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東松照明オーラル・ヒストリー 2011年8月8日(1)

インタヴュアー:中森康文、池上裕子
書き起こし:金岡直子、中山龍一
公開日:2013年1月12日
 

池上:昨日の続きからお話をうかがっていきたいと思います。昨日のお話でちょっとびっくりしたのは、長崎に1961年から行かれますよね。で、カトリックの被爆者の方たちが撮影をちょっと断りにくいような状況にあったっていう。生活保護とか、そういうような関係で。最初は、本当は写真を撮られたくなかったかもしれないけど、嫌とは言えなかったっていうような状況から撮影を始められた。そこから何年にもわたって、何度も長崎に行かれて、浦上さんですとか、関係を築いていかれたっていうところをもう少しお聞きしたかったんですが。

東松:だけど、それはね、カトリック関係の人だけれど、被災協(長崎原爆被災者協議会)の人の案内で行った場合には、被災協のメンバーですから、かなり意識が高い人たちで。だから、例えば福田須磨子さんという詩人の撮影に行った時は、「エリテマトーデス」というのかな、紅斑症という病で、主に原爆が原因なんですけど、体中の皮膚がぼろぼろになって赤くむけて。乾くと、そこにも映ってると思うんですけど、見るも無残な感じで・・・・・・ しかし、被爆する前はかなり美人だったろうというような輪郭で、この人の・・・・・・

池上:これですね、福田須磨子さんの写真。

東松:それで、カメラが鞄から出てこないんですね。そしたら福田さんが、「あんた、私の写真撮りに来たんでしょう。早く撮りなさい」なんて言われて。初めて撮れるようになったという。

池上:じゃあ、むしろあちらから促すようなところもあった。

東松:ええ、そうですね。だから、原爆による悲惨を世界中に報道して、どれくらい非人間的な兵器であるかということを世界中に知らせようという、そういう目的だったみたいですから。

中森:あの先生、ひとつ、目が映ってる写真がありますよね。福田さんですか。

東松:あれは福田さんじゃないですよ。

中森:あれは誰でしたっけ、あの女性・・・・・・

東松:名前は忘れたけど。それはもう出してくれるなっていうから、その後は出すのやめた。

中森:そうですか。非常にこう、撮られたくないっていう感じの写真ですよね。あの方は。
 
池上:カトリックの信者の方以外も撮影されたと思うんですけども、長年にわたって関係を持たれたのはカトリックの方たちですか。

東松:とは限らないですよ。

池上:そうですか。

東松:山口仙二さん。これは毎年、ノーベル平和賞の候補に挙がってる人ですけど、彼は僕と全く同じ昭和5年生まれで、三菱兵器に勤労動員で、私は大隈鉄工所というところへ勤労動員で。だから、入れ違っていれば私が被爆者だったかもしれないというね。そういう関係で、ずっと、親しくっていうか、友達づきあいみたいにしてこれまできておりますけどね。

池上:この長崎のカトリックの方たちに関しては、彼女たちの信仰の持ち方っていうことにも何か印象に残ったことはありましたか。

東松:いや、私はキリスト教のことは全く知らないんで、わかりませんけどね。

池上:こういう、片岡(津代)さんがお祈りをしている写真とか、すごく印象的だと思っていたんですけど。

東松:アメリカの原爆搭載した爆撃機が長崎で落とす予定だったところは、街の中心地だったんですよね。だけど雲で下が見えなくて、ちょっと行ったところが浦上地区で、下が見えたんでそこで落とした、そこはカトリックの信者たちが住んでるエリアだった・・・・・・ 同じキリスト教徒とはいえ、アメリカの場合はプロテスタントが多いんでしょうけど、皮肉な現象ですよね。

池上:そうですねえ。それで、長崎に関しては長年にわたって撮影を続けられるわけですけども、1967年に「写研」という自費出版の会社を作られるようなんですが。この設立の経緯についてお聞かせください。

東松:あのね、カメラ雑誌の『カメラ時代』、それを出してるところがあって。これまで日本では写真家の全集とか選集が出たことないんで、初めてなんですが、私の写真の選集を4冊出そうということで。それで、一冊目は長崎なんですね。(注:だが、出版社の倒産により、1冊しか刊行されなかった。)

池上:はい。

東松:出版するにあたって、4冊分の予約購読者を募って、何百人いたか、数字はもう忘れちゃったけど、名簿があって。で、私も原稿料もらってないから、債権者の一人として、債券者会議に呼ばれて、行って、その予約者名簿を持って帰って。だけど、4冊分払ったのに、1冊しか届いてないから、さぞかし無念というか、怒ってるかもしれないと思って。

