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斉藤陽子オーラル・ヒストリー 2014年1月15日

斉藤陽子宅(デュッセルドルフ)にて
インタヴュアー:坂上しのぶ、森下明彦
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2015年10月4日
 

坂上:今日は2014年1月15日。陽子さんの誕生日の次の日。昨日森下さんが聞き忘れた例の名前の事から聞きましょう。

森下:昨日はどうもありがとうございました。どうしてお名前を、太陽の陽の子、なのに「たかこ」と呼ぶのか謎なんです。

斉藤:そうだよね。私が生まれた時にはね、たかこじゃなかったんですよ。美紗子(みさこ)という名前だったんです。それを弟の名前も姉の名前も父が姓名判断をしてもらって全部変えたんです。私が小学校の1-2年か3年の時か。良く覚えていませんが、小学校の頃に3人とも。私の名前は「たかこ」なんて誰も読めないんですね。後はタクマだしチエコだし、普通の名前でしょう。普通に読めるけれども私の名前だけは何だか知らないけど。

坂上:では斉藤さんは小さい頃は美紗子と呼ばれていたのに、急に「たかこ」と呼ばれるようになって。

斉藤:そう。だから私がこんなおかしな人間になったのかもしれない(笑)。

森下:そしたら姓名判断は間違えていたという事になりますよ(笑)。

斉藤:美紗子っていうとしとやかでねえ。ところが私の名前だけは誰も読めない。「ようこ」って読むなら普通だけれども。どうしてそういうふうに、そしてどこからそんな事が来るのかよくわからないですけれど。

森下:そういう事をご両親から伺った事も。

斉藤:聞いた事ないです。

森下:海外に出れば漢字がどうこうもないから。「たかこ」でオッケーですけど、僕ら日本人から見たらねえ。最初に名前を知った時から不思議でした。今までどなたもその事を書いてなかったし。

斉藤:私もそんな事を言った事もないし、そんな事忘れてしまっていた。小学校の頃ですからねえ。

坂上:お友達も急に美紗子ちゃんが「たかこちゃん」になる訳ですよねえ。
(※斉藤記:みさちゃん→たかちゃん 福井創美〔註:創造美育協会福井県支部[以下、創造美育協会は略して創美]の人達も私をたかちゃんと呼んでいました。)

斉藤:そう。だけど特別な事は何も覚えていないですね。

坂上:斉藤という漢字はこれでいいんですか。

斉藤:本当はこうなの。「齋藤」。

坂上:一番難しいやつですね。

斉藤:だけど知らないです、戸籍に書いてある斉藤がどういう風になっているか。これ(斉藤)ではないと思います。私はこう(斉藤)しか書かないけれども。でも同じ事じゃないですか。

森下:ご自分でアーティストとしての名前は一番簡単な斉藤を。

斉藤:ただ簡単だからですよ。
(※斉藤記:アーティストとしての名前は、日本を出てからはTakakoだけです。)

坂上:美紗子だったら日本にずっといたかもしれないですね。陽子となって運命が変わったのかもしれないですね。おもしろいですね。

斉藤:ほんと。

森下:良かったんじゃないでしょうか。

斉藤:本当だよ。ある意味で良かったんじゃないかと思う。

坂上:では昨日の話の続きからいろいろお聞きしたいんですけれども。現在の福井県鯖江市立中央中学校の前身である学校で最初は事務員として1年働いた。(註:個展「斉藤陽子展 遊び・パフォーマンス」カタログ〔ディマンシュホール(福井)、1991年7月25日-8月12日〕によるとその当時は福井師範学校附属中央中学校であった)

斉藤:1年かどうかは覚えていません。全然知らない。

坂上:その後は国語と家庭科の先生。これは担任を持ってですか。

斉藤:担任を持ってました。

坂上:1クラス。

斉藤:ええ。担任を持って、その他に他のクラスに国語と家庭科を教えて。

坂上:何年生とか。

斉藤:私の担任クラスは中学1年生だったと思います。だけど教えていたのは2年生のクラスもあったんじゃないかな。覚えていませんけれども。

坂上:国語は普通に教科書を使って。

斉藤:私の授業は、最初は教科書を使わなかったです。だけどもまあ、いわゆる国語の教科書を後には使いました。最初の2学期は教科書を使わないで1学期はそれこそベースボール、野球ばっかりで(笑)。

坂上:え? 外で? 大丈夫なんですか。

斉藤:大丈夫も何もない、そういう風にしちゃったんですね。

坂上:詩が自分でもすごく好きで、っておっしゃってましたが、詩を教えるとか。

斉藤:そんな事は全然しなかったです。私の方から教えるって事は全然しなかったですね。一番最初、あれは2年生の何組のクラスかを持っていた時、一番最初の時間に、「あなた達、何か書いてみようじゃないか。自分の思っている事、友達の事、お母さん、両親の事、動物の事、何でもいいから書いてみようではないか」って言ったら、彼等は「書くのは嫌だ!」って。全員っていう位みんな手を挙げて、嫌だ嫌だ言うのね。きっと小学校の時に、何か書くといっぱい直されていたんだと思います。だからもう書く気がなくなっていたんですね。嫌だ嫌だってみんな手を挙げて、「僕らはそんなもの書きたくない」って言って。「何を書いてもいいんだよ、好きなことを書けばいいんだよ」と。「それじゃ何をしたいんだ」って言ったら、外へ出て運動場で野球をやりたいって(笑)。私はそれは考えもしなかった事だから、しばらくうーん……って考えて。そして結局言ったのは、「それじゃそうしよう」って。だけども何人かは書きたい人がいるかもしれない。ある人は本を読みたい人がいるかもしれない。その人は図書館に行き、という風にしましょうと。そしてそうしたんです。そしたらそれこそ90パーセント以上が次の時間、みんな外へ出て野球を始めて。野球をするだけじゃなくてもちろん見ている子たちもいる訳よね。野球には2つの組があるでしょ、プレイする方と、バッターの方と。そしてバットの番が来るまでみんな座っている訳ですよね。こうして自分の番を待っている訳。私はみんなの真ん中に入ってね、雑談をするのね。そして時々私は教室に行って、書いてる子も2-3人いた訳ですから、そういう子たちは割と自由な心を持っていて書く事が出来た子ども達ですね。その書いた作文を読んで話をして。誰々さんがこんな事を書いていたよ、とかそういう風な話を一緒にして。また私のバットの番が来るのを待って、時々グラウンドに行って。そういうふうな状態が3ヶ月続いたんですよ。3ヶ月毎日私の国語の時間はみんな外へ出て行く訳でしょ(笑)。そして3ヶ月したらおかしな事に一人ずつ、「教室に帰りなさい」なんて一言も言っていないのに教室に帰り始めたんですね。そして書き始めたの。きっと彼等は感じたんでしょう。きっとこの先生は何を書いても怒らないし、何を書いても赤を入れないだろうという気がしたんだろうと思います。一人ずつ一人ずつ帰って来て、最後にみんな帰って来たんですよ。そして書き始めたの。そしてねえ、3ヶ月間、それこそ時には1時間の授業が足りなくて。授業の最後にベルが鳴るでしょう、すると「待って下さい!まだ書いてる、まだ終わってません!」って言う子が沢山いたんですね。そういう具合にして毎時間毎時間彼等はいっぱい書いたんです。その間にもちろん自分が知らない漢字ってあるでしょう。そうすると私に聞いて。私は黒板に書く訳ね、漢字を。そういう具合にして彼等は言葉を覚えていったんだろうと思います。そして、中にはいつもいる事だけど、クラスの中には3−4人それこそどうしようもない子がいるでしょう、いたずらで、全然勉強がしたくなくて。前の子の頭を叩いたりとかねえ。そういう子も一生懸命書き出した。それが国語の時間だけじゃなくって、うちに帰ってからもいっぱい書いてきたんですね。だけど私は読めないんです。だってどうしようもない子っていうのは本格的に日本語を書く事を知らないんですよね。もちろん部分的には読む事は出来ても、彼が何を言っているか読めないんです。いわゆるサインみたいなもので、ある部分は日本語で。そういうもんで。それをいっぱいいっぱい書いて持ってくるんですよね。だけど私読めないの。だけどもね、あまり直したくない。意欲を失わせたくないしね。意欲をすごく持っているから。で、ほんのちょっとずつ直してね。まあ、後から考えたんですけどね、あの頃は1クラス50人ですよね、50人の子どもの一人ひとり、何て言うのかなあ、出来ない子達の面倒を見ている訳にはいかない、残念ながら。で、20人位、30人位なら何とかあとの時間で、とか。残念ながら彼等に私は、本当の意味でそういう意欲を持っている子達に日本語を書く力を教える事は出来なかった。彼らも自分で、少しは学んだかもしれないし、意欲を持ったというのは大きな事ですけどねえ。まあ。それも3ヶ月続いたんです。おかしな事にいつも3ヶ月なのね、後から考えてみるとね。そしてその3ヶ月それをやったら子ども達は国語の教科書を持っている訳でしょう、一度もやった事がない、だけども国語の教科書から学びたいって言い出したんですよ。それじゃあやろう、と。そして教科書をやり出した。そういう経緯。まあ本当の意味では、子ども達はいろんな意欲を持っているんだけれども教育の仕方によってそれが削がれてしまう。本当は彼等は自分で、学びたいという意欲をいっぱい持っているんですよね。

森下:この中央中学校は男子だけですか。それとも男女共学ですか。

斉藤:男女共学です。

森下:戦争中で小学校もちゃんと学んでないのかもしれないですね。知らないけども。

坂上:戦争だけじゃなくて、地震もねえ。

森下:地震は1948年だから。

斉藤:中央中学校のあたりは地震はなかったんです。地震は福井市だけで、鯖江の方は大丈夫だった。被害は全然なかったです。

森下:だから兵舎を借りて、師範の付属をつくった。

斉藤:そうです。

森下:中央中学校にはいろいろ面白い先生がいたんですねえ。中央中学校の事をいろいろ調べてみますと、すごいなと。それよりもですね、野球をするような授業をしていて、全然他の方から、あるいは子どものご父母から言われなかったんですか。文句とか。こんな事やってちゃ駄目だとか、ちゃんと教えなさいとか。

斉藤:そういう雰囲気はありました。学校内にはいわゆる伝統的な方法で教える保守的な人が多かったですよね。そういう人との戦いっていうのは、教授会って言うの? 一週間に1回か1ヶ月に1回かあるでしょう。そういう時の討論はなかなか花々しいものだったです。大変だったです。

森下:職員会議ですね。

斉藤:そう、職員会議。

森下:その時に陽子さんも「私のやり方がいいんだ」っていう風に主張されたんですか。

斉藤:もちろんそうです。それでそういう事があって、木水(育男、1919-1997)さんにしても川上(高徳)にしてもみんな左遷されてますからね、後に。(註:木水、川上は当時の中央中学校で美術教師をしていた。斉藤とともに創造美育協会の福井県支部の創設時のメンバー)

坂上:では木水さん達は職員会議の時は斉藤さんの事をフォローしてくれたんですか。

斉藤:彼等だって図工科の教育は私のやっているのと同じような事をやっている訳。自由にさせている訳ですからねえ。我々は、木水さんにしても私にしても共同で、保守的な先生達と戦う訳ですよ。

