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嶋本昭三オーラル・ヒストリー 2008年8月30日

兵庫県西宮市 アート・スペースにて
インタヴュアー:加藤瑞穂、池上裕子
書き起こし:鈴木慈子
公開日:2009年6月1日
 

池上:先週は具体美術協会の1950年代から60年代の活動について、主にお聞きしました。今日は1960年以降の、後期と呼ばれてるんでしょうか、具体美術協会の活動について、お聞きしていきたいと思います。60年代の前半に新しくメンバーがどんどん加入されていったかと思うんですけれども。嶋本先生のご紹介で入ってきた方々というのは、どのような方たちがいらっしゃいますか。

嶋本:60年にはどうやったかな。金木(義男)なんかはどうやったかなあ。おもしろい弟子がおりましたけどね。基本的、大ざっぱに言ってね、僕らはじめ50年代は、とにかく新しい運動をやろうということで、先生とこへ、割合ね、必死になってやってたんですけど。60年代ぐらいになってくると、割合有名になってきまして。どちらかというと、もっと安定して広げようと、いうような考えに先生がなっていった。だからそれまででしたら、とても会員になれなかったような人も、多く入るようになりましたですね。

池上:それは先生がメンバーとして加入させるかどうかっていう基準みたいなものをちょっと広くとられたということでしょうか。

嶋本:広くとられたですね。

池上:団体としての安定性というか、ちゃんと長く続くグループにしていこうっていう。

嶋本:それまでは団体というか運動体みたいなね、運動としてやってたから。先生の方もどこまでやるという意識もなかったと思うんですけど。60年代ぐらいからは、ピナコテカもできたのもあって。

池上:意識的に。

嶋本:ちゃんとした会としてやろうというね、そういうお気持ちがあったと思いますね。

池上:分かりました。そこで、名坂有子さんですとか、「3M」と呼ばれた前川(強)さん、松谷(武判)さん、向井(修二)さんなどが入ってくると思うんですけど。このお三方や名坂さんは、とくに嶋本先生経由というわけでは。

嶋本:とくにそうじゃありません。はい。

池上:彼らはじゃあどういうかたちで具体に参加しようというふうに。もう会のことをご存じで。

嶋本:皆、その頃はかなり具体もね、有名になりましたんで、割合訪ねてくる人は多かったです。それまでもあったんですけど、それまでは先生が非常に厳しくて、なかなか入れてくれなかったんですけどね。その頃から割合入れようというね、気持ちになったみたいですね。

池上:新しく入られた方でもこの「3M」と呼ばれるご三方はかなり活発に活動されたと思うんですけれど。この方たちがグループ全体に与えた影響とか、何かございましたか。

嶋本:とくに3人が与えた影響ということはありませんけども、その頃からちょっと、何というか、非常に、体制的な考え方というふうになってきましたですね。

池上:会の質自体が少しずつ変わっていった。とくに新しいメンバーの影響だけというわけではなくって、吉原先生のお考えもあって。

嶋本:先生のお考えがそうなりましたですね。

池上:じゃあ、嶋本先生ご自身が、新しいメンバーの活動や作品から何か触発されるようなところは、当時ございましたか。

嶋本:あんまりなかったです。

池上:作品の質が、共通するものが少ないんでしょうか。

嶋本:ちょっと離れてましたからね。まあ、その連中はそういう連中で。先生が薦めてはんねんから、まあ、やればいいなぐらいにしか思ってないです。

加藤:1962年にグタイピナコテカができましたけれど。やはりピナコテカができたってことは、運動体としての具体から、体制的な、ひとつのグループを構築するというか、そういうふうな意識に変わる、ひとつの大きな原因になったんですか。

嶋本:大きなきっかけになったと思います。

加藤:ピナコテカはもともと吉原先生が構想されていたんでしょうか。

嶋本:そうですねえ。もともとは、吉原製油の倉庫だったんですね。それを使おうというようなことですけど。それに、ミシェル・タピエが建物が非常にユニークでおもしろいと言ったいうのと。「ピナコテカ」という名前も、ミシェル・タピエがつけたはずやった。

池上:倉庫は大幅に改装などされたんでしょうか、ピナコテカにするときに。

嶋本:内部はね。基本的には、ほとんど使ってます。

池上:ピナコテカができたことで、個展なんかもそこで定期的にやっていくっていう。

嶋本:ほとんどメンバーが順番にね、やるようになりましたからね。

加藤:個展をするときには、吉原先生から「今度どうや」みたいな感じですか。

嶋本:もちろん、そうです。先生が全部決めてやります。

池上:それまでは展覧会場を借りて、個展でもグループ展でもやっていたのが、自前でできるようになるわけですよね。

嶋本:そうですね。

加藤:海外からのお客様もそこでお迎えしてっていうことが多くなるんですね。

嶋本:多くなりましたね。かなり、出して恥ずかしくない建物でしたからね。

加藤:当時、関西ではそういうふうなところが他に、美術館もあまりなかったですし。そういう現代美術を見れるところとして、ピナコテカは皆さん訪れる。

嶋本:そりゃもう、ダントツにすばらしかったです。

池上:海外からお迎えしたお客様で、とくに印象に残っている方はいらっしゃいますか。

嶋本:僕個人ですか。個人としては、やっぱりあれですね、アラン・カプロー(Allan Kaprow)とか、それからオットー・ピーネ(Otto Piene)ですね。このふたりはとくに仲良くなりましたですね。まあ、他もずいぶんいろいろな方みえましたけどね。(注:アラン・カプローは実際はピナコテカを訪れていない。)

池上:芦屋の美術館でちょっと写真を拝見したことがあるんですけれども。(クレメント・)グリーンバーグ(Clement Greenberg)ですとか、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)ですとか、(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)ですとか。結構錚々たる方々が。

嶋本:錚々たる人が来てましたですよ。ところが僕ら、はっきり分からんかったわけです。その人がそんな有名な人かどうかすらね。

加藤:海外のコレクターの方もかなり来られて。写真が非常にたくさん残っているんですけれども。ペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim)さんも来て、かなりたくさん、そのときに作品をご覧になって、収集されて帰られたと思うのですけれど。

嶋本:しましたですね。

池上:コレクターの方々でも、「どの絵を持って帰りたい」ていう、そういう交渉というか、そういうものも、吉原先生が具体のメンバーの方々に代わって、代表してそういうことをされていた。

嶋本:先生ですね。そうですね。そうです。

池上:ピナコテカができたことによって、ひとつ、会として発信する、非常に強力な装置のようなものができたわけですよね。逆に、その3年後になりますけれども、1965年を最後に『具体』誌の、雑誌の方は発行されなくなっていくようなんですけれども。

嶋本:とくにどうしてってことはなかったんですけど。新しい運動体っていうのがちょっと、まあ、そういうあれが薄くなったもんですから、ということだと思います。とくに今度はこういうテーマでやろうというのがなくなったからね。何となく、少なくなりましたですね。

池上:とくに、「じゃあ出すのをやめよう」というのがはっきり決められたわけではなく。

嶋本:そういうことではないです。それと、僕もそれまで編集であったのが、吉田(稔郎)さんに変わりましたですね。

加藤:ああ、そうですね。

池上:それはいつ。

嶋本:60年代から変わったんかな。いつか、ちょっと覚えてないですけど。だから僕の頃はもう、何か、むちゃくちゃでしたからね。吉田さんはなかなかそういう事務的なこと上手な方で、きちっと。

池上:あとはその、新しい運動体としての具体を他の、外部に紹介していくという役割がひとまずは達成されたということもあるんでしょうか。

嶋本:それもあるでしょうね。

池上:具体美術協会として、団体として行われた最後の大きなイヴェントのひとつに、1970年の大阪万博で行われた「具体美術まつり」があったかと思うんですけれども、嶋本先生はこの催しにどういうかたちで参加されていましたか。

嶋本:ちょうど僕がね、その頃(阪急電鉄の)西宮北口(駅)のところにね、300坪ほど、遊休地というか、土地を持ってたんです。そこに小屋を建てましてね。皆がアイディアを出したのを、当時僕は短大の教授をしてたから、若いそういう子に手伝ってもらって、いろいろつくりましたです。だから先生がプロデューサーで、他の人がいろいろアイディアを出したのを順番にね。

池上:いろいろな催しが行われたと思うんですけども、その中でとくに先生がご担当になった部分というのは。

嶋本:えーっとね、一番手間かかったのは、バルーン人間が空中に上がっていくのとか。それから元永さんがアイディア出したのは、スパンコール人間なんか全部うちで若いもんで全部縫うてね、つくったり。それから、あと何があったかなあ。

池上:それは具体の作家さんたちだけではなくって、具体のメンバーではない、若い学生さんたちが手伝われたんですね。

嶋本:そう。作家がアイディアを出して。ところがそのアイディアは、それはとってもすぐにつぶれるような、手間のかかるもんやから。割合うちがそれをようけつくりましたですね。

