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坂根厳夫オーラル・ヒストリー 2016年3月30日

坂根厳夫自邸にて
インタビュアー:辻泰岳、井口壽乃
公開日:2017年6月13日
 
坂根厳夫(さかね・いつお 1930年〜)
情報科学芸術大学院大学(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー)名誉学長
ジャーナリズムとマス・コミュニケーションを基底とした執筆や展示の企画、大学等での教育や研究を通じて、芸術としての自然科学、あるいは科学技術による美術のありようと、その制度化をめざす運動の一端を担う。病を押してご協力いただいた今回の聞き取りでは、戦時下の青島での生活や東京大学で建築史を学び朝日新聞社に入社するまでの経緯、新聞記者として世界デザイン会議(1960年)等を取材する傍ら、デザイン評論家を名乗りペンネームでアーティストたちと対峙した背景、モントリオール万博(1967年)や大阪万博(1970年)といったいわゆるメディア・イベントの縁をその後に続く世界各地とのネットワークとして結実させていく過程についてお話いただいた。領域の横断や越境をめざした坂根とは対照的に、独自の分科として規定され個別史として叙述されることも少なくない「デザイン」や「メディアアート」を相対化しつつ、その変遷についてお聞かせいただいた。

辻:本日はお生まれになった頃から現在に至るまで、順にお話を伺わせていただきます。こちらにある『メディア・アート創世記』(工作舎、2010年)ですでにまとめられているんですけれども、本日はこの著書ではふれられていなかったことなどをお聞きできるとありがたいです。まずは、1930年に青島でお生まれになった...... 

坂根:父親は先生をしていました、現地の小学校の。

辻:はい。アパートのお2階で生活されておられたということなんですけども、そのときお住まいになってた建築物などのお話を、お聞かせいただけますか。

坂根:もうぼーっとしてますけど、覚えてることなら言えます。

辻:そのときには、ごきょうだいは、どういった...... 

坂根:私のきょうだい、一番上の兄だけは、青島へ渡る前に日本で生まれて、祖父のもとで育ちました。その後、私の2人の姉と僕だけが青島で生まれてね。僕が3歳半か4歳くらいのときに日本に帰ってきたんです。ですから私と一番上の兄貴との間に2人、姉がいましてね。

辻:本島に戻られたのが1934年、お父様が神職を継がれるために京都の丹後に戻られた、とあるんですけれども、そのときのことは覚えておられますか。

坂根:(青島に滞在していた頃のことですか、それとも)日本に上陸した後のことですか? 

辻:どちらでも構いません。

坂根:帰国する前のことはほとんど記憶にないんですが、(青島の)小学校の先生たちのアパートがあって、私たちの家族は2階に住んでいたんです。その1階には「上を向いて歩こう」の......作曲した人(注:中村八大を指す。作詞は永六輔)。そのおやじさんも同じ、やはり(この)小学校の先生をしてたんだと思うんです。

辻:著書の中でふれておられますね。その後、終戦の年ですけれども、1945年8月には旧制府立...... 

坂根:宮津(みやづ)。丹後の宮津。

辻:宮津中学校の1年生、旧制中学1年生の夏に終戦を迎えたということですが、その頃の戦争のお話、ご記憶はありますか。 

坂根:米軍機が日本に何回か飛来しましてね。ただ日本の中でも北のほうですから。北というか日本海側ですから、そんなに頻繁には来ないんだけども、何回か、何分の1かの割合で日本海まで来てね。私が通った中学校は宮津にあるんですが、宮津にも焼夷弾が落ちてね。ちょうどそれが中学校1年生のとき。ちょうど終戦の、もう直前ですね。

辻:疎開されたり、そういうことはないんですね。

坂根:そういうことはないです。田舎ですからね。疎開するといっても、われわれがいるところが、もう疎開地みたいなものでしたからね。

辻:それでしたらお父様やお母様、ごきょうだいの方々も共に丹後に一緒に住んで、ということですね。その後に大学に入学された頃のことを伺いたいと思います。東京大学に入学されますが、何年が大学に入学した年に当たりますか、先生にとっては(注:坂根は小学校の5年生の時に喘息を患い2年間留年する。それ以降、大学を卒業するまで同級生よりも2歳年上にあたる)。

坂根:高校3年の終わった後ですからね、何年だったかな?

辻:卒業は1955年です。調べたのですが、大学の学部は4年間でご卒業されておられますか。

坂根:はい。そうです。

辻:ですと1951年の可能性があります。

坂根:ああそうですか。何か出てません? 私の履歴の中に。

辻:ご卒業の年だけで、たしかな情報がなかったので。

坂根:卒業は何年になってます? 

辻:1955年です。

坂根:55年ね。その4年前というと51年? 

辻:なので、4年間で学部を卒業されたとすると(入学は)1951年になるかなと。そのときにはまず、駒場のキャンパス。

坂根:そうです。はい。

辻:そのときにお住まいだったのはどのあたりでしたか。 

坂根:駒場に行ってる頃は、下宿を3回くらい変わったと思いますね。たとえば大学に一番近いのは駒場キャンパスのすぐ裏側の通りに面したところの下宿屋さんでした。新聞広告が何かでみつけたのかな。それから、その後は(工学部がある)本郷にも移ったんですが、杉並区の阿佐ヶ谷だとかね。阿佐ヶ谷のアンドウさんっていう家などに下宿してましたね。それから...... どこだったかな。僕が書いているかどうか分かりませんが、中学校の頃からうちの家内を知っててね、ピアニストというかピアノをやってたんですよ。小学校で演奏会をやったりして、憧れていたということもあってね。ただ僕のもう一人、中学校時代の友達がいて「何か、彼女は、僕のことを嫌ってるようだ」と言われたんで、それから彼女の家にずっと行かなかったんです。精神科の病院の娘だったんです。ところがその後、藝大を出た(東京藝術大学を卒業した)声楽家の友達が言うには「いや、別に、今は何も思ってませんよ」と言ってくれたんで、僕も安心して、それで挨拶に行ったんですよ。その病院の家には男の子がいなくて、彼女一人だったんですよ。それで「跡継ぎがいなくなると困る」というので、その病院に勤めていた医者でしょうね、それに嫁がせたんですね。だから親の言いつけで嫁いだんだけども、まったく好きじゃなかったらしいんです。そのことも知らなかったんだけども、久しぶりに、何年だったかな、会いに行ったんです。その話をしてくれた僕の友達、彼は桑村一郎といって、東京藝大の声楽科を出た男なんですが「いやあ、そんなこと何とも思ってませんよと(彼女が)言ってた」と言う。ところが夫婦関係がうまくいってないらしくて、僕が行ったときも「もう嫌なんだけど、出られない」とか言ってたんですよ。それで、僕が同情したこともあってね。その後、行ったり来たりはできませんから、京都府ですからね。そうしたら「もう我慢ができないので、僕んとこへ来る」と。それで、あれは何年かな。1959年かな。このとき私は杉並区の下宿にいたんですけども、そこへ転がり込んできたんですよ、彼女がね。それで...... 

