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東松照明オーラル・ヒストリー 2011年8月6日

沖縄県那覇市、東松照明スタジオにて
インタヴュアー:池上裕子
書き起こし:金岡直子
公開日:2013年1月12日
 
東松照明(とうまつ・しょうめい 1930年~2012年)
写真家
1930年名古屋市生まれ。戦後日本を代表する写真家の一人で、長崎の被爆者に取材した写真や、米軍基地の周辺、沖縄を撮影したシリーズなどがよく知られる。1~2回目の聞き取りでは子供時代の思い出と写真を始めた経緯、「岩波写真文庫」の仕事や名取洋之助との関係、VIVOの活動、長崎での撮影について語られた。3~4回目では学生運動や大阪万博について、「写真100年」展の企画、沖縄への移住、1974年の「New Japanese Photography」展、写真学校「WORKSHOP」での活動、また最近の制作について語られた。ヒューストン美術館写真部門のキュレーターである中森康文を聞き手に迎え、東松氏の体調を考慮して、短い聞き取りを4回行った。

池上:東松照明先生にお話をお聞きします。メインのインタヴュアーは中森(康文)さんなんですが、(台風の影響で)まだいらっしゃらないので、池上が始めています。じゃあ、お生まれから。1930年に、名古屋でお生まれということなんですけれども、ご家族の状況ですとか、バックグラウンドのようなことをお聞かせいただければと思うんですが。

東松:名古屋の結構中心に近いところで、(東区の)新出来町というところで生まれたんですが、父親の名前は宮崎新鐘(みやざきしんしょう)といいましてね。で、母親が東松露子(とうまつつゆこ)というんですが、私が3歳、その頃は数えで年を言ってたもんですから3歳と言ってましたけど、たぶん正確には2歳だと思うんですが、私と4歳上の兄、光男(みつお)の二人を連れて家出するんですね。

池上:お母さまが。

東松:ええ。それで、もう父親とはそれで縁が切れるわけなんですけど。だから生家のことは本当はあんまり知らない。で、兄からいろいろ・・・・・・ 兄がまた話し上手で、父のことを説明するもんだから、兄から聞いた話はあたかも実体験のような錯覚で、記憶に埋め込まれておりまして。それから、小学生ぐらいになってから、ちょこちょこ実家に遊びに行くようになって。実家というのは父の家ですね。

池上:お父さまも名古屋にはずっとお住まいだったんですか。

東松:ええ。そんな関係だったんですよ。それで、一番、記憶としてはっきり残っているのは・・・・・・ といってもこれは、兄の話と僕の記憶がごっちゃごちゃになって、兄から聞いた話の方が主だろうと思うんですけど、かつてこのようなもの書いたことあるんですよ、「おやじ談義」というの。(注:1978年7月号『オールセールス』に掲載。)

池上:お母さまがお家を出られて、東松姓を名乗られるようになったということですか。

東松:そうです、はい。

池上:お父さまと、そののちにはまた、会いにも行かれるようにもなったということで。

東松:ええ、行きました。

池上:どういう方だったんでしょうか。

東松:うーん、どういう、というかねえ、特異というか(笑)。

池上:お仕事としては、どういうようなことをされてたんでしょうか。

東松:えー、おじいちゃんとおばあちゃんがいて、宮崎質店という質屋をやってて。で、父親は、なんていうか、アイデアマンというのかな。絵が好きで、主として絵の具を使って何かを作り出すというような、新案特許ですね。で、うちは、京都のうなぎの寝床のような家で、玄関からはいると裏庭までどーんと道が通ってて、その左側にいくつか部屋があるんですけど。店の間といって一番玄関に近い10畳か8畳ぐらいの部屋があって、そこにいつもブローカーが2、3人たむろしてて、父親が何か発見すると、すぐ誰かがそれを特許庁へ申請して。

池上:じゃあ、発明家のような。

東松:まあそうですね。特許が下りるとすぐそれをどっかの会社に売りに行くわけですね。といったってそんな大してことないですよ。例えば子供の長靴ですね、長靴に絵をつけるとか。絵のついた長靴があったんですよね。型紙にして、そこにこう、ぴゃって絵の具でね、水に溶けない絵具で刷るわけです。そういう絵付けとか、こまごまとした生活用品を。仕事と言っていいのかどうか、わからないけど、そんなことやってましたね。

池上:特にお父さまはその、芸術の方に興味がおありだったんでしょうか。

東松:例えば、夜店に行って、ひよこを100羽くらい全部買ってくるんですよ。それで、帰って何やったかというと、色吹き付けるわけですね。黄色でしょ、ひよこは。そこに赤とか青とかいろんな絵の具をくっつけて、いろんなまだら模様のひよこができてね、華麗な世界ができあがるんですけど、シンナーか何か入ってたんじゃないかな、溶剤に。みんなばたばた死んじゃって。

池上:かわいそうですね。

東松:ええ、大量死ですよ、本当にたまらない。そんな100羽も、大量のひよこがいるだけでも驚きだけど、それが色が変わっちゃって、模様が変わって、それが全部死んでるんだから。それは強烈な印象ですね。