池上:うーん。

東松:それで、作家がそういうことする必要、ほんとはないんでしょうけど、かつて私は岩波にいたんで、仲間が編集や出版のノウハウ持ってたんで、いろんな人に聞いて。紙はどこで買ったらいいか、印刷はどこがいいかとかね。それから、書籍の取次は、大手5社くらいあって、日版(日版グループ株式会社)とかトーハン(株式会社トーハン)とか栗田商店(栗田出版販売株式会社)とか、いくつかあって、そういうとこと契約結べば、全国の書店に配ってくれるとか、いろんなことを聞いて。それで「写研」というのを設立して、出版を始めたんですね。それで『日本』というのを最初に出して。その『日本』で、3冊分をダイジェストして出そうと思ったけどなかなかそうはいかなくて。ものすごい分厚い本になったりして。だから2冊分ぐらいのものを1冊の中に収録して、それで、予約者に無料、もちろん無料で配ったんですね。それが始めで、出版も結構面白いなと思って。それで『サラーム・アレイコム』(1968年)出したり、『おお!新宿』(1969年)を出したり。そんな経緯ですね。

池上:この「写研」っていうのは「写真研究」という言葉の略なんでしょうか。

東松:うん、略ですね。

池上:ここで出された本の中で特に思い出深いものはありますか。

東松:やっぱり最初のものが一番。そういういきさつというか経緯があっただけにね。

池上:これは日本の様々なところを撮影されたものでしょうか。

東松:そうですね。主だって言うと、私が写真をやり始めてから出版する頃までの名古屋と東京が主です。それ以外にもいろいろあるんですけど、例えば東北の恐山というところにも入ってるし。それが本来一冊になるもの。もう一冊は「チューインガムとチョコレート」シリーズ。それを『日本』の中に全部、二つ一を緒にして。

中森:1955年から1967年の12年分の写真を確か収録されてますよね、『日本』のなかでは。

東松:ああ、そうですか。

池上:本当に、それまでの集大成みたいな感じになってますね。

東松:そうですね。でも全部じゃなくて、そのあと、同じ債権者であった吉村伸哉という写真評論家がいて、数年後に亡くなっちゃうんだけど、自分で雑誌社(写真評論社)を始めて。そこから『I am a king』(1972年)というのを出したんです。その『I am a king』というのは、本来、選集シリーズの4冊目にあたるものです。

池上:その雑誌のことについては。 

中森:そうですね。では、雑誌の『KEN』に関してお話いただけますか。

東松:いや、これはほんとにねえ、何冊か自分の写真集を出して、結構、出版社というのが面白くなって。その延長線で、企画して出そうかということで、それで『KEN』というのを始めたんです。あんまり売れなくて。季刊誌ですから年間だいたい4冊ということで。3冊で終わってしまったんですけど。毎号編集長を変えてね、1号はその当時の東大の写真部の部長をやってた、沢野良夫といったかな、彼を編集長に据えて。2号目は内藤正敏で、3号目がグラフィック・デザイナーの、木村・・・・・・ 何だっけ。

中森:恒久さんですか。木村恒久さんという、グラフィック・デザイナーの人ですね。

東松:そうそう。ということで編集長を据えて。でも実務は全部私がやりましたけどね。

中森:東松先生は編集長の上に立って、その編集に対してコメントはなさったんですか。

東松:いや、それはないですね。ただ、みんな編集の素人ですからね。だから、こまごましたことはわからないんで、おおまかなプランだけは出してくるけれど、あとはみんなこちらでカバーしました。

中森:特に第1号目の中で、先生の30頁以上におよぶ《万博野郎》っていう作品があったんですけども。あれはどういう風なかたちで、ああいった作品をおつくりになったんですか。昔お撮りになった作品と、万博で見たものを融合させて、新しい解釈をなさってますよね。非常に素晴らしい作品だと思うんですけれども、ああいった、写真を通しての批評っていうんですか、批判ですよね、万博に対する。先生は文章も書いてらして。

東松:そうそう、反博です。反博。

池上:反博の方に共感されてたわけですか。万博ではなくて。

東松:それはもちろんですね。それで万博には私の親しい友人たちはみんな参加してて、イベント作りとかいろんなことやってたんですけど。何で行くのかなと思うくらい。本来、そういう国家的な行事に反発して筆を執ってた連中がみんな参加してやってたんで、そういうのが不思議だと思ったし。

