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末永蒼生オーラル・ヒストリー 2019年11月30日

東京のアトリエにて
インタビュアー:細谷修平、黒ダライ児、黒川典是
書き起こし:五所純子
( )は編者補
公開日:2020年11月13日

 
  撮影:黒ダライ児(Photo by KuroDalaiJee)

末永蒼生(すえなが・たみお 1944年〜)

色彩心理研究家、アートセラピスト、文筆家
1944年、戦前の前衛芸術にも関わった末永胤生の第一子として東京・池袋モンパルナスに生まれる。戦後、幼少期から高校まで長崎で育つ。1963年に上京、画家の島木律が開いた豊島芸術研究所に通い、美術活動を始める。また、画家で児童画研究家の浅利篤と出会い、日本児童画研究会に参加し、子供の絵画教室を始める。60年代には〈グループ視覚〉、〈告陰〉を結成、街頭でのパフォーマンスや映像表現を芸術と政治を横断して展開する。1970年の大阪万博が迫ると〈ゼロ次元〉らとともに〈万博破壊共闘派〉を結成し、各地で反万博活動を行なった。1970年には〈PEAK〉を結成、カウンター・カルチャー運動の一翼を担った。一方、その間も児童画研究を継続し、子供たちのためのアトリエ活動を通じて、色彩心理に基づいた無意識の研究に取り組む。70年代からは大人を対象に自由表現のワークショップを試み、1989年より色彩心理とアートセラピーの専門講座「色彩学校」を主宰する。近年は東日本大震災の被災者のためにボランティア・グループをつくるなど、アートによる心のケアの支援を行なっている。著書に『色彩自由自在』(晶文社、1994年)など多数。本オーラル・ヒストリーは、末永の幼少期の体験から現在の活動までを網羅し、末永に一貫する表現による解放の思想が語られている。なお、本オーラル・ヒストリーは、戦後日本前衛美術研究家の黒ダライ児氏、同氏の著書『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(グラムブックス、2010年)の編集者である黒川典是氏とともに行なわれた。

黒川:肉アナ(黒ダライ児『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』grambooks、2010年)が出てからもう10年くらいになりますね。

末永:早い。

黒ダ:早いですよ。そうなんですよ。

末永:でも大きかったですよね。これでやっぱり、日本におけるパフォーマンス・アートの独自性についてなんとなくしか知らなかった人が、こういうことだったのかと記録として読めたというのは大きいですよね。

黒ダ:ここ10年の間に、私より若い世代の学芸員が各地で展覧会をやったり、その図録は彼(黒川)がやったりしていますけど、そういうのがずいぶん増えてきて、だいぶ変わってきたかなという感じはしますね。でも、それでもやっぱりまだまだですよ、全然。国際的にはやっぱり日本のパフォーマンスというと、いまだに〈具体〉のばっかりといいますか。

黒川:なので、今日は満を持して〈告陰〉のことをうかがいたいわけです。

細谷:オーラル・ヒストリーですので、たとえばひとつのイベントとかハプニングにおいても人それぞれ見方があるので、今日は末永さんがどういうふうにお考えになっていたかをお聞きできればと思っています。末永さんは、抑制される意識の解放ですとか、社会にカテゴライズされてしまうことから解放していくといったところが、これまで一貫していると思っておりまして、今に続く前段階としての60年代、70年代のお話を今日はお聞きできればと思っております。

末永:はい。どのあたりから?

細谷:質問表をお送りしておりますが、最初のお生まれからうかがっていきたいと思います。

末永:そうですね。ここに書いてもらっているとおりで、1944年に東京の池袋の、「池袋モンパルナス」っていうね、一種のアートビレッジみたいに沿線がなっていたんですよね。そこで僕は生まれていて、ちょうど戦争中で、その後、東京の空襲とかいろんなことがあって。僕が生まれてから1年半くらい戦争が続いていたんですよね。もちろんそこでやっていくのは大変だということで疎開をするんですけど。どうしてそこに生まれたかというと、父親(末永胤生[たねお]、1913〜2009)が画家として活動していたんです。もともと郷里は、両親は長崎なんだけれども、東京に出てきて「池袋モンパルナス」で活動していたときに、僕が生まれているといういきさつがあるんですね。その後、戦争が激しくなって九州に疎開するんですけれども、たまたま佐賀県に親戚がいて、そっちに疎開したので、かろうじて原爆は避けられたというか、被爆しないで済んだんですよ。それで(戦争が)終わってから長崎に戻ったというような状態なんですね。今日はお見せしようと思っていた資料があって、僕が若いときに出入りしていた豊島美術研究所、そこをやってた人が島木律という画家なんだけれども、父ともつながりがあった。

黒ダ:これ(松尾一男編『島木律作品集 Ritsu Shimaki 2002』島木美智子、2003年)。

末永:そうそう、これこれ。これの僕が寄せた文章に、今ちょうど話していたようないきさつがだいたい書いてあります。

細谷:ご家族はお父様が胤生さんで絵を描いていらして、お母さんと、ご兄弟は?

末永:私が最初に生まれて、次に妹が生まれて、3番目が弟。3人兄弟です。

黒ダ:ちなみに弟さんって、朱胤(あかたね)さん?

末永:はい。

黒ダ:お兄さんが「蒼」い「生」きるですよね。

末永:色分けされた名前で(笑)。

黒ダ:妹さんは?

末永:違う(笑)。

黒ダ:だいたい(「蒼生」と書いて)タミオって読めないんですけど、なんでそういう名前を。

末永:蒼生というのはもともと漢字で、民衆、民という意味があるんですよ。中国で蒼生というと民衆ということなのね。そこからタミというふうに読んだんだと思います。

黒ダ:じゃあ朱胤はどうだったんでしょうね。

末永:朱胤の胤は父の名前から胤の字をとって。だから父親の名前をそれぞれ一字ずつもらって。詳しいことはわかりません。弟については強烈なイメージがありますね。朱という字と胤だから。

細谷:お父様はその後パリに行かれていると思うんですけれども、それは末永さんがおいくつくらいのときですか。

末永:僕が13、4歳の頃にヨーロッパに行ったりしていて、その後、本格的にパリに移住するという感じでしたね。

黒ダ:(パリへの移住は)1957年くらいで合ってますかね。

末永:そうですね。そうそう、この頃ですね。ちょうど57年ですね。翌年には父はレイモン・ダンカン国際展(不詳)に出品したりしています。

黒ダ:ずっと行きっぱなしになったのが57年頃?

末永:そうですね。その頃から向こうに生活を移すみたいな感じだったでしょうかね。

黒ダ:まだ末永さんが13歳くらいのときということですね。

末永:そうですね。

黒ダ:じゃあ、これ(8歳の蒼生と父親の写真を見せる)とか当然(父親がパリに)行く前ですよね。

末永:そうそう。それは全然小さい頃で、長崎。もう小学校は長崎なので。僕が、(昭和)20年に戦争が終わってるから、2歳くらいですかね。要するに2歳、3歳にはもう長崎のほうに戻っているんですよ。

黒川:それは疎開先の佐賀から長崎に?

末永:そうです。

黒ダ:佐賀のどこだったか覚えてますか。

末永:細かいことは覚えてないけど、ユエ(長崎県北高来郡[きたたかきぐん]湯江町、現・高来町)というところがあって。たぶん町の名前だと思うんだけど、そこで疎開生活をしてたってことはなんとなく覚えていますね。

黒川:佐賀に疎開されていたのは1年とか2年?

末永:たぶん、1年くらいですね。

黒ダ:ユエって、お湯の「湯」に江上の「江」?

末永:そんな感じですね。

黒ダ:今初めて聞きました。どっちかというと子供の頃の最初の思い出は長崎から始まる?

末永:そうですね。だから長崎の被爆した跡の、部分的には廃墟に近い状態だったでしょう、浦上のほうとかは。それから、かなり町もまだ復興する前でしたけど、そういうところで遊んでましたよね。

黒ダ:お家も焼けた?

末永:いや、家は大丈夫だったんですよ。母方の実家のほうも大丈夫で。それでしばらくは母の実家が、当時わりと大きな薬局をやっていたんですね。九州で一番大きな薬局をやっていて、なのでそこに身を寄せて、しばらく居候的に1年くらいいたのかな。それで両親も自分たちの住む場所をもって、だんだん生活を再建していくみたいな状態でしたよね。

黒ダ:その大きな薬局というのは、牟田(邦博、蒼生の母の弟の長男)さんのお家?

末永:そう。

細谷:どうですかね。お父様の印象というか、幼い頃の。

末永:とにかく絵を描くことがすべての人だったので、それ以外のことはもう二の次で、必死にどうやっていい絵を描けるかということに邁進しているという。その当時ってまだ戦争が終わって1年、2年でしょう。日本中が貧乏のどん底にいたわけだけども、けっこう絵を描いて生活していくって大変ですよね。お米を買うのに大変なときに絵なんて買わないわけだから。そんな中でぼちぼち個展をやったり、各地に旅をしながらいろんな絵を描いたりして、多少絵が売れたらまた帰ってきたりするというような、かなり貧乏生活ではありましたね。だから子供の頃から僕は、芸術家というかアーティストが普通に生きていくのはもう困難なんだなというのは身にしみていたし、またそんな中でもめげないで必死に芸術活動をやっている父というのが、どこか自分の中で素朴な憧れとしてあったと思うんですよね。

黒ダ:そうなんですね。お家の生計はまったくお父さんの絵を売る収入だけだったんですか。

末永:母がある時期、長崎のメインストリートで小さな化粧品の店を開いて、それが生活の足しになるような感じでやってたと思いますね。短い時期でしたけどね。あとはなんとか絵を売りながらやっていましたね。なんとなく僕のかすかな記憶だと、自宅で父が子供たちに絵を教えることをちょっとやったりしていた記憶がありますね。あとちょっとデザイン的な仕事をしたりしてました。そういう広告美術みたいなことをやりながら、とにかくしのいでいたという時期ですね。

黒川:お父さんから絵の手ほどきがあったんですか。

末永:具体的に技術的なこととか手ほどきを受けたわけじゃないんだけど、とにかく生まれたときからずっと見てるじゃないですか。目の前で油を混ぜて絵具を溶いてということを、もうそばで見ていた。門前の小僧じゃないけど、ずっと見ているわけですよね。何よりも父が絵を描いているときがすごく楽しそうな。絵を描くってそういうことなんだなと、空気感として自分の中に入っちゃったと思いますね。

黒ダ:特にお父さんの絵がいいとか、小さいからわからないか。

末永:良い悪いとか好き嫌いというよりも、そういうものだなというふうに思いますよね。他と比較して見ているわけじゃないので。僕にとってはその生活自体、家の中が一種の美術学校みたいな、そんな感じですよね。父がキャンバス張ったりとか、額も自分で作ったりしながら展覧会をやるじゃないですか。そういうのを全部見てたので。

黒ダ:長崎でも展覧会をやっていたんですか。

末永:やってましたよ。

黒ダ:お母さんは芸術文化に興味関心がある人だったんでしょうか。

末永:興味があるというよりも、なにせ母は、さっきも言ったように、商家のお嬢様育ちだったわけですよね。そういう芸術に対する憧れはすごかったと思います。商売やってる家なのでまったく別世界でしょう。それで強烈な憧れをもって二人が出会って、飛び込んじゃったわけだけど、飛び込んでみたら、自分は蝶よ花よで育ったわけだから、予想外の厳しい生活だったでしょうね。

黒ダ:普通は家に反対されそうですけども。

末永:それはわからないけどね。大変だったとは思いますよ、相当。予想外のことがどんどん起きるし、父も絵を描きに出て行くと、もちろん近くに行って長崎の風景を描いたりしてるけど、どこか旅に出ちゃうと2ヶ月、3ヶ月戻ってこないというのも、ままあるわけじゃないですか。そういう芸術家のライフスタイルというか生き方なので、普通の平均的な生き方とは違いますよね。だから非常に彼女にとってみれば、わくわくすることもあれば厳しい面もあるという生活だったと思いますよ。

細谷:お送りいただいたこれ(『Color link』[国際アートセラピー色彩心理協会]vol.30、2019年)に、女性たちの中で育ったというところがあって、自分の中で女性性というところがあったと。女性に囲まれて……。

末永:そうですね。父がそうやって旅に出たりして、わりと不在がちなこともあったので、だいたい母親がいつも家にいるでしょう。母の実家のほうは商売をやっていたので、お店で立ち働いている薬剤師をやってる女性だったりとか、あるいはそこでいろんな賄いとか生活面をやってるお手伝いさんとか、女性が多かったんですよ。もちろん祖母も初孫として僕をすごく可愛がってくれたし、叔母さんとか店で働いている人たちが、すごく目をかけてくれた。なんとなく女性の世界に対して馴染んでいたので、僕は大きくなってからも女性との関係が違和感がないというか、自然に馴染んでコミュニケーションできたような感じがしますね。その話とずれるかもしれないけど、思春期になってだんだん10代の終わりから20代、東京に出てきてアート活動をしてた時期は僕の中の男性性が、いわば“男性性”というものが前面に出ると思うんですよ。社会的に自分の場を作りたいとか、社会的にいろんな芸術活動をしながらアピールしていったりするわけじゃないですか。そういう能動性という意味で自分の中の男性性がすごく刺激されて、そこでやっていたと思うんだけれども、30前後、今度は子供が生まれて子育てしたりとかっていうと、また非常に柔らかい世界に立ち返っていったので、自分の人生の中で“男性性”と“女性性”とが出たり入ったりしながら、だんだんうまく自分の中でひとつになっていったかなという気はしますね。

黒ダ:考えてみたらお生まれが1944年だから、〈ゼロ次元〉の加藤(好弘)さん(1936年生まれ)とかは10年近く上じゃないですか。あのへんの世代は物心ついたときから軍国主義(の影響)を受けているわけですけど、末永さんは全然そういうのをほぼ受けないで育ったというのも、そういう家庭環境とか関係して、あまりマッチョな男性性というのをもつ、そういう人間に育たなかったのは家庭の背景があると思うんだけど。

末永:そうですね。今おっしゃったとおり、そういうことは自分の中で考えたりするんだけれども、だいたい父が毎日絵を描いたりするじゃないですか。しかも父の絵がわりと優しい絵なんですよ。彼が戦前にシュルレアリスムやキュビスムの影響を感じさせる前衛的な活動をやっていた時期があって、たまたま最近資料が出てきたのであとでお見せしますけど、〈エコール・ド・東京〉を結成して(1936年)、その頃はそういうスタイルの絵も描いたりしていたみたいだけど、基本ね、ものすごく優しい絵なんです。色もモチーフも。それを見て育っているでしょう、僕。だから男性文化みたいなものがガチッとあって、あるいは男性と女性が役割分担をしてガッチリやっているというね、そういう家庭環境じゃないわけですよ。母の実家では商売も女性のほうが一生懸命働いてる。どっちかっていうと僕は九州で長崎でしょう。女性がしっかりしてるんですよね。男は祭りで遊んでるだけみたいなところがあって。「おくんち」じゃないけど、男性はしょっちゅうお祭り騒ぎの中で遊んでいる遊び人的な要素があるんですよ。九州の中でも長崎の文化が持つ中性的なたおやかさみたいなものが影響したでしょうね、僕の中には。

黒川:美術関係でいうと、高校のときは美術部なのである程度意識的になっていたと思うんですが、お父さんを間近に見てきて、末永さんが意識して絵を描くようになったのはいつ頃からでしょう。

末永:僕は中学、高校が美術部だったんですね。勉強はそこそこしかやってなくて、たまたまなんだけど、リベラルな雰囲気のいい小中高に進んだんですよ。中学は長崎大学の付属だった。なので、あまり勉強しなくても高校にスルッと入れちゃうみたいな。高校1年でやることを中学でやってるみたいなところがあったので。高校は東高(長崎東高校)というところで、長崎ではわりと進学率が高い、当時としては有名進学校だったんですね。だから入ったのは楽だったんだけど、入っちゃったら3年間美術部に浸りきって絵を描いていた。ほとんど授業には出なくても何とかやれちゃって。卒業できたんですけどね。もう担任の先生も「末永は絵を描いてたらいいから」みたいに諦められちゃって。だから高校のときは美術部に入って、たまたま僕はそこで一応、部長というか責任者みたいなことをやっていて。

黒ダ:当時からリーダーシップがあったんでしょうか。

末永:というか、やっぱりね、美術部は女性が多かったんですよ。隣の部室がラグビー部でほとんど男性みたいな感じで。だからラグビー部の男の子が何かと僕に声かけてね、「かわいい子いる?」みたいな感じで、そういう世界ですよね。だからあとから考えて思ったのは、僕が美術部でわりと女性の部員も多い中で、みんなでグループ展をやったり活動したりして、長じてずいぶんあとになってから東京で「色彩学校」を作るんだけれども、「色彩学校」も圧倒的に女性が多いんですよ。これは「色彩学校」というネーミングも影響していて、日本では色彩の世界というとなんとなく女性の世界みたいな。結局僕は高校の美術部の続きをやってるのかな、くらいの感覚がある。つまり全然違和感がないんですね、僕にとっては。

細谷:じゃあ、お友達とか、美術部の頃の交友関係はけっこう女性が多かったですか。

末永:もちろん男性もけっこういたし、美術部の中心になるメンバーは半々くらいかな。ちょうどこの前資料がちょっと出てきて、40代になってからなんですけどね。大半は東京に出てきて活動してた高校のときの美術部のメンバー7人で集まって、1990年に長崎のギャラリーで「7人の今」展というのをやったんですよ(10月5〜9日、茱萸の舎[ぐみのいえ]画廊、長崎市)。だから当時のメンバーがここ(展覧会チラシ)にこう出てる。

黒ダ:出田繁幸も出してますね。

末永:そうそう、彼ね。水町(幸男[さちお])っていうんです。このへんはわりと親しいメンバーでしたね。

細谷:渡辺千尋さんも。

末永:そうそう。河地知木(ともき)は九州産業大学で、デザイン系の教授までいった。

黒ダ:知ってますよ。

末永:デザイナーとしてもやってたでしょう。

黒川:みんな同じ高校の美術部だったんですか。

末永:そうなんです。渡辺千尋は亡くなったけれども(2009年)、かなり版画の世界では知られた人になりましたよね。

黒ダ:このへんの人のことは、またあとでうかがいますけれども。

黒川:美術部の活動内容としては、絵を描くということですか。

末永:そうですね。人によっては美大に行く気持ちもあったと思うのでデッサンをやったり、もちろん自分の絵も描いたりしていましたけどね。美大に行くかどうか悩んでいた時代なのでね。

黒川:末永さんは美大に行こうと思ったことは?

