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篠原有司男オーラル・ヒストリー 2009年2月13日

ニューヨーク市ブルックリン、篠原有司男のスタジオにて
インタヴュアー:池上裕子、富井玲子
書き起こし:萬屋健司
公開日:2010年4月12日
 

池上:前回9月にお話を聞いた時にネオダダの活動のあたりまでお聞きしたので、今日はその後1963年に結成されたグループ、「SWEET」についてお聞きしたいと思います。これはグループ名でもあり展覧会の名前でもあったんでしょうか。

篠原:うん、そうだね、多分ね。それは何年? 1960?

池上・富井:63年です。

篠原:63年。ああ、そうかそうか。

池上:グループ「SWEET」展というのをカワスミ画廊で3月に行っていて、4月には新宿第一画廊、そして5月にはルナミ画廊ということで、結構立て続けにやってらっしゃるんですけど。

篠原:ああ、そうかそうか。もうネオダダをやめちゃって、「なんかやろう」ってんで。僕は相変らず画廊めぐりしてるし、人脈はたくさんあったから、それでパパッと集めて。その時はね、小島信明ってのがいて、彼の奥さんが『新婦人』だったから。小原流の『新婦人』っていう宣伝雑誌。草月だったら『草月』っていう雑誌があるでしょ。小原流には『新婦人』ってのがあったのよ。そこの編集部だったの。だからそこのコネでね、色々と情報をゲットして。小島は僕とね、すごく気が合うのよ、なぜかね。

池上:はい。

篠原:僕はハチャメチャで、彼は石橋を叩いて渡るような感じなのよ。釘一本ずつ買いに行くって感じでね、ぜんぜん性格が違うのよ。その割に、僕といつもつるむわけよ。床屋も一緒の床屋に行ったりね。あいつの家に泊まったり。泊まるったって、小さいんだよ、3畳ぐらいのところでね。だから彼と僕が中心になって、集めようって。ネオダダじゃなくて、そうすると三木(富雄)が入れるし。そんなんで、バーッとね、新人っていうか、新しいメンバーでやったんですよ。カワスミ画廊っていうのも、どこにあったか忘れたけど、やっぱり、アンデパンダンの後はもう燃えるものがないからね。そうするとみんながうろついて、どこかで、個展っていうかグループ展で、あのアンデパンダンのエネルギーを持続しようじゃないかってね。

池上:展覧会で作品を見せ続けるためにグループを作ったというようなところもあるわけですか。

篠原:うーんと、目的はね、展覧会で自分たちのショウをするっていうよりか、集まってなんか騒ごうっていうことだね。それが63年?

池上:そうですね。

篠原:63年っていうのは、オリンピックの年でしょ?

池上:64年です、オリンピックは。

篠原:あ、64年。とにかく日本中が盛り上がってて、青山通りを広くしたり、それから……

池上:準備で色々とやっていた年ですよね、63年は。

篠原:そうそう。もう建設の槌音がさ、東京中にね、ドッカンドッカンやってたし。ジャン・ティンゲリー(Jean Tinguely)なんかもその頃来て南画廊で発表したりして、すごく盛り上がってたんだね。それに外国とかアメリカの美術も、南(画廊)を通してコネクションが少しずつあるでしょ。ティンゲリーだったら、事前に『みずゑ』とか『美術手帖』とか、そういうメディアでもって僕たちは洗礼受けてるから。で、「本人が来た!」ってんでね。しかもティンゲリーの場合はジャンク・アートだから、ジャンクは殿上人じゃなくて地下侍たちに拾わせろっていうんで(笑)、僕たちが初めてね、外国の大物のアシスタントになるわけよ。

富井:それは、南画廊から直接にお声が掛かったわけですか。それとも……

篠原:東野芳明。

富井:東野さん。

篠原:うん。東野さんが、殿上人と僕たち地下人の間の連絡係みたいなのやってたから。彼はわりに幅が広いからね。

池上:そうですね。

篠原:そいで、「行こうぜ!」って。で田中信太郎の汚ねえ車に乗って、僕と小島と田中でガーって行くわけよ。そうすっと浅草の竪川町とか、要するにジャンク屋とかね、ごみ屋が一杯あるとこ。そこに連れて行くわけよ。

富井:一緒に行くわけですか。

篠原:もちろん。それでティンゲリーがさ、「あれだ!」って言うんだよね。(僕たちは)「もっといいのがあるじゃねえか!」って言うんだけど(笑)。なんか、釘一本拾ったり、針金の落っこちてるの拾ったりして、僕たちもがっかりするんだよね。

池上:ティンゲリーはどういうものに関心を示すんですか。

篠原:うーん、だから、落っこちてる鉄類だね。木には全然関係ないからさ。

池上:ちょっと形が面白いものとか、いいものとかを選ぶんですか。

篠原:ま、そうだね。だから、針金の端っことかさ、そんなものでね。僕たちはもっとダイナミックな、大きな車のパーツとか、そういうもののところに連れて行ったのよ。でも、そういうのは要らないって言うわけね。車のパーツなんてね。

富井:ギューちゃん、自分が好きなものがあるところに連れて行ったんじゃないですか(笑)。

篠原:そういうことなんだね。だいたいもう、こっちは期待してるからさ。「世界の大物が来たら、すげーもの見せなくちゃいけない」ってね。だけど、彼は全然違ってたね。

池上:意外とこじんまりしてましたか。

篠原:うん、ちょこちょこしてるだけ(笑)。だから、車の小さなトランクにごみをぽーんと入れて、それで終わりなんだよね。

池上:それを使って本人が作品を作って南画廊で見せるわけですよね。

篠原:そう。制作場所は、南画廊の会場しかないからね。あそこに全部ぶち込んで、南画廊の番頭さんで浅川(邦夫)っていうのがいたんだけど、彼がモーターなんかも古いものを用意して、そこでやったね。あとは簡単に溶接機で、ダーって。

富井:ギューちゃん、作るところもお手伝いしたんですか。

篠原:ううん、全然。ノータッチ。彼はもう、画廊閉め切って、自分で閉じこもってアトリエにしてね。

富井:ああ、そうですか。

篠原:うん。そりゃあ、そういうところはしっかりしてるよね。

池上:篠原さんご自身の制作でいうと、1963年っていうとイミテーション・アートを始められた年だと思うんですが。

篠原:いや、もっと後だと思うけど、その頃だったかなあ。

池上:《ドリンク・モア》という作品を1963年の9月に内科画廊で展示されているんですよね。(注:「篠原有司男 個展 イミテーション・アート」展、1963年9月1日−14日)

篠原:《ドリンク・モア》? あ、そう。

池上:はい。だから、この辺りが最初かと。

篠原:あ、花魁じゃなくて、イミテーション・アートね。そうそう、その頃だ。

池上:イミテーション・アートを制作するきっかけみたいなものがあれば教えて頂きたいんですが。

篠原:イミテーション・アートは、結局タイトルにすると3つか4つしかないんだけど、《ドリンク・モア》が一番最初なのよ。

池上:ですよね。

篠原:うん。それはね、やっぱりキャンヴァスに絵の具というものが高くて全く手が出ないし、興味がなかったからね。いつも俺らはジャンク・アートだからさ。(ロバート・)ラウシェンバーグ (Robert Rauschenberg) や、ジャスパー(・ジョーンズ、Jasper Johns)もジャンクっぽいよね、なんかくっつけてるし。それからヨーロッパでもジャンクはすごく多いしね。それからタイガー立石(立石大河亞)のアンデパンダンのデビュー作も、川で流れてきたふんどしとか、そういう汚いものを、画面に奇麗に並べただけとかね。だから、僕もそういうのでいこうかと。それで、コカコーラの瓶ってそれまで誰もやってなかったんだね。

池上・富井:ふうん。

篠原:っていうのは、オブジェでも、コカコーラっていうのはネームが入ってるでしょ。

池上:はい。

篠原:例えば缶詰でもネームのある缶詰ね、「キャンベル・スープ」とか「コカコーラ」とか。ジュースだったら牛乳瓶の「明治牛乳」とか。僕たちはまだ、そういうのはなじめなかったね。やっぱり抽象的なオブジェっていうか、アブストラクトな、感覚的なオブジェを拾い集めてやってたからね。だから僕がコカコーラの瓶を選んだのは、やっぱり一つの冒険なんだよね。その頃ポップ・アートのニュースも入ってきてたでしょ。

池上:そうですね。

篠原:だからもう、これでいこうっていう感じでね。それとラウシェンバーグの白黒の『みずゑ』の写真を見て、「真似してやろうか」っていうんで。だからおそるおそるっていうんじゃなくて、なんか暇を持て余してるっていう感じで作ったんだよね。でも作ってるうちに、ラウシェンバーグの頭の中ってなかなかスマートで、ただオブジェを作ってるんじゃなくて、「3」という数字でその作品をまとめてあるってことに気がついたわけ。それは面白いなあと思ってね。だからコーラの瓶の高さが22センチで、それの3倍が《コカコーラ・プラン》(1958年)の上下の高さなのよ。きちっとなってんの。

池上:で、3つ瓶があって。

篠原:うん、3本の瓶でしょ。それで、上になんかやっぱり3という数字でもって、こういう図面みたいなのが書いてある。

池上:四角い平面図のようなものがありますよね、上に。

篠原:うん、「Plan」っていうのと、なんか小さくごちゃごちゃごちゃって書いてあって、それもやっぱり3なのよね。それでなんか真似してるうちに、なかなかこれは面白いなってね。ただ見てるだけじゃ、あれ、絶対誰も日本人は気がつかなったね。

池上:実際に作ってみることでわかるわけですよね。

篠原:そう、計ったりなんかしてね。瓶を3本まとめてぎゅっとつけたら、きちんと中に入って。(参考にした写真が)白黒だから、上と下は何をマテリアルにしてどんな色がついてたかっていうことが全く不明だから。だけどそれが面白かったんだね。

池上:オリジナルのほうは、真鍮の羽がついてますよね。

篠原:うん、僕は「天使の羽」って呼んでんだけど。あれは真鍮かアルミで、やっぱり彼もジャンク・ヤードで拾ってきたりしたんだろうね。で、安物をちょんぎってここにくっつけたんでしょ。

池上:でもそういうのが東京では身近にないですよね。それで篠原さんは手作りされたんですか。

篠原:そう、その頃、粘土に石膏を流し込むのに凝っててね。もちろん水の粘土ね、油のじゃなくて。水の粘土に指でなんかを、顔でもなんでも、雌型をほじくるわけよ。キャストみたいにね。それで石膏を流し込んでガーッと取ると出来るわけね。それを作ってたから、羽なら粘土でやっちゃおうっていうんで、粘土の中に指を突っ込んで、人差し指でぎゅーって羽の形を彫って、その中に石膏を流し込んだの。

池上:じゃあ一応、型取りはしてるわけですね。

篠原:そうそう。で、パカッと剥がすわけよ。その頃手仕事っていうものをみんな嫌ってたからね。ステンシルを使うとか、墨壷でピンピンってやるとか、なんかオートマティカルな作品のほうがモダンで新しいってみんな思ってて。筆に絵の具塗ってなんかを描くっていうのをもう全く嫌ってたから。だから粘土でキャストにしたほうが、基本的には手仕事なんだけど、見た感じがこう……