池上:東松先生のところには、一緒にやりませんかっていうお誘いはなかったんですか。

東松:ないですね。

池上:興味ないだろうという風に思われてたんでしょうか。

東松:いや、万博の前の年に、創価学会の週刊誌に出たんですよ。その週刊誌のグラビアロケで、建設中の万博会場を取材してくれって依頼が来て。それで、ちょっとこう、ぶれたような感じで、全体をぼかした写真・・・・・・ そこに、透明のガラスに赤いペンキをばっとぶちまけたようなのを合成して作って、出した。創価学会でしょう、万博推進派ですから、そういうえげつない写真はちょっと出せないから、原稿料は払うけどボツにしたいという。だけど、赤を黄色めにしてくれれば、出してもいいという。

池上:それは面白い。妥協案ですね。

東松:で、黄色で出したんですよ。

池上:あ、出したんですか。反響っていうのはありましたか。

東松:いや、特別ないけど。でも、黄色でもやはり、かなりこう、否定的な。

池上:インパクトのあるイメージですよね。

東松:それがあったからじゃないですかね。以来、原稿依頼は全然なかった。

池上:そうですか(笑)。

中森:だから黄色と赤があるんですね、分かりました。

池上:こちらの「写研」から『おお!新宿』というのも出されてますね。こちらは学生運動とか、そういうものを対象にされてるかと思うんですけれど、新宿っていう場所についてはどういう風に感じておられたんでしょうか。

東松:ずっとそこに住んでましたからね。事務所兼住まいが西新宿でしたので。参宮橋も新宿みたいなもんですよね。だいたい新宿近辺にずっと長年住んでたんで、生活エリアと言っていいのかな。だけど、いろんな騒動がある時には、不思議と誰かから無名の電話がかかってきて、「今日の午後7時に、新宿駅の線路上でトラブルがあります」と言って、がちゃっと名前も何も言わず切れちゃう。それで実際に行ってみると、100人ぐらいの白ヘル(メット)の、棒を持った若い連中がいて、こちら側に警官たちのグループがいて、うわーっていうのが始まるわけです。そういうのを予告してくるわけですね。それが何回もありましたね。

池上:それは、どなたがかけてきてるっていうのは想像はつきましたか。

東松:たぶん、その頃、多摩芸術学園(多摩美の付属)で、映画科があったり、演劇科があったり、写真科があったりして、そこの講師をやっておったから。それから東京造形大学の助教授だったんで。そこの学生たちじゃないかと思ったりしたんですよね。

池上:東松先生に予告しておけば、写真を撮ってくれるだろうっていう、期待されていたわけですか。

東松:たぶんね。

中森:あと、あのご本の中にはですね、いわゆる新宿のアンダーグラウンドの劇場ですとか、ストリッパーの方ですとかの写真が載ってますよね。ああいった方との関係もそれまでにおありになって、お撮りになったんでしょうか。

東松:いや、どの写真という風に具体的に言われないと答えようがないんですけど。

中森:例えば《エロス》っていう題になってる写真とか。

東松:泰子(注:東松泰子。東松照明の妻)、『おお!新宿』持ってきて。

池上:あの、さっき多摩芸術学園のことをおっしゃってましたけど、その学園闘争も撮影されてるんですよね。

東松:うん。そうねえ。私のゼミのエリートだった矢田くんっていうのは、その闘争のリーダーだったんですね。それで、どうしてあの子がそういうことをやるのかなと思って。封鎖してる学園訪ねて行って、「中を撮ってもいいか」と言ったら、「協議する」と言ってみんなで協議して。で、OKが出たんで(笑)。

中森:(ストリップの写真を見ながら)先生ね、こういったとろにお入りになって写真撮ってらっしゃるから、お知り合いだったのか、あるいは・・・・・・

東松:いや、全然知らない。

中森:そうですか。

池上:これ、ストリッパーの方たちですか。

東松:ええ、みんな、これは、そういうストリップ劇場みたいなところ行って。

中森:この本がストリップのシーンから始まるんですけど、非常にインパクトが強いですよね、これ。

東松:これはもう、うちの事務所で、美大の学生ですけど、裸にして、そこにこう、スライドでね。

池上:ああ、ヌードにプロジェクションをしていくっていう。これはストリッパーではなくて、学生をモデルにして、されたんですね。

中森:非常に実験的な作品ですね。

池上:一方でこういうサラリーマンが通勤していくようなシーンがあって。実際に学園紛争などを撮られて、トラブルに巻き込まれそうになったこととかございますか。

東松:ありますね。

池上:そうですか。

東松:抵抗する若者たちからすれば年も年、私は年いってるし、警察、権力側というふうに見られたし。機動隊からは、そういう学生の黒幕みたいな風に見られて、両方からやられて。挟み撃ち。

