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篠原有司男オーラル・ヒストリー 2009年2月20日

ニューヨーク市ブルックリン、篠原有司男のスタジオにて
インタヴュアー:池上裕子、富井玲子
書き起こし:萬屋健司
公開日:2010年4月12日
 

池上:前回いよいよニューヨークに来られるところまでをお聞きしたので、今日はニューヨークに着いて、最初の印象から教えていただこうと思うんですが。

篠原:最初は住む所がないから、チェルシー・ホテルだったのね。ロックフェラー3世奨学金だから、「どこがいいか?」って聞かれて、ずばり「チェルシー」って。知らなかったんだけど、あれ格好いいホテルなんだよね、絵描きの絵がいっぱい中にあってね。

池上:そうですね。

篠原:その頃、16ドルだったかなあ。16ドルが1週間か、1日かよく分かんないんだけど。

池上:どっちでしょうね。

篠原:とにかく、ネオダダの豊島壮六くんが長く住んでるから、彼が迎えに来てくれて。その時、僕は赤ん坊を連れてたんだよね。今の女房じゃなくて、前の女房とね。多摩美(多摩美術大学)の斎藤(義重)さんの教室で勉強してた女の子で、4ヶ月の赤ん坊を連れてね。

池上:一緒に来られたんですか。

篠原:3人で一緒に来たの。それでチェルシー・ホテル入ったらもうガタガタ。「すげえ汚ねえ所だなあ」って思ったんだよね。日本から見てるアメリカっていうのはもう、クリーンなわけでしょ。

池上:そうですね。

篠原:特にヴィジュアル的にはハリウッドの映画しかないから。あとは進駐軍のピカピカとか、それからアメ横で売ってる色んなキラキラした、パッケージの派手なものとかね。その頃の日本は、パッケージのデザインっていうのはほとんどゼロだったからさ、もう全然違ったね。絵描きだからカラフルなものに憧れるから、「やっぱりアメリカ」っていうので来たわけよ。でもチェルシー・ホテルは汚くて、大体ドアが壊れてさ、黒人のすごい大きなおじさんがドアを直してるんだよね、ドライバーで。僕もそういうことはすぐ頭が回って、「強盗でも入ってドアぶっ壊しちゃったんじゃないのかなあ」とか、色々心配もしたんだけどね。とにかくそこに行って、「まずは美術館だ」ってね。

池上:はい。

篠原:そうすると、高間夏樹(たかまなつき)くんっていう高間惣七の息子とか、(東京)藝大の後輩で先にニューヨークに来てる人たちが「おい、ギューちゃんが来た」っていうんで、みんな案内してくれるわけよ。「俺は知ってるぜ」って。僕は美術館の場所も、地下鉄の乗り方も分かんないからさ(笑)。しかも「子供連れで来たの!?」っていう感じだから。背負い籠を買って、子供を背負って地下鉄に乗って、案内してもらってね、色々と。画廊ももちろん行ったし。その時はステラ(Frank Stella)なんかがどんどん伸びてくる時だったね、1969年、70年だからね。それでステラの作品なんか見て、「えー、これ!?」っていう感じでね。思ってたのと全然違うんだよね、ニューヨークって。ポップ・アートなんかもう、ほとんどぱらぱらとしかなくて。

池上:ちょっと下火になっている頃で。

篠原:ちょっと下火だったね、70年代には。

池上:じゃあ、思い描いていたアメリカ像と現実のニューヨークっていうのはちょっと落差がある感じでしたか。

篠原:落差というか、僕は比較論が出来ない。全然アメリカ知らなかったから。来た時、僕の場合はアメリカのアートと、それからいわゆる普通のカルチャーっていうか、庶民生活にすごい憧れてるわけよ。どういうのかっていうと、お酒なのよね。「バーで一杯飲みたい」って。どういうバーかっていうと、日本で僕はミステリーとか探偵小説を読んでたわけ。探偵小説っていうのは進駐軍が読んで捨てていったコミック・マガジンとか『プレイボーイ』とか、そういうものの一部なのよね。それをバーっと翻訳したのが一斉に出てきて、それがアメリカの一種の断片だったからね。それを読んで、チャンドラー(Raymond Chandler)とかハメット(Dashiell Hammett)から始まってね、どんどん色んな面白いのがあって、ミッキー・スピレイン(Mickey Spillane)まで来るんだけど、スピレインっていうのは朝鮮戦争に行ってるんだよね。だからギャングと戦う時に色んな戦争のテクニックを使うのよ。例えば自分の夜光時計に泥を塗って、這いつくばってこう、迫って行くとかね。それから飲み物は「セブン・セブン」っていうのを飲むんだって。「セブン・セブンって何だ?」と思ったらさ、シーグラム・セブンとセブン・アップを混ぜて飲むって。こんな不味いもの、よっぽどタフな胃じゃなきゃ飲めない(笑)。そんなの俺、飲んだことないからね。マイク・ハマー(スピレインの小説の主人公)ぐらいじゃなきゃ飲めないんだけど。だけどとにかく、バーに行こうって。それで虹の靉嘔くんが丁度いて、日本人の人たちがバーって集まってくれて。彼は僕の新しい情報を得たいっていうのと、新人が来たらみんなウェルカムって。僕は1969年に来たんだけど、その頃はまだみんなパーマネント・ビザ、グリーン・カードを持ってないのよ。で、1970年に在米日本人が一斉に取れたわけよ。イミグレーションの基準が大きくなったんだね、多分。それまではみんな逃げ隠れして、移民局をビクビクしながら住んでた人たちなんだよね。

富井:じゃあ、ギューちゃんもわりとすぐにグリーン・カード取ったんですか。

篠原:そう。そういうのはね、やっぱり来た時にみんなが知識を僕にヘルプしてくれるからね。弁護士まで紹介してくれて。その弁護士は、絵で払えばいいって。「へー、それじゃあ、絵なんて腐るほど描けるから、何でもいいよ」って。弁護士も、「俺もたくさんあるからもういいや」とか言ってる(笑)。そのくらい日本人贔屓の弁護士がいたり、歯医者でも絵で払ったりね。そういう時代だったね、70年代前半は。住んでた日本人の人たちが知識を得て、生活を少しずつ便利にしてくれてた時に僕は来たからね。

富井:ラッキーでしたね

篠原:ラッキーなの。でも僕は先輩の、例えばイサム・ノグチや、岡田謙三、新妻実のジェネレーションの人たちから「アンパン貴族」って苛められたわけよ。苛められたっていうか、嫌味言われるわけ。どうしてかっていうと、読売アンデパンダンっていうのがあって、日本の評論家にごまをすって、「お前ら、うまい汁を吸って奨学金でアメリカに来やがった」っていうことになるわけね(笑)。

池上:でも奨学金は1年だけだから……

篠原:うん、だから来たばっかりの時の話なんだけど。彼らはどうしてたかっていうと、貨物船で来て、ロサンゼルスかサンフランシスコに着いて……

池上:西経由で。

篠原:そうそう。彫刻家の新妻さんの話だと、鑿と金槌を持ってバスで大陸横断してニューヨークに着いて、まずイサム・ノグチさんのところに行ってアルバイトっていうか弟子を始めるとかね。みんなすごい苦労話がたくさんあるんだけど、僕の場合は「アンパン貴族」って言われるだけでね、最初の一年は。

富井:じゃあ、飛行機で来たんですか、ギューちゃんは。

篠原:僕にはパンアメリカン(航空)の世界一周の券をパーンってくれるから。途中ハワイで1泊とかさ。あ、ハワイで1泊じゃない、3泊か(笑)。

富井:奨学金の一部で切符がついてるんですか。

篠原:もちろん。全部よ。それからお小遣いも付くね。その時で月に500ドルか1000ドルぐらいだったと思う。だから地元の先輩、日本人のアーティストにしてみれば、「馬鹿野郎!」って感じだよね。

池上:「なんて羨ましい」っていうことですね。

篠原:そういうことだね。

富井:そうですよね。言いたい気持ちはよく分かります(笑)。

池上:でもそれは1年間だから、その後は生活のために何か仕事をされるっていうことはありましたか。

篠原:ううん、ゼロ。仕事はないからね。アルバイトの大工なんかはあるけど、僕は目が悪いし乱暴だし、それに短絡だから、もう全然。その後色々変わってくるんだけどね。

池上:じゃあ、生計はどういう風に立てられたんですか。

篠原:それはだから、今はもう40年住んでるんだけど、ほとんど働かないで食ってるっていうことが七不思議だね、アメリカの。

池上・富井:(笑)。

篠原:日本人部落の七不思議。

富井:大概みんなレストランで働いたりとかしますけど。

篠原:それで、最初は靉嘔さんが貸してくれたキャナル・ストリート(Canal Street)のロフトに住んで。キャナル・ストリートっていうのは要するにアメ横みたいなところで、道具屋が一杯あるわけよ、その頃は。

池上:今もちょっとありますよね。

篠原:うん、今も残ってる。

富井:大分なくなってますけどね。

篠原:すごく便利なのね。絵の具屋とかそういう大工道具が全部あって。そこを1年間、靉嘔くんが貸してくれて。彼はどこかの学校の先生でニューヨークにいないから。しかも70ドルなんだよね、家賃が。だから「70ドルなんて安いよ、100ドル払うよ」って言って、最初の3ヶ月は100ドル払ったんだけど、その後、飲み食いで会計が無茶苦茶になって、払えなくなっちゃって。靉嘔さんが「早く払えよ」って言うんだけど、なくて。もうしょうがない、最後は部屋の掃除とか、そういうのでね(笑)。

池上:肉体労働で払ったんですね。

篠原:僕の家には居候が5、6人いつもいて、ギューちゃん軍団があったから、彼らが「何でもやりますよ」、「じゃあ、ここやってくれよ」、「おお」って。床の張替えとかね。バーバーって。張替えっていってもベニヤ張るだけで、今と全然違うんだよね。まあ、そんなんで、なんとかね。

