいテーブルがいっぱいあって。

中辻:それは、色んなところからお金が出てたと思いますけれど。

元永:自分の正面には、ロックフェラーさん夫妻が座ってくれはって。日本語も英語もよく分かる、なんとかさんがいたの覚えてる。メインテーブルでした。

中辻:名前をすっと忘れる(笑)。ジョン・ネイスンさん。

元永:隣の席にいた、ニューヨークのおばちゃんが喋りにきはんねん。向こうは俺があんまり英語分からへんの知らんから、「おお、イエス、イエス、I understand what you say」とか、それくらい言っとってん(笑)。そしたら、なんぼでも喋りはるんや。分かってると思うさかい。その人は、後から聞いたら国吉康雄さんの奥さんやってん。それで、さすがニューヨークやな、と思ったり。いや、さすがニューヨークと思ったのは、もうちょっと後の話です。あれは、サムの個展やったかな。サム・フランシスの個展に行ったんや。ニューヨークに、ピエール・マチスっていう、マチスの息子がやってる画廊があって、そこでシャガールの娘のイダに会ったりしてね。マチスの息子とシャガールの娘とに会って、やっぱりニューヨークやなあと思った(笑)。シャガールの娘には日本でもいっぺん会うたことがあって、何か俺の顔を見てゲラゲラ笑うさかいに、「何で面白いん」って言ったら、絵を知っててくれたんやな、東京でね。それで俺の絵が、「顔といっしょや」って笑うねん。それで俺も、「お前の親父も一緒やんか」って言い返したことがあるんや。「シャガールも、絵と一緒のような顔やで」って言うたことあるわけ。日本で会うてから、またニューヨークでも会ったんや。

加藤:やはり、東京の作家さんとか評論家の方をご存知で、交流があったってことは非常に大きかったんでしょうね。

元永:そらそうやで。

中辻:東京画廊で展覧会したっていうことが、やっぱり、大きなポイントになってると思いますね。

元永:東京の評論家とみな仲よくなったもんな、あの時はな。

池上:推薦していただく、っていうようなことにも繋がっている。

中辻:だと思いますね。本人は分かりませんけど、おそらくそれが無かったら、その話は無かったと思うし。個展では衝撃的なデビューでしたし。

加藤:特に元永先生は、人付き合いがよくていらっしゃるから、色んなお付き合いの中で、評論家の方とも親しくなっていかれて。

中辻:そうですね、わりあい人間が好きなのね。でも作品が良くなければお付き合いの幅も広がらなかったと思います。

元永:俺、理屈言えへんもん。なんでもええねん、俺は。「そうか」言うて。

加藤:そのあたりは例えば、白髪さんも東京画廊ではされていますけど、そういうふうなことでは、また全然違うので。

元永:白髪は、人付き合い嫌いなんや。社交は嫌いなんやな。大酒飲みやけども、東京で会うて、「飲もか」って言ったって、絶対飲まへんもん。家に帰って、夜の10時になって、嫁はんを前に置いて、3時まで毎晩飲むねん。そういう特殊な(笑)。俺はそんなん、かなわんがな(笑)。嫁はんをフウちゃん、フウちゃんって言ってたけど、富士子さんかって、よお辛抱しはったな、と思って。こないだ会って聞こうかなと思ったけど、ちょっとそこまでいかんかった。足を悪くして座ってはったな、腰かけに。(注:「白髪一雄氏を偲ぶ会」、2008年7月28日)

加藤:ジャパン・ソサエティーの招聘で、ニューヨークに行かれたっていうことに対して、吉原先生は何かおっしゃっていたんですか。

元永:あの頃ね。

中辻:でも、送別会してくださったよね、具体で。

元永:そういうのには、文句言わへんな。

池上:具体の作家の方々で、アメリカに長期間行かれたのは、元永先生だけ。

元永:うん、俺だけ。何でやろうな。おかしいな。うん、それは、僕だけやな。

池上:吉原先生も、他のメンバーの方々も、それについては特におっしゃらなかった。

元永:何も言わへんなあ。

中辻:若かったからねえ。なんかそのへんの周りの環境みたいなものが、全然分からなかったっていうか。自分のところにそういう話がきても、行くとなったら、そのことだけだったからね。周りの人達が、どんなふうに思ってらっしたとか、そういうことはあんまり分からなかったですね。

元永:治良さんがなんか思ってたら、言うんやけどさ。何も言わへんかったさかいに。

中辻:だから喜んでくださっていたんちがうかしらね。

元永:ええの違うかなと。そういうのは、自分とは関係ないもん。

加藤:やはり、展覧会とか個展とかっていうふうになると、ちょっと変わる。

元永:ちょっと問題があって、やっぱり「俺が一番先や」とか、そういうふうになる。だから、さっき言うたみたいに、インド・トリエンナーレが良かったり、国際展なんかで、日本でも一番になるし。それで本人も、「やれやれ」と思ったんちゃうかな。我々もホッとしたもんな。あれよかったわ(笑)。今だに思い出してもよかった(笑)。

加藤:ニューヨークでは、また制作を始められるんですけれど。やはり素材が日本と違うので、少し方法を変えられたというふうに伺ってますけれども。

元永:そうやね。

中辻:きっかけはね、マーサ・ジャクソンが、大きな画材屋さんを紹介してくれたことですね。

元永:そういえばそうや。

中辻:それで、そこに行って、いくらでも買ったらいいって。画材をね。

元永:全部画廊のツケで買うてもええと、言うてくれたん。

中辻:画材屋さんに行くと、ちょうど日本ではまだリキテックスみたいな、ああいうアクリル系の絵の具がそんなになかった時分だけれども、あちらでは皆それを使ってて。

元永:流れる絵の具っていうのは、大体エナメルやん。僕が使ってたのはね。

中辻:行ったところにエナメルが無かったというだけの話でしょうか(笑)。

元永:英語でよう言わんやん、そんなん。

中辻:そこを紹介してくださったから、アクリル絵の具に出会って、今は皆これで描いてるからっていうんで、それでその絵の具を買ったっていうのがきっかけです。

元永:エア・ブラシもね、やっぱりその頃は(まだ珍しかった)。

中辻:だから、そこの画材屋さんに行ったら、色々新しい材料があったんです。

池上:その画材屋はどこにあるお店だったんですか。

中辻:あれはどこにあったかしら。大きな画材屋さんだったよね。デ・クーニングなんかもそこで全部買ってるから、元永もそこで全部買ったらいい、ってマーサが言ってくれて。

