文字サイズ : < <  
 

建畠晢オーラル・ヒストリー 2008年4月12日

国立国際美術館館長室にて
インタヴュアー:加治屋健司、池上裕子
書き起こし:沖中志帆
公開日:2012年6月2日
 

加冶屋:今日は国立国際美術館の設立準備室に移られた頃からお話を伺います。どういった経緯で移られたんでしょうか。

建畠:この前お話ししたように、僕は最初の就職で『芸術新潮』の編集部に入ったんですけど、そのときに、文化庁に国立国際美術館設立準備室ができたというので、「美術館ができるまで」というコラム記事を書いたんですね(注:「『国立国際美術館』の混迷」『芸術新潮』1975年12月号)。その頃は美術館設立ブームの前だから、鎌倉(神奈川県立近代美術館)とか、東近美(東京国立近代美術館)とか、少し先行して兵庫近美(兵庫県立近代美術館。現、兵庫県立美術館)はあったけれど、非常に珍しいことだったので、興味もあって取材したんだよね。偶然なんですが、文部官僚に知っている人がいて、準備室に興味ないかと言われたことがあった。ちょうど、取材した時期と重なっていた。僕はジャーナリストの仕事が好きだったし、前に言ったように、編集長の山崎省三さんという人を非常に尊敬していたから、早く出たいというのはなかったんだけど、美術館の仕事に興味があったんですね。『芸術新潮』の取材で、鎌倉に行ったり、東近美に行ったり、西美(国立西洋美術館)に行ったりしていたので、研究官の仕事に憧れもあったかな。山崎省三さんを非常に高く尊敬していたけれども、正直なところ、自分は編集者としてはそんなに才能があるとは思わなかったんだよね。むしろそれなら自分で書きたいという気持ちがあったね。他人に書かせるのならね。そこが山崎さんと違うところです。それからキュレーションというのは非常に創造的な仕事で――もちろん編集者も創造的な仕事なんだけども――、自分でいろいろな価値を作っていくことができるのではないかいうこともあったかな。それから、学生時代にアカデミックなものに憧れたということもあって――、そういう意味でも美術館の雰囲気に惹かれていた。で、準備室長がじゃあ来たらみたいな話になった。新潮社はすごく辞めづらかったんですよね。山崎さんの薫陶を受けていたから。それに非常に自惚れた言い方をすれば、多少見込まれていたところもあったと思うし、辞めづらかったんだけど、美術館に惹かれるほうが強くて、思い切って退職を決めたということですね。美術館に入ったというより準備室に入ったんですけども。

加冶屋:そのときの準備室長はどなただったんですか。

建畠:準備室長は、その後学芸課長になった村田慶之輔さんでした。本間(正義)先生は東近美の副館長だったんですけど、その準備室時代に、すでに館長に指名されていました。本間先生を中心に、村田さんとか、僕より先にすでに主任研究員で入った宮島久男さんですね。宮島さんは大学の先生だったんだけども、大学の先生を辞めて準備室に入っていましたね。あと、研究員で榮樂徹さんですね。宮島さんが一番年上で、榮楽さんがナンバー2でしたね。彼は万博美術館のアシスタント・キュレーターだったので、美術館のことをよく知っているだろうということでした。キュレーターとして琵琶湖文化館にいたんですよ。それから、榮樂さんの後輩という形で塩田昌弘さんが入ってきて、僕がいたというのが初期の陣容でした。

加冶屋:実際にアカデミックな感じの場所だったんでしょうか。

建畠:どうでしょうね。ジャーナリストの時代も、『芸術新潮』の編集部はアカデミックな雰囲気があったんです。不思議な編集部で、大学の先生がいっぱいいたんです。大学は週2回くらいで、後は編集部に詰めているという人がいて、学者たちが周りにいた。しかし国際美術館は、西洋美術館などに比べると、大学の研究者的な気風があるというよりはむしろ、現代美術をどんどんやっていこうという感じでした。村田さんは文化庁にいた人だからアカデミックな人ではないし、本間先生も東近美の副館長から来たから現場上がりの人だった。だからあまり学術研究機関という雰囲気ではなかったです。でも、宮島さんはキュレーターとしても非常に優秀な人で、研究能力も一級の人材でした。宮島さんは、基本的にはデザイン史を専門とする美術史家でした。そういう意味では、彼を中心に研究紀要を出したり科研費を申請したりしましたが、美術館の目的自体は現代美術が中心なので、展覧会を企画するという事業主体の美術館ではありましたね。

加冶屋:現代美術が中心ということですが、国立国際美術館は当初、現代美術館という名称になるという話もあったかと思います。最終的に国際という名前になったわけですが、そのあたりの経緯について建畠先生はご存知でしょうか。

建畠:僕が入ったときには国立国際美術館という仮称は決まっていましたので、名称変更の現場に居合わせたわけではない。万博美術館の跡地利用から始まって、最初は市か府に寄贈を受けて美術館を作ろうとした。聞くところでは、前田藤四郎さん――この方は版画家の大御所ですけども――を中心に現代美術館を大阪に作ろうという会議ができた。アーティストを中心とした会議ですが、後に館長になられた木村重信さんも入っていらしたと聞いております。それで、市や府が受けられないことが分かって文化庁に要望することになったんです。文化庁もやる気はあるんだけども、お金もかかる話なので、側面から応援してもらったりして、外部の陳情と内部の体制作りが進んで、僕が行ったときにはもう準備室ができていた。その前に文化庁の内部で懇談会ができたそうです。正確には知らないんですが、河北倫明さんが座長だったと聞いております。ところが、現代美術館に対する否定的な論調があったんです。当時、近代美術館はあったけれど、東近美なんかは現存作家の個展をやらないという方針を立てていたんですね。これは噂なので分からないけれども、河北倫明さんを中心とした意見で、まだ海のものとも山のものか分からない、価値が定まっていない現代美術を、国家権力が購入したりその展覧会をやったりするのは危険である、価値が定まったときに公的な機関は正当な対象にすればいい、それまでは民間に任せるべきだという議論があったそうです。一理あるんだけどね。結果的に国立国際美術館という非常に間口の広いタイトルに決まりました。これは、一つは、万博の精神を受け継ぐということだと思います。そのときに立てられた方針は、日本美術の性質と発展を国際的な流れの中で考える、美術における国際交流をテーマにするというものでした。現代美術は国際交流が盛んだからそこにも焦点を置くということです。もう一つは消去法です。日本の近代は東近美で、近代以前は東博(東京国立博物館)でやっている。海外の近代までの美術は西美がやっている。工芸、日本画、近代洋画は京近美でやっている。博物館や美術館がまだ手を出してない部分となると、国際的な現代美術が中心になるでしょう、と。それは、中心になるけれど、あくまでも国際交流という視点から見て、今が最も盛んな時代だからということでもあるんですね。美術の国際交流史というと、例えば浮世絵と印象派とか、仏教図像の変遷とか、壮大な話になってしまう。そうしたものは資料として整えられないから、複製で作りましょう、と。だから、複製美術館というのも一時はあったんだよね。それは準備室が反対して、そうならなかった。でも、国際交流史の部分は、展覧会や複製資料によって整えようというので、作品購入費以外に、複製資料作成費というのがついたんですよ。だから当初は、石元泰博の両界曼荼羅のシリーズを購入したり、奈良原一高にリスボンに飛んでもらってリスボンの南蛮屏風を撮影してもらったり、石元泰博にニューヨークのMoMAのモネの睡蓮を撮影してもらったりした。それは複製資料であると同時に一級の写真家たちの眼ということを主軸に据えた。完全な複製は一つ実物大で作ってもらうんだけれど、その他にいろんなアングルの写真を撮ってもらった。石元泰博や奈良原一高に頼んで、彼らが興味を持つところを撮ってもらった。一つの展覧会が仕立てられるくらいの点数です。そういう写真を撮るのはなかなか難しいんです。1日も2日も会場を占拠するわけだから。特にニューヨークのMoMAなんかだとね。ただ、石元泰博という名前がMoMAにとってはカリスマ的な名前だったので、全面的に協力してくれたのね。大変な作業だったらしいですが、しかるべき経費をこちらで出してその複製を作りました。これは今でも時々貸出要請がありますし、展覧会としてお披露目しています。その意味では、僕はやった意味があると思いますが、ただ、複製をいくら蓄積しても、やはり美術館の資産にならないだろうというので、そのうちになし崩しに購入予算と一体化させてしまったので、今はそれを継続してはやっていません。やはり、国際交流史の中で充実した活動をする体制がとれないということもある。それから、スタッフの中心が本間館長以下、現代美術畑だったので、徐々に現代美術に特化していきました。でも、企画展では幅広く考えましょうというので、国際交流史に相当するようなこともやりました。ゴッホ展をやったり、ガンダーラ展をやったりしました。だから国立国際美術館というのは、ある意味では曖昧な、良く言えば間口の広い名前なんですね。僕は最初入ったときには、正直なところ、現代美術館がいいなと思っていました。国際美術館でも現代美術を中心にすることは支障ないんですが、はっきりしない名前なんでね。英訳しようがない。事実、英語のタイトルはNational Museum of Art, Osakaで、大阪国立美術館です。National International Museumは変な話だし、National Museum of International Artはあり得たと思うんだけど。International Artという名称をどう思うかってアメリカ大使館に聞いてみたこともありました。ただ、あまり好意的な返事が返ってこなくて、National Museum of Art, Osakaにしたんですね。ただ、今から考えると、国立国際美術館は結果的によかったんじゃないかと思います。というのは、後から話すかもしれませんが、美術館がどんどん細分化していっていますよね。当時、原美術館はあったんだけど、その後、広島市現代美術館ができて、現代美術館が一般化していきますよね。東京都現代美術館ができて、金沢21世紀美術館ができました。時代的、ジャンル的に細分化していますが、そういうものが美術館の本来の目的だろうかと思うんです。もちろん、専門館も確かに意味はあるんだけど、国立美術館はやはり総合館であるべきだということなんですね。それから、実質的には現代美術館であるとしても、国立国際美術館という名前によって、ターゲットを狭く絞るよりは、我々の問題意識の中でいろいろな活動を柔軟に自由にできるので、結果的に良かったんじゃないかと思っていますね。

加冶屋:国立国際美術館で行った展覧会で、特に印象に残っているものはありますか。

建畠:僕は学芸員として15年間いたので数多くありますね。僕が直接携わったもの、メインのキュレーターだったり、アシスタント・キュレーターだったりしたものでは、まず「イスのかたち デザインからアートへ」(1978年)。これは宮島久雄さんがチーフ・キュレーターでやった展覧会です。宮島さんはデザイン史を専門の一つにしていますからね。これは、近代、現代のイスのデザイナーの作品を揃えると同時に、現代美術の中でのイスの表象を扱った展覧会です。例えば、岡本太郎の《座ることを拒否するイス》とか、草間彌生のペニスの生えたイスとかですね。倉俣史朗なんかもそうですね。現代作家が、イスそのものを作ったり、イス的な表象をしたりしているので、そういったものを集めた。イスのデザイン展としてやったんだけど、デザインとアートの境界領域を模索した点では先駆的な意味があったかもしれないね。それから、「現代の作家1 田渕安一 湯原和夫 吉原英雄」(1978年)で、僕は田渕安一(田淵安一)を担当しました。フランスに行って出品交渉をしたり、1人のアーティストの個展をしたという点では印象に残っていますね。あと、「近代イタリア美術と日本 作家の交流をめぐって」(1979年)。これは村田慶之輔さんが中心になってやった展覧会で、僕はアシスタントをやりました。この頃は、交流史という館の目的が生きていたので、「どこそこと日本」という展覧会を何回かやっているのね。「絵画のアール・ヌーボー、ヨーロッパと日本」(1980年)とか、「現代ラテン・アメリカ美術と日本」(1981年)とか。これは国際美術館の独特の視点でやっています。必ずしも全面的に成功したとは思わないですが。ただ、「近代イタリア美術と日本」は、そうした交流と同時に、アルテ・ポーヴェラの作品をまとめて日本で紹介した最初の例かもしれないね。イタリアに一、二度行ってリサーチしながら、もう死んでしまったけれど、イオレ・デ・サンナ(Jole de Sanna)というブレラ美術館の美術史家・評論家や、ルチアーノ・ファブロ(Luciano Fabro)、長沢英俊さんと接しながら、いろんなことを学びましたね。それまでのイタリアの知識というのは、例えば彫刻で言えば、マリノ・マリーニ(Marino Marini)とかジャコモ・マンズー(Giacomo Manzù)といった、日本でもよく紹介されていたメジャーの巨匠たちだったんだけど、そのリサーチの中で初めてアルテ・ポーヴェラの感化に触れました。それは、ジャスト・コンテンポラリーであると同時に、アルテ・ポーヴェラの人たちの歴史観、例えばバロック時代のキリコとか、メダルド・ロッソ(Medardo Rosso)の決定的な意味とか、多くのことを学びましたね。それが如実に展覧会に反映されるほど勉強はできなかったけれど、特にファブロや長沢さんから、ちょうど起ころうとしていた新しい歴史主義みたいなもの、ポストモダンに繋がっていくようなものを学んだ気がします。「まがいものの光景 現代美術とユーモア」(1980年)は、小規模ですが、僕が独り立ちして初めてやった展覧会です。英語だとSimulated Landscapeというタイトルなんです。シミュレーショニズムという言葉がまだない時代だったけども、今考えてみれば、シミュレーショニズムを先取りしたようなところがあったかもしれないね。日本の作家ですが、草間彌生とかいろんな人たちを集めて、ユーモアの光景であると同時にキッチュでもあり、シミュレーション・アートでもあるような、独特の発想でやった展覧会で、かなりの観客動員をしたし、ジャーナリズムの反響も大きかったですね。ただ、毀誉褒貶という感じだったかな。キッチュの価値は、その頃まだ美術館レヴェルでは承認されていないときだったので、反発を感じる人もいました。自分としては先鋭にやったつもりですね。「絵画のアール・ヌーボー ヨーロッパと日本」は、宮島さんの専門の展覧会で、僕はアシスト的に入りました。これも宮島さんらしい発想で、工芸の文脈でおさえられていたアール・ヌーヴォーの概念を絵画に導入して、もう一度そのサンボリスムを捉え直すという、面白い企画だったと思います。企画には関わっていないけれど、「河原温 連続/非連続 1963-1979」(1981年)は強烈な印象が残っていますね。

池上:それはどなたのご担当だったんですか。

建畠:宮島さんだったんじゃないかな。総力でやりましたね。これは国際巡回展で、内容自体には我々は関わっていないけれど、展示したときに壁にデイト・ペインティングがざーっと掛った光景というのは、陶然とする美しさでしたね。