池上:学校に行ったりとかはされなかったんですか。

篠原:ううん、全然。もうビザ持ってるしね。

池上:1970年にもう永住権がとれたから。

篠原:そう。もうno trouble。でもその次の年に、「さあ、お帰りなさい」っていうわけね、1年間経ったら。ロックフェラー3世奨学金はね。

富井:そうですよね。

篠原: 帰りの切符も渡してあるから。「どうぞ、いつでも帰れますよ」って。でも、「嫌だ」って言ったんだよね(笑)。

池上・富井:(笑)。

篠原:「面白いからこっちのほうがいいじゃないか」って。要するに帰っても僕は行くところがないし、(大阪)万博の仕事なんかは、僕の友達の三木富雄とか高松次郎とか、それから丹下健三とか磯崎新、黒川紀章なんかが牛耳ってたからね。ああいう万博の仕事はゼロだから、帰ってもしょうがないわけね、一文無しで。だから「こっちにいますよ」って。で、「OK、いてもいいけど保障はしませんよ」ってね。「お前一人でやれ」って。

富井:じゃあ、お金はあげないけど、いたければいなさいっていうことだったんですか。

篠原:そう。「好きなようにしろ」って。

池上:「絶対に帰れ」っていうことではなかったんですね、じゃあ。

篠原:それはないの。それはね、ロックフェラー3世奨学金のいいところなんだよね。

池上:ものによっては、一回奨学金が終わった時に一度帰るっていう条件のもありますからね。

篠原:あ、そうなの。ふーん。

池上:そのまま居着かれたら困るっていうことなんでしょうけど。

富井:そうそう。そういうことがあると思いますけどね。

池上:でもギューちゃんは居着いてしまったと。

篠原:そう、報告書もないし、色んな便宜をはかってくれるしね。例えばリンカーン・センターのクラシックの券をくれたり、ニューヨーク・シティ・バレエの券をくれたりね。「シティ・バレエ? わざわざ白鳥の湖を見にニューヨークに来たわけじゃねえやってんだ、でもちょっと行ってみるか」っていう感じで行くでしょ。みんなリンカーン・センターできちっとしてね、真面目に見てるわけよ、白鳥の湖とか、モーツァルトの音楽なんか聴いてね。俺はどうせただでもらってるから。ロックフェラー3世の奨学金の事務所がくれるわけよ、「お前はこれを見ろ」って。色々ニューヨークやアメリカの文化をね、たくさん経験しろっていうわけなんだね。だから変な経験になったね。

池上:1年間。

篠原:うん。拳骨振りかざして「やるぜ!」って行ったんだけど、全然、相手がちょっと違った雰囲気でね、アメリカってね。

池上:相手が妙に優しいというか。

篠原:うん、優しいんだね。だから逆に色んな経験も出来たしね。日本だったら日比谷公会堂でさ、日響(読売日本交響楽団)とかそんなの見に絶対行かないでしょ。金出して、クラシックなんて。

池上:そうでしょうね。

篠原:誰か有名なオペラ歌手が来ても5千円、1万円なんか出して行かないでしょ。でもこっちだったら、リンカーン・センターやそこらでぼんぼんやってるしね。小沢征爾もその頃だったね、70年代にデビューして。

池上:ロックフェラー3世に直接お会いになったことはなかったですか。

篠原:ないけど、事務所のポーター・マックレイさんが2回、3回ってパーティー開いてくれるし、クリスマスなんかもやってくれるし。「旅行行きたい」って言ったら、旅行の便宜をバーってはかってくれてね。コンピューターのない時代なのに、バーってホテルなんかリスト・アップして、「こことここに行って来い」って。

富井:じゃあ、どこに旅行は行かれたんですか。

篠原:行こうと思っても、車がないからね。その時の女房が車の運転が大好きだったから、「車を借りる金がないんだ」って言ったら「じゃあトヨタかなんかにスポンサーになってもらえばいいじゃない」って。で、トヨタに電話したけど、「何言ってるんだ、この野郎」って感じで、全然(笑)。

池上:相手にされないと。

篠原:それでしょうがないからレンタカーで行ったんだよ。でも、ロサンゼルスまでの全部のスケジュール表を作って行ったんだけど、シカゴ止まりだったね。もうそれ以上お金がなくなっちゃったからさ(笑)。だって赤ん坊連れてるからね。すごかったよ、ハワード・ジョンソン(注:ホテルのチェーン)とか、そういうところのトイレがあるでしょ。トイレってお湯が出るわけよ。そこに赤ん坊浸けてじゃんじゃん洗ってね。みんなやってるんだよね、あれ。

池上:ああ、そうですか。

篠原:うん。「アメリカってすげえいいところだなあ」と思ったなあ。広々してて(笑)。

池上:作品はこちらに来られてから、最初の1年間も作られてましたか。

篠原:うん、靉嘔のロフトで何かやろうっていうんでね、すぐに作ろうと思うんだけど、まず、やっぱり花魁シリーズの延長みたいのをやろうって。何もなかったんだけど、福井延光(のぶあき)くんっていう、今はちゃんと絵描きになってて、すごい親友で僕よりも若い人がいるんだけど、彼が随分と色んなことを面倒見てくれてね。キャンヴァスをね、使い古しっていうか、自分が絵を描いて失敗したキャンヴァスを「ギューちゃん、これ全部やるよ」っていうね、キャンヴァスを彼は一巻きで買って描くわけよ。抽象絵画だからフラットに塗って、「失敗だ」ってパーって切ってポーンってくれるわけ、俺に。寒いからってそれ着て寝てたりね(笑)。

池上:えー(笑)。

篠原:テーブル敷にしたり、被って寝てたら、「裏にしてくれよ」って。「俺の絵が表に出てるとなんか調子悪いよ」なんて言って(笑)。その古キャンを使って、花魁シリーズの色んなものをね、半立体みたいにして作ったりね、がんばって。そしたら川島猛くんが、福井くんもそうなんだけど、みんなシルクスクリーンを作って、100枚単位で作って問屋に卸して、1枚10ドルだから100枚だと1000ドルになるわけよ。

池上:はい。

篠原:それを問屋に卸して、問屋が4人のディーラーを使って、アメリカ中、世界中に撒くわけよね。そうすると、最終的に100ドルくらいで売るわけよ。売値は100ドル、卸し10ドルね。そういう仕事があるわけよね。日本の有名な版画家でもみんなそのアルバイトをやってたらしいね。100枚刷りだから自分で。自分のうちのアトリエの隅にね、シルクスクリーン用のセットを作って、ちょっといじって絵の具つけて、かあちゃんと二人で「よいしょ、よいしょ」ってね。まあ、3色、5色止まりだね。それでやったらいいんじゃないかって。

池上:篠原さんもそれをやってちょっと生活費の足しに。

篠原:うん。僕もそれを習って、福井くんのスタジオで「やったらいいんじゃないか」ってんで、「よし」って。日本の着物を着てて、日本髪に簪を挿してる虎をやろうって言ったんだよね。みんなは「これは無理だ、絶対出来っこねえ」って(笑)。でも「やっちゃえ」って、がしゃがしゃやったわけ。で、子分がまたすぐに手伝いに来て、とにかく100枚のうち50枚は完成したわけよ。みんなびっくりしてね。それをウイリアム・リーバーマン(William Lieberman)が審査員してた小さい版画コンペティションに出したら入選したよね。で、リーバーマンから手紙が来たよ。「なんか困ったことがあったらヘルプしてやるよ」って。

池上:リーバーマンは日本での出会いとか付き合いを覚えてて、よくしてくれたんですね。

篠原:そうそう。ちゃんと覚えてるんだね、あの人。だけど英語も出来ないし、なにをヘルプしてくれって、金くれりゃあいいんだけど、「金くれ」とは言えないしねえ。「ミュージアムで展覧会させてくれ」って言っても、作品ないしね。なんかほとんどすれ違いだったけど、リーバーマンはよく覚えててくれたね。

池上:律儀な方だったんですね。

篠原:うん。アメリカのトップ・レヴェルの人は、そういうところはしっかりしてるね。中途半端なのはないね。だけど来て一番困ったのは、日本では僕は60年代のネオダダとか、前衛の最先端走ってたから、評論家なんか全部知ってて飲み友達だったでしょ。その飲み友達の評論家が「さよなら、行ってらっしゃい」って、羽田に見送りに来たんだけど、ニューヨークに来たら誰も知らないんだよね。

池上:そうですよね。

篠原:うん。美術館の場所も知らないし、評論家も知らなければ学芸員も知らない。美術館のコネクションもゼロなのよ。そういうので、ちょっとね。英語はもちろん、ブロークン・イングリッシュの酷いやつだからさ。パーティーのお呼びなんかゼロだし、トップ・アーティストのコネクションは全然ないよね。あってもトップ中のトップで、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)とか(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)とか、(ジェームス・)ローゼンクィスト(James Rosenquist)が僕らの友達だからね。

池上:日本で会ったとはいえ……

篠原:そうそう。日本で会ったのをそのままこっちに持ってきてるんだから。あと、リーバーマンと、ジョージ・モンゴメリー(Geroge Montgomery)っていうMoMAのキュレーターが日本に何回も来てたから。その5人だね。ジョージはなんか色々とヘルプしてくれたけどね。

池上:ジョーンズとかラウシェンバーグなんかとこっちで会ったりとかいうことは。

篠原:うーんとね、1回、東野さんがわりに足繁くニューヨークに通ってたからね、東野、僕、荒川(修作)で、「すぐ来い」って言うんで、ジョーンズがまだハウストン・ストリート(Houston Street)の銀行の跡地のスタジオにいた時に行ったよ。それでディナーみたいなのがあって。その時にジョーンズが、僕の《ドリンク・モア》を持ってたんだな。

池上:それは1964年にジョーンズが来た時に篠原さんがあげたんですね。

篠原:そう。それをちゃんと持って帰ったんだね、荷造りして。あんな石膏でガタガタなものをね。だから律儀な奴だなあと。それをね、僕が初めて69年に来て、それから70年に東野さんと行った時にね、「ウェルカム」って飾ってくれんのよ。

池上:わあ、優しいですね。

篠原:そういう時にまた感動よね。「ああ、アメリカ人のトップってなかなか気が利くなあ。いいところあるねえ」って。それでゲストを呼ぶ場合に「来いよ、一杯飲もうよ」っていうんじゃなくて、ちゃんと料理を作って。

池上:心遣いというか。

篠原:うん。お手伝いの人がちゃんと来てて、それで料理作って、みんなに配ってね。その時にお皿がジャスパーの前に置いてあって、彼が一枚ずつこういう風にみんなにあげるんだよね。

