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東松照明オーラル・ヒストリー 2011年8月7日

インタヴュアー:中森康文、池上裕子
書き起こし:金岡直子、中山龍一
公開日:2013年1月12日
 

中森:今日はまず、雑誌『カメラ』での月例コンテストに優勝なさって、そこで、木村伊兵衛ですとか土門さんとの出会いがあってですね、いわゆる写真のリアリズムっていうことに関して、みなさん語ってらしたと思うんですけども。そこでなにか思い出すことをお話してもらえますか。

東松:それはねえ、その「月例」の後で、リアリズム写真連盟か何かできるんですよね。それは土門拳の甥である伊藤知巳がアルス『カメラ』の編集者で、彼が中心になって作るんですけどね。で、リアリズムという言葉は、私はむしろ、愛知大学の頃から・・・・・・

中森:熊澤先生ですか。

東松:そうですね。熊澤さんの影響ですね。

中森:そうですか。じゃあアルスでの、例えば作品でいうと《疲れ》とか、《うたたね》(1952年)というような作品ございましたよね。ああいったところは、どういったものを追って、どういった作品を作りたいという気持で。

東松:いや、どういったという観念が先立たたずに、とにかく歩くとか、とにかく現場へ行く。で、サーカスが結構好きだったから、サーカスが来ると、見に行く。現場を撮る。そういう感じですね。

中森:ちょうどそういった1950年代の半ばから後半の作品を撮った後で「名取・東松論争」っていう論争がありますよね。『アサヒカメラ』の。

東松:あったですよね。

中森:1960年の話なんですけども。名取さんは、東松先生の50年代の写真をご覧になって、「新しい写真の誕生」なんだけれども、ということで。(注:『アサヒカメラ』1960年10月号に名取洋之助が「新しい写真の誕生」を寄稿、東松が米軍基地で撮った写真における物語性の欠如を批判した。東松は11月号に「僕は名取氏に反論する」を掲載。)

東松:うん、でもねえ、名取さんはねえ、自分で文章書く人じゃないですよ。

中森:あ、そうですか。

東松:常に代役の書き手が側にいて、羽仁進がそれをやってた時期もあり、その後は多木浩二。だから、名取・東松論争の頃は、多木浩二か、あるいは犬伏君。犬伏というのは、『岩波写真文庫』の編集者で、どっちかだと思うんですよ、書いたのは。名取さんはもちろん、しゃべったことに肉付けして書き加えたけど、多木さんも犬伏君も亡くなっちゃったから、確かめようがないんだけど。

中森:そうですね。羽仁さんも、確か『岩波写真文庫』の。

東松:初期の編集者だった。

中森:編集者だったんですよね。で、名取さんは『アサヒカメラ』で、「新しい写真の誕生」ということでね、長野重一先生と東松先生の写真を比較して、解説記事的な写真が長野さんのもので、東松先生の写真はもっとこうポエティックな・・・・・・

東松:うん、だから、褒め言葉と受け取った方がよかったんでしょうけど。

中森:先生の回答は、わりとこう、強い言葉を使っていらっしゃいましたよね。例えばその・・・・・・

東松:「報道写真」という言葉ですよね。報道写真という言葉は、戦争の記憶とまつわるもんですから、私はすごく抵抗があったんですよね。

中森:ひとつ名取さんがおっしゃったのは、「事実尊重」。事実を尊重するかしないかっていう話で、それを東松さんのところでは、してないんじゃないかっていうような。

東松:うん。

中森:事実尊重をしない、事実を全くこう傷つけてイメージを作ってるみたいなことをおっしゃってました。ああいった雑誌における論争っていうようなものは、それまで写真の中であったんですか、あれだけ強い意見の交換っていうんですか。

東松:いや、ないですね。初めてだ、あの頃はね。カメラ雑誌では初めての論争だって言われたくらいですから、全然なかったですね。

池上:しかも東松さんが非常にお若い時ですから、そういう若手の写真家が、名取さんのような、まあ偉い方ですよね、そういう方に真っ向から挑むっていうのは珍しかったんではないんでしょうか。

東松:でしょうね。

中森:今、報道写真っていう話になったんですけども、例えば『岩波写真文庫』の『やきものの町 瀬戸』(1954年)で、僕が覚えてる一枚っていうのは、働いていらっしゃる方のご家族の方かな、いわゆる記念写真的なものありますよね。

東松:一族のね。

中森:一族ですね。そこで東松先生は確か、「記念的報道写真」っていうふうな言葉をお使いになったんですけど。

東松:そうですか、覚えてないです。

中森:覚えてないですか。岩波での経験がですね、その後「岩波写真学校」だったっていうふうにおっしゃって。

東松:たいていの写真家が、日大(日本大学芸術科写真学科)とか写大(写大、現・東京工芸大学)とか、その頃は写専と言ってましたけど、そういう写真の専門学校を出てる写真家が多かったものですから、私は一度もそういう専門教育を受けたことないから、そういう意味で言ってたんですけど。だから岩波に入って、プロの写真のテクニックを教わった。月給もらいながら。月謝払いながらじゃなくて(笑)。

中森:その現場っていうのが、編集部の事務所がね、いろんなオブジェがあったりとか、いろんな先生が出入りしたりとか、知的にもこう、高まるような場所だったっていうふうな。

東松:そうですね、すごく刺激になりましたね。

中森:また2年でお辞めになったのは、わりと短かったですよね。

東松:ええ。だから、私は入るたって正式社員じゃなくて、特別嘱託といって、社員同等の待遇の職だということで入ったんで、「もうそろそろ終わりにしようか」っていう、上の方では、そういう話になってたんじゃないでしょうかね。もう名取さんも出ちゃっていないし。

中森:名取さんの後にはどなたが編集長っていうかたちでいらしたんですか。

東松:編集長はいなかったです。だから長野重一が、結構、そういうリーダー気取りでやってましたけどね。

中森:じゃ、みなさんご自分のプロジェクトをあてがわれて。あるいは季節ごとの、伊勢台風の話を本にしようって、そういったのはご自分で?