元永:デ・クーニングも、マーサ・ジャクソンの作家やしね、サムもそうやないか。サムと、デ・クーニングと、あと(カレル・)アペル(Karel Appel)や。そういう作家をマーサ・ジャクソンが抱えてたっていうか、関係してたわけやな。

中辻:タピエ・グループって感じだったけどね。

元永:タピエは、分からんけど、多分ユダヤ系やと思うんやわ。マーサ・ジャクソンも、ユダヤ系と違うんかな。大体ニューヨークは、ユダヤ系かホモ系やねん(笑)。どっちかにならんと成功せえへんと思ったよ、ニューヨークへ行って。

中辻:行った時に誰かにそう言われたよね。そうでないと、成功出来ないって。そういう組織がちゃんとあるからってね。

元永:ジャパン・ソサエティーの人達もね、オカマの人が多いと。

池上:そうなんですか。

元永:ほとんど、そやで。

中辻:ジャパン・ソサエティのメロイさんって方が、お世話してくださったわね。

元永:メロイさんもホモや。なんでかっていうとね、握手したら、柔らかく握りはんねん。日本人は遠慮してね、ようきつく握らへんやろ。でも柔らかく握ったらオカマと間違えられるねん。それで、ギュッと握ったら、顔しかめはるもん。何でかと思ったら、痛いからと違って、「仲間と違うんや」ってがっかりするわけよ(笑)。

中辻:ほんとうかどうか分からないよ、これは(笑)。

元永:握手を柔らかく握るのはホモやっていうふうに聞いたんや。ほんまの話かな(笑)。そやけど、そういう色んな経験をしたなあ。おもろいなあ。

加藤:それで、新しい画材で作り始めて、どうでしたか。

元永:僕は大体、最初は形から入っていくので。ずっと10年ほど絵の具を流してたけども。だからちょうどいいチャンスやから、形をもういっぺん追求し直そうかと、ニューヨークでは思いました。それで、絵の具が流れるっていうのは、地球の引力を利用するし、自分の意思を越えたものが出来てくると。それに代わるものは何かなと、ちょうど見つけたのがエア・ブラシ。で、絵を形中心に考えて、エア・ブラシを使って、なんかできないかなあと思ったのが、ニューヨークに行って制作を始めた時の気持ちですわ。

中辻:もっと暗中模索だったと思うけどね。

元永:暗中模索って、気持ちはそうやで。どないしょうかっていうのは、そんなん分かりませんがな。

中辻:アトリエを借りる前に、マンションの物置みたいなところで、描き始めたでしょ。あの時に小さな作品を色々試作していたわね。

元永:リンカーン・タワーズやろ(注:元永夫妻が滞在していたマンション)。なんか描こうと思って、描いとった。

中辻:その時に新しい材料を使って。エア・ブラシの前にニュッと出るような。

元永:そういうのもやったかな。色々やってたんかな。

中辻:ちょっと小さい作品でね。

元永:そういう作品もあるわ。何かニュウッと絵の具がはみ出るとか。色々考えとったな。

中辻:それで、スタジオを借りてから、ハッキリと大きい作品を描き出したわね。

元永:大きな作品をやったんやな。スタジオっていうのは広いさかいな。ものすごく大きくて気持ち良かったんやけれども。それも、最初しばらく住んでから。三ヶ月くらい経ってからかな。

中辻:二ヶ月くらいかしら、わりあいはやくにスタジオを借りて。でも、国内旅行は全部タダでできる条件だったからね。その代わりにスタジオを借りてもらったということね。

元永:そやそや、飛行機もタダやった。

中辻:できるだけ色んなところへ行って、色んなひとと交流をしてくれたらいいっていうようなプログラムでした。

加藤:すごく、いいプログラムですね。

元永:その上、お金くれるんやもん。

中辻:でも彼は、あんまり色んなところに行きたくないというので。

元永:僕、観光に興味ないねん。

加藤:やはり制作の方を。

中辻:「制作したい」といって、スタジオを借りてもらったのよね。

元永:その代わりに借りてもらったんやわ。

池上:旅行はいいから、場所を借りたいとおっしゃったんですね。

元永:そや、最初はリンカーン・タワーズにアパート借りてもらったけども。家賃は自分で払ったで、もらった中から。

中辻:そう? あれは、ジャパン・ソサエティーか契約してるアパートだった。

元永:契約してるんやけども、1ヶ月200ドルやで、家賃。俺、覚えてるわ。600ドルもらって、200ドルやったら、あと400ドルしかあれへんやん。そんで30階建てのアパートが、ザーッと並んでるやんか。ものすごいマンションで、ビックリしたわ。日本と違うて。その1室の、28階のF。で、27階のFには、谷川俊太郎がいたんや。それで、俊太郎さんとの付き合いが始まったわけ。絵を描いて、詩人やったらどんなタイトルをつけるか、「いっぺんつけてえな」とかいうて。日本と違うて、暇やから、よかったと思うわ。

中辻:行ったり、来たり、よくしてたね。だから、一柳(慧)さんとの交流とか、高橋悠治さんとの交流とか。なんかみんなでよく一緒に食事したり。

元永:散髪したり。俊太郎さんの部屋で散髪して、女房が、旦那の頭をハサミで切ったり。その写真はあるわな、まだ。その俊太郎さんの奥さんはもう別れたけれども、うちのとこはずっと続いてる(笑)。

加藤:当時ニューヨークにお住まいだった、日本人のアーティストの方との交流があって。

中辻:そうですね。あの時は、堂本尚郎さんも来てらしたしねえ。

元永:尚郎もいたんやな。

中辻:もう亡くなられたけど、脇田愛二郎さん。猪熊さんや桑山さんなんかも。

元永:それから、今でもニューヨークにいる……

中辻:川島(猛)さん?