坂上:そしたら木水さん、斉藤さんが出会ったというのが大きいですね。そこの中学で同じような考え方を持っている人と。

斉藤:でも簡単なものじゃなかったですね。私の場合。考えてみると、図工科の場合はまだとしても国語でああいう風な教え方をするというのは、他の人にとっては考えられない。今でも考えられないだろうと思います。でもそう出来たっていうのは、やっぱり創造美育の運動がいくらか力を持っていたんだな、と思う。私一人でやったんじゃない。木水さんもいたし川上もいた。まあそういう2−3人共同でそういう……※。国語では私一人で後は図工科の先生ですけどね。
(※斉藤記:2−3人…とはいっても、我々は全く孤立していた訳ではありません。2−3の教師が我々を支えてくれていました。その一人は鈴木格一先生で、彼は京大の哲学出で、何故あの時中学の先生だったのか知りませんが、社会科を教えておられました。我々はよく意見が合い、一緒に神明から歩いて長泉寺の山を越えて鯖江に帰り、色々な事について話し合いました。勿論創美についても。彼は西鯖江の近くに家族(妻と子ども)と住んでおられました。彼は我々を支えて下さった一人です。後に彼はフルブライトの留学生としてアメリカに行かれ、後に福井大学の教授になられました。)
私がそういう事をやっている間、誰も私に対して文句を言ってきた人はいません、言えなかったのかもしれない。というのは、そういう授業をやっている期間中に福井大学が付属中学の子どもたちの学習能力の検査をやったんです。私の教えていた組の子達は文法も教えた事もないし、本も教えた事もないから、きっと悪い点数を取るだろうと思っていたのが、5組ある中で2番目だったんです。これは私びっくりしました。文法なんか教えていないけれども彼らは考える力を持ったのか、中学1−2年の国語の文法なんて簡単なものですから、考えれば教えられなくてもわかったのかもしれません。ある意味で彼らは自分で何かをしようと、考えようという力を持ったのかもしれないと思うんです。だから他の人達は何も私に対して言えなかったんだろうと思います。誰も私のやっている事に対して反対はしなかったです。

森下:その学習検査っていうのは、教えない事を始めて直ぐだったんですか。いつ頃、どれ位経ってからでしょうか。

斉藤:学習検査のあったのは、私が授業を始めてから5、6ヶ月後、まだ教科書を皆で勉強する少し前の事です。あれには私も驚きました。そしてやっぱり私は間違ってないと思うんですね。何故かというと、文化祭っていうのがあるんですよね、中学校の秋位に。するとクラスで何かの劇をやるとかね、普通なら担任の先生が子どもたちにやらせるものなんですね、この組の子ども達は自分達だけでやった。全然先生と関係なく自分達の力でやった。あれもすごい素晴しい事だったと思います。私は何もそういう事を想像して始めた訳でもないですけどもね、いっぱい驚かされました。子ども達がいかに旺盛な能力を持っているのかと。

坂上:実際に文化祭ではどんな事をやったんですか。

斉藤:覚えているのは、彼等が自分達で劇の題を選び、自分達で配役を選び、自分達ですべて、それこそ先生には何ら頼らずに自分達でやった事です。まだ中学校の1年位だったら大抵担当の先生が、こういう事で誰が何をやってと配置してやらせる訳ですがそれと全然関係なく彼等だけでやった。ああ大したもんだなあ、彼等の持っている能力っていうのは!と思った。

森下:そういう時に生徒は頼みにも来ない。

斉藤:頼みにも来ないです。

森下:心配でなかったですか。

斉藤:何も心配ないです。

森下:そうですか。僕も大学にいた事あるので、あまり学生たちが頑張りすぎると何もする事がないのでちょっと手持ち無沙汰になったりして。
(※斉藤記:インタヴュー後に考えたのですが、もしそういう時には、私も仲間に入れてよ、と言って自分も何かの役をもらってやればいいと……。)

斉藤:だって大学の先生と違って中学の先生っていうのは他にもクラスを持っているんだし、たった1クラスの事だけを考えてられないですよ(笑)。そしてそれも、ただ私は国語を教えてただけで、私が担任している組じゃないです。その子達が自分で担任の先生にも何も言わないで自分達だけでやった。

坂上:担任の先生もびっくりですね。

斉藤:(笑)。

坂上:斉藤さんはその頃図工の授業には興味を持たれましたか。

斉藤:もちろん、図工の授業という事じゃなくって、私は創美の会員だったですからねえ。

坂上:まだ先生になった頃は創美の会員ではない。

斉藤:まだないです。まだ創美が出来てないです。

坂上:家庭科の授業はどんなものだったんですか。

斉藤:家庭科の授業って何も覚えていないです。家庭科で教える事なんてないんですよね。だから実際に料理を作るとか、そういう事位でね。なるべく実際的にやろうという雰囲気を。何をやったか具体的には覚えていませんが、家庭科の中で知識として知らなきゃならない事など特別にないですからね。家庭科だって本があったんだから何か書いてあったんでしょうけども。(※斉藤記:家庭科で何をやったか具体的には覚えていませんが、あの頃、家庭科の授業で教えたいと思ったのは、栄養学みたいなものです。これは学ぶより外の方法はないので、それを基礎に料理をつくる。それと保健の知識です。これ等は芸術とはちょっと異なった分野ですから。)

坂上:何か縫ったりとか。

斉藤:縫ったりはしない。あ、したか。

森下:型紙作ったんじゃない?

斉藤:作らなかったですよ。女学校の時に裁縫の時間っていうのがあるでしょう。あの頃は着物。まだ戦争中ですからねえ。着物のへらの付け方だとか、縫い方とか。けれども私はそういうのに全然興味がなかったんです。そういう意味で私は悪い生徒だったんです。他人がやっているのを見て(笑)。だけども洋服を自分で工夫して作るとなると一生懸命やったんです。だけど着物っていうのはみんな同じでしょう。私は恥ずかしいけれども、他人がやっているのを眺めながらおしゃべりしてました。だから何をやったか、家庭科の時間に何をやったか覚えていないですね。今でも家庭の時間ってあるんですか。

坂上:あります。

斉藤:どういう事が書いてあるんですか。

坂上:それこそごはんの作り方とか、裁縫の仕方とか。でも教科書はあったけど私達も使った記憶はない。先生がいろいろ教えてくれました。教えてくれないと家で編み物やったりもしないから家庭科で教えてもらえた事は多いですね。

斉藤:ある意味で。家庭を保って行く為の一つの知恵っていうのは必要でしょうけどね、そういう事、何らかの知恵を教えたかもしれませんが。覚えていないです、全然、残念ながら。

坂上:創美の運動に出会ったきっかけはここの中学校にあったんですか。

斉藤:創美に出会ったのは中央中学校にいる頃ね、木水さん達が久保(貞次郎)氏(1909-1996)に出会い、それでもって出来る前に、私は図工科の先生ではなかったけれども、久保氏の真岡(栃木県)の家に木水さんたちと一緒に訪れた事があります。

坂上:出来る前から。

斉藤:そうです。私はその時は覚えていませんけども、休暇中だったかねえ。私は国語の先生ですから、お休みをもらって久保氏の研究会に出掛ける事はきっと出来なかっただろうと思います。国語の教授が図工科の美術運動の為に出張なんてあり得なかっただろうと思いますから、きっとお休み中だったんでしょうかね。夏休みとか春休みとかを利用して、久保氏のところに訪れて、2晩位久保さんのアトリエに泊まった事を覚えています。それはまだ創美が始まる前だったかもしれないです。創造美育協会が出来る前だったかもしれないし、その後だったかもしれないけども、その事は覚えていないです。(註:堀栄治『福井創美の歩み』、発行者:石田俊夫、1990年、5ページには、「1950年10月20〜22日 第6回美術教育研究会〔真岡町久保美術館〕木水・川上・野々目・斉藤参加〔兵庫県4名,栃木県15名〕」との記述あり)

森下:創美が出来るのは1952年の5月20日。

斉藤: 51年らしいですよ。(註:『福井創美の歩み』によると1952年5月20日)

森下:51年に福井県児童美術教育会というのを木水さんたちが作られているんですね。創美が出来る前に久保さんと木水さんは50年には出会っているんですね。そして久保さんは戦前から福井に来られてましたから、そういう意味ではいろいろ。

斉藤:戦前から福井に来られているんですか。

森下:私も今回調べてびっくりしたんですけども、福井は戦前からすごく前衛的な美術が。例の土岡秀太郎(1895-1979)さん、土岡さんにはお会いした事は。

斉藤:会った事はあります。

森下:すごい方だったみたいですね。ご印象は何かお持ちですか。

斉藤:ノー。私は北美の会員ではなかったですからね(註:北美文化協会。土岡秀太郎を指導者として1948年に誕生。木水育男、川上高徳、野々目柱三らが参加した)。北美に作品を出した事があるらしいですけれども、私はよく覚えていないです。私は県美か北美かどちらかに出しました。私はもしかしたら北美と県美に出していたのかもしれないしね。よく覚えてません。
(※斉藤記:川上さんは、土岡さんがシャンソンを聴くのを薦めていたと言って、レコードを何故か持っていました。だがおかしな事に、木水、川上、渡辺、大畑……など誰も土岡さんの人柄について話されたのを聞いた事がありません。)

森下:どんな作品でしたか。

斉藤:全然それも覚えてない(笑)。

坂上:絵ですか。

斉藤:もちろん絵です。油絵です。キャンバスの上に描いた、だったと思います。

坂上:具象的なものですか。

斉藤:具象的なものではなかったですね。ある意味で抽象的な、具象と抽象の間のようなものだったと思います。

森下:そこの時点でもう絵を描き始めていたんですね。

斉藤:もちろん描き始めてました。そういう雰囲気の中にいましたからね。木水さんとか川上さんとか他の人達との関係で、自分で詩を書いたり絵を描いたりという事をやってました。

坂上:油絵具を持っている事も当時はめずらしい事だったですよね。

斉藤:あの時は油絵か。だけど後で描いた私の絵は必ずしも油絵じゃなくてパステルとかクレヨンで描いたり。

森下:この頃は、北美の関係ですけど、いろんな方が福井に来て絵を指導するというのがありましたねえ。そういう講習会みたいなのに行かれましたか。

斉藤:行った覚えはないです。

森下:そうすると絵の描き方とか技術的な事はもう独力で。

斉藤:そうです。全然、講習会に行った覚えもないですし、女学校の時、小学校の時に水彩画を描いた位でどこかで習ったとかそういうのはないです。

坂上:絵を描きたいなと思ったのはやっぱりそういう創美との出会いがあったから。

斉藤:うーん。何とも言えないですね。自分でもわからないです。忘れてしまった。きっとそうなんでしょうね。そして子ども達の描いている絵を見ても、自由に描いているそういう絵を見て、ああ自分も描きたいなあと思った事もあるでしょうしね。きっと。でもよくわからないです、今は。

