文字サイズ : < <  
 

東松照明オーラル・ヒストリー 2011年8月8日(2)

インタヴュアー:中森康文、池上裕子
書き起こし:金岡直子、中山龍一
公開日:2013年1月12日
 

池上:では、最後の聴き取りということで、今回はこの1974年のMoMA(ニューヨーク近代美術館)で行われた「New Japanese Photography」展のお話をお聞きしたくて。まず、ジョン・シャーカフスキー(注:John Szarkowski、1962年から1991年までMoMAの写真部門ディレクターを務めた)が東京に調査に来たと思うんですけれども、その時にお会いになってらっしゃいますよね。

東松:ええ、会いました。

池上:ちょっとお話しいただけますか。

東松:うーん、そうですね・・・・・・ 何人選んだのかちょっと今覚えていないけれど、選んだなかで、たぶん私の写真が一番多かったと思うんですよね。

池上:はい、14人でしたっけ。

中森:16人です。

東松:ああ、そんなに。16人もいましたか。たぶんシャーカフスキーと山岸章二と話し合いながら人選して、それでその人のどの写真を選ぶかってことを、二人で話し合いながらやったと思うんです。シャーカフスキーが主導だったと思うんですけれど。それまで私はずっと、まあテーマ別と言ったらおかしいけど、タイトル別にいろんな写真を撮ってきて、それを全部をばらばらにして、一本釣りしたことは一度もなかったんで、それがまず驚きで。つまり、日本人じゃないとわからない日本の独特の歴史風景があるんだけど、そういうものをシャーカフスキーが知ってるわけがないんだけど・・・・・・ でも一本釣りされた写真の羅列ですよね、それがすごく新鮮に見えたんですよね。

池上:ご本人にとっては。

東松:ええ、私自身がね。それはまぁ、驚きでしたね。そのことをシャーカフスキーに話したら、彼が言ってたのは、日本の美術館のキュレーターと違ってアメリカでは、その時彼はニューヨークの近代美術館の学芸員をやってたんだけど、作品を選ぶだけでなくて、美術館の運営を支えてる・・・・・・ 何財団ですかね。

中森:それぞれの部門にですね、お金を出してくれる方がいらっしゃいますよね。

東松:いやいや、何かアメリカの有名な財閥で。

池上:ああ、ロックフェラーですね。

東松:そう、ロックフェラー財団。3つあげたんですよ。財団と、それとアメリカ政府だったかニューヨーク州だったか、行政。財閥と行政と、それからあとは個人会員。個人会員の中で一番多いのは医者と弁護士だという話で。作品を買い入れる時にも電話して、すぐ小切手切ってもらうみたいな。そういう3つの大きなグループに支えられて美術館が成り立っていると。だから、どこの言うことを聞かなくてもいいと。そういう、学芸員の自立性みたいなことを強調して。日本ではそういうのはないですからね。だから、その話を聞いて驚くと同時に、やっぱり運営の仕方としてはすごいなと思ったんですね。それが一番の驚きですね。だから、そういう美術館を支えている3グループとの付き合いを上手にしながら、しかも、新しい作家の作品を選んでくれる。そういうことをトータルに一人の人間が引き受けてやって、で、力を持っているということに、大変私は驚きましたね。

池上:そのシリーズから一つずつ取るというのは、シャーカフスキーのアイデアだったんでしょうか。

東松:でしょうね。

池上:なぜそういうふうにしたかっていうのは説明がありましたか。

東松:いや、それはないですね。

中森:作家によっては、同じシリーズからたくさん作品を選んでいるのもありますから、やはりシャーカフスキーさんは東松先生の作品をよくご覧になって、そういう決定をなさったんでしょうか。