元永:川島。

中辻:川島さんにはお世話になったわね。

元永:なったし。妊娠して行ってたから、子どもができるんやな。

加藤:あちらでお生まれになった。

中辻:4ヶ月目くらいだったんだけどね。このチャンスに一緒に行かないといけないと思ったから、向こうで生まれるっていうのは分かってたんだけど、一緒に行って。

元永:その時に、川島君にお世話になったんや。二人目のお産で。それで、生むのもタダでしてもらってんで。そんな話はあんまりしたらあかんのかも知らんけど。

池上:大丈夫ですけど(笑)。

元永:それから、「痛い」っていうのを英語でどう言うか、一所懸命稽古したりして(笑)。まあ、そんなんで、生まれたっていうから、急遽病院に。セント何病院やったかな。

中辻:セント・ヴィンセント・ホスピタル。川島さんの奥さんが子どもさんを産んでおられるんで、それで色々お世話していただいて。

加藤:川島さんのような方がいらっしゃって、心強かったですねえ。

中辻:心強いですね。それから、中川直人君。

元永:直人は友達やん。

中辻:直人君は宝塚出身なんですね、ご実家が。村上華岳のお孫さんで、私たちが一緒に住み始めて、しばらくした頃に、よく来てはったね。

元永:しょっちゅう家に遊びに来てたんや。

中辻:直人君にもお世話になったね。もう別れられたけど、ファーラっていう奥さんがいて。その奥さんもなかなか賢い、頭のいいひとやったねえ。(直人君は)今はコロンビア大学で教えているんですか。

池上:中川さんですか。今は多分、されてないと思うんですけれど。

中辻:後で借りたロフトなんかは、直人君が世話してくれたのね。

元永:狭いとこ?

中辻:ちがう、広いところ。グラント(奨学金)が済んでからね。

元永:そう、追い出されてんな。あいつが帰って来るとかで。

中辻:そうやったね。金光松美さんっていう方のスタジオを借りてたの、最初。

元永:彼はロスに行っていて、空いていたスタジオを借りていた。

中辻:そうそう、ロスアンゼルスにおられて。でも彼の友達が結婚して、スタジオを使いたいからっていうんで、移ったんやね。その移ったロフトを直人君に紹介してもらって。キャナルストリートかな、ダウンタウンの方で。大きなロフトでした。

元永:せやで、乳母車に荷物積んで、ごろごろと運んで引っ越した。

中辻:ダウンタウンのロフトができるまでは、ジャパン・ソサエティーの職員のひとが、日本に帰るから、しばらくアパートが空くから借りて、そこにも住んだ。

元永:ニューヨークでもウロウロしてるんや。

中辻: ジャパン・ソサエティーは、8ヶ月の招聘なんですよね。その8ヶ月が済んでから、そんなふうにちょっと転々としたんですね。

加藤:そうですね、10月に渡られて、9月くらいまでいらっしゃったんですね。

中辻:丁度まるまる1年で帰って来たんです。8ヶ月以降は、自分たちで生活したんでね。だから、色々変わったんだと思います。

元永:そやな。丁度日本に着いたのが、出て1年目やったんや。ちょうどな。

中辻:1年間滞在できるっていうビザだったんで、ギリギリまでいたんです。

元永:ヨーロッパ回って帰ろうと思ったけど、お金が無くなってきてん。それでマーサ・ジャクソンに絵を買うてもらって、ヨーロッパを回る金を都合したんやけど、あれユダヤ人やなあ、ものすごい値切りよんねん(笑)。値切られたって、やっぱりお金ないと困るし、全部絵を売って、ヨーロッパを回ったっていうのが実情です(笑)。せやけど画材はマーサが払ってくれていたもんな。

中辻:向こうで収入を得たら、税金を払って出ないといけないっていうので、そういうことのお世話は全部メロイさんという方がしてくださって。

池上:エア・スプレーとアクリル絵の具を使ったシリーズというのは、ニューヨークで発表される機会はあったんでしょうか。

中辻:発表はしなかったね。

元永:発表せんかったな。日本に送っとったわ、展覧会に。インド・トリエンナーレとか、現代日本美術展とか。

中辻:あまりにも絵のスタイルが変わったからね。マーサも「流れる絵から、全く変わった」って。それも、まだ暗中模索みたいなかたちだから、それを展覧会するというところまでは、いかなかったのね。もっと長くいたら、そういう話になったかもしれないけどね。

元永:マーサは、「うまいこと変わった」って、褒めてくれたもん。

中辻:本当。

元永:ええ感じになったって。「変わってどうなるかと思ったけど、良くなった」ってマーサは褒めてくれた。だからその絵も、マーサが買うてくれはったんやもん。

加藤:それじゃ、エア・ブラシで作られた新しい作品を買われた。

元永:うん、日本に帰る時に、向こうで描いたやつを売って帰って来たわけです。ロフトが広いから、大きな絵を描いたんやね。ある時、日本に送るのに取りにきたらね、出口が狭いねん。中は大きいけど、入り口はこんなんや。

中辻:そんなに小さくもないけどね、もっと大きいけれど。

元永:それで、どないしようと思って。枠を半分に切って、曲げて。下へ降りてからまた繋いだんや。そういうこともあって。

加藤:今、兵庫の県立美術館に所蔵されている、《N.Y. No.1》(1967年)っていう作品。

元永:はいはい。あれ(《N.Y. No.1》1967年)やと思う。あれは全部枠も自分で作って、大きいのを作ってたんや。日本でもそうやったんですけど。枠買うお金ないし、昔から材木屋へ行って、全部自分で作ってやったんですわ。

