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植松奎二 オーラル・ヒストリー 2016年9月22日

大阪府箕面市、植松奎二自宅にて
インタヴュアー:池上司、山下晃平
同席者:渡辺信子、池上裕子、菊川亜騎
書き起こし:五所純子
公開日:2018年5月25日
 

植松奎二(うえまつ・けいじ、1947年〜)
美術家
1947年兵庫県神戸市に生まれる。神戸大学教育学部美術科卒。鉄や木、石、ガラスなどを用いたコンセプチュアルな立体作品を数多く制作している。1969年の箱根彫刻の森美術館で開催された第1回現代国際彫刻展に入選後、ギャラリー16(京都)での初個展を開く。1970年前半に京都アンデパンダン展や日本国際美術展(通称、東京ビエンナーレ)、現代日本美術展と主要な美術展への参加を経て、1974年に神戸市文化奨励賞を受賞し翌年に渡独する。渡独後の1976年に、ストックホルム近代美術館で個展が開催され、以後、ドイツ、スイス、ベルギー、フィンランド、オランダなど欧州各地のギャラリーや美術館で個展を開催し、多くの前衛的な作家と交流している。1988年には第43回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館の出品作家として戸谷成雄氏、舟越桂氏とともに選抜された。1986年に兵庫県西宮市に戻った後は、ドイツと日本にアトリエを構え制作を続けている。帰国後の1990年には、第12回神戸須磨離宮公園野外彫刻展で大賞を受賞するなど野外彫刻展にも数多く招聘されている。今回の聴き取りでは、各地を渡り歩いてきた豊富な実体験による当時の国内外の美術界の状況について、また国内外で活動する美術家としての一貫した姿勢や信念についてお話しいただいた。1回目のインタヴューでは、生い立ちから大学で立体を制作するに至る過程、また初個展や関西の作家との交流、京都アンデパンダン展への出品を中心にお話を伺った。2回目のインタヴューでは、渡独後の制作や作家との交流の様子、そして欧州各地で開催された個展の経緯やヴェネツィア・ビエンナーレ参加の様子、帰国後の作家活動についてお話しいただいた。

山下:最初の質問をさせていただきます。生い立ちですね。作品の前の話ですけど、幼少期の印象的な思い出も含めまして、どういうところでお生まれになって、という話を質問させていただけますか。

植松:僕が生まれたのは神戸なんですよね。神戸の、下山手八丁目といいましてね、花隈から西側。ものすごい下町。そういうところで生まれたんですよ。親父は、画工さんといいましてね、職人さんです。画工って、絵画の「画」と「工」。そういうのが僕が美術に入っていくことと全部関わってきてると思う。親父は一応、僕が物心ついたときには画工さんとして、印刷の原版、オフセット印刷の原版やから、ジンク板ていうんですけどね、それに絵を描いたり、イラスト描いたり、文字描いたり、そういう仕事しとったんですよ。ポスターも描いたり、デザイン的な仕事も。昔はイラストレーターとかデザイナーとかそういう言葉はなかったから、図案屋さんみたいな、そういう仕事をしとったんですよ。親父の兄貴は判子、木版ですね。僕が聞いた話では、昔の新聞は木版やったんですよ。今でこそ新聞の回転板は紙か何か、オフセットになってるけど。その木版を彫ってたんですよね。親父がその彫る前のを描いたり、字とか絵とかそういうのを全部描いたりしとった。だから僕、そういうのをずっと見て育って、サラリーマンの家を知らんのですよ。小さいときから親父が描いてる絵とか字とかを見てるから、そやから絵がやっぱり好きだったんですね。

池上司(以下、司):原版がお家にいっぱいあったんですか。

植松:テーブルの上にね。だから椅子じゃなく、大きいテーブルの前に座って文字を描いたり線引いたり。だからカラス口やコンパスやとかいろんな物が全部あったんですよ。

司:お家が工場というか。

植松:工場いうより普通の家ですけどね。そういう中で。だから元の原稿があったりしたら、そこに硫酸紙というのを置きましてね。硫酸紙で原稿を針でなぞっていくわけですよ。その針でなぞっていった硫酸紙。硫酸紙やから蝋がついとる。なぞっていったとこ。そこへ弁柄を刷り込んで、亜鉛板、ジンク板へ写すわけ。そこへずっとまた原稿を見て描く。それで色を何版にも分けるわけですね。(当時は)1版じゃないから。

山下:4色とかですよね。

植松:4色。印刷の4色分解です。赤、黄、青、墨の版に分けて全部また描いていくわけですよ。そういうのを小さいときから見ていたんです。だからそういうのがやっぱり関係したと思います。

池上裕子(以下、裕子):お生まれは1947年ですね。

植松:1947年3月26日。

裕子:もう戦争は終わってますけど、戦時中は神戸も空襲ですごい被害を受けました。そういう戦後の復興みたいなことって、幼い頃の記憶にはありますか。

植松:それはね、あんまり分からへんですね。進駐軍が来てたというのは知ってますね。

裕子:記憶しているものとしては特にはない。

植松:特にはそういうのはないですね。

裕子:まだ小さいですもんね。

植松:(記憶は)もうちょっと大きくなってから…… まあ小さいときでも、神戸の三宮の、何ていうんですか、本当にドヤ街みたいな感じは覚えてます。それでカレーライスみたいなの食べたけど、「うわ、こんなん食べれるんかな」いうのを皆食べてたのを覚えてます。野坂昭如の『火垂るの墓』に出てくる三宮のドヤ街です。

裕子:美味しくなかったんですか。

植松:いや、美味しくないよ(笑)。見た目もなんかすごかったのを覚えてます。小さいときから絵が好きで、小学校、中学校、高校になっていくでしょう。小学校には美術クラブがあったんだけど、別にそれは入らなかったです。普通に絵が好きで、絵を描いたら親父が見てくれたりしとった。そのとき1つ覚えてるのは、空に雲があって、その青空に雲がポッポッとある。それを何かね、アイデアとしては反対のような感じで、ただ雲を貼るだけでなしに、青い紙でパパッと雲の形を切ったんかな、雲を貼るんでなく。「ああ、こういう方法もあんねや」というふうなことを覚えてたりするなあ。あ、小学校一年生のときによう覚えてるのはね、画用紙がありますでしょう。休みの時間に機関車を描いとったんですよ。ちゃんと描いて、休みの時間に先生に見せに行ったらね、すごい褒めてくれて、判子押してくれたの覚えてます。それを今思い出した(笑)。「よくできました」いうて、桜のマークのついているものです。小学校一年生のときですね。

山下:特に先生から描いてと言われたわけじゃなくて。

植松:うん、自分で休みの時間に。

山下:他の人は遊んでるときに描いてしまったという。

植松:うん。それで中学校では、美術クラブに入らなくて、新聞部に入ったんですよね。文章のほうを書こうと。それで新聞部に入って、部長をしたりいろいろしていて。それで高校に入ったときに初めて美術クラブに入ったんですよ。

裕子:高校はどこですか。

植松:高校は御影高校です。

裕子:うちの兄と一緒(笑)。

山下:ちなみに私の兄も一緒です(笑)。

植松:そうですか。姉も神戸高校でね、うちの親戚の従兄弟連中、全部神戸高校だったんですけどね。僕だけ御影に行ったんです(笑)。高校で落ちるの嫌やったしね。中学校の先生には「神戸高校を受けていい」って言われたんですけど、「僕は御影でいい」とか言うて。それで御影を受けて、高校入ってすぐ美術クラブに入ったんですよ。そのときよう覚えているのはね、親父が、美術クラブに入って絵描き始めた途端にね、「絶対芸術大学には行かせへん」て言うたんですよ。親父も、そういう(図案の)仕事をしてたでしょう、ずっと。だから絵を描いて生活できるわけがないと、そういうのがもうわかってる。親父も同じように、別に美術学校とかは出てないんですけど、本当はそういうのをしたかったみたい。それで「絶対行かせへん」て言われた。僕もものすごい素直な子やからね(笑)。もう絵を描いとったわけ。それで大学の受験の頃になって、僕は生物学と建築も好きやったんです。ところが建築は数Vが要ったんですよね。数T、数Uまではええんですよ。全然話ちがうけど、僕は幾何では解けへん問題がなかったんですよね、その頃。幾何は直感ですからね。直感で解き始めて、最後結局イコールになるわけですよ、証明がね。それで幾何がものすごい好きやったんですけどね。その話はええねんけど、生物と建築と、それから美術は受けたらあかんて言われてたしね。あと何があるかな、って思ってね。サラリーマンの家と違うから、ビジネスに関わるこというのが全然分からなかったんですよ。別に文学部に行くいう感じも違うしね。あ、学校の先生にもなりたいな思うたのもあったんです。それでいろいろ調べたら、神戸大学に教育学部の中に美術科というのがある。それがわかったんですわ。それで親父に言うたんですよ。神戸大学の美術科受けるいうて。それやったら学校の先生になるからええと言われた。それで神戸大の教育学部の美術に行ったんです。生い立ちからだいぶ外れていきますけど、大学の4年済んだときに、大学院の専攻科に行きたいと思ったんですよ、美術で。それで京都芸大(京都市立芸術大学)の彫刻科を受けたんですよ。その前に教師の採用試験も受けてましたけどね、夏に試験があったから。それで教師の採用試験は通ってると。まあ、専攻科のほうが通ったらこれは辞めるかどうしようか、また考えよう思って。通ったらやめとったんやろね、学校の先生になるの。でも落ちたんですよ(笑)。

司:当時は京都芸大の彫刻にはどなたが。

植松:京都芸大の彫刻の先生は堀内正和、辻晉堂。あと、山崎脩いうて、鉄の彫刻をしとる。あとは誰やったかな。

菊川:野崎(一良)さん?

植松:野崎さん。なんかそういう感じですわ。あと上田さんという人が助手でおって、それでそれから佐野賢さんも助手でおったですわ。そのときね、堀内さんと辻さんに面接で言われたのが、「彫刻は鉄とか、石とか、いろいろあるけど、君は、一体何の彫刻がしたいんや」と言われた。「いや、僕は彫刻をやったことがないんです」言うて(笑)。神戸大で彫刻いうのは彫塑やったんです。粘土で人体をやる。「彫刻やったことないからもっと勉強したいんです」と。それでその試験がね、普通は粘土で抽象彫刻をつくるんですよ。粘土べら持って行って。あとデッサンと。そしたらその年に初めてね、受験生が9人おったんですよ。それで5人しか通らなかったんですよね。外部から3人受けとったんですよ。神戸大2人と。神戸大いったらこれは先輩ですけどね。僕の2、3年先輩と、僕と、もう1人、金沢の美大から受けとったんですけどね。それであとは京都芸大。5人しか通れへん。京都芸大6人おる。それで人数が多過ぎるいうんで、それでなったんかわかりませんけど、初めて石の彫刻、石の試験やったんです。一切の30センチくらいの石がありましてね。それをデッサンする。そのテーマが「有機的な形態による抽象彫刻」を考えなさい、という感じやったんです。それでまずデッサンをしたわけ。A4の紙にデッサンしたわけですよ、ダーッと。その石、まだありますけどね。

裕子:後で見せてください。

植松:けっこうようできとるよ。それでまあ、一応描いたわけです。そしたら京都芸大の連中は皆わかっとるんですよ。「こんなんできへん。こんな形は石では彫られへん」と。もう難しいて、彫られへんような形やったんですよ。それでも描いたんですけどね。それで試験をやったんですよ。石のノミの持ち方もハンマーの立て方も知らんまま試験やったんですよ。それでコンコンコンコン、豆だらけになってね。1週間で1個作らんとあかんかったんです。

裕子:そういう試験だったんですね。

植松:ああ。それで落ちて。そやから試験のときもね、京都芸大の受験生に訊きに行った。僕は石をたくさん、バーッと落としたいわけですよ。だから「ちょっとここ落としてくれる」って(笑)。そうするとポンポンポンいうて、ポーンと取れるわけやね。「ありがとう」と(笑)。それでまた仕事していくという感じでね。それで1週間やって、もう落ちるのはわかっとったんですけどね。これはもうあかんわな思うて。僕はできへんし、彼らはちゃんと形がどんどんできていくしね。だから、彫られへんけど、彫られへんなりの、デッサンとは違うけどええ形ができたと思います。ミニマルっぽい形(笑)。

司:受験のあたりに戻るんですけど、高校の美術クラブのときは、もう絵を描いてたんですか。

植松:そうです。

司:油ですか。

植松:そうです。高校のときは全部油です。大学のときもずっと油を描いてて。

司:普通に風景や人物を? 

植松:まあ、抽象的な。

司:抽象的な感じですか。

植松:授業はもう皆、具象の授業ですけど。松本宏さんに。松本先生と、斎藤智先生。日展兼行武四郎先生もおったんですけど。梅宮馨三郎さんて国画会の先生も彫塑で竹林信雄先生もおったんですけど。大学では最初はずっと、大学3年くらいまでは、自分は絵画、絵を描こうと思ってて。

司:受験もやっぱりデッサンとかでしたか。

植松:そうです。大学の受験はデッサンと水彩画ですね。ずっと静物の水彩ですね。鉛筆でちょっと描いて。そのときに覚えてるのは、描き間違ってて「もう1枚紙をいただけませんか」、「君、これは試験だからあかん」言われて(笑)。消しゴムで一生懸命消した。「ああ、そうやな、これは試験やわな」思うて(笑)。

司:そのときはもう、絵画をやるんだという感じだったんですね。

植松:そうですね。大学3年くらいまでは絵画をやるわけ。

司:その抽象って、何かこう、イメージといいますか。

植松:大学4年のときは、学校ではちゃんと抽象の油絵で、自分で作品を作ってたんはトタンの板を磨いたり、ハンダゴテで形をつくったり。そういうのを大学の4年生…… いや、3年生か。20歳やな。20歳のとき、ハンダとトタン板で作品つくってんねんから。

司:じゃあ、そういう廃材を使って。

植松:板をこう、板金屋さんで曲げてもらって、ちゃんと枠をつくって、綺麗にキャンバス貼ってるみたいな感じで。その上にハンダゴテでハンダをずっと溶かしたり、いろいろしてた。それから立体の作品をつくり始めたんですよね。その頃の作品のタイトルを思いだした。「二十歳のエチュード」です。原口統三の。

裕子:それは授業の課題とかではなく、勝手にやり始めたんですか。

植松:もうやり始めた。

裕子:きっかけというか、絵じゃなくてこっちも面白いなというのは何かあったんですか。

植松:いや、授業は授業でちゃんとやってて、大学4年生のとき5メートルくらいの彫刻を作っとったんですよ。3メートルとかね。全部燃やしてもうたんですけどね。

司:同級生も皆さん、そんなのを作ってたんですか。

植松:同級生は皆、やっぱりちゃんと学校の先生になりましたよね。

裕子:皆さん、絵ばっかりされて?