池上:ワンクッション置いてるわけですよね。

篠原:うん、そう。なんかプロダクション、工場生産みたいな感じになるわけ。それをみんな狙ってたわけよ。絵でもマスキング・テープをして上から吹きつけるっていうのを田中信太郎とかみんながやってて。それで手仕事を嫌うのを「汗の仕事を嫌う」って言うんだ。で、僕らも「おー、そうか、そうか」っていうんでね。それでね、《コカコーラ・プラン》の面白いところは、三段目のところになんかでこぼこの変なものがあるわけ。

池上:ちょっとボールみたいになっている、あれですよね。

篠原:うん、あれはね、家具の一部なんだよね、多分。

池上:あー。

富井:へー。

篠原:で、そんなもんないから、ほんじゃ、石膏で作っちゃえってんで。粘土の中に指突っ込んで、5本の指でぎゅーってほじくって流し込んだら、ちょうどあの格好で出てきた。

池上:なんか筋がついてるんですよね、あのボールみたいのに。

篠原:そうそう。

富井:じゃあ指の痕なんですね。

篠原:全部あれ、指の痕なの、僕のはね。べとべとなんだよね。ほんと、手仕事そのものなんだよね(笑)。それでくっつけて全体を見て、面白いなと思ったのは、ラウシェンバーグっていうのはね、そこにちょっと手を加えるんだよね。もののオリジナルな形を残しといて、ちょっと彼がね、ワンタッチ加えてるわけ。

池上:そうですね。

篠原:一筆ね、ピッて。そこがね、ニクいわけよ。全部加えちゃうとオリジナルの形がなくなっちゃうから。例えば《モナ・リザ》に髭をちょっと入れるという。あれと同じだね。だからあの家具の取っ手も木で出来てるんだけど、上だけ削ってあるの、ピッて。

池上:あー、そうか。あれは家具の取っ手の部分なんですね。

篠原:うん、家具とか、手すりとかの取っ手みたいなもの。

池上:そう思うとちょっと分かりますね。

篠原:それをね、彼も道具なんかもちろん持ってないんだから、ポンってこういう風に切ってあるわけよ。下に広くして、ナイフかなんかで。

池上:ちょっとカットされてますよね。

篠原:それでコカコーラの瓶が3本あるんだけど、絵の具をポンポンって塗ってあるでしょ。

池上:そうですね。

篠原:1本残してあるところがニクいわけ。

富井:なるほど。(笑)じゃあ、ギューちゃんもそれはそこまで考えて。

篠原:それはもちろん。そこがね、あのイミテーションのなかでも……

池上:味噌というか(笑)。

篠原:うん、味噌(笑)。それをね、知らなくてベタベタ真似して出来ました、じゃあだめなのよ。見抜かないと、敵のテクニックを。だからラウシェンバーグは、僕はもう……

池上:見抜いた。

篠原:見抜いてるわけよ。同じ作家で、ほら、ジャンクで作るからね。どこで手を抜くか、どこで垢抜けてるかっていうのはピンと来たの。「こいつなかなか決めてるな」と思ってね。

池上:粋な感じですよね、その手の加え具合と、加えなさ具合というのが。

篠原:そう、粋だね。2本だけぺん、ぴゃんってね。で、色は何色か全然わかんないから、僕はその時から蛍光塗料が大好きだから、蛍光塗料溶いてぺたんぺたんって塗って、全体も蛍光塗料にしたの。10個作ったんだけどね。1個作ったらあんまり面白いからさ、「これは面白いや」ってんで。

富井:え!?

池上:面白かったから10個なんですか?

篠原:そうそう。1個作った時にお袋が見て、「人様の作品を真似するとは何事だ!」って。お袋は純粋だから、怒ってるわけよ、真剣に。

池上:はい。

篠原:僕はさ、「すいませーん!」っていう心と、「面白えなー!」と思うのと。ラウシェンバーグが、すごく近づいてね。もう一つ考えると、1963年には、日本にラウシェンバーグの作品って1点もなかったから。だから僕の《コカコーラ・プラン》って、日本に上陸した初めてのラウシェンバーグ作品なのよ、実際は。それを、評論家はちっとも肝心なところを捉えないんだよね。「お前真似してる、みっともない」とか、「えー」とか、戸惑うわけ。特に東野芳明さんなんだけどね。

池上:あー、戸惑ってましたか。

篠原:戸惑うよ。で、本人連れてきたから(笑)。「お前、見せるのか!?」っていう感じだよね。

富井:じゃあ本人が来る前に、10個出来てたわけですか。

篠原:うん、そう。だから60年代の前半ってね、そういう偶然があった。全くの偶然だから。アクシデントだからね。

池上:最初は別に本人に見せるなんて思わずに作っていらしたわけですよね。

篠原:もちろん。まさか本人が来るなんて誰も思ってないからね。ジャスパーが来るとか。ジャスパーの、三段重ねの……

富井:星条旗。(注:ジャスパー・ジョーンズの《Three Flags》のこと。1958年の作品。)

篠原:あれも小さなキャンヴァスだからね。こんなのだったら小遣いで買えるからさ。それで、雛壇みたいになってるでしょ、三段重ねの餅みたいに。3つっていうのはなんか、縁起担ぐのかな、やっぱり(笑)。

池上:どうでしょうね(笑)。

篠原:悪い野郎は三兄弟とかね。悪いやつはほんと3なんだけどさ。ジャスパーも3つでしょ。それを、ジャスパーは手の作家だからね、彼は手で描く。でも僕はマスキング・テープでピッピッって留めて、吹きつけて、それを三段重ねにして、それで出来たわけよね。

池上:ジョーンズはイミテーションしてみてどうでしたか。ラウシェンバーグと同じように面白かったですか。

篠原:うーん、アメリカの旗だけだね。彼の作品を僕がイミテーションしたのは、アメリカの旗とそれから、ビール。バレンタインのビール(注:ジョーンズの《Painted Bronze》のこと。1960年の作品)。

池上:はい。二つあるやつですよね。

篠原:うん。《イミテーション・ボックス》(1964年)っていう作品に使った。その時に偶然ね、荻窪にある昔の電電公社の横の百姓の空き地をね、借りてたわけよ。借りてたっていっても、もちろんタダで。あ、借りてるんじゃない、「荒らしてくれ」っていうんだよね、向こうは。というのは、畑だったのを宅地にして売り飛ばすのに、5年間ぐらい期間がいるわけ。すぐに畑を売っちゃいけないの、法律で。だから見て見ぬ振りしてね、僕たちは穴掘ったりさ、火つけたりさ、無茶苦茶やってんの(笑)。

富井:どっちみち売れないし、畑にもできないし、使い道がないから隣の人が何か使っててもまあいいか、と(笑)。

篠原:そうそう、なんか絵描きさんがあそこで仕事してるから、ちょうどいいじゃないかっていう感じなんだよね。だから木なんか一杯生えて、もうすごい林で、ちょっとした公園みたいな感じなんだよね、ぼろぼろの。

富井:写真で見たら随分大きいなあって。

篠原:大きい。もうその辺ザーっとね。それでそのお百姓さんっていうのも、道で会った時に「こんにちは」っていうぐらいなんだけど、肥溜めをね、リヤカーに載せて押してんのよ。そこら辺の土地全部持ってるんだから、もう超ミリオネアなんだけどさ、まだやってるんだよね、肥溜めを。

池上:ふーん。

篠原:肥溜めって若い人は知らないからさ。汚穢(おわい)っていっても誰も知らないんだよね。その肥溜めを担いで、畑に撒いたりしてるわけ。まだそういう時代だね、荻窪も。

富井:1960年代ですからね。

篠原:60年代の前半。

池上:で、そこに作品を置いたりされてたんですか。

篠原:うん。野外だから、雨ざらしだよ。シートもない。シートなんてのはまだ売ってないからね。ビニールなんて高くて。

富井:あ、シートもなしですか。

篠原:シートも何にもなし。あるのは木の切れ端とか、それから、木の根っことかさ。そんなもんだからね。

池上:イミテーション・アートっていう風には呼ばれてないんですけども、《エア・メール》っていうシリーズもありますよね。あれはどういう関係で作られたんですか。

篠原:あれはね、ラウシェンバーグとかジャスパーがうちに来たずっと後なんだけど。(注:実際にはジョーンズは1964年5月、ラウシェンバーグは同年11月に来日し、《エア・メール》は1964年9月のシェル美術賞展で佳作を受賞している。)あのね、エア・メールの封筒が日本にあったの。外国封筒。折りたたみの一番安いやつね。それが格好いいんだよ、周りにこういう風に……

富井:エアログラムですね。

篠原:そう、エアログラムがあったの。それを大きくして、100号の大きさにして、それで適当にやったんだけどね。でもね、人の作品で相撲とると、切りがないのよ。《ドリンク・モア》が、僕がイミテーション・アートって呼んでる最初の作品なんだけど、それをどんどん発展させると《エア・メール》っていう作品も出来るし、何でも出来ちゃうのよ。

富井:何でも出来るんですか。

篠原:そう、それを僕は人のふんどしで相撲とるっていう風に言うんだけど。例えば人の作品をそのまんま真似したりね、一杯いるでしょ、今。もう下火だけどさ。コスチュームで本人になっちゃったりね。例えばゴヤの銃殺の作品になったり、人の名画を拡大して、それに色を塗ったり。そういう人いくらでもいるでしょ。切りがないね。

池上:まあ、そうですね。

篠原:だから僕も《エア・メール》ぐらいまでやったけど、もう止めたのよ。下らないから。

池上:ある時期パッと止められますよね。

篠原:うん。

富井:下らないからですか。

篠原:下らないっていうか、面白くないんだよね、人のふんどしで相撲とっててもね。

池上:ラウシェンバーグに会った時に、「あなたの作品を真似してもいいですか」って聞いたら、「いいよ」って言われたという話がありましたよね。

篠原:その時は東野さんが連れてきて、僕は他にも作品があるから、ビートルズの顔なんかを粘土で作った小品を一応見せてたんだよね。それで最後にやっぱりこれも見せたほうがいいやと思って、「真似したのがあるんだけどいいか」って。彼はそんなこと知らないし、「Sure. どんどん真似しろ」っていうタイプだからね。だから「OK、じゃあ一つあるんだ」って見せたら、「これは俺の息子じゃないか」って、仰天したんだよね(笑)。

富井:10個全部見せたんですか。

篠原:いや。でもそこで俺がいけないんだね。だって、彼が喜んでわーわーやってるのに、「実はこれ10個作ったんだ」って言っちゃったんだよね。それで奴は顔色が変わって。頭が混乱したんじゃないの。「こいつ売ってんじゃねーか」とかさ(笑)。

池上・富井:(笑)