加冶屋:展覧会は年にだいたい5、6本していたみたいですね。

建畠:そうですね。この当時は5本くらいの展覧会をやるのが一般的ですね。万博会場にあって交通の便が悪くて、多くの観客動員が期待できないのね。ただ、不思議な場所で、アングル展やゴッホ展をやると大量の人が来る。アングル展はおかしかったね。NHKと共催でやったんだけど、うちは現代美術館と思われているから、アングルって「角度」だと思ってきた人がいて(笑)、面白い展覧会をやってますねって言われたね。まあ、アングル展とかゴッホ展のときは、大量の人が来るんですよ。どうしてかというと、すごく不便なんだけども、逆に言うと、交通の便が日本で一番いいところなのよ。つまり、飛行場からも、高速道路のインターチェンジからも、新幹線からも、阪急・京阪からもアクセスできるあらゆる交通の要所なの。だから万博のときに1日20万人という人を確保することができたんだよ。大量交通機関で国際的なアクセスもできるっていう場所で、日本で一番交通の便がいいところなんですよ。ところが、万博が終わって最後のアクセスが全部断たれちゃったわけ。周辺までは行けるんだけども、あと2キロで断たれちゃっているんだよね。ところが、大量観客の展覧会をやると、断たれたところの交通機関が回復するんですよ。バスがピストン輸送する。だから、ブロックバスター展をやると東京の会場よりもたくさん入るんです。東山魁夷展をやったときは、東近美でやった展覧会がうちに巡回したんだけど、東近美よりうちの方が入館数が多かったのね。そういうような不思議な場所でもありました。でも、一般的には不便この上ない。周辺まで来れるんだけども、最後のアクセスができない。あまり人が来ない。その頃は、日本の財政も良かったし、高度成長も真っ盛りで、あまりうるさくなかったのね。地方にある国立美術館の入場者がどうでも。大蔵省も別にどうでもいいよみたいな感じで、文化庁もあまり気にしていなかった。まあ勝手にやったらみたいな感じで、それをいいことにして、結構、先鋭なつっぱった現代美術の展覧会をずっとやってきましたね。孤立した中で。そのときは、一種のかぐわしさというか端然とした姿勢を示したというふうに、我々内部では思っていました。外部からどう見えたかは知らないけどね。国立美術館としては、現代美術の先鋭な方向性でがんばっているというイメージはあったかもしれないね。

加冶屋:当時の予算規模はどのくらいだったんでしょうか。

建畠:たしか展覧会予算が5千万で、購入予算が5千万。購入予算が今は2億円くらいになっていますけど。その5千万というのは、どの美術館も同じなんだけど、他の美術館は新聞社との共催を入れるのが普通なのね。年に1本特別展があって、自主企画として、研究成果を発表するんだけど、他の美術館は、それ以外に新聞社との共催が入るわけですよ。それでブロックバスター展をやるんです。国際美術館は、たまにNHKや日経新聞と共催をすることはあったけども、新聞社の共催がほとんど入らないんですよ。新聞社も、「こんな人の入らないところ」と言うんです。だから、5千万の予算の範囲内でいろいろやらなくちゃいけないのね。普通は特別展に5千万をかけられるのに、それを5つくらいに割って、我々の自主企画だけで埋め尽くすということをしていた。少ない予算でゲリラ的というと変ですが、なるべくお金がかからないような形で先鋭なつっぱった展覧会をやっていたという感じかな。それなりにやってきて、記憶に残っている展覧会もあります。自分が直接関わったものでいうと、一番印象に残っている展覧会は、「絵画の嵐・1950年代 アンフォルメル/具体美術/コブラ」(1985年)。アンフォルメルと具体は密接な関係がありましたし、コブラもアンフォルメルとほぼ同時代の動向で、宮島さんが詳しかったんです。1950年代の絵画としては、ここには、アメリカのニューヨーク・スクールの抽象表現主義が抜けていますが、それはそれで1本やろうと思っていたのね。とにかくアンフォルメルと具体、そして、アンフォルメルと多少関わりのあるコブラ――アレシンスキー(Pierre Alechinsky)は両方に関わっていますから――で、50年代の表現主義の展覧会をやろうということになった。最初、英語のタイトルは「Action and Emotion」とつけたんですね。最終的にはフランス語で「Action et Emotion」となったんだけど、日本語のタイトルも「行為と感情」にしようと思ったのよ。今だったら、つっぱってそのままにしたと思うんだけど、館長から、よく分からない、そんな小難しいタイトルをつけたらダメだって言われて、それもそうかなと思ったのね。それで、いろいろ考えたんだけど思いつかなくて、「絵画の嵐・1950年代」という、いささかださいタイトルになったんです。
ところで、この直前に、具体のコレクションに触れて驚いたということがありました。山村コレクションです。山村(徳太郎)さんが、東京画廊の介在でミシェル・タピエ(Michel Tapié)のところに送られた具体のコレクションを買い戻すんですね。トリノにあったものが中心なんですが。それが山村家に置いてあって、家の中や車庫にきっちり詰めてあった。そのとき尾崎(信一郎)くんが阪大の院生で、木村(重信)さんに言われて、山村さんのアシストをしていたんです。それで、夙川の山村家に行って、尾崎くんにも来てもらって、車庫の中から次々と庭に出して写真を撮ってチェックしたのね。で、驚いたんですよ。あまりのクオリティーの高さに。それまで言説としては知っていました。彦坂(尚嘉)さんや千葉(成夫)さんの言説として、具体は初期において、環境芸術とかパフォーマンスとかコンセプチュアリズムといった前衛的な萌芽があったにも拘らず、タピエとの接触によって、大作・タブロー主義へと収斂していて、初期にあった問題が矮小化されてしまったと、その頃、通説のように言われていたのね。タピエに迎合したアンフォルメルの時代と。だから初期の具体が重要だと言われていた。ところが、これを見てアンフォルメルの時代の作品のクオリティーに驚いたのね。特に田中敦子。これは衝撃的な経験でしたね。尾崎くんがちょうどその頃に卒論か修論をアンフォルメルで書いていた。彼は特権的な立場にいて、山村コレクションのタブローの分析をしていた。2人で話し合ったことなんだけども、極論すれば、初期にあった様々なコンセプチュアリズムや環境芸術的な萌芽がタピエとの接触によってアンフォルメルへと矮小化されていったというよりは、むしろ初期の実験がタブローへと収斂していったと考えるべきじゃないかと思った。様々な実験がそこでタブローへと収斂していって、結果的に、国際的に言っても抽象表現主義に匹敵するような、戦後美術の中で最も優れた絵画空間、ものすごいクオリティーの高い達成を遂げたんではないかというふうに、あえて対抗的に問題をたてた。もちろん両方あるんだよ。二つの見方が。オール・オア・ナッシングじゃないと思うけど、少なくとも大作タブロー主義によって具体が矮小化されていったというのは明らかに違うのね。これは後からいろんな形でフォローされていく。「1953年ライトアップ」展(1996年、目黒区美術館)とか。彼らはもともと画家集団で、基本的には具体の作家はみんな画家なんですよ。0会の人たち、つまり田中敦子、金山明、村上三郎、白髪一雄という人たちは、タピエと触れ合うことによって彼らは転身したというよりは、具体に参加する以前の作品――小さなタブローだったりドローイングだったりするんだけども――において、もうすでに大作・タブローの時代に実現していることを、より純粋な形で完璧に実現しているんです。でも、このときは、アンフォルメルの時代のタブローを見て、具体の評価、すでにパフォーマンス集団としての評価は非常に高かったけど、タブロー集団としての評価を確立しなきゃいけないという使命感みたいなものはありましたね。それで、具体のリサーチをすると同時に、パリに飛んで今井俊満とかいろんな人に会って、アンフォルメル運動を調べました。スタジオ・ファケッティ(Studio Paul Facchetti)とか、拠点になった当時の画廊も調べました。もう閉まっちゃったけど、特にスタドラー(注:スタドラー画廊。Galerie Stadler)に協力してもらって、タピエにも会いに行きました。タピエは少しアルツハイマーになりかけていて、満足な会話は交わせなかったのは残念でしたが。

池上:タピエはパリにお住まいだったんですか。

建畠:パリに住んでいましたね。今井さんと一緒に会いに行きました。アンフォルメルの作品は、スタドラー画廊とかポンピドー・センターから借り出しました。ポンピドゥー・センターにもずっと通いました。この頃、ポンピドゥー・センターは、まだスタートしたばかりで、黄金時代でした。アルフレッド・パックマン(Alfred Pacquement)、ダニエル・アバディー(Daniel Abadie)、ジャン=ユベール・マルタン(Jean-Hubert Martin)、ジェルマン・ヴィアット(Germain Viatte)、全員いたのね。ジェルマン・ヴィアットがたしかチーフ・キュレーターだったと思います。若いキュレーターで、僕と歳は近いんですけども、今思えば豪華メンバーですね。みんな無名の若者で、マルタン、アバディー、パックマンには毎日会っていました。岡部あおみさんがその頃アシスタントでいたから、彼女に紹介してもらったんです。特にアバディーがリサーチに協力してくれて、アレシンスキーのところに行ったら、自分が日本のカリグラフィーを撮った映画がポンピドゥー・センターにあるって言う。それで、アレシンスキーと一緒にアバディーに頼んで、アバディーと僕とアレシンスキーの3人で、彼が撮った日本のカリグラフィーの1950年代の前半か初めの頃に撮った、京都や東京のカリグラフィーの映画を見たりした懐かしい思い出があります。結構ちゃんとリサーチをしました。
思い出話をしてもしょうがないかもしれないけど、コブラに関しては不思議な経験をしました。コブラって、僕はそんなに詳しくなかったけど、宮島さんが「カラカスに飛べ」って言うのよ。

加治屋:カラカス?

建畠:カラカスにコブラの大コレクターがいると。カラカスってどこの国だという感じだったのね。とにかく行っちゃおうって、何も知らないで、カラカスに行ったの。カラカスにはシモン・ボリバル・センター(Simon Bolivar Centre)というのがあって、そこに近代美術館が入っているのね。そこで、スタイヴェンベルグ(Karel van Stuijvenberg)というオランダ出身のコレクターのコブラのコレクション展をやっているというので見に行ったのね。これは不思議な経験でした。ベネズエラというのは、しょっちゅうクーデターが起きている国ですよね。たまたま僕の兄の友達のベネズエラ人がベネズエラの反政府ゲリラで、パリに留学した後に日本に来ていたのね。彫刻家なんだけどさ。それで、家に泊めていたんですよ。ところが、そうこうしているうちにクーデターが起きて、彼のセクトが勝ったわけね。で、彼は、突然ゲリラから、若いんだけども、芸術学校の学長に迎えられて戻っていった。しばらくしたら、またクーデターが起きてゲリラに戻っちゃったという人なんだけど(笑)。僕が行ったときはゲリラに戻っていたけど、飛行場に迎えに来てくれたのよ。車を運転してくれたんだけど、ボンネットに自動小銃が置いてあるわけ。見えるところに。「え、何で」って言ったら、「お前、武器というのは、一番目立つところに置かなきゃ意味がないんだ。やったらやりかえすんだ。だから常に一番目立つところに置いておく」と言う。だから、銀行に行くと、手元に拳銃が置いてあるんだよね(笑)。そういう物騒な国でしたが、彼の車で最初にシモン・ボリバル・センターに行った。そうしたら、スタイヴェンベルグが来ていて、一緒に展覧会を見た。展覧会だから100点くらいしかないわけですよ。で、「何点持っているんだ」と言ったら「500点持っている」と言う。「見せてほしい」と言ったら、「見せてもいいよ」って。「どこにあるんですか」と聞くと、「全部家だ。家にかけてある」と言うんだ。500点が。不思議なことを言うなと思った。500点も掛けてあるって。それで、彼が車を運転して、途中ステーキハウスに寄って、こんな15cm四方くらいの立方体のステーキを食べた(笑)。それで着いて、家だよって言うから、ふと見上げたら赤坂離宮みたいな家なんだよ(笑)。表階段がずっと20段くらいあって、上はもう紫の霞がたなびいている。「えー」って感じで2人で歩いていくと、家のご主人を迎えに来る人が、両側に八の字に並ぶわけですよ。10人くらいずつ。家に入ると500畳くらいの3階吹き抜けの広間が、第一の間、第二の間、第三の間とあって、もう全部コブラなんだよ。もう5段掛け、10段掛けで掛っているのね。

池上:コブラ御殿ですね。

建畠:もう壮大なコブラ御殿で、コブラ映画館なんですよ。全てかどうか知らないけど、コブラの重要な作家については全部彼の経費で映画を作らせているわけ。アレシンスキーの映画とか。あと、コブラ図書館があるの。この図書館にも司書がいて、ダイレクトメールから全部とってあるの。それで、「コブラ・イズ・マイ・ラブ」みたいなこと言っていて(笑)、奥さんなんか(両手の手のひらを上に向けて)こんななって(呆れて)いた(笑)。娘が2人いて、僕が行った時は1人いたんだけど、何やっているんですかって聞いたら、2人ともアメリカに留学させてて、牧場の勉強をさせていると言う。テキサスの大学に留学させるのと同時に、それぞれに牧場を一つずつ買ってあげたっていうの、アメリカで(笑)。「なんだ、これは」というような大金持ちでしたね。でも、噂ではコブラの作品はその後全部売っちゃったと聞いたね。

加治屋:そうですか。
建畠:パリでも評判悪いのよ、値切るというので。でも大富豪でしたね。その人はベルギー出身でした。ベルギーだからコブラということもあったんだろうけど、若い頃にどこの国に行くかで、アフリカか南米に行くかというので、冗談でコインをはじいたら、南米と出たので南米に来て、そこで企業して成功したという人でしたね。この人は日本にもよく来て、カリグラフィーが好きだから、京都で森田子龍のカリグラフィーを買ったりしていました。具体、コブラ、アンフォルメル、それぞれリサーチの懐かしい思い出がいろいろありますね。まあ、「絵画の嵐」展は、タブロー集団としての具体という、具体美術の再評価のきっかけにはなったと思いますね。僕はそれで突っ走ったけれど、もちろんそれは対抗的な見方であって、彦坂的な具体観を全面的に否定しているわけではないですよ。ただ彼らは、大作・タブロー主義によって堕落したというけれど、作品を見てないよね、実際には。まあ少しは見ていただろうけど。でも、そのベストの時期の山村コレクションに入っているようなものや、初期の0会時代の、いま芦屋に入っているようなドローイング類という、画家としての仕事は、その時代にはたぶん紹介されていなかった。だから、限られた資料の中では無理のない偏見だったのかもしれないけど。画家集団としての具体というヴィジョンは、僕は今も変わっていませんね。そういうことを正面から持ち出したという意味では、多少、先駆的な意味があったかもしれないね。
加治屋:ポンピドゥー・センターは、その頃「前衛芸術の日本」(1986年)という展覧会をやりましたが、それには関わったんでしょうか。

