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ロジャー・シモムラ オーラル・ヒストリー 2018年5月10日

カンザス州ローレンス、シモムラ自宅スタジオにて
インタヴュアー:池上裕子、金子牧
書き起こし:金子牧、チェイニー・ジュエル
公開日: 2022年1月5日
 

(初めの10分間、シモムラ氏の演劇作品《セブン・カブキ・プレイズ》(Seven Kabuki Plays)(1985–87年)の抜粋を視聴)

池上:今、1985年に演出なさった《セブン・カブキ・プレイズ》の抜粋を拝見しました。今日は、(この作品を制作するきっかけとなった)お祖母さまのトクさんに関する思い出からお話しいただきたいと思っています。彼女はどんな方でしたか。彼女のバックグラウンドはどのようなものでしょう。

シモムラ:祖母といつも結びついていた言葉があります。それは「チャント」(chanto)です。

池上:「ちゃんとした」ということでしょうか。

シモムラ:ええ。みんないつも彼女のことを本当のチャント・レディ(chanto lady)だと思っていました。でも、祖母が普通の人と違っていたのは、彼女には歴史観があったということだと思います。そしておそらく、私は彼女からそれを受け継いでいます。彼女が日記をつけていたという事実ですが、私は祖母の晩年の14年間、クリスマスになると彼女へ日記帳を贈っていたんです。白紙の日記帳です。それが何年も経って私の元に戻ってくるなんて、ちょっとロマンティックですよね。(幼い頃から)祖母の近くに住んでいて関係が近かったので、(彼女を作品の題材にしたのは)彼女と私の関係とも大いに関わりがあったと思います。ほとんど毎日会っていたし、祖母が私をお産で取り上げたこともあって、私は彼女のお気に入りで、いつも私を特別扱いしてくれていたこととも関係があると思います。でも、彼女がよく私に言っていたことのひとつに――後になって、それは殆ど呪いのようだと気づいたり解釈したりしたわけですが――「あなたが人生で何をするにしても、良いことでも悪いことでも、それは日本民族全体に影響を与えることを忘れないように」という言葉がありました。「なんてことだ」と思いましたね。5歳とか7歳の子供になんてことを言うんだろうって。

池上:大変な重荷ですね。

シモムラ:ええ。でもすぐに、日本のコミュニティはそうやって運営されていたんだと気づきました。その言葉には多くの真実がありました。だから、子供に言うにはひどい言葉だと思って、自分の人生では無視しようと努めていたものの、ある程度は影響を受けていたことを認めざるを得ません。私はいつも何か(自分より)大きなものを代表しているような気がしていましたね。日本人全体ではないかもしれないけど、大学とか他の何かとか。それは彼女が私をお産の時に取り上げてくれたという事実によると思います。彼女は私をこの世界に連れてきてくれて、それが私と彼女の関係の基盤になっていました。彼女はいつも私がすること全てを誇りに思っていました。私は時にそれを申し訳ないようにさえ感じていました。妹の方はそこまで関心を持たれていなかったからです。それは日本人の男性にまつわること(男性中心的な価値観)だったのかもしれません。それが何であれね。

池上:お祖母さまは看護師で、そして(アメリカでは)助産師の仕事をされたのですね。

シモムラ:はい。彼女は日露戦争(1904-05年)に従軍した看護師でした。当時についての話を書き残しています。お読みになったかどうか分かりませんが。イトウ・カズオの『一世』(Issei)という本を知っていますか(注:Issei: A History of Japanese Immigrants in North America, translated by Shinichiro Nakamura and Jean S. Gerard, 1973)。(その本の中で)彼女は赤十字の看護師としての体験について書いていて、日露戦争の有名な海戦の話をしています。日本はその戦争、もしくはその戦いに負けると予想されており、もしそうなれば、自分たちは自死を要求されるだろうと彼女は考えていました。それで彼女たちはそれに備えて自分たちの部屋を片づけ、毒薬が渡されるのを待っていました。そして、一晩中部屋に座って待ちながら戦闘の音を聞いていて、ついに…… 彼女たちは船のデッキに駆け付けて海面に浮かんでくる死体を見て、ロシア人と日本人の死体の数を数えたそうです。そして結局、日本はロシア艦隊を打ち負かして、その戦争に勝ったんです。
 その後、彼女は養蚕工場で看護師になって、そこで私の祖父の兄弟と会ったんです。その兄弟は祖母に感銘を受けて、「アメリカに住んでいる兄弟がいるんです。1906年に行ったんですがね」と言ったんですね。サンフランシスコ地震が同じ年に起きていました。彼はアメリカで暮らす自分の兄弟が写真結婚を検討しているから、興味があるかどうか彼女に聞いたそうです。彼女はイエスと答えたようですね。というのは、家族が集まってその考えが認められ、それで双方が同意したからです。そして1912年、祖母は夫に会うための航海の準備をしました。出航の日、彼女は友人たちと交換したプレゼントのリストを書いたと話していました。彼らは祖母に会いに来て幸運を祈り、ささやかな贈り物をしてくれたんですね。そのリストが日記の始まりになったということです。彼女が乗った船には60人の写真花嫁がいて、出航しました。祖母はすぐにその経験がどういったもので、どんな感じだったのかを書き始めたんですね。アメリカに着くまでの間、毎日かなりの量を書いていた。着いた時には女性たちが皆、夫になる人に写真を見せようと船の前の方へ駆け寄って行った様子も綴られていて。もちろん、夫になる人と面識があった人は誰ひとりとしていなかったわけです。それから2週間ほどは何も書かれていません。シアトルがどんなに素晴らしい場所か、そしてどんなに素晴らしい冒険だったかなどは書いてあります。でも、祖父については一言も書かれていないんです(笑)。ずっと後になってから知ったんですが、正直に言うとがっかりしたということだったらしい。でも、祖父はいい人だったから、彼をけなすようなことは書きたくなかった。そして、人生を通して祖父がどれだけ良い夫だったか、そして彼女にとっていかに完璧な人だったかを知ったんですね。それは素晴らしい結婚生活だったと。だからその時点から、1968年に亡くなるまでの57年間、彼女は日記を書き続けたわけです。

池上:彼女が日本で既に本当のキャリアウーマンだったことが印象的です。彼女は働く女性の第一世代のひとりだった。

金子:それでは日露戦争の間、彼女は前線にいたんですね。

シモムラ:はい。その海戦は日露戦争の中で最大のものだったと思います。決定的な戦いでした。海の名前を思い出せませんが、タシマとかなんとか(注:1905年5月27日–28日の日本海海戦。日本以外の国では対馬沖海戦と呼ばれる)。彼女は勲章を持っていました。我々が使う写真の中で、彼女はそれを身につけていると思います。

金子:今お話してくださったのは、(壁にかかっている作品を指して)あちらの一番新しい連作のインスピレーションになったのでしょうか。

シモムラ:ええ、〈アメリカの助産婦の日記〉(Diary of an American Midwife)(2017年)ですね。

池上:それで1968年に彼女は亡くなられた。あなたがアーティストになろうとして大学院にいらっしゃった頃ですね。でも当時は、彼女の日記を自分の作品の一部として、インスピレーションとして使うことになるとは思いもしなかった。

シモムラ:ええ。

池上:でも常に、この日記が歴史的な重要性を持っているとは思っていた。そのことは意識していましたか。

シモムラ:はい。それをカンザスに持って帰ったときですね。少し話を戻すと、日記は彼女が持っていた本箱に入っていました。父はいつも「これを一緒にカンザスに持っていったらどうだ」と言っていました。スペースを空けたかったったんですね(笑)。父は、家族の中では私が一番、その日記を何かに活用するとか、翻訳するとかしそうだと分かっていたのだと思います。それで私は日記をカンザスへ持ち帰り、翻訳代をまかなえる限り、できるだけ多くを翻訳してもらうことに決めました。その時点で私は、この日記には可能性があることに気づいていて、ほとんど心を決めていたと思います。例えはっきりと適切なもの(活用の手段)がなくても、誰かと協働することもできたので。

池上:1978年にはすでに〈ミニドカ〉(Minidoka)シリーズ(1978-79年)を始めていて、日記を翻訳してもらうようになったのはその後ですね。

シモムラ:ええ。実際のところ、翻訳されていたのは〈ミニドカ〉シリーズの制作中だったと思います。最初の日記の絵は1980年だったと思うので。

池上:そうですね。そうして〈日記〉(Diary)シリーズ(1980-83年)のあとの1984年に最初の演劇作品、《トクの踊り》(Toku’s Dance)(1984年)をやったんですね。

シモムラ:ええ、《セブン・カブキ・プレイズ》の前にやったものですね。

池上:《トクの踊り》が《セブン・カブキ・プレイズ》の一部なのか。別ものだったのか分からないのですが。

シモムラ:別ものです。

池上:では、《セブン・カブキ・プレイズ》の前だったということですね。だったら、これが最初にやった舞台作品ということになるんでしょうか。

シモムラ:ええ。《トクの踊り》が最初でした。ここローレンスのギャラリーで上演されましたね。

池上:どれぐらいの長さだったんでしょう。覚えてらっしゃいますか。

シモムラ:作品の長さですか? 覚えて…… いや、ここでは(何かの書類を調べながら)、書いてありませんが、すごく短かったんですよね。でも5分ぐらいだったと思います。

池上:なるほど。ということは、ギャラリーのオープニング・イベントの一部として行われたんでしょうか。

シモムラ:いえ、特別なイベントとしてやりました。もっと大きなパフォーマンスを考えていたんですが、舞台作品について何も知らなかったんですよね。どうやってそれを作り上げるのか、全く何も知らなかった。それで、あらゆることを網羅しなければならないようなイベントをしようと。招待状、照明、招待客リストとかそういうのを含めてね。そうすれば、舞台作品を作るときにやらなければならないことに詳しくなると思って。パフォーマンスの部分は実際にはかなり小規模で、最低限だったんですが、視覚的には確かに私が絵画でやっていたことに関連していました。でもそれまで私は音や音楽を扱ったことはなかったんです。なので、それらを舞台の小品に初めて取り入れる機会になりました。

池上:なるほど。このキャラクターが踊っているだけだったのですね。

シモムラ:そうですね。

池上:音に合わせてとかではなくて。

シモムラ:いえ、合わせて踊っていた音はあったんですが、でもそれが不適切な音でして。というのも、踊っていたのがディスコファンクだったからなんです。そこが重要な部分だったわけです。この間、毎週水曜日の夜はマーシャ・パルダン(Marsha Paludan)という振付師と仕事をしていたのですが、彼女は6から8人の女性からなるダンス一座を持っていました。彼女はこの地域ではかなり有名でした。一緒に何かやれると思って、水曜の夜に私のスタジオに来て、いろんな種類の音楽に合わせて踊ったり動いたりしてくれないかと頼んでみたんです。それで彼女をビデオに撮ると。何が起こるかちょっと遊んでみようとね。是非やりたいと言ってくれたので始めたらとてもうまくいって、「ダンサーを1人連れてきてもいい?」と聞かれたので、私は「いいよ」と答えました。それが2人になり、3人になりました。私は着物をたくさん持っていて、日本のセールで買った着物が50着くらいあったんです。それでごく簡素な小道具を用意して衣装と仮面をつけて、ありとあらゆるR&Bの音楽をかけて、彼女たちはそれに合わせて日本のダンスを踊ろうとしました。もちろん、日本のダンスについて何も知らなかったわけですが、それこそがアイデアだったわけですね。なぜかといえば、これは全部、三世がやることのパラレルとしてやったことだったので。三世には(日本との)繋がりがないわけです、何世代にもわたってその繋がりを放棄しているから。だから(日本の)風習が変異していくとどうなるのか(ということに興味があった)。だからある意味では、私は自分が扱っていたより大きなテーマを見ていたわけです。最近の作品では、世代を経て物事がどのように変異していくかを扱うものが多くなっていますから。三世が握った寿司は日本で握られた寿司とは味が違います。それがアイデアで、それが《セブン・カブキ・プレイズ》の前座公演のようなものだったわけです。

池上:分かりました。そもそも「パフォーマンスをやりたい」、「そこにお祖母ちゃんの話を取り入れたい」というアイデアはどのように思いついたのですか。

シモムラ:どのように思いついたか、ですか?