加藤:日本に送るっていうと大変ですよね。ものすごく大きいんで。

中辻:あれは、東京画廊の松本さんが、全部して下さったと思います。現代展か国際展かなんかに出すのに。

元永:日通が取りに来たんやで、ニューヨークまで。

中辻:その手続きっていうか、お世話っていうか、松本さんがしてくれたと思うけどね。

池上:当時のニューヨークといいますと、ポップ・アートですとか、ミニマリズムですとか、そういう傾向がすごく流行っていたと思うのですが。

元永:ありましたね。えっと、誰のやつ見たかな、展覧会。ポップの。

中辻:(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)とか。

池上:そういう、新しく出てきた傾向を見て、何か思われたことは。

元永:何も思わない。そういうの、全然思わないの。ニューヨークに行って、影響されたやろというけれども、全く関係ないな、そんなん。ただ、影響されたという気持ちはね、向こうの作家は気楽に描いているね。日本人は深刻過ぎるから、「気楽に描いているのはいいなあ」と思って、僕も気楽に描いてるつもりやけど、日本人はもう、カンカンになって描くからね。だから「気楽でええな」というのは、ニューヨークに行って感じたね。

池上:実際に交流を持たれたアメリカの作家さんっていうのは、いらっしゃいましたか。

元永:そやねえ、ラウシェンバーグとジャスパーぐらいかなあ。ジャスパーには向こうでステーキおごってもらった。他にあるかな。サム・フランシスは遊びに来たな。

池上:スタジオに行かれたりとかは。

元永:いや、行けへん。そんなん行けへんわ。

中辻:(ポール・)ジェンキンスのスタジオは行ったね。

元永:ああ、ジェンキンスか。そうやな。あれは、日本からの付き合いやさかいに。ラウシェンバーグもみな、具体に来たからな。だから知り合いやったというだけで。

中辻:言葉が出来たら、もっと交流があったと思うんですけどね。言葉が出来ないから、そのハンデはものすごくあったと思います。だから色んなチャンスを逸してたというかね。たとえば親しくなるチャンスをね。

元永:そや、展覧会(“The New Japanese Painting and Sculpture”)の初日にパーティーをしてくれて、ロックフェラーに会うたんやけれども、それが済んでから、ディスコに行ったんや。久野真っていう名古屋の絵描きが、リリーダッシェで個展をしてて、そのオーナーは、帽子の世界的なデザイナーやってんて。それで、踊りに行こうとかいって、久野真なんか羽織袴に下駄履いてディスコ行ってんもん、ニューヨークで。あれは、異様な感じやったわ。リリーダッシェが来てくれたっていうので、そのディスコは全部タダやねん。それぐらいリリーダッシェは有名やったみたい。それから、猪熊弦一郎さんにもよう会うて、猪熊さんところでトロのパーティーしてくれたん。あれ美味しかった。フルトンっていう漁港があって、アメリカ人はあんまり生魚を食べへんけど、日本人は好きやさかい、安いからって買うて来て、ニューヨークで食べたトロの味は美味しかった。下に敷いてあるのはキャベツやってん。キャベツの上にトロなんか置かへんけど、それはニューヨークやな。猪熊さんと奥さんは元気やったしな、あの頃。あ、イサム(・ノグチ)さんにも会うたことある、

池上:イサム・ノグチさんですか。

元永:会うたよ。

加藤:先生、さっき形を追求しようと思われたということですが。先生の作品は色彩に関しても特徴があると思うんですが、色彩についてはいかがですか。色を決める時とか、どちらを先に。形をまず決められるんでしょうか。

元永:そら、形が先やなあ。そうせんと色が決まらへんね。やっぱり形が先です。だからいつもメモを持って、面白い形があったら、覚えておいて、後で考えたりするんですけど。だいたい赤と緑が基本です、僕は。

中辻:色はなんか本能的なもののような気がしますよね。

元永:自分が持ってる色っていうのがね。

中辻:形はわりあい考えてると思うけれども。色もそりゃ考えるけど、むしろ本能的に出てくるような気がする。

元永:そう、自分の色っていうのがあるんですわ。だからいつも言うねんけど、クレヨンでも、よう使わん色があるやん、誰でも。残って、余って。それが個性やわな。余ったクレヨン使えって言われても、よう使わんわ、子どもの頃から。それが自分の色やわなあ。要は、減ってくる色が自分の色なんで。

加藤:確かに朱色に近い赤とか、黄緑っていうような感じの色は先生の作品に特徴的だと思います。

元永:で、僕の赤はバーミリオンやけど、白髪の赤は、クリムソン・レーキです。血の色が好きなんや。全然違うわけや。俺、あんな色よう使わんわ、気持ち悪い(笑)。でも不思議なもんやわね、人間っていうのは。それだけは自分の色っていうのが、みんなあります。

加藤:確かに色彩っていうのは、考えるっていうよりも、感覚的に。

中辻:出てくるように思うんだけれど。

元永:色はな。でもそれでも、考えてるんや、やっぱりな(笑)。

中辻:考えるけれども、考えてもやっぱり決まった色しか出てこない。

元永:そら、そうや。今は赤・青・黄やろ、大体カラーは。で、ブルーはちょっと使いにくい。どっかに使うんやけどな。ブルーは、それでもちょっとはあるけど、あんまりブルーを積極的によう使わんのやな。

中辻:たくさんになったら、寒い感じがするって言うわねえ。

元永:そやねん、それはあかんなあ。やっぱり、ブルーの代わりやったら紫使うほうがいいねん、俺は。それも、濃い紫は嫌やねんな。

加藤:そうですね。そういったら、藤色とか、黄色っていうのもすごく(多い)。

中辻:そうですね。でも昔は、レモンイエローが多かった。最近はあんまり使わない。

元永:そやねん。年のせいやな。前はレモンイエローやったけど、今はちょっと濃い目の黄色や。

中辻:なんか若い頃のイメージから、年をとってきたのかな。昔は、レモンイエロー、レモンイエローってよく言ってたね。

元永:せやせや、レモンイエローばかり使ってたんや。最近はイエロー・ミディアムやな。

加藤:やはり、形にもとても興味があるんですが、色彩に特徴があるというか。非常に元永先生の作品の「らしさ」っていうのを感じるんで、どういうふうに制作の過程で、色彩っていうのを選ばれるのかなあ、と。

