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植松奎二 オーラル・ヒストリー 2016年9月28日

大阪府箕面市、植松奎二自宅にて
インタヴュアー:池上司、山下晃平
同席者:渡辺信子、池上裕子、菊川亜騎
書き起こし:五所純子
 

植松:この間の訂正もちょっと。一応連絡を入れておいたけれど、ネットの作品は1970年でした。(注:《Transparence-Net》、1970年)

山下:メール頂いて、ありがとうございました。

植松:それでアルバムがあるけど、見るとその部屋は僕のネットの作品と、狗巻(賢二)さんのあの紙の、東京ビエンナーレ(注:毎日新聞社主催、第10回日本国際美術展(通称、東京ビエンナーレ−「人間と物質」、1970年)に出したプールの大きいのと、野村(仁)さんのドライアイスの作品の3人が写ってるわ。

山下:すごい。錚々たる。

植松:あの頃はまだ3月でしょう。その時、まだ(東京ビエンナーレの)人選が決まっていないんですよね、日本の作家の。

一同:ああ。

裕子:ギリギリだったんですね。

植松:中原(佑介)さん、まだ決めかねていたんですね。

山下:たしかに最後のほうに決まったというお話がありましたね。前回は生い立ちから、小学校の先生もされながら個展も進めていったという、それから主に関西でのつながりを聞かせていただきました。今日はドイツでの話や野外彫刻の話などを伺いたいと思っています。ドイツには1975年の9月から行かれたということですね。

植松:はい。

山下:奨学金の話がありましったが、改めて、ドイツに行くことになった経緯と、最初に着いた時に、どういった暮らしをされて、そして制作環境をどう準備していかれたのかという、そういう舞台裏的なところが気になるんですが。

植松:はい。面白いところですよね。何も分からない時ですからね。

山下:私たちの知らない植松さんのところなので、いきなりですが教えて下さい。

植松:1975年の9月から行くんですけどね。1974年の10月くらいに、この間も言ったんですけど、神戸市文化奨励賞をもらった。その条件としては、外国に行かないといけないというのがあった。それはこの前お話したからいいですよね。

山下:はい。工業高校を辞めてから。

植松:辞めたんですけど、辞めたのはね、その賞をもらったから辞めたのではなかったんですよね。もうノイローゼみたいになったんですよ、僕。この間それは言ってないと思って。胃潰瘍になった話はしたんですけど。

司:学校に行きたくない?

植松:学校に行きたくなくて、登校拒否になったんですよ、僕が。

司:分かります、分かります(笑)。

植松:先生が。それで結局、朝に電話をするんですよ、学校へ。「今日、熱が出たから休みます」と言って。「それでは仕方がないですね」って。休んでどうしようかなと思って、映画観に行こうかなと思って、それで神戸の新開地の福原国際とかね、3本立てとか4本立ての所に朝から観に行くわけです。それで4時か5時に出てきてきょろきょろと見て、生徒に会ったら困るしね。それで帰って来るような状況で。登校拒否みたいになって、病院に熱があって行くのだけど、結局、何ていうんですか、血液を取ったりいろいろと検査全部するんだけど何ともないわけ。それで薬をくれるんですよ、「この薬飲んどきなさい」って。この薬は関係ないなと思って、病院を出てすぐちり箱にボーンと捨てた。これは僕の精神的な、メンタルからきているというのが分かっていたからね。そんなこともあって途中で(高校を)辞めてしまうわけです。

山下:結構長かったんですか。悩んでいるというか、調子の悪い期間は。

植松:いや、やっぱり何ヶ月かですね。まあ、そんなに休めないですよ。風邪ひきだからって、そんなにしょっちゅう休めない(笑)。だけどそういうふうな状況で、仕事が全然できないようになった。作品が作れない。学校の授業を教えていること自体は楽しかったです、すごく僕は。ところが生徒指導とかね、職員会議とかで、学校がずっと揉めてましてね。生徒のことでいろいろと揉めていたりして。工業高校ですからね。それでもう毎日職員会議で、学校を出るのが夜の9時とかね。

裕子:それは大変。

植松:その頃はもう家庭訪問にずっと行ってましたからね。

山下:家庭訪問をされていたんですね。

植松:家庭訪問に行ったら、結局夜中の12時とか1時頃まで親と喋っている時があったよね。やっぱり子どもがおかしくなるというのは親がおかしいんですよね。それで僕よりもその親はもっと年上だし、でも喋っていかないといけないし、そういうことがあったりしてね。これはもう僕はできないと思って、辞めたんです。それで辞めた後、半年くらいぶらぶらしていたんです。失業保険もない話、この間言いましたっけ。

山下:はい。

植松:それでぶらぶらとしていて、ちょっと仕事を手伝いに行ったりするんですけどね。アルバイトをしたりするんですけど。それでどこに行こうかなと思って、それで結局デュッセルドルフに決めたんです。それで9月に行くということを決めたんだけど。ビザが要るという話も知らなくて。それで結局向こうに着いて親父の兄さんの息子、だから僕の従兄弟になるんですけど、その人が安宅産業という会社の偉いさんをしていて、それで安宅産業の支店長に連絡してもらっていたんですよ、僕が行くからと言って。それで嫁さんと二人で全部で80キロくらい持って行ったね、荷物。

山下:そんなにですか。長期だから。

渡辺:神戸製鋼じゃないの?

植松:それは尚三さんの上のお兄さん。

渡辺:そうか、そうか。

植松:神戸製鋼のほうにも頼めたんだけど、やっぱり上のお兄さんに頼む方がいいと言うので。デュッセルドルフに着いたらもうタクシーに段ボールぼんぼんと載せて、安宅の支店長の会社に行くわけです。連絡がいっていたから、「来たか」と言って、すぐに支店長の家に泊めてもらって。明くる日に秘書に「すぐ家を探しなさい」と言って、探してくれた。「どれくらいの予算にしますか」とかいろいろと訊かれて、「これくらいの家に住みたい」とか言って、それで家具付きに入りたいと。すぐに家具付きの家を見つけてくれたんです。ところが1日入って、その次の朝、やっぱりここは狭過ぎるんじゃないかと。2部屋しかなかったんです、家具付きだけど。屋根裏部屋でね。それですぐに大家さんに「もっと他に部屋