井口:今の奥様ですか。

坂根:そうです。それで、東京駅まで迎えに行きました。下宿もそれがきっかけで2、3度、変わったりしてね。でも彼女が出てきたので、これは働かなきゃいけないと。ちょうど大学院2年生のときだったかな、修士課程ね。修士は3月末に修了するんだけど、その前の年の12月だったかな。家内が来たんですね。それで、これは働かなきゃいけない、やっぱり就職をしなきゃいけないと。もう大学院の修士課程ですからね。それでどっか、いい就職口がないかなと思って、大学の求人広告を見たら朝日新聞(社)も出てたんですよ。朝日新聞は僕が中学生の頃から、ずっと読んでたんですよ。それで一番信用している新聞社だったんで、思い切って受けてみたんですよね。そうしたら「おまえはもう卒業してるんだから、すぐにでも来ないか?」と編集局長に言われてね。受験した年の12月25日のクリスマスの日かな、に新聞社に就職になって(朝日新聞社に入社して)。ほかの新聞社は知らないけども、最初の3年から5年は、地方の、日本の支局のどっかに派遣されてトレーニングを受ける。そこで「おまえは、九州の佐賀に行け」ということになって。それで佐賀支局に。九州に行ったことはほとんどなかったから、いいかなとも思って、今の家内も一緒に連れて行きました。

辻:そういうなれそめがあったんですね。先生、ちょっとお話が前後してしまうんですけど、大学での生活のお話をもうすこし詳しく伺いたいなと思いまして。東京大学、入学されてからいろいろ下宿先を移られたということだったんですけど、その頃にサークルには入っていましたか。

坂根:サークルにはほとんど...... 読書サークルか何かに入ってたような気もするんだけど。東大駒場...... あれ、何て言うんだっけ? 教養学部かな......そこのすぐ近くのところをずっと探してたら、下宿屋さんに「求める」っていうのが見つかってね。最初はそこに下宿していました。でもそのときは、まだ家内と一緒じゃないですよ。それから本郷へ移って(下宿も何度か変わりました)。

辻:そうですね。そのときには...... 小さいときには「物理学者になりたかった」と。

坂根:そうなんです。

辻:建築(学科)を選ばれたってことですよね。

坂根:寺田寅彦に憧れたんですよ、小学校の頃から。それで寺田寅彦みたいな...... 寺田寅彦っていうのは物理学者であると同時にエッセイストで、非常に面白い文章を書いていたんですね。それでこういう人になりたいと、僕も思ってたんですけどね。そんなこともあったんですが。何でした、質問は?

井口:建築...... 

坂根:なぜ目指したか。

辻:はい。

坂根:僕はようするに、高校時代から「科学と芸術の境界領域」に興味があったんですよ。それで東大行っても、純粋な専門の学部に行くというよりも、何かそういう芸術と科学を一緒に学べるような学部がないかなと思ってね。別に建築がそうだというわけではないけど一応、その中では、建築はアートでもあるんですね。ですからそこに行こうと思って、受けて。そこで何年までかな......

辻:本郷で「設計や建築史の授業に出た」とお書きになっているんですけど、たとえば授業や先生についておぼえておられることってありますか?

坂根:建築史はね、太田博太郎先生という方がね、やってらして。その上の先生も、いらしたけれども。

辻:藤島亥治郎先生ですね。

坂根:はい。もちろん藤島さんの授業も聞いたんだけども、太田さんのところへ、とりあえずは...... 

辻:卒業論文はどういうことを書いたんですか。

坂根:卒業論文はちょっと覚えてないんだけども(注:卒業論文のタイトルは「建築教育方法論」)。修士論文はすでに、修士(課程に在学)中に新聞記者になって、修士の終わり、何年だったろう...... 1960年かな? 1960年3月末で修士が終わって(修士論文を提出して)。

辻:朝日新聞にお勤めになってからも、修士課程にはそのままご所属されていたんですか。

坂根:そうです。

辻:なるほど、それははじめて知りました。

井口:こちらのスクラップ・ブックは1958年のものですね。佐賀にいらしたときの。これが最初の記事ですか。

坂根:佐賀というのはニュースがあまりないところで、地方版である佐賀版(の紙面)がなかなか埋まらないんですよ。それで僕から「何か連載のコラムをつくっていいか」と提案して、最初につくったのが佐賀地方に残るわらべ歌でした。それを古老から取材して、歌ってもらって、それをテープに起こしてね。家内も手伝ってくれて、そのときは。それが後に『佐賀のわらべうた』(音楽之友社、1960年12月)になりました。

辻:ではその作業と修士論文の執筆は、並行してやっておられたってことですよね。そのとき指導教員はどういう方だったんですか、大学院のときの。

坂根:大学院のときの指導教官は、たしか太田博太郎先生でしたね。建築史の。

辻:この本の中には浜口隆一さんのお名前もありますね。

坂根:浜口隆一さんはもっと、なんていうか、個人的に(学ぶことがありました)。建築だけじゃなくて、いろんなアートのことも書かれていましたし、一種の評論家でした。奥さんも浜口ミホさんという方で。よく(家へ)伺いましたね。

辻:(浜口に)指導を受けたわけではなくて? 

坂根:直接指導を受けたのは、太田博太郎先生ですね。

辻:では(東京大学)生産技術研究所にいたわけではないんですね、先生は。

坂根:ないです。

辻:先生が朝日新聞社に入った後かもしれないですけど、稲垣栄三先生とは関係がありますか。

坂根:稲垣さんは直接指導を受けた先生ではないですね。何の関係か...... 誰か私の友達が稲垣さんとよく会ってたということもあって、紹介されて会ったことはあります。何度か会ったことがあるんだけども、その方から何か教わったというわけではないですけどね。

辻:ああ。(坂根は)歴史系の研究室の大先輩にあたるんですね。

坂根:あなたは建築史? 

辻:はい。同級生や先輩、後輩のお話も伺いたいんですけれども、1955年の卒業のときには同級生が、たとえば石田頼房さんだとか、あるいは岡田新一さん、建築家ですね。あるいは野村東太さん。1期上に磯崎新さん。

坂根:はい。彼は1期上でした。

辻:奥平耕造さん。

坂根:はい。奥平さんとは(あんまりおつきあいはありませんでしたが)...... 名前は知ってるし、顔はちょっと思い出さないけど。

辻:あるいは川上秀光さん。

坂根:よく知ってます。1級上の。

辻:そういった一つ上の先輩方は当時「火曜会」というグループをつくっていたそうなんですけど、磯崎さんとかとの関係は、学生時代にはありましたか。

坂根:もちろんよく会ってましたよ。でもそういう会に属したとか、聞きに行ったということはそんなになかったように思いますけどね。磯崎とほかに誰だったっけ?  

辻:長峯晴夫さんですね。

坂根:その人のことは全然記憶にないな。

辻:同級生で仲が良い方はいらっしゃいますか。

坂根:何人かいましたよ。小原君......。杉並区かどこか、あの辺にいるはずですけどね。小原...... 何。名前がちょっと出てこない。小原君とか。あとね...... 建築のあれがあればわかるんだけど。

辻:はい。『木葉会名簿』(注:東京大学工学部建築学科の卒業生および同大学大学院工学系研究科建築学専攻の修了生による同窓会の名簿)で調べてきたんです。

坂根:ああそう。だから同級生なら何とか名前覚えてるけど、個人的につき合ってたのはそう多くないですね。野村東太。野村東太じゃない。もう一人、ノムラっていうのがいたな。彼は何か病気で早く亡くなりましたけどね。それから、警視庁のビルをつくった(設計した)のが...... 私が東大で下宿していた東片町、今の文京区の、その私の下宿のすぐ隣が岡田新一(1928-2014)君の家でした。岡田君はたしか何年か前に亡くなってますね。その岡田新一が今の警視庁の建物をデザインしたんですよ。だからあの建物がテレビに出てくるたびに、岡田君のことを思い出しますよ。

辻:あとは最高裁判所の設計ですよね(注:岡田は鹿島建設の社員として設計競技の最優秀賞を受賞)。先生、先ほど自然科学あるいは科学技術と芸術の境界のお話をされましたけれども、1955年11月にコンラッド・ワックスマン(Konrad Wachsmann, 1901-1980)という建築家が東京大学に来るんです。そのコンラッド・ワックスマンのゼミナール(注:学生らを集め1955年11月に行われた共同設計に関するゼミナール)がありまして、そこにたとえば磯崎新さんや剣持デザイン事務所の松本哲夫さんだとか、坂根先生と関係する方々が学生のときに参加されているんですけど、先生はそのゼミナールのことはご存じですか。

坂根:ゼミに入って聞いたかどうかはちょっと覚えてないですけども、ワックスマンが、あそこの世田谷区か渋谷区かな、講演したときに聞きに行って、写真を撮った覚えはありますよ。

辻:来日は2回しているんですけど、その50年代のときか、あるいはもうちょっと後の時期かというのは覚えてますか。

坂根:たぶん2回とも聞きに行ってると思いますけど、はっきりとは覚えていません。だから、何年だったかということも(わからない)。昔のスクラップを見れば、わかるかもしれませんけど。

辻:それほど印象的ではなかった...... 