植松:絵ばっかり。絵を描いとった。

司:なぜ突然、植松さんだけ立体作品を作ったんでしょう。

山下:植松さんが、授業と自分の作業を分けている様子が気になるんですけど。

植松:大学3年生の頃、斎藤智先生の作品をよう手伝うとったんですよね。現代美術ですしね。大学3年生の頃は行動美術協会てあるでしょう。あれ、松本先生が行動美術だったし、もう1人田中徳喜さんいう人がおったんですよね。その人は行動美術で抽象の絵を描いてはって、その人の絵を見て僕はすごくいいなと思ったんですよね。それでいっぺん電話して会いに行ったんですよね、大学のとき。それから行動美術をやり始めました。まあ、関西だけですけどね。東京には出してないけど。それからあるとき彫刻をやり始めて。彫刻というてもプラスチック、ベニヤ板ですね。角材でいっぱい型をつくっといて、ベニヤ板を曲げていって、ニョロニョロと。また写真をお見せしますけど。そういうのを作ったりしてたんです。そうですね。そやから大学の4年生のときにはもう彫刻家になろうと思ってたね。そやけど学校の先生になったんだけど。

司:行動の彫刻には出展しなかったんですか

植松:出さなかったです。大学の3年のときだけ神戸行動美術協会いうところに入ってちょっといろいろやってたんだけど、ここは違うと思うたんですね。「あ、こういうとこは僕が望んでるとこと違う」と思った。なんか先生がたくさんいはるでしょう。「ああ、これはあかん」て。それで大学の3年、4年……。1968年。大学の4年のときは向井さんのアシスタントをやってたんですよね、向井修二の。同級生の具象の絵を描いてる女の子と二人展をやったりして、トアロード画廊(神戸市)というのが昔あったんですけどね。

裕子:ありましたね。

植松:ああ、知ってます? コロンバン(洋菓子店)の上に行った所にあったんですけど、そこで二人展を大学の3年のときにやったんです。そやから大学の1年のときなんかは、ダイワ画廊(神戸、三宮)いうて昔あったんですけどね。陳さんいう人がやってて。グループ〈位〉なんかもやった画廊ですわ。そこをただで貸してくれて、凌美会七人展とかそういうのもやったりしてた。

山下:具体の人をピックアップしてやっていた所ですよね。

植松:そうですね。そこでやったことがありますね。そやから学生のときから授業だけでなしに作品を作ってたんですよね、いろいろ。

司:画廊でいろいろ会われたりとかあったんですか、前衛の方と。

植松:思い出した。これはいつも松谷(武判)さんに言うんやけど、大学の1年生のときやと思いますわ。凌美会展いうて神戸大学の美術クラブがあるんです。凌美会、7人展か、8人くらいで具象の絵の展覧会をやっとったんです。僕は具象でも、(パウル・)クレー(Paul Klee)なんかが好きやったから、ちょっと違う感じの絵を描いとった。そのときに松谷さんが来てくれた。松谷さんもダイワ画廊でやっとったから、観に来てくれてね、(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)の話をしてくれたんですよ。それが大学1年のとき。デュシャンなんて僕全然知らんとき。具象の絵を描いとるときやね。今でもそれはよう覚えてる。便器の話とかね、小便器に泉というタイトルつけて……とこういう人がおるんやって。「ふうん。ふうん」って思うて聞いたの、よく覚えてますわ。

司:1年生だったら1965年くらいかな。

植松:そう。1965年くらいやね。

裕子:そういうことは大学では全然教えてなかったんですよね。

植松:そういうことは教えてなかった。「うわあ。ふうん」って思って、それはよう覚えてる。松谷さんは全然覚えてへんねんけどね(笑)。「デュシャンを教えてくれたのは松谷さんや」言うても。

司:1965年にダイワ画廊でやってますね、松谷さん。ちょっと何月か忘れましたけど。その頃はニューヨークに行きたいと思っていたと言ってはりました。だから勉強していたかもわかりませんね。

植松:それで卒業して、学校の先生になるわけですけど。

司:大学のことでちょっとお聞きしたかったのが、卒業されたのが……

植松:1969年です。

司:1969年ですよね。ちょっと社会的な話ですけど、70年安保の時期だと思うんですけど、神戸大学では授業とか、どうでしたか。

植松:いや、普通に授業はなかったですよ。

司:普通にないですよね、おそらく。

植松:もう最後のほうは封鎖されてましたからね。

山下:神戸大学も封鎖されてたんですか。

植松:そうです。教育学部も卒業の頃はもう封鎖されてましたからね。だから学生会議、しょっちゅうやってましたよ、夜までずっと。

山下:植松さんもそれをちょっと見に行ったり?

植松:僕もちょっとヘルメット被ったりしてましたよ。別に党派に入るという感じじゃないけど。神戸大はフロントでしたからね。そやからデモに行ったり、そういうのはしてました。自分で違うヘルメットを被ってね。いろんな色がありますやん。赤ヘルやフロントのヘルメットや何やかや。僕はなんか、銀色みたいなヘルメットを被ってた。

司:自作ですか。

植松:そうそう(笑)。ヘルメットを持って帰ってきては、家に隠しとったんですよ。親父に分かからんように。やっぱり親父に分かるとよくないなと思って隠しとったんですよ。隠してまた持ってったりして、ときどき。その頃覚えてるのは、神戸大の経済学部、本部のほうで学生会議があったりして。それで関学(注:関西学院大学)からいろいろ来たりとか、いろいろドワーッと旗持って来たりして、いろいろやってましたよね。

司:(神戸大学は)阪神間あたりの運動のいちばん中心だったんですね。

植松:ええ。それで京大が封鎖されたときとか、そういうのは見に行ったり。

山下:東京の様子は、学生の間にも伝わったりしてたんですか。

植松:ああ、それはもう全部分かってましたね。

山下:植松さんの気持ちも、制作もあるけど、今の学生の制度のことも、自分としてちょっと気にかかるというか。

植松:そうですね。

山下:やっぱり不満があって、一緒に参加する。流れで参加するというよりも、何かあったら友達と一緒に行ったりとか?

植松:友達と行ったという記憶はあんまりない。誰かと一緒に行こういうのは(なかった)。自分で行ってたね。うん。(渡辺さんに確認しながら)幸田庄二さんなんかはカメラのほうやな。写真撮ってたわ、幸田さん。

渡辺:ああそう。

植松:デモの前のほうで。

渡辺:へえ!

植松:幸田さんは僕の友達、建築家の。僕は竹の棒を持っていちばん前におって、なんで幸田さん、写真ばっかり撮ってるんやろなと思ってたけどね(笑)。ほな機動隊に挑発されるんやね、どんどん。竹の棒を取られるわけですわ。前はなくなってまうんですよ。困るよね(笑)。

渡辺:いちばん前に出ていって。

植松:いちばん前におったときがあるんですよね(笑)。

裕子:神戸だと当時、どのへんでデモをするんですか。

植松:いろいろあったんですよ、デモでもね。大学でやった、学生大会をやったりして、その後は皆もう阪急六甲の周りに下りてきてダーッとあのへんでごろごろ回ったりして。それで街に出て行くときは東遊園地(注:神戸三宮)ですわ、集まるの。

裕子:やっぱり目抜き通りのほうですね。

植松:東遊園地からずっと三宮のほうへずっと行くねんけど、どんどん。神戸大のデモといっても、皆優しいからね。そやけど捕まるねんけどね。何人かは捕まるねんけど、皆黙秘するんねんけど。だから、いろんなデモやってたね。国鉄が運賃上げるというたら三宮駅の構内に、ホームにドーッと皆座り込んだりさ。

司:何かあったらワーッと皆で行く。

裕子:安保だけじゃないという。

植松:そうそう。

裕子:学生運動としては、大学に対する改革の要求とかそういうのもされていました?

植松:それはやってたと思いますよ。そやけど、何ていうんかな…… 結局、産学協同反対やね。それとか受益者負担どうのこうのとか、いろんなことをやった。

司:自治を守れとか。

植松:うん。神戸大学は、教育学部はどちらかというと共産党系ですから。僕は共産党系ちゃうかったから、またそのへんでいろいろあった。

司:そうですよね。日教組とかいろいろ関係ありますもんね。

植松:だから僕は学生運動にちゃんと、ちゃんとというか、ダーッといった(のめりこんだ)ことはないです。僕の友達はいっぱいいた。そやから途中で退学してもうたりね。しょっちゅう捕まっとったり。捕まった後で言われるんですよ。捕まった後に横で言うとるんですよね、「これ、何の罪にしましょう?」「まあ、婦女暴行にしとこか」って(笑)。

裕子:ひどい(笑)。

植松:また話は違うけど、その頃知ってんのはね。関学(注:関西学院大学)で中国との関係の名前がついている学生運動をしていて、関学の学生運動の自治会の会長をしていたのが、生田中学を出た新行内っていう友達なんだけど、彼も(学生運動を)ようやってて。あるとき、1990年ね。(僕は)1990年に須磨で離宮公園で大賞をとったんですよ。(注:神戸須磨離宮公園現代彫刻展。1968年第1回から1998年の第15回までの隔年開催。ただし1995年の阪神淡路大震災では延期された。1990年は第12回に当たる。)それであのとき新聞にね、西宮の植松奎二って名前が出たわけですよ。それでヨーロッパと日本を行ったり来たりしているいうて。それで西宮に住んでいるいうて。すると彼が市役所に電話してきてね。その当時なんかは、個人情報(の保護)なんて全然ないでしょう。友達やいうて、僕の住所を聞いてきたんですよ。そうしたらあるとき訪ねて来たんですよ。「お、久しぶりやな、新行内」言うて。そして家に上がって色々と話しをしていて、そうしたら「今も僕は(運動を)やっている」と言うわけね。「ここに来るまでにも、僕はずっと尾行がついてるから、ここに来るにもだいぶ遠い所に単車を停めて来ている」と言うわけ。それで色々と話しをしていてね。「西宮とデュッセルドルフを行ったり来たりしてるやろ」と言うわけ。「僕らはね、皆で集まるアジトというか、場所がないんや」と言うわけ。それでね、「いない間、ちょっと鍵を貸してくれへんか」と言うわけ。わっちゃあと思って。それですぐ玄関の所にあった鍵を取りに行ったんですよ。ポケットにすぐ入れてね。こんなん持って帰られたらえらいことになるわと思って。

司:それはやばいですね。

植松:そんなことを覚えてますわ。そのすぐ後に、トラックか何かからね、爆弾みたいなのを入れてどこかの家へ、西宮で撃ち込んだという記事が新聞に出とったみたいですけど。それは彼がしたかどうかは知らんけど。それで(新聞に)出ていてね、えらいこっちゃなと。それは全然関係のない話やけどね(笑)。まあそやけど、学生運動をしているときでも作品は全然関係なく作っていましたね。

司:そういうことはやりながら、作品発表はされていたわけですね。

植松:そうですね。

山下:先生との関係は問題なかったのでしょうか。

植松:大学の先生ですか。

山下:学生運動をしてるからちょっと……

植松:そういうこととは全然関係なかった、先生とは。けれども卒業制作のときに僕は作りたいものというのが、立体の抽象彫刻みたいなやつでね。プライマリー(・ストラクチャーズ)な感じで。結局受けてくれる先生がいない。それでしょうがないから木工の先生に頼みに行ったんですよ。木工の先生に頼みに行ってね、「すみませんけど、卒業制作の指導教官をやってください。木や角材で作って、形を作っていきますから」と。そしたら「わかった」と言うて入れてくれた。卒業制作の発表会みたいなものがあるんですよ。そのときに言われたんですよ、先生方に。「植松、これは一体何やねん」って。「いや、『これは一体何やねん』はないですよ。これは作品ですよ」と言うて(笑)。今でも覚えてますわ。

山下:新鮮な話ですね。先生とのギャップがやっぱり少しあったんですね。

司:別に仲間がいてとかではなくて、独自で大学の頃、制作をされていたんですね。

裕子:プライマリー系の立体って、当時の海外では割と盛んでしたよね。そういうのを美術雑誌で見られたとか、そういうことはあったのでしょうか。

植松:そうですね。美術雑誌で見てましたね。

裕子:それでかっこいいなとか、そういう感じで?

植松:うん。だから美術雑誌で見ていたこともあって、僕が学生のときにやっぱり一番すごかったのは、1968年の須磨離宮公園。関根(伸夫)さんの作品(注:《位相−大地》(1968年))を見たことは一番衝撃的でしたね。

山下:まだ学生の頃ですよね。

植松:大学の4年生ですよね。穴を掘っただけでね。あのときの作品というのは結構覚えています。面白かったですね。

裕子:他にどんなのがありました?

植松:田中信太郎さんの蛍光灯が上がってる作品がありますよね。(注:《マイナー・アート(ピサ)》(1968年))それで宇佐見圭司さんがね、絵を描いてるのになんでこんな立体を作っているんだろうってね。標識みたいなのをずっと作っていてね。(注:《IMAGINARY POLE》(1968年))栄利秋さんも出していますね。丸いのがいっぱい出ている形の。(注:《KANA-9-68(ポッカリ・ポッカリ)》(1968年))吉村益信も出してたと思うわ。(注:《コーナー「アウトイン」》(1968年))河口龍夫さんも出していたけどね。河口さんは彫刻というよりも、小品を屋根がある所にちょっと置いていたんですけどね。(注:《四色の球体》(1968年)) 若林(奮)さんも出してたよな。若林さんも小品やったな。(注:《犬から出る水蒸気》(1968年)) 1968年のその彫刻展を観たとき、「ああ、僕もここに出したいな」と思いましたね。いつかは出したいなとは思った。

司:その頃出している作家の方は、直接にはご存知ではなかったのですか。

植松:僕が知っていたのは1968年、67年。この間も思い出したんやけど、グループ〈位〉よりも、プレイ(注:THE PLAY)があったでしょう。あれを見てるんですよね。国立国際美術館にプレイの話の寄稿を頼まれて、今度の10月に刊行されるんですけど、プレイの話。(注:植松奎二「ナンセンスな旅への招待 –Mats Bとの対話−」『国立国際美術館ニュース』、216号、国立国際美術館、2016年10月、pp.2-3.)プレイ一番最初のあれを観ているんですよ。(注:「第1回PLAY展」)だから1967年だと思いますね。そのときに一緒に観たのはね、奥田善巳さんと木下佳通代さんと、僕の大学時代の友達と、一緒に観ているんですよね。だからそのとき奥田さんも木下佳通代さんも知っていたんですね。

司:やはり画廊回りとかそういう。

植松:そうですね。画廊も観てましたね。あ、奥田さんの個展は覚えてる。やっぱり1967年かな。《ネガへの挑発》(1967年)というの。それはものすごいよう覚えてますわ。その頃奥田さんは、あのドラム缶を赤と青と白とで《ネガへの挑発》(1967年)という、国際青年美術家展(注:日本文化フォーラム主催、読売新聞社後援)で優秀賞をもらった後かな。(注:受賞したのは日本文化フォーラム賞。)その個展を観に行った。ものすごい熱弁でね。すごい作品のことを喋ってはりましたわ。ものすごいよく喋っていてね。僕はそのときに思ったんだけど、「この人は絵描いてるけど、なんでこんだけ喋らんとあかんのやろう」ってね(笑)。ものすごい声を枯らしてね、それくらい喋っていた。それが初めて奥田さんに会ってから、それからやね、奥田さんとのつながりは。木下さんは67年のときはまだ結婚していないし…… あ、思い出してきた。知り合ってから分かったんですけど、奥田さんも印刷屋さんに勤めていたんですよ。うちの親父が印刷屋さんの仕事の原版をジンク板に描いてますよね。奥田さんはその印刷屋に昔勤めてて、製版師というのをしていたんですよ。製版師だから、製版でできたものを印刷の……。

山下:最終の?

植松:うん。何かに移す仕事ですね。版を移し替えるみたいな、そういうのをしていましたね。そうそう、それで親父が奥田さんを知っていたんや。それで奥田さんも親父のことを知っていたんや。ああ、思い出してきた。渡辺印刷いう所に勤めていたんです、奥田さんも。

裕子:つながりますね。

植松:つながっていくんですよ。それで奥田さんと親しいにしてもろうたから。まだ彫刻もつくってない頃ですけどね。作り始めの頃です。

司:他の作家の方とはどのように知り合いましたか? 河口さんとか?

