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中島理壽オーラル・ヒストリー:2009年3月10日

ルノアール新宿店にて
インタヴュアー:鏑木あづさ、足立元
書き起こし:河村明希
公開日:2012年7月1日
 
中島理壽(なかじま・まさとし 1944年〜)
美術ドキュメンタリスト
1975年、東京都美術館美術図書室に司書として勤務。展覧会カタログの書誌や年譜の編纂を行うほか、『東京都美術館紀要』へ「『美術批評』総目次」などを発表する。1986年に退職後は美術ドキュメンタリストとして独立。近現代の日本美術を中心に、これまでに数多くの書誌、年譜、年表、年史を編纂している。
インタヴューでは自身の作成した略歴をたどりながら、これまでに知られる機会の少なかった生い立ちから図書館での仕事を目指すまで、東京都美術館時代、独立後の仕事の詳細や、当時の近作であった『美術家書誌の書誌』(勉誠出版、2007)についてが語られた。平成23年度文化庁長官表彰。

T 図書館での仕事をめざして

鏑木:今回は、以前に「現場」研究会(注: 2008年5月、中島氏を迎え行われた「現場」研究会「美術情報の集積と表現」http://genbaken.com/genbaken/minutes0805.html)でお聞きしたところと重複するところも出てくるとは思うのですけれども、ご了承ください。
それで、その時にいただいた略歴が、大変参考にさせていただけるものだと思いましたので、そちらを拝見しながら、大学生の頃からのお話からおうかがいするのが、今のお仕事につながることとして、一番直接的なことかと思ったのです。

   略歴1
   1944年 東京麻布十番に生まれる。生家は活版印刷を営む
   1950年 練馬区小竹町に転居
   1963年 東京都立豊島高校を卒業、法政大学文学部日本文学科に入学
   1963年  益田勝実教授の古代文学ゼミへ、中井正一の著作を読む
   1968年 法政大学文学部日本文学科を卒業(司書資格を習得)、家業の活版印刷に従事
   1970年 東京都立日比谷図書館に就職
   1971年 特別文庫室に異動、森銑三翁に師事、『近世人名録集成』編纂(-1978年)

中島:まず、大学へ行く前のことですが、家が活版印刷を営んでいたものですから、中学生のころから自分も文選(原稿を見ながら活字をひろう作業)から組み版、校正、手ざし印刷、簡単な製本までしていました。事業の規模が小さかったので印刷の工程の全部を(すべて手作業でしたが)こなさなくてはならなかったので、むしろそれが幸いして、活字文化というほどのことはないのですが、印刷や編集という技が、読みやすく使いやすいシンプルな印刷物を作るという、何よりもお客様に喜んでもらえる印刷をするという姿勢が、身にしみこんでしまったように思います。活版印刷の副産物として漢字の偏や旁が全部頭に入ってしまったということもありますし、高校時代はデザイン研究会というクラブを作ったりしていました。このように自然と漢字に馴染んでいました。その代わり英語はからっきし駄目でしたが。

鏑木:辿ってゆくとやっぱりご実家の仕事とかそういうものを含めて、普段のお仕事に全部つながっているという感じになりますね。

中島:そうですね。集大成という感じ。それからもう一つ、住まいの練馬区小竹町は、画家の多い町で、印刷物を頼まれ届けに行くと家に上げてくださって話を聞かせてもらうこともしばしばで、美術だけでなく文化的な独特な雰囲気のあったところでした。ちょうど日本大学芸術学部の前あたりで、芸術学部の校庭が小学生のころの遊び場のひとつでした。

鏑木:そういうことをいろいろ伺うと今のお仕事が、自然にこう結びつくという感じがしますね。いろいろな環境が。
法政大学では、具体的に日本文学、古代文学ゼミと書かれていますが。

中島:古代文学を選んだのは古代文学の持つ広がり、スケールの大きさにひかれてでした。そこで益田勝実教授の学問・思想に触れることになります。ただ力がなく専門的な学問を深めることはできなかったですが、ものの考え方や実証の方法を学びました。今でも心している言葉の一つに「いい仕事をするには資本をかけなければ」というものがあります。
半分印刷業をしながらの通学でしたが、ほんとうに本を読んだ時代で、神保町、早稲田、中央線沿線の古書店通いを始めたのもこの時代でした。『展望』『世界』『思想の科学』などの雑誌から、今西錦司、松田道雄、久野収、武谷三男、上山春平ら感銘した文章の書き手の著作へと乱読しました。自然と京都の学問が多くなり、その中の一人が中井正一でした。『美と集団の論理』を読み、発刊されたばかりの『中井正一全集』(3巻、2巻の2冊)を買い、美術出版社の出版物との出会いとなりました。図書館司書の資格を取ったのも、これからは資格が必要だということと中井正一の影響があってのことでした。

足立:大学を卒業して家業を継がれたのですね。

中島:そうですね、継ごうとしたのですが、営業的なことには向かないし、また活版印刷自体もそろそろ時代遅れになりかかっていたので、やはり就職をしようということで日比谷図書館を受験して、何十倍という難関でしたがなんとかパスして図書館司書となったのです。

足立:その頃は図書館で、今もそうなのかも知れませんが、図書館員の方がご自身の専門を持って、その研究をするということは一般的だったのですか?

中島:半々でしたね。図書館業務そのものをやりたい人と、図書館の蔵書を活用して専門のことをやりたいという人たちもいました。私の場合は後者で、初めの1年は新入職員ということで書庫の管理をやり、2年目に異動希望が出せて、特別文庫という、近世から明治大正期にかけての書物や錦絵・地図・拓本などの特別の資料を扱う部署に移ることができて、図書館の中の図書館という、いわば専門図書館を4年間経験することになるのです。と同時にレファレンスのためのツール(書誌や索引)づくりを始めることになり、また、この特別文庫に書簡を読む指導にこられていた書誌学者で近世人物研究家の森銑三翁と出会うことになるのです。
でも、図書館には3年で他の部署に移らなくてはならない異動の原則があって、当時、東京のことをやりたかったので東京室(注:東京都に関する資料・情報を収集する部署)を希望するのですが、なかなか空きが無く、ではどこに行こうかと探していたところに。

足立:美術館?

中島:ええ、探していたら東京都美術館に、図書室を新設するということで司書のポストがあったのです。

U 公開美術館ライブラリーの開設にかかわって

   略歴2
   1975年 東京都美術館に異動、美術図書室の開室準備
   1976年 美術図書室開室(日本で最初の本格的な公開アート・ライブラリー)

足立:いや、願ってもないことだと思うのですけれど。

中島:そうですね。これは後日談ですけれども、中央図書館から司書の来手がなかったそうです。当時。私が異動希望を出したのは、2年目ですね。既に1年前の1974年からライブラリーの準備は進んでいたのですが、開館の直前、1975年の9月に東京都美術館の新館がオープンしますけれども、その年の4月に異動して、開設準備に携わるのです。

足立:確か、異動された時点では年間予算が100万円で、本も買えず、あちこちから寄贈を募っていたということでしたね。

中島:最初の1年目は開設準備ということで1000万円あったのですが、東京都の財政危機も重なって2年目以降はずっと100万円になったのです。最初は美術全体を網羅した美術図書室をイメージされていたようで、美術雑誌で言えば、『国華』『美術研究』から『みづゑ』『中央美術』さらに『美術手帖』『美術批評』まで幅広く購入していました。それが予算が100万円になると、美術雑誌の購読や刊行中の美術全集の残りを買うと、新刊の美術書を購入する予算が無くなってしまうので、貰い屋に徹することになったのです。

足立:その東京都美術館の図書室を最初の構想をつくった人というのは、どなたなのでしょうか。

中島:だれという話は聞いたことがありませんでした。着任した時には公開のライブラリーを新美術館に併設することになっていて、上野公園には芸大図書館があり、美研(東京文化財研究所)があり、東博(東京国立博物館)があるわけですから、そこで新機軸を出すために公開のライブラリーという線を打ち出したのではないでしょうか。

足立:それはかなり画期的なことではないかと思うのですけれども。

中島:そうですね。学芸員のスタッフには芸大の芸術学科を出た方、足立さんの先輩が結構多いのですよ、森田恒之さんとか、塩見隆之さんとか(後に河合晴生さんや萬木康博さんが)。これらの方々を中心に新しい図書館が構想されたのではないでしょうか。