末永:最初は思いました。僕はさっきも話したように、絵の世界で育っているので、それ以外の人生ってあまりイメージできなかったんですよ。なので、一応高校の2年と3年のときに夏休みを使って、東京のいわゆる美大進学予備校に1ヶ月通ってデッサンをやったりとか、一応受験の準備はしていたんです。でもやってるうちに、だんだんアホらしくなってきて。だってデッサンやってAだのBだのランクづけされるわけじゃないですか。僕、子供の頃ずっと絵を描いてるじゃないですか。今さらジャッジされてもな、そういうつもりで絵を描きたいんじゃないよというのがあって、これでまた(美大に)入っても4年無駄にするのかなと思ったので、もうやめたと。そこで最初のドロップ・アウトが始まっちゃった感じですよね。

黒川:じゃあ、受験自体していないんですね。

末永:してない、してない。

黒川:『肉体のアナーキズム』で取り上げた方々は、美術大学の受験までは普通に行く人が多いんですけど、末永さんの場合はなかでも屈指の美術環境にいるのに、受験にさえ至らなかったという。

末永:そうです。デッサンをやっていて、実に僕にとってはくだらなかったし、指導や評価を受けることが屈辱的な感じがしたので。

黒川:逆にそういう環境でお育ちになったから、バカらしいと言えたのかもしれないですよね。

末永:父自身がそういうことを上から言う人じゃなかったんですよ、まったく。何を描いても「好きに描けばいいんだよ」と、その一言だけだから。

黒ダ:お父さんは美大とかそういうところで美術を学んだ?

末永:彼は美大じゃなくてね、文化学院の美術部に行ったんです。そんなこともあって、(自分は)すぐにでも東京に出て美術活動をしたいなと思った(1963年2月に東京に移る)。さっきもちょっとお話したように、たまたま父の知り合いの島木律先生のアトリエに行って、わりとその前から親同士も知っていたし、東京に行くんだったら知っている場所に行って身を寄せてみようと。わりと自由にやらせてくれるところだったので。入ってすぐ何人かで〈グループ視覚〉というのを結成して、すぐ展覧会活動を始めました。さっきもお話したように、4年も大学で時間を潰すのはもったいないと思ったので、すぐやっちゃおうという感じですよね。

黒川:この本(『生きのびるためのコミューン 幻覚宇宙そして生活革命』三一書房、1973年)に1日も早く長崎を出たかったとありますが、何かあったんですか。

末永:それはね、たぶん僕の中で、長崎という町が嫌いなわけじゃないし、そこで育って愛着もあるんだけれども、そういう地域の人間関係とかもちょっと窮屈な感じがしたし、それからもうひとつは、何が大きかったんだろうな。高校まででも我慢して学校へ行ったのも、もう我慢できないところまできていたと思うんですよね。いくら自由に美術部でやっていたといっても、一応高校生活はしなくちゃいけないし、それから家庭の中の空気みたいなものも、父はそのときはほとんど海外に行ったりしていますから、いないじゃないですか。母はその中で3人子供を育てて、その家庭の、何て言ったらいいのかな、ある種のしんどさみたいな空気がありましたね。僕はわりと母が病弱だったこともあって、気にかけていたり話し相手になったり相当したんですよ。母もつらかったと思うので、どうしても最初の子である僕がそういう話し相手になるじゃないですか。そのことで、こんなことをずっとしていてもしょうがないなって。母が大変なのもわかるけど、僕は自分の人生を生きなくてはいけないというのもあって、早く出たかったというのもありますね。

黒ダ:でも、こう言っちゃ何ですけど、お母さんが、絵描きのお父さんと結婚していろいろ苦労されたので、息子にも「絵描きになんかなっちゃいけません」とかいうことはなかったですか。

末永:それはなかった。母はね、たしかに生活は厳しかったけれども、絵の世界、芸術の世界を父と共に歩いたでしょう。それ自体はね、彼女にとってすごく本望だったんです。だからずいぶんあとに父と別れたあとに、「どうだったの、あの頃? お母ちゃん、どうだったんだよ?」と僕は聞いたりするわけだけど、大変だったけども、必死に父が芸術を追求してる生活を共にすることですごく、自分も生き生きとしてたというか、生きれてたということを言ったのね。そういうのはやっぱり子供のほうからは大人のそういう内心の思いというのはわからないんですよね。

黒ダ:なんでそれを聞いたかというと、末永さんが職業として絵描きになろうと思ったのかと。

末永:そこはポイントですよね。というのは、アートの世界、美術の世界に行きたかったけど、それを生業にしたくないというのはありました。どうしてかというと、両親が、たとえば展覧会をして売れるときもあれば、売れないときもあるじゃない。そうするとやっぱり、絵を持って紹介された人のところに売りに行ったり、知り合いの会社を紹介されてということもよくあるんですよね。僕もまだ子供だったけど、ついていって、絵を見てもらって買ってもらうこともあるんだけど、売れないときもあるでしょう。そうすると「ああ」とガックリして、またその絵を担いで家に帰ってくるという、両親の苦労を見てきました。その意味で僕は絵を売って生活するというのは大変だなと思ったので、生業として絵を売るというふうには思えなかった。だから描きたい絵を描き続けたいという次元だけで、アート活動をやりたいというのがありました。

黒ダ:生業となるような職業に就こうというか、絵を続けながら生計を立てる職業に就こうという考えはなかったですか。

末永:あんまりそこまでね、19や20歳では深く考えていなくて、とりあえずアルバイトをしながら絵具代を稼いでギャラリーを借りて展覧会をやろうよ、グループでバンバンやっていこうよという勢いのときなので。ただ、これはいろんな縁だったと思うけど、さっき話した池袋の島木さんの豊島芸術研究所に行ったときに、そこでたまたま子供の絵の教室をやってたんだよ。おもしろかったの、それを覗いてみたら。手伝ってみようかなと思って1年くらい助手として仕事させてもらって、こういう世界があるんだと。だとしたら自分が身につけてきたことやこれからやろうとしている美術の世界が活かせるし。しかも絵だけで食べれないからという理由だけで教室をやるんじゃなくて、子供の教室自体にすごい世界があるんだなということを感じたのね。これはもうピッタリだと思ったんですよ。そこから、またあとで出てくるかもしれないけども、当時、日本児童画研究をやっていた浅利篤(1912〜99、画家・児童画研究家)という先生に出会うことがあったのね。つまり島木さんは浅利さんがやってる児童画研究の東京の支部の責任者だった。だからときどき浅利さんが島木さんのアトリエに来てたわけ。それでひょっこり会った、そこで。「末永といいます」と自己紹介したら、「ちょっと待ってくれよ。自分の戦前からの仲間で末永というのがいるんだけど。末永胤生だけど」「それは僕の父親です」みたいな話になって。それで彼も非常に縁を感じてくれて、何かと僕に目をかけてくれたということもあって、僕もしばらく子供の絵の研究をしてみようかなと思って入っていったわけですよ。するとけっこう奥深い世界でね。もっと言うと、時代は100年くらい前だけど、たとえばメキシコに行っていた北川民次が(ディエゴ・)リベラやフリーダ・カーロや何かとの付き合いがある中で、子供の絵の自由画運動をやっていたと。生活の中から出てくる絵に非常に価値があるんだというようなことでやってたあたりから始まって、やがて1950年あたりからアメリカの子供の絵の心理的な研究というのがあって、それが日本に入ってきたんですね。ちょうど、何て言ったらいいのかな、戦争の時代が終わった日本で、日本人が、特に美術教育の世界においてどっちに行ったらいいんだろうという混乱期ですよね。つまり戦争をしている間は兵隊さんの絵を描かせたり戦車を描かせたりしてたわけじゃない? 美術の時間、図工の時間に。それが一夜にして吹っ飛んじゃった。じゃあどっちに進んだらいいんだろうというところに研究が入ってきて、より自由な美術教育を考えていた人にとっては、ものすごい衝撃を与えたということがあったと思うんですよね。それの最初に出たのがアルシューラ(Rose Haas Alschuler)とハトウィック(Le Berta Weiss Hattwick)という人の本(原著はPainting and Personality: A Study of Young Children, University of Chicago Press, 1947.)。

黒ダ:これ、翻訳があるんですね。

末永:うん。翻訳が15年くらい前に出た(『子どもの絵と性格』文化書房博文社、2002年)。遅かったんだけど、やっと出た。その前には日本の研究者や美術教育関係者は向こうのプリントを読んだりとか、たぶん研究してたと思うんですよ。僕はこのアルシューラたちの研究をきっかけに浅利先生が出した本がものすごくおもしろかったのね。『児童画の秘密』(黎明書房、1956年)という。これは最初の彼のものですよね。彼が戦争から帰ってきて、美術教師をやりながら子供の絵の調査をしていく。するとそこに色のもつ心理的な意味とかモチーフの意味があるんじゃないかということで、ここにもたしかアルシューラたちの研究に啓示を受けたみたいなことが書いてあったと思うんだけれども、浅利さん自身、非常に個性が強烈な人で、短い間に色の意味の一覧表、シンボルの一覧表みたいなものを出して。もともとは彼もアルシューラたちの研究をもとにして生まれた〈創造美育協会〉というところのメンバーだったわけです。

黒ダ:久保貞次郎。

末永:そう。久保貞次郎や北川民次も結成(1952年)に関わってますね。どっちかっていうと〈創造美育協会〉は美術教育をベースにしながら、一種の文化運動的な面があった。だから羽仁進が関わってドキュメンタリー映画『絵を描く子どもたち』(1956年)を作っていましたよね。そういうのもあり、だから北川民次以来の自由美術教育運動みたいな流れをもっていたと思うんですよ。浅利先生はもちろんそれがベースにあるんだけど、もっと研究や調査そのものをとことんやりたいという人だった。それで彼は〈創造美育協会〉を出て、〈日本児童画研究会〉を設立して(1953年)、そこで分かれていく。そのときに同じ〈創造美育協会〉のメンバーだった3人くらいと新しい研究会を設立したといういきさつがあったわけ。60年代になると浅利先生の研究というのは美術教育や一般にも知られてきてたわけですね。毎年わりと大きな全国セミナーみたいなものを開いていた。もともと僕自身もシュルレアリスムや精神分析に興味があったこともあり、その世界に入り込んでいったんだけれども、僕は、自分でもこれは理論だけじゃなくて、10年、15年くらい、実際にやってみないとわからないなというのがあった。自分でもアトリエの教室を開いて子供たちの絵をずっと観察したり、その背景を知るために養育者と話をしたりして、いろんな絵の調査を進めていった。たしかに子供は無意識にシンボリックな表現をしているというのはわかるし、それによって今までの美術の価値観、絵として良いか悪いかという基準じゃなくて、人間はそもそも美術的な価値観のために絵を描いているのではなくて、生きるために内面から出てきたものを絵として表現しているんだと。人はなぜ絵を描くのかという原点みたいなものが、子供の表現活動の生態の中にあるんじゃないかと思って、そういう意味で非常におもしろかったんですね。アートの源流にたどり着くようなおもしろさがあった。それはちょっと風呂敷を広げた言い方をすると、岡本太郎が縄文土器に感動したりとか、ピカソがアフリカン・アートに感動したりとか、人間が近代化される前の、人間が本当に内側からの衝動でプリミティブに表現していく、それで何かを伝えようとしている。その大本を子供は毎日お絵描きを通してやっているのだ、ということを僕なりに解釈したわけ。既成の美術教育はあるお手本を見せて「こんなふうに描きなさい」と。あるいは課題を与えて「風景画を描きなさい」とか、勝手に押し付けられちゃうわけ。当然そういう中で、無意識も含めた芸術的な衝動というのは芽を摘まれていきますよね。既成の美術教育やその背景にある明治以降の西洋美術信仰に僕自身ももともと疑問をもっていたので、それとは別次元の美術へのアプローチがあるんだっていうことを実感したということがありました。色彩心理ということでその道を僕はずっと探求していくんだけども、途中でだんだん僕なりの見方が変わっていくんですね。

細谷:シュルレアリスムの影響は末永さんの中ではいかがでしたか。

末永:それはね、60年代から僕は美術活動を始めて、その頃は相当シュルレアリスムの影響というのは美術の世界にはありましたよね。60年代初め頃、日本でわりと大きなサルバドール・ダリの展覧会が行なわれて(後出)、観に行きました。ある意味、僕はピカソよりもダリのほうがおもしろかったのね。それは僕の関心が、人間の無意識がどうやって絵の上に反映していくのかということにあって、子供の絵の教育も含めて、そういう目をもっていたので、まさにぴったり結びつくようなことだったわけですよね。つまりどういうことかというと、シュルレアリスムは特にダリがそうだったけど、フロイトの研究にものすごく影響を受けてますよね。わざわざフロイトに会いに行ってるくらいですからね、彼は。それまで意識的、理性的に見た世界が描かれていた絵画の中に、無意識の世界、無意識下にうごめいているものをいかに芸術に表現していくかというのがシュルレアリスムのひとつの、アンドレ・ブルトンなんかが言ってたこともそういうことだけど、そこへ行くわけじゃないですか。そこで僕の中では、子供の絵の研究とシュルレアリスムと、あるいは精神分析の世界が、底辺で結びついちゃったということがあったんです。

黒川:末永さんの美術体験として、お父さんの作品以外に、たとえばお父さんの画室に置いてあった画集とか、ほかの作家の絵で印象に残っているものは何かありますか。

末永:子供時代はあんまりないんです。やっぱり10代終わりから20歳にかけて東京に出てきて、いろんな展覧会に行ったりしたことで、すごく自分の目がね、広がっていったという感じでしたかね。

黒川:島木さんのところでお手伝いをしているうちに子供の表現に関心をもたれて、ご自身の教室を開かれるようになるわけですが、その時期は、この本(『生きのびるためのコミューン』)には20歳の頃だとあります。

末永:そうですね、20歳の頃ですね。最初ね、1年かちょっとくらいね、島木さんの教室を手伝ってと言われて助手をやってたんですよ。その教室はね、池袋の研究所もあったんだけども、彼が巣鴨のある幼稚園と提携してそこで絵の教室をやってたのね。僕はそこを1年くらい手伝っていた。島木さんから「ここは君がやったらいいよ」と言われて、任されて1年くらいやったんですよ。そしたら突然、廃園になっちゃったの。それで、これはどこか探さないと今来てる子供たちも行き場所がなくなるよねと思って、来てる保護者の人に相談したりしてるうちに、近くにキリスト教の教会(後出)があって、その人はたまたまクリスチャンだったから、日曜日とか教会に行くじゃないですか。そこに掛け合ってくれた。そしたら非常に快く「ぜひやってください」ということで、その教会に場所を移して、そこで本格的に僕自身の責任でやるようになったというのがありましたね。それがスタートですね。

黒川:そうすると、今につながる活動の開始の時期がものすごく早くて、20歳の頃というと1964年です。1回目の〈グループ視覚〉展をやる時期と同じなんですね。

末永:そうですね。

黒川:子供の教室とご自身の前衛活動みたいなものが、その後共存する形で進んでいくわけですけど。

末永:そうです。

黒川:そのあたりの意識の切り替え、というよりもつながっているのかもしれないですけど、末永さんにとってどうでしたか。

末永:僕にとっては美術活動、〈グループ視覚〉を作ってやることも、子供の絵と向き合ってそこで意識を超えた世界を感じることもまったく同じことであって、だから自分が自由に絵も描くわけじゃないですか。子供たちにも当然そういう場を提供するし、子供たちのそういう姿を見てる以上、こっちだって刺激を受けるわけですよね、そこから。もっと子供は制限のない表現を、遊びに近いことをやっちゃうわけだから。結局、僕の美術に対する感覚もそうやって広がっていったという、相互作用があったという感じがしますね。

黒ダ:ちなみに先ほど言われた「ダリ展」、1964年9月から10月でしたね。東京プリンスホテルですよ。

末永:すごかったね。あの展覧会。

細谷:64年は大きいかもしれないですね。

黒ダ:先ほどの教会というのは、どこにあった?

末永:巣鴨の駅から歩いて7、8分のところにあって、ときわ教会というところでしたね。

黒ダ:そこはどのくらいの期間教室をやってたんですか。

末永:長かったですよ、そこは。30代の半ばくらいまではやった。15年くらいはやったな。プロテスタントの教会だったんだけどね。牧師さんが理解があって「何でも好きにやってください」という感じで自分の子供たちも通わせてくれた。最初は礼拝堂しか場所がなくて、礼拝堂をアトリエ代わりにやってたのよ。何せほら、子供たちに好きにやらせてるじゃん。絵具は飛び散るわ、アクション・ペインティング状態ですからね。でもさすがにお掃除が大変で、お掃除に時間がかかっちゃってまずいなとか思って、そしたら「図書室があるから、そっちを使っていいよ」と言われて。そこはばっちり使わせてもらって、という感じで、いいご縁をいただいて15年くらいやりましたね。

細谷:お子さんを見ていたのは、末永さんお一人で全部?

末永:基本一人で見てましたけども、ちょっと人数が多いときはお手伝い、アシスタントをお願いしてやってました。

黒ダ:そういうのって要するに一応、授業料みたいなやつを取っている?

末永:そうそう。月謝をもらいますよね。

黒ダ:それはずっと途切れなくいつも生徒がいる?