坂根:いや。それなりに印象的だったですよ。それで一緒に写真撮ったりしましたしね。

辻:そうですか。当時は、たとえばプレファブリケーションや、大きな空間をトラスでどのようにつくるのかということがテーマのゼミナールだったんですけれども。

坂根:ああ、そうですか。私はゼミナールを聞いたかどうかは、ちょっといま、覚えてないですね。全部は聞いてないと思いますね。さっき言った、ワタリウムといったかな、画廊(注:ギャルリーワタリ、1972年に開廊)がありますよね。そこに2回ほど訪ねてきてね。そのとき、そこへ行って、彼がしゃべるのを聞いたことがありますけどね。ワタリウムは、今もありますか? 

井口:はい。

坂根:和多利君っていうのがいて。当時会ってた女主人は亡くなったんだけども、今は、その子供の、和多利シンイチといったかな(注:和多利浩一)。それともう一人、女の子がいたんだけども、ずっと、このところ会ってませんのでね...... 

辻:いまプライベート・ミュージアムになってますね(注:ギャルリーワタリの後、ワタリウム美術館が1990年に開館する)。

坂根:そう。プライベート・ミュージアム? ワタリウム......? 

井口:和多利志津子さん(1932-2012)ですね。

坂根:和多利志津子さんは、もちろんよく知ってました。彼女も亡くなったのですね。2、3年前かな。

辻:お話が前後してしまったんですけれども、修士課程のまま朝日新聞社でのお勤めがはじまる。はじめは佐賀に赴任されて、1959年に宇宙に関する取材のマニュアルを作成するために東京にいらっしゃる、そのときには画家の向井潤吉さんのお宅にお住まいだった。

坂根:それは(しばらく東京を離れていたので)どこへ下宿していいか分かんない。そこで新聞広告を見たら、向井さんのところが広告に出ていたんですよ。それでお伺いして「いいですか?」と言ったら「どうぞ、どうぞ」と言われたので、向井さんのところにしばらく滞在しました。あれは何ヶ月だったか...... そんな長くないかな。

辻:そうですか。その数年後に「人とすまい」という企画で、先生が向井潤吉さんの民家風という......向井潤吉邸(現:世田谷美術館分館)のことを書いています(注:坂根厳夫「人とすまい7 向井潤吉さん」『朝日新聞』1962年10月26日夕刊、5頁)。

坂根:あれ? これ、私、持ってないかな。「人とすまい」のシリーズでは、いろんな、ほかの有名人の作家なんかの家を取り上げたりしました。

辻:白井晟一さんにも取材されていますよね(注:坂根厳夫「人とすまい10 白井晟一さん」『朝日新聞』1962年10月31日夕刊、5頁)。学生の頃に、たとえば『新建築』のような媒体で川添登が白井晟一をとりあげるということがあるのですけども、当時の建築に関する雑誌や、建築に限らず美術の展覧会など、先生の覚えておられるものはありますか。

坂根:展覧会にはいろいろ行きましたが、今はもうほとんど覚えていません。さっきも言いましたように、大学院の修士課程のときに新聞社を受験したら、いきなり「佐賀支局へ行け」というので赴任して。60年の4月に東京本社へ帰ってきたんです。

辻:東京本社の勤務になったきっかけは、世界デザイン会議(産経会館、1960年5月)ですね。

坂根:ああ、そうです。

辻:廣岡知男さんとおっしゃるんですかね、入社時の面接を担当された方。浅田孝が廣岡さんに呼び掛けて、坂根先生を(1960年の世界デザイン会議のために)佐賀から呼び寄せたとあるんですけど。

坂根:浅田孝、まだ健在? 

辻:いや、もうお亡くなりになってますね。建築学科の出身だったから、先生のことを浅田さんが覚えておられたということですかね。

坂根:浅田さんはそれなりに著名人でしたから、それもあるかもしれませんし。あなたもご存じのように、年に1回、会合がありますよね。そういうとこで会っていたかもしれませんね。

辻:先生の時期とちょっと違うかもしれないですけれども、年に1回の集まりがあったというお話は聞いたことがあります。産経会館で世界デザイン会議があったときに、メタボリズムのメンバーの数人が冊子を入口で配ったという話もあるそうですが、先生は世界デザイン会議には参加されましたか。

坂根:もちろん参加、取材しました。東京と、それから京都でもありました(注:第8回世界インダストリアル・デザイン会議、京都国際会館、1973年9月)。

井口:印象はいかがでしたか。

坂根:世界的にデザインというものが横につながっていて、そういう会議をやるまでになったということと、それが日本で開かれたということに、やっぱり関心を持ちますよね。だから出席したと思います。でも世界デザイン会議、何か、私、記事に書いてますかね。

辻:まだみつけられていないんですけれども、同じく世界デザイン会議に関するレポートを書いている方に「浜村順」というペンネームで、小川正隆さんという方がいらっしゃいます(注:浜村順(小川正隆)「世界デザイン会議についての報告 グラフィック・デザインを中心に」『調査と技術』1960年8月、3-12頁)。

坂根:朝日新聞(社)の。

辻:はい。坂根先生からすると先輩にあたる方ですよね。

坂根:先輩です。3年ぐらい先輩だと思いますね。。

辻:この小川正隆さんとの関係は...... 

坂根:私が朝日新聞(社)に入る前から、彼がデザインや建築も含めて書いていましたから、名前もよく知ってました。ただ実際に会ったのは、私が入って、何かのきっかけで会いはじめて、それから何度か会ってはいましたけど......

辻:そうですか。その後になるんですけど、先生ご自身も「杉道雄」というペンネームで『美術手帖』にいろいろお書きになっているんです。『芸術新潮』には坂根先生の本名で書かれていて。

坂根:そうでしたね。

辻:『美術手帖』には「杉道雄」で「デザイン評論家」という肩書きなんですけど、このときのご執筆は、どういうきっかけで。

坂根:ああ、どっちが先にはじまったか、覚えてないんだけどな。

井口:ペンネームの「杉道雄」というのはどこから? 先生ご自身がそういうふうなのを...... 

坂根:まあ何か字面がいいというか、そのぐらいの理由ですね。特にね。

辻:これが記事なんですけど。覚えておられますか。これは日本宣伝美術協会の展覧会に関する展覧会評です(杉道雄(坂根厳夫)「デザインはだれのものか? ’63年日宣美展評」『美術手帖』226号、1963年10月、14-25頁)。

坂根:ああ、そう。1963年でしたか。

辻:はい。これが1964年のものです(杉道雄(坂根厳夫)「何を表現したいのか? 第14回日宣美展評」『美術手帖』242号、1964年10月、58-62頁)。「デザイン評論」あるいは「デザイン評論家」という肩書きの方は(この時期の日本には)少ないんですけど、たとえば勝見勝さんにはじめてお会いされたのはいつごろですか(注:坂根は勝見勝に誘われ、1971年7月にウイーンで開催されたIcograda(国際グラフィック・デザイン団体協議会)の国際会議に参加している)。

坂根:勝見さんとの出会いは、かなり早かったですね。誰の紹介だったのかな......

辻:1950年代、先生がまだ学生だった頃にグッドデザインに関する議論や展覧会は、すごく多かったと思うんですけど、その頃に同じく小池新二さんだとか、あるいは...... 

坂根:小池新二さんは、個人的なつきあいはあんまりなくて、名前だけしか知らない。

辻:繰り返しの質問になってしまいますが、なぜペンネームで「デザイン評論家」だったんですか。

坂根:何と言っていいか...... 本当は「科学と芸術の境界領域の......」というふうに書きたいけど、そんな名前ないから。だから適当にそうしたんでしょ。

辻:それが、先生にとっての「デザイン」だったんですか。

坂根:そうですね。デザインというのは、そういう意味で両方含んでますから。科学(技術)も芸術も。

井口:朝日新聞(社)の記者でいらっしゃったから、坂根厳夫の名前で書くと新聞社の方に何らかの...... 