足立:なるほど。

中島:同時に、その当時は革新都政の文化行政ということもあり、日展中心であった東京都美術館から都民中心の美術館へ変えねばいけないということもあって。使用する団体の中からは中村正義らの東京展という動きが出てきて、最初の年だけ日展の全館使用が崩れるわけですけれども。時代の動きというものが、都民のための開かれた美術図書室という方向に進んでいたように思います。その前には1968年の大学紛争や世界的な動きがあって。

足立:そうですね。いわゆる美術館というなんとなく体制側のイメージがありますけれど、美術館の中でも変化が起こりつつあったということですね。

中島:そうですね。各道府県に近代美術館がね、鎌倉だけではなく兵庫県をはじめ続々と開館する時代でしたから。
ライブラリー(美術図書室)に話を戻しますが、やがて東京都美術館自体が現代美術を中心にコレクションを収集して行くことになり、戦後美術を中心にね。それでその方向性に沿ったライブラリーということになっていくわけです。
予算がない、じゃどうするかということで目をつけたのが展覧会カタログと美術雑誌。わりと美術雑誌は寄贈してくれる。それから展覧会カタログはそろそろ充実期を迎えようとしていたものですから、そこで構想したのが〈印刷された展覧会〉をライブラリーで展示・閲覧できるようにしようということでした。展覧会カタログを積極的に収集することによって過去の展覧会をライブラリーで見ることができるように、と。
それで、美術館からの帰りはデパートや画廊を回って、その都度ライブラリーの趣旨を説明して展覧会カタログを貰ってくるのです。「日本で初めて、公開された自由に見られる美術ライブラリーにご理解とご協力を、ぜひ資料をください」と。1か所ごとに説明して行くわけです。その内に少しずつ関心を持ってくれる人たちが出てきて、じゃあこれを差し上げましょうとまとめてくださるようになっていったのです。美術館では上野毛の五島美術館から連絡があって資料を貰いに行ったことがあります。ブリヂストン美術館からはリーフレット類を貰い、有難かったですね。ブリヂストン美術館は戦後のごく一時期、現代美術のメッカであったわけですので。

足立:その当時は、画廊巡りとかは、仕事の内に入れられなかったのですか?

中島:帰路、5時すぎに。展覧会を見るということもありますから。とにかく学芸員以上に、個展やグループ展をたくさん見てということで。もちろん資料のこともありますので。

足立:今だったら、ここに合わせてこうやらなきゃみたいな、追い立てられるようなことが多いわけですけれど。出来ることをやっていこうという感じだったわけですね。ライブラリーのスタッフは大体何人くらいだったのでしょうか?

中島:4人、うち司書は2人。現在のライブラリーでは職員はほとんどが週4日勤務の非常勤になってしまっていますので、今考えると凄いことですね。正規の職員が4人もいることは。
さて、ライブラリーの基本的なものをどう考えたか、ということですが、整理は大事ですが、整理や分類はできるだけ簡潔に、簡略化して、書誌を作ることを第一の課題にしようとしたのです。書誌を作ることは、自分で作るべき全体像をイメージする、デザインすることなのです。だから利用者の質問に答える以上に、自分自身がある意味で造詣を深くしなければならないわけです。
学芸員以上に勉強というのは生意気な言いようですが、学芸員の方々は司書の専門性を理解してくれていましたので、期待を裏切らないようにということもありましたね。

足立:そうですね。ということは、学芸員の方々も若かったということですか?

中島:そうですね。やっぱり同世代か、上・下5歳ぐらいという感じでしたね。私は31ぐらいの時に。

足立:じゃあ50くらいの学芸員は全然いなかった?

中島:そうですね。課長ももっと若かったと思いますし。

足立:いいですね。

中島:当時は、現代美術だけではなくてね、保存科学・博物館学の森田恒之さん、近世絵画の松木寛さん、工芸・中国美術の塩田昌弘さんとか、幅広い分野の学芸員がいましたね。現代美術をやっていたのは塩見(隆之)さんや熊谷伊佐子さん。そして開館直前の8月に鎌倉の近代美術館から朝日晃さんが事業課長に着任され、そこから現代美術一本へということになっていくわけです。ですから1975年9月1日にオープンしますけれど、その開館記念展は日展作家を中心とする常設展示だったのです。今では普通、開館記念というと、やはり本格的な企画展であり、西洋とか日本の代表的な名作を並べることが普通ですけどね、全然違った。それで企画展の第一は「戦前の前衛」展ということで、時間を置いてね。企画展をやっていくわけです。

足立:中島さんの都美館のお仕事の中で、多分、我々も一番よく引くのは、『美術批評』の総目次ですけど、あの時点で『美術批評』をターゲットにしたのはなぜでしょう。特別な意識はなかったのかもしれませんけれども、しかし今読んでも『美術批評』というのは独特の熱気に溢れているじゃないですか。そうした独特の熱気への共感みたいなものはお持ちだったのでしょうか。

中島:ええ、それはもう、格別、格段にね。大学時代から『展望』『世界』『思想の科学』『朝日ジャーナル』などを購読していましたから、やっぱり重要な雑誌だと、戦後美術をやる上ではね。62冊という長さも、取り組むにはちょうどよい規模でしたね。同時代には『美術ジャーナル』というのがあったわけで。これはなかなか全部揃えることがむつかしいですね。あるいは時代は下りますが、『現代美術』という1年に10冊だけ出たものとかがありましたが。
一方で、形の継承という考え方が、この『美術批評』の総目次に込められていました。東博でやっていた『ミュージアム』という総目次の形式を踏襲しています。つまり美術情報というのは共通化しなければいけない。だから独自に編むのもいいけれども、いいものがあればそのスタイルで点数を加えていくということがね、非常に大事であるという考え方なのです。今はそうじゃなくて、いかに人と違うものを作ろうという姿勢が強い、内容がなくてもね。それはそうじゃなくて、先人たちの仕事をよしとするならば、やっぱりそれに則ってやるべきだ。『美術批評』というのは、内容は現代美術だけれども、細部ではそういう先人達の形式を踏襲するという姿勢で編まれています。
特に戦前の美術研究所(帝国美術院附属美術研究所、現在の東京文化財研究所。以下美研)の仕事を踏襲しようという気持ちがあったのですね。それは戦前の『日本美術年鑑』を見れば、一目瞭然なのですけれど、非常に正統的であり、構築的なのですね。内容、形式ともにとにかくしっかりしているのです。
例えば、美術雑誌の刊行目録が、美研で作成されているのですが、都美館時代の美術雑誌の目録(注:『東京都美術館蔵美術雑誌目録 昭和62年2月末日現在』東京都美術館、1987年)の巻末を見ていただくと分かるのですが、「みづゑ」であれば何年何号という表組みがあるわけです。これは既に美研で試みられているのです(美術研究所編『東洋美術文献目録 附定期刊行物調査表』座右宝刊行会、1941年)。美研の当時のいろいろなツール(編纂物)を見ると、やっぱりやるべきことは全部やっているという感じですね。それで、戦前や戦後直ぐの良質な仕事にまず追いつこうという姿勢で、これは今でも変りませんが、編纂することにしたのです。

足立:東文研とか、東博とか、直接の人的な交流というのはあったのですか?

中島:直接的な交流はなかったのですけれど、今日お話ししなければいけないことの一つに、私より上の一世代、一廻り年齢の上のいった人たちが、美術図書館界、美術資料の世界におられて、例えば、東近美(東京国立近代美術館)には土屋悦郎さん、美研には上野アキさん、東博には樋口秀雄さん、武蔵野美術大学には大久保逸雄さんという方々がいまして、ご健在であれば是非、これらの方々にまず、インタビューしてほしいのですけれどね。公開はしていませんでしたが、歴史ある資料室とかを運営されていた先人達がいたわけです。このような雰囲気の中で、やれるのは、現在進行中の山とも海とも分からない、現代美術を中心にしてということになってくるわけです。

足立:それらの人にお話しを直接聞きに行ったりしたとか、そういうことは?