末永:波はある程度ありましたけどね。でも全然他の絵の教室とは違うわけじゃない? 教えないアトリエだから。教えないで月謝を取るのかみたいな(笑)。場所を提供してるだけだから。子供の頃からそういう自由を体験していないと、大人になってちんまりした人間になっちゃいますから。普通の絵の教室は絵が上手な子とか好きな子が行って、うまくいけばコンクールに出して、その世界に行く人もいるわけでしょう。まったく僕はそういう志向がないですから。絵描きやデザイナーにならせたいわけでもない。なってほしいわけでもない。人としてのトータルな表現力とか、あるいは自由な心をそこで養えたらいいという、そのための美術でありアートだから。美術界って狭い業界を作っているけど、そういうの人間として生きることと関係ないじゃないですか。

黒川:集まってくる子たちも、いろいろな子がいるんでしょうけれど、習い事をしに来るというよりは、自由な場ということですかね。

末永:そうですね。最初はそういう教室が他にないから習い事だと思って来ちゃうわけよ。「この子、絵を描く場所がないから連れてきました」とか。来たんだけど、好きにやらせるから子供はもちろん嬉しいですよね。僕としては教えないで好き勝手に試行錯誤やれば、必ず子供はその子なりの表現力がつくと信じているので。だって学校で美術教育やって、みんな絵を描かなくなっちゃうじゃないですか。それは自分がやりたいことをやってないから、発想力も表現力も身につかないんですよね。

細谷:(学校では)テクニックの教育が多いですからね。

末永:そう。テクニックはもう関係ないじゃない、他の職業に就いちゃったら。だからそれは確信をもって「大丈夫です」って言ってやらせてあげてた。それで親に対しては、たまたま僕は色彩心理の勉強を当時していたので、やっぱり気になる絵ってあるわけです。なんでこの子はこういう色しか使わないんだろうとか、表現のほうから見えてくるものがありますよね。親のほうも「いや、実はうちの子は引っ込み思案で集団生活がうまくいかない」とか、「幼稚園で先生に注意されてる」とかって悩みをふと漏らすわけよ。そうすると、たまたま絵を親と一緒に見ながらね、親も絵から感じることがあるわけよ。「こんな色ばっかり使ってたんですか。どうしたんでしょうね」とか。僕は若かったから怖いもの知らずもあって、子供の心理状態とか無意識というのは子供の間はね、基本、親子関係とか家庭環境とかで相当作られていると思ってるので、「子供がこういう表現をして学校や幼稚園で困ってるのは、それはお母さん、あなたの問題でしょう」という話をしてた。すると最初はぎょっとするわけだよね。「え、私の?」って。少しそういうカウンセリング的なことをやることで得心する親もいるわけよ。「そうか。私の精神状態がこの子に反映して、あるいは投影してそういうことが起きてたんだ」と。それは心理学や精神分析の概念だけれども、そういうことがわかる親もいるんだよね、それで自分が変わろうとする。子供を変えるんじゃなくて自分の在り方を見つめ直す。そう思ったときに、結果的に子供は当然変わりますよね、潜在意識は連動してるから。そうすると、そのことから口コミで来るようになるわけ。だから親がね、「うちの子はどうしてこんな色しか使えないんだろう」とか「なんで形が出てこないんだろう」と言ったときに、普通は「教えてください」と親に言われるとか(絵を)直そうとするとかだけど、今言ったような精神的な関係性で人間って生きてるから。

黒ダ:なんでさっき月謝とか聞いたかというと、お金を払うのは親だから、親御さんが末永教室に行かせてよかったと思わないといけない。しかもそれが続くわけですから。そういう社会的なニーズがちゃんとあったということですね。

末永:ありました。学校は知育偏重で心の問題は扱ってませんからね。それから障害(註:「障害」は個人の問題ではなく社会システム側の問題と末永が考えるため、あえて「障害」と記す)のあるなしにかかわらず、僕はいろんな子を受け入れてたので。かなり知的障害のある子も来てました。当然、今と違って当時は障害児に対する偏見があったりとか、生きづらさがあった。

細谷:閉じ込める形ですよね。

末永:そうそう。閉じ込めたりとかね、連れ出さないとかね。僕自身ある知的障害の子に出会ったことがその後、ものすごい影響を与えてくれたんだけれども、ダウン症の子だったんですけどね。その子は6歳で入ってきたんだけれども、絵の表現が3歳くらいの感じだったのよ。なにかと3歳みたいなことをやるわけ。粘土いじりをしたりとか絵具で手遊びをしたりとかって、2、3歳の子だったら喜んでやるの。普通だったら「遅れてる」とか言うじゃない。でも僕はね、基本的に人間というのは時間を巻き戻すことができると思ってるので、その子は3歳だったら3歳でいいんだと、3歳をまずたっぷり生き抜けばいいと、好きなだけやらせたのよ。そしたら、その子がどんどん自信をもってきて、他の子とも付き合えるようになったし、学校でも、結果的に勉強ができるようになって、担任の先生が「どうしたんでしょうね」と言うくらい。それで僕がやってることを説明したりしたのね。育ち直しというのがアートを通してできるわけですよ。その子のリズムでその子になっていけるということですよね。そういうのがまた伝わると、あそこに行くと精神面でいいことがあるらしいということで人が集って来てくれる。親はまず障害児を抱えていると世間からも白い目で見られるし、学校からも注意されるしで、苦しんでるわけ。そこからやっぱり解決の糸口が見えてくるというのがわかるわけ、親も。だから、簡単に言うと、自分の子供が差別を受けて悩んでいる親にメリットがあるから、あそこに通おう、月謝を払ってみようというふうなことになる。そういう状態ですよね。

黒ダ:これ(浅利篤『児童画の秘密』)を読むと、全部じゃないけどだいたい子供の病気とか親の、片親だとか、子供本人より家庭のすごくネガティブな問題があって、読んでいてけっこう怖くなって、やっぱり戦争の爪痕がある時代のものだから。それに対して、今まさにおっしゃったように、普通はネガティブにとられそうな状態をすべてポジティブにとらえ直していくという感じがあって。浅利さんはこれしか読んでないからわからないけど、これは浅利式と末永式の大きい違いなのかと思ったんですよ。

末永:なるほどね。そこはおっしゃるとおりで、彼は『児童画の秘密』(1956年5月)を書き、『児童画と家庭』(1956年12月)を書き、もう1冊3部作で『児童画とセックス』(1959年12月、以上すべて黎明書房)というのを書いた。これは浅利先生自身の人生経験とか人生哲学とか内面の投影があると思う。そこからいろいろ研究して、それはそれであの時代だから意味があったんですね。すごくインパクトがあったし、そういう世界を拓いたと思うんですよ。だけど僕は、僕の中で研究したり実践して変わっていったのは今黒ダさんが言ってくれたようなことで、ネガティブな面からだけ見るのかというね、人間の精神状態を。障害であれ何であれ、どんな家庭環境であれ、それは単なるネガティブなことなのかっていう。というのは、そこには社会一般のあるべき家族の形とか社会の形とかがあるから、その枠から外れたものをネガティブだと思うわけじゃないですか。もうひとつは、浅利先生が色の意味を一覧表にしてるんだけども、この本(『児童画の秘密』)のもとになってるアルシューラの本を見ると、すでに色の意味が書いてあるわけよ。色の意味についてはほとんどここに出てるわけ、最初に。もちろん浅利さんも現場で研究したんだけど、ある種、研究レベルの話で言うと追試ですよね。それはそれで意味はあると思うよ。日本の子供にとってどうかという追試をしなきゃいけないから。だからそれは日本の状況が反映したんだと思うんですよ。もしそうでない面がこの研究にあったとしたら、シンボルの意味、モチーフをシンボルと捉えたときの意味とか、構図に意味があるんじゃないかということを出したところは、彼のオリジナリティかなと僕は思う。もちろんユング派とかも構図の意味について絵から分析するのはやってますし、モチーフもそういうふうにやってるけどね。ということは、なんだかんだ言ってもやっぱりね、精神分析の影響は受けてますよ、結局は。浅利さん自身が戦前からシュールな絵を描いているから、当然フロイトのことは知ってるわけだし、無意識の言語という捉え方をしてたと思うんですよね。今黒ダさんが言ってたように、僕はやっぱり自分自身が普通の標準家庭じゃないところで育っているので、そうすると基準から言うと全然外れちゃってるわけだから、じゃあ自分の存在はネガティブなのかと思うじゃない? でもそういう標準から外れたところからさ、芸術とか文化って生まれてるわけだから。子供の絵の見方なんかが僕はぐっとゆっくり変わっていって、これ(末永蒼生「『ホール・アース・カタログ』と「自分を育てる教育」」、『spectator』vol.29、2013年)に書いたように、たとえ世間的に最悪に見えてる障害の問題とか、あるいは家庭環境の問題を、だからこそこの子はそういう独自の精神を培っているんだ、またすごい表現が生まれるようになったというふうに捉え直すようになった。それはやっぱり僕の父親が画家であったことが、どこかで僕に影響してると思いますよね。父は、絵についても「人真似をしなくていい」というのが口ぐせだったので、人生もそうなんだろうと思うようになりましたね。たぶん普通の標準的なサラリーマン生活をしていたら、美術なんて生まれてこないし、アートなんてできっこないわけであって、じゃあ人間にとってアートって何なのかということになるでしょう。僕はやっぱりアート、美術、芸術というのが、他の動物と違うすごい人間の特性だなと思っているんですよ。人類って“創造するヒト”だと思いますね。

細谷:少し話を進行したいと思います。

黒川:教室は、それぞれの親子が好きな時間に来て、好きな時間に帰るという感じなんですか。

末永:最初の頃は僕一人、あるいは二人くらいで組んでやってたので、そういうふうにしてました。たとえば午後1時くらいから5時くらいまでの間に、たらたら来たい時間に来ればいいと。結果的に幼児はわりと早い時間に来るし、小学校の子は学校が終わってから来るので3時〜4時に来て5時〜6時に帰るという状態でしたね。だいたいそういう流れでやってました。

細谷:政治的なことへの関心もあったかと思うんですけど、60年安保は、末永さんにとっては?

末永:高校生ですよね、僕。だからほとんどね、意識はそんなにそのことに目覚めてなかったですね。もちろんニュースとかワーッときて、すごいことが起きてるな、ちょっと騒然としてるなというのはわかってたけれども。僕はそのことよりも、高校の美術部のときにね、長崎って4つ有名な公立高校があって、東高、西高、北高、南高ってあるんですよ。僕は東高だった。西高にも美術部があったんですよ。それで僕は西高の美術部に声をかけて、共同で何かやろうよと言って、展覧会の企画を立てようよとか、わりと美術部の高校生同士で何か新しいことをやっていこうよというようなミーティングを開いたりしていたので、そのときの自分はまだ美術部レベルでどういう社会活動をしていくのかという方向にすごい意識がいってたと思いますね。

黒ダ:何しろ反安保運動は本当に全国民的と言ってもいいくらいのすごい運動だったから、同じ高校の中でも、あるいは近隣高校の中でも、そういう政治意識に目覚めて活動した人っていたかもしれないけど。

末永:いたかもしれないけど、僕の身近なところではあんまりいない。

細谷:当時、東京―長崎だとかなりの距離、移動時間もかなりあるわけですが、末永さんの中で、東京―長崎の感覚的な距離感はかなりありましたか?

末永:ありました。たぶん今だったら海外に行くような感じ。というのは新幹線がないじゃないですか、当時。特急に乗って25時間かかったんだよ。

細谷:1日以上ですね。

黒ダ:それは直通?

末永:そう、直通で。だから本当に海外に行くような感じでしたよね。

黒ダ:その時代でもですね。〈九州派〉の人たちは50年代から東京にがんがん行っていて、よく行ったなと。

末永:本当。

黒川:高校で上京されたのは、東京で生まれて以来になるんですか。

末永:そうです。だから高校のときに予備校に行ったりしてたのが16、7歳のときですね。

細谷:それで64年の話に戻りますけれども、〈グループ視覚〉展。そもそも〈視覚〉を作ろうよというきっかけは、末永さんが声をかけたみたいなところですかね?

末永:そうです。だいぶ(資料が)失くなってるんだけどね。これ3人。4人でやったかな(第1回展が3人、第2回展で4人、後出)。

黒ダ:(第2回グループ視覚展のパンフレットを見て)なぜか顔をこういうふうにトリミング。切り抜きをして。

末永:これが銀座の夢土画廊というところでやってたので。これで写真が一枚残ってる。

黒ダ:第1回が夢土でいいんですかね。

末永:そうですね。

黒ダ:これ(第1回展の画廊前の写真)、横に外人さんがいるんですけど。「ペンダントの即売会」は何年?(1964年)

細谷:第1回のグループ視覚展(1964年10月26日〜11月1日)で、参加者が末永さんと佐野雄次さん、それから田辺貞さん。

黒ダ:タナベサダでいいんですか。

末永:(タナベ)テイです。もうたぶん二人とも亡くなっていると思います。

細谷:このお二人とお知り合いになったのは?

末永:島木律先生の豊島芸術研究所です。彼らは普通に仕事をしてる人で、絵を描くのがすごい好きで、研究所の研究員として毎回通ってきて勤めながら絵を描いていたんですよ。わりといわゆるアーティストとしてやってる人もいれば、ごく普通の生活をしながら絵を描くという、趣味プラスもうちょっと頑張ってるくらいの人たちだったんですね。そういう意味でいろんな人が出入りできる研究所だったんですよね。

黒ダ:豊島芸術研究所でのちのメンバーのH.K.さんとか、あと先ほどの田辺さんに会った。

末永:(Hは)こっちに出てますね。

黒川:こっちは第2回展(1965年10月25〜31日、夢土画廊)。2回展からHさんが入ったということですか。

末永:そうですね。

細谷:Hさんはいつから。長崎の頃からですか。

末永:いやいや。彼女はたまたま豊島美術研究所に、デザイナーだったんだけれども入ってきて、油絵を描いたりして知り合ったという感じでしたかね。

黒ダ:もうデザインの仕事をしてたんですか。

末永:仕事もしてた。デザイナーとしても仕事をしてた、生活としては。

黒ダ:調べたら、末永さんより年上なんですね。

末永:2つくらい。

黒ダ:生まれは1941年か42年か。逮捕されたときの記事に出てくる年齢からの推測で。(〈視覚〉メンバーで)絵の作品傾向が共通したものがあると思われますか。あるいは別にあまり関係なしに。

末永:やっぱりこうやって見た感じからいっても、シュールっぽい感じがありますよね。

細谷:そういう印象を受けますね。

黒川:事務局が末永さんの住所になっているのは、声かけが末永さんだから?

末永:そう。

黒ダ:こっちは島木方になってました。

末永:そっちは連絡先はね。

細谷:でも末永さんがオーガナイズされてということですね。

末永:そうですね。

黒ダ:グループの名前は末永さんがつけたんですか。

末永:そうです。

黒ダ:亡くなったというのは佐野、田辺のことですか。

末永:そうです、その二人。

細谷:〈グループ視覚〉としては基本的に絵を描いてるということですか。

末永:絵ですね。

黒ダ:何か評論家の反応とかありましたか。

末永:いやぁ、なかったですね。

黒ダ:夢土画廊だったら普通に画廊回りで行くよね。

黒川:そうですね。

末永:だから何だろうね。むしろヨシダ・ヨシエとかさ、(シュウゾウ・アヅチ・)ガリバーとか、あのへんがどこかで知って覗いてきて遊んで行ったという感じでしたかね。

細谷:そのときもう会われていますか。

末永:会いました。

黒ダ:ヨシダさん、さすがマメな。

末永:僕がそういう平面の絵とオブジェっぽいガラクタを集めて作ったような、そんなのをやってました。

黒川:夢土画廊でやることになったのは、何かきっかけがあるんですか。

末永:いや、特に。たぶん誰かに紹介されたと思うんだけど、わりとわかりやすい場所にあるということと、もうひとつ、あまりお金がかからなかったのかもしれない。場所代が。

黒川:島木さんのところは発表会みたいなものをやるスペースはなかった?

末永:そこまではなかった。広かったけどね、アトリエは。でもギャラリー的なものまではなかった気がする。

細谷:かなり大きい(作品)ですね。

黒ダ:こういう傾向のシュール系からオブジェ的なものになっていたというのは…… 〈告陰〉結成ちょっと前ですよね?

末永:そう。

黒ダ:(会場写真を見て)これは紙コップですか。

末永:そう。いろいろ作ったのがあったんだけどね。

黒ダ:けっこうこれとか、これはすごい作り込んだ。これもバカでかいですね。これ、当時のお家ですか。

末永:そうです、はい。アパートで。アトリエふうに使ってた。

黒ダ:インスタレーション的な感じですかね、今で言う。これも紙コップかな。(写真を見ながら)このへんも視覚展? これも夢土画廊なんですか。

末永:それはね、豊島美術研究所としてやった展覧会(詳細不明)に出した気がする。

黒川:末永さんが上京されたタイミング(1963年2月)で最後の読売アンデパンダン展(同年3月)ですけど、読売アンパンを意識されたことはありますか。

末永:よく聞いてたけど、ちょうど入れ違いの時期で、そこに僕が関わることはなかったですね。

黒ダ:ただ1964だから、自主アンパン(「アンデパンダン’64」、1964年6月20日〜7月3日、東京都美術館)とかあったけど、そういうのはあまり関わりがなかったということですね。

末永:そうですね。

黒ダ:やっぱりすごく作風が何か変わってますよね。

末永:変わってる?

黒ダ:ええ。こういう不定形の絵から、こういうオブジェ……

細谷:オブジェっぽいものになっていく。

黒ダ:妙にミニマルというか。

末永:うん。

黒ダ:こういうところが当時のちょっとハードエッジ抽象の感じの。

末永:これ、田辺貞の作品だね。

黒ダ:これって、ひょっとして本物の下着を?

末永:うん、そうだと思う。

黒ダ:へえ。写真、ちゃんとあるんですね。

末永:こういう野外でインスタレーション的なことをやったり。そのときの写真。

細谷:本当だ。「美術集団グループ視覚」とありますね。

黒ダ:これ(野外展示の写真)ってひょっとして代々木(のメーデー)ですか。

末永:これは66年くらいかもしれないね。67年までいってなかった気がする。

細谷:これはどこだろう。

黒ダ:これ、テレビ(NHK『課外授業 ようこそ先輩 心の色ってどんな色?』、2007年3月3日)に出たやつですね。これ(画布の後ろから顔が見える作品)、ひょっとしてネガがあるんですか。

末永:ネガはもう今はないよ。

黒ダ:えらいプリントがきれいなんだけど。

細谷:これ、いつの野外とか覚えていらっしゃいますか。

末永:僕の記憶だとこれね、千駄ヶ谷のね、体育館の近くだった気がする。

細谷:千駄ヶ谷の体育館ですか。野外展としてやったんですか、これは作品を持っていって。

末永:そうそうそうそう。インスタレーションやったり、ちょっと作品を並べたり、野外で勝手にやってたやつじゃないかな。これがたぶんね、ちょっと写真が悪いんだけどね、視覚展のときの初日のパーティーで、ここにヨシダ・ヨシエとか佐々木耕成(?)とかね、これかわなかじゃないかな。かわなかのぶひろとか渡辺千尋とか。

細谷:かわなか氏ですね。ここに写ってますね。

黒ダ:これ、場所が?