池上:ええ。

シモムラ:分かりません。元からそこにあったような。分からないです。心理学者に尋ねるべきです(笑)。そこに何かしらあったことはありがたいですね。

金子:シラキュースで映画製作を学んだこととは何か関連があるのでしょうか。

シモムラ:もちろん。あるアイデアが線的に進行し、発展するという形態は、確かに映画を学んだことと結びついています。ええ。いつも(そのような表現への)欲求があったと思います。私がカンザス大学に来て1年生のデザインの授業を教えるように頼まれたとき、それを受け入れたのは、パフォーマンスをやる機会があると分かっていたからでした。少なくとも教授として私は自分のやりたいことを授業で紹介できるし、それを言葉で正当化できるだろうとも思いました。それでパフォーマンスがカンザス大学で学問的に関心を持たれるようになる前から、私は1年生のデザインの授業で生徒たちにパフォーマンスをさせていたんです。だから1980年代には、私は既にパフォーマンスを試していて、私自身の作品のアイデアについてスケッチをしていたような感じです。

池上:その時点で既にお祖母さまの話と日記をご自身の絵画に取り入れていましたね。お祖母さまの話で、パフォーマンスと演劇だけが表現できるものが何かあったのでしょうか。絵画にはできない何かです。

シモムラ:うーん、お祖母ちゃんが残した情報の全てでしょうね。彼女が残した音声テープから始まって…… もちろん、彼女が何を話しているかはよく分からなかったんですが、聖書を朗読していたであろうことは確かですね。

池上:そのテープはなぜ録音されたのでしょう。

シモムラ:よく分かりません、テープレコーダーが新しい発明だったという以外は。売り出されたばかりでした。私のお祖母ちゃんは大したものだと思います。テープレコーダーを買って、それで何かしようとした一世が他にいたでしょうか。彼女は教会の聖歌隊で歌っていたので、毎週リハーサルを録音していました。そしてそれを、聖歌隊の全体だけでなくその中での自分自身の役割を評価するために使っていました。長いお祈りをしていて、彼女の低い声だけが聞こえるんです。マイクを手に持って頭を下げて、ひたすら祈り続けているのが想像できました。
 でもひょっとすると、私にとって最も価値のあったことは、おじいちゃんとお祖母ちゃんが自分たちはもう長くは生きられないと悟ったとき、彼らがそれぞれ日本にいる親戚に向けて、自分たちがアメリカで成し遂げたこと全てを振り返った手紙を綴ったことだったかもしれません。アメリカで経験したことを書いて、自分たちの人生がどれほど良いものだったか、この国に来るという決意をしてどれだけ嬉しく思っているかなどについて話していました。その長い手紙をお祖母ちゃんとおじいちゃんの両方が書いて、送る前に、彼らはそれをテープレコーダーに吹き込んだんです。

池上:それは素晴らしいですね。

シモムラ:ええ。それから手紙が郵送されてきて、私が、というか父がテープを持っていたわけです。祖母が亡くなった後、祖父は彼女のことが恋しくて、祖母のテープを何度も何度も聞いていました。祖父は私の両親と暮らしていたんですが、ある夜、かなり遅くに、階下から祖母の声が聞こえたんですね。祖父がテープを聞いていたんです。父が様子を見に降りて行くと、祖父は怒りと悔しさとつらさで、テープレコーダーからテープを取り出して、引き裂いてしまっていたんですね。それはもうぐちゃぐちゃで、全部引き裂かれていました。父はそのテープを全て掴んで、祖父から奪い取ったと言っていました。それから数ヶ月かけて、テープを聞いたり補修したりしながら、最後には全部元通りにしたんです。

池上:お父様がなさったんですね。

シモムラ:そうです。私はそのテープとテープレコーダーを引き継いで持っていました。彼女が詩を読んで録音したテープも全てあって、それは別の箱に入っていました。サイン入りの本もあって、その中には彼女の旅行の記録が全部入っていましてね。(当時は旅行中に)よく人にサインを頼んでいたんですね。サインしてくれる人なら誰でもいいんです。他の人が描いた絵も入っていて、それも持っていました。でももちろん、全部ニホンゴ(nihongo)で書かれていたので、私には分かりませんでした。でもカンザス大学にヤマモト・キミコという日本語を教えている女性がいて、彼女と夫のアキラと私は良い友人でした。それで彼女たちは、パフォーマンス作品の重要な一員になったんですね。キミコが通訳をしてくれたんです。そしてキミコは祖母のような声をしていたんですよ! マイクで話すのが本当に上手でした。緊張しないんですね。それで、祖母の持ち物を全部読んでもらったんです。それが何なのか突き止めるために読まなければならなかったわけですが、詩がたくさんあって、収容所で書かれた詩が見つかったんです。私はもちろん、それに一番興味を持ちました。
 それから民謡のような歌の歌詞がありました。キミコが作業しているのを見るのは本当に面白くて、彼女が翻訳した詩を読むとこんな感じでした……(シモムラが歌う)「慈しみ深き神よ」と言っていました。それから彼女は詩を選ぶと、それは完璧でした。その歌の歌詞が書かれていたんです。民謡なんですが、歌詞は収容所のクラブで一世が書いたものでした。週に1回集まって俳句を作る俳句クラブがあったんです。それで突然、お祖母ちゃんはそのクラブに入っていて、収容所についての俳句や詩を書いていたことが分かったんです。それで、質問の答えが長くなってしまいましたが、こういった情報は絵には描けませんよね。画題には不向きですが、パフォーマンスには完璧だったんです。(すでに絵画の連作はやっていたので)その時点で、こういうテープや本を使って作品を作る理由がもっとあったんです。キミコとアキラのおかげで、いろいろなものを組み込むことができました。ところで、それらは今、全てスミソニアンにあります。(注:2016年に、シモムラは彼の祖母の日記を含め、彼の家族と収容所に関連するコレクションをスミソニアン協会の国立アメリカ歴史博物館に寄贈した。)

池上:そうですか。博物館に寄贈したあなたのご家族の歴史に纏わるコレクションの一部としてですね。

シモムラ:ええ。そうです。

池上:それではその友人たち、キミコさんとアキラさんがそのテープを聞いてくれて、何が録音されているか分かったんですね。

シモムラ:はい。

池上:お祖母さまの日記はあまり感情的とか表現豊かではなかったと仰いましたが、歌詞や詩の中では違っていたのでしょうか。

シモムラ:ああ、かなり違いましたね。日記は単なる日常の出来事の備忘録ですが、詩は人々に読まれ聞かれるものだということを、彼女は分かっていたんだと思います。日記にも、結構のめりこんで物事について書いていた時期はありました。自分がどう感じていたのか、誰かが日記を読んで分かってくれることを望んでいたのだと思います。でも俳句や詩を書いているときには公の側面があって、彼女はそれを意識していたと思います。

池上:特にインスピレーションを受けた俳句や詩はありますか。

シモムラ:ええ、あるパフォーマンスをしたことがあって…… (ファイルを探す)…… 《シベリア横断の抜粋》(Trans-Siberian Excerpts)(1987年)だったと思うんですが、どの俳句かは(ファイルには)書いてないですね。いま思い出せませんが、いくつか祖母がつくった俳句を使いました。パフォーマンスで使うためにテープに関わり始めたわけで、他の作品でも俳句を使うことがありました。何の説明もなく(俳句が)登場するんですが、確実に使われていましたね。

池上:《トクの踊り》や《セブン・カブキ・プレイズ》では演者は能の面(おもて)をつけていますよね。その理由を教えていただけますか。

シモムラ:能の面をつけてもらいたかったということ以外に、特に象徴的なことはないんですよ。それで日本人が混乱しても、別にいいんです。かえっていいくらいです。私に興味があったのは、これらのイメージの有用性を拡張したいということで、それは能面だけでなく、彼らが着ていた着物など他のものについても言えることです。私が気にしていたのは、彼らが日本人に見えるかということだけでした。日本人が見ると、「この状況では誰もそんなもの着ませんよ」などと言うでしょう。それこそが、文化がどのように物事を翻訳し、ある世代から次の世代へと受け継がれていくのかを再検討するために私が狙っていたことなんです。(文化の変容について理解させるために)物事を歪曲して見せて、「それは歪んでいる」と言わせてしまうという。その人が何も言わないうちにね。

池上:今おっしゃったことは、1987年のパフォーマンス作品、《ファンキー踊り》(Funky Odori)(1987年)と関係がありそうですね。それについて少し教えていただけますか。

シモムラ:《ファンキー踊り》はイースタン・イリノイ大学(Eastern Illinois University)で公演しました。子供たちがバスの中でよくするゲームについて聞いたことがあったんです。お話を作って自分の前に座っている人にそれを伝えます。聞いた人は隣の人にそれを伝えて、その人はまたその隣に伝えます。するとその話はバス中をぐるっと周って戻ってくる。もちろん、最初の話を考えた人がいちばん楽しめます。戻ってきた話は全く元の話とは違っているからです。あちこちで起きた翻訳に持ちこたえたいくつかの単語を除いては。その様子は、寿司でもダンスでも、伝統が世代から世代へと受け継がれていく過程に起きることとよく似ていると考えました。一世、二世、三世、四世と周って戻ってくる頃には、寿司にはもはや米すら入っていないかもしれない(笑)。それで私はそれを表現すること、そのアイデアをダンスを通して扱うことに決めました。
 私には3人のパフォーマーがいて、ある時、大学で大きな野外のフェスティバルがありました。地元のハクジン作曲家に書いてもらった曲がありました。私は「何か日本的なことをやって欲しい」と言って、彼にいくつかの盆踊りの音楽を聞かせたんです。彼はリズムの構造やその曲でどれくらい踊れるかということについて、いくつかのアイデアを得たんですね。それで曲を書いてくれて、私がその曲をかけました。そうしたらみんな、数百人の学生たちがこんな風にうなずいてリズムを取りながら聞いていました。それから3人のダンサーたちがやって来てダンスを踊り始めました。盆踊りの踊り方を知らないダンサーです。実際、私が振付師に踊り方を教えた方法は…… 自分のビデオカメラのリハーサルとして、シアトルにシーフェア(注:Seafair、シアトルの海祭り)の週間に行って、日系人が踊りを練習しているのを録画したんです。そしてそれを持って帰ってきて、振付師のマーシャに見せ、彼女が特定の動きを拾ってそれを2人のダンサーに教えたんです。それで「継承と変化」が起きるでしょう? それでダンサーたちがその動きをまねて、かなり面白いものになりました。全く日本的には見えなかった(笑)。でも彼らはイースタン・イリノイ大学の学生にそのダンスを教えるつもりで、それが私たちのやったことです。音楽が始まって彼らが学生の間を行進し始めると、学生たちも立ち上がって彼らの真似をして踊り始めました。私はただ笑いながらそこに立っていました(笑)。学生たちはみんなこの妙なダンスを踊っている。それがその場で、私の目の前で起きているわけです。音楽は微妙に日本っぽく聞こえました――本当に微妙に。だから伝言がバスの中を一周して私に戻ってきたという、そういう作品です。

