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白髪一雄オーラル・ヒストリー 2007年8月23日

尼崎市出屋敷 白髪一雄自宅にて
インタヴュアー:加藤瑞穂、池上裕子
書き起こし:池上裕子
公開日:2009年6月1日
 
白髪一雄(しらが・かずお 1924年〜2008年)
美術家(絵画、立体、パフォーマンス)
1952年に村上三郎、金山明、田中敦子と0会を結成、1955年に具体美術協会(1954年〜1972年)に参加。縄にぶら下がり、足を使って作画するフット・ペインティングで知られる。具体に参加した経緯から、指導者・美術家としての吉原治良、1970年の大阪万博での「具体美術まつり」、具体解散の経緯までを語っている。また2回目のインタヴューでは、密教に対する関心から延暦寺比叡山で修行を行い、得度を受けた経緯について詳細に語っている。終盤には夫人の白髪富士子も加わり、具体会員として活動した時期の制作について振り返っている。インタヴュアーは当時芦屋市立美術博物館の学芸員だった具体美術協会の専門家、加藤瑞穂が務めた。

池上:まず、こちらの尼崎のお宅に移られてどのくらいになりますか。

白髪:この家に来てからね。ちょうど終戦が8月15日で、大阪に兵役で行っとったんですけど、ここへ初めて里帰りしたんですよ。それが終戦の日でしてね、そこにラジオが置いてあって、玉音放送聞いて、「ああ戦争済んでんな」、と、そういういうことですわ。

池上:たまたま里帰りされていたんですね。

白髪:それからもう、大阪はえらいこっちゃいうんで、飛んで帰って、それから2ヶ月近くおりましたかな。急に帰るわけにいかんからね、後始末いうもんがあって、それからやっと2ヶ月近くたって帰ってきて、それからずっとこっちですわ。そのあと、リューマチと肺炎と起こしましてね、ここで長いこと寝てたんですわ。それでやっと、その前に通ってた学校に復学して、絵画専門学校にまだ籍あったからね。それで復学したら学校の様子が全然違っとって、それまでは男の生徒しかおらなかったのが、女の人がたくさんおってびっくりしてね(笑)。

池上:共学に(笑)。

白髪:それで病気して復学したときは、女の人がごっつう強くなっててね、男がみんなこき使われてて(笑)。僕らみたいな兵隊に行ってたもんは特別扱いというか、隠居みたいな扱いになってしもて(笑)。それでまあ、なんやかんやいうて卒業したんですけどね。卒業する1ヶ月前にもう油絵描き始めてましたわ。だいたいが、油絵を旧制中学の3年の時分から始めてました。油絵が好きでね。親父がだいたい油絵描いてましたからね。それで親父の油絵が、台所のこっちがわに竜安寺の石庭を描いたのがかけてあります。この裏には親父が彫った昆虫かなんかがかけてあります。親父が好きで油絵描いとったから、僕も親父の油絵の道具をそのままひっさらってね、それで描いとったんですわ。それで絵の先生が、東京の美術学校を卒業した先生が来ましてね、それが旧制中学2年の中頃ぐらいかな、それで「おまえなかなか絵が好きやし、上手みたいやな」って言われて。それで「いやーありがとうございます」言うて。それで絵のクラブ活動が始まって、それに入りまして。それでまあ色々教えてもらって、石膏デッサンやったりして。それで5年生になって、いよいよ卒業ですけど、「どこ受ける?」っていう話になりまして。それで「僕は美術学校受けます」言うたんですよ。そしたら「特訓したる」ってその高橋という先生が言うて。その人が「石膏が非常に大事やから、石膏の特訓したる」いうて、毎日のように石膏描かされてね。それでいよいよ受けに行くことになって、僕は東京の美術学校の洋画を受けようと思ってたんけど、戦争がものすごい激しくなってきてね、東京に行くどころではなくなってしまったんで。それで「困ったなー」と思ってたら、親類の人が「京都にも美術学校ありますよ。そこ受けたらどうですか」っていうからね。「そんだらそうしますわ」って、京都の絵画専門学校の願書もらいに行ったんですよ。それで受付の窓口で「何科ですか」って聞かれて、「洋画です」って言ったら、「うち洋画ありまへんねん」言うてね(笑)。「ほな何がありますのん」って言ったら、「日本画と、図案科としかありません」て言うんですわ。それで「困ったなー」と思ったけど、しょうがないからね、日本画で行こう思て、日本画の願書もらって、受験したんですわ。その当時ね、戦争が激しくなってたからね、20人取るところに受けに来てたんが25、6人ですわ。ほいで18人通りましてね。ほいでまあ、いよいよ日本画の勉強始めたわけです。一番びっくりしたんがね、画材。油絵の道具やったら箱に入ってて、絵の具も全部ある、チューブとかそんなんが箱にだいたい一式入るわけですね。ところが日本画はもう、このぐらい大きい土手みたいなもんに、皿やら何やら色々あるわけね。それから絵の具はこんなガラスの瓶に入ってて、それもこうして動かしたらさらさら言うような。それでもう全然違うから、どうやって溶いて、どうすんのかも全然分からへんかった。それでその先生が教えてくれたわけやけどね。「えらい便利の悪いもんやなー」て(笑)。そやけど、やらなしょうがないから。

加藤:もともと油絵の方がお好きで、その油絵の具の流動感をすごく大事にされていますよね。

白髪:そう、それが全然ないんですよ。それで何回も塗らないとだめなんですわ。いっぺんに濃い絵の具塗ったら怒られるからね。白なんかね、10回ぐらい薄ーく溶いたやつをずっと塗ってね、それで乾くの待ってないとあかんから(笑)。それがなんて言うか、まどろっこしくて。

白髪:それで美術学校受けたいって言い出した時にね、親類がものすごい反対しましてね。親類が何軒かあって、特に親父の姉が、芦屋の田中という家に嫁に行っとったんですわ、再婚ですけどね。僕の姉もその家の嫡男のところに嫁に行って、まあ二重になってるわけですわ。その田中という家が、大阪の平戸町で茶道具の店やっとったらしいんですけど、おじさんがものすごい厳格な人でね。おばさん、おじさん、それからその嫡男の息子、まあ僕の義兄になったわけやけど。そこらやらそれの妹の婿さんとかがね、僕が美術学校受ける言うたら猛反対しましてね。「あんたはな、呉服屋の家に生まれたんやから後を継がなあかん。そやから美術学校なんかいったらあかん。だいたい絵を描くことはもう、まあいうたら遊び人や、極道や」と言うんですよ。いやー極道や言われたってね、僕はもう美術学校しか行く気があんまりないからね、「困ったなー」と思ったけどね。「ほんならどこ受けんねん」て。その姉の婿になってたのがね、同志社出てたんですわ。それで「同志社の経済学部を受けろ」と言われて、それで受けたんですよ。それでもう、「通ったらかなわんな」と思ったからね、無茶苦茶書いて白紙状態で出して(笑)、それで他の学校もあと二つほど受けさせられて、それもみんな白紙みたいな状態で出して、通りゃしませんわな(笑)。ほんでもう、田中の家がひっくり返るくらい大騒動しよったわ。「どないしても美術学校行きたいんか」って。それで親父は自分も絵描いとったから、えらい理解があってね、「美術学校しかもう受けられへんやないか」言うて、さっき言った絵画専門学校を受けることになって、願書もらいに行ったんですわ。それで「日本画しかない」言うから日本画やり出したわけですけどね。それで卒業するちょっと前からまた油絵始めてて、もう油絵へ転向するというつもりで。そしたら病気になってここへ5ヶ月ほど寝て、また復学して卒業したわけです。卒業してからはもう、毎日この2階で油絵をごそごそ描いとったんです。あのズワイガニ、マツバガニですが、豊岡に住んでる人が送ってくれたのを皿に入れてがーっと油絵のペインティング・ナイフで描いたりね。それでだいたいその時分から勢いのある絵が好きになってね。「絵は勢いがないとあかん」と、だんだん思うようになったんです。それで、勢いをつけるにはどうしたらええか。短時間にたくさんの絵の具を使ってね、一気に描き上げることやと、そう思い込んだんですよ。それがだんだん高じて、足で滑って描くという行為になったと思います。