細谷:夢土ですね。夢土のオープニングですね。(「視覚展第3回」、1966年10月24〜30日か)

末永:そういうことだね。

黒ダ:視覚展をやったのは4回でよかったですかね。

末永:4回目がもう〈告陰〉になってた気がする。だからたぶんこの1年くらい前の、野外でインスタレーションとかやってた時期から、だんだんそういう野外でのハプニング・アート的なものに自分がもう移行していってたんですよ。

黒ダ:だいたい豊島研究所ですでに野外展をやってますよね(1951年以後、池袋駅前東口広場で「青空アンデパンダン展」開催)。

末永:やってる、やってる。

黒ダ:野外でやる、それは画廊でやるのと違って、銀座の画廊とかじゃなくて、いろんな人に見せたいという。

末永:そうね。画廊の中だけじゃなくて、要するに美術の業界の中だけでということだけど、見に来る人を待ってるというそのあり方が違うなと。

細谷:自分から行くという。

末永:そう。

黒ダ:ずいぶんみんな大作。すごい大作ですね。

細谷:ちなみにヨシダ・ヨシエさんとはいつお知り合いになった? このときですか。

末永:この頃でしょうね。あの人はとにかくいろんなところに出向いて、おもしろそうなことを探して歩いてた人だから。

細谷:かわなかさんとかもこういう場に来るんですね。

末永:かわなかさんはね、どういう関係だったかというと、最初に〈告陰〉を作ったときのメンバーがいるんですね、まず。僕と横田元一郎というのがいたわけ。それにプラス、〈グループ視覚〉のときの田辺貞とかがくっついてきたわけ。で、僕と一緒に〈告陰〉をやろうよと立ち上げた横田元一郎が日大の芸術学部だった。映画をやろうとしてた。その関係でかわなかのぶひろと知り合った。それでかわなかのぶひろが〈8ジェネレーション〉というので8ミリカメラを持って撮ってた。それでよく会うようになった、新宿のジャズ喫茶で。

黒ダ:その横田を経由して?

末永:そうそう。それで1年経って、その時点だよね、〈ゼロ次元〉と出会ったのがね。

細谷:じゃあ、かわなか氏のほうが早いんですね。

末永:そう。

黒ダ:これですね。「66年前衛芸術家アクション大会」(「全国狂気見本市['66ヨヨアンデパンダン前衛芸術家亜苦庶ん大会]」、1966年5月1日、ワシントンハイツ跡メーデー特設会場)というのが、メーデーのときに代々木公園、この(現在の末永アトリエ)近くでやって。

末永:これ何年?

黒ダ:66年ですね。ここでですね、〈グループ視覚〉としてこれに出ているんですよ。

末永:そうだね。そうかもしれない。〈視群〉というのもあったんだよね。〈残党会議〉が秋山(祐徳太子)さんでしょう。〈深夜同盟暴力委員会〉というのが、ちょっと忘れたけど、夫馬(基彦)君でしょう、小説を書いてた。それから〈8ジェネレーション〉、〈ゼロ次元〉、〈ジャックの会〉。

黒ダ:けっこうすごいメンバーで。

末永:まさにこれだね。これだと思う。だから〈クロハタ〉と僕は先に出会ってて、〈クロハタ〉、かわなかのぶひろとつながっていって、秋山祐徳太子につながっていて、というところで、新宿のアートシアターでベトコンを支援しようというイベントを一晩かけてやったりしたわけ(「新宿アート・フェスティバル」、1966年12月27〜28日)。そういう流れが、あのときは〈クロハタ〉中心ですけれども、あった。その前後にわりと名古屋中心でやってた〈ゼロ次元〉が東京に出てきて参入してくる。そういう流れだった気がする。

細谷:〈クロハタ〉グループ、あるいは松江カクさんと知り合ったのは、この「新宿アート・フェスティバル」の前ですか。

末永:前です。

黒ダ:ちょっと調べたらですね、実は〈視覚〉という時点で、バラエティーハプニング展(「真夜中のバラエティーハプニング 婆羅門」、1966年10月8〜9日、千代田サロン小劇場)があって、これは〈クロハタ〉メインなんですけど、これのメインにしっかり末永蒼生と出ているんですよね。

末永:本当だ。

黒ダ:これって何をやったか覚えてます?

末永:覚えてない。だからたぶん、かわなかさんが松江カクと知り合いだったからね。その関係で松江カクと知り合った気がする。

黒ダ:かわなかさん、松江が先に会ってて。

細谷:〈クロハタ〉、松江カクよりも、かわなかさんが先なんですね、とにかく。

末永:そうそう。松江カクって新宿だったので、かわなかのぶひろもわりと新宿を活動の場にして、8ミリで撮ったりしてたので、それでたぶんつながって、松江さんの住んでいたところでよくみんな集まって、彼らはなぜか知らないけどフラメンコが好きでさ、新宿2丁目かあそこの。

黒川:(ゴールデン街の)ナナ。

末永:ナナで、フラメンコを弾く人がいたんだけど、その人(橘与四郎)が来たりして、よくたむろしてた。あのへんで飲んだりして。

黒川:松江さんは同じ長崎出身というところで何かご存知でしょうか。

末永:特にわからないです(笑)。

黒ダ:松江は(1936年生まれなので)もっと(年齢が)上で。

細谷:〈クロハタ〉グループのメンバーについて何か印象は。

黒ダ:(1968年4月の集合写真を見せる)一応こういう人たちなんですけど。

末永:そうそう。鈴木史朗っていたよね、演劇やってた人。

黒ダ:この三人(松江、鈴木と高原裕治)とも知ってますか。

末永:知ってる、知ってる。何か松江さんがやると鈴木さんがわりと舞台を作ったり演出したりとか、バックアップするようなことをやっていて、よく顔を合わせていたような。それから高原裕治というのは美術の先生だった。ナナで僕も知り合って、相当なんかちょっと感覚的にぶっ飛んだ人だったけど、おもしろい人だった。それでその後、彼は僕が関わっていた日本児童画研究会に入ってきた。

細谷:なるほど。そうだったんですね。

末永:すごい入れ込んで一生懸命やってた。

黒ダ:末永さんを通して(日本児童画研究会を)知る。

末永:そう、そうです。

黒ダ:高原って、文学ってここ(資料)に書いてるけど、小説を書いていた。

末永:そう。本(『昭和の絵金魂』近代文芸社、1996年)を書いたりしてましたよね。

黒ダ:〈クロハタ〉の人たちがやってたことに、ご自分とは共感するところがあったとか、あるいは何かすごい全然違うことをやってる感じだったのか。どういうふうに見てたでしょうか。

末永:〈クロハタ〉自体? 僕は最初にやった野外街頭でこういうパフォーマンスをやるっていうのは、最初に強烈なインパクトを受けたのは松江さんの〈クロハタ〉でしたから。おもしろいなと思って、よく彼らと会ってたのね。彼は〈クロハタ〉という名前で非常にアナーキーな活動形態をとってたと思うんですよ。だから美術とかそういう世界にも関わるけど、それ以上に政治的な志向が強かったので、第二次羽田闘争(1967年11月12日)とかあのあたりは僕も彼も現場に行ったし、当時ちょっと8ミリで記録を撮ったりしてたこともあるんですよ。だから非常にボーダーレスに活動しているということでは、松江さんは僕に最初の啓示を与えてくれた人だったし、僕自身もちょうどその頃に、きっかけはベトナム反戦運動だったんだけども、いろんな市民団体が反戦デモを始めたり集会を始めたりしてたのね。その中でわりと早くからやってたのが〈声なき声の会〉っていう。有名ですよね、小林トミさん。彼女の集会に僕は行くようになったんですね。だから美術の世界の枠組みからどんどん出ていって、社会全体の時代性みたいなものにどうコミットしていくかというのがちょうどこの時代、66年、67年くらいで。それで結局、〈声なき声の会〉が〈ベ平連〉になって、組織的な実態としては広がっていくんだけども、また僕は〈ベ平連〉と関わっていたので、もうちょっとあとの話になると〈万博破壊共闘派〉のときに彼らと反博でタイアップするということが起きたわけですね。

細谷:〈声なき声の会〉からのつながりがあったんですね?

末永:そうです。

黒ダ:(ベトナムの)北爆開始が65年からですが、それまでは末永さんの作品に見た目では政治性はないですよね。

末永:ないない、ないと思う。さっきも話したけど、もっと、シュルレアリスムの内なる人間の本質みたいなもの、無意識的な世界をどうやって意識という理性の枠を超えさせていくのかという方向に自分の意識があったわけですよね。ただ60年代のああいう市民運動は、ベトナム反戦がきっかけだったけど、それまでの共産党や左翼系の政治運動、いわばイデオロギー的なものによって突き進んでいく、あるいは展開していくものと違って、もっと多様でもっと感覚的で、そういうものが60年代の政治運動にも出てきてたじゃないですか。そのことと僕がやろうとしたシュール的な無意識的なものをどう解放するかということは、これは関係あるなと僕は思ったの。同じことをやってるんだと、実は。またそのほうがいいと思ったんですよ。つまり左翼的な観念である運動じゃなくて、もっと無意識のものを解放していく運動のきっかけとして、僕の中のベトナム反戦運動があったと思う。だからアメリカにおけるヒッピー文化がすごくつながった。たぶん僕の中に、基本的にどうボーダーレスに生きて存在していくかという感覚があって、それがちょうどあの時代の出来事を素材として僕にいろいろ刺激を与えたのかなという気がしますけどね。

黒ダ:ただ、〈声なき声の会〉とかああいう彼らたちの活動と、それから〈クロハタ〉がやっていたかなりとんでもないというか、暴力的でアナクロでアナーキーで、それはすごく違うと思うんだけど、結局、末永さんは〈クロハタ〉から刺激を受けながらもやっぱり〈クロハタ〉的じゃない方向に行ったのかなと思うけど。

末永:そうですよね。市民運動というのはやっぱり市民の感覚だからさ。あくまで市民感覚の価値観の域を出ない。だからこそ広がったけど限界も作ってしまった。徹底した個の唯一性みたいなものを追求するアートや美術とは、そこは違うわけよ。違うけども、僕としてはだからといってそこで枠を作るんじゃなくて、そういう僕の感覚でいろんなところに乱入していきたいなというのがあったという感じ。

細谷:もっと感覚的なものですね。

末永:そうそう。

黒ダ:だからこそ〈クロハタ〉との出会いが刺激になったというのがおもしろいかなと思うんですけどね。ちなみに、ちょっとあとの1967年になっちゃうんですけど、これ(『ベトナム反戦録 故由比忠之進追悼国民儀』の新宿でのパレードの写真、1967年12月1日)、名前合ってますかね。(末永、H.K.、石橋初子、鈴木、高原、橘与四郎、かわなかが特定されている。)

末永:合ってますよ。

黒ダ:わからない人が三人いるんですけど。

末永:Cさん(ヴェールをかぶった女性)がわからない?

黒ダ:キリスト教関係じゃないかっていう。わからないか。

末永:これは何のときなの?

黒ダ:これ、〈クロハタ〉、由比忠之進のときの。

細谷:パレード。追悼儀。

黒ダ:ここに〈ゼロ次元〉と糸井貫二がいるんだけど。

末永:これ、たぶんH.K.だと思う。

黒ダ:Aの人がH.K.。

末永:ここはちょっとわからないけど、たぶんね、〈告陰〉の最初の頃にやってた上島さんといたんですよ。

細谷:上島千寿子さん。このヴェールをかけている方ですね。

末永:そうそう。ちょっと変わったことをする人だった。

黒ダ:あのとき、〈天井桟敷〉の?

末永:そうそう。出入りしたりしてたから。

黒ダ:このBの男性がわからない。

末永:わからないね。これはわからないね。

黒ダ:完全に〈クロハタ〉主導の儀式に、他にも〈薔薇卍結社〉とか入ってるんだけど、もう〈告陰〉としてちゃんと参加したっていうことですよね。

末永:そうですね。

細谷:ちなみに〈クロハタ〉以外の、もちろんこのあと儀式とかでご一緒する方々もいらっしゃるんですけど、他の篠原有司男さん、ギューちゃんとか、〈ネオ・ダダ〉とかオノ・ヨーコさんとかはどういうふうにご覧になっていましたか。そんなに関心はなかったですか。

末永:篠原有司男さんというのはさ、どっちかっていうと加藤さんの世代に近い人じゃなかった?(篠原は1932年生まれ)だからちょっと前の前衛芸術家だから、岡本太郎の子供たちみたいな感じ。『前衛への道』(美術出版社、1968年)みたいな本を書いているから、岡本太郎にすごく触発された世代だと思う。もちろん僕たちも影響を受けてるけども、彼らはもっともろに受けたと思いますね。だからそういう流れの人という感じがあって、〈ゼロ次元〉の加藤さんの家のパーティーとか何かで会ったことがあるけど、それ以上は僕の中でフィットすることはなかったですね。それからオノ・ヨーコに関しては、僕は直接会ったことはないんだけど、65年頃だと思うんだけど、これは黒ダさん知ってるかもしれないけどね、アメリカの若いそういうアバンギャルド的な、活動やってる人のドキュメンタリー映画の上映会があるギャラリーであったのよ(確認できず)。

黒ダ:『ある若者たち』(監督:長野千秋、1964年)じゃなくて? アメリカのドキュメンタリーですか。

末永:アメリカの。

黒ダ:じゃあ違う。

末永:そのときに僕が見たのが、オノ・ヨーコとニキ・ド・サンファルの記録だった(確認できず)。出どころははっきりしないけど、とにかく65年くらいだと思うんです、たしか。それでね、僕自身がそうやってヨシダ・ヨシエとかガリバーとかと会ってだんだん外に意識が向いていた時期なので、つながりができてきて、情報が入ってきて。「やるから」と言われて上映会へ行って、ニキ・ド・サンファルもすごいおもしろかったし、のちに僕はニキ・ド・サンファルに興味をもつようになるんだけどね、オノ・ヨーコのパフォーマンスは「カッティング・ピース」だったかな。

黒ダ:《カット・ピース》(1964年、草月会館ホール)。

末永:《カット・ピース》、あれがすごくおもしろいなと思って。彼女が言ってるコメントがおもしろくて、要するにそれまでの芸術というのは、これが私の芸術だというのを押し付けるわけだけれども、参加する側が自由に関わってきて、参加者がどう感じるかという。今でいうところのワークショップ的な、あるいは非常にハプニング的なものを合わせたような。

黒ダ:リレーショナル・アート、インタラクティブ・アート。

末永:ですよね。だから、これってすごいおもしろいと思ったんですよ。それがちょうど僕の内側から外側へ活動が移行していく時期にすごくヒントを与えてくれたというのがありましたね。

黒ダ:その映画、どこで上映したかなんて覚えてないですよね?

末永:覚えてない。

黒ダ:聞いたことないな。

細谷:ニキ・ド・サンファルとオノ・ヨーコさんが一緒に映っているということですよね?

末永:一緒というよりも別々のものだった気がする。2本やった気がする。

黒ダ:じゃあオノ・ヨーコはオノ・ヨーコだけのフィルムだったんですか。

末永:そう。

黒ダ:それはあるかもしれないね。《カット・ピース》の映像は今でも見れるから。

末永:アメリカでそういうことが起きてることがわかり、僕の周辺では〈クロハタ〉の活動と連携していく動きがあり、そして〈ゼロ次元〉の加藤さんが東京で本格的にやるようになりという、ちょうど同時代的にそういうことがワーと吹き出している渦中に自分がいるんだなという感じがありましたね。

黒ダ:加藤さんが東京に移ったのも64年。

細谷:64年は大きい。

末永:大きいかもしれない。偶然だったとはいえ必然だったかもしれない。

細谷:オリンピックの年ですけれども。ちょっと戻っちゃうんですけど、66年の「新宿アート・フェスティバル」。〈クロハタ〉企画のベトコン支援の、これに参加されるんですけど、このときのことは覚えていらっしゃいますか。

末永:なんとなく覚えてるよ。でもこれ写真がないんだよね。よく写真があったなと思って。

黒ダ:前に夫馬さんからのメールで知ったんですけど、このヘルメットかぶってる人が二人いて、一人は夫馬さんで、もう一人、吉田司という小説書いている人だと言っていたんだけど、末永さんと思われる人はいます? この中に。

末永:この手を挙げてる人が高原さんだね。

黒ダ:そうですよね。

末永:ここではちょっとわからないな。

黒ダ:このときって、舞台上のお芝居みたいな。

末永:そう。結局ね、アートシアター新宿文化の会場全体を使って、参加者も巻き込んで、ベトコン役とそれから米軍の兵士の役と、それで機関銃をバババババーとか撃ちながら、追いかけていってダーとそのまま劇場から出ていって、新宿の通りでまたダダダダダダーと戻ってくるみたいな、なんかそういう感じでした。

黒ダ:テーマは深刻なベトナム戦争だけど、ちょっとユーモラスな感じがしちゃう。

末永:そうね。松江さんはユーモラスな感じがあったから。

細谷:吉岡(康弘)さんの連載の写真に〈クロハタ〉の回……

黒ダ:あの『宝石』の?(吉岡康弘「あるエネルギー 21世紀に挑む美術体操グループ」、 1966年4月)

細谷:『宝石』の。

黒ダ:あれにも外に出てる写真があったね。(玩具の)機関銃撃ってる。実は〈クロハタ〉の松江さんは〈視群〉というグループにかかわりがあって、そのへんがけっこう演劇的なこととか、「視群の歌」とか「ベトナム反戦の歌」とかのテーマで音楽作って、そういう演劇的なことをやってる人たちなんですね。おそらくこれが松江さんと思うんですけど。

末永:そうだね。

黒ダ:あと2階席から歩いてくる。秋山さんが何かやってたんだったかな。

末永:そう、上で何かやってたね、秋山さん。

黒ダ:兵隊の役でしたっけ。

末永:そうそう。そうだったと思う。

黒ダ:米軍のほうの、機関銃を撃つほうですか。これ、全体の演出をしてたのは?