池上:子ども心にはショックですよね。

東松:そうですね。

池上:そういうアイデアはたくさんあるお父さまだったんですね。

東松:だったと思いますね。

池上:でも、こちらの文章(注:「おやじ談義」)にも、こういう経験がなければ写真家になっていなかったかもしれないというようなことも書いてらっしゃいますが、そういう視覚的な印象も強かったということでしょうか。

東松:そうですね。

池上:「空想の美術館に並べられた絵のようだった」という風に記述がありますけれど。

東松:と思いますけどね。

池上:お父さまはでも、写真を撮ったりされてたわけではないですよね。

東松:いや、ないです。それは兄の影響ですね。

池上:お母さまの方は、どんな方でしたか。

東松:おふくろですか。元々は、芸者だったんですよね。

池上:そうですか。

東松:それで、今のお金でいうと一千万ぐらいで宮崎家に買われたっていうかね。

池上:名古屋の、なんて言うんでしょう、花街みたいなところで。

東松:私にとってはおじいですけど、母親の父親っていうのが、そういうね、えげつない、危ない商売ばっかりやってて、サーカスも経営しておったんです。サーカスやったり芝居小屋をつくったり。それから芸者の置屋をつくって、娘が3人いて、うちの母は次女だけど、3人とも芸者にして。置屋ですからね。芸事で出すわけですね。それで宮崎新鐘は遊び好き、女好きで。一千万くらいで買ってたんですね、母を。

池上:そういう、遊び好きというところもあって、お母さまが家を出られたっていうことにもつながったんでしょうか。

東松:そうでしょうね。だから、別に好きで一緒になったんじゃないから。ねえ。

池上:お母さまの方は、芸事をされるっていうことから・・・・・・

東松:いや、もうその後は、生活のために一生懸命働くんですけど。おもだった仕事が、その当時は自転車が今の車と同じぐらいの、ほとんど自転車社会でしたから、夜走る時に自転車の前にライトをつけて、乾電池で動くんですね。明かりがともるというか。その乾電池を売る仕事をやり始めて、それが一番長く続いたんですけどね。

池上:雑貨屋さんのようなかたちですか。

東松:自転車屋がいたるところにあって、そういうところに行って、卸しに行くわけですね。セールスで。

池上:行商さんのような。(注:東松の母親は乾電池の行商から始めて、工場を経営していた。)

東松:ええ、乾電池卸しに行く。で、松下とかナショナルの乾電池があったり、いろんな大手の製品があるんだけど。大阪が本社で、小さな工場だったんですけどね、乾電池をずっと、売りに歩く。それでほとんど家にいなかったし、母親と接触した時間は記憶にないですね、あんまり。

池上:そうですか。それだけお仕事が忙しかった。

東松:かもしれないし、それとも男が他にいて・・・・・・(笑)。

池上:そうなんでしょうか。

東松:わからない。

池上:お母さまが家を空けがちだったぶん、おじいさまとかおばあさまは。

東松:いや、それはもう家出してからの話ですね。だから、兄と母と私と3人暮らしですね。だから兄の記憶はあっても、母の記憶がないんです。

池上:そうですか。じゃあもう、わりと幼いころからお兄さまに影響を受けられて。

東松:そうですね。まあ4つ年上ですから、結構、近いといえば近いし、離れているとも言えるし。

池上:小さい頃の4歳は大きいですよね。

東松:うん。だから、何歳ぐらいの時かちょっと覚えてないんだけど、もう3歳か4歳になってたかもしれないんだけど、兄の同級生で、朝鮮人の子供がいて、その子が・・・・・・ その当時はエネルギー源が石炭だったんですね。その燃えカスをコークスって言って、コークスを棄てる山がすぐ近くにあって、行くとね、蜘蛛がいっぱいいるんですよ。その蜘蛛、「クモ」と言えないんです、その子は。「コムコム」って言うんです。

池上:発音がしにくいんでしょうか。

東松:「コムコム」というんです。だからその子の呼び名が、兄と2人の間では「コム」と言ってたんですね。兄がいない時でもコムがしょっちゅううちへ来て、私を連れ出してはね、ある時は神社へ行って、賽銭箱の中に手つっこんで、自分は大きくて入らないけど、私は手が小さいから入るわけですね。で、賽銭箱から銭を盗って、コムはそれ持って帰るわけですね(笑)。

池上:そういう悪い遊びもされていた(笑)。

東松:経済観念が発達してたんでしょうね。片っ端からうちの引き出し開けて、母も兄もいなくて私一人だけの時に。ビール瓶やサイダー瓶のふたがいっぱい入ってる引き出しがあって、その中からひとつかみ持って、店へ行くとお金に換えてくれるんですね。いくらか知らないけど。それで買い物してチョコレートやなんかを私にくれるもんだから、こりゃいいやというんでうちに残ったやつをそこへ持って行ったらね、換えてくれるのはある一つのメーカーだけだったんです。それがアサヒビールなのかキリンビールか知らないけど。もうないわけですよ、コムがみんな持って行ったから。