坂上:その頃の図工の授業はどういうものだったのか。覚えてますか。

斉藤:図工の授業っていうのはそれこそ子ども達を自由にやらせる。

坂上:国語の授業の時に陽子さんが子ども達に好きな事を書きなさいと言ったみたいに。

斉藤:そうです。好きなものを描きなさいと。図工の場合は簡単ですよね、ある意味で。国語の授業と違って文法とか、字を描くとか、「い」という字はみんな同じに書かなきゃ人に通じないんですからね、そういう事は図工の場合にはない、もっと自由ですよね。

坂上:真岡の久保さんのところに行った時の覚えている事ってありますか。

斉藤:特別覚えているのは、久保氏の家のアトリエに戦前からだと思いますけども、たくさん外国の絵が掛かっていてね。アトリエは後から建てられたんでしょうけど、そういうのを覚えています。そこに我々は布団を敷いて寝起きした。それだけで、後の事覚えていないです。

坂上:(インタヴュー前に送って頂いた資料によると)久保さんは、何と言うか、心の広い人で、陽子さんのお父さんと印象が近い。

斉藤:そうです。似ています。それは金持ちの持っている人間の寛大さだと思いますけどね。必ずしも金持ちだと寛大かといえばそうではないですけどもねえ、よく似た性格を持ってましたね。人に対して決して荒立てたりしないで、寛大にニコニコして受け入れるというところです。

森下:久保さんのところでコレクションを見た記憶はありますか。

斉藤:あります。

森下:瑛九(1911-1960)の作品とかありますよね。

斉藤:私が一番最初に行った時は瑛九の作品よりも外国の作品のコレクションの方が。瑛九の作品は私は覚えていません。だけれども北川民次(1894-1989)の作品はきっとあったと思います。瑛九は少し後になってから私はたくさん作品を見ました。
(※斉藤記:私自身、浦和の彼の家へも2回訪れています。)

坂上:久保さんはとても控えめな方だったと。

斉藤:そうです。

坂上:ものを押し付けたりという事もなく。

斉藤:本当に控えめだったですね。講演されたって、「もっとはっきり!」と私が言った事がありますけども。福井で講演された時にね、何と言うか、あまり決定的な事を言われないでね、匂わせる。いわゆる雰囲気をつくるっていう事があって。今でも覚えているのは、福井で講演された時に「どうしてもっとはっきりおっしゃらないのですか」と。

坂上:なんと答えられましたか。

斉藤:そうかなあ、と(笑)。

森下:52年に中央中学校で研究会があってその時に久保さんが来ているんですけど、その時でしょうか。

斉藤:いつなのか覚えていないです。もう少し後かもしれません。福井では久保さんの持っておられる版画展とか、外国の児童画展とか、展覧会をやってますからね、それと一緒に久保氏を招待して講演してもらったのだろうと思います。多分。初めの頃じゃなくて、少し経ってからだと思います。

森下:久保貞二郎の児童画展をやっているのが55年です。福井の中で9カ所まわってますね(註:1955年6月『福井創美の歩み』によると、久保コレクション「世界児童画巡回展」が福井県内13カ所で開催)。

斉藤:版画展というのもやってます。

森下:版画展はその前の年。

斉藤:ああそうですか。

森下:西洋版画展。だるま屋(1954年11月、久保コレクション「西洋版画展」だるま屋。久保貞次郎と瑛九が福井に来て講演する)。

斉藤:ああ、だるま屋。

森下:ご覧になってますね!その時に久保貞二郎と瑛九が来てます。

斉藤:かもしれない。私、瑛九さんが来たのは覚えてませんけど、久保さんが来たのは覚えてます。

森下:創美のゼミナールを日本各地で夏にやってましたけど、夏期ゼミナール。行かれてますか。

斉藤:いつも行ってました。それを企画する為の全国会にも委員として福井から行っています。

森下:それでは創美の会員ではなくて、もっと大事な役割りをされてますね。

斉藤:ある意味ではそういう。何故かというと私は中央中学校を3年かなあ、それ位でもうやめてますから。

坂上:異動になったんですよね。川上さんなんかとみんな一緒に左遷というか。

斉藤:そう、左遷になって。でも私は左遷じゃなくて、自分でやめましたけどね。まあ、川上の場合はそれこそ池田の山奥の全部の学年を合わせて1クラスしかない山の上の学校(池田中学校)に左遷されました。木水さんは鯖江市立河和田中学校。そんなに遠くじゃないけれども中央の付属中学から左遷されてますしねえ、それからもっと他にもいたと思う。渡邊(光一)さんも。

森下:かなりの方が中央中学校から異動というか、左遷されていますね。
(註:木水育男は1947年から福井師範学校附属中央中学校に勤務。1950年には野々目桂三も就任した。その後、「福井県児童美術教育会」が1951年12月頃発足。メンバーとしては、木水育男、野々目桂三、南部〔谷口〕等、川上高徳ほかとともに、斉藤陽子がいたという。1952年5月の「創造美育協会」の立ち上げ後、同年11月に中央中学校で大規模な研究会が開催された〔300名もの参加者があったという〕。中央中学校での児童画教育の実践が全国的に注目されてきたのであるが、1953年4月の定期異動で「木水、川上、斉藤などが中央中学校から異動し、福井創美のセンターとしての中央中学校の機能は崩れてしまった」という〔朝倉俊輔「野々目桂三と木水育男」、「美育文化」Vol.60, No.5、2010年9月による〕。既にこうした早い時期から、創造美育協会の運動へのある種の圧力が加わっていたと推測される。)

斉藤:川上君の場合は左遷です。山奥に。

坂上:中央中学校が創美の運動のアジトみたいな場所だった訳で。

斉藤:だから教育委員会から狙われたんですよ。うん。

森下:圧力が。

斉藤:あった訳です。教員の中できっとそういう事を教育委員会に、きっと教頭だとか、歴史の先生、何とかっていう、非常にそういう人がいた。」そういう人達がきっと教育委員会に言って出たんでしょう。だから、左遷されたという事でしょうね。

森下:でも斉藤さんの場合はご自分でやめられたのは、理由といいますか。

斉藤:理由は、私は国語を教えていてわかった事は、私は国語に対して、文学について本当に学んでいない人間ですよね。知っているという範囲。子ども達に基礎的な事を与える事は出来てもそれ以上となると私には学力不足です。自分でそれがわかっている。そしてやはりすべきじゃない、続けるべきじゃないと思った。という事で、何もいわゆる、考えが保守的な人たちとの戦いでどうのこうのというのじゃなくて、私は戦い続けてきましたし、私はある意味で自由な立場だったのです。だけどそういう意味じゃなくて私自身が私の能力不足、特に国語、日本の文学について知ってる訳じゃないですから、基礎を与える事は出来たけど、それ以上の事があるとね、私はそういうものをやはり感じていたと思います。

坂上:一番大事なところは教えてくれていますけどね。そんな先生はいないから。本当はそれが一番大事だと思いますけどね。

斉藤:そう思いますけどね、それだけじゃないですからね、国語の授業というのはね。

森下:その頃は中央中学校で教えてられたのも、ご実家からですよね。

斉藤:そうです。鯖江からです。

森下:そんなに遠くはない。

斉藤:遠くはないです。

坂上:話が久保さんに戻るんですけども、久保さんはおもしろい本とかそういうのを見つけると紹介してくれて。ヘンリー・ミラー(Henry Valentine Miller、1891 - 1980)とか。

斉藤:そうです。ヘンリー・ミラー、リード(Herbert Read、1893 - 1968)とかはそうです。ヘンリー・ミラーの本だとか、それから彼の水彩画ね。

坂上:そういう中に児童画があって、瑛九、北川民次とか紹介してもらった。

斉藤:それらは同時的にというものじゃなくて、それで混乱して起こったものですよね。

坂上:作品も紹介してもらって人も紹介してもらって。お互いに。

斉藤:久保さんのいいところは、それこそ児童画教育だけじゃなくて、芸術家たちも育てようとした。それは非常に大事な事です。いい作家たちを育てようと。教師は薄給ですけども、芸術家達に版画運動を普及させて、安く版画を人々に売って、買ってもらって、拡げて。普通の学校の教師達は、本物の芸術に接する為に、安く版画を買えるようにそういう運動をした。そういう事をしたのは彼だけだと思います。そうした事を同時的にしたのです。ただ児童運動をやったのではなくて、芸術家達も(育てようと)。また普通の学校の先生、小学校や中学校の先生なんて、本物の芸術家の絵を買おうなんて、買ったなんて、その前にはなかったと思います。今でもないかもしれませんね。だけれどもそういう運動をやった。「小コレクターの会」を作って。それは彼のやった非常に大きな仕事だと思います。総合的にものを考える力というか。ただ専心的にひとつのものだけにしていくんじゃなくて、総合的に、幅広くね。それが彼の特徴だと思います。
(註:瑛九の主唱で「よい絵を安く売る会」が発足し、第一回の展覧会が1956年7月1日から7日まで櫟画廊〔東京〕で開催された。この動きは同年秋頃に「小コレクター運動」ヘと展開した。福井においては1957年1月に「小コレクターの会」の第1回が開催された。久保貞二郎はこの運動について以下のように考えていた:「小コレクターというのは、3点以上の美術品を持っている人をいう。小コレクター運動は、いろいろな美術家の作品を一人でも多くの人に持たせる仕事をする。もしこの運動がなかったならば、けっして美術品などを所有することがないような階層の人々に、積極的に美術品を持つことを進める運動である。その目的は二つある『一つはこの運動によって小コレクターが沢山ふえ、彼等が今まで無関心であった美術に切実な関心を寄せるということである』『第二の目的は美術ジャーナリズムがその実力を正当に評価しないために不遇な位置にいる作家を支持し、これを社会に広める役割りを果たす』独創的な不遇な画家を小コレクターたちが支持すれば、先駆的芸術家の当然歩まねばならない茨の道を、いくらかふみかため、芸術家が自分の製作に熱中することを励ます役割を小コレクターたちは演ずる。この運動が健全に発達していけば、僕たちは僕たちの思想を、独創的な芸術家をとおして公衆社会に一歩々々確実に訴えることが出来る これは通俗主義との闘いであり、冒険に興味をいだく諸君自らの闘いである……。」〔『福井創美の歩み』に採録されたものを掲載〕。なお、この流れは福井では特に木水育男たちが瑛九の活動を長年に渡り支援したことや、児童画教育との連携として「わが家の玄関に子どもの絵を!!!」という運動へつながり、独自な展開を見せた。)

森下:斉藤さんご自身は小コレクターみたいな形で何かコレクションされたりとかは。

斉藤:ないですけどね、もちろん買った事はありますよ。瑛九の作品も買った事はありますけど、あれは誰だろう。愛知県にいた、鈴木……やっぱり版画をやっていた人ですけど、北川民次と関係がある、鈴木……こっちに持って来てだけどそれは一人の友達にあげちゃった。日本の版画に興味があるというので彼女にあげました。興味のある芸術家がこの上に住んでいてね、彼女にそれをあげました。非常に繊細な、木版画じゃなくて小口の版画、細かい表現が出来るんですが。それを買ってここに持って来てました※。
(※斉藤記:これらの版画は、アメリカを出てずっと持って来ていたのではなく、一度目か二度目に日本に帰った時に持って来たのだろうと思います。)
(※斉藤記:オノサトトシノブ(1912-1986)の作品を買った事があります。)