池上:学生さんたちの手も借りてっていう。

嶋本:そうそう。あっそれから、村上さんが、立体の箱があって、会場にそれが置いてあって、ほんで中に村上さんが入ってて。それをカタンと、それが突然、こういうふうになる(倒れる身振りをつけて)と、動くというようなアイディアがありましたですね。それはものすごい難儀しました。今から考えれば、中におる人が押してやね、なるはずないねん(笑)。力学的に言うても。だからそれを何とかしよう言うて、つくって。簡単にできると思ったんです。箱つくって中に棒つくって、中でやればいいと。それはものすごい困ったことあります。

池上:それは結局どういうかたちで倒されたんですか。

嶋本:やっぱり何か、下にちょっと穴開けたんやったかな。何かそんなことで。倒すように。

池上:外から見ていて、自分で倒れるような角度に見えるようにしたっていう。村上さんは中にいらして、けがはされなかったんですか。

嶋本:しなかったですね。

池上:危険なアイディアのようにも聞こえますけど。

嶋本:そうですね。

池上:この「具体美術まつり」について、加藤さん何かご質問ありますか。

加藤:そうですね。今はないので。どうぞ続けて下さい。

嶋本:それから、もひとつね、これは余分なんですけど、うちが大学の、短大の先生してたんで。短大の人が同じ場所を使ってやったことあるんですわ。ほんで、バイリーンといいまして、不織布というんですか、初めて織り目のない布というのができた頃でね。それを大量にうちの大学が寄付してもらって、「千人が花嫁」というのをやったことありますわ。

池上:それは万博の期間中に。

嶋本:ちょうど具体がやってないときですね。隔月やったから。ちょうどないときにやったことあるんですけど。それは僕がアートのプロデューサーとしてやったことあるんです。

池上:それは学生の方たちにしたら、すごく大きなことですよね。万博のそういう会場で。

嶋本:ちょうどチャンスがあってね。僕にとってもね、すごいチャンスでしてね、その、何というのかね、千人の美女がね、皆、服を脱ぐんですね。そのとき僕が手伝ってたんですけど。びっくりしたのは、若い女の教授がね、「はい。上着脱ぎなさい。はい、皆下ろしなさい」言うと、普通もじもじするんですね。もじもじしてたら「ああ、ほなもうあんたやめなさい」。ぱっぱっぱっぱっぱっ。千人やから、ものすごいいろいろけずっていったりしたことあってね。「えっこんなん見てええのかな」と思うような(笑)。まあ変な話ですけどね。そんなことで。とにかく、僕がオブジェつくりましてね。大きな、どれぐらいあるかな、直径がこれぐらいの、2メートルぐらいで、長さが数十メートルのね。それをつくって、それを会場に流して、ほんでふわふわさして、それを背景にして、花嫁がずーっと歩くような。

池上:実際に千人いらしたんですよね。

嶋本:うん。やったことありますけどね。

池上:短大で、一学年だけだと千人も学生さんはいませんよね。

嶋本:いやいや、学生以外に他からも募集しました。

池上:それと短大の学生さんが全員ですか。

嶋本:全員ですね。それをちょっと、元永さんが誤解して。「嶋本が万博の会場でアートプロデュースをやった」ということが書いてあるわけですね。何というかな、書くときが細かいときには詳しく書いてるけど、1行しかないから、あれもやった、これもやった、いう中で、「万博がアートプロデュース」(と書いた)。元永さんがそれをみて「あいつはアートプロデュースやってないのに、アートプロデュースやったのは先生やのに、嶋本が書いてる」というようなことで、よくよそでは言うてますけど。これは具体ではなくて、宝塚造形、まだそうは言うてなかった、関西女子学園というところのね。

池上:宝塚造形芸術大学の前身ですね。具体のイヴェントとは別のものとしてやられた。

嶋本:全然別です。それがしかし、全然ですけどね、僕は、その学校が上田安子てご存じかどうかしらんけど。

加藤:服飾の。

嶋本:服飾の学校で。そこはよくファッションショーやりますわ。僕にね「変わったことやって」言うて、やることになりましたけど。これは先生がファッションショーなんかやってはったから、それなんかを見て、影響されてたと思うんですわ。どんなんかというと、体中砂を全部かけて歩いたりね。そのような、ずいぶんあれを、やりましたですよね。ところが、僕のをやるとね、その頃、写真新聞、今でもあるか知りませんけど、写真新聞いうのがあってね、「昨日は上田安子のファッションショーがありました。その中でこんな変わったんが出てました」いうて、写真新聞、僕のが出るんですよ、しょっちゅうね(笑)。

池上:写真新聞というのは、どういう媒体ですか。

嶋本:よくありませんかね。よく、これぐらいのね、A4ぐらいの紙で。

加藤:グラビアだけで成立しているような。これぐらいの、タブロイド判っていうか。

池上:写真週刊誌とはまた違う。

嶋本:週刊誌いうか、写真集みたいになって。今でもありますよ。それにね、よく出てたんで。

池上:少し質問としては戻ってしまうかもしれないんですが、具体後期と呼ばれている時期の具体美術協会と嶋本先生との関わりについてお聞きしたいんですけれども。1965年あたりにまたたくさん若いメンバーが入ってくるかと思うんですけれども、そういう若いメンバーの方たちと設立当初からいらしたメンバーの方たちというのは、どういうふうな関係で、同じグループの中にいらしたんでしょうか。

嶋本:それはね、まあ先輩としてね、いろいろ参考意見言ったりしたことありますけど、ほとんど先生が直轄でやってはるからね。あまりこっちは命令したりそういうことはなかったですし。先生はあんまりそういうこと好まれなかったからね。

池上:同じグループだけれども、やはり、最初から最後まで吉原先生が頂点というか、上にいらして、一人ひとりとの関係を。

嶋本:そうですね。

池上:あまり親しく交わってというような感じとは少し違う。

嶋本:全然、仲悪かったわけじゃないけど。まあまあ、とくにこっちが力入れてどうこうということはなかったです。

池上:全体としてやったというのは、やっぱり先ほどの「具体美術まつり」ぐらいですか。

嶋本:そうですね。あれは、皆ね、力入れましたけどね。

池上:その他は個人個人で制作を一所懸命やってというかたちだったんでしょうか。

嶋本:そうですね。それと割合、先生もゆるくなってきて。よそで個展したり何かしてることも、割合、奨励したり。

池上:そうですか。最初それは良くないという考えだったんですよね。

嶋本:皆、断らせられました。

池上:最後の方は、外で個展をすることも、具体美術協会というグループのためにはいいことじゃないかっていう。

嶋本:いいことですね。それとあんまり一人ひとりの作品を厳しく見たりしなくて。「ま、いいやろ」というような、割合おおらかになってきましたですね。

池上:前、お話をお聞きしたときには、吉原先生は非常に厳しい、そして難しい方ということをお聞きしましたが。この頃になると、そんなに難しくない。

嶋本:非常におおらかに。だいぶそういうの少なくなりましたです。ゼロじゃないですけどね。何かひとつ、こう気に入らんとこがあったりすると、ものすごい厳しい。

池上:それは具体がもうある程度認知されたということが大きかったんでしょうか。

嶋本:そうですね。たぶんそうやと思います。

池上:具体の60年代の後半の方になりますと、本当に解散前という時期になってくると思うんですが。解散の少し前あたりの頃は、具体美術協会はどういう状況だったんでしょうか。

嶋本:ちょっとまあ、何というのかね。これは大きなことやったと思うんですけど。ミシェル・タピエの方向で、タブローを中心にやろういうことになってきたんです。僕はあんまり向いてないんですわね。僕とか村上さんなんかはね。だから、そんなにね、力、ちょっとその頃は力入れてやりませんでしたですね。

池上:具体の外での活動も、徐々に増えてこられたんでしょうか。

嶋本:そうですね。はい。

池上:外というと、他ではどのようなところで活動を。

嶋本:外国に行ったりしてましたですね。

池上:それは、何か展覧会で、招かれたりとかいうような。

嶋本:いやいや。そんなんもありましたけど。それはね、展覧会に招かれた場合は、先生の許可がいるからね。関係なしに行ったことが多いですね。

池上:ご旅行であったり、見聞をひろめたり。

嶋本:せやけど、先生はあんまり好きやなかったです。

池上:自分で海外に行くっていうことが。それは何となく吉原先生の監督を離れてしまうような感じがするっていうことでしょうか。

嶋本:そうですね。

池上:少しずつ、吉原先生の方向と嶋本先生の方向も少しずつずれが出始めるような感じでしょうか。

嶋本:まあ、強いて言えばそうですね。こちらはもっと、やっぱり、アラン・カプローとか、オットー・ピーネなんかと。

池上:やはりアクションとかパフォーマンスの方向に、どんどん。

嶋本:やりたかったのにね。

池上:タブローの方向というふうに言われても、そちらのアクションへの方向というのを、先生ご自身がちょっと抑えきれない感じですか。

嶋本:別に先生を裏切ってどうこういうよりも、「一緒に、何でやりはれへんのかな」と思うたんですよ。こんなおもしろいこと、われわれが見つけて、海外ではほとんどないし、非常に興味持ってくれてるんやから、もっとそんな方もね。「タブローもやったらいいけど、タブロー以外ももっとやりはったらいい。なぜかなあ」と。その頃は分かりませんでした。ところが、あとで、今になって思ってみると、先生の方は、あまりそういうのには自信を持ってはらなくて、むしろタブローであれば先生は具体の若者には負けないという。せやけど、新しいいろいろ、そういうパフォーマンスなんかなってきたら、若い方が新しい感覚持ってるのでね。