加藤:少し戻るんですけれど、お父様は理解があって、美術専門学校を受けられるというときでも、支援なさったということなんですが、その後、卒業されてからもずっと2階で描いてらっしゃる時は、ご両親はいかがでしたか。

白髪:理解があってね。僕は何にもせんと、店にも出んと、食わしてもらってたわけやからね、長いこと。それで、だいぶしてから、「こんなんしてたらあかん」と思って、小学校に勤めたんですわ。まあ図工の教諭になって、その行った学校が非常に活発な子が多くてね、だいぶその子どもたちと接触して、影響受けましたわ。それで母親のほうは絵を描くいうことに全然理解がなくてね。絵は嫌いじゃなかったんですわ。だけどだいたいがまあ、どういうたらええか、商売熱心な人やったからね。というのはほとんど親父は商売せんと、店に出ないでいたからね。僕が子どもの時分は店に出てましたけどね。前の古い、大きい店やったんです。そこへは親父が出て商売してた。商売って言っても、人が来てもの言うわけやなしね、ただあのカウンターみたいなとこに座っておるだけやけど。それで戦後はもう、組合の理事長か組合長になったんかな。だから組合に入りっぱなしで、毎日通うとったですわ。母親はそんなわけで商売熱心やから、それだけに絵に対する理解いうのはあんまりなかった。

加藤:当時描かれていた作品を、お父様はどのように見ていらっしゃったんですか。例えば先ほど言っていらしたカニとか、当時描かれていた油絵について何かおっしゃっていましたか。

白髪:はじめ描いてた油絵は写生でしたからね、僕のも。それは親父もよう分かるからね、ここがなんやとか言いにくるんですよ。ところがもう抽象になってからはもうほとんどね、見に来ないし、そんであの村上三郎、金山明がうちに来ましてね、この2階で3人で酒飲んでは議論しとったんですわ。まあその時分から0会作ろうか、いうことになって。そいでしたら、親父が怒りましてね。まあ二人が帰ってからやけどね。そいでここへ呼びつけられて。親父とお袋とここへ寝間ひいて寝てるわけやけど、その時はまだ寝間ひいてなかって。「お前なんや、足で描きだしたそうやけど、絵というものはな、床の間に飾るもんや。見る人は皆拝むような気持ちで見るもんや。足で描くとは、なんちゅうこっちゃ」って怒られたんですわ。ほいで「それでも足で描くことは良いことやと僕は思ってます」言うたらね、だんだん怒り出してね、しまいに鋏投げつけられてね、目の前へ。ほんで「こらあかん」と思って。「出て行けー!」言うからね、「ほな出て行きまっさー!」て出たらね、こらもう手に職あらへんし、どこにも勤めてないからね。ほんでこら路頭に迷うし、家内も息子も路頭に迷わすから、がばーっと頭下げてね、「すんまへーん!」言うて、謝りましたわ。ほなだんだん機嫌良くなってきてね、それからはむしろ足で描くのを奨励してね、組合へ行っても、ロータリークラブの会員でまあ、行っとったわけやけどね、人に「息子自慢しよる」って言われるくらいね、「なんやうちの息子は足で描くという新しい方法を考えついた」とか何とか言い出したんですわ。ほんで「お父っつぁんあれアホやで」って言われたぐらい。それで結局0会作ってやり出して。それからまあ始まったわけですけどね。

加藤:では奥様の白髪富士子さんとは、もう学生の頃に出会われてご結婚されたんですか。

白髪:そうです。彼女の実家がちょうど絵画専門学校の近くなんですけどね、それは全然関係なしに、さっき言ったその田中の親父の姉がね、ものすごい世話すんの好きでね。うちの母親は僕を早く結婚させた方が良いと、こう思いこんでてね。せやないと何しよるやら分からへんと。それで結婚を早くさせようと、その叔母に「どこかに良い娘さんいませんか」と言うわけですな。叔母はお能に凝ってましてね、唄いや仕舞を習ってて。その関係でうちの家内の一家も能楽が好きで、家内は小鼓を習ってたんですわ。それで写真まずもらって、「うん、会ってみるわ」いうことになって見合いして。あれどこで見合いしたんか忘れてしもたけどね、京都やと思うんですけどね。いや、芦屋のその家やったんかな。なんせ見合いしてね、そんで「もうちょっとつきあいましょう」いうことになって。それでその明くる年の2月3日に結婚したんですけどね。ちょうど家内は19歳で僕が23歳だったんですわ。それで人に「早い結婚や」って言われてね。

加藤:ご結婚される前と後では、生活とそれから制作活動で、違いというか変化はありましたか。

白髪:家内はね、絵は描いてなかったんですよ。それがだんだん僕の描いてる絵が好きになってきて、自分もこんなんやりたいな思った時に、0会作ったんです。それで紙を使ったりガラス使ったりした作品を作った。それでガラスをね、こう、コンコンね、アトリエで割りよるねんね。それをカンヴァスにボンドでひっつけて、その上へ青い色をばーっと塗って、それから和紙をその上へ貼り付けるような作品で。僕はそれが怖くてね、こっちは裸足で描かなあかんでしょ。それで「よう掃除せえよー」って。その時分、掃除機なんかろくなものがなかったからね。それで「掃除ちゃんとしといてくれよー。そやないともう、足を怪我したらかなわんから」って。それでよう掃除してくれたんか、何事もなく足でだいぶ描けましてね。それでそのうち具体入ってやり出したから。具体入って、その時はもう足で描いてたから、足で描いたちょっと大きい、150号ぐらいの和紙に描いた作品、吉原治良に見せて、えらいほめられてね。「これ良い方法やで。それしっかりやれ」って言われて。それで足でカンヴァスでやり出したりしてるところへタピエが来て。

加藤:そうですね。その当時、奥様の富士子さんもたくさん制作されていたと思うんですけど。

白髪:もう、その和紙でやるのをやってましたからね。

加藤:そういうふうに、白髪先生が足で描かれていて、富士子さんは同時にまた別のアトリエで制作されていたんですか。

白髪:いや、同じアトリエでやってたから、それでガラスをコンコンやるからね、怖くて、「よう掃除しとけよ」いうことになったんです。そらもうね、ガラスがもしも足に刺さったりしたら、そこでもう嫌になって描けんようになるでしょ。それで家内は必死になって掃除して(笑)。

加藤:当時富士子さんが作られた作品をご覧になって、どういうご感想をお持ちになられましたか。

白髪:二人とも具体入ってやり出したわけですね。0会の時は、家内はまだあんまりちゃんとしたもの描けてなかったですからね。やっぱり具体入ってから、芦屋の市展なんかに出して、それで啓発されたのかどんどんやり出して。家内の作品はわりと人気があってね。そのうち紙だけ使ってやるようになって、「やれやれもうガラス使わんようになったわ」って。紙の作品になってからはなんやものすごい評判良かったですわ。