中島:あまりないですね。お会すればちょっと話すくらい。考え方がしっかりしていれば大体、時代ということもあるけど、一致するのですね、めざす方向性というものが。
一時代前のもっと大変な時代に活躍された人たちにぜひインタビューをしてください。

足立:分かりました。

中島:1975年、いや実際には1976年の6月に都美館に公開のライブラリーができますけど、それ以前に、これらの人たちによる美術資料の集積・提供の動向というのがあったわけですね。

足立:なるほど。そういうライブラリー史みたいなものがあるといったことも、後でお話しとして聞きたいのですけれども、ライブラリー批評というか、書誌批評といったものにつながってきますよね。きっと。

中島:東京都美術館が戦後の美術を中心として収集し、展覧会も一連の「現代美術の動向展」を中心に展開されて行く。ライブラリーもそれに従って、むしろライブラリーが率先して戦後美術の資料を集めていこうという意気込みでやっていくわけですね。そこで当然『美術批評』は、1950年代展をやるとすればその核なるものみたいなるわけですから、一覧できるようにという風になってくるわけで、決して特別な意識があって選択したわけではないのですが。

足立:なるほど。

中島:『美術批評』と同時に、瀧口修造をテーマにして書誌を編み、タケミヤ画廊の展覧会記録をまとめるのですが、それ以上のことは、たとえば宮川淳さんを読んでもなかなか難解だし(しばらくして著作集3巻、出ましたけれども)、そこまでは行けない。せいぜいおぎくぼ画廊の機関誌を扱うくらいで、という限界をいつも感じながら仕事をしていました。

足立:高校生の時から、もっと先から、先ほど言ったお住まいの環境から美術はずっと好きだった、デザインも好きだったという。美術館に勤められたわけですね。今お話しを伺っていると非常に楽しかったんじゃないかと思うのですけれども。

中島:そうですね、ええ。ただその代わり、人の倍はいかないでしょうけど、働いてきましたね。

V 美術館ライブラリーのことども

   略歴3
   1978年3月 『近世人名録集成 別称索引』刊行
   1979年 『近代画家研究資料 佐伯祐三』全3巻・刊行(−1980年)
   1979年 麻生三郎展カタログの年譜と文献目録を作成
   1983年 『美術新報 複製版』全12冊・底本調査、『美術新報総目録』刊行(−1985年)
   1984年 『志水楠男と南画廊』年表制作(−1985年)

足立:それから美術展のカタログというのは、中島さんもお書きになっているのですけれども、非常に特殊な、おもしろい出版メディアだと思うのですけれども。東京都美術館ではご自身も執筆といいますか、その製作に関わるわけじゃないですか。そこでの思い出といいますか。

中島:そうですね。やはり麻生三郎展の年譜と文献目録の作成ですね。この仕事は、たまたま学芸員の手が足りなかったので、作成を仰せつかって大急ぎで調査しまとめ上げたものでした。まあまあ結果がよかったために、それがきっかけで本業になってしまったという、私としては記念碑的な仕事になりました。ピンチヒッターでやったものです。

足立:麻生三郎といえばまさにお住まいだったところの画家じゃないですか。小さい頃からご存知だったとか、ということはないのですか?麻生三郎について。

中島:いえ、その頃は清瀬市に住んでいましたので。1回だけ質問をするために生田のお宅を訪問したのですが、話が長くなってしまい、その上、その夜は台風で、雨風が吹き荒れていたので、レインコートを貸してくださりタクシーで帰宅した、という想い出があります。美術館に異動して4年目のことです。それまではライブラリー以外の美術の仕事というのは、佐伯祐三の文献集積ぐらいでした。

足立:『美術新報 複製版』、83年ですけれども、美術新報の総目録を刊行されるという。

中島:麻生三郎展をきっかけに、駒井哲郎、斎藤義重ら、最後は井上武吉、ヘンリー・ムーアという個人作家を手がけるのですが、その当時、本格的に年譜や文献目録を作成できる人は、土屋悦郎さんや和歌山県立近代美術館の三木哲夫さんぐらいしか、美術館の世界ではいなかったものですから、外からの注文が少しずつ出てくるわけです。そういう中で、東出版からの依頼で佐伯祐三の資料集を作るんです。その後直ぐに東出版は経営が行き詰まってしまうのですね。それが、しばらくして八木書店から『美術新報』の復製版を出したいので協力をという話が来て、聞いてみると東出版の東珠樹さんの紹介だという。それで『美術新報』の底本調査をスタートさせ、最終段階で総目録を編むことになったのです。芸大の図書館や美術研究所で底本に欠落が無いか調べ、糊付けされた図版の有無を調べるのです、休暇をとって。美研の図書室の冬って寒くてね。凍えそうにして作業を進めた、これも懐かしい想い出です。美研も東京文化財研究所として新しくなっているので特に。

足立:きっとこの頃からデジタルといいますか、機械を使うように。

中島:この少し前からワープロが出ました。当時の定価で75万円しまして、1983年だったと思うのですけれども、初めて100万円台をきった時に、購入しましてね。このワープロがなかったら、この仕事はね、能率的効率的にはできなかったと思いますね。当時はまだまだ原稿用紙に書いていました。訂正する箇所があると切り貼りしていましたからね、大変な仕事でしたけど。いち早くワープロを、個人としては美術界の誰よりも早く購入して仕事の飛躍的な能率化を図ったわけです。そして、足立さんの言うデジタル化の最初の成果が美術新報の総目録だったのでした。凸版印刷も本当に試験的にやってた時代に、フロッピーディスクから直接データを、テキストに転換するという実験をしたのです。ただフロッピーが小さかったものですから、16ビットくらいかな。すぐに作業量がいっぱいになるのです。5、6ページになると。

足立:えー。じゃあフロッピーをいっぱい用意して?

中島:相当高かったものだから、原稿を渡して、消去してまた入力する、その繰り返しでした。半年くらいかけてそれを入力したのですが、1日もかからず校正が出て来た時は、「凄い」を通り越して少し虚しかった、悲しかったですね。デジタルの偉力を目の当たりにした瞬間でした。その後、CD-ROMという次のメディアにもいち早く美術で仕事をし、シャープの液晶画面の最初の展示にも顔を出すなど、ニューメディアには常に関心を持ち続けてきました。

足立:データベースの話とかはまた後で聞かせてください。
都美館時代に、都美館以外の学芸員といいますか、例えば千葉とか、埼玉とか、そういったところから人が訪ねて来たわけですよね。

中島:日常的に見ていれば、いつでも、だれでも閲覧できる、使えるというのは魅力ですからね。

足立:そこで中島さんの影響を受けたといいますか、そういった学芸員の方が結構いらっしゃったのですか?

中島:直接的にはそのようなことはないと思います。皆さん言いませんし、学芸員は学芸員の世界がありますし。でも願望としては、公開のライブラリーがほしいということはあったと思います。

足立:なるほど。

足立:直接他の美術館のライブラリーを指導したりしたとか。そういったことは都美館時代にはあったのでしょうか?

中島:二つだけ、横浜美術館のライブラリーの立ち上げの時に呼ばれて、研究会に数回行きました。その影響かも知れませんが、先ほど言いましたような、分類は非常に簡単にという点が、横浜美術館のライブラリーでは堅持されまして、美術館毎に、カタログが全部分類されています。
ただそれだけでなく、横浜美術館の凄いのは、閲覧にいい環境の中で、コンピュータをいち早く導入して端末画面での検索を可能にし、コピーサービスも取り入れ、もちろん展覧会カタログが閲覧に出る速度も一番早いし、という具合に、美術司書の草野鏡子さんという方の手腕でしょうが、1990年代の日本の美術館ライブラリーをリードしていました。美術館の脇に日本一のノッポのビル(横浜ランドマーク)がありますが、その真下にも日本一の美術館ライブラリーがあったということですね(笑)。最近、図書室という名前が施設名から消えて残念なのですが。もうひとつは、静岡県立美術館、こちらは文書で協力しました。
展覧会カタログをいち早く閲覧に出せる体制、つまり展覧会カタログというのは、美術館の逐次刊行物、雑誌だと思えば別にいいわけですからね。美術雑誌をいちいち分類しないでしょ。この特集だから、これは7のいくつにしましょうなんて。雑誌は雑誌なのですよ。だから同じように、展覧会カタログは美術館が定期的に発行する雑誌だと思えば、カタログは美術館毎の配架でいいわけですね。でも、私が辞めてからは、全部、分類するようになってしまった。
まして現在みたいに、展覧会カタログ目録がデータベースとして検索できれば、何々美術館という最大のキーワードを活かさないはずがない、「7のいくつ」がもっている意味というのが希薄になってしまっているわけですね、データベースでは。展覧会カタログを分類することは、あえて厳しく言えば、司書の自己満足なのですね、分類をやって、今日は10冊、15冊やった、という。
1975年の時点で、コンピュータ検索を予測していたのではありませんでした。ただ、書誌をつくるということを仕事の中心に置いた、何々書誌を作成することで、自らレファレンスを繰り返す中で、何々というキーワードの先にある個々の文献資料に精通して行ったわけです。いま風に言えば、データベース構築が課題なのではなく、どういうデータベースがいいか、使う立場でレファレンス(キーワード検索)を繰り返すことにより、多彩なコンテンツづくりに励んだ、ということです。