池上:それは面白いですね。1988年には《カリフォルニア・スシ》(California Sushi)(1988年)をやっていらっしゃいます。この時期はとても活動的で、舞台作品にのめり込んでいたようですね。一度始めると飽きないというか、そういうことだったんでしょうか。

シモムラ:そうですね、何がきっかけでこんなに活動的になったのか、すごく制作欲があったという事実以外にはわかりません。でも、人目に触れない限り何の意味もない。これは私が生徒たちにいつも言っていたことなんですが、「絵を描いたとしても、他の人に見てもらわなければ、共有しなければ、描いたことにならない」と。ですので、私は自分自身のアドバイスに従って、突然パフォーマンスに専念するようになったわけです。でも予想通り、パフォーマンスをする場合でも、(それを理解する)背景を補うために、美術館は絵画も見たがるんです。(絵画が)文字通りの背景というわけではないですが。なので、絵の展示もしていました。履歴書を見れば分かると思うのですが、パフォーマンスをしていた時期も、ずっと展覧会をやっていたんです。

池上:なるほど。絵も描いていたということですね。

シモムラ:絵も描いていました。それが出来たのは独身だったからですね…… 結婚していなかったから、ということにしておきましょう(笑)。だから持てる時間の全てを制作に捧げることができたし、好きでやっていた。だからやりやすかったし、自然にできたんです。当時を振り返ってみると、自分でも時々驚くくらいに、絵画制作でも活動的だったんです。

池上:今でもとても活動的で生産的ですよね。共有しなければならない、見てもらわなければならないという信念をお持ちですが、パフォーマンスの公演にはどのような観客が来ていたのでしょうか。

シモムラ:そうですね、パフォーマンスは絵画と同じように作ったと思います。特にパフォーマンスには――他に良い言葉がありませんが――エンターテイメントの要素がありました。エンターテインメント的要素と美学的要素です。まず、何が起こっているのか理解しようとしなくても誰もが理解できるようなものがあります。その後にはより複雑な層が複数あるわけです。私自身が理解できない層も含めてね。その複雑な層は私と、私に付いてきてくれる観客のためにあるわけです。なので当然、それらを二次元的に、三次元的に、四次元的に表現することができるというのは、ワクワクすることだったんです。他に何と言えばいいのか……。ただ当然のようにワクワクしました。毎日ワクワクしながら起きて、自分の制作に関連するものを目にする。外に出て、物を集めたり、買ったりして、関連するものをなんとか全て(自分のアートに)取り入れようとしていました。昔、1930年代に作られたアンティークのおもちゃのコレクションを多く持っていて、それを描き始めたんですが、うまくいかなかったんです。いくつかはうまくいきましたが、ほとんどの場合、美術外の個人的な興味を美術の世界に持ち込もうとした試みでした(だからうまくいかなかった)。

池上:《セブン・カブキ・プレイズ》は段階的に発展したと仰いましたね。最初は一幕で、そのあと三幕になって(最終的には七幕になった)。全部でどれくらいの長さになりましたか。

シモムラ:1時間20分だったと思います。1回休憩もあったかと。

池上:分かりました。完全なものを初めて上演したのはいつですか。

シモムラ:ウィンフィールド(Winfield)かウィンフィールド・カンザス(Winfield Kansas)と呼ばれる、カンザスの小さな大学でした。都市の名前です。大学の名前は思い出せませんがサウスウェスタン大学(Southwestern College)だったと思います。

池上:そこでパフォーマンスをするように招かれたということですか。

シモムラ:はい。

池上:カンザスだったので、観客のほとんどは白人だったのではないでしょうか。

シモムラ:ええ。

池上:作品にはどのような反応を示しましたか。

シモムラ:課題は、彼らを居眠りさせないようにすることでした(笑)。

池上:彼らはほとんど大学の学生だったのでしょうか。それとも地域の人々だったのでしょうか。

シモムラ:ほとんどが年配のハクジンだったと思います。半分は寝ていました。私はバックステージにいてカーテンから見ていて、何人いるか見えましたからね。居眠りしているのに気づきました。恐らくミュージカルでは「バンバン、バンバン」とやって起こすと思うんですが、彼らは動きもしなかった(笑)。いつもそんな感じだったという訳ではないですよ。皮肉で言っているだけです。最も重要なパフォーマンス《三世物語》(Sansei Story)(年代不明)の最終幕、というか最終形態だったと思います。それを私たちはハスケル・インディアン・ネイションズ大学(Haskell Indian Nations University)でやったんですが、そこでは600人が来てくれました。でも実のところを言うと、理解してくれた人がいたかどうかは分かりません。ほんの数人でしょう。私の友人は理解してくれたはずです、この作品はどういうことに基づいているか話したので。でも……

池上:その歴史に共感や関心を持っていない人たちには、繋がりを感じるのは難しかったのでしょうか。

シモムラ:そうですね、その出来事の深さや微妙なところまでを理解するのはね。それから、これは《三世物語》の最後のバージョンだったのですが、黒衣(くろご)が客席に走ってきて、客席の1人と一緒に何かをするといったちょっとしたミニパフォーマンスを多くしていました(注:黒衣とは、歌舞伎や文楽など日本の伝統的な演劇において舞台上で後見をする人物、またその人物が着用する黒い装束のこと。観客からは見えないという約束事になっている)。劇場にいる他の誰も何が起こっているのかわからないのです。黒衣が来るのを見て、この人は何をしているのかと思う人もいるでしょう。祖父母がいかに宗教的だったかという話も、そのパフォーマンスの一環でやりました。入場した黒衣が1人に聖体を授けて舞台に上がり、こう言うわけです、「飲みなさい。これはキリストがあなたのために与えた血です」と。それでその人はぶどうジュースを少し飲み、一片の聖餐パンを食べるわけです、キリストの身体ですね。もちろん、その言及は舞台上で行われていた聖体拝領だけではなく、私が子どもの頃、礼拝の侍者だったという事実と関係がありました。私は牧師と一緒に聖餐式を執り行っていたんです。ぶどうジュースののったトレイを持って、前もってキリストの身体として切り分けておいた聖餐パンを皿に入れて信者に配るなどしていたんです。だから、個人的にはその記憶がよみがえってくるわけですが、もちろん観客の600人は私がこういう経験をしたことを知らないわけですよね。
 だからパフォーマンスのこういうジェスチャーが非常に個人的で、私的なものになってしまうことがしばしばありましたが、それを理解する人がいるかどうかは本当にどうでもよかった。でもある程度の演劇的な価値は証明しなければならないと思っていました。それで…… 二世は自分の子供たちに、とてもクレイジーなあだ名をつけるというので有名な時期がありました。毒(poison)とか、まぬけ(goofballs)とかね。お産の1年後に助産師に1歳になった赤ちゃんの写真をあげる週間があって、祖母は助産師だったので、そういう写真の山を持っていました。何千人もの赤ちゃんを取り上げたのでね。私はその写真を手に入れてコピーして、カードにして「まぬけ・ヤマモト(goofballs Yamamoto)とかそういうタイトルをつけました。そしてパフォーマンスの舞台で祖母が私を取り上げてくれた話をしているとき、黒衣を観客の中に走り込ませてそういうカードの写真を配り、二世がどんな風に育ったのか見せたりしました。

金子:カンザスよりも人種が混ざっている地域でパフォーマンスをしたとき、観客からの反応はかなり違いましたか。

シモムラ:うーん…… 何とも言えないですね。反応は違ったとは言えます。そうでなかったと証明するのは難しいでしょうから。でも動員数の点から見れば、我々はジョンソン郡(Johnson County)のオーバーランドパーク(Overland Park)で公演をしたのですが、非常に素晴らしい劇場があって、チケットは完売でした。座席数は450くらいしかなかったですがね。そこでは反応がとてもよかった。観客の様子も人々の反応も何もかも、これ以上ないくらい嬉しいものでした。だから恐らくウィンフィールド・カンザスとは対照的に、かなり洗練された観客だったでしょう。カンザスの観客は全然洗練されておらず、それとの違いを感じました。だからこれがあなたの質問への答えになるかもしれません。

池上:日系アメリカ人のコミュニティにあなたのパフォーマンスを何か見せたことがありますか。観客のほとんどが日系アメリカ人という状況で。

シモムラ:ほとんどですか。ないですね。

池上:ではいつも白人が大多数か、少し人種が混ざっていたという感じでしょうか。

シモムラ:ええ。少し人種が混ざっていたかな。20%混ざっていれば多い方だったでしょう。

池上:なるほど。しかし日系アメリカ人の観客は、また違った反応をするのではないかと思うのですが……

シモムラ:前回のパフォーマンスはワシントンのベルビューという、シアトルの郊外で行われました。橋を渡ったらすぐなので、ほとんどシアトルのようなところです。たぶん200席か、最大でも250席かそこらの小さな劇場で二晩やりました。どちらの夜も完売だったので、ビデオカメラで中継をしてくれましてね。ロビーまでケーブルを伸ばして、劇場に入れなかった人が観られるようにしたんです。それでさらに50席くらい追加されたでしょうから、二晩とも300人くらい入ったかもしれません。その時の観客は、日系アメリカ人の割合が今まででおそらく最も高かったでしょう。作品は《記憶喪失》(Amnesia)(2002年)というもので、恐らく私が一番満足している作品です。もしまだパフォーマンスをやっていたとしたら、当時と同じように、出演者に謝礼を払う形でやると思います。お金は別に問題ではなかったんです。(《記憶喪失》には)『蝶々夫人』(Madame Butterfly)のアリアがあるので、優れた歌手を雇う必要がありました。そこでカレン・パルダン(Karen Paludan)という女性に頼んだのです。彼女は私の振付師の娘でした。子供の頃、私の公演に多く出演してくれて、いつも注目をさらっていましたね。とても上手でした。
 だから私はカレンと一緒に仕事したいと思いましたが、彼女がどこにいるか分からなかった。関わりを失ってしまったんです。それで何本か電話をかけて、彼女がワシントンDCにいることを突き止めました。彼女がここローレンスで私のためにパフォーマンスをしてくれたとき、私は彼女に100ドル渡していました。彼女は信じられないと思ったでしょう。幼い子供には大金ですからね。でも私はいつも私のために仕事してくれる人々には少額でも支払いをしていました、その補助となる助成金の支援を受けられましたから。それで私はマーシャにカレンがどこにいるか尋ねて、彼女はカレンのワシントンの電話番号を教えてくれました。私はカレンに電話をして、「カレン、君をパフォーマンスで使いたいんだ」と言いました。彼女が大人になってオペラを歌っているのを知っていたからです。そして「蝶々夫人のアリアを知っているかい」と聞きました。彼女は「ええ、もちろんよ」と答え、「ぜひやりたいわ」と。「実際のステージでは一度も演じたことがないの。私は背が高すぎるから」ということでした。彼女は5フィート10インチ(約175cm)で、蝶々夫人は5フィート(約150cm)とか、4フィート11インチ(約148cm)くらいしかなかったんです。それで彼女は「ぜひやりたい」と言ってくれ、私は「ああ。もちろん謝礼はするよ」と言いました。彼女は「ええ、私は組合に入っているからそうしなきゃならないわ」と言ってきました。組合という言葉を聞いたので、「なるほど」と。「いくらだい」と尋ねて、「子供の頃に100ドル払ったけど、今は一体いくらになるんだろう」と思いました。「うーん、最低でも5000ドルね」「5000ドル?」「それと経費ね」。彼女は「ワシントンDCからシアトルまで列車で行かなきゃならないの。私は飛行機に乗らないから」と。列車だと5日間かかり、15回食事があるんですよ。片道でね(笑)。だから往復で2倍です。それで私は「分かった。料金はまけてくれないか」と言いました。それで彼女はまけてくれて、半分くらいにしてくれました。
 それはさておき、私の仕事の仕方は、絵画の売り上げを公演費に充てる余裕ができた時期から変わってきたと言えます。それから琴を演奏する人が必要になりまして。琴で西洋の音楽を演奏する琴奏者が必要だったんですが、なんとか見つけることができました。それで、彼女は喜んでカウボーイハットとカウボーイの服を着て、収容所への言及である《フェンスの中に入れないで》(Don't Fence Me In)という曲を琴で演奏してくれました。それからもう1人は、彼女は日系アメリカ人の一世で、キラ・ケイコ(Keiko Kira)という人でした。私のドローイングの生徒で、私の全てのパフォーマンスで重要な役割を担うようになりましたが、カンザスシティに住んでおり、快く引き受けてくれました。《記憶喪失》では、この3人が主要な役だったわけです。上演にはかなりのお金がかかりました。でもちゃんとお金を払えば、それに応えてくれて、プロとしてきちんと仕事をしてくれるということがわかったんです。なので《記憶喪失》については、他の舞台作品よりもずっとスムーズでした。長い回答になりましたが、その点で以前の作品よりはるかに成功して、ゆえに観客にも理解されたのだと思います。