東松:いや、そうじゃなくて、月に一回企画会議というのが行われて、そこでみんながプランを出すわけね、ひとりひとり。それで編集者もデザイナーもカメラマンも、それから総務やってた人間も全てがみんなプランを出して、そこで決まるわけです。

中森:多岐にわたる題材を『文庫』は扱っていましたよね。医学もあれば化学もあるし。

東松:なんでもありですね。

中森:なんでもありましたね。

東松:だから、テレビの先駆形ですよね、テレビができた時には、ディレクターが、教本、教科書みたいに『岩波写真文庫』を使いましょうってね、そういう役割を果たしたんじゃないでしょうかね。

中森:いわゆる「グラフもの」ってございましたよね。写真雑誌ですとか、ああいったものからずいぶん一線を画した、やはり企画ものだったんでしょうか。格調高いところあるでしょう、やっぱり。

東松:そうですね。全部専門の学者がついてますしね。

中森:その後、「10人の眼」っていう展覧会ございましたよね。「10人の眼」展から今度セルフ・エージェンシーの「VIVO」ができてくる、そのあたりのことに関してちょっと話してもらえませんか。

東松:「VIVO」ができたのは1959年ですよね。その前に福島辰夫が呼びかけ人で、「10人の眼」展(1957年)ですか。そういうのをやり始めて、その中のメンバーに呼びかけて、「マグナム」の日本版を作ろうっていうんで。(注:Magnum Photosは1947年にロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンらが結成した写真家グループ)。それで、石元(泰博)はほとんどアメリカで、日本にはたまにしか帰ってこないからっていうんで、一人落ち、二人落ちて・・・・・・ 中村正也くんだっけ。

中森:そうですね、中村さんね。

東松:彼は自分で事務所つくったばっかりで、できないって。結局6人で始めたんですね。

中森:川田喜久治、奈良原一高、細江英公、あと、佐藤明さんですか。

東松:一番年上が丹野章。

中森:ああ、丹野さんね。

東松:それでその次が、私と佐藤明が同年で、それで奈良原、細江、川田喜久治、その6人。

中森:その目的っていうのは、さっきの「マグナム」の話を聞いてみると、報道写真的なものをそれぞれがつくって、それを一つのチャンネルで出していこうっていう風なことで。

東松:報道写真とは限らないけど。六人がそれぞれ分野が違いますからね、それで結局、築地の事務所に移ってからはマネージャーを雇いまして、そのマネージャーが会社として作ろうとしてたんですね。そのためには、やりたくない仕事でもやって、稼がないといけないと。それが嫌になって、やめようって(笑)。結局そういうことになっちゃって。経営方針が、解散の理由ですよね。

中森:マネージャーは何という方だったんですか。覚えてらっしゃる。

東松:飯島かな。早稲田大学出で。

中森:女性ですか、男性。

東松:男性。

中森:まだ若い人だったんですね。

東松:だいたい同年輩ですね。僕なんかと。

中森:その時に、確か奈良原さんが東松先生のことをお書きになった文章で、「『ヨネ』的な感覚」(『フォトアート』1976年1月号)っていうのがあったんですけど。

東松:だから、事務所の名前を何にしようかっていうんで、みんなそれぞれ案を出したんですね。

中森:「VIVO」ですね。

東松:私が「ヨネ」って(笑)。「ヨネはないだろう」って。

中森:「ヨネ」は、カタカナで「ヨネ」なんですけど、米ですか。

東松:ほんとに感覚的な音だけで選んだんですがね、「ヨネっていうのはどうだい」って言ったら、猛反対にあって(笑)。

池上:「VIVO」っていうのは逆に、どういう風に決められたんですか。

東松:佐藤明が、なんか、字引を引いて、何語ですかね。

中森:エスペラント語です。

東松:エスペラント語。ライフ(life)っていう意味ですよね。

池上:ヴィダ(vida)とかね、ヴィーヴル(vivre)っていう。

東松:それで、それがいいやっていうことになって、決まったんですよね。

中森:みなさんでいわゆる共同作業として一つの作品を作っていくとか、そういったことはなかったんですよね。

東松:それはないですね。で、収入の50%を本人がとって50%を事務経費として「VIVO」がとると。だから稼ぐ人間と稼がない人間で分かれるわけですね。だから私はもう稼がない方の筆頭で(笑)。