末永:たぶん鈴木さんだと思う。特にこういう劇場を使うとなると演劇的な経験がないと。

細谷:ちょっと人数も多いし、動かさないといけないですもんね。

黒ダ:相当大掛かりなイベントだったと思うので。これはご自分で参加してみてどう思いましたか。舞台でやっているので……

末永:さっき話したことと関係するんだけども、内面から出てくるエネルギーやパワーみたいなもの、それは個人を解放していくわけだけど、そのことと社会的問題意識が本当にピタッと一致した形でできたと思うんですよ。そこが松江さんのもっている発想だったと思う。それに僕はすごく共鳴できたという感じでしたね。

黒ダ:そこは鈴木というより松江ですか。

末永:そうですね。

細谷:なるほど。

末永:だから松江さん自身がボーダーレスな人だったんだよね。みんなそれぞれ演劇畑とかさ、ナントカ畑で寄ってくるわけ。かわなかさんだったら映像の世界から寄ってくるけども、やっぱりそこから見てるしそこから表現してるわけだけど、松江さんはそれを取っ払ったところで、存在として彼がいるとオーラみたいなのがあったから。存在感があったからね。何かこうアナーキーな危なっかしいなっていう魅力があったというか。それでたぶんみんなが惹きつけられるというか。文化的にカテゴライズされていた人たちが何かそこに全体性を感じられる存在感があり、集まってきていたという感じがしますね。

黒ダ:それはもう人間の力ですね。

末永:うん。

細谷:ここでいったん休憩を入れましょうか。だいぶ、(話が飛んで)すいません。

黒ダ:本当にボーダーレスな活動をしているから。

細谷:聞き入っちゃうから。

(休憩)

細谷:66年にあさいますおさんが亡くなられたんですけれども、『生きのびるためのコミューン』のなかで、末永さんは『ゲゲ』という通信(ガリ版雑誌)でお知りになったと。

末永:そうですね。

細谷:あさいさんの印象というか、ある種の影響というか。

末永:あさいますおは、僕は直接会ったわけじゃないんですよ。両方から入ってきた。ひとつは子供の絵の研究をやっていた浅利さんのところにあさいますおが手紙を送ったか何かで関係してきてて、もうひとつは〈ゼロ次元〉のほうから送ってもらった『ゲゲ』があって、これにあさいますおの追悼特集みたいなのが。

黒ダ:(『ゲゲ』2、3号を見て)現物は初めて見た。これ、完全版じゃないかな。

細谷:全部入ってる。

黒ダ:表紙からちゃんと……

末永:遺作展(1966年9月、瀬戸市民会館)とかね、お知らせが入ってるやつでしたね。中にいろいろ彼の文章とか書いてあって。僕と共通しているといえば、まさに両方の世界に彼が関わっていたところですかね。両方の世界という意味は、美術の領域と、子供の存在を介して人間の根っこを探る方向ということ。彼もそういう意味では、いわゆる美術家とか何とかというふうに自分を規定できない。わりといろんな辺境を回りながら、一方で子供とは何かを考え続けていた人。一方で〈ゼロ次元〉的な、ああいう表現活動にも惹かれて関わっていたというところはね、似てるなと思うんですよ、感覚的に。それがたぶんね、僕の中で今もあるんだけど、結局、その2つが交差するところは何なのかと考えたときに、わかりやすい言葉というか象徴的な言葉でいうと、やっぱりエロスの問題かなというふうに僕は思うんですね。それはどういうことかというと、加藤さんは基本的にエロスということをずっと探求した人ですよね。一方、浅利さんの子供の絵の研究をずっと見ていったときに、3部作のひとつは『児童画とセックス』という本です。普通、子供の絵の研究でセックスをテーマにする人はいないと思うんだけど。ということは、浅利さんの中にものすごくエロスに対する渇望があったのではないか。これはあくまで僕の想像ですけれども。でも彼は明治の終わりに生まれた人(1912年生まれなので厳密には大正元年)。その時代の価値観で、しかも教師ということもあり、自分の中のエロスみたいなものをどうそこで収めていくか、その枠の中でやっていくかという、エロスを渇望しつつ、それを抑圧するという、両極の中で生きてた人じゃないかなと思うんですよ。でも彼は結局は、それを根っこのところで解放するところにはいけなかった人だと思いますね。たぶんいけなかった分だけ、子供の自由表現運動みたいなことを彼はやっていたんだけど、そこに彼はエロスを感じ取ろうとしてたんじゃないかなというふうに思うんですよ。加藤さんは年代も世代も違うけれども、もう少し50年代、60年代の日本の中でもね、澁澤龍彦が出てきたりとか、あるいは三島由紀夫が出てきたりして、すごくエロスというものが文学やアートのテーマになっていった時代があるじゃない。だからそれを美術、さらに推し進めたハプニングや儀式という形でもっと生に出していきたいという思いがあって、そこに加藤さんのあの表現スタイルが全部あるような気がするんですよ。このテーマについては僕自身も自分なりのアプローチがあって、大事なことと考えている。少し前に細谷さんに色彩学校のワークショップやレクチャーのテキストをお送りしたと思うんだけど、あの中でエロスとタナトスというテーマで、フロイトの話をしてるんだけど。結局、性の問題は時代が変わっても常にタブー視されていくわけですけれども、なぜ性という局部にエロスがね、押し込められてしまったのかという問題があるじゃないですか。それはやっぱり生きること全体の喜びとかそういうものが、結局フロイトの精神分析でいうと自我の問題になっていくんだけど、あるいは超自我だったりするんだけど、どんどん社会的な規範だとかそういうものによってトータルな生の喜びが閉じ込められますよね。極端な言い方をすると、生きる喜びが生殖器の中に閉じ込められてしまったのが性の問題だと思うんですよ。で、それすらもさらに管理されていくというのが近代社会における性の抑圧になってると僕は思うのね。だから逆に考えると、もっと全体的な生きる喜び、それは社会的に言えば労働の問題だったり政治の問題だったり、いろいろありますよね。どうしても共同体や国という形で統治されていく以上、そういうタブーが出てくるんだけれども、それをいろんなところで突破していって、生きていることが至上の喜びであっていいような、そういう生き方を広げていくことができれば、僕は生きる喜びを性器だけに閉じ込めなくていいんじゃないかというふうに思ってるのね。僕が子供の自由表現の場を作ってそういうことをやってるのは、やっぱり彼らが学校教育を受け始めてエロスが閉じ込められていこうとする中で、ちょっとでもエロスを手放さないで生きる感性みたいなものをもち続けてほしいなと。もしそれを封じてしまったら、それに代わるものを人は求めるじゃない? それがいろんな依存症をもたらすわけだよね。ドラッグだったりアルコールや性だったり、依存症を生み出してますよ。

細谷:極端に偏ってしまう。

末永:そうそう。それがないと生きていけなくなっちゃう。だから実は依存症を生み出しているのは、その個人の問題じゃなくて、個人の生きる喜びを閉じ込めてしまった社会システムや文化が依存症を作り出しているにすぎない。そしてさらに恐ろしい治療の名の下に抑え込まれてしまうというような状況がある。僕みたいなセラピーの仕事に関わっていると、そのメカニズムが見えてくるんですね。だからそういう意味で、エロスの解放というのは、近代文明の下敷になって息絶えだえの人間にとってものすごく大事な課題。

細谷:課題ですね。全面的な課題ではないかと、今お聞きしていて思いますね。

黒ダ:そういうふうに思われるのって、東京に来られたときがまさにオリンピックから万博へという、街がちょうど激変していく、東京がかなり変わっていくのを目の当たりにされたと思うんですけど、都会にいると近代化によって余計そういう抑圧が起こるのって多少はあるんですかね? 特に東京の都市の変化。

末永:東京ってわかりやすいですよね、その変化が。僕が最初に活動していた池袋だって、西口の奥のほうに行くと怪しい店がいろいろあったのよ。「三業地」(註:料理屋・待合茶屋・置屋を指す「三業」がある花街のことを「三業地」という。豊島区南大塚にあった。)とかいってね。僕が住んでいたアパートの、僕は3階に住んでたんだけど、1階はほとんどバーとかそういうのに使っていて、やくざが出入りしたりとか、しょっちゅう殺し合いのすごい喧嘩が起こるくらい凄まじい場所だった。なぜかそういうところに芸術家もいっぱい集まって、舞台芸術学院(豊島区西池袋にある1948年創立の演劇専門学校)があったしね、そういう芸術家の溜まり場だったんですよ、池袋というのは。作家も多かったし。僕がよく飲みに行ってたお店には檀一雄が来てたりとか、いろんな芸術家が出入りしてた。でもそれがだんだん都市開発されて整理されてのっぺらぼうになっちゃって、何かそういう無意識的なうごめきが見えにくくなり、生命力が管理されていった。非常に象徴的な時代の変化ですよね。オリンピックとか万博というのはそういうことを国家事業としてやってるようなものでさ。

黒ダ:その時代に池袋西口も見るからに変わっていったということ?

末永:変わりましたよ。のっぺらぼうになっていったというか。だけどこれは結局、18世紀、19世紀に強力に推し進められた産業革命とかね、近代化の必然的な結果ですよね。大量生産が課題になり、人間も画一的に大量生産されていく。労働者という生身のロボットと一緒だから、そういうふうに仕立て上げられていくという状況があり、そうすると当然、機械化されないはずの人間の生命というのはやっぱりどこかではみ出しますよ。

細谷:苦しくなりますからね。

末永:苦しくなりますよ。だからアートに可能性がひとつあるとしたら、そこにどう穴を開けるかという役割があると思うけど、ただそれもね、アートの専門、美術の専門業界の中に閉じ込められちゃうわけ。そこでランク付けされたり、商品価値を定められたりとかね、するわけじゃない? すると結局は、一見自由に表現しているようでいて、「あんたたち、そこの中ではいいよね」と言われてるような、檻の中で芸当やらされてるわけですよ。だから結局、60年代に僕たちが一番感じたのは、画廊を飛び出してやろうよ、美術館という檻の中じゃないよというふうになったのは、やっぱりその檻の中の管理されたエロスじゃなくて、日々生きることがエロスそのものなんだというところに行けるか行けないか、そういうところがたぶんアメリカだとアンダーグラウンド・アートとして始まり、日本もそれに呼応する形で僕たちがいろいろやったのは、そのテーマだったんじゃないかと思いますね。

黒ダ:あさいますおもたぶんそういう傾向があったと思うんだけど、さっきの『ゲゲ』のような、今でいうジンというか、その前のミニコミというか、自前の出版メディアを作って発信していくという、あさいますおはそれをいっぱいやったわけだけど、それはのちの末永さんの〈告陰〉以降の活動に……

末永:そうね。『ゲゲ』とかは直接はこのとき知らなかったんだけど、あさいますおの。僕たちが発行した『こえぶくろ』にはかなり政治的な活動のことも書いてあるし、いろんなバリエーションで、これ(『こえぶくろ』2号、1967年12月)は羽田闘争のときの写真。

細谷:誌面の使い方もおもしろいなと思って。

黒ダ:『ゲゲ』はガリ版で、『告陰通信』、『こえぶくろ』は活字で写真があって。

末永:ガリ版も少しはやったけど、『こえぶくろ』あたりから安い印刷でやってもらったんですけどね。

細谷:自分たちがやってることは自分たちで発信しようという意識がありましたか。

末永:メディアを自分でもつということね。

黒ダ:今だったら簡単にネットで作ってきちゃうんだけど、当時は。ちなみにここに加藤さんの手紙があって、「視覚、1号を送っていただきありがとう」とあるんだけど、『視覚』という冊子があったんですか。

末永:さっき見てたやつ(『視覚』2号、1967年6月10日)じゃない。

黒ダ:1号と書いてあるから。

末永:1号はもう僕のところにはないんだよね。

黒ダ:『視覚』もあったんですね。けっこう版画っぽい。

末永:これ、シルクスクリーン。下を1回ガリ版で描いて赤で刷って、上からもう1回シルクスクリーンで刷ってる。

黒ダ:見ていいですか。見たことなかったので。

末永:これ、見たことなかったっけ。

黒ダ:すごい素材感が。

細谷:先のほうの話を聞いちゃいますけど、(〈告陰〉が発行した)『こえぶくろ』や『告陰通信』について…… 『こえぶくろ』は編集方針みたいなもの、これ自体はどういうふうに誌面を作ろうと話し合って作ったのかなと思ったんですが。

末永:ある程度話し合って、もちろんみんなでわりとチームでやってたところがあるから、でもやっぱりかなり僕が方向性みたいなものを話してみんなでシェアしながら、納得できるかで、それで文章を書いてもらう。いろんな人に文章を書いてもらってて、たぶんそういうグループの作り方もそれまでとは違う感じだったと思うんですよね。

細谷:これはどういうふうに流通したのでしょう?

末永:いろんなところで出会った人たちに送りました。あとは、政治活動をやる場所に行って自分で配っちゃうとか、パフォーマンスの現場で配るとかはかなりやってましたね。1970年以降は新宿にミニコミ・センター(模索舎)ができて、『PEAK』はそこに置いてもらったりね。

黒川:基本的にはフリー・ペーパーみたいな扱いですか。

末永:そうですね。フリー・ペーパーですね。一応30円となってるんだけどね。

細谷:でも活動を知らせるのが一番の目的ですよね。

末永:そう、一番の目的だったから。

黒ダ:『こえぶくろ』もそうなんだけど、月録とあって、日付まで書いてあって、いつ誰々が何したとかちゃんと記録されてますよね。

細谷:そうなんです。『告陰通信』もそうなんですけど、これがあることで黒ダさんの年譜も構成できたということがあって、のちの世代にはすごくありがたいところがあったんですけど。『こえぶくろ』と『告陰通信』は何か違いがあったんですかね。特にはなかったですか。同時期だったと思うんですけど。

黒ダ:『告陰通信』はもうちょっとあとじゃない?(『こえぶくろ』1号は1967年8月、『告陰通信』は1・2号未発見だが3号が1968年6月)

末永:そうです、『告陰通信』はあと。

細谷:特に内容とかこういうふうな方向性でいこうというような違いはなかったですか。

末永:そんなにはなかったかもしれない。とにかく表現したくて仕方なくて、どんどん出してたっていう。

黒川:表現なんですね、これは。

末永:表現です。もちろん表現。

黒川:その一方で、記録に対する末永さんの意識というか、映像もそうなんですけど。

末永:たぶん僕の中にそういう気質があるんじゃないですか、記録魔的な。記録したい。何か自分ではそういう感じがするな。そういう癖なんだと思う。でもそれによって自分が文章を書いたりとか、認識を確認するために絶対に必要なので、記録っていうのは。

細谷:一回咀嚼するみたいな形で。

末永:そうそう。そうしないと単に情緒的、観念的な文章になったり、あるいはそういう思考になったりするのが嫌で。具体性で抑えていくというのがあるかもしれないですね。

細谷:〈告陰〉の場合は、先ほどからお話が出ているとおり、映像を撮られていますけど、政治活動のドキュメントが半分はあるじゃないですか。ドキュメントへの関心というのがあったんですかね、方向性として。

末永:ドキュメンタリーをどう捉えるかはそれぞれだと思うんだけど、特に68年のときの記録はですね、感覚で言うと、ドキュメンタリーって一見、客観的に物事を記録していくというふうな前提があるじゃないですか。普通のいわゆる好きで作っているフィルムとかそういうのじゃないわけでしょう。なんだけれども、ドキュメンタリーを撮るときにいかに客観性という幻想じゃないところで、自分固有の目線でどう捉えるかというところにこだわった気がする。だからドキュメンタリーなんだけど、自己表現、自己認識だという考え方。いわゆる客観性とかって近代的な発想ですよね。つまり、自然科学が出てきて初めてそういう概念が出てきたわけであって、それも僕は幻想だと思うんですよ、今でも、やっぱり。だから客観性という言い訳をしながら、結局人は自分の見たいものを見ているに過ぎないと僕は思うんですよ。だからそのことは明らかにしたほうがいいと思ってるわけ。そのことを認識したほうがいいというか。

黒ダ:『ドキュメンタリーは嘘をつく』(森達也著、草思社、2005年)という本がありますね。

細谷:まさしくそうですね。同意です。本当にそう思います、はい。

末永:だからたぶんそこって、主観と客観をどういうふうに自分の中で捉えるかという問題になってくると思うんですよね。結局、主観と客観は対立的に捉えられてることが多いんだけれども、徹底的に主観を推し進めていって、純粋主観みたいな形で推し進めたところに、最初の主観を突き抜けたもっと広いというのかな、人間の自我の主観を突き抜けた世界を発見するとしたら、その道程はまず主観を徹底することしかないというふうに思ってますね。そういうふうに考えないと、たぶん近代の客観や理性的な知の問題って超えられないと思ってるんですよ。

細谷:そもそも映像を撮ろうと思ったのは、〈告陰〉映画班というので、きっかけというのはあったんですかね。

末永:ひとつはやっぱり、さっき話した羽田闘争の場に行って、そのときは8ミリしか撮れなかったんだけれども、やっぱりそこに集まってる人たちの猛烈なエネルギーというか強烈なエネルギーに圧倒された。何かすごいことが起きてると思ったわけですよ。本当に世の中を180度変えるくらいのすごいことが起きてるんだなということ。それをやっぱり僕の場合は、いかに多くの人とその感覚を共有するかという、共有したい気持ちがすごく強い人なの。だからそれが僕の表現意欲につながってるのかなという気がしますね。何についてもそうなの。たとえば子供の絵の研究にしてもアーティストの色彩研究でも、いろいろ僕はやってるんだけど、それはおもしろいから、自分で。おもしろいからこそみんなと共有したいっていう。「どう、おもしろいでしょ?」っていうような、そういう気持ちかな。

黒ダ:『こえぶくろ』も結局これは声の袋なわけだから、いろんな日本各地のいろんなジャンルのいろんな人たちからいろんな声を集めるというコンセプトということでいいんですよね。

末永:そうですね。

黒ダ:それは出しているうちにだんだん広がっていって。

末永:広がりました。

黒ダ:出して成果というか、あったというか。

末永:ありました。だからたぶんこういうのをいろいろやってたことも、その後のいろんな万博破壊のムーブメントを作っていくときにはいい効果があったかもしれない。

細谷:羽田事件以外にも、これは黒ダさんにちょっと資料を見せていただいた、王子野戦病院(反対運動、1968年3月)のとか、あるいはベトナム反戦の集会、あるいは米タン闘争(米軍燃料輸送タンク車阻止行動、同年9月)。羽田事件以外の政治闘争の記録というのは何か覚えていらっしゃいますか。何か撮られた?

末永:米タン闘争はあのときだけですね。68年の新宿の騒乱事件。それ以外は69年の、あれは日比谷か銀座で……

黒ダ:(資料を指して)これですね。

細谷:日比谷野外音楽堂。

末永:そうそう。このときの、これかな。

黒ダ:いただいたDVDに記録があります。「ベトナム反戦安保粉砕沖縄闘争佐藤訪米阻止統一行動」(1969年10月10日)。異常にタイトルが長い。『こえぶくろ』とか『告陰通信』とかに文字記録もありますが、もっと他に撮ってますよね。

末永:撮ってるかもしれない。なくなっちゃって。

黒ダ:米タン闘争とか。

末永:そうそう。ほとんどそのへんのはなくなった気がする。残念だけど。この前見てもらった2本だけはね、69年のは16ミリだったのでかろうじて残ってて。あれもだいぶボロボロになったんだけどね。何とかデジタル化できてよかった。

黒ダ:他のフィルムは8ミリだったんですか。

末永:そう。

細谷:東京都写真美術館で展示したもの(「日本写真の1968」展、2013年)ですね。

末永:そうです。

黒ダ:16ミリってすごいお金がかかりますよね、8ミリと比べたら。当時8ミリは普及してただろうけど……

末永:そうね。

黒ダ:それはみんなでお金を出し合って?

末永:そう。

黒ダ:やっぱりそれは上映のことを考えて?