加藤:先生ご自身はどう思われましたか。

白髪:やっぱし、全然僕と反対のもんやと思ったですね。ちょうどこっちが火が燃えてるようなもん描いてたら、むこうは雪が降ってるような、氷が張ってるようなものをやってた。

加藤:奥様の作品をご覧になって、インスピレーションというか、鼓舞されるものというのはありましたか。

白髪:ちょうど反対のもんやからね、なんかその人の個性というものがよく分かりましたね。同じ絵描き、画家っていっても、極端な場合は、家内は極端かどうか分かりませんけど、冷たい冬みたいなもの作る人と、僕みたいにかっかした熱いのを作る人と、そういう性格があるなあということが分かったです。そこでちょっと理論づけましてね。金山くん、それから村上くんの作品見てたら、「この人らはこういう位置にあんねんなあ」、という憶測ができましてね。だから金山くんと約束したんですよ。村上はね、あれは僕の言うことあんまり聞きよらへん。「自分は自分や」いうてね、勝手に一人でやるようなタイプですわ。金山くんはわりと僕の言うことに耳を貸してくれて、「君は君でな、なんか冷たい抽象が好きらしいから、極端にそれやっていったらどうや」と。「僕は熱い抽象が好きやから、熱い抽象の方へ極端に行こう」って二人で約束して、「お前はこっち、わしはこっちや」というような感じでね。それで「プラス・マイナス」っていう理論を僕が勝手に作ってね。人間の個性には熱い方へ、情熱的な方へ行くプラスと、冷たい理性的な方へ行くマイナスとあると。その理屈みたいなものを勝手につけてね。具体の人たちの絵でも、「プラスなんぼや」とか「これはマイナスなんぼや」とか勝手に自分で判断して、それ言ったら皆怒ってね(笑)。「何がプラス・マイナスや」って。「でもわしはその理論でないと自分の絵が描かれへん」って。

加藤:例えばプラスの方っていったら、具体の中ではどういう方になるんでしょう。

白髪:具体の中やったらやっぱり鷲見(康夫)さんとかね、嶋本昭三、そこらはプラスのほうですね。村上は「そんなもんに耳貸すのも嫌や」言うてたぐらいやからね。あの人はちょっとプラスかマイナスか分からへん。そういう存在もあるわけで。村上が言うのにはね、抽象画いうたってね、「熱い抽象」や「冷たい抽象」というのは昔の理論家が勝手に決めたことで、プラスもマイナスもきっちり当てはまるような人はいないんじゃないかと。例えばピカソなんかは色々持ってると。それからシュルレアリスムのダリとか、ああいうのはそれ当てはまらへんやないかと。まあそれはそうですわな。でもあれはあの世界でまたプラス・マイナスあると思うんですけどね。だけど大まかに熱い抽象の流れとか、冷たい抽象の流れとか、タピエが言ってて。それからもっと古い、僕が好きで読んでた、純粋絵画の本を描いた……

加藤:外山卯三郎さんですね。(注:美術評論家・美術史家。白髪が啓発された著作に『二十世紀絵画大観』(金星堂、1930年)『純粋絵画論』(第三書院、1932年)など)

白髪:あの人とか、それからもっと古いところから出てきてるみたいですね。でも「その理論を当てはめるのはなかなか難しい」と言う人もおるわけですわ。

加藤:先生は制作と同時にやはり本をたくさん読まれていらっしゃったんですね。

白髪:自分で描いてて、どこまで極端になれるか、いうことが問題やったんですな。金山くんの場合はしまいに真っ白けのカンヴァス持ってきてね、その端だけにちょっとこう色が、赤と青とあったり。今度は極端になってきて、具体の批評会へ10号ぐらいのカンヴァス持ってきて、「これが僕の作品です」言うて。「なんやこれ」って吉原治良に言われて(笑)。「いや、これが僕の選んだ作品です」って。「こんなもんただのカンヴァスやないか」って。「いや、ここの寸法とこれとあって、この質があります。これを選んだのは僕ですから、これは僕の選択した芸術作品です」とこう言う。それはまあもちろん、出品できるようなもんじゃないけど、理論的には成り立つわけですな。「はあそうか、そんなもん出品するなよ」って言われて(笑)、皆大笑いしたけど。

加藤:具体が始まった頃というのは『具体』誌がたくさん出されて、皆さんすごくたくさん文章を書かれていました。制作であれだけたくさん絵を描かれて、なおかつ文章もたくさん書かれて、非常にお忙しかったと思うんですけど、先生にとって文章を書くっていうのはどういう意味があったんでしょう。

白髪:やっぱりね、文章にして余計分かったですね。ただ絵だけ描いてたんではちょっと分からないと思うんですけど、文章を書いて、なんかこう一種の体系がはっきりしましたわ。だから「文章を書くことは良いことやな」と非常に思ったです。それで「行為こそ」とかね、もう自分のやってることが「アクション・ペインティング」なんやとか全然分からん時代ですわね。でも「行為があってこそこの絵ができるんだ」と、「行為というものを非常に大事にしたい」と。それを「行為こそ」という文章に書いてからだんだんはっきりしてきて。「足で描くだけやなしに、なんかその行為みたいな踏み出したものができへんやろか」と思ってたところへ野外展があったり、東京の小原会館で泥を使ってしたり。初めは壁土を買って壁を塗って、それをこうばーっと切り刻もうと思ったんですよ。けどそれをやったらフォンタナとひっかかりますわな。だから「同じ泥を全身で描いたらどうやろ」と思ったんが始まりですわ。それから今のパフォーマンスって言われてるものの一番きっかけになるようなものを皆がやり出した。だから文章書くことによって、なおかつ前進したということは言えると思いますわ。

加藤:吉原先生は例えば書かれた文章についてなにかおっしゃったり、ということはあったんですか。

白髪:読んでやっぱり批判されましたね。だけど僕が書いたものなんかは何にも言わなんだ。「えらい難しいこと書くんやなー」って。あの、「一の段」やら「二の段」いうて書いたでしょ。「お前の文章分からんわ」言われてね(笑)。「読んでて面白いかもしらんけど、なに言おうとしてんのか分からへん」て言われたんで。村上にも「えらいこと書くなあ」て言われたり、色々しましたけどね。でも文章書くことで非常に皆が向上したと思いますわ。だから次の段階、すなわちステージを使った具体美術、ああいうものもそれでできたと思いますね。東京で具体展やったときも新聞関係の人、メディアの連中を呼んできてね、見てもらうって言って各自やりましたわ。それがもとになって、舞台でやろかと。それで舞台でやったから結局一種のパフォーマンスになったわけですね。

池上:皆さんは、文章を書かれた、その文章自体も作品というふうに考えていらっしゃるところはあったんでしょうか。

白髪:あんまりそれは考えてないね。文章はただ単に自分の思ってることを文字にしただけぐらいしか思ってなかった。それを残してどないしようとか、もっと良い文章とか長い文章を書こうとか、そういう気は全然なかったから。こっちは絵を描くことが仕事なんだと思ってましたからね。