池上:ちゃんとそれを選んでるわけですね。

東松:知らないから全部持ってたらだめだと言われてさ。そんなことがあったりしてね。

池上:それで、名古屋でずっとお育ちになって、政情的にはやっぱり戦争と重なっていらっしゃいますね。学徒動員を経験されて、旋盤工をされたっていうこともお読みしたんですが、そういう、第二次世界大戦中の空気みたいなものはどういう風に感じていらっしゃいましたか。

東松:戦争ですか。

池上:そうですね、はい。

東松:うーん、あんまり、新聞は読んだことないし、当時テレビはないし、空襲が始まるまでは、戦争っていうのはほとんど感じたことない。だけど、中学校へ入ってからは、もうほとんど勉強がなくて学徒動員で、私は、中学の時に、大隈鉄工所(注:現在のオークマ株式会社)というところへ動員されて、そこで旋盤工の見習いをさせられるわけですね。

池上:はい。

東松:で、体育の時間っていうのには必ず教練が、軍人が配属されてて、教練があるわけですね。そこに麦わら人形を立てといて、棒を持って、だあっ、やあっと。もう夢中ですね。槍を持ってやあって走っていって、突くということをやったり、匍匐前進といって、相手から撃たれないように下を這いつくばって、銃を持ってね、地面を擦るようにして、全身擦るような・・・・・・ それがそのあと、やがて敗戦後食糧不足になった時に、野菜泥棒で役立つんですね。

池上:匍匐前進が、ですか(笑)。

東松:だから、カボチャでもスイカでも何でも熟す期になると、畑の主がだいたい棒を持って、監視してるわけですね。持って出たらそれで半殺しにあうから、その場で取って食べて、何にも持たずに出て行く。その時に匍匐前進で入ってくわけですね(笑)。

池上:そういうかたちで、のちに役に立ったと。

東松:そうそう。

池上:その旋盤工見習いというのは、どういうことをされてたんですか。

東松:いや、もう、どういうことって、何もやらしてくれないんで、運び屋みたいなもんですね。原料持って来いとか、あそこ持って行け、みたいな、そういうようなことで。

池上:それは、作業的には結構きついというか、しんどいものですよね。

東松:うん、きついですよ。だから、教練も嫌いだし、旋盤工もやりたくないしっていうんで、どこの工場もほとんどそうですけど、医務室っていうのがあって、そこに看護婦がいるんですね。体調崩した時にはそこへ行くわけですが、そこへ行って、熱計れって言うわけですよ。体温計もらって、トイレ行って、で、こう洋服の端で体温計をね、だあーっとこする(笑)。そうすると、摩擦熱で、8度(38度)くらいのとこでぱっと止めてね、それでリンパ腺って言われるんですよ。何も、レントゲン撮るわけでもなんでもないですよ。

池上:リンパが腫れたんだろうっていう。

東松:ええ。それで「休んでいい」って。「しめた」ってなもんで。悪ガキでしたね。

池上:悪ガキですね、お話をお聞きしてますと。

東松:うん。

池上:じゃあ、その終戦の時、戦争が終わりました、負けましたっていう時は、どういう風にお感じになりましたか。

東松:それまでは、名古屋の結構中心地に実家があったものですから、家の近くもほとんど空襲で焼けて、焼夷弾も雨あられと降ってですね、うちは幸い焼けなかったんですけど。だから、毎日なんかそういう感じで。だけど、私はほら、悪ガキだからね、最初のうちは防空壕に逃げ込んでたんだけど、それも飽きてね、夜になってから空襲警報が鳴るとね、窓をがらっと開けて、鏡を空に向けて、自分が寝てる角度で見えるように立てて、米軍機がB29の編隊組んでわぁーって来る。で、もう撃つ大砲の弾がないからね、かなり低空で来るんですよ。だからすごいきれいなんですよ。編隊組んでぱあっと通り過ぎて。そういうのを、寝ながらね、鏡に映して楽しんでたっていう。

池上:ほう・・・・・・

東松:ええ。死と隣り合わせよ。

池上:そうですよね。それが落ちてきたらそのまま死んでしまうわけですよね。

東松:それぐらい、なんかこう、ずぶといというか。

池上:怖いという風には思われなかったんですか。

東松:あんまり思わない。だから、敗戦と同時に空襲がなくなって、空が、すごく静かな青い空で。 ぽっかり雲が浮いてたりしてね。「ああ、これが本当の空だ」って思ったりして。

池上:同じ年ですか、終戦の年に三河地震っていうのが、あったようなんですが。

東松:何事件?

池上:三河地震っていうのがあったようなんですが、これは特にご記憶にはないですか。

東松:終戦の年に?

