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嶋本昭三オーラル・ヒストリー 2008年8月21日

兵庫県西宮市 アート・スペースにて
インタヴュアー:加藤瑞穂、池上裕子
書き起こし:鈴木慈子
公開日:2009年6月1日
 
嶋本昭三(しまもと・しょうぞう 1928年〜2013年)
美術家(絵画、パフォーマンス)
1947年に吉原治良に出会い、1954年に具体美術協会(1954年〜1972年)の結成に参加。画面に穴を開けた絵画や《大砲絵画》、また絵の具をカンヴァスに叩きつけて制作する《瓶投げ絵画》などで知られる。具体結成以前の吉原周辺の動向や、機関誌『具体』の発行、吉原の人物像について語っている。2回目のインタヴューでは、1962年にグタイピナコテカができてから解散に至るまでの具体の活動と、タブローを重視した吉原とパフォーマンスを追求した嶋本の見解の相違、また1975年に結成されたアーティスト・ユニオンへの参加とメールアートの活動について語っている。インタヴュアーは当時芦屋市立美術博物館の学芸員だった具体美術協会の専門家、加藤瑞穂が務めた。

池上:お手紙でもご説明差し上げていたんですが、オーラル・ヒストリーといいまして、先生の生い立ちですとか、子どもの頃からさかのぼって、先生の美術との関わりを最初から現時点までを、すごく長いスパンでお聞きしていくっていうインタヴューになるんですけれども。

嶋本:そりゃ結構ですよ。覚えてるかな(笑)。

池上:覚えていらっしゃる範囲で結構ですので、よろしくお願いします。まず最初に、オーラル・ヒストリーというタイプのインタヴューで共通してお聞きしていることがありまして、そういう質問から始めさせていただきたいと思います。先生は1928年に大阪でお生まれということなんですけれども、どういうようなご家庭でお育ちになりましたでしょうか。

嶋本:全体としては貧乏な時代ですわね、1928年といいますとね。それでまあ、私が住んでた港区の八幡屋というところも、あまりいい土地じゃなかったです。その中では割合いい方というのか、ずーっと8軒ほど借家があって、それを持った家で育ちました。

池上:ご両親はどのようなお仕事をされてたんでしょうか。

嶋本:海運業に勤めてたんですけど、子どもの頃ですからほとんど知りません。

池上:じゃあ、ご両親とか、ご家族、ご親族で、美術ととくに関わりは。

嶋本:全く関係ないです、はい。

池上:先生の美術に対する興味というのは、どういうところで育まれていかれたんでしょうか。

嶋本:それはね、うんと後ですね。関西学院大学というところに入って。それが旧制ですので、予科と本科があって。ほんで、予科から本科に入ったときに「理工学部長(注:当時は理工科長、大住教授)という人が遠縁に当たるので、あいさつに行ってきなさい」と言われて。伺ったところが、そこの学部長のお嬢さんが大きな絵を描いておられてね。それがなんと100号の大きさで、女の人が裸で空を歩いているんです。僕はそれまで戦争の絵しか見たことなかった。びっくりしましてね。「どうしてこの人、裸で空を歩いている絵ですけど、落ちないんですか」という愚問をしたところが、向こうの人が笑いはって、「絵というものは、自分の心を表現するものですからね、物理的におかしくてもいいんですよ」と言うて、説明していただいて。それから、こんな自由な世界があったんか。僕ら、もう戦争のことしか、日本のことしか知らないから、今の北朝鮮みたいなもんですからね。そういう時代ですので、びっくりしましてね。こんな世界があるんなら、もう今から、その頃僕は哲学部社会学科、逆や、社会学部の哲学科で哲学やってたんですけど、そんなことよりも、もう明日から絵描きになると言いましてね。

池上:関学にご進学された経緯というのは、ご著書に『僕はこうして世界の四大アーティストになった』(毎日新聞社、2001年)っていうご本を書かれておられて、「美術大学には行かせてもらえなかった」という記述があります。それはご家族やご両親がそういうこととは全く関わりがない方たちだったからということなんですね。

嶋本:そうです。

池上:そこで運命的な出会いをされて、関学に入学された年(1947年)に、全関西美術展というコンクールで賞をとられたということなんですけれども、それはどのような絵を出品されたんですか。(注:受賞が何年か実際には不明)

嶋本:全然覚えてません。その年というのは、どっちかな。予科のときか、本科のときか。何年になります、あれ。本科の年かね。

加藤:本科だと思います。

嶋本:本科ですねえ、まだ。その年に、全関西美術展で入賞したんですか。

池上:朝日賞というのをとられたということなんですが。

嶋本:朝日賞。ああ、そうですか。何かそんなんありましたねえ。全然覚えてないです。

池上:そこで絵を出されて、それ以前にはもう全く制作というのはされていらっしゃらなかった。

嶋本:生まれて絵なんか描いたことなかった。まあ、それ以前にいうのは、それ(大住さんの絵)見てからしばらくずいぶん描いてましたよ。描いて、大住さんという方に持って行きました。見てもらいました。

池上:それ以前は、もう全然、ご興味も。

嶋本:いやまあ、小学校とか中学校では、絵は上手やったです。せやけど普通の絵ですけどね。

池上:関学をご卒業されて、美術の先生になられたということなんですけれども。美術の先生になられた経緯というのは、何かあったんでしょうか。

嶋本:その頃はね、学校の先生になり手がなかったんですよ。そいで、僕の親戚の人が、「あんた、頼むから、うちの学校で、絵の先生なんか誰もやってくれないから、やってくれないか」と言うので。ちょうど大学卒業した年だったんです、「そいじゃ、やりましょうか」言うてやったの始まりで。だから僕は免許状も持ってないし。

池上:そうなんですか。

嶋本:そりゃもちろん、美術学校違うからね。社会科の免許状はありましたけど。

池上:美術の先生としては、どのような授業をされておられましたか。

嶋本:その頃はね、まず学校行きましたら、生徒たちが紙持ってない、絵の具持ってない、筆持ってない、何も持ってない。そんな時代でした。まずそんなことよりも、生徒がまず服がね、セーター着てるのが、こんだけ(胸の下あたりを指して)しかない。ここから、もう下がほつれてないんですよ。そんなような時代でね。そいで、新聞紙持ってきなさいって言うたら、新聞も取ってないって言うのがあってね。僕が家から新聞持って行ってやらせたことがありますね。そんな時代です。

池上:そういう限られた材料でされていたと。

嶋本:そうですね。

池上:先生のもう少し前のご著書に、今日加藤さんからお借りして持ってきているんですけれども、『芸術とは、人を驚かせることである』っていうご本に、生徒の自由な表現というのを非常に促されたっていうことを書かれているんですけれども。

嶋本:それはやりました。やりましたけど、それはもうちょっと後ですね。もう1年か2年ぐらいして、こちらも落ち着いてきましたら。ちょっと、紙持ってないから、僕が新聞紙持って行って、「それに描きなさい」言うたところが、筆もない。「筆ないんやったら手で描きなさい」言うて。墨汁僕が買うていって、「あげるから描きなさい」言うて。ほんで、手で描かしたら足の裏でばーっと描く人がおって。そんなことやらしたことありました。

池上:校長先生がとても驚かれたという。

嶋本:驚かはった。怒りはった。

池上:加藤さんは、美術の先生をされていたことについて、ご質問はありますか。

加藤:そうですね。もうちょっと後の50年代のことについて。

嶋本:具体ができた頃には、浮田(要三)さんなんかとね、幼稚園の子教えたり。もうちょっと後です。その頃はもうちょっと、本当に、ちゃんとした絵を教えましたけど。最初の頃は、それどころか、何も持ってないんやからね。そんな時代でした。

池上:あともうひとつ、少しプライベートな質問なんですけども、ご結婚というのはいつされたんでしょうか。

嶋本:ええっと、いくつでしょうね。36歳やから。昭和39年ですかね。

池上:ご結婚されたことによって、美術家としての先生のご生活というのに何か変化があったということはございましたか。

嶋本:ありましたね。ひとつはね、よく聞かれんねんけど、こんなことあんまり言うたら怒られるけども。結婚してなかったら、女子大には勤められない(笑)。

池上:そうなんですか(笑)。

嶋本:独身なんかしたらね。今でもトラブルありますけどね。だいたいその頃は、堅い時代でね。そのためにやった言うたら、家内に怒られるけど。まあ、それも含めて。

加藤:あと、少し関係ないことになるんですけれど、先生にはお兄様がいらっしゃって、そのお兄様から影響を受けられたことが大きかったということを伺いました。

嶋本:兄貴は肺結核でしてね。学校、中学校出てない、小学校しか出てないんですよ。そいで、独学で東大に入ってるんですわね。そいで、哲学が好きで、ずっとやってたんですけど。ほんで、哲学の話いっぱい聞いてたから、その頃は美術よりも哲学に非常に関心を持ってましたですね。