池上:学生からすると、教えてらっしゃるわけですから、学生からすると権力側の・・・・・・

東松:ええ。でも、学生っていったって、デモ隊の中に自分の生徒がいるとは限らないですけどね。

池上:そうですね。

東松:もう集団としか見えないし、みんな白ヘル(メット)やタオルかなんかで顔隠したりして。

池上:東京造形大で教えられていた時に、何か言われた、批判されたこととか、そういうこともなかったですか。

東松:直接はないですね。

中森:学園の学生という形で、多摩芸術学園の、そういったプロテストを毎日写真撮ってらしたんですけど、あれは、毎日撮ることで、その次の日に写真を学校の中で見せたりとか、そういう風なことは。

東松:いやいや、ない。一切してない。

中森:それは、今の作品では『I am a king』っていう本の中に入っている。

東松:(あるページを指して)この写真は、麿赤兒ですね。

中森:あ、そうですか。あの男と女ですよね。

東松:それはね、澁澤龍彦が編集の顧問をやってた『血と薔薇』っていう雑誌があって、その雑誌からの依頼で。とにかくセックス写真を撮ってくれと言うんで、それで麿に連絡した。ただ私は「演技は嫌だよ、実際にやるんなら撮るけど」と言ったら、「やる」と言うから、「もう奥さんしかないじゃないか」と。内縁の妻かもしれないけど。でも、1時間くらいずっと、おちんちん起たせたままやってましたから。一度も射精してないんじゃないか(笑)。

池上:冬場、その撮影のために頑張ったということですか(笑)。

東松:その通り。

池上:印象の強い写真で、でもなぜこういう場面になってるかっていうの、わからずに見てたので、そういう風に依頼したっていうことなんですね。

東松:依頼したんです。

池上:麿さんはどうして引き受けたんでしょうね。

東松:え。

池上:麿赤兒さん、どうして引き受けられたんでしょう。

東松:知らない。聞いたことない。

池上:とにかく依頼したら「やる」と(笑)。

東松:うん。それはね、彼は土方(巽)の弟子だったんで、土方と私とは付き合いがあったんで、そういう関係かもしれませんね。

池上:で、この写真を実際に雑誌に載せたんですか。

東松:出ましたよ。

池上:それは、検閲というか、何というんでしょう、特に性器が映ってないから別に大丈夫ということですか。

東松:うん。でしょうね。

池上:非常に大胆な。これを掲載するっていうのは大胆だと思いますけどね。

中森:大胆な企画ですね。先生、これは、カラーでもなかったですか。

東松:いや、モノクロですよ。

中森:モノクロだけですね、これは。

東松:いや、カラーで作ったのありますよ、これだけ。

中森:カラーはいつ頃から。

東松:着色。

中森:あ、着色ですか。

池上:じゃ、白黒で撮って、カラーをつけて。

東松:ええ、そうです。

池上:雑誌に掲載された時は、どちらが出たんですか。

東松:白黒です。

中森:確かね、青い感じのカラーのものも・・・・・・

東松:ええ。展覧会に出した時にはカラー出したりしたんで。

池上:すごい写真です。それで、その1968年ですか、「写真100年」展っていうのを、編集作業で関わられてると思うんですけども、これも非常に大事な展覧会だと。これは本ですか。

中森:本です。展覧会と本、両方で。

東松:その頃は日本写真家協会というところのメンバーで、幹事をやってたの。毎月一回幹事会が開かれて、これからどういう運動をするか、そういう会があって。そこで私がプランを出して。欧米諸国はほとんど自分の国の写真の歴史に関する本があるけど、日本には一冊もない。だから、日本に写真が入ってきた頃から敗戦までの間の約100年の写真を集めて、展覧会をやったらどうかという案を出して。で、池袋の西武百貨店でやることが決まって、それに向けて編集が始まるんだけど。その時に幹事会から条件を出されて、編集委員は協会員に限るという。協会員というのは写真家ばかりの集まりですから、編集のプロは、たぶんいないですよね。それでまあ、やむを得ずと言うか、その頃僕の友だちでは多木浩二と中平卓馬が編集のプロだったんで、その二人を私が推薦して、協会に入会させて、入会したと同時に編纂委任に任命するというかたちを。

池上:もうその仕事をやるために入られたという。

東松:そうですね。その他も内藤正敏とか松本徳彦、まあ10人ぐらい編纂委員がいて、それで手分けしながらずっと調査したり、写真集めしたりしてたんですけどね。それで、田本研造を見つけ出したのは、内藤正敏です。北海道担当だったんで、札幌から、深夜私のところに電話があって、興奮してね。「すごい写真を見つけたぞ」って言ってね、電話があって。それがこの田本ですね。