池上:「自分は負けてしまうかも」というような。

嶋本:そうそう。そんな引いた感じがあったからではないかと思うんです。ところが僕は、仮にそういうのがあったとして、先生よりも若いもんがいろいろやったとしても、それは先生のプラスになると思ったんです。だから、われわれは先生を乗り越えることが、先生への何よりのお礼というのか。先生はそうでなかったみたいですね。

池上:やはりそこに、一作家としての吉原さんと、リーダーとして、グループのためには何がい良いかっていうリーダーとしての吉原先生との間に、やはり相克というか、葛藤があるということなんでしょうね。

嶋本:そう、あるんでしょうね。

池上:具体美術協会が1972年に解散になるわけですけれども。嶋本先生ご自身はその前の年の1971年に退会をされていらっしゃるんですが。

嶋本:そうなりますかね。

池上:記録ではそのように拝見してるんですが、そのあたりの経緯というのはどのようなものだったんでしょうか。

嶋本:それまでにはすでに、金山さんとか田中さんとかね、やめてて。

池上:おやめになってますね。

嶋本:それでまあ、何て言うかな。もうひとつはね、アラン・カプローから全然連絡がないんですね。ほんで、オットー・ピーネはもちろんないから。僕なりに今度は、手紙出したり、してたんですわ。それは、あんまり先生はよく思われなかった。僕はね、決して先生を裏切るんでなくて。アラン・カプローなんかと先生はもっともっと一緒にやりはった方が、もっと具体は大きくなるだろうというようなことでね。いろいろ、先生のとこ行って、「やりませんか」て言うて。しまいにはえらい怒られましてね。「(連絡が)来ない、わしが来ないと言うてるんやから、連絡がつかへんねんから、いらんこと言うな」。そんなようなことがあって、だんだん気まずくなっていったんですけど。これは、後日談ですけど、私が今度は、アラン・カプローと台湾に招待されまして。ほんで、1週間ほど一緒に同行していろいろパフォーマンスやったことあるんですね。そのときに「どうして連絡がなかったんか」と聞いたら、アラン・カプローは「何回も連絡した」と。「一度もその返事がない」と。「それで、自分のお弟子さんを吉原先生のうちまで行かして、連絡さした」と。「ところが先生は会ってくれなかった。門前払いで会ってくれなかった。だから連絡が取れなかった」と聞いてね。ほいでまあ、非常に、残念やなあと思ったことあります。ずっといろいろ、1週間ずっと一緒やったからね。毎日ふたりでパフォーマンスやって。

池上:台湾に一緒に行かれたのはいつ頃になるんでしょうか。

嶋本:えーっと何年になりますかね。15年ぐらい前でしょうね。あとで調べれば分かりますけど。(注:1998年)

池上:具体が解散して、大分経ってからということですね。

嶋本:もちろん。それまでにも、ビエンナーレで会ってます。

池上:そうですよね。1993年ですね。

嶋本:93年に会った。それ以降ですから、もっと後ですね。

池上:カプローが何度も連絡しても返事がなかったり、門前払いまでするというのは、吉原先生の中では相当強くこっちの方向には行かないと決められていたという。

嶋本:これはまあ憶測ですけど。そうやなかったかなと。何であんなすばらしい人を拒絶したんかなあと思いますね。

加藤:もともとカプローが本に具体の写真を掲載したきっかけというのは、吉原先生がカプローに写真を送られたからだと聞いているんですが。(注:Allan Kaprow, Assemblage, Environments & Happenings, Harry N. Abrams, 1966)

嶋本:いや、その通りです。だからその頃は非常によかったわけですね。カプローと先生とも、おそらくとっても気が合ってやってた。それで、ずんずんそういうこともやったし、それから舞台もやったし、野外展もしたし。そうしてるうちに、先生の方は、ちょっと自分に向いてないな、というのを思いはったんと違いますかね。初めの頃はものすごく積極的でしたからね。

加藤:カプロー自身は、日本でそういう活動があったっていうのは知らなくて、それが終わった後に写真が来て、こういうのがあったのかっていう、いわゆる発見をされて。あれを出版されたのが66年だと思うんですけども。60年代の初め頃に、カプローの方には送っていたんだと思うんですが。そのへんで吉原先生の意識がやはりかなり変わられたっていうことがあるんでしょうか。そのへんは推測の域を出ない。

嶋本:いやあ。それはなかった。はじめ喜んだ。僕らかて見せてくれてね。僕かて本買ったし。「わあ、よかったなあ」言うて、喜びましたですね。タブローの方はミシェル・タピエで、パフォーマンスの方はアラン・カプローで。

池上:だから、タピエとの出会いだけで、パフォーマンスを拒絶するっていう考えにいったという、それだけでもなさそうということですよね。

嶋本:だけどね、初めのうちは両方でした。ところがタピエが始終来るようになって。非常に今度は具体的に絵を売るとかね、美術館に入れるとかという話になってきた頃から、ちょっとこう、こちらの方に。タピエが先生の絵について、もっと売るような話があったかなかったか、それは知りませんけどね。

加藤:たしかにグタイピナコテカができてからもタピエが何回か来て。絵をとにかく選んで、向こうへ持って行くっていうような、ひとつのシステムができてしまうというか。

嶋本:そうでしたね。ほんで、その頃に僕が、嶋本の穴の絵はタピエは「だめだ」と言うてるというのを聞いたわけですね。それで、それは1950年代ですね。50年代半ばになって、いわゆる瓶投げを始めて。それに力入れて、自分なりにがんばってたわけです。それもタピエに「良くない」と言われたんです。何でかっていうと、ガラスを投げると、絵にガラスが付いてね、「非常に危険であるから、できればまたもっと別の方法考えなさい」。それから僕ね、かなり低迷しましたね。いくらなんでも、そう次々と、なんぼなんでも、できないからね。まあ、それなりにはがんばったつもりですけど。やっぱり、今もまた瓶投げなんかよくやってますけど。その方がやっぱり向いてますし。今になってみたら、何て言うかな、海外のコレクターがたくさん持ってるし。昔は瓶投げて、瓶の細かいのが付いてたら、先生に「全部はずしなさい」と言われてた。せやけどこの頃は、くっついている方が喜ばれる。

池上:ガラスが。

嶋本:ガラスの粉がね、ちっちゃいのがいっぱい付いてたんですわ。ところが今なんかね、ペットボトルぐらいがそのまま付いてるような、それがおもしろいと、この頃は。そういうのがよく売れるんです。何やえらい、やっぱり時代がね、変わったな思いますね。

池上:当時は、タピエとしてはもっと危険ではなく、画廊でちゃんと飾って売れるようなものが望ましいという。

嶋本:そうですねえ。もう今なんか、瓶を付けて、はずれるとね、付けてます、向こうのアシスタントが、同じ所に。

池上:付いてるほうがいいということですね。

嶋本:大きな瓶の、ばーんとくっついてるほうがおもしろい。ときどき割れないでくっついたりすることがあるんですけど。だからこの頃描いている絵は、ほとんど、こういうのが付いたままになってますね。

池上:次の質問なんですが、嶋本先生は、具体美術協会の指導者としてではなく、一人の作家としての吉原先生の作品もごく初期から最晩年にいたるまで、間近でご覧になってたと思うんですが。その先生の作品の変遷を一人の作家としてはどのようにご覧になっていましたか。

嶋本:作品だけでなくて、作品と作品に対する考え方ですね。これはやっぱり日本では抜群ですね。全然他の人と比べものにならないぐらい新しい。今にしてみたら、ちょっと僕らよりも、やっぱり二科時代がね、時代があったから、そうでないというのがありますけど。しかしその時代でああいう新しい考えを持っておられたいうことは、本当に良かったですね。僕は本当に、あの先生に出会ってね。もしあの先生に出会ってなかったら、今はもう、一介の田舎の絵描きに終わってると思う(笑)。

池上:考えの違いなどが少しずつ出てきても、やはり、基本的なところは変わらない。

嶋本:今言うてんのは、細かいとこで。全体から言うと、そりゃ他の、もう日本中、ほんならそれに代わる人がおるかというと、やっぱり全部合わしても、吉原先生に代わる人はいないです。