金子:なぜこのパフォーマンスのタイトルに《記憶喪失》を選んだのでしょう。

シモムラ:このパフォーマンスは実のところ、三世を非難するものだからです。三世が、収容所やそれが日系人の生活にもたらした影響について、そして前の世代が払った犠牲について忘れており、感謝もしていないことについてね。

金子:では日系アメリカ人の若い世代や、あるいは若い人々にメッセージを送られているのですね。

シモムラ:ええ。

金子:《記憶喪失》のような新しいテーマに焦点を当てた作品を作るきっかけになった出来事が、何かあったのですか。

シモムラ:いえ、パフォーマンスや絵画で、私が以前よりも直接的で、はっきりとした方向に向かっていたことにつながっていたのだと思います。だから《記憶喪失》が今のような質問を呼び起こすとすれば、それは作品が直接的だからだと思います。ですが、全てのパフォーマンスは、絵画同様に、時とともに進展していたんです。(ファイルを見ながら)これに気づきましたが、《手紙》(La Carta)(2001年)という作品で、フラメンコダンサーを使っています。そして祖母が親戚へ宛てて書いた手紙の中にあった収容所についての言及を取り入れたんです。キミコにその手紙を複製してもらい、彼女が日本語でその手紙を書いているのをビデオに撮りました。そして(ビデオの中で)祖母が彼女のアメリカでの生活について話している間に、舞台上では黒衣が監視塔を押して、お祖母ちゃんは手紙で収容所について書いているのだということを思い出させるためのものとして、その手紙を観客に配りました。そのパフォーマンスでは、素晴らしいフラメンコダンサーを使いました。彼女はずっと踊っていました。その様子は、ステージの上で様々な文化が衝突しているという、非常にポストモダン的な言及でした。

池上:これら全ての舞台作品で、ご自身は演者としてステージに立ったことが一度もないのですね。いつも監督をされていた。

シモムラ:ええ。ステージに立つことには興味がありませんでした(笑)。最後にステージに出て行ってキャスト全員でお辞儀をするのさえ嫌いでした。ああ、本当に嫌だった。パフォーマンスよりもそのことを心配していたかもしれません(笑)。

金子:おもしろいですね。絵画や版画の中にはよく登場しているのに、ステージは嫌だったんですか。

シモムラ:ええ、その通りです。

池上:絵画のシリーズに戻ると、〈モンタージュ〉(Montage)シリーズを1985年から始めておられますね。私たちはそのうちの一つの《ナンシーとの夕食の会話》(Dinner Conversation with Nancy)(1983年)を一昨日スペンサー美術館で観ました。このシリーズでは《ミニドカ》や《日記》のシリーズから調子が変化しているように見えます。そのことについてお話しいただけますか。

シモムラ:そうですね。様式的な観点からすれば、物語的なものからちょっと派手なものへと絵画を変化させるのに興味があったんだと思います。加えて、私は色々とものをためこんでいまして。前の家はサイズが(ここの)半分だったんですが、ニューヨークのロフトみたいな感じでした。建ててもらったんですが、だだっ広いオープンスペースで半分はスタジオだったんです。そこでためこんだ色んなものに影響されていたんだと思います。あれもこれも集めて、それを作品に使いたいと思ったんですね。なので、このシリーズがこういう外見になったのはそれが理由だと思います。そうやって、隣り合わせに描くことで互いに関連させ合ったり、鑑賞者にも同じように遊んでもらうことができました。

池上:舞台作品でお忙しかった一方で、絵画作品の制作とギャラリーでの展示もまた常にされていたとおっしゃいましたね。ギャラリーとの関係についてもお話いただきたいと思っているのですが、メインのギャラリーはどこで、ディーラーとの関係はどのようになっているのでしょうか。

シモムラ:ディーラーですか。

池上:はい、ギャラリーのオーナーですね。

シモムラ:私は、作家が自分のディーラーに敬意を払っているとか信用しているとかいう話を聞くたびに、「嘘つけ」って思うんですよね。それはあり得ないと思っているので。元ディーラーたちとは本当にたくさん悪い出来事があったんですよ。それだけで1冊本が書けるくらいです(笑)。未払いでギャラリーを閉店に追い込んだこともあります。ああもう、私の頭はディーラーとの間に起こったことについての話でいっぱいです。そのうちの1人がシアトルのポリー・フリードランダー(Polly Friedlander)というディーラーで、シアトルで一番ホットなギャラリーを持っていました。彼女とは何度か展示をやって、大きい展示もやりました。大きなギャラリーで売り上げもいつも良かったんです。でもお金は殆ど払ってもらえませんでした。私に払わないといけない分を、全部払ってもらったことはありませんでしたね。ある時シアトル・オペラハウス(Seattle Opera House)の仕事を得まして、そのギャラリーのアーティストでビッグスターであるオールデン・メイソン(Alden Mason)――彼はシアトルでもっとも有名な画家の1人でした――が私を呼んで言ったんです、「ロジャー、オペラハウスの仕事を取ったんだってね!」と。「そうなんだよ」と言いました。私たちは2人ともポリー・フリードランダー・ギャラリーに所属していました。そして彼は「それはすごい、おめでとう」と言ってくれたんです。私は、私がワシントン大学で彼の学生だったから祝ってくれているのだと思いました。でも彼は「つまり、私は支払いしてもらえるってことだな」と。「なんだって?」ですよ。彼は、ディーラーのポリー・フリードランダーは、ギャラリーが稼ぐ次のお金はオールデンに行くと言った。なぜなら彼女は彼に多額の借りがあるからだ、と言いました。つまり彼がオペラハウスからの謝礼を全額得るということだったんです。だから私はそこでの制作からは一銭も得ていません。こういう調子だったんです。そして最後にはそれがひどくなって、彼女は私に多額の借りを作りました。ある日私はギャラリーに行って「あなたが売ってしまう前に私の絵を全部運び出したいんです。返してください」と告げました。すると彼女は「ああ、言いたくなかったんだけど」と。「なんですか?」と聞くと、彼女は「絵は全て盗まれたの」と言ったんです。

池上:なんですって!?

シモムラ:ええ。私も「なんだって!?」と言いました。彼女は「ええ、全部なくなったのよ」と。ただただショックでした。「保険には入っているんですか」「いいえ」。彼女は「私に任せて」と言って、私に少しの希望を与えようとしていましたが、私はギャラリーを離れました。そして3ヶ月か4ヶ月後、展覧会のオープニングに行ったら、ある男が私に近づいてきて「わたしは今あなたの絵をたくさん持っていますよ」と言ったんです。「新しいボイラーをフリードランダー・ギャラリーにつけたんだけど、彼女は支払いができなかったから代わりにあなたの版画を全部くれたんです」と。

池上:では、本当は盗まれていなかったんですね。ただ彼女が他所にあげてしまった。

シモムラ:彼女があげたんです。私の版画で支払いをしたんです。まだまだそんな話がありますよ。

池上:わかりました。メインの代理人として考えているギャラリーは特にないということですか。

シモムラ:うーん、シアトルのグレッグ・クセラ(Greg Kucera)でしょうね。彼が画廊をオープンして以来、今まで28年間仕事をしているので。

池上:なるほど。そこはそんなに悪いギャラリーではないといいんですが(笑)。

シモムラ:ひどくはないですね、怪しいとは思いますが(笑)。ギャラリーのやり口はよく心得ているんですよ。どうやって騙されるのか、手口を突き止めるのも、それを証明できないこともよく分かっています。

池上:しかしある程度は、作品展示のために彼らと仕事をする必要がありますよね。

シモムラ:ええ、ギャラリーをつける必要はあります。そうしないと展示ができないし、コレクションに入ることもない。

池上:必要悪のような。

シモムラ:そうです。クセラとの関係で問題なのは、彼は私の代理人をしているのはワシントン州だけだということなんです。なので、私がアイダホやオレゴンで作品を売っても彼には関係がない。でも、もし彼が一切を取り仕切るなら、ギャラリストとしての手数料が取れるんですけどね。50%です。全国的にも標準的な値です。

池上:次の質問は、1989年のニューヨークでの初個展についてです。ずっとニューヨークで展示をやりたいと思っていらっしゃったんでしょうか。

シモムラ:おそらく私のキャリアにおいてそれが一番大きなターニングポイントでしたね。ニューヨークで代理人についてくれるギャラリーを得るのは、最も難しいことのひとつなので。ギャラリーはたくさんありますが、何とも閉鎖的なシステムです。誰かを知っていないといけない。バーニス・スタインバウム(Bernice Steinbaum)は、女性と有色人種(のアーティスト)を取り扱っていたことで知られていました。それでも、彼女の画廊にアジア系アメリカ人が所属できる余地は1人か2人分くらいしかなかったんです。殆どのギャラリーは15人から20人(の作家)を扱いますが、彼女のところはすでにいっぱいだったので。しかし、全て変えてしまったのは、私の友人のジョーン・クイック=トゥ=シー・スミス(Jaune Quick-to-See Smith)でした。彼女と私は、中部アメリカ芸術連盟(Mid-America Arts Alliance)の助成金の審査をやっていたんですね。そして私の元学生で、この奨学金の最終選考に残った人がいました、エドガー・ヒープ・オブ・バーズ(Edgar Heap of Birds)です。私は最後まで彼をすごく推していて、ジョーンも助けてくれると思っていたんです。彼女はネイティブ・アメリカンなので。でも助けてくれなかった。そして全ての過程が終わった後、私がとても強く彼を推したので、彼女はとうとう彼に票を入れました。それでエドガーは奨学金を取れたんです。それから、私とジョーンとで夕食に出かけたので聞いてみたんです、「エドガーに何か問題があったのか」と。すると彼女が話してくれたのは、いかにインディアンの世界が真っ二つに割れているかということでした。半分はジュアン・クイック=トゥ=シー側の人たちで、もう半分がエドガー・ヒープ・オブ・バーズ側の人たちということも。両者はこんな感じで(喧嘩していた)。この話には深入りしませんが、そのようにしてジョーンと私は仲良くなって、私が書いた《カイク》(KIKE)(1989年)というパフォーマンスのことがその夕食時の会話で挙がったんです。「カイク」(kike)が何か知ってますか。