池上:はい。一月なので終戦よりもちょっと前ですけども。

東松:いや、覚えてないですね。

池上:名古屋の方はそこまでは揺れなかったんでしょうか。

東松:うん。

池上:戦争を経験されてる方にお話をお聞きするときに、敗戦があって、もう価値観が全部ひっくり返って、なんていうんでしょう、もう何も信じなくなるというか、そういうようなことをお話しになる方もいらっしゃるわけですけど、そういうこともありましたか。

東松:それは私も共通してますね。まあ後になってから読んだんだけど、フランス文学者のナタリー・サロート(Nathalie Sarraute)という、小説書いてる人がいて、その人がね、『不信の時代』(L'Ère du soupçon, 1956)というようなタイトルで・・・・・・

池上:信じない時代、ということですね。

東松:本が出て、それ読んで共感したんだけど、そのナタリー・サロートが言うのには、敗戦の時に15歳前後で迎えた、一番多感な少年ですよね。その世代は、敗戦国、戦勝国を問わずね、アメリカでもイギリスでも、ドイツでもイタリアでも日本でも、負けた国も勝った国も共通してね、その世代は大人を信じないという。戦争遂行のためにさ、流言飛語を飛ばすじゃないですか。

池上:はい。

東松:日本でいうならば、この戦争には必ず勝つと言い続けてたのに負けたと。鬼畜米英とね。鬼畜生の、アメリカの米に英国の英ですね。

池上:そうですよね。

東松:だけど、占領軍として入ってきたのは、「ギブ・ミー」って言うとチョコレートやチューインガムくれる、いいお兄ちゃんだったりおじさんだったりするんで、なんだ、大人は嘘ばっかり言ってたなっていうので、不信感を持つという世代のことを「不信の世代」と名付けたわけですよね。そういう意味では、まさに私がその世代ですね。

池上:それまではやはり、軍部の発表ですとか、そういうものしか情報がないので、それをやっぱり信じておられたところもあったわけですか。

東松:うん。

池上:そのあと高校に入られて。

東松:高校はないですよ、私の世代は。

池上:そうですか、そうですよね。

東松:中学終わって、私の年度だけかもしれないけど、四年で卒業できたんです。普通は五年なんですよね。四年で卒業して、それで一年足りないって言うもんで、大学受験資格に。一年間を専門学校で、名古屋高等理工科学校、今の名城大学ですね。そこで一年間穴埋めして、それで受験資格を取って、大学受験をするという。

池上:そういうことになるんですね。

東松:うん。だから中学からいきなりもう、大学ですよね。

池上:それで、愛知大学に進まれるということで、経済学科に進まれて。 

東松:最初はね、キリスト教関係の南山大学の仏文予科っていうところに入って、別にフランス語やりたかったわけでもなんでもなくて、キリスト教関係だからね、ララ物資といって、アメリカからいろんな生活用品が来ると、配給するんですね。そういう関係のところへ真っ先に物資が配られる。シャツやらパンツやら、食い物もチョコレートも菓子もね。しょっちゅう配給あるんですよ。だからそれ目当てに入ったわけですね。(注:ララ物資は、戦後窮乏していた日本に対し、主にアメリカから届けられた救援物資のこと。物資を送るために設立された公認の団体、Licensed Agencies for Relief in Asiaの頭文字がLARAであることからララ物資と呼ばれた。)

池上:はい。

東松:だけど、トラブル起こして辞めちゃって。それでまあ愛知大学に入るんですけど。そこは南山予科ですから、そこに一年間過ごせば、ところてんみたいにこう、上へ……

池上:南山大学に、たいていの方は入られる。

東松:うん。

池上:そのトラブルというのは、何かあったんでしょうか。

東松:うん、まあね、校長がね、ドイツ人だと思うんだけど、アロイジオ・パッヘ(Alois Pache、南山大学初代学長)という人の講義があって。各科目全員に必要な講義なんですよ。何百人っていう講堂の中で話しますね。それで、後ろの方へ座って、隣の女の子とべちゃべちゃしゃべって(笑)。

池上:(笑)。

東松:しゃべってたら、白墨がぴゃーっとどこからか飛んできて。ほんとにどこから誰が投げたのかわからない、ぴしゃーっと当たったんですよ。これはもういかんっていうので、それがきっかけで辞めたの。

池上:ムカッとしたと。

東松:ムカッとしたっていうか、うーん、まあね、合わないっていう。勉強する気持ちがなくなって。その時、語学専門の大学でしたからね、もう教室に入ったらフランス語以外しゃべっちゃいけない。ABCD(アー・ベー・セー・デー)のアの字も教えないうちから、もうしゃべっちゃいけないって。

池上:すごいですね。

東松:中国語科の人間は、中国語以外しゃべっちゃいけない。そういう厳しい学校だったんです。僕はいい加減だったから。

池上:ちょっと厳しすぎたかもしれませんね。で、愛知大の方に入られて、大学に入られてからお兄様の写真機を借りられたんですね。

東松:入る前ですけどね。

池上:あ、入る前ですか。

東松:ええ。まだ二十歳になる前だと思ったんですけど。あの、二人兄がいて、今言った光男っていう4歳上の兄は、両親も一緒なんです。もうひとつ上の敏夫(としお)は、確か11歳年上だったと思うんですけどね。

池上:11歳。すごく上なんですね。

東松:親父が違うんですよ。だから、顔つきも体つきも、すべてが似てなくてね。それで、その敏夫が出征するときに、照明、私のことですがね、「照明を美術関係の学校に進ませろ」と母親に言って、中国へ行ったんです。