加藤:次に作品についてお聞きしたいんですが。先生はほんとにごく初期から、少しグロテスクなものに興味を持っていらっしゃったと思うんですけれども。

白髪:あれはね、なにしろ足で描き出した時に、勇ましいもの、勇ましい絵を描こうと。それから、何ができあがるか分からんけど、できたものが迫力があって異様なもんであってほしいと、そう思ってたんですよね。でもその異様なものっていうのが、なかなか出てこないわけですわ。そこで異様なものを見たり聞いたり、読んだりしたらそういうものが出てくるんちゃうかなと。鉄砲打ち始めたんもそれなんですけどね。それであの、異様なものって言っても、そうそこらに転がってるわけやなしね。それで国芳なんかの化け物の浮世絵とか、そういうふうなものを見たり。それから外国の本で、向こうの化け物やらそういうのばっかり描いた本がありましてね。美術学校に入ったうちの孫にその本はあげてしもたんやけど。そんなもん見てるうちにだんだんこう絵に出てくるようになって、それが鉄砲打ちしてたんと重なって、それでできたのがあの猪の皮の作品ですわ。

加藤:先生は『水滸伝』とか『聊斎志異』などをほんとに昔から読んでいらっしゃったとか。

白髪:あれはね、だいぶ前から読んでました。読んでて非常に異常なものが出てきたり、光景が出てきたりするもんやから、わりと好きでね。

加藤:それはいつ頃から読んでいらっしゃったんですか。

白髪:あれを読み出したのは旧制中学の3、4年くらいからですな。

加藤:じゃあもう美術学校に入られる前からっていうことですね。

白髪:それから『水滸伝』に移ったわけですわ。『水滸伝』はもう、読んでえらい影響受けて。

加藤:例えばどういうところに影響されましたか。

白髪:『水滸伝』のね、豪傑の個性が色々ありますわな。それがわりと極端やと思ったんですよ。一人一人がね。その面白さが非常に大事やなと。だから絵を描くからには個性を、極端に自分の個性を誇張して表したほうが良いんじゃないかと。そいうふうなところへだんだん行った。それで『水滸伝』の勇ましさみたいなものとか、えげつなさみたいなね。人を毒でもって眠らせて、饅頭作って売ったりしたんが出てきますわね。ああいう黒旋風・李逵(こくせんぷう・りき)みたいなえげつない、まさかりを振り回して。まさかり振り回してるような感じで木を切るのも、そこから発想が出たぐらいですからね。それでまあ、異常なものが好きいうことで、猪の皮ができた。それから食べられないこんなくらい(手で大きさを示しながら)のね、ケーキ作ろうと思ったんですよ。ちょうど店の筋向かいがパン屋さんやったんでね、パン屋に僕よりちょっと年下のがおりましてね、「こんなパン作ってくれへんか」って絵に描いてね。「食べたいねんけど、見ただけでなんかぞっとするから食べられへん。そういうものを作りたいねんけど」って。「そんなんようしません」っていうから、それで《十六個の個体》を作ったんですわ。それから瓶詰めの作品とか。吉原先生にはあれは怒られてね(笑)。ホルマリンに内蔵を漬けて持って行ったら、「なんやこれ、臭い」って(笑)。「こんなん具体展に出さんといてや」って。

池上:それには先生、ちょっとがっかりされましたか。せっかく作ったのに「こんなん出さんといてや」って言われて。

白髪:でもそういうね、人が見てぞっとするような、嫌やなと思うようなね、ぎりぎりのところでくいとどまってなんか美が残ってると。そういうようなものをしたいと思ったんですよ。意識的に。猪の皮作って出したときに、吉原先生が「これなんや、やらしい作品やな。なんでこんなもん作ってん」って言うからね、「いや、美と醜のぎりぎりの線を表したいと思いまして」言うたら「こんなもん醜ばっかしや」って言われて(笑)。

加藤:猪の作品を制作された頃は、狩りの本格的な装備をちゃんと全部揃えられたということですが。

白髪:全身揃えて、猪狩りも何べんか行きましたしね。ところが、僕が言ったら出えへんねん、猪が。自分で撃ちとめた猪を作品にしたいと思ってたんですわ。ところが出ないからね。能勢行っても、京都の雲ヶ畑やら篠山の奥の方やら、あちこち行ったんですわ。でも出えへんねんね、僕が行ったら。それで「チクショー」と思って。他の人のところには出るねんけどね。猪狩りいうのは、だいたい一山が単位になってて、沢みたいなとこに猪は住んどるわけですわ。それを犬と勢子が追い出すんやけど、猪はどこに来るか分かりませんねん。それで麓で一人ずつ待たされるわけです。それで出てくれたら撃てるわけです。でも出えへんでねえ、僕がおるとこへ。鉄砲も良い鉄砲を買ってねえ。だけど今から思ったらねえ、散弾銃じゃなくてライフル銃やったからね、あれ撃っても当たらへんと思いますわ。

加藤:銃を撃つ練習とかされたんですか。

白髪:それはもう、旧制中学の時から射撃部に顔を出してね、姫路とかあちこちの射撃の大会に出場させられてましたからね。この腕は(撃つ格好をして)わりと自信あった(笑)。

加藤:そうですか。

白髪:それでライフル銃のほうは好きなもんやから。ライフル銃はレヴァー・アクションていって、撃ったら薬莢が飛び出して、またすぐ撃つ。大きい弾は七発入るんですわ。22口径ていう小さいのやったら、25発くらい入るんですわ。それでそれ買って、そのレヴァー・アクションの鉄砲を持って猪狩りに行ったんですわ。だから専門家の猟師のおっさんがね、「そんなもんで当たらんで」って言うんですわ(笑)「いや、当ててみせます」言うてね。だけどほんまは当たらへんと思います。走って来ますやろ、猪が。それはまともにこう来るんやからね、下手したら突っかかられるだけやと思いますわ。ライフル銃は弾がまっすぐ行って、そこだけしか当たらへんからね。ところが散弾銃やったらばーっと広がるからね。「足止め」っていって、九つ弾っていうやつがあるんですわ。それを散弾銃に込めて、これくらいのパチンコ玉くらいの弾がね、九つ入ってるんですわ。それを猪がばーっと来たら撃って、「足止め」して、それからとどめをやって、一丁上がりということに。そういうことばっかり好きで、なんかやったろうっていうのが猪の作品に。

加藤:日本刀なども持っていらっしゃいますよね。

白髪:日本刀も好きでね。今でも好きですわ。それを男の人がうちに来たら必ず持たすんですわ。一昨年くらいに宇都宮の芸大に行ってる後藤っていうのが友だちと二人で来ましてね。九月頃やったかな、一昨年の。それで日本刀を出したら恐がるんですわ。もう一人の方はそれ持って、けど後藤の方はなかなか持たへんから、「持てー!」言うたら、仕方なしに持ってね、見て、すぐ帰った(笑)。恐がる人はあれ恐がるんです。だけどうちの家内なんかもあれ好きですよ、わりと。

加藤:そうですか。

白髪:それで僕がナイフ集めててね。刃渡りがこれくらいのやつもあるんです、アメリカの。それを全部自分でかけられへんからね、日本刀は残してますけど、息子がわりと好きだから、全部息子のところに持って行った。何本くらいあるんかなあ。百本以上はあると思うな。あっちこっちで買ってね。それでメーカーが作ったんと、個人が作ったんとあるんですわ。個人が作ったんは高いけど素晴らしいんですわ。ほとんどアメリカやけどね。そんなんでナイフ集めたりもしとって。まあ全部息子にあげてすっとしました、かえって。