池上:結成されたのは、出版社とか、既存の雑誌の編集にやっぱりコントロールされない、自分たちの撮りたいものを世に出していくっていうことがやっぱり目的でしたか。

東松:もちろん、そういうこともある。あの、セールスが苦手だからね。写真家はみんなほとんどそうだろうと思うけど。だから売り込みに行くのが嫌でしょうがないし、それとまあもう一つは、暗室とか、事務処理とか、暗室作業とか、自分でやらないですよね。撮ってきたらもう、現像から引き伸ばしまで全部、暗室マンにやってもらう。

中森:分業ができるようになっているのはひとつありますよね。それはやはり、商業に司る写真をそこから出そうっていう。さっきおっしゃったように、50%、50%の利益の配分ですとかね。そこへ、自分のアート的なプリントを作ろうっていう風なところはなかったのかしら。

東松:特にそういう風に分けては考えてなかったもんでね。ほとんどまだ、写真がアートとして売れる時代じゃなかったし。もう、コマーシャル系のものは別として、報道写真と言われてるものはほとんど雑誌社からの注文ですよね。

中森:雑誌で特にお話を聞きたいのは、『アサヒカメラ』ですとか、『カメラ毎日』とかいうのがありましたけれども、そういったカメラ雑誌との個人的な関係はどうだったんでしょうか。

東松:それはもちろん、それぞれありますよね。私は『カメラ毎日』の山岸章二と一番仲良かったから。

中森:山岸さんとの関係というのは、山岸さんお亡くなりになるまでずいぶん続くわけですよね。

東松:山岸は最初は、カメラマンだったからね。毎日新聞のカメラマンで。大学は山岳部員か何かで、それで毎日新聞でも山岳部の写真を撮るということで入ったみたいですけどね。で、『カメラ毎日』ができて編集者になったんですね。

中森:フィクションじゃない、そういったストーリーがあるから、それを撮らないかっていうかたちですか。それとも、東松先生ご自分で、こういう写真があって撮りたいんですってようなお話しを。

東松:どっちもありでしょうね。付き合いの中でこっちからプラン出したこともあるし、向こうから「これ撮ってくれ」って言ってきたこともあるしね。で、私が、米軍基地関係を撮ってたもんだから、ライシャワー(Edwin O. Reischauer)が大使になった時に「アメリカ大使館を撮れ」って言ってきた。それはもう、『カメラ毎日』からのプランですね。それまでは大使館を撮った人間一人もいなかったんですよ。初めてですよ、向こうも。ライシャワーの場合は奥さんが日本人でしたしね。

中森:そうですか。それは一枚いくら、あるいは一つのプロジェクトでいくら、というギャラで。

東松:ページいくらでしょうね。それは一律で決まってたみたいですよ。

中森:プリントはご自分でお焼きになって。

東松:焼かないですよ。「VIVO」で、「VIVO」の場合は暗室の者がやる。

中森:やらせて。それをじゃあ持って行って、それで、どういう風にレイアウトしますとか・・・・・・

東松:みんな取りに来るんですよ。

中森:取りに来るんですか。勝手にじゃあ、写真をこう組んでっていうのは向こうがやっちゃうんですか、それとも先生の方でずいぶんいろいろ言えるわけですか。

東松:いやあ、それはケース・バイ・ケースですね。任されることもあるし。『中央公論』の場合は8ページ任されてたから、全部自分で選んで自分で配列まで決めて。

中森:ええ、『中央公論』ですね。

東松:ええ。雑誌によりけりですね。

中森:あと、『太陽』に連載があったし、面白いところでは1965年に『建築文化』の表紙を一年間おやりになりましたよね。

東松:ああ、そうですね。

中森:非常にインパクトの強い写真を毎月ね。あれはどうしてまた、あれは彰国社かな、『建築文化』がお話を持ってきたんですか。

東松:いやあ、ちょっと覚えてない。覚えてないけど、建築関係のメタボリズムの会っていうのが、その前ですかね、その後ですかね。

中森:その後ですね。

東松:そうそう、その関係かもね。

中森:そうですね。「メタボリズムの会」では、先生も確かご招待を受けて。

東松:月に一回会合があってね、それぞれ自分のプランを発表するわけですよね。大半は建築家ですけど、建築家以外には、写真家は私一人だった。デザイナーは杉浦康平と粟津潔がメンバーだと聞いてたけど、一度も会合では会ったことがない。

中森:そうですか。あと産業デザイナーの榮久庵憲司さん。

東松:はい、いましたね。

中森:「メタボリズムの会」に関してはですね、最初にマニフェストというかたちで1960年に本(『METABOLISM/1960 –都市への提案』、美術出版社)が出るんですけど、その後二冊目で先生のアスファルトの写真を使いたいっていうような話をね、川添登さんがしてたっていう風なことを読んだことがあるんです。ですから、あの本が出ていれば、写真も出てきたんでしょうけど。でもこう、写真にこだわらないで、いわゆる前衛の人たちとのお仕事っていうのはたくさんなさってますよね。

東松:うん。

中森:前衛系統の人たちとのお仕事ってあったじゃないですか。例えば、あの、土方(巽)さんたちとやった「650エクスペリエンスの会」。

東松:ああ、うん。そういうのは持ってきたんだけど。

中森:『ヒコーキ』(1960年)ですね。あの、映画の。

東松:(写真を示しながら)僕の写真ですけどね。(映画のパンフレットを見せながら)これはまた別で、メンバーは土方巽と寺山修司と金森馨と三保敬太郎と黛敏郎と私の6人。どこにいったっけ。あ、ない。中身抜けちゃった。