建畠:直接は関わっていません。あれは、ジェルマン・ヴィアットが中心でやったんだよね。日本側は高階(秀爾)さんがスーパーヴァイザーで、千葉さんが協力していました。カタログは見ましたけども、展覧会は見ていません。ただ、アバディーがアンフォルメルかそのあたりの担当だったので、僕の短いテキストを送ったか、何かに協力した覚えがありますね。

加治屋;国際美術館のカタログはバイリンガルになっていますね。「絵画の嵐」は、フランス語とのバイリンガルですが、海外の人たちのことも意識してカタログを作られたんですか。

建畠:「絵画の嵐」は、フランス側に全面的に協力してもらって、コブラのテキストもアンフォルメルのテキストもフランス人に頼みました。僕は具体について書きました。アンフォルメルは、シルヴァン・ルコンブル(Sylvain Lecombre)という、当時パリの市立美術館のキュレーターで、その後、ザッキン美術館(Musée Zadkine)の館長になった人です。コブラは、詩人で美術評論家のジャン=クラランス・ランベール(Jean-Clarence Lambert)です。2本ともフランス語でテキストが出てきたんです。今思えば、和訳は松浦寿夫に頼んだんです。まだ院生だったんじゃないかな。2本のテキストがフランス語だったので、僕のテキストもフランス語にすることになりました。アンフォルメルもコブラも、どちらかと言えば、フランス語がメジャーな文化の中での運動ですからね。特にコブラはそうです。

加治屋:他の展覧会は英語とのバイリンガルですよね。

建畠:基本的には英語とのバイリンガルですね。英語とのバイリンガルというのは、今は一般的になってきたけども、当時は、まだフランス語が今よりはるかに強い時期だったのかもしれないね。でも、英語の選択肢はなかったよね。僕以外のテキストは2本ともフランス語で来たわけだから。

加治屋:他の美術館もだいたいバイリンガルで出していたんですか。

建畠:メインのテキストは少なくともバイリンガルでした。ほとんど英語ですね。特別展に関しては、必ずバイリンガルにしていました。林道郎的に言えば、日本のカタログのバイリンガルは、英語でも読める、意味は分かるというのに過ぎないんだよ。ちゃんとした英語のテキストは日本では作れない。英文のチェックができないんですよ。体裁の問題とか、プルーフリーディングの問題も含めて、日本で完全にバイリンガルの本を作るのは難しいでしょうね。だから、意味が大体分かる程度のものでしょうね。この時にはすでにバイリンガルにするのは一般的だったと思います。全ての展覧会というわけではないけれども、メインの展覧会については、なるべく英語と両方にしていたと思います。詳細に調べないと分からないけどね。

加治屋:先ほど彦坂さんの解釈に対抗するタブロー集団としての具体に注目なさったとありましたが、具体の再評価は海外でもこの頃かなり高まっていたと思います。そうした動向は意識なさっていましたか。

建畠:この頃高まったというより、その前から高く評価されていて、その令名が残っていたという感じです。今のような位置づけとはちょっと違ったと思います。もちろん、具体は誰でも知っていましたし、その後地位が低くなったこともないんだけど、ただ、具体がまた注目されるようになったのはその後なんですね。だから、アンフォルメルや抽象表現主義との関係で、具体の先駆性が高く評価されて盛り上がった時期ではなかったでしょうね。日本においては、むしろマイナスの評価があったかもしれない。

池上:そうですよね。

建畠:もちろん有名ではあったけどね。専門家の間では、彦坂のような言説が一般化していて、千葉さんにも継承されていくんですが、それに対する苛立ちはありましたね。おまえら見てんのか、みたいなさ。僕は特権的に見ることができたんでね。ただ、これは常にあることだけど、キュレーターとか評論家は俺が評価したという自負があるわけだよ。他のアーティストに関してもね。工藤哲巳の再評価とか、草間彌生の再評価とかね。その人は先見の明を誇るんだけど、偉いのはおまえじゃないだろって(笑)。偉いのは工藤だよ、草間だよ、具体だよ(笑)。おまえがいばってどうなるって話だと思う。みんな俺がやったと思いたがるという滑稽なところがあります。再発見というのは別にキュレーターの功績ではない(笑)、という気がしますね。でも、私自身もそういう意気込みも多少はあったかな。

池上:具体の評価が80年代に少し低くなっていたのは、東京と関西の温度差もあったとお感じになりましたか。

建畠:具体は、設立当時は東京では黙殺されていました。海外の評価が入ってきて、それなりに話題にはなったけど、ずっと主体的な関心を持たれてはいませんでしたね。今でもそうかもしれない。関西でも冷ややかでしたよ。例えば中村敬治さんみたいに、「おまえらが具体を褒めるのは具体を知らないからだよ」って言う人もいた。たしかにメンバーたちには具体帝国主義みたいなものがあったからね。元永さんとか白髪さんとか嶋本さんとか――田中・金山はちょっと違うんだけども――そういう人たちはやっぱり存在感を示すんだよ、パーティーなんかでも。そういうものに対する嫌悪感を中村さんははっきり言っていた。「具体知らずの具体読み」とか言っていた。僕は、「具体を知っているからいけないんじゃないですか(笑)。知らなきゃ褒められますよ」って言ったんですけどね。彼らは態度が大きいからね。良く言えば堂々としていた。そういう人たちの関西の磁場に対する嫌悪感はあったかもしれないね。この展覧会は85年ですか。僕が最初に知ったのは70年代の終わりの頃だったんだけども、その頃は具体はもちろん解散した後でした。万博の後で解散するんだよね。

池上:72年ですね。

建畠:展覧会をやったときは、関西の美術の動向が比較的おとなしい時期だったのね。僕は、「村岡スクール」と言っているんだけども、村岡(三郎)さんの周辺にいた人――北辻良央とか、小清水(漸)とか、福岡道雄とか――の、根暗で過激なものに非常に惹かれていたんですね。彼らは、時代の脚光を浴びていたわけではないが、僕はその重要性をずっと主張し続けていたんです。当時は、まだ関西ニューウェーブも起きていないときで、狗巻賢二とか、今京都芸大にいる野村仁とか、それぞれ孤立した中で非常に過激な、レヴェルの高い仕事をしていましたが、脚光を浴びているわけではなかったのね。元具体のアーティストたちは、ある一部で存在感を示していたけど、比較的静かな時期でしたね、80年代前半は。ニューウェーブが台頭し始めたのが80年代半ばです。この前、80年前後は何もないって言ったら、中原(佑介)さんに怒られましたね。重要なものは全部あったんだと言われました。河口龍夫とか、そういう人たちが活動していた。
ところで村岡さんは「まがいものの光景」に出してもらいました。村岡さんのツール・シリーズっていうのがあって、乾燥機とか水路といった道具類なんだけど、それを展示しました。草間彌生も出した。草間彌生は、僕は最初からもう再評価は自分の使命のように思っていました。後から話しますけど。
ともあれ、関西でも、現代美術の先鋭な評論家やアーティストは、「具体ねえ……」みたいな感じだったかな。そういう意味では、山村徳太郎の功績が大きいと思います。重要な作品を買い戻したわけだから。そのことで具体の再評価の機運を作ったとは言えるでしょうね。海外から再び注目されて、ヴェネチアでやったり具体展が繰り返し開かれたりするのは、このちょっと後だと思います。まだ、海外から具体、具体という激しいラブコールがそれほどあった時代ではないように思います。

池上:この少し後から出てきたということですか。

建畠:そう思いますね。

池上:「絵画の嵐」展についてお聞きしたいんですが、アンフォルメルとコブラと一緒に具体を取り上げておいて、抽象表現主義を入れなかったのは理由があったんでしょうか。

建畠:抽象表現主義の展覧会もやろうと思っていたのよ。この展覧会との関連でフォローするというより、両翼みたいな感じでやろうと思っていた。僕は、この前後の時期にサバティカルで、ホイットニー美術館に3カ月いたのね。ホイットニーで、パターソン・シムズ(Patterson Sims)――この人は、その後、シアトルに行ってMoMAに移ったのかな。今MoMAのインターナショナル・エクスチェンジのディレクターかなにかをやっていると思います(注:教育部門の副ディレクターを1987年から96年まで務めた)――彼に協力してもらって、抽象表現主義のリサーチをしました。ホイットニーは本もあるんだけど、アーカイヴが充実していて、毎日ドキュメントをコピーしました。作家のところにも行きましたね。バーネット・ニューマンの奥さんの家とか、ジェイソン・マッコイ(Jason McCoy)という(ジャクソン・)ポロックの甥に会いに行きました。オルブライト・ノックス(美術館、Albright-Knox Art Gallery)にも行きました。作品のリストを作って、リサーチして帰ってきた。東近美に話をして、一緒にやりましょうということになった。それで、朝日新聞に持ち込んだら、最初の企画会議で、保険代が膨大になるのに、入場者が全然期待できないと言う。結局、共催は無理だと言ってきて、半ば借りられる約束までしていたんだけども、だめになりました。今思えば安いものだけど、その頃でも1点1億円くらいしていたのね。今は一桁違っていると思います。そのときに中心になって協力してもらった――指導してもらったと言った方がいいかな――のは、アーヴィング・サンドラー(Irving Sandler)です。彼のところに何回も行って、人を紹介してもらったり、指示を受けたり、情報を教えてもらったりしました。それで、サンドラーの『アメリカ絵画の勝利(Triumph of American Painting)』を翻訳しようとしたんだけど、結局翻訳するのに時間がかかり過ぎてしまって、立ち消えになってしまいましたね。その後、サンドラーは滋賀でやりますよね、抽象表現主義の展覧会を(注:「戦後アメリカ絵画の栄光 1950年代/60年代」(1989年))。オルブライト・ノックスのコレクションを中心にした中規模の展覧会です。僕が準備していたとき、オルブライト・ノックスの館長はロバート・T・バック(Robert T. Buck)という人で、後にニューヨークのブルックリン美術館の館長になる人なんだけど、その人が非常に協力的でした。オルブライト・ノックスのコレクションを中心にしてもいいと言ってくれて、話をまとめてきたんだけど、結局保険代のことでだめになってしまった。これ(「絵画の嵐」)とペアの形でやろうと思っていたのにね。

池上:2本立てでやろうとしたということですね。

建畠:失敗しましたけどね。それから、「絵画1977-1987」(1987年)は、尾野(正晴)くんが中心で、僕とペアを組んでやった展覧会ですが、今にして思えば、ニュー・ペインティングをまとめて紹介した展覧会ですね。日本と西洋が一緒ですけどね。それから、僕が中心になった展覧会で一番記憶に残っているのは、「ドローイングの現在」(1989年)ですね。これは全館をドローイングで埋め尽くすという、壮大なドローイングの展覧会でした。ペインターだけではなく、建築家――例えば、ハンス・ホライン(Hans Hollein)とか磯崎(新)とか――のドローイングも出しました。特に記憶に残っているのは、(ジグマー・)ポルケ(Sigmar Polke)のドローイングを出したことですね。ポルケは、まだ日本で知られていない時代でしたが、ポルケのベスト・ドローイングでした。ケルンの――ニューヨークにもあるけど――マイケル・ウェルナー(Michael Werner)というポルケの大画廊に行って、ポルケのドローイングを借りました。ポルケは2回面会に行ったんだけど、2回ともすっぽかされました。すごい変人らしいんだよ。後になって世界文化賞のときに会ったことがありますが、このときは会えなかった。それで、マイケル・ウェルナーのところに行ってドローイングを借りようと思ったら、商品になる分を出してきたの。でも、何かあまり面白くないのよ。他にないのかって言ったら、マイケル・ウェルナー本人のコレクションを出してくれたの。これは売らないって言うんだけど、それを見てびっくりしたの。ベスト・セレクションなんだよ、どれを見ても。それで、そこから強引にまとまった数を借りてきました。見た人から、衝撃を受けたという話をよく聞きますね。それから、後はウォルター・ピヒラー(Walter Pichler)という、ハンス・ホラインの友達でウィーンの彫刻家、建築家ですね。ハンス・ホラインのドローイングに、ニューヨークのスカイスクレイパーの上にスポーツカーを乗せたアンビルドの聖域みたいな作品がありますよね。まだホラインがあまり建築を実現できていない頃です。ホラインは、ちょうどメンヒェングラートバッハ(注:アプタイベルク・メンヒェングラートバッハ市立美術館。Städtische Museum Abteiberg Mönchengladbach)ができてようやく実体建築に入ったわけで、それまではウィーンの街の店舗改装みたいなことをやっていた。それがみんなサンクチュアリになっているんだけどね。ホラインの、スポーツカーが乗っているスカイスクレイパーのドローイングは、地下の構造をピヒラーが描いているんですよ。ピヒラーの名前は、最初に川俣正に聞きました。川俣はピヒラーの心酔者で、一緒にピヒラーに会いに行こうということになった。でも、ウィーンにいなかったのね。ハンガリーとユーゴスラビアとオーストリアの国境地帯にいるというので電話したのよ。そうしたら、来てもいいけど、ここまで来た奴は今までいないって言うのよ。川俣と、当時のパートナーの小池さんと一緒に3人で汽車に乗って行ったんだけど、途中でものすごい雪が降ってきて、単線でこのまま行ったらどうしようもないぞって言われて、わけの分からない途中の駅で降りたんだよ。とにかく危ないと思って。降りたら、何にもないのよ、周りに。それで、ずーっとあぜ道を歩いていったら、居酒屋があったので入っていったら、ドイツ語しかできないの。僕らはドイツ語できないから、何も通じないのよ。僕らはホテルないかって聞いているんだけど、向こうは何にも分かんないのね。そうしたら2階にいた中学生くらいの女の子が降りてきて、英語を習っているから英語ができて、じゃあ家に泊まりなさいとなって、居酒屋の上に泊めてもらった。次の日にその女の子に運転してもらって、ピヒラーのところまで行ったんだけど、これは強烈な思い出でしたね。ちょうどソビエトが崩壊する直前で、そこの三国国境地帯は、ベルリンの壁が開く前に難民が移動し始めたところなのよ。何とも言えない緊張感がある地域でした。そこで、ピヒラーが、庭園を使った巨大なインスタレーションを作っていた。
「ドローイングの現在」でやったのは、ペインティングの方法の中にドローイングの方法が入ってきているということです。ニュー・ペインティングの一部がそうなのね。ペインティングの方法とドローイングの方法の境界が曖昧になってきたということです。例えば(サイ・)トゥオンブリー(Cy Twombly)がその先駆的な例で、かなりの画家たちがほとんどドローイング的な方法をとるじゃない。それは(ジャン=ミシェル・)バスキア(Jean-Michel Basquiat)にまで至るんだけど。ちなみに英語だと「Drawing as Itself」というタイトルでした。これは、MoMAのバーニース・ローズ(Bernice Rose)という、ドローイング・デパートメントのチーフ・キュレーターで非常に優れたドローイングの研究者とタイ・アップして、MoMAから大量に借りてきました。このときはずいぶんMoMAにいました。それで、アシスタント・キュレーターのロバート・エブレンという人に協力してもらった。バーニース・ローズは、その後ペース画廊(The Pace Gallery)に移ったんですが、非常に優秀な研究者でしたね。だけど、ものすごく気難しい人で、ちょっと持て余しましたね。日本に来て、毎日ホテルを変えるのよ(笑)。こっちも展覧会の準備で忙しいじゃない。彼女は、講演とクーリエを兼ねて来てもらったんだけど、毎日電話がかかってくるの。しかも泣くのよ、毎日。こんなホテルにいられないって(笑)。それで、彼女のために京都までタクシーで飛んでいって、別のホテルを予約して入って、じゃあここでって別れたのね。最初、旅館がいいと言うから日本の旅館に泊めたのね。そうしたら泣き始めたので、ホテルに移したわけよ。そうしたら、また次の日に泣いて電話をかけてくるの。うわーと思ってまた飛んでいった。それで、毎日ホテルを変えて、結局、元のホテルが一番良かったって言うの(笑)。そんなら動くなよ、おまえみたいな(笑)。それから講演をやる前にすごくナーヴァスになって苛立つのね。河本木ノ実(このみ)さんという、京都の近代美術館の河本信治さんの奥さんに同時通訳に来てもらったんだけど、講演の最中もナーヴァスになって絶句してしまうのね。泣き出しそうになって。苦労したね。でも非常に優秀な研究者で、いいテキストも書いてくれました。その後彼女はMoMAでもドローイングの展覧会をやりましたね(注:“Allegories of Modernism: Contemporary Drawing,” 1992)。彼女からはいろいろ教えてもらった。彼女が言ったのは、ドローイングは、初発的な概念形成の場所であると同時に、アレゴリーが最も先鋭な形で現れるということです。つまり、コンセプチュアル・ドローイングとアレゴリー論ですね。ペインティングとドローイングの垣根が無化されていくのをいろんな角度からやった、思い出深い展覧会でしたね。