池上:そうですか。それでは、1972年に吉原先生がお亡くなりになるわけですけれども。お答えづらいかもしれませんけれども、そのときのお気持ちといいますか、どういうふうに。

嶋本:お答えにくいいうことないです。そりゃやっぱり先生が亡くなってね。しばらくちょっとご無沙汰してたから、「そうか。偉大な人を亡くしてしまったな」と、非常に残念に思いました。代わる人がいないからね。実際、現在に至ってもそういう人は生まれてませんね、他にね。

池上:わりと急にお亡くなりになったんですよね。

嶋本:そうですね。いや、本当突然です。まさか亡くられるとは思わなかった。

池上:吉原先生としては、急にご病気になって、そういうことにならなければ、「具体美術協会」という会もご自分が元気である限りは、続けていこうと。

嶋本:10年も、もっと続いてたん違いますかね。

池上:自分が亡くなっても具体美術協会はあった方がいいというお考えだったんでしょうか。

嶋本:僕ですか。

池上:いえ、吉原先生としては。

嶋本:いやあ、それは分かりません。

池上:嶋本先生はもう退会されてたわけですが、解散になるという決断を聞かれて、どういうふうに思われましたか。

嶋本:ちょっとさみしい気はしましたけどね、深い意味でなくて。せっかく具体も、世界の歴史に唯一日本の前衛として残るほど有名になったから、もうちょっとやればいいのに、というのは思いました。

池上:亡くなられても会としては存続する方向もあったんではないかという。

嶋本:しかし、そんな細かい計算で、あった方がいいとかなかった方がいいとか思いませんでした。ただ漠然とね、「ああ、なくなるんか」と思いましたですね。

池上:具体美術協会の解散以前と以降で、嶋本先生の制作活動に何か大きな変化というのはありましたか。

嶋本:それはね、今まで、「先生がどう思いはるかな」というのが、心の中で、ものすごい厳しい人やったからね、いつもね、作っててもありましたけど。「これからは好きなようにつくれる」いうのはありましたですね。だから全然、裏切ったような作品をつくろうという気持ちはなかったですけど。ただね、僕自身はいろいろ、その頃メールアートとかやったり、いろいろしてたんですね。僕自身は、そういう新しいことを次々とやることが、吉原先生のご恩に報いるというか、後を継いでやるアートだと思ってたんです。あれは一周年記念やったかな、何かのときに、具体の連中に会ったときに、「君だけが先生を裏切ってる」と言う。「どうしてなんですか」て言うたら、「皆それまでの、先生が亡くなった頃に描いていた絵を、ずっと継続してる」と。「嶋本は先生が亡くなった途端に全然違うことをやりだした」と言うわけ。僕は「違うことをやることが先生の後を継いでいることやと思う」と。でも言われましたですね、「草葉の陰で泣いてるよ」言うて(笑)。「いや、そんなことない。喜んでると思うよ」言うたんですよ。ですけどやっぱり見てると、今でも具体の連中は、その頃とほとんど変わってないですね。とくに古い連中はね。僕はもうどんどん、続けてるのもあるし、違うこともやってます。やるべきやと僕は思ってるんです。

池上:具体という精神の理解が、人それぞれにあるわけですね。

嶋本:どんどん新しいことをすることが、吉原先生の考えでもあるし、具体の考えでもあると、僕はそういうふうに思てるんですけどね。ですけどほとんど具体の方は、その頃と、少しは変わってますけど、全然それからかけ離れて、ということはないですね。

池上:理解の違いということなんでしょうか。

嶋本:そうかもしれませんね。オットー・ピーネなんかともまた手紙を出してね、いろいろ、コズミック・アートのアイディア出したり、いろいろ、しましたですけどね。そういうふうに、何て言うかな、先生があんまり好きやなかったようなことも、たしかにやってることはやってますね。せやけど、僕はそれこそが具体やと思うんですわ。コズミック・アートやったり。アラン・カプローといろいろ組んで一緒にやったりね。

池上:私からはこのへんぐらいまでなんですけれども。ちょっとお聞きしそびれたことなんかがあるかもしれませんが、補足がもしありましたらお願いします。

加藤:分かりました。そしたら、具体を退会されて以降のことをおうかがいしたいと思うんですけれども。1975年にアーティスト・ユニオンの結成に参加をされて、翌年に事務局長になられたということなんですが。

嶋本:そのとおりです。

加藤:少し経緯を教えていただけますか。なぜ、参加されたんでしょうか、アーティスト・ユニオンという組織に。

嶋本:えーっと、たまたま具体がなくなって。そのときに、1960年代に活躍したアーティストですね。別にこれは絵描きだけでなくて、建築家もやし、評論家もあるし、パフォーマーも、全部参加して、新しい「アーティスト・ユニオン」という会ができたんです。それは吉村益信という人でね。非常に精力的な人で、全国に呼びかけて。僕は、吉村益信さんはとくに親しくなかったけど、桜井孝身さんやったかね、パリにおる人と割合親しくて。「お前も入らんか、おもしろい会、すごい会やで」言うて。桜井さんが推薦してくれて、仲間に入れてもらったことがあったんですね。非常に考えてることは新しいし、大きな会やしね。いいなあと思ってましたですわ。とくに、これは僕の本にも書いたことあるけど、僕は海外といろいろ交流したいのに、海外のメールが、あんまり住所なんか分からなくて、ほとんど海外と交流する手だてがね、非常に少なかったんですね。そういう人たちは割合、いろいろ交流してる人も多いから、こういう人たちによって、海外の人たちとも親しくなれる機会もあるし、というようなことも含めて、それだけじゃないですけど、入ったんですね。ところが、吉村益信さんはものすごいやり手ですけど、ポスターでも、最初の年でこんな大きなポスターを、何枚も、何種類もつくるんですわ。それで、1年間で300万の赤字を出して。それで、どうしようかということになって。それで、岐阜の郡上八幡で「じゃあ考えよう」ということで皆集まって。それで、投票したんですね。そしたら、僕が当たったんですわ。当たったいうのは、代表じゃないですよ、事務局長。事務局長というのは、おのおの、北海道もおれば東北も、東京も、九州も、四国もあって、そのへんで活躍した人たちが、それぞれまとめてくれて、その全体をまとめるのが嶋本であって、とくに嶋本の意向で全部やろういうんではないんです。それをまとめる役。もちろんそれを承知で、おもしろそうやし、勉強になると思って、やったんですわね。さっそく精力的にいろいろ会合をしょっちゅうやったんですけど、そこで初めて気がついたのは、会合好きなんですね、アーティスト・ユニオンの人は。話ばっかり。で、やっと決めて、これやりましょうって言ったって、東京の美術館、当時、東京都美術館あったからね、そこでやりましょうと。出さないんですわ。「出す前提で決めたんやから、会場もとってるし、どうして出さないんか」と言うと、「いやもう、われわれは皆で議論して、十分議論して、内容を尽くしたから、それで十分だ」と言うんです。「十分か知らんけど、これ展覧会、会場があるねんから、展覧会をやろうという目的でやってるんやから、出してくれなかったら困る」って言うても、なかなか。とくにね、おもしろいなあ思ったんはね、小田原より東の人は出さない。昔から小田原評定いうのがあって、小田原より東の人は議論ばっかりして。あそこで戦争があったんですね、たしか。戦争があったときにね、それを迎え撃とうかどうしようかいう議論をしてて、戦争とっくに終わってしもてるのにまだ議論してたというのが、有名な小田原評定というもので。それから、とにかく東の人は理屈っぽいと。関西の方はすぐやる。だから実際、アーティスト・ユニオンになって、いろいろやりましたけど、四国とか九州とか、それから広島とか岡山の人は、自分らが企画して東京都美術館でやるんですね。良いか悪いか東京の方に言わしたらつまらんというのがあったかも分からんけど、一応できるんです。こっちからやったのは、仙台が一回やっただけですね。ほとんどやらないです。そういうことで、だんだんとばらばらになってきてね。有名な人はいっぱいおりますよ。とくに1950年代、いや1960年代に活躍した人やからね。建築家にしても評論家にしても皆すごい人はいっぱいおったんやけどね。理屈は言いますけど、具体的にはなかなか発表にならない。

加藤:元具体の方では、村上さんと山崎さんが最初の頃出品されていたんですね。

嶋本:そうですね、してました。

加藤:それは、嶋本先生が呼びかけられたんですか。

嶋本:そうです。

加藤:これ、1980年に出版された『AUの論理』(オペレーションズリサーチ壱番館、1980年)っていう本なんですけど。実はこの前年に『反骨の記録』(オペレーションズリサーチ壱番館、1979年)っていうのも出てて。ほとんど内容が。