中森:確かね、その中に先生がお書きになった詩があるんですよ。「デュエット」っていう。

東松:あれ、どこだ。泰子(注:東松泰子:東松照明の妻、以下、泰子)! 1960年でしたっけ。

中森:そうですね、60年代ですね。

東松:1960年で、すぐスクラップの横に(指で示しながら)これがあるから持ってきて。

泰子:この一枚だけですか。

東松:一枚じゃなくて・・・・・・

泰子:あ、束になったやつ。

東松:ええ、束になったやつ。

中森:拝見していいですか、これ。

東松:ええ。

中森:じゃあ触りますね。

東松:書いてないかな。だから抜けてる。

池上:ふーん。パンフレットで、中にもいろいろあるんですね。

東松:うん。

中森:三島由紀夫さん、瀧口修造さん、澁澤龍彦さん。

東松:これはね、立会人ですよね、皆。

中森:このエクスペリエンスの会というのは、何をなさったんですか、この会では。

東松:いや良く知らないんだけど、僕は土方から誘われて、「一緒にやらないか」って言われて。

中森:ふーん。

東松:それで、第一生命ホールっていうか、昔の米軍の総司令部ですよね。そこの講堂で発表会をやったんですよね。で、ただ写真並べるわけにいかないから初めて映画作った。

中森:『ヒコーキ』ですね。それは先生、名古屋の美術館の展覧会では上映なさったんですか、今回。

東松:いや、それが見つからないんで、

池上:フィルム自体がもうないんですか、その『ヒコーキ』って。

東松:うん、ない。いや、どっかにはあるだろうけど、どこにあるのか分からないんで。

池上:名古屋では映画は見た記憶はないですね。

中森:ないですか。じゃあちょっとこれは調べてみましょうか。

池上:そうですね。

中森:ええ。ぜひ見たいですね。あと他には、ネオダダを主題にした《檻》(1960年)っていう写真ですね。

東松:ああ。『カメラ毎日』ですね。

中森:あと松本俊夫と共に作った、映画の『飼育』(1961年)っていう作品。

東松:それはね、大島渚の監督で、大島渚の誘いで。それで、脚本協力という形で。

中森:脚本だったんですか。

東松:ええ、松本と石堂淑朗と私と、三人が脚本協力という形で参加したんだ。

中森:ああ、そうですか。非常に素晴らしい写真ですよね。それぞれの《飼育》に出て来た俳優さんたちのポートレートですとかね。

東松:うん、そうそう、現場でね。農家の倉みたいなところ借りて、スタジオにしてポートレートを撮った。

中森:こうした脚本協力のお仕事ですとか、役者を撮るっていうような仕事っていうのは、やはりそれまでのその交友関係、例えば土方さんから「今度こんなのやりませんか」ってお誘いが来る訳ですよね。

東松:うん。

中森:それとやっぱりカメラ雑誌との仕事とは少し違う訳なんでしょうけども、そこはやっぱり意識があった訳ですか。もっとその前衛の仕事をしていきたいとか。

東松:いや、そういう前衛っていう意識はないですよね。

中森:土方さんとの交遊関係は。

東松:多分、細江はずっと土方を撮ってたから。細江の関係でそれで「VIVO」作って一緒になったから。その関係だと思うんですよね。

中森:ではその「VIVO」での交友関係だとかいうものもある訳なんでしょうね。

東松:うん。

池上:あの、ネオダダの方たちを撮影した時のことは覚えてらっしゃいますか。

東松:ネオダダ。覚えてるよ。

池上:どういう印象を持たれましたか、彼らについて。

東松:あの「VIVO」の事務所の近い所で、ネオダダの展覧会があって、面白そうなんで入って。それで共鳴して、作品ですよね。

池上:どういうものが展示されてましたか。

東松:まあ、それぞれ人によって違うからね、何とも言えないんだけど。

池上:こう、どなたの作品とか、ネオダダの中で特に印象に残った作家さんとかいらっしゃいますか。

東松:うーん、そうですねえ。あの、なんとかウシオって・・・・・・

池上:篠原有司男さん(笑)。

東松:篠原有司男。モヒカン刈りでね、そのころは。それと、荒川修作か。

(東松泰子、資料を持って来る)

東松:あった? これだっけ、これが抜けてたんだ。

中森:ああ、そうです。「デュエット」ですね。

池上:これの中に入ってる訳ですね。

東松:それでですね。これとこれがセットになってて。これは書いてる内容と作品とは全く関係ないんですよね。

中森:ええ。

東松:作品内容についてはこういったものがあって。

中森:そうですね、『ヒコーキ』。大切なものだったんですね。1960年10月2日ですね、これは。先生、この「デュエットっていう詩は、結構暗い詩ですよね。死ぬってことに関する詩だったわけなんですが、「大人って何で死ぬの」っていう。