加治屋:お話にあるように、国際美術館は現代美術の紹介を本格的にやっていた美術館だと思うんですが、当時、他にどんな美術館が現代美術を手がけていたんでしょうか。

建畠:もちろん、原美術館は現代美術館としてスタートしたし、東近美も途中から現存作家の個展をやるようになりました。本江(邦夫)や市川(政憲)さん、中林(和雄)さんも関わっていたかな、例えば「メタファーとシンボル」(1984年)とか「形象のはざまに」(1992年)というような現代美術の特別展をやるようになったのね。最初に現存作家をやったのは、二人展でしたね。堀内正和と、誰だったかな(注:山口長男。「山口長男 堀内正和展」(1980年))。巨匠の現存作家をやるようになって、そのうちに本江たちの努力で、辰野登恵子や黒田アキの展覧会をやるようになった。国際美術館が少し先行したかもしれないけども、東近美は、徐々に現役の作家や中堅の作家をやるようになったんだよね。スタンスは違ったかもね。東近美は今でも、現代美術の特別展を時々やりますけども、みんな少し冷ややかじゃない。なんか独特の雰囲気があるんだよね。本江も怒っていたけどさ。みなさんが現代美術の展覧会をやるべきだと言うから、東近美で乾坤一擲の現代美術展をやったのに反応が返ってこない、と。あれは一種の判官びいきみたいなところがあるね。国際美術館はあまり権威がないから、判官びいきだと愛されるほうなんだよ。当時の東近美のスタンス、つまり、インテリゲンチャの責務として現代美術を正当に扱います、みたいなスタンスを、僕は「本江的なスタンス」って言ってそれなりに評価していたんだけど、それが権威主義的に見えたのかもしれないね。ともあれ現実問題として、東近美も現代美術に踏み込んできたし、京近美も河本さんを中心に現代美術に積極的になったから、現代美術館という名称を国際美術館に変えさせた状況というのは、実態として崩壊していくのね。東京都現代美術館もそのうちにスタートする。現代美術館というのは、実は私立の長岡現代美術館があったわけですが、それが解体してしまって、しばらくタブーのような時期があった。国際美術館が先駆をなしたけども、国際美術館の影響かどうかわかりませんが、実態として国立美術館は現代美術に手を出すべきではないという理念は崩壊していきましたね。

加治屋:国際美術館ができる前は、現代美術は批評の分野でサポートされたと思うんですね。針生一郎さん、中原佑介さん、東野芳明さんが現代美術の紹介に影響力を持っていましたよね。しかし、その後、批評の役割が低下したように思います。そのことと、美術館が現代美術を扱うようになったことはどの程度関係していると思いますか。

建畠:直結していると思いますね。批評の御三家が現代美術を領導した時期は非常に長いんですね。彼らが20代でスタートした50年代から、たぶん国際美術館ができる70年代頃までの間は、完全に批評の御三家の時代だった。彼らは圧倒的な影響力を持っていた。キュレーターでもあったしね。美術館でも様々な展覧会をやってきています。中原さんの「人間と物質」とか、東野さんの「1970年8月」(注:「1970年8月 現代美術の一断面展」(1970年))とか。針生さんも独特のスタンスで現代美術に関わっていました。3人とも、現場も領導していたし、圧倒的な求心力を持っていたと思いますね。
もちろん、そのとき、上の世代には河北倫明とか土方定一という巨匠がいて、それぞれ美術館に依拠しながら、大きな影響力を発揮していた。どちらかというと、土方定一は在野的なスタンスを保っていた。特に彫刻に大きな影響力を発揮したと思う。河北倫明さんは近代日本画、近代洋画に非常に大きな影響力を持っていた。だから、美術館の力がなかったわけではないけれど、現代美術の現場はもっぱら批評の御三家だったですね。宮川淳さんは現場に参加してなかったけど、次の世代の峯村(敏明)さんや藤枝(晃雄)さんもキュレーター的なスタンスをある程度持ちながら展覧会をやっていました。ただ、国際美術館ができた頃から次々美術館ブームが始まりました。新設された公立美術館は、現代美術を一つの柱にするわけですよ。消去法というのはあるでしょうね。もう美術史美術館は作れないだろうから。公立美術館はどこも、その地域の美術と国際交流を柱にしています。
美術館は、作品を購入し、展覧会をやり、カタログを作り、シンポジウムをやり、広報・宣伝もやります。しかも、組織として動くからね。その求心力は、批評に比べれば圧倒的に強いし、作家にとってみても、これほど重要な組織はないわけですよ。だって、自分の作品買ってくれて、個展をやってくれて、カタログを作ってくれて、シンポジウムをやってくれて、トーク・ショーもやってくれて、ポスターもチラシもばらまいてくれるんだよ。僕は、「企業城下町」と言っているんです。画廊もこっちを向くからね。美術館を中心に企業城下町ができたことが、批評が領導する時代を崩壊させていった一つの大きな理由だと思いますね。それから、批評の御三家の3人は、大きな求心力を持つ才能と文筆力とキャラクターの持ち主だったんでしょうね。藤枝さんにしても、峯村さんにしても、宮川淳さんにしても、良し悪しはともあれ、彼らのような政治力を持ち合わせなかったんだろうね。それでも、峯村さんは現場で結構がんばったけれど、でもあの3人のスタンスとはちょっと違ったかな。峯村さんと藤枝さんって、性格的に非常に過激なのよ。ある意味では旗幟鮮明といってもいいけどね。対極的な方向ですが、その存在自体がアグレッシヴという意味では似ているよね。僕らにとっては直前の世代で、当初は両方とも親しかった。学ぶことは非常に多かったし、彼らのラディカルな言説とか先鋭さというか、プロブレマティックなあり方自体も僕は重要だと思っているんです。だけど、状況の中の存在感という意味では、御三家の持つ政治力にとって変わることはなかったですね。
その後、批評的な状況が実態として崩壊していきますよね。現場としては、美術館が求心力を持つようになるし、批評誌がなくなっていく。テキストの場所がカタログに移っていくからね。僕も、国際美術館の学芸員時代、毎月のように『美術手帖』――BTになる前ぐらいかな――に原稿を書きまくったんだけど、途中からカタログが多くなるんですね。国際美術館以外の他の美術館のカタログも頼まれた。多摩美大時代は新聞に展評を書くことはよくあったし、今でもありますけども、美術批評誌に書くということはもうあまりないよね。インタヴューを受けたりとか、短いコラムを書いたりとか、そういうのはあるけど、本格的な評論を頼まれることはまずなくなった。今は単行本か、美術館のカタログか、アカデミックなものに限られてきましたね。でも、メディアが変質していくのは、ニワトリとタマゴみたいなものでさ。批評誌がなくなっていくことも含めて、美術館の存在が大きかったと思うんですね。ただ、これについては多少後から批判的なことも言わなくちゃいけないと思いますけども。

加治屋:当時、美術批評が載る雑誌というのは、『美術手帖』以外は、『みづゑ』とかでしょうか。

建畠:『みづゑ』は早く休刊になってしまったので、僕は書いたかな。『みづゑ』に書いた記憶はないなあ。僕は『美術手帖』でしたね。『芸術新潮』に書いたこともあります。後は、自分たちで作ったメディア、『A&C』ですね。当時は批評を書きまくったからね。馬に食わせるほどね(笑)。特に読売新聞に毎週のように展評を書いた。安黒正流という名物記者に頼まれて。大阪版の読売新聞ですけどね。

加治屋:ヴェネチア・ビエンナーレに話を移させていただきます。建畠先生はヴェネチア・ビエンナーレで日本館のコミッショナーを90年と93年の2回なさっていますが、どのような経緯でなさることになったのでしょうか。

建畠:これは、突然指名されたということに尽きます。当時、国際交流基金の美術関係のアドヴァイスをする委員会があったんです。御三家とか、高階(秀爾)さんとか、嘉門(安雄)さんとか、お歴々が入っていて、国際美術協議会といったかな。そこがコミッショナーを指名するらしいんです。だから突然言われたのよ、国際美術館の学芸員の時代に。今と違って、立候補制ではなかった。その指名されたコミッショナーがアーティストの人選も含めて全部をやるという話なのね。その頃は、暗黙の了解でコミッショナーは2回続けてやることになっていたのね。僕の前は酒井(忠康)さんで、御三家とか、美術館の館長なんかがやっていた。僕は地方美術館の一介の学芸員だったから、何で僕のところに来たのか、びっくりしましたね。批評はよく書いていたけども、別にその中枢の中で位置を占めていたわけでもなかった。大役をお願いしますとか言われてさ。まあ嬉しかったですけどね。ヴェネチア行ったことなかったし。何で僕が指名されたのかは、今でもよく分かりません。
ただ、行ったことはなかったけど、前からヴェネチアでやるべきなのは個展だと思っていた。ところがずっと慣習的に三人展が続いてきたのよ。一つは、今は違うんだけども、国際交流基金が個展は援助しないという方針を決めていたんです。個展を援助するとなると、いろんな人から申し込みが来て収拾がつかなくなるから、自分たちが主催する展覧会でも個展をやるわけにはいかないだろうということがあったみたいね。個展ではないということが暗黙の了解でした。最初からそういう条件で頼まれたわけではないんだけども。そこで、普通だったら三人展をやるんだけども、できれば二人展と思った。村岡さんというのは、僕が私淑している非常に過激なアーティストで、もっともっと評価されるべき人だと思っていた。二人展だったら、村岡さんを尊敬している遠藤(利克)さんと一緒にやろうと思った。遠藤さんも、僕は非常に重要な人だと思っていた。もし個展の時代だったら、村岡さんの個展、あるいは遠藤さんの個展ということもあり得たかもね。二人展だけど、一心同体みたいなところもある。二人は、中村敬治さんに言わせれば「暗黒彫刻」です。それを押し出していこうと思いました。ただ、それが国際戦略として有効かどうかは分からなかった。ヴェネチアに行ったことなかったし。
それを押し出そうとした理由はいくつかあるんですよね。状況に関係なく自分の初心を貫いていく2人のラディカリズムとエキセントリシティに惹かれました。エキセントリックなものが実はメジャーであるというのが僕の一つの考え方でした。この二人はエキセントリックなものが面白いというよりも、実は現代美術の中核にそれがあるんだというような気持ちがありましたね。

加治屋:このとき、建畠先生は日本館のポスターを作って町中に貼るとか、ホテルを借りてレセプションをやるといった、それまで日本館がやらなかったことをなさっていますが((建畠晢「ゲームへの参加」『美術手帖』1990年8月、60頁))、これはどういったお考えだったんでしょうか。

建畠:ヴェネチア行ったことある?