嶋本:同じなんです。ちょっと違うのは、追加で出版したので内容も追加になっています。

加藤:ちょっと違うところがあるんですけども、ほぼ同じ内容で。これは、どういうような経緯で出版されることになったんでしょうか。やはり『AUの論理』っていうふうなタイトルなので。

嶋本:今までやってきたことを一応本にして、『反骨の記録』として出したんですわ。そのときにね、京都教育大学が僕を呼んでくれたんです、大学の先生にね。そのときにね、『反骨の記録』いうのを見せるとね、「これはちょっと具合悪い」と(笑)。「ちょっと、違う名前にして出してくれ」というのがあって。それで変えたんです。だから内容が少し変わっただけでね。

加藤:そうですか。こちらのご著書を拝読すると、非常に、嶋本先生の考え方のエッセンスっていうのが出ていると思いまして。

嶋本:そうですか。やっぱりしかし、具体の連中からは、ちょっと受け入れられないようなこともかなり書いてますね。変なこと、いっぱい。毎日同じとこで写真撮ったとか。そんなん皆から「そんなん意味ない」とか言われましたですね。

加藤:この中でいくつも印象的な言葉があるんですけど、その中のひとつに、「絵を描く一番の愉快さは、自分も知らなかった自分の発見である」っていうところとか。そういうような、すごく私自身にとってはおもしろいと思う部分があって。

嶋本:それは割合ね、『きりん』の浮田さんにもよく話してるから。それで、よく似たことは、浮田さんがよく理解してくれて。だから、僕は割合偶然性を利用するから、初めから答がないわけですね。やってみたら、失敗したなと思って、ほったらかしてあると、しばらくしてると、そっちの方がよくなってきて。初め成功したと思うのが、何かこう、従来的な考え方で、まとまってあるけど、おもしろくないとかね。ずいぶん変わってくるわけですね。だから偶然性の絵をよく描きましたけど、その選び方がね、だんだん。自分の描いた絵によって自分が教えられたりするということが多くなって。

加藤:こちらの本にも、子どもの造形活動のこととか、あとハンディキャップのある方の造形のこととかにも言及があるんですが。そのひとつに友原(康博)さんの詩もあって。友原さんのことは、いくつも他でも書かれているんですが、この方は先生の教え子さんの一人だったんですか。

嶋本:僕が中学の教師をしてた時のね、教え子で、本当におもしろい。一番初め知ったのは、僕の前の女の先生に怒られてる、呼びつけられて。何で怒られてるんかと思うたら、「「チョーク箱の裏がきれい」という詩を書いた」言うてね。「普通、詩というたら、花がきれいとか、山がきれいとか。チョーク箱の裏がきれいって、何ちゅうことや」言うて、「あんた何考えてるの」とか言われてたから。「あれ、ちょっとおもしろそうやな、この子」言うてね(笑)。僕がそこに、来てもうて。「詩を書きたくて書きたくてたまらない」言うから、こんだけ、いわゆる試験問題のいらん紙を、こんだけあげた。ほな、次の日に、それ全部、詩書いて持ってきたんですね。それからの付き合いです。浮田さんのとこにも後で、勤めるのも浮田さんに頼んで(笑)。そういうとこが一番、(浮田さんは)良き理解者でね。

加藤:この本には、先ほど先生がおっしゃっていた、60年代に海外に行かれたときの。たとえばトルコのギョレメ(Go¨reme)とか。

嶋本:ギョレメ。これはね、日本人で最初に行ったんです。というのはたまたま東大の先生、知ってる人がありましてね。考古学の研究でこの近くに行ったんですけど。連絡があって「私は本職と違うから行かないけれど、びっくりするようなおもしろいとこあるから行きなさい」と言われて、行ったんですね。

加藤:その他、あまり当時では日本で知られてない秘境、たとえば南米とか。非常にいろんなところにご旅行に行かれていて。

嶋本:割合行きました。アフリカのね、アブ・シンベル(Abu Simbel)の神殿。今有名ですけど。それが水没するんです、あれね。日本人で、最後で、僕が行ったことある。

加藤:そういうふうなものも含めてですね、本当に先ほどの「自分が知らなかった自分の発見」ということがすべてに通底していると思うんですけど。たとえば具体的に子どもの造形とか、あるいはハンディキャップのある方がつくられる造形に対して、どういうところにご興味が、どういうところがおもしろいと思われましたか。

嶋本:新しい絵を僕は好きな方ですけど、ハンディキャップの人が考える絵というのは、また僕らが想像できんような、おもしろい新しい視点になるわけですね。はじめ分からなかったんですわ。しかし、だんだん慣れてくると「はあ、なるほど。こんな考えを持つことができるんだ」と。「僕ら全然知らん世界やなあ」と思いましてね。非常にハンディキャップの人なんかにね、一緒にするようになりましたけど。ただ、すすめてくると、福祉でやってる方が多いんですね。僕は別にかわいそうだと思ってやってるんでなくて、こっちが尊敬して学べるんやと、というようなことでね。だからそのへんよく誤解されます。

加藤:たしかに今、エイブル・アートとか、いわゆるそういう、市場と言いますか、ある種福祉団体が積極的に作品を押し出してとか。そういう、先生が考えてらっしゃるところとは別のところで動いているところがあるなあと思いますね。

嶋本:ありますね、どんどんあるし。そういうところはなかなかね、国から予算とってきたりするのがうまい(笑)。こっちはやれどもやれどもピーピーやけど(笑)。

加藤:ですから、そこの違いをなかなか、こう分かられる方がかなり少ないんじゃないかなあと。

嶋本:世間では一緒だと思いますね。別に一緒に思われても、別に悪いことしてるわけやない、いいことやってはるねんから、協力してもいいんやけど。しかし、根本に、絶対こういう子だからこそおもしろいというところだけは、妥協しないでやりたいと思いますね。浮田さんなんか、そういうところ強いですね。

加藤:次にメールアートについてお伺いしたいんですけれども。先生がメールアートに関わられるようになったというか、実際に制作されるようになったのはいつ頃からですか。

嶋本:結局あれ(アーティスト・ユニオンの事務局長)を1975年に引き受けて、そのときに僕なりにパンフレットつくって、それを送ったんですね。それまでは、具体の頃いうのは、100送って1つ返ってきたらいいぐらいやった。ところが、100送ると300ぐらい返ってきたわけですね。それでびっくり、「この世界はどうなってんのや」と思っていたら、そのときに、1962年に、フルクサスの創立会員であるレイ・ジョンソン(Ray Johnson)が、「メールアート宣言」というもののをやりましてね。その中に、メールアートいうのは良い悪いを選別することなく、絵の好きな人が全部参加して、それも全部並べようと。これが本当のアートの姿であるというような、「メールアート宣言」をしたことがあってね。割合おもしろい人たちが賛同したわけですね。というのは、その頃すでに先進国、アメリカ、ヨーロッパでは、絵の世界というのは、たとえばビエンナーレがあんなんやったら、「次あの人が一等になるらしいよ」とか、絵を買い占めてとかいうような、裏で評論家のえらい人といろいろあって、もう賞を決めてしまうとかいうのがいっぱいあったわけやね。これはもう当然やと思います。オリンピックにしてもそやし、映画界でも誰が次は賞をとるとか、裏でお金が動いたりとか、人間の社会やからね、あるんですけど。それを純粋にやろうというようなことをレイ・ジョンソンが言い出して。おもしろいというので、わーっと流行ったんわけですね。ところが、流行ってどんどん大きくなるんやけど、不思議なことに全部白人やったんです。有色人種は一人もやってなかった。やってなかったというのは、有色人種の国は、そんなどころか、まだ展覧会そのものができるかできないかが問題で、できすぎて裏でどうこういうようなことにはなってなかったわけやね。そこへ嶋本昭三が大量に送ってきたというので。「こりゃおもしろい。有色人種やから、いっぺん支援してやろうやないか。また送ってあげようやないか」というので、たくさん送ってきたんですね。僕はその理由が分からんから、「何でこんだけたくさん、突然送ってくるんやろう」と(笑)。そのうちに、そのうちの一人がうちに来ましてね、いろいろ説明してくれて、それで分かるようになりました。そうなってやってみると、今度は日本人というのか、有色人種、日本人であるから、独特の、ヨーロッパ人なんかにないアートができるわけですね。たとえば僕、ひらがなで「あ」というのを書いて、それを送ったわけですね。そうしますと、僕にしたら、不思議な模様。僕は嶋本やから、本来は「し」で、「しまもと」「しょうぞう」、どっちも「し」やから、「し」にしようと思うたんです。ところが「し」というとね、文字らしくない。何や、みみずみたいでね(笑)。ほんで、いろいろ調べてやってみると、「あ」という字が、縦もあるし横もあるし、大きいところもあるし小さいところもあるし、字の中で一番「あいうえお」の「あ」が一番きれいなあと思って、それを送ったんですけど。その頃にただ「あ」という字を書くんでなくって、段ボール紙に「あ」という字を型抜きしましてね。その「あ」という字そのものに切手を貼って送ったんですね。それはメールアート、日本でいろいろやってる中で、いろいろ見てみると、郵便法でそういうものはOKなんですね。値段はちょっと120円とかになりますけど。それを送ったら、外国の人が非常にびっくりして、いろいろ送ってくるようになって。それが始まりです。