東松:うん。

中森:こんな詩は良く書いてらしたんですか。

東松:いや、別にそんなに書いてた訳じゃないんだけど。よう分かりませんけどね。だいたいはほとんど思い付きだからね。

東松・中森:(笑)。

中森:あの、ちょっと時間的に飛ぶんですけど、1966年の「空間から環境へ」展ってありましたよね。

東松:うん。ああ、ありましたね。

中森:松屋でやった展覧会ですけども・・・・・・

東松:うん、あれは中原佑介から誘われて。《ナンバー24》(1966年)って、参加したアーティストの順番なんですよ。順番を作品のタイトルとして。

中森:ええ。先生の登録が24番目だった訳ですよね。

東松:そうそう。

中森:そこに確か、足の形をしたペイントがあって。

東松:それ以外は何もないの。

中森:何もないんですよね。

東松:うん。真っ白な部屋で、それでそこに人が入って、形があるからその上に乗ったら何か起こるかと思って乗るけど、しばらくじっとしてるけど何も起こらないもんですから・・・・・・ で、おしまいになるわけだ。

東松・中森:(笑)

中森:でも何かサインがあって、「ご自由にお入りください」っていうことを書いてあって。

東松:ええ。

中森:で、そこで先生写真撮ってらっしゃるでしょ。あそこで、ときどき。

東松:そうそう。

中森:足の写真ですよね。いかに人がこう・・・・・・

東松:中平卓馬は毎日のように来てて、結構中平を撮った。

池上:その足の形のところに、人が、乗るところを。

東松:うん。子供の場合は中入ってさ、走り回る訳だよ。小さなこのぐらいのスペースしかないんだけど。

中森:じゃあそこでお撮りになった写真を、作品の一部にしていくっていう形で、見せたりとかはしなかったんですか。

東松:うーん、そうですね。カメラ雑誌に書いてましたか。

中森:出てましたね、カメラ雑誌に。あれぐらいですか。あの展覧会っていうのはどういった意味があったんでしょうね。「空間から環境へ」展っていうのは。

東松:うーん、ようわかりません。中原佑介に訊いてみれば。

池上:中原さん、もうお亡くなりになってしまったんですよ。

東松:あ、死んじゃった。あ、ほんと。

池上:はい。4月ごろだったかな。(注:中原佑介は2011年3月3日に逝去。)

東松:そう。

池上:はい。ちょうど、地震が起きた前後でしたかね。

東松:そん中で生きとんの、私以外いるか。

池上:ええっと・・・・・・

東松:おらんね。

池上:あの、天草のお話をしましょうか。

中森:そうですね。あの、じゃあ先生の〈家〉シリーズなんですけども。伊勢湾台風で水浸しになったご自分の家の写真もありましたっけ、あの中には。

東松:うん、うん。

中森:そのあと天草の方での家っていうのもありました。ああいった〈家〉シリーズは、どうしてお撮りになろうと思ったんですか。

東松:うーん。あの、伊勢湾台風で実家が全壊して無くなった、その喪失感がバネになってますね。それで、記憶の中の家に近いものを、天草に行った時に見つけて。農家ですけども、見つけたもんだから、伊勢湾台風の後すぐ撮りに行ったんですよ。思い出して。

中森:あの、伊勢湾台風の全壊した家っていうのと、またこの天草の家っていうのは、前近代的な家じゃないですか。あれは多分十九世紀のものですよね、あの家っていうのは。もっと前かしら。

東松:うん、100年か200年経ってるでしょうね。

中森:ええ。やはり、歴史だとか伝統っていうことを撮りたいっていうふうなお気持ちがあってあの〈家〉シリーズは出来たんですか、あの天草の作品は。

東松:いやあ、あんまりそういう風に、理屈っぽく考えないから。あの喪失感がバネになって撮りに行くっていうようなことが、しばしば。あとカルチャーショックですね。

池上:天草に行って体験された、カルチャーショックっていうことですか。

東松:うーん、それは。いやいや、天草に行ったっていうのは岩波の仕事で。編集者は多木浩二だったんだけども、『熊本県』(1959年)ていうのを私が担当して、それで天草に行って。その時に、その記憶がよみがえった。で、伊勢湾台風のあとですぐ撮りに行った。

池上:ああ、もう以前に天草には行っておられて、台風の後もう一度。

東松:ええ、ええ。

池上:じゃあそれはもう、注文なんかを受けずに、自発的に行かれたんですか。

東松:そうですねえ。

池上:お仕事とは違う形で。

東松:はい。

中森:あの写真の素晴らしいところっていうのは、天草の写真は、アブストラクトな、抽象的な写真じゃないですか。もちろん家の一部だっていうのは分かるんですけども、非常に画面構成が緻密にできていて、それぞれの写真を見ていても、素晴らしい、ディープな作品だっていう気がするんですね。

東松:うん。

中森:あとシリーズで見ても、今度「天草の家」っていう全体像が出てくる訳で。非常に、強い作品だと思うんですけれども。こういう題材をこういう風に撮りたいっていうことは、その場に行って、感じて、そこでいわゆるイメージをファインダーでのぞいて作るのか・・・・・・

東松:うん。

中森:たくさん撮ったそのうちから選ぶっていうのが一つあるとすると、今度は一つ一つをこう、絞り込むような感じで撮っていくのがあって。

東松:うん。

中森:そのあたり、どういう風なお気持ちでいらしたんでしょうか。

東松:ようわからん。自分は、そういう分析的に自分の行動をね、見つめなおしたことはないんで、わからないですけどね。「撮りたい」とか「好き」とかって、いう言葉でしか表現できない。衝動としてはね。