池上:彼は料理が得意らしいですね。

篠原:ふーん。そういうマナーがいいよね。セレモニーがそういう小さなところでもあるからね。「ははあ」と思ってね。

池上:今でもその作品は持ってらっしゃるんでしょうか。

篠原:あるよ。この間バーバラ・キャステリ(Barbara Castelli)の画廊で日本展をやった時にジャスパーが持って来たの。

池上:あ、そうですか。見たいですね。

篠原:びっくりしたよ。バーバラはその時もちゃんと飾ったよ。ジョーンズも来てね、笑ってたけどね。だから1960年代のコカコーラがまだ中に入ってる。そのまんま蓋閉めてるから(笑)。

池上:中はどんなことになってるんでしょうね(笑)。

篠原:まあ、発泡はないけどね。何か入ってるよ。

富井:そうですか(笑)。

篠原:それでね、ラウシェンバーグが来た時にも、僕が作った《コカコーラ・プラン》をあげたんだよね。でも彼は草月に置いて行っちゃったみたいね。

池上:ああ、そうですか。それは残念。

篠原:それは誰か持って行っちゃったからさ。行方不明になっちゃった。

池上:1970年代に入って、こちらでオートバイ彫刻っていうのを作り始めるんですけど。《モーターサイクル・ママ》が最初のオートバイ彫刻になるんでしょうか。

篠原:そうそう。あれはね、ジョージ・モンゴメリーが日本人だけの展覧会をやって。どこだったかなあ、ミッドタウンのビルディング。

池上:ユニオン・カーバイド・ビルですね。

篠原:ユニオン・カーバイド・ビルか。あそこのスペースでコンペティションやろうっていうんで、彼が審査員呼んできて、地元の人がみんな集まってね。

池上:なんか、日本人作家展っていう。

篠原:そう、日本人作家展。で、一等、二等を決めようってね。

池上:それはジョージ・モンゴメリーが企画した。

篠原:ノーノー、企画は日本人の何とかさんっていう女性。

池上:ああ、そうですか。で、審査員にモンゴメリーを呼んできた。

篠原:そう、呼んできた。

池上:それで《モーターサイクル・ママ》で一等賞を取られるんですけど。(注:出品当時は《Yellow Angel》という題で発表された)

篠原:ジョージと僕は日本からの仲だからさ。

池上:いや、でも付き合いだけで賞をあげるわけじゃないですよね。

篠原:それは、僕は日本からのトップ・センスだって、ダーンって作ったでしょ。どうしてオートバイ作るかっていうのは別問題として、技術的にもね、拾ってきたダンボールとか、接着剤なんかないから、糊のついたテープで貼ったりなんかして、とにかくすごいのを作ったわけよ。その時はもう、燃えてるから。で、シンメトリーが僕は大嫌いだからね、乗ってる人を二つに切っちゃって、こっちは鼻の高いファッションした男で、半分からこっちは肉体的な女性を、ブーツも何も全部半分に分けて、それが跨ってるっていう……

池上:両性具有みたいな感じの人物が乗ってるわけですね。

篠原:そうそう。僕はミニマリズムじゃなくて、マキシマリズムだから、もう「これでもか」っていう風に変化つけたわけよ。そうすると、ただ1人の人物が乗ってるんじゃ面白くないわけね。それがバラバラになって、色んなファッションでないと。次に作ったのも背中に兵隊の格好した子供乗せたり、兎と蛙とか、もうぐしゃぐしゃにしないと気が済まないんだよね。

富井:材料はキャナル・ストリートで拾って来たんですか、それとも買って来たんですか。

篠原:段ボールは買えないから、その時は1枚幾らだからね。今は100枚単位で買えるけどさ、その時は全部拾ってくるの。カード・ボード(注:段ボールのこと)ってさ、アメリカでは梱包にやたらと使うんだよね。特に生地屋ね。アメリカの反物屋は日本とちょっと違うけど、その段ボールに放り込んで運送するんだね。それを畳んだのがバーって山積みになってて、それを紙だけを頂くっていう、廃品回収業のガーベッジ・トラックが来て持って行くわけよ。

富井:じゃあ、粗大産業ごみですね。

篠原:うちはキャナルのこっち側のハワード(Howard Street)っていう汚い通りなんだけど、クリスト(Christo)も住んでるんだね。僕が25番で、クリストは48番かな。その通りはちょっと短くてさ、浮浪者とかいて、汚い通りなんだよね。ごみなんか捨てていく所なんだよ。だから生地の中に入ってる心棒あるでしょ、あれなんかもう、10個、20個って束で置いてあるし、洋服掛けの針金なんか山積みだよね。何千個って捨ててあるの。

富井:じゃあ、それが材料の宝庫。

篠原:そう。それを子分が酔っ払ったあと帰ってきて「先生、ありました!」って言うんだよね。「よし、持って来い!」って、全部上でゾロゾロって持ってきてアトリエにドーンって放り込むわけよ。もう綺麗とか汚いとか、そんなの全然関係ないね(笑)。酔っ払いのおしっこなんかひっかかってたりしても、そんなの平気だもんね。若さってすごいよね。やっぱり燃えてたんだね。何か作ろうってんでね。

池上:それでオートバイ彫刻を始められて。このモティーフはどういう風に着目したんでしょうか。

篠原:オートバイはね、マーロン・ブランドの「The Wild One」って映画もあるんだけど、白黒の映画でね(注:邦題は『乱暴者』、1953年公開)。あんなのを見てたし、それからヘルズ・エンジェルズみたいな奴らがキャナル・ストリートにもちょこちょこ来てたしね。イースト・ヴィレッジにもいたみたいね、昔は。

池上:東京にはない、アメリカに来て発見した風物っていう感じで。

篠原:そう。1970年、71年ぐらいだからね。それで奴らが団体でキャナルのところ通ったりなんかしてるからね。それがみんな汚いんだよね、磨かないから。

池上:バイクが。

篠原:そう。改造バイクで、錆びだらけでね。それに汚ねえブーツで髭もじゃの奴が全員頭に鉢巻して、信号無視してズラーっと、20、30台で動くとね、「これ何だろう」っていう感じでね(笑)。「お巡りはどこにいるのかなあ」って思うんだよね。そういうアメリカのヴァイオレンスっていうか、暴力的な、マッチョ的なところもあったね、キャナル・ストリート近辺には。そういうのは日本とは全く違うよね。

池上:で、この日本人作家展の後、ニューヨークでは作品発表の機会っていうのはありましたか。

篠原:ゼロ。

池上:なかったですか。

篠原:基本的にはゼロだね。僕は画廊とのやりとりが出来ないし、作品も自己主張が強すぎて。やっぱりジャポニカ的なものが主流だったからね、在米日本人の間では。岡田謙三、イサム・ノグチから始まってね。僕は終戦後の文化から、しかもアメリカ志向の文化でものを作ってたから、全然違うし。それからバーでお酒飲む場合も、日本だったら量ったりするけど、こっちは手酌で注ぐでしょ。飲みっぷりがいいと、3杯目に1杯がただになったりね。バーテンとのやりとりも、会話がなくても、粋で格好いいんだよね。注ぎっぷりもね。お酒の種類も多いしさ。「これがマイク・ハマーの飲んだ酒か」とか、「チャンドラーのあいつが飲んでた酒だ」とか、何でも一杯あるわけ。汚なーいバーテンが、ぐちゃぐちゃに作ってくれるわけよね、汚い手でね(笑)。

富井:じゃあ、やっぱりダウンタウンですね。

篠原:ダウンタウン。そう、ブロードウェイのキャナル近辺ね、昔のだよ。今はもうチャイナ・タウンで、ピカピカになってるからね。それで酔っ払いのぐちょぐちょの奴がいて、そいつがファースト・ナショナル・シティ・バンクのクラークなんだよね。それがアル中になっちゃって、バーテンのアルバイトやってるんだよ。その時、誰か日本から来た奴が100ドル札持ってて、僕が「100ドルだよ、お釣りある」って言ったら、「まかしとけ!俺はバンクで働いてたんだよ」って、ピーピーってレジ打ちをその奴がやったりね。そいつどうなったかなあ。滅茶苦茶になって死んだんじゃない(笑)。

池上:転落しちゃったんですね(苦笑)。ところで、今の奥様の、乃り子さんとはその頃出会われたんでしょうか。

篠原:そうだね。彼女は岡田謙三を頼って富山県から出てきたんだけどね。岡田謙三が持ってたウェスト・ヴィレッジのアパートの一つを借りて。岡田さんはもう別の持ってるから、アルバニーの方にね。

池上:出会ったのは1970年前後ですか。

篠原:いやいや、ずっと後だよ。75、76年かなあ。彼女に聞かないとわかんないけどね。

池上:でもアレックスが生まれたのが1974年ぐらいですよね。

篠原:え!? そんな時に生まれちゃったの、アレックスが?