池上:この方はそれまで全く注目されていなかったんですか。

東松:ええ。そうですね。

池上:内藤さんが発見された時は、まだ活動してらしたんですか。

東松:いやいや。

池上:もうとっくに亡くなっていた。

中森:明治の方ですから。

池上:そうか、明治の写真家ですね。

中森:北海道開拓使ですとかね。

東松:そうですね。開拓の撮影で向こうに行った人ですね。

中森:展覧会の後に今度は写真集ができますよね。1840年から1945年の写真を集めた素晴らしい本(注:平凡社から1971年に出版された日本写真家協会編『日本写真史:1840−1945』)ですけれど、展覧会と写真集を作ろうというアイデアは最初からあったんですか。

東松:いやいや、途中から平凡社から出したいと言ってきて。ならば、ということで。

中森:その、日本人の表現による写真史を作っていくっていう風な、大きな野望ですよね、そういったものが皆さんの中でおありになったんでしょうか。

東松:まあ、それは、あったんでしょうね。それで結局、編集の主役は多木浩二でしたね。中平はあんまりやらなかったけど。多木浩二が一番の主力ですね。

池上:この1968年ってちょうど明治百年の時期でもあって、そういう議論もすごく出てた時期だったと思うんですけど、その時にこの写真百年っていう企画が出たっていうのは、何か関係があったんですかね。

東松:いや、それは、関連はないですね。だから、その後の写真の歴史のたたき台にはなってると思うんですよね。それから私は写真家協会辞めるんですけど、辞めた後に、今度は戦後の写真史が出るわけですね(注:同じく平凡社から1977年に出版された日本写真家協会編『日本現代写真史:1945–1970』)。先ほどのものは終戦までですから。

池上:はい。その展覧会をベースにした。そちらの編集には。

東松:一切関わってないですね。自分の写真は、要請があって、出しておりますけど。

池上:では、ちょっと時間が前後しますけど、その次の年の1969年に初めて沖縄に来られて、取材旅行をされるんですけれども、その時の印象をちょっとお聞きしたいんですが。

東松:うん。あの占領シリーズで〈チューインガムとチョコレート〉をずっと撮ってて。北海道の千歳から、東京近辺の横須賀とか横田はもちろんですけど、山口県の岩国とか、長崎の佐世保、日本全国の基地周辺はずっと取り上げたんですけど、余すところ沖縄だけだったんですね。

池上:うーん。

東松:けれど沖縄はその頃米軍の施政権下にあって。私は写真家協会の幹事やってたもんですから、写真家協会のメンバーが沖縄に渡っては、反米・反基地キャンペーンやるもんだから、写真家協会のメンバーというだけで、入れてくれなかったんですよ、その頃は。

池上:渡航許可が下りないということですか。

東松:うん。だからもう、諦めてたんですね。で、その話をちらっと『アサヒカメラ』の編集長に話したら、「じゃあうちで手続きをとって、朝日新聞の特派員として、行けるようにするから」と言うんで、それで初めて、入域ができたんですね。その場合には、ビザみたいなものとパスポートみたいなものがあって、滞在期間は1か月という限定があったんです。1か月間はもうほとんど嘉手納基地周辺に張り付いてたんです。

池上・中森:はい。

東松:だけど基地からちょっと離れると、ほとんど占領の影響はないんですね。市町村、同じ本島の中でも。ましてや久米島行ったり渡嘉敷島に行ったり、離島に行くと、全くと言ってもいいくらい、軍政下にありながら占領の影響は見られない。日本の場合には、隅々にいたるまでね、アメリカニゼーションがしみ通ってて。びっくりしたんですよね。

池上:うーん。

東松:日本よりももっとアメリカ化してると思ってたら、ほとんど基地に限定されてる。で、ベトナム戦争の真っ最中ですから、基地周辺はもう、戦場ですよね。B-52の爆撃機が嘉手納を飛び立って、北ベトナムに爆弾を落として、その日のうちに帰ってくるような、前線基地ですからね。だから日本の基地とはもう様相が全く違うんですけど、基地からちょっと離れるともう・・・・・・ ましてや宮古や八重山へ行ったら、まるで、その片鱗さえ感じられない。で、そっちの方に興味が移っていったんですね。

池上:基地ではない方向に。

東松:うん。だから1か月間の延長ビザを申請取得して、結果的には2か月間いたことになるわけです。で、宮古や、周辺の離島めぐりをしたんですね。それから毎年行くようになって、復帰の時、1972年の復帰の瞬間を沖縄で迎えて、そのまま、東京から住民票取り寄せて、沖縄県民になると。