坂上:陽子さんも版画を作ったりしたんですか。

斉藤:作りましたよ。木版画はやった事ないですけど、エッチングだとかドライポイントとかそういうものはやりました。当時は、エッチングを刷る機械も鯖江に持ってました。エッチングの刷機っていうのはそんなに大きくない、小さいものですけどね、持ってました。

坂上:久保さんのところに教師をやめてから何年目かの委員会の時に私の描いた絵を持って行ってみんなに見せました、って事前資料に書いてありましたね。それは斉藤さんが自分の絵を久保さんのところに持って行って……。

斉藤:久保さんのところに持って行ってじゃなくて、その話は、私が後に北海道で日雇いをやってからだと思います。日雇いをしながら、絵を描いて、水彩ですけどね。日雇いの人夫をやめて北海道から帰って来た時に福井のどこかかな、東京だったか、創美の委員会があると誰かから聞いたんですね、その時に北海道で描いた絵を持って行ってみんなに見せたんです。特別、彼に見せたのではなくて。

坂上:久保さんが「ああ女性も変われるんだー。女性は20才を過ぎるともう変わらないというのが定説になっている。女性も変われるんだー」と(その絵を見ておっしゃった)。斉藤さんは「何を私の絵の中に感じられたのか知りませんが、そう言われて驚いた。その彼の言葉がいかに将来の私の大変だった人生を後押しし、支えて来た事か知れません」、と。

斉藤:そう。びっくりしましたよね。久保さんが見られてね、「ああ、女性も変わるんだ」って言って。私は変わろうと思っていた訳じゃなくて、ただ自分自身を見出そうと思って生きているだけでしょう。絵の中に何を見られたのか知りませんけどね。

森下:変われるという事は、前の事もご存知だから、比較して。

斉藤:そうです。

森下:前はいつ、久保さんは御覧になったんですか。

斉藤:創美の運動、いわゆるセミナーというのは幅広い運動でした。普通の学校の研究会というものはいたるところにあるでしょう、だけれども創美のセミナーというのは、ある時には写生会に行き、ある時には劇場で小さなパフォーマンスみたいなものをやったり。非常に総合的な動きです。子どもの絵だけを討論するんじゃなくて。もちろん分科会があって子どもの絵を見てそれに対して討論会っていうのはありますけど、その間に写生会に行くとか、シアターみたいに外に、ちょっと野外劇場みたいに屋根をつけた場を作ってパフォーマンスを、劇というのじゃないけれども何かを紹介するような総合的なものですよね。

森下:単なる研究発表というだけじゃなくて、先生たちもやってみる、子どもの立場になって。そういうセミナーだったんですね。

斉藤:そう。そういう時に描いた絵をみんなに見せ、久保さんも見て。

坂上:画家としてより高いレベルに行くためにお互い刺激し合う会でもあったとか。

斉藤:そんな大げさなものじゃなくて、いかに自己表現するかという事です。自由に。

森下:創美の事って僕は詳しくなくて、今回勉強したのですが、創美のひとつの大きな主張が、教師も先生も変わらなければいけない、自分を解放して、ね。

斉藤:そうです。

森下:それをこういうセミナーで。

斉藤:そうです。だからある人によっては、それはカオスであり混乱と感じる人がいて。「混乱した会だ」って書いた人がいたらしいです。それは最近知ったんですけども。「久保さんがやっていたセミナーは非常に混乱したもので感心しなかったけれども、木水さんが指導した絵を見ているとすごくいいものだから」というふうに。混乱ととった人も沢山いるだろうと思いますよ。それはしょうがない事でね。残念ながら、今だって同じ事ですよね。うん。

森下:生徒にも自由に教えるけども教員も自由にして。その為に、目を養う為に教員も本物の美術を買う、そして観賞して、それ以上の事を掴む。一緒に動いているんですね。

斉藤:それが創美の特徴であり、私が知っている範囲では、久保さんだけがそういう幅広い視野を持ってやられていました。そうした運動は世界でも他にないと思います。私は日本を出てから20年位経って初めて日本へ帰ったんですね。母が85才になったのでどうしても彼女に会いたくて日本に帰ったんですけども、その時にどうしても久保さんに会って言いたい事があったものですから、東京の久保さんのお宅を帰りの時に訪ねました。そして「創美の運動というのはどこの国にもなかった素晴しい運動でした」って言ったら、彼は「そうかなあ〜」って(笑)。

坂上:変わらないですね(笑)。

斉藤:変わらないの(笑)。彼はねニコっと笑われただけでした。

坂上:陽子さんはさっきもおっしゃったけど、本当に創美の中心に近い立場で雑務というか、チケットを売ったりとか。

斉藤:そうです。私はチケットを売ったり。だって私は学校の先生もやめて自由でしたから。ですからチケットを売ったり税務署に行って税金の問題とかみんな私がやってました。当然の事だと思っていました。

森下:当時は入場税というのがあって難しかった。

坂上:創美は一時期会員数が何千人もいるような運動だった訳じゃないですか。

斉藤:そうです。

坂上:大変ですよね。

斉藤:私がやっていたのは、全国的な動きじゃなくて、福井県だけです。福井県内でのある部分を受け持っていました。私にとって福井の運動は非常に大事だったから、他の人達は学校の先生だけれども、私は時間があるからそういう事をやったという事です。

森下:福井というのは創美の中でも、愛知県、埼玉県と並んで大事だった。活気もあったし重要な事をやってますね。

斉藤:そうです。『福井創美』というのは私が編集して出してました。自分でガリ版を買って。日本でそういうふうな事をやったのは愛知創美と福井創美だけです。1年に何回やったのか覚えてませんけど、全部自分で、私が受け持ってました。
(註:『福井創美の歩み』には「1954年1月30日 機関紙『福井創美』の編集、発行 斉藤・川上・渡辺・大畑」との記述あり。その創刊号以降ほぼ毎月1回の発行を重ね、翌年5月から「福井創美速報」として月2回の発行となった。)

森下:それは僕も見たいんですけど、お持ちではないんですよね。

斉藤:ないです。残念ですけどもね。私がやってました。

森下:かなり大事な役割りをされていましたのがよくわかりました。

斉藤:役割りをしたというよりも私自身にとって重要だったから。それほど大げさなものでもないです。

森下:文献(註:『福井創美の歩み』)によると、最初の創造美育ゼミナール(土浦市、1952年8月20日-23日)時は全国で73。福井が8名なんです。これがどんどん増えていくんですね。だけど福井で100はいなかったと思います。

斉藤:とにかく福井は非常に大事な運動の拠点でした。
(坂上註:斉藤からの事前資料「福井県は特に創美運動の盛んな県で、大野・勝山には中村さん、原田さん、藤さん、堀〔栄治〕さん……鯖江地方では藤本さん、渡邊〔光一〕さん夫妻、福井では谷口さん、岩本さん、川上さん等……。私は図工の教師ではありませんでしたから、ある意味で第三者的立場ですが、わたしから見てどの教師の子ども達の作品も同格で、特別誰かの子ども達の作品が優れていたとは思いません。勿論それぞれの教師の性格がどうしても子ども達の絵に現れてきますが、中村さんは福井創美の委員長でとても人柄が温厚な方で、あの頃小学校の先生でしたが、子どもの絵にあたたかさがあったように記憶しています。藤本さんの子ども達の絵は、低学年の子ども達でしたが、とても活発で特に生き生きしたものがあったように記憶しています。一度彼女の教えている教室を見たくて、神明小学校を訪れた事があります。今でも思い出します。勝山の保育園で保母さんの名前は忘れましたが、その保育園はとても貧しい保育園で何のおもちゃもなく、子ども達はダンボールを集めて積み上げたり、中に隠れたり、穴をあけたりして遊ぶという話をされ、それを聞いた時、さぞ積み木やその他の玩具で遊ぶよりダイナミックだろうなあとほほえましく聞いた事を覚えています。そしてそれを話された保母さんの生き生きとした顔が今だに思い出されます。そしてそれ等の子ども達の絵はとてものびのびしていた。新聞紙に書かれたものもあったような気がします」。)

森下:戦前から土岡秀太郎とかそういう流れが福井にあった事はわかるのですけど…

斉藤:それだけじゃないですよね。ある意味で偶然ですよね。偶然そういう人々がいて、そういう雰囲気が出来たという事で。そしてそれが不思議な事に長く続いて。福井の運動というのは、私は日本を去ってますけど、なおかつ続いてますからね、勝山の中村さんだとか、原田(勇)さんとか堀さん達。なおかつ創美のセミナーは全国のセミナーがなくなっても彼等だけの運動を続けてますからね。

森下:木水さんに関してはこの前お送りいただいた中に子どもの絵を家にかけようという運動を70年代に始められています。そのポストカード送っていただいて。あれを読んで、ちゃんと子どもの絵も額に入れなさいと。本当によくわかられてます。心得てます。画鋲で押してはいけないんですね。

斉藤:それはどうでもいいと思います。必ずしも額の中に入れたからどうのこうのという事ではないですけれど。

森下:大事に、丁寧に扱いましょうという事で。

斉藤:そうです。

坂上:陽子さんの表現の話に戻るんですけども、創美との出会いの中で油絵とか版画とかやられてますが、テンペラとか彫刻もされましたか。

斉藤:彫刻は日本にいる時はやった事ないですね。テンペラは水彩と同じ事。ただ絵の具が違うだけで(笑)。テンペラっていうのはあれは。

坂上:色の粉ですね。油絵の具はチューブから出すけれどもテンペラっていうのは使用方法がもっと難しい。

斉藤:私はそれを特に区別しませんけど。

坂上:誰かに描き方を教えてもらった事はなく全部独力で。

斉藤:だって私は子ども達を見ているんですもん。子どもたちは何も教えなくたって。それと同じように私だって持っているはず。あなたも持っているし。それぞれに持っているという事です。何も教えられなくても。未知のものへの好奇心。

坂上:夏期講習や他の集まりで、「手づくりの衣装を着てパフォーマンスのようなものに参加した」という記述がこれまでの文献で見られますが。

斉藤:それは違います。創美の夏期講座でのシアター。そうしたセミナーの時は私はある意味では役員で世話役ですから、人々の事を考えなきゃならない。自分のパフォーマンスの為に何かを一生懸命縫ったりしているひまはありませんでした※。ただ発想だけがくればそれはやるだけで。そこでやったのは、赤と白の反物を2つ買って何ら手を加える事もなく、会員の中でカップルで来ている人とかいるでしょう、2人の人を1組にして一緒に白と赤の反物を赤白交互にくるくる巻き付け、終りを布の間に差し込んだだけのものです。巻き付けたんですね。そして舞台の上を歩いてもらった。私は下で「これはカップルのための洋服だ」という事を説明した、ただそれだけで簡単なものです。まあとにかく単なる発想で2人で来ている人たちを巻き付けて(笑)歩いてもらった。
(※斉藤記:あの野外シアターを設置するという発想は、前から計画されていたものではなく、一日か二日前に会場での準備期間中に即興的に浮んできたものです。)