富井:だって乃り子さんの話だと、確か乃り子さんが来て、最初はアート・スクールに一生懸命通ってがんばってたら、どういうわけかギューちゃんと知り合ってしまって(笑)。だからわりと乃り子さん来てすぐじゃないかなと思いますけどもね。

篠原:そうだね。アート・ステューデンツ・リーグ(Art Students League)で勉強してて、学生ビザで来てたんだね。

富井:で、すぐにアレックスが出来てしまったということだったんじゃないかと思うんですけども。

池上:じゃあ1971、72年とかそのあたりに知り合われたわけですか。

篠原:そう、2年だろうなあ。1年はちょっと無理だから、2年か3年っていうところだね。

池上:知り合われた当初、彼女の作品はどういう風にご覧になりましたか。

篠原:うーん、何も…… 

池上:作家っていうよりは、かわいいと思って接しておられたんでしょうか(笑)。

篠原:うーん、だから、やっぱり一人より二人で共同生活したほうが、ロフトの家賃とか生活費とか、そういうものが経済的でいいじゃない。絵の具もあるし、情報も多いしね。で、彼女はやっぱり仕送りでやってたからね。僕はゼロだったから。

富井:それを頼ってたんだ(笑)。

篠原:仕送り700ドルっていうね。本当は、それは言っちゃいけないんだけど(笑)。

池上:いいんでしょうか、そんなこと言って。今のは照れが入ってるということで(笑)。

富井:大金ですよね、700ドルっていったら、当時。

池上:で、アレックスが1974年に生まれて、家族を持ったことで制作に何か変化っていうのはありましたか。

篠原:どうかなあ。別に全然ないっていうか、子供が生まれたのは、ヴィレッジのセント・ヴィンセント・ホスピタル。取り巻き連中で車を持ってる奴がいるから、お産の時に「これは大変だ、それ行け」って、僕が予約して行って、生まれて、みんなで名前つけて。それで家を少しは綺麗にしなきゃって、部屋の隅をちょっと綺麗にしてね、そこにアレックスを寝かせて。彼女も若いし僕も一から始めるでしょ。何でもニューヨークの生活は僕にとっても一から始めてるんだよね。子育ても一から始めて。まあ、日本に1人いたんだけど。それはもう親任せ、女房任せだったけど、今度はミルクを何飲ませていいかわかんないとか、食い物とかね。そういうのもあったし。僕は前の女房に子供が1人いて、その経験があるから少しは分かるけど。それでも酒を飲むでしょ。酒を飲んでみんなでワーって帰って来て、子供がギャーって泣いてっていうね。いわゆる貧乏長屋ね、日本の。

富井:貧乏長屋のニューヨーク版ですか。

篠原:ニューヨーク版だね、ありゃあ(笑)。「馬鹿野郎!」なんて言ってね。「また泣いてるじゃねえか」って。「ミルクが足んねえんだ」とかね(笑)。

富井:じゃあ「ミルクを買うお金は?」みたいなやり取りがあるわけですか。

篠原:そうそう。「あなたがお酒飲んじゃったじゃない」っていうことになってね(笑)。でも僕が得してるなあと思うのは、また田名網敬一くんの話なんだけど、1970年くらいに、彼は集英社や小学館の連中とすごく大きな仕事をしてたから、その関係で僕もそういう編集の人たちと親しくなってくるわけよ。それで日本でも雑誌が増えてきて、ニューヨーク取材っていうのが段々多くなってくるの。それで田名網くんの紹介で「篠原くんのところに行ったらすげえぞ」っていうんで、うちに来るわけね。

富井:取材の人が。

篠原:そう、僕を取材するんじゃないんだけど。そうすると「あっ!」と驚くわけよ、「すげえ!」ってね。彼らはみんなヒルトンとかいいところに泊まってるんだけど、うちに泊めてくれっていう奴が来るのよ。こっちのほうが面白いから。

富井:マジに?

篠原:うん、マジに。で、そっちは置いといて僕のところに泊まってね。編集部の人でSさんっていうのがいて、その人は酒好きだから「一緒に飲みましょう」って。その頃アメリカのバーって、夜は朝の4時までやってるんだよね。「ああ、もう終わりかあ」って帰ってくるわけね。「明日の朝何時から? 12時から?」、「いや、朝の8時からですよ」って。「ええ? 4時から8時まで?」って、うちに帰ってうろうろしてたら、もう朝の8時になるんだよね。そしたら「じゃあ、ちょっといきますか、一杯」って(笑)。何やってんだって(笑)。それで編集部から電話がかかってくるの、うちに。で、乃り子がバーにかけてくるんだよね、「Sさん、東京から電話ですよ」って。ホテルにいないから東京の本部が一生懸命探してるんだよね。うちにいて、「何するんだったっけ、今日は」なんて言って。

富井:じゃあ、ギューちゃんは取材手伝ってあげたりとかしてたんですか。

篠原:いや、全然。僕は目が悪いし、写真機できないし。うちのスタジオ借りて、ちょっとやろうとか、そういうのはあったけど、僕んちは取材のネタにはならなかったね。ゼロ。だからお金は置いていかないんだけど。あ、でもなんか置いていってたね、一泊幾らでね。

富井:取ってたんじゃないですか、じゃあ(笑)。

篠原:俺はそんなことでは取れないよ(笑)。

池上:あちらがお礼というか、そんな形で置いて行かれたわけですよね。

篠原:そうそう。日本からの情報も速いし。

池上:案内役なんかも結局されてたわけですよね。

篠原:そうだね、ちょこっとね。マンハッタンあたりだったらできたからね。だからわりに便利屋で、段々雑誌が良くなってくると、大きな取材をやってたね。ファッション・グラビアで10ページとかいって、トップのカメラマンが来てやってたよ。一緒に飲んだけど。

池上:また制作発表の話をお聞きするんですが、さっき発表の機会はあまりなかったとおっしゃってたんですけど、アズマ・ギャラリー(Azuma Gallery)っていうところで何回かされてるみたいなんですけど。これはどういうギャラリーなんですか。

篠原:東典男さんっていって(注:1960年代からニューヨークで活動、2007年没)、やっぱり先輩で、新妻実さんとか岡田謙三さんとか、イサムさんとか、そういう世代の人だね。よくニューヨークでも「陸軍幼年学校の夢を見ますよ」って言ってたもんね。そういうしっかりした人で、シルクスクリーンの版画でもキャンヴァスに油絵の具で刷ってね。

池上:作家でもあった方なんですか。

篠原:そうそう、もちろんそうだよ。

池上:ギャラリーもやっていて。

篠原:うん、その以前。ギャラリーはずっと後の話だね。

池上:ああ、そうですか。

篠原:ベン・ニコルソン(Ben Nicholson)ていう、イギリスの作家がいるのよ、抽象絵画で丸とかそういうものを描いてた。彼の作品はあの感じなんだよね。ああいう、ちょっとシンプルなアブストラクトに滲みみたいなものをシルクスクリーンで刷って。シルクスクリーンっていうのはポスターだから、基本はハード・エッジなんだよね。ところが絵の具になんかを混ぜてね、ぐちょってやって、特別な東典男流儀のものを作ったわけよ。それをキャンヴァスに刷るわけ。それで、ディーラーがトラックで取りに来るぐらい売れてたわけよ。忽ちもう、ミリオネアになって。

池上:へえ、そうですか。それでギャラリーを開かれたんですか。

篠原:そう。これからは自分の趣味をっていうんで、今のグリーン・ストリート(Greene Street)とハウストンの傍のでかいビルを借りて、そこに「アズマ画廊」って。

池上:随分景気のいい方だったんですね。

篠原:うん、一番景気のいい時だったね。それで自分の趣味で集めてる骨董やなんかも並べて、その間に日本人の作家展をやろうじゃないかって。それで僕も申し込みに行って、まけてもらって。僕とクーシー増田っていう奴がいて、二人で申し込みに行って、それでやったんですよ。それが一番初めだね。その時にオートバイやなんか出したの。作り貯めたやつを。そしたらイサム・ノグチさんが近藤竜男と一緒に見に来て、「はー、乗ってる人は全部女性ですね」って。変なところに目つけるなあって思って(笑)。良いとか悪いとかじゃなくて。イサムさんの石と俺の段ボール・オートバイじゃ水と油なんだけど、「乗ってるのは全部女性ですね」って。

池上:そういうコメントを残して。

篠原:それから流政之さんも来たんだけど、流さんはね、もうはっきりしてるんだよね。「なんだお前、これ」ってね。「お前、花魁やったら食えるぞ」ってね。「花魁は国際的だよ、これじゃだめだ」って(笑)。

池上:だめって言われてしまったんですか。

篠原:だめとは言わなかったど、なんか「花魁だ、花魁だ」って言ってたね。でも花魁はもうやめちゃったからさ。

池上:やっぱり日本的なものの方が受けるんじゃないかっていうアドヴァイスですか。

篠原:うん、顔の真っ白けな花魁シリーズは流さんの目から見ても、「こいつはいける」って、ピンときたんじゃない。でも花魁はもう作んないから、日本の美術館でも5、6点しかないよね。面白いね、そういうところは。

富井:花魁のシルクスクリーンも作っておられましたよね。

篠原:うん。あれは東京画廊が作ったの。東京画廊が版画屋を呼んで来てね。それは中原(佑介)さんが館長になってる兵庫県立美術館に、オリジナルもあるし、版画もあるね。

池上:その後、西村画廊でも1975年に個展を開かれていて、これは渡米して最初の帰国展。

篠原:西村画廊は、そうだね、初めて。僕の作ってた版画とかドローイングを出した。

池上:その時は帰国されたんですか。

篠原:いや、全然。

池上:作品だけ送られたんですか。

篠原:もちろん。

池上:それで、反響なんかは篠原さんのほうには伝わって来ましたか。

篠原:西村はね、ちょっと覚えてないんだけど、2、3回やったと思う。1番すごいのはね、小品なんだけど、コラージュで色んなものを切り抜いたり、くっつけたり、そういうすごいのをやったのよ。田名網敬一くんが西村さんの友達で、紹介したのは彼だからね。カタログの小さいのも作ったし。その時に僕はもう作品全部送って。そしたら、「紅花」(注:ニューヨークにある有名な鉄板焼きレストラン)に斉藤さんっていうゼネラル・マネージャーがいたわけよ。それがものすごく面白い人で、早稲田の商科を卒業してんだけど、すごく気が合うんだよね。その人が朝日新聞見て、「ギューちゃん、出てるじゃない」って言うんだよ。

池上・富井:へえ。

篠原:紅花は日本レストランだから朝日新聞が置いてあったんだけど、その夕刊に出てたのよ、写真入りでドカーンと。それでタイトルが「米社会の熱気と混沌」って書いてある。もう、格好いい文章で書いてあるわけよ。「すげー」って。斉藤さんはまた人の良い人で、「ギューちゃん、じゃあ小遣いやるよ」って、500ドルか700ドルくれたんだね。「来月分の家賃だ」とか言って。

池上:まあ、気前がいい。

篠原:すごいよね。その人は、最後は色々あって、行方不明になっちゃうんだけどね(笑)。ロッキー青木の(注:「紅花」の創業者)、右腕。ロッキー青木と全然違うんだよ、太っ腹でさ。金がないから太っ腹なんだろうね。その人が僕のハワード・ストリートのロフトに色んな人を連れて来てくれたのよ。ていうのは、「紅花」はロッキーのヘッド・クォーターで有名だから。それで勝新太郎とか赤塚不二夫とか、そういう有名人がロッキーのところで食事をすると、斉藤マネージャーが必ず「ダウンタウンに面白いのがいるから行こう」って、それでうちに来るんだよね。