元永:まず形です。形を描いてから、色をどないしようって考える。形と色っていうのはだから、くっついてるもんですわ。離して考えられませんわな。せやから、赤色のセロファンを目にバッとはったらみんな赤色やけど、外を見たら形がみんなその中にあるわな。それから、真っ白い壁を見たら赤い世界やなあ。そんな色の世界ですわな。ケリーとかいう作家は、カンヴァスに黄色塗っただけとかやなあ。

加藤:エルスワース・ケリー(Ellsworth Kelly)ですね。

元永:だから、そういう人もいるけど、結局(カンヴァスの)四角い形があるやん。形が無いとは言えませんわ。

加藤:ニューヨークから戻られて、その前にヨーロッパ旅行をされますけれども。その時に、何か特に印象に残ったことってございますか。

元永:子ども連れて歩いとったからなあ。あんまり覚えてないなあ。

中辻:あんまり長い滞在じゃなかったし。

元永:1ヶ月くらいやな。

中辻:色んなところに行ったけれども、長い滞在はしてませんね。

元永:サンマルコの広場でさ、渡君(次男)の顔に鳩がとまりにきて、ワーッてビックリして、目が潰れると思って。

中辻:美術館とかだと、丁度パリに行った時は、青年ビエンナーレなんかしていて、わりあい日本からも出品した方があったと思うんだけれども。

元永:展覧会なんか、あんまり頭に無いんやわ。あんまり興味無いっていうか。興味はあるんやけど、自分も絵かきやさかいな。でも、特に見に行こうとかはなくて。

中辻:でもテート・ギャラリーとかも行ったし。

元永:ルーヴルももちろん何度か行ってるし、何カ所か行ったと思うよ。テート・ギャラリーとか、色々回ったけどなあ。「こんなもんがあるんやな」とかさ。

池上:特に「絶対にこれが見たい」と思われて行かれたっていうわけではないんですね。

元永:ないない、ないです。人の絵みたいなもの、どうでもいいんです、極端に言うたら。そら、歴史が美術館にあるさかいに、そういうのを見に行こうという興味はありますけど。もう、そんな余裕もなくて。渡君を連れて帰って、ホテルに放っておいて二人で遊びに行って帰って来たら、ギャーギャー泣いて、おばちゃんがあやしてくれてたとか、しょうもないことで(笑)。イタリーでタクシー乗ったら、違う道行きよって、「なんや、どこ行くねんお前」とか言うたら、パッと全然違うところに降ろされて、お金だけとられるし。そんなん覚えてない?

中辻:覚えていないわ。

元永:全然覚えてること違うわ(笑)。そういうこともあったで。そういうのは覚えてるけど、絵のことになったら、こっち(中辻さん)のほうがよう覚えてるな。

加藤:ヨーロッパから戻られて、また具体の話になるんですけど。その頃になると、新しいメンバーがかなり増えていらっしゃったと思います。その頃の具体の雰囲気はいかがでしたか。

元永:全然、そんなに変わったことは感じなかった。自然やなあと思うぐらいで。「新しいメンバーが増えたんやな」とかさ。それから、「具体大丈夫かな」というような感じはひとつあったけどな。

加藤:それは、例えばどういうところで感じられたんですか。

元永:せやから、絵が違うやん。メンバーが増えて始めの頃と変わってきた。全然違うわな。そやから、「具体もどないなんのかなあ」っていうふうには思ったけど。賑やかになってええのか悪いのか、そこはどっかで感じてたわなあ。

中辻:吉原先生の考え方が少しずつ変わってきたのかもしれないし。

加藤:1970年に万博があって、その時の、具体美術まつりに先生も参加されていらっしゃいますが、その時のことをお聞かせいただけますか。

元永:そうやね、僕は仕事がないさかいに、専任でかかりきっとったんや。他の連中は、月給もらいながらやってたんやないかなと思う。吉田稔郎なんかは吉原製油の社員やし、嶋本も学校の先生やし、白髪は呉服屋さんやし、お金には苦労せえへんかったと思うし(笑)。僕は女房が働いていたけど、収入が無しで、難儀したで。「どないしてくれんねん」って思ってた。

中辻:「そのうちお金もらえるから大丈夫」って言ってたけど(笑)。

元永:治良さんは、「もーやんはなんぼか取ってもいいで」って言うてくれたんは覚えてんねん。せやけど、「なんぼとれ」ということは、全然なかったし。お金はあるのに、無給で働いて、「ようこんなことしてんの俺だけやなあ」と思ったりしたことが、ありますわな。

加藤:どこからお金をとりなさいって、吉原先生は言われたんですか。

元永:あれはね、具体がイベント頼まれた時に、制作費として吉原治良の口座に1,000万円入っていると聞いていたんです。

池上:すごい大金ですね。

元永:それは覚えてますけどね。

中辻:その頃の1,000万円ったらすごいですよね。

元永:まあ、材料費もかかるし、色々お金もかかると思うわ。

中辻:専任ということで、いくらかもらってたの?

元永:それは一銭ももらってません。

加藤:それは、制作費にあてられたんですか。

元永:そら、そこから出てるわ。材料買うたりすんの。

中辻:ああ、材料費はね。

元永:まあ、出てるわ。そうせな、お金ないのにできへんもんな。

中辻:でも、その会計の内容っていうのは、全然分からないのよね。

元永:始めは俺が会計もみなやりかけとったんですわ。ほな、1ヶ月ほどしたら、何か知らんけど、10万円ほど合わへんねん(笑)。ほんで怒られて。みんなは材料費をもらってたと思うねん。で、済んだら「飲みに行け」って、食事代を渡したりしとったと思う。だって事実上は何も入ってけえへんから、その中から渡すしかない。ほんで、俺は無頓着で、領収書なんかももらわへん。そんなん、よう忘れてしまいますねん。ほんでこれは困ると思って、会計をみな他の人に任せたけれど、帳面がむちゃくちゃになってしもた。帳面むちゃくちゃやさかいね、治良さんは「そんなんやったら、領収書をみんな捨ててくれたらよかったのに」って言ったことあるわ。そんなちゃんと調べんと、分からんようなこと。「そやったら、帳面もクソもあれへん、みんな落とした、って言うてくれたら、それでええ」と、治良さんはそう思ってたんちゃうか。それをきっちりしたさかいに、問題が起きて。で、そんなに金で揉めるようなグループはかなわんと思って、「俺はもう具体は辞めや」って言うた。で、三ちゃん(村上三郎)なんかも関係ないけど、「辞めや」って言ったり。何人か辞めたんです。