加治屋・池上:はい。

建畠:ヴェネチアって、ナショナル・パビリオンが中心なんですよ。今は、それ以外の部分も拡大してきましたが。国策のようにして競い合うわけよ。僕はその雰囲気を知っていたわけじゃないんだけど、だから個展がいいと思ったのね。1人のアーティストを押し出したほうがいいと思った。オリンピックのようだと言われるように、良くも悪くも非常にポリティカルな展覧会なんですよ。賞制度もあるし、ようするに勝ち負けの世界でもあるわけだよ。レセプションをやったり、ポスターを作ったりしたのは、僕のアイディアでもあるけど、もちろん国際交流基金が主催するわけだから、彼らの要望とも合致したということなんでしょうね。日本館は、以前は前庭でカクテル・パーティーをちょっとやったりするくらいだったんだけど、本格的なパーティーをやりましょうということになった。これは国際交流基金の考えと僕の考えが一致したということで、何も独創的なアイディアを持ち込んだわけではないですね。

池上:レセプションは他の国の関係者を招いたりしたんでしょうか。

建畠:そうですね。ヴェネチア・ビエンナーレというのは、最初の一週間――集中してあるのは3日間くらいなんですけども――一週間くらいセレモニーが続くのね。各国ともパレスを借りたり、ホテルのバンケットを借りたり、あるいはグッゲンハイムの美術館を使ったりして、壮大な国策のような美術の本質とは何の関係もない華麗なる虚飾の宴を繰り広げるわけですよ。朝から晩までね。コミッショナーになって分かったけど、(午前)11時頃から夜中の2時頃まで、パーティーが一連になって、ざーっと続くわけですよ。とても全部出られないんだけどさ。そこでロビー外交が進行する。主立った画商、コレクター、美術館が全部乗り込んでくるわけですから。華麗なる社交を繰り広げるわけね。その中での日本のプレゼンスはないわけですよ。僕が言われたのは、コミッショナーというのは、キュレーターとは違う、国際的な影響力を発揮してロビー外交をしてくれ、ということでした。ロビー外交といっても、国際交流基金が用意したホテルは安ホテルなのね。各国のコミッショナーとか、コレクターとか、有力画商は、バウエル(Bauer)とかさ、ヨーロッパ(Hotel Europa)とか、そういう最高級ホテルにみんな陣取っているわけですよ。彼らはバウエルに泊まっていて、朝起きて顔を合わせるわけでしょう。安ホテルから飛んでいっても、きょろきょろしなきゃいけない。それでロビー外交になるかよ、ロビー行ってカタログ配ってりゃいいのかよって(笑)。国際交流基金の人から、ロビー外交やってくださいよとか、賞とってくださいよって言われるんだけど、そしたらおまえバウエルに泊めろよって思った(笑)。
最初、レセプションをやったときにちょっと心配したのね。他の強力なパビリオンのパーティーと重なっちゃまずいから、そういうのも調整した。南條(史生)に「どうすれば来るかね」って聞いたら、「日本食だ」って言うのよ。それで、案内状に「Japanese foods available」って書いたのよ(笑)。それは書かない方がよかったの。みんな寿司食いにうわーって来た(笑)。いっぱい来たけどさ、みんな貧民ばっかり、みたいな(笑)。ヴェネチアにコロンバ(Colomba)という有名なレストランがあって、そこに派遣されている日本の板前がたまたまいたのね。その人が親切心から、ただでやってあげるよって言ってくれて、わざわざミラノの日本の料亭まで買い付けに行ってくれた。その人が料亭に行くと、みんな最敬礼したらしい。名前を忘れてしまったけど、令名高い方だったようです。その人にあんなただ働きをさせて悪いなと思いました。大勢の人が来たから、脚に血豆を出しながら寿司を握ったと、後から聞きました。そんなエピソードもあるんだけども、まあ多くの人が来てくれた。
その後、レセプションはちゃんとして行われるようになりました。ただ、本当にヴェネチアというのはポリティカルな祝祭だし、社交の場所だからね。大げさに言えば、シンジゲートみたいなものがあるわけね。ヴェネチアのオープニングには最近ずっと行っていますが、そこに行ってよく分かるのは、ニューヨークの画廊と一部の美術館のボードメンバー(理事)のシンジゲートがある。メンバーが決まっているわけじゃないんだけど。その中で戦略的に送り出されたイズムを、さも戦後美術史の弁証法的必然性のように解釈していることのばかばかしさに気がつくよね。こいつらだよ、仕掛けているのは、みたいなさ(笑)。次は何って、方向を決めているわけだけよ。大富豪とボードメンバーと美術館人と一部の画商たちがね。まあ、少々、誇張のしすぎかもしれませんが、ともあれヴェネチアは非常に戦略的な場所であって、それを美術史的な必然性のように語るとか、イズムの交替の歴史として語るとか、そのばかばかしさというのが見えてきますね。非常に戦略的で、底が露呈しちゃうんだよ。大袈裟に言えば、ですが。日本で、シンジゲートに食い入れる人はほとんどいないのね。中央に座れない。僕には近寄れないけれど、長谷川(祐子)さんとか南條は、一応シンジゲートの周辺まで来たというか、テーブルにはついているという感じだね。でも真ん中には座れないのよ、やっぱり。それはコレクターの問題でもあるし、美術館のコレクションの力の問題でもあるしさ。バーターにならないんですよ。国際的な交渉力のある人は、南條、長谷川以降、出ない。続けて出ると思ったんだけどね。
ヴェネチアは華麗極まりない祭典でもありますが、おぞましい構造が露呈する場所でもある。反発も感じていましたが、重要なアーティストたちがそういう現場から出現してくるというのも事実としてあるわけです。日本は「ボランティア芸術」だって僕は言っているの。清く正しく貧しく(笑)というところからは強力なものは出て来ない。自分自身も含めてですが、その手のモラル、政治性のなさ、ボランティア純粋主義に対するむなしさは感じますよね。片一方には、貸し画廊という純粋ボランティア芸術の場所があり、もう片一方には瀧口修造がいるという。「何が起きるんですか、それで?」っていう。おぞましい商業主義に侵された政治的な現場から巨大な才能がでるっていうことは事実としてあるわけですよ。最終的にもしアーティストと作品が重要であるとするならば、少なくとも我々が持っている禁欲的なモラルっていうものは、その役には立たない。ただ僕も、どっちかっていうと禁欲的なモラルの中で自足している人間だから、じゃあおまえはどうするんだって言われたときに忸怩たるものがあります。そういうおぞましい現場を垣間見るという意味では、非常に貴重な経験でしたね。ヴェネチアというのは、他の国際展とは違って、全面的に露呈する場です。

加治屋: 2回目の1993年のときは草間彌生さんをお選びになっていますが、どういった経緯でお選びになったんでしょうか。

建畠:まず、個展だろうという考えがあったのね。その頃は国際交流基金との交流が多くなっていたから、いろんな形で、なんとなくこちらからも言っていたのよ、啓蒙的に。個展しかありえないと。それで、自ずと、基金も個展解禁になった。前に、中原佑介さんがコミッショナーのとき、篠山紀信の「日本の家」という展覧会をやったんだけど、あれは形としては磯崎新がインスタレーションしていました。だから、外形的には二人展だったのね。説得して、個展は了承になったわけですよ。そうしたら今度は、「草間さんなのか」という話はあったよね。草間さんは、僕が『芸術新潮』に入ったばかりの頃だと思いますけど、ニューヨークから帰って来て、西村画廊で初めての個展、コラージュ展(1975年)をやったので、僕はたまたま見に行ったんだよ、編集長の山崎(省三)さんと一緒に。スキャンダルの女王がアメリカから尾羽打ち枯らして帰って来た、みたいな時代だよね。有名ではあったけどさ。画廊に入った途端、草間さんがいた。でも山崎さんは顔見ないのよ。作品のほうだけ見て。僕も山崎さんと一緒に作品のほうだけ見て、出てきた。そのとき衝撃を受けたのね。今は東京都現代美術館に入っているコラージュです。草間さんは、僕も興味はあったんだけども、スキャンダルの女王というイメージが強かった。でも、作品を見て驚異的な天才だと思った。驚きましたね。これほどの才能があったのかって。
それで、美術館に入ってから草間さんの作品を購入したり、グループ展に出したりしていたんだよ。「まがいものの光景」とか、「イスのかたち」とか、いろんなところにちょこちょこ出していたんだけども、地方美術館がいくらやっても、大した影響力はないという感じだったんですね。だから草間さんをヴェネチアに選んだんです。もちろん、草間さんはある程度有名ではあったの。注目はされていた。しかし僕があまり天才、天才って言いふらすから、皆、辟易してしまって、草間はインタレスティングだけどグレートじゃないよねという反応でしたね。僕もそんなにたくさん見ていたわけじゃないんだけども、特に感銘を受けたのはニューヨーク時代の60年前後の作品ですね。抽象表現主義からミニマル、ポップへの過渡期の時代です。抽象表現主義のトップのアーティストと比べても、匹敵するアーティストはそうはいない。バーネット・ニューマンとかロスコを除くと、草間さんほどのペインターはいないと思います。彫刻においてもそうですけど。
その頃に、ちょうどでシーカ(CICA: Center for International Contemporary Arts)でアレクサンドラ・モンローが草間さんの展覧会を開くのね。これはまあ小規模なものだったと思うんですけど、僕は見てないんです。でもそのカタログを見て評価は確信に変わったんですね。それで、とにかく草間さんの60年前後の代表作を全部揃えようと、フランク・ステラ(Frank Stella)のコレクション、(ドナルド・)ジャッド(Donald Judd)のコレクション、著名なコレクター、ベアトリス・ペリー(Beatrice Perry)さん所蔵のアーム・チェアー、京近美にあった梯子、それから神野公男さんが持っていた《マイ・フラワー・ベッド》――これは今、ポンピドゥー・センターに入っています――を集めた。ベスト・セレクションですよね。そうした作品を中心に構成して、それと、一番新しい作品《ミラー・ルーム》を組み合わせた。この方針には批判が多くて、草間さんをやるんだったら、キッチュ、ポストモダン・キッチュでいけという意見をよく聞きました。あの部屋を全部水玉にして、全面的に展開させるべきだよという声もあった。しかし僕はとにかくオーソドックスにいこうと思ったのです。美術史のなかでのターニング・ポイントの草間彌生を紹介するという考えが全面的にあった。さっき言ったネット・ペインティングとペニスのファーニチャーは絶対出そうと思った。幸いなことに、全部出品交渉がうまくいった。でも、草間さんをコントロールするのが大変だった。草間さんに最初に「この展覧会は僕の展覧会だから一切発言しないでくれ」って言ったのよ(笑)。

池上:それを聞いた草間さんはどう言われたんですか。

建畠:草間さんは、「うーん」って言っていた。ヴェネチア・ビエンナーレの代表に選ぶということから言ったから、考え込んでいたね。でも、アシスタントの高倉(功)くんとか、フジテレビにいた大田(秀則)くんと包囲網を作って説得して、思うように選んだんですよ。それでも大変だったけどね。どんどん作品を増やそうとするからさ。もうしょうがないから会場まで持っていって、これは掛けないほうがいいでしょうと言って説得した(笑)。いろんなエピソードがありますけど、僕としては理想的な形の展覧会をやったつもりです。ただ、日本での評価はカボチャのおばさんみたいな感じが今もありますね。そういう部分も出したんだけど、そうじゃない部分を3分の2くらいにした。批判もありましたが、僕は右顧左眄しない、オーソドックスにいくということを貫いたんです。でも、これは賞が取れなかった。みんなが話題にしていたんだけども、ある女性審査員が反対したという話を後から聞きましたが。
「評判よかったから大成功ですよ」って言ったんだけど、草間さんはがっかりしたようでした。「賞なんか獲ったって、どうってことないですよ。草間さん、前回の賞を獲った人知っていますか。誰も知らないですよ。ラウシェンバーグとか棟方志功が獲ったときは影響力があったけども、今は賞なんて1ヶ月もしたらみんな忘れてしまいますよ」って言ったら、「そうね」って言う。だけど、また次の日に会ったら、「何で賞とれなかったの」って(笑)。「草間さん、みんなが感動していますよ」って慰めるしかなかったんだけれど、案の定、それは次々と草間さんの再評価に繋がっていった。MoMAの展覧会とか、いろんな形でね。それはヴェネチアだけの力だったのか分からないし、タイミングが合ったということもあるかもしれないけど、国際的な評価にすぐに繋がったので、草間さんも「そうね、言う通りだったね」って今は言ってくれるけどね。そういうエピソードもありましたね。

加治屋:海外のオーディエンスからの反応が良かったんですね。

建畠:良かったですね。

池上:国内よりも良かったとお感じになられましたか。

建畠:国内より良かったでしょうね。偶像的な感じでしたね。

池上:草間さん自身がですか。

建畠:カムバックみたいな感じだったね。その頃は、日本のアーティストというよりはニューヨークのアーティストと感じだった。「今、日本にいるの?」という反応がアメリカの人からも返ってきたね。だから、カムバックではあっても、日本のアーティストが評価されたということではなかったかもしれない。でも考えてみたら、ニューヨーク・スクールだってかなりの部分は外国人だよね、重要な作家は。
ジェシカ・ダイアモンド(Jessica Diamond)が草間の心酔者なのね。日本館にやってきて、オマージュを捧げるんだけど、草間さんは「何、この人?」みたいな顔していた(笑)。いろんな思い出がありますね。草間さんはすごいナーヴァスになってたのね。隣のドイツ館でナム・ジュン・パイク展をやってたんですが、僕はパイクは知っていたから、彼がいろいろアドヴァイスしてくれた。最初僕がヴェネチア・ビエンナーレのコミッショナーのやり方を教えてもらったのは、ハンス・ホラインです。ハンス・ホラインはずっとオーストリアのコミッショナーをやっていたから、コミッショナーの役割を教えてもらったりした。親切にアドヴァイスしてくれた。草間のときはパイクがいて、いつも来てくれるのよ。草間さんと親しいのね。草間さんもパイクは割と好きなんですね。パイクは、草間さんを抱きしめて「You are okay. You are okay.」って言ってくれたりして、すごく助かった。
 日本館の建築は、吉阪隆正のモダニズム建築の一つのモニュメントとして位置づけられている建物です。遠藤、村岡のときに、真ん中の天井はふさいだのね。天井が吹き抜けで、床に手すりがあって真中が開いているわけですよ。下に雨が落ちるというコンセプトなんだけど、雨が降ると絵にかかるから塞いでしまう場合が多い。でも、下の手すりは残った。四方から壁が出ていて、その真ん中に手すりが居座っている。それを塞ごうとすると、トラバーチンでできている手すりをとらなきゃいけないわけだ。吉阪隆正の弟子たちが作っているU建築事務所っていうのが新宿にあって、その交渉に行ったの。遠藤も来てくれて、国際交流基金の人とU建築事務所に行ったら、入った途端、10人くらいの建築家にばーっと取り囲まれたのね。あの建築には指一本触れさせない、生きて帰れると思うな、みたいな感じだった。大げさに言えばね。外すんだったらトラバーチンをそっくりそのまま壊さないように抜いて日本に持って来てくれ、どこかのモニュメントに埋め込むからって言われた。で、業者に聞いたら、トラバーチンは欠けるから、そんなことはできないって言われたの。それで、それは残したままにしてその上に遠藤の巨大なシリンダーを被せた。草間さんのときは、《マイ・フラワー・ベッド》を置く台にしたのね。今はとっちゃったけど、非常に使いづらい構造でしたね。柱も使いづらいし、雨漏りもする。平屋根だからね。展示空間としては欠陥が多い。ヴェネチアの大学に博士課程にいる日本人で早稲田出身の人がいて、吉阪研とも関係あるだろうからというので、いろいろ頼んで、毎回あの上を吹き直すのね。防水加工をしてもらう。でも漏るのよ。「こんなのダメだよ」って言ったら、その建築家が「いや、これは壊せない」って言うのね。「じゃあどうしたら良いのか」って言ったら、「ガラス屋根の強大な建物を作って、全体をその中に埋めろ」って言うんだよ。立て替えの話はしょっちゅう出ていたんだけど、結局もう壊せないでしょうね。非常に使いづらいですが、それを騙し騙し使ったという感じですかね。今は手すりがとれたから、前よりは少し使い安くなったと思います。