坂根:そういうこともあったかもしれませんね。それはね。

井口:新聞社の外の仕事をしていると問題があったのですか。

辻:そうですよね。ただ『芸術新潮』だったり、あるいは同じ朝日の、たぶん系列だと思うんですけど『科学朝日』などは本名だったんですよね。

坂根:『芸術新潮』とか『科学朝日』は本名で出して。だから『美術手帖』とかその他、一般の出版物は、あんまりどうかなと。社内で外の仕事ばっかりやってると都合が悪いから、という気持ちがあったのかもしれませんね。だから適当につくって。「杉道雄」と、もう一つ何でしたかね。

辻:まだあったんですか。

坂根:いやあ、覚えてないな。

辻:あるかもしれない。いまお話してるのは1960年代前半のお話ですが、1950年代の建築に関する商業雑誌の編集者、さっきお話しした川添登などは共産党などとの関係からペンネームを使うことがあったようなのですが、先生のこの「杉道雄」は、関係はないですか。

坂根:彼のペンネームの経緯と、僕の「杉道雄」とは全く関係ないです。何か、かっこいい名前ないかなと思って、自分で作った。

辻:へえー。面白いですね、それは、すごく。

井口:私、今日初めて知りました。

辻:当時は、特にインダストリアル・デザインに関する内容が多いかもしれないですけれども、デザインコミッティー(現:日本デザインコミッティー)が銀座松屋でグッドデザイン展をよくやっていて、そういったところにも先生が訪れておられるんですけれど、デザインコミッティーの方々と交流というのはあったんですか。

坂根:全員と交流があったというわけではないと思います。何人かのメンバーと交流があったとは思うんで......リストがあれば、みんな分かりますけど。

辻:(資料が手元に)あるかな...... ここにある方々ですね。

坂根:丹下(健三)さん、清家(清)さん、吉阪(隆正)さん。亀倉雄策、岡本太郎、瀧口(修造)さん、柳(宗理)さん、剣持(勇)さん、渡辺力。石元(泰博)さんはそんなつき合ってなかったけど、勝見(勝)さん、浜口隆一、はい。大学の頃、浜口さんが僕の指導教官みたいなものだったんですよ。浜口ミホさんという奥さんがね、やっぱり評論家で。よく彼らの家にも行っていました。青山の。

辻:どういったお話をされたんですか、浜口隆一さんや浜口ミホさんと。

坂根:その頃の建築とかデザインの技術か何かを、聞きに行ったりしていたんではないかと思いますけどね。

辻:先生が佐賀にいらっしゃる頃だと思うんですけれども、浜口隆一が東京大学を辞めるんです。そういった経緯はご存じですか。浜口隆一は生産技術研究所の先生だったんですけども。

坂根:たしか、辞めるときの最後の講義を聴きに行ったことが、あったように思います。

辻:(佐賀から)東京までですか。それはどんな内容でしたか。

坂根:ちょっと、その中身までは、覚えてませんね。

井口:評論のお仕事をかなりされているので、ひょっとしたら、坂根先生は美術評論家になりたかったのかなと。そのあたりはいかがですか。

坂根:いや、「純粋」の美術評論家ではなくて、あくまでも境界領域の評論家。「科学と芸術」という。それは、僕は中学校の頃に寺田寅彦の愛読者で、寺田寅彦自身が物理学者でありながらアートのことを書いたりしていましたので、彼に憧れてたんですよ、ずっと。

井口:その意味では、そうした領域に関心を持っている人が少なかったですね、当時は。イタリアのブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari, 1907-1998)や「グルッポT」はこの領域で活動していましたね(注:「グルッポT」は1959年にミラノで発足したグループ。ムナーリはハーバード大学のカーペンター視覚芸術センター(Carpenter Center for the Visual Arts)で「ヴィジュアル・スタディーズ」に関する授業を行った)。

坂根:そうですね。

井口:ムナーリについて、先生ご自身はいかがですか。

坂根:ムナーリと、来たときに会いましたよ。取材もして、どこか記事書いてると思いますけどね(注:ムナーリは1960年5月の世界デザイン会議のために来日。坂根は1979年にミラノにムナーリを訪問。また1985年11月22日に青山の「こどもの城」で開催されたシンポジウムにムナーリと共に出席。「ブルーノ・ムナーリ展 展覧会」『朝日新聞』1985年10月28日朝刊、22頁)。

井口:南画廊で瀧口修造さんがムナーリを通じて「グルッポT」の展覧会を企画しました(注:「ミリオラマ9」南画廊、1961年12月26日〜12月29日)。先生のそうしたデザイン関係の評論と、ちょうど時代的に重なってきませんか。

辻:確かに。同時期に瀧口修造さんが率いていた「実験工房」というグループがあるんですけれども「実験工房」のことは当時、先生はご存じでしたか。それとも最近の研究で知りましたか。

坂根:いや、いや、その当時から知ってましたよ。記憶は、はっきりしてませんけどね。実験工房に誰がいたかな...... 

井口:大辻清司さんとか。

坂根:山口勝弘とか。あと誰がいたかな。大辻さんは、名前はお聞きしてるけど、個人的には、あんまりつき合ってない。

辻:「実験工房」は作品の数も少なかったり、あるいは展示の機会も限られていたと思うんです。先生が学生の頃だと思うんですけれど、「実験工房」については見に行かれたり、あるいは関連の文章を読んだりというようなことで、ご存じだったということですか。

坂根:「実験工房」ね。ちょっといま...... 久しぶりにその名前を聞いて、何をやってたということも、ちょっといま、はっきり覚えてないんで。「実験工房」に属する作家の2、3人の名前を言っていただければ。

井口:武満徹。

坂根:武満徹は、よく知ってますよ。

井口:あと音楽家が多いですね。

坂根:山口勝弘も、そうですよ。

井口:版画家の駒井哲郎さん。

坂根:名前は知ってるけども、あんまり個人的な関係は、なかったと思いますね。

井口:グループの活動は1957年で終わってしまうからでしょうか。

辻:『APN』って先生、ご存じですか。

井口:朝日新聞のAsahiの「A」ですね。「Picture News」、その頭文字を取って『APN』。

坂根:それ、覚えていない。何ですか。

井口:大辻清司さんも関わっていた...... 

坂根:大辻さんね。当時会ってたと思いますけども、あんまり個人的に...... その活動そのものには関わってないので。

辻:先生は取材の時にはカメラを使われると思うんですけど、カメラあるいは写真、報道写真でもいいですし写真の表現でもいいですけれども、そういったことにこの当時はご関心があったんですか。カメラという機械について。

坂根:カメラはずっと使ってましたよ。

辻:先ほど大辻さんのお話が出ましたが、写真家あるいは写真評論、そういった動向への関心はあったのでしょうか。

坂根:写真家だと、有名な写真家...... 名前は今出てこない。村井さんじゃないな。村井さんとか、もう一人、有名な。

辻:村井修さんですか?

坂根:ええ。もう一人いましたね。そのもう一人の人とはかなりおつき合いしてて、彼の家に行ったりもしました。アパートだったと思います。

井口:石元泰博さんとか。

坂根:石元さん......名前も知ってるし、会ったことがあると思うんですが、彼ではないですね。

井口:先生ご自身は、写真の撮影を習ったとか...... 

坂根:写真は習ってはいませんが、自分で撮ってましたから。

井口:現像もなさるんですか。

坂根:小学校の頃から。安いカメラを買ってやってましたから。自分で現像も、やったことはありますけどね。だからこの家(現在の自邸)に来てからも、2階で暗室になるような部屋を作って、現像したりしてましたけどね。当時の何か、その写真を探せば、出てくるかもしれませんけどね。

井口:50年代の話に戻りますけど、C.P.スノー(Charles Percy Snow, 1905–1980)が自然科学と人文科学との乖離を批判した本がありますけど、その著書などの影響はございますか。

坂根:それもあります。C.P.スノー。ある意味では、僕の「科学と芸術」に対する関心を触発してくれた一人でしょうね、たぶん。C.P.スノー、会ってたかな...... 僕は、ちょっと今、覚えてないけども。日本に来たときに会ってるかもしれないな。日本に来たんですよね。イギリスに行ったときに会ったかもしれないし。C.P.スノーね。会ったような気もしますね。ヤシャ・ライハート(Jasia Reichardt, 1933-)ってご存じでしょ。彼女の紹介か何かで、もしかしたら会ったかもしれないし。C.P.スノー、亡くなったのは何年ですか。何年頃? 