中辻:そうやったねえ。

元永:辞めたんやけど、その次の年に治良さんが亡くなったんや。で、解散になったわけですけどもね。

加藤:元永先生が「辞めます」っておっしゃった時に、吉原さんは(何か言われましたか)。

元永:治良さんに言うたんかなあ。

中辻:「もーやん、辞めんでええやんか」って言われたって。

元永:そうやな、「辞めんでええやないか」って言うてくれたなあ。せやけど、お金で揉めるような会っていうのは、かなわんと思った。「そんなもん、どうでもいいやん、金みたいなもん」って思っててんけども、やっぱり仲間がもう、うまく行かなくなってきたっていう感じが、したんやね。せやから、「そういう会はもう嫌やなあ」と思ったんやけれども。三ちゃんなんかもそうやと思うねん。もう嫌やさかいに、「辞めや」って言って辞めたんや。具体はやっぱり、長いことやってるさかいに、大きくなってきて、みんな個性が出てきたんちゃうかな。仲間やのに、心が全然違うようになってきたって思ったんやな。やっぱり、個人が出てきたんやわ。逆に言うたら、治良さんの力が弱くなってきてたんとちがうか。ほんで、会員が増えたさかいに、「なんやしょうもないな」って思う気持ちもあって、最初の気持ちがだんだん無くなってきてたんかなあ、と思うな。で、「こんな具体みたいなん」って思ったんやけども、やっぱり、具体には世界から色々展覧会の話があったりして、「自分は出されへんようになるんちゃうかなあ」と思ったりしたこともある。

加藤:この前、村上牧子さん(村上三郎夫人)とお話をしていた時に、吉原先生がお亡くなりになる時って、本当に具体の方はほとんどお会いになっていらっしゃらないって聞いて。お見舞いもなんか、ちょっと行きづらい感じだったので、村上さんも、伺ってないし。牧子さんが(吉原先生がお亡くなりになる)3ヶ月くらい前に行って、すごく喜んで下さったって、伺いました。

元永:治良さんが?

加藤:はい、入院をされたときに、その最後のほうが、ちょっと気まずくなって、主要なメンバーの方が抜けられてしまったので、最後は吉原さんもとても寂しかったんじゃないかなあ、と。

元永:そうやろうな。治良さんは、煙草吸い過ぎやねん。吸い過ぎて心臓喘息になりはった。僕がニューヨークから帰った時に、治良さんが病気して、寝てはったんや。やっと治りかけた時やったかなあ。その時は、治良さんに挨拶に行ったら、「もーやん、もうあかんわー」とか言うてはったもんなあ。で、心臓喘息の薬を飲み過ぎて、後遺症で、倒れられたわけですから。もとは、煙草吸い過ぎや。こないになるまで吸ったら。ゴールデンバット、ちゃうわ、ピースの両切りのやつ。こんな缶に入ったやつ。手も黄色くなってたやろ。あれがやっぱり、亡くなった原因やな。で、村上三郎は、酒飲み過ぎや(笑)。何べんも酒飲み過ぎで入院してるんやで。今度飲んだら死ぬで、って言われてんのに、また飲んで。ほんで家に帰って倒れたんや。脳内出血かなんかで、とうとう、ほんまに死んでしまいよってんけど。三ちゃんが入院してる時に行ったらもう、いびきかいて寝てるだけで意識はなかったわね。

中辻:吉原先生の時は、もう具体を辞めていたから、入院されていたことも分からなかったね。

元永:うん、もう知らんかったわ、全然。

中辻:亡くなられたっていうのは聞いて、葬儀には参列できたけれど。

元永:それは分かったけど、また倒れられたり、とかは知らんかったなあ。そういう運命やろうなあ、と思うわ。せやから、治良さんが帳面のこと、「領収書なんか落として分からへん、って言って欲しかった」っていうの本音やと思うし。金で問題が大きくなったりするのは、治良さん自身もかなわんかったんちゃうかな。

池上:吉原さんが亡くなって、具体も解散になったとお聞きになった時は、どういうふうなお気持ちでしたか。

元永:そやから、ある意味ではちょっと、ホッとしたような感じもあんねん、僕は。なんでか言うたら、具体にいたらなんでも治良さんにお伺いをたてないと行動できへんかって、「いつまでもそれでは、かなわんなあ」と思ったことはあるわな。それもあってやめたんや、俺は。さっき言うたみたいに、個展するにしたって、何するにしたって、「先生、どないでしょう」って、言わなあかんねん。「いつまでこんなんが続くのかなあ」って思ったわ。だからまあ、具体が無くなってホッとしたという気持ちやね。「もう具体のこと考えんでもええ」と思ったわね。治良さんが亡くなったこと自体は、「もっと生きててくれたらええのに」と思う気持ちは、先生やからあるけれども、「とうとう亡くなりはってんなあ」と思ったわなあ。

池上:具体の退会以降、制作活動っていうのは、かなり変わっていかれたんでしょうか。

元永:いや、同じようにずっと。具体の頃とそんなに変わってないと思うな。忙しかったです、ずっと。それは、俺の取り得やな。

池上:作品をずっと作り続けられて。

元永:発表も、具体にいるときよりも、ようけしてるかも分からん。それは経歴見てもらったら分かるけども、具体でストップしたとかね、そんなんは何もないわな。それは、僕のなんてゆうのかな、僕の運命やわ。変わってない。