加治屋:多摩美術大学に移られた話をしたいんですが、どういった経緯で移られたんでしょうか。

建畠:あまり言っちゃいけないことかもしれないけど、美術館にいた頃に、滋賀大から来ないかって言われたのね。村岡さんが定年でやめるときかな。

加治屋:村岡さんが滋賀大にいたんですか。

建畠:いたんです。村岡さんからではなく、別の美術教育系のアーティストから声がかかった。理論家が欲しいので来てくれないかって言われた。滋賀大も見に行ったんだけど、美術館の仕事も好きだったし、もう美術館で立ち腐れるんだ、一生って思ったの。田舎のローカルな美術館で。そういうロマンチシズムみたいなものがあって、美術館にいようって決めていた。他の美術館からも来ないかって話もあったけど、国際美術館が好きだったから、全部断っていたんだよ。だから、やめたいというのは全然なかったんだけども、ミニマル・アートの展覧会をやったときに李禹煥のところに作品を返しに行ったのね。尾野君がやった展覧会なんだけども、僕がサブの担当でもあったから。返しに行って、作品を降ろした後に、李さんが「もう自分は多摩美をやめる」って言う。芸術学科はもう作家がいないほうがいいって言う。東野さんの理想で、宇佐美圭司とか李禹煥とか菅木志雄がいたんだけど、作家は中途半端だって言うの、芸術学部に作家がいるのは。東野さんの三位一体の理想というのは、東野さんがいたからこそできるのであって、東野さんが病気で倒れていたから、中途半端なことはやめたほうがいいという話でした。僕も一方で、アカデミズムに対する憧れが多少あったのね。でも、もともとバックボーンが違うから、純然たる美術史よりは多摩美みたいなところが向くかなっていう気持ちがあった。で、李さんが大学に話をして、そうしたら大学も賛成したらしくて、来ないかって言われた。でも、迷いはありました。美術館の仕事が好きだったから。でもそのときに思ったのは、別に二者択一じゃないでしょうということです。行ったり来たりもいいんじゃないのって。実際に行って帰ってきちゃったから、行ったり来たりになったんだけどね(笑)。別にまた帰って来ようとか思ったわけじゃないんだよ。でも別に、大学か美術館か二者択一じゃなくてもいいんじゃないかという気持ちもあって、割と衝動的に決めてしまいましたね。具体的には、李さんと会ってそういう話になったということです。

加治屋:建畠先生がいらっしゃったときは、どなたがいらっしゃったんでしょうか。

建畠:僕は平出隆と一緒に入ったのね。峯村さんがいて、秋山邦晴さんが兼任でいたかな。萩原朔美、海老塚耕一。あと、村山(康男)さん。その体制でずっと続くんだよね。僕がやめる頃まで。東野さんが作った、プロデュースと研究と作家の三位一体という理想像は、東野さんのキャラクターでもっていたところがある。錚々たる人たち、李禹煥、宇佐美圭司、菅木志雄がいて、佐々木静一さんと東野さんがいた。東野さんの独特の人文主義みたいなものがうまく機能したと思うんだけども、そういうカリスマ的なオピニオン・リーダーがいなくなると、作家の部分が排除されていって——海老塚さんは残っているけど——、プロデュースと研究に特化していったという感じかな。それも最近僕がやめた後に急速に変わったけども。でも、中心の人は美術だった。美術史家、評論家、美学者が中枢にいたんだけども、僕がやめて、峯村さんがやめて、村山さんもやめて、その後に入ってきたのが、中沢新一(注:2011年、明治大学野生の科学研究所所長に就任)、折口研究者の安藤(礼二)さんでしょ。宗教学と民俗誌です。それから鶴岡真弓さんでしょ。これも純然たる美術史とは違うよね。がらっと変わっちゃったわけです。本江さんも関わっているけど、でも美術の専任の人って、本江と海老ちゃんくらいしかいないんじゃないかな。長谷川祐子さんがいるけど、彼女は兼任で来ているからね。そういう意味では、美術以外のところが非常に強力になってきた。芸術人類学研究所と芸術学科が相互乗り入れにみたいにしているから、兼担の先生も多い。今、客員教授なので、年に1回か2回行きますけど、状況はよく分かんないね。あまりにも激変したので。美学美術史学科的な性格はほとんどなくなってしまった。それはいいことか悪いことか、ちょっとよく分かりませんね。本江なんか困惑していますけどね。でも、新しい可能性に結びつけばいいと思います。

加治屋:多摩美はたしか、以前人類学者の石田英一郎さんがいましたよね。

建畠:石田英一郎さんが学園紛争の直前の時期に入ってきて、総合芸術大学構想を作るんですね。その頃芸術学科や建築学科がなかったこともあったけども。芸術学科も総合芸術大学構想の一つでした。人類学を中心にというわけじゃないけども、実技のワークショップ的なものと理論的なものとを有機的に結び付けるというヴィジョンでした。これはすばらしいヴィジョンでした。でも、石田栄一郎は癌で亡くなっちゃうんだよね、急に。石田さんは、もともと左翼で、逮捕歴もある人だったから、学生運動家たちの信頼感が厚かった。もうちょっと長生きしていれば、学園紛争も違っていただろうし、総合芸術大学構想もうまくいったのかもしれない。それはヴィジョンとして一応残っているわけですよ。ただそれを実現できるスケールを持った思想的な中軸がいなかったんでしょうね。中沢新一はそういったことも、少し託されているのかもしれない。

加治屋:芸術学科はスタディー系とプロデュース系に別れているというお話がありましたが、当時プロデュース系がある学科は珍しかったんでしょうか。

建畠:どうでしょうね、今は日本中の大学にありますけども。プロデュース系は、東野さんの構想の三位一体の一つです。スタディー系、プロデュース系、ワーク系。ワーク系がなくなって、プロデュース系とスタディー系の2本になった。僕は広い意味のプロデュース系の要員だった。ちょうどスタディー系とプロデュース系の間くらいのところでした。具体的に言うと、キュレーター養成的なことを柱に掲げていた。その頃は、キュレーター花形時代だったから、新入生全部集めて、将来は何やりたいと聞くと、50人くらいいると40人くらいはキュレーターになりたいという時代でしたね。今は50人いたら手を挙げるのは数人かな、きっと。分かりませんけどね。この前、国際美術館で学芸員1人を募集したら、60何人か応募してきたから、まだやりたい人はいるのかもしれません。僕が多摩美にいる間でも、最後の頃は如実にキュレーター志望者が減っていましたね。だから、美術館の悪口というのはあまり外で言わない方がいいなと思った(笑)。

池上:夢を摘まないほうが。

建畠:なんか暗そうみたいな(笑)。

池上:今で言うアート・アドミニストレーション的なことをされていたんでしょうか。

建畠:キュレーター養成という感じだね。キュレーションのコースでしたね、僕のところは。いわゆるミュージアム・マネジメントというのとはちょっと違っていました。展覧会の企画をするとか、そういう方向を向いていたので、最近できている、キュレーター養成とは限らない、企業なんかも含めたアート・マネジメント的な方向とはちょっと違っていた。

加治屋:芸術学科は、実技系の他の学科とはどのくらい関わりがあったんでしょうか。

建畠:芸術学科は、美術系の大学の中にある理論系の学科なので、そこはメリットなのね。それを下手にあまりに持ち込むとデメリットになるんだけども。東京芸大の芸術学科の場合は、最初に入ったときに各科をまわすでしょう。実技を経験させたりして。入試にも実技がちょっとあるのかな。割合に実技との垣根が低い感じがします。芸大の芸術学科の出身のアーティストって多いよね。大学院に行くときに、実技の方に進む。中村一美とか。多摩美の場合は、先生たちの間は相互乗り入れがあるし、学生たちもクラブなんかはいっしょだから相互乗り入れがある。でも、体系的にはあまりやってこなかったのね。でも、最後の何年かで僕が科長になったとき、相互乗り入れをやりましょうと言って、やりました。僕は他の科の卒展の講評によく呼ばれていたし、芸術学科の学生を他の科の学生と交流させるために、各科に頼んで、実技のワークショップをやってもらった。もちろん、全科はできないことなんだよね。ガラスなんてできないのよ。素人がやると危ないから。でも、版画とか、いくつかの科に頼んで、向こうから来てもらったり、こっちが出かけていったりして、やりました。それを単位としてどこかは経験するということを他の科に頭を下げて頼んで、やっていましたね。多少、芸大と似ているかもしれないね。特に版画科なんかが協力してくれて、うまくいっていたと思うけど、今も維持されているかどうかは分かりません。まあ、同じ場所にいるから自ずと交流があるし、なるべく相互乗り入れをすることに個人的には努力したつもりです。

加治屋:美術館の学芸員から大学の教員になられたわけですけども、そういった方は当時は結構いらっしゃったんでしょうか。

建畠:ままあったかもしれないですね。ただ僕がやめたことがきっかけになったわけではないだろうけど、その後、次々に出ていきましたね、いろんな人が。特に中心になっているキュレーターたちが次々大学に移っていくという風潮は最近まで続いていますね。キュレーターで10年か15年くらいやって実績をあげて、大学に移っていくというルートが出来ている感じもするよね。大学教授の人材供給源になりつつあるのかな。国際美術館も2人出ていきますからね、今度。これは一般的にはいいことだと思うんですよ。ただ2人一緒に出ていくというのは、ダメージが大きかった。彼らのせいじゃないんだけどね。たまたまですけどね。僕自身も行ったり来たりしたから、そういうことはいいことだとは思うんです。

加治屋:それは、現代美術に重点をおく美術館ができて、大学で現代美術を教える人が必要になったときに呼ばれたということなんでしょうか。大学で現代美術を研究する人を育てる環境はほとんどないですよね。

建畠:いろんな理由があると思うんですけども、一つはそういうことなんでしょうね。現代美術が大学のシステムの中で専門的に研究できるような状況じゃないから、美術館の現場の人たちが即戦力になるということもあったでしょう。それから、今はどうか分かりませんが、大学の美術史学科の学生の就職先は美術館が多いから、そういう意味では、現場から人材を呼ぶという意味もあるでしょう。それから、さっきも言ったけど、評論家が大学の先生になるのはよくあったケースですよね。藤枝さんも峯村さんもそうだったし、東野さんも針生さんも中原さんもみんな大学の先生をやっていましたね。ところが、評論家は今はいないわけじゃない。そうすると、やはり学芸員のほうに目が向くということもあるでしょうね。

池上:美術館が現代美術に特化するような活動を始めて、現代美術が制度化したことが批評の役割の低下を結果的に招いたところがあると先ほどおっしゃっていましたが、その現象の帰結の一つということでしょうか。

建畠:そういう穿った見方ができなくもないでしょうね。今は評論家はいないからさ。ただ、美術館のキュレーターが大学に移ったときに必ずしも現代美術の専門家が移っているわけじゃないから、いろんなケースがあるでしょうね。ただ一般的に言えば、アメリカでも美術館と大学の相互交流というのはよくある話で、望ましいことだと思うんですよ。二者択一じゃないというのは。ただ、逆のケースはあまりないですね。大学から美術館に戻ってくるときは、大体館長ですよ。中村敬治さんみたいな特殊な例を除くと。館長で戻って来るというのは、専門職ではなくて行政職です。名誉職みたいなものでしょう。しかるべき大学の大物教授がどこかの美術館の館長に収まるというコースはあるようですが、キュレーターで来たという話はあまりないと思うのね。アメリカで言えば、キュレーターと教授は、まあ同格です。社会的な立場とか処遇とか。もちろん、美術館にもよるし大学にもよるから、一概には言えないかもしれないけども。日本は、キュレーターになった場合に、個室がないとか、秘書がいないとか、サバティカルもないとか、それから、国立の場合は出勤日や出勤時間はかなり自由だと思いますが、公立美術館では本当に9時から5時までいなさい、みたいなものがあるじゃない。展覧会を見るためにも出張伺いをして見に行くとか。そんなような状況だと、大学の先生は移りたがらないかもしれないね。日本の場合、海外のキュレーターとの交流もないじゃない。日本の美術館に来たらびっくりしますよ。学芸員の世界に個室の思想がないからね。国際美術館は今度サバティカルの制度を作ったんです。それは強引に作っちゃったんです。
美術館と大学の相互乗り入れというのは、自分もそうしてきたし、個人的には望ましいと思うんですが、今は美術館は冬の時代ですよね。まあ大学も冬の時代かもしれないけども(笑)。潰れかけた組織同士の交流というのは元気にならないですね(笑)。上昇するときには一緒に上がりましょうよというのはいいけど、どっちが早く潰れるか、みたいな感じかもしれないね(笑)。大学に行くのは、一般論としては悪いことだと思っていません。よく嘆く人がいるけども、いいと思いますよ。ただ、帰ってきても欲しいという感じだね。キュレーターとして。僕はキュレーター上がりだから、今も展覧会もやっていますけど、半分はマネジメント的な仕事もやらなくちゃいけない。そういう意味では美術館の学芸員の処遇をなんとかしたいなって思いますが、今からはもう何ともならないでしょうね。こういう悪い状況下では。潰れるか潰れないかという話なんだから、今は。

加治屋:建畠先生は1998年に国際交流基金が主催したインド現代美術展のキュレーターをなさっています。これをすることになった経緯を教えてください。

建畠:これは多摩美に来た後の話ですね。アジアセンター――もともと、アセアン文化センターというのが渋谷にあったんだけども、それが本体に移ってアジアセンターができたのね。ただ、このアジアセンターも最近なくなっちゃったんだけど――にいる古市(保子)さんという、非常にエネルギッシュなコーディネーターがいて、彼女から頼まれて、水沢(勉)さんと塩田純一と一緒にアジア近代美術の展覧会をやったんですね。僕はインドネシアをやって、水沢がフィリピンをやって、塩田くんがタイだったのかな。アジアセンターは、それまでたにあらたさんとか中村英樹さんが「美術前線北上」という展覧会をやったりしたんだけども、僕はそれで割と交流ができて、その後に立て続けに頼まれたのね。方力鈞という中国の絵画の展覧会をやって、その延長でインドを頼まれたんです。僕は別にインドの専門家だったとか、こちらからインド展をやりたいと持ち込んだわけではなくて、アジアセンターのカヴァーの範囲内だからインドの現代美術をやってくれないかって古市さんから頼まれたのがきっかけですね。僕は仏文出身だし、アジアは韓国以外は行ったことなかったのね。さっき言ったベネズエラも、ヨーロッパの運動を調べに行った。欧米、特にヨーロッパが多かったね。フランスはしょっちゅう行っていましたが、アメリカにたまに行くくらいで、アジアというのは念頭になかったのね。アジア美術ブームが起きたのは知っていたけども、アジア・トリエンナーレを見ても、そんなに関心を持たなかったのね。ただ、インドネシアのリサーチを何回もやっているうちに、だんだんアジアに、というか、古市さんに引きずり込まれました。だから、特にインドの現代美術を主体的にやろうと思っていたわけでは当時はなかった。でも、結果的には非常に勉強になったし、次の発想源にもなっていった。アジアのスペシャリストとまではいかないけども、アジアに比較的詳しいキュレーターになれたかな。国際交流基金のメリットは、機動力があって海外調査が潤沢にできることです。海外調査にキュレーターとして1人で行くって大変なんだよ、アポイントメントとるにしても何にしても。国際交流基金は現地事務所があって、古市さんのようなベテランがいるから、非常に機動力が発揮されるのね。欧米のような美術館を中心に動けるところはまだいいけど、東南アジアに行った場合、国際交流基金の仕事で行ったときの調査の効率は、たぶん我々が独立でやろうとしたときの数倍にはなるでしょうね。インド展に限りませんが、アジアの展覧会を立て続けに経験したことは、僕にとっては非常に価値のある経験でしたね。シンポジウムも含めてですけどね。