加藤:先ほどの『水滸伝』の豪傑のタイトルがついている作品がとても多いんですけれど、当時は吉原さんはあんまり作品にタイトルをつけるのは……

白髪:嫌がっとった。

加藤:ということで、当時は一応表立ってはこのタイトルではないけれども……

白髪:そう、タイトルは『作品』だけですわ。

加藤:でも白髪先生の中ではちゃんと、これはこう、っていうような。

白髪:裏にちゃんと書いてあってね。『水滸伝』豪傑のうちの一人、何の某と書いて。しまいに具体展は名前だけ貼って、タイトルは何もなかったですね。

加藤:以前、特にこちらの『天暴星両頭蛇』っていうのは非常にお好きな作品だと伺ったんですが。

白髪:京都にあるやつね。

加藤:はい、国立近代美術館に。

白髪:もう一点、緑で四角い大きいやつ、それとこれとが京都にあるんですけどね、これの方が僕は好きですわ。

加藤:これはどういうところが気に入ってらっしゃいますか。

白髪:なんかもうできたときに、「やあええもんできたな」と。別に深いわけはないねんけど、『天暴星両頭蛇』っていうのは、蛇の頭みたいなんがあるので、「ああちょうど出たな」って、「ああこれ両頭蛇にしよう」って。そんな簡単なことですわ。絵が描かれてる感じと豪傑の個性とが一致したら良いと。この絵と兵庫県にある『赤髪鬼』が好きですね。

加藤:先生の絵の中でも特に個性的で、一度見たら忘れられない感じですよね。そうすると、描かれた後に作品をご覧になって。

白髪:描いてから題を勝手にはめるわけですわ。とうとう二人だけなかなか絵を描き出せなかったのは最後のほうの豪傑で、泥棒なんですよね。白日鼠・白勝(はくじつ・はくしょう)っていうのと、時遷(じせん)っていうのと。それがなかなか描けなくて。あれは何年前に描いたんかな、7、8年前くらいかな。とうとう2点描いて、それで全部描き上げたんですわ、108人。ところがどこに行ったのか不明な絵があるんですわ。外国へ行ったものでね。それで1冊カラー写真に撮ったのがあって、それからカラーのプリントに直して、それ貼り付けたのを見たらね、写真もないのがある。どこに行ったのか分からないというのがかなりあるんです。だけど行った先がはっきりしてるのはそれを書き込んでね。平井さん(注:平井章一。2001年に兵庫県立近代美術館(当時)で白髪一雄展を担当。インタビュー時は国立新美術館主任研究員)にお見せして、「平井さんとうとう全部できましたわ」って。「良かったですね」って。

加藤:それが全部本になったらすごいですね。

白髪:全部揃ってて、一堂に並んだら一番すごいと思うけどね。本になってもわりと、自分で言うのもあれやけど、迫力あると思います。何しろ『水滸伝』と名のつくもんは、向こうの子ども用のやつやけど、原書で読んだりね。

加藤:じゃあもう中国語で。

白髪:旧制中学の5年、4年かな、白文ていうのがありましてね。それは現代の中国語なんですわ。それを習ったんで、だいたい読めるんですわ。原書って言っても子どもの本ですからね。あと北斎が挿絵を描いた、和綴じになったものとか。いろんな人の訳したやつとか、ほとんど読んで。人によっては非常に迫力がある人とない人とありますな。それは『水滸伝』を読んでたらよう分かりますわ。吉川英治のあれなんか、ちょっと迫力ないとこあるかな。

加藤:どの方の訳を一番好まれますか。原書に一番近いというか、先生が一番気に入ってらっしゃるのは。

白髪:駒田信二という人の訳ですかな。中国のものばっかり出版する会社から出てる、このぐらいの本で。それはね、『水滸伝』って「百回本」とか「百二十回本」とかってあるんですよ。それを全部訳して載せてるんですわ。それがやっぱり一番正統というかなんというか。その代わりね、あれ終わりの方になるとちょっと嫌になってくるとこあるんですわ。片っ端から負傷したり、かたわになったり、戦死したり、どんどんどんどん。だからやっぱり百回本くらいが一番綺麗ですね。徽宋皇帝から恩赦が出てね、(豪傑が)北宋の軍隊に入るんですよ。そこで終わってるやつのほうが読んでてあと気持ちがいい。あとはだんだんかたわになったりね、しまいには花和尚・魯智深(かおしょう・ろちしん)や林冲(りんちゅう)が中風になったりね。それで杭州の六和塔で労り合って住んでるとかね。それやら、皆墓になって並んでるとか、宋江(そうこう)が墓に入ってるのを燕青(えんせい)が参りにくるとかね。それはやっぱり嫌になりますな。

加藤:先生が《十六個の個体》を作られたあと、しばらくして猪狩りの作品を作られたりして、グロテスクなものを直接的に出している作品は、吉原さんはそんなにお好きじゃなかったということなんですが。

白髪:そうです。むしろ嫌った(笑)。

加藤:例えばもし、吉原さんが「別にそれいいよ」っていう感じだったら先生の絵画、作品はもう少し変わったものになっていたでしょうか。

白髪:そうですな。変わってたかもしれません。グロテスクなほうをもっともっとしてたらね。そのころはそういうものの方が良いように思ってね、瓶詰めの作品やら、ああいうものばっかり出品したいと思って、「足で描くの辞めますわ」って言いに行って怒られてね。「タピエも誉めとるやないか。何で足で描くの辞めんねん」って言われて。それは言うこと聞いといて良かったです。そうやなかったらこの『水滸伝』なんかも描けてなかったと思います。足で描くの辞めてしまってたら。こんな瓶詰めばっかり作ってね、あんなんしてたら。写真を現像するバットがあるでしょ。あそこへ牛の内蔵と油を入れて。「ゴールデンサラダオイル」(注:吉原治良が社長を務めた吉原製油の製品)なんですよ(笑)。「これ何やー!」って。「先生この油、先生んとこのでっせ」って。「そんなもんどうでもええわ」って怒られて。まあ色んなことあったけどね。

加藤:でもやはり、直接グロテスクなものを出さない作品を最終的にずっと続けて行かれることになったというのは吉原さんの……

白髪:直接それを出そうとしたやつはやっぱり怒られましたな。こういうの(フット・ペインティング)はそれが出てても分からへんでしょ。そのうちに、(手を合わせて拝むようにして)だんだんこっちのほうになったもんやからね(注:仏教に傾倒するようになったことを指す)、グロテスクなもんは全部辞めてしもたから。

加藤:先生が大切にされている怪奇物の本で、今尼崎(注:尼崎市総合文化センター。インタヴュー時、回顧展準備のため白髪所蔵の資料を保管していた)のほうに持って行かれている、ヴィルヘルム・ミヘル(Wilhelm Michel)っていう人が書いた、ドイツ語の本があるそうなんですけど。

白髪:え?