池上:ユダヤ人を呼ぶ際の侮蔑的な表現ですよね。

シモムラ:はい。恐らく、ユダヤ人に対して言いうるもっとも節度がなくて人種差別的なことが、彼もしくは彼女を「カイク」と呼ぶことです。でもそれが私のパフォーマンスのタイトルで、ジョーンは「その作品について教えて」と言ってきました。私は、これはまたしても現実に起きたことに着想を得ていると話しました。私がある日バーにいると、元学生の1人が、女性でしたが、私のところにやってきて言いました。「ロジャー、ジャップ(Jap)って何だか知ってる?」。私は「ああ、何がジャップ(Jap)か知っているよ」と言いました(笑)。すると彼女は言ったんです、「違う違う、そうじゃないの。『ユダヤ系アメリカ人のお姫様』(Jewish American Princess)っていう意味なの」と。全国的に、「ユダヤ系アメリカ人のお姫様」と呼ばれる現象が起こっていて、それはユダヤ人女性に関する非常にネガティブなステレオタイプでした。そしてオプラ・ウィンフリー(Oprah Winfrey)がテレビで特集をしていて、それは「ジャップス」(“JAPs”)というものでした。それを見たところ、彼女は一度もジャップ(Jap)という言葉について断りを入れず、本当は日本人を指すんだと言いませんでした。だから私は、その元学生の話に基づいて、これについての作品をやることに決めました。それでこのパフォーマンス作品で「カイク」という言葉を使ったんです。「カイク」はユダヤ人を呼ぶのに最も汚い言葉だったからです。
 それで私はK、I、と文字を取り上げて…… これは説明がとても難しいので、省略しますね。分からなくてもいいです。でも「KIKE」という、これらの文字から始まる単語を、移住に関係する単語を選びました。だから(K、I、K、Eという)列があって、また別の列があります。そしてそれぞれの列で言葉が変わって一番下ではアメリカに言及しているんです。最後の列では「カイク」は「ゴマすりの未熟な着物の女帝」(“Kiss Ass Immature Kimono Empress”)だと言いました。そして私は「これは日系アメリカ人の女の子がお互いを呼ぶ言葉だ」と言いました。そして、「誰かが「カイク」と呼ばれるのを聞いても「ジャップ」と呼ばれるのを聞いても、それは同じことだ。『ユダヤ系アメリカ人のお姫様』で『ゴマすりの未熟な着物の女帝』だ」とも言いました。そしてもちろん、ユダヤ人の人々はこの言葉が嫌いです。彼らはこの言葉に関してはユーモアがないので。私はこの話をジョーンにして、彼女は「私のディーラーにこの話をしなきゃ」と言いました。ジョーンはすでにバーニス・スタインバウムにいたのでね。
 それで数日のうちにバーニスから電話がありました。「ニューヨークのバーニス・スタインバウムです」、そして「私のところの作家の1人が、先日あなたと夕食をご一緒したようで」と言われまして、それから「私がニューヨークの全てのユダヤ人の母だとご存じよね」とも。それで、「あなたがカイクのことを書いた作品について教えて下さい」と言われました。「このジャップ(Jap)」と言われたと思います。それで、今私がしたような説明をしたんです。で、「私のギャラリーでそれをやりたいですか」と聞かれたので「ええ、ぜひ」と答えたんです。でもこう思うわけです。「ニューヨークだって。すごくユダヤ人の多いところだよ」って。「あなたの絵画のスライドを送ってください。それであなたの作品が分かりますから」と言われたので、私はその時やっていた自分の作品のスライドを送って、その返信でこう言われたんです。「あなたの展覧会のオープニングでパフォーマンスをやっていただきたいのですが」と。「ワオ」となりますよね。降れば土砂降りってやつです。
 そしてついにその時が来て、バーニスと事前に会ったんです。私たちは契約に至って、契約書にサインし、ミリアム・シャピロ(Miriam Schapiro)など、その画廊のスター作家たちと会いました。パフォーマンスの時間になると、私はアシスタントを2人連れてきて、《カイク》というパフォーマンスをやるための準備をしたわけです。何人か女性が入って来て絵画を買いましてね、ポスターに載っている大きいやつです。それは素晴らしいことですが、その人に会って私が「パフォーマンスも見ていきますか」と言ったら「ええ、もちろん見ますよ」と。それから準備が終わって、オープニングが始まります。バーニスが「それでは、パフォーマンスを開演します」とアナウンスして、私は《カイク》をやる。終わってみると私の隣に立っていたこの女性、ユダヤ人なんですが、悲鳴をあげて気絶したんです。失神してしまったんですよ! 私のすぐ横で床に倒れてしまって、(ギャラリーの人たちが)来て介抱するために画廊の事務所まで引きずっていきました。それから他のユダヤ人女性が私のところまでやって来て、「あなたは一体何のつもりなの! そんな話をここに持ち込んで……」と言ったんです。絶叫しながらね。もう1人の女性はパフォーマンスにとても心を動かされて、かなり泣いていましたね。彼女は自分の娘にそのジャップ(Jap)という言葉を使っていたから、それで申し訳ない気持ちになったと。もちろん、他の人も同様でした。絵画を買った女性は心変わりして、絵画は欲しくないということになりました。(そんな気持ちは)吹っ飛んでしまったと。彼女はオープニングに来られなかった息子のためにその絵を買おうと思っていたんです。彼はCBSのプロデューサーで、アメリカで初めて収容所についての番組をCBSでやった人です。名前はミッチェル・キャノルド(Mitchell Cannold)。それで彼はサプライズのバースデープレゼントをもらえなかったわけです。私の絵画も持っていましたが…… ともあれ、それが反響だったわけです。でもバーニスの信用のために言っておくと、彼女は「ようこそ当ギャラリーへ」と言ってくれましたけどね。それから15年くらい(彼女と展示をやって)、彼女は閉廊してマイアミに移り住みました。それで終わりです。

池上:パフォーマンスの受容についてお話してくださいましたが、ギャラリーで展示された絵画はどのように受け止められたのでしょうか。展覧会評などは出ましたか。

シモムラ:バーニスは3点か4点の絵を売ったと思います…… でもとにかくパフォーマンスへの反応がとても圧倒的だったので、忘れられませんね。あれ以上にドラマティックな脚本は書けないでしょうね。それも当時ニューヨークの中心だったソーホーで。それが私のキャリアをどのように変えたかという観点からもね。

池上:ニューヨークの外で展示をしたときは、絵はいつもよく売れたのですか。

シモムラ:いいえ。私は美術館、つまりコマーシャルギャラリーではない場所で多く展示をしています。私の作品は商業画廊ではあまり売れないのです。商業画廊は大抵、売れそうだと思う作家を選ぶので、そういうところでは最低限の活動しかしていないのです。でも私はいつも、シアトルでは最もよく作品を売ってきました。ここが故郷ですし、長い間展示をしてきたからです。シアトルでは15回くらい個展をしたと思いますが、その全部がクセラとではなかったと思います。クセラとは5回は個展をしたんじゃないでしょうか。私はいつも何かしら売ってきました。

池上:カンザスのギャラリーではいかがですか。

シモムラ:うーん、私が最近契約したのはシェリー・リーディ(Sherry Leedy)ですね。1年以内にそこで展示をする予定ですが、彼女とはなにも(仕事の)経験をしていないので分かりません。新しい関係です。カンザスシティではたくさんの展示をしてきましたが、ジャン・ウィーナー(Jan Weiner)は最も長い関係です。彼女とは6回展示をしたでしょうか。そして彼女はいつも作品を売ってくれます。

池上:そして彼女との関係は良好なのでしょうか。

シモムラ:ジャン・ウィーナーですか。いいえ、(ディーラーとの関係が)良好だったことは一度もないです(笑)。第一の事実は、ディーラーは誰であれ一番長く借りを作っている人に支払うということです。みんな知っていることです。だから大抵、あなたが作品を売れば、あなたの前に展示をした人が支払いを受けることになるでしょう。あなたは自分の次に展示をする人が何かを売ることを期待するしかありません。そうなればあなたは支払いを受けられるので。

池上:わかりました。90年代のインスタレーション作品の話に移らせてください。《イェロー・ポットラック》(Yellow Potluck)(1994年)がタイムズ・スクエア(Times Square)の近くで展示されています。これは初めてのインスタレーションでしょうか。

シモムラ:うーん…… スペンサー美術館で回顧展をしたときにやったものと日付を比較してみる必要があるんじゃないでしょうか。

池上:そちら(スペンサー美術館での作品)の方が少し後だったと思います。私の記録が正しければそれが1996年です。

シモムラ:それなら、たぶん(《イェロー・ポットラック》が)最初でしょう。

池上:どのように出来上がったんですか。

シモムラ:今もニューヨークで活動している、クリエイティブ・チーム(Creative Team)から電話をもらったんですよ。彼らはオルタナティブな仕事をしていて、民間の資金提供を受けています。電話をしてきて、42丁目で大幅なビジネス転換を行うと言いました。ポルノショップのある地域を一掃して、ウォルト・ディズニーと他の何社かがその地域を引き継ぐことになったので、アーティストにかつてポルノショップだったところのウィンドウでインスタレーションを制作してもらってお祝いしたいと。そのインスタレーションは5か月くらいの間はそこにあるっていうもので。200万人は作品を見に来るとか、費用も全額あちらがもつとか、すごい話でした。30人はアーティストが関わっていたと思います。それで引き受けると、割り当てられた店というのがニューヨークで一番古いポルノショップだったんですが(笑)。現地で残されている物を見つけたいと思っていましたが、全部片づけられてしまっていましてね。それで制作したのが《イェロー・ポットラック》という作品で、異なる人種のカップルがポットラック(注:持ち寄りパーティ)をしているところを窓にディスプレイするというものです。そこにいるのはハクジン女性で、彼女はポットラックに招待されて食料の入った大きいカバンを持っているんですが、中身をぶちまけてしまっていて――それが全部いわゆる多民族・多人種の食べ物なんですね、ニューヨークで作られた日本食とかそういったやつです。そしてホストの男性はサムライの頭をしているんですが、着ているのは洋服なんです。まあ、写真を見ていただくといいんですが……

池上:このファイル、見てもいいでしょうか。他の作家は、通りの別のコーナーでウィンドウ展示をしていたということですかね。

シモムラ:そうです。

池上:とすると、ブロック全体を見ると本当におもしろかったでしょうね。

シモムラ:ええ。いくつかのブロックがあって、大きなオープニングがあったので、私はそこにパフォーマンスの要素を入れたかった。それで中国人ダンサーであるカン・ユーフォン(Kuang-Yu Fong)を連れてきました。彼女はニューヨークに住む、伝統的な中国舞踊の踊り手でした。いとこは有名な映画監督です。それで私は彼女に、ヘビーメタルバンドに合わせて中国のオペラの踊りを踊ってもらいました。

池上:(ファイルを見て)ピンク・フロイド(Pink Floyd)でしょうか。

シモムラ:ピンク・フロイドです。私はピンク・フロイドが大嫌いなんですけどね(笑)。とにかく、私がやろうとしていたことは、そのインスタレーションの中で表象された多民族的な文化全般であるということです。プレス・オープニングでも私はこの踊りをやりました。鍋や釜で鳴らした音が「ポップ、ポップ、ポップ、ポップ」と鳴ってその上にピンク・フロイドの曲が流れて、そして彼女がその音楽に合わせて伝統的な中国の踊りを踊る。

池上:ではそれはパフォーマンスと合わさったようなインスタレーションだったと。

シモムラ:はい。

金子:もう一つお尋ねしてもよろしいでしょうか。本筋からは逸れるのですが、当時「ゴジラ」(“Godzilla”)がニューヨークでかなり活発でしたよね。

シモムラ:誰って?