坂上:話が戻りますが、中央中学校の教師を自主的にやめられて、その後は川上(高徳)さんと一緒に住む事になった。

斉藤:そうです。

坂上:それは1953年に川上さんが山奥の学校に行くのがきっかけで。

斉藤:その前からです。

坂上:陽子さんはその山奥でも一緒に住んでらしたんですか。

斉藤:山奥には私は行かなかったです。私はその時東京にいたんです。
(※斉藤記:その時に私は(後出の)「女流アンデパンダン」に出品したのだと思います。《私の限界》という題の油絵を出しました。)
何故私は東京に行ったのかよくわかりませんけども、彼が左遷されて、池田の山奥に行った時に私は彼と一緒には行かなかったんです。私は何故、何をしに東京に行ったのか。東京で何をしたんだろうか。学校をやめた時は、彼と一緒に彼の家の近くに小さい家を建ててもらって住んでいました。2年位だったかな。そして創美の仕事を。『福井創美』の編集だとか、チケットを売ったりだとかそういう風な仕事を私が一手に引き受けてやっていたんですね。ちょっと待ってよ。それから何年彼は池田にいたんだろう。池田の後、彼は福井市の市民中学に移ってますよね。何年位かな。1年位だと思いますが、覚えていません。私は池田には一緒に行かなかった。それは住むところが見つからなかったというのもあります。あそこの学校はそれこそ小さなところで、生徒も10人位でね、1年から3年まで一組にすべての学年がいたんですから。池田の山奥。福井で言えばそれこそ辺鄙な山奥ですよ。

森下:(川上さんと)結婚はしていたんですか。

斉藤:していないです。

坂上:同棲。

斉藤:そうです。

坂上:それって当時の不良なんじゃないですか。

斉藤:(笑)同棲です。

坂上:わーわー言われないんですか。

斉藤:言われました。まあまあ。でもその頃は私と母の間はそんなに問題じゃなかったですけどね。そんなに遠くじゃなかったですからねえ、川上と2人でよく母の住んでいる家に行ってましたし、お風呂はいつも彼女の。あの時彼は市民中学にいたんだ。

森下:じゃあちょっと経ってからですね。

斉藤:そうですねえ。何年彼が池田にいたのか。そんなに長くじゃないと思います。

森下:2年か3年位?

斉藤:ノー。そんなに長くじゃなかっただろうと思います。たぶん1年位だったと思います。今考えてみると。

森下:お母さんは別に怒らずに。

斉藤:別に怒りはしなかったですよ。それよりはむしろ私が日本を出てからの方が。母は同棲に対しては何も。だけど近所の人達は変わったですね、私に対して。それまでは家の周りのお百姓さん達は朝でも「おはようございます」とか言っていたでしょう。それが私が飛び出して、彼と一緒になってから、周りの人たちは私に対してもうおはようございますとは言わなくなった。(笑)。

森下:今、飛び出した、とおっしゃられたけど、そういう事なんですね。そういう風に僕らも考えて理解してよろしいですね。

斉藤:飛び出して、
(※斉藤記:といっても、ちゃんと母に話して、準備をして、食卓や椅子も自分でつくり、そして母に「私は嫁入り衣装も嫁入り道具もいらない、その代わりに200,000円欲しい」と。そして母はそれに同意してくれました。一回に全部なくならないように、何回かに分けて。あの頃はまだ私の住んでいた地方では、結婚となると、花嫁は何台もの荷車に乗せられた嫁入り道具の列と共に移住して結婚式。外で見ている人々は花嫁を見送ると同時に、その花嫁道具の量で格をつけるという。ある意味ではおろかな習慣がありました。そういう時代です。)
そして私の家は大地主だけど、川上の家はちっちゃい。地主でしたけどね、そういうところに私が行って一緒に住んでいるという事は周りの人にとっては許されない事だったのでしょうね。だけれど母は私に対してそんなにあれじゃなかったけれども。
(斉藤記:その頃弟も我々の所に何回か来ています)。
それよりもむしろ私が日本を出てからの方が軋轢というのが大きくなった。母と、というよりも兄弟との軋轢とか、弟と姉の私に対する態度というのは本当に変わりました。申し訳ない事ですけども。日雇いを北海道でやったりとかね、私がその後にやった事は彼等にとっては恥ずかしい事であり、非常に打撃だったのでしょうね。非常に恥ずべき行為だったのだろうと思います。一番最初、81年に18年振りに日本に帰った時だって、その頃、私はフランスでもドイツでもどこでも、あっちでも追い出されこっちでも追い出され、レストランに住み込みで働いて、住み込みでベビーシッターしながら生きてきたでしょう。そうして貯めたお金って知れているもので、帰って母に会うだけでせいぜい。だけど私は母が85才だからどうしても帰りたい。そしたら弟から手紙が来てね、「みんなにお土産を持って来ないんだったら帰ってくるな」って。それか「もし日本へ住み着くんだったら助けてあげるけれども、そうでないなら帰って来るな」って返ってきましたね。お母さんも同じ気持ちだって。だけども私はそんな事は無視して帰ったんですね。そして羽田か成田かの空港に弟が来てまず言った事は「みんなにお土産は持って来たか」って。私は「何も持って来てないよ」って。まあ、残念ながら。そして帰りの時には福井から東京に出てどこかで一晩泊まらなきゃ飛行機に乗れないので、姉のところに泊まりたかったけれども姉は許してくれなかったのです。そういう事もあります。残念ながら。
(※斉藤記:彼等は、「あの子は甘やかすと何をするかわからない、少し懲らしめないと」と思ったのかもしれません。私は少し普通の習慣からはみだしていましたから。でもそれで良かったと思います。それがまた、バネになって、私は飛び上がりましたから。)

坂上:そうですか。それで川上さんが陽子さんと住んでいたお家はお母様が。

斉藤:ノー。川上の両親がお金を出した小さい家です。それこそ、この部屋だけもないようなねえ。

坂上:その後一人で生きる。東京に出る。何か川上さんに足りないものを感じたんですか(笑)。

斉藤:(笑)。

坂上:何かひとりでやりたいという気持ちを持ったのかなあ。

斉藤:それは複雑な問題でねえ。ある意味で彼の持っている、ある意味での偏狭な、小さい、偏狭さっていうものから出たかった(笑)。自分を解放したかった(笑)。

坂上:まあ男の人は女の人をねえ、まあどっちかと言えばやっぱり服従させたいから。

斉藤:そうですよね。それと自分で生きたいという事もありましたしね。私が学校をやめたのも、私からやめたという事もありますが、彼が、私が学校を続ける事を嫌がったんです。

坂上:うわあ。保守的なんですね。

斉藤:そうです。だけどもその時間を利用して私は創美運動をしましたけど。創美の運動が出来た事はもちろんある意味でいい事だと思いますけど。その期間にいろんな絵を描き出しましたし。だからなおさら自分で本当の意味で生きてみたいという何かがあったのでしょう。

森下:その時の絵は。

斉藤:鯖江にはあるはずです。そして私は一度東京に出て、
(※斉藤記:多分、川上が池田に左遷され私は東京にいた時だろうと思います)
「女流アンデパンダン」に出品した事がある。その絵は鯖江の家にあるはずです。
(※斉藤記:作品タイトルは《私の限界》。何故《私の限界》という題をつけたかというと、その油絵は割と攻撃的感情を表現したものでした。だが仕上がったものを見た時、それはそんなにアグレッシブな作品にはならなかった。あの頃、時々、生の攻撃的感情を表現した作品を見ていましたが……これは私の限界で、これ以上攻撃的にはなれないという意味です。この絵は鯖江にあるはずです。もし弟達が私の作品を捨てていなければ……。後に母の看病に帰った時、まとめて米蔵の中に「どうか捨てないで下さい」と書いて置きました。その中にはJoe Jonesから買ったギターの作品もあります。)

森下:「女流アンデパンダン」という展覧会はいくら調べても出て来ないんですね。どういう団体で誰がやったのかなど。
(※斉藤記:どういう団体だったのか私も知りませんが、展覧会は上野の美術館でありました。私の作品は、大きな壁面の最中に展示されていて、うれしかったのを覚えています。)

斉藤:これ位の油絵で。
(※斉藤記:少し大きな油絵です。小さなものは、後に個展をした福井のディマンシュホールの人達が後に送って下さったので、手元にあります。)

森下:20号位。大きいですねえ。

坂上:東京に出て、どこに住むんですか。

斉藤:探して下宿して。小さい家を見つけて。
(※斉藤記:三畳間の小さい部屋。台所、トイレは皆共同。)

坂上:だれか知り合いがいるからとかじゃなくて。

斉藤:ぜんぜん関係ない。
(※斉藤記:目白、池袋辺は学生の時から良く知っていたので、その辺を歩きながら、沢山斡旋屋があり、ガラス戸に安くて空いている部屋について書いた紙がさがっていました。)

坂上:いったら風呂敷ひとつで行くみたいですか。

斉藤:そうです。

森下:福井を出られてまず東京に行かれたんですか。

斉藤:彼と別れて東京に行ったんです。東京にはしばらくいました。どれ位いたか覚えてないですけども。
(※斉藤記:今、考えてみると、あの時の東京滞在はそんなに長くなかったはずだと思います。せいぜい2ヶ月くらいのものだったかも知れません。毎日のように来る川上からの手紙の応対が精一杯で、とても絵を描く心の余裕もないし、また、どうやって生きて行くかという目処も立っていませんでしたから。)

森下:福井を出て東京に行ったのはいつなのでしょう。

斉藤:63年に日本を出たでしょう。62年はまだ日本にいて、62年はアメリカ行きの準備をしてたでしょうし、61年は北海道にいたと思います。

坂上:60年も北海道にいたと思います。その後は。

斉藤:北海道からは鯖江に戻ったんです。

坂上:まずは川上さんと別れて東京に出た時は、自分で働いて、お金を得て。

斉藤:東京ではまだ働いていなかったです。何故かというと、川上から別れる時に、彼のお父さんが亡くなったのかな、ちょっと前に。それで遺産が入ったんです。そして私にいくらかのお金をくれたので、それを持ってきていました。

坂上:それで一度は東京に出たけれども、彼からの手紙にほだされてまた福井に戻るっていうのはどういう事でしょう。「戻って来てくれ」っていう感じの手紙が来たんですか。

斉藤:泣き言みたいなね。

坂上:何通も来るんですか。

斉藤:そうです、何通も何通も。何か知らないけど(笑)。何か、どう言ったらいいのかしらねえ。私が家を出た事を許した事に対しての後悔だとかだろうと思います。とにかく何かにほだされて一旦帰ったんですけど。

坂上:一ヶ月足らずで。

斉藤:一ヶ月かどうか覚えてませんけどもねえ、多分一ヶ月位だと思います。
(註:事前資料によると「教師をやめてから川上高徳と一緒に住む事になりましたが、ある時一人で生きる事を決心して別れて、一旦東京に出ましたが、彼からの手紙にほだされて、又、福井に帰りましたが、彼の目を見た瞬間、ああ間違いだったと思い、一ヶ月で又出る事にし、誰も知らない、行った事もない北海道に行く事に決めました」。)