篠原:そう思うけどね、僕は。だから「Oh, crazy artist!」って言ってたからね、その後、草月会館で会った時ね。

池上:そうですか(笑)。

篠原:だから僕の信用はそういうところでガーンと落ちるわけ(笑)。

池上:1個だとオマージュだけど、10個だとどうなんだろうっていう。

篠原:そういうことだね。どこ行ってもそうだね。その最後の一言でパタっと人気がた落ちっていうか(笑)。誤解されちゃうんだね、最初はいいんだけど。

池上:《エア・メール》の作品は、こちらの写真なんかですとラウシェンバーグから篠原さんに宛てて来たっていうような感じで描かれてますけど。

篠原:うん、僕に宛てたようにして描いてあるんだね。だから「Ushio Shinohara」ってでっかく書きたかったんだろうね。

池上:そうですね。一番大きいところに(笑)。

篠原:そういうことだね。

富井:宛名にすると自分の名前が一番大きいから。

篠原:うん。真ん中にでかく「Ushio Shinohara」。「奴から手紙が来たぜ!」というような、まあ、自己満足なんだけど。でも60年代の前半って、外国からエア・メールが来るなんていったら、もう大変な事だしね。ほら、そういう……

池上:心躍る体験なわけですよね。

篠原:そうだよね。「わー! すげーなー!」って。「やったー!」ってね。毎日そういうエキサイトメントが続いていく時代だったからね、60年代の前半は。ニューヨークに来てからも、エア・メールの話があったのよ。ニューヨークで、東野さんの紹介でジャスパーに会ったの。それで別れる時に「じゃあ、手紙書くよ」っていう意味で「エア・メール書くよ」って言ったら、ジャスパーが「ぷぷっ」って噴き出したんだよね。俺は分かんなかったの、その時。エア・メールが手紙だと思ってたんだよね、外国人に出す。

池上・富井:あー(笑)。

篠原:だからニューヨークに来てもエア・メールで出すよって(笑)。

池上:もうアメリカにいるのに。

富井:エア・メールって外国郵便だから、ニューヨークにいるのにエア・メール出せないですよね。

篠原:もうアメリカでもね、エア・メールを使うんじゃないかと思って、可笑しかったな、あん時。ジャスパーも笑って。

富井:ぷって笑ったんですか。

篠原:ジャスパーは面白い冗談だと思って笑ったんだけど、俺はもう真面目に(笑)。

池上:本気だった。

篠原:可笑しいよね、そういうところが。うぶなんだよね。国際感覚ゼロ。

池上:外国作家との交流について今お話を聞いているので、ついでに草月会館の「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」っていう公開質問会の話を。

篠原:20も質問してないよ。

池上:してないんですよね、結局。そういうタイトルのイヴェントでしたけど。

篠原:。僕の質問は3つしかないのね。ここに3つ(『前衛の道』、144頁を指しながら)。例えば「拡大されたマリリン・モンローの顔は、ひげをつけられた《モナ・リザ》同様、1916年以来の……」って、なんかごちゃごちゃ書いてあるんだね。

池上:これはわりと真面目に質問を準備されてたんですよね。

篠原:そうだね。なんか質問しなきゃいけないってんでね。

池上:それで無視されてしまうわけですけど、それは予想してなかったんですよね。

篠原:うん、全然。だから壇上で、僕は作品を並べたでしょ、質問という形でね。

池上:ご自分の《コカコーラ・プラン》を複数並べて。

篠原:そう、《コカコーラ・プラン》を並べて、《思考するマルセル・デュシャン》(1964年)っていう首の回るのも置いて。それで小島信明の旗かぶりのボクサー彫刻、そこに「QUESTION」って書いたプラカードを下げて。僕の頭にいつもあるのは、カメラ・アングルをよく見せたいわけ。写真は残るからね。作品は売れっこないし、後で捨てちゃうから、せめて写真でもね、良い写真を残したいっていうのが、僕の考えなの。田名網敬一くんとその頃からもう親友で付き合ってたからね、写した時に格好良く写んなきゃってんで、「QUESTION」っていうのを大きくちゃんと書いて、それを小島の作品にぶら下げたのよ。そういうものが、撮った時に上手く入るでしょ。そういう演出だね。

池上:確かにいい写真ですよね、今残っているのを拝見すると。

篠原:でしょ? 「QUESTION」って入っててね。田名網敬一くんはほら、ムサビ(武蔵野美術学校、現・武蔵野美術大学)のデザイン科だからね。だからいつもレイアウトだとか、そういうのデザイン感覚を本能的に持ってるんだね。

池上・富井:ふーん。

篠原:それで質問は、見てる人は日本人だから、日本語で読み上げたのを、高階(秀爾)さんが「それじゃ」って英語に直してくれて、その紙をもう一回僕が英語で言って。でもラウシェンバーグは制作中で、振り向きもしないから、僕はその紙を足元に置いたんだよね。そしたらそれを、屏風にまた油絵の具でぺたっと貼り付けたっていう。だからあれは高階さんの書いた英文だと思う。

池上:今もグッゲンハイムで見られますよね。「Third Mind」展に出ているので。(注:“The Third Mind: American Artist Contemplate Asia, 1860--−1989,” Guggenheim Museum, New York, 2009)

篠原:あったね。随分綺麗な作品だったね、あそこに置いてあったの。きれいな展示で、上手いライティングでね。

池上:そうですね。

篠原:あの時(1964年)はもう、なんか汚く見えたけどね。

池上:あ、そうですか。

篠原:うん。そうだね、もう50年経ってると作品もなんかね。

富井:やっぱりグッゲンハイムみたいな大きい美術館でライティングも良かったですし、綺麗に見えましたよね。

池上:ちょっと質問が前後しますが、1964年には東野芳明さんがされた「反芸術是か非か」というシンポジウムにも飛び入り参加をされているようなんですが。(注:1964年4月、ブリジストン美術館のホールで開催された公開討論会。司会は東野芳明、出席者は池田龍雄、磯崎新、一柳慧、杉浦康平、針生一郎、三木富雄)

富井:読売アンパンが中止になったニュースの後ですよね。

篠原:あの時はね、要するに東野さんの頭の中っていうのは殿上人を集めちゃうわけよ。杉浦康平なんて、もう反芸術でもなんでもないでしょ、あんなのね。

富井:杉浦さんはデザイナーですよね。

篠原:(東京)藝大のデザイン科のトップよ。一番売れっ子だったの、その頃。それから若手のナンバー・ワンでしょ、それに針生(一郎)さんと、あと誰かいた。そういう連中で、反芸術は是か非か討論してるわけ。

富井:若手は三木さんでしたよね。

篠原:三木富雄入ってた?

富井:入ってました。

篠原:ふーん。そうするとね、「反芸術」でもなんでもないのよね。

池上:なにかこう、上つ方の議論になってしまうわけですか。

篠原:そうそう。見に来てる人はもうぎっしりなんだけど、若手のアーティストでしょ、ほとんど。そうするともう、実に面白くないわけ。それで向こうも、議論が全然歯車合わないから、東野さんがでっかい声で「篠原ー! おい、どこかにいないか?」って、俺のことをでっかい声でマイクで呼んでんだよね(笑)。

池上:指名されたんですか(笑)。

篠原:僕はもうぎっしりで会場に入れなかったから、廊下で遊んでたんだよね。

富井:そうなんですか(笑)。

篠原:そしたら「おい、ギューちゃん、呼んでるぞ!」っていうの。それで「ああ、お呼びか」って、もう道も一杯だからさ、「すいませーん」って掻き分けていって、上がったんだよね。

池上:そういうことだったんですか。で、壇上で何をされたんですか。

篠原:その前にね、岸本清子っていうジャンヌ・ダルクがいて、針生さんに質問してるわけ。それで馬鹿なこと言ってるんだよ。芸術とは何かを10の言葉で短く答えてくれ、とか言ってるわけ。岸本清子っていうのは基礎的なことを言うから、「芸術とは何か」なんて針生さんに質問してるわけ。10の言葉で短く言ってくれって。針生さんは困ってるわけよ。

池上:うーん、困るでしょうね。

篠原:そういう時にちょうど僕は壇上まで辿り着いたから、その後を受けて「じゃあ、俺が答えてやる」ってマイク取って、「芸術は糞だ!」、「屁だ!」、「破壊だ!」とかさ、滅茶苦茶言ったわけ。で、岸本清子ちゃんっていうのはわりに、そういう風にガーンとやると引っ込んじゃうから、なんかそういう風にガチャガチャやったんだよね。

富井:岸本さん、ネオダダでしたよね。

篠原:うん。女性一人入れなきゃ、写真の写りが悪いってんで。汚ねー男ばっかじゃだめだって。で、岸本がちょうどいいから入れたんだね。それから、その時荒川(修作)くんと一緒にいた、なんていったっけな……

富井:平岡(弘子)さん。

篠原:平岡さんも、「じゃあ二人とも入れば」って言ったらさ、「反対ー!」っていう奴がいるんだよね。女性がいると中で混乱するからって。三角関係なんか色々あって(笑)。

池上:はあ(笑)。

篠原:なんか下らないこと言ってるんだよね。面白いでしょ。あれは吉村(益信)がさ、「オルガナイザー」つけるからさ。吉村って九州の奴だからね、桜井孝身もそうだけど、団結っていうの、グループをオルガナイズして、団結して、みんなでまとまって、理想的には下宿して共同生活をしながらイズムに向かって行くっていうのが好きなんだね。だから、荒川くんが個展したら、一人で勝手なことしたから「退団!」ってなって。「除名!」とかさ。変な田舎臭いところがあるんだよ、吉村って。

富井:それはやっぱり九州という土地柄なんですか。

篠原:そうだね。

富井:ギューちゃんは東京ですもんね。

篠原:うん。だから僕は荒川に、個展はワンマン・ショウなんだから、そっちのほうがグループなんかより絶対に良いから、どんどんやればって言ったんだよね。ところが僕は、吉村とはそれで議論したくないからさ。水と油だから絶対だめだから。じゃあ、もうどうでもいいやってね。それは面白いね。桜田孝身もそうだよね。「九州派」って。

富井:「九州派」ですね。

篠原:今でも「九州力」とかさ、「九州独立国」とかさ、まだやってんの。もうみんな死んじゃったけどね(笑)。

池上・富井:(笑)。

篠原:ああいうところがやっぱし、垢抜けねえなあって感じだね。

富井:なんとなく土着みたいな感じですか、じゃあ。

篠原:うん。

池上:批評家のお話が出たのでお聞きしますが、御三家(東野芳明、中原佑介、針生一郎)と呼ばれていた方たちがいらっしゃいますけども、彼らとは個別にお付き合いされてたんですか。やっぱり一番近しかったのは東野さんですか。

篠原:うーんと、東野芳明はね、要するに車がないから。田中信太郎がね、ルノーの中古をもってたのよ。そうすると東野さんが電話してくんの。「ちょっと、車乗っけてくれよ」って。例えば作家の志賀健蔵っていうのがいたんだけど、東野芳明に直接作品を見てくれっていうわけよ。僕なんて恥ずかしくてそんなこと絶対言えないけどさ。そうすると東野さんから電話がかかってくるのよ。「志賀んところに行っても一人じゃなんだから、お前ら来てくんねーか」っての。