池上:大学で哲学をご専攻されたっていうのも、そういうことから。

嶋本:まあちょっと、そうですね。それもあるでしょうけどね。ところが、兄貴ほど勉強してないから、たいしたことないですけどね。

池上:お兄様は、先生が具体に入られて美術家としての道を歩まれるっていうことに何かおっしゃっていましたか。

嶋本:そりゃあ、喜んでましたです。

池上:ご両親は、どういうふうに言われていましたか。

嶋本:まあ、反対してたけども、絵の先生もしてることやし。まあ、生活も、その頃の絵の先生いうたら、なり手がなかったいうのは、まあどれくらいでしょうね、普通のサラリーマンの3分の1ぐらいしか給料なかった時代ですわ。だからもう、かつかつでしたけどね。それでも、母親の方が喜んでました。

池上:では、具体美術協会の発足前後のご活動についてお聞きしていきたいと思うんですけれども。それは加藤さんの方がお詳しいので、加藤さんからお聞きしていただきたいと思います。

嶋本:僕はちょっと、年代があやふやなんで。

加藤:そうしましたら、はじめに、吉原先生にお会いになった頃のことについてお聞きしたいんですけれども。1947年に吉原先生にお会いになられて。

嶋本:そうですね。ちょうど、その大住さんにね。紹介していただいて。

加藤:初めて吉原先生の作品をご覧になったときに、どのような感想をお持ちになられましたか。

嶋本:絵を見てよりもね、アトリエでびっくりしました。その頃から見たら、すごいモダンですわね。僕らの知ってるとこいうたら、皆もう、そんなとこなかったんですわ。全部壁が真っ白で、アトリエも真っ白でね。そこで、絵が並べられてあったもんやから。それも含めて、こんな世の中があったんか、この人はすごい人やな、と。絵の良し悪し以上にびっくりしましたですね。

加藤:芦屋市の公光(きんみつ)町にあった方ですね。

嶋本:はい、そうです。駅の前ですね。

加藤:その頃に、もう「前衛美術七人展」っていう展覧会ですか。

嶋本:その頃ですか。もうちょっと後とちがいましたかいな。

加藤:7人で。

嶋本:やりました、やりました。

加藤:お弟子さんばかりでされたんですね。

嶋本:はい。

加藤:そのころのお弟子さんは、もうすぐにおやめになったというふうに伺っているのですが。

嶋本:僕が友達呼んできてね、すごい先生や、新しい先生やって呼んできたんですけど。(吉原先生が)ものすごく厳しいんです。

加藤:どういうふうなところが厳しいんでしょうか。

嶋本:例えて言うとね。展覧会やりましたでしょ、七人展やるでしょう。「先生も出して下さい」って言うたら「出したげるよ」って言う。並べようとしたら、「俺の絵は真ん中なんかに置いたらあかんで、俺はもう便所の横でええんや」って言うでしょう。ほな、そうかと思て、その通りしますやん。ほな、ものすごい機嫌悪い。結局最後は一番ええとこに置かないかんねんけども。それなら、僕らみたいな素人にはそう言うてくれたらいいのに、「ああ、わしゃどうでもええで」とか言うて。結局、どない置いても怒られるんですわ。僕ら分かれへんねん、馬鹿正直やから。何回かしてから、「便所の横でええで」言うたときには、「一番ええとこに置きなさい」ということなんやなということが(分かった)。だいぶ経ってからですね。

加藤:その頃は、嶋本先生はどういう作品を描かれていたんでしょうか。

嶋本:一番初めは、とにかくにね、「誰もやったことないことをやれ」いうのは、初めからそういう話やったからね。何というか、かみそりを二枚当てて。当てると、いーとなりますやん。その中にひとつちっちゃい球があって。そういうような絵を描いたことありますね。それにありましたかな。

加藤:こちらの、この作品のような。(注:《作品》1950年頃、油彩・板、72.5 x 61.0cm。裏に関根美夫の作品がある。)

嶋本:ああ、これです、これです。これを描いてた時代ですね。

加藤:他の方々も、やっぱり。

嶋本:いや、他の人は、そんなんじゃない。言うとったけど、あんまりそれほどじゃないので、先生は気に入らんかったですね。怒ってばっかりしてはりました。

加藤:どういうふうに怒られるんでしょうか。

嶋本:それも今言うたように、そのことについて怒らへんわけですわ。絵並べるんやったら、「便所の横でええで」言うといて、そう並べたら、「そんなもん、かっこ悪いやないか」とか言うて怒るんです。意味が分からんかったです。

加藤:だから、こうしなさいという指示はないわけですね。

嶋本:ないんです。先生が並べてくれはったら一番早いんですわ、ところが「並べろ」と言うて。例えばの話ですけど。ほかのとこでなくても、そうでした。

加藤:直接的な指示はないわけですね。

嶋本:ないです。

加藤:それから、そういう先生についていけない方が、やっぱり多かったわけですね。

嶋本:全員が。僕以外は、全部すぐやめましたから。

加藤:その頃また、「神港展」っていう。

嶋本:ありました。もうちょっと後ですけどね。神港新聞社の主催でやりました。

加藤:そのとき正延(正俊)さんがいらっしゃったという記録があるんですけれど。

嶋本:そのとき、正延さんが入りはりましたね。

加藤:正延さんは、そのときに初めてお会いになられた。

嶋本:その人は、先生とはまた逆に、先生の言うこと全然聞かへんのです。ところが、先生「もう、あいつは困ったやつや、困ったやつや」言うけど、大変興味持ってはりましたですね。グレー、じゃないわ、焦茶色みたいな一色に描いてしまうんですね。だから「いっぺんここに、真っ赤を例えば入れるとか、真っ白を入れるとか、いっぺんやりなさい」言うて。「分かりました」言うて。ほんで、真っ赤を先生がかーっと入れて、「これで描いてみなさい」。ほな、少しずつ茶色をちょっと入れていくんです。結局持ってきたのは、赤やらそういうのは一切入ってない。何回やってもそうなんですわ。それには逆に、先生が「おもしろいなあ」言う。困ったような、おもしろがったようなとこがありましたですね。

加藤:あと、その頃、モダンアート展に出されていたと思うんですが、「モダンアート展に出しなさい」とおっしゃったのは、吉原先生ですか。

嶋本:吉原先生です。先生は二科展やったけど、「二科はよくないから、モダンアートでも出したらどうや」言うて紹介してくれたことありました。

加藤:モダンアート展には、どのような作品を出されていたんでしょうか。

嶋本:ちょっと一回目がいつやったか忘れましたけど。とにかくね、高さが3メートルぐらいで、長さが10メートルぐらいの、真っ赤一色の絵を出したことありますわ。その翌年から、モダンアート展に規定ができて。「会場の入り口に入らないような大きな絵は省く」いうのができた(笑)。

加藤:こういう作品ですね。(注:タイトル不詳、モダンアート展出品。『AUの論理』(オペレーションズリサーチ壱番館、1980年)、p.10。)

嶋本:ああ、これですね。これはもうひとつ後からですね。

加藤:これはいわゆる、大きな丸の。

嶋本:はい、丸のシリーズです。これはものすごい大きな、大作を。

加藤:これはどういうところから発想されたんですか。

嶋本:とにかく先生が「今までにないことやれ」と言うから。まず、大きさだけでも。「こんな大きい絵は世界中にないやろ」。そうでもなかったですけどね。描いて、とにかく、ものっすごい大きな絵で。赤一色で、まあ縁は少し残ってるけど、塗ったんです。だから絵というものではなかったんで、モダンアートの人も、「こんなもん絵じゃない」と言った人が多かったんですけど。植木茂(注:うえきしげる。1913−1984年。1950年モダンアート協会に参加。1956年第28回ヴェネチア・ビエンナーレに出品。木彫の抽象彫刻で評価を得る。)が、あの人はモダンアートでしたかね、「これはおもしろい」と、「こんなおもろいこと、これからは嶋本のようなものを取り上げなあかんのや」言うて、えらいがんばってくれはりましてね。植木茂さんには何回かそういうような発言で、助けていただいたことあります。これ結局、初めて賞(協会賞)をとった。初出品でね。

加藤:そしたら、こちらの殴り描きをされた作品(タイトル不詳、『AUの論理』、p.11)は、どういうふうに評価されたんでしょうか。これはゲンビ展ですね。

嶋本:これゲンビ展ですね。これも、これはやっぱり吉原先生が激賞してくれはったから。他の人も良いと言うてくれはりましたけどね。

池上:これは、色はどういう感じになっているんですか。

嶋本:これは単純に赤とか白とか青とか、原色をがーっと描いて、塗っていった。

加藤:いろんな過去の記録を読ませていただくと、ちょうどこの頃、吉原先生と海清寺(かいせいじ、西宮市)で南天棒(なんてんぼう)の書をご覧になったというふうにあるんですが。