池上:シリーズごとで、ほんとに一番良いものを見せるっていう選択だったんでしょうか。

中森:展覧会にはお行きになりましたか。ニューヨークの方まで。

東松:いえいえ。

中森:行ってらっしゃらないですか。

東松:ええ、一度も、ハワイ以外にアメリカには行ったことがないです。

池上:ああ、そうですか。

東松:ヨーロッパも行ったことないです。アフガニスタンが一番遠いところです。

池上:そうですか。特にアメリカに行こうっていう興味がなかったんでしょうか。

東松:いやいや、そりゃなくはないけど、英語はしゃべれないし、チャンスがなかったですね。

池上:でも、アメリカでも展覧会はされてますよね。

東松:ええ、やりましたね。

池上:その時も、行く機会はなかったですか。

東松:そうですね。特にあの、サンフランシスコでやったとき(注:「Shomei Tomatsu : Skin of the Nation」展、2004年。2007年までアメリカ、ヨーロッパ各地を巡回)は、ニューヨークのジャパン・ソサエティをから始まった。その中心人物は、サンフランシスコの学芸員ではなくてね、レオ。

中森:レオ・ルービンフィエン(注:Leo Rubinfien、アメリカの写真家、エッセイスト)さんですね。

東松:ほとんど彼が毎日ずっとうちへ通ってきて、4年間かけて選び出したんです。

池上:幕開けにはぜひ来てください、ということには。

東松:ああ、もちろん言ってましたけどね。

池上:気が進まなかったですか。

東松:うーん、そうですね。ちょっと覚えてないです、その時のことは。

池上:で、こちらの74年のMoMAのときは、たぶん作家がたくさんいらっしゃったので、全員を呼ぶということにならなかったんですね。山岸章二さんと、あとどなたでしたっけ、一人か二人、写真家の方もニューヨークに行かれたと思うんですけど。

東松:ああ、うん。

池上:山岸さんというのはどういうお方でしたか。

東松:あれは大学の山岳部員で、山岳の取材の時に写真を撮るということで毎日(新聞社)に入って。だけど、すぐ『カメラ毎日』というのが発刊されるようになって、それで編集部員として移るわけですね。最初はだから写真部員だったんですね。カメラマンだった、毎日新聞の。それから、編集者になって、ずっと亡くなるまで『カメラ毎日』ですね。

池上:この「New Japanese Photography」のお仕事っていうのは、やっぱり山岸さんにとっても大きいものだったんでしょうか。

東松:でしょうね。

池上:何かその、オーガナイズする際の苦労話とか、お聞きになっていらっしゃらないですか。

東松:いや、聞いたことないですね。

池上:もう本当に「出品してください」っていう事務的な。

東松:山岸は私と同じように、英語が不得手でね、あんまりしゃべれなかったんじゃないですかね。で、奥さんがけっこう喋れたので。奥さんがずっと付いたんじゃないかな。

中森:奥さんはまだ元気にしてらっしゃいますね。

東松:そうだね。

中森:ときどきお会いしますけど。

東松:「亨子」っていう名だから「ココ」って呼んでるんだけど。

池上:そのときに、東松先生の作品もMoMAのコレクションに入ったかと思いますけども、それはどういう経緯で。何か話し合いをされて、この写真を入れましょうということになったんでしょうか。