井口:1980年です。芸術と自然科学の領域といいますか、先ほど寺田寅彦の話、C.P.スノーなどありますけど、その他に先生が、そうした領域で影響を受けたことはございますか。作品でもあるいは理論であっても。

坂根:あそこ、青山の画廊がありますね。名前が出てこないな。バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller, 1895-1983)が来たときにも、そこで講演した。

井口:先ほどのワタリウム? 

坂根:ワタリウム。ワタリウムに訪ねてきた先生。ワタリウムが招いた人の中に、両方ができる人が何人かいたように記憶がありますけど。

井口:1960年にジョルジ・ケペシュ(György Kepes, 1906-2001)の、(会期が)とても短い展覧会ですけど、松屋銀座で行われました(注:「ニュー・ランドスケープ」展、銀座松屋、1960年6月17日〜22日)。

坂根:ケペシュのは当然見てると思いますけどね。ジョルジ・ケペシュね。ケペシュは、何年まで生きていました? 

井口:ケペシュは長生きしました。

坂根:ああそう。僕は会ってると思いますね。ケペシュは。

井口:ええ。先生がケペシュにあったのはアメリカで。

坂根:ああ、そう。ジョルジ・ケペシュはMITの、あれは何だったかな...... アートなんとかセンターの...... 

井口:アドバンスド・ビジュアル・スタディーズ(Center for Advanced Visual Studies)。

坂根:ええ。ビジュアル・スタディーズ。そこの大将だったから。呼ばれて行ったときも。僕はアメリカへ1年間いました、1970年から。そのときに会ったと思いますね。

辻:国立近代美術館(現:東京国立近代美術館)で、グロピウスが来日したときにあわせて「グロピウスとバウハウス 近代建築工芸運動の出発」展(1954年6月12日〜7月4日)という展覧会が開催されたんですけど、そのときの会場設計にもケペシュが関わっているんですね。50年代あるいは60年代に入って(ケペシュの紹介と)同様に、バウハウスに関する展覧会が東京でも行われます。当時のバウハウス、あるいはバウハウス的な教育が日本に受容される過程に関して、先生ご自身のご関心や関与がありますよね(注:たとえば坂根厳夫「「デジタル・バウハウス」展に寄せて」増田文雄、野崎武夫編『デジタル・バウハウス:新世紀の教育と創造のヴィジョン』(NTT出版、1999年)など)。

坂根:ありましたよ、当然ね。たとえばドイツ行ったときに...... ドイツだったかな、あれは。バウハウスの建物の横を、車で通って見たりね。中まで入らなかったけど。そんなこともありましたね。やはりあの頃はバウハウスっていうのが一つのシンボリックな存在だったですからね。

辻:領域の境界を扱う点においてですよね。そのようなバウハウスの受容が後に続く、いわゆる「ニュー・メディア・アート」の展開に及ぼした影響について、先生ご自身はどのように整理されていますか。

坂根:バウハウスはいろんな意味で、その後の「アート・アンド・サイエンス」の流れに影響していたと思いますよ。だからバウハウスというのはその当時、いま振り返っても、歴史的なすばらしい役割を果たしたなと思いますけどね。ヨーロッパの国際会議があるときに、タクシーで、その横を通って「ああ、あれがバウハウスだな」って。

井口:ワイマールですか。ベルリン? ベルリンにはアーカイブ(The Bauhaus-Archiv)がありますね。

坂根:アルス・エレクトロニカ(Ars Electronica)(注:1979年9月よりはじまる祭典の総称)があったのは、どこだったか...... 

井口:リンツです、オーストリア。

辻:一度ちょっと休憩にしますか。それともそのままお聞きしても大丈夫ですか。 

坂根:いいですよ。ええ。お茶でも飲んでください。

井口:ネコを飼ってらっしゃる。

坂根:ネコは4匹ぐらいいるんですよ。

井口:さっき、ここ歩いてきた。

辻:ぐっと伸びして、すっと行きました。

坂根:どうぞ。召し上がってください。

(一時中断)

井口:先生、水谷武彦さん。藝大(東京美術学校、現:東京藝術大学)の建築の先生だった人です。でも(坂根と)世代的にはずいぶん違いますから。バウハウスに留学した経験のある人です。

坂根:ああ、そう。何年頃に、バウハウスにいたんですか。

井口:20年代末です。1927年から29年。

坂根:1920年代? 

井口:そう。戦前ですね。

坂根:僕は1930年生まれですから。もっと前だね。

井口:接点、どこにもないんですね、きっとね。

辻:戦前にバウハウスに渡っていた日本人が他にもいるのですけども、たとえば山脇巌さん(1898-1987)とか。

坂根:はい、はい、はい。

辻:彼らは当然のことですけれども、戦後も活動しているわけですね。

坂根:そうですね。

辻:先ほどふれた「グロピウスとバウハウス展」は、山脇巌や野生司義章が(他に山脇道子、水谷武彦、勝見勝が展覧会を企画する委員として)会場設計に関わっているんです。

坂根:ああ、そうなの。

辻:ただ戦後の彼らの活動は、戦前の活動に比べると論点として取り上げられることが多いとはいえないので、そういったことが戦後に、どのように関わっていたのかというのは、面白いかなと思うんです。

坂根:たしか駒場に住んでたんですよ。僕の下宿も駒場にあったんで、わりに近く100m以内の距離にあったと思って、訪ねたことは1回くらいありますよ。

辻:そうなんですか。やっぱり、お聞きしてみるもんですね。(資料を見せながら)これはまた「杉道雄」名義で『美術手帖』で書いていた「デザイン創造」という特集の一つ。

坂根:ああ、多田美波? 

辻:はい。ここにお書きになっていますが、坂根先生がはじめて多田さんを知ったのは1962年のグッドデザイン展のときである、という文章からはじまります(注:杉道雄(坂根厳夫)「デザイン創造・6_多田美波さんとひかりの造形」『美術手帖』271号、1966年8月、102-106頁)。多田さんとは交流されていたんですか?

坂根:もちろん。彼女の家には、何回か行きましたしね。それから、この、ほら...... あれ、多田さんの。デザイン何とか賞っていうので。何年だったかな。ちょっと、今...... この後ろに。

井口:(聞き取りを行っている机の後ろから多田による褒賞を手渡され)ここにあるとは。

坂根:「日本文化デザイン賞」というのをもらった。それが何年だったか...... 

辻:あっ、1982年ですね。

坂根:そうですか。分かりました。プラスティックですよ。そんな重くはないです。こういう賞というのは結局、置き場に困っちゃうのね。もう一つ、アルス・エレクトロニカで、また賞をもらったことがあって。あれはやっぱり彫刻なんですよ。ギリシャの女王か何かのイメージで。

辻:この文章で多田さんの作品のことを、用途の「用」ですね。「用の彫刻」とお書きになってるんですけど、当時の多田さんは......全共連ビル(全国共済農業連合ビル)、もういま、なくなってしまっているんですけど、たとえば建築物のシャンデリアだったり、ほかにはたとえば磯辺行久さんが壁面に設置した。

坂根:山口県の何か建物を。

辻:萩市民館ですかね。でも萩市民館は多田さんではなくて、石井幹子さんたちとの共同だと思います(注:萩市民館を設計する際に菊竹清訓は石井幹子や田中一光、粟辻博らと共同した。坂根厳夫「美の座標 光の天井」『朝日新聞』1969年1月21日朝刊、22頁)。菊竹清訓と田中一光、美術家やグラフィック・デザイナーが建築家と共同して建築物を設計するために、1950年代からこの時期くらいまで「芸術の総合」という標語を掲げて話をしていることが多いです。すいません、いくつも資料をお見せします。これは坂根先生が、霞が関ビルが竣工したときにお書きになったものです。霞が関ビルで伊藤隆道が、同じくインテリアに関する仕事をしています。剣持デザイン事務所、剣持勇、あるいはたぶん松本哲夫さんが担当者だと思うんですが、それと伊藤さんのお仕事を対比させているんです(注:坂根厳夫「霞が関ビル三十五階のインテリア」『芸術新潮』19巻6号、1968年6月、52-55頁)。こういった美術家が建築物に関わるお仕事を、坂根先生がよく取り上げられていますが、こういったことには当時から関心があったんですかね。