池上:そうなんですか。

東松:で、根拠は何かというと、すべての教科書の空白に絵が描いてある。

池上:ちゃんと見ておられたんですね(笑)。

東松:そう。まともに勉強せずに、教科書の空白に絵ばっかり描いてたんですよね。で、図工の時間だけは真面目に評価されて、つくったものなら代表例としてしょっちゅう貼り出されたりするんで、そういうことも知ってたんだろうな、兄は。だから、母から兄が言い残してったっていうんで、それで美術学校に行けっていうんで、その頃はね、京都、京都芸大ってありますか。

池上:あります。京都市立芸術大学ですね。

東松:そこがね、なんかその頃は専門学校という名だった。(注:1945年から49年までの呼称は京都市立美術専門学校。1950年に京都市立美術大学、1969年に京都市立芸術大学となる。)

池上:ああ、そうだったかもしれません。

東松:うん、専門学校で、そこを受験するために京都へ行って、京都駅を降りたところで、駅の周りにいた不良っぽい、泥棒みたいなおっちゃんたちに囲まれて、持ち物全部盗られたんですよ。

池上:えーっ。

東松:それで、それをそばで見てた、何の屋台かは覚えてないけど、屋台のおっちゃんが、気の毒がってうちへ泊まれと言って連れて行かれて。それで、結局そんなことがあって受験する機会を逃しちゃったんです。

池上:その時は写真ではなくて何科を受けようとされてたんですか。

東松:いやあ覚えてない。何科ってあったのかな。写真科はないよ。

池上:写真科はなかったと思うんですよ。だから日本画だったり油絵だったり、一応分かれてはいたと思うんですけども。

東松:何科っていうのは覚えてない。

池上:でも受けようとされた。

東松:受けに行ったんですけど、結局受験もせずに帰ったんですがね。

池上:じゃあ愛知大に入られる前にわりといろいろとおありだったんですね。

東松:そうですね、考えてみればね。

池上:その写真機を借りたお兄様はどちらのお兄様だったんですか。

東松:一番上、いや・・・・・・

池上:敏夫さんの方。

東松:いや、最終的には光男だけど、敏夫が戦地でね、「中支」というから支那のどのへんでしょうかね。敏夫は日本の陸軍で、情報班員やってたんですよ。文章がうまかったからね、それで戦況を書いて新聞社に流すというね。で、そこにカメラマンがいて、それは東京から派遣されてきた、その頃は著名なカメラマンだということだったんだけど、それが相方のカメラマンで、その人から写真を習ったって言ってましたね。

池上:敏夫さんが、相方のカメラマンの方に習って、カメラもご自分のものを買われたっていう。

東松:いや、その時は持ってなくて。だけど、引き上げの時に、全部中国側に接収されて、何も持って出られないんだけどね、現像液を。現像液ったって液じゃなくて、粉ですね。あの、メトールとかハイドロキノンとか亜硫酸ソーダとか、いろんなものをこう、何グラム何グラムといった具合に混ぜ合わせて現像液を作るんですよ。

池上:ああ、そうですか。

東松:うん。でもその原料は粉ですからね。だから持ち帰れたんでしょうね(笑)。だから、帰ってすぐ暗室をつくったんですよね。

池上:現像液の元の粉を持って帰ってこられて。で、カメラはじゃあどこで調達されたんですか。

東松:わからない。どこでどういう風に買ったか知りません。敏夫から写真術を光男が習って、光男から私が習うわけです。

池上:ああ、そういうことなんですね。

東松:習うきっかけになったのが、「写真事始」に書いてあるやつかな。これをどうぞ。(注:「写真事始めは恋人の撮影」、『私のカメラ初体験』、朝日ソノラマ編、1976年)

池上:ありがとうございます。では二十歳ぐらいのころに、光男さんから、動かし方というか、そういうものを教えていただいて、その感触と言いますか、カメラをいじることがやっぱり非常に気に入られたんでしょうか。

東松:まあ、そこにも書いてあると思うけど、ファインダーを覗いて・・・・・・ その、私は気が弱かったものだから、友達の妹が好きだったんだけど、デートに誘うこともできないし、ラブレターを渡すこともできないっていうくらい気が弱かった。相手に会ったってまともに顔見られないしね。うつむいちゃって。

池上:シャイだった(笑)。

東松:だけど、カメラのファインダーごしだとね、何分でも見てられる。近づけるしね。これはすごい(笑)。

池上:ちょっと距離があるというか、直接目が合うことなしに覗けるっていう。

東松:うん、覗ける。ファインダーごしになったら、じいっと見られる、見つめられるっていうんで。相手が二重まぶただったっていうことも知らなかったですよ。

池上:そうですか(笑)。

東松:カメラ越しに発見して。

池上:その時は、その女性の方以外にもいろんなものを被写体として撮られたと思うんですけども。

東松:いや、そりゃもう撮らないですよ。彼女しか撮らない。

池上:そうですか。

東松:でもまあ向こうの家行くからね、家に行って撮ったから、僕の友人のお父さん、お母さんを撮ったりもしたんだけど、だけど大半は彼女でしたね。

池上:そうでしたか。

東松:義理写真というか、義理シャッターというかさ。その子ばっかり撮ってたんじゃちょっと・・・・・・

池上:具合が悪いから、他の方もちょっと、お義理で撮りつつ。

東松:うん。

池上:面白いですね。でも、その撮ること自体が面白いと思われて、写真部に入られるんですか、大学では。

東松:それはまあ、現像が面白かったんですね。それはそうでしょう、引き伸ばし機に、彼女のクローズアップの顔を、印画紙の上に光を当てて焼き付けて、真っ白の紙を現像液に着けて、ゆらゆらさせると、赤いランプのもとでふわーっと出てくるわけですからね、彼女が。すごく神秘的で。