東松:いやいや、もう、向こうが選んだ。山岸とシャーカフスキーがだいたい選んで、「これとこれとこれ」と言ってきたんで。

池上:それでコレクションに入れようということですね。

東松:ええ。

池上:何点かは寄贈というかたちを取られたかと思うんですけども。

東松:私は全部寄贈したと思いますよ。

池上:他の写真家の方も割とみなさん寄贈されたようなんですが、購入ではなくて寄贈っていうのはどういうことだったんでしょうか。

東松:いや、その頃はまだ写真を売り買いするという、そういう習慣が私どもになかったんですよ。

池上:そうですか。写真集にしたり、雑誌に載せたりということはあったけれど。

東松:ええ、雑誌に載せたりして原稿料はもらうけど。本を出して印税もらったりするけど。写真を美術品として売買するという、そういう習慣がなかった。

池上:写真そのものに値段を付けたことがなかったっていうことですか。

東松:ええ、そうです、そうです。

池上:他の方もみんなそうですか。

東松:うーん、だろうと思うよ。

池上:当時はまだ、そういう習慣がなかった。

中森:そうですね。日本の写真をめぐる市場の形成というのは、もう1980年代じゃないですかね。

池上:でも、アメリカでは写真を買うということは、あったと思うんですけど。

中森:ライトギャラリー(Light Gallery)とかそういった、いくつかのニューヨークの写真のギャラリーが売り買いを始めたのは、たぶん1970年代の頭ぐらいじゃないですか。もちろん、写真部というのはスタイケン(Edward Steichen)の時にできているわけですから、1950年代の頭ぐらいまでにはできているわけですよね。ですから、集めるという行動は、もちろんニューヨーク近代美術館がやっていたわけですけれども、まだ作家が「これをいくら」というようなかたちで、美術館と交渉するという風なシチュエーションではなかったんじゃないかしら。

池上:じゃあ、寄贈っていうほうがむしろ自然な流れだったんでしょうか。

東松:そのとき私は、沖縄の宮古島というところに住んでいて。そこへ山岸が来て、4、5日宮古島に泊まって、それで私は帰りに口説かれたんですね。

池上:寄贈をしないかという風な。

東松:いや、寄贈をしない、するというんじゃなくて。こう選んで、展覧会に出品するという話で。

池上:まずはその話があって。これは先生にとっても、アメリカで見せる初めての機会になったんでしょうか。

東松:うん、私はそうですね。他の人は知らないけど。

池上:その、あちらでの反響というか、そういう風なものは耳に入りましたか。

東松:ええ、『カメラ毎日』にずっと詳しく書いてありましたから。

池上:どのような反響があったんでしょうか。

東松:さあ、それはわからないけれどね。日本の写真家をまとめて見る機会は、それが最初だったんじゃないですかね。

池上:そうだと思います。

中森:あといくつか巡回しましたね、この展覧会は。

東松:ああ、うん。

中森:この後で、近代美術館の方は、シャーカフスキーさんがそのあと、ずいぶんあとに引退して、今度はピーター・ギャラッシ(Peter Galassi)という人が来るんですけれども、そのあとも美術館とはおつきあいがございましたか。

東松:まぁ、あったと思いますけどね。女性の方で、ピーター・ギャラッシの下で働いてた、何という人か、名前をは忘れちゃったけれど。

中森:いろいろいますね。サラ・マイスター(Sarah Meister)さんという人だとか、ダーシー・アレクサンダー(Darsie Alexander)という人がいたり。たくさん女性は来て、去っていくんですけれど。ギャラッシさんもこのあいだ引退しました。

東松:あぁ、そうですか。

中森:ときどき、コレクション展に先生の作品が出てきます。

池上:それ以降も写真がコレクションに入ったということはあったんですか、MoMAの方に。

東松:MoMAですか。いや、ないですよ。

池上:この74年の時が主にということで。

中森:40点ぐらい、ニューヨーク近代美術館のコレクションのなかに入っていると思いますよ。

東松:ああ、そうでしょうね。一番多かったと思いますよ、私の写真が。

中森:素晴らしいものがたくさんあります。

池上:この長崎の写真ですとか、アメリカで見せると、また日本の観客とは別の反応が来るんじゃないかなと思ったりするんですけども、そういうようなことは何か聞いたりされましたか。

東松:いや、覚えてないですね。

池上:きっと、波紋はあったんじゃないかなと思いますけれども。

中森:でしょうね。

池上:また、同じ1974年に、アラーキー(荒木経惟)さんですとか、森山大道さんですとかと一緒に「WORKSHOP」っていう写真学校を、あの、開校されてるんですけれども、その経緯をお話いただけますか。