足立:なるほど。試行錯誤ですよね。きっと。

中島:何がライブラリーの中心かということを常に考えて。それを課題にして司書自らを高めてなければいけないわけです。そんなに簡単に言えませんが、学芸員以上に勉強して、というのは情報処理と同時に美術史についても知識をもたねばならないからです。それには、司書はこうだからこうやるのではなくて、いかに手を抜いて課題そのものに迫り、新たな姿を目指さなければということでしょう。それは組織の大小にかかわらず、です。大きな組織である(都立)中央図書館でも、その視点がなければ厳しいことになるわけです。

足立:そうか。中央図書館との関係というのはあったのですか? 対抗意識みたいなものもあったのですか?

中島:対抗意識は別にありません、こちらは専門図書館ですからね。ただ、私が辞めた後のことですが、中央図書館から都美館への異動希望者が続出したそうです。もう基礎は固まっているし、規模も小さいし、美術展もあるし、こんないいところはない(笑)。1995年に美術図書室も上野から木場に、東京都現代美術館に規模を拡大して移転して立派になったのですが、その後、美術館の財団化にともない、司書は全員、中央図書館に戻って行ったそうです。美術の専門図書館としての活動をやり遂げるか否かの葛藤がたぶんあったと思いますが、それでも寂しいですね。そのあと、鏑木さんたちが採用されるわけで、鏑木さんが美術司書としての道を大きくしてくれるなら、新しい人たちに席を譲ったことになるので、それはそれで意味のあることだった、となるのかも知れませんね。

W 美術ドキュメンタリストとして独立

   略歴4
   1986年 東京都美術館を依願退職、独立(美術ドキュメンタリストを名乗る)
   1986年  前衛芸術の日本展・資料スタッフとなる(−1988年)
   1988年 佐久市立近代美術館所蔵作品のCD-ROM化(電子美術館)を試作
   1989年 『昭和の美術』全6巻・編纂・刊行(−1991年)

中島:私の場合は、東京都美術館を辞めても、背景にはいつも美術館ライブラリーがあった、ライブラリーという実体(蔵書)と機能があったので、調べものの方法はさほど変化は無かったですが、大きく変ったのは、公立美術館の資料係から民間美術界の資料係になったという意識でしょうね。画廊や出版社、新聞社など民間では、困っているわけではないけれども、何か情報を必要としている時にお手伝いをする。ドキュメンタリストの一つの意味は、資料係なのですね。だからドキュメンタリスト本来の業務として、1986年以降は、自分だけが納得しているに過ぎないんだけども、民間の美術界の資料係になったつもりで仕事をやって行くことになるわけです。

足立:前にもお話しを伺ったのですけれど、都美館を辞める直接的なきっかけというのは、中央図書館への異動ですよね。

中島:そうですね。幾つかの理由が重なったということですね。外からの仕事も大きく増え始めていましたし。

足立:そうだったのですか。ドキュメンタリストの一つの意味というのが、今、資料係とおっしゃいましたけど、いくつかの意味、他の意味もあったら。

中島:もう一つの意味は「ドキュメンタリー映画作家」です。ただ自分としては、英語のニュアンスというのは全く分からないものですからね。今もなお、ドキュメンタリストというのがどういうものかしっくり行きませんが、自分なりの理解で言えば、データ、文献資料をベースとした表現活動する資料係、と考えています。

足立:なるほど。それは大事ですね。

中島:具体的に言えば、文献目録もあるし、年譜、年表、あるいは年史、50年史、100年史というものですね。どれも、あくまでもデータを基に作成、編纂するものですね。

足立:ドキュメンタリストというと、僕なんかはドキュメンタリー映画とか想像しちゃうのですけれど。

中島:フランス語で、ドキュメンタリー映画作家の方はR(documentariste)、資料係の方(documentaliste)はLの違いがあるのですね。

足立:それは別物か。

中島:ええ。アート・ドキュメンタリーというのがね、映像関係にありますけれど。やっぱりそれとは違うものですね。

足立:そうか。誤解を受けないようにしないといけないですね。先ほど、民間で、画廊とかいろいろ支持してくださったとおっしゃいましたけど、僕らなんか公立のところにいたら、たくさんお給料があって、辞めたらお給料がなくなっちゃうんじゃないかという、そういう心配があるのですけれど。むしろ中島さんの場合、画廊とかの支持というかお仕事はたくさんあったのですか?

中島:ええ。辞める、という情報が流れた時、国際交流基金ですね。聞きつけて、「前衛芸術の日本展」の資料スタッフとして、4月1日から週3日から行くようになりました。ゆっくりする暇も無く。

足立:そういった国際交流基金のお仕事以外の画廊のお仕事というのもおうかがいしたいのですけれども。

中島:基金の定期的な仕事と並行して、直ぐに文献目録、年譜、年表、年史といった仕事が入ってきました。一つの仕事が終ると、誰かがそれを見ているかのように、次の仕事が入ってしまう、というありがたい状況が続きました。1986年からですから、ちょうどバブル経済の絶頂期に重なったせいもあると思います。
画廊の仕事としては、例えば、独立した1986年には青木画廊史である『一角獣の変身』や南天子画廊が刊行した『清宮質文作品集』の年譜・文献目録を手がけています。その後、画廊史は、南天子画廊、日本画廊、彌生画廊のものを編纂、同時に画廊がかかえている画家や彫刻家の画集や個展カタログの資料編を作成する、といった具合に私の仕事の柱の一つとなって行きました。
独立する以前から手がけ、継続して受注していたのが、出版社の仕事です。特に最初は講談社の画集の年譜・文献目録作成が、1年に何本もありました。

足立:なるほど。そういう講談社の画集とかにたくさん関わっていらっしゃるのですか?

中島:それは、評価を受けることになる小さなできごとがあったからです。講談社の画集のために上村松篁さんという京都の日本画家の年譜・文献目録をやりました。そしたら京都で上村松篁展があって、個展のカタログが画集と同時期に刊行されたのです。年譜がたまたま競作になってしまったのです。すぐ分かるわけですね、どっちが良くできているか。そこで講談社の美術部長が、今までは何となく評価してくださったのですが、証明されて、そこから仕事がさらに派生していくわけです。地元京都にいれば詳しい年譜が出来るのではなくて、東京にいてもやりようによっては質の高い年譜が出来る、年譜作成の方法論と、いいものを作りたいという熱情みたいなものが、同時に必要なんですね。そこが評価された。

足立:そうでしょうね。その年譜というものをちゃんと読んでくれる方が多くいたということもありますよね。きっと。

中島:それもまた、歴然としていたから、印象深かったのかも知れませんね。
この時代は、まだ画集、作品集がメディアとして生き生きとしていた時代、展覧会カタログよりも画集の方で本格的な仕事が展開されていた時代ですから。メディアの変遷というのもあったわけです。

足立:そうなのですか。

中島:美術出版社のものは、独立する前年になりますが、『志水楠男と南画廊』の展覧会記録を調査したのが最初でした。担当された上甲ミドリさんに仕事振りを認めてくださって、それから山下菊二さんはじめ、いろいろな作家の仕事をしました。

足立:画廊のパンフレットみたいなものは除くってことですよね。

中島:そうですね。細かいものもやりますけど、パンフレットでは年譜や年表が載るスペースがないので。独立してから始まったのが、新聞社から仕事で、展覧会絡みで、年譜や年表、文献目録という仕事が出てくるわけですね。

足立:美術館に所属していなくても、新聞社からそういう依頼が来るわけですね。

中島:そうですね。例えば、海外の作家の文献目録ですが、美術館から直接依頼されるものも含めてですが、ピカソ、クリスト、アンディ・ウォーホル、ジョアン・ミロ、ギュスターヴ・クールベ、フランク・ステラ、ジョセフ・コーネル、フランチェスコ・クレメンテ、ラウル・デュフィ、ジェニー・ホルツァー、ルネ・マグリット、エンツォ・クッキなどなどを作成しています。脈絡が無く手当たり次第、という印象をもたれてしまいますが。

足立:それにしても、資料編という、画集でも、展覧会カタログでも、資料部分の原稿料というのは、今、私が引き受ける分が少ないだけかもしれないですけれども、その当時というのは結構高かったのですか?