金子:「ゴジラ」、アジア系アメリカ人のアーティスト・コレクティブです。メンバーの誰かと関わったことはありますか。

シモムラ:ないですね。

金子:全くですか。一緒に仕事したりとか。

シモムラ:ないです。

金子:メンバーの1人が同じイベントに参加していたと思ったんです。だから関わりがあるかと思ったんですが、ないんですね。

池上:《イェロー・ポットラック》について話したので、《立ち退きのランチ》(Relocation Luncheon)(1996年)について質問させてください。これはスペンサー美術館での回顧展のために行ったパフォーマンスですね。

シモムラ:全体的な時系列は覚えていませんが、きっかけは私がミネアポリスで受けた賞でした。その賞の要件のひとつとしてミネアポリスでパフォーマンスかインスタレーションをするというのがあったんです。彼らの施設でそれができました。インターメディア・アーツ(Intermedia Arts)と呼ばれるところです。それで私は、収容所にいるかのように包囲されているみたいに感じる作品をやりたかったんです。有刺鉄線とフェンスと一緒に4台のテレビを高く積み上げました。それからキミコが祖母の日記を12月の4週間分、通して読んでいる音源を使いました。祖母が天気の話をするので、有刺鉄線の絡んだ4台のテレビの中で天気が変わるんです。実のところ、彼女は日記の中で「今日は雪が降り始めた」と書いていたので、私たちはカンザスで雪が降るように祈らなければなりませんでした。ジョエル・サンダーソン(Joel Sanderson)が、私たちが設置した偽の有刺鉄線の上に雪が降っているのを撮影できるようにね。パフォーマンスはそういう感じでしたね。私がその夏シアトルへ行く途中に(ミニドカに寄って)切ってきたヤマヨモギがあって、それは実際に収容所のあった場所から取って来たものです。そのヤマヨモギを、私が同じようにアイダホ(のミニドカ)で見つけた黒いタール紙の上に載せていました。我々が見つけた粗雑な作りのテーブルの中心にそれらが置かれて、有刺鉄線に囲い込まれているような感覚を出しました。それが(日記が読まれる)30日分続いて、ローテーションしてまた再開するという作品でしたね。

池上:展覧会の一部として発表されたんでしょうか。

シモムラ:ええ。インスタレーションが展覧会でした。

金子:後ろで何か音楽は流れていたんでしょうか。あるいはキミコさんによるお祖母さまの日記の朗読だけだったんですか。

シモムラ:オルガンの「zzzzz」という感じの、かなり低音の音楽が流れていたと思います。音楽というよりは音のようなもので。それから、キミコの日本語訛りのある話し方による祖母の声。本当に祖母みたいで、完璧でしたね。

池上:なるほど。1990年代、このインスタレーションで収容所をテーマにしたように、〈イェロー・ノー・セイム〉(Yellow No Same)(1992年)、〈アメリカの日記〉(An American Diary)(1997年)、《こども時代の思い出》 (Memories of Childhood)(1999年)、そして〈私の心の中のミニドカ〉(Minidoka on My Mind)(2006年− )など他のシリーズでも収容所をテーマとする作品が出てきています。どのようにしてそのテーマを継続し、その後も発展させていったのでしょうか。

シモムラ:そうですね、それぞれのケースで違った意図がありましたね。あるものは版画で、あるものは絵画で。〈イェロー・ノー・セイム〉みたいに。

池上:それは版画ですよね。

シモムラ:小さい版画です。〈アメリカの日記〉は小さい絵画で。《こども時代の思い出》は……

池上:先日見た本ですね。

シモムラ:〈イェロー・ノー・セイム〉という小さい版画は、アメリカがいかに日本人と日系アメリカ人を区別しないかという問題を扱っていました。この場合の構成は、日本人が全員フェンスの外側にいて収容されずにいる一方、日系アメリカ人は収容されているというものでした。非常にシンプルなテーマです。とてもシンプルだったからこそ、アメリカ人が日本人をどう見ているか、そして日系アメリカ人の中のまさにアメリカ人の典型のような人をどう見ているか、といった様々な例を簡単に思いつくことができたのだと思います。

金子:なぜこんなに小さいのでしょうか。(注:一点が約14cm x 25cm。)

シモムラ:分かりません。たくさん作りたかったんですよね。それに作品を小さく作れば、マイク・シムズ(Mike Sims)――私の印刷業者です――が引き受けてくれる可能性が高いから。(注:マイケル・シムズ(Michael Sims)はカンザスシティのローレンス・リトグラフ・ワークショップ(Lawrence Lithography Workshop)のオーナー。)普通12枚のプリントをやりたいと言えば、ただ「ああ、一生かかってもよければ12枚できるね」と言われるだけです。でも1枚だけやりたいと言ってから「ところで1枚の大きなイメージの代わりに、12枚の小さなものがあるんだけど」と言えば、相手がやってくれる可能性は高くなる。これが理由です。いろいろアイデアがあったうち、これはたくさん作らないといけなかったシリーズなんです。一度に1枚ずつ印刷したくないですからね。

金子:ええ、実際、学生たちに教えるときもうまくいきますね。大きな作品には十分な注意を払わないこともありますが、小さい作品となると、彼らは正確に何が起こっているか確かめようとするんです。

シモムラ:そうです。〈アメリカの日記〉では、祖母の日記の内容を直接イメージに反映させた、そして非常に飲み込みやすい、きっちりとした展示をやりたかったんです。この展示を見た人々に教育的な機会になるようにしたかったんです。それでたくさんの日記を扱うために、イメージは小さくしなければならなかった。これが作品が小さい理由です。人々が絵を見てイメージを読むという、教育的なプログラムに適しているのが〈アメリカの日記〉なんです。それは間違いありません。そしてより多くの人に届くよう、この展示はあらゆる美術館をまわりました。これは数少ない私自身がキュレーションした展示の一つです。私が全ての準備をして、美術館への連絡もして、この展示はアメリカ中を巡回しました。そして開催地となったほとんどの美術館には、お礼の品として《こども時代の思い出》を一部贈呈しました。この作品はサンノゼ美術館(San Jose Art Museum)では多くの関心を呼んだようです。《こども時代の思い出》はいつも図版として掲載されているので、彼らはそれを使っていることが分かります。《こども時代の思い出》は何年でしたっけ。

池上:1999年です。〈こども時代の思い出〉は絵本として制作されましたね。このアイデアはどのようにして生まれたのでしょうか。誰かに頼まれたのですか。

シモムラ:ニューヨークのバーニス・スタインバウム由来のアイデアです。彼女のところには15人か20人作家がいて、女性と有色人種の人たちなんですが、面白い話を持っていて変わった作家ばかりでした。そこで彼女が、私たちに人生の最初の10の思い出を思い出して、その絵を描いてほしいと頼んだんです。私の最初の10の思い出はすべて収容所の中でした。それから展覧会があって、素晴らしい展示になりました。彼女の有色人種の作家たちは典型的なハリウッドの「オジーとハリエット」(注:1950~60年代のアメリカの人気ラジオ番組)のように育っていないのでね。そうやってこの作品が生まれて、〈アメリカの日記〉と同じように全国各地を回りました。

池上:このシリーズや比較的最近の作品では、浮世絵への言及が少なくなってきているような気がします。ポップな感じは残っているんですけど、アメリカン・ポップという感じではなくなってきています。そのスタイルの変化について教えていただけますか。

シモムラ:そうですね、必要なものは何でも使います。その時の自分の興味が変わるから、浮世絵の使い方も変わってくる。もちろん浮世絵は、私が〈日記〉シリーズで使ったのとはまた違う重要性を持っています。でも〈こども時代の思い出〉のようなものには使えないんですよね。

池上:なるほど。ここではご自身の個人的な記憶の話だから。

シモムラ:そうですね。私の作品では、すべてのイメージがそうやって移り変わっているのです。スタイルは変わっていません、コミックのようなスタイルで制作するのになじみがあるので。でも実際に描くものは変わります。いろんなイメージが来ては消えていく。《私の心の中のミニドカ》は、収容所に関する作品の中では、おそらく最も包括的なシリーズだと思います。このシリーズは100枚近く描いたんじゃないでしょうか。先日誰かに、《私の心の中のミニドカ》は何点売れたかという質問をされたんですが、53点売りました。他にも25か30点、倉庫にあります。

池上:倉庫には何点残っているんでしょうか。

シモムラ:30点くらいでしょうか。すぐそこにある1点は、K-State(カンザス州立大学)にあるビーチ・ミュージアム(Marianna Kistler Beach Museum of Art)のAileen Wang(アイリーン・ワン)のものです。彼らが買いたいと言っていた絵だと思います。でも、収容所の絵の展覧会のオファーがある場合に備えて、一緒に保管しておきたいと思っています。必要なんです。だから彼女には先買権をあげました。

池上:ここでは、雲を使った東アジア的な遠近法を用いていますね。

シモムラ:室町時代ですね。その絵は5バージョンを作ったと思います。ほとんどにそういう雲を描きました。

金子:アクリル絵具以外に特別な顔料は使っていますか。天然の顔料とか、金とか。

シモムラ:金色を出すために、ということですか? 実際、金は含まれていますよ。金粉ですね。

金子:技術的に、また素材という点でも、あなたにとって新しいものでしょうか。

シモムラ:そうですね。

金子:この新しい素材はどうやって見つけたんでしょうか。

シモムラ:今では普通に作られているからです。かつては作るのも難しくて、使いにくかったんですよ。でも高度な処理を経ることで、今は簡単になりました。普通の絵具と同じように塗れて、すごく平らに乾いてくれます。でも実のところは金属的な特性を持っているわけです。

池上:収容所にまつわるものも収集されていましたよね。どのようにして集め始めたのでしょうか。

シモムラ:父と母が遺したものから始まりました。だから最初からコレクションを持っていたのと、あとeBayでいろいろなものを買っていたので、収容所に関するものが出てくると入札したりしていました。私が一番興味を持ったのが年鑑でした。というのも、ミニドカの年鑑は持っていて、他の収容所の年鑑はどんな感じなんだろうと思っていたからです。最初に出た時は誰もそれが何なのか知らなかったので、eBayで5ドルで買えました。最後の1冊は1000ドル以上しましたよ。そうやって価格が上がっていったんです。他にも、収容所に関連するものは見かけると必ず買っていました。年鑑は、最終的には20冊近く集めましたね。収容所は10カ所しかありません。でも2年分を作るのが普通だったんですよ(注:収容されていた期間はおよそ2年だったため)。だから全部持っていたんだと思います。収容所に関係するものを何でも集めていくうちに、ものはどんどん増えていきました。圧倒的な量だったので家に飾ったりせず、箱に入れて保管していました。それでここローレンスで展示をやったんです。

池上:「ミニドカの影」(Shadows of Minidoka)展(2011年)でしょうか。

シモムラ:はい。作品とコレクションを組み合わせた展示です。私はスミソニアンとの交渉を始めました。「まあ聞いてください。私は収容所にまつわる様々なものを持っています。あなた方は(そういう品物を)収集しますよね」と言ってね。そして「スミソニアンは私の作品を所蔵していて、アメリカ美術アーカイブにも私の資料があります。収容所のコレクションに興味はありますか?」と尋ねたところ、彼らは「はい」と答えました。それで、コレクションに何が入っているかのリストを送りました。3人の人員が派遣されてきて、そのうちの1人が実藤紀子(さねふじのりこ、国立アメリカ歴史博物館学芸員)さんで、彼女たちは全てをカタログ化しました。一つずつやっていき、3日間滞在しました。全ての品物のリストを作り、その全部を博物館に入れてくれました。それで私はいくらかの減税を受けられるように主張したんです。普段はそんなことは考えませんが、この時はね。コレクションに10万ドル以上も使っていたから、減税には助けられました。その時から、私のいとこもいろいろなものを持っていると言って紀子に手紙を書き、彼女は「はい、博物館に入れたいです」と返答してくれました。これは家族にとってよいことです。色々なものが行き場を見つけられますから。

金子:他のアーティストとの交友関係についての質問に戻りたいと思います。あなたはアンディ・ウォーホルに影響を受けており、そしてマーシャのような振付師と非常に近しく協働していました。他に同時代のアーティストで、特別親しいとか互いに影響を受けているというような人はいらっしゃるのでしょうか。

シモムラ:うーん……

金子:いないですか(笑)。ひとりも?