中森:その場所が持ってるものを引き出してあげる、みたいな・・・・・・ 場所との戦いなんでしょうか。

東松:うーん、どうでしょうかね。でも視覚的なイメージですからやっぱり「発見」でしょうね。それを見た時になにを感知するかっていうことで、天草の家は伊勢湾台風の前に行ってる訳ですから。その時には「ああ、俺が生まれ育った名古屋の新出来町のあの家に似てるな」と思って。ただ、撮って帰った訳じゃなくて、見て帰ったわけです。で、伊勢湾台風で家がなくなって、その喪失感がバネになって「ああ、撮りたい」っていうんでパッと。もう自分の家が撮れないわけですよ、ないから。だから、記憶がはじけて、というかよみがえって・・・・・・

池上:どういうところが似ていると思われたんですか。

東松:全てですね。やっぱり感覚的な物ですね。あの、カビ臭いにおいだとか、それから質感とかね。

池上:その、古い家が醸し出す独特の雰囲気みたいなものとか、そういうものですか。

中森:天草の家の写真に磯崎新さんが文章を書いてらしたんですけど、あれは磯崎さんに書いて欲しいっていう意識がおありだったんですか。どういう風な形でコラボレーションが。

東松:そんなに深い意味ないですよね。

中森:そうですか。

東松:ええ。

中森:磯崎さんとの交友関係に関しては、前一回お話聞いたことがあるんですけれども、お二人は非常に近い関係にあったことがあるんですよね、昔。

東松:うん。

中森:やっぱり文章と写真っていうものも一つでしょうし、あと、確か先生のお写真の中で、磯崎さんのアトリエであった新年会に行ったっていう話があって、磯崎さんの素晴らしいポートレートを作ってらしたんですけど。

東松:うん、うん。

中森:覚えてらっしゃるかしら。

東松:覚えてる。

中森:お二人はどのような関係だったのですか。

東松:磯崎と出会ったのはね、1960年に銀座でネオダダの展覧会があった時に、ネオダダのメンバーと付き合い始めて、その中の一人で、リーダー格の人が磯崎と同郷の・・・・・・

中森:そうですね、大分ですね。

池上:吉村益信さんですね。

東松:そうそう。

中森:同郷だったんだね。

東松:新宿に彼の事務所があって、時々そこで会合開いてて、私がそこへ呼ばれて出るようになった。そこで磯崎と出会う。

中森:あ、そうですか。

東松:うん。

中森:吉村さんのアトリエだった百人町(東京・新宿)にまだあるんですけど、「ホワイトハウス」っていう。

東松:いや、知らない。

中森:覚えてらっしゃらないかしら。

池上:吉村益信さんが磯崎さんに建ててもらった、「ホワイトハウス」っていう、ネオダダの事務所みたいなとこですね。

東松:それは新宿の?

池上:だと思います。

中森:歌舞伎町の向こうですけど、たぶんそこにいらしたんですね、じゃあ。

東松:そう、そう。そこで会合やってて。

中森:あの建物が最近また見つかったんですよ。

池上:その、ネオダダの会合っていうのはどういう感じのものだったのでしょうか。

東松:いやあ、取りとめのない話で・・・・・・ どういう会合だったか覚えてないですね。

池上:結構わりとみなさん、飲んで騒がれていたっていうような話も聞いたことがありますが(笑)。

東松:まあ、そうでしょうね。一番若かったのは赤瀬川原平だったんだと思うけど。

中森:ちょうどその1960年の頃に、あの長崎への取材があって、61年に原水爆禁止日本協議会発行の『hiroshima–nagasaki document 1961』というのが土門さんとの共同作業で出てくるんですけども、あのご本がいかに誕生したか、どうしてあそこで土門さんと、ああいう形で本にすることになったかっていうところをお話しください。

東松:そのころ「VIVO」やってたから、人が「VIVO」に仕事として持ちこんできた。

中森:あ、そうだったんですか。

東松:撮影者に私を指名して。なぜ私だったのか、今もってわからないんだけれども。

池上:その、原水協(原水爆禁止日本協議会)の編集部会の人たちが、「東松さんにお願いします」という風に言ってこられたんですか。

東松:いや、伊藤知巳が。「こういう仕事があるけどやらないか」って言って。それでロケハンに、重森弘庵と、原水協の山村という事務局員と、伊藤知巳と4人で、広島・長崎にロケハンに行くわけですよね。

中森:ええ。

東松:それから撮影に入るわけですよね。

中森:長崎の「1102」、「11時2分長崎」っていうプロジェクトが、その広島・長崎ドキュメントの、先生の担当ですよね、あの中に入ってますよね。

東松:うん。

中森:長崎の写真っていうのは、非常に大まかな分析で恐縮なんですけども、それぞれ個人の方を追ったものと、あと、いわゆるオブジェクトを撮ったものがございますよね。

東松:うん。

中森:ああいった2本立てにしようっていうアイデアは、最初からあったんですか。

東松:いや、そうじゃなくて。広島は土門拳が撮ってるから、土門拳の写真の中から選ぼうってことになって。15年後の長崎というものを、写真がないから新しく撮り下ろそうっていうことで私が指名されて。で、何人かの被爆者の家に行ったり、それから、被爆物遺物が展示されていた、そのころは国際文化会館っていってたんですけど、今は原爆資料館。

中森:はい。

東松:で、原爆の遺物を見て。まあ、その2つが主ですけど、撮って、もうネガごと全部編集委員会に渡して。

池上:あ、そうだったんですか。

東松:で、結局、デザイナーが、あの粟津潔と杉浦康平だったのね。

中森:そうですね。二人がやった。

東松:彼らがトリミングしたり、選んだりしたんじゃないかと思うね。なんか、伊藤知巳と重森が関わったと思うんですよね。写真批評家ですから。

中森:うん。出来具合に関しては満足のいくものでしたか、ご本の。

東松:いやあ、満足というよりも、よくここまで切れるなあと、写真をね。

中森:(苦笑)。

池上:それはあの、クロップっていう意味ですか。

東松:え?