東松:沖縄から東京に帰って、新宿のマンションで、一人でぶらぶらしてたら、森山大道が毎日のように遊びに来て。彼はその頃スランプだったんじゃないかと思うんですね。それで、「何かやりましょう」、「何かやりましょう」と、来るたびに言うんでね。それで、東京に帰る直前までは宮古にいて、そこで「宮古大学」というのをやってて、それが非常に私には新鮮な経験だったものですから、それに類するようなものができないだろうかと考えて、それで「WORKSHOP」というのを立ち上げて。それで、経営というか、経済的なことを考えて、飯田橋というところに一部屋借りたんですけど。大きな建物の二階を借りたんですけども、家賃を払わなきゃいけないし、それと、一応事務員を二人置いたんで人件費も払わなきゃいけないし。それから、大きな暗室を作って。まあ、引き伸ばしなんかは富士フイルムからもらってたんで、そういうもので制作して。だけど、現像液が結構高い。費用がかかる。諸費用を捻出するために、一応、日曜日を除くと6日間あるから、一人が一日を持つということで、6人を選んで。

中森:はい。

東松:で、定員を20名として、定員を超えた場合には、昼間部と夜間部、一人一セットで。それで、夏休みのひと月ほどの間は、特別講師という形で、奈良原一高と中平卓馬に、やってもらったり。それとあと地方、沖縄でもやりましたけど、地方で何日間か「特別WORKSHOP」を開催したり。そういうことをやり始めて。その前に東京造形大学とか多摩芸術学園の教師をやってたんだけど、ハコモノがある場合には、責任を全部ハコモノが負って、我々教師っていうのは教えるということだけで、生徒たちとの付き合いだけで良かったんだけど、「WORKSHOP」はもうまるごと、ハコモノを背負いながら、生徒たちと接触するんで、相当重荷ですよね。

池上:そうですか。

東松:だけど、まあ、何をやってもあんまり長く続かないのが私の癖で、二年間で終わって。あとの一年間は個別に一人一人でやるというかたちですが、人によっては三年続いた人もいるし、二年で終わった人もいるし。そういうかたちで。「写研」もそうですよね。何か、本屋になってしまう。「WORKSHOP」やってると、学校経営者になっちゃうという。自分の写真が撮れてないんです、その期間はね。だから、常にやっぱり何かやっててもすぐ写真に戻る。一年間、テレビ番組の演出家という時期があるけど、それも、これ以上やってると写真が撮れなくなっちゃうっていうのも馬鹿げてるから、写真に戻るということで。だいたい2年か3年っていうのが限度ですね。

池上:生徒さんもやっぱりかなりたくさん集まりましたか。

東松:一番多かったのが細江英公教室。その次が横須賀功光教室と私がやっていたクラス。だから、森山、荒木、深瀬昌久が少なくて。深瀬が一番少なかったですね、生徒が。

池上:ああ、一人ずつの先生にみなさんくるっていうことなんですね。

東松:ええ、そうです。

池上:先生のクラスはどれぐらい。

東松:何人いたかな。一年度と二年度とでは人数が違うから。

池上:初年度に石川真生さんが、来られてるんですよね。

東松:うん。

池上:彼女はどういう学生でしたか。

東松:結構高い入学金を取ってたのに、入学金というよりも一年間の経費を含めてですけど。彼女はほとんど授業に出たことがないですね。時々遊びに来てね、「おじさん元気?」とか言いながら帰っちゃう。

池上:何か、途中で沖縄に帰ってしまったっていうようなことを言ってましたけども(笑)。

東松:うん、だから授業にはほとんど。清水画廊というところで「WORKSHOP」の1期生の写真展を私がやったときには、真生はそこには出品してます。

中森:授業料が20万円だとおっしゃっていました。

東松:あ、そうか。20万。でも、その当時20万って高いよね。

池上:かなり大きい金額ですね。

東松:うん。だって三菱銀行が、「本格的な学校口座を作れ」って言ってきたことがある。

池上:そうですか。それはじゃ、かなり全体としては生徒さんが集まっていて、人気学校だったということですね。

東松:そうですね。

中森:やはり、それまでにあった写真の学校、日吉(注:東京総合写真専門学校。通称、日吉)とかありますよね。専門の学校が。そういったものに対して、前衛的な教育をしようというような目的があったわけですか。寺子屋的なものを作るという場合は。