植松:河口さんは…… 箱根の彫刻の森美術館(注:「第1回現代国際彫刻展」のこと)に1969年に初めて入選したんですよね、僕。それで入選した後ですね、河口さんと知り合ったのは。

司:作家としてやり始めてからということですね。

植松:うん。それで神戸の喫茶店で会うたのはよう覚えてますわ。

司:たまたまですか。

植松:違う。それがはっきり僕は分からないんだけどね。河口さんと会うたのは、なぜ、神戸の喫茶店で会いましょうというのは、河口龍夫という人は知っていたわけですよ。例えば須磨離宮公園にも出していたし。あ、その前にね、向井修二のアシスタントをしてましたでしょう。1968年の空間と、何やったっけ、そごう百貨店で中原佑介と赤根和生さんと関係して、光と何か。その展覧会があった。(注:後に確認。「現代の空間 '68 光と環境」展、そごう百貨店(神戸)、中原佑介+赤根和生企画。)

山下:当時、環境というキーワードで。

植松:うん。だから若い人だったら今井(祝雄)さんが出していたけどね。スライドでパシャパシャ映していたけど。それで、聴濤襄治とか向井さんとか。向井さんはあれが最後の仕事だったんですよ。僕も最後ずっと、こんな大きい2メートル四方くらいの箱をつくって、透明のプラスチックの板でそこに電球がいっぱい付いていて、中でキーボードをいじって、それに連動してライトが点滅したりする、そんな作業をして。向井さんはそれで大賞をとろう思っとったけど取れないで、それでやめてしまったけどね。その頃の作品は全部作りましたわ。電気の配線からずっといろんな。

裕子:立体をつくる修行みたいな感じにもなっていたんですかね。

植松:ああ。

司:アシスタントを始められたのはやっぱり大学に入って、画廊とかで出会われてでしょうか。

植松:向井さんにはなんで知り合うたか言うたらね、大学の3年生くらいのときやったかな。淮田さんと二人展をやって、トアロード画廊で、淮田みゆきと言って同級生とね。僕は抽象的な彫刻を出したんだけど。向井さんや他いろいろな作家に案内状を送った。そのときに(向井さんが)観に来てくれて、「君のなかなか面白いな。」あの頃は向井さんも若いから、「僕のアシスタントをせえへんか」と。僕も「喜んでしますよ」と言って。それから行って、色々と立体を作ったり。

司:福岡道雄さんは全然ご存知ないですか。

植松:福岡さんはね……。

司:須磨は出していらっしゃらなかったかな。

植松:いや、須磨は出していましたよ。

司:ですよね。

植松:うん。そのとき1968年ね、福岡道雄さんが出していたのはね、《オルデンバーグからの贈り物》(1968年)という作品やね。木箱で上に芝生があるやつですよね。あ、村岡三郎さんはまだ、もっと彫刻的なやつやね。ヘリコプターみたいな。(注:《VISITANT》(1968年))福岡さんに知り合ったのはその後、信濃橋画廊(注:大阪の画廊。1965年にオープンし、2010年に閉廊。)を観に行っているときですね。福岡さんの個展で、気球というかバルーン、ピンクのバルーンがぶら下がってるの。あの個展は観ましたよね。あの個展のときに覚えているのは、レールの上からぶら下がっているのもあって、動かせるんですよね。動かしたら怒られた(笑)。怒られたというか、勝手に直してはったからな。ふっと動かしたのを見て。あれが1968年か67年か。

司:信濃橋は大阪の画廊ですよね。その頃、京都にも行ってらっしゃいましたか、画廊を見に。

植松:京都も大学のときから行っていましたね。僕はやっぱり大学のときから現代美術にものすごい興味がありましたよね。「現代美術の動向展」とか、1968年だったか、そういうのも観ているし。(注:「現代美術の動向展」、京都国立近代美術館。開館の1963年から1977年にかけて11回開催された。)そういうときにギャラリー16に行ったりして。ギャラリー16でやっぱり覚えているのは庄司さんの作品。

司:庄司達さん?

植松:うんうん。四角い枠を組んで、ハンカチがこうピヤーッと紐で括られてぶわっと引っ張られて浮いている作品。こんな簡単なことでいけるんだなと思って。これはなかなかいいなあと思って。作品がすごい良かったですね。それで、このギャラリーいいなあと思って。個展をするんだったらこのギャラリーだなと思って。

司:それは学生の頃にそう思っていたんですか。

植松:そうですね。だから大学を1969年に卒業して、箱根の彫刻の森美術館の「現代国際彫刻展」に出して、それでその後すぐ個展をするんですけど。箱根の彫刻の森美術館に……

山下:1969年の第1回目に出されて、入選していますね。

植松:そうですね。第1回のいちばん最初の個展がギャラリー16ですよね。ギャラリー16の井上道子さんに電話して、無理やり「9月の初めくらいから個展をやりたいんですけど、取ってもらえますか」と言って。そしたら「うん」とすぐ取ってくれたんですよ。(注:「Transparence-H2O」、ギャラリー16、京都。)

司:そうですか。なかなか大学を出たてで、普通はできないですよね。ギャラリー16とは当時関係性はありましたか?

植松:そのときは面識なしで電話をしましたね。

司:(ギャラリー16は)結構厳しかったんじゃないかなと思って、セレクションが。やりたい人はいっぱいいるけど。

植松:電話ですぐにオッケーをくれたかどうかは分からないですけどね。それで、すぐ取ってくれて、やらせてもらいましたけど。

山下:個展のお話の前にもう少しだけ、幼少期とご家族についての話を聞いてもいいですか。

植松:だから親父がそういう仕事をしていたでしょう。

山下:はい。植松さんが大学のときに抽象的なものを作り出す。そういった作品はお父さんやご家族の方は観たりされていたんでしょうか。

植松:そうですね。観ていましたね。親父はすごい好意的でしたね。おふくろも好意的だけど、「分かる絵を描いて欲しい」とか言っていましたね(笑)。「お花を描いて欲しい」とかそういう感じで。それでも、一番初めに箱根の彫刻の森美術館の「現代国際彫刻展」に入選したときは、箱根まで両親で観に行ったりしていますけどね。

山下:弟さんは? 弟さん(植松永次)も陶芸家ですけど。

植松:弟はね、そう。

山下:喋ったりしていたんでしょうか、「彫刻やり始めたんだ」というように。

植松:そうですね。弟は僕の2年下なんですけど、大学入って作品をつくり始めたり色々ともうしていた時期ですね。弟は2年くらいして、大学を受けるときに、また急に芸術大学に行きたいと言い出したんですよね。また同じようにそういうの(父親が仕事をする様子)を見ているからね。やっぱり仕方ないよね。他の世界を知らないからね。それで、親父は「構わないよ」と言うて。これはどういうことなんやろうと思って(笑)。まあ、僕は長男だから。奎二の二は次男なんやけど、長男が生まれてすぐ亡くなっているので、だから奎二の「二」で、それで弟は三男になるんだけど、戸籍上は。だけど二男みたいなもんやから永次の「次」で。それで弟は芸大を受けるんですけどね。それでもう何年も浪人するんですけどね。だからそういうかたちで家族全部が、姉も絵は上手かったし、色紙に日本画みたいなものを描いたり、別に趣味でずっとやっていましたよね。それを小さいときからずっと見ていましたね。姉は10歳くらい違うんですけどね。

山下:少し戻っていきますが、美術を意識するようになったのは、お父さんがそういう印刷の関係のことをされていたということがありますか。そういう家族の影響、お父さんの様子とかを見て、絵を描くことがどんどん好きになっていったっていうのはあるんでしょうか。

植松:そうですね。やっぱり小さいときから絵が好きだったですね。道端にも蝋石でずっと絵を描いて、ロケットの絵を描いたり、ずっと。昔はあまり車も通らなかったですからね。どんどん大きい絵を描いて遊んでいましたね。

山下:幼少期は、小学生の時は、絵を描かないときには兄弟やお友達とはどんな感じで遊んでいたのでしょうか。スポーツはされましたか?

植松:スポーツはあんまりできなかったですよね、僕は。

山下:ほとんど絵を描いていたりして。

植松:いやいや、そんなことはないですよ。模型を作ったりするのは好きだったです。それで『子供の科学』(誠文堂新光社)という本がありますでしょう。今もあると思うんですけど。それが毎月送られてくるのが僕の愛読書だったですよ、もうずっと。だからそれも仕事に全部関わってきているわけですよ。『子供の科学』は本当に愛読書でしたわ。それでいつもオマケがついているんですよね。そのモデルをつくるでしょう。それで科学的ないろんなことがあるでしょう。そういうのがすごい興味がありましたね。『子供の科学』は愛読書だったなあ。

山下:割と自宅でこつこつとやっている子どもだったというような。

植松:ああ。

山下:外でワーッと遊ぶということではなくて。

植松:粘土で象さんを作ったり、いろんなものを作りましたよ。木でこんなモーターボートの小さいのを作ったりとかね。そういうのをよく作っていましたわ。

山下:弟さんも一緒に?

植松:弟と一緒に作っていた覚えはあまりない(笑)。

司:お話をお聞きしていると、画工さんは描くだけではなくて、切っていって、彫る作業っていうんですかね。

植松:そうですね。だから親父も明治生まれでしょう。親父の昔のノートとかを色々と見たら、絵を描くだけではなかったんですよね。いわゆるコピーライターみたいな、広告の文章まで考えていましたよね。そういうのもやったりしていたんやね。いろんなことをやっていたんやね。切ったり、彫ったりはなかったですね。

山下:絵を描くだけではなくて、作るのが好きだったということもあって、高校では美術クラブでデッサンを習いましたけど、大学に行き周辺の情報も入ってくると、より作る方にも関心が生まれていったという流れになるのでしょうか。

植松:そうですね。小さい時は絵を描くのも好きでしたけど、今思い出すのは、将棋の駒みたいな木切れがあるでしょう。それからものすごい小さいモーターボートをいかに流線的に彫るかというのを考えて彫ったりしていたことを覚えてますわ。何個もつくって、流線的な綺麗な形を作ってね。それを思い出すね。一生懸命磨いて。小さい時は怪我が絶えなかったですね。ノコギリで足を切ってしまったりね、しょっちゅうやってたね。

司:工具とかが割と身近にあったわけですね。

植松:工具いうか、ごく簡単なやつやね。ノコギリとかノミとか。それはありましたね。

司:美術雑誌を読むのはもっと大きくなってからですよね。『美術手帖』とかですかね。

植松:そうですね。『美術手帖』はやっぱり大学…… 高校の時も見たんかな。分からへんですけどね。高校のときは美術クラブで具象の絵を描いてましたからね。

裕子:さっき須磨の《位相−大地》とか、日本の作家さんのお話をしてくださいましたけど、美術雑誌とかを読んで、海外の作家さんでこの人は面白いなというのはありましたか。

植松:大学の時に覚えているのは、面白いと思ったのはイヴ・クライン(Yves Klein)とかね。だからその頃のノートにはタイトルに「モノクローム」って書いてましたね(笑)。雑記帳みたいなものの表紙は「モノクローム」とか書いてましたわ。

司:けっこう前からスケッチとかアイデアメモとか、どんどんされるんですね。

植松:ああ。

裕子:ミニマリズム系の作家は美術雑誌でご覧になっていましたか。

植松:ああ。いちばん最初好きになったのは、(パブロ・)ピカソ(Pablo Picasso)よりも僕は(パウル・)クレーの方が好きでした。高校時代には(ピエト・)モンドリアン(Piet Mondrian)も好きでしたけど、やっぱりクレーの方が好きでしたね。だから学生の頃のペインティングというのはクレーのような感じの。

裕子:抽象的なフォルムにいかれるんですね。

植松:ああ。

山下:上下左右が関係ないような感じですね。

植松:ああ。彫刻はね…… それでまた思い出したのが科学者の話で、もう名前は忘れてしまいました。5次元、6次元。科学者の女の人が、いわゆる「あなたにとって小さいときからの本はどんな本でしたか」って訊かれてた。名前、何だったかな。結構フェイマスな人ですわ。(注:リサ・ランドール(Lisa Randall、1962年生まれ)のこと。アメリカ出身の理論物理学者。)

山下:女性ですか。

植松:うん。それで『不思議の国のアリス』とその女の人が言うわけですよ。その話を読んだとき、僕は何やろうなと思った。ここにもあるんですけど、大学のときだと『近代彫刻史』。

裕子:ハーバート・リードですか(Sir Herbert Read、イギリスの美術評論家、詩人)。

植松:うん。リードの『近代彫刻史』。(注:二見 史郎訳、紀伊国屋書店、1965年。原著の初版は1959年。)ちょうどこの間、琢磨(息子)に見せていたんですけど、けっこう高い値段がするんですよね、その当時でも。その本がやっぱり僕のいちばん最初の彫刻に関わる本だったような気がする。ヘンリー・ムーア(Henry Spencer Moore)から(アルベルト・)ジャコメッティ(Alberto Giacometti)とか、そういう感じでしたね。

山下:それでプライマリー的な彫刻を。

植松:なんで彫刻をやり始めたかと言ったらね、いわゆるペインティングの場合は大きさが限られていたんですよね。何ていうんですか、100号とか200号とか言って。

山下:出品するときに規定がありますからね。

植松:ただ彫刻になってきたらなんぼでも大きいのができたんですよ、作ろうと思ったら。大きいペインティングは描くのがものすごい大変だったしね。やっぱり彫刻というのは空間的でしょう。周りからずっと観れることが出来てとらえやすいし。それで僕は立体が向いてるなと。自分のなかでこれが好きやなと思った。それを思い出したのが大学3年生の終わり頃かな。

山下:ちょうど須磨離宮が始まって、外で大きく彫刻を展示できるような環境にもなってきて、すごく刺激があったということでしょうか。

植松:そうですね。今でも思い出すのは、大学4年生のときに教育実習があるんですよ。そのとき、実習生が最後に生徒にメッセージを書いて、それが印刷されて皆に配られるみたいなのがあったんです。そのときに僕ね、「僕は将来、国際的な彫刻家になる」と書いていたんです。

一同:すごい。

植松:ずっと覚えてるわ、今でも。

渡辺:偉い。すごい。

裕子:実際になりましたしね。有言実行(笑)。

山下:オリンピック選手と一緒ですね。

渡辺:ねえ、オリンピック選手みたい。へえ。奎ちゃん、そんなこと思ってたん。

植松:ああ、書いてたな。

司:教員免許を取られて、採用試験も合格して、実際にお勤めはされたんですか。

植松:それで京都芸大(注:京都市立芸術大学の略称)に落ちましたでしょう。やっぱり学校の先生になるわけですよ。それで小学校の先生になったんですね。それで大学の先生が松本宏先生で教員採用試験を受けるときに「植松、小学校へ行け」と言われたんです。絶対、小学校の方がいいと。中学校へ行ったら担任も持って色々と大変や。小学校だったら自分の仕事ができる、絵を描けると。

山下:担任はなかったんですか。

植松:うん。それで僕は教員採用試験のときに、小学校に行きたいと言ったんです。幼児教育からちゃんとやらないとあかんとか言って(笑)。実際にそうなんですけど。そうしたらやっぱり通るんですよね。皆、中学校や高校の先生になりたいから。それでもうひとり、岡田淳ちゃん(児童文学作家)といって同級生で童話を書いていて今すごいんですけど、彼も同じように小学校を希望するわけです。それで2人とも小学校に行って。小学校に入ったときに岡田淳ちゃんと、2年で辞めようなという話をしたんです(笑)。「先生は2年やな」と言って。

司:ちなみにどこの小学校ですか。

植松:浜山小学校というところ。

池上:どの辺りですか。

植松:兵庫区なんですけど、兵庫駅からずっと南のほうで、和田岬の辺ですね。だから下町だったんですけど。それで2年したときに兵庫県立神戸工業高等学校のデザイン科の先生が、自分が辞めるから後に来えへんかいう話になったんです。その先生は神戸大学の非常勤でデザインを教えに来てくれていた先生なんです。僕が小学校の先生になったのを知ってて、来えへんかと言われたけど、「僕、デザイン教えたことないんですよ」という話をするわけですね。そうしたら「いや、こういうのは見本があるから、こういうふうにやっとけ」と言われて。皆ええかげんなことやってる(笑)。それで2年して、兵庫県の採用試験を受けるわけです。夏の途中の採用試験です。もう通るのは分かっているんだけど、一応試験は全部やらないとあかん。デッサンからペーパーテストとか。それで高校に行くんですけど、4年くらいで辞めたんです。

司:ドイツに行かれるまでということですか。

植松:そうですね。ドイツに行く前の年です。

山下:先生をしながら個展をなさっていたということですね。

植松:そうですね。だから大学を卒業して一番最初の1969年、箱根の彫刻の森の「現代国際彫刻展」に出すんですよね。最初はもう学校に行くのが嫌で嫌で仕方なかったんですよ。小学校に勤めに行くのが。大学にいるときだったら場所がありましたでしょう。学校で作品をつくることもできたけど、卒業をしてしまったら場所がない。まあ、勤めたらちゃんと学校の先生をしないとあきませんしね。嫌で仕方がなかったんですけど、おふくろに毎日起こされて「行きなさい」とかって言われて、「今日は学校休みや」とか言うと「嘘言いなさい」とか言われて、それで学校行ったりしていたんです。それでまあ、悶々としていたわけです。それで神戸大の斎藤智さんが箱根の彫刻の森に出すというので作品を作っていたんですよね。そのときに鉄工所の人に頼んだんですよ。その鉄工所の人を(斎藤さんが)飲みに誘って、僕も一緒に行って、そのときに違う鉄工所の人が来ていたんですわ。鉄工所の社長さんが。色々と話しをしていて、「僕も本当は作りたいものがあるんだけど、こんな作品や」と言って、箱根に出した、鉄線をずっと張っているやつですけどね。最初の頃の《透視—鉄(Transparence-Iron)》(1969年)いうタイトルの作品。そのアイデアを言うたわけですよ。3ミリくらいの鉄棒をジャングルジムみたいに組むんですけどね。そんな溶接の技術なんて全然ありませんしね。そういうのを作りたいなと思っていたんですよね。それでその話をしたら「そんなん作ったる」と言うんですよ。作ったると言われて、わちゃあと思って。その明くる日にその鉄工所にすぐ飛んで行くわけです。兵庫区の学校の近くだったんです。

裕子:ありますよね、神戸はたくさん鉄工所が。

植松:ああ。それで飛んでいって。「こういうアイデアでこういうの作りたい」と言って、「ほな作ろう」って、作ったんです。3ミリの鉄棒を何本も買って、それをずっと鉄工所の所員さん、1人、2人、あと手伝いの人が2人来て、4人くらいだったかな。手伝ってくれたんです。だからこれが僕が大学を卒業してからの一番最初の作品ですよね。

司:当時から皆さんそうやって手伝ってもらって……。

植松:(作品集を見せながら)これです(『Keiji UEMATSU』、Nomart Editions, Inc., 1991年、p.15。以下『Keiji UEMATSU』と表記)。これは一番最初の個展(注:《Transparence-H2O》ギャラリー16、1969年。)ですけど、順番はこっちの方が先なんですよ。

司:これはどうやって持って行ったんですか。運搬はどうしたのでしょうか。

植松:箱根の彫刻の森美術館の「第1回現代国際彫刻展」はコンクールなんですけど、いわゆる現物なんですよね、全部。だから関根(伸夫)さんもステンレスの角柱を持ってきて、現場で、明治神宮公園だったっけ、そこに搬入して石を置くわけです。高松次郎さんも(一般応募で)コンクールだったですよ、波の柱の作品。三木富雄もコンクールやった。アルミのチューブみたいなモチーフの作品。それで結局どうやって運んだかと言ったら、木枠ですね。中が透けている木枠を全部自分で作って、国鉄(注:JRの前身)で運びましたね。

司:これは一辺どれくらい?