中辻:具体で、ハードな制作をしていくということが培われたっていうのかしら。

元永:もちろん。俺はだからその時、「『具体美術学校』を卒業した」と思ったんですわ。僕は何にも知らんのに、具体の中で、現場で叩かれたり、展覧会をじゃんじゃんやってるうちに、絵かきみたいなもんになってしまったんや。不思議やわね。だから「『具体美術学校』を卒業した」と思うて。それを三郎に言ったら、「俺は、具体は卒業出来へん」って言うわけや。「そういう言い方もあるなあ」と思ったよね。彼は哲学者やったからな。「どこまで行ったって、具体は卒業できへん」って、そういう考え方もあると思う。僕は「もう具体はなくなって、具体を卒業した、という言い方もできる」と思ったけど、三ちゃんの言うことも正しいと思うな。僕は今も具体の考え方は卒業できてないわ。やっぱり、今までに無いような新しいことしよう、と思い続けてるし、僕の絵本でも、抽象画の絵本とか、今までに無かったものを実際やってるわけやし、そういう意味では卒業してないけど。学校卒業したって、精神っていうのは、ずっと持ってるわな。僕は大学を出てないし、だから「『具体美術大学』を卒業した」と、そう言いたいんやわ。

池上:今おっしゃっていた、具体以降の先生の活動で、絵本の制作をすごく重視されてらっしゃると思うんですけど。これは、やっぱり谷川さんとお会いになったことからくるんでしょうか。

元永:いや、その前から。30何年前か、テックで描いたのは。

中辻:ラボ教育センターという出版社ですね。

元永:ラボ教育センターは、もっと前やわな。何でか知らんけど、僕に絵本描けって。英語のテキストの絵本ですけども、描けって頼まれたんですわ。

池上:ラボ教育センターというところから、お話が。

元永:うん、そうですねん。なんで俺に頼みに来たんのかな。絵本なんて描いたことなかったんです、僕は。でも頼まれたから、描いてみたら描けますねん(笑)。

中辻:色んな作家に絵本の絵を頼んでいた出版社です。

元永:あれは針生かな、彼が推薦したとか。後でちらちら聞くと、ほんまかどうか分からへんのや。

中辻:なんかラボ教育センターって、谷川雁さんという人がやってられたっていうふうに。

元永:誰に聞いたの。

中辻:誰に聞いたか覚えてないけど。でもラボっていうと、谷川雁さんっていうふうに。

池上:それは、『もこもこもこ』(1977年)という絵本ですか。

元永:いや、もっともっと前です。絵本みたいなもん、勉強したことも描いたこともないけどさ、描いたら描けんねん(笑)。

加藤:それはまず、言葉があってそこから発想されたんですか。

元永:それは、英語のテキストやさかいに、言葉が先にあった。

中辻:最初に作ったのは言葉が先にあった絵本だったわね。

元永:頼まれたから。自由な絵本はなかなかやらしてくれへん。英語のテキストのは、何年って書いてある?

中辻:1973年ですね。一番最初の絵本は。

元永:ああそう。もこもこ(『もこもこもこ』)は何年や。

池上:1977年というふうに書いてありましたが。

中辻:77年ですね。だから、4年くらい経って。ひょっとしたら、谷川さんがこの絵本をご覧になったのかもわからないわね。だから「絵本ができるかも」と思って、話を持って来られたのかもしれません。

元永:いや、それはちょっと違うと思うわ。

中辻:そうかしら。

元永:俊太郎さんが、俺の形を描いて、「こんなんせえへんか」って送って来たんやもん。ニューヨークから帰ってから10年くらいしてからやな。73年やろ。

中辻:77年の出版だから、ちょうど前の年くらいにお話が来ていると思う。

元永:77年やろ。だから我々がニューヨークから帰って来たのが67年やから、丁度10年。10年間、別に俊太郎さんとも、そんなに付き合いなかったよなあ。いきなりそんなん言ってきて。「そんならやろか」ということで、できたのが、それですけども。最初頼まれたのは、『ポワン・ホワン家のくもたち』やな。なんで俺がそんなん描けたんか、考えてみたら、昔俺は漫画描いとったよな。それで描けたんやと思うねん。漫画は4コマも描いたり、色々やってたさかい。ストーリーみたいなものも自分で考えたりしとったわけや。多コマもんもやったんやで、奈良の婦人雑誌に。なんか、10コマもんとかな。漫画は描いてて、色々考えとったから、「漫画の絵をもうちょっと丁寧に描いたらええのかな」と思ったりして。

中辻:漫画って起承転結が、わりあいハッキリしてるじゃない。だから絵本作るときも、ページのね、展開みたいなものが漫画と似てるのかな。

元永:あるけれども、先に文章があるやん。しかも、初めに描いたのは英語のテキストやん。だけど、なんかできると思ったのは、漫画を描いてたせいかなあと。「何で絵本描けたんかな」と思うんやけど。

加藤:確かに、他の具体の方を考えると、絵本ができそうな方って、他にいないですよね(笑)。一枚で終わりそうな感じですよね(笑)。

元永:そらそうやわな。ひょっとしたら、俺、具体と違うんやろうか(笑)。

加藤:そんなことはないと思うんですけど。

元永:具体に入った連中のこと見てみたら、大阪でゼロ会やってたとか、三ちゃんもそうやし、白髪もそうやったかなあ。金山なんか、「俺らが入ったから良くなったんやで」って自慢してるわけやし。僕は、具体の具の字も知らんし、1955年っていったら、現代美術って何かっていうことも知らんし。何も分からへんねんもん。「何かおもろいことやったらええ」ってことしか、頭にない。それで、やってるうちに絵かきみたいになってきたっていうのは、やっぱり具体で勉強したわけやな。ほんまに勉強したわけ。現代美術のげの字も考えたことがなかったのに。抽象画は面白いと、芦屋の市展に出して思った。そのきっかけだけですわ。それが不思議やなあ。最初にそれが合うたんやな。絵本も描いてるうちに、ちょっと新しい絵本を描きたいと思ったりして、チャンスを狙ってた、というわけで。まだこの本、続いてるみたいやしね。

加藤:今もずっとロングセラーで。

元永:俺とね、吉原英雄とが頼まれたらしいんやわ。英雄さんも描いたって言うとった。

中辻:吉原英雄さんの絵本が見本で送られて来たと思う。最初ね。

元永:そうやったかなあ。

中辻:最初に依頼された時に、英雄さんの本が送られてきたと思います。

元永:うちに一回送られてきたもんな。せやせや。で、英雄さんも「頼まれてん」って言うとったもん。彼も死んでもうたなあ。

池上:1980年代に入りますと、国内もそうなんですけども、外国でも具体の再評価のような動きがどんどん出てくるようになるんですけど。そういう動きというのは、先生どういうふうにご覧になってましたか。