中島:いえ、そんなことは全くありません。数をこなしたということです。また、ワープロがなければ出来なかった仕事ですね。効率良く仕上げねばならないわけですから。まあデータだけの原稿を書くのは、そういう意味で得意ですから。子供の頃からやってきた仕事でもあるので。

足立:89年の『昭和の美術』について、詳しくお聞かせいただけますか?

中島:そもそもは毎日新聞社の至宝委員会というところに呼ばれ、御物についての調査を依頼され、あくまで外部の資料だけで、御物について書かれた文献、展覧会出品歴を調べ上げたのですが、丁度その時、昭和天皇が崩御されたので、その仕事は中断してしまったのですね。その際に担当部長から全集物を出版したいが何か企画はないかということで、提案した企画が『昭和の美術』6冊の編纂がスタートしたのです。さすが新聞社ですね、本格的な昭和回顧の企画としてはかなり早かったと思います。だから作品選定、執筆者のリストづくりを、全部やって。

足立:そこから関わっていたのですか。

中島:ええ。論文執筆の先生方のアドバイスを受けながら、全部作品を選びました。

足立:じゃあ、実質監修ということじゃないですか。

中島:いろいろ資料づくりから始めて。発行所が毎日新聞なので美術記者の田中幸人さんに全巻に原稿を書いてもらって。

足立:いつかお話しを伺った時に『昭和の美術』についておっしゃっていたので。私も古本屋で買いました。

中島:そうですか、嬉しいですね。ただ速報版ですからね。やはりミスが目につくのですけどね。

足立:そういう本をプロデュースといいますか、そういうものをする時もやっぱり書誌なり、年表を重視するということですよね。中島さんのご専門が。

中島:そうですね。自分が加わる時には、そういう資料編をプラスしてもらいますし、注文主もそれを期待されての依頼でしょうから。資料編を充実するだけでなく、書物全体の内容に踏み込んだ企画も出す場合も多いです。例えば、美術家団体史の刊行の際にもこういう風にしたらどうですかという提案をするわけです。ここは司書ですので、司書一押しの図書ではないですが、買いたい本は、という視点で提案します。

足立:なるほど。

鏑木:企画をされていたのですね。書誌を単にご依頼されてつくるわけではなくて、本の内容そのものからたずさわっていらして、なおかつ書誌もやられるというやり方を常にされていたのですね。

中島:そうですね。

鏑木:それも、今まで中島さんのお仕事の中では、あまり知られてないところじゃないでしょうか。

中島:文献目録など資料編が必要でない企画であれば、無理にね、入れることはないわけで。資料編を尊重してくださる書物であれば、手にしたいような書物をめざします。

鏑木:『昭和の美術』の年表はすごいですよね。

中島:あれは本当にたいへんでした、2か月に1冊、出版したのでね。

鏑木:そんなスパン、短く出してらしたのですか。

中島:ええ。それを2か月で10年の年表を。

鏑木:1か月置きに。

中島:どんどん。

鏑木:そうですか。ああいうふうに常に時代の流れと美術の流れを、並行して分かるような年表を中島さんは作られるのが、やっぱり私の仕事としても、単なる年表というよりは、ああいう年表も中島さんの中ですごく大きなお仕事なのかなという。

中島:そうですね。どうせ作るならば、「あればいい」というものを常に目指して。いつも自分が「これがあればいい」と思って作っているわけですが、肝心の自分は使えないというジレンマはありますが。先日、アート・スタディーズの年表を、美術と建築とのつながりで、作りましたけど、それを見た方が「建築と美術とがどのように結びつくか疑問をもっていたが、この年表を見て理解できた」と言ってくれたことがあって嬉しかったですね。年表の力が実証されたようで、あまり褒められたことがないので。

足立:一番説得力がありますよね。きっと。捉え方によるかもしれませんけれど、事実が、これとこれとこれと。こう年代順に並んでいると見せれば、論より証拠じゃないですけれど。

中島:やっぱり大事なのは、構想力と想像力だと思いますね。

足立:なるほど。

中島:そういう訓練は、なかなかむつかしいんだけれど、常に本を読んだり、絵画を見たり、そして作られるであろう作品集や展覧会カタログそのものを予感しながら、総合的に判断して、シンプルで美しいものをつくろう、ということで年表の形を考えるのですが。それはあくまで、利用者という使う人の立場に立ってね。

足立:その構想力と想像力がキーワードだと思うのですけれど、普通の図書館だけで考えていると、絶対こんな構想とか想像とか、そういうものと遠いような気がするのですけれど。中島さんは図書館、図書室を出ても、そういったむしろ構想力と想像力でいろいろな本をつくったり、プロデュースが出来るのだと思うのですけれど……。

中島:図書館というものは、そういうものでしょ。

足立:まぁ本来的には。

中島:ええ。そういう機能が一番最たるものなのです。やっぱり、ライブラリーというものは。英知が集まってきているわけでね。ただ集まっているだけではなくて、それがどう今の時代に発信できるか、というところだと思うし、その手がかりは、工夫して何か刊行物という形でね、表現できるわけですから。そういうことのやっぱり認識がないと、ただサービスして、利用者との、というのではなくて、触媒みたいなね。

足立:それはライブラリーの根源的な機能ではないかと思うのですけれど、そういうことはずっと働き始めた時から考えていらっしゃったのですか?

中島:そうですね。それは、多くの先人たちからもらった教養というか、時代の流れというものがあったけれども、図書館をどう市民の生活の中に根付かせて行くかという課題を持っていたわけで。一番基本的には中井正一が国立国会図書館設立の際に掲げた〈真理がわれらを自由にするという確信に立って〉という理念があるわけです。だから、司書の資格をもって好きな分野の美術館に来て、美術書を並べてアート・ライブラリーをということを自分としてはイメージしていたわけでなくて。それなりにやはり、図書館の機能を活かしたサービスを具現化したい、展開したいということです、大袈裟に言えばですが。今日初めてこんな話をしますけれども、自分の思いはそういうことでした。

足立:なるほど。

鏑木:うーん。なかなか今の司書にはそこまで、多分そこまで考えている司書がどのくらい―今の司書というのは私たちくらいの年齢の、年代の働いている司書ということですけれど、なかなかそこまで考えている司書はいないような気がしますね。

中島:まあ、時代というものが大きいかも知れないし。今の若い方にそれを求めていいのかは疑問ですが。

鏑木:そうですよね。

中島:理念とかを言うその前に、やはりね、戦争直後の1950年代の食糧事情の厳しさ。本当に明日食べられるかという、そういうのを知っていますからね。その中で、この前も言ったかもしれないけれど、練馬の公民館、住まいの2駅先なのですよ。江古田というとことからね。そこで無料映画が上映され、宮沢賢治の「風の叉三郎」という映画を今思い出しましたが、通うわけですよ。ただ、いつも、往復の電車賃が、20円くらい、パンに化けてしまうわけですよね。それで、てくてく線路際を歩いて行く。もちろん美術全集があるわけで、カウンターに中年の司書の人がいて、怪訝そうな風でした、小さな子どもそんなの見に来るわけですから。貧しくてお腹を減らしているんだけど、図書室は、そういう映画とか美術全集に触れられる楽しさ、感動を与えてくれる場でした。その図書館で仕事が出来る、携わることのできる喜びというか、今もなお実感としてありますね。

鏑木:そうですか。

足立:大体2時間くらいになるのですけれど、いいですか。続けて。

中島:はい。どうぞ。

足立:技術的なことで、データベースというものがあるじゃないですか。カード形式のものなり、表形式のものなり、いろいろソフトがありますけれど。ああいうものって中島さんは、お使いになっているのですか?