東松:え。

中森:それまでの写真教育に対して、反抗みたいなものがあったのでしょうか。

東松:いや、普通の専門学校にしても大学にしても、一種のハコモノですから、その学校の特徴があって、その中に何科、何科って、専門別に分かれてて、教師と生徒がそこで出会うという形で。それで、それ以外の責任はあんまり感じなくてもよかったんだけど、「WORKSHOP」やると、もう、一人一人が全部ひとつひとつ違うわけ。だから、そういうきつさはありましたね。

池上:その、教えられる時っていうのは、生徒が撮ってきたものに対して批評を加えるっていう。

東松:いや、人によって全然やり方が違うし、干渉しないからね。誰がどういうやり方で何をやってるかっていうのは何もわからない。

池上:ああ、そうですか。先生のやり方はどのようなものでしたか。

東松:まぁ、撮ってきたものを並べて、みんなでわいわい合評会みたいなものをやりながら、どの写真がいいの悪いのっていうのを・・・・・・ それで、コンタクト・プリントを作らせて、自分で選んだものをチェックさせて、それで、「こちらの写真の方がいいんじゃないか」というように。で、その次の週にチェックしたものをまた伸ばして持ってくる、というようなことの繰り返しですよね。

池上:それで生徒さんがどんどん伸びていくっていうのは、ご覧になっててわかるものですか。

東松:うーん、まあ、「写真に向いてないな」とか、わかりますね(笑)。

池上:それは言ってあげるんですか。言わないですよね(笑)。

東松:いや、言わない、言わないです。

中森:なかには素晴らしい生徒さんもいらっしゃいました? 学生でその後伸びた人。

東松:うーん、人それぞれですけどね。各教室それぞれ、その後、作家・写真家になった、プロになったっていうのは、何人もいますけど。でも私はその全体の経営を委ねられていたので、自分の教室だけ面倒見てりゃいいっていうもんではなかったから、しんどかったけどね。自分の写真が撮れない。

池上:何かお話を伺っていると、先生はそういうオーガナイズとか運営のお仕事を常にされてるような、気がするんですが。

東松:ああ、そうですね。

池上:それは、お好きっていうのもあるんでしょうか。学生の頃からオーガナイザーをされたり。

東松:うん、そうですね。向き不向きということで言えば、あるかもしれないですね。

池上:すごくリーダーシップを取れる方なんだなあと、お話聞いてると思うんですが。

東松:あぁ、そうですね。人集めとかね。

池上:ねえ。まとめたりとか。

東松:ええ、そうそう、まとめや集めるのも一人で。あと、学生写真連盟作って、結成するっていうのは、学生時代はそういうことずっとやってましたので。で、もう一方では写真が好きで、写真を撮って、それを雑誌に応募するということをやったりとか。

池上:それはやっぱり、写真を撮るだけではなくて、その時々でやっぱり、こういう活動をしなきゃいけないっていう使命感みたいなものを持っておられたんでしょうか。

東松:いや、どうですかね。まあ、嫌なことはやらないから。結局、自分のやりたいことしかやってきてないし。使命感と言われると、ちょっと・・・・・・ 今まで話してきたように、出版社作るときにはそういう一つのきっかけがあって作ったんだけど、運営をし始めると結構面白くて、2年、3年と続いてしまうわけですが。で、はっと気がついたら写真撮れなくなってて(笑)。で、また辞めて、写真家に戻っていくっていう、そういうことの連続ですね。

池上:やっぱりマネジメントの能力があるということですね。

中森:そうですね。

池上:ちょっと戻るんですけども、最初にその「WORKSHOP」をやる前に、宮古島でも宮古大学っていうのをやってらしたというのは、どういうことをされてたんですか。

東松:えーと、これが資料。コピー取ってきてもらってもいいんだけど。

池上:はい、ぜひ。

東松:これは朝日新聞に連載したものの中の、宮古大学の部分だけを抜き出したんです。それから宮古大学で創った唯一の雑誌。この創刊号で、一号で終わってるんですが、そのなかに私自身も書いてますけど、他のメンバーがいろんなこと書いています。