坂上:その後に誰も知らない、行った事もない北海道に行く事に決めました、という。何で北海道に行くんですか。

斉藤:それもよくわからないですよね。自分でも何故かよくわからないです。多分一つの覚悟なんでしょうねえ。甘えるんじゃなくて自分で本当の意味で生きていきたいという事なんだろう。そうしなきゃならない何かがあったのでしょう、私の心の中に。
(※斉藤記:何というか、とにかくなんとかして自分に踏ん切りをつけ、自分で歩んで行ける自分になりたかった、その一つの心の表明だったのだと思います。外に男性が出来た訳でもない、とにかく一人で生きて行く自分を見出したいのだから許してほしいという……。)

坂上:北海道までの旅費とかそういうのは。

斉藤:それは彼からもらったお金を東京の時に全部使った訳ではないので、いくらかはまだ持っていましたから。

坂上:それで北海道に列車で行く訳ですねえ。

斉藤:それも手荷物があるでしょう、身の回りのものもね。それを創美の会員で北海道から来ている女性がいて、彼女は函館の人だったと思います。彼女に「荷物を送らせてほしい、そして1日だけ泊まらせてほしい、どこか住む所を見つけるまで」とお願いして。ところが彼女に怒られました。「そんな事を他人に簡単に頼むもんじゃない」って(笑)。勿論よく知っている人じゃないですけれども、創美で知っている人にそんな事をした私の間違いですけども。とにかく荷物を送って一晩泊めてもらってすぐどこだか月寒かどこかに部屋を見つけたんですけど。彼女には嫌がられました。今でも覚えています。ある意味で私の甘えだったんでしょうけどねえ。

森下:その頃北海道に行くとなると、甘えるというよりは、少しでも伝手があれば頼りますけどねえ。

斉藤:私は彼女の生活っていうのを知らなかったですからねえ。自分と同じような気持ちでお願いしたって事が間違いだったのでしょう。まあ、そういう事もあります。

坂上:その後自分で部屋を探したんですか。

斉藤:そうです。新聞で見て。新聞にいっぱい出ていたんですね。部屋を貸したいっていう人が。それで探してそして移った。

森下:季節はいつごろでした?冬ではない。

斉藤:冬ではなかったんだろうと思います。でもいい経験だったですよ。北海道の生活っていうのは。

坂上:部屋を借りた女性が日雇い人夫だとか。

斉藤:そうです。
(※斉藤記:彼女には一人のまだ小さい、5−6歳の子どもがいました。もっと本当の事を書けば、日雇いとして働き始めた月寒の前に、もっと離れた、名前は忘れましたがそこに住む部屋が見つかり、移りましたが、あまりに辺鄙なところで、働く所を探すとなると不可能で、すぐまた、新聞で月寒に部屋を見つけて移りました。)

坂上:女性の日雇い人夫って聞いた事がないのですが。

斉藤:あの頃はしょっちゅういました。

坂上:女性が男性と一緒の仕事をする。

斉藤:そうです。あの頃はねえ、私が働いていた建築会社でも女性の方が日雇い人夫は多かったです。

坂上:若い、陽子さんみたいな年の人ですか。

斉藤:必ずしもそうじゃないですよ。若い人も、私より年上の人もいました。お寺の奥さんっていうのも一人いましたしね。もう一人はどういう人か知らないけど、もう一人は、ご主人も人夫でね、残念ながら非常に心が荒れた人でしたけど、北海道でトタン屋根の小屋に住むっていうのはさぞ寒かっただろうと思います。夫婦で人夫をやりながら。だから彼女の心は、お寺の奥さんとは違って非常に心が荒れていましたけれども。2人は男の人、4人女性です。私達の働いていた建築会社っていうのは、あの頃は機械も何もない、起重機なんてないし、トラックすらも持っていなかっただろうと思います。だからみんな人力に任せられてね。女性っていうのはもちろん体力的に男性とは違いますから給料は半額ですよね。だって、大きな丸太を運ぶにしても男の人は一人で運ぶにしても我々は2人で運ぶっていう事になるでしょう。何を運ぶにしても皆我々の人力でやっていたんですから。何も機械がない頃ですからね。だから女性は沢山いました。今は日雇い人夫は女性は一人もいない、みな男ばかりで。たとえ機械があるにしても。時代が全然違います、あの頃は。

森下:どんなお仕事だったのですか。具体的には。道路を直すとか。建物を建てるとか。

斉藤:一番最初は、学校か会社の寮か、何か大きな建物だったですよ。いろんなものを運ぶ事に非常に人力を必要としていたんですね。

森下:一日働いてその日にお給料をもらう。

斉藤:そう。もし休んだり時間が遅くなるといえばそれだけ引かれる訳よね。

坂上:札幌郊外の月寒(つきさっぷ)。

斉藤:「ツキサップ」。
(※斉藤記:多分アイヌ語の読み方だと思います。)
(註:現・札幌市豊平区月寒〔つきさむ〕)

坂上:そこで何ヶ月も働く訳ですよねえ。

斉藤:そう。私は5ヶ月位働いたと思います。
(註:インタヴュー事前資料「由本みどり(美術研究者)さんが、私が北海道で日雇い人夫をしていた時、女性の給料は男性の半分だった事にふれ、私がそこでジェンダーに目覚めたと書いています(2005年に栃木県立美術館で開催された「前衛の女性」カタログ内に次のように記述—……日雇い労働を経験して初めていかに男性社会で女性がひとりで生きるのが困難かを悟る……)をさす)。私はそれをただ事実として話しただけですし、ただ事実として受取っただけで特別に男女差別意識は持たなかった。何故ならその時代、そして以前には、それ等は当然であり今でもそんなに変わらないと思います。私の生まれた家でも庭の草取りの仕事には女性の人足だけでしたし、屋根の雪おろしには男性の人足だけでしたし、それぞれ違った職種があり、又、多分日給も違っていた事だろうと思います。日雇い人夫の仕事も男女同じ仕事をしたと言っても、一人が砂利を運ぶ量は多分男性と女性では違っていたでしょうし、丸太運びにしても男性なら太いものでも一人で運んだものを、女性は2人で運ぶという事もあったのですから。給料の違いをどうこういう気持ちはさらさらありませんでした。あの頃、何ら機械はなく、ほとんど人力で、大きな梁を運ぶのも砂利を運ぶのも、私が働いていたのは小さな建築会社で会社自身トラックすら持っていなかったのではないだろうか? 木材は材木会社からトラックで運ばれて来て……土台を作るために土を掘るのも人力で、土地によっては石ころの多い土地があり、それを掘るのは大変な事で、スコップは入り込まず、汗が流れ衣服はぐしょ濡れになり、特にジーンズは次の朝、汗の塩分で白い地図が出来ていた様子が今でも目に浮びます。そんなの見たのは初めての経験だったので。それでもそういう仕事をする事にみじめさを感じなかった。むしろそれ等の人々と一緒に、以前には考えられなかった、それ等の人々が世の中に居るのを知っていたとしても、それ等の人々に支えられていた事など考えなかった世界の中で、そうして共に生きていける事への喜びというか、ある意味での満たされた感じがありました。それは肉体的には大変でしたが。わたしは一生けんめい働いた給料が半分だからといって手抜きしようなどとは考えもしなかった。そして皆とてもいい人々でした。我々の間に何等のいさかいも起こらなかったし、一つも嫌な思いをした事を思い出せません。そして一緒に働いた人々の顔々が昨日のように思い出されます。班長さん(多分そう言っていたような気がします)は少し年の人で、あまり大きな人ではなかった。もう一人の若い男性は背が高く知的でおだやかな人でした。男性は2人だけで誰も感情的な言葉をはかなかったし、日雇い人夫という職業がら何か荒っぽい人々のように想像しがちですが、まったくそういうものはなく、我々女性は4人でしたが、彼等は我々に親切だったし、決して尊大でも命令的でもなく共に助け合いながら仕事をした事を思い出します。女性は一人の少し年上のお寺の奥さん、とてもいい人でした。新米の私にとても親切だった。一人私より少し年上位の体の割に小さい人は、彼女の夫も日雇い人夫で、ブリキ屋根の小さなほったて小屋に住んでいるとか、彼女はその生活の苦しさからだと思いますが、心が荒れているような所がありましたが、それでも我々はお互いの間にギクシャクする事もなく良いチームだったと思います。(※斉藤後記:彼女は私より若い、と前述しましたが、私より少し年上なのか、そのあたり、どちらが本当か覚えていません。)もう一人中年位の割に大きな体の人が居ましたが、正確に彼女の性格を思い出せません。そういう生活をしながら、私は家では絵を描いていました。現場が家から近い時には昼食休みには自転車で家に帰り食事をし、残りの時間は絵を描いていましたが、時々絵を描きながら眠ってしまい、時間が過ぎてしまって午後休んでしまう事もありました。日雇いをはじめて4、5ヶ月頃のある休日に札幌市に行った時(私の住んでいたのは月寒)何かの拍子で画廊に入り、小さな個展を見ました。小さい水彩画でそれ等はある意味できれいでしたが、センチメンタルで、それを見た時、「ああ、私のしなければならない大事な事は他にあるのではないか?」……と思い始めました。(その時はまったく甘ちょろい金持ちの家に生まれた人間の発想で今考えても恥ずかしくなりますが)そして一ヶ月後位に母に北海道の開拓された山の中に安い土地があるからそこに小さい家を建て、日雇いを止めて芸術に専念したいと思うから家を建てるためのお金を送ってほしいと手紙を書きました。母からお金を送ると言って来た時、ああそんな事にお金を使う事なく、それでアメリカに行って自分を試してみようと決心しました。そしてその事を母に書き福井に帰って、アメリカ行きの準備をやりはじめました。」)

森下:先程、女性だから給料は半分だっておっしゃってましたけど、大体一日どれ位頂いていたんですか。

斉藤:覚えてません。

森下:逆に頂いていたお金で生活は出来た。

斉藤:してました。
(※斉藤記:「そうです、してました」と言いたいですが。その給料だけで生きていけたかどうか覚えていませんが、本当に生きようと思えば出来たかもしれませんが、これも私の甘えで、私は母に手紙を書き、日雇いを始めたがそれで生きるのはちょっと大変でどうか月2000円か3000円位援助してほしいと。そして送ってもらいました。情けない話ですが……。)

森下:お休みもあったんですね。

斉藤:覚えてません。日曜日とかなかったと思います。

坂上:絵を描いたりしましたか。

斉藤:しました。その間に。私は絵を描いてました。休みの日じゃなくて、昼休みの時間があるんですよね。私の現場は割と家から近かったんです。だから昼食を現場で食べないで家に帰って食べて、そして残った時間で絵を描いて。時には疲れて、とにかく肉体労働でしょう、絵を描きながらうとうと眠ってしまってね。もう午後の仕事を休まざるを得ないときもありました。もうふぅっと寝ちゃってさ。