池上:はい(笑)。

篠原:そういう感じなのよ(笑)。田中が車持ってるから「じゃあ、ちょうどいいや」って3人で行くわけ。で、志賀がちゃんと待ってるわけよ、ピリピリしてね。俺たちは外でこうやって待ってるわけよ。東野さんは中に入ってガチャガチャやってるわけ。で、出てきて、「じゃあ、もうそろそろ行こうか」って。「どうだった?」、「いやあ、だめだね」とか言ってるわけよ、志賀くんには悪いけど(笑)。志賀くんも今は四国で王者だからさ、そんなこと言えないんだけど。そういう感じなのよ。だからそういう、個人癒着っていうんじゃないんだけど、東野さん一人だと寂しいから……

池上:ちょっとお相手をしてあげながら。

篠原:うん、だからウィリアム・リーバーマン (William Lieberman)が来た時もね、「リーバーマンが新宿行きたいって言ってるから一緒に行かないか」って言うんだよ。だから「じゃあ、行こうよ」って。小島と田中と僕でね、いつも腰巾着みたいにくっついて。で、焼きそばというか、鉄板焼きを食おうっていうの。どうしてかっていうと、東野さんはリーバーマンに日本的なところを案内したいんだけど、新宿にそんなところはないのよ。ところが、その鉄板焼き屋の入り口はこう、五条の大橋みたいに赤い欄干で塗ってあったの。

池上:あー、はい。

篠原:「ここがいいんじゃないか」って、彼に(笑)。リーバーマンはフランス貴族みたいにさ、フランス・テイストで生きてるのに、そんな変なところに連れて行かないほうがいいんじゃないかと思ったの(笑)。でもとにかく「ここ行こう」って言うんだよね。で、入ったんだけど、座敷で鉄板焼きなんだよね。それでリーバーマンはもう、びっくり仰天して座ってるだけなんだよ。そこに、そばを真ん中に入れて掻き混ぜて……(笑)。

池上・富井:(笑)。

篠原:もう、なんていうのかね。東野さんの面白かったのは、そういうところだね。なんだろう、やっぱり野人的なところがあるんだね。

池上:殿上人とおっしゃってましたけど、その反面そういうところもある。

篠原:うん。もう滅茶苦茶なんだよ。そばだけでもう、こんなんなっちゃってさ(笑)。これ食い物じゃねえんじゃないかって。そういうの平気なんだよ。

池上:おそばとかがあるっていうことはかなり庶民的な店ですよね。

篠原:そうそう、焼きそば屋よ。でも、座敷になっててさ。例えば南画廊がラウシェンバーグを一席招待しようという時に、「若い奴呼んでこい」って彼が言うからって、俺と小島と田中が招待されて行ったのは、東銀座の一流のふぐ料理屋だもんね。入っただけで床が床暖房で暖かいんだよね。

池上:えー、当時そんなものがあったんですか。

篠原:もうすごい、超一流のところ連れて行って。

池上:それは志水楠男さんが。

篠原:そうそう。南画廊の招待。

池上:彼はやっぱりダンディというか。

篠原:うん。でもジャスパーも言ってたけど、もう飽きてるわけよ、そういうところばっかだから。草月の招待だったらなんかドーンとフランス料理だ、ふぐ料理だ、一流の寿司だとかね。だからもう、汚いところ行きたくて仕様がないんだよね、連中は(笑)。

富井:まあ、ニューヨークにいたら汚いところ行ってるわけですからね。

篠原:だから「若い奴はどっかにいねーのか」って、そういう感じなんだよね。三木富雄が駒沢にいた時もね、「じゃあ、三木のところに行こうか」って言うんでさ。東野さんは三木が好きだからさ。それで何か持って行こうって。その時はね、ローゼンクイスト (James Rosenquist)がいたんだよね、ちょうど。アメリカ展で来てて。(注:「現代アメリカ絵画展」のこと。1966年から1967年にかけて、東京国立近代美術館、国立近代美術館京都分室で開催。)

池上:それはじゃあ、もう1966年くらいですね。

篠原:66年くらい? ローゼンクイストが「酒持って行こう」って言って、俺たちは酒だいたい知ってるんだけど、彼はサントリー・レッドを「これがデザインがいいから、これにしよう」って。「それはもう毒みたいな酒だから、飲まないほうがいい」って(笑)、ちゃんと英語で言わないからさ、あいつはそれを抱えて「これだ」って500円のやつを持ってきてさ。それを飲んで悪酔いとかね。もうなんかすっごいズレてたね。

池上:そうですか。

富井:針生さんとかとのお付き合いは。

篠原:全然。

富井:全然。中原さんは?

篠原:中原さんも全然ね。ネオダダの土曜のワイルド・パーティーに一回だけ来たことあったね。それは60年。それ以降は、ほとんど個人的に喋ったことはないなあ。

池上:じゃあ、3人のなかではやっぱり特別に東野さんと親しかったんですね。

富井:東野さんと瀧口(修造)さん。

篠原:でも瀧口さんは、全然そういう仲じゃないからね。例えばガストロっていうバーがあって、そこでちょっと会うとかね。その時も、瀧口さん取り巻きが、殿上人の大岡信とかそういう人たちがいるから。瀧口さんと話せたのはアンデパンダン展の会場で、瀧口さんが見に来た時に、作品の前でちょこちょこ話したぐらいだね。あとはネオダダの時に東野さんと一緒に日比谷公園の野外展に来てくれて、それで写真になってる。あまり喋らないからね、あの人。

池上:瀧口さんに作品について何か言ってもらったりしたことはありましたか。

 

池上:もうひとつ、1964年ってすごく色々されてるんですけど、「オフ・ミューゼアム」っていう展覧会も篠原さんが中心になって企画されたんですよね。

篠原:そうそう。64年でしょ。新宿椿画廊の地下でね。

池上:はい。これは随分色んな作家が参加されてるみたいなんですけど。

篠原:そうそう。アンデパンダンがなくなったっていうんでね。久保田成子なんかも出してきたし、ウサギ一匹持ってきて置いてあったりね。刀根(康尚)とか、タイガー(立石)とか。タイガーは出さなかったかな。清水晃とか、一杯いたよ。

池上:その頃はまだ一緒にやろうっていう風にみんなが思っていた。

篠原:でもそれは組織したグループじゃなくて、掻き集めよね。やたら電話かけて「おお、やろうよ」、「じゃあ、やろうか」って、そういうやつで。作品の内容とか、考え方の一致とか、そういうのはゼロ。それはね、ジャスパーが来た時にやったんだ。彼も見に来たの。

池上:ああ、そうですね、時期的に。

篠原:その時に椿画廊ってジャスパーの写真があるでしょ。

池上:はい。

篠原:だから、それ見たあとだ。

池上:何か言ってましたか、ジョーンズは。

篠原:いや、だって英語わかんないから。東野さんは何か知ってんじゃないの。ジャスパーは何も言わないからさ。

池上:そうですか。

篠原:うん。好きな作品はじーっと見てる。それで、批評的な事は一切言わないからね。

池上:ジョーンズにはイミテーション・アートも見せたんですよね。

篠原:うん。その日かなあ、うちから流れて来たのかも知れないけど、見せたのよ。

池上:3つの旗の。

篠原:ううん、3つじゃなくて、1つのやつで。

池上:1つですか。

篠原:3つのはその後に作るんだけどさ。アメリカの旗はストライプが赤と白なんだけど、僕のはオレンジとグリーンの補色で出来てるの。こういう小さいやつね。それをじーっと見ててね、後で東野さんの話によると、それからヒントを得たって彼が言ってるんだって。というのは、蛍光塗料の僕の作品を見てると、その後パッと目をつぶると残像が残るわけ、色が強いから。

池上:ああ、そうですね。

篠原:それでね、ジャスパーはキャンヴァスに2つのアメリカのフラッグを描いて、上はオレンジとグリーンのフラッグで、下はグレーのフラッグなの。で、上を見て、それから下のグレーのフラッグを見ると、残像で赤と白の旗が現れるだろうって。

富井:それは篠原さんのからインスピレーションを得て、そうなったということですか。

篠原:うん、そう。ちゃんと東野芳明が言ってる。(注:1966年1月の『TIME』誌にも同様の報道がある。)

池上:多分《Optical Flag》っていう作品だと思うんですけど、ジョーンズの。(注:実際は、篠原が言及しているのはジョーンズが1965年に制作した《Flags》という作品。)

篠原:あ、そういうのがあるの。じゃあ、それだ。

池上:でも70年代に入ってからの作品なので、ちょっと時間が経ってるかなあ、とは思いますが。でも、その篠原さんが作られたのを見て、印象が強かったんでしょうね。それは面白い。イミテーションした側がされた側に…… (注:補色の旗がジョーンズの作品に再登場するのは、1983年の《Ventriloquist》など。)

富井:イミテーションからインスピレーションだ(笑)。

篠原:インスピレーションを取られたわけだね。向こうがまたね、逆にもう一つ。

池上:1964年の年末には「レフト・フック」展っていうのをされてるんですけど。

篠原:あ、そうだった? どこ?

池上:椿近代画廊です。

篠原:何月?

池上:1964年の12月です。ちょうどラウシェンバーグが帰った後で、《イミテーション・ボックス》と《思考するマルセル・デュシャン》を出されて。リーバーマンがそれを見に来たとか。

篠原:そうそう。椿近代画廊の2階でね。

池上:リーバーマンは日本展の調査で来てたんですよね。彼はMoMAのキュレーターだったので。(注:「The New Japanese Painting and Sculpture」展。1965年から1967年にかけてアメリカを巡回した。)

篠原:それで、小島をその展覧会で選んだの。小島の作品を見てね。

富井:ギューちゃんは?