末永:そうです。これは絶対に上映しなきゃいけないと思ってたし、実際に大学闘争をやってるバリケードの中とか、いろいろイベントやってたじゃない? そういうところに持っていって上映したいというのもあったから、16ミリで撮っておいてよかったなって。

黒ダ:先ほど、横田さん、かわなかなんかの名前が出たけど、そういう映画の人がメンバーにいたわけですよね。

末永:でも直接にはかわなかさんもそこでは協力してくれたわけではなくて、クレジットにも出てるけど、黒木君というフーテンの子が映像のことをやってて、カメラ回すのが得意だったのね。

黒ダ:黒木直哉。

末永:うん。それで彼に撮らせるのは、僕が走っていきながら「こことここ」とか言いながら一緒に。16ミリのカメラはなかったので、おおえまさのりに借りた。おおえとその頃よく会ってた。金坂(健二)さんの家でおおえさんとよく会ってたので、「今度どうしてもあれを撮らないといけない。貸してくれる?」と言ったら貸してくれたの。

黒ダ:でもよくおおえが16ミリ持ってたな。

末永:でも彼、映画撮ってたからね。

細谷:ちょっとこれはあとになるんですけど、「フィルム・ブラックフェスティバル」というのが69年にあって、このときのプログラムに『11・12羽田闘争』と『ブラックフェスティバル10・21』も入ってるんですけど、『サイバネセックスの歌』、『ゴミちゃんの世界』というのもあるんですけど。

末永:それはもうないんですよ。

細谷:これは8ミリだったんですかね。

末永:『ゴミちゃんの世界』は16ミリだった気がする。それは黒木直哉が撮ってたんだ、たぶん。僕も見せてもらったことがあって、それでそこで上映しようよって。僕のグループ自体が枠がゆるかったのでいろんな人が来て、「自分、こういうの作ったんだけど見て」とか言って「一緒にやろうよ」と言って、会場で上映したりとか、そういう感じだったのでね。

細谷:『ゴミちゃんの世界』というのは?

末永:ゴミちゃんというのはヒッピーの女の子がいたの(宮井陸郎の「ユニット・プロ」のスタッフの五味淵純子)。あの当時、いろんなヒッピーとかフーテンのミューズがいたわけ。ちょっとおもしろい変わった子。そういうのをたまたま記録に撮ったやつだった。

細谷:これは末永さんが監督というかディレクション?

末永:いや、それはもうディレクションするほどのものじゃなくて、自然体のただの記録という感じだったと思います。

細谷:あと『サイバネセックスの歌』は?

末永:それが覚えてないんだよね。

細谷:これは本牧亭の(儀式の記録)?

末永:本牧亭のとき、そういうテーマでやってたので、もしかしたらそれを撮ってたのかもしれない。

黒ダ:黒木直哉というのは〈告陰〉のメンバーと言っていいのですか、単に映画を手伝っていたのですか。

末永:僕が黒木直哉に出会った場所はね、宮井陸郎のところだった。

細谷:ユニット・プロ?

末永:ユニット・プロだった。宮井陸郎も僕のところにときどき来てたし、僕もユニット・プロに行っていたりして、なんとなく融合して、人間関係も交流してたのよ。その中で黒木直哉がカメラがすごい得意だというのがわかって、それとは別に遊んだりしてたの。それで「じゃあ今度こういうのやるから」「手伝うよ」みたいな感じで。フーテンで髪の毛こんなひらひらでさ、染めたような感じで、それがカメラ抱えてデモの中を走ってるから、それ自体がおもしろかった。

黒ダ:そういう技術をもった人なわけですよね。でもそれはボランティアというか?

末永:そう、まったくボランティア。遊びなの。遊びの一環なの。

黒ダ:でも本当に残ってないのが残念ですね。

細谷:そうですね。ちゃんと先に訊くべきでしたが、67年、〈告陰〉結成で、「告陰」という名称について改めてお聞きしたいなと思って。「告陰宣言」がありますけれども。

末永:さっき話してる中で、流れとしては感じてもらえてると思うんだけれども、陰の世界から告げる、メッセージするということなので、やっぱり近代的な理性によって封じ込められている意識下の無意識的な世界、および生命と一体化したようなエネルギーみたいなもの、それをこそ人は回復すべきなのだということは、やっぱり一番頭に浮かんだことですよね。そこからいかに発信していくかということを、ここ(「告陰宣言」)に書いてますよ。それでたぶん今日の話の最初のほうに出たんだけど、やっぱり僕の美術活動の出発点のところでシュルレアリスムに影響を受けたということもあったので、それはずっとあったと思う。それが下敷きになってる面もあると思うんですよ。

黒ダ:これは先ほどのまさにボーダーレス的なところなんですけど、〈告陰〉としては活動のメインはパフォーマンスのほうになっていくわけですよね? もちろんメンバーがそれぞれ絵を描いたりしてますけど、それまでのシュルレアリスム的な絵じゃなくて、もっと活動というか行動というか。

末永:あの頃ってさ、けっこうそれまでの美術や芸術の分野もちょっと境界を超えていくようなところがあったと思うんですよね。演劇とかダンスとか、そういうのがもっと表に出てきたじゃないですか。だからそれもあって僕たち美術から始まった人間も身体表現ということにものすごく気持ちが向かっていったと思うんですよ。だから美術とダンスとか演劇が一体化したようなものをやりたいというのが当然あった。松江カクもそうだったし、〈ゼロ次元〉にしても〈ゼロ次元〉劇場的な世界をもっているわけですよね。だからそういうふうに視覚だけの欲求や快楽だけじゃなくて、身体を含めた全体的なものになってこそ、さっき言ってた言葉で言うとエロスの世界に行くんじゃないかな。あるいはエロスを回復するんじゃないかなというのがありますよね。そこでも身体も精神も含めて、ボーダーをどう超えていくかという、必然としてそういうふうになっていった気がするんですよ。

黒ダ:たとえば松江さんみたいなのがひとつのきっかけにはなっていたと思うんですけど、当時の演劇、いわゆる新しいアングラ演劇につながっていくものとか、舞踏ですよね。そういうのは見てましたか。

末永:見てました。

黒ダ:どう思いました?

末永:うーん。

黒ダ:唐十郎とか。

末永:あの頃は一番ね、唐十郎とか寺山修司とかっていうのが実験演劇をやっていたわけだけれども、あれはあれで、つまり時代全体をボーダーレスなものにもち上げていくという意味では、すごく彼らは大きな力を発したと思います。ただ、さっきから話を聞いてもらってるので言うと、やっぱり僕から見ると演劇なんだよ。だからこう、もちろん寺山修司はもうちょっと詩とか小説とかに広げはしたけど、やっぱりバックボーンとして演劇の人だったりとかするわけだよね、結局は。そういう意味では僕はもうちょっとアナーキーだったのかもしれない。そこで収まりきれないというか、そういうあるカテゴリーを自分のアイデンティティとして、もちたい気持ちはあったかもしれないけど、もとうとすると自分が不自由になるということをいつも感じていたのかもしれない。

細谷:ひとつのところに収まってしまうと苦しくなってしまうという。

末永:だからアイデンティティへのとらわれの問題だと僕思うんですけれども、人間って基本的にアイデンティティをもって生きようとするじゃない。そういうふうに刷り込まれるのかもしれないけど。自分独自の価値みたいなものを相手に伝えないといけないという社会生活をしてると思うんだけど、だからたとえアートや文化の世界でも、音楽家とか美術家とかダンサーとか、その道で何を追求するかはその人のアイデンティティになっていくということで、ある意味僕から見るとそれは羨ましいぐらいなのよ。この道一筋か、いいな、と。だけど僕はこの道一筋になれない。なりようがない。

細谷:それはすごい共感します(笑)。

黒ダ:個人的な共感(笑)。

細谷:僕も映画の研究で収まりきれない。

末永:だからある意味、日本人は特に茶道とか華道とかあるから道が好きなんだけど、それはそれで生き方だと思うんだけど、僕の気質や体質からいってそこはどうしても収まりきれないという。なんかつまんなくなっちゃう。

黒ダ:もちろん当時の演劇はいろいろ実験的に拡大していったわけだけど、結局、唐にしても寺山にしても言葉、舞台上ということが言葉で成立していくというのか、いくら肉体のナントカとか言っても……

細谷:特権的肉体。

黒ダ:特権的肉体といっても、やっぱり(唐十郎の演劇は)言葉ですよね。そういう言葉を使わないものをしたかったというのはありますか。言葉に依存しないというか。

末永:ありますね。僕自身は言葉は嫌いじゃないし、言葉を書くことはむしろ好きなの。好きなんだけれども、言葉ってふたつあるじゃないですか。ひとつは、初めて感じた未知のものを「これは何だ?」と思いながら、それを何とか言葉に紡ぎ出そうとするときの、詩はそうですよね。相手がわかるもわからないも自分の詩的表現になる。それは僕、本当に生きた言葉だと思うわけ。だけど1回それをやっちゃって、次に同じ言葉を使われたときには、それはもうひとつの観念になってしまうということから逃れられないわけよ。だから常にね、そういう詩的なものを生み出せる言葉こそ意味があるので、そうでないものは逆に思考を言語の制度の中に、文法の中に閉じ込めてしまうというね、危険性が常にあると僕は思っているんですよ。だからそういうのもあって、僕はいろんな表現方法を同時にやろうとした。〈告陰〉という場を作ろうとしたのは、そういうのもあったかもしれない。今考えるとね。そのときいちいち意図的にやってたわけじゃないけれども。

黒ダ:たとえば先ほどダンスと言いましたけど、舞踏って言葉を使わないじゃないですか。(細谷に向かって)だよね?

細谷:基本的に実演ではそうだったと思いますが。

末永:いや、舞踏なら何でもいいと思ったわけじゃないですよ。だけど、これはちょっとあとの80年代、90年代の話になるんだけれども、白水社から出ていたレスペック(『Les Specs』)という。

細谷:ありましたね。

末永:これ、舞台芸術を中心にやって、僕しばらく連載してたのね。だからこれに大野一雄のこととか。

細谷:拝見します(ここで見たのは1992年11月号)。

末永:あとこの流れで、シリーズでリンゼイ・ケンプ(Lindsay Kemp、イギリス出身の舞踏家・俳優)に直接会ってインタビューして。これはリンゼイ・ケンプとやったときの。

黒ダ:いつの雑誌ですか。

細谷:80年代、90年代……

末永:90年代入ってたと思う。

細谷:90年代入ってますよね。

末永:僕はリンゼイ・ケンプがすごく好きで、大野一雄も好きだったので、よく見に行ったし、たまたまこういう連載をやっていたので書いたんですけどね。

黒川:ちょっとその話の流れで、60年代に読んでおもしろかった本とか、あるいは映画とか、そのあたりで記憶に残っていることは?

末永:映画、本。うーん。映画は嫌いじゃなかったのでいろいろ見てましたけども、白水社から一冊、僕は映画についての本を書いているんですけども……

細谷:『青の時代へ』(『青の時代へ 色と心のコスモロジー』ブロンズ新社、1999年)。

末永:じゃなくて、たまたま僕はそのとき、色に特化して切り口にしてやってたのでね。色彩論的に見た映画みたいなものを一冊書いたんですよ。それで…… (本を取りに行って戻る)これは映画のことを一冊にまとめたやつで、映画を色彩的な象徴として見たときにどうなのかっていう。

細谷:『虹の映画彩』(白水社、1995年)。

黒ダ:『色彩自由自在』(晶文社、1988年)にも映画の話がいっぱいありましたよね。

細谷:そうですね。映画の話をけっこう書かれていらっしゃいますよね。

黒ダ:エッセイみたいな感じで書かれることが多い。

末永:だからどの映画ってもちろんあるんだけどね、個人的趣味としては、(ルキノ・)ヴィスコンティの映画が好きだったとかいろいろあるんだけども、その映画なら映画をどういうふうに読み解いていくかということに興味があったので、それはつまらないと人が思うような映画でも、僕から見るとすごくおもしろい部分があったりして、それを解読していくみたいな、そういう興味で映画は見てたんですよね。

黒ダ:舞踏については、自分が舞踏のようなことをやるということにはならなかったわけですか。

末永:そういうふうにはならなかった、うん。

細谷:せっかくというか、今映画の話になったので、60年代はいわゆるアンダーグラウンド・フィルムというのが、金坂さんとかおおえさんとかがいてあるんですけれども、当時の実験映画とか、先ほど宮井さんのお話も出ましたけど、アングラ映画をどういうふうにご覧になって、あるいはその人たちとどういうふうに関わったかというのをお聞きしたいんですけれども。

末永:岡部さん、岡部道男、彼の『クレージー・ラブ』(1968年)というのがある。あれには僕も出てる。あれは〈告陰〉の事務所に来て撮ったりしてたので、その部分が映ってるのかもしれないけど。岡部さんは“個人映画”と言ってましたけども、簡単に言えば、あの当時のアングラ映画は本当に個人映画だと思うんですよ。大文字で作られる映画じゃなくて、自分の視点でどこまで世界を見てるか、人を見てるかというものが、たぶんアングラ映画とか個人映画の意味だったと僕は思うんですよね。だからわりとあの時代の人は、最初はそういう映画を作ってますよね。松本俊夫も、大林宣彦も最初はドラキュラの映画(『EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ』、1967年)を作ってるから、あれもそうでしょう。だからまさに個人映画が台頭していったおもしろさという意味では僕は見てたし、付き合いもしておもしろかったと思うんだけれども、だけれども自分が映画作家になりたいとか映像作家になりたいとは思わなかった。だから68年のフィルムにしても、黒ダさんの『肉体のアナーキズム』が出て、それがきっかけであの頃のものが何かないかなと話になっていろいろ探して出てきたくらいで、その程度だったの、僕にとっては。

細谷:宮井さんとはけっこう親しくされたんですか。

末永:そうですね。一時期ちょっと付き合いがありましたね。

細谷:〈告陰〉の事務所に来たりとかですか。

末永:そうそう。

細谷:金坂さんとかおおえさんも、世代的には少し上ですけれども、付き合いが?

末永:そうね。彼らはフィルムコーポレーション(ジャパン・フィルムメーカーズ・コーポラティブ)とか、そういうのやってたじゃない? それでたぶん金坂さんのところによく集まってた気がする。おおえさんもよくいた、そこに。途中から全然方向性が違っちゃって、おおえさんもインドに行ったりして、精神世界のほうに行っちゃったなと思うんだけれども。

細谷:『生きのびるためのコミューン』を読んでいたら、最初60年代後半におおえさんと出会ったときに、おおえさんが幻覚共同体というのを掲げていて、それはちょっと自分には理解できなかったと書かれていたんですけど、もう少しそこが聞きたいなと思って。

末永:それはたぶん、彼がフィルムでも何かやってたけど、要するに向こうでLSDとかドラッグをやって、それによって理性を取り払うわけですよね。それで、何だろう、たぶんベトナム戦争がきっかけにはなっていると思うんだけど、あの戦争、第二次世界大戦とかもそうだし、ナチスのホロコーストもそうなんだけど、結局近代とか現代文明ってさ、ああいうことをやっちゃうということがあからさまになったんだよね。ベトナムのああいう戦争も相当そういうことを見せてくれたわけじゃないですか。そういう現代文明に対する徹底的な絶望とか不信感みたいなものが生まれてきたときに、じゃあ自分たちの精神がどこで生きるのかと。現代文明が理性や科学でやってきたって言ってた神話が崩れてしまって、そういうものが、何て言ったらいいんだろう、見殺しにしてきたものは何だったんだろうということ。人間の中の、さっきの言葉につなげて言うと、非常に全体的なエロスに生きるということをやっぱり見殺しにしてきたんじゃないかなと。だからホロコーストだけじゃなくて、この現代文明全体がエロスを閉じ込めてしまったある種の収容所状態になっていると僕は思うんですよ。その中でどうやってちょっとでも外に穴を空けて引き出していくのかということのひとつとして当時、ドラッグ・カルチャーがあったし、ロック・カルチャーがあったし、というふうに僕は思ったんですよね。だからおおえさんは、そういうドラッグ・カルチャー的なものから彼がもってきたものだと思ったけど、彼はそれをドラッグを使わないでやるにはどうしたらいいかというので瞑想の世界に行き、インドに行ったのだろうと思う。それから金坂さんも、彼がどういう人間だったか、僕は深くはわからなかったけれども、彼の文章とか雰囲気とかはすごく魅力的でした、僕にとっては。彼の文章は非常に、それこそ言葉の使い方がね、色っぽいんだよ、簡単に言うと。文章に色気があるんですよ。それがたぶん彼のアメリカで体験したことと関係ある。慶應(義塾大学)を優等生で出た彼がガラッと変わって戻ってきたというね、そういう状態でしょう。だからドラッグ・カルチャーもあれば、それ以上にそういう60年代文化全体のものを受けて彼は感動して、それを何とか日本にもってきたいというので行ったり来たりしてたのかなという感じはしていましたね。だから金坂さんの文章は、僕はわりと好きでしたね。彼の文章は非常に音楽的だったり絵画的だったり、映像的な文章を書いているんですよね。そういう感覚をもっているというか。だけど彼自身は意外とシャイなところがあって、ちょっとぶっきらぼうだったり、ちょっと人に誤解されたり嫌われそうな言動があったんだけれども、たぶん彼のコアな部分はそういう文章とか映像に出てたんじゃないかな。あるいは写真にも。写真もすごくいい。非常に自由感のある写真を撮ってますから。いわゆる一般の写真家、プロの写真家が撮れないような、本当に流動的な柔らかい空気を捉える人でしたよね。僕はそういうふうに感じてました。

細谷:続けてお聞きしてしまいますけれども、〈告陰〉は〈告陰〉グループがあって、〈ゼロ次元〉は〈ゼロ次元〉の集まりがあって、〈ゼロ次元〉というグループ、あるいは加藤好弘さん、改めて末永さんはどう見ていたのかなと。

末永:それって結局、大事なところだと僕思うんですけどね。最初のいわゆるハプニングや儀式みたいなことをやってた〈ゼロ次元〉、そして〈万博破壊共闘派〉は僕と加藤さんと秋山さんがわりと三本柱になって動いていくわけですよ。その時期以降の加藤さんというのは、ある意味で変わっていった部分があるんですよね。それを話さないと僕が彼をどう感じていたかは伝わらないかなと思っているんですけれども、彼はどっちかというとそれまでは、67、8年くらいまでは政治性を出さない人だったの。政治的なメッセージとか政治的な思考をむしろ意識的に排除しようとしていたんですよ。それはわかりますよね。やっぱり政治というものがそういう硬直した思考からきているわけだから、よりアナーキーな方向に行く人間としては、それは距離を置きますよね。むしろ政治については、たとえば安保とか、騒然としたけど、むしろそういうのはどっちかというとダサいんだ、アーティストがやることじゃないんだくらいの感じをもっていましたよ、彼は。たまたま僕は、さっきから言っているように松江さんと付き合ったり、政治も含め、いろんな分野に出入りしてあちこち動いていたので、わりとそういう制限が僕の中でなかったんですね。それで68年になり、万博問題になっていくわけですけれども、そのときに最初にですね、何か一緒にやらないかと言ってきたのが京都大学の全共闘のバリサイ実行委員で、委員長に島田(恭一)さんというのがいたんだけども、彼が僕の事務所を訪ねてきたわけ。それでアートをやってる人と組んで何かやれないかと。バリサイという言葉どおりバリケート祭だから、単に政治的な集会じゃなくて、中でいろんな音楽やったりとか、そういうこともやってたと思うんですね。僕としてはもともと自分の中にそういう志向があったので、むしろそういう政治の場面でいかにアートをやるかがおもしろいのだよっていうね。逆にいかにアートの場面で政治性をもたせるかがおもしろいんだよっていう僕の発想があったんですよ。そういうのもあって、秋山さんはもともとちょっとそういう社会運動みたいなことをやってたからね。

細谷:組合運動家でしたからね。

末永:それはピンとくるわけよ。さっきも言ったように、加藤さんはそういうのはちょっと距離を置いてた人なんですよ。それがまた彼の魅力だったんだけどね。だけどそういうことになってきて、「じゃあ、やるか」ということになったので、ある意味わりと僕の感覚で加藤さんをより政治方向に押したという感じがするわけ、今考えると。それで〈(万博破壊)共闘派〉の事務局を僕がやろうってことでやったわけですよ。やり始めたら、彼がいろんなことに気づいていくわけですよ。何に気づいたかというと、アートがやっぱり非常に硬直して、アート業界が自閉症になって上下関係を作って、評論家に認められることばかりを気にしてというね。いわば一種の堕落になっていくわけだけども、そういうことをいかに覆すかという意味では、加藤さんももともとああいう身体パフォーマンスをやってたわけ。つまり美術業界のヒエラルキーや政治性みたいなものに対してそれをどう崩すかというのは、もともと彼の発想にあったはずなんだよ。だから万博問題もピンときたはずなんだよね、やり始めてみて。それでいろんなデモとかそういう様子とかその他のメディアでも、学生運動がすごい突出してガーガーやってるときに、加藤さんは「これがアートだよ」と気づいた瞬間があった。だからまさに僕が言ったように、政治の中でアート、アートの中で政治がおもしろいっていう感覚が共有できたんだよね。それでそのまま〈万博破壊共闘派〉をキャンペーンしていこうということでキャラバンを組もうと。それで結局九州まで行くという、69年の動きになっていって。つまり僕は加藤さんがそんなふうに変わっていけたところがものすごくおもしろいと思いましたね。

黒ダ:やっぱりきっかけとしては、アートの中で政治、政治の中でアート、そういうのを実際に実行するきっかけになったのは京大バリサイだった?