池上:撮った写真の端を切ったりとか、そういう意味の「切る」ですか。

東松:そうそう。半分ぐらいに切られたり。

池上:それで、クロース・アップにするっていう。

中森:まあオフレコですけど、杉浦さんとかはガンガン切っちゃいますよね、わりと。

東松:そうそう。それがもとで、ミラノかどっかの展覧会(注:第14回ミラノ・トリエンナーレ)やる時にはケンカしたけど。

中森:そうですか。それはあの68年の磯崎さんの「電子迷宮」(《エレクトリック・ラビリンス》、1968年)の話ですよね。

東松:うん。

中森:ちょっと今この話になりましたからお聞きしますけども、あれは磯崎さんが主体で、私の理解では、先生がいろんな写真を見つけてくるっていうことだったんですか。

東松:いやいや、そうじゃなく僕の長崎の原爆関係の写真を、杉浦がズタズタにこう切ってね。

中森:はあ。

東松:一柳慧もメンバーの一人だから、4人ですよね。やろうというんで途中までは進んだんだけど、杉浦があんまりこう、めちゃくちゃ切る、トリミングするもんだから、それじゃあ、被爆者本人にとってあんまり良い話じゃないし、まあ私も気に入らないしということで、途中で私が降りちゃうんだね。名前だけ残ってるけど。

池上:じゃあ結局《エレクトリック・ラビリンス》の中には、長崎の写真は使われてないんですね。

東松:ないです、ない。何を使ったかも知らないぐらいで。

池上:別の写真は、使われたんですか。

中森:あのね、山端庸介さんの写真です。

池上:でも、東松さんの写真はもう使われてない。

中森:うん。先生、後でまたお時間のある時にお見せしようと思うんですけど、あれは回転する壁が12面あって、そこには山端さんだとか、いろんな浮世絵だとか、幽霊とかといったグラフィックのものが混ぜ混ぜになっていて、もう片方のところに焦土の広島の写真が使われていて。磯崎さんいわく、焦土の写真の方に関しても、「東松さんが写真を見つけてきてくれた」という風におっしゃっているんですけれど。

東松:誰が。

中森:磯崎さんはね、あの広島が焼けている、焼け野原の写真があるんですけども、そういったものは東松先生が・・・・・・

東松:いや、私は全然知らないよ。

中森:そうですか(笑)。はい、わかりました。それで、その61年のプロジェクト本が出来た後に、今度は先生の長崎の本(『〈11時02分〉NAGASAKI』、写真同人社、1966年)が出るわけですよね。

東松:うん。

中森:その前に富士フォトサロンで展覧会があって、1962年に(注:「〈11時02分〉document Nagasaki 1961-62」展)。この中の片岡津代さんですとか、浦川清美さんという方は、どういう風にして彼女たちとは知り合ったんですか。

東松:あの、二人ともカトリック信者で、長崎で原爆が落ちた地域というのは、カトリック信者が集中的に住んでるエリアなんですよね。だから被爆者の結構大半がそうだったと思うんですが、二人ともそうなんですよ。で、最初の間は長崎被災協(長崎原爆被災者協議会)のメンバーの人、もちろん本人も被爆者ですけど、その人の案内で被爆者の家をずっと訪問して、写真を撮ってたんです。でもカトリック関係の人は抜けてるんですよね、被災協では。それで調べた結果、ある方が、プロテスタントだけど、そういう被爆によって困窮してる人達を救済するような活動をしているっていうことを聞いたもんですから、その方を訪ねて。それで、その人の案内で、浦川さんだとか、片岡さんに・・・・・・