嶋本:もうちょっと後でしょうね。もうちょっと後やったと思います。

加藤:海清寺に行かれたときに、南天棒の書をご覧になって、どのような感想をお持ちになられましたか。

嶋本:その頃は割合先生も、世界の情勢で、「やっぱりわれわれは、新しい絵だというのは、スタイルが新しいんやなくて、今までの美術の洋画ではできないようなことをやらないことには新しいとは言わないんや」というふうに言われたんですよね。その中で見ていると、たまたま南天棒の書を海清寺で見たときに、まあ、書家なんで、ものすごい、暴れん坊の書家ですよね。普通の上品な書じゃないんですわ。何と言えばええかな、龍という字があって、最初の月のところの、はねるところがある。月やからはねますねん。はねるところが、あんまり大きな筆で書いたもんやから、動かないんですわ。月という字がこう来たまんまね。それでしょうがないから足でぱーんと蹴って、左にぱーんと勢いを書いたというね、そういう人なんですけど。ところが、書家からは非常に評判が悪くて。「そんな足で蹴って書を書くようなものは、書じゃない」と言われて。あんまり普通の意味では評価されなかった。そのときに僕らがその書を見て。最初の、まず龍という字の最初の点が、襖ふたつぐらい、襖の横の裏にばーっと飛び散っているわけです。これはね、油絵ではできないわけですわ。油絵というのは、ほとばしるとか、それからにじむとか、垂れるとか、かすれるとかいうのは、油絵にはないんですね。「あっ!これは、これこそ油絵の世界にない、新しいことができるぞ」というので。そのとき誰が(そう)言ったか、白髪さんとか村上さんも言ったと思うんですけど。それから、白髪さんが、それじゃあ俺ひもにぶら下がって、足でぐわーっとものすごい勢いのを、絵を描こうと。こんなん油絵ではできないやろうと。ほんで、村上三郎さんは、後ですけど、紙をばーんと突き破って描こうと。僕は、白髪さんやら村上さんほど体力がないので、だから後に袋の中へ(絵の具を入れて)、はじめ大砲で描いたんです。警察に止められたんで、次からはガラス瓶投げて、その勢いで絵を描こうというような。そういう方向はヨーロッパにはないやろうというので、描いたんですけど。後にポロックなんかの方が、形は違うのですが、すでにやってましたですけどね。

加藤:次に具体の、「具体」という名前ができた頃のお話を伺いたいんですが。「具体」っていう名前は嶋本先生がご提案されたっていうふうにあるんですけれども。そのことについて、少し伺えますか。

嶋本:これは、えーっと(具体が)できたんが、1954年ですけどね。もう50年頃から会があって、名前を付けよう、ということになってたんですけど。ところが吉原先生というのは非常に神経質な人でね。「ああじゃない、こうじゃない」と言うわけですわ。どんな名前付けてもね、その反対の意味に取らはる。「それはこういう意味ではおもしろくないよ」言う。長いこと、ほんとにね、50何年からか、とにかく2、3年かかってましたですね。しまいにもう、皆あきれて、飽きてきてね。ほんで、たまたま「具体」というのを言うたんですけど、あんまりこっちも深い意味ないんですわ。「逆に具体的な『具体』っていうのどうですか」と言うたら、「それも誤解されるけど、それにしようか」というのを、先生が言いはったと思うんですけどね。中には、村上さんが「嶋本の兄さんが決めた」というのあるけど。そのときは村上さんはいないんですわ。元永さんもいてないから、そんなん立ち会ってるはずないんですけどね。たまたま何かのときに、僕が兄貴もいろいろ相談にのってくれたいう話をしたのが、そうなってると思うしね。もし仮に兄貴がつけてくれたとしたら、僕にしたら、僕が付けたいうよりも亡くなった兄貴が付けてくれた方がもっと名誉なことですやん。せやけど、事実は違うから、そうは言わなかったんですけどね。

加藤:最終的に「具体」っていう名前になったのは、『具体』誌、この機関誌を出そうっていうことになったので、最終決定されたんですか。

嶋本:そうです。せやけど、この機関誌も、ずいぶん長かったんですよ。これはたまたま、僕は穴の開けた作品を持って行って。これを、先生がほめてくれはったんやけども、誰に見せても「こんなもん絵画じゃない、絵画以前のもんや」と言われてしもたんですね。それを吉原先生に言うたら「それじゃあ、何か雑誌に、機関誌をつくって、世界中に送ったら、分かるやろう」というので、「おまえ中心でやれ」というので。僕はそういう人たち、みんなと一緒にね。ぼくの家のところで、ほいほいっと手刷りですわ。手刷りの印刷物やからね、やってた。

加藤:浮田さんに伺いましたら、浮田さんのところで、もう使われてない印刷機を。

嶋本:そうそう、印刷機があってね。

加藤:譲り受けられたということですか。

嶋本:買ってない、ただでもらったと思うけど(笑)。「あげるから」言うので。それで、文字はわずかやったけどね、その文字をずーっと1個1個、つめたことあるんですけどね。

加藤:こちらに掲載されているのが、穴の作品で。

嶋本:そう、これは非常に古い作品。

加藤:で、こちらは同じ頃の作品ですか。(タイトル不詳、『具体』1号(1955年1月1日)、p.6)。

嶋本:同じ頃の作品ですね。

加藤:これはどのようにつくられたんですか。

嶋本:これはどっちやったかな、黒いので穴の作品もあるんですけど。

加藤:これは、こう、しわしわに。

嶋本:しわしわの方ですかね、ああ、ほな、しわしわの方の作品ですね。

加藤:これはどういうふうにつくられたんですか。(タイトル不詳、『具体』1号、p.9)

嶋本:やっぱり、紙をぐちゃぐちゃーっとしてね。それで、真っ黒に塗ってやったと思います。これも、傷つけたりしました。これもしわしわですね。

加藤:これはどういうふうな素材でつくられたんですか。

嶋本:ひっかいたり、絵の具こぼしたりしながらやったやつですね。そんな大きな作品じゃないです、これはね。

加藤:こういうのを吉原先生ご覧になって、どういうふうな評価でしたか。

嶋本:ものすごくほめてくれました。

加藤:穴の作品については、吉原先生からすごくほめられて。他の方にもお見せになられたんですか。

嶋本:やっぱり有名な、関西に住んでる絵描きさんに(見せました)。全然、笑いはって。「絵と違うじゃない、作品と違うじゃないやないか」と、「破れたカンヴァス持ってきて何を言うとるんや」と。皆そう言われましたです。それが、『具体』誌をつくろうというきっかけになったんです。

加藤:『具体』誌には、こういうふうに英語が書いてあるんですけど、こういうふうに入れるのは、吉原先生の。

嶋本:もちろん吉原先生のアイディアでもあるし。とにかく世界に見せないと日本では絶対に分からないというアイディアですね。実際これやったから、この『具体』誌を見て、海外の人が来られるようになりましたからね。

加藤:海外ではどういうところにお送りになられたんでしょうか。

嶋本:それはね、僕はだいたい送る役やったけども、分からなかったんで、先生からいろいろ教えてもらいました。先生は割合、海外の雑誌も見てはったしね、住所も知ってる。僕らは全然見なかったんでね、そのときはもう非常に苦労しました。後に僕はメールアートやるようになりますけど。だから、劣等感持ってた。海外に出したいのに、どこへ出してええか(笑)。

加藤:国内でも送られたんですか。

嶋本:もちろん国内の方がたくさん送りました。一通の返事もなかったです。

加藤:そうですか。これ、吉原先生の作品が表紙なんですけど、こういうふうなレイアウトにされるアイディアも、嶋本先生が。

嶋本:まあレイアウトいうほどやないねんけど。とにかくアイディアはそうです。これはうちで、先生に来てもらって、下敷きを切って、刷って、やったんですね。

加藤:これ、下敷きですか。

嶋本:下敷きです。その頃は、下敷きいうのはセルロイドいうて。

加藤:これはセルロイドなんですね。それを切って、印刷にかけられて。

嶋本:印刷言いましても、まあ何と言うかな、凸版印刷ですから。絵の具塗ったやつを置いて、その上に紙を置いて、がらがらとやると写るわけ。まあ昔の一番素朴な凸版印刷ですね。その次、傍線をまた引いて。二度刷りですわ。

加藤:吉原先生も実際に来られて。

嶋本:来られて、ここでやりました。

加藤:2号以降はこのかたち(25.5 x 27.0cmの判型)になるんですが、これはなぜこういうふうに変わられたんでしょう。

嶋本:1号を刷って、これも長いことかかって、うちで。ひとりで刷ったんちゃう、具体の連中が皆集まって刷りあげて出したんですけども。ほとんどまたやめてしもた。

池上:大変だったからですか。

嶋本:いや、大変だからじゃなくて、厳しいから。それでもう、先生も落胆しはってね、「俺、もう弟子なんか取らないわ。もうやめる」って言いはって。「先生そんなこと言わんでください。実は尼崎にね、『0会』という会があって、そこには白髪さん、村上さん、それから田中敦子、金山さん、何か若い人がいっぱいおるでしょう。非常に具体に興味持ってるから、もっぺん僕は、仲間にならないか言うて、呼んできます」言うて、ほいで、行ったんですわ。「とにかく具体というのは、吉原先生は、新しいことをやればやるほど喜んでくれはる人やから」、というので、呼んできたんですけどね。非常にこんな穴開いたのとか、おもしろいとか言うて、「この会はおもしろいなあ」いうので、白髪さんなんかが、非常に喜んでくれたんですけど。もうひとつのアイディアとしては、先生に言うたんです、「先生は怒りすぎる」と。「厳しいから、皆やめてしまうんやから、今度はあんまり厳しくしないでください」と言うたら、それで優しくなったんじゃないけども。どうしたかというと、じゃ次は芦屋川という川べりがあるから、そのとこで野外展をやろう、とかね。次に、劇場があるから、産経会館というところを自分とこは借りることができるから、舞台を使ったアートをやらないか、とかね。次々と新しいアイディアを吉原先生が出してくれたわけですね。それにのって、新しく入った連中と今までの連中がやりだしたんですね。