加治屋:国際交流基金の関連では、「アジアのキュビスム」展もなさっていますね。

建畠:そうですね。僕が最初にインドネシアに行ったとき、インドネシアにキュビスムがあることを知ったのね。50年代の独立の前後の時期に。で、そのとき塩田くんがやったタイにもあることが分かったわけ。フィリピンにもあるって。で、インドに行ったときにインドにもあることが分かったのね。僕はこれは面白いテーマだと思ったの。アジアと言うと、誰もキュビスムを思い浮かべないでしょう。フォーヴィスムは分かるよ。シュールも分かる。フォーヴィスム、表現主義の伝統は前衛絵画の前からある。日本でも、岩佐又兵衛とかそういうものがある位置を占めている。キュビスムは完全な輸入文化でしょう。そういうものがアジアにとって積極的な意味があるとは思わなかった。日本でも、キュビスムは、フォーヴィスムあるいは表現主義に比べれば、それほど大きな影響を残していないし、定着もしなかったけれど、だからこそ重要だとふと気づいたわけ。つまり、ピンポイントで、入ってきた時期が特定できるわけ。終わったときも分かるのね。日本は、1910年代に数年遅れでシンクロしていて、中国もシンクロしていた。他のアジア、東南アジアやインドやスリランカは、それから、50年代に飛ぶわけですよ。独立前後の時期に。つまり、非常に特殊な入り方をしている。しかも、様式的な影響とか受容の時期が特定される。変容が非常に見やすいのね。だから、これは比較美術史的に非常に面白いテーマだなと思ったし、ポストコロニズム的な視点もそこに導入できると思ったので、科研費を請求しようと思ったのね。後小路(雅弘)さんとか一緒にやろうと思って、古市さんに話したんだと思う。そうしたら、古市さんが突然、来年展覧会やってくれと言ってきたのよ。そりゃないだろう、調査に3年はかかりますよって言ったら、古市さんは、科研費ではそんなに調査できないでしょう。国際交流基金では何回でも調査できるって言うのよ。しかも林(道郎)さんたちも入れて調査団を組んで行けば、現地の研究者とも全部交流できるって言うの。たしかに、科研費の3年より国際交流の半年のほうが効率的だなと思ったの。それで、まあ多少不承不承のところもあったんだけども、それならやりましょうと。ただ、僕は科研費のレヴェルで考えていたから、展覧会はあまり考えていなかったのね。そんなもの、絶対に面白くならないと思っていた。論文としては非常に面白いテーマになるけども、展覧会としては、「(そういうものも)ありましたね」みたいな話で、面白くないと思った。でも、展覧会じゃないと国際交流基金は組めないから、展覧会をした。国際巡回展覧会をして、海外の研究者を全部網羅するって言うんだけど、これは実際に実現しました。その後パリに持って行くというプロセスまで発展していった。テーマとしては、言い出しっぺだったんですが、みんなに言われたよね、「なぜキュビスムなの」って。後小路さんですら言っていた。僕はそれが理由だって言ったのよ。「必ず、何でキュビスムなのって返ってくる。だからやるんです」って言った。フォーヴィスムかシュールレアリスムでやったほうがはるかに分かりやすいんだけども、キュビスムっていう、誰もが、えって思うこと自体がやる理由だったんですね。僕は非常に大きな成果を挙げたと思います。

加治屋:話は戻りますが、2001年に横浜トリエンナーレのアーティスティック・ディレクターの3人(注:正しくは4人)のうちの1人をやっていますが、これをすることになった経緯を教えてください。

建畠:これも誰が決めたか分かんないんですが、だいぶ前から、国際交流基金から、どこかでトリエンナーレかビエンナーレが出来ないかという話が出てはいたのよ。そういうテーマで、(国際交流基金に)矢口(國夫)がいる時代に国際シンポジウムをスパイラル(注:青山にある複合文化施設)でやったこともあります。それに僕は参加したことがあります。そしたら、具体的な可能性を考えましょうということを国際交流基金が言い始めて、僕と、本江と矢口と南條も入っていたかな。そういう人が4、5人集まって、研究会みたいなことを国際交流基金が主催してやったんです。それを半年か1年かやって、大蔵省に要請したら調査費がついたの。調査費がつくということは、もうやるということなのね。調査費がついて、それでやるかやらないかを決めるのが筋だけど、実際にはやるかやらないか決める場合には調査費もつかないのよ(笑)。ついたらもう脈があるの。中山さんっていう大蔵省出身の理事がいた。その後どこかの大使をやったのかな。拉致問題か何かで大臣か何かをやっている人なんですが。

加治屋:中山恭子さんですね。

建畠:中山恭子さんが言い出しっぺなのよ。彼女が最初、万葉トリエンナーレはどうですか、まほろばトリエンナーレはどうですかって言うの(笑)。彼女の情熱で、準備会をやっているうちに、僕と南條がそのディレクターに指名された。その構成メンバーにはまだ河本さんが入ってなかったから、どういう段階で誰が決めたかは知らないですが、海外に強いという点では、ありうる人選でしょう。南條と僕と河本さんというのは。後もう1人いたんだよ。CCA(北九州)の中村信夫が。ようするに、日本のドメスティックな美術館の中では、国際的な状況の判断力がある程度期待できる。まあ無難な人選だと思いますね。1回目で、失敗はできないからね。ただ、1人にしたほうがいいという意見はあったかもしれないね。4人選ばれて、何で1人にしないかという話はよく聞いたけど、もう4人でいいんじゃないのって言ったのね。だって、この4人は、そういうことをやるような人たちなのよ。そうして順番にやっていると、4人がやると12年もかかるわけじゃん(笑)。それが一瞬に片付くんだよ。滞貨一掃セールで。一回で済ませれば便利じゃないかと(笑)。まあ、それは冗談ですけども。多分国際展の経験が豊富で、国際展の状況をよくおさえている無難な人選だったんでしょうね。自分が言うのも変だけど。詳しい理由は分かりません。誰が選んだかも知らないし。

加治屋:アーティスティック・ディレクターとして、苦労した点とか、意識した点はありますか。

建畠:これは、スーパーヴァイザーがいなくて、4人が対等のかたちで入ったんです。コラボレーションをしながらやるか、4人が別々にやるかという問題がまずあった。それから、全体の総合テーマをたてるかたてないかということもあるわけね。これはいろいろ議論があったけど、総合テーマを立てることに僕は最初から反対だったのね。最終的にはメガウェーブという、抽象的なテーマになったんだけど。トリエンナーレ、ビエンナーレというのは、定期的に開かれるわけですよ。そこで要求されるのはカッティング・エッジであること、そして時代の状況を反映することです。それ以外に理由がないのよ。あるテーマをたてるんだったら、必要なときにそのテーマを最初にたててやればいいわけね。それは、定期的に開かれるものではないだろうと言ったんです。それから、規模からいって、1万平米+アルファといった壮大な会場は、テーマ展に向かないというのもあるよね。テーマは、定期的な展覧会に事後的につけるようなものじゃないでしょうとも言った。良くも悪くも不可避的に要求されることは、他のトリエンナーレやビエンナーレとの差別化です。同じような人選じゃなくて、新しく登場するアーティストたちをそこで紹介する必要があります。そういうことのなかで時代を読むようなことは必要かもしれないし、その時代に必然的につくテーマがあるかもしれないけど、一般的なテーマ展とは違うと思っているんです。
さっき言い忘れたけども、ヴェネチア・ビエンナーレは個展だと僕は主張したじゃない。その後、南條も個展をやったんだけど、僕は反対なんですよ。グループ展は。テーマをたててやるグループ展は、キュレーターの主張をすることなんだよ。個展は、キュレーターは作家を選ぶだけであって、キュレーターの名前は前面には出ないの。キュレーターが自分を出したければ、グループ展なんですよ。でも5人とかたててグループ展をやって、キュレーションの力を示すなんてことは、狭い日本館には向いていないのよ。そんなの誰も期待してないわけ。ヴェネチア・ビエンナーレでは。あそこは作家の舞台なの。作家を押し出す場所なので、ああいう場所の中でグループ展というのはほとんど黙殺されてしまう。それもあって、この前の基金の会議のときに、個展しかやらないというふうに一応原則を決めたのね。それを非常に強く主張したので、今はそうなっているはずです。
トリエンナーレも、そういうテーマ展とは違うものであって、カッティング・エッジであることが決定的な役割です。4人の中にはテーマをたてようという人もいたけど、僕はそれは反対した。僕の意見が通ったわけでもないんだけど、結果的に、メガウェーブという漠然としたテーマになった。もう一つは、美術を核としつつも総合的なことを考えようという点は、みんな一致しましたね。必ずしも十全には機能しなかったけれども。多ジャンルで多領域、科学や医学も含めた総合的なものにしようと。後は、4人がコラボレーションするのか、別々に4つの展覧会をやるのかということですね。これは建前で賛成しても、みんなできあがったキュレーターで、実力もあるから難しいのね。最終的には河本さんは独立したところでやったのね、赤レンガ倉庫ね。巨大なパシフィコ・ホールは、僕と南條と中村信夫でやったんだけども、中村信夫は自分の場所を確保した。で、南條と僕は、展示は相互乗り入れにしたんだけど、人選は独立して行った。半ば独立して半ば相互乗り入れしたような展覧会が実現したんですが、キュレーターでの間での意見の調整は難しかった。でも最終的には、別にケンカしたわけでも何でもなくて、まあバランスよくできましたね。

池上:すみません。確認ですが、アーティスティック・ディレクターは4人いたんですね。

建畠:4人いましたね。1人のほうがいいと思いますよ。事実、その後1人という路線になってきた。1回目はリスクを見たんでしょうね。結果的には1人でやるべきだと思います。4人が悪いとは思いませんが。

加治屋:国立国際美術館の館長になられてからのお話を伺いたいと思います。館長になられた経緯をお聞かせください。

建畠:晴天の霹靂ですよね(笑)。宮島前館長というのは、僕がもっとも尊敬しているシニア・キュレーターだった人ですが、この人から電話がかかってきて、戻って来ないかって言われたの。宮島さんが選んだかどうかは分からないけど、たぶん宮島さんの案だと思いますね。びっくりしましたね。国立美術館の館長というのは、だいたいルートが決まっているんです。東近美の館長は文科省から、国際美術館と京近美は東近美の副館長から館長になるというような暗黙のラインがある。西美は専門職だったり行政職だったりする。高級官僚か東近美の副館長か東大の美術史の教授かというルートがあったので、「えっ」て思いましたね(笑)。僕は多摩美だよ、知ってんのか(笑)って。僕が学芸員だった時の宮島さんというのは、本当にもう及びもよらないシニア・キュレーターで(その後、京大教授に転出してから、館長になったのですが)、事務処理能力と研究能力、人柄、責任感、あらゆる面で尊敬している人なんだけども、「宮島さんの代わりが僕に務まるんですか」って、宮島さんに言ったら、「そんなことは君に期待していない」って言われた(笑)。まあ、それはそうですよね、よく分かっていますね、みたいな(笑)。ただ彼からは、「僕は、国際交流が弱くてできなかったので、そこは頼みます」と言われた。これはどうしようかという話にはならなかったですね。

加治屋:引き受けるしかないと。

建畠:うん。もうしょうがないでしょう、という感じでした。独法化のときと重なっていたから、苦労することは多いよと言われました。僕は多摩美に何の不満もなかったんですけども、大学に移るときも二者択一ではないだろうと思ったので、まあそうかと思ったし、多摩美も、元の美術館に戻るんじゃしょうがないでしょうという感じでしたね。多摩美には結構長くいたからね。14年間いましたから。いろんなことをやっていたので、急には抜けられなかった。他の大学に行くんだったら、「えー」と言われたかもしれないけど、古巣に帰るならまあしょうがないでしょうね、行くしかないでしょうね、という感じだった。

加治屋:美術館で学芸員として仕事をしていた人が館長をするケースはそう多くない印象があるんですけども。

建畠:どうでしょうね。必ずしもそうとは言えませんよ。鎌倉とか、愛知県美とか。国際美術館や京近美は学芸員のトップだし。だいたいそのまま同じ美術館で上がることはないけれどね。京近美の場合だと、京都近美から東近美の副館長になってそれから戻って来るということがありますね。東近美の副館長が館長になるケースは、初代の本間先生がそうですし、京近美の内山(武夫)さんもそうです。だからないわけではないですね。ただ、高級官僚とか名門国立大学の教授がなるケースは、公立美術館でも国立美術館でもあることはありますね。

加治屋:さきほど独立行政法人化の話が出ましたけども、建畠先生がいらっしゃったときには独立法人になっていましたか。

建畠:なっていましたね。なってまもなくって感じでしたね。

加治屋:独立行政法人化されてうまくいくようになったことはありますか。

建畠:いろんな面がありますけど、一つは予算の費目が自由になったってことですね。完全に自由じゃないけども。今までは海外出張費はいくら、国内出張費はいくらという細目に分かれていて、その通りに執行しなくてはいけなかったけども、かなり融通がきくようになったということがありますね。それから、これは話すと非常に長くなっちゃうんだけど、もちろん単年度予算に縛られているんだけども、そこであがった収益は部分的に還元されるということにもなりました。これも複雑で、単純には言えないんだけども。それから、今までは見せてやるというところがあったけど、見ていただくというのに変わったかな。観客サービスはよくなりましたね。そういうことに伴って、当然ながら、研究調査や展覧会自体のアカデミックなレヴェルが下がるだろうと指摘されました。僕も危惧していたけども、結果的に独法になってからやっている展覧会とその前の展覧会を見たときにそれほど違わない。今が落ちていないというか、前の展覧会はそんなに高かったのかって言いたい気持ちはあるよ(笑)。だから、ブロックバスター展ばかりやって商業主義に侵されて、客寄せパンダのようなことばっかりやっているとは思わない。国際美術館に関しても、今でもレヴェルを維持しているし、それ以上のところに持っていこうと思っています。ショップとかレストランとかギャラリートークとか、そういうことも含めて、観客の立場に立てば、いい面のほうが多いんじゃないかと思います。