植松:一辺ね、2メートル。

裕子:国鉄の貨物列車ということですか。

植松:そうです。貨物列車です。

司:結構、費用がかかりますよね。

植松:JRの神戸駅までトラックで持って行ったのを覚えていますね。神戸駅で搬入して、それから向こうでまたトラックを頼んだのかな。それで搬入場所まで持って行って、それで開いて開梱していたら、皆箱を潰していきよるわけですよ。僕なんかね、これで落ちたらどうすんのと思って(笑)。箱をずっと端のほうに置いておいてね。落ちたら持って帰らなあかんでしょう。だから箱をずっと端のほうに置いといて。それでコンクールは400点くらいだったかな。それで40点くらい入選するんですよ。最初から40点くらいと言われて。それでずっと観ていったんですよ。自分で観ていって大体分かるでしょう、これは通りそうだって。数えていったら、僕は絶対40番に入ると思ったんですよ。これは通るなと思って。それで飛行機に乗って帰ったんです(笑)。

裕子:強気に(笑)。

山下:いい話(笑)。

司:箱は潰したんですか。

植松:箱はそのまま置いといた。まだ落ちるかも分からないし(笑)。

山下:鉄工所の方が費用面も含めて一緒に作ったということになりますか?

植松:このときね、どれくらいお金かかったかな。ああ、思い出した。鉄工所から出す時にですね、お金は半分を払うという約束はしていたんですよ、最初にね。ところが全然お金がないわけですよ。それで親父に電話したんですよ。親父に電話して「鉄工所から彫刻を出すのにお金を払わないといけないんで、ちょっと貸してくれへんか」。親父にものすごい怒られて「変なことすな!」と言われて、「今日は土曜日やし、そんなお金なんてあれへんわ」と言われた。しゃあないなって。そのとき付き合っていた大学の友達と、あと女の子に電話するんですよ。皆お金を持っているんですよね。

山下:誕生秘話ですね。

植松:「3万円貸してくれる?」と言ったら持って来てくれたんですよ。また違う子にも3万円を借りてね。僕が持っとるお金と足して、それで渡した。

司:だって卒業したてですもんね。そんな貯金もないし。

植松:だからその後、ボーナスが出たら全部持って行ってね。その女の子にはね、借りたお金ね、手形をコピー機で手をコピーして手形や言って「何万円借ります」と言って(笑)。いつまでに返しますとは全然書いてないけど「これ手形」とか言って。いやあ、助かったなあ。だから最初の個展の頃は皆ひどかったですわ。制作をするだけでお金がなかったし、こんな厚いビニールを、全部高周波加工で止めたりしましたわ。(注:《Transparence-H2O》(1969年))二百何ボルトに感電したりして、このへんにビャッと飛んだりしたのを覚えているんだけど。個展の会期中に友達にまた電話をするわけ。「いつ観に来てくれる?」、来てくれると言ったら「ごめん。ちょっと1万円持って来てくれる?」と言って、それでまた皆集めてね。それで井上さんに払っていたな。

司:個展が終わるまでに耳を揃えて払わなきゃいけない?

植松:ああ。

裕子:当時いくらくらいですか。ギャラリーを借りてとなると。

植松:結局ね、給料1ヶ月分くらいだったと思いますわ。3万なんぼしたとちがうかな。

司:1週間で。そうかもしれませんね。

植松:嬉しかったのはね、入選したら、鉄工所のおやじがすっごい喜んでくれてね。僕もビール瓶をいっぱいタクシーで運んで持って行ったよ。「ありがとうございます」と言って持って行った。鉄工所の所員2人くらいいたな。作る時はあと2人、もう日にちがないからと言って助っ人で来てもらったりしたんですけど。あと家族とか子どもさんとか、鉄板焼きを食べに連れて行ってくれた。だからその2年後も同じようにこれ(注:《Distinction》(1971年)、『Keiji UEMATSU』、p.21)を作るんですけどね。

山下:鉄工所さんとですか。

植松:そう。同じ鉄工所で。

裕子:それは何という鉄工所ですか。

植松:谷林鉄工所、長田にあったんです。今どこにあるか分からないけど。(資料を見せながら)これが6メートル50くらいです。

司:どちらに出されたんですか。

植松:これも箱根の彫刻の森美術館。(注:第2回現代国際彫刻展、1971年)だから同じ所で作ってもらって。

司:そのときも半分を出してもらったんですか。

植松:そのときはね、いや、半分くらいは払って、あとはまたボーナスが出たら持って行って、毎月の給料日には持って行ってという感じで払っていたんですね。

司:分割で。

植松:うん、分割で。

山下:アイデアはあったんですけど、たまたま鉄工所の方とお会いしてなかったら生まれていなかったということになるでしょうか。

植松:そうですね。

渡辺:すごいね、その鉄工所のおじさん。

植松:これが最初の僕の出始めですね。これがなかったらずっと仕事は続いてなかったかも分からない。本当に入選したのは嬉しかったです。この時にイスラエルのキブツにいる大学時代の女友達に入選を知らせたら手紙をくれたんです。その手紙にファッションのように時流にながされないでと……。それと毛沢東の言葉を贈ってくれました。革命をなしとげるには3つの必要条件がいる。一つは若いこと。二つはお金がないこと。3つめは無名であること。すべて僕にあてはまる言葉なんですよね。作品をつくっていくことは革命ですよね。この言葉がのちの作家活動のはげみになりました。今も大学で話しを頼まれたりしたとき若い人に良く云いました。力になるだろうと思って。

司:これが最初に作られたということは存じなかったので。ギャラリー16の方が最初かと思ってたんですよね。

植松:はい。こっち(注:第1回現代国際彫刻展(1969年)への出品)が先です。

司:最初から鉄だったんですね。

植松:ああ。それで結局、これは《透視—鉄》(1969年)というタイトルをつけて、ギャラリー16でもコンセプトは同じで、《透視—H2O》(1969年)という形でやって。それでまあ、《透視》でネットを使ったりして、そういうかたちで《透視》シリーズというのを最初やったんですよね。

司:ギャラリー16の作品はご自分で作られた?

植松:これはね、自分で作るというよりもビニール会社を色々と探して。ビニールを作っている所が色々とあるでしょう。そういうのを電話帳で色々と調べて、これくらいの水がものすごい入るのを作りたいと言ったんです。そうしたら「まあ、作ってみようか」と言って。そんなの作ったことないし。一応これ、下のビニールとこういう筒ですね。大分厚いビニールですわ。それを作って、最初、糸と凧紐で全部周りを縫い合わせたんかな。縫い合わせてからじゃないと高周波加工が厚くてかけられないから、高周波加工と言って上下からプレス機みたいなもので溶かすわけですね、両方を。それでひっつけてしまうわけです。そういう形で作って、一番危ないところは僕が持たないとあかんわけですよ。夏ですけどね。これは9月の展覧会で、このビニールとビニールをこうくぐってあるところ、下の鉄板のところに上からプレスみたいに鉄板が熱くて、高周波がビャッと出て溶かすんですけどね。そこを持って、そうしたらピッと汗で滑って感電したりする。それが二百何ボルト(笑)。そういうのを作って結局、これは小学校の先生をしていたから、夏休みで学校が休みでしょう。小学校のトイレって大きいんですよ。空間がすごいあるんです。そこへ置いて水をダアッと入れて、それでテスト。

山下:小学校が現場だったんですね。

司:テスト?!

渡辺:(笑)。

植松:テストをしないとバーンと水がね、出てしまったら。これ何トンか入っているんですよ。1:1:1で1トンですから、1トン以上入ってますからね。

司:ビニール工場の所で作ったものを、学校でまたテストして?

植松:はい。そういうのをやっていたんですよ。

山下:発注して作ってもらうことは、割と慣れたものだったんですね。

植松:そうですね。自分で作れないですからね、こういうのは。だから一緒に作るという感じですけどね。この鉄工所のこの時も一緒に作るという感じです。だけど、こういう溶接というのはかなり難しいんですよね。3ミリの鉄棒の中のところをこういう感じで、もう手が届かないところまで溶接していかないといけない。そういうのは僕の技術では何もできませんからね。だからよくしてくれましたよ。しかも見た目がものすごい軽快で。

山下:こういう鋭い作品の次に、ギャラリー16での最初の個展では、水とか柔らかい形態になるんですが、その構想や形がどのように思い浮かんだのかということをお聞きしたいんですが。

植松:結局ね、これはテーマが一緒なんですね。

山下:テーマがギャラリー16で出されていたということですか。

植松:結局、これが《透視—鉄》(1969年)。これで《透視—H2O》(1969年)。それでこれ(注:『Keiji UEMATSU』 p.16を見ながら)、ネットみたいなやつですね。だから物を見るいうことはどういうことかとか、そういうことからきてたから。それで実際に彫刻を作るんだけど、この彫刻も見る位置によって変わりますよね、空間が。見え方も全然変わってくる。それで鉄のジャングルジムみたいなやつね、そういうのを作ってみようと思った。その次に個展をするときに何をしようかなと思って。もうこのこと(《透視—鉄》)は全然頭から外れていましたね。次に作る時は、「あ、水を使って何かしよう」と。それで結局《透視—H2O》(1969年)に。だから形はもう全然違うんだけど、そういう(コンセプトは一緒である)。

司:ギャラリー16の水は何度も入れたんでしょうか。

植松:そう。井上さんに言っておいたわけ。ひょっとしたらこれはバーンと破裂するかもしれんって。でも「それはそのときやな」と言って。これ、3つやったんですよ。1つはありましてね。もうぐしゃぐしゃに潰れているんですよ。潰れてて、何ていうんですか、この石ころが入ってて。毎日氷屋さんからでっかい氷をね、運んでもらって、氷が1本立ってると。それでもう1つの袋はこれがもう1つあって、それで毎日朝、氷の塊を1個ぼこんと放り込むわけ。浮いてるわけね。それが溶けていくんだけど。それでもう1つの袋は同じようにこうあって、上にこうあるんです。ここ(『Keiji UEMATSU』p.14)。ここに入れる氷は小さいんだけど、氷を入れて、小さい穴が開いていて、氷が溶けてぽとぽと落ちて波紋ができるみたいな。そういうのを作っていたんですよ、これ。

山下:毎回植松さんが氷を持って来ていたということですか。

植松:氷屋さんが持って来てた。毎日頼んで。

司:そうとうお金がかかりますよね。画廊代も要りますけど、ビニールを運ぶのもけっこう重たいから、トラックが要りますでしょう。それで毎日氷屋さんの氷を使って。

植松:これね、床を全部小さい石で覆ったんです。これは石ころで、これは何だったかな、ビニールの水の底にも小さな白い石ころを入れたんです。

山下:ギャラリー16は、ある種登竜門的な場所だと思いますが、その経緯としては、井上さんに自分からお電話をされたということで。電話でいきなり新しい人が来てオッケーをもらえて、さらにこういう水のような実験的なものもオッケーをもらえたということで、井上さんのほうはどんどんやってくれという感じだったんですね。

植松:そうですね。それはもう問題なかったですね。

司:コンセプトは伝えていたんですか。

植松:いや。どんな作品を作るかなんかはまだ。頼んだときに、9月に個展をしたいと言ったけれど、そのとき何をするかは全然考えていなかった。まず個展をしようかなと思って。

司:その頃はまだアンパン(注:京都アンデパンダン展、京都市美術館)とかは出していませんか。その後ですか。

植松:アンパンは1968年から出しました。

司:もう出していたんですか。学生の頃からですね。

植松:そやそや。アンパンに一番最初に出したのが1968年。

山下:じゃあ、(井上さんが)ご覧になっていたかもしれないというような感じですかね。

植松:うん。

司:その頃アンパンはどんなものを出していたんですか。

植松:アンパンはね、1969年のアンデパンダン展は神戸大学の卒業制作ですね。

司:ああ、ベニヤの作品。

植松:そう。ベニヤ板のこうなっとる。壁からこう出とる。そういうのを2つ出しましたね。

司:そしたらその頃から出していた奥田さんとか、出品されていた作家の方たちとはなんとなく知り合っていたんですか。

植松:そうですね。皆会っていましたね。1969年でしょう。1970年のアンパンは何を出したんかな。(資料を見ながら)これは1970年かな。(注:《Transparence-Net》(1970年)、『Keiji UEMATSU』、p.16)

司:ネットですか。そうかそうか、これ京都市美(注:京都市美術館)か。

植松:これ、1970年のアンパン。ネットですわ。1970年のアンパンはね、ネットの《透視》(1970年)のやつと2つ出してますわ。ここには載っていないけれど、バルーンをロープで括って上にぶら下げてた。だから考え方として《透視》というシリーズをやろうとしてて、その後に《コンプレッション》というシリーズをやろうとしてて、そのアイデアがもう出てたんで、両方出していたんやね。めちゃめちゃやね(笑)。

山下:アンデパンダンですからね。

司:コンプレッションはどのへんから閃いたんですかね。

植松:コンプレッションはね、1970年くらいですね。

司:きっかけがあったんですか。

植松:きっかけはね、そうですね、やっぱり1969年、70年、この頃色々と考えていて、セザール(・バルダッチーニ)(César Baldaccini)の作品とかね、あんなのが好きだったんですよ。《コンプレッション》がタイトルについていたでしょう。

裕子:圧縮してますもんね。

植松:圧縮してて。それでその何か物が変形していくとかそういうことに対するすごい興味があったんです。力を加える。力の仕事みたいな。それでコンプレッションというテーマで何かやろうかなと思って。この時代時代の影響というのが僕に、ものすごいありますよね。やっぱり水を作った時代というのは1969年ですよね。68年、69年。それで1970年。あの頃エアアートをやっていた人が色々といるし、関根さんも水を使ったりしていたし、そういう影響というのが僕にもやり出してすごいあったと思います。

司:そうですか。おっしゃっていた最初の《透視》のシリーズとかは、なんとなくこう写真とかね、フィルムとか、ああいう仕事とつながりがあるような気がするんですけど、コンプレッションはその後の、重たいインスタレーションですよね。ガチーンと挟んだりとかですね。なんかそういうコアな部分が既にあるのかなという気がしましたね。

植松:そうですね。

裕子:水も使われているんですけど、元永(定正)さんの水の彫刻とかそういうのはご存知でしたか。

植松:いやあ、そのときはもう知っていたかどうかは分からないですね。それはあまり記憶ないですよね。

裕子:だいぶ前ですもんね。

植松:あのぶら下げている水ね。あれはすごい綺麗な作品ですよね。

裕子:今はまた有名になっていますけど、当時は、昔そういうのがあったということが知られていなかったかもしれない。

植松:だから意識としては元永さんの水よりも、関根さんの《位相》の水のほうが影響があった。(注:《空相―水》(1969年))あれのほうが。コンプレッションのシリーズに移る1つのきっかけいうのが、水の水圧みたいな。変形するみたいな、水で。ちゃんとした円柱つくってるのに、グワアーッとなっていく。そのへんからもあったと思うんですよね、自分のなかで。その当時、水とか空気とか土とか色々とあって、「あ、空気を使うんだったらバルーンやな」とかそういう感じで。それで空気でバルーンをロープで括ってしまうみたいな。最初の頃はロープではなく…… そやそや、さっき言ってた1970年の京都アンパンにネットを出した時に、同じようにバルーンをこうロープで括っているわけですよね。それを会場に。それはアーカイヴがあるんですけどね。それで結局その次に東京で個展(注:「Compression-圧」、シロタ画廊、1970年)をするんですけど、そのときにはもう括るとかそういうことではなく、角材だけでぽっと置いて出すと、そういうふうなやつですね。

司:その頃のバルーンはバルーン工場とか?