坂根:関心があったんでしょうね。そう思います。つまり領域をつなぐ新しいアートの動向に、やはり興味があったんですね。ですからそれが「光の芸術」を使った建築物とか、何かそんなものを対象として、いろいろ新聞紙上で紹介した記憶はあります。それから半分アルバイトで、頼まれたら美術出版社の『美術手帖』や『芸術新潮』だとか、何かそういう雑誌で、いろいろ寄稿したことはあります。

井口:先生、これ「デザイン散歩」というシリーズですね(注:『朝日新聞』で1964年から1965年にかけて掲載)。

坂根:ああ、それはいつ頃なの。

井口:昭和39年です。

坂根:39年。ああ。これはどこでやったんだろうな。39年というと......何年だ? 

辻:1964年ですね。

坂根:64年。ああ、それは1960年に東京本社へ、もう帰ってきてるから。

井口:デザインの評価ですね。こちらは日付がない。「看板」「電話」。世界デザイン会議の後。日本でデザインという言葉が一般化されていって、製品が量産された頃ですね。

坂根:そうですね。銀座の松屋で、デザイン...... 何ていったかな。デザインコミッティーというの。

井口:はい、ありましたね。

坂根:本部が松屋にあったんですよ。それをフォローしてました、その当時は。

辻:ああ、やっぱり。

井口:それが1966年。65年に「ペルソナ」展(銀座松屋、1965年11月12日〜17日)が開催され、66年の「空間から環境へ」展(銀座松屋、1966年11月11日〜16日)につながっていくんですね。

坂根:「空間から環境へ」展、行ったと思うけど、ちょっと、中身が何だったかというのは...... 

井口:これは、磯崎さんのデザイン。

辻:会場設計ですね。

坂根:会場設計ね。どんな作家が、ほかにいたかというのは...... 

辻:38人いるんですけど。

井口:伊藤隆道さんとか。

辻:多田美波さん。

坂根:みんな、私がよく知ってる人ですよ。多田さんの家なんてのは、ほんとに僕は、何回通ったかな。2、30回通ったんじゃないかな。

辻:「空間から環境へ」展は副題が「絵画+彫刻+写真+デザイン+建築+音楽の総合展」といって「環境芸術」という言葉が日本で広く紹介される一つのきっかけになった展覧会です。先生はその会場には(行きましたか)、1966年の11月です。

坂根:たぶん、行ったとは思いますよ。

辻:科学技術と芸術の境界というお話があって、科学技術に対してここで対比的に扱われる「芸術」の問題ですけど、そのときの「芸術」は、率直に言ってしまうとファイン・アートを指すのかもしれませんが、絵画や彫刻に関してご関心はあったんですか。

坂根:絵画や彫刻についても仕事の上で、朝日新聞にいる頃にテーマとして取り上げて、それを連載するためにいろんなものを探して歩いて、それで書いたということなので、もちろん関心はありましたけどね(注:こうした術語を検討するために坂根は「サイエンス・アート」という造語も用いている。坂根厳夫「サイエンス・アートの系譜と展望」茨城県つくば美術館編『光の原風景サイエンス・アート展:未来空間への招待』茨城県つくば美術館、1996年)。

辻:ギャラリーや美術館の展示はご覧にはなっているんですけど、お書きになっている対象として、絵画や彫刻は少ないように感じるんです。

坂根:「純粋」な絵画や彫刻は、そんなにないかもしれませんね。

辻:あるいは版画についても。

坂根:版画についてもそうですね。だから何だろうな、境界領域の作品というのは、どういう分野が多いかな...... 

井口:キネティック・アートとかライト・アート...... 

坂根:そうですね。そういったもの。オプティカル・アートとかね。振動現象を利用したアートとか。何かそういう素材そのものが、それまで芸術では取り扱わなかったような、科学技術の成果として生まれてきた素材を使った作品ですね。たとえばファイバースコープだとかね。ほかに何があったかな。そんなものを探して。連載ですから、何か探さなくてはいけないので、それでやったということですね。あれは直接、本になったわけではなくて。ですから最初に新聞の連載があるんですよ。そもそもノルマで毎週1回、書かなくてはいけないですからね。

辻:科学技術と近い意味で、たとえばエンジニアリングや工学、エレクトロニクスといった言葉があるんですが、いまお話をお聞きしている1960年代の中盤になると、先生が朝日新聞社に入られてからもう10年ぐらい経っていることになります。その頃にはご卒業、修了された建築に関する科学技術、あるいは建築に関する工学として、建築の構造や材料、構法、環境工学への関心はあったのでしょうか。あるいは都市計画だったりアーバン・デザインだったり、都市工学という学科が新しく東大でもできるんですが、その頃にはもともと自分が勉強していた建築への興味はあったのでしょうか?

坂根:......建築そのものが好きだったというよりも、やはり建築というのは「科学と芸術」の境界領域だということで、それをとった(建築を学ぶことを決めた)という感じがするのですよ。大学に入ってから僕は、青山かどこかに住んでいたことがあって、その頃、そういう境界領域のことを、いろいろ書かれていた先生に、浜口隆一という先生がいましてね。彼の家へ、よく行きました。彼の奥さんもそういう建築家で。浜口ミホさんね。ですからそこで得たものとか、それから浜口さんの仲間の剣持(勇)さんだとか、そういう人とずっとおつき合いをしてましたね。その当時はね。

辻:浜口隆一さんの呼び掛けで、1967年のモントリオール万博を視察する出張に行かれていると思います。ご一緒されていたのが泉眞也さん、田中一光さん、勝井三雄さん、粟津潔さん、黒川紀章さんといった方なんです。たとえば粟津さんたちは、その時期に『デザイン批評』という雑誌を編集しています。モントリオール万博に取材に行かれたときのことは、覚えておられますか。ほかの方との関係は。

坂根:そんなに詳しくは、とにかく一緒に回ったってことぐらいしか。

辻:海外出張は1966年に「地球万歳」という企画で旧ソ連だったり、あるいはヨーロッパ諸国を回られています。その取材が終わって(日本に)戻られて、1967年10月の末とお書きになっているんです、モントリオールに行ったのが。もうほとんどモントリオール万博は終わりかけてる時期ですよね。

坂根:そうですね。

辻:日本国内でも同じように、大阪万博が開催することが決まっているので、モントリオールへ視察にいろんな方が行っているんです。そういった報道はもうご覧になってから...... 現地に行った日本人の報告を先に読んでから、先生はモントリオールに行った可能性がありますよね。終わりかけの時期だとすると。

坂根:多少は読んできたと思いますけども。だけど僕自身の関心は、もうちょっと広いのでね。

辻:モントリオール万博のチェコスロバキア館であったマルチスクリーンの展示に関して、先生が1968年に書いています(注:坂根厳夫「マルチ・スクリーン時代がやって来る モントリオール万国博覧会」『朝日新聞』1968年1月4日朝刊、6頁)。やはりマルチスクリーンの展示は、先生にとって印象的だったのでしょうか。

坂根:そうですね。それまでは映画というと一面のスクリーンですから、それがいきなり、ぱっと出てきたんですね。しかも歴史を遡るとかなり古く、パリでね、ずいぶん前にやってたということもあって、それじゃあそれ、何かまとめて書きましょうと言って、これを書いたと思いますね。そのときに多少取材もしたとは思いますけども。

辻:先生ご自身は、この記事の中では「コンピュータでスクリーンを制御している」ということに焦点を当ててお書きになっています。コンピュータの利用に関心があった、ということですかね。

坂根:そういうことでしょうね。どうやっていくつものスクリーンの違った映像を演出するかという、その技法についてやはり関心があったんでしょう。それで歴史を調べたりね。そうしたら、フランスで何年かな、かなり前にそれをやった歴史があったり。そういうことも書いてます。

辻:ほかのパビリオンだと、先ほど名前が出ているバックミンスター・フラーのアメリカ館、ドームのパビリオンがありました。あるいは西ドイツだとフライ・オットー(Frei Otto, 1925-2015)という建築家が、建築構造の表現として天井を吊った建築物が話題になりました。そのときの日本館って、先生は(ご覧になりましたか)...... 