池上:住民票を移すというのは、移住ですよね。移住するほどやっぱり思いが強かったんでしょうか。

東松:そうですね。それは、あったんでしょうね。

池上:基地ではない沖縄のどこに一番強く惹かれたと思われますか。

東松:まあ、私の中の記憶から消去されてる懐かしい日本みたいなもの・・・・・・ これはもう雰囲気ですから、雰囲気というのはなかなか形にならない、写真の対象としては。でも、そういうものに向かってシャッターを切ってったわけです。日本が近代化する過程で見捨てた生活習慣とか、風景もそうだけど、そういうものが沖縄には残ってて。それに魅せられて、ということでしょうね。

中森:先生、7冊も写真集をお作りになってますよね。沖縄と基地ですね、その最初のもの(注:『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』、1969年)と、『太陽の鉛筆』(1975年)、『朱もどろの華』(1976年)そして『光る風——沖縄』(1979年)ですか。そして『沖縄マンダラ』。(2002年)、『camp OKINAWA』(2010年)、『太陽へのラブレター』(2011年)と続いて。7冊も作るということは、大変なことだと思うんですけど、何がそこまで、写真を撮って、あと文章を書いてっていうお気持ちになったんでしょうか。

東松:なぜっていうのはあんまり、自分はわからないけど。だいたい、地域も女性も同じようなものだっていう言い方するんですけど、一人の女性が好きになると、何回もデートしたくなるとか、結婚して、家庭築いてね、子供つくるとか、そういうのと同じで、長崎が好きになれば長崎に住んでしまう。沖縄を好きになれば沖縄に住む、というような説明の仕方をしてるんですけど。感覚的にはそういうことですね。どうせ毎年、何回も通うんだったら、もういっそのことそこに住む、生活の基盤を移した方が早いってことになるわけですよ。

池上:実際に訪れるんではなくて、住むことで何か違うものが見えてくるっていうことはありましたか。

東松:それは、気に入った被写体に何回も訪れるというか、場所をね。旅行しながら撮る時はもう一回きりのもんで、だけど住んでればまた行くという。天気が悪かったら、今度は天気のいい時にまたそこに行くとか。季節を変えて行くとかね。そういうことが可能ですね。

池上:もうちょっとじっくりお付き合いできるというか。

東松:そうそう。

池上:じゃあ、沖縄の中に自分の知らなかったような日本を発見されて。最初の沖縄の写真集は、「沖縄に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」っていう、本当に基地にフォーカスしたものなんですけども、その発見以降は、むしろ基地問題っていうのはあんまり撮らなくなっていかれるんでしょうか。

東松:そうですね。沖縄に来れば必ず基地周辺には行くんですけどね。ただ、集中的に基地を撮るということはもうやらなくなりましたね。

池上:基地問題についての、先生のお考えというか、政治的な考えを写真で表明するっていうつもりで撮られていたわけではなかったんでしょうか。

東松:うーん、基地問題というよりも、米軍による占領ですけど。それはやはり、私は15歳の時に敗戦を迎えるんですけど、日本はそれまで外国に占領されたことは一度もないんで、日本としても初めての経験なんでしょうけど、すごいカルチャーショックですよね。

池上:はい。

東松:それで、ちょうど私が写真をやり始めたところが、もと旧日本陸軍の練兵場の後を、米軍が基地として利用してた、その街で写真を始めたんで。周りには米兵相手の女たちっていうのがいっぱいいて。それが「原光景」だって言ってるんですけどね。だから、岩波へ就職して東京へ行って、フリーになってからもずっと全国の基地めぐりをやるようになるわけですけど、そういう起爆剤というか、原形があるからでしょうね。

中森:先生、宮古島にお移りになってから、一回「さびしさ」を思想化することだとおっしゃってるんですが、「シャッターを切ったのではなくて、自動的に切らされた」、そういう風な状況におられたんでしょか。

東松:さっき話した、気配ですよね。気配っていうのは、だから写真の対象にならないんですよね。だから、普通は積極的にカメラ向けて、シャッター切るというやり方をとれるんだけど、(気配は)向こうから、対象から「撮れ」って言われて撮るような、そういう撮り方ですよね。まあ、説明しようとすれば、そういう言い方になるんでしょうけど。

池上:宮古島に1973年以降、長期間滞在されて、その後カラーで撮られるようになります。モノクロからカラーへの移行について、お話しいただけますか。

東松:沖縄でも、時々カラーでは撮ってましたけど。それは『太陽の鉛筆』の裏のほうに書いてあるんですけど。要するに沖縄は日本に復帰したんだから、沖縄と日本の風景とを合わせて『太陽の鉛筆』を作れば、一番整合性はあるわけですけれど。