坂上:気がついたら夜になっていたとか。怒られるんですか。

斉藤:怒られはしないです。給料もらえないだけで。休んだら入らないです。

森下:小さい頃からお転婆で快活で走るのも早かったから、体には自信があった。

斉藤:あった訳です。
(※斉藤記:特別自信があった訳ではありませんが、何事もなく幸運だったと思います。ある意味で肉体的に鍛えられていました。川上と住んでいた所は高木という小さな村で、そこから福井や武生、鯖江に行くにも田んぼ道を4、50分歩かなければ電車に乗れなかった。)

森下:それでもお疲れになっていた。

斉藤:現場が初めは家の近くだったのですが、その次は家から遠くなってね。それで自転車を買って(笑)自転車でその現場へ。他の人達はバスで通ってましたけどね。私一人だけ自転車で遠い現場へ通ってましたから、体力的に大変でした。朝早く。バスに乗ったら早く着くけれども自転車だと時間がかかるでしょう。その朝と帰りの時間と。体力的には大変でしたね。2回目の時は、いわゆる土台を掘る為にね、スコップで土を掘る訳でしょう。そこの土地は砂利が一杯あってね、スコップが入らないんです、全然。そうするともう汗びっしょりになってねえ。次の日になるとジーンズがねえ、地図が出来てくるんです。汗の塩で白く。あれは初めて見た。今でも覚えてます。ジーンズに塩が寄って地図にね。もうぐしょぐしょになって。スコップで一生懸命入れても砂利がいっぱいあってさあ、もう入らないんだもん。そういう事もあった。

坂上:日雇いの人たち同士で遊んだり話したりはあったのですか。

斉藤:もちろん。私達の間でぎくしゃくした事は全然一度も覚えていません。それこそみんな助け合って。男の人って日雇いの人って、荒っぽいかといえば全然荒っぽくない。そんな人々じゃなかった。すごく優しかったし、みんな協力しあってやってました。だから全然トラブルとか覚えてないです。男性との間とか我々との間にもねえ。私は全然覚えてません。

森下:陽子さんが一番若かったんですか。
(註:当時、30歳を超えた頃であった)。

斉藤:私が?ああ……ちょっと待ってよ。さあねえ。ノー、若かったかもしれないな。か、もう一人の夫婦で住んでいて心が荒れた彼女が一番若かったかもしれない。

坂上:4、5ヶ月後に何かの機会に日曜日に札幌に行った時にふと一つの小さな画廊に入ったっていうのは。何かたまにそういうところに、札幌に行った時に立ち寄るなどしていたんですか。

斉藤:何か物を買いに行って。札幌と月寒はそんなに遠くないですからねえ。

森下:自転車ですか。

斉藤:自転車かバスかよく覚えていないですけども、とにかく行った時に、何かひょっと。画廊に入ってみようなんて思った訳でもないんですけどね。建物の中にいろんなお店があってそのうちの一つが画廊だったのかなあ。何か市場を歩いていたら画廊があって、ちょっと入ってみたんですよね。

坂上:画廊に行くのも久しぶりで。

斉藤:久しぶりです。ちょっと見てみたくて。そしたら凄く小さな水彩画でね、綺麗なの。ですけど、私にとってはセンチメンタルな感じがしてねえ。何か弱々しいっていうのか、感傷的になる。絵の雰囲気がね。

森下:変な言い方ですけど、斉藤さんにとってその絵はそんなにいい絵ではない。

斉藤:綺麗だけれど、私に何か励ましを与えてくれるとか、刺激を与えてくれるものではなかったですよね。甘い。甘っちょろい。そういう感じのもの。偶然。北海道で見たのはそれが初めて。そこで接した時に、ああ、何かねえ、私がやらなければならない事は……私はちっとも人夫をやっている事に対して引け目も何もなかった、楽しいとは言えないけれど、大変だったけれども自分なりに満足して生きていた訳ですよね。その間に絵を描いて。

坂上:一人で生きた訳ですよね。

斉藤:そう。久保さんに会い、久保さんから外国の絵のコレクションを見たりとかいうものとは違う甘い絵だった訳ですよね。その絵を見た時に、私がやっている日雇いをしている事が私の自己満足に過ぎないのではないか? 私がやらないと行けない事は他に大事な事があるのではという気がしたんですよね。

森下:するとその時点では、その絵をみた瞬間に彼女が描いた絵に対して、その時の陽子さんは自身の鏡を見たような気がしたのでしょうか。

斉藤:ノー、違います。彼女か彼かは知らないけども、私とは同じじゃないです。絵から感じるものは同じではないです、もっと甘いもの。人生に対するものの考え方とか、絵から感じるものは非常に甘っちょろい。

坂上:けれど何かやらなくちゃと思って、日雇い人夫を一月後位にやめる。

斉藤:うん。

森下:一ヶ月の間にいろいろ葛藤があったんでしょうねえ。

坂上:日雇いの時にも絵を描いている訳ですよね。自分で。それがもっとこう、高まってくるのかな?

斉藤:わからないですけどね。それもある意味で私の非常に甘い考え方ですけどもね。ある意味では、母に甘えて、結局「お金を私に送ってくれ」って。家を建てるからって。それこそ今考えると恥ずかしくなりますけど。

坂上:芸術に専念したいと。北海道の地で。

斉藤:芸術に専念したいなんて、今、考えると恥ずかしくなりますけど。だけど母が「お金を送る」って言って来た途端に、「あ、やめよう」と思って。

坂上:お母さんもかわいそうですねえ、娘がもうやっと改心したかと思ったのに(笑)。

斉藤:もっと違うところで自分を試してみたいと。

坂上:そのお金でアメリカに行き、自分を試そうと思った、と。北海道の次にアメリカという単語が出て来るのは、

斉藤:どういう事かなあ、どうしてアメリカだったのか。日本では芸術家っていうのはフランスのパリが中心だったですよね。だけどもそうじゃなくて……もちろんその頃既に靉嘔(Ay-O/1931-)はニューヨークに行ってたかな。

森下:靉嘔さんからとか。

斉藤:私に直接は何もない。

坂上:創美の何かは。

斉藤:そうねえ、どうか知らないけど、いくらか。靉嘔から久保さんへの手紙が行っていたのを聞いていた事がありますが、私と直接はありません。文通とかそういうのもありませんでしたから。

坂上:アメリカはこんなに楽しいとか。

斉藤:ノー。 楽しいとかそういうんじゃなくて、フランスのいわゆる伝統的な芸術の運動とは違った動きがアメリカにはあるという雰囲気を私は感じてました。靉嘔から久保氏にあてた手紙から聞いた通りで、アメリカにはもっとフランスのパリの芸術運動のような古風な運動ではない何か新しいものがあるようなものを感じていた。

森下:靉嘔さんが行かれたのは1958年。靉嘔の手紙は久保さんの本に採録されているのがあります。でもその頃に日本の美術の中ではまだフランスの方がすごいとされていたのに、アメリカにと思ったのはアンテナが鋭かったのだと思う。結果論ですけどね。

坂上:お母さんは「ああいいわよ」っていう感じでお金を送って来てくれたんですか。北海道に小さな家を建てて暮らすんだと書いただけですよね。お手紙一枚ですよね。
(※斉藤記:お金はまだ受取っていませんでした。)

斉藤:そうだったと思います。彼女もわかっていたのでしょう。私が何をやっているのか。ある意味で同情もあったのかもしれないですけどね。

坂上:でもそのお金でアメリカに行って自分を試そうと。その事を母にまた手紙で。

斉藤:そうです。出しました。そして、返事はどうだったか知らないけど、とにかく鯖江に帰りました。覚えているのは、自転車を質屋で売って(笑)。

坂上:日雇い人夫のお友達とは何か。

斉藤:日雇いっていうのは6ヶ月働くと保険が出るらしいのね。北海道は寒いでしょう。失業保険みたいなのが出る。働いている日給よりは少ないけれどももらえるそういう制度があったんですよ。私は大体5ヶ月位でやめたので、みんな「残念だ、6ヶ月働けば保険が貰えるのに」って。今でも覚えてます。

坂上:鯖江の家に戻ってというのは、お母様が住んでいらっしゃるところに。

斉藤:そうです。

坂上:弟さんは。

斉藤:学生だったかな。京都大学の学生だったか卒業していたか。覚えてません。

坂上:家にいらしたのはお母様。

斉藤:母だけでした。

坂上:一人で住んで。

斉藤:うん。

坂上:では喜んだでしょうね。アメリカに行くとは言ってももしかしてまた家に戻ってきてくれるんじゃないかって。

斉藤:かもしれませんね。あの時、母は70近くなってましたからねえ。そして私が出掛ける時に、武生の駅までわざわざ送りに来てくれました。戦後になって、母は畑仕事を始めて、草取りを始めてから腰が曲がってしまってね。いつも歩くのも大変な状態でした。

坂上:お屋敷の奥さまだったのに。

斉藤:それでも送りに来てくれました。戦後の母は本当によくやったと思います。

森下:それでも残らずに行かれた訳ですね。

斉藤:もちろん。とにかく私はどっちにしても家を出る人間ですからねえ。

森下:次女ですからね、でも……。

坂上:お母様には何か言われましたか。諦めてか。

斉藤:まあ、諦めざるを得なかったですよね。そして私はその後、日本に帰って母を訪ねるなんておよそ出来ない状態でしたからね。自分が生きるのが精一杯で。母の手紙は今でも持っています。いつも彼女が私に言ってきたのは、「みんなに親切にして、そして体を大事に生きる」って事でしたね。

坂上:本当は娘にそばにて欲しいのに。アメリカに行く時にお母様の伝手で繊維会社のデザイナーの嘱託としてワーキングビザと得たという事ですが。

斉藤:直接の母の伝手ではありませんが、母を通して知った事からです。父がいるころ彼が酒伊繊維の株を買っていて。社長が良く来ていましたから良く株を買ってあげたり、一部の土地は父が所有している借地でしたし、社長を知っていた訳ですね。母がそれを教えてくれたので、酒伊繊維の社長の所に行って、仮の職員にしてもらったんです。お金は貰わなくていいから、とにかくその名前で海外に、って。あの頃は旅行者として海外に行くのが許されていない時代。お金を持ち出してはいけない。日本はまだ貧乏国でね。職業として行かざるを得ない。外国に行って商売をして日本の会社を助ける為とか、向こうにスポンサーがいるとか、それがお金を出して私を呼んでくれるか。そうでなかったら外国には行けない時期でしたからね。だから私は福井市にあった酒伊繊維の彼の家のところへ行ってお願いしたんです。今でも覚えてる。

森下:陽子さんがご自身で行った。

斉藤:私自身が行きました。そして私を仮の職員にして欲しい。給料はいらないけれども、とにかく職員としてアメリカに派遣するっていう名目をって。

森下:ちなみに酒伊繊維の会社がアメリカに支店を持っていたという事は

斉藤:全然ないです。という事は、私は酒伊繊維の繊維デザイナーとしてアメリカで何か新しい事を学び、公社に貢献するという名義にしてもらって。

坂上:お母さんは断腸の思いだけど応援はすると。

斉藤:母はそんなに反対はしなかったですよ。特別反対はしなかったです。

坂上:アメリカ行きの準備というのは他に何をしましたか。

斉藤:もちろんビザの準備がありますね。それから向こうに行ってから、誰か知っている人を……受け入れ先みたいな人を探しました。それも酒伊繊維の伝手で誰か。私はよく覚えていませんけども、ニューヨークに住んでいる人が私を空港に迎えに来てくれて、アメリカのニューヨークにはすごく安く泊まれるホテルがあるんですよね、そこを見つけてくれて私を受け入れてくれた。そういう世話をしてくれる人を探すとかね。