中島:そういうソフトは全く使っておりません。

足立:そうですか。

中島:基本的にはワードのみで、原稿を書くというのが中心になりますので。それを何かのソフトを利用してどうこうというのはありません。今作っている『日本の美術展覧会開催実績1945-2005』(国立新美術館、2010年。インタビュー時は未刊。国立新美術館HPにてデータベース「日本の美術展覧会記録1945-2005」が公開されている)というのは、これだけはエクセルを使っていて、データベースですが、それも単なるデータベースではなくて、例えば、展名のところには、正式名称にない、その館がその展覧会で公に使った副題とか、チラシのキャッチフレーズとかも入れていているのですね(検索の多様化がねらいなのですが)、普通、このようなデータベースですと正式名称を使いますけれども。

足立:なるほど。確かにそういうキャッチフレーズがあると、どんな展覧会か……。

中島:その展覧会へ行ける手がかりとして、また内容を知るためのものとして。特にチラシを重視しているのは、そういうことなのですね。

足立:なるほど。

中島:このデータベースには主催者も入れているのです、全部に。それはメディアとのつながりを重視してのことで、あとカタログの刊行データを入れたりしていてね。

足立:じゃあ意外と早いうちからワープロは使いだしたけれど、使い方としては本当にシンプルで。

中島:そうですね。

足立:データベースとしてそれをパソコンに入れちゃって、それを使いまわすということじゃなくて、年表なり年譜なりを使う度に原典から当たり直すということをやってらっしゃっる。

中島:それはやはり基本ですから。本当は、原稿書くのに追われているということのみで。将来に渡って何かやるべきデータの蓄積ということまでは、暇がないということだけの話なのですが。当面ぶつかっているものに、きちんと対処することで精一杯だったのです。だから、どうせデータベースを編むなら、徹底してやらないといけないということで、このこの『開催実績』にはたくさんの工夫を盛り込んでいます。入力あたっては、展覧カタログはもちろん、チラシやポスター(の図版)、新聞記事、年報、すべての展覧会に関するモノの総動員です。実際に目撃した展覧会はかなりありますが、2万、3万件の展覧会ではほんのわずかに過ぎませんので。

鏑木:そうですか。

中島:新聞切り抜きは活用できますね、すぐにね。東京都現代美術館の方もやっているんじゃないですか。

鏑木:いえいえ。買っています(業者に委託している)から。

中島:そうですか。

X 1990年代:ノウハウの伝承のために

   略歴5
   1990年 『昭和・物故の美術家たち』刊行
   1991年 多摩美術大学芸術学科非常勤講師(−1999年)
   1995年 水戸芸術館「絵画考−器と物差し」展のテキスト(年表)に参加

足立:多摩美の非常勤講師をしていらした頃についてお聞かせください。

中島:10年弱やりました。1991年から1999年まで。全体の印象としては、最初の頃は、熱意を持った学生が多かった。それが次第に、徐々にですが、希薄になってくるのが感じられました。勉強すれば、一所懸命に努力すれば、学芸員になれる時代と、就職氷河期の違いなのかも知れませんね、どこの大学もそうでしょうけども。最後になるとやはり、飲み物を教室に持ち込み始める、なかなか講義に集中しないという風潮が広がってきたと思います。

鏑木:多摩美では、年表や文献目録の編纂について、割と具体的な技術的なことを、講義されるということでしたか。

中島:そうです。皆さんが聞いたら、本当に欲しいノウハウのかたまりだと思います。

鏑木:そうですか。

中島:年譜にはどういう内容が必要だとか、文献リストはどういう作成するとか。毎回プリントを配って、展覧会カタログや美術雑誌を紹介しながら、具体的に学芸員として資料編作成のノウハウを講義しました。

足立:習いたかったですね。

鏑木:ですよね。そういった機会は、多摩美で授業をもたれた以外で、あと今国立新美術館のインターンの方にも指導されてらっしゃると思うのですけれど。

中島:2006年に客員研究員になり、開館をはさんだ1年くらい、研究補佐員の方々に指導をしました。開館記念展や開館当初の展覧会カタログを見てくださるといいのですが。

鏑木:そうなのですか。では基本的にはこの多摩美での授業以外で、教えていらっしゃらないのですね。

中島:そうですね。全く。
多摩美では、10年の間に、「1953年ライトアップ展」という展覧会にかかわりました。目黒区立美術館で開催された。多摩美の峯村敏明さん以下、秋山邦晴さん、建畠晢さん、海老塚耕一さんら教授、助教授の方々が中心になって行なった共同研究がありました。

足立:あの年表も結構特徴がある年表だと思うのですけれども。あれは学生さんを指導して中島さんがつくったものですか。

中島:そうです。そうです。講師・助手・院生のメンバーで分担して編みました。

足立:なるほど。

中島:その研究会に秋山邦晴さんがいらした、あの実験工房のです。それで研究会には毎回出させてもらい、スタッフの方々と一緒に造形美術だけではない年表を作ったのでした。文献をただ集めるだけで終わらせない、年表という形に表現する共同作業は、美術大学における美術史研究の一つの可能性としてあると思うのですけれどね。

足立:そうですね。

足立:1995年の水戸芸術館、『絵画考』については。

中島:これは学芸員の森司さんから話しがありまして、展覧会カタログのテキストの一つとして年表を入れたい、ということで作成しました。いつもは展覧会カタログの巻末で腕を振るっていますが、展覧会カタログの中心で参加するのは初めて、唯一で、本当に名誉なことですし、ありがたかったですね。

足立:僕も中島さんの年表のためだけに買いました。

中島:ありがとうございます。英文がついていますしね。

足立:あの年表はたぶん後々も。

鏑木:そうでしょうね。なんか雰囲気が分かるような、といいますか。生まれていない時代なので、特に私たちなんかは。時代の雰囲気がなんか丸ごと分かるような、テキスト〔言説〕もついている年表というような形ですよね。ちょっと変わっているというか、なかなかない形ですよね。

中島:書きおろしです。時間はあまり無かったですが。

足立:そうですね。その企画段階から深く関わっていたということですか、それは?

中島:森司さんの企画です。こういうことをやるから、これに年表を書いて下さいって。

鏑木:最初からああいうふうな形でと決まっていたのですか?

中島:1968年からというのは森司さんのアイデア、形と内容はこちらから。こういう形でどうですかね、といって。

鏑木:やはりそこなんだ。企画っていうのが、中島さんという感じなのですね。

中島:あくまでもテキストという形でね。

Y 2000年代:仕事の転換、司書をめぐって

   略歴6
   2002年 「日本の美術展覧会開催実績報告書」の編纂(-2007年)
   2003年 『美術新報 DVD版』人名・事項索引作成
   2006年 国立新美術館・客員研究員(後に参与)〔*2011年3月退任〕
   2007年 『美術家書誌の書誌』刊行

鏑木:2000年代は『日本の美術展覧会開催実績報告書 1945-2000』(国際文化交流推進協会、2003年)、『同 2001-03』(国立新美術館、2004年)、『同 2004-05』(同、2008年)にしてもそうですし、、『美術家書誌の書誌』(勉誠出版、2007年)にしてもそうですし、わりと個々の団体史や画廊史や、作家の年譜のようなお仕事よりも、もっと包括的なものをつくる方向にお仕事がちょっとシフトしているように思うのですけれども。それは何か理由というか、ありますか?