加藤:0会の集会に初めて嶋本先生が行かれたときに、先生は作品を、「座布団」って村上さんがおっしゃっていたんですけど、その作品をお持ちになられて。

嶋本:持って行ったんですかね。僕よりよう知ってはる(笑)。

加藤:というふうに、記録があるんですけれども。

嶋本:はい、あります、持って行きました。

加藤:そのとき、0会の方々の作品をご覧になって、どう思われました。

嶋本:もちろん、おもしろかったです。せやけど、まあ後ほどじゃなかったけど、とにかく、若いグループにしたらおもしろかったですね。

加藤:どういうふうに勧誘されたんですか。吉原先生がこういうふうな、すごいおもしろいことを積極的に評価されているから、と。

嶋本:評価してることと、それから、皆が、若い連中が描いてる絵を見て、「これはもっとこんなふうにしたらもっと喜ばれるんや」と。ほな、皆びっくりしたわけです。普通こんなことしたら怒られる。「うちの会の先生は違うんや」と。「もっともっとこうした方が喜ばれるんや」言うて。非常に、皆、「そんな会、そんな先生ならすごいな」と。皆それぞれ先生についてたんですけど、まあ新しいことは新しいけど、吉原先生ほど先鋭じゃなかったからね。

池上:0会の皆さんは、吉原先生のことは一応ご存じではあったんですね。

嶋本:もちろん知ってましたです。ですけど、皆それぞれ先生についてはったわけですね。0会の人は、何やったかな、芦屋の、あの人ですね。

加藤:伊藤継郎さん。

嶋本:伊藤継郎先生についてはったんですね。新制作のね。

加藤:だから、新制作派の展覧会に出されていたりしてたんですね。

嶋本:そうですね。

加藤:その後、0会の方が合流されて。芦屋公園で、松林で、野外展があったりとか、ありまして。

嶋本:舞台を使ったりするようなもんもあったんですけど。しかし、4人だけですよ。後の人は伊藤先生とこに残ってはりました。

加藤:「具体」の発足の当初、事務所が嶋本先生のところにあったんですけれども。それは、吉原先生が事務所を置きなさいっていうことで、決められたんですか。

嶋本:それと印刷機もあって、ここでやってたから。じゃあ、これから、次からこれやろうと言うので。

池上:『具体』誌というのは、どのくらい、何部ぐらい刷られていたんでしょうか。

嶋本:そのときは、800部ですね。1号のときはね。(注:吉原の回想録や当時の新聞記事によれば300〜500部)

池上:その後は、また増やされたり。

嶋本:当分、800部ですわね。もっと、うんと後になってからは、もっと増やしたんかもわかりませんけど。

池上:英文表記、先ほどもあったかと思うんですけれども、その英語の訳というのはどなたがされたんでしょうか。

嶋本:全部吉原先生の。吉原先生がやったというんか、吉原先生の秘書というんかね。会社の社長やったから。

加藤:2号にも、このような作品が掲載されているんですが。(タイトル不詳、『具体』2号(1955年10月10日)、p.6)

嶋本:あ、そうですね。これも印刷機使って。

加藤:これはどのような作品なんでしょうか。

嶋本:これはね、これもセルロイドやった。セルロイドの上に接着剤かなんかで描くと、ぶつぶつになってくるんですね。それを版画のもとにして、刷ってやったんです。

加藤:こちらの作品は、どのような。(タイトル不詳、『具体』2号、p.7)

嶋本:これはいわゆる「座布団」いうてたんですけどね。絵画らしくない絵画というのを一所懸命考えてましたです。でも、ざーっとただ塗っただけとか、そういうのをよく、その頃やってましたです。

加藤:新聞紙を貼り合わせた「紙バス」に穴を開ける作品っていうのは、どれぐらいの時期からつくられていたんでしょうか。殴り書きのお団子を描かれてた頃と同じ頃ですか。

嶋本:団子?

加藤:あの、丸い。

嶋本:それはね、はっきり覚えてませんけども。今残ってるのでは、1949年ぐらいですね、それくらいからやってますね。かなり長いことやってるのと。それから、さっきここにあったやつは、あれは50年ですかね、たしか。

加藤:『具体』第1号に載っている作品ですか。

嶋本:たしかね、50年というのが、新聞にそれが入ってたと思います。

加藤:あっ、そうですか。

嶋本:これですね。これが50年やったと思います。

加藤:これは何がきっかけでつくられるようになったんでしょうか。新聞の、この穴開き絵画は。

嶋本:それは、その頃はお金がなかった。新聞をとくにおもしろがったんじゃない。お金がないからカンヴァスなんてとても買えないので、新聞をメリケン粉炊いて、糊にして、7、8枚貼って。その頃は大きかったからね、100号以上の絵ばっかりでしたから、そういうふうにやってたんです。そしたらたまたま破れたので、それからヒントを得た。それまではだいたい、穴開けるためにやったんやなくて、カンヴァス代がないので、新聞紙を貼り合わせて描いていた。

加藤:おそらく、こちらの東京都現代美術館がお持ちの作品ですね。(注:《作品》1950−52年、194.0 x 130.6、塗料・鉛筆・新聞紙・板、『具体』1号、p.7)

嶋本:はい、それです。

加藤:吉原先生が初めてご覧になったときに、すごく先生が激賞されたということで。いくつもつくられていくと、今度はあんまりたくさんだと、もう見たとおっしゃって。

嶋本:見たと。もっと続けてもよかったんやけど。ちょっとイージーいうか、穴さえ開ければよいというのが、ちょっとあったんでしょうね。

加藤:その当時、穴の作品をご覧になられた吉原先生から、フォンタナのことはお聞きになられたんですか。

嶋本:後にですね。何年かしてからです。その当時は、その話されなかったし、先生もご存じなかった。あったら、何か言うてはると思うんですけど。

加藤:先生の書かれたご本では、これをやめられたとき、やめられるきっかけといいますか、「ある日、師に呼ばれてこの穴の絵の制作を中止するように言われた。それは、イタリアのフォンタナというアーティストが同じ穴の作品をつくっていたからである。敗戦国日本の、しかも片田舎に住むぼくが先に「穴の絵」をつくったと言っても誰も信用しないと言い、師もくやしがってくれた」(『ぼくはこうして世界の四大アーティストになった』、p.40)っていうふうに書いていらっしゃるんですけれども。

嶋本:そのとおり。先生も言われた。「今さら、嶋本の方が古いと言うても、うんと古くからやっていたと言うても、誰も信用してくれないから、あきらめる」と。「もっと新しいことをやりなさい」と言われたんですけど。しかし後に、新聞紙やから年代が書いてあったんですね。それに、先生も僕も気づかなかったんですね。

加藤:穴の作品は、最初の野外展のときにも。

嶋本:やりましたです。ブリキでね。

加藤:これは、表と裏で色が違う作品ですね。あれは、どういうところを意図されて。

嶋本:とにかく、穴をやってたときですので、突然野外展の話があったから。だから、紙であれば雨が降ればだめになるけどね、金属でやろうというので。ちょうどうちの家に物干しがありましてね。物干しいうのは、隙間が空いているんですわ、板があってね。そこに、がんがんとやると穴が開きやすいんです。それを、いっぱい開けて、つくったのを覚えてます。

加藤:その頃の、吉原先生の野外展の作品は、いろんな金属をつなぎ合わせた、スクラップのような金属をつなぎ合わせたものだったんですけど。

嶋本:そうですね、そういうのやっておられましたですね。通雄さんもそういうのやってましたですね。

加藤:そういうふうな作品をご覧になって、嶋本先生はどう思われましたか。

嶋本:とくに、先生が、そういう世界もあるかなぐらいのことやったですけど。とくに素晴らしいとも思わないし、とくにつまらないともあまり思わなかった。ですけど先生自身は、あまり自分では気に入らなかったみたいですね。そのときはむしろ具体の、僕だけじゃなくて、他の、白髪さんとかの連中の方に、非常に若い力をみて、悔しい思いをされてたみたいですね。後から考えればね。

加藤:嶋本先生は、0会の方々とか、他のメンバーの方の作品をご覧になって、何かこう、それで鼓舞されるところなどありましたか。

嶋本:それはよかった。すぐ皆やめてしまうからね(笑)。0会の連中が割合がんばってくれたんで、非常にうれしかったです。だから「もっとやろう、よかったよかった」言うてたんですけど。どっちか言うとね、それまでの具体の連中もよかったにもかかわらず、何と言うんかな、先生は必ず怒られるから、やっぱり防御態勢に入ってるんですね。だから、才能はね、いっぱいある、上前(智祐)さんやとか正延さんとか、おもしろい人がいっぱいおったんですね。関根(美夫)さんもおったし。けど、どちらかというと、0会の人たちの方が、のびのびとしてましたですね。怒られたことがないから。

池上:吉原先生にも怒られなかった。

嶋本:そうそうそう。ほんで、先生もえらい気に入ってはったしね。他の人も別に、怒らんようにしてたんやけど、怒られるんではないかというようなことがね、割合思ってたんですね。