池上:はい。

東松:私が沖縄にいるときはずっと、一年半以上住んで、実感としては日本よりも東南アジアのほうに近いという実感があって。だから日本に帰ってしまうと、また機会なくなっちゃうんじゃないかなと思って、それで日本に帰る直前に、東南アジアの旅をするわけですね。そのときはカメラもフィルムも何も持たずに行って、香港で・・・・・・ 香港は安いって聞いたものですから、ローライフレックスとエクタクロームを買って、それでカラーだけですよね。それから、モノクロを撮らなくなっちゃうんですよね。

池上:そのときにどうしてカラーフィルムをお買いになったんですか。

東松:いや、どうしてか分からないけど、モノクロを撮ろうとは思わなかったですね。沖縄にいる間に少しずつカラーへの移行が始まるんですけど。亜熱帯で、非常にカラフルでしょ。だからカラーが撮りたかったんだけど、ただ技術的に出したい色が出ない。それがちょうど沖縄を去るころ、東南アジアに行くころに技術的にそういうの、現実の色に近いものが出るようになったり、自分で色をコントロールしてプリントすることもできるようになって。そういう時期がちょうど重なったんじゃないかと思う。

池上:それ以降、モノクロの写真はもう、全然?

東松:撮れない。たまには撮ってみるんだけど、写らない。

池上:思うように写らない。

東松:写真にならないですね。だから目が、色の目になったんでしょうね。色目。

池上:色目ですか(笑)。今ちょっとモノクロからカラーへの移行の話をお聞きしたんですけども、その後ですが、技術的な話でいうとカメラもどんどん進化していきますよね。最近ではデジタルカメラもお使いになってる。

東松:ええ、デジタルカメラです。今フィルムは使ってません。

池上:はい、それにフィルムからデジタルへの移行っていうのはいつごろされましたか。

東松:何年だろ。あれ(妻・泰子)に聞いて。

池上:はい、じゃあ後で奥様にお聞きしますが、デジタルカメラを最近は使われて。

東松:2003年ごろかな。

池上:2003年ごろ。そうですね。どんどん一般化してきたのってそのあたりですね。

東松:うん、デジタルそのものはまだ技術的には未熟だったんだ。それがフィルムと拮抗するくらいの、やっぱりそれもさっきのカラーと同じで、技術的なレベルが上がってきて。使ってみたらけっこう使い勝手がいいんで。どんどんそっちにいって、もうフィルムを使わなくなって。暗室入るのも面倒くさいし。だいたいあんまり暗い部屋好きじゃないから。

池上:(笑)。最初にデジタルカメラを使われた時っていうのは、どういう感じに思われましたか。

東松:どういうことかな。聞いてみよう。泰子、泰子。ちょっとここに座って。

池上:お願いします。

東松:デジタルカメラを使い始めたのは何年ごろ。

東松泰子(以下、泰子):えっと、2003年じゃないかな。

東松:やっぱりそうだね。

池上:じゃあ、先ほどおっしゃったとおりですね。

東松:なんでデジタルカメラに移行したかな。

泰子:えっと、その前にですね、2001年ぐらいから、あれをデジタル化をしたんですね。長崎で。長崎では2000年だったのかな。

中森:「マンダラ」(「長崎マンダラ」展、長崎県立美術博物館、2000年)ですか。

泰子:「マンダラ」展。全部今まで東京にいたころはラボに出してたわけですよね、プリントは全部。その時にも結局、東京まで送らなくちゃいけないということで。それで、1枚焼くのに1か月くらいかかっちゃうんですね。

東松:何回も焼き直ししますからね。

泰子:焼き直しがあるんですよね。そうするともう期日に間に合わない、っていうふうなことがあって、もうそれ以降は家で全部焼きたいということで。2001年くらいですかね、「曼荼羅」展が2000年だったので。あれはまだラボに出したものなので。その後から「デジタル化をしたい、自分の事務所で全部焼いてプリントまで仕上げたい」ということで、その時にプリンターとコンピューターとスキャナーが来て、そこから始まって。それでデジタル化の流れになって、じゃあカメラもデジタルにしたらどうかということで、そういう方向に行ったんだと思うんですね。それで、本当に小さい「Powershot G3」とか、300万画素くらいのものから始めたんですね。だからデジタル化はプリントから始まったと。

東松:プリンターはフジだろ。

泰子:フジのピクトロっていうのを先に買って。それはもうすごく高い。

東松:200万から300万。

泰子:2、300万したんですよね。それとパソコンがWindowsのちょっと家庭で使うっていうものしかなかったので、MacのちゃんとしたG4を揃えて、それでスキャナーはニコンのCoolscanっていう、当時は一番いいと言われていた、35ミリから6x6までできる、それをもう、買っちゃったんですよね(笑)。「誰がそれを買う」って思って。おうちでやるようになったので。そこからデジタルに。