篠原:僕は写真やなんかを持って行ったんだけど、その時にドロシー・ミラー (Dorothy Miller)っていうおばちゃんのキュレーターがいたんだね、MoMAに。それが拒否したの。

富井:ドロシー・ミラーも来てたんですか。

篠原:ううん、全然。

池上:ドロシー・ミラーはヨーロッパにいる日本人作家の調査に行ったんですよ。

富井:ああ、そうですか。

池上:で、リーバーマンが日本にいる日本の作家の調査に来た。

富井:でも一応二人でキュレーションしてるから、ドロシー・ミラーがギューちゃんのはだめだって言ったわけですか、じゃあ。

篠原:うん、言ってた。

池上:リーバーマンは非常に興味を持って、推したいっていうことがあったんですよね。

篠原:そうそう。もう写真持って行ったんだから、「よし」って。

富井:ああ、そうですか。

篠原:それで、またリーバーマンが来た時にね、中華料理屋で僕と東野と小島信明と4人でちょこちょこ食べながら、「実はバッド・ニュースが君にはあるんだけど」って。「あ、そう」って、それで終わりだよね。

池上:「見せられないんだ」という。

篠原:うん、あの《思考するマルセル・デュシャン》っていう首が回るの、あれは運送とかそういうことのトラブルが大きくなるだろうからって。

池上:うーん、ちょっと持って行くのが大変そうな作品ですよね。

富井:それが理由でドロシー・ミラーがだめだって言ったわけですか。

篠原:そうそう。そういうこと。

富井:じゃあ、別にその、作品の内容がどうとかっていうことじゃない。

篠原:そうじゃなくて、要するにトラブルが……

富井:技術的な問題ですね。

篠原:うん、トラブルが多いだろうって。「中でモーターで回るんだ」って言ったら、電圧でちょっと変えればいいだけなんだけど、色々あるんだよね。嫌な奴だなと思って(笑)。

富井:残念でしたね。

篠原:残念。いつも残念なんだよね、俺のはね(笑)。小島くんの作品は、出したのがコレクションになってるでしょ。

池上:あ、そうですね。MoMAに入ってますね。

篠原:うん、MoMAのコレクションになってね。カレンダーなんかでもね、日本人のコレクションのカレンダー作った時に入ってるよ。

池上:あ、そうなんですか。

篠原:うん。彼はあれが勲章だね、一生の。

富井:MoMAが全館使って、コレクション全部使ってやった展覧会があるでしょ。改装する前に、3回に分けて展覧会した。あの時に小島さんの作品が出てました。(注:「MoMA 2000」と称して17ヶ月にわたってコレクションをテーマ別に展示した展覧会。1880年から1920年を扱った「Modern Starts」、1920年から1960年までの「Making Choices」、1960年から2000年までの「Open End」の3期に分かれていた。小島の作品は「Open End」の中の「The Path of Resistance」というセクションに展示された。)

池上:あ、そうですか。

篠原:ああ、そういう展覧会だったの、あれ。

富井:あの時に見ましたよ。

池上:ひょっとしたら収蔵されて初の……(注:1971年の「Artists as Adversary」展でも展示されている)

富井:初かどうかはわからないけど、その時には小島さんのは出ていたので。

池上:いや、普段はもう全然見せないんじゃないかと思うので。

富井:多分、倉庫でしょう。あれは嵩が大きいですしね。

篠原:うん、常設じゃなければね、倉庫で眠って。

富井:そうですね。

池上:で、その次に内科画廊で個展をやってるみたいなんですけど。

篠原:あ、その前に、リーバーマンが来た時にね、僕の作品は置き場所がないから田中信太郎の、成城のアトリエの庭みたいなところに放り投げてあったのよ。彼がそれを見に来たことがあったの。それで、雨ざらしだからびっくり仰天してね、相当ショック受けて。その時車のなかで、《思考するマルセル・デュシャン》の設計図、これはね、青写真で作ったのね。それを彼にあげたのよ。ぺらぺらのこれくらいのものなんだけど、太陽にあたれば色が飛んじゃうから巻いて、「これあげる」って。プレゼントしようって。そしたら「Thank You」って持って帰ったんだよね。そしたら後で、彼はそれをコレクション委員会にかけて、正式なコレクションになりましたって通知が来たわけ。

富井:あ、MoMAですか。

篠原:MoMAで。

池上:あ、そうなんですか。

富井:じゃあ、コレクションに入ってるんですか。

篠原:入ってるんだって。

池上:それは知らなかった。じゃあ、今でも見せてって言えば見せてもらえるんですね。

篠原:うん、チェアマンのソバイとかいう人がサインしてて。そのおかげで、今もまだ記録に入ってるから、永久にただの券っていうのが送られてきたの。

富井:あれって、コレクションされてるアーティストはみんなもらえる。

池上:フリー・パスなんですよね。

篠原:そうそう、フリー・パスくれるのよ。なかなか便利なんだよね、あれね。

富井:そうですね。それがMoMAに入ってたんですか。今、「何も入ってないんですか」ってお聞きしようと思ってたんですけども。

篠原:それが一点。それで飾られた時に写真を撮った人がいるよ、『美術手帖』のね、昔の。

富井:そうなんですか。では、展示されたことがあるんですね。それは知りませんでした。

篠原:ちょうど『美術手帖の』のね、誰だったかなあ。

富井:宮澤壯佳さん?

篠原:それのボスがいたのよ。編集長でね。その人がちょうど来ててね、写真撮ったの。うちにあるよ。

富井:ああ、そうですか。

池上:それは知らなかった。貴重な写真ですね。

篠原:もう、すごい昔の話だよ。僕が来て次の年だから、1971年か2年だね。

富井:よかったですね、来てる時で。

篠原:うん。だから一点コレクション。

池上:それで次に、内科画廊でもよく個展をされてるんですけども。

篠原:うん。内科のオープンはいつだっけ。1962年か63年だね。

富井:1963年ですね。

篠原:2年ぐらい続くんだよね、あの画廊。

池上:篠原さんは1963年の9月に個展をされてますね。

篠原:内科画廊の個展の資料は、うちにたくさんあるよ。

池上:内科画廊の宮田(國男)さんっていう方とはどういうお付き合いがあったんですか。

篠原:あれはね、10年ぐらい前かな、ニューヨークに来て。彼女(宮田有香)は京都の造形大で……

池上:あ、それは娘さんですよね。じゃなくて、画廊主のお父さんとは……

篠原:親父は内科画廊の経営者だから。中西夏之とか、何人かの同級生と知り合いなのよ、大森のほうで。

富井:そうなんですか。

篠原:中西が親友なの。

池上:娘さんがそれをおっしゃってました。

篠原:それで中西のアドヴァイスで、宮田國男が、親父の(内科)診察所があるから、自分がインターンで2、3年やらないから、その空きを画廊にしようという、中西のアイデアなの。

富井:そうだったんですか。

篠原:うん。中西と、あと誰かなあ、中西と付き合ってた奴。中西グループっていうのがあったんだよなあ。2、3人カッコつけてるのが。

池上:ハイレッド・センターの人たちも。

篠原:そう、ハイレッドだ。赤瀬川(原平)、中西、高松(次郎)。高松、中西は藝大の同級生だから。その3人が作って、オープニングをやったのよ。中原佑介の企画という形で。

富井:「不在の部屋」ですね。(注:1963年7月。宮田内科診療所でのイヴェントとしては、画廊に改装する直前に「ハイレッド・センター 第6次ミキサー計画」と「物品贈呈式」が1963年5月28日、29日に行われている)

篠原:あ、「不在の部屋」だ。

池上:それで篠原さんも個展をしませんかっていう風に話を持って来られたんですか。

篠原:いや、そうじゃなくて、画廊ができたでしょ。それで宮田さんが僕にね、文章とかロゴを書いてくれって言うんだよ。それでその頃矢印に凝ってたから、両方尖がった矢印の形をした看板を、ビルの上につけたんだよね。山手線の新橋の駅から見えたんだよ。

池上:矢印がどっちにもついてるんですね。

篠原:そうそう、どっちにもついてるやつ。あれをたくさん作ったんだ。それで最初の文章を『美術手帖』に載せたんだ。「内科画廊の出発」って。それは宮田有香が持ってるよ。「見つけました!」ってね。

池上:そうですか。

篠原:あの汚ねえ階段を、3階まで駆け上がれってね、みんな。もう臭くて汚いんだけど。今でもビルはあるよ、あそこに。だから、最初から関わりはあったんだけど、最初は貸し画廊としてスタートしたから、お金がなきゃ出来ないわけよね。ところが宮田さんは素人だから、貸し画廊をあんな汚いところでスタートしたってさ、空きができるわけよ。1週間単位だからね。だから1ヶ月に4人の作家をそこでしなきゃなんないでしょ。1日2500円くらいだからさ(注:開廊時の印刷物によると1日4000円)。そうすっと空きができると何かで埋めなきゃいけない。で、あちこち電話かけるのも大変だから、短期間の空きだったら「もう、ギューちゃんで」っていうことになるわけね(笑)。

池上:その空きを埋めてくれ、みたいな(笑)。

篠原:そうそう。空きを埋めるってやつ(笑)。大体さ、中西とかああいうシリアスな作家は、そんなにやたら出来ないじゃない。でも、俺だったら「おう、まかしとけ」ってね。

富井:すぐ出来るんですか。

篠原:うん。ということはね、自分でそういう、1週間しかないぞというシチュエーションを自分に与えるわけよ。そこが僕の面白いところなのよ。そうすると、そのきっかけで自分の中で眠っていたものが引き出せるから。計画的に何かをするということは、もう一切出来ないからね。だから、何か起こるだろうっていうんで、やるわけね。そうすると1週間経ったら、もう、何をしようかってね。それがバーっと。

富井:じゃあ、1週間か2週間前ぐらいにお電話かかってきて、「空いてるから」って言われるわけですか。

篠原:大体そう。ネオダダの最初の銀座画廊の出発もそれと同じよ。僕が銀座歩いてて、銀座画廊のおやじに「画廊になんかスペースない?」って言ったら、「ちょうどあと2週間だけど、全部空いちゃったからなんとかなんないか」って。それは偶然見つけたの。それで「まかしとけ!」ってんで、土曜のパーティーで全員集合して、僕がバーンってやったのよ。「やるぜ!」って。みんなが「えー!?」って(笑)。

富井:2週間ですからね。

篠原:2週間だよ。それでもね、ああいうものが出来るからね。

富井:フットワーク軽いですよね、ギューちゃん。

池上:それでこの時期に内科画廊でたくさん個展をされてるんですね。(注:1963−65年の2年間に7回個展を開催したという記録が残っている)

篠原:そう、だからそれだけ空きが多いっていうことよ。一銭も払ったことないんだから。

池上:はい(笑)。イミテーション・アートとかエア・メールのシリーズの他に、春画ですとか、幕末の版画からヒントを得て作られた作品というのも発表されてるんですが。

篠原:そうだね。幕末版画は内科画廊の後半だね(注:「個展 幕末版画シリーズ展」1965年10月)。前半は結構ポップ・アートに影響されたやつね。シェル賞で佳作とった《ドリンク・モア》の、コカコーラの手が4つくっついてるのもあったし。デビュー作なんだけど、中原さんが審査員で、佳作に選んだんだよね。シェル賞は若手の登竜門だったし、シェル石油から賞金が出るでしょ。1等が10万、2等が5万、3等が3万とかってなってんのよ。佳作は5千円くらい。で、デパートとかそういう所でバーンってやるからね、マスコミも集中するし。だからみんな出してたよね。それで《ドリンク・モア》が佳作に入選した時に、「時代が変わった」って言ったね、みんな。もうびっくり仰天してね。

池上:こういうものも評価される時代になったんだって。

篠原:うん。審査員が新しい人になったからね。中原さんやなんか、いっぺんにね。それまでは古い人たちでずっとやってたからね。

池上:その後の浮世絵のシリーズっていうのはなにかきっかけがあったんですか。

篠原:あれはまあ、東京画廊だね。

池上:はい。

篠原:なんで東京画廊に出入りしてたんだろうなあ。

池上:東京画廊で個展をされたことは?