植松:一番最初のバルーンは赤いバルーンだったんですけど、それは広告屋さん。バルーン広告をしているところに買いに行ったんですよね。売ってほしいと言って。

司:小売りしているんですね。

植松:小売りはしてないけど、使った後の残りみたいな。まだこれからも使えるやつ。「何に使うんや」という感じで。

司:「何に使うんや」と言われたんですか(笑)。

植松:「作品に使うんや」と言って、「譲ってくれ」て(笑)。それでだからこのときはバルーンを作ってもらったんです。尼崎のバルーン屋さん。それはどうやって調べたんやろ。電話帳か何かで調べたんや思うんですよね。結局、広告のバルーンを作っている所ですわ。そこに直径3メートルくらいのバルーンを作って欲しいと。それでそのバルーン屋さんと一緒に、ビニールも買いに行ったんです。神戸の元町のサトウブラザーズと言ってビニール屋さんなんですけど。そこへ行って「これやったら丈夫なんができるわ」とか言って。(資料を見ながら)このへんは気球ですね。観測用のゴムの気球。それもどこから調べたのか。調べて買ったんですよね、観測用の気球を。(注:『Keiji UEMATSU』、pp.18-19)

司:そういうのを使う時は膨らませるのもコンプレッサーですか?

植松:これね、掃除機ですわ。反対のほうから掃除機の逆噴射です。

司:普通に空気を入れていたんですね。

植松:そうそう。普通に空気を入れて蓋をしたんです。

山下:物の見え方とかコンセプチュアルなことへ植松さんの関心が湧いているんですが、割と個展前後は色々な素材を試しているのでしょうか。

植松:素材を試すという感じではなかったですね。まあ、素材よりもこの頃は、空気とか水とか土とかそういう、何ていうんですか、ガストン・バシュラール(注:Gaston Bachelard、1884-1962、フランスの哲学者、科学哲学者)でもないけど、火とか。火は関係ないけども。

司:元素みたいな感じですよね。

植松:そうそう。そういうところから作品を作っていこうかなと思って、そのなかで、空気だから、空気の形をそのまま使うわけにはいかないから、やっぱりバルーンで形を作るとか、水を入れるとか。

裕子:何か形あるものにしないといけない。

植松:そういう方法で形を作っていこうとしたんやと思う。

裕子:鮮烈な作品だと思うんですけど、ギャラリー16だったり東京での個展では、その反響というか、例えば展覧会評が出たりとか批評家の人にこんなことを言われたとかありましたか。

植松:それはありましたね。

裕子:どのような評がありましたか。

植松:一番最初の水の個展。1969年の9月です。そのときにね、中原佑介さんとかね、皆観に来てくれましたね。中原さんが観に来られたときに「え、なんでここに来られたんですか」と言ったら、「いや、君の個展を見に来たんや」と言われた。

裕子:すごい。

司:それは嬉しい。

植松:その前にも、箱根の彫刻の森でお会いしてます。

裕子:もう話題になってるわけですもんね。

植松:うん。箱根の彫刻の森で、鉄のやつ。

司:そこで批評家の方とかお名前は……。

植松:それで結構観に来てくれたことがありますね。

裕子:作品については何か具体的なことは、コメントとかありましたか。

植松:それは覚えていないですね、はい。

裕子:展覧会評とかはどうですか。

植松:そのときね、京都国立近代美術館に『視る』がありますよね。あれに小さく書いてくれてましたね。写真と。

司:どなたが?

植松:どなたが書いたんだったかな。僕もはっきりとは覚えていないですけど、鈴木健二さんいう人がいて、その人ではないかなと思うんですけどね。毎日新聞にも亀田正雄さんという人が書いてくれました。

池上:鈴木さんは近美の方ですか。

植松:うん、近美の。だからそれは嬉しかったですね。

山下:ギャラリー16は初個展になるじゃないですか。神戸にもギャラリーはいくつかあったと思うんですが、最初は京都のギャラリーに関心をもったというのは、神戸のギャラリー事情みたいなものが、何かあったんでしょうか。

植松:その当時、大学の時から神戸にも画廊はありましたよね。大阪にも信濃橋画廊もあったし。ところがね、僕が見ていたなかでね、京都が一番動いていたんですよね。活発だったんですよ。やっぱり「京都アンデパンダン展」があって、「現代美術の動向展」があって、そういう意味でやっぱり個展を最初にするなら京都やなと。それで京都の中で自分に合う一番いいギャラリーはどこかなと。いい展覧会をずっとしている所はやっぱりギャラリー16だと思って、それで電話したんです。何も決まっていないですよ。まず場所だけ。

山下:やっぱり最初は京都だったんですね。

植松:うん、最初は京都だった。ずっと僕は個展は京都だったんです。1974年くらいかな、信濃橋(画廊)で初めてしたのは。(注:「構造の関係性」、信濃橋画廊、大阪、1974年)まあ、その前にモリスフォームという所でもしたかも分からないけど。(注:「Earth-point-project」、ギャラリーモリスフォーム、大阪、1971年)

山下:「京都アンデパンダン展」はやはり関西では重要な展覧会になっていたと思うんですが、「アンデパンダン展」のことは前からご存じで、「周りもどんどん出しているから私も出さなきゃ」という、そういう位置づけでしょうか。

植松:そうですね。「京都アンデパンダン展」は誰でも出せますでしょう? やっぱり観に行ったのは1968年、自分が出品した頃からだと思うんですよね。

山下:ただその前から存在は知っていて?

植松:知っていましたね。それで1968年、大学の時に出して、1969年くらいからずっとドイツに行くまでの間に、ほとんど毎年のように出していたと思いますわ。

山下:やはり制作者としては目安になりやすい展覧会だったということですか。1年を通して。

植松:あの当時、何ていうんですか、作家連中というのはすごい燃えていましたよね。やっぱり熱気がすごくあって。「京都アンデパンダン展」というのは、自分で好きな場所を取れるわけですよ。一部屋でも取れるしね。それでね、面白かったのは、受付が始まるのが9時かそれくらいだった。9時頃に受付にいる連中というのは、狗巻(賢二)さんにしたって野村(仁)さんにしたって、河口(龍夫)さん、僕、もうメンバーが決まっていましたよね。彼らと一緒に僕も同じように入るんだけど、入ってババーッと場所を取ってまうわけですね。「僕の展示場所ここ!」とかね。皆早かったですよ。早い者勝ちですから。その当時によくやっていた連中というのはそういう感じで。僕なんかもう神戸から行って、そんな感じですね。

山下:「京都アンデパンダン」は途中の1972年前後に「京都ビエンナーレ」として、さらに規模あるいはステータスを上げるんですが、「京都ビエンナーレ」は中原さんなども来られていたと思うんです。そのようなインパクトといいますか、作家さんにとって「京都アンデパンダン」や「京都ビエンナーレ」という存在はどのような感じだったんでしょうか。

植松:1970年の京都アンデパンダン展は、やっぱり1970年の中原さんの毎日の「東京ビエンナーレ」につながる展覧会でしたからね。(注:毎日新聞社主催、「第10回日本国際美術展(通称、東京ビエンナーレ):人間と物質」)やっぱり皆頑張っていましたよね。中原さんも峯村(敏明)さんも一緒に観に来て、ずっと回ってたからね。

山下:針生(一郎)さんも?

植松:うん。

司:では現代展とか国際展はそういう流れで出品されたということになりますか。

植松:そうですね。やっぱり中原さんは野村さんのを観て、狗巻さんのを観て、「東京ビエンナーレ」の出品を決めていったわけですよね、あの時点でね。やっぱりそういう感じですよ。

山下:やはり前衛的な作家にとっては「京都ビエンナーレ」や「東京ビエンナーレ」は出したいという存在でしたでしょうか?

植松:いや、ビエンナーレに出たいから「京都アンデパンダン」に出しているのではなくて、やっぱり「京都アンデパンダン展」いうのは重要な展覧会だったということですね。個展以外にある重要な展覧会。その他に「毎日現代展」(注:毎日新聞社主催、「現代日本美術展」)のコンクールとか、何ていうんですかね……。

山下:「毎日現代展」や「毎日国際展」。

植松:そういうのがあるけれども、それとは違う展覧会として、その当時やっていた連中が皆出品していましたね。いい作品をいっぱい発表してた。だからやっぱりものすごい重要な展覧会だったと思うんです。

山下:当時のお話を聞きしたいのですが、京都アンデパンダン展(1973年)のときに、この写真の作品を出されたんですが、この写真で出そうと思った背景や構想について教えていただけますか。立体ではなく写真を出品された。(《Horizontal position》《Vertical position》《Right angle position》、1973年、『Keiji UEMATSU』、pp.45-47)

植松:これは1973年の作品なんですけどね。1973年の京都アンデパンダン展のときに何を出そうかなと思ったんですよね。1972年くらいから写真の作品はもう作っていたんですよ。(資料を確認しながら)これのほうが1972年なんですよ、体を使ってやってるのが。(注:《Construction of space relation-Man/Tree/Rope》(1972年、『Keiji UEMATSU』、pp.48-49)それでいろいろとやっていて、1973年の京都アンデパンダン展のときには写真を使おうと思った。1972年にもう身体を使ってやっているので、自分の身体を使った写真で作品を作ろうと。1つ部屋がありまして、そこに部屋の番号を打っているんですけど、出入口が3つあるんですよ。「あ、この3つで何ができるかな」と思ったんですよね。今思ったら入口が2つの部屋もあるんですね。ところがその部屋は3つあったんです。それで「あ、水平、垂直、直角でいこう」と思ったんです。

山下:直感的な。

植松:はい。《水平》《垂直》《直角》、この仕事をするんですけど、この前に1971年にこの仕事をしているわけです。(資料を確認しながら)これは東京の都美館(注:東京都美術館)の彫塑室。「現代展」(注:第10回現代日本美術展)のコンクールに出したやつです。(注:《Cutting》、1971年、『Keiji UEMATSU』、p.23)

山下:1971年の。

植松:それでこれが水平で、直角で、ジャッキで上げて。楔がこう。これはもう僕の作品の原点みたいな感じです。

山下:結構インパクトが強いですよね。

植松:力を加えることによって楔とこの角材が一定になっていると。何というか、1つの全体的な構造とか存在とか関係を維持しているものは何なのか、それを崩させるものは何なのか。そのへんにすごく興味があったんですね。だから楔が1個外れると全部崩れてしまう。ジャッキの力が外れると全部落ちてしまう。これは水平、垂直ですわ。T字型で。彫塑室の柱と柱の間でやったんですけど。その前に結局ここ(資料)には載ってないんですけど、ギャラリー16でこれを先にやるわけです。もっと太い角材で、30センチ角の角材で、1つの部屋にT字型を。T字型とこの楔でもってるやつを。もう1つは木だけあるんですけど。それを都美術館の彫塑室展示場で組んでやるんですけどね。だからこれと同じ考え方で、人間の身体を使って何ができるかと考えてやったのが、こっちの写真の仕事なんですよ。それでこれが1つのドアで水平。それから垂直。ジャッキの代わりに僕が立って持ち上げる。次がは直角で、両サイドに押さえると。それをここでやるんです。ところが「京都アンデパンダン展」はこういうふうな展示はしてないんですよ。「京都アンデパンダン展」の場合は、入口が3つあって、こっちとこっちという感じで、入っていくのと出ていくのと。壁のところに結局この写真を貼ったんですよね。これくらいの大きさの写真ですわ。何もない壁の横にこれを貼った。反対側の壁にも同じように貼っていった。それで今度、ここの壁のところには角材が置いてあるんですよ。角材が置いてあって、その横にこの持ち上げてる写真が貼ってある。それで反対側のところには僕の顔が見える写真を、持ち上げている写真を貼ってある。

渡辺:その写真はないの?

植松:安齊(重男)さんところにある。全部はないけど、安齊さんが撮っている。安齊さんの写真の記録があるでしょう。(注:国立新美術館(編)『安齊重男の"私・写・録(パーソナル フォト アーカイブス)"1970−2006』、国立新美術館、2007年、p.34)それに載っていると思う。これもこう持ち上げて、こっちから撮った写真とこっちから撮った写真を壁の横に貼ってある。こういう形(写真のみの3作品として)で発表したのは、その後の「ジャパン・アート・フェスティバル」で、大きく写真を焼いて1974年に発表したんです。それで《水平》《垂直》《直角》で作ったんです。(注:「ジャパン・アート・フェスティバル」の主催団体は社団法人国際芸術見本市協会。通商産業省の認可団体として1965年6月に発足した。第1回は1966年3月にニューヨークで開催された。1978年まで毎年開催され、全米とメキシコを巡回。またその都度、東京国立近代美術展で国内展示会(日本芸術祭国内展)が開催された。)

裕子:それはお聞きしないと分からなかったですね。

司:逆向きだったとは。

植松:このとき面白かったのはね、これはものすごく重たいんですよ。ぎりぎり着かないとあきませんでしょう。短か過ぎたら届かないし、長過ぎたら手が曲がってしまうし、だからビタッと切らないとだめなんですよ、角材を。それで持ち上げているんですけどね、持ちきれないんですよ、重さで。

山下:そうですね。アスリートみたいな感じですね(笑)。

植松:友達がこの壁の横に隠れているんですよ、ここでも。その時に、もう持ちきれないから僕は後ろに放ってしまうんですよ。それで逃げるんですけど、そうしたら床にぼこっと穴が開いてね、京都の美術館に。穴が空いた跡にちょっとこの角材を置いておいて、分からないように(笑)。平野(重光)さん(注:京都市美術館学芸員、当時)にばれないようにしていたんだけれど、帰るまでには言わないとあかんでしょう。「すいません、ここ壊れてしまいました」って。「植松さん、これは直してください」、弁償してくれたらいいって言うんです。えらいこっちゃと思って。でも大工さんって上手に部分的に綺麗に直すもんやね。美術館の大工さんかどうかは知らないけれど、美術館の板をちょっと外して、綺麗にカンナがかかって直っていたんですよ。だからこれなんかはパパッと周りから出てくるんですよ。それで持ち上げてくれるんですけどね。このときに1つ自分で面白かったことは、水平の作品、ここに上げる時には持ち上げてもらっているわけです。それでここが突っ張っているわけですけど、下りるときに持ってもらうんだけども、持ってもらう前に自分の力を緩めたんですよ。そしたらね、面白い。足から下りるね。自分でもそれが不思議で仕方なかった。ドーンとは落ちなかった。くっと曲がったね。

司:それはやってみないと分からないですね。

植松:子どもやな。

山下:理科の実験みたいな。

植松:この当時、立体をするのと写真をするのと同じように並行で皆やっていたんですよ。だから立体作品だけでなく、写真とビデオとフィルムと、アクション、パフォーマンスみたいな、自分の興味があることをもう何でもいいから…… もう何でもいいからというのはそうでもないんだけど、自分の興味があることは全部やりたいみたいな、そういうかたちでずっとやっていて、途中でやっぱり違うなということで立体になっていくんですけどね。それでいろんなことをやってたんです。

司:当時ビデオとかフィルムとかもそれなりに高いものでしたよね。

植松:そうですね。あの当時の作家というのは皆やってましたよね。これはインターナショナルにそうですよね。同時性というのか、もういろんなところで1968年、69年くらいから、現代美術の作家はインスタレーションをやっていたり、そんな連中は皆フィルムの仕事もやっていて。だから1つのメディアとして、フィルムで何ができるかみたいな。だから僕のなかでも、立体じゃできないけれどフィルムでできることとか、写真でできることがあるんじゃないかとか、そういうかたちでいろんな仕事をしていたということですね。