池上:その時の写真というのは、今もお持ちなんですか。

東松:いや持ってないです。

池上:なくなって。

東松:ええ、ないですね。一枚もない。

池上:残念ですね。じゃあ、そのあと写真部に入られてからは他のものもいろいろ撮るように。

東松:写真部に入ったからというわけではないんですけど。写真雑誌も読んだことないし、写真の撮り方とか現像の仕方とか、現像液の作り方とかいろいろなことは周りから教わったけど、写真をどのように、何を撮るというようなことは一切、アドバイスは受けてないんで、好きなようにやってたんですけど。でも、写真を暗室で合成することを覚えてね、それで、大好きな友達の妹とも付き合いが始まるわけだけど、気に食わんときもあるわけですよね。

池上:はい。

東松:彼女の目を画面いっぱいにこう伸ばして、これぐらい大きく目を伸ばして、その目に薔薇の枝をちぎったのぶすっと刺して、とげが生えてる薔薇をね。刺して、それをまたちゃっと撮って。

池上:ちょっと怖いですね(笑)。

東松:うん。むかついた時はそういうことやった。

池上:でもカメラのおかげで、その方とはお付き合いがあったわけですね。

東松:そうですね。

池上:じゃあその写真部に入って、先輩なり先生なりがいて、写真術みたいなものを教えてもらったっていうことではなかったわけですね。

東松:ないですね。

池上:では、カメラにおける、この方が自分のお師匠さんです、っていうような方はいらっしゃらない。

東松:あえて言えばね、その頃ね、写真部とは関係ないけれど、愛知大学で映画演劇論とロシア語を講義してた熊澤復六という先生がいて。

池上:熊澤復六さん。

東松:彼は若い頃、東京にいて、ロシア語が得意だったもんだから、チェーホフの新劇を担当して、作品を訳して。それで、その頃は新劇が始まった頃なんですよね。築地小劇場、そういうようなところで新劇運動をやってて。その先生がね、すごく可愛がってくれて。

池上:写真部の顧問をされていたとかいうことでもなくって。

東松:いや、違う。関係ないですね。

池上:授業をたまたまとられたんですね。(注:きっかけは熊澤が愛知大学写真展に出品した東松の写真を批判し、研究室を訪れた東松に美術史を解説したことから。『昭和写真・全仕事 シリーズ15、東松照明』朝日新聞社、1984年より。)

東松:私は経済学だから、単位にはならないんだけど、映画演劇論を聴きに行ったりしてたんですね。熊澤先生も名古屋で、私も名古屋で。名古屋から豊橋に電車で通うでしょ。それで一緒になったり、帰りも一緒になったり。それから、名古屋の溜り場が、富士フィルムの名古屋支店というのがあって、そこが中部日本学生写真連盟をその頃作ったんですけど。各地域が統合されてやがて全日本になるんですが、その中部日本学生写真連盟の事務所が富士フィルムの中にあったんです。それで、朝日新聞の後援ということで、朝日新聞の企画部というところが応援してくれて、そのオルガナイザーをやってたんですね、わたくしが。それで、その当時は、岐阜出身の早稲田の学生で、それで、都筑弘雄というんですけど、その都筑くんが、岐阜の実家に帰ってきたときに、名古屋に寄って、全日写連(全日本写真連盟)をつくろうと思うけど、その前に各地域ごとに写真連盟を作って、全部できたとこで統合する。だから中部日本写真連盟を作らないかっていう誘いがあって。それで、まあ結構中心的な動きをやった。中部地区といっても広いんで、金沢とか富山まで含むわけですね。その頃ちょうど内灘の、日本で初めての米軍に対する反対運動が始まってた(注:内灘闘争。石川県内灘村で起きた、米軍の試射場に対する反対運動)。ちょうどオルグ(注:organizeの略、組織を作ること)で金沢へ行ったときに、金沢大学の学生が、「こういう運動があるから写真撮りに行こうよ」って言って誘われて、撮りに行ったんです。それで、その富士フィルム名古屋支店のすぐ近くに「チャイルド」という名前の喫茶店があって、名古屋大学やら愛知大学だけじゃなくて、いろんな大学の演劇関係の人が集まってきて。それで、熊澤先生は演劇のプロですからね、なんのかんのと、毎日のようにコーヒー飲みに行って、またばったり会うっていうかたちで、親密度が増していったんだろうと思いますけどね。で、(1953年の)13号台風で熊澤先生の家が水浸しになって、ものすごい量の蔵書があったんだけど、みんな水被っちゃって、一色町というんですけどね(注:現在の中川区下之一色町)、そこに蔵書を全部乾かして、整理するというか、お手伝いに行って。その時に水害の街を初めて目の当たりにして、写真撮り始めて。それがやがて『岩波写真文庫』から『水害と日本人』(岩波書店、1954年)として出る。岩波に推薦したのも熊澤さん。