富井:なるほど。

篠原:僕の家にはもう居候が10人ぐらいいて、飢えた孤児だよ、全員。酒も何にもない。それで斉藤さんから電話がかかって来るんだよ。「ギューちゃん、赤塚不二夫さんですけど」って。それで「酒も何にもないよ」って言ったら、「それじゃ、持っていきますよ」って言って、ジョニ黒かなんか持って来るわけ、ドーンってね。居候も「ゴックン」よね、これはすごいって。それでパーティーをやって、よかちんをやって、もう何にもないから裸踊りを見せるとみんな喜ぶんだよね。

池上:そうですか(笑)。

篠原:で、居候の1人にテナー・サックス吹く奴がいて、「じゃあ、お前何か吹けよ」って言ったら、ちんどん屋のイントロ吹くわけ。「たったらー、たららららー」って吹くわけ。それで「はい!」ってよかちんやるわけ。赤塚さん、もう泣いて喜んでね。1週間後にまた電話かかってきてね、「200ドル持って行くからもう1回やってくれ」って(笑)。

富井:ギューちゃん、エンターテイメントじゃないですか、それじゃあ(笑)。

篠原:「これはすごい!」ってね(笑)。そのお金でまた食い物買ってね。そんなのがあったよ、ずっと。居候は1日1ドルの家賃でうちに泊まってるから。1日1ドルで、前金30ドル。半月は15ドル。それでも家賃払わないで溜めてね。大家がイタリアンなんだけど、葉巻吸って映画のマフィアを気取ってるわけよ。汚ねえところでがちゃがちゃってね。それと随分長いこと付き合って、最後は1年間待っててくれたもんね。

池上:家賃を。

篠原:うん。ていうのは、僕はビルディングの3階にいたんだけど、3階には人が住んでないことになってたらしいんだよね。だからメーターがないんだよね。

池上:本当は住んじゃいけないようなスペースだったんですか。

篠原:よく分からないんだけどね。だから電気代の請求が来ないのよ。電気代タダ。で、ガスはもともと来てないから。

富井:でもそれじゃあ生活は不便だったと思いますけど(笑)。

篠原:そうだね(笑)。お湯沸かすのも何も電気だからね。鉄板焼き、全部。体に悪いよね、何でもかんでも鉄板焼きだから。

池上:そうですね。それで西村画廊での個展の後、ニューヨークで制作して日本の画廊や美術館で展示するっていう発表方法が割と多くなっていったようなんですけど。

篠原:そうだね。西村さんの後、西村さんのスタイルと僕はちょっと合わないんじゃないかっていうんで。僕はまたすぐに個展をしたいから。西村さんはもう少しゆっくりして、それで次っていう風に考えてたと思うんだけど。それで今度山口画廊(注:ギャラリー山口)っていうのがスタートして、評論家なんかも行くから、そこがいいんじゃないかって。随分手紙書いて、「じゃあ、やろう」って。それで山口画廊でまたパーってやったんだよね。やっぱり小品でね。

池上:アメリカで制作して日本で見せるっていうやり方は自然とそういう風になっていったんですか。

篠原:そうそう、自然と。僕はもちろん、西村さんの時も日本に帰れないし、山口画廊の第1回展ももちろん帰れないよね。金は全然ないしね、赤ん坊抱えて。飛行機代も高いし、円とドルのレートが今とは違うからさ。

富井:そうですね。昔は飛行機代も高かったですからね。

篠原:途中でアンカレッジで止まったりね。

池上:そういう風に日本での発表も続いていたんですが、1982年にファウンデーション・ギャラリー(Foundation Gallery)っていう、ニューヨークの本格的な画廊から初めて個展の依頼があったっていうことで。

篠原:トライベッカにファウンデーション画廊っていうのがあって、本格的じゃないんだよ、それ。

池上:あ、そうですか。

篠原:うん。女性が趣味でスタートして、そこのディレクターが僕の知り合いだったんだよね、若い兄ちゃんでね。それで、俺のところに来て「何かやんないか」って言うんでね。「画廊はもうスタートしてて、売れるか売れないか全然わかんないけど、何かやろう」、「じゃあ、やろうか」って。絵はたくさん描きたくてうずうずしてたからね。その時にジャパン・ソサイエティーのランド・カスティール(Rand Castile)とアシスタントの大田久、その二人が俺のところに見に来てたのよ。大田さんは日本人で、酒飲みで僕とも気が合うようになるんだけど、バーっと見てね。それでジャパン・ソサイエティーのほうが動き出したんだね、僕の個展に向けて。

池上:同じ年の9月にジャパン・ハウス・ギャラリー(Japan House Gallery)でも個展をしてるんですよね。

篠原:そう、同じ年だね。ファウンデーション画廊が2月頃だね。それでそこにランド・カスティールも見に来て、「これはいける」ってんで、ガーっていったんだよね。

池上:じゃあ、この年はわりと篠原さんにとっては大きい転機になる年ですか。

篠原:そうだね。もう、作り貯めたものがたくさんあったしね。

池上:日本で発表するのもいいけど、やっぱりニューヨークで発表するっていうのは大きいんでしょうか。

篠原:いや、僕はよくそういう風に聞かれるんだけどね、頭でもって考えられないのよ、日本がいい、ニューヨークがいいって。もう出鱈目に、ちょっとした便所の横でもいいから絵を並べてくれっていう感じだからさ。

池上:発表できたらどこでもいい、話が来たからそれを受けているっていう感じで。

篠原:どこでもいい、なんでも。藁をもつかめの感じだね。選ばないよ、全然。

池上:もう、どこでも何でも見せますという感じですか。

篠原:うん、そうだね。山口画廊だって、画廊の柿落しだからね。西村画廊の場合も、僕は行けなかったけど、僕の展覧会だっていうので東野芳明さんとか、中原さんもいたかな、色んな評論家連中がオープニングにワーって集まって、写真を撮って送ってくれたけどね。「わあ、随分集まったなあ」っていう感じで。『美術手帖』の宮澤壯佳とか小野耕世、合田佐和子、みんなズラーっと来てたよ。だから逆にそういうの見てると、東京のほうが反応が速いでしょ。それが僕のサインになっちゃったんだね。速いし、メディアがすぐに飛びついてきて書いてくれるし。『ニューヨーク・タイムズ』はゼロだけど、東京はわりに写真なんか撮って、話題にしてくれたでしょ。『美術手帖』もカラーでやったりね。だから僕の気持ちとしては、東京のほうが反応が速いね。パッパッってね。

池上:物理的にそこにいなくても、そういう形でずっと繋がっているっていう感じですか。

篠原:そうそう。それに日本人の勢いが段々激しくなってくるからね。情報がうんと短期間に入ってくるでしょ。

池上:でも、そこで別に日本に帰ろうとは思わないで、ニューヨークでずっとやっていこうっていう風に思われた。

篠原:それはもう、出たとこ勝負だから。もしもニューヨーク追い出されたらイタリアに行くかもしれないし。それは世界のどこだってよかったのよ。ていうのは、60年代の前衛やってる僕たちの気持ちっていうのは、どこでもいいから行こうっていう感じでね。工藤(哲巳)が最初にパリに行ったんだけど、ブラジルに行った奴もいたし。メキシコ、ブラジルあたりは、なかなか遠すぎてね、音信不通っていうか、情報が遅くなるんだけどね。やっぱりニューヨークとかパリが多いよね。ベルリンに行った奴もいるけど、パリはやっぱり相当いるよね。ニューヨークかパリ。

池上:拠点としてはずっとニューヨークにいらっしゃるんですけど、渡米した後、旅行にもたくさん行かれてますよね。

篠原:いや、旅行は全然行けないよ。だって車ないし。

池上:マイアミだったり、バハマだったり。

篠原:マイアミはね、その頃友達がいたのよ。ソニーのセールス・ガールで、宮本美智子さんっていうのがいて。その人の旦那は絵が好きで、僕のファンで、シルクスクリーンを買ったりしてたんだけど、ぼろいのがあるからって車をくれたわけ。それで居候を乗っけて「じゃあ、どこか行こう」ってね。それで、とにかく南に行こうって。僕は南が好きだから、暖かいからね。12月の厳寒の時にそこに4人乗って行ったのよ。荷物はラーメン1箱30個の一番安いやつ。1個13セントぐらいのやつね。あとギター1つとゴザと、そんなもんかな。あとカメラと(笑)。それでとにかく「南に向かって行け」って言ってね。それで着いたんだけどね、マイアミに。

富井:それは女房、子供置いて居候さんと4人で。

篠原:その時はね、最初の女房がもう帰っちゃったんだ。「ニューヨークはもうたまらん」って言ってね。子供連れて。それで僕は独身だったんだね。

富井:ああ、なるほど。

篠原:だからそんな勝手なこと出来たんだね。それで一人50ドルずつ集めて、4人だから200ドルでそれをガソリン代にして、ダーっと行ってね。マイアミ、フロリダに着いてオレンジをまずたらふく食って。スクランブル・エッグなんていうのは外じゃ食えないからね、もう大変だったよ(笑)。僕は釣りが大好きで、釣竿をいつも持ってるのよ。それで、ぽーんとフロリダのどこかの汚ねえところに放り込んだらすごいでかい鯛が釣れたんだよね。「そら食え!」って、公園のバーベキューでバナナの枯葉をぶっ込んで焼いて食ったよね。それからずうっとキーウエストまで行ったのよ、どんどん。

池上:もう冒険旅行ですよね。

篠原:まあね。今考えると冒険旅行だね。キーウエストで元旦のご来光を拝んだんだけど、もうロマンチックじゃなかった、腹減っててね(笑)。「あれか」なんて。みんなマリファナ吸ってぼーっとしてたけどさ。それが初めての南国体験で。それからもう一気に絵がバーンって明るくなってね。

富井:やっぱり。

篠原:うん、たちまちもう、椰子の葉とかね、魚とかどんどん。

池上:やっぱり出かけた土地で受けたインスピレーションが作品に反映されるっていうことは結構多いと思うんですけど。

篠原:うん、ほとんどそれだね。だから健康なんだね。体が太陽とか陽の光とか美味しいものとかに反応して。それから1杯の酒。キーウエストっていうのは、「ヘミングウェイ」っていうバーばっかりなんだよね。