池上:今少しおっしゃった、0会出身の方々がすごく斬新なお仕事をされて、作家としての吉原先生の中で、少しライバル意識などもあったんでしょうか。

嶋本:後から思えばね。あったんじゃないかということはあります。

加藤:2回目の野外展では、今度は歩く作品を出されて。これはどういうところから。

嶋本:とにかく先生は「世界にないものをやりなさい」。ほんで、僕が考えたのは、歩くというのは、目で見ておもしろいもんでもないし、耳で聞くもんでもない、味でもない。五感のどれかではなくて、体全体で味わう、そういうアートはないやろと思って、それを考えて、やったんですけどね。

加藤:当時こういうふうに新聞でも取り上げられていて。この新聞を拝見すると、もう1955年の秋の。

嶋本:55年でしたか。もうその頃、そんなんでしたかね。

加藤:あっ私がちょっと間違えていました。一番初めは第1回の具体展の時に出されて。

嶋本:歩くのね、やりました。

加藤:それから次に野外展に出されて。

嶋本:そうですね。そのとおりです。

加藤:ですから、55年の秋の時点で歩く作品があって。同じ頃、すでに「具体音楽」ですね、そちらの方もされていらっしゃって。

嶋本:野外展の次は、舞台つくりましたからね。

加藤:55年の時点でいろいろ、テープレコーダーの作品もつくられていました。

嶋本:映像もやりました。ちょっと余分になりますけど、この頃、新聞記者なんかこんなんものすごく関心を持って、ばーっと載せてくれましたですね。

加藤:日本の美術の評論家からの反応っていうのは、あまり芳しくなかったんだけれども、新聞記者はかなり興味を持たれていたんですか。

嶋本:そうです。それは今もそうです。今もテレビ局とかね、いわゆる、何て言うかな、おもしろおかしいテレビ局とかは、おもしろがります。せやけど、まじめな世界からは評価されません。

加藤:あと、その2回目の野外展の前に、一日だけの野外展があって、『ライフ』っていうアメリカの雑誌から取材がありまして。そのときは、嶋本先生はどういうふうな作品でしたか。

嶋本:大砲の中にね、絵の具を入れて、火薬じゃないわ、アセチレンガスで爆発させて描いたことあるんですね。それは非常に僕自身はおもしろかったんやけど、警察が飛んできましてね。その頃はまだ瀬戸内海に機雷がいっぱい浮いてた時代ですねん。機雷が何か当たると爆発してたみたいでね。それとまぎらわしいというので、あまりやらんといてくれと言われたことはあります。

池上:大砲っていうのはどういうふうに入手されたんでしょう。

嶋本:鉄の筒をつくりましてね。中にカーバイトを置いといて。ほんで、水入れるとアセチレンガスができるわけですね。それに、近くの方に穴を開けといて、マッチ箱を放りこんで、どっかーん。

池上:お手製の大砲。

嶋本:もちろん手製です。

加藤:例えばその大砲絵画とか、瓶投げの絵画について、そのできた作品をご覧になって、どれを残すというのを判断されるときの基準は何なんでしょうか。

嶋本:それは後もそうですけど、割合、普通はいいのん残しますやん。これも吉原先生からヒントを得たと思うんですけど。『具体』の編集すんのに、ええ作品があって、「具体」という字を入れるときに、「『ここ空いてるからええな』と言って入れたら絶対いかん」と。「絶対、ここは、普通の人は入れるだろうけど、そこに入れないで、次に良いところへ入れなさい」と。「そうしないと平凡になる」ということを先生から教えてもらったことがあるんですね。いつもそういうことを心がけていたので、絵でも、「あっここ、こういうふうに切れば良いな」と思うようなことをしないで、その、ちょっと変わった切り方をするとかね。そういう習慣というかね、それは先生から教えてもらいました。

加藤:今残っている大砲絵画というのは、こちらの山村コレクションの作品とか、先生ご自身がお持ちだった作品もあるんでしょうか。(注:《作品》1955年、161.5 x 127.0cm、塗料・ガラス、紙、布。第4回具体美術展出品作、兵庫県立美術館蔵)

嶋本:ありました。あれはもっと小さい大砲ですけど。もう、小砲ですね。もうひとつ近代美術館かどっかにありました。あれがね、なかなか出てこないんですわ、表にね。

加藤:そうなんですか。

嶋本:というとね、大阪府立現代美術館(注:大阪府現代美術センターの意)と、それから市立現代美術館(注:大阪市立近代美術館建設準備室の意)が、いろいろ僕のをコレクションしてくれてるんですけど。それが、何と言うのかね、美術館(の建物を)持ってないから、出にくいんですわね。たまたま出る機会はもちろんあるんですけど、あるときはね、一番出しやすいやつを出品してね。大砲のなんか、傷つくし、危ないし、全然出さないんですわ。ドイツかなんかのときにいっぺん出たことあるんちゃうかなと思うんですけどね。

加藤:大阪市の近代美術館ですね。

嶋本:ですねえ。そうです、そうです。あそこはほんとに出さないですね。だからもう、それやったらもう、2倍でも3倍でも出すから、返してほしいって前から言うてるんですけど。いったん入ると、日本の美術館はね。

加藤:そうですね、むつかしいですねえ。

嶋本:むつかしいですねえ。そんだけ大事にしてくれてるんかというと、結局、もう死蔵してしまって。どこにも出ず、日の目をみないようになってしもうた。

加藤:瓶投げの絵画などを第2回の具体美術展の際に公開制作されていると思うんですが、なぜそういうふうに決められたんでしょうか。

嶋本:それ、どこでの話ですか。

加藤:第2回の具体美術展の。

嶋本:どこでやったとき。

加藤:小原会館で。

池上:東京ですよね。

嶋本:ああ、小原会館。

加藤:そのときに、白髪さんは足で描いたりとか、村上さんは《通過》をされたりっていうことがあったんですけれど。残っている写真を見ますと、嶋本先生は屋上で。

嶋本:ああ。やりました、やりました。

加藤:岩、石を置いて、投げているところを撮影されている写真が。

嶋本:それはね、これにも書いたことあるんですけどね。初めのうちは、勢いのある作品をつくるために、そういう手段をとったわけですね。あくまで作品が中心やったんです。ほんで、いろいろ、こういうところでもやって。やるときは近くの新聞記者が来て撮るんですけど。100パーセントね、描いているところが載るんです。作品は載らないんですね。初めのうちは怒っていたんですわ。「作品が問題で、描いていることはどっちでもええんや」と、「これは単なる手段にすぎない」と言うてたんですけど。しかし、いつもそれ載ってるとね、今度こっちが反省ちゅうんか。「そんなに一般の人は、できあがった作品よりも、描いているところに興味を持つのんか」と。それなら、普段着やけど、もうちょっとばしっと決めてね(笑)やりましょうか、いうふうに。逆にね、ジャーナリストの人に教えられてね、こっちが変わる。それはもちろん、白髪さんにしても、やっぱり村上さんにしても、そうやと思います。

加藤:公開制作をされることについて、吉原先生は何かおっしゃってましたか。

嶋本:いや、むしろ、先生の方がそういうことを決めはったと。もし先生が反対やったら絶対僕らできませんから、その時代はね。だから公開をする方が、皆が集まるし、話題になるし、というようなことですね。僕らもだんだんそういう気持ちになってきました。

加藤:第1回の具体展は東京でしたし、第2回も東京なんですけど、東京で発表するということは、吉原先生が決められた。

嶋本:もちろん吉原先生が。僕らは、だって、場所も知らないです。

加藤:それはやはり、東京で発表することが大事だと。

嶋本:いやあ、僕らは別にそう思ってませんけど。先生はやっぱりそう思ってはったんですね。僕らも、もちろん東京はいかんとは思ってないし、東京でやってくれたら、もっとたくさんの人が来てくれるだろうということでやったんですけど、第1回の東京展は、ふたりしか来なかった(笑)。岡本太郎と、それと誰やったかな、音楽家の、何とかいう人が来てくれただけで。あとは一人も来なかったです。(注:音楽家では黛敏郎が来場。)

加藤:流(政之)さんが、彫刻家の方が来られて、すごく激論になったというのを白髪さんが書いていらっしゃったんですけど。

嶋本:あ、そうですか。それは、僕ちょっと詳しいことは覚えてないです。

加藤:東京での展覧会のときには、展示には皆さん行かれたんですか。

嶋本:皆行きました。全部行きました。

池上:会期中も東京に滞在されていたんですか。

嶋本:いやいや、最後までおったかどうか、ちょっと覚えてない。そんな長いこといなかったと思いますけどね、行ってましたけどね。だいたい皆、焼酎の酒を持って行って、何本か置いて、それで飾り付けするわけですわ。僕は酒飲めないので、もう先寝てしまうんですよ。朝起きると、まだでき上がってなくて、ちょろちょろして、皆そのへんでごろ寝してたりとか、ホテルに帰ってるんです。僕が朝起きて、だいたいする係だったんです。その頃先生も早起きで、来はるんです。ほな、僕が怒られんねん、「できてないやないか、お前何しとんねん」言うて、僕だけが怒られるんです(笑)。そんなん覚えてますね。