司:機材はどなたが持っておられたんですか。

植松:僕は機材はエルモの8ミリのカメラを買いましたね。

司:ご自分で買われたんですか。そうですか。

植松:シングル8ではなく、ダブルのそういうのを使っていましたけど。まあ、中古ですけどね。映写機は買わなかった。小学校に勤めていたから、そこの映写機を使っていた。だからいろいろと面白いことがある。こういう、何ていうの、ロープがあるでしょう、太いの。これはデュッセルドルフの1974年「伝統と現代」という展覧会に出したんだけど、このロープは小学校の運動会のロープですわ。(注:《Compression》、1974年、『Keiji UEMATSU』、p.18,20)

山下:拝借して(笑)。

植松:ちょっと借りて。黙って借りているんです(笑)。この当時はお金がないでしょう。この板(注:《cause for action(作用因)》、1973年、『Keiji UEMATSU』、p.30)、こういうのも使うでしょう。この板を使って、展覧会が終わったら返ってくるでしょう。そうしたら家で本棚を作っていました。こっちとこっちの壁の間に斜めに渡して、ここをこう渡して、こう渡したら、本棚ができるじゃないですか。そして次の展覧会のアイデアが湧いて、こういうふうに3枚をジャッキでバイスで止めて(注:《Range-Threewood board(連)、『Keiji UEMATSU』、1973年、p.31》、万力で止めてとか思ったら、これはまた同じ板ですわ。これを持って行ってね。まあ、順番にずっと使っていました。

山下:この作品とか、撮影はそうしたら友人ですか。(注:《Stone-Rope-Man》、1974年、ロープを植松さん自身が回している写真について。)

植松:これは僕の友達です。カメラマンですけどね。藤原保之さんという人ですけど。同年代ですけどね。この写真がすごくいいのは、彼が(ページをめくって)これもそうですけど……(注:《Horizontal position》《Vertical position》《Right angle position》、1973年、『Keiji UEMATSU』、pp.45-47、京都アンデパンダン展での作品について)結局僕はカメラのことは分からないから、普通に僕がやっているのを撮ってくれると思ってた。ところが彼は「その後ろを真っ黒にしたろうか」と言ってくれたんです。後ろを。普通ではこういうふうには写らないんです。真っ黒には。「真っ黒にして」と言ったら、「できる」と言って。面白いのはね、この45度というか、ここにこう線が入ってますでしょう。こっちからフラッシュを焚くんですよ。それで反対からも同時にフラッシュを焚くんです。シャッターを切ったらフラッシュが飛ぶ。それでここに線が入って、影ができて真っ黒になる。ところが反対からもフラッシュを焚いているんですよね。それがどのようになっているのか分かりませんけど。だけど、そういうことで真っ黒な写真ができたんです。だから割とドラマティックです。だからここの場合はあまり効かなかったんやね、フラッシュが。皆がセッティングしている時の様子が写っている。

裕子:写真としてすごく強い表現になっていますよね。

植松:(『Keiji UEMATSU』のページをめくりながら)だからこれはカメラマンに撮ってもらって。その僕の身体を使ってというのもみな、この同僚ですわ。工業高校のデザイン科で写真の先生(注:伊東和彦さん)がいて、その写真の先生にみな頼んで撮ってもらった。

山下:「今からするから撮ってくれ」と?

植松:うん。「こういうのをするから撮って」と言うて。だからこの線がピッと上がってあるでしょう。(ページをめくりながら)これにはないな。こういうのも全部…… モータードライブというのがまだないですからね、この頃。1973年、74年だから。だから本当にシャッタースピード、パチッパチッチッと撮ってくれたんです。

司:当時は手作業で連写するんですね。

裕子:上手ですね、そうしたら。

植松:今だったらこんなの簡単に同じ角度でできるけど、ほとんどバシッバシッと。

山下:この「(京都)アンデパンダン」のときはいろんな仲間、現在の著名な作家さんがいらっしゃいますが、お互いの作品をいろいろと言い合いながらのような展覧会になるんですかね。集まってくるので、皆。

司:搬入のときとか、皆さんでいらっしゃって。

山下:批評のような。

植松:搬入のときは皆ひどいですよね。

司:ひどいですか(笑)。ぼろくそ言い合いですか。

植松:ぼろくそじゃないけど(笑)。例えば狗巻さんと一緒にやっていたときは、このネットを作った部屋ですね。その隣りで狗巻さんは紙のプールみたいなのを作ったから。そうしたらもう既に何か針金のでっかい作品が来ていたんですよね。もう2人で蹴ってましたね。「これ邪魔やな」とか言って。今から思うとむちゃくちゃや(笑)。バーンと蹴ってよけてしまって、真ん中にあるからよけてもらって、それで作ったりしてました。壁面には野村仁さんのドライアイスの写真がありました。

山下:中原さんが来たりとか?

植松:してましたね。だけど中原さんは別に作品についてどうのこうのとか、全然そういうのは言わなかったです。あといつも「(京都)アンデパンダン展」の後は中原さんと喋ったり、懇親会みたいな、作家と何かの会で喋っていたと思うけど、何を喋っていたかは全然覚えてない。

山下:でもやっぱりそういった、集まって飲みに行ってということはあったんですね。

植松:「アンデパンダン」の後に飲みに行ってということはなかったですね。そりゃ個人的には飲みに行ったりしていましたけどね。

山下:では設営で皆が集まって、そして割と長い期間展示していることになりますが、仲間同士でちょっと集まったりしながら、そして搬出していくというような流れになりますか?

植松:そうですね。この当時ね、同じように「(京都)アンデパンダン展」をやっていた連中、狗巻さんにしたって野村さんもそうだけど、そういう連中で、「すっかりだめな僕達展」(京都市美術館、1971年)とかね、グループ展をやったりとか。そういうのはよくやってましたね。

司:当時は万博の頃ですよね。どういう感じでしたか。「アンパン」の方は結構関わられていましたよね。

植松:1969年でしょう。僕はね、万博の「現代国際彫刻展」でしたっけ、あったんですよ。(注:正しくは「国際彫刻鉄鋼シンポジウム」。会場の人工湖周辺に作品が設置された。)あの周りに。若林奮がショウジョウバエの何かで地下に埋めたりとか。他、福嶋敬恭が作品を並べたり、高松(次郎)さんがしたり、いろいろな作家が万博にね、彫刻に参加しましたよね。(注:福嶋敬恭《BLUE Intervals》、1970年)僕はあのときアシスタントをしていたんですよね。アシスタントと言っても公のアシスタントではなかったんですけどね、ハインリッヒ・ブルーマック(Heinrich Brummack)というドイツ人の作家ですわ。彼の作品で《誕生日のためのテーブル》(1970年)というのでね。何ていうんですか、誕生日の時のテーブルというのは、例えばこのくらいのテーブルだとしたら小さいでしょう。子供のときは椅子にちょこんと座っている感じでしょう。だからそれをものすごい大きく作ったんですよ、彼はテーブルと椅子を。そうしたら人間が座ったらちょこんと見えるように。すごい楽しい作品だったんです。滞在中に作っていた作品では、眼鏡を、サングラスみたいなものを大きく立体的につくって、中に金魚が生き生きと泳いでいたりとかね。そういう作品を作っている作家だったんです。ベルリンから来ている作家でした。すごい楽しい作家でした。その人のね、仕事を手伝っていたんですよ。

司:それはこっちに来て作っていたんですか。

植松:そう。皆作家を招待しないといけないんです。ジョージ・リッキー(George Ricky)にしたって、(ジャン・)ティンゲリー(Jean Tinguely)にしたって、いろいろな作家を皆招待していて。それで後藤鍛工という鉄工所があって(注:現在、株式会社メタルアート)。大阪ですけど。そこで皆、作品を作っていたんです。

司:鍛工ですか。

植松:鍛工と言う名前で、鉄工所の大きい所やね。そこで皆作って。飯田善國さんが中心になって。それで外国の作家を皆呼んで、そのときに作った。だけど万博の時は、セッティングには行ったんですけど、万博には行かなかったですね(笑)。「なんや、しょうもない」とかいう感じで、彫刻展だけは行ったんですけどね。

山下:いろいろなパビリオンのほうはそしたら御覧になってはいないのですか?

植松:パビリオンは見ていないですね。

裕子:スピリット的には反万博だった。

植松:そうそう。なんで行かんとあかんのやいう感じでね。

司:アシスタントをされた経緯は、飯田さんとかの紹介でされていたのですか。学校の先生をされていましたよね。

植松:学校の先生はしていました。アシスタントをした経緯はね、後藤鍛工に見に行ったんですよね。見に行ってブルーマックに会ったんです。作品が面白いから「手伝いましょか」というかたちで、それで手伝ったんです。学校の先生をしているからずっとは行くことはできないから、時々行って。それでよく飲みに連れて行ってくれたな。

司:そうなんですか。連れて行ってくれましたか(笑)。

植松:(笑)。僕よりだいぶ年上ですから。

司:そうなんですけど、外国から来て(笑)。外国の作家をいっぱい招待して、そこで制作をしているから皆見に行こうというので行かれていたんですね。

植松:そうそう。ブルーマック、なんか気が合うたんやね。あ、ブルーマックのアシスタントをしている人がいたんです、ちゃんとしたね。その人が京都芸大(京都市立芸術大学)の彫刻を受けた時に一緒に落ちた人ですよ。京都芸大の専攻科を僕が受けた時は結局、9人のうち5人しか通らなかった。京都芸大から受けたのが6人だったんですよ。そのうちの1人が山本さんという人だったと思う。その人がブルーマックのアシスタントをしていたんです。

山下:そこで再会したのですね。

司:大阪だけですか。ベルリンでも?

植松:ベルリンから来ていたんです、ブルーマックは。でも1975年にドイツに行ったときは、ケルンに住んでいて、すぐ訪ねていって、ケルンの美術館や画廊を案内してくれました。すごく興奮していろいろ見たのを覚えています。

司:そうですよね。それでこちらのアシスタントを山本さんがされていて、そこに加わったということですか?

植松:そうそう。ちょうどそのときね、だから宮崎豊治さんもアシスタントをしていましたね。誰のアシスタントをしていたのかな。いろいろな彫刻家が皆アシスタントをしていました。ティンゲリーのアシスタント、誰がしていたのかな。宮崎さんはティンゲリーのアシスタントだったのかな。同じ世代ですわ、皆。

山下:皆知り合いで。

植松:うん。ティンゲリーなんかは早いとこ作品を作ってしまって、すぐ富士スピードウェイか何かを見に行った(笑)。なんかそんなのだったね。だからあんまり万博自体は関係なかったですね。

山下:あとは「毎日現代展」のことや映像関係のこと、そして河口さんのことだけ聞かせていただければと思うんですけれども。

司:ドイツに行く前の話ですね。

山下:「毎日現代展」とか「毎日国際展」というのはわりと戦後の早い段階からあって、最初は美術団体の作家も出していたんですけど、1970年あたりで中原さんが「人間と物質」展をされたり、峯村敏明さんも関わってきて。それで「現代日本美術展」のほうもテーマ展示になってきて、東京の大規模な美術展が少し変わってきている状況があったかと思います。植松さんは神戸、関西の方から見ていて、この「毎日国際展」や「毎日現代展」を中心とする日本の美術の状況をどのように思っていましたでしょうか。

植松:僕はずっと関西で仕事をしていて、1969年くらいから活動を始めるわけですね。大学卒業してすぐに始めるんだけど、東京の状況をそんなに知りませんからね、実際には。一番最初、毎日の「現代展」は1969年ですか、僕が観に行ったのは。

山下:東京都美術館と、京都市美術館にも巡回して。

植松:やっぱり東京まで観に行きましたね。それで1969年の「毎日現代展」を観て…… いややっぱり面白かったですね。面白かったです。いろいろと思い出すんですけど、1969年のときの「現代展」は池水慶一さんが大賞をもらったんですよ。フロンティア大賞。作品は卵を100個くらい、2メートルから60センチくらいまで、卵がステンレスの板みたいなのに貼り合わせた中にあって、《プレイ氏の優雅な朝食》(1969年)というの。それも面白かったし、その当時、高松さんの影の作品があったり、山口勝弘の作品もあったりとか、キネティックアートの作品とコンセプチュアルな作品とごちゃまぜだったけど、結構動きがありましたよね。1968年くらいから「空間と環境」展(注:「空間から環境へ」展、松屋銀座8Fギャラリー、1966年)とか、空間と環境的な仕事と併せてコンセプチュアル的な仕事が出てきたときですよね。だから1969年の時というのは同じように…… 関根伸夫さんが水で《位相》をやっとった時も69年だと思います。円筒の水と、直方体のそれに水を張っていたのも関根さんね。(注:《空相—水》(1969年))だから割とコンセプチュアルな仕事が出ていたんですよね。そういや、高松さんの《題名》(1971年)という作品もそうだったんじゃないかな。ドラム缶の中に赤いペンキが張ってあるの。河口(龍夫)さんの、石に蛍光灯も同じ1969年かな?(注:《石と光》、1970年)

山下:ちょうど1969年くらいから峯村さんが「現代日本美術展」と「日本国際美術展」に関わってきて、従来の絵画・彫刻・版画という部門別ではなく、そういった植松さんのようなテーマ性のある作品が入ってくる時期です。「現代日本美術展」と「日本国際美術展」が面白そうだとか、変わってきているという情報が植松さんのほうにも、観に行かなければいけないというように、入ってきたんでしょうか。

植松:観に行かなければいけないというより、興味があったんですよね。大学を卒業して、学校の先生をしている時ですからね。まだ箱根の彫刻の森のを作っていない時だと思いますわ。

山下:「日本国際美術展」と「現代日本美術展」はちょっと東京まで観に行きたいというような存在だったということですよね。

植松:そうですね。でも中原さんがやった1970年の国際……。

山下:「人間と物質」展。

植松:これは行ってないです、東京にはね。関西でしか、京都でしか観てないです。

山下:京都市美術館の方には行かれた?

植松:そう、観ました。やっぱり面白かったですね。それで1971年の「現代展」(注:第10回現代日本美術展)には僕も出すんですけどね。コンクールで、さっきの柱と柱、T字型のをするんですけどね。あれも入選してすぐに呼び出されたんですよ。これは危ないと言われて。何とかしてくれと。いやあ、何とかしてくれと言われたって、どうしようもないしね。それで場所を変えるかという話になって、都美館(東京都美術館)の中をいろいろ探してたんですけど、別に他の所もでてこないし、「ここでしかできない」と言ったら、「それならもういいです」と言って、1日で行って帰ってきたんですよね。そのまま展示してくれたんですけど。それは71年の「現代展」ですよね。あ、高松さんの赤いペンキの作品は、71年の現代展のときですね。

山下:山下:植松さんは1974年の第11回日本国際美術展にも出されていますね。この時は「複製・映像時代のリアリズム」というテーマで。

植松:そう。それは針生(一郎)さんが関わった。それは僕も招待されて、何ていうんですか、写真とスーパーリアリズムみたいな、そんなのを出したわけです。(『Keiji UEMATSU』、pp.56-57を見ながら)これですわ。1枚から20枚まであって、タイトルが1からずっとあるんですけど。《見ること−風景(Seeing-Landscape)》(1975年)というんですが、これは勤めていた高校の近くにあるバラックみたいな建物の所に行って、僕はカメラをセットして見るわけですよね。見たものをシャッター切るんです。見たものがここのタイトルについているんです。2番目に見たものがこれなんですよ。それで写真はずっと同じように写っているけど、雲が動いているんです。それで、だけどそれだけでは分からないから、フィルム番号も一緒に入れてプリントしたんですけどね。

司:カメラを通して植松さんが見たものがタイトルになっている?