池上:そうですか。

篠原:ヘミングウェイなんか読んだことないけど、名前は知ってるから「またここもヘミングウェイか」ってね(笑)。そういうので、すごくアメリカのカルチャーを体験出来て、段々のめり込んで行くんだね。だからエドワード・ホッパー(Edward Hopper)に僕が目をつけたのもそういう体験からだね。

池上:やっぱりアメリカ独特の体験ということで。

篠原:うん。アメリカの郊外に出て、車でバーって行って、小さな町々があってね。なんか、すごくしょぼくれてる感じもあるじゃない。でかいのがバーンって建ってるパリとかとは全然別でね。まあパリは行ったことなかったんだけど、マンハッタンとも違ってね、低い。それでみんながおとなしそうに生活してるっていう。

池上:寂しくしているような感じですよね。

篠原:そうそう、なんとなくね。それとエドワード・ホッパーの絵がね、すごくピタッときて、「あ、これを彼は描こうとしたんだなあ」って思ってね。

富井:じゃあ、やっぱり旅行しないとわかりませんね。

篠原:わかんなかったね。だってエドワード・ホッパーの地位っていうのは、日本に僕がいた頃はゼロだったからね。全部アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)だ、ジャスパーだって、もうワーってあっちに進んで、ホッパーなんて誰も知らなかった。

池上:ホッパーの話が出たのでお聞きしますが、ちょっと時代が下りますけど、1988年に「エドワード・ホッパーに捧げるオマージュ」っていう展覧会に出品されて。

篠原:ああ、ゲイル・レヴィン(Gail Levin)がやったやつね。バルーク・カレッジの展示場みたいなところで(注:Baruch College Gallery)。

池上:それに出品されたきっかけっていうのはどういうところにあったんですか。

篠原:それはね、ジャパン・ソサイエティーの僕の個展に、《花見(Flower Viewing)》っていう作品があったわけよ。それは大作なんだけど、僕は右から左に描くのが得意なのね。キャンヴァスはでかいのが好きだから。「左から右」とか「全体の構図」っていうのは絶対しないのよ。例えば下絵で構図を作って左の方とか右の方とか、ピカソの《ゲルニカ》みたいに全体から攻めて行くんじゃなくて、端っこからどんどん物語的に左に向かって行く。それはボクシング・ペインティングも同じなのよ。右から左にダーっと。だから一番右のスタートを何にしようかと思って、エドワード・ホッパーのガソリン・スタンドがいいなと思ったのね。あれは白くてすごく綺麗でね。その前にあちこち行ってるから、ホッパーがすごく好きになって、そこからスタートしたんだよね。それからどんどんイメージが発展して、最後は日本の平安時代の殿上人の館になっていくわけ。そういうストーリーになったんだよね、あれ。

池上:それは依頼されてその作品を制作したんですか。

篠原:そうじゃないよ。ジャパン・ソサイエティーのランドが展覧会を決めてくれたんで、「よし、一発すげえのでいこう」って思ってね、それが一つ。

池上:それで、その《花見》がゲイル・レヴィンの目に留まったということですか。

篠原:そうそう。それを衝立屏風の形にして展示したわけ。そしたらゲイルが来て。僕は全然知らなかったんだけど、誰かが「篠原ー! ゲイルがお前の絵のところでじっとしてるからちょっと来い」って言うんだよね。そしたらでかい女性がいて、「あなたはなんでホッパーを描くのか」って言ったらしいんだけど、その英語が全然分かんなくて(笑)。「何でもかんでも描いたんだ」って。それから彼女がすごくうちに来るようになってね。

池上:興味もってくれたわけですね。

篠原:うん、そう。彼女もホッパーについての専門家で、ホイットニー美術館のキュレーターの頃だからね。

池上:本も随分出されてますからね。

篠原: すごく僕に興味持ったんじゃないの。「東洋の変な野郎がなんでこんなにバンバン描くんだ、うちの宝を」って(笑)。それでうちに来た時に、僕が「ホッパーとは俳句である。少ない表現で大きな意味がある」って、「Small words, but big meaning」って言ったんだろうな。それを彼女が「おお!」ってびっくり仰天してね。「俳句か!」って、「知らなかった?」っていう感じなんだけどさ(笑)。

池上:感銘を受けたわけですね。

篠原:うん。俳句っていうのは、わりに効くんだよね、アメリカのインテリには。

富井:英語で俳句もありますしね、五・七・五で。日本語だと「あいうえお」で5音ですけど、英語の場合はシラブルだからちょっと違うんですけど。

池上:それで、ニューヨークにずっと根付いてこられて、小説も『ニューヨークの次郎長』とか、画文集の『ニューヨークは今日も大変だ!』っていう本なんかも出版されるんですけど、これはやっぱり日本の出版社の方から話があったんでしょうか。

篠原:うん、講談社。講談社に内田勝っていう人がいて、小野耕世と二人でうちに遊びに来るんだけど、『少年マガジン』の編集長だったの。彼は、水木しげるとか貸本漫画の作家をピック・アップして育てて、『あしたのジョー』のちばてつやも育てて、『少年マガジン』にもっていく、その仕掛け人なのよ。内田さんがうちに来た時は編集長を首になっててね、詰め腹を切らされて。どうしてかっていうと、横尾忠則に表紙を頼んで2、3回描かせたところで、三島由紀夫が自殺しちゃったんだよね。それで横尾は三島由紀夫と友達だから、絵が描けなくなっちゃったんだよね。それで内田さんのところに来て「私は絵は描けない」、「表紙が描けなきゃ本が出ないから、頼む」って。「真っ白の表紙で色を使わないで描きますよ。知りませんよ、どうなっても」って。「構わねえ、やれ!」って言うんで、やったら真っ白な表紙で、重役会議で大騒ぎになって(笑)。

池上:それは白紙ってことですね。

篠原:うん(笑)。それで「内田くん、君はクビだ」って。それで講談社の中の違ったところに移って、うちに来るんだけど、それが僕の大親友になって。僕はどおくまんの『嗚呼!!花の応援団』とか、そういうのが大好きで見てたからね、それですぐ友達になって。その内田さんが僕に「本書かない?」って言うんだよ。「待ってました!」っていう感じだよね。「来るだろうって思ったんだよね」って言ったら、「よし、いこう」って。「まずは挿絵からいくかな」って挿絵をバンバン描いてたわけ。で、「前衛東海道」っていう風に名前つけて、「東海道の清水次郎長一家を中心にした前衛の本にしたい」って言ったらさ、「それじゃ」って、内田さんが広沢虎造の清水次郎長の浪花節をどーんと送ってくるわけ。神田伯山っていうのが台本書いてるんだけどね。それとニューヨークの貧乏長屋と一緒にするとピタッとくるんだよね。「勝五郎の義心」って、親分に世話になったから何とか恩返しをしたいけど、勝五郎も腹が減ってうちに行っても畳もねえっていう家だから、どうしたらいいかとか、そういう人情物なんだよ、全部。それがまたピタッときてさ。

池上:それで『ニューヨークの次郎長』っていう風にタイトルもなっていくという。

篠原:うん、そうだね。僕の生活範囲っていうのは、やっぱり日本であった殿上人と地下侍みたいなもんで、ニューヨークでもまた地下侍になってね。MoMAとか、そういうところのパーティーには全然お呼びがなくて。

池上:彼らが殿上人で。

篠原:そうそう。キャナル・ストリートのごみ溜め漁って。だから見るのもサンフランシスコのヒッピーが作ったコミック・ブックね。これまた凄いやつがあってね。それは、いわゆる『スーパーマン』や『バットマン』なんかとは全然違ったセンスで作ってるわけ。あれはきっとメキシコ人とか、移民の連中が作ってるんだね。全部オートバイに乗ってるギャングものなのよ。「ジプシー・バンディット」とか色んな奴がいて、それが海賊みたいな格好して酒は滅茶苦茶、クスリはやり放題、っていう漫画なの。それを小野耕世が紹介するんだけど、彼は世界の漫画の研究家だからサンフランシスコの作家から本を貰ってきてね。ていうのは、サンフランシスコではそれを自分たちで印刷して作ってるから。それでクレイ・ウィルソンっていうのが一番すごいんだけど、それがもう、ずたずた、ぶつぶつ、滅茶苦茶なわけね(注:S. Clay Wilson。アメリカのアングラ漫画の代表的作家。過激な性描写、暴力描写で知られる)。それにガーンときちゃってさ、はまっちゃって。それから発想したものをどんどん絵の中に持ち込んでいったわけ。だから《花見》には、そっちも入るんだよね。色んなものを取り入れてる。それと日本で田名網くんがくれた、小学館から出てる日本の絵巻全集っていうのがあって、大きな版で色もすごく綺麗でね。源氏物語絵巻から始まってずーっと、そういうのが特集になってたわけよ。それも頂いて、そこから色んなファッションを採ってね。例えば平安時代の光源氏がいる家の簾とか、高抔とか、着物の柄とか、そういうものをサンフランシスコのヒッピー漫画と一緒にして、ニューヨークのバブリシャス・ガムとか色んなものを全部入れたのを作ったわけ。

富井:ギューちゃんって結構勉強して絵を描くんですね。先ほども色々魚とか恐竜の研究をなさってたみたいなので。

篠原:最近はね、絵金だよ。土佐の絵金。本はどっかに行っちゃったけどね。

池上:意外と勉強家であると。ところで、1980年代の後半とか90年代になっていくと、今度は国際的に日本の戦後美術を再評価するっていう動きが出てきて。

篠原:あ、そうなの。

池上:例えばオックスフォードで日本のアヴァンギャルドの美術を紹介したり、ポンピドゥーでも同じようなものがあったり。

篠原:うん、ポンピドゥーのは大きかったね。

池上:篠原さんはどちらにも出されてるんですけど、こういう動きをニューヨークからどういう風にご覧になってましたか。

篠原:それはもう、聾桟敷ね。

池上:あ、そうですか。

篠原:うん。何の情報も入ってこなかったよ、それは。

池上:でも、作品はそこに出品されてるわけですよね。

篠原:そうそう。オックスフォードの場合は海藤日出男の娘の海藤和さんっていうのがやったんだけど。海藤日出男っていうのは瀧口さんの子分で、読売新聞の文化事業部よ。

池上:そうですね。

篠原:読売アンデパンダンを作った人なの。それも全部瀧口さんの指令なのよね。瀧口さんが「ヨーロッパでこういうのがあって、アンリ・ルソーとかそういう素人の人たちが出したのを、読売でもやりなさいよ」って言ってやったんだよね。彼らは落合3丁目にみんな住んでて、隣人なんだよね。海藤、瀧口それから太田三吉ってね。