池上:これは、大事な資料ですね。この宮古大学では、写真を教えられたんでしょうか。

東松:いや、写真は全く関係ない。

池上:つまり宮古について学ぼうという趣旨で作られたグループという、自主研究グループみたいな感じですか。

東松:うーん、というよりも、その頃はちょうど沖縄が日本に復帰して、それまで復帰前にあった沖縄大学と国際大学を一つに合併して、一校にしてしまおうという、そういう文部省の方針があって、それに対して、沖縄大の関係者が反発して。それで、受験生を送るという運動の全国展開をやって。全国といっても沖縄ですけど。

池上:はい。

東松:そういう運動の「沖大存続を支援する会」という、その宮古支部というようなのができてて。そこのメンバーが最初は30人ぐらいいたんですけど、途中でもう支部活動をやめようということになって。だけど、せっかくそういうことで集まったシリアスなグループで、ほとんどが二十歳前後で、友達関係ができて、また離れ離れになるのはもったいないって。それで、その段階で私が宮古大学を提案して。特に、一つの村が過疎化して、老人が何人が残っているだけで、もうほとんど村がなくなりそうなとこがあって、そこの聞き書きをやって。そういう過疎化を防ぐ方法が見つかれば宮古にとってメリットになるだろうという。だから、そういう聞き取り調査ですね。そういうことをやり始めたんだよね。

池上:先生もオーラル・ヒストリーをやってらしたということですね。

東松:僕は、学者でも何でもないし、一メンバーでしかないんだけど。で、全員がもう二十歳前後で、うちなーんちゅ(沖縄県人)で、やまとぅーんちゅ(本土の人)は私一人で、しかも私は43歳の年寄りで、一人だけちょっと違う位置にいたんだけど。アドバイザーみたいな。だけど、すごく楽しかったですよ。毎晩のように夜中まで延々、議論したり、泡盛飲んだりしながら、わいわいがやがややってましたから。自分は青春時代がなかったみたいな感じだから、そういう意味で何か、そこで、経験したのが第二の青春時代だったという気分ね。

池上:それは楽しそうですね。

東松:うん、楽しかったですよ。

中森:「WORKSHOP」は、那覇でもその後におやりになりましたよね。

東松:えぇ、今でもやってる。

池上:そうですか。

中森:そうですか。それは写真家を集めてきて、シンポジウムみたいなことをしたりとか?

東松:いや、今沖縄でやっているのは、一月間、毎日曜日に、自分の好きなもの撮ってきて・・・・・・ まあ、東京の時と同じですね。それ持って来させて、コンタクト・プリント見て。同じやり方ですね。それで、ひと月で毎回、20点ずつ選んでこいと言って。すると、100枚しか撮らない子もいたり、1000枚撮る子もいて。

中森:池上:(笑)。

東松:だけど選ぶのは20点。で、選んだものに印をつけて、それをプリントして横に並べて。毎回入れ替えて、20点っていう数は変わらない。そうすると、4週、5週もあれば、5回そういうことが行われて、入れ替えしながら、質がずーっとだんだん高まっていくわけで、一人一人の。それで、沖縄タイムズ社のギャラリーで、それを最終的には展示するという。1か月やって、それであと残りの1か月間は、プリントに。ここに来てもらってうちで、自分のパソコン持ってきて、プリンターがある人は持ってくる、なければうちのを貸すということで。だから2か月間ですね。仕上げに1か月かかって。

池上:やっぱり、指導されること自体もお好きなんでしょうけれど、後進を育てるっていうことについては、どういう風にお考えなんでしょうか。

東松:うーん、若い子は何か、チャンスがないと、出てこないんですよね。特に20代・30代。石川真生みたいな、50代60代は結構いるんですけどね。

池上:その、30代とか40代がいない。

東松:だからまあ、私が関わった地域、長崎や沖縄で、その地域の若い作家が育ってくれればいいなと思って、やるわけですね。

池上:やっぱり応援したいという気持ちがおありなんですか。

東松:うん、そうですね。だからずっと来てますよ。授業が終わって、展覧会終わってからも、1年後、2年後になっても、「写真見てくれませんか」って来たり、「近くに来た」と言って寄ったりということで、結構来てますね。