加藤:展覧会の配置は、だいたい吉原先生がされるんですか。それとも会員、メンバーがだいたいやって。

嶋本:前の具体展第1回のときと同じように。だいたい先生のあれが分かってきたから、「わしゃどこでも、隅でええで」言うたら、「先生が真ん中でないと、これ、収まらないんですわ」とか、そういう知恵がついてきてね(笑)。

加藤:やはり、じゃあ、展示を担当される方っていうのは、だいたい決まっていらっしゃったんですか。

嶋本:だと思います。今ちょっと覚えてないですけど。おそらく白髪さんなんか、割合、やってはったんと違いますかね。

加藤:最終的に、吉原先生がご覧になって。

嶋本:絶対。ぜーったいです。先生は、厳しいです。

加藤:やっぱりちょっと気になるところは、変えたりとか。

嶋本:もうきれいに、高いところ皆登って吊ってね、やっても。「あれ、気に入らん」言われて、またはずす。もう結局は先生の気に入るようにやらないといかんのです。ものすごい神経質ですからね。

池上:先生が口を出された結果、嶋本先生や他の作家の方たちも、結果としてそっちの方がやっぱりいい展示になったと思われましたか。

嶋本:それは先生の並べ方がよかった。僕らも先生の(並べ方が)気に入らんのと違う。じゃまくさいし、これでええやないかというのがあったわけですわ。疲れてるし。先生はちょっとでも、「ちょっとあれ低いな」とか言うたら、絶対直させる。

加藤:次に舞台のことをお伺いしたいと思うんですけど。初めの舞台(注:「舞台を使用する具体美術」、1957年5月29日大阪・産経会館、同年7月17日東京・産経ホール)では、《物体の打壊》といって。

嶋本:はいはい、僕のやつですか。

加藤:はい、たたき割る作品だったんですけど。それはまずどういうところから発想されたんですか。

嶋本:とにかくね、一番目のトップに僕が選ばれたんですね。とにかくその頃割合、瓶投げたり、壊すのに興味を持ってましたから。だから、今はできるようになりましたけど、その頃は「非常口」いうのは絶対点けなかったらいかんかって。それも消してもらって。真っ暗なとこでやると。上からビニールに包んだ火の玉が落ちてきて、下で僕がこう持って待ってて、ぱーんとたたき破るいう作品なんですけどね。何回も、もしこれ飛び散ったらいけないというので、何回も家で練習してて。頑丈な上にも頑丈にしてやったんですけど。ところが、実際やると破れてしもたんです。ばーんと散ったんですけど、たまたま観客の方でなくて、左のソデの方に行ったからね、よかったんですけどね。(注:実際は最初の演目は白髪一雄の《超現代三番叟》で、嶋本の《物体の打壊》は3番目。)

加藤:あと、それから、ピンポンがばーって流れ落ちる。

嶋本:ピンポン球が、100ダースでしたかね、入ってて。これの下をたたくと、観客の頭の上にばーっと跳ね返って。3番目は紙吹雪みたいな。そんなんやったことあります。

加藤:あと2回目に、さっき少しお話をさせていただいた「具体音楽」とか「具体映画」を。

嶋本:「具体音楽」と映画をね。

加藤:その「具体音楽」については、いわゆるミュージック・コンクレートっていうものもあったんですけど、それはまったくご存じない状態でしたか。

嶋本:とにかく、テープレコーダーていうのが初めてできて、すぐ買ったんです。なかなか大きいもんで、大きかったですけどね。買って、それやりました。

加藤:どういうものを素材にしようと思われましたか。

嶋本:とにかく今までの音楽にないもんです。ピアノとかそんなんじゃなくて。まあ、ピアノも使ったかもわからんけど、それも変な音で。ほとんど水道の流れる音とかね、物叩く音とか。そういうので、やりましたですね。今やったら別に珍しくないでしょうけどね。それから何や、短波みたいな、ピーピーピーピーというような音も入れたん、覚えてます。

加藤:あと、その「具体映画」は、いわゆるニュース映画の既成のフィルムに手描きされたんですか。

嶋本:そう、僕の生徒の卒業生で映画館に勤めてる人がおったんで、そこからテープをもらってきて。それをお酢につけると、表面が全部溶けてしまうわけですね。そうして描きました。上に1個1個描いていったんです。今であればマジックでやれば何でもないんですけど、その頃それなかったから、色粉にニスをつけて、1個1個ずーっと描いて、描きましたですね。

加藤:舞台では、その映像を2台の映写機で投影されて。重ねて投影されていました。

嶋本:そうです。2台あるの知らなかった。一般には2台をこう、交代でやるんですね。だから「2台いっぺんに使ってくれ」言うてね。同時にやったから、非常にまた変わったもんができましたです。ところがね、中にね、ニュース映画のフィルムもらったんですね。中に天皇陛下が出てくるのがあったんですけどね。ところが2台並べてやってるから、それわからなかったんです。きれいに撮れてなくて。後にそれを映像やってる人に渡したら、このフィルムを単独で映して、「嶋本は天皇陛下のことに関心があったんや」いうことになってね。僕はあまり、そういう政治性にあまり関心なかったんやけどね、当時は。そういうこともありましたです。

加藤:実は今持ってきているんですけれども、素材を。それは、嶋本先生からお借りした物をDVDに変換してるんですけれど。当時はいくつも「具体映画」っていうのをつくられたんですか。それとも、舞台で発表された以外はつくられなかったんですか。

嶋本:つくってないと思いますね。

加藤:そうですか。

嶋本:ただ後にね、万華鏡みたいなね、そういう映像でつくったことはあります。

池上:他にはあまりつくられなかったっていうのはなぜでしょう。

嶋本:何をですか、映像をですか。

池上:はい。あくまで舞台のための音響効果だったり映像効果であったりということでしょうか。

嶋本:そうです、舞台のためにつくっただけで。ちょっと興味持ったもん、実験的にやってたから。あとでね、万華鏡みたいに、ガラスをいっぱいつくって、そっからやったこともありますけど。それは、あんまり発表してないん違いますかね。

池上:吉原先生が、その映像とか音楽に関して、とくに何かおっしゃったっていうことはなかったんでしょうか。

嶋本:それはおもしろがってくれたです。舞台でやったときは。

池上:「もっとこういう作品をやっていけば」っていうようなことはなかったんですか。

嶋本:なかったいうんは、舞台以外のことになってしまうから。で、その後、もっと極端に言うたら、先生が今度は、割合、「タブローを重視しよう」いうことになったからね。あんまりそういうのは、もう、それ以上は。僕らは関心ありましたけど。

加藤:もう舞台とかそういうのではなくて、タブローの方、今度は絵の方でやってみようっていうふうに吉原先生がおっしゃったときに、具体のメンバーの方々はどのように思われたんでしょうか。

嶋本:二派(ふたは)ありましたね。どっちかいうと作品の方をやろうというのと、パフォーマンスの方がおもしろいというのと、二派ありましたですね。

加藤:嶋本先生はどうでしたか。

嶋本:パフォーマンスの方が好きだったですね(笑)。僕とか、それから村上さんとか。

池上:タブローの方に行こうっていう方たちは、どういう方がいらっしゃいましたか。

嶋本:白髪さんなんか、まあ、もちろんパフォーマンスもやらはりますけど、どっちかいうと白髪さん、田中さんなんかそうでしたですね。

加藤:やはりミシェル・タピエ(Michel Tapie´)が来たことが大きかったと思うんですけど。タピエと会われて、どのような印象を持たれましたか。

嶋本:本も出してはって、非常に文章もおもしろいし、考え方もおもしろいし、非常に心酔しておりましたけど。後になってみれば、タピエというのは、どっちかいうと画商であって、パフォーマンスよりもやっぱり作品重視だというのが、後にわかりましたですね。そのときは一所懸命、わからんから、映画やら見せたりしたけど、まったく無駄やったですね(笑)。

加藤:たしかに、タピエに舞台の映像を見せたけれど、興味を示さなかったっていうのは他の方からも伺ったことがあります。

嶋本:はい、そうです。全然興味を示されませんでした。同時にこどもの絵もね、例の(インタヴュアーの加藤さんが)やってはる『きりん』なんかも、タピエは全然興味示さなかったです。というのは、(タピエは)あくまで画商なんで、ちゃんと新しい世界のアートを。(注:インタヴュー当時、加藤が編集・執筆した『『きりん』の絵本』(きりん友の会、2008年7月刊行)という本が出版されたばかりだった。)

池上:画廊で展示できるようなかたちのものを、ということですか。

嶋本:まあ、そうですね。

加藤:その後先生は、やはり絵の方に、主に集中していかれるんですけれど。

嶋本:先生っていうたら、僕のことですか。

加藤:はい、嶋本先生です。

嶋本:そりゃ言われたからね。皆でね、やりましたけど。逆では、しょっちゅう、アラン・カプロー(Allan Kaprow)の話をよく先生にしてね。「アラン・カプローはもっとこんなこともあったし、おもしろい本も出しているし。だから、もっとコンタクト取ってやって下さい」という話はしましたけどね。先生の方は「アラン・カプローにあんまり連絡取れないんや」言うて。

加藤:たしかに、吉原先生がアラン・カプローのところに初期の具体の写真をお送りされたから、本に掲載されたんですけれど。やはりタピエと出会うことによって、吉原先生ご自身も少し変わられた。