篠原:それは浮世絵シリーズの後の話だね。(注:個展「女の祭」を1966年2月に東京画廊で行っている。花魁シリーズの作品を展示。)あれはなんで東京画廊でしたのかなあ。

富井:南画廊と東京画廊は関係があったからというのは。

篠原:うん、その2つが現代美術の画廊で、そこしか行かなかったね。あと日動画廊とか、兜屋画廊とか、銀座にたくさんあるけどね。そういうのは全然お呼びはないし。やっぱりコンテンポラリーやってんのは東京と南しかなかったね。

池上:で、東京画廊で何か見られたんですか。

篠原:そうそう。ちょうどテーブルの上に、山本孝さんの浮世絵のコレクションが置いてあったのよ。山積みになって。

富井:本物が。

篠原:うん。本物が一杯。実物がね、投げ出してあったわけ。見たら幕末版画なんだよね、大体が。英明二十八選なんてあって。モノホンでね。それ見てさ、「これはいけるな」って。

池上:それがその後の花魁シリーズなんかにも繋がっていくんですか。

篠原:そう、繋がるね。最初は幕末版画の英明二十八選のほうでゴチャゴチャやってたんだけど、ちゃんばらとかね。それから段々変わって。ちょっと待って、俺が貰った2千ドルの賞金は何で貰ったんだっけ。そうだ、その時にね、東野さんが《思考するマルセル・デュシャン》の写真を色んなところに持って行ってたんだね。マルセル・デュシャンにも会ったんだろうね、ニューヨークで。それで写真見せたら、デュシャンが賞金をWilliam and Noma Copley Foundationに申請して、2千ドルのチェックが送られてきたわけよ、Foundationから。

池上:篠原さんからしたら寝耳に水じゃないですか。

篠原:そうだね。

池上:推薦されてるっていうのもご存知なかったんですよね。

篠原:全然。

富井:じゃあ、写真を東野さんが持ってるから、そのまま自分で持って行かれたんですね。

篠原:持って行って、見せたんじゃないの。東野さんはそういうところはよく動くよね。

富井:行動力のある方ですよね。

篠原:やっぱりデュシャンと会うのに、なんか笑いになるようなものをさ、用意して持って行くんだよね。

池上:「こういうものがあるんですよ」っていう。

篠原:そうそう。「どう?」ってね。

池上:でも喜んだんでしょうね、デュシャンが。

篠原:僕はびっくり仰天してさ。白黒の写真だから、東野さんが説明したんじゃない。この像は手に『みずゑ』を持ってて、背広はピンクと白のチェックだぞってね。デュシャンも呆れたんじゃない。それで頭がモーターで回って、あなたはいつもチェスをしてるから、頭の中には日本のチェスである将棋をぶち込むんだとか、全部説明したんじゃないの(笑)。それで益々気に入ったんじゃない、これはすごいってさ(笑)。「じゃあ金やれ」って、そういう感じだよね。

池上:2千ドルは当時の日本円で72万円くらいだったんですよね。

篠原:うん、そうそう。結構ね。

池上:随分な大金ですよね。これは何に使われたんですか。

篠原:そのチェックが送られてきた時に、分かんないから、東京画廊に持って行ったのよ。で、山本さんに見せたの。「こういうのが送られてきたけど、どう思う」って。山本さんはびっくりして目の色変えて、松本(武)っていう番頭さんを呼んできてね、「これをちょっと見ろ。どうしようか」って。もう、山本さんの頭はサーっと回転したんだろうね、「これを競馬とか麻雀にお使いにならないで、うちで個展をやったらいかがですか」って(笑)。

富井:賢い方ですね(笑)。

篠原:賢いよ、さすが、海千山千の画商よ(笑)。

池上:だから「女の祭」展は東京画廊なんだ。

篠原:そうそう。それを南画廊に持って行けば南でやったかもしれないんだからさ。

富井:あ、そうですね。

篠原:うん、どっちでもよかったんだからね。

富井:でもたまたまその時は東京画廊に持って行って相談なさったってことですか。

池上:まあ、もともとその浮世絵も山本さんのコレクションを見てたっていうことで、繋がってるわけですよね。

篠原:そうそう、山本さんのだからね。繋がってるんだね。

富井:じゃあ、その72万円、2千ドルが材料費とかになったわけですか。

篠原:そう、ほとんど材料費なんだけど。内輪話だけど、何銀行だったかなあ、チェックを銀行に入れるでしょ。それが使えるようになるのに、2ヶ月とか3ヶ月とか時間がかかるのよ。やっぱり向こうはさ、僕みたいな変な奴が来たら、「ちょっと待ってください」って。それでずーっと銀行で時間がかかってる間に、山本さんはせっかちだから個展やろうって。山本さんが金を貸しゃあいいんだけど、そういう風に僕には言わないから、僕のおばさんのとこに行った。伊藤郁子って、三木富雄と一緒に住んでた僕のお袋の一番下の妹、それが銀座でバーをやってるわけよ。「ラ・トスカ」っていうね。そこに持って行って、「キャッシュにしてよ」って。それでね、利子半分払うって言ったの。

池上:利子半分?

篠原:うん。今70万円だから30万円貸してくれたら、あとの30万円はあげるからって。

池上:ええー!? なんでそんなこと言うんですか!?

篠原:そこがね、俺の滅茶苦茶なところなんだろうね。

池上:無茶苦茶じゃないですか。

篠原:横でバーテンさんが1人いるんだけど、「俺も金があったら貸したいなあ」ってさ(笑)。

池上:そりゃそうだ(笑)。

富井:だって普通70万だったら、高くても利子は5万ぐらいですよね。10万とかね。

篠原:そういうのは通用しないんだよ、我が親戚、篠原家と伊藤家には。半分なの。

富井:じゃあ、半分に減っちゃったんですね、もうすぐに。

篠原:もう、最初から半分よ(笑)。

富井:最初から半分ですか。いや、70万も材料費にどうするんだろうって思ったんですよ。

篠原:ううん、全然。だから今の鼠講みたいなもんだね(笑)。

池上:『前衛の道』にはご両親にもいくらかあげたという話がありましたけど。

篠原:それでね、銀行から「使えるようになった」って言ってきたわけ。それでそのおばさんが絶対についてくるわけよ、俺の横にピタッとね。

富井:じゃあ、半分とっていくわけですね。

篠原:そう。それの横に俺の親父も付いて来た(笑)。

富井:そうですか(笑)。

篠原:それで銀行の奥のテーブルにお金を置いて、おばさんと親父がにらみあい。親父も「くれ!」でしょ、「俺はお前に散々苦労させられてんだから」って。それから内祝っていうのがあるわけよね。そんな変な名前で、「これはおばあちゃんに5万円」とかってどんどんとって。

富井:じゃあ、ギューちゃん、大体どれくらい材料費になったんですか。

篠原:だから、要するに20万ぐらいだね。それくらい貰えた。

富井:随分目減りしましたね。

篠原:もう無茶苦茶よ(笑)。

池上:『前衛の道』に、「父、叔母、そしてぼくが三つどもえで奪い合い」(190頁)って書いてあって、どうして叔母までいるんだろうって思ったんですけど。

富井:じゃあ、叔母さんは利子ですね。

篠原:そう、伯母さんはまず利子を半分とって、それからもう、こういう感じよ。

池上・富井:ああ。

篠原:すごいでしょ。だから三木が本当に殺されそうになったのがわかるよね。三木富雄とずっと一緒にいたんだよ。

池上:伊藤郁子っていうおばさんは三木富雄さんとパートナーでいらっしゃったんですか。

篠原:まあ結婚はしなかったんだけど、ずっと住んでたのよ、駒沢で、一番いい耳を作るきっかけまでね。耳を作る(大阪)万博まで、ずーっと一緒にいたの。

池上:あ、そうなんですか。

篠原:駒沢に一軒家があって、建売を買ったんじゃないんだけど、ガレージ付きだったから。それでガレージには車がないから、そこで制作したの、耳を。

富井:なるほど。

篠原:その頃のガレージは小さいけど、仕事場になるんで、素晴らしいよね。粘土で何やっても床がコンクリートだからさ。何でも出来ちゃう。石油ストーブ1個でね。NHKが三木富雄の1時間ものの番組を作った時も、まずそこからスタートしたんだよ。僕はそこに案内人に行ってね。もう三木が死んで10年経ってたんだけど、釘の後やら全部あってね、「ここに耳がずーっと並んでたんだよ」とか色々言いながら、奥に行って。それでガラガラって開けると、ちゃぶ台が1個あって、そこにみんな、瀧口さんたちも、来てたんだよ。そういうエピソードを話したことがあるよ。

池上:そうですか。

富井:それで花魁とか、浮世絵のシリーズで大体ペインティングに戻ってきたわけですか。

篠原:そうだね、だから「よし、花魁でスタートしよう」っていった時にはもう、渋谷のウエマツ画材店で本キャン(注:本物のキャンヴァスの意)をバーンと買って、どんどん貼って、吉野辰海なんかが手伝いに来てくれて。参宮橋にもう落ちぶれたお花の道場があったんで、そこにアトリエを借りて。

富井:アトリエをわざわざ借りたんですか。

篠原:うん、タダだけどね。田辺三太郎が管理してた、お花の道場みたいなのがあったわけよ。ここの半分くらいかな。雨漏りしてて。

池上:でも広いですよね。

篠原:広いよ。そこにテーブル出して、みんなで作ってね。それで、ペインティングはやっぱり汗の臭いがするからやめて、アクリル板にラッカーテープを貼って、コンプレッサーで蛍光塗料を吹き付けて、それを田中信太郎の知ってる看板屋に持って行って、切り抜いてもらって、貼って。それで一気にダーっと、やったの。

池上:それまでの個展とは準備にかけた時間とか制作費が全然違いますよね。

篠原:そうだね。それまで内科画廊でちょっと発表したり、ちょこちょこやってたのが下積みっていうか、それが実ったんだろうね。そこで一気に、大金でもってね、バーンって。

池上:本当の個展っていうのは、じゃあ、この個展が最初みたいな感じですか。

篠原:うん、そう。それはもちろん。画商の個展は生まれて初めてだったからね。

富井:じゃあ、その時は準備期間っていうか、実際の制作期間はどれくらいでしたか。

篠原:どのくらいだったかな。3ヶ月ぐらいかな。

富井:じゃあ、2週間っていうことはもうないわけですね。

篠原:それはもう2週間じゃ出来ないね。3ヶ月ぐらいだね。

富井:じゃあ、やっぱり本格的な制作になりますね。

篠原:うん、そう。中野から参宮橋まで毎日通ってね。朝から夕方までね。夕方、参宮橋の銭湯で風呂浴びて帰るっていう毎日だったね、ずーっと。

富井:そうですか。

池上:じゃあ、実質の本格的なデビュー展みたいな感じですね。実際にその評判というか、反響はどうでしたか。

篠原:展覧会の? だから、ゼロよ。

池上:それでもゼロなんですか。

富井:東野さんとかは。

篠原:東野、中原、針生は一切書かないし。不思議だね、あれ。

富井:見に来なかったんですか。

篠原:見には来たんじゃないの。でもあんまり蛍光塗料の大洪水だし、花魁のお雛様の首はダーって回るしで。あのモーターは最後には《思考するマルセル・デュシャン》の首にするんだけど。本当は木下新が使ってた古いモーターなんだけどね、キャンヴァスがあってガーっと回る。それで、山本さんが『美術手帖』にお金を出して、カラーの1ページ広告を自分のお金でバーンって出した。