加藤:やはり従来のアートの考え方に対して、いわゆるネットワークというか、ヒエラルキーがない水平方向のつながりっていうのがメールアートの特徴ですか。

嶋本:特徴ですね。とってもおもしろかったです。ほんで、今ちょっとおっしゃりましたけど、今度は「ネットワーク」いうのはまたね、また違うんです、そっから派生してきたものでね。今度は、僕が「あ」という字を送りますでしょ。ほな、その「あ」という字にいろいろ書いて、また次の人に送るんですわ。それは、僕の作品を。それがぐるぐるまわって、いっぱいのかたちになって、こう返ってきたりね。それから僕のこの頭の写真を送ったりすると、そこにいろいろ書いて。で、送って送り返してくるだけやったら、ネットワークでないねん。単なるコレスポンダンスですけど。それがもう、あっちこっちに。たとえば僕が募集しますやん、僕の頭の絵を描いて。ほんで「送って下さい」と言う。ほな「送って下さい」というのを見た人が今度はそれをまた何百て印刷して、皆に送るわけですね。もらった人が、また何百と送るわけです。それがうちへ来るわけです。「おもしろいからお前もやらへんか」「ええ!?」と(笑)。そういう中でちょっと考えられんようなおもしろいネットワークがたくさんできましたですね。

加藤:それは具体の頃ではなし得なかったような活動ですか。

嶋本:はい。先生の考え方は「絵というものは高く売らんと意味ないんや」と。「ただでええんや言うぐらいやったら、もうやめてしまえ」というような考えを持ってはりましたからね。これは別の考えとして。社長でもあったし。非常に、そういう立派な絵こそは、高く売れて当然やという考えを持ってはったからね。

加藤:ただ、やはり具体の、吉原先生がずっとおっしゃってた、とにかく今までにないことをやるっていう部分では、非常に具体の精神を引き継いでいらっしゃる。

嶋本:僕は、だからそういう意味では、吉原先生の一番いい弟子やと思ってるんですけどね(笑)。

加藤:1980年代の半ばぐらいから、「具体」そのものがまた再評価をされるようになって。いろんな、国内外で回顧展が行われたり。86年には、たとえばポンピドゥーで「前衛芸術の日本」展があったりとか。それからヴェネチア・ビエンナーレの1993年「東洋への道」があって。それからさらに、その後90年代後半に入ると、具体というグループの中でもとくに個別の作家に焦点があたるようになって。その流れでの早い時期のものが「アウト・オブ・アクション」のときの、MOCA(ロサンジェルス現代美術館)での展示だったと思うんですけれども。(注:Out of Actions: Between Performance and the Object, 1949-−1979, The Museum of Contemporary Art, Los Angeles, 1998. 日本では1999年2月に東京都現代美術館で「アクション 行為がアートになるとき 1949−1979」として開催)そういうふうな中で、嶋本先生にとって、一番心に残っていらっしゃる展覧会ってどういう展覧会でしょう。

嶋本:そりゃまあ、「アウト・オブ・アクション」なんか。われわれ、四大アーティストの中に入れていただいたから、びっくりしましたです。

加藤:先生が、具体の1メンバー、もちろん主要ではいらっしゃいますけれども、主要メンバーの1人として取り上げられてきたのが今までだったと思うんですけど。そうではなくて、具体というふうな分類の中ではなくて、1人の嶋本先生、アーティストとして取り上げられたのが「アウト・オブ・アクション」。

嶋本:ですけどね、僕はやっぱりそれもね、具体、吉原先生の弟子として、具体のメンバーとして、取り上げられたと思ってます。他にもそういうチャンスがね、たとえばアメリカの教科書に嶋本昭三だけが載ってたりね、してるのありますけどね。そんなんも、やっぱり具体であったからこそ僕が載ってると思ってます。ですけど、ふたつ、僕の中でふたつ分裂してるのは、片一方で、メールアートやってね、とにかく楽しければいいと。もう一方では、やっぱり絵は高く売れた方がええというのがあるんですわ。お金がほしいというよりも、何というのか、評価するのに「金出してでもええからほしい」と言うのとね、関係なしに「うまいですね。嶋本さん、おもしろいですね」と言うのとはね、かなり真実味が違うわけですね。「僕の絵どうですか」「ああ、おもしろいね」って無責任に言えるわけですわね。ところが、ものすごい大枚のお金を出して、手に入れたいという考え方というのは(また違う)。別に僕にお金が入って嬉しいということ、それは嬉しいには違いないけど、別に僕は贅沢しようと思ってないから、そんなことはいいんですけど。これは加藤さんご存じですかね、ベルギーのある主婦がアンドレア(・マルデガン)(注:Andrea Mardegan。嶋本昭三アーカイヴ事務局長)のところに買いに来て、「絵を売ってくれ」って言うんですよね。どうして嶋本の絵がほしいのかというと、「自分はマンションを買った」と。マンションを見たときに「このマンションの一番中心に嶋本の絵を飾るべきや」と。「飾って、それから後に、テーブルとか椅子とかを(配置)したいから、ぜひ売ってほしい」と言うて。それはかなり高価な値段で買ってくれたけど、お金が儲かったからでなくて、そんなことまでヨーロッパの人は考えるのかと。それは僕、感激しましたね。ただ日本の金持ちが絵買って「これ置いといたら値上がりするやろ」というようなんではなくて。部屋の真ん中にきて、これから自分の生活の中心を考えるんだというようなね。大変感動しましたですわ。

加藤:アートに対する思いとか、大切にしようっていう気持ちが、非常にやっぱりありがたいっていうか、貴重ですよね。

嶋本:貴重ですね。なかなか日本人にいないです。

加藤:それを具体的に表すものがお金というか、になるわけですね。

嶋本:別の意味のね、お金ですけど。下手に言うと、お金ほしいからいろいろやってるのかってなりますけど。そうでなくて、さっきの話みたいに、本当に、本当に心から欲しいんやなあいうのがね、とても嬉しいです。

池上:ひとつの、ちゃんとしたかたちになる評価っていうことですよね。

加藤:私もやはり、アーティストの方の作品は、きちんとした金額で買わせていただいて初めて、ちゃんとアーティストを支えることになるというか。それがまわりまわって、自分自身も得るものがあって、そのアーティストの生活も成り立って、というのが一番いいと思うんですけれども。

嶋本:それはその通りです。せやから、それとさっき言うたメールアートいうのは、これまた全然別の世界ですね。頭の中にふたつあってね(笑)。片一方はただでもあるからどんどんやりましょういうのと。もう片一方はそういうきちっとやりたいいうのと。ふたつありますわ、僕の頭の中にね。

加藤:そうしましたら、先生が作家活動を続けていかれる中で、一番大切にされてることっていうのは何でしょう。

嶋本:やっぱり僕、そういう言い方の答えになるかどうか分からんけど、やっぱり「オリジナル」やね。やっぱり僕の絵はどこにもないんだと。だから、逆に言うと、例えばヘリコプターから瓶投げたとしたら、いい絵ができるはずないわ、普通の意味で言えばね(笑)。どこへ落ちるか分からない。一応、布(きれ)あって、上にダンダン落ちるわけ、中に。それをあとで切ってしまうわけですね。そんなもんいいのができるわけがないと思っていると、イタリアの人はそういうのをね、すごく貴重に思ってくれて。高い値段つけて買ってくれるんですね。それがとてもうれしいですね。高い値段がうれしいというよりも、何かそういうものにオリジナルを見つけてくれる。日本やったら「そんなん誰でもできるやないか」で、もう終わりですわ(笑)。

加藤:「オリジナル」、先生がおっしゃる「オリジナル」っていうのは、いわゆる普通の意味での「オリジナル」というよりは、もう少し広い範囲というか。

嶋本:もっと可能性を含めたね。

加藤:さっきおっしゃっていた、とくに「自分の知らなかった自分の発見」というものを含めた意味の。それを発見することも、オリジナルの中に入るわけですね。それがオリジナルだという。

嶋本:その通り。僕はまだ今でも学生やと思てる。今からまだどんな絵ができるか分からん。大家になって、功なり名を遂げて、「はっはっは」言うて「ええ芸術はこんなもんです」とは、とても言えない。今からでも何ができるか分からないということが、絵を描くときに思えるのが一番うれしいです。今度、10月に、上海で120メートルの壁画描くんですね。それも、本当に、原画があってそれを伸ばしたりするのでなくて、何ができるか分からないし。それから11月は、今度は、ボローニャと、それからジェノヴァで展覧会。