池上:娘さんが再評価に関わってたっていうのも繋がってるわけですね。

篠原:そう。彼女がやったらしいんだよ。僕の作品は南画廊の浅川さんっていう番頭が持ってたのを送った。1968年かな、京都のヨシダミノルのところで描いたんだよね。京都アンデパンダン展っていうのがあって「そこに何か出さねえか」って言うんで、じゃあ、ベニヤ板6枚買って来て、バーバーって表裏描いて、出して。それで捨てるの面倒臭いから、電話かけたら浅川さんが、「じゃあ、うちに送ってくれていいよ」って。それで運送屋で送って、タダであげちゃったの。それが陽の目を見たんだよね。

池上:そういう展覧会に出されたり。

篠原:うん。それを持って行ったんじゃないかな、オックスフォードに。

池上:1990年代に入ると、国立国際美術館で「芸術と日常−反芸術/汎芸術」(注:1991年10月から12月にかけて開催)っていう展覧会が開かれて、そこでボクシング・ペインティングのパフォーマンスが復活したりですとか、篠原さん自身の経歴が再評価されていくっていう動きも出てきたと思いますが。

篠原:そうだね。あの時、国立国際の館長は三木多聞なの。三木さんっていうのは、ちょっと動きの鈍い人なのよ。

池上:そうですか(笑)。

篠原:自分で企画を立てて失敗したらっていうのを恐れるから、なあなあ主義なのよ。その下にね、村田慶之輔って、今は岡本太郎美術館の館長がいて、あれが子分だったのね。それから榮樂(徹)とかね、色んな若手のいい学芸員がいたわけ、やり手がね。だから三木さんのけて、そっちのほうとやったのね。キュレーターが若返ったんだね、ガーンって。それで1960年代の再評価っていうんで、「芸術と日常」になったんだね。

池上:ボクシング・ペインティングをもう一回やりませんか、っていうのはどなたから話が来たんですか。

篠原:それも榮樂。その時に四国に佐野画廊っていうのがあって、佐野真澄っていう女性がいるわけよ。お父さんが銀行の重役なんだけど、お金はいくらでもあるんだよね。四国の香川県の猪熊弦一郎美術館の傍にある。そこに自分で小さい画廊を建てて、そこで展覧会をやろうって。もともと彼女は鉄の彫刻家なんだけど。小さな人だけど、すごい馬力のある人で。そこで個展をやったんだよね。(注:1991年8月から10月にかけて開催)

池上:国立国際とは別に。

篠原:うん。日本でもそんなところでやってるから、そこに榮樂が来て、ボクシング・ペインティングの話が出たわけよ。「あれ、やろうか」ってね。僕も寝耳に水でね、まさかあれをやるとは思ってないし。で、「どうやろうか」ってね。

池上:もう30年ぐらい間が空いているわけですよね。

篠原:うん、ブランクがあったでしょ。ネオダダの後30年。それで二人で色々頭悩ませて。大きさとか、キャンヴァスはどうするとか。じゃあニューヨークから送ろうとか。「それじゃあギューちゃん、2、3日でいいから来てくれ」って言うんだよ。「3日間!?」って、大阪に来て3日で帰らなくちゃいけない(笑)。

池上:大変ですよね(笑)。

篠原:「何これ?」っていう感じなんだけど(笑)。で、オープニングに間に合って。その時にちょうど佐野さんが岡山テレビで僕の取材番組を一本作ってたから、ついでにそっちも行っちゃおうって。すごくその頃は歯車が合って、マスコミに上手く乗ってね、随分評判になったんだけど。

池上:ボクシング・ペインティングが復活して、大きな反響があったわけですか。

篠原:その時は全部無視よ。

池上:あ、そうですか。

篠原:うん。美術関係のメディアは「じー」ってね、無言(笑)。ああいうところがなんか、日本人っていうのはダッって飛びつく人がいないんだね、冒険家が。

池上:みんな呆然としてる感じですか。

篠原:そう、呆然。「ええ!?」っていう感じでね。

池上:国際で復活したのが1991年ですけど、その前にニューヨークでも一度されたって。

篠原:ああ、屋上でね。あれは大島加津子って、今は亡くなったんだけど、先輩にあたる女性がいて。わりに人脈があって、アメリカの大学卒業してる人で。それで僕の屋上で……

池上:屋上というのはここの、ブルックリンのではなくて。

篠原:ノーノー。25ハワード(注:25 Howard Streetの意)の屋上。

池上:ああ、その頃はまだこちらに移られてないんですね。

篠原:うん。で、大島加津子がね、写真家になろうと思って写真機を買ったんだけど、泥棒に盗られちゃって、今度はソニーの小さなハンディカムっていう、出来たてのやつを持ってたわけよ。それで何かを撮りたいけど、「ギューちゃん、ボクシングなんかやらない?」って言うわけ。

池上:それはビデオカメラっていうことですか。

篠原:ビデオカメラなの。「それじゃあ」って、屋上に汚ねえベニヤを置いて、それでグローブなんてもちろん買えないし、売ってる所も知らないから、もう何かをぐしゃぐしゃに巻き付けて、頭に「芸術維新」って書いて。大島加津子の友達が10人ぐらい集まったんだけど、その中に林道郎夫妻もいたな。

池上:はい。林道郎さんからこの話をお聞きしたので。

篠原:あ、そう。林さんは来たばっかりだからさ、ボーっとして「何やってんの?」って(笑)。で、ばちゃばちゃやったんだけど。それが一番最初かな。

池上:それが1986年だったとお聞きしています。その時の映像っていうのは残ってるんですか。

篠原:残ってるよ。

富井:だって映像撮るためになさったんですもんね。

篠原:そうそう。大島加津子がコピーしてうちにくれたよ。なんかに使ったよ、それ。日本のテレビ局に貸してあげて。

池上:それは貴重な映像なんじゃないでしょうか。

篠原:どっか探せばあるよ。

池上:それが「プレ復活」みたいな感じで1回されて、本格的に1991年に美術館でやったということですね。

篠原:そういうことだね。

池上:それからわりと人気になって、色んなところでされてると思うんですが。

篠原:いや、それはまだまだブランクがあるよ、何年も。

池上:あ、そうですか、91年の後は……

富井:その次が「アウト・オブ・アクション」ですよね。オーストリアでやられませんでしたっけ。

池上:それが1998年ですね。

篠原:あれはね、スタートがロサンゼルスで、その次がウィーン。ウィーンにMAKっていう美術館があるのよ(注:MAK―O¨sterreichisches Museum fuer angewandte Kunst、応用美術館)。そこでやろうっていうことになって、やったのが2回目くらいかな。

池上:じゃあ、91年からまた6、7年ブランクがあって、再演されて。その後は割とちょこちょこ何年に一回かはされてますよね。イセ・ファウンデーションでもされているし。(注:ニューヨークのIse Cultural Foundation Galleryで2003年に公開制作をしている。)

篠原:うん。細かいことはわかんないんだけど、大事なことは、ウイリアム・クラインが1960年に『東京』という写真集を作った時に、ボクシング・ペインティングを撮ったの。クラインはあちこちでそれを発表してたらしいんだけど、もう10年ぐらい前かな、彼がチェルシーのある画廊で個展をやったのよ。それで僕が行ってみたら、クラインがいたんだよね。それでもう、再会だよね。向こうもびっくりしてんだよね。「やあやあ」っていう感じで。それで、僕のボクシング・ペインティングはクラインの目玉になってるんだよね、彼のバイオグラフィーの中でも。ポンピドゥーの時にもそれ出したし。

池上:そうですか。

篠原:画集にも載ってるしね。それでなんとなく、僕もボクシング・ペインティングが親しくなってきちゃったんだよ、逆に。身近にどんどん来てね。で、それじゃあ、それが一番いいや、パフォーマンスを色んなところでやろうっていうことになってね。60年代の展覧会だったら僕は具体と一緒にやったりね。そんなことで多くなってきたね、少し。

池上:今ではわりと色んなところでされてるんですけど、その出来上がったボクシング・ペインティングを作品としてもご覧になるわけですか。

篠原:うん。

池上:その時に、「この時はどうだったな」とか、良し悪しの判断っていうのはされますか。

篠原:基本的にはゼロ。右から左にボコボコやるだけだからね。まあ、白髪(一雄)くんと対照しちゃあ、ちょっと失礼かもしれないけど、白髪くんの場合はタブローを作ろうとしてるわけよ。いつも絵の全面を見てるでしょ。僕の場合はタブローじゃないから、行為だけをね。だから見る人がどう感じようと、それには無責任なんだよね。だからほとんどサインしないしね。続いていくんだから、どんどん。

池上:やる場所とか時々でサイズが違ったり、使う色が違ったりしますが。

篠原:まあ、基本的には一番簡単な墨汁だよね。神奈川県立近代美術館の時も墨汁で10メートルって決めてね。ニューヨークから10メートルのキャンヴァスを送って。ボクシング・グローブもこっちの厚いのを買って送って、向こうでくっつけてボコボコって。(注:「篠原有司男――ボクシング・ペインティングとオートバイ彫刻」展、神奈川県立近代美術館、2005年9月17日〜11月6日)

池上:豊田でやった時なんてもっと大きくなかったですか。(注:「ギュウとチュウ――篠原有司男と榎忠」展、豊田市美術館、2007年10月2日〜12月24日)

篠原:そうそう。もう何回もやってるから、豊田は「18メートルでいきましょう」って。もう、学芸員って無責任だからね。自分がやらないんだからね(笑)。サイズも、10よりか一番長いのが18だ、「それにしろ」なんて。18メートル20センチとか。