中島:さすが、なかなか鋭いご指摘ですね。美術ドキュメンタリストの草創期の歴史というものがあるとすれば、一転換がなされたということです。私がそれを積極的に選択したというよりは、たまたまというか、個別的なものをだんだん少なくなる前に、大がかりな仕事にかかわったということです。鏑木さんが指摘されたように、個々の編纂物の作成から、本格的なデータベース構築(『美術家書誌の書誌』はデータベースではありませんが)へという業態に変わっていた、というのが実感です。個々の編纂物の作成だけにこだわっていたら、美術ドキュメンタリストの仕事としてはたぶん息絶え絶えになっていたと思います。
ただ、データベースの構築は身体的にはかなり厳しいものですが。

足立:はい。

足立:一番最近のお仕事のひとつだと思うのですけれど、集大成でもありますけど、『美術家書誌の書誌』については。

中島:そうですね。美術のレファレンスに便利なように、公立の図書館向けに、司書のために作ったつもりなのです、が、公立図書館はあまり買ってくれませんね。大学図書館ではもう100冊を超えて買ってくださっているのですけれど。東京都なんか、57ある区立・市立図書館で、まだ2冊(インタビュー時。現在は10冊)ですからね。現場の司書がいかに基本書誌に対して勉強していないかということが本当によく分かりますね。

足立:そうですね。

中島:まぁ、公立図書館そのものの運営自体がね、揺らいでるわけだから。

鏑木:逆風になっていたりすると、難しいのかもしれませんね。そういうことというのは。

中島:どこの公立図書館に行っても、古い美術全集がね、結構ありますでしょ。そういう参考文献を使ってレファレンスなんてね、やはり展覧会カタログのいい文献目録があるわけですから、『美術家書誌の書誌』を買ってレファレンスし、美術館ライブラリーに行ってもらう方が、どんなにいいかと、という思いがあって、『美術家書誌の書誌』を作ったわけですが。

足立:さっきもおっしゃったように、一から全部打ち直したわけですか、あれも。

中島:その多くは、特注のカードに記入してあったので、WORDで入力しました。30年かけての集大成ですから。
この『美術家書誌の書誌』は個の仕事ですが、チームでやれば、もっといろいろな書誌が作れると思うのですけれども。だから課題がないのではなくて、原動力となるような資金的な裏付け、時間やスタッフの問題とかがあると思うのです。
美術家書誌の書誌』の問題点は、どの書誌も書誌というだけで採録していることです。この点は、水谷長志さん(東京国立近代美術館)から指摘されましたが、これは素晴らしいという書誌と前に作られた書誌を単に再録したに過ぎない書誌があるわけで、その質や成り立ちは私がたぶん一番精通しているので選別して採録すべきではないかという考えです。最初は選んで編んでいたのですが、そうすると数がめっきり減ってしまうのですね、そうなると公立図書館では使える書誌がほとんど無くなってしまう、それではまずいと思い、とにかく全部洗いだして書きあげれば、公立図書館に所蔵している画集のこの書誌は、ある作家の書誌全体のどの位置にあることが分かるわけですので、今の内容にしたのです。
裏を返せば、美術研究の世界、美術館界っていうのは、他の学問分野と違って、「参考にします」で全て使っているのですよ。これは他の学問じゃ信じられないです。何十ページにも及ぶ詳細な年譜でも、「参考にしました」と備考に書いて承諾を得ずに使っているでしょ。ほとんどそのままね。

鏑木:使っていますね。

中島:これはあってはならないことなのです。

足立:肝に銘じます。

中島:いえいえ。5年、10年かけて作った年譜でも、どんなに充実した年譜・文献目録でも簡単に使われてしまいますからね。

足立:そうですね。

中島:これでは、この仕事は民間では成り立たないのです。美術館学芸員であれば、給料もらっているから、別にね、それを使われたからといって、損害を受けるわけではないし、むしろ、お互いに利用し合ってというところが美術館の中であるわけです、それを厳しく言い出したら美術作品は借りられなくなりますからね。相手の美術館からね。

足立:書誌、書誌といいますか、年表なり、書誌なり、そういったものを批評的に見る、そういったことが今まで日本になかったということを、中島さんがお書きになっておられましたけど。どういった形ならそういう書誌なり、年表・年譜の批評というのができるのでしょうかね。

中島:うん、むつかしいですね。まだまだ詳しそうな年譜や文献目録があればいい、という時代ですから。作家も、美術商(画廊主)も、新聞社の企画スタップも、メディアの編集者も、さらに美術館学芸員や美術ドキュメンタリストをめざす人たちすら、良質の年譜というものがどういうものかの理解がないのですね。
年譜は、対象となった作家をどう理解するか、どう理解できているかということに尽きるのです。そうだとすれば、作家理解は個々によって異なるわけですから、おのずと異なった年譜が作成されるはずで、まったく同じということはあり得ないのです。学芸員なりの年譜が、美術ドキュメンタリストなりの年譜があっていいし、あるべきなのです。
ただ、美術館で作る文献目録はまた別です。こちらは、ある美術館に5人の学芸員がいて5通りの文献目録が作られているのが現状ですが、これはまずいことで、データの共有化・様式の共通化の観点から1つに統一されたスタイルで(1回ごとに修正を加えながら)編んで行く必要があります。
それから、年譜という器に対する理解も無いですね。極端な例ですが、個展の会期・公募展の会期が全部入っている年譜を良く見かけるのですよ。展覧会カタログの総ページのうち、年譜に充てるページが相当数あるならば、「年譜+展覧会出品記録」を作成することは可能なのですが、それにもかかわらず、年譜に全てを盛り込んでしまうわけです。年譜は読み物という側面を持っていて、優れた年譜というのは、その画家の画業の本流が容易に読み取れるもの、なのです。
美術館の展覧会カタログでページ数に余裕のある年譜を見ていると、うらやましいことしきりです。私の場合は、いつも3ページとか5ページとか、限られた原稿枚数でいつも仕事をしているので。

足立:いつか、書誌なり年表なりの批評というのは、どうありうるか、というのをお聞きした時に、中島さんがそれはもう、自分の作るもので答えていくしかない、とおっしゃったと思うのですけれど。その中島さんが逆に、他の人が作ったもので、これはすごいな、と思ったようなものって近年のものではありますか?

中島:玉蟲敏子さんや今橋映子さんが作られた書誌、参考にした書誌なのに参考にすべき書誌、そのテーマとその周辺全体を見渡せるような書誌にまで高めている、本格的な研究者の書誌はすごいですね。私など時間を十分にもらって挑んでもとうてい不可能でしょうね。大学の学問の伝統という問題にもからんでくるのかも知れませんが、研究の基礎がそうとうしっかりしている、それが普通な学問の世界で研究し、著述という表現活動をされている、ということではないかと思います。

足立:そうですね。

中島:日本の美術館では、執筆の基礎もできていない若手の学芸員が年譜や文献目録の担当になるケースが多い。年譜や文献目録は、読む人・使う人のことを常に意識して作成するものなのに、調べたものを全部詰め込む、それも人と違うものを作ろうとするので独りよがりのくどい編纂物になる傾向が多いわけです。サラリと見せるということもね、ひとつ表現として求められてもいいのではないでしょうか。

鏑木:そうですね。今は『開催実績』のお仕事に携わっているのですか。

中島:ええ、もうこれに殆ど時間を。

鏑木:一本ですか。

中島:ええ、もうひとつ大きな仕事があって、こうして糊口をしのいでおります。まだそれは公にはないのですけれどね。

鏑木:そうですか。

中島:今は大体その二本を中心に仕事をしています。体が追いつかないということもあって。

鏑木:私の個人的な関心事というふうになってしまいますけれど、今、本当に都美館方式(注:かつての東京都美術館では、企画展に関する調査・研究が学芸員と司書の協働で行われていた)を、また全く同じ形ではないにせよ、何らかの形で、やっぱりこういった形の関わり方を司書が美術館の図書室として、美術館と共にやっていこうということを、何らかの形でしていくべきだと個人的には思っているのですけれども。なかなかそういったことにならない。難しいなと思うのです。

中島:その理由の一つは、学芸員がこの分野(文献目録や年譜などの編纂)で仕事をしたいとか、何か展望を見出しているのです。棲み分けするのではなく。

鏑木:なるほど。じゃあそこに司書がなかなか入り込む余地がない。だって尚更美術館の図書室にいる司書としての役割のようなものが、少し曖昧という言い方もおかしいのですけれども、学芸員が司書を使ってくれるようにしてくれればいいのに。

中島:そうですね。ただ司書の側も問題ないわけではない、司書というのは、先ほど言いましたけれども、図書を整理・分類してなんぼというイメージがあるわけで、それを壊さない限りはね。整理もできるだけ簡略化して、とにかく学芸員と一緒に協力できる時間を自らが作らなきゃいけないわけで。しかも現在は、いろいろな情報機器がそれを応援してくれているわけですね。あんまり詳しく分類しなくても、キーワードだけをきちっとつければ、検索は出来るわけですよね。以前以上に環境は整っているのに、そういう風に行かないというのは、司書の側にも問題はあるんじゃないかなと思いますね。