富井:広告。

篠原:うん。『美術手帖』の写真家連れてきて、ちゃんと写真撮ってね。それは山本さんがお金を出した。後で聞いたんだけどね。

池上:それでも反響はない。

篠原:ゼロ。

富井:ということは売れなかったっていうことですか。

篠原:もう全然。でもね、マルボロ画廊(Marlborough Fine Art)のロイドだかなんだかいう変なおやじが来たんだって。

池上:フランク・ロイドですか。(注:Frank Lloyd、マルボロ画廊の設立者)

篠原:うん、来たんだって。すっごい興味持ってたって言ってたね、山本さんが。

池上:マルボロ画廊のフランク・ロイドが東京に来てたんですか。

篠原:うん、東京で用事があった時に、山本さんとちょっと関係あったらしいから来てね。後で聞いたんだけど、もうすごく興味を持って見てたよって。でも、買わなかったって。山本さん吹っ掛けたんだろうね。安くしときゃいいのにね。

富井:あの時、たしか東京画廊に1点渡してらっしゃいましたよね。

篠原:そう、それで展覧会終わったんだけど、「1点も売れませんでした。それであなたには借金ができました」って。「えー!」って言ったの。「個展やって借金が出来たって何ですか?」って。「運送代と額縁代とオープニングの費用で、33万円」って言うんだよね。

池上:えー、それ全部篠原さん持ちなんですか。

篠原:らしいんだよね。で、僕もそんなの全然分からないから、「あ、そう」って言って。何しろ生まれて初めての事件が次から次に来るんだからさ、答えが出来ないんだよ。

富井:じゃあ、もし利子を払ってなかったら大体……

池上:出来たわけですよね。とんとんですよね(笑)。

富井:ちょうど賞金の半分ぐらいじゃないですか、それ。

篠原:ああ、そうか。イーヴンで間に合ったかもね。

富井:最初からそれを狙ってたりして(笑)。そんなことはないか。じゃあ、33万円くらいになるっていうことで。

篠原:うん。番頭さんが「これでございます」って持ってくるわけよ。でも「篠原さんはお金なんて払えないから、作品を1点ください」って言うのよ。「ああ、じゃあ、もう置き場所もないから持って行ってよ。どれでもいいよ」って。

池上:1点でいいって言ってくれたんですか。

篠原:1点、うん。全部倉庫に持って行けばよかったのにね。でも倉庫もなかったんだ、あの画廊。それでどれがいいかって言うんだよ。山本さんは自分じゃ決められないからね。絵が全然わかんないから。

池上:全然わかんないんですか。

篠原:うちのボスは絵とお金のことは全然わかんないって番頭さんが言ってた(笑)。

池上:山本孝さんですか。

篠原:だって、鳥海青児でスタートしてるから。

池上:もともとは骨董屋さんですしね。

篠原:そう。それで花魁の3枚続きね、《女の祭》(1966年)っていうのがあるのよ。「じゃあ、これがいいんじゃない」って言って、「じゃあ、それを頂きます」、「ああ、いいよ」って。その後は全部うちの納戸に。

富井:それは山村コレクションに入ったわけですね。

篠原:そうそう。今は中原さんが館長をしてる、兵庫の美術館に入ってるんだよね。

池上:兵庫県立美術館に出てるときありますよ。

富井:そうするともうちょっと持っておいてもらえるとよかったですね、東京画廊さんに。そしたら売ってくれたかもしれないし。

篠原:いやあ、あそこはその頃はお金がなかったから、作品には払わなかった。

富井:そうですか。

篠原:でも、一つ良いことは、山本さんがあの作品をシルクスクリーンにしましょうっていうのよ、飾ってある会期中に。それでシルク屋さんを呼んでくるわけよ。古い油紙をカッターナイフでもってピーって切っていくシルク屋さん。山本さんはそこで「出来ますか?」って言って、そのシルク屋さんも職人気質でじーっと見ててね、「やりましょう」ってゴー・サイン出して、やったの。100枚作ったのよ、あれ。

池上:そうなんですか。

篠原:うん。色数は5色か6色で。蛍光塗料は絵の具のぼかしがないでしょ。それで僕の花魁シリーズってグラデーションがゼロだから、シルク屋さんがすごいやりよかったらしいんだよね。

富井:そうですよね、フラットですからね。

篠原:それで、100枚作って。

池上:それは100枚作って、売られたんですか。

篠原:僕にはどうしたのかなあ。何も貰ってないね。10万円ぐらいくれたかな。

池上:それも今どこかにコレクションされてるんですかね。(注:国内では京都国立近代美術館、国立国際美術館ほかに所蔵)。

篠原:そう、だから一番最初のは、MoMAのウィリアム・リーバーマンにもあげたんだよ。

池上:ああ、そうですか。

篠原:うん。プレゼントでパッパッって撒いたんだよ。100分の1とか、2とかね、100分の5とかいいやつを。

池上:ちゃんとエディションにして。

篠原:そうそう。リーバーマンは持ってるはずよ、もう亡くなったけど。それから、ポーター・マックレー(注:Porter McCray。1963年から1975年までジョン・D・ロックフェラー3世基金のディレクターを務めた)も亡くなったけどね、彼も持ってる。彼はほら、僕がニューヨークに来る時のヘルパーだから。結構あちこちある。

池上:見てみたいですね。それでちょっと時間を進めたいんですけど、1966年っていうと赤瀬川さんの千円札裁判事件にも関わっていらしたと思うんですが。

篠原:関わるというか、裁判の時に証人の一人として、要するに自分の仕事について、現代美術についての自分の経歴みたいなものを喋るだけなの。20分か30分。

池上:篠原さんご自身のですか、赤瀬川さんのではなく。

篠原:そう。

富井:一応じゃあ、弁護士の杉本(正純)さんから質問があって、それで喋る。

篠原:そう。質問はただ一つね。「あなたはどういう仕事を今までしてましたか」って、それだけ。

富井:それが質問なんですか。そしたら後はギューちゃんが好きなように。

篠原:そうそう。内科画廊で展覧会やったり、どこどこでやったり、がーって。

富井:じゃあ、どれぐらい喋られたんですか。

篠原:15分か20分くらいかなあ。

富井:あ、そんなもんですか。

篠原:うん、そうそう。証人の一人で。

池上:それが証人の証言になるんですか。

富井:要するにあの時は、現代の芸術とは何かっていうことだから、最初にハイレッドが何をしたかっていうのを中西さんが証言したから、他の仲間は何をしてるかっていうのをみなさん証言した。まあ、評論家は評論家の意見があるけれども、アーティストの人はみんな自分が何をしてるかっていうことを話した。

池上:アーティストのサンプルとして呼ばれているわけですね。

篠原:そうだね。だから山本孝も呼ばれたって言ってたよ。

富井:山本さんは画商だから、千円札の作品を売ったらどれくらいになるかとか、そういう話もするわけですよね。これはアートでそういう作品・商品なんだ、みたいなことで。

篠原:山本さんの場合は、画廊の番頭さんが下書きしたのを棒読みしただけなんだけど。

富井:そうなんですか。

篠原:うん。その人は末永照和さんっていって、女子大で教えてて、ジェームス・アンソール(James Ensor)で評論家賞とったのよ。その人がまだ、東京画廊の番頭やってた頃。僕の個展の担当だったからいつも見に来てね。その人が原稿作って、山本さんが棒読み。

富井:あ、そうだったんですか。

篠原:うん。

池上:その次に、1967年になるんですけど、「日本国際美術展」っていうのに参加されて。

篠原:日本国際美術展。毎日新聞の?

池上:ですね。《銀座にベトコンが出た》っていう作品を出されてるんですけど、これは大分大きい作品だったんですよね。

篠原:ああ、あれか。うん、ばかでかいよ。ベニヤで3枚と3枚で、合わせて6枚だから、すごい大きいよ、2段重ねで。その時は外国からも作家を招待したんだよね、イギリスとか。審査員も外国から誰か来てたね、女性の評論家が。

池上:審査員ってことは、賞なんかもあった。

篠原:うん。毎日新聞は賞を出してたからね。それで結構色んなのが出てね。ヨシダミノルっていうのが、大原美術館賞をとったりね。

富井:じゃあ、ギューちゃんは招待されて出品しただけですか。

篠原:そう、出品しただけ。小島とか、若手をザーッとみんな招待してたからね。みんな張り切っちゃって。

池上:じゃあ、これが初めて国際展に出すというきっかけみたいになった。

篠原:そうだね。うん、招待で。(東京国立)近代美術館でも三木多聞がやった「日本の彫刻」っていう展覧会とか、なんかちょこちょこあったけどね。

池上:同じ年には、パリ青年ビエンナーレにも出されてますね。

篠原:パリの青年ビエンナーレ展?

池上:はい。やっぱり《女の祭》シリーズを出されてるんですけど。

篠原:あー、そうだ。《女の祭》を出したんだ。もう山本さんの所有になってたから。

富井:ああ、東京画廊にあげた1点ですね、じゃあね。

篠原:そうそう。とられた1点ね。その時にもう一つね、パリ青年ビエンナーレに選ばれたっていうんで、張り切って描いたんだ、《おいらん》っていうのを。それはね、どこだったかなあ、仙台の美術館があるでしょ。多分、あそこかなんかが買ったんじゃないかなあ。画集に載ってるよ。(注:《おいらん》、1967年、宮城県美術館所蔵)

池上:その選ばれるっていうのは、どなたかが推薦してくださったんですか。どういう経緯だったんでしょうか。

富井:67年は中原さん。

篠原:ああ、そうか。多分そうだね。

富井:コミッショナーがいるから、誰かが推薦してるはずで、確か67年は中原さんだったと思いますけど。

篠原:よく覚えてるねえ(笑)。富井さんもすごいね、最近そのへんの……

池上:生き字引ですから(笑)。

篠原:ビーって、年譜だね(笑)。

富井:そんなことないです(笑)。いや、ちょうど針生さんがそれを見てるんですよ、パリで。それで、日本もここまで来たか、国際的になったな、と感激して帰って来られたという風に書いておられますので。

 

篠原:でも面白かったのはね、こういう薄い雑誌があったのよ、『美術ジャーナル』っていう。あれで対談やろうっていうんで、針生さんと僕と磯辺(行久)で、なんか対談やったのよ。それで僕が結構面白いこと言ったら、針生さん喜んでたね。その次の対談も面白かった。菊畑(茂久馬)かなんか呼んだんだ。あいつはひねくれてるから、大喧嘩やったらしいね(笑)。

池上:そうですか(笑)。

篠原:答もちゃんと言わないから、あいつは。素直な奴なんだけど、評論家とかそういうのになると、九州の血が騒ぐんだね。反骨精神がものすごいんだね。喧嘩になっちゃった。

池上:座談会じゃないんですけども、1968年にまた「なにかいってくれ、いまさがす」というシンポジウムがあって。

篠原:あ、そう。どこで?