池上:尼崎の石橋さん(注:石橋綾。インタヴュー時は尼崎市総合文化センター学芸員)に見せていただいたんですが、ドイツ語で、『恐ろしいものとグロテスクなもの』っていうタイトルで、百枚図版が入っているものです。化け物を描いた浮世絵から、ゴヤのような西洋美術まで、図版がたくさん入っていて、先生が大事にされている本だとうかがったんですが。(注:Wilhelm Michel, Das teuflische und groteske in der Kunst, mit 103 Abbildungen, R. Piper & Co., 1919)

白髪:あれも持って行ってんのかな。資料は全部カタログ作るので持って行って、うちはもうガラガラですわ(笑)。

加藤:ではやはり、日本刀とかナイフもそうですけど、怪奇物の本もたくさん集められたということですね。

白髪:まあ本はだいぶ影響しますやろね。見たり読んだりしてね。その孫にあげた怪奇物の本は、一番有名な人で、アンソールやったかな。ゴヤなんかも出てたかな。なんせあんまり名前のないような、われわれ日本人が知らんような人が多かったですわ。今おっしゃってた本もそうでしょうな。

池上:そうですね。たくさんの図版の全部が有名な作家によるもの、という感じではありませんでした。

加藤:次に足で描かれた作品について少しお伺いしたいと思います。よくこういう作品については、アメリカの抽象表現主義の作品を先生がご存じだったかどうかがよく聞かれると思うんですが。

白髪:アメリカのほうだけやなしにね、要するに抽象表現主義らしきものやヨーロッパのそれらしいのが、2、3入った展覧会があってね。それを見に行って「ああ、面白いことやってんな」と。ポロックなんかもそのとき初めて見たんですわ、実物を。あれどこでやったんかな。大阪の百貨店かなんかやったと思うけどな。その、ポロック(Jackson Pollock)なんかも頭に残ったけど、他に「わあー」っと思ったんがあったんやけどね、名前がちょっと。影響はあんまり受けてませんけどね、感心はしたんですわ。

加藤:それは具体に入られる前ですか。

白髪:入ってからやったと思いますわ。吉原先生とその展覧会の話したん覚えてますからね。どこでやったんか、読売かなんかが持ってきて。

加藤:多分そうしたら大阪の市立美術館で、読売アンデパンダンに特別にアメリカ、フランスの作品出品があって、それだけ展示されたことがあったんですけど。

白髪:じゃあそれかな。

加藤:それが多分具体に入られる前だったと思うんですけれど。

白髪:そうですな。それ見たんかな。なんせあの時分は展覧会も見に行き倒したから、なんやややこしくなってしもてね。作品は覚えてるけど、名前は覚えてないんですわ。

加藤:どういう作品だったんですか。ご覧になって関心をもたれたのは。

白髪:名前が出てこないねんけど、フランスのあの、なんかばーっと人間の服や体をわーっとしたんがあってね。誰やったかな。フランスの有名な人ですわ。それはえらい感心したんですわ。ポロックは「きれいなあ」と思ったけどね。アクション・ペインティングも何も分からんときでしょ。だからただ絵の具ぶちまけたようなものもあったし。フランツ・クライン(Franz Kline)かな、黒いのでばーっと墨で描いたような。そんなのは印象に残ってますねん。それからマザーウェル(Robert Motherwell)とか、黒と黄色が使ってある。「ポロックよりもこっちの方が強いな」とか、そんなふうに感じたんですわ。そのフランスの人の名前が出てこないけど、人の形とか、そんなもんばっかり作ってた人ですわ。

加藤:ブラウン(James Brown)ですか。

白髪:ブラウン…… そういう名前じゃなかったように思うなあ。

加藤:でもあれもそういう感じなんですが。

池上:デュビュッフェ(Jean Dubuffet)とかではないですか。

白髪:なかなかねえ、出てこないんですよ(笑)。

加藤:それは、結構いろんな色が入っていましたか。

白髪:色はね、どすぐろーい、茶色みたいなところへ色をわーっとしたような。

加藤:もしかしたら、先生がご覧になったのは「世界・今日の美術」展かもしれないですね。その展覧会には吉原先生もお入りになって、56年だったんですけど、そのときそういう作品ありました? 私も今誰か思い出せないんですけど、図版では見ているので。

白髪:それはなんかひもで引っ張ったような作品でしたわ。同じ人ので、他のところで、暖簾みたいな汚らしい大きいの見たような気がするねんけど。

加藤:それは、引っ張られたような人の絵、ということですか。

白髪:なんか、人間の格好をしたような。絵じゃないですわ。どういうたら良いのかな。人間の形をしたような山車というか。一応絵のつもりでやってるんでしょうな。アンフォルメルの本みたらすぐ分かるんですけど。

加藤:分かりました。後で見てみます。

池上:50年代の具体というときに、アンフォルメルとの関わりはよく言われますが、それは実際にタピエとマチウが来日しているということがありますよね。でもアメリカの抽象表現主義とは直接の関係がなかった状況で、彼らの作品をどのようにお知りになられたのでしょうか。展覧会でご覧になったのが最初でしょうか。それとも、例えばポロックの作品の写真を雑誌で見たとか、そういうことはありましたか。

白髪:具体がタピエとアンフォルメルの展覧会を高島屋でやりましてね、そこでたくさん実物を見たからね。それで直接日本へ来た作家もいた。夫婦で来てた、ポール・ジェンキンス(Paul Jenkins)とか。それらはもう作品も人間も見たからね。それから自転車貼り付けたクッツァ(Christo Coetzee)。あの人は英語まで教えてくれてね。わしは語学できへんからね、村上の真横でこうして小さくなって(笑)。当たったら村上に教えてもらって。

加藤:英会話教室をされてたんですか。

白髪:英会話も何も、外国語はものすごい不得手でね。

加藤:村上さんは?

白髪:村上はわりと英語は喋れましたわ。ただね、僕はこう思ってたんですわ。ドイツ語、フランス語、まあ英語はもちろんやけど、読みだけ読めるようにしようと思ったんですわ。例えば駅の名前とかね。それは後でえらい役に立ったですわ。パリで地下鉄乗って駅名ぱっとみて、「ああここや」ってね。松本さん(注:(株)まつもとの松本武。白髪作品のエージェント)と一緒やってんけど、松本さんが読み間違ってたんか、ぼーっとしててね。「ここちゃいまっか」いうて(笑)、家内と三人、飛んで降りたことありますわ。それは合ってましてん(笑)。

加藤:それはよかったです(笑)。

白髪:それからフランス料理の店入って、日本語のメニューがないとこでも、だいたい読めたら何か分かるんですな。フランス語の読みの特色とか。マルセイユの「ユ」やったら綴りがこうとか、「e」を「う」と読むとか、「h」は読まないとか、そういう癖がね。

加藤:先生よくご存じでいらっしゃいますね。

白髪:ドイツ語もそれでだいぶ読めるようになって。会話も何もできはしません。詳しい意味は分からんのですわ。ただ読めるだけ(笑)。食べるものやったら「ケーゼ」が「チーズ」やとか。

池上:それは独学で勉強されたんですか。

白髪:そう。本買ってきてね。

加藤:タピエとかマチウはフランス語ですよね。芳賀(徹)さんが通訳されてたと思うんですけど、吉原さんは英語は喋られないんですか?