坂上:渡航費用は。

斉藤:渡航費用は家を建てる為に母がつくってくれたお金です。

森下:あの頃は日本円が1ドル360円。

斉藤:そうです。

森下:500ドルしか持ち出せなかったですよね。

斉藤:そうです。
(※斉藤記:けれども私は500ドルの外に、母からもらった残りの円を腹巻きに入れてアメリカに持っていきました。そして母からもらったお金をニューヨークの東京銀行でドルに替えたら1000とちょっとになり、それと500ドルから使った残りを合わせて、大体1500ドルを、その先何が起こるかわからないので、貯金し、私はすぐ働きはじめました。)
私は迎えに来てくれた人の伝手で、すぐ高島屋の掃除婦として働きはじめました。5丁目に高島屋の支店があったんですよね。

森下:それは簡単に見つかるようなものなんですか。

斉藤:何故か知らないけど割と簡単に。そういう人の伝手でもって。私は彼等には一度しか会ってないのですけど。酒伊繊維の社長の関係でもってすぐ仕事が見つかったんです。幸運な事に。私はいつも幸運だ。本当ですよ。アメリカですぐに仕事が見つかったでしょう。いつも何かあると次のものがすぐに見つかるんだよね。助けてくれる人が見つかるんだ、すぐに。

坂上:アメリカ行きの準備期間に東京で創美の委員会があるというので、北海道で描いた絵をみんなに見せたら久保さんが買ってくれたというのが。

斉藤:それはあります。

森下:それがさっきの「女性も変われるんだ」って言われた時だったのですか。

斉藤:その時だったかどうかよく覚えていませんけれど、私はとにかく持って行ったら、彼が買ってくれた。こんなに安く売る人はあなたが初めてだって(笑)。

坂上:いくらで売ったんですか。

斉藤:いくらか覚えてませんけど。私は自分が芸術家だと思ってませんからねえ。だから凄く安く売ったんです。
(※斉藤記:一枚150円位?)

坂上:だけど久保さんが買おうかって言ってくれたんですよね。買おうかって言われて、じゃあいくらだって言われて。

斉藤:こんな自分の絵を安く売る人はあなたが初めてだって。

坂上:北海道で描いた絵っていうのは風景画ですか。

斉藤:そうじゃなくてアブストラクト。

森下:栃木に出ていたのもその頃のもの。(註:「前衛の女性1950-1975」展、栃木県立美術館、2005年7月24日−9月11日) 

斉藤:ああいう系統のものですね。

森下:その時靉嘔さんはニューヨークにいましたが何か連絡はありましたか。

斉藤:何もないです。なかったですけれども、ニューヨークに着いた時にね、私は彼に電話をかけたか手紙を書いたかして、一度訪ねたいって。

坂上:じゃ連絡先は誰かが教えてくれて。

斉藤:もちろん。久保さんから聞いてますから。

坂上:川上さんもその頃。

斉藤:彼もニューヨークに行っていたんですよ。

坂上:示し合わせていた訳ではない。

斉藤:全然。彼は他の女性、ガールフレンドがいましたからねえ。後から彼女が追いかけて来ましたから。

坂上:靉嘔さんも後から奥さんが追っかけてきたんですよね。最初は靉嘔さんだけ。でも靉嘔さんはちゃんと結婚されていたから。

斉藤:そうだ、郁子さん(註:靉嘔の奥さん)は後からで。そして彼女は日本商社で働いていましたね。それでもって彼等は生活をしていたと思います。

坂上:北海道からアメリカ行きの準備をする為に鯖江に戻って。それから東京へはたまに行くとか、東京に住んで何かをしたとか。斉藤さんからの事前資料によると「アメリカ行きの準備期間中に東京で創美の委員会がある事を知り、北海道での絵を持って行き、皆に見せました。久保さんもおられ、小さい水彩画を何点か買って下さいました。そして彼は『こんなに自分の作品を安く売る人はあなたが初めてだー』と言われました。私としては自分がまだ芸術家だなどと思っていませんでしたから、当然の事でした」と。

斉藤:北海道の後は東京に住んではいません。よく覚えてませんけど、東京で委員会の時だったか、他で委員会の時だったのか、委員会がある事を聞いて、みんなに会いたくて。北海道に行ってましたからね、しばらく創美の活動もお休みになりましたからね。
(※斉藤記:多分東京だったと思います。創美の全国委員会はほとんどいつも東京であったと思いますから。)

坂上:その前までは割と創美の中心に近いところで活動されていましたからね。

斉藤:そうね。だけどもうその頃は創美も下火になっていました。大げさなセミナーもなければ。だが福井支部は続いてましたし、愛知も続けていたでしょうし、東京も続けていたかもしれません。そういう支部的な活動は続いていたとしても、全国的な活動は止まってましたからね。

坂上:「女流アンデパンダン」とかは。

斉藤:その期間中は公募等には出してません。だっていつビザが下りるのかわかりませんから。

坂上:ああ、ビザが下りるのは向こうの勝手で下りるのか。

斉藤:そうですよ。ビザが下りたらすぐに行きたかった訳ですからね。そんな事はしていなかったですね。

森下:「女流アンデパンダン」っていうのはなかなか困っちゃって。いつなのかっていうのと、どういう展覧会だったのか正体がつかめなくて。でも「女流アンデパンダン」というものに出されたのは確実。いつだかわからないが。
(※斉藤記:前にも書いたように、時期が遅い時期に東京にいた時ではなく、もっと早い時期、川上が池田にいて私が東京にいた時ではないかと思います。だが今考えてみて、何等、東京の創美の人々との交流が思い出されない。どうしてか?自分でもよくわかりません。)

斉藤:いつだかわからないが絵の題は覚えてる。《私の限界》っていう題ですよ。

森下:そして抽象的な。

斉藤:いや、抽象ではない。抽象と言っても具象の抽象化です。ある意味で戦い。その絵に出てくるひとつは戦いみたいな。闘争が感じられるような絵でした。

坂上:陽子さんって昔の事、いろいろな事を穏やかに話をしてくれるじゃないですか。でも常に「戦っている」という感じがありましたか、自分の中に。

斉藤:さあねえ。でも戦わなきゃねえ(笑)。

森下:それがさっきおっしゃった20号位の。それは福井にあるかもしれない。

坂上:ニューヨークに渡ってからのお話は明日聞こうかと思っています。

斉藤:今日はまだ2日目でしょう。

森下:2日終わったのにまだニューヨークに行ってない。

坂上:でも何か大切な話が創美に。創美にいた頃の葛藤というか。

斉藤:だって私の元っていうのは創美ですからね。

坂上:そこが一番重要。

斉藤:私にとっては重要です。フルクサスよりもね。

坂上:明日もニューヨーク行きをする訳ですが今日の復習をしがてらニューヨークの事をお聞きしたいと思います。さっき久保さんが「ああ、女性も変わる事が出来るんだ」という事が今でも陽子さんはすごく大切に思われている。

斉藤:それ程でもないですけれども、彼がそう言ったって言う事は、私を支えてくれているという事です。私は自分ではそういう事を考えていませんけれどもね。そう言ってくれた人がいたという事が、私を後押ししてくれている。

坂上:創美の人達は陽子さんがアメリカに行くという時は、連絡先を教えてくれたりとか、いろいろサポートしてくれたような感じですか?

斉藤:特別そういうものはなかったと思います。

坂上:ではこの辺にしておきましょうか。

坂上:川上さんが既にニューヨークに行ってらして、新しい恋人がいるというのは知ってらしたんですか。

斉藤:ノー。そうじゃなくて、北海道にいた頃、もう彼は新しい女性が出来ていたんです。同じ中学に教鞭をとっていた人でね。その事は知っていました。

坂上:複雑な思いは。

斉藤:ノー、別に。
(※斉藤記:彼から退ったのは私の方からです。というのは、彼を外の人々に明け渡したと同じ事で、そういう事が起こるのは当然です。)

坂上:だってほだされるような手紙を送って来た人じゃないですか。なのに。
(※斉藤記:はじめ、東京に出た時は、初めての経験でどう対処してよいのかわからず、一生懸命彼をなだめようとしましたが、ほだされて結局彼の所へ。だが東京から帰って玄関で彼の顔を見、彼の目を見た所に、何か本当に私を待っていたというものではないものを感じました。彼はある意味で、色々と煩悶していたのだろうと思います。今思えば。そして私はまた、一ヶ月後に、北海道に行く事にしました。その頃彼は武生の中学校にいました。その中学校は、我々が住んでいた高木と武生の間にあり、何かの事で武生に行った時、その学校に寄りました。彼の部屋は、他の教官室から離れた木工室の隣にあり、外の一人か二人の先生と共同で、そこに何の予告もなく行った時、丁度、イツ子さん(私はいつもイツ子さんと書いていますが正しいのかどうか定かではありません)と彼女の娘、4つか5つ位がいて紹介されました。その時何か複雑な思いがしたのを覚えています。そして私は北海道へ。その時も初めの頃は何かほだされるような手紙が来ましたが、その時はもっと理性的になろうと距離を持ちながら(時間的にも)、彼が新しい人生の道を見いだされるよう願いながら手紙を書いていました。そして私は、日雇いの仕事と絵を描く事に熱中しました。そして手紙はだんだん遠のいて行きました。)

斉藤:彼はね、残念ながら弱い人間だと思います。私はある意味で間違えてなかったと思います。彼のところを出た事。

坂上:実は森下さんが斉藤さんは川上さんと結婚していたのではないかと言っていて。

森下:実はクリスティアーネ・フリッケ(Christiane Fricke)が依拠していた例の「1962ヴィスバーデンのフルクサス 1982(1962 Wiesbaden FLUXUS 1982)」、ヴィースバーデン美術館〔Museum Wiesbaden〕ほか、1982-83年)展のカタログに、レネ・ブロック(René Block)の考案で一人ひとりのフルクサスの人に対していくつかのABCで個人情報を示していた。そこで斉藤さんのところは結婚のところに○がしてあって。
(※斉藤記:レネ・ブロックがあのカタログをつくった時、それぞれのフルクサスのアーティストの情報を記号で示す案を持ち、それをおそらくですがRobert FilliouとEmmet Williamsに委ねたようです。ところが彼等はそのアーティスト個人個人にあたって確かめずにあれをつくった。それがカタログに転用された時に、私は間違っている事を知り、それを作ったコレクターに抗議しました。)

斉藤:全然。一度も結婚していません。あれ(註:クリスティアーネ・フリッケの文章)は間違えが沢山あります。これに対する校正文も書いたんですけどね。彼女はほんの1日か2日だけここに来て、その前に私の仕事なんて知らなくてね、だから間違えがいっぱいあるんですよ。

坂上:このインタヴューでそうしたところをクリアーにしていきましょう。

斉藤:一度も結婚しておりません。残念ながら(笑)。