鏑木:そうですね。

中島:根本的な問題は、最近の司書は、正規の職員が少ないということでしょうね。もうそこが大きな壁になっているわけで、正規の職員であれば、休日も給料のうちで、夕方も。だから少し無理をしても、帰りに画廊に寄っても、それは自分の仕事に活かせることができる。でも、半月勤務だと、もう勤務時間以外のことは自己研修になってしまうのですね。

鏑木:そうなんですよね。

中島:それは大きい問題と思うのです。これが将来、以前のように変わるかというとやはりむつかしい。

鏑木:それは本当にそうだと思います。

中島:だからやはり残り半月を外で仕事をされるしかない……。執筆活動をね。よき依頼主、よき編集者と出会うということが必要になってくる。

鏑木:なるほど。中島さんもそうやってこられたわけですものね。

中島:そうですね。それがあったから、本当にできたのだと思うのですね。周囲に支援、つまり発注してくれるという、そういう具体的な支援があってこそ、年譜・年表や文献目録はもちろんのこと、画廊史とか美術科団体史とかも全力をあげてやれたしね。いつも、注文してくださる人が希望している、予想している以上のものを提供することだと思いますね。一緒にやって良かったという気持ちを持ってもらわねば、次はないですよ。

足立:そうですね。

鏑木:肝に銘じなければ(一同:笑)。中島さんのおっしゃる言葉ですから尚更ですね。中島さんはそうやって今まで仕事を積み重ねてこられた方ですからね。

中島:周りを見渡して、仕事を発注してくれそうな人と協力してね。それから何ができるのかというのがないとね、いくら自分で思っていてもね、相手はやっぱり認めてくれない。こういうものを作っているんだということを、実証されないとね。小さくても足がかりとして、何かこうね、作られるといい。好きな作家がいたら、飛び込みでね、作るべきなのですよ。

足立:あーなるほど。

鏑木:そうですね。

中島:ある出版社に新卒で入社して直ぐに、戦後美術史に残るある作家の画集をどうしても作りたいという企画を出した女性がいましてね、私を含めて長く美術界に関係している者は端から無理なのではないかと思うような大家なのですが、それではやってみろということで作家のところへ行き企画を話したら、作家は大変喜ばれて、そうなら作品集をだしましょうと快諾されたそうです。

鏑木:ええ出版されましたね。

中島:そういう経緯があったのです。

鏑木:そうなんですか。

中島:ベテランの編集者が考えて立案したのではなく……。

鏑木:そういうこともあるんですね。

中島:美術ドキュメンタリストというと、机上でできる、何かきれいな仕事のように思われがちですが、決してそうではなく、実際は、格闘技の連続のようなものですね。毎日毎日、執筆の合間に少しずつテーマに関する文献資料を集めては封筒に入れ、死亡記事や受賞記事を整理するなど、ピアニストがピアノのレッスンをするように、基礎資料の集積作業を繰り返すのです。でも、この仕事が好きだから、長続きできるのかも知れませんね。
もし美術ドキュメンタリストに限らないですが、ある仕事をめざしたいなら、毎日のレッスンを飽きずにできるかが前提になります。そうであれば、いつでも取り組んでいるテーマについて語れるし、作成物をいつでも見せられるでしょうし、直面する問題解決のための質問も具体的に持つことになるでしょうから。
このことを踏まえ、美術ドキュメンタリストをめざすなら、まず現実の問題として、経済的な確立・自立があります。経済的な余裕があればいいのですが、稼ぎながら目標にむかって進むなら、まず美術館ライブラリーで半月働きながら、残りの半月を、美術ドキュメンタリストをめざすために費やすのが、最善の選択肢の一つではないでしょうか。
ただ、美術ドキュメンタリストは、研究職ではなく、原則としては著述業ですので、例えば画家の略歴一つとってみても、その原稿を買ってもらうという商売です。お客様、仕事の依頼主がいて成り立っている世界です。従って、1時間でどれだけ執筆できるかが問題になってくるのです。1人の作家の略歴に1日、いや2時間を費やすようでは、商売は成り立たないのです。1人2000円として、2時間かかるとすると時給1000円になります、これでは諸経費を考えると成り立たない、1時間で仕上げることができれば、ようやく最低限の計算はできることになります。しかも、どの分野でも、どの時代の作家でも略歴が書けることが、職業としての美術ドキュメンタリストのスタートラインになるのです。
できれば美術館ライブラリーに勤務する、ということは、資料のあるところにいるわけですから、文献資料やレファレンスに精通するまで自分を高めて行くことができる。美術館ライブラリーに一見、制約されていると思われる時間が生きてくる。経済的にも少しは安定する。そして、残りの半月に少しずつ仕事ができれば、半分だから成り立つという意味がとても重みを増してくる。最初から美術ドキュメンタリストです、と名乗っても、依頼主に認められて、仕事がこなければ意味が無い訳で、少しずつ仕事を覚えて行く。ですから、現状に不満を持つだけで終わらせるのではなくて、現状を逆転させる、「半分でよかった」という風にね。
最初はちょっと厳しいかも知れないけれど――。何人もの略歴を書き溜めておかなければならないし、小さな文献目録もジャンルや時代をかえて作成しなければならないわけですから。でもこれらは全部、後では役に立つことはまちがいありません。私の場合でも、いつ形になるか分からないカードを何万枚も書き、新聞記事を毎日切り取ったりしていました。仕事が来たから目録を作り始めましょう、ということはあり得ないのです。
先ほどは年譜作りの急所を言いましたので、文献目録についての急所、してはいけないことについて、ごく簡単に触れておきましょう。この長いインタビューを読まれた方、これから美術ドキュメンタリストをめざす人が、具体的な何か収穫があるといいと思いますので。
先ずタイトル、「主要参考文献」はおかしい表現です。参考にした文献のリストは別ですが、参考にすべき文献目録はそもそも主要な文献リストで、主要な主要文献、ということになるからです。主要と記したい気持ちはわかるんですが。この他にも文献はあるという逃げを打ちたい気持ちはね。でも完璧な目録はありえない、徐々に充実させて行くのが編纂の仕事ですから。
次に小見出しから。「自筆文献」は誤記。単に「著述」とすべき。「単行本」は目録では「単行書」に。自筆という語句もそうですが、日常会話上の言葉を目録に定着する場合、曖昧さを排除する必要があるからです。逐次刊行物と記すのは定期刊行物と不定期刊行物があるからです。「展覧会図録」は「展覧会カタログ」に統一を。個々の「淡交会展覧会図録」はそのままでいいですが、群としての、小見出しとしての展覧会カタログと言うことで統一されるべきでしょう。
目録の記載で、美術書や雑誌を一つ一つ『  』で囲んである目録が最近目立ちますが、文献目録はそもそも文献(美術書や雑誌)の集積ですから『  』は無用、担任の教授から教わった文献には『  』を必ず付けなさい、というのは文章や註の中においてであって、美術というタイトルの雑誌が雑誌であることを明確にするために『  』を使うのであって、文献の集まりという自明の場合は必要ない、むしろ蛇足です。自明のことがらはできるだけ少なくするのが文献目録作成のミソです。美術雑誌に『美術手帖』(美術出版社)という記載がある文献目録を見かけますが、これも丁寧さを勘違いしているようです。そのような文献目録に限って、美術雑誌の号数と発行年月日が曖昧だったり、ノンブルや面数の記載がなかったりします。第○巻第○号(2009年3月号)という記載が、閲覧の際にどんなに有効か、資料請求する人も書庫からその雑誌を出納する人も身にしみて分かっているはずです。
まだまだ急所はありますが、既存の文献目録を見ながら、作成のルールに従って作成してみてください。その場合、文献目録の形には個性を出すことは控えてほしい、文献の内容を読み込んで、大事なものから記載する、ここに個の読解力を発揮してもらいたいものです。では、この辺で、終りにしたいと思います。

足立:ありがとうございます。

鏑木:思いのほかいろいろとお話をおうかがいすることができて、とても充実したインタビューをさせていただきました。

足立:今日は本当にありがとうございました。

鏑木:ありがとうございました。