白髪:英語は喋りました。だからタピエとは英語で喋っておられた。

加藤:吉原さん以外の具体のメンバーはタピエと話をしたりしたんでしょうか。

白髪:村上なんかは英語喋れるから話しとったと思いますわ。僕は喋りかけられても全然分からへんから、吉原先生に「白髪は何にも喋れんな」て言われて。

加藤:でも吉原さんの本宅にタピエが初めて来て、具体の方々の作品をご覧になったとき、先生の作品はものすごく熱心にご覧になってたとか。

白髪:それと芦屋の前の家の庭にずらーっと並べて。それで見てもらったですね。

加藤:それで先生の作品をすごく高くタピエさんが評価されて、その後すぐブリヂストンで「世界・現代芸術」展に白髪先生と吉原さんと嶋本さんの作品を推薦されて。

白髪:田中敦子とかね、五人ほど出しました。出してもらったというか。

加藤:タピエと契約を結ばれたのは先生が一番初めだと思うんですが。

白髪:スタドラー画廊(Galerie Stadler)とね。タピエを介して、スタドラー(Rodolphe Stadler)に4年間描いた絵を送って、個展してもらって。そのときに「行くか」って先生が言うんやけど「いや、よう行きません」て。「なんでやねん」って言うから「いや、ベッドによう寝ません」て。それに「毎晩日本酒飲まな寝られません。向こうに行ったら日本酒があるかどうか」って(笑)。「ワインがあるやないか」っていうけど、「ワインではあきませんねん」って。

加藤:当時海外に送られた作品をタピエは色んな展覧会に出してたんですが、そういう展覧会に出しているっていう情報は、白髪先生はあまりお聞きになられなかったんですか。

白髪:カタログ送ってきてたからね、だいたい。だからこれはここで出してとか、経歴にそれは書けましたけどね。

池上:スタドラー画廊での個展について少しお聞きしたいんですが。

白髪:スタドラー画廊にね、4年間描いたのを送って。でもそのときにアルジェリアの連中がパリの街でプラスチック爆弾を爆発させたりしててね、物騒やったんです。

池上:独立戦争ですね。

白髪:それでタピエがパリは物騒だから、なんやったら来んでもいいって言ってくれてね。それでもう、それに甘えて行かなかったんです。今はロンドンが危ないらしい。ロンドンで11月の2日から12月の20日までね、ジュダ画廊(Annely Juda Fine Art)で2回目の個展があるんですわ。僕は今度もよう行かんけど、孫娘の下の方のがね、行きたいと。でも松本に言ったら怒られてね。「ツアーに加わるんやったらまだいいけど、個人で行ってうろうろしとったら危ない」って。それで行くの辞めさせたんですわ。僕の代わりにパーティに出たらどうかと思ったんやけどね、危ないって言われて。

加藤:白髪先生はタピエと何度もお会いになっていますが、タピエはどういう人でしたか。

白髪:そうですな、タピエは非常に優しい人という印象があります。僕が葉巻を吸うのを知ってたんで、こんな葉巻の箱を幾つもくれてね。面白いのはね、京都まで、あの時分は国鉄ですけど、JRに乗っていったんです。そしたら子どもが野球しとったんです。それ見て(しかめ面をして)こんな顔をして(笑)。アメリカと野球と、嫌いやねんね。スタドラー画廊の主人もね、僕が向こうで個展して2回ほど行きましたでしょ。「何でまあ日本人は野球があんなに好きなんか」って言うんですよ。「いやー、それは知りません。僕はあんまり好きやないから」って(笑)。「相撲は?」っていうから、「相撲もあんまり好きやないんですわ」って。だいたいサッカーとか、スポーツはみんなあきませんねん。自分がようせんもんやから。

加藤:でも先生は柔道をされていましたよね。

白髪:柔道はね、(旧制中学に最初は)絵画部がなかったから、柔道部に入ってたんですわ。柔道はかなりできて、二段のやつを投げ飛ばしたりしてたんやけどね、結局はあまり深入りせずに。

加藤:柔道の色んな受け身の姿勢が足で描かれるときにすごく役にたったとか。

白髪:役に立ちました。ひっくり返ったときなんかね。一昨年ね、2階で家内がうたたねしてて、僕が大きい椅子をまたいだら、そこに寝とったんですわ。まわり損なってひっくり返ってね、そのときにぱーんと受け身をやったんですな。それで家内の肋骨が折れましてね。こっち(腕)でぱーんとやったに違いない。僕はかまちでがーんと打ってね、これくらいの水ぶくれできて。そういうふうに柔道は役に立つんですけど、下手なところでやったら大変です(笑)。

加藤:でも骨折されなくて、不幸中の幸いといいますか。

白髪:まあそれだけで済んで。でもやっぱりそれからこっち、調子が悪いんですわ。だいぶましになりましたけどね。

池上:少し話が戻ってしまうんですが、具体といえばアンフォルメルとの関係がよく言われていて、先生のお話を伺っていても、フランスの美術界との関わりの方が、どちらかというとアメリカよりは多いような気がするんです。先生としてもフランスの美術界の方が親しみを感じられるということはありますか。

白髪:どうもね、フランス人やドイツ人の方が僕に好意持ってくれやすいんかなあ。アメリカ人はね、だいたいアメリカは、具体をちょっと(手で押しとどめるような仕草をして)こうしたんですわ。『ライフ』に取材されようとしたでしょ。あの時分ちょうどね、アメリカは自分のところの作家を優先して、外国の者をちょっとこう、除けようとした時代なんです。今も多少それはありますけどね。だからアメリカであんまり具体は受けなかった。タピエやスタドラー、ドイツのノトヘルファー(Georg Nothelfer)とか、イタリアの連中のほうが具体のことをよく知ってくれてると思いますわ。アメリカでは僕の絵は「抽象表現主義だ」ってはっきり言われて、評価はしてくれるねんけどね、それを飾ったりなんかするということになると…。それでもかなりの展覧会に参加できましたけどね。グッゲンハイムのソーホーでやったやつに呼んでくれたりとか。ロサンジェルスやサンフランシスコのいろんな展覧会に出させてくれたり。でも具体展としてはしてませんね。

池上:そうですよね。それがちょっと残念というか。

白髪:個人的に参加はするんだけどね。具体展は吉原治良が行って、あそこの画廊、なんていうところやったかな。

池上:マーサ・ジャクソン画廊(Martha Jackson Gallery)ですか。

白髪:そう、そのニューヨークの画廊でやったり。そんなのはあったんですけどね。でも後でローマとかダルムシュタットでやった具体展のような形ではアメリカではしてくれなかったですね。

加藤:そうですね、全部ヨーロッパでしたね。

池上:アメリカでヨーロッパほど具体が評価されていないことを残念に思っていらっしゃいますか。

白髪:いや、評価はしてくれるんですけどね。でも展覧会とか、個展してくれようとか、そういう気配はないね(笑)。だいたいタピエみたいな有名な批評家っていうと、(ハロルド・)ローゼンバーグ(Harold Rosenberg)とかそんなんがいるんですけど、個人としては僕のことを書いてくれたりしたんですけど、全体を取り上げようとかいうことはなかったね。(クレメント・)グリーンバーグ(Clement Greenberg)とかああいう人も、評価はしてくれるんやけど個人に限られてしまってね。僕の場合はわりと評価してくれてたみたいやけどね。

池上:展覧会があまりないということが、先生のフット・ペインティングの評価にも関係するというか、アメリカでは今は何をおいてもポロックの名声が大きくて、全然違う文脈から先生のフット・ペインティングが出て来ていても、何かこう比べられてしまうようなところがあるように思うんですが。

白髪:そうですな。ポロックの大きな展覧会がパリのポンピドゥーであったとき、こんな大きなポロックの画集が出ましてね。それにはなんかだいぶ文章も書いてくれて、ポロックに続く者、という感じで扱われてね。アメリカ人はちょっとそういうところがあるんかな。

池上:でも先生がフット・ペインティングを始められたときは、別にポロックを見て、「じゃあ足でやってやろう」と思われたわけではないんですよね。

白髪:ないんですけどね。こっちは勝手にだんだんフット・ペインティングになったんで、別にポロックの影響を受けてなったんじゃないんだけど、向こうはそう取ってるかも分かりませんわ。まあそれでも構わへんけどね。