植松:そう。

渡辺:これすごい面白いと思う。

裕子:写真だけど、そのとき自分がフォーカスしていたものが違うということですね。

植松:そう。アイ・ポイントです。それが《見ること−風景(Seeing-Landscape)》(1975年)。この頃同じようにやっていたのが、1974年の立体なんですね。(注:《Compression-Relation of matters》1974年、『Keiji UEMATSU』、p.38)

司:これは何ですか。

植松:「コンプレッション」とか、「リレーション・オブ・マターズ」。物質の関係性みたいなもの。これは結局、鉄の塊で、両方ねじ切りをしているんですよ。ねじ切りをして、両方ネジで締めていくんですよ、もう無理やり。それでいろいろなものが入っているんです。鉄とか紙とかサンドとかいろんなものが。いろいろマテリアルが入って締めていくと。それで表にタイトルだけあるんです。その石とか鉄とか。シルバーまである。ゴールドはないんですけどね、お金がかかるから(笑)。

司:見えないけれど、中に圧縮されて入っていると。

植松:そうそう。同じような時期に写真で《見ること-風景》をやったというか、そういうことをやってたりして。

裕子:やっぱり見ることに対する疑問というか裏切りというか、そういうことがあるんですね。カメラのフォーカスと目のフォーカスが違っているとか。

植松:そうですね。そんなのですよね。

山下:1974年を前後して、「現代の造形」や「フィルム造形」、「映像表現」の方にも参加されますよね。この前「映像表現 '72」の再現展が東京国立近代美術館でありましたが、どういった準備をされたのか、少しそちらの話もお話しいただけますか。(注:「Re: play 1972/2015―「映像表現 '72」展、再演」、東京国立近代美術館、2015年10月6日- 12月13日)

植松:これはね、1972年ですよね。「現代の造形」という展覧会だったっけ。(第5回「現代の造形・映像表現 '72−もの・場・時間・空間」、京都市美術館、1972年)

山下:「映像表現」。

植松:再現展は「映像表現」だけれども、もともとは「現代の造形」。1968年、1969年。それで自主企画みたいな形で、実行委員会と京都新聞が組んでいたんですよね。それで最初は鴨川で立体造形で。(注:「現代の造形・野外造形」、鴨川公園、京都)それで1970年。(注:「第3回現代の造形・フィルム造形 '70」、京都新聞ホール、京都)それでいつ頃からかフィルムになったんですよね。それで72年…… この前にもフィルムの展覧会があるんです。(注:「映像による企画」、京都書院、京都、1972年)

山下:そうですね。

植松:この頃皆フィルムをしていて、元永さんなんかもフィルムをしていたりする、一番最初の71年は。皆やっていたましたね。それで話がかかって、フィルムをやろうかということで。だから70年からフィルムをやってましたわ、うん。

山下:友人から「一緒にフィルムをやらないか」みたいな話でどんどん集まっていったということでしょうか?

植松:そうですね。実行委員会からの話しかけだと思うんですけどね。1970年に最初にフィルムをやったのは。

司:めぼしい作家に「出しませんか」というような?

植松:うん。京都に松本正司さんという人がいて、その人が実行委員会をしていて、それで河口さんとかいろんな方に。だからこの展覧会は河口さんが中心ですわ。その前の1970年、71年は同じようにフィルムを映すんだけど、フィルムを映すだけではなく、皆の作品が1ヶ所に、京都の美術館の彫塑室に並ぶんだけど、結局皆等価であるという、そういう形の展覧会をしました。そういう感じですね。だから同じ頃に、1968年か69年にデュッセルドルフのクンストハレ(Kunsthalle)で「PROSPECT71, Projection」という展覧会があるんですよね、同じように。それは後から知るんですけど、その頃の作品は面白いですよね。マイケル・ハイザー(Michael Heizer)だったっけ。リアルサイズというので、石を本当に、ものすごいロックのめちゃでかい石をリアルサイズで画面にバーンと映すんですよね。そんなのとかいろいろな作家が映すんですよね。だからまあ、この頃同じように世界の同時性というのか、さっきも言ったように、アーティストがフィルムとか写真とか、そんなことに皆が関わっていますよね。関わっていて、ある時期なんだけど、あとすっと皆が関わらなくなってしまっているということがあると思うんですよね。

山下:そうですね。その熱がすごく凝縮しているのが、今から思うとなかなか不思議でもあり魅力なんですけども。

植松:だからこの三輪健仁さん(東京国立近代美術館学芸員)という人が、1972年のをもう一度再現しようかということになったんだと思う。

司:植松さんからご覧になってどんな感じでしたか。形としてはいろいろと、物理的な再現とはちょっとまた違う、展覧会のコンセプト自体をもう一回作ろうということだったと思うんですが、そこで展示されて再現された展覧会全体をご覧になった印象というか。

植松:それは全然、空間が変わってるわけやから、やっぱり全然違うものですよね。だけど何ていうんですか、そのときのコンセプトと熱気みたいなのは通じるんじゃないかなと思う。この時代にこういうこともやっていたんだということがね。1972年のを2015年に観たら、できるだけアナログに、近いようにやっているんだけど、壁面の高さも違うし、違うことは違う。違うけど、まあこれでいいよねと思いましたけどね。この展覧会が面白かったのは、周りに空間を作って、裏側と表側というにドキュメンテーションがずっとあって、中が再現の場であるということが、面白かったですね。

司:それと同時に、植松さんの写真や70年代の仕事も再評価されてきて、作品がTateに入り、MoMAにも入り、いろいろ展覧会にも……

植松:Tateはまだ入ってない(笑)。MoMAは入っているけど。

司:そのような流れといいますか、ムーブメントというのを、今どのように感じていますか。

植松:この間もロンドンのサイモン・リーで新しい仕事と古い仕事、昔の1973年くらいの写真から81年の写真、それから新しい立体の作品と、それを一緒に並べて展示をするんですけど、別に年代もタイトルも書いていないですからね。(注:Invisible Force, Simon Lee Gallery, London, 2016年4月8日—5月6日)その中でギャラリストにも訊かれたんですよね、どう思うんやと。自分で仕事をしていて、その時代時代の自分の考え方があると。今新しい時代の流れがあると。僕の場合は割とずっと同じようにコンセプトが流れていますからね。だから流れているなかで見る人が見たら、「これが古い、これが新しい」を超えているような展覧会にしたいといつも言っているんですね。1973年、74年の作品で、40年前の作品であっても、今のインスタレーションと一緒に並んだ時に同じように発言を持っていて、古いのが40年前だと感じられないと。それでその見る人がひょっとしてこれは40年前だと思っても、40年前の強さみたいなものが今も生きているみたいな、今現在未来、それを超えてあるみたいな。前も言ったことがあるんですけど、過去に思い入れが深ければ深いほど現在は強いものになるし、未来を見つめている感じが強ければ強いほど、今の現在の仕事も強くなる。そういうかたちで同時に発表していけたらいいなと思ってる。だから再評価されることに関して、それは嬉しいですよね、やっぱり。その再評価のされ方というのが、また今の評価だと思うんですよね。結局違っていますよね。昔の時にはこういう評価はされなかったけど、今の時代だったらこういうふうに評価づけされるみたいな感じがあったりして。それはね、よく分かるんですよね。それはそれで、作品を作っていた者にとっては嬉しいですよね。

司:いつ作った作品かに関わらず、今の価値基準で評価されているということですね。

植松:そうですね。だから、再評価されずにぽっと消えてしまうことを考えたら、まあ良かったなと思う。だから仕事をずっとやっていて常に思うのは、そういうことですね。過去・現在・未来みたいな流れのなかで、現在がいかに強いものを発表していけるか、作っていけるかみたいな。(紙資料を指して)僕の1991年のノマルの本なんですけど、このときにコンセプトをここに書いているんですけどね、一応。(注:『Keiji UEMATSU』、p.13)「私の行為とはみえる存在、構造、関係をあらわにみえるようにすること、みえない存在、構造、関係をみえるようにすること。みえる存在、構造、関係をみえなくすること」。見えないものを見えるようにするとか、こういうのは1971年に書いているんですよね。これ1972年になってますけど、71年にもともとフィルムで何ができるかというのを「フィルム造形」のときにパンフレットに書いているんですけどね。だからそれが本当は最初の頃、思いついたコンセプトで、これでずっとやってきたみたいな、それが自分のなかではありますね。

司:1つの仕事をずっとやってきたということですね。

植松:まあ、そんなに重要に考えて書いたのではないけどね。1976年にモダーナ・ミュゼット(注:Moderna Museet、ストックホルムにある近代美術館)で個展した時に、ちょっと文章をカタログに書いてくれと言われて、これを書いたんですよ。するとビョルン・スプリングフェルド(Biörn Springfeldt)といって、そのときのキュレイターが36歳ですけどね、彼が「おお、ええ文章や」と言って、ええ文章なんかなと思ったんだけど(笑)。それからまた使い始めて。そんなことがありますね。

山下:ここまで1960年代から1970年代までの話を伺ってきましたが、関西の作家との交流も確認しておきたいと思います。河口龍夫さんとは1975年に神戸で二人展もされていいますが、河口さんや野村仁さん、村岡三郎さんなど、どういったご関係でしたか。

植松:さっきも言ったように、現代美術に関わり始めて、やっぱり奥田さんが一番最初だったと思うんです。奥田善巳さん。それから河口さん。河口さんとは1969年に喫茶店で初めて会ったんですけどね。箱根の彫刻の森に入選した時ですわ。僕から河口さんに電話をしたのか、河口さんから電話がかかってきたのか、どっちかは覚えていないんですけど、会って話したいということで。それ以後、河口さんは、さっき言っていた「現代の造形」にも関わっていたし、「映像表現」にも関わっていたし、いろいろな所に呼んでくれました。河口さんでしょう、村岡さんでしょう。村岡さんなんかも結構早い時期から知り合いですよね。尊敬する作家ですよね。いい仕事をしていたし。

司:交流的なものはどうでしたでしょう。展示以外で。たまにお会いしたりとか?

植松:うん。1973年の時は河口さんと村岡さんと僕と3人で「映像の影像」というフィルムを作っていましたね。放映時はカラーでしたが残っているのは白黒です。(注:NHKで放映、1973年、NHK神戸、関西圏だけの放映)あのフィルムは面白いですよね。それから堀尾さんとかね。堀尾貞治さん。神戸の作家だったら、宮崎豊治さんとか。皆知り合いでしたよね。それで具体の人だったら元永定正さんとか。村上三郎さんとか。どこかで展覧会が一緒になったりして、あと飲みに行ったりとかいろいろして、どんどん知り合いになっていきますよね。

司:(榎)忠さんとは?

植松:忠ちゃんはね、古いんですよね。忠ちゃんは一番最初会ったのはね、昔はゴーゴーバーと言っていたのですが、踊る所。

山下:そのあたり興味深いです。

裕子:聞いたことあります(笑)。

植松:昔やね。僕もそこに行っていてね。

司:どの辺りですか。

植松:三宮で。そのときね、中西美代子さんという人がいたんですけどね。もう亡くなられましたけど、亀井堂の社長さんだったんです。その人に連れられて一緒に行っていたんですけど、その時にゴーゴーバーで元気に踊っている人がいるわけ(笑)。元気に踊って、めちゃ汚らしくてね。腰からね、何ていうんですか、タオルなんかぶら下げてね、元気に踊ってた。中西さんが「あの子、知ってる?」と言うから「いや、知らん」と言って、「そうしたら紹介してあげるわ」と言うて、それで忠ちゃんが来て、「僕、現代彫刻やってる植松です」と言ったら、忠ちゃんは「現代絵画」と言ったかな。

司:そうなんですか。

植松:絵を描いてると言ったかな。それが最初の知り合いです。その頃まだ二紀会で油絵を描いてました。

裕子:忠さんは最初は絵ですもんね。

植松:具象の油絵を描いていました。

司:え、いつ頃?

植松:1969年ですね、僕が知り合ったのはね。

裕子:1968年に油絵の展覧会もされていましたね。

植松:してましたね。1969年くらいですわ。それからね、しょっちゅう遊び友達でしたね。しょっちゅう遊んでたね、一緒に。その頃は遊ぶ連中がたくさんいましてね。いろいろな映画を作っている磯本治明いうのとか、いろいろな人としょっちゅう夜遊んでいました。飲んで食べて。もう…… だからさっきの箱根のこの作品がありますでしょう。

司:鉄工所の。

植松:この作品。(注:《Distinction》、1971年、『Keiji UEMATSU』、p.21)

司:ああ、こっちの。

植松:その頃、忠ちゃんは現代美術ではないんですね。何か具象の絵を描いていて、サン地下(三宮の地下街の名称)でしている展覧会でも浮世絵まがいの、何ていうの、ちょっとエロティックな絵を描いて外されたりとかそんなことをして(笑)。

裕子:その後、グループZEROを結成されて。

植松:グループZEROをしていましたよね。だいぶ後ですね。

裕子:植松さんはそういうのに参加されたりはしていないですか。

植松:参加は別にしていないですね。遊んでいたんですね。グループZEROというのを作った人たちは知っていますね。松井憲作さんとかね。だからこの作品の搬入(箱根の彫刻の森、第2回現代国際展のコンクール、1971年)なんか、忠ちゃんが一緒に来てくれた。トラックに一緒に乗って、神戸から東京へ行って手伝ってくれました。現物で搬入でしょう。今の新宿の都庁舎が建つ前のあの辺の、まだ開発していない時ですよ。だから現物で搬入だから、コンクリートを打たないといけないんですよ。現場でコンクリートを打ったんですよ、僕ね。いやあもう、あの頃はいい時代ですね。何も考えなくて行っているんですね。なんせ作品を持って行って、コンクリート、セメント、砂を買わないと、という感じでしょう。それでその再開発してこれから建てるところで、工事現場だからいっぱいあるんですよ。行って「ちょっとこのセメント分けて欲しい」と言ったら「使うていいよ」とか言って。「砂もちょっと」と言うたら「使っていい」って、「ほなトロッコも貸して」と言うて。ブワーと練って基礎工事をして作った。そして立てたんですよ。もうめちゃめちゃな時代や(笑)。

司:そんなのはどこで覚えたんですか。

植松:自分らでやらないと仕方がないから。そんなの忠ちゃんも手伝ってくれた。だから忠ちゃんは絵を描いていて、二紀で絵画教室をやっていて…… そうそう、絵画教室で抽選で当たってヨーロッパに行ったりとかいろいろとしていたけど、もう何せ集まって会ったらいつも裸で踊っていましたよ、忠ちゃん。いやあ、元気やったな。最近、裸踊りなんて見たことない。いやもう本当に上手いのよ。しょっちゅう皆それが楽しくてやってたね、飲んだら。最後は忠ちゃんが踊ってた。

裕子:その後、榎さんも鉄系の立体にどんどんいきますが、そのような榎さんの展開はどのようにご覧になっていましたか。

植松:忠ちゃんの? 彼はグループをずっとやっていて、僕は1975年からドイツに行ったでしょう。それでドイツに行って、しばらくしてからと違うかな。グループZEROをやめて1年くらいして、自分の家で展覧会をやった。同じ広さの6畳間を24畳敷きの大広間にしたり、いろいろな作品を自分の家の中に作って。それで写真をデュッセルに送ってきてくれたんですね。それで1977年の時、僕が75年にドイツに行っていたから、1977年のドクメンタの時は来ましたね、奥さんと一緒に。頭半刈りにしてね(笑)。それで写真を撮るときに半刈りを、髪の毛をこうやって、こっちをこんなふうにしているんですね。何をしてるのかなと思ったらね、髪の毛があるということをしていると。ないけれどしている。そんなこと全然分からなかった。なんで手上げるのかなって(笑)。

司:何のポーズかなって(笑)。

山下:貴重なお話ですね。

植松:面白かったですよ。それでドイツに来てね。それで一時帰国した時のポートピア。ポートピアででっかいのを作ったからと言って、写真も送ってくれて、それでちょうど済んで片付けるからと言うので、観に行ったことを覚えてますわ。でっかいの作っていましたわ、ロブスターの。(注:《スペースロブスターP-81》、ポートアイランド博覧会、「テーマ館」で発表、1981年3月20日—9月15日)

司:観に行っただけですか。手伝ったりはしていませんか?

植松:していない。忠ちゃんのを手伝ったことはない(笑)。だから僕も1975年から行ったり来たりでしょう。1年に1回くらいしか帰って来ないから、ちょうど帰って来たときに展覧会をやってたりしたら観ていましたけどね。何ていうの、布引(兵庫県神戸市)の辺の地下でしていた、長崎と広島の原爆を作ったり。その前は1973年くらいの京都ビエンナーレだったっけ。その頃はグループZEROで、テントで下りたり上がったりするのをグループでしてましたよね。

山下:「ビエンナーレ」ですね。(注:「京都ビエンナーレ '73・集団による美術」、京都市美術館、1973年)

植松:グループでしていて、グループの限界みたいなものを自分で感じて、やめて自分でやり始めたんですね。それから大砲のでかいのを作ったり、そんなのをやり始めてね。

司:印象深い方とか他にいらっしゃいますか。

植松:そういう意味で神戸の作家、関西も含んでみたらあれですけど、神戸の作家と言ったら結構いい作家がいっぱいいましたよ。

山下:交流も活発だったということになりますか。

植松:そうですよね。しょっちゅう会っていたと思うけどね。

司:鄭(相和)さんとかもいらっしゃいましたよね。

植松:鄭さんも知っていますよ。新開地にいましたからね。広い所で。

司:何年くらいからでしたか。

植松:何せ僕がドイツ行く前ですからね。元町画廊でね、展覧会をして。

司:そうですよね。モノクロームの絵を描かれていた。

植松:モノクロームの地道な絵をね。鄭さんもサウナのボイラーマンとかいろいろとしていましたよ。サウナの燃やすやつね。

司:奨学金か何かで来ていたんですかね?