池上:ああ、そうですか。

東松:熊澤さんがその演劇活動を東京でやってた頃の仲間が、岩波の専務だったんですね、小林勇というんだけど。それで、名取洋之助と親しくて。名取は写真文庫を作った張本人です。それで熊澤先生の紹介で、推薦文持って東京に行って。

池上:じゃあ、大学出られてすぐ上京されるっていうのはそういうご縁もあって。

東松:そうそう。だけどもう、『岩波写真文庫』は廃刊に近づいていた時期で、人を採るような状況じゃなかったんですけど、ごり押しで入って、二年半ぐらい勤めましたけどね。

池上:大学時代に台風13号をまず撮られていて、1959年には、伊勢湾台風の後の街の様子を撮られますけども、やっぱり最初の台風13号の様子を撮ったっていうのは、東松さんの中でも大きい出来事になったんでしょうか。

東松:でしょうねえ。そういう事件性のものを今まで撮ったことなかったから。

池上:それまではどういうものを主に撮っていらっしゃいましたか。

東松:熊澤先生がね、口癖のように私に言ってたことは、私はその頃はつくり写真というか合成写真が多かったものですから、「現実を見ろ」と。で、「現実はダイナミックですごく面白い」と。「現実を見ろ」といつものように言われて。で、そう言われて見てみると確かに面白い。そのひとつが水害だったんですね。で、熊澤さんは小山内薫と一緒に新劇運動をやってた。築地小劇場っていうのは、小山内薫が、演出家ですよね。そういう関係で。

池上:雑誌の『カメラ』に入選されたりしてますけれども、それに投稿をされるようになったのは、大学時代に既にされてますよね。それに投稿してみないかっていうのも、熊澤さんですか。

東松:いやいや、そうじゃなくて、東京のプロたちが私の写真をどう評価してくれるんだろうかということで。まあ『アサヒカメラ』でもよかったんだけど、あそこは『アサヒカメラ』の編集者が審査してたからね。だけどアルス社の『カメラ』、これは『アサヒカメラ』より前に発行された日本で最初のカメラ雑誌で、木村伊兵衛や土門拳が審査員だったんですよね。それで、その頃初めてカメラ雑誌も見るようになって、自分の写真がどう評価されるのかというんで、投稿して、すぐ入選して。

池上:そうですか。

東松:これは西日本新聞の一面かな、毎月1回ずつ連載して、12回あるんですけど(注:「時を削る  東松照明の60年」2010年1月から12月まで連載)。ここに、木村伊兵衛と土門拳の審査の内容を載せた。ここでも「土門拳と出会っていなかったらたぶん写真家になっていなかったと思う」と、同じようなこと書いてあるんですけどね。

池上:はい(笑)。お父さまと同じような。

東松:12回分あるから、どうぞ。

池上:ありがとうございます。先日の個展(「写真家・東松照明 全仕事」展、名古屋市美術館、2011年)でもちょっと拝見したんですけど、最初はこういうような(《皮肉な誕生》、1950年を指して)・・・・・・

東松:うん、そうです、そうです。

池上:これは合成写真なんですか

東松:合成じゃなくて、兄の手、光男の手ですよね。

池上: そうですか。《皮肉な誕生》(1950年)という作品ですけども。お兄様の手ですか。

東松:ええ、サルヴァドール・ダリ(Salvador Dalí)の絵にこういうカットがあるんですよ。

池上:そうですね。シュールレアリスムっぽいなというふうに思ったんですけど。

東松:ええ、それで、写真でそれを撮れるかなあと思ってやったんです。だから習作ですけどね。

池上:二十歳頃の作品ですから、ほんとにカメラを持たれて、すぐぐらいの作品ですよね。でも大学に入られて、現実に目を向けるようになっていく。写真部の他の方たちは、そういうふうに積極的にカメラ雑誌に投稿されてらしたんですか。

東松:あんまり、うちの大学ではいなかったですね。

池上:そうですか。東松さんが出してみようと思われたのはやっぱり力試しというか。

東松:うん。どう評価されるのかを知りたかった。

池上:その頃から、できればカメラで身を立てていきたいというようなことは。

東松:いやいや、全然考えてなかった。

池上:いつごろそれは思われましたか。

東松:だからもう、卒業間際に、既に各社の就職試験が全部終わっちゃってるのに、まだどこも受けてなくて、行く先も決まってない。で、「チャイルド」の喫茶店で熊澤さんが心配して「お前どうするんだ」って。「いやあ、まだどうするか決めてないです」って言ったら、「俺の若い頃の友達が、岩波で写真の本をつくってるけど、そこで仕事する気があったら紹介状書く」という。推薦状というか。で、本屋へ行って『写真文庫』だぁーっと見て、面白そうだなと思って。

池上:じゃあ熊澤先生から言っていただくまでは、写真で身を立てようっていう風には。

東松:思ってなかった。

池上:それは、現実には難しいだろうっていうふうに思われて? 