嶋本:変わりましたですね。

加藤:見る眼ということに関しては。

嶋本:あったと思うんですけどね。ただ、まあ、これは多少よくない憶測かもわかりませんけど。先生の方は、こういうパフォーマンスなんかどんどんやれば、若い人の方がもっとおもしろいアイディアを出すんじゃないかと。自分は負けてしまうという言い方は、これは勝手な憶測ですけど。だから、やっぱりタブローであれば自分は負けないぞというような関心があったんでは。これは憶測ですよ。でも、ちょっとそういうふうに思いますね。

加藤:当時の記録というか、メンバーの方のいろんなお話を伺うと、吉原先生は50年代の後半、非常に苦しんでいらっしゃいました。

嶋本:ああ、そうです。一時、そうでしたですね。

加藤:絵も非常に、なかなか描けないということで。よく嶋本先生が呼ばれたんですね。

嶋本:4人ほど呼ばれましてね。いつも「手伝え」って言われて描いたことありますけど。その苦しんでおられるときの絵というのは、非常によかったんですよ、今から思えば。後に、こう丸になって、すっきりしはったけど。僕どっちかいうと、そのときよりも、苦しんで、なかなか、生みの苦しみやってはる先生の姿いうのは、非常に立派やったと思います。

加藤:先生は、いわゆるお弟子さんに、「これはどうしたらいいんや」っていうようなことをおっしゃるんですか。

嶋本:そういうところはね、本当に、さらけだしてね。「自分はどうしてもできない」と。「お前らどんどんできるやないか。もっと俺を助けてくれんか」というような、そういうね、非常に正直な方でした。ちょうど海外からも来るようになってましたからね。そのときに、自分がそれに乗っかれない、リーダーとして乗っかれないということを、非常に悔しがっておられましたですね、焦っておられましたですね。

池上:やっぱり作家としての吉原先生と、師匠というかリーダーとしての先生の、ジレンマみたいなものがあったんですね。

嶋本:そうそう。そうですね。両方の、葛藤があったですね。

池上:その苦悩されてる姿というのは、嶋本先生だけではなく、他のメンバーの方にも。

嶋本:毎晩呼ばれたんですわ、4人が。白髪、元永、村上、僕やったかね。いつも遅くまでやって。それで、あと、もう怒りっぱなしで。「お前ら来たって何の役にも立たんな」(笑)。

池上:手伝いというのは、具体的に何かを手伝われたんですか。

嶋本:たとえば「絵、今これ描いてるねん、どない思う」て言うたら、「いいですよ」言うたら、「こんな絵でお世辞なんか言うな」言うて、怒られる。だから「このへんちょっと入れてみて」言うて。ほな、先生、入れはるんですわ。「ええことないやないか、なんでええ加減なこと言うねん、お前らは」言うて。「もっとちゃんと考えろ」言うて。そういうずいぶん乱暴な。場はしらけましたね。

加藤:これは後に、村上さんの奥様から伺ったことなんですけど。村上さんが、後にですね、「具体っていうのは、吉原先生と嶋本先生の出会いがなかったらできなかったグループだから」っていうことで、やっぱり、嶋本先生の存在っていうのを非常に重要だとおっしゃってましたけれども。たしかにそうだなあと思います。

嶋本:そうですか。そりゃ意外な、ありがたいことですけど。それはたしかに、僕はまあ、今でも「AU」(注:アーティスト・ユニオン。この団体について詳しくは2回目のインタヴューを参照)というのをつくってる。割合、人集めたり仲間集めんのが好きなタイプですわね。だからすぐ皆集めて、「吉原先生というすごい先生がいるから、やろう、やろう」言うようなくせがあるんですね。村上さんは、弟子持つの嫌いですねん。弟子が来たらすぐ僕のとこ連れてきて、「お前やれ」って(笑)。

加藤:おそらく村上さんは、吉原先生と嶋本先生の師弟関係っていうか、そこがベースにあるということをおっしゃりたかったようだと思うんです。私も、たしかにそうだろうなあというふうに思います。やっぱりその、0会の方はもともといらっしゃったわけではないですし、元永さんも後からですし。となると、やはり一番最初からずっと一緒にいらっしゃったのは、嶋本先生だから。

嶋本:それと、学校の先生でもあったからね。割合、いろいろ教えたり、まとめたりすんのが好きなタイプやったですね。

池上:吉原先生の指導が厳しくて、どんどん他の方がやめられていく中、嶋本先生だけはもう絶対についていかれたんですよね。

嶋本:こわいのはやっぱり嫌でしたですよ。しょっちゅう怒られてたから。せやけど、この先生おいては、他には二度と、日本人にはいないと思ってたからね。少々怒られても何とかついていってましたですけどね。

加藤:グタイピナコテカが1962年にできますけれど、そのときの「具体」メンバーの個展の最初が嶋本先生だったんですよね。

嶋本:そうです。一番先にやらしていただきました。

加藤:やはりそれも、吉原先生の信頼があったからだと私は思うんですけれど。

嶋本:それはたしかに感謝してます。それから、舞台も一番先にやらしてもらったしね。(注:実際は《物体の打壊》は3番目の演目。)

加藤:個展は、そのときが初めてでいらっしゃいますか。それまで実は植木(茂)さんから新聞の作品を評価されたときに、個展のお話もあったんですよね。

嶋本:ありました。ほんで喜んでね、「植木先生が『個展やったげよう』言うてきた」言うたら、「断れ」と一言ですわ。「断れ」言うて、しまいですよ(笑)。びっくりしましたよ、喜んでもらえる思うたら(笑)。それぐらい、まあ何ちゅうかね、ええように言えば厚い信頼でもあるし。ねえ。せやけど、なかなか厳しい人ですわね。

加藤:そのグタイピナコテカの個展をされるにあたって、ピナコテカって大きいですよね、どういうふうに準備されましたか。

嶋本:ものっすごい作品をつくりましたですね。ここ(アートスペース)、今は小さくなってますけど、割合広い家やった。で、庭のとこにもカンヴァス立てて、瓶投げて、つくりまして。もう庭の木が全部絵の具だらけになってました。でも母親はそれは、おもしろがってたですね。

加藤:嶋本先生、並べられたのは、瓶投げの絵画がメインですか。

嶋本:だったと思います。ちょっと忘れましたけど、ほとんど瓶投げばっかりやったと思いますね。

加藤:ちょうど、吉原先生が文章を書かれてるんですけれども、ここに「彼はここ数年来、その振幅を大きくしていた。例の炸裂する形態のタブローが豊かな実りを見せはじめたかに見える。そして今度の個展に踏み切った」っていうふうにありまして。瓶投げの作品を描かれているときに、やはり少しずつ何か変わったりとか、そういうことはあったんでしょうか。

嶋本:偶然の絵ですから。偶然の中から選んでいくから。選び方もだんだん変わってきたと思います。

加藤:たしかに作品を拝見すると、こちらの作品などは、少し違う感じになっていますし。(《作品》1961年、182.0 x 137.0 x 10.0cm、塗料、木、布、合板。第10回具体美術展出品作、旧山村コレクション、兵庫県立美術館蔵)

嶋本:はい。これなんか、瓶投げじゃないですね。

加藤:これはどういうふうに描かれたんですか。

嶋本:これは枕木がついている。ここにね、枕木がついている作品なんですけど。だから、これまた違う、ちょっと全然違う考え方の作品です。

加藤:これはどういうふうな発想でつくられたんですか。

嶋本:まあ、投げたりはしてましたけど。いっぺん、すぐJR近くに、枕木拾ってきたことがあるんですね。こんな唐突なもんいっぺん付けてみよかと思って、付けて、やった作品です。よく皆から「枕木」って言われてます。

加藤:あと、もう少し後になりますが、こういうふうな作品もありますが。(《作品》1965年、188.0 x 256.5 cm、塗料、布、板。第16回具体美術展出品作)

嶋本:ああ、渦巻きね。これはね、瓶投げをしたら、絵の具がカンヴァスからまけて、下の絵に、床にこうなったら、下にこういう模様ができるんですね。それから、こういうのを考えついたことあります。

加藤:「具体美術展」に出品される際には、吉原先生が「良い」と言う作品しか出せないんですよね。

嶋本:出せなかったです。初めの頃はね。

加藤:そうしましたら、嶋本先生もたくさん作られて、それを吉原先生にお見せになって、っていうことですね。

嶋本:そうですね。基本的にはね。

加藤:やはり会員の方の中には、何回持って行ってもだめだと言われる方もいらっしゃったわけですね。

嶋本:しまいはそうでもなくなりましたけどね。初めの頃は厳しかったですね。それもね、持って行くでしょう、「あかん」て言う。「あかん言うたって、明日展覧会やから、持って帰る、直すひまがありません」言うたら、「そんなことわしは言うてるんとちゃう、明日持って来いと言うてるだけや」。「どうやって持ってくるんですか」言うて。「そりゃお前が考えろ」と言うてね。その、普通やったら、「今から持って帰ったら間に合わんだろうから」とか、そういうことは一切言わはりませんでした。とにかく「明日までに持って来い」って言うだけで。