植松:いや、奨学金ではないと思うんですよね。パリからこっちに来たと思う。

司:そうですよね。それからまたパリに戻られていますよね。

植松:そう。そら鄭さんもいたし、山口牧生さんもいましたしね。グループ〈位〉の人ね。小林陸一郎さんも増田正和もいましたし、彫刻では。

渡辺:平田(洋一)さんもいるし。

植松:ああ、平田さんもいましたしね。平田洋一さんの絵《コレイガイノスベテ》はあそこにあるけど。後で見せます。やっぱりいい作家がいっぱいいたと思いますわ。

山下:単独ではなくて、互いに結構接触が、公私ともにあったということですね。

植松:そうですね。なんか展覧会で一緒になったら飲みに行ったりとか、そういうのはありましたね。

司:最後に1つだけ。河口さんと随分いろいろな展覧会とか、現代美術のフィールドでされる時にいろいろと関わりが深いと思うんですが、南蛮美術館での二人展はどういう経緯で実現したのでしょうか。(注:「2人の現代作家と南蛮美術館−河口龍夫・植松奎二展、1975年3月15日−4月6日。南蛮美術館は池長孟コレクションを譲り受けた神戸市が1951年に「市立美術館」として開館、1965年に「市立南蛮美術館」に改称したもの。1982年に神戸市立博物館の開館に際し、収蔵品は移譲された)

植松:画期的ですよね。カタログもありますけど。

司:見せていただいてもいいですか。

植松:どうぞ。こっち側から順番に。それ南蛮美術館ですけどね、河口さんとの二人展ですわ。その経緯は、あるとき高橋亨さんからね、これ高橋亨さんの企画なんですよ。

司:評論家ですよね。

植松:うん、評論家。

司:そもそも池永(孟)さんの南蛮美術のコレクションでできた美術館なので、コンテンポラリーをやる所ではない。こういうガラスばりの陳列ケースとかあって、古い物が並んでる所。

植松:高橋亨さんから依頼があって、なんで南蛮美術館なのかという感じがするでしょう、僕も河口さんも。それで会いに行ったんですよ。会いに行く前に2人で「これ、変な展覧会だったら断ろな」という話をしながら行って、それで「何でも好きな通りにしてほしい」と。高橋亨さんも一緒に、とにかく現代美術の2人の展覧会をしたいんだと。経過的には、なぜ南蛮美術館なのかみたいなことはあまり言わなかったですよ。ところが南蛮美術館が神戸市立博物館に変わる過渡期ですよね、これ。

裕子:住所がまだ熊内町になっていますからね。今の場所と違いますよね。

植松:ああ。そこで南蛮美術館の、何ていうんですか、神戸の市立博物館に変わる前の布石みたいなこともあったんだと思います。南蛮美術館のことを広めることもひとつのあれだと思います。ひとつ言われたのは、南蛮美術館のコレクション、それを作品のなかにひとつは入れてくれないかということは言われましたね。ところが僕は「できません」と言って。アイデアが浮かばなかったからね。浮かんだらやっていたと思うけど、「できません」と言って。河口さんは割と素直に、鉄砲とかがあるからそれで、電気の回路のやつがあるでしょう。電気が点いたりいろいろと熱に変わったりしていくような回路のやつ。それを結局…… ここにあるのと違うかな。鉄砲を使っていなかったかな。

司:けっこう謎の企画だったんですね。

裕子:でも、今だったら博物館のコレクションからインスピレーションを得て制作するとか、それを作家に頼むということはよくあるから、ちょっと先駆的な企画かもしれないですね。

植松:このときね、『朝日ジャーナル』ね、誰が書いたのかは知らないけれど、「南蛮美術館の勇気ある試み」とかね。だから東野芳明さんも観に来たり、中原さんも観に来たり、峯村さんも来たり、いろいろな人が東京から観に来たんですね。この当時、公の美術館がこんなことをやっていなかったからね。京都の美術館も東京の国立もどこもやっていなかったね。

裕子:けっこう革新的だと思います。

植松:2人の人がいたんですよ。館長さん(笹部一良)と菅瀬正(主幹)。その人がかなり積極的でしたね。

司:それで高橋亨さんにコーディネートをお願いしたわけですか。

植松:多分ね。それで神戸の作家で、河口さんと。河口さんは僕より7つ上なんですけど、それで僕に回ってきた。

裕子:これが何年でしたっけ、1975年。ドイツに行かれる直前ですか。

植松:そうです。1975年3月から4月にこの展覧会をして、僕は8月に行ってしまうんですけどね。

司:神戸市の奨励賞で。

植松:ああ、神戸の文化奨励賞。これをもらったのは1974年ですね。

司:そうですか。奨励賞で留学を。

植松:神戸市というところがあの当時、僕がすごくいいなと思ったのは、1974年に神戸市文化奨励賞というのをもらったんですけど、文化奨励賞は1人だったんですよ。神戸市に文化奨励賞ができたのが1973年。2年目だったんですよね。僕が文化奨励賞をもらったとき、文化賞をもらったのが陳舜臣とか、小原流の小原豊雲とか、いろいろな人がもらっていたんですよ。若い人への奨励賞は1人だけ。ところが文化賞の人には10万円しかあげないんですよ、その当時。それで文化奨励賞の人には100万円をくれたんです。これはやっぱりすごいですよね。若い人にあげる。

裕子:これからの人に。それは素晴らしいですね。

植松:1つ条件があって、外国に行きなさいと。外国に出なさいということが1つあって。今ではそんなことはないと思いますけど、あったんですよ。僕は1974年にもらったんだけど、もらってまあ、その前から外国に行きたいなと思っていた。行きたいと思ったんだけど、別に行くところは決めていなかった。どうしようかなと思って、1974年の12月に学校を辞めてしまうわけですね。その辞める理由もいろいろとあるんですけど、辞めて、1975年に行く前に市役所に言いに行ったんですよ。「ちょっとドイツに行ってきます」と言って。それで「学校も辞めました」と言って。そうしたら向こうは慌ててしまってね。「いやいや、学校は辞めなくていいですよ」って(笑)。

裕子:休職すればいいじゃないかとかね。

植松:「1ヶ月でもいいんですよ、これは」と言ってたね。とりあえず外国へ出なさい、というだけで(笑)。

司:行ってすぐ帰って来てもいいと(笑)。

植松:「いやいや、それは関係ない。僕は前から行きたかったから」と言ってね。「それならまあいいですよ」という感じで(笑)。それで1975年に行くんだけど、74年に「日本の伝統と現代」という展覧会がデュッセルドルフのクンストハレであるんですよ。(注:「日本の伝統と現代」、デュッセルドルフ市立近代美術館、1974年)これはヨーロッパの美術館が初めて自主企画で行った(日本に関する)展覧会なんです。ここにカタログが。これがね、「日本の伝統と現代」というの。40何人くらいですわ。

山下:けっこう多いですね。

植松:そのかわり「伝統と現代」だから、藤田嗣治から、福田平八郎からね、現代美術は荒川(修作)さんから河原温さん、高松次郎さんからね、全部入っているんですよ。それに僕も入るんですよ。けっこう若いほうですよ。

山下:依頼があったということですか。やはりドイツの方も植松さんにアンテナを張っていたんですね。

植松:これに1974年に出していて、もうお金がないから行ってはいないですけどね。作品を送っただけです。デュッセルドルフのクンストハレのその当時の館長、ユルゲン・ハルテン(Jürgen Harten)という方が来まして。彼独自の目で選んだんですね。

裕子:やっぱり日本に調査に来られたんですね。

植松:その前は1973年の、僕のジャパン・アート・フェスティバルで賞をもらった、この作品があるでしょう。(注:第8回ジャパン・アート・フェスティバル(東京セントラル美術館、東京)にて優秀賞を受賞)あのときの審査員に呼ばれていたんです、選考で。

裕子:ではずっと注目していたんですね。

植松:それで1973年のジャパン・アート・フェスティバルは、スロベニアのリュブリアナ現代美術館もあるんですけど、ドイツはデュッセルドルフのクンストハレに行く予定だったんです。彼も選考には呼ばれて、アドバイザーという形で関わったんです。ところがそのユルゲン・ハルテンが選考を見ていて、作品が気に入らなかったんですよ。(注:第8回ジャパン・アート・フェスティバルは、マンハイム市立美術館とリュブリアナ近代美術館に巡回した。)

山下:ちょっと昔の…… 何といいますか、いろいろなジャンルを、絵画、彫刻……

植松:いや、それはジャパン・アート・フェスティバルといったら現代美術だけですけどね。それが気に入らなかったんですよ。気に入らなくて、1974年に自分で企画すると。それで1974年に日本に来ていて、ゲーテ(・インスティトゥート、Goethe Institut)で面接があったんですよ。

山下:面接もあったんですか。

植松:うん、面接もあって。アルバムを見せてね、「どれがええ。どれがええ」とかね。「この板引っ張ってるこれがいいなあ。これを来てやってくれるか」、「こんなん、一瞬しかできないから、行っても仕方ないわ。写真でしかできない」、「ああそうか」って(笑)。

裕子:パフォーマンスをしてくれるかな思われたんですかね。

植松:(「日本の伝統と現代」のカタログを指して)それすごいでしょ、手書きで。何を書いているかといったらね、こんなことを書いているカタログはないですよ。中原さんが文章を書くことになっていたんですよ。そのうちの10人足らずにだと思うけれど。ところが全然原稿を送らなかったんですよ。それでオープニングにカタログが間に合わなかったんですよ。もう頭にきて書いてしまったんですね。(注:手書きで、中原佑介からの10人の作家に対する紹介文が到着しなかった旨が記載されている。)

裕子:これは誰の手書きですか?

植松:誰かに書いてもらって印刷したんですよね。

裕子:ユルゲン・ハルテンの発言を日本語訳したものをわざわざ手書きで印刷している。

植松:もう活字が間に合わないからでしょう。

司:バッと差し込んでやったんでしょう。

裕子:ああ、そうかそうか。活字にできなかったんですね。これは相当怒ってますね(笑)。

植松:相当怒ってますよ(笑)。「異例のことである」と言って。

裕子:中原さん、そんなにお忙しかったんですかね。

司:いや、遅いんです。

植松:中原さん、ときどきすっぽかすわ。

裕子:ああ、そうなんですか。

植松:シンポジウムにも来なかったり。

裕子:でもこんな大事な展覧会のテキストを(笑)。

植松:選考で意見は言うのに、結局書かなかったということですね。だけどこれは1974年で、1975年に外国へ出ようと思った時にどこへ行こうかと思ったんですよ。それなら、やっぱりその当時一番興味があって動いていた国というのは、ドイツだったんですよ。1972年にドクメンタ5がありましたでしょう。カッセルでドクメンタがあって、ハロルド・ゼーマン(Harold Seeman)がやって。ドイツが一番面白かった。ニューヨークはね、あんまり大き過ぎてハードでね、いやこれはな……と思って。パリはもともと興味がなかったんですよ、現代美術に関してね。一番動いている国に行ったほうがいいと思って、それでドイツを選んだんです。それでドイツのどこがいいかなと思ったら、1974年のこの時にグループ展に出しましたからね、デュッセルドルフの。あといろいろと調べたら、ケルンにね、現代美術の画廊がものすごいたくさんあるんですね、その当時。デュッセルドルフにはそんなになかったですよ。(コンラート・)フィッシャー(Konrad Fischer Galerie)があったり、シュメラ(Galerie Schmela)があったり、いろいろとそんなことが分かったんだけど。ところがね、1972年のドクメンタに出ているドイツの作家というのは、ものすごいたくさんの人がデュッセルドルフの作家なんですよ。それでデュッセルドルフにクンストアカデミーというのがあることが分かって。そうしたら一番動いている町に行こう、画廊は関係ないわ、作家がいるところに行こうと思って。それでデュッセルドルフを選んだんですよ。それで1975年に行って、もうそのままずっとになっているんです。だけど行く前でもね、僕はね、ドイツはビザが要るのを知らなかったんですよ。何も知らずにと行こうと思っていたんですね。もう8月から行こうと思って。そうしたらその頃にゲーテの館長さんとものすごい知り合いになっていて。ああ、そうや。ゲーテも「(ドイツ語の)特別教室にただで来なさい」と言われて、行って途中でやめてしまうんですけど。秘書から電話がかかってきて「植松さん、ビザはどうなっていますか」と。「ドイツに行くと言ってますけど」って。「え、ドイツ、ビザ要るんですか」「要りますよ」と言って。「それならちゃんとやります」と言って。その当時、神戸のドイツの領事館の領事とゲーテの館長を知っていて、彼らが皆デュッセルドルフの市長に手紙を書いてくれたんですよ、ビザを出してほしいと。それで行ったら、出してもらって。そして行ったら行ったで外国人局に届けたら、こんなビザがなんで出てるいるのか分からないって。フライシャーフェンダークンストラ(Freischaffender Künstler)というビザだったんですよ。フリーアーティスト。アートで活動は何をしてもいいと。他の仕事に就いてはいけないと。フリーのアーティストのビザなんですよ。そういうビザを出したことがなかったんですね。なんでこんなビザが出ているんだと言って、1週間くらい揉めましたね。まあ、なんとかしてくれましたけどね。そんな感じ。それでドイツに行ったんですよ。神戸市のそれで。今も賞金100万円は変わっていないと思うんですけど。

裕子:そうですか。でも当時と今では金額の重みが違いますからね。

植松:うん。選考委員も、僕がまだその当時で27(歳)だから、まだ何者か分からない人によくくれたよね。これからの人にやらないといけないとか言って。

裕子:それは立派な方針ですね。

司:そういう賞もあって、こういう展覧会もあって、なかなか神戸はいい所ですね。

植松:南蛮美術館ね、こんなのよくやってくれましたよね。

司:なかなかできないですよね。これがドイツに行かれる前の最後の展覧会ですもんね。

植松:いろいろと条件も多かったですよ。その当時で、1人に「制作費をどうぞ」と言って30万ずつくれた。

司:え、そんなに。すごい。

植松:うん。その当時で。こういうカタログも作って、ポスターも作ってくれて、いろいろとしてくれた。だからあまり現代美術に関わってなかった学芸員の人だから、余計良かったのかもしれないね。「もう高橋さんにお任せします」という感じで。

裕子:お金は出しますけど、口は出さないと。

植松:ああ。なんせ南蛮美術館の存在を知って欲しいと。だから面白かったね。また思い出したけどね、会期中に人が観に来るでしょう。僕はこの会期中に何度も行ってますからね。するとね、入って来てね、上まで上がっていくわけですよ。そしてドーッと下りてくるわけ。3階までありますからね。下りてきて言うのが「うわ、ここ工事中や」(笑)。

司:それはなかなかいい(笑)。

植松:南蛮美術を観に来ているんですよね。でも写真とかあって、ジャッキで木材を持ち上げているし、ネットを張ったりとかいろいろとしているし、「うわ、ここ工事中や」って(笑)。入場無料ですしね。

裕子:そうか、無料だったんですね。

渡辺:それまたすごいね。

植松:うん。僕がストックホルムのモダーナ・ミュゼットでこの展覧会をしたときはね、28歳でしょう、まだ。ビョルン・スプリングフェルドというキュレイターは36歳でしたよ。すごい権限を持っていたんですよ。(注:Skulptur, Foto, Video, Film, Moderna Museet, Stockholm, Sweden, 1976

裕子:その後、館長にもなりますもんね。

植松:うん。

裕子:やっぱり若いエネルギーが。

植松:そう。モダーナ・ミュゼットの話はまたしますけど、面白いですよ、決まった話も。PS1が決まった話もまたいろいろとします、これから。いかにしてチャンスを掴んできたのかっていう(笑)。

山下:お聞きしたいところです。

裕子:今日はたくさん話題が出ましたので、かなり長くなってしまって、すみません。

司:ありがとうございます。次回もまたよろしくお願いします。

山下:海外の話をよろしくお願いします。