シモムラ:いないですね。実を言うと、私はここ(カンザス)にいるために、とても孤立していると感じます。私がしてきた付き合いは文通を通してとかそういう(振付師のような)人々ですね。他のアーティストで最も親しいのはジョーン・クイック・トゥー・シー・スミスでしょう。彼女はネイティブアメリカンで収容所について多くを知っています。でもあなたが私に尋ねたような人とは関係があまりなくて、それは私がカンザスに住んでいるからです。カリフォルニアかニューヨークに住んでいなければ人々は真剣に取り合わないんです。アジア系アメリカ人のアーティストについての本を書いた若い女性がいるんですが、何年か前にその本をシアトルで見ました。そこには100人のアジア系アメリカ人アーティストが載っていましたが、私はリストになかったです。

金子:本のタイトルは覚えていらっしゃいますか。

シモムラ:思い出せないんです、別の人にも聞かれたんですが。実際は、その人がその本を私のところに持ってきて言ったんですね、「この本を見ていたんです。あなたの名前が載っているかと思ったのに、アジア系アメリカ人で最も有名なアーティスト100人の中にあなたは入っていないんですよ」って。日系アメリカ人の本だったかも。さらに悪い事態ですが(笑)。でも私が言いたいのは、中西部に住んでいるとそういうことに関しては不利だということです。

池上:カリフォルニアやニューヨークなど他の場所に移ろうと思ったことはありますか。

シモムラ:(ここにいる)メリットもあるんですがね。私は基本的に1年のうち2、3ヶ月はシアトルに住んでいます。夏とクリスマスの間は、普段はシアトルにいるんですよ。シアトルに行って、そこのシーンにアクセスできます。私がシアトルに住んでいると思っている人も多いですしね。

池上:ちょうど私がそうだったように(笑)。

シモムラ:ええ。ニューヨークのようなシーンと同じようなメリットを、ここにいることで本当に得られるかどうかは分かりませんけどね。でも数年前にニューヨーク大学のアジア・太平洋・アメリカ研究所のアーティスト・イン・レジデンスに選ばれたんです。ジャック・チェン(Jack Tchen)がディレクターだったんですよ。ニューヨーク在住のアジア系アメリカ人のアーティストに(指名が)行くはずだったんですけど。妻がニューヨークにアパートを持っているので私が選ばれたんです。彼らも何度か(そのアパートを)借りようとしていたので、そのことを知っていたんですね。そのおかげで、マンハッタンの住所を提出することができたわけです。それでお金もたくさんもらえたし、展覧会とカタログが作れた。カタログはお渡ししたと思いますが、『ポップ(と戦争)の版画』(Prints of Pop (& War), 2013)というものですね。だから、政治的な観点から言えば、ニューヨークで妻の住所が使えたことで、ニューヨーク在住のアジア系アメリカ人アーティストとしての利益を得たわけです。つまり、やはり住所と関係があったんです。本当に馬鹿げてますが。そして、ほとんどの人は私をシアトルのアーティストだと思っています。ここに住んでいると、平穏と孤独以外には何のメリットもありません。皮肉な言い方ですが、でも本当にそれは価値のあることなんです。だって、サンフランシスコに住んでしょっちゅう「この展覧会に出てくれないか? あの展覧会には? ここそこで講演してくれないか? どこそこのオープニングに行かなきゃいけないんだよ、だって友達だから」なんて電話がかかってくる生活は、多分好きじゃない。カンザスで展覧会をするアジア系アメリカ人の友人なんて1人もいませんからね。

池上:煩わされなくて済むと。

シモムラ:その通りです。それで徐々に(社交的に)シャットダウンし始めました。ほとんど活動がなかったからです。地元では(煩わしい付き合いを)やめました。行くイベントは一つだけ、ローレンス・アート・センター(Lawrence Arts Center)でのアートオークションです。それだけ。アートセンターが毎週(講演やイベントで)誰かを連れてきたとしても行きません。そして彼らは「私たちの『想像協会』(Imagination Society)に参加しませんか。年会費は1000ドルです。たくさんの特典があります」とかやりだすんです。アートセンターはかなり重要なんですが、私は「いえ、結構です」と言ったんです。すると「あなたを名誉会員にしますよ」と。ただその場に連れ出せるようにね。でも私は行きませんでした。「行くよ」と言っても行かないこともありました。それで私の社交は底を打ちました。でも人生のこの段階では、これはポジティブなことです。オープニングとか何とかの気晴らしは欲していませんから。アーティストは何百人もいるらしいけど、あまりこの街のアーティストを知りません。

金子:この質問にはまた別の機会を設けるべきなのですが、ご存知のように、私はジミー・ツトム・ミリキタニ(Jimmy Tsutomu Mirikitani)にとても関心があります。あなたは彼と非常に親密でしたよね。あなたにとって、それは例外的なことだったのでしょうか。

シモムラ:私は誰よりも早くジミーを知っていました。eBayのおかげでね。それで、彼に会ったとき……。私がニューヨークに行くといつも、彼はワシントン・スクエアにいました。私たちのアパートにとても近いところです。だから私は彼をよく訪ねていたんですが、ある日そこにいなかったので亡くなってしまったかと思いました。彼は70代だったし、その時は冬だったので。それで私は彼が亡くなったと思っていたんですが、それからある日突然、彼の絵が入った筒が届きました。リンダ・ハッテンドーフ(Linda Hattendorf)――彼女が撮影することになった映画(『ミリキタニの猫』(The Cats of Mirikitani)、2006年)の監督です――が、自分はジミーに会った、そしてジミーはこれらのドローイングを私に管理してほしいから送るように言った、と伝えてくれたんです。それで私に送ってきたわけです。だから突然、ジミーのドローイングをたくさん手にすることになりました。彼がもうワシントン・スクエアにいないのは、ソーホーの韓国食料品店にいるからだと言ってました。場所は知っていたので、次にニューヨークに行った時、会いに行ったんです。彼は強盗にあって、刺されたり殴られたりして、背中をひどく痛めていました。彼と話していて顔を上げたら、誰かがビデオカメラで通りの向こう側から私たちを撮ってたんです。リンダ・ハッテンドーフだと思って手を振ったら、彼女も手を振って自己紹介してくれました。それから3人で味噌汁を食べに行ったんです。それがリンダとの初対面です。彼女はジミーのところからほんのワンブロック先に住んでいて、ジミーの映画を撮ろうと思っていると言っていました。それからニューヨークに行くたびに、彼女とジミーと私とでレストランでインタヴューをしたりして…… ジミーはかなり汚れてまして。こんな感じで油の塊みたいな。だからレストランとしては彼を中に入れたくないので、ちょっと厄介でした。でもリンダが客のいない店を見つけましてね(笑)。それで9.11が起こりまして。彼女はジミーを自分のアパートに連れて行ったんですが、アパートはワンルームで小さくて、寝室もありませんでした。彼女は真ん中にカーテンを設けて、「ジミー、この半分があなたのところで、あとの半分が私のところです」って。もちろん、スペースはそれだけです。映画はご覧になりましたか?

金子:はい。何度か。もっとお聞きしたいんですが、先にも進まないといけないですね。

池上:そうですね。日本の現代アートについてお尋ねしたいと思います。どこかで、あなたが村上隆の、彼がジャパン・ソサエティで2005年にキュレーションした展覧会(「リトルボーイ:爆発する日本のサブカルチャー・アート」、2005年)を見に行ったと拝見しました。ですがその展覧会の前に、1990年代に日本のアートシーンで非常にポピュラーになったポップ・アートについて、何か考えがあればお聞きしたいと思います。

シモムラ:うーん。日本の現代アートについて考えるとき、私は自然と村上やその種の制作姿勢について思い浮かべます。彼らがやっていることに興味を持つとしたら、それはそうした制作姿勢でしょう。それは(自分の制作姿勢と)ある種のパラレルだと思います。平行なものは決して交わりません。彼らの作品に対して思うのはそういうことです。単に、私にとって文化的に異質なものなんです。確かに彼がやることと私がやることには重なる部分があるので、1000人のうち999人が「あなたは絶対それに影響を受けているよ」と言うかもしれませんが(そうではありません)。私と村上の作品はかなり違うと思います、形や構造が似ていたとしても、意図は……(完全に異なる)。村上は企業のようなものです。企業は(個人とは)思考が違うでしょう。そして彼らは(個人とは)違う目的のために動く。だから私は(そうしたことを考えるためには)時間を使いません。こうしたイメージの一つを取り上げて使うこともありますが、それはちょっと意地悪とか傲慢なふりをして、誰かに何でこんなことをしたのかと尋ねさせるためにやるだけです。そして私は、そのような問いを「理由なんてありません」と一蹴して脇に置いておくこともできるわけです。少なくとも私の観点からはね。

池上:分かりました。2005年に見た「リトルボーイ」展についてはいかがですか。

シモムラ:それはつまり今私が話していたことです。これがリトルボーイ展であり、リトルボーイ展とその全てのイメージに対する私の反応でした。

池上:ああ、全般的に村上の仕事について話されているのかと思いましたが、実際は……

シモムラ:まあ、村上のことも全般的に話していましたよ。一緒くたにしてしまったわけです。実は私は村上の作品を1点、彫刻作品を持っているんです。これはシアトルのディーラー、グレッグ・クセラからの見返り品のひとつなんです(笑)。彼は有名なコレクターであるピーター・ノートン(Peter Norton)のメーリングリストに載っていましてね。ノートンは毎年、有名なアーティストに彫刻作品を依頼して、メーリングリストの200人にそれを贈っていたんです。クリスマスのプレゼントですね。彼は若かりし村上にも依頼したわけですが、グレッグ・クセラは村上という名前を聞いたことがなくて、でも日本の名前だから私に電話してきて「ねえロジャー、あるものを手に入れたんだけど、村上の、なんとかかんとか」と言われまして。私は「ほう?」と言って「誰だか知らないなあ」と。知ってたんですけどね(笑)。すると彼は「欲しいならあげますよ。次来る時、ここにあるようにするから」と言ってくれたんです。それで次にシアトルに行った時、まっすぐギャラリーに行ってこの作品を手に入れたというわけです。今ではそれなりの金額になっています。