池上:これも草月会館ですね。

篠原:あー、粟津(潔)やなんか参加したやつ、粟津。「芸術と暴力」っていうのがね、僕たちのテーマだったんだよ。

池上:「芸術と暴力」。

篠原:うん。で、針生さんがやって。それで石堂なんとかっていう作家がいるんだよ、何ていったかな。テレビ作家かな、映画の台本かなんか書くやつ。変な暴力団みたいな。

富井:じゃあ、石堂淑朗(いしどうよしろう)さん。

篠原:そう。それでね、僕と並んでるわけよ、箱かなんかに入れられてね。その前に粟津が僕の花魁を見てて、「ギューちゃん、花魁どこで見つけた?」って。「山本さんとこにあるよ」、「それじゃあ、写真撮りに行くから手伝ってくれ」って言うんだよ。それでそれを撮ったのを後ろにスライドで流したりね、そんなのをやったんだよ。それで石堂っていうのが馬鹿だからね、「梅原龍三郎の絵はなんで艶々してるか知ってるか。男のスパームを油絵の具に混ぜて絵を描いたからだ」って言うんだよね(笑)。

池上:それは……(笑)。

篠原:これは酷いんじゃないかってね(笑)。それで僕は全部真面目に返してさ。その時も針生さんがなんか言ったんだよ、「リアリティ」っていう言葉でね。針生さんって「リアリティ」が好きだからさ、僕は「リアリティなんて言葉で芸術を処理しちゃだめだ」ってね。

池上:それは篠原さんが言ったんですか。

篠原:うん。それはもう、討論だから。針生さんの場合は何でも「リアリティ」だからさ。ジャコッメッティも梅原龍三郎も、何でもリアリティがある、リアリティがない、で全部言うんだから、そういうのはだめだってね。針生さんも怒って、なんかギャーギャー言って。で、なんか僕にパフォーマンスやってくれって言うのよ。それで四谷にね、池田龍雄の友達の女性がやってる、「ダリ」っていうバーがあったの。そこはつけがきくんで、吉村やなんかとよく飲みに行ってたのよ。それでいつも飲んでても面白くないから、何かやろうっていうんで、それじゃおちんちんに花火をつけて、裸でよ、真っ暗にしてちーってやったらすごいんじゃないかっていうのを、僕や小島が言ったんだろうね。それで「ダリ」の一室で、僕はこういう風に椅子に横になって、小島が僕のおちんこに、線香花火を結わえ付けて、火をつけるのよ、真っ暗にして。で、パーっと燃えるわけでしょ。そうするとおちんこがこう、フワーって浮き出すわけよ。そういう下らないことをやってたわけ。そうしたら「ダリ」のおばさんが洗面器抱えて来てね、うろうろしてるわけよ(笑)。

富井:ああ、火事になっちゃいけないから。

篠原:なんか知らないけど。それにヒントを得て、草月でもそれをやろうっていうことになって。脚立を2つ用意して、電気を消して僕はさ、おちんこを……

池上:それで仰向けに横になって。

篠原:仰向けじゃない、下向きで。腕立て伏せみたいな感じで。

池上:うつ伏せみたいな感じで。

篠原:両方をこう支えて、脚立は結構背が高いんだけど、こういう風にするわけよ。

池上:ああ、結構しんどい体勢ですね。

篠原:うん。そのぐらいは平気だったからね。それで電気消してね、小島がその時はやっぱり火を点けたんだ、ダーって。

池上:それはやっぱり線香花火ですか。

篠原:ううん、もっと大きいやつよ。

池上:もっと大きいの(笑)。

篠原:だって、糸を長くすれば大丈夫だからさ。バチバチ、バーンバーンなんてね。

富井:糸でくっつけたんですね。

篠原:草月は入場料なんかとってたからね。お礼くれたよね。

富井:え、謝礼もらったんですか、それで(笑)。

篠原:うん、パフォーマンス料。みんな一律5千円くらいじゃなかったのかな。

富井:じゃあ、小島さんももらったんですか、火点けたから。

篠原:いや、あいつにはくれないよ。俺のアシスタントなんだから。でも前払いだから、それでもって景気付けだって、僕の取り巻きを連れてって、近所のレストランでもう飲んで騒いできたから(笑)。

池上:お客さんはどういう感じでしたか。

篠原:いや、若い人ばっかりよ。

富井:受けたんですか。

篠原:僕のだけよ、受けるのは。「うわー!」って。

池上:受けてはいたんですね。

篠原:僕のはね。もう最後の線香花火でもうみんな圧倒されてるからさ。それから針生さんの「リアリティ」を「そんなんじゃない」って言ったら、みんな若い奴は「わー!」だからさ。針生さんはムカムカになってさ(笑)。

池上:でも若い観客は篠原さんに共感してたんですね。

篠原:そうそう。全部こっち向き。それでコンドームに空気をプーって入れて、それは針生さんのアイデアだと思うんだけど、たくさん作ってポンポン投げたりなんかして、みっともねーんだよな。

富井:風船みたいにして。

篠原:うん。やっぱり針生さんのやることは垢抜けないんだよな。

池上:1968年には、今も参考にさせてもらっていますが、『前衛の道』が本として出版されますけども。

篠原:うん。それは連載してたやつをまとめたのね。

池上:これは、本にしましょうという話が美術出版社から来たんですか。

篠原:うん。美術出版の書籍部にね、ええと誰だっけな、ど忘れしちゃったなあ。なんかいたのよ、そいつが。美術出版労働組合の組長。ちょっとごつい奴でね、ええと、編集部の岩崎清。その人が僕のところに、本にしようっていうアイデアを持って来たわけね。その人が書籍部でもってOKとってきたんじゃないの、連載を本にするって。僕はすぐに乗って、毎日美術出版の部屋を一つとって、そこに通って、本作りをレイアウトから始めてね、ザーッとやっていったわけ。

富井:連載してる時はたしか「前衛への道」っていうタイトルだったんですよね。

池上:そうそう。タイトルが少し違ってるんですよね。

篠原:ああ、「への」ね。

富井:本になったら『前衛の道』になって。

篠原:うん、そうだね。「へ」をとったんだ。

富井:なんで変えたんですか。「への」から「の」に。

篠原:ゴロがいいから、というか。それだけよ。

池上:まあ、パーンとしますよね、『前衛の道』っていうだけのほうが。

篠原:それでレイアウトは、彼と僕とでやったわけ。彼は書籍部のなかでも力があるから、紙の質とか、三つ折とか、そういうものをどんどん採用したわけよ。

池上:随分凝った装丁ですよね。

篠原:それで僕のレイアウトは、田名網敬一仕込みでやったからね。

池上:じゃあ、デザインにも凝って。結構彼からアドヴァイスをもらったんですか。

篠原:そうそう、うんとね。だからそういうのは珍しいよね。そこのところはね。

池上:これはやっぱり名著だと思います。

篠原:うん。南伸坊が朝日文庫で出してる『モンガイカンの美術館』って、もう古い本なんだけど、その中にも出てるよ、「これ見てびっくりした」って。(注:初版は情報センター出版局刊で1983年出版、朝日文庫版は1997年出版)それまで彼はデザインの学校に行ってたんだよね。でも、これ見て辞めたんだって(笑)。「色は、はみ出さないように塗らなきゃいけない」なんてくだらないのは、もう通用しないって(笑)。 

 

池上:意味がないとわかったわけですね(笑)。その翌年には、ついにロックフェラー3世奨学金をとられて渡米されるんですが、この奨学金をとった経緯っていうのはどういうものだったんですか。

篠原:それはね、やっぱり南画廊を中心にして、もう2、3年前から、ポーター・マックレイっていう人が一人で決めるからね。

池上:一人なんですか。

篠原:彼はもう世界中を歩いてんのよ。日本だけじゃなくて、インドとかあらゆるところをね。それでアメリカに招待して、何やってもいいわけよ。どこにいてもいいの。そういう、すごくフリーな奨学金なのよ。だから僕がインドに行こうが……

池上:じゃあ、アメリカに行かなくても別によかったんですか。

篠原:そうそう。それに期間もね、1年、半年、3ヶ月とか、1ヶ月とかあるし、チョイスがあるわけ。だから瀧口さんも1ヶ月くらいで来たよ。土方巽も選ばれてたんだけど、彼は来られなくなったけどね。体の調子悪かったのか、よくわかんないんだけど。

池上:ポーター・マックレイが篠原さんの作品を知るきっかけっていうのは何かあったんですか。

篠原:うーんと、どうなってたのかなあ。ある日僕と三木富雄に電話がかかってきて、ホテル・オークラに、ポーター・マックレイに会いに行けっていうわけよ。奨学金のことで。

池上:誰からかかってきた電話ですか。

篠原:東野さんだと思う。南画廊の志水はもう仕事でいないからね。だから、東野さんから電話がかかってきて、「通訳がいる」って言ったら、「じゃあ大岡信がいい」って言うんだよね。大岡さんはその頃まだタイプライターも持ってなくて、南画廊のタイプライターで打ってた時代だからね。それで朝っぱらから、大岡信と僕と3人でホテル・オークラのポーター・マックレイの部屋に行って、それでなんか質問してくるわけよ。

富井:じゃあ、その時がもう面接試験だったんじゃないですか。

篠原:そう、面接だったんだね、うん。本人に。

池上:篠原さんはこれが面接だっていうことはわかってなかったんですか。

篠原:いやもう、Foundationが何かも知らないし、ロックフェラー3世奨学金がどういうものだか、一切知らないから。「とにかく会いに行けよ」、「行ってくるよ」、「何かあるかもしれない」、「ああ」って。で、作品を見せたりしてさ。それで30分くらいで「バイバイ」で。その後ね、花魁シリーズで作ったのをね、東京画廊の前の話だと思うんだけど、スライドなんかを送ってたのよ。それがポーター・マックレイの事務所の机にあってね、誰かが行った時に「このCrazy Artistを知ってるか」とかさ、みんなに見せてたらしい。

池上:やっぱり「Crazy Artist」って言われるんですか(笑)。

篠原:だから、蛙がナイフ持ってるとか、振り回してるとかだから(笑)。なんかもう、訳分かんないやつばっかりよね。ジャポニカじゃないからね、僕のは。ジャポニカを逆手に取ってるからさ。

池上:じゃあ花魁シリーズのスライドなんかも送ってらしたんですか。

篠原:うん、送ったんだろうね、後半になって。最初はもう小さな、つまんないスライドだよ。

池上:そういうスライドがマックレイの目に触れる機会があったのではないかと。

篠原:うん。ロックフェラー・センターのところにオフィスがあったからね。後で訪問したけどね、僕がこっち来てから。いい所にあったよ、バーンて。今はスケート場の前のビルディングの上のほうにあるけど。それで秘書がみんな働いててさ。今のアジア・ソサイエティのボスも、ポーター・マックレイのところで働いてたんじゃないかなあ。

池上:今日は渡米の話ぐらいできりがいいので、これぐらいで。

富井:次はいよいよニューヨークで。

篠原:ニューヨーク、どたばたのね。

池上:はい、そうです。今日はありがとうございました。