元永:そりゃ、「なんか面白いなあ」と思ったなあ。

池上:ビエンナーレに皆さんで行かれたりしてましたよね。

元永:そうそう、向こうで会ったら、「具体の同窓会やなあ」と思ったりしたけど、もう治良さんがいなかったさかいに。

池上:そこで、具体をやめられる前後というのは、少し軋轢というか気まずくなってらしたということでしたけど、同窓会みたいに会われて、また雰囲気がよくなったり。

元永:もう、そんなことも全然忘れてるわな。そやから、(具体は)なくなってよかったんちゃうか(笑)。具体がなくなったら、もうみんなと会わへんしなあ。だから、「今度はヴェニスで会おう」とかいうのはいいやんか。そういう感じで、面白かったわね。懐かしかったし。解散してからもあっちこっちで会うたねえ。ダルムシュタットでも会ったし。こないだのデュッセルドルフは、おつるさん(山崎つる子)だけやったんかな。国内ではほとんど会うことはないけど。まあ、そんな風に、具体の名残が、なんかこう、あちこちに広まって今も続いてるっていうのは、「やっぱり具体は新しかったんやろな」って、思うし。デュッセルドルフに行ったって、水の作品をやってる人はいるんやけど、僕のほうが先やしね。「オー、モトナガ」とか言って、抱きつきにきてくれる人がいる。(注:「ゼロ 1950-60年代の国際的前衛」展、クンスト・パラスト、デュッセルドルフ、2006年)

池上:先輩ですね(笑)。

元永:うん、(ギュンター・)ユッカー(Günther Uecker)という釘の作品のひとがいるねんな。ゼロにはね(注:ドイツのグループ・ゼロ)。俺が釘の作品出したら、奥さんが「だんなのために作ってくれたんか」って言うんやけど、年代見て俺のほうが早いさかいに、ビックリしてはったりねえ。だから、具体のほうが、ゼロよりも何年か早かったんやね。向こうの人が、それでビックリしはんねん。そやけど、具体の作品は「並べ方を遠慮してくれ」って言われた。堂々と並べたらゼロの展覧会でなくて、具体になってしまう。具体はそれだけ強い存在感があるねん。せやから、「そんだけ怖がってくれるだけ良かったな」と思う。

加藤:やっぱり、時代がかったものを感じませんよね。もうすでに、つくられたのは50年くらい前なんですけども、今見ても、古さがないというか。今でも新しい。

元永:新しさっていうか、ビックリしてくれはんねん。驚きがまだ残ってるっていうのは、嬉しいわなあ。

池上:すごいことですよね。

元永:こないだも、デュッセルドルフで展覧会のオープニングに僕の《煙》(1957年)をやってんけど、みんなが「オーッ」って驚嘆してくれはんねん。喜んでくれて。その箱をドイツで作ったら、ドイツ人はきっちり上手に作ってくれる(笑)。「やあ、さすがドイツや」と思った。

池上:こういう展覧会があると、できるだけ現地に行かれるようにされてるんですか。

元永:「来い」って言われるんや。行きとうないけど、「来い」って言われたら、行かなしょうがないです。僕は外国、弱いねんなあ。言葉はあかんしなあ。行ったら行ったで面白いんやけれど。行くまでは、なんか知らんけど、行くの嫌なんです(笑)。飛行機は怖いし(笑)。

加藤:では最後に、先生は今もずっと制作を続けていらっしゃいますけども、制作をされるうえで一番大事に思われていることは何でしょうか。

元永:それは、自分やと思う。自分を大事にしてます(笑)。だから、他人のことはほんまにあんまり考えないし、興味ないねん。良かっても、悪かっても、俺は俺やさかいに。他の人も一生懸命やってはるけども、興味ない。展覧会も見に行きますけども、あんまり興味ないねんね。世界の状況って、今は変わってるやん。なんや知らんけど、お人形みたいな作品とか、イラストみたいなんが多くなってきてるけど、だからって我々が古いとも思わないし、関係ないと思ってます。

加藤:先生は、非常に色んな公募展で審査をされていると思うんですけど、審査をされる時に、「これはいいなあ」とか「これはよくないなあ」っていうときの、どういうところに判断基準っていうのがあるんでしょう。

元永:そらやっぱり、新しさやわな。これは新しい感じがあるとか、ないとか、そういうことしかないな。古い形でやってる絵でも面白いのは面白いと思うけれども、「古いやんかー」と思うし、やっぱり新しくなかったら面白いとは思わへんな。

加藤:新しさ、っていうのは、例えば、見たときにハッとするとか。

元永:そら、今までにないようなところが、どっかにあったらええなあと思う。そやから、どんな形がほんまに新しいのか、って言うたら、今まで見たことないもの。だから、具体の精神やわなあ。やっぱり、残ってる。今まで見たことないような作品が出たらええんやけども。具体はね、文学性を排除したんです。だから文学性のある今の、お人形みたいな、イラストみたいなやつは全然興味ない。それ(具体の精神)は、ずっと身体にも残ってるから。あんなん、面白いんですか、人形みたいの描いてんの。

加藤:奈良美智さんとか。

池上:村上隆さん。

元永:世界が違う。それから、誰や。

池上:森村(泰昌)さん?

元永:森村も分からない。モナリザを自分の顔にしたりとか、モナリザがないとできない。

加藤:そういうところに、具体のずっと大事にしてきたものが。

元永:ずっと残ってます。作品を見るんでも、基準はそういうことで。それぞれ感じる新しさがあったら、面白いわな。

加藤:その部分はやはり、吉原先生の目というか、そういうものが具体の皆さんに伝わって、受け継がれていたわけですね。

元永:私は「見たことのない作品を創ろう」という具体の精神は創作の基本であることを大事にしていきます。

池上:それでは、今日は長い間お話を聞かせていただいてありがとうございました。

加藤:ありがとうございました。