加治屋:お答えづらいかもしれませんけれども、独法になってうまくいかなくなった点は何かありますか。

建畠:一つは、自由の裁量が多くなった分、外部評価を受けるわけですよ。外部評価を受けるための資料作りとか、委員会や会議の数が激増したことがあるね。これは存在するために存在しているみたいなものです(笑)。外部評価の優等生だけども、他に何もしていないということになりかねないっていう。その仕事量が多くなったね。ただ、これは当然の代償であって、飴とムチみたいなものです。自由にやらせてあげるけど、完全にチェックしますよというさ。ただ、忙しくはなったでしょうね。特に庶務系の人たちは。膨大な資料を作りますからね。今はなるべく削減しようとしていますけども。そういう問題が一つあるね。これは誰もが指摘していることなんですが、不可避的なことでもある。どっちをとるかということでもある。自由であるけれどチェックを受けるシステムにするのか、完全に規定してその代わり今のままやっていくのか。善し悪しの話になると思いますが。それで、もう一つの飴とムチは、自助努力なので、稼いだものは使えることになっているわけね。ところが、必ずしもそうはなっていない。財務省の裁量によってそれが還元されたり、還元されなかったりすることがある。また政府からの運営交付金は5年ごとに平均をとって、次の交付額を決めるわけですよ。そうすると、稼げば稼ぐほど交付金が減るということでもあるのね。非常に単純な話をすれば。そうすると、これは民間的な原理からするとおかしいわけだよ。

池上:そうですね。

建畠:一生懸命稼いだ、ではご褒美を減らしましょうという話だから。そういう大きな矛盾を抱えているんだけども、これは解消のしようがないね。ただ、今はドラスティックに言い過ぎているんであって、実際には、大学も同じでしょうけど、政府から来る運営交付金は年に2、3パーセントずつ減っていくというものです。倍稼いだから半分にしますということはないんだけども。単調減少になっているんですよ。1年2年ではあまり変わらないけど、10年経つと、2、30パーセントになっているわけだから、将来的にどうなるのかという不安はありますね。それはどうなるか分からないよね。大学もそうかもしれないけども、美術館も、いずれ独立採算って話じゃないわけですよ。予算に占める収入の割合が、以前は数パーセントだったのが、10パーセント、20パーセントまでいけばいいかなという話だから。大部分は国からの交付金で成り立つことは変わらないと思うのね。大きな目で見た場合、特に国立美術館の場合はそうかもしれないんだけども、海外の美術館との競合があるわけですよ。海外の強力な美術館は、人数的にも金額的にも一桁か二桁違うからね。そういう中で日本の美術館だけが徐々に人員経費面で削減されていく。もちろん、それは稼ぐ額が増えるから、トータルとしては増えることもあるんだけど。そういう状況が、だんだん美術館の体力を蝕んでいくことはあるかもしれないね。今のところは、活性化している面が見えているから、体力がどんどん衰えてきたとは思わないけども、大きな問題ではあるでしょうね、将来的に考えると。どこかの段階で判断をする必要があるでしょうね。

加治屋:館長の主な仕事について教えていただけないでしょうか。

建畠:館長によって体質が違いますよね。文科省の局長経験者もいるし、青柳さんや岩城さんのように、東大の副学長とか美学会の会長というバックボーンの人もいる。僕の場合は、大学教授というよりは、国際美術館のキュレーターということがバックボーンだと思います。それによって自ずと違ってくると思うんですね。アドミニストレーションに徹する人もいる。アドミニストレーションの仕事が重要なのは確かだよね。学芸課と庶務課を両方見なくちゃいけないから、美術館のマネジメントが一次的な仕事ですよ。だけど、僕の場合キュレーター上がりなので、他の館長よりはキュレーションに深く関わっていると思いますね。展覧会の企画には多かれ少なかれ関わっているし、僕自身が企画した展覧会も、他のキュレーターと一緒に共同企画する展覧会もあります。一次的にはアドミニストレーション、副次的にキュレーションなんだけれども、頭の中では半々くらいですかね。

池上:この美術館が中之島に移ったことについて少しお聞きしたいんですが、万博公園にあったときと今とで違いをお感じになっていますか。

建畠:同じ美術館だからね。職員の人はほとんど全部変わっているんだけども。ただ、場所が変わっていることと独立行政法人になったことで、浦島太郎みたいなところがある。激変しているのね。万博時代の美術館の建物は非常に好きだったんです。今はもうないですけど。キュレーター的な立場から言うと、他のキュレーターたちも言っているけれども、日本の美術館建築としては好感度ナンバー1でしたね。

池上:展示しやすいスペースでしたか。

建畠:展示しやすかったかどうかと言ったら微妙になるけども、好きなスペースでしたね。非常に良い美術館だったと思います、ただ裏方・収蔵庫が狭いとか、講堂がないとかというのはあった。ただ、パビリオンとして作られたから、展示室に関する限り、非常に理想的な展示室だったと僕は思っています。でも場所は悪かったね。人は来なかったけども、あの頃はあまりそういうこと言われない時代だったから、孤立したままにそれなりにやりがいのある活動をしてきたと思います。ここに移ってきたことで、立地条件は劇的に改善されたのね。ここに移って来る条件は、入館者数が増えるということなんですよ。美術館にとって入館者が増えることは好ましいことではあるけど、メインの目標じゃないのね。しかし、この美術館に関する限り、入館者を増やすことは責務なんですよ。だって、入館者が増えなくてもよかったら、あそこに立て替えてもよかったわけだから。あるいは、あの建物を改装してもよかったわけだよ。国としては莫大な投資をして、ここに移ってきたわけだから、唯一の理由は、立地条件が良くなったので多くの人に見てもらうということ、投資したものが国民のものとして還元されるということ、入場者が増えるということですね。僕は何も他の美術館も同じことを掲げるべきだとは思わないけれど、この美術館に関しては、移転して入場者が増えるということが決定的な条件でした。実際、10倍以上増えましたからね。

加治屋:ああ、そうですか。

建畠:劇的に増えました。それは極めて望ましいことです。現代美術の先鋭な展覧会をやっても、多分万博公園時代に比べると、何倍か一桁違う数が入るから、そういう意味では投資効果はあったと言えるでしょうね。ただ一般論としては、入場者数至上主義には反対ですが。それと、現代美術は都心の息吹になったほうがいいだろうと思う。一時期、郊外公園型というのがはやったんだけれども、それは目的にもよるし、コレクションにもよるし、活動内容にもよるんだけども、現代美術の先鋭な企画展を打っていくという意味では、都心の息吹にあるのは非常に好ましいですね。そういう意味では中之島というのは理想的です。

池上:美術館建築、展示スペースといった観点からはいかがでしょうか。

建畠:その頃多摩美にいたんだけども、開館のオープニングに来たんですよ。戻ってくるとは露知らず。最初は地下だということに非常に抵抗がありました。尾野君も言っていたね。何か良くないなあって。都心に移ることの代償で全館が地下というのはどうかなって思ったんだけども、オープニングに来て、その危惧は消えましたね。開放感があるスペースが用意されていて、これならありかなという感じがした。地上にあるに越したことはないけれど、地下のデメリットはあまり感じなかった。それから、展示室に関しては、万博公園の展示室はすばらしかったということがあるけども、ここは日本の他の美術館と比べるといいほうでしょうね。シーザー・ペリ(César Pelli)というのは、比較的顧客の要望に答える建築家ですね。もともとブルジョワ建築家というか、企業とか行政の建築を請け負っている人で、ロビーを見ても分かるようにかなりブルジョワ的なところがあります。ここ(館長室)もそうですね。ミニマルなデザインでもなく、カジュアルなデザインでもない。展示室等の条件は、日本の美術館の中では比較的いいほうだと思います。天井高だとか、壁の仕組みとか。文句もあることにはあるんだけども、日本の美術館建築の中では展示がしやすい。理想的だとまではいかないけれど、及第点のスペースだと思いますね。

加治屋:国際美術館がある中之島を、ベルリンの博物館島に例えていらっしゃいましたけれども、何か構想のようなものはあるんでしょうか。

建畠:中之島というのは、大阪の都心のど真ん中にある。大阪というのは北と南に分かれていて、そのちょうど真ん中にあるのね。立地条件として非常にいいということがあります。それから、川に挟まれている。大阪はかつての水の都だったんだけど、修景的にも恵まれたところにあると思うのね。ただ、大阪の街というのは、南北の交通路で成り立っているんですよ。メインの通路が。堺筋とか御堂筋とか四つ橋筋とか浪速筋とかね。中之島というのは、サツマイモみたいに細長い島で、たしかにど真ん中にあるんだけど、みんな通過していくわけね。淀屋橋とかと肥後橋というのは、通過地点の地域という認識で、横に伸びた島という意識があんまりないんですね。大阪の人にとっては。そこはシテ島とか、博物館島と違うわけです。通過するというだけで、横のつながりはなかったのね。そこの演出が大事だと思っているんですよ。というのは、その条件が決定的に改善されることになったんです。今年中に地下鉄の中之島線が開通されて、東西の軸ができるんですよ、交通路として。それとともに遊歩道とかいろんなものが出来て、中之島をアートゾーンにしようということを、みんな口先では言っているわけですよ。あと、たしかに文化的な集積があるんですよ。一番向こうに東洋陶磁美術館があるでしょう。中央公会堂があって、中之島図書館があって、シティ・ホール(市役所)があって、日銀の古い建物があって、朝日のフェスティバル・ホールがあって、国際美術館があり、科学館があり、あと国際会議場がある。そこに高級ホテルも入っている。文化的なインフラが集中しているとまではいかないけど、それなりにいろいろあるわけね。ただ、横の連携は今のところほとんどないです。もちろん、会議を定期的に開いてはいるんだけど、島全体をアートゾーンとして総合的に演出しましょうという機運はなかなか高まらないです。そういうことは、最近よく言われているけども、それをどうやって演出するかという問題はあるでしょうね。国際美術館が起爆材になるかというと、この規模だけじゃ無理なのね。ポンピドゥー・センターの規模があれば、一館の活動でイメージを変えられるけども。国際美術館は、中之島では一番強力な文化施設ではあるけども、単独で都市の概念を変えてしまうほどの力は残念ながらないわけですよ。まあそれでもがんばろうとは思いますけどね。やはり、連携して雰囲気作りをしていく必要があるでしょうね。それをどういう形でやるかというと、姑息なものから大きな話まであります。僕は、地下鉄のようなインフラ整備も非常に重要だけれども、細かいことが必要だと思うのね。マップを作るとか。ニューヨークのタイムズ・スクエアにチケットブースがあるじゃない。ああいうものを作るとか。そういう細かい演出をしていくことが必要でしょうね。もちろん文化施設同士の相互的な乗り入れということもある。今度、東洋陶磁美術館の館長に、出川(哲朗)くんがなったから、そういう意味では、連携しやすくなった。何かの形で共同企画を立てるとかね。だから、抜本的、根源的な知恵があるわけじゃないんだけども、具体的、現実的にいろんなことを集積していくことが重要ですね。抽象論は繰り返しなされていて、会議やシンポジウムが開かれて、今後もいっぱい開かれるんです。理念的な話も必要だけど、もっと現実的な話だと思いますよ。マップを作るとか、チケットブースを作るとか、他にもいろいろありますけど。そうした中で盛り上げていくということと、いろんな施設の相互連携ということの二つでしょうね。文化的集積が進んでいるとは言ったけども、例えば近代美術館が将来的にできるかわかりませんが、それが実現すれば、さっき言ったような、より強力なイメージ・チェンジの機会になると思いますね。ただそれは行政の話だから、あまり口先だけの夢を述べるよりは、もっと現実的に動いていったほうがいいと思う。でも、変わると思いますよ。地下鉄のインフラがあるから。それとともに中之島という土地のイメージを売っていくことがはるかにやりやすくなると思いますね。
美術館の運営について、特に意識していることがあります。美術館というのは、アミューズメントという考えと、美の神殿という考えがあるけれども、これは二者択一ではないと思うんですよ。基本的には、僕は美の神殿だと思っています。だから、オーソドックスな軸線を貫くということをずっと言い続けているんだけども、一方で美術館は何でもありだとも言っているんですよ。さっき言ったように、美術館は、専門分化することによって、ジャンルが囲い込まれていっている。例えば、陶芸館ができ、版画館ができ、写真美術館ができる。そして、近代美術館、現代美術館、21世紀美術館ができて、文化施設が細分化していっている。音楽で言えば、コンサートホール、室内楽専門ホールといったものができてくる。それによって、施設が充実し、レヴェルの高い活動ができるのと同時に、文化の状況が分断化されていくのよ。それはもちろん、文化施設が囲い込むということだけではなくて、社会的な状況の変化もあると思う。インターネットの時代にジャンルの垣根がなくなっていくとみんな思いながら、実は囲い込みと分断化が進んでいくんですよ。例えばICC(InterCommunication Center)は、そういうジャンルを解体するはずだったのに、逆に一つのジャンルのイメージを作り上げてしまっている。そういうアイロニーがあるよね。もちろん、基本は展覧会をきちっとやるサンクチュアリは大切です。でも、それは僕は8割だと言っているんです。9割でもいい。あとの1割、2割のところは非常に柔軟に運営していけばいい。柔軟に運営していくときにポリシーはどうするかということが問題になる。でも、柔軟に運営するというのは柔軟に運営するということなんだよ。分からないことは分からないの。分からないことに方針を決めるなと僕は言っているんです。「グレーゾーンのサイエンス」と言っている。曖昧なものに価値があることを明確に見極めろって言っているわけ。曖昧なものが部分的に装填されていくことの意味については明晰に考えるのよ。でもそれは一定の割合なのね。もしそこで本質的なことが起これば、それは10年、20年、30年のうちに全体に及んでくるかもしれない。意味がなかったら捨てられていくだけだろうと思うわけ。グレーゾーンを一定の割合で装填しておくというのが僕の考えなの。だからその部分では何でもありなんですよ。例えば、美術館で文楽をやるとか。今度、小杉武久をやるんだけどさ、ログズ・ギャラリーとかそういうものを取り込んでいくとか、藤本由起夫みたいにサウンド・インスタレーションをやるとかね。このまえチェルフィッチュの芝居をやったんだけども、試行錯誤する部分をいろんな形で常に自動的に装填させていくということが僕の考えです。もちろん、そのことによって、アーティストたちが急に相互交流し始めるとかそんな期待は持っていないんだけども、そういう部分をシステムとして用意しておくことでしょうね。今度コンクリート・ポエトリーの展覧会をやるんです。何でもありだと言いながら、聖域は守ると言っているというのが僕の基本的なポリシーです。多くの場合に新しい取り組みに失敗するのは、曖昧なものに関して明晰に知ろうとするからなんだよ。僕は分からないことは分からないと言っているわけ。ぼんやりしたことは漠然と考えろと言っているのよ。でも、漠然と考えることの意味については明晰に考えるべきだと思う。それをどれくらいの割合にするのか、どこまで許容するのかとかね。枠組みは明晰にしておく。いい加減なものがあることの価値については明晰に理解しておくけれども、いい加減なものの内容について明晰に語るなと言っているの。分からないものは分からないのよ。絶対に。だから何でもありだと言っているのよ。そのさじ加減でしょうね、僕に課せられた責任というのは。

加治屋・池上:長い間どうもありがとうございました。