加藤:先生がさっきポロックを「きれい」っておっしゃってましたけど、私も(先生とポロックの作品は)全然違うものに見えるんですが(笑)。(ポロックは)きれいですね、やっぱり。

白髪:それこそえげつないところがないわね。さっき言ってたそのデ、なんとかにあるような。

池上:デ・クーニングですか。

白髪:いや、デ・クーニングは僕も好きやけど、あれは絵画やから。僕が言ってるのはちょっと特殊な作家やねんね。アンフォルメルに入ってるような入ってないような。

加藤:化け物みたいなものが吊り下げてある作品ですよね。多分ジェームス・ブラウン(注:『具体』8号(アンフォルメル特集、1957年)、『具体』9号(大阪国際芸術祭特集、1958年)に図版掲載)だと思うんですが、私もうろ覚えなのでまた調べてみます。あと、先ほど私もお聞きし忘れたことがあったんですが、奥様の白髪富士子さんが1961年に具体を退会されるんですが、やはりそれは制作というよりもお家のことが忙しくなられたということだったんでしょうか。

白髪:理由はね、色々ありますけど、まず僕の邪魔になると思ったんですわ。それから子どもの教育もほったらかしになっとった。それから自分でこれ以上やるよりも、僕のアシスタントやる方がいいと、そういうふうに思ったんだと思いますね。本人に聞いてないけど。

加藤:でもほんとに、先生が制作されるときに、奥様が絵の具を用意して渡される息がすごくぴったり合っていらっしゃるんですけど(笑)。そうしましたら、富士子さんが制作をお辞めになったときからそういうことをされ出したんでしょうか。

白髪:自分が作品作ってたときからもう手伝ってくれてました。それとやっぱり、できあがりかけたときに、「これでええか」ってこっちが聞いたりするもんやから、「もうちょっとまだあかんのちゃう。もう一周りしたらどう」とかね(笑)。「もう一暴れしたらどう」とかね。そういうふうな。

加藤:そうしたら、61年に退会されるってお決めになったとき、先生は「じゃあそうしたら」っていうことで。

白髪:そうでんな。まあ、言われてやった方がよくなりますな。絵はやめどきが難しいんでねえ。特にこんな速く出来る絵はね。こつこつ毎日ちょっとずつ触って仕上げるんやったら別やけど、でもそれでもやめどきがあると思いますわ。やめどきいうのが非常に難しいんでねえ。どんな人でもそうやと思うけど、僕の場合はそのやめどきに一番関わってると。これで「しまった。やり過ぎた」ということがありますからね。

加藤:「やり過ぎた」と思われたときはどういうふうにされるんですか。

白髪:それはもう消さないとしょうがないでしょ。だからもうそのカンヴァスは全く止めてしまって、別の日に描き直すとか、最初はそうしてたんです。ところが消す方法というのを思いついて。「ここがあかんねん。ここは良いねん」というのは分かるわけですわ。だからあかんところをまず消す。それは足でがーっとやって消してもいいし、絵の具をばーっと溶いておいて、それをぶぁーっとかけて消しても良いし。その上へまたやると。その繰り返しで「ああできた」と。そんなん全然せんとだーっとできるときもありますわね。そのやめどきいうのが一番難しいんちゃうかと。この絵なんかもね(図録の1960年代前半の作品を指して)、初期のほうの絵やから、だーっと描いていって、「あ、できた」というものですわね。なかにはもうにっちもさっちもいかんようになって、消して、またやって、また消して、いうのもありますわ。でもそんな絵はね、ちょっとやっぱりあんまり良くないね。一気にできた絵の方が良いと思います。複雑に見えててもね、《赤髪鬼》なんかぱっと出来た。

加藤:この作品はほんとに国際展にもよく出ますよね。

白髪:そこらはね、一気にできて。ちょっとは暇かかったけど、ばっとできた。

加藤:ごく初期は色数がかなり限定されてますけど、だんだん非常に色数が増えて来ますよね。

白髪:その辺はねえ、色数の多い時期と少ない時期とあるかというと、そうでもないんでね。黒だけでやった次の日はものすごい色数使ったりするし。次の日って言っても、こんなんは前の絵が乾かないと次ができないから、乾いて(木枠に)貼ってちゃんと除けてからやるわけですけどね。大きい絵だったら。それで黒ばっかりの絵の次にすごい色数使ったんもできるし。だから分かりませんわ。

加藤:「次はこんな色かな」と思ったら、奥様がもうその色を出されるんですか。

白髪:だから「どうや」って聞くんですわ。そしたら「まだやり足らん」とかね(笑)。それで「やり過ぎた」というときもあるんですね。それはもう消さないとしょうがないんです。「やり過ぎた」いうのはこの頃ほとんどもうなくなったけどね。ロンドンの個展のためにね、松本氏が「全紙の紙に描いたものを絵の具で描いてくれ」っていうから、7月と8月とに2枚ずつ描いたんやけど、これが体に応えてねえ(苦笑)。

加藤:それは足で描かれたんですか。

白髪:いや、これは筆でやったんですけどね。これは縦の絵でこっちは横の絵。

加藤:本当につい最近ですね。

池上:これは大きさはどのくらいですか。

白髪:全紙です。全紙って思ったより大きいものやなあと思った。今まで全紙大に描いたことなかったんでね。だけど全紙に描いてくれっていうから。

加藤:1枚にどれくらい時間をかけられたんですか。

白髪:これは2枚描いて1日。また8月になってから2枚を1日で。でもどっちも両方足して1時間くらいしかかかってない。

加藤:水彩ですか。

白髪:いや、アクリルです。

加藤:水彩と油絵の具で描かれるときではやはり違いますか。

白髪:油絵の具の方が扱いやすいですな。なんでかって、流動感があるからね。水彩はやっぱり溶くから、足で水彩やったことあるけど、やっぱりちょっとぎこちないですな、滑りが。アクリルやったらすぐ乾いてくるんですわ。油絵の具は3日も4日もしないと固まってこないからね。

池上:先生はいつも油絵の具の流動性というものを大事にされてると思うんですが、最初に日本画科で勉強されたことのなかで、フット・ペインティングにも生きていることは何かありますか?

白髪:日本画をやってね、油絵に戻ったときに、油絵というものの良さが分かりましたな。まず絵の具が違うということ、それから考え方が違うということ。日本画の場合は空間、ものを描いてその周りの空間についてものすごくやかましく言う。だから考え方が違うんだということ、それが油絵に戻ったときによりはっきり分かりました。日本画の作家たちはこういう考え方でやっててんな、ということがね。まあ最近の日本画見てたら油絵も日本画もたいして区別はないけどね。考え方なんかも。材料はもちろん違いますけどね。

加藤:本当に先生の作品は、油絵の具の特質を全面に生かした作品だとつくづく思います。

白髪:あの、お手紙では仏教に入ったときのことを聞かれるようなことが書いてあったんですけど、これ(『大法輪』という仏教雑誌)にたまたま書かされましてね。これ読んでもらったら分かると思いますわ。僕の師匠のお座主(ざす)さんのことを書け、というのでね。良かったらお持ち下さい。

加藤:そうですか。ではありがたく頂戴します。

池上:今日はもう時間が大分経ちましたので、これを読ませていただいて、9月のインタヴューでまたお聞きするということでどうでしょうか。今日は長い時間ありがとうございました。