坂根:日本館は、どんなのだったかな...... 

辻:芦原義信と豊口克平が設計をしている。

坂根:そうでしたね。館に入ると入り口のとこで何か渡されるんですよね。あれは何だろう。音かな。一種のテープレコーダーみたいなものだったかな。それで声を出すと、たしかそれが反響してって下へ返ってくる。そのこだまみたいなものも録音できるとかね。そんなようなシステムだった、という記憶がありますね。

辻:外観は、プレストレスト・コンクリートでつくられた校倉造のような建築物で。

坂根:そうでしたね。

辻:外には日本庭園みたいなものがあって。展示に関しては日本国内でも厳しく評価されました。エスカレータで上がっていって、(スキップフロアで)順番に降りてくるというような。

坂根:そうですね。もう遠い昔だから...... 

辻:しかもかなり細かいお話なので......このモントリオール万博からの帰りに、チャールズ・アンド・レイ・イームズ(Charles Eames, 1907-1978, Ray Eames, 1912-1988)とお会いされたという。

坂根:そうです。つまりマルチスクリーンというシステムの登場に、僕は何かショックを受けたんですよ。それでこの歴史を調べようと思ってたら、イームズたちもやってたということもあって。もう一人、誰だったかな...... 忘れてしまったけど。フランスが、何とかっていう人が最初だったらしいんだけど。そして(モントリオールからの)帰りにチャールズ・イームズのオフィスに行って取材した。ここには出ていないかな。

辻:ここに。イームズが1959年にモスクワで展示したときのマルチスクリーンのお話をされておられます。

坂根:そうでしたか。それからは毎年1回、僕はシーグラフ(SIGGRAPH)(注:米国コンピューター学会コンピューター・グラフィックス分科会および関連する展示の略称)なんかに行くものですから、アメリカですからね。帰りはどうせ西海岸から出るんで、ほとんど毎年、イーズムのオフィスに行ってましたね。

辻:では、彼らが関わっていた(映画の)「パワーズ・オブ・テン」や、そういったものも...... 

坂根:そうでした。「パワーズ・オブ・テン」はそこで見たのかな、最初に。感動した覚えがありますよ。昔の話だけど懐かしいですね、それを聞くと。

辻:一方、同じカナダ、トロントにゆかりが深いマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan, 1911-1980)の紹介が当時、日本国内でも行われていました。1966年8月の『放送朝日』という雑誌で、竹村健一さんと後藤和彦さんがマクルーハンを紹介しました。先生がお書きになっていることで、モントリオールでこの年に万博が開かれることになった背景にも、マクルーハニズムの影響を思わずにはいられなかった、とありますが、先生がはじめてマクルーハンの名前を知ったのは......マクルーハンには、お会いされてないですよね。当時はやはり、ジャーナルに掲載された文章だとか。

坂根:あの当時は「メディアはメッセージである」か。

辻:『メディアはマッサージである』(マーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオーレ著、南博訳、河出書房、原著1967年、邦訳1968年)もありますね。

坂根:そういう本があって、僕もそれを読んでいろいろ感動したりして。

辻:たとえばフルクサスへの関心は?

坂根:そんなに深くは取材してませんけど、フルクサスのことも当時知ってて。あれはドイツでしたね、たしか。ドイツだったかな? 僕は毎年のように、アルス・エレクトロニカというのがリンツだから。隣の国ですけどね。ではなかったかな。そうですよね。リンツは。

井口:オーストリアです。

坂根:それでマクルーハン...... なんでマクルーハン、よく知ってるんだろう。取材したかどうかは、はっきり覚えてませんけど。

辻:さきほど『デザイン批評』という雑誌のお話をしましたけど、さっきのモントリオールのEXPOと大阪のEXPOとの間に、1968年4月に「EXPOSE`68 なにかいってくれ、いま さがす」という5日間のシンポジウムが草月会館であったんです。たとえば松本俊夫さんのマルチ・プロジェクションなどがありました。それはご存じですか。

坂根:たしか、私、行ったと思う......草月会館でしょ。そこへ行った覚えがありますよ。

辻:あるいは粟津潔がスライドを上演していた。モントリオールでマルチスクリーンの展示があれば、日本国内のアーティストもそれをほとんど同じタイミングで知っている状況があるわけですけれども、彼らとまったくメンバーが同じというわけではないですが、1969年には「エレクトロマジカ」展がありますね。

坂根:69年、エレクトロマジカはイギリス、ロンドンですよね。

辻:いや、これは日本国内で。

井口:ソニービルで。

坂根:ソニーでしたね。はい、それも見ました(注:「国際サイテック・アート展 エレクトロマジカ '69」銀座ソニービル、1969年4月26日〜5月25日)。

辻:あるいは同じ69年に「クロストーク/インターメディア」(主催:アメリカ文化センター、国立競技場第二体育館、1969年2月5日〜7日)という、代々木で開催された。

坂根:ちょっと待ってくださいね。代々木であった...... はい。何か、それにも。それも、僕は、何か、それに出たというわけではなくて、聞きに行ったという感じですね。

井口:イベントで大勢集まった。

坂根:はい。

辻:そのときには「インターメディア」という言葉がある程度、日本国内でも普及したような時期だと思うんですけど、なかなか整理が難しいですね。このご著書(『メディア・アート創世記』)の中では、たぶんこの頃だと思うんですけど「コンピュータ・テクニック・グループ」、CTGの幸村真佐男さんにお会いされたと書いてあったんですけども、それはいつ頃のことか覚えてますか。「初期の作品展を取材した」と。

坂根:そうです。あれはどこだったかな...... 場所は覚えてないな...... CTGは1969年ではない...... 何年かな...... どこであったのかな。東京のどこか銀座か、新橋かの間かどこかそのへんでやったんだったかな(注:「コンピュータ・アート展 電子によるメディア変換」東京画廊、1968年9月5日〜21日)......

井口:もともとIBMのコンペ(IBM学生懸賞論文)に出して、それで取り上げられたという。それ後にヤシャのロンドンでの展覧会、「サイバネティック・セレンディビティ」(「Cybernetic Serendipity」展、ICA、1968年8月2日〜10月20日)に呼ばれたんですね。

坂根:ああ、それ、そうでしょうね。ただ、その東京でやったのが、どこの場所だったかというのは...... 

辻:その頃の一連の動向には、すべて目を配られてということですよね、たぶん。「エレクトロマジカ」展や「クロストーク/インターメディア」。

坂根:ヤシャとは非常に親しくしてましてね。その頃から。だから、あそこへ行って泊まったりもしましたしね。彼女、もう亡くなったんですか。

井口:いいえ。元気ですよ。

坂根:それは、よかった。ご主人は、まだ健在かな。

井口:ええ。お元気です。ニックさんですね。

辻:同じく1968年前後に、先ほどはロンドンのお話ですが、ニューヨークでも同様の展覧会が行われています。1968年には「サム・モア・ビギニングズ」という展覧会(注:「Some More Beginnings: Experiments in Art and Technology」展、1968年11月25日〜1969年1月5日)、E.A.T.に関する展覧会ですけども、ブルックリン美術館で宇佐美圭司さんと磯辺行久さんが出品している展覧会があったりして。

坂根:宇佐美さんと誰? 

辻:磯辺行久さんです。ただ宇佐美さんは《レーザー・ビーム・ジョイント》を日本でもう発表されていて(「宇佐美圭司展 LASER=BEAM=JOINT」南画廊、1968年4月8日〜27日)。またポントゥス・フルテンの企画で「マシーン」という展覧会が、同じ1968年にMoMAニューヨークで開催されています(「The Machine as Seen at the End of the Mechanical Age」展、1968年11月27日〜1969年2月9日)。

坂根:今の誰だって?