末永:そう。最もそれが効果的にあそこで出せたんだよね。効果的に出しすぎて捕まっちゃったんだけどさ(笑)。

黒川:最初に末永さんを訪ねてこられたのは、何か〈告陰〉の活動を知っていたから?

末永:たぶん僕が政治的な集会とか出入りしていたから、何かでつながったのかもしれない。それと彼のほうのセンスもよかったよね。何かアーティストと組んでやりたいと思った発想自体もね。

黒川:そのとき初対面ですか、その方とは。

末永:そう、初対面。

細谷:いろいろ資料を探して、『経済構造』の69年6月号があって、目次に、これはノンセクトラジカルの特集なんですけど、(執筆者が)全共闘、全共闘、全共闘、〈告陰〉と。すごいなと思ってちょっと驚いたんですけれども。

末永:経済誌がこういうのを載せたこと自体が、やっぱりあの時代だったんですよね。

細谷:「ノンセクトラジカルの思想」と並んで載っている。

黒ダ:京大の話はまたあとでしたいんですけど。(写真を見せて)この人は島田でいいんでしょうか。

末永:そうです。

黒ダ:これがのちに捕まったときの写真ですね。パスポート偽造か何かで。75年。

細谷:日本赤軍でしたね。

末永:そうだったの? それは知らなかった、僕。すごい写真だね、これ。

黒ダ:(写真を見せて)ちなみにこれ。(〈集団“へ”〉の)新開一愛(かずよし)。これは末永さんでいいですよね。

末永:これ僕。上條(順次郎)さん。桜井(孝身)さん。

黒ダ:この後ろの人は万博関係の事務局か何か?

末永:そうかもしれないね。

黒ダ:そして加藤、岩田(信市)。すごいメンツ。

末永:今の話で思うのは、加藤さんがそういうふうに変わっていったおもしろさがあり、あれでまた〈万博破壊共闘派〉がけっこう推進力をもっていったということもあり、彼が関わっていったことによって〈九州派〉も含めていろんなアーティストがやっぱりどんどん関わっていくことがあったんじゃないかなとか。

細谷:共鳴していくわけですね。

末永:ごめんね、ちょっとその前に。彼(加藤)が変わっていく前の〈ゼロ次元〉、あの頃、「ゼロ次元商会」と言っていた。あの人、電気関係の仕事をしていた。「明星電気商会」とか言ってさ。電気製品、家電を扱ったりして、そこに何人か社員がいた。社員が同時に〈ゼロ次元〉のメンバーだったというね。つまり最初の頃、彼が僕に出会った頃、普通にサラリーマンでもいいけど、「普通に仕事してることが大事なんだよ」と言っていた。「普通の生活もできなきゃいけない。お金の計算もできなきゃいけない。アーティストでいわゆる無頼派的なのはだめなんだ」という、彼としては新しいアーティスト像というか美術のあり方をやっていたので、どっちかというとそういう方向でやってたのよ。だけども〈万博破壊共闘派〉をあえてやり、それで1回山を越して、彼もおおえさんとか金坂さんとも付き合いということで、ある種ドロップ・アウト的な思想が入ってきちゃったわけ、加藤さんの中に。それで結局、彼の生き方も変わって、非常にヒッピー的な生き方になっていくじゃない? ハレ・クリシュナ教団の人たちと付き合ったり。そこに彼の大きな価値観の変換があったと思うんですよ。単に芸術家の自由、芸術家の無頼派的な生き方だけだったら彼はそうは思わなかったけれども、芸術家かどうかじゃなくて、人として自分はどう生きていくかと思ったときに、物質文明からのドロップ・アウトの考え方が彼の中にすっと入っていったと思うんだよね。

細谷:〈ゼロ次元〉のメンバー、上條さんとか名古屋の岩田さんとか、何か思い出みたいなものはありますかね。特にない?

末永:そんなことないけど、最初の頃から上條さんとかね、何人かメンバーいたじゃない。あの人たちは、加藤さんが変わっていき、〈ゼロ次元〉のスタイルも変わっていったときに、どういうふうに思っていたのかなと。明星電気の社員だったのに僕たちはどうなっちゃうのかなって。たぶんついていけなかった人もいると思う。元の〈ゼロ次元〉のメンバーの人たちは解体していくし、そして加藤さんも離婚をしてまた一人になっていくという、それまでの家族や社会的な形を彼自身が崩し手放していくという過程にもなったんだよ。個人レベルでいくとね。彼はでも、今日もいろいろ聞いてもらったけれども、僕がやってるこういう色彩の分析の研究とかそういう場をもってることとか、ものすごい興味をもってくれて。キャラバンやりながらいろんなところに行き集まったりするじゃないですか、〈共闘派〉として。そういうとき、よく絵を描くワークショップをやっていた。加藤さんがおもしろがっちゃって、「これ分析したらどうなるの?」みたいな。というのは、彼はものすごく心理学とか哲学に興味があった人だから、そういう目線をもってるわけよ。もともとピンとくるというか。だからのちに彼がやってた「夢タントラ」研究は、そういうかなり精神分析的なものやスピリチュアルなものが入っていたと思うんだよね。だからそこはツーカーで感じる、通じる人だった。外では「今日は集会だ」とか「パフォーマンスだ」とかやってるんだけど、集まるとみんなで絵を描いて自己分析してるみたいなさ。精神分析的な自己探求と社会的な活動とが並行して行なわれていたのが〈共闘派〉だったの、実は。外からはわからなかったと思うけど。だから常に意識改革的なものを志向するところが加藤さんは強烈だったから、そこが僕は一番響いたところです。

黒ダ:〈ゼロ次元〉そのものがどうだったかというよりは、加藤氏のもっている思想性というか、そういうもののほうにより興味があったというか。

末永:でも、ああいう形で具体的に視覚化して身体として表現したところが、やっぱり彼のすごい才能だったなと。ある種の天才だったなと思いますよ。

黒ダ:特に〈ゼロ次元〉のものを見て印象的だったものはありますか。

末永:だからあれもさ、変わるじゃない。最初の頃はみんなでスーツ着たままお風呂入って、仮面をつけてさ、電車に乗っちゃうとか。毒ガスマスクをつけるとかもありましたよね。そういう非日常をもち込んでいくというインパクトで彼はやっていたと。でもだんだん、(映画)『いなばの白うさぎ』とかもそうだけど、よりエロスの世界とか神話的なものを借りながらそういうものを出していく。根源的なものだよね。そういうものへと彼は向かっていった。表現スタイルとか表現の具体性も変わっていったという気がしますよね。

黒ダ:やっぱりよく理解されているなと思いました。末永さんだからそう思われたんだけど、たぶん世間的にはスキャンダルだし、美術業界的には相当無視されたと思うしバカにされたと思うし。

細谷:本当にそうですね。理解者として。

末永:だから、彼のああいう儀式とかハプニングでやってることと彼の思想というか、認識がひとつになってるなと思ったのは、僕たちもそうだけど、ああいう身体表現を街頭でやってるじゃない? そうするとすごい野次馬がたかって見たりするわけじゃない? そうすると見られる身体になる。また見られるようなことをやる。見られるときに、実はこっちも観衆を見てるわけよ。そうすると人によって全部反応が違うわけじゃない? あの人はああいうふうに反応してる、あの人は逃げ出したとか、あの人は寄ってきたとか、あの人は参加するようになったとか、いろいろあるわけよ。だから実は見られることによって見ることができるということですよね。これはもう、見ることは見られることだし、見られることは見ることでありという、言葉を変えれば少し前のフランスの現代思想に近い視点ですよね。“見る者は見られる者である”というような関係性についての捉え方でしょう。つまり客観と主観の分裂を超えるとはどういうことかという話なんですよ。

細谷:メルロ?ポンティとか近いものがありますね。

末永:『知覚の現象学』とかですね。そういう話が通じたの、加藤さんとは。

細谷:加藤さんもけっこうその話をしてましたよね。

末永:そうそう、そうなの。

黒ダ:彼はフランス哲学が好きですよね。

末永:だからむしろ彼は見るために見られる表現をしていたという言い方もできると思う。そういうことはあまりね、ちょっと外側から見てた人にはわからなかったし、伝わらなかったと思うんだけどね。でも彼のその感性と認識みたいなものが彼の身体表現として現れていたし、彼はあれを通して世界を見て自分を見ていたんだなというのが僕にはわかってたので、そこが付き合っていておもしろかった。

細谷:だいぶ時間も迫ってきたので。

黒ダ:飛ばしてしまってますね。

細谷:(聞かないといけないのは)大きく言ってふたつ、〈告陰〉のメンバーの方のことと、それから68年までの〈告陰〉の儀式というか行為、そこを……

黒ダ:いっぱいあるんだけどどうしようか。

細谷:少し飛ばし飛ばし。たとえば末永さんが参加したものだけとかでもいいかなとは思ったんですけれども。ひとまず〈告陰〉のメンバーについてですけれども。

黒ダ:H.K.さんというのが先ほど、島木教室に来ていて、〈視覚〉のメンバーに途中から参加してということでしたけれども、Hさんはどんな人だったかと。

末永:彼女は女子美(女子美術大学)を出てデザインの仕事して、でもやっぱり絵を描きたくて豊島芸術研究所に出入りしていたときに出会って、それで実は僕は彼女と結婚したのよ。それで一人息子がいるんだけどね。(Hは)去年(2018年)亡くなった。もちろんもっと前に離婚してはいたんだけれども、付き合いはずっとあったのでね。彼女もずっと絵を描いたり展覧会に出したりしながら、けっこうな齢まで頑張ったんだけれども、去年の5月、亡くなったんですよ。だから僕にとっては、いつくらいだろう、1982、3年くらいまでは付き合いがあった。結婚した時期も含めて15、6年は付き合いがあって、という人でした。その後もやりとりはいろいろしていたのでね。子供のこともあって協力してたので、普通に付き合いはしてたんだけどね。そんな感じでした。

黒ダ:彼女は特にどんなことをしたかった人なんだろう。この中では比較的美術の人ですよね?

末永:そう、美術の人。美術の人だし、最初の頃、僕と一緒に子供の絵のアトリエのほうもやってたので。だから離婚したあとも自分で独立して武蔵野市のほうで教室をいろいろやって、かなりその地域では慕われていたみたいだね。

黒ダ:最初からのメンバーだし。

末永:そうね。〈視覚〉、〈告陰〉。

黒ダ:逮捕もされているわけで。

細谷:〈告陰〉として重要なメンバーの方ですよね。それから石橋初子さん。

末永:彼女は元気だと思うんだけど、今も。ときにメールでやりとりして。もともと彼女は彫刻をやりたかった人なんだけども、豊島芸術研究所にふらっと入ってきて、それがきっかけで、〈視覚〉のときは関わってなかったんだけど、〈告陰〉の立ち上げのときから関わってくるようになって、それで〈告陰〉が解散するまでずっと付き合ってた。それから〈PEAK〉の時期も付き合ってた。あの映像(『幻のブラックフェスティバル』、1968年)にも出てくる。

黒ダ:〈告陰〉のときって末永さんが全部ディレクションするんじゃなくて、けっこう各人がそれぞれ自立的に、あるいは勝手にやってたと思うんだけど、たとえば今出たHさん、石橋さん、どちらも女性ですよね。どういう役割だったか?

末永:それぞれやってたことが違うし、あんまり役割化はしてなかった、グループの中で。イベントなり催しの中で、ある人が表に出たりある人は違ったり、それは変わっていくので、そのときのやることによって、その人が一番やりいい、その人が活きる感じでやってるので。それと今日最初におしゃべりの中で出てきたように、僕の中でいわゆる女性性/男性性の境界がそんなに高くないので、わりと女性がどんどん自分でやっていく中で組むことのおもしろさを僕は感じてた。僕が男だからというところで決めたりとか、あるいはきっかけを作ったから自分が全部仕切ったりとかいうのは、あんまり好みじゃなかったっていうか。大事なことはもちろん言うし、共有するけども、もうちょっと柔らかい関係の中でやるほうがよかったし。というのは、僕が女性の良さとか女性がより自分らしく生きてることがすごくいいなと思うのは、そういうフェミニズム的な考え方ということじゃなくて、僕の中の内なる女性性が共鳴してる、そういうときは。自分の中に女性性があるから、逆に言えば女性のことも感じ取れるわけじゃないですか。でも世の中のほとんどの人は男か女かどちらかのカテゴリーに閉じこもっているので、一生男のふり、一生女のふりをしている人が多いわけだから。それは完全に文化的な刷り込みとか社会システムの刷り込みだと思いますね。

細谷:そうですね。横田さんはさっき話が出ましたけれども。水町さん。

末永:彼はね、実は高校が長崎で一緒で、美術部のメンバーだった。

細谷:長い付き合いですね。

黒ダ:さっきの展覧会に出てましたね。漫画家としてそこそこ活動を?

末永:そうです。一時期メジャーな雑誌に出たりしたけど。だけどどうだったんだろう、彼にとって。〈告陰〉とか〈PEAK〉に関わったことで楽しそうに、おもしろそうにやってはいたけども、たぶん漫画作家としてやっていく自分と、こういうちょっとドロップ・アウト的な自分とが、もしかしたらうまくつながらなかったのかもね。つながらないというか、バランスが取れなかったのかもしれない。だから漫画のほうもそれ以上ガンガンやっていくというふうにならなかったのかもしれないね。

黒ダ:これ、『少年サンデー』増刊号(1970年8月25日発行、表紙は8月23日)掲載の水町幸男のマンガ『反(アンチ)の世代』で、ここに「PEAKと」書いてあって。

末永:よく見つけるね。

黒ダ:僕が商業的なところで見つけたのはこれだけなので、他には見たことがない。(『反の世代』で)学生服の男性がわりとまじめに社会問題とか政治問題をディスカッションしようとか言ってるんだけど、他の人たちはけっこうドラッグとかやってて遊んでて、結局女の子一人が死んじゃうという、そういう断絶を描いたというやつで。

末永:まさに彼の精神状態だったかもね、それが。というのはね、彼はたしか長崎のね、(長崎)大学の経済学部か何かを出てるの。だからそのまま行ってればエリートになったかもしれない。たまたま僕と郷里が同じだということもあって付き合いがあって、それで〈告陰〉のいろんなイベントとか、そういうときに来るようになって、一緒になるようになった。だから何か彼を惹きつけるものがあったと思うんだよね。彼の中の学生服じゃないけど、ぎゅっと型にはまってる部分を彼自身が解き放ちたいという欲求があって関わってきてしまったと思う。

黒ダ:そう思って読んだらこれはまさに……

末永:だから彼自身のこと。

黒ダ:じゃあけっこうこれは大事かもしれない。

細谷:牟田さん。牟田邦博さんも長崎時代ですかね?

末永:そうです。

黒ダ:牟田さんは長崎でお会いしてきましたよ。わりと初期メンバーで、高校時代から〈ゼロ次元〉の記事とか見ててすげえなとか思ったという話だったんだけど。どんな人だったというか?

末永:彼は最初、〈告陰〉の本牧亭でやったりした頃から参加して、けっこう視覚的に目立つところがあって。でも彼も〈告陰〉のメンバーだからとそこだけでガーとやるんじゃなくて、わりと他のグループと付き合ったりとか、それこそユニット・プロに出入りしてたりとか、いろいろしてたんだよね。だからわりと自由な感じの生き方してたかな。

黒ダ:〈ゼロ次元〉(『全裸防毒面歩行儀式』、1967年12月、紀伊國屋ビル)にも出てるって本人は言ってたんだけど、でも加藤さんに聞いたら否定されたんだけどね。

末永:関わってたような気がするな。誘われて1回くらいやったのかもしれない。

黒ダ:ヨダマカオですよね?