池上:だいぶ大きくてやっぱりちょっと時間がかかっていて、最後の方ちょっとお疲れになってるっていう感じがしたんですけど。

篠原:そうだよ、大変だよ。疲れるよ、あれ。あの時は酒を飲んでたんじゃないかな。

池上:暑かったですしね。鎌倉の時も豊田の時も。

篠原:そうそう。鎌倉の時は飲んでやったんだけどね。鎌倉は短かったね。

池上:1990年代の後半になると特に篠原さんの再評価も進んで、ポカリスエットのCMに福山雅治と出られたりとか。

篠原:あれはね、電通の情報網っていうのがあって。新宿にBEAMSっていう、ヤング・ファッションのビルディングがあって、6階にアート・スペースがあるのよ。そこでなんかやろうっていうことになって「じゃあ、そこでボクシングやっちゃえ」ってね。それともう一つは、NHKのすぐ近くに松濤スタジオっていう写真のスタジオがあるんだけど、みんなでそこを借りて一人千円で人を集めて、僕と秋山祐徳太子とで、色んなトーク・ショウやったのよ。それでまたボコボコやったんだよね。そうするとみんな大体慣れてくるから、「私のシャツにもやってちょうだい」とかなんとかなってくるわけよ。そういうのをやっぱり電通マンが見てたんだろうね。

池上:「これはいける」って思ったんですね。

篠原:うん。で、うちに来たんだろうね。

富井:昔、60年代にやられた時は紙でやっておられましたよね。

篠原:全部紙。

富井:だから残さなかったわけですよね。残らないっていうか。

篠原:うん、破れて。アウトドアでやるからね。西田町の青空スタジオ。三木富雄なんかも一緒に作ってたね。

富井:最近、90年代からやり始めたものは全部キャンヴァスでやっておられて、一応全部保存されておられますよね。

篠原:うん、残るね。最初にキャンヴァスでやったのは榮樂さんの国立国際だね。キャンヴァス代出してくれたからね。

池上:基本的にそれをやった美術館に残されてるわけですか。

篠原:いや、そういうのは全然ないの。うちに送り届けてくるから。「いらない」って言うのに「美術館でやったものは届けます」って。木の箱に入れてずっと置いてあったのよ、うちで。

富井:最近ではそれを買いたいっていう人もいるわけですよね、結局。

篠原:そう。今度、建畠晢が館長になったら「ギューちゃん、あれどこいった?」って言うから、「俺んちに転がってるよ」って。「ちょっと待って、それを買おう」っていうことになってね。「せっかくうちでやったんだから」って。

池上:そうですよね。どこかに入るならやったところに入るのが一番ですよね。

富井:じゃあ、昔と随分アプローチが変わりましたね。

篠原:うん。でも国立国際の作品がうちに転がってる時は、本当に「これぶった切って絵でも描きたいな」って何度思ったかわかんないよ。

富井:キャンヴァスつぶして。

篠原:うん。

池上:たくさん絵が描けますもんね、あれだけ大きければ(笑)。

富井:10メートルですからね(笑)。

篠原:それもフィルムを撮ってるから。その時はちゃんとした岡山のテレビ局が撮ったフィルムで、すごく格好いいんだよね。「いや、やっぱりもったいな。とっとこうか」なんて。それから10年くらい経ってからだよね、建畠さんが持って行って、コレクションになったのは。だから時間かかるよ。だけど最近はちょっと速くなってきて、去年9月のベルリン展で「小さいの作ってくれ」って言うんで置いといたら、それがアート・フェアに出て、それで別の画廊が目をつけて、今注文が来てるんだけどね。金はこれからだけど、「やろうか」ってんで。

富井:今や注文制作のボクシング・ペインティングですね。

篠原:「じゃあ」って、ばかばかって作ってね、それで写真撮って送るんだけど。その後ヨーロッパのどこかでデモンストレーションやってくれって言うんだよね。向こうはそういう企画を立ててるのよ。「バーゼルはどうか?」って言うんだよね。バーゼルのアート・フェアでデモンストレーションやったら一気にすごいことになるんだけど。それは6月なんだけど、進んでるのよ、少しずつ。乃り子もるんるん気分だけどさ。

池上・富井:(笑)。

篠原:るんるん気分はいいんだけど、もう家賃とかそういうのでガーっとなってて、もう毎日ね、一喜一憂っていうのはこのことだね。「うわあ、すごい、バーゼルよ」、「でもその時にもし日本の美術館のあれが売れなかったら」とかさ、ガクーンって。もう年中。

池上:でもボクシング・ペインティングはこれからも楽しみということですね。

篠原:うん、だから不思議だなと思うのは、僕は絵もどんどん描いてるでしょ。絵っていうのは、やっぱりいい絵を描こうとか、なんか自分で思い入れがあるわけよ、タブローの中に。ボクシング・ペインティングは全くそういうのじゃないでしょ。僕が滅茶苦茶にやったものを人が評価して持って行くんだから。ところが僕は、絵もボクシング・ペインティングのように、タブロー抜きのタブローを描きたいのよ。

池上:と、おっしゃいますと。

篠原:本当は視覚が一番良くないんだけど。なんていうのかな、基本的には見ないで描きたいんだよ。それでテーマは僕が大好きなものを描きたいわけよ。今描いてるのは、ロブスターを食べようとしてるハイビスカスの帽子を被った女性が、ロブスターが急に生き返ってナイフを取り上げようとしてるっていう(笑)。もうすごいドラマチックなんだけどさ、そんなのを目をつぶって描けるわけないんだから(笑)。

池上:まあ、そうですよね(笑)。

篠原:そこにいつもトラブルがあるわけ。それをなんとか解消しようとして色んな雑誌とか、そういう資料を集めてるわけ。

富井:目をつぶって描くだけだったらちょっと考えつきますけど、でもそれでそういう複雑な物語を……

篠原:目をつぶってなんて、お正月にやる福笑いみたいだけど。それを一気に目をつぶって描くような感じでいきたいのよ。絵の具はもうふんだんにあるからね。そこで悩んでるわけ。

池上:それがこれから目標にされてることですか。

篠原:それが今日、明日の問題なの。今週もずっとそれでね。でも随分、調子出てきてんのよ。マジック・マーカーっていうのが今いくらでもあるからさ。それでもってガーっとドローイングして、それから色んなネタ本とか昔の写真やなんかたくさんあるでしょ。バミューダ島の色んなのとか、恐竜の写真とかね。そういうのをパパッと見た時に、僕は逆にのめり込んじゃうんだよね。「いいなー」と思っちゃう。それが一番いけないんだよね。

富井:いけないんですか。

篠原:うん。写真やなんか見てて、グッときちゃうんだよね。

池上:逆にそれにとらわれてしまうというか。

篠原:そうそう。そっちに主導されちゃうんだよね。

池上:それみたいなものを描きたいと思っちゃうと良くないわけですね。

篠原:そうそう。悔しくてしょうがない。

池上:じゃあ最後に、これはアメリカで活躍されている方によくお聞きする質問なんですけど、篠原さんはこっちに来られて、日本人として制作をされているのか、それともニューヨーカーとして制作されているのかっていうことをお聞きしたいんですが。

篠原:うーんと、それも意識したことないなあ。僕以前の岡田謙三、イサム・ノグチあたりの作品から滲み出るものは、やっぱり日本人のアイデンティティみたいなものが流れてるけどね。

池上:はい。

篠原:そのイサムさんとか岡田謙三さんが意識してやってたかどうか、それはよくわかんないんだけど、僕の場合は何が出てきても意識はないね、全然。だから今グッゲンハイムでやってる「The Third Mind」展も、丸、三角、四角の仙pからスタートするでしょ。それですごく素晴らしい、垢抜けてるいい展覧会だと思ったんだけどさ、僕に関してはもう全然、何にもないね。桑山忠明くんが僕の藝大の同級生で、僕は洋画で彼が日本画だったから、よく情報をくれてたけどね。彼の生き方と僕のは全然、水と油だもんね。桑山くんが今度出した作品も、聞いたら1962年か63年の作品なんだよね。

池上:そうですね。

篠原:すごく古いの。それをちゃんと取っててね。今とほとんど変わらないでしょ、仕事がね。彼は宮大工だからピシッとしてね、ずーっと。その作品を(アレクサンドラ・)モンロー(注:Alexandra Munroe、「The Third Mind」展のキュレーター)が選ぶんだけど。僕の場合はハチャメチャだからさ。

池上:特にアイデンティティということは考えずに。

篠原:うん。全然。

池上:何でもやってやろうという感じですか。

篠原:じゃなくて、アメリカのミステリー小説とか、進駐軍とか、ハリウッドの映画から夢を持って来たところに、ニューヨークにぶつかってごちゃごちゃになっちゃったんだね。それでオートバイの方にはまったり、ロサンゼルスのコミックのほうにいったりとか。それから「ジョーズ」っていうスピルバーグの第一作で、リッチな学生のスピルバーグが、溜め込んだアイデアを全部あそこに出してるでしょ。ああいう、一人一人の作家の中の一番いい部分っていうか、一番エネルギッシュな部分があちこちにあるんだよね。ホッパーの場合もそうだけどね。

池上:そういうものから触発をされて。

篠原:そうそう。アメリカの中でも色んないい作家はたくさんいるしね。映画でも色んな人がいるし。そういう意味ではアーティストっていうのは見てて面白いね。特にアメリカにいると日本もヨーロッパも見れるから。ものすごく作家を大事にする国だしね。

池上:やっぱり何人とかっていうことではなくて、アーティストだっていうことですね。

篠原:そうだね。面白いね。ジャスパーが僕の全然駄目な《ドリンク・モア》をあげたのを今でも持ってるとかね。50年間溜め込んでるって、ああいう時に泣けるよね。

池上:素晴らしいですよね。

篠原:日本の場合は「売っちゃった」とかさ(笑)。ほとんどそうだもんね。

富井:いや、売ったんだったらまだよくって、なくなってしまったっていうのもありますからね。

篠原:《コカコーラ・プラン》なんか10個作って、8個はなくなっちゃったんだけどさ。

富井:じゃあ、今日は色々と聞かせていただいて。3回にわたって聞かせていただいて、面白かったです。

篠原:そう、すごかったね。いやあ、色んなものを引き出してくれて、もう楽しくて仕様がなかった。

富井:はい、記録にとってありますので、もう逃げられませんから(笑)。

池上:本当に長い間ありがとうございました。

富井:ありがとうございました。