中森:えーと、先生がご覧になった写真のことに関して聞いてもよろしいですか。

東松:うん。

中森:例えば、昔先生がお話に、たぶん文章に書いてらしたことがある(ジャン=ウジェーヌ・)アジェ(Jean-Eugène Atget)ですとか、先生がご覧になった先代の作家で、気になっているような人がいらした場合には、何を学んでらしたんでしょうか、というのが質問の要ですけど。

東松:うーん、そうですね。影響を受けた人というのはあんまりいないんだけど、誰かなぁ。ちょっと名前が出てこないんだけど、「VIVO」をやっていたころ、「VIVO」で『ライフ(LIFE)』を取ってたんで、それはもう毎回見てまして。その前も、学生時代にも『ライフ』を友達に見せられて。《Spanish Village》(1950年)を撮ったのは誰だっけ。

中森:ユージーン・スミス(Eugene Smith)です。

東松:ユージーン・スミスか。それでユージーン・スミスのシリーズが、時々『ライフ』に出てて。

中森:そうですね、《Country Doctor》とか。

東松:うん、そうそう。あれは面白いと思ったね。

中森:スミスさんは日本にもいらっしゃいましたね。

東松:そうですか。

中森:ええ、日立の仕事で来たりとか、あと水俣にも60年の後半ぐらいに。奥さんと住んでらしたけれど。先生、スミスさんとは交流はありましたか。

東松:いや、ないです。『ライフ』を通してしか知らないですよ、私は。

中森:そうですか。

東松:うん。それでまあ、彼のスタンスみたいなものに共感して。

池上:うん。ちょっと通じるようなところがあるなという気がしますけどもね。

中森:そうですね、うん。

池上:他にその、ご自分の作品以外で、気になるというか、お好きな写真家っていうのはいらっしゃいますか。

東松:うーん、あまりいないね。ちょっとわからないですね。

中森:では、写真の未来に関して、何かお言葉ありますか。これから写真がどうなるかということ。

東松:うーん、そうですね。携帯電話が今普及してて、もう携帯なしでは生活が成り立たない。で、携帯に今カメラがついて、それで撮ったりするんだけど。画素数もかなり上がってきてるようだし。だから、ある種の大衆化というか、裾野がずっと広がってきて。だから、文字に近いくらいの広がりを今、写真は持ちつつあるという。今は映画も撮れるんでしたっけ、携帯は。

池上:動画も撮れますね。長い時間じゃないですけど。

東松:ね、動画も。短くてもね。それは、映画の世界とは違うかもしれないけれど。だから、そういう裾野の広がりということで、ちょっと未来を予測できないんだけど。まぁ、面白い時代に入ってきたというふうに思いますけどね。

池上:じゃあ、これから先生は何をなさりたい、っていうのはありますか。

東松:そりゃもう、体力がもう無くなってきてるから、撮りたいと思っても、撮りに行けなかったりするんでね。もう、本当に身近なところでしかシャッター切ってないですね。

池上:今ですと身近なところっていうのは、この界隈っていうことになるんでしょうか。

東松:そうそう。歩ける範囲内というと、1キロ。

池上:一番最近はどういうものを撮られましたか。

東松:最近は、もう今は運転やめてるから、家内が運転してくれて、海洋博の近くに備瀬という集落があって。そこは福木が有名な、福木に囲まれた集落っていう。そこに撮りに行きましたね。

池上:福木って、葉っぱが丸くて、ぺたっとした木ですね。今も現役で写真を撮られてるんですね。

東松:うん。

池上:中森さん、最後にお聞きしたいことあります?