池上:その10月の上海の作品は、上海ビエンナーレと何か関係は。

嶋本:いや、関係ないです。

加藤:ジェノヴァで個展もありますよね。

嶋本:はい。個展というのか、アートパフォーマンス。僕の場合は、都合がええ、結果として都合がええんですけど。絵を描くことが売ることにもなるし、それ自身もパフォーマンスにもなるわけですね。どっちを狙ってるのか分かりませんけど。とにかく楽しいから。

加藤:パフォーマンスをされたあと、例えばさっきおっしゃっていましたが、ここのへんで切るとか、そういうのは、どなたが決められるんですか。

嶋本:向こうで主催してくれた人と僕と両方でね。「こう行きましょうか」というような。せやけど、さっき言うたように、向こうのアシスタントの学生がおってね、瓶をはずしかけたわけです、ひっついてるやつを。ほな、ものすごく怒ってね。「これが付いてるからこの絵はええんやから、全部もとのとこへくっつけなさい」言うて(笑)。日本でやるときは、やっぱりこんな大きなのが付いてたのは、全部はずしてました。(吉原)先生からえらい怒られたからね(笑)。それは別にどういうことないけど。本当に向こうの人はこんなんくっついたままでおもしろいと思うとこは、「やっぱりまだまだこっちが古いなあ」思いますね。古いなあいうか、こんなもんくっついてるものを買う人がいるとは思われない(笑)。
 最近のはこれ(アーティスト・ユニオンのジャーナルの最新号を加藤と池上に渡す)。次またつくりますけど。

加藤、池上:ありがとうございます。

嶋本:これ(最新号)はまだご存じないですかね。これは向こうで、今年。

加藤:これは最新号ですね。すごいですね、ここは。

嶋本:これなんかものすごい広いんですよ(カプリ島にあるパラッツォの中庭で2008年5月に行った瓶投げ絵画のパフォーマンス写真を指して)。これ、ほんまに野球場ぐらいあるからね。ほんで、これ全部でしょう。これね、一人で、全部投げたんです。これだいたい千回ぐらい投げてます。

加藤:これはヘリコプターに乗ってですか。

嶋本:いえいえ、地道で。地で。

加藤:地で。それはすごいですね。

池上:これはカプリ島で。

嶋本:カプリ島です、これは。全部カプリ島じゃないですけどね。カプリ島がほとんどですね。

加藤:こういうふうな作品は。(注:ピアノに絵の具をかけた作品。2008年5月、ナポリで制作)

嶋本:ピアノですか。それはカプリ島じゃないですけどね。それは、どこやったかな。カプリ島の途中ですわ。このへんは皆カプリ島ですね、ほとんど。

加藤:例えばこういうのは、このまま残しておくんですか、作品として。

嶋本:いやいや、ピアノだけ(のけます)。

加藤:美しいですよね。

嶋本:美しいですか(笑)。

加藤:このピアノの、例えば、これだけがまた違うところにあると、非常に。

嶋本:もちろんのけます。(写真は)今描いたところの、やったところの、後やから。

加藤:これはLOCO(薄井宏子)さんのコップですか。

嶋本:コップでね。ガラスでは困るような分はね、カップで、われわれ、高いとこから投げて。また裏は仲間の作品。

池上:イタリアでよくお仕事をされてると思うんですけれども。前にお聞きした、嶋本昭三ファウンデーションですか、アーカイヴですか、設立されたということで。そのあたりのお話もお聞きしてもよろしいでしょうか。イタリアのコレクターの方からそういう話が来たんでしょうか。

嶋本:コレクターというのか、画商というのかね、両方。何と言うのかな、プロデューサーと言うた方がええかもしれない。イタリアのそういう人ですけどね。日本人の普通の人が言うコレクターというと誤解があるし。何でもありの人ですね。だから、これはまだ、99パーセントは確実やけど、決まってないからだめかも分からんけど。今度その人はノーベル平和賞をやってくれてるんです。ノーベル平和賞、日本でもらったの佐藤栄作だけですねん。それを担当したりね。それから、もうひとつは、国連の何かそういうのんで、「嶋本さんにぜひ賞をあげたいから」。僕は国連なんて、戦争関係ないねんから(笑)。「鉄砲の持ち方も知らんのに、国連なんて関係ないよ」って言うてるのに、そんなことしたり。それからここに、カプリ島にすごい大きい香水の会社があって。ものすごい大きい、何千坪というところで、パフォーマンスをやったんですけど。そこが香水の商売をしてて、今度はダリがやったみたいに、嶋本に香水をつくってもらおうとか。入れ物だけですよ、僕匂いは全然分からん(笑)。そんなようなこともいっぱいいろいろ考えてくれる人やから。単なる画商と言ってよいのか分からんけどね。いろいろね。

池上:その方は、嶋本先生の作品とかご活動をどういうふうにお知りになったんですか。

嶋本:知ったんはね、日本に、アンドレアはご存じですね、たまたまイタリア人が、僕の知ってるLOCOという女の子と知り合って。その人が日本に来て、結婚して、日本人と。僕のことをいろいろやってるんですけど。その人はもともとは医者ですねん。だから、美術のことは全然知らなかった。全く知らなくてね。それで、日本に来て。ここへ、この上(アートスペースの3階)に、おったんです。しばらくね。ほんで「何するの」言うたら「福井県で医学の発表する」と言うから、「何で福井県のようなとこでするのん、まあ見してごらん」言うて。日本語で書いたやつがあったから見たら、何とあのノーベル賞の田中さんと一緒に発表するんですわ。「あんたすごい人やねえ」言うて(笑)。「へえ、こんなことするの」て言うたら。ほんで、僕が紹介して、高槻のところの、大きな、あそこに医学グループがあって。そこで初任給40万円で勤めるとこがあって。「よかったねえ」言うたんですわ。そしたら、その4月から勤めて、6月になったときに。「6月は一ヶ月、病院、研究所休ましてほしい」、「何でですか」言うたら、「僕のお父さんの誕生日が6月やから、一ヶ月帰る」言うて。ほんなら向こうびっくりしてね(笑)。「亡くなりそうやとか言うんやったら分かるけど、単なる誕生日だけで一ヶ月も帰られたら困る。そんなこと、とっても日本で通じないから、やめてもらう」言うたら、あっさりやめたんですわ。それで、LOCOが絵をやってるから、僕も絵をやってるから。「いっぺん、それじゃあ絵描くの、やってみる」言うて。イタリアへ帰っていろいろ見てきて。「嶋本さんの絵売りました」言うんです。かなり高い値段で売ってきてるんですよ。「あんた絵分かるの」って言うたら「全然、僕は今まで、絵というものは世の中には全く不必要なもんやと思ってた、医学こそは人類を平和にするもんやと思ってたけど。LOCOの」、LOCOというのは僕の弟子ですけど、「その人の考え方をいろいろ話してるうちに、ハートこそは人類に一番大切なもんやと、180度変わった」言うわけですね。それから絵を売ってくれるんですけど。1年もたたないうちで、あんまりお金のこと言うたらいやらしいけど、だいたい2000万から4000万売ってくれてるんです。考えられへん。日本で1点も売れない、去年は。「僕は1点も売ってないんですよ」言うて、「どうして向こうでは売れるの」言うたら、「イタリア人に話をしたら、おもしろい言うて買うてくれた」言うんですわね。「来年はもっともっと、先生の絵をもっと売ります」言うて、えらいがんばってくれて。売ってくれんのはありがたいけど。その考え方がね、すばらしくなかったら。いわゆる日本の画商みたいに「売っていって買うてください」じゃあかんからね。何か企画もして、やろう言うので。向こうの人と一緒に組んで、いろいろおもしろい企画するんやけど。全く、美術の美も知らなかった者が、2、3年でそんなことができるんやね。あれは何やろう、DNAやろうか。何やろうね。

加藤:先生が眠っていた才能を掘り起こされたんじゃないですか。

嶋本:芸術論を戦わせたわけでもないですよ(笑)。ただまあ、見てるのは、せやから、それから、いっぱい来て。

池上:作品から感じるものがやはりあったのではないでしょうか。その方もイタリアのプロデューサーの方も。

嶋本:住んでんのは、今、茨城県に住んでますけどね、LOCOと結婚して。それで、住んでますけど。ずーっと向こうとコンタクトをとって、ずっと絵を売ってくれてます。

加藤:質問は以上です。

池上:そうですね。他に補足的にお聞きになりたいことがあれば。

嶋本:また新しくできてきたら、電話でも手紙でも結構ですから、出してもらったら。

池上:ありがとうございます。少しだけ、ちょっと戻ってしまうんですが、ひとつ補足的にお聞きしたいことがあるんですけれども。1986年のポンピドゥーでの「前衛芸術の日本」ですとか、これはパリに先生も行かれたんでしょうか。(注:Japon des Avant-gardes, 1910−1970, Pompidou Center, Paris, 1986)