末永:そうそう。

黒ダ:オカマダヨの(逆読み)。

末永:そうそう。

黒ダ:さっきの話じゃないですけど、女性性みたいなのが……

末永:当時はまだバイセクシュアルなところがあったんじゃないかと思う。

黒ダ:風貌ってことじゃなくて、そういう志向性ということですか。

末永:そうね。

細谷:それから一番どういう人なのかなと思っているのが中村政治さん。

黒ダ:のちに〈PEAK〉で。

細谷:本も(『ウルトラ・トリップ 長髪世代の証言!』[大陸書房、1971年]を末永と共著)。

末永:一応、一緒にやって。

黒ダ:中村さんという人が重要なのは、どういう人だったか?

末永:〈告陰〉から〈PEAK〉まではかなり一緒にやって、砂川反戦祭(「砂川文革反戦祭」、1970年7月、現・立川市)とかも一緒にやったりして、音楽が好きだったのでギターを弾いたりとかもできた人なんだ。だけど他の人もそうだけど、〈万博破壊共闘派〉の逮捕事件があり、それまでの運動体が解体していくわけですよね。あの当時の反戦運動とか学生運動もだいたい70年に向けて潰されるか、日本赤軍的に特化して暴走していくかというので、多くの人があのムーブメント、カウンター・カルチャー的なものから引いていったと思うのよ。先が見えなくなっていったと言ったらいいかな。だから彼もそういう意味ではちょっと引いていって、それで食べていかなければいけないのでお勤めしたりとかして、その世界からは退いていったという感じでしたよね。本当はそこから個としての生き方が問われていくわけなんだけどね。

黒ダ:今どうされているってわからないんでしたっけ。

末永:うーん。

黒ダ:実際に音楽を演奏するって、音響とかそういうのを。

末永:そうね。僕たちが羽田闘争とか行ったときは、8ミリだと音が入らないというので、彼が録音機を抱えてマイクを持って。そういうことをちょっと手伝ってくれたり、編集とか手伝ってくれたりしていたけども、それ以上その道で行くということではなかった。

黒川:〈告陰〉のメンバーみたいな人だと考えていいんですか。それとも〈告陰〉とはまた別?

末永:いや、一応〈告陰〉をやってる間は〈告陰〉のメンバーでした。

黒川:そもそも〈告陰〉はメンバーの関係がニュートラルで、ヒエラルキーがないというだけじゃなくて、カチッとした会員名簿みたいなのがあったわけじゃなくて。

末永:上島さんは出たり入ったりするタイプだったからね、わりとゆるかった。一番コアになったのはHさん、石橋さん、それから誰だろうな、水町もそうですね。

黒ダ:牟田はわりと早く抜けちゃう?

末永:そう。彼はひとつはね、68年の初めくらいに体調を崩してね。(長崎に)戻っちゃったんですよね。

細谷:青目海(あおめうみ)でいいんですか。

末永:うん。この人もね、さっきのゴミちゃんと一緒でよく得体の知れない人で。

細谷:〈ゼロ次元〉のフィルムに映ったりしてて、個性的な感じ。

末永:でした。

細谷:魅力的だっただろうなと。

末永:いろんなところに顔を出して。

黒ダ:松本俊夫の映画(『つぶれかかった右眼のために』、1968年)にも出てた。メンバーというのではなく、ときどき参加?

末永:うん。非常勤の感じだったかな(笑)。

細谷:青目さんは実際、目が悪かったんですよね?

末永:悪かった。片目眼帯みたいな。

黒ダ:上島さんは演劇の人で、わりとけっこう大事な役を演じてますよね。本牧亭のときとか。

末永:そうそう。

黒ダ:本当の演技を?

末永:あのまま演劇でいくのかなと思ってたんだけどね。〈天井桟敷〉にも使われたりしてたから。でもいつの間にか消えた。だからね、あの時代にものすごく、何だろう、価値観の大転換が起き、生き方の大転換が起きたので、その渦の中でワーと目覚めていった人もいれば、生活ががらっと変わっちゃった人もいて、そういう揺さぶられる時代だったんだよね。

黒ダ:じゃあそういうののひとりだったということで。ここで、先ほどの田辺貞さんという最初の〈視覚〉グループにいる、この人も〈告陰〉のパフォーマンスとかに参加してるわけですか。

末永:1回くらい。1回、2回かな。最初の代々木公園のとき。

細谷:ヨヨアンパン(1966年5月1日)?

末永:じゃなくて、〈ゼロ次元〉、〈クロハタ〉が一緒のとき。

細谷:奇脳舌(きのした)サーカス(1967年5月1日)。

末永:そのときですよね、たぶん。僕と牟田君と一緒にやって。

細谷:このときは実際何をしてたんですかね? 奇脳舌サーカスのときは。

末永:奇脳舌サーカスのときはそれぞれ、まず松江さんがね、すごい……。何て言うの。

黒ダ:芝居小屋みたいな。

末永:芝居小屋みたいなのを建てちゃってさ。あの人、工事現場で働いてたから得意なのよ。鉄パイプをバッバッバッバッて針金で巻いてさ、即興で作っちゃうのよ。そこを舞台にして、それで〈ゼロ次元〉が、たしかあのときの〈ゼロ次元〉の加藤さんの印象はね、ハットかぶって羽織袴みたいな、例のそういう感じ。(写真を見て)そうそう、こういう感じでしたね。

黒ダ:これはもっと参加するはずだったんだけど、途中でたしか捕まってひとりだけになったんじゃないかな。

末永:松江さんはいつもの感じでやっていたでしょう。それで僕と牟田君が、実はあれ、全身真っ赤なドーランを塗ってるの。

黒ダ:ドーランなんですか。

末永:うん。真っ赤に塗った。ここの服も真っ赤。(モノクロ)写真で見えないけど。顔も真っ赤なの。それで男同士で愛し合うという、そういうパフォーマンスをやった。そしたら突然メーデーの実行委員と警察が一緒になってやって来て、「ちょっとちょっと君たち」みたいな話になった。

黒ダ:警察も来た?

末永:警察も来ましたよ、このとき。

細谷:このときは末永さんの中では、これはメーデーの大会なので政治集会なわけですけれども、彼らとは違う、ある種の統制的な政治活動に何か一発みたいな、そういう感じなんですかね?

末永:それは僕にとっては大きかった。だから、本にも書いたかもしれないけど、赤旗新聞か何か(「5月1日のトロツキスト」『赤旗』、1967年5月3日)にさ、僕たちのパフォーマンスを「トロツキストがやって来て」とかって書いてあった(笑)。

黒ダ:真っ赤と聞いてたんですけど、靴下とここが色が違うんですけど。

末永:そこは違うね。

黒ダ:顔とか皮膚のところは真っ赤で、シャツとかズボンも赤で、靴下が?

末永:靴下が赤じゃなかったね。

黒ダ:何色だったんでしょう。緑だった? わからないですね、これ。先ほどの田辺さんはこのときにいた? これは誰?

末永:これは僕ですよ。

黒川:左側ですか。

末永:そうそう。

黒ダ:田辺が何をしたか。じゃあこれには参加してない。これは二人だけなんですね。

末永:うん。そばにいて何かうごめいていたんだけど、たぶんなかなかパフォーマンスは決められなかった。

黒ダ:色は塗ってたんですか、田辺は。

末永:いや、彼は塗ってない。

黒川:この垂れ幕は「第一告陰宣言」だと思うんですけど、これは完全に末永さんの起草ですか。

末永:そうですね。横田元一郎も文章を作るときには相談して関わってると思う。

細谷:これは配ったんですね?

末永:そうです。

黒ダ:配ったのがこれ(ファイルしたチラシ)になるの?

末永:そう。

黒川:「第二告陰宣言」ってあったんですか。

末永:なかったかもしれない。

細谷:やっぱり「第一」が大事なんじゃないですか。

黒ダ:第一ナントカ宣言ってシュルレアリスムっぽいですよね。時間がだいぶ……

細谷:時間がだいぶ迫ってきました。儀式していた中で、糸井貫二さん、ダダカン氏には直接会ってないですか。

末永:このとき?

細谷:いや、他のときでも。

末永:会ってるよ。このときも来てたし、あとは何のときだろう。何かのとき一緒だったんだよな。

細谷:あれですかね、さっきの新宿の。

末永:新宿の祈祷のとき(前出「故由比忠之進追悼国民儀」)か何か。

細谷:糸井貫二さんはどういう印象というか?

末永:いやあ、僕はわからない。おお!と思って見たけど。彼はおもしろいものを書いて送ったりなんかしてたでしょう。ああいう雰囲気から見ると〈ゼロ次元〉の感覚に近くて、僕から見ると加藤好弘のお兄さんかなみたいな(笑)。その世界の先達というか、そんな感じがする。

黒ダ:面と向かって話をした記憶とか?

末永:あんまりないですね。

黒ダ:あまりしゃべる人じゃ……

細谷:みんなあまり直接はしゃべっていないみたいですね。

黒ダ:でも彼のメールアートというのはだいたいちょっと変なものなんですけど、先ほどメディアの話もありましたけど、ああいうメールアートのあり方は共感するものだったでしょうか。ちょっとそういうのと違うか。

末永:彼の方法もそうだし、他の僕たちのやってたのもそうだけど、美術の世界が制度化された結果さ、つまり権威づけられたり、あるいは商品化されて陳列台みたいに美術館もギャラリーもなってきたわけでしょう、この100年。そこの“陳列ケース”ではやっぱり表現ができないと感じた人たちが、本当に少数だけど、いるわけじゃないですか。その系列の人たちだと思うんだよね、糸井貫二も。

黒ダ:あまり重要じゃないかなと思ってあえてこの質問はしなかったんですけど、60年代後半になると(毎日新聞社主催の)「日本現代美術展」とか、もっと新聞社とかがやる現代美術作家のための公募展が出てきたりして、そういうので賞をとって、今度は海外に紹介されてと、だんだん現代美術の出世コースができてきて、そういうのはだいたい批評家の御三家とかが審査したりするんだけど、そういうのはたぶん全然末永さんは興味ないですよね?

末永:うん。

黒ダ:当然ないですよね。聞かなくてもわかる(笑)。

末永:結局、100年前、印象派だって現代美術だったわけだからさ。みんなそうでしょう。ピカソだって。だけど結局は、彼らはどこまでそのことを深く考えたり意図してたかわからないけども、結局すべてが商品化されているわけですよね。商品化されると一応そこでプロとして認められて評価があるというね。人間が根源的に自己表現をして一回性、唯一性みたいなものを生きる中で、1回ほとばしるものとしての表現や芸術が生まれたと思うんだけど、それをやっぱり檻の中に閉じ込めていく、無難なものとして。それがやっぱり今黒ダさんが言ったことも含めてさ、時代の素材がどう変わろうが、どう呼び名を与えようが、結局その仕組みの中に回収されていくことでは同じだというふうに僕は思うのね。

黒ダ:〈ジャックの会〉ってあったじゃないですか。〈ジャックの会〉ってむしろ商品化することも恐れず、プロの現代作家として社会的にアピールしようとしたのがあったけど、佐々木耕成とか、そういう意味では、非常に現代的だなというか、今どきの若い日本の作家がああいうことをやってるのかなと思うんだけど、それは一種の商品化から逃れられないというか。

末永:それは時代の表層はさ、ファッションの流行と同じでさ、変えていかないと売れないから、常に神経症的に変えていくわけじゃないですか。新商品を作り出すし、今僕たちが使うこういうパソコンだってそのために3年で壊れるようになってるわけじゃない?

細谷:そうですね。消費者がだんだんと使いにくくなるような、ある種の時限装置が。

末永:資本主義経済をやる以上はさ、そういう仕組みに否応なくなっていくわけですよ。それはもう何の不思議もない当然起きるべきこと。それで有名になったりお金が入ったり、いろいろするかもしれない。それでいい人はそれでいいと思うのよ。ただ、そこに息苦しさを感じないのかということなのね。息苦しさを麻痺させたときに、その人は社会的な評価を受けるポジションを得るかもしれない。取引ですよ。それをしてるかしてないかの違いなんだ、僕にとっては。

細谷:今日はあまりオーバーしても。

黒ダ:後々聞くようなことがすでにかなり出ているので。

末永:踏まえて、明日またちょっと。

細谷:もうちょっと整えておきます。でも末永さんの関心とか、さっきもあったとおりカテゴライズされないというところもあるので、僕はこういうインタビューで楽しくお話できています。

末永:はい、ありがとうございます。雑誌なんか、僕も当時のをちょっと引っ張り出して、79年の『流動』(5月号)という雑誌があったんだけど、これはご覧になってるかな?

細谷:いや、『流動』は見てないと思う。

末永:これにね、僕、「『文化』が崩れ去るとき」というね、「同時代宣言」という特集で書いてるんですよ。今日話したような時代背景も含めて、60年代、70年代、すべてが商品化されていくというね。文化というのはさ、良いことだと思われてるかもしれないけど、文化自体がやっぱりそういうふうに人間を閉じ込めていく刷り込みのための装置なんだということなんですよ。それに役立つ限り投資される。そうでなければ排除されるということですよね。60、70、80年代にかけて僕がそういうのをどういうふうに見ていたのかを書いたのがこれだった。

細谷:拝見します。

末永:だから、また明日、その後の別の話とか周辺の考え方を聞いてもらえると嬉しいんだけれども。一時期『思想の科学』に僕は書いていて、だから僕が書いているテーマというのは結局のところ、「家族は人間解放にとって有効か」というね。要するに家族問題、家族論みたいなものが(79年の『流動』に寄稿した頃から)すごく言われ始めたり、当然、全共闘世代以降、あそこまで先鋭的にやっていた人たちが、その後の家族のあり方とか、男女の性差別の問題をどう捉えているのかという問題も含まれた特集だったわけですよ。だから「全共闘世代の家族の組み方」というサブタイトルで僕は書いているんだけれども。結局、僕にとって分野はある意味何でもよくて、そういう仕組みとか制度とか、人間自身が勝手に作って自分で縛っちゃうんだけど、それをどう突き崩していけるのかなということだけに僕は興味があったのかもしれないなって、昨日これを見ながら思ってた(笑)。

細谷:そうですね。70年代になって書かれていることはけっこう、もちろん言葉は違えど、言わんとしているところはそういうところなのかなと思って。

末永:ただ、70年代の頭とか原稿に書いたり予言したものはやっぱりね、僕の中で曖昧さがいろいろ残っていたし、きっとお読みになったからわかったと思うんだけど、人間の思考とか知性とか理性とかに、まだどこか頼りになるところがあるんじゃないかって幻想があった気がするんだよね。それが何かこう、実際に僕がアート・セラピーとか、そのための個人セッションをやりながらいろんな人と向き合って、その人が生まれてから今までの抱えているいろんな問題とかを語り合ったり見せてもらったりする中で、いかに人間が限定的な感覚や思考から逃れられないのかということをつくづく身にしみて感じるし、自分も結局そうなんだなということなんですよ。この家族問題にしても、家族はむしろあらゆる社会の文化的基盤になってて、そこに価値を置いているじゃないですか。家族の中ですべて矛盾が生まれ、また回収されていくわけだけどさ。だから人間にとって家族は何なんだという疑問を呈していくみたいな、その頃から僕はずっとその作業をしていた気がするんですよね。だんだん人間に対する幻想が僕の中でいい意味で崩れていくということが起きてきたような気がする。

黒ダ:これ(『流動』)は1979年なんだけど、そういう時代背景と関係がありますかね。

末永:あるでしょう。

黒ダ:やっぱり何か、そのへんになるとバブルよりだいぶ早いけども、カウンター・カルチャー的なものがどんどん弱くなってきてしまって。

末永:おっしゃるように家族の問題に関して、これだけテーマに続けてきたというのはね、ひとつはウーマン・リブの影響は大きいですよ。この前、田中美津さんともお話したんだけども、美津さんとか、あの有名なチラシね。「便所からの解放」という(1970年10月の「女だけの反戦デモ」で配られたチラシ)。要するに男性がいくら全共闘運動で革命だとか解放だとか言っても、結局のところ女を下敷きにして、男と女では上下関係が当然のごとくさ、奴隷のごとく女を使う。それが家族であったり社会的な文化になってるじゃないかと。結局、女を便所のように使ってるじゃないかと。そこからいかに女が解放されていくかという、彼女は70年にぶち上げていったじゃないですか。でもその後、いろんな性差別の問題、社会の仕組みをどう変えるかというのはね、女性の権利とかの方向に行くわけですよ。要するにフェミニズムのほうに行っちゃうわけね。それを引き継いだのが上野千鶴子さんなんだけど、でも美津さんはフェミニズムじゃないんだよ。女性の権利がどうのこうの、社会的にどうだって言いたいわけじゃない。そういう問題じゃないんだと。彼女の本質は本当にアーティストだからさ。歌は歌うわ、踊るわという人だから。べったり社会の仕組みの中に関わっていくんじゃなくて、常にひとりで生き続けるしかない。自分以外のものを私は生きたいと思ったことはないというのが、あの人の考え方だから。だからメキシコの国際婦人年のとき(1975年)に向こうへ行って、彼女は帰ってこなかった。向こうに行っちゃった。3、4年してから、向こうで子どもをつくって戻ってきたんだけどね。でもその後はいわゆるフェミニズム的な運動から彼女は一歩距離を置いていた。個人活動をずっとやってるんだよね。だから彼女はそういう意味では、僕たちが60年代に感じていた感性とすごく通じるものがある。だからおもしろかったよ。あの頃ね、美津さんと一緒にかなり過激にやっていた米津(知子)さんという女性がいるのよ。その人は今でも美津さんと連携してるようなところがあって、この前の美津さんのドキュメンタリー映画(『この星は、私の星じゃない』、2019年)にも登場するんだけれども、実は僕、米津さんに最初に会ったのはね、〈ゼロ次元〉の集まりだった。それで久しぶりにこの前手紙を書いて、「米津さんとゼロ次元で会ったよね」って。「そうなのよ。加藤さんというのはそれまでの発想と全然違う人ですごくおもしろくてさ」とか言ってました。だから障害があることや女性であることによっての不当な社会的抑圧があるわけじゃない? ものすごく敏感に世界を見抜いちゃうわけだよ。いくら建前でかっこいいこと言ってても、そんなものは信用できないというね。そういうのが田中美津さんにもあるし。だから家族に根本的に1回懐疑をもって見るというさ。やっぱりウーマン・リブの提起したものじゃなかったかなという気がしてるけどね。

黒ダ:米津、(細谷に向かって)知ってた?

末永:米津知子さん。何かで出てくるかもしれない。彼女はウーマン・リブの72年からずっと40何年間のチラシとか資料があるじゃない? その全部をまとめた人なの。

細谷:出てますね。ウーマン・リブの資料集。インパクト出版会から(リブ新宿センター資料保存会編『リブ新宿センター資料集成1・2』インパクト出版会、2008年。実際には70〜77年までを収録)。

末永:自分のところに今も持ってる、ライブラリー的に。

(了)