辻:ポントゥス・フルテン(Pontus Hulten, 1924-2006)ですね。この後にポンピドゥー・センターに行くキュレーターです。

坂根:ちょっと、いまはっきり覚えてませんけど、その後、アメリカで会ったか、どこで会ったか、フランスで会ったか、ちょっと覚えてませんけど、1回か、2回、会ったような気がしますね。フルテンね。

辻:では、もうそろそろ最後に。大阪万博ぐらいまでというか、だいたいこのぐらいのあたりで。ただせっかく1968年ぐらいまでお聞きしてきたので、当時はこういう、いわゆる「メディア・アート」のようなものが、日本国内でも展開されはじめた時期だと思うんです。

坂根:そうです。

辻:一方で、こうした動向と直接、関係があるわけではないですが、同じ時期には大規模な学生運動であったり、あるいは大阪万博について反対する運動などがあると思うんですけども、そういったものに対して...... 

坂根:ちょっと記憶がないですから、あんまり関心なかったと思います。

辻:ただたとえば『朝日ジャーナル』とか、そういった媒体でも頻繁に目に。

坂根:していたでしょうね。

辻:あるいは普通に街を歩いていて、そういったシーンを目撃することも。

坂根:なにかデモやったり、取材をやった気もしますね。

辻:先生ご自身、そういった運動に対する共感や反発のようなものはあったのでしょうか。

坂根:いや。共感でもない、反発でもなくて、何だろうな...... 時代の一つのイベントとして眺めていたという感じですね。だから別にそれに対して、すごい反発を感じたとかということもないし。その当時の事情、バックグラウンドを知れば当然、そういったことが起こるだろうということもあったでしょうから。新聞記者というのは、両方ちゃんと見とかなくてはいけないということもあってね。だから特に反発があるから書かないとか、そんなことではないですから(注:「メディア・アート」のいわゆる技術決定論的な側面への批判と、それへの自戒や反批判はこれまでも繰り返されてきた。たとえば山崎正和「現代人にはなにが見えるか」『中央公論』(82巻1号、1967年1月)や中村敬治「メディア・アートの問題点 観客の参加に見合う質を」『読売新聞』(1998年8月28日夕刊)など)。

辻:最後に、その話とはちょっと関係がないかもしれないですが、これが、すこし戻るんですけども1966年の『朝日新聞』の一面です(注:坂根厳夫「万国博会場の青写真」『朝日新聞』1966年8月27日朝刊、1頁)。「万国博会場の青写真」という、これは坂根先生のスクープと言っていいんですか。

坂根:そうです。これは当時も丹下健三、丹下さんの研究室によく行ってまして、そこでつくっていることを知ってましたので。どんなものができるかなということで、これは現像をもらったわけでは...... くれるわけないからね、一般的には。だから自分で撮ったのか、ちょっといま記憶ないですけどね。

井口:一面トップですよね。

坂根:そうそう。ちょうど万博の前でしょ。

辻:当時のことを、大阪万博に関わっていた磯崎新さんが「東京大学の丹下健三と京都大学の西山夘三との間で、自分自身が板挟みになった」とドラマティックにお話をされるんですけれども、その時に坂根先生がこの取材に行かれて...... 

坂根:そうでしたね。

辻:「大阪万博の計画をすっぱ抜かれた」という(磯崎の)話があります。

坂根:そうですね。彼がいたからね、丹下研に。だから時々覗いてました。どんなものができるかと。

辻:ではわりと定期的にというか、しばしば研究室には遊びにいらしていた? 

坂根:そうですね。時々行ってました。そんなに、1週間に1回っていうわけではないけど、何週間に1回かな、月に1回か。そのへんはちょっと覚えてませんけど。

辻:この(記事の)動く歩道のお話だったり、「地域冷暖房」は早稲田大学の尾島俊雄さん。

坂根:ああ尾島俊雄さんっていたな。そうか。はい。あれは実際には、会場の中では部分的に行われたのでしたね。

辻:はい、そうですね。ただ1966年では構想の段階だと思うんですけど、これは一面になってるということは、すごく大事な...... 

坂根:そう。他社よりも抜いた(先んじた)、という感じです。すっぱ抜いたという表現ですね。それをつくってるところへ行かないとわかんないわけです。一般にまだ公表してませんからね。この図面はどうやって手に入れたか...... 自分で、ここまで詳しく模写したとは思えないし。

辻:「万国博の会場計画原案(骨子)」と書いてあります。

坂根:もしかしたらそこで、何かコピーみたいなのをもらったのかもしれませんね。そうね。僕、自分の記事が一面トップに出るというのは、初めてのことですよ。初めて。おそらく最後ではないかな。

辻:ではやはり、すごく貴重な情報だった。

坂根:そうですね。これは1966年でしょ。(大阪万博の)4年前ですもんね。

辻:ずいぶん早いですよね。その後の、たとえば磯崎さん以外の丹下研究室の方々の反応は?当時だとたとえば...... 

坂根:ああ、磯崎が何か、そのこと書いてましたね(注:磯崎新「私の履歴書16 西山構想」『日本経済新聞』2009年5月17日朝刊)。

辻:書いています。ほかの建築家や、アーバン・デザイナーと名乗る方々からも反響はあったんですか。自分たちからすると、進めている段階のものが、いきなり新聞に出てしまったという状態だと思うんですけど。

坂根:それは、当時としてはあったと思うけども、具体的に誰から、どういう反応があったかということまでは。

辻:当時だと(丹下健三の研究室には)たとえば大谷幸夫さんとか、浅田孝さんはもうその頃にはそんなに関わられてないのかもしれないですけど、もう少し下の世代だと曽根幸一さんとか。

坂根:いや曽根君はあんまり、これ関わった頃には、知らなかったんじゃないかな。

辻:若手の頃だったと思うんですよね。一面が初めてだったという貴重なお話ですね。

井口:70年の万博の後、先生はアメリカに行かれたんですよね。

坂根:70年の何月? 僕はアメリカに行ったのは7月......

辻:ボストンへのご滞在は9月から1年間だそうですね(注:坂根はボストンへの道中でモーリス・タックマン(Maurice Tuchman, 1936-)が企画した「Art and Technology」展(ロサンゼルスカウンティ美術館、1970年5月16日〜8月29日)や、ジャック・バーナム(Jack Burnham, 1931-)が企画しニコラス・ネグロポンテ(Nicholas Negroponte, 1943-)らが出品した「Software」展(ジューイッシュ・ミュージアム、1970年9月16日〜11月8日)を訪れている)。

坂根:8月の後半だったかな...... 

辻:アメリカでのニーマン・フェローのお話ですね。非常に長い時間、しかも細かいお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。

井口:はい。ありがとうございました。

(一時中断)

坂根:中学校の頃は寺田寅彦のファンだった。彼も物理学者でありながら、エッセイストですね。ですからそういう境界領域をつなぐというね。学会が分断化、専門に分かれていくのを逆に、つなぐということに興味があったんです。

辻:コルビュジェやミース・ファン・デル・ローエのような建築家が、そういう領域をつなぐ、あるいは建築から世界をつくり出すような自律性や全体性、総合性を担う存在だとは思えなかった?

坂根:だから、僕はもう最初から...... 僕は中学校の頃から、さっき言いましたね。寺田寅彦という人は物理学者でありながらエッセイを書いていたということ。文学に関心があってね、その愛読者だったんですよ、僕は。そういう境界領域に興味があったので。新聞社にいる頃もそういう境界領域の話ばかりを、連載に書いていた気がしますね。

井口:筆力がおありだから。

辻:逆に言うと、建築家あるいは建築は、境界や領域をつなぐような存在ではなかったのかもしれないですね、先生にとっては。

坂根:もうひとつ、という感じだったですね。

辻:いまひとつ、こう、のめり込めないというか。なるほど。それはすごく面白いお話ですね。

坂根:いえ、いえ。

辻・井口:ありがとうございました。

坂根:はい、こちらこそありがとう。