中森:ええ。じゃあ、先生の方から何かこれを言い忘れたとか、言っておきたいということがありましたら。

東松:いや、特別ないですけどね。何かあるのかな。

池上:じゃあ、一つお聞きしてもいいですか。

東松:はい。

池上:先生は本当に二十歳前後でカメラを持たれてから、もう半世紀以上にわたってずっと写真にコミットされてきてるわけですけども、その中で、制作姿勢という意味で、どういうことを大事にしてこられましたか。

東松:何をっていうのは・・・・・・ 具体的にはどういうことが聞きたいですか。

池上:ちょっと抽象的になりますけれども、自分の表現っていうことなのか、あるいは写真を通して伝えたいメッセージがあってそちらを大事にしてこられたのか、というようなことなのですが。

東松:うーん、そういうこと、あんまり考えない。そこに現場があるから見てもらったほうが早いんじゃないかな。

池上:はい、では拝見したいと思います。

東松:今プリントしてるのは、今年の秋に沖縄の県立美術館で展示する、企画展に出す300点くらいかな(注:「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」展、沖縄県立博物館・美術館、2011年)。その中の一部分を焼いてる。

池上:これがプリンター。

東松:うん、これが大判のプリンターで、今この幅で焼いて。もう少し大きい、そこからここまでの、110センチ幅のプリントができる。これよりちょっと小さめで90センチ。そのできあがりがこれですね、この大きさ。そこに小さいのがあるけど、それは県美(沖縄県立美術館)用の大きさで。

中森:今回のものは沖縄で撮られたんですか。

東松:はい、これは全部沖縄ですね。

中森:素晴らしい色ですね。

池上:ねえ。さっきの、技術が追い付いてきたからっていうのがわかりますね。

東松:そうですね。

東松:これは歩いてるおばあちゃん。これは渡嘉敷島っていうところで撮ったものです。だから昔は暗室だったんだけど。

池上:今はもう。

東松:明室。

中森:「明るい部屋」ですね。

池上:ね、バルトの(笑)。

中森:(パソコンに向かう泰子を見て)今、泰子さんが行ってらっしゃるお仕事は、ここでイメージを調整してらっしゃるんですか。

泰子:はい。スキャンをして、ここで細かい指示があるんです。結局ラボでも指示しますよね。それと同じ要領で、次のところをちょっと明るくしてとか、黄色を入れてとかっていうのを全部見て、それで小さいのから、簡単なものから作っていくという。それでこう、イメージにする色に直していく。だから、結構時間はかかる。

東松:それが優れたスキャナーです。

中森:ああ。すばらしいですね。

泰子:デンマーク(製)ですね。

池上:すごいですね。

泰子:そうなんです。これが来て、やっぱり、ずいぶん楽になりましたね。

中森:でも泰子さんがおやりになる仕事が、非常に大事なんでしょうね。フィニッシュのところで。

泰子:そうですね、地方ですから。やっぱり東京にいればそういうこと全くしなかったわけですから。

池上:他に頼むところもありますし。

泰子:そうそう、プロラボたくさんありますよね。だけど、長崎とか沖縄だとそれないですので、もう送るだけで、たくさん時間がかかっちゃう。間に合わないです。

池上:自前でやるようになられたんですね。

泰子:はい。だからもう、全部一貫して、撮影から展示まで。マット切りとかも全部やります。

中森:そうですか。

泰子:うん、全部展覧会、最後までできると。

池上:この家庭内で(笑)。すべて仕上げまでされるわけですね。

泰子:はい、そうです。やっぱりフィルムだと、渡さないといけないじゃかないですか。そうすると、東京までっていうとちょっと怖いと思うのもありますよね。

池上:そうですね。

泰子:やっぱり、ここでやれるのが一番いいと。全部こうアーカイヴみたいに保存していってますね。

中森:じゃあ、もしかして将来的に、こういった作品を展覧会に貸していただけますかっていうことがある場合には、ご連絡さしあげて、見ていただくということになるのですか。つまり、例ですけども。もっと最近の作品をお借りしたい場合ですね。

泰子:あぁ、レンタル。

中森:ええ、レンタルというかたちで。

泰子:それはもう、OKが出れば、そういう風にできます。

中森:そうですか、はい、わかりました。

池上:ありがとうございました。

東松:ちょっと時計が止まってる。

池上:はい、もうちょうど1時間ぐらいで。本当に何度もありがとうございました。

東松:いえいえ、どうしたしまして。

中森:本当に勉強になりました。

池上:いいお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。