中森:そうですか。そのあとお付き合いが続く訳ですよね。

東松:もうずっと続いて、未だに続いてる。

中森:浦川さんのお嬢さんは結婚なさって、もうだいぶ前に。

東松:もう長女の孫ができてて、おばあちゃんになってますよ、今。

中森:あのお嬢さんが。

東松:うん。

中森:うわあ。お母さんはもうお亡くなりに。

東松:もうとっくの昔に。

池上:あの、最初にそうやって出会われて写真を撮られる時っていうのは、彼女たちはどういう風に協力をしてくださったんですか。

東松:どういう風にっていうよりも、なすがままというか・・・・・・

池上:撮られることに関して、「撮られたくない」って言うこともできるわけですよね。

東松:だから結局ね、案内してくれた方が、生活保護を受けさせたりしてたから・・・・・・ だから嫌って言えない。

池上:そういう民生のようなことをやってらした方の仲介があってこそ、ということですか。

東松:そうそう。

中森:面白いね。

池上:うん。

東松:写真に撮られたくない・・・・・・ ケロイドなんか撮られたくないんだ、普通は。だけどそういう生活保護の・・・・・・

池上:そういう方に頼まれると、ちょっと嫌とは言いづらい。

東松:そう、言えない。まあ後からそう思ったんですよね。

池上:ああ、その時はご存じなかったんですか。

東松:うん、知らなかった。

中森:やっぱり相手のお気持ちの変化っていうのは、お手紙なんかを読んでるとわかりますよね。「私のできることっていうのは、こういうところを見てもらうことで、世界に原爆の恐ろしさを分かってもらいたい」っていうようなことをおっしゃったりしてましたよね。あとは、ああいった時計(《上野町から掘り出された腕時計》、1961年)ですとか、ビール瓶(《熱線と火災で溶解変形した瓶》、1961年)っていうものですね。あれは、どうしてああいうもの撮ろうとお思いになったんですか。

東松:いや、それはショーケースの中に並んでて、ピンと来たものを出してもらって撮って、というだけで。

中森:そうですか。あと先生、あの辺りのものを使って後でコラージュをしてらっしゃいますよね。

東松:ええ。

中森:あの、《万博野郎》(1970年)(『KEN』の創刊号巻頭に掲載)の時にね、懐中時計の写真とB-52の写真が合成されてたりとか、ああいうコラージュをするっていうことは、よくなさっていたような気がするんですけど。

東松:うん。そう、長崎の中でも、例えばある地域の竹やぶで被爆して変形した、色模様が付いてしまった竹がある。今は原爆資料館に展示されてるんだけど、本当はそれを借りて持ち出して、現場で撮りたかったんだけれど、持ち出すことはできない。

池上・中森:うん。

東松:だから、資料館で撮った竹と、それからそれを、かつて何十年か前に採取した現場の竹やぶと両方撮ってきて、合成する、てなことをやったの。

中森:合成はあれは、2つのネガを1つにするんですか。どういう風なかたちで。

東松:いやいや、もうそれはもうパソコン上で。

中森:そうですか。じゃあ最近の話ですよね。パソコンていうことでね。

東松:そうです。

中森:ただ1970年の『KEN』の創刊号でも、そういったことやってらっしゃいましたよね。(大阪万博で)リコー館の上に清川さんのお嬢さんの顔がこうバルーンになったりとか。

東松:ああいうのはフィルム上ですよね。

中森:フィルム上ですか。フィルムをこう重ねて、で、お焼きになるんですか。

東松:ええ。

中森:時間は大丈夫ですか。一時間ぐらいですか。

池上:はい。もうお疲れですよね。

東松:そろそろ疲れました。

池上:じゃあ、今日はこのくらいにして。

中森:この後また明日、お願いいたします。

池上:ありがとうございました。

(この後、東松照明、少し話し続ける。)

東松:「VIVO」をやってる頃、私は住まいがね、池袋の手前の巣鴨っていうところで。一軒家といっても、大きな屋敷の裏座敷みたいな一軒家ですけど、そこを借りて住んでて、山手線に乗って、有楽町で降りて、築地の「VIVO」まで歩く。その往復の繰り返しをやってて、「何でこんなことをやらなきゃいけないのか、サラリーマンでもあるまいし」(笑)と思ってね。

池上・中森:(笑)。

東松:何か「生活のパターンを変えなきゃいかん」と思ってた時に、ちょうど多木浩二が彼女にできて、「一緒に住みたいが家がない」と言ってたから、「じゃあうちに来いよ」と言って。それでベッドから、冷蔵庫から、全ての家具を全部置いたまま彼に使わってもらって、トランクに必要最小限のものだけは詰め込んで、それは「VIVO」の事務所に置いて。で、職業別の電話帳で、歩いて帰れる範囲の旅館に片っぱしから電話して、一泊食事なし700円というのを10軒ぐらい見つけて。

中森:へえ。

東松:で、泊まり歩いて、その中の3軒がまあ気に入ったので、その3軒を毎日のようにこう・・・・・・ いつ行っても泊まれるもんだから、予約なしで行くわけで。で、帰る家が決まってて歩く時にはもう、ほとんどまっすぐ見て、見てっていうか何も見ずに歩いて、電車に乗って、降りたらまた歩く。だけど、帰る場所が決まってない場合にはさ、地面を見ながらうろつくんですね。「今日はどこへ泊ろうかな」と。すると千円札がふうーっと舞い込んできたりね。コインに至ってはたくさん拾いましたしね。地面見て歩くと、あの、歩くと言っても目的がなくうろつくわけですけど、いろんな発見があって、それで《アスファルト》(1960年)が始まるんですよね。

中森:ああ、そうですか。

東松:うん。だからそういうことがなきゃ、《アスファルト》って作品はできてませんよね。

中森:今度は逆に今度上を向けば《城》(1963年)があるわけですよね。ちょうど建設が始まってるようなビルがいっぱいあるわけで。僕あの《城》と《アスファルト》って作品はね、対になってると思ったんですけども。

東松:全然違いますね。

中森:違いますか(笑)。でも《アスファルト》はね、本当に長い間やってらっしゃいましたよね。

東松:うん。という訳です。

中森:では、明日は68年ぐらいからのお話で、特に「(写真)100年」展の写真集のところから聞かせていただきます。

池上:はい。ありがとうございました。