東松:いやいや、それもなかったですね。

池上:発想自体がなかった。

東松:うん。ただまあ、学生写真連盟をつくるために、朝日新聞と富士フィルムを行ったり来たりしてたんで、朝日新聞の写真部の方では、そこでカメラマンになるんだったらうちへ来てもいいよっていうようなことは言ってくれた。今の名古屋本社ですね、当時は名古屋支社と言ってましたけど。

池上:やっぱり、在学中から既に認められていたんですね。

東松:まあ写真を見てそう思ったのか、わかりませんけど。それから富士フィルムでもね、その頃の名古屋支社長が、「大学出て来る気があったらね、営業だけど、うちへ来るんなら、仕事をやってもらってもいいよ」っていうようなこと言ってくれた。だから、あんまり考えてなかった、就職のこと。

池上:でも向こうからそうやって、話が。

東松:うん、そう。

池上:可愛がられてらしたんですね、いろんな方に。

東松:うーん、やっぱり、どうかな、セールスがうまかったのかもね。

池上:そうですか(笑)。

東松:だって人集めやって、写真連盟、各大学に行って、写真部のないところには写真の好きな学生を何人か見つけ出して、集めて、写真部を作らせて・・・・・・

池上:そういうこともされてたんですか。

東松:そうそう。中部学生連盟を結成して。で、それで出来上がったら東京で。東京にもしょっちゅう行ってた。それで、土門拳なんかとも面識があるわけだから、結構、活動的だったんですよね。

池上:そうですよね。

東松:だから、誘いがかかってたから。

池上:実際に『写真文庫』のお仕事をされて、どうでしたか。

東松:それは結構面白かったよ。

池上:はい。その名取洋之助さんとやりとりしながら。

東松:いや、名取はもうその頃、僕が入った時点で辞めてたんで。

池上:そうですか。『岩波写真文庫』を立ち上げた後。

東松:辞めてたけど、創設者だし、編集者もカメラマンもほとんど息のかかった人間ばかりだから、編集顧問ということで週に二回、岩波書店に来て、教授室みたいなのがいくつかあって、その中のひとつを使って、そこへ、みんな必要があれば相談に行く。まあ私は行かなかった。

池上:そうですか。必要がなかったんですか。

東松:なかったっていうか、敬遠してたんですね。

池上:それはなぜ。

東松:私は土門拳を尊敬してたからね、岩波入るときに土門拳のところに挨拶に行ったんですよ。『写真文庫』のカメラのスタッフになると。そしたら、むーっとして、しゃべらなくなっちゃって。

池上:そうですか。

東松:しばらくしてね、まわりくどい言い方だけど、例えば、撮影で、飛行機に乗るとすると、「その同じ飛行機に名取洋之助が乗ってたら、俺は次の飛行機に乗り換える」って言い方をするわけ。

池上:ほう。天敵なんですか。

東松:いやいや、土門拳は東北から、酒田(山形県)ですか、そこから上京してきて、初めてプロのカメラマンになる時に、名取洋之助が社長をやってた日本工房に入社した。で、「あれ撮って来い」って言われて撮りに行って、プリントして名取のとこ持っていくと、目の前でびしゃっと破かれる。こんなん駄目だって。やり方がまたね、すごいんだけど。土門拳は暗室に入って、悔し涙にぽろぽろ涙を流したり。

池上:そうですか。東松さんからしても、目上の方というか。

東松:うん。だから土門拳がそういう立ち位置だったもんだから、名取にできるだけ近づくまいと思って。

池上:で、ほんとに、ほとんど接触なく。

東松:いや、そうでもないけどね。結構可愛がられて(笑)。

池上:そういう土門さんにされたような厳しい指導っていうのは、東松さんにはなかった。

東松:それはない。直接の仕事の上司じゃないからね。でも後になって、もうずいぶん何年か経って、岩波をもう辞めちゃった小林さんを囲んで飯を食う会があって、その時に「東松くんを岩波にいれてくれたのは名取だよって」言ってた。

池上:そうですか。その、熊澤さんの紹介もあるし・・・・・・

東松:いや、それは熊澤の紹介とは関係なく。

池上:ああ、そうですか。

東松:うん、「写真撮って来い」って、フィルム渡されて。それから「文章書け」って書かされて。それを見て評価して、最終的には入れてくれたのは名取だよって。

池上:紹介だけじゃなくて、ちゃんとプラスアルファの力を見込んでくださったってことですね。

東松:そうそう。それが分かる前に、名取・東松論争って、この『アサヒカメラ』で論争したりして(注:1960年9月~11月号で展開された論争)。その時は名取が入れてくれたと知らなかったから。知ってたらできない(笑)。

池上:そうですね。その論争については、明日中森さんが詳しくお聞きしたいと言っております。

東松:なるほど。疲れた、もういいですか。

池上:はい、もう一時間になってますね。ではまた明日お聞きしたいと思います。ありがとうございました。