加藤:でもやっぱり、見てだめだったら、もうだめということになるんですか。

嶋本:なります。それで、鷲見(康夫)さんがひとつ、これよくエピソードで言うんですけども、持ってきて、僕がうっかりほめたんです。「鷲見さんの、ええのんできました、先生見て下さい」って言うたんですよ。ほんなら先生、僕が「ええ」って言うたんが気にいらんのです。「どこがええねん。ええことないやないか、こんなもん。とにかく明日までにもっぺん新しいの持って来い」。もう、今やったら、トラックでも何でもあります。その時代なんか、トラック(を使いたいとは)、言えないです。困ってね、絵を逆さまにして「これはあかんのですけど、こんなんやったらありますけど」言うて。すると「これええやないか。これ出したらええやないか」言うて(笑)。というようなエピソードがありますけど。

加藤:ようやく、吉原先生が厳しいっていうふうにおっしゃっていたことの意味が分かりました。単に、こう何か、厳しく指導するっていうのではなくて。非常に、ストレートに指示をされないっていう部分を、ちゃんとくみ取って、こちらがそこから先生が本当に言わんとしていることを理解しなければならないっていうことですね。

嶋本:そうですね。

池上:厳しいと同時に、難しいっていう雰囲気があるわけですね。

嶋本:ああ、そうです、そうです。

池上:作品、嶋本先生の作品でも、他の方の作品でも、「これだめや、これあかん」って言うときの先生の判断に、嶋本先生がご覧になって、やっぱり同意されるものがありましたか。やっぱり先生が「良い」と言うものは良いなあとか。

嶋本:基本、大ざっぱな意味ではそうです。せやけど、持って行き方によるんですわね。

池上:今おっしゃったみたいに、先に自分で「これ良いですよ」みたいなことを言ってしまうと。

嶋本:だめですよね。

池上:話が戻ってしまうんですけれども、『具体』誌のことでちょっとお聞きしたいことがあったんですが。海外に発送するときに、吉原先生が郵送先をお決めになって、ご住所もお持ちだったっていうことなんですよね。だいたいその郵送先は、どのへんだったんでしょう。アメリカが多かったのか、フランスが多かったのか。

嶋本:それはもう世界。とにかくフランスとかアメリカが多かったですね。しかし美術館が多かったですね、その頃。

池上:その住所というのは、吉原先生が個人的にお調べになって持っていたんでしょうか。

嶋本:ああ、そうですね。はい。

池上:美術館、美術雑誌、画廊など、そういうものもありましたか。

嶋本:そうそう。それは先生は(海外の美術雑誌を)よく買ったんですね。僕らはとっても買うようなゆとりもなかったしね、見る機会もなかった。

加藤:山崎つる子さんが、東京で「具体展」をしたときに、吉原先生に言われて、「この人に案内状を持って行け」とかっていうご指示があって、それぞれにまわったっておっしゃっていました。

嶋本:ああ。そうかもしれないね。

加藤:吉原先生は、非常にそういうプロモート、広報とか、そういうことを、初めから戦略的にされるっていうことがあったんだなあと。

嶋本:それは、先生は上手です。

池上:海外だけではなくって、国内でも、そういうふうに案内を出しておこうってことで、ちゃんと考えてらしたということですね。

加藤:直接「東郷青児さんに持って行きなさい」とか、指示があったとおっしゃってました。

嶋本:ああ、そうでしょうね。二科やからね、東郷青児。親しいし。

加藤:そういうふうな部分が、非常にグループのリーダーとしてふさわしい。

嶋本:それはもう。何でもできたですね。会社の社長でもあるしね。なかなか、そういう配慮はすごいです。厳しいけど、上手に的確にできた方ですね。

池上:吉原先生が最初から海外に向いてたっていうのは、どういうところからなんでしょう。

嶋本:それは、僕個人のことからいうと、別に僕だけじゃないですけど、「嶋本の絵は、これは日本で言うてたら絶対分からんから、海外にしなさい」というようなことがあって。せやけど、僕だけじゃないと思いますけどね。

池上:実際に、結果としても、海外からは『具体』誌を送った中から、返答があったりしたわけですけれども、国内からはあんまりだったっていうことで。

嶋本:あんまりじゃない、まったくなかったです。これは余談ですけど、だから僕がメールアートの世界に、やったときに。住所を聞いて。何千という住所を知るようになったわけですね。それは、ちょうどよくてね。メールアートいうのは1962年にレイ・ジョンソン(注:Ray Johnson。1927−95年。メールアートの創始者)という人が宣言して。アートというのは、とにかくそこで順列を決めるんでなくて、皆が楽しむもんやと。そこで良い悪いでなくて、とにかく展覧会も全部並べてやろうというようなことを、1962年に宣言したんですけど。ところがね、それでまあ、欧米先進国は始まったんですけど。ところが、有色人種は誰もいなかったんですね。そのときにたまたま、嶋本昭三いうのがアーティスト・ユニオンのリーダーになって、それを送ってきたんで。「あ、有色人種がやるわ、応援したろうやないか」というので、ものすごいたくさん。だから、100通送ったら300通ぐらい返ってくるんですね。はじめびっくりしました。うれしかった。とにかく海外の住所が、アーティストの住所が分かるというのがうれしくてね。一所懸命、夢中でやったことがありますね。

加藤:ひとつお伺いしたかったのは、普通、先鋭的な美術グループだと、皆メンバーっていうのは対等であることが多いと思うんですが。具体の場合は、吉原先生がひとり上にいて、その下にお弟子さんのようなかたちですね。そういうかたちについては、嶋本先生は何か思われましたか。

嶋本:それはね、あらためてそれだけを取り上げるとね、序列みたいですけど。とにかく具体がすばらしくて、他とはもう比べものにならなかったから、そんなことどうでもよかったです。

加藤:やはりそれぐらい吉原先生の目が的確であったと。

嶋本:的確やったですね。

加藤:メンバーの活動自体もそれで、すごく活発になっていったという。

嶋本:すごかった。活発やったですね。

加藤:やはり、経済的な力も吉原先生はお持ちだったし、人脈もお持ちだったし。会場を借りられるということ自体、大変だったと思うんですけど。

嶋本:僕らはとても借りられなかったからね。舞台にしても、百貨店にしてもね。

池上:それは全部、吉原先生の私財と人脈で。

嶋本:そうそう、そうです。

池上:社長業の方もお忙しかったはずなんですよね。

嶋本:割合ね、先生が社長のときはね、いいんですよ、成績が。それはなぜわかりませんけど。

池上:経営者としても優れていたということですね。

加藤:結果的に、戦後はたくさんの前衛的な美術グループがありましたが、具体は最後まで長く残りましたし、一番活発にいろんなことをされましたね。

嶋本:先生の財力も、ひとつはそれもあったでしょうね。でも内容的に、僕らはやっぱり抜群やったと思います。せやけど、東京の方からはあんまり評判良くなかったですね。なんか先生が金にあかして若い人を指導しているというか。やっぱり、東京の考え方かもしれんけど、皆が、若い者から湧いてきてやるのが芸術やと。えらい先生がおって、指導してやるというのは、そんなもんは芸術やないという非難もありましたけどね。

加藤:ただ、結果的に、いいものができているのは具体なんで。

嶋本:僕らはそう思う。結果的に、そっちがどうあろうとも、ええもんができたらええやないかと。

加藤:その方が、評価をされるべきだと思うんですけれども。

嶋本:ねえ。これやっぱり、せやけど関西的な考え方かもわかりませんね。東京はどっちかいうと、本質とかね、そういうものが、割合、大事ですね。後に「アーティスト・ユニオン」ができて。これは1960年代に活躍した人を選んで、吉村益信という人が会をつくりましてね。一年目は吉村益信がやったけど、ちょっと赤字を出したんで、僕に代わったわけですね。そのときに、僕は代表でなくて、全国合議体の事務局長。北海道もあれば、青森も。全部の人が集まって、アイディアを出して、それをとりまとめる役ということで、事務局長として僕がなったんですけどね。そのときに思いました。理屈ばっかり言うて、全然進まへんわけですわね。「こんなん意味ないやないか」言うたら、「いや、われわれ議論することに意味がある」。やっぱり、とくにあれですね、東の方が多いですね。関西は「とにかくやろう」と、「やれば何とか答えがでるやろう」という。それがもう、東と西の、大ざっぱに言うたらね、全然考え方が違うとこですね。それでしまいに僕は「アーティスト・ユニオン」を「AU」という名前に変えて。今新しいのしてますけど。今はもう全然、そのときのメンバーいうのは、数人しか残ってません。今はもっと若いのが入ってたり、ほんで障害者が入ってたりなんかして、若い者がいっぱい入って。今200人ぐらいですけどね、おるんですけど。そんな連中はほとんど美術学校出てないです。まったく素人やし、障害者もたくさんいてます。せやけど、それはそれなりにね、とってもおもしろいんですけど。はじめの「アーティスト・ユニオン」とは全然違う内容のもんですね。

池上:今日は、だいぶ時間が過ぎてしまって。「アーティスト・ユニオン」ですとか、具体の解散以降のお話というのは、次回のインタヴューで詳しくお聞きしたいんですけど、よろしいでしょうか。

嶋本:はい、また日を決めていただいたら。結構です。そんだけ、まとめて。

加藤:どうもありがとうございました。

池上:長い間、ありがとうございました。