池上:「リトルボーイ」展でも歴史的なアプローチがされていましたね。でも、そのアプローチはあなたのものとは全く違うと思います。

シモムラ:そうですね。

池上:この質問は先ほどの質問とも少し関係がありますが、ハローキティやピカチュウのような現代の日本の大衆文化のモチーフを使ってらっしゃいますよね。

シモムラ:ハローキティとピカチュウは村上(のもの)ではないイメージです。完全に違うものを表象している。この二つはアメリカのイメージより正当な例という感じです、それがウォルト・ディズニーであろうと何であろうと。だからこの二つについてはまた少し違った感じがするんです。ある種のオマージュとして、この大きな作品を作ったんです。《ハローキティ》(Hello Kitty)といって、真ん中はハローキティの絵を描いている私で、他のハローキティに囲まれています。飛行機(に乗っているもの)とかね。私が絵の真ん中にいるということ以外、政治的なアイデアは何もなかったです。この作品は何よりもポジティブだったと思いますね。(キティが)私の世界に入ってくるのを認めるようなものでした。ピカチュウは最近、キューバの国立美術館で展示された大きな絵画の中で使いました。ブロンクス美術館(Bronx Museum)の所蔵で、《南京大虐殺》(The Rape of Nanking)というタイトルです。かなり大きな絵画です。6 x 18 フィートですね。全部で5枚のパネルでできていて、メインのパネルは日本人男性にレイプされている中国人女性です。だから《南京大虐殺》なんです。男性のペニスと女性のヴァギナがあるところには、ピカチュウがいます。ピカチュウが性器を隠していて見えないんです。この作品についてはかなり挑発的なイメージだと思っていました。残りのパネルは典型的な中国人女性と典型的な日本の剣でしたが…… もう1人男性がいたかな、とにかくそういう絵です。

池上:ご自身が、かなり多くの作品に現れ始めていますね。《デラウェア川を渡るシモムラ》(Shimomura Crossing Delaware)(2010年)についてお話できたらと思うのですが。

シモムラ:ジョージ・ワシントンがもし日系アメリカ人だったら、歴史はどれだけ変わるか想像してみてください、というアイデアです。考えもつかないですよね。それを実現するにはどこに行って、どこまで時を遡る必要があるでしょうか。明らかにどこかの時点で日本がアメリカを乗っ取らなければなりません。シモムラがデラウェア川を渡るというような重要なことをするには。川を渡る目的は同じという仮定でね。つまり、そういった出来事で遊んだということです、ジョージ・ワシントンがこの国にあまりにも深く埋め込まれているのでね。もしいくつかのことが歴史で変わっていたら、ジョージ・ワシントンではなく日系アメリカ人がいたかもしれない。そういうことです。

池上:ロバート・コールスコット(Robert Colescott)の絵については考えていたんでしょうか。彼は似たようなテーマの絵を描いていますが(《デラウェア川を渡るジョージ・ワシントン=カーバー》(George Washington Carver Crossing the Delaware、1975年)。

シモムラ:そうですね。ロイ・リキテンスタインもそうです。同じことを扱った有名なアーティストが何人かいましたね。

池上:あなたは人種のステレオタイプや差別に興味を持ち続けていますが、それは9.11とともに新たな問題になったと思います。

シモムラ:何とですか。

池上:9.11です。その出来事が起きて、また新しい重要性を持つようになったので、《パール・ハーバーじゃない》(Not Pearl Harbor)(2012年)などの作品に取り入れていますね。それについて少しお話しいただけますか?

シモムラ:《パール・ハーバーじゃない》は、ワールドトレードセンターへの攻撃が起こるや否や、みんなが真珠湾の話をし始めたことに触発されました。すごく不快でした、「また始まったか」という気持ちでね。最初からやり直しですよ、ある程度は理解や解決策を得つつあると思った時に、また最初から全てやり直しです。それで、事件が起こった直後に小さな絵を2、3枚描きました。ワシントンD.C.にあるギャラリーに頼まれてね。事件の2日後には9.11についての展覧会をやりたいと思ったということで。それに触発されて大きな絵も描きました。その絵はだいたい半分に分かれていて、右半分はトレードセンターに対する日本人と日系アメリカ人の反応、左半分はトレードセンター攻撃に対する中東の人の反応、下の方には実際にワールドトレードセンターが炎上している様子が描かれていて、煙がこのように両方向に向かっています。片側には日本のゼロ戦が、もう片側にはアメリカの旅客機が画面に入ってきています。これは、二つの出来事が同じものだと早合点してはいけないという警告のようなものでした。また同じようなことが起きて、イスラム教徒の人々が新たな日系アメリカ人になってしまいそうだったので。無論、それは現実になってしまいました。私が今描いている絵の多くは、まさにそのことに関係しています。(壁の絵を指さしながら)左手上にある絵、アンディ・ウォーホルのマリリン・モンローの後ろに、監視塔とムスリムの女性が描かれているのは、展覧会に出す予定です。3年にわたって全国を巡回する予定です。

池上:今マリリン・モンローについて言及されましたが、私は〈グレート・アメリカン・ミューズ〉(Great American Muse)シリーズのことを考えていました。

シモムラ:〈グレート・アメリカン・ミューズ〉ですか。話すのがかなり難しい連作ですね。以前の絵画の多くとはかけ離れているので。これは今では何か他のものに変異していますが、何になったのか、まだわからないんです。まだ完全には発展させきれていません。でも〈グレート・アメリカン・ミューズ〉はトム・ウェッセルマン(Tom Wesselmann)の〈グレート・アメリカン・ヌード〉(Great American Nude)シリーズ(1961-73年)から来ています。浴室にいるアメリカ人女性のヌードを他のもの、テーブルやトイレなんかと、芸術作品と一緒に描いた作品ですね。見る人はこの三つのものの並置関係に意味を見出そうとするでしょう。それが私の絵画でやりたかったことなんです、そんな風に三つの要素を持ち込むことがね。日系アメリカ人の女性をラジオの横に置いたとき、戦闘機を描いているロイ・リキテンスタインの横に置いたとき、何が起こるでしょうか。だから私は三つの異なるものを反復し続けました。それから突然(他のものを)加え始めたんです。「なぜ三つに制限しているんだろう。もっと複雑にするために四つ、五つと入れてみようか」とね。するとあっという間に、そうしたものによる言及は戦争とか歴史的な出来事に関するものではなくなり、突然これらの絵は何か別のものになったんです。
 それはニューヨークで展示をやったときでした。収容所に関する絵がたくさんあったので「ミニドカを超えて」(Minidoka and Beyond)と名づけた展示ですね。今では、ただその(収容所の)絵を描き続ける理由を見つけたこと以外は、自分がどこにいるのか分かりません。タイトルもかなりめちゃくちゃになってます(笑)。だから描くのを一時やめて、深呼吸して、これまでの作品をカタログ化してから自分の向かうべき場所を決めようとしています。でも次の展示がカンザスシティで行われることになっていて、24 x 24 インチのそれらの絵を全部集めようとしていまして…… ラファエルとリズ・テイラーの前で服を脱いでいる女性の絵のようなものですよ。その展示から様々な結論を出せるだろうし、それでいいと思います。自分自身が(結論を)持っているか分かりませんが(笑)。それがまだ欠けていると思います。普段は自分自身の解釈を持っているんですが、まだそこに辿り着いている気がしないんですよね……

池上:なるほど。それは珍しいことなんですね。

シモムラ:そうなんです。だからあまりしっくりこなくて。

池上:おもしろいですね。これだけキャリアの長いアーティストでも、まだ確信がないということもあるんですね。これについてはすでに少しお話しになりましたが、次の質問にも関係していると思います。これだけ長く多作なキャリアを歩んできた後で、今なお非常に多くの作品を作り続けておられます。あなたのエネルギーはどこから来るのでしょうか。

シモムラ:たぶん、祖母ですね。良いことも悪いことも、やること全てが日本の民族全体に影響を与えてしまう(という彼女の教えです)。分からないけど、多分そうです。それを認めるのは嫌なんですけどね。自分の子供には絶対に言わないと思うので。ダメージを与えかねないですから。でも、その教えを実際に信じるなら…… いつもそれを第一に考えて、歴史に名を残すため多作になるのが私の人生だった…… どうでしょう、いい答えは持ち合わせていないんですけど。

池上:とても興味深い答えですね。では最後の質問の一つを。これは私たちがいつも語り手に聞いている質問なんです。長い芸術のキャリアの中で、最も大切にしてきたものは何でしょうか。

シモムラ:最も大切にしてきたものですか。うーん…… もう少し説明してもらえますか。

池上:私が日本語の質問をうまく英語に訳せていないんでしょうね。

シモムラ:その言葉は幅が広すぎるんですよね。私のキャリア全体で、最も大切にしてきたものは何か。

金子:あなたにとって、アーティストとして最も重要なことは何でしょうか。これでもまだかなり広いですが。

シモムラ:(アーティストとして大事にしてきたのは)恐らく、どんな風に世界を認識しているかについて話す機会でしょうね。そうする機会を与えられてきたけど、私のやり方はそう簡単に理解されるものではありません。私がどんな風に世界を認識しているかを理解するには、かなり私の作品にコミットする必要があるんです。それはアーティストをある意味マジシャンのようにします。他の人が自分の作品をどう見るか、自分の作品についてどう考えるかを操作できるという点でね。それができるというのは、かなり強力なポジションだと思います。ある意味楽しいことでもありますけどね。あまり真剣に受け取られるべきではない部分もありますが。だから私は制作の多面性が好きなんです。私が作品を作った理由はたくさんありますが、全部巡り巡ってそれらは全て芸術作品から始まるんですよね。そして私は、もしよい芸術ならば、それは成長し続けて、見る人の精神や心の中に入り込んでくるといつも言ってきました。この考えは私の教師としてのキャリアに結びついていると思います。私は、たくさんの生徒たちと今も連絡を取っていて、彼らは全国に散らばっています。彼らは私を様々なことに関する試金石としていました。彼らとのつながりはひょっとすると、伝統的なよい友人とされるものよりも、私にとって重要かもしれません。私は彼らの人生に何らかの影響をもたらしたわけですから。

池上:わかりました。では最後の質問です。次の段階では何をしたいと考えていますか。

シモムラ:先ほども言いましたが、これから何をするかはよく分かりません。自分のやりたいことはほとんどできると感じる地点には来ました。そのアイデアに対するこだわりは十分に強いのか、あるいそのアイデアは十分に面白いのか、ということはさておきね。ただひとつ確かなことは、何かはやるということです(笑)。もっと物を作ったり、もっと大きな収納スペースを借りたりね。6番街に倉庫を借りているんですけど、私の印刷屋の、ローレンスリトグラフィー工房が閉店するんです。もう一緒に刷ることはないんですけど、ある意味ほっとしているんですよ。その方が(他のことに)集中できるので。大きな絵画をやってみようか、という考えは浮かびました。たくさんの大きい作品をやってきましたが、大きな絵を手描きでやったことはあまりないんです。シアトルのもののように、金属の上の壁画――ビルボードじゃないです、まあ、ビルボードもやりましたが――を描くプロセスは経験しましたが。だから死ぬ前にひとつ大きな総合的な絵を描こうという考えが出てきたんですよね。でも「完成する前に死んでしまったら残念だよな」と思うんです。エネルギーと努力が無駄になるから。

池上:では制作しないんですか。

金子:それか、死なないか(笑)。

シモムラ:そうですね。

池上:いい締めになりましたね。

シモムラ:ええ。「死ぬ」という言葉でね(笑)。

池上・金子:いえ、「死なない」ですよ。ありがとうございました。