嶋本:行きました、行きました。

池上:1993年のヴェネチア・ビエンナーレでも行かれてるんですよね。このときに他の具体のメンバーの方たちも。

嶋本:一緒に行きました。たくさん行きました。とくに古い、創立の頃のね、連中と。

池上:72年の具体美術協会解散以降、初めてグループ、もうグループではないですけども、団体で。

嶋本:そうですね。その2回は、割合、グループとして行きましたですね。

池上:それがひさしぶりにメンバーが揃うっていうような機会になったんでしょうか。

嶋本:そう言うたらそうですね。はい、なりましたね。

池上:解散前後は、方向性がちょっと違ったりして、ちょっとぎくしゃくっていうことも。

嶋本:なりましたけど。この頃はね、古い作品やからね、その時代の作品やから。別にどうこういうことなくて。

池上:ひさしぶりにメンバーの方たちが集まって。

嶋本:ただね、最初の日にね。具体の人が、こう集めてくれて、ポンピドゥー・センターに。(アルフレッド・)パックマン(Alfred Pacquement)さんが、今の館長ですけど、その頃は学芸員やったけど。ほんで、シンポジウムを開いてくれたんです。ほんで、一番先に僕が当てられて、「あなたは障害者についてどう思うか」と言うから、「僕は障害者が大好きで、障害者の絵から大変影響を受けている」と言うたら、「あなたはアール・ブリュットですね」って言われたんですわ。その時、「具体」の人は誰も(アール・ブリュットを)知らんかって、「お前あほなこと言うから、変なあだ名付けられたぞ」って(笑)。それから「アール・ブリュット」って言われるようになりましてね。最近は皆知ってるけどね、その頃はまだ(笑)。そんなことがありましたですね。皆一人ひとりね、「あなたが一番尊敬する絵描きは誰や」言うから、「僕はそういう障害者が一番尊敬もするし、影響も受けた」と言うたんです。それからそういうように言われたことありますね。

池上:93年の方の、ヴェネチア・ビエンナーレの方では、野外展が再現されたんですよね。そのときも行かれて。ちょっとそのときのご体験をお聞きしたかったんですが。

嶋本:今それでとくに思うことはないけどもね。逆に、パーティーがね、すごいパーティーいうのが、思いましたですね。それはものすごい広い会場にやるわけですけど。普通ですと、日本ですと、そこの一番偉い人が出てきてあいさつして、その次の偉い人がまた出てきて、また次の偉い人が。何もないんです。勝手に行って、勝手に食べて、勝手に帰ってくるんですね。やっぱりしゃれてるなあと思いましたですね。それからもうひとつ、ちょっとパーティーだけに焦点合わすと、「アウト・オブ・アクション」ていうのがね、ロサンジェルスであって。それからウィーンも行きましたし。それから東京でも行ったことあるんですけどね。ほんで、向こうの時は、皆、大きいスプーンがあって。スプーンのところに持ってきて。皆、ウェイトレスが持ってきて、ひとつひとつごちそうしてくれるんです。「はあ、こんな世界があるんだ」と思いましたね。ウィーンのときはね、これぐらいの長い台がずーっと並んでまして。入るときに番号札くれるんです。ほんで何かなと思ってると、「奇数の人はこっちへ座って下さい」「偶数の人はこっちへ座って下さい」と言うて。それで座った。そのとき僕は、家内と、それから半田(まゆみ)さんいう僕のアシスタントと一緒に3人で行ったもんやから。こっち側ふたりでこっちがひとりになったわけですね。そうしますとね、こちらの方は布が敷いてあって、きれいなクロスが敷いてあって。向こうの方は何にもなしです。で、こっちの方はちょっとしたネクタイを締めた人たちが来て、ひとつひとつ、ものすごいごちそうしてくれる。こっちの方は前掛けをしたおじさんがこんなバケツを持ってきて。バケツから杓をくんで、そん中へ一人ひとり入れていくんです。向こうは本当に庶民、こっちの列は庶民で。こちらはものすごい最高級のね、ごちそうしてくれて。かえってそれはおもしろかったですね。というのは、逆に、僕らドイツなんて多少はいいとこ行きますやん。そんな庶民の食べたことないんです。そんなパンパン入れて(笑)。

池上:先生はどちら側だったんですか、そのときは。

嶋本:いや僕は、どっちか忘れたけど。どっちにしても前のを「ちょっとあんた、おくれ」とか言うて、食べるからね。どういうことないけど。向こうのパーティーの考え方がものすごいユニークやね。

加藤:「楽しむ」っていうことが、すごくお上手ですよね。

嶋本:上手ですわ。日本はやたらに挨拶ばっかりようけあって、嫌になるぐらい(笑)。

加藤:メールアートのネットワークをつくっていくっていうことも海外だとスムーズにいくと思いますね。日本だけだとやはり難しいものがあると思います。

嶋本:難しいですね。メールアーティストで、すごい人がおってね。ひとりは、広島に落とした原爆をつくったバーン・ポーター(Bern Porter)さんという人がおりまして。それが、その人は何で原爆つくったかというと、原爆をつくってそれを昭和天皇にその記録を見せると。それを見たら、昭和天皇びっくりして、「こんなん戦争にならんからやめよう」と言うに違いないと思ってつくってるうちに、軍部との行き違いになってしまって、落とされてしまったというので。間違いであったというにしても、その責任は全部自分にあると。7回死刑になってもこの罪は償えないというので、ずーっとメールアートをやって世界中をまわってて。で、うちへ、ここへ来たんです。そういう人で、それからずっと付き合いになって。今度、彼の家に、私、翌年行くんです。行ったらね、広いものすごい豪邸なんやけども、電気も何も置いてない。自転車はあったけど。冷蔵庫はメールアートを入れてあるだけで、電気もついてない、そういうところで。ほんで、一日にタマネギ半個。「自分はこれ以上食べたらいけない。タマネギ半個でこれから罪を償っていくんや」言うてね。すごい人がおりました。その人がノーベル賞に推薦してくれた。もちろんその人は委員でも何でもないからどういうことないけどね。そんなことがありましたね。それからもうひとつは、レイ・ジョンソンという人と親しくなって。レイ・ジョンソンがいろいろニューヨークに行ったときに親切にしてくれたことがあったり。

池上:お会いにもなったんですね。

嶋本:はい、会いました。それからもうひとつ、カヴェリーニ(Guglielmo Achille Cavellini, 1914-90)って、ご存じですかね。おもしろい、もうめちゃくちゃおもしろい人。その人が本出して、「自分が世界で一番すばらしい」と。で、「皆さんは勉強するんやったら、カヴェリーニを勉強しなさい」とかね。カヴェリーニのことばっかり書いてあって。それでその人がおもしろいのは、メールアートで、切手をね、いろいろ、おもしろい切手いっぱいつくってんねん。もちろん使えませんよ。そんなことつくったり。変わった封筒つくったり。もうあらゆるところにね、おもしろいことをやってます。ほんで、一番おもしろいのは、手紙を出すのにね、何とレオナルド・ダ・ヴィンチに手紙出してるんですよ。「どうやって出すの」と思うのは、こちらが常識的なんやね(笑)。そんな、古い人やね。「君のあの絵は、《モナ・リザ》はちょっと下手やで、僕が直してあげようか」とかね、そんなこと書いて手紙送ったりね。本当に自由な人でね。その人はもともとは画商やったんですわ。画商で現代美術やって、ものすごく大儲けしてしまって。それで、もう全部それをメールアートにして、使ってるんですわね。ユニークなおもしろい人やったですね。そんなようなおもしろい人が、メールアートの世界でもね、超大物がおりまして。とてもおもしろい経験をしたことありますわ。

池上:そういう体験は、メールアートじゃないとたぶんできないものですよね。さっきおっしゃっていた、ちゃんと絵を描いて、それを売っていくっていうことと、メールアートのようなものとを、両方続けておられている理由がすごく分かるような気がします。

嶋本:ちょっと二重人格です。売る方とただの方とがんばってやったわけですけどね。もうひとつおもしろい経験したのはね、ロシアには手紙が絶対行かないわけです、検閲されて。その当時ね、東と西が分かれてるときに。そしたら、メールアーティストが何とかロシア人とメールアートしようやないかいうのがあって、皆送るわけですね。皆途中で戻ってしまうねんけど、たまたま誰かのところへ行って戻ってきたいうのは、大手柄ですねん。「ロシアまで行った!」とか言うてね(笑)。検閲されても大丈夫なような内容にして、何とか送ったりね、そんなようなことを。今はなんぼでも送れますけどね。その当時そんなことしたんです。

池上:楽しいお話で、本当に尽きないんですけれども。先生お出かけにならないといけないということで。どうも長時間ありがとうございました。

嶋本:こちらこそ、いろいろありがとう。

加藤:ありがとうございました。

池上:貴重なお話をありがとうございました。