中森:今、プリンターが大きくなっていってますよね。

泰子:そうですね。大きくなってますよね。

中森:それは、いつごろからですかね。

泰子:昨年、おととし・・・・・・ 昨年ですかね。(作品が)大判になったので。

中森:はい、拝見しました。

池上:長崎の「時を削る」展ですよね(「時を削る 東松照明の60年」展、長崎県美術館、2010年)。

中森:大きくしたいというのは、どういう気持ちがあって大きくなるんですか、先生。イメージというのは。

東松:プリントのサイズですか。どう言ったらいいかな。

泰子:これはですね、何かきっかけがあったんですよね。ずっとA2がもう最大だったんですよね。これ以上はちょっと、やらないということで。だけど、何かがきっかけでしたね。どっかに出さなければいけないとか。

東松:わからん、覚えてないな。

泰子:で、そこから「大きいものをプリントしてみたい」って言ったので、「時を削る」という長崎展のほうは、「大判でいこうか」っていう話になっていったんですね。それは何だったのかな。まあ、ちょっと大きくして見せてみたいっていうのが出てきてたんじゃないかなと思うんですね、その頃。結構こう、もうほんとにA3伸びまでだったですからね。で、A2が結構良かったんですね。アフガニスタンの伸ばしをA2でやって。それが結構、A3伸びよりドンとこう、迫ってくる感じがあったので、その辺かなっていう気がしますね。

池上:プリントはインクジェットとレーザーと両方されるんですか。

泰子:えっと、熱伝導式ですね。ピクトロ。だからピクトロをずっと使ってたんですけど、やっぱり耐光性とか保存性の問題で、インクジェットの方が上回ってきたんですね。だんだん良くなってきて。それと紙がよくなってきた。海外のものとか結構手に入るようになったので。それで、そういう形でどんどんデジタル化が進んでいって、「もうちょっといいものがないか」と、「いい色が出るものはないか」っていうようなことで変わってきたんですね。それで今その、「ハーネミューレ」っていう紙にたどり着いて、だいたいそれで出してるっていう感じです。今の段階では。

池上:じゃあ、本当に技術の向上に従って、柔軟にどんどん取り入れていかれるっていう。

泰子:そうです。だからカメラもPowershotのG3からだいたい7、8台デジカメを替えていってる。

池上:先生は結構新しいもの好きだというふうにお聞きしたんですけど、どうですか。

東松:いや、そうでもないけどね。だから、モノクロからカラーへ移った、それから、アナログからデジタルに移ったという契機が、やはり技術がそういう要求レベル、私の表現の要求レベルに達したときに移っているんですよね。そういうことは言えると思うんです。でも、各メーカーの、もう今やフィルム会社は潰れちゃって、フィルムだの印画紙だのにあんまり研究費は投じない。デジタルにはばんばん入れて。だから、すごい勢いでデジタルの方が今は発展してるんで、乗り換えてよかったなと思ってる。

池上:フィルムが懐かしくなったりはされませんか。

東松:しないしない。一切そういうのは。

泰子:ないですね。

中森:昔お撮りになったフィルムのネガをデジタル化なさって。

泰子:はい、してますね。

中森:すべてじゃあ、そういったことは。

泰子:何年か前に、いいスキャナーを買ったんです、補充して。それまではニコンを使ってたんですけど、どうしても色が出なかったり、粒子が荒れたり、そういう点でやっぱり良くないので。一時期印刷所にドラムスキャンで頼んでいたんですけど、やっぱり化学的なものもあるし、上手くできないんですね。地方の、長崎の印刷会社でしたので。で、こちらからこう、いろいろ巻き込んで、黒い紙に窓枠作って、この中できちっと、もうギリギリのところまで出してください、っていうような形でずっとやっていたんですけど。やっぱりちょっとトラブル、傷がついたりっていうのがあるので、今使っているスキャナーはフレックスタイトになっていますけど、一番いいのを買って。それも300万くらい。

中森:そうですか。

泰子:だから、それぐらいのやつを使うように。だから結局機材も、全部そういうふうに要求度が出てくるじゃないですか。もうちょっといいものを作りたいっていうことで。それでずっと全部そういう形で、新しく取り入れていくっていう形ですね。

池上:ありがとうございました。もう1時間くらいですね。

中森:もう一問あるかないかくらいで。

池上:もう1時間経って、お疲れだと思います。実はまだお聞きしたい質問が少し残っていまして、もし先生がお疲れでなければ、お休みになってから午後にもう一度だけうかがいたいんですが。よろしいですか。

東松:はい、いいですよ。

池上:ありがとうございます。もう本当に短く切り上げるようにします。

東松:はいはい。

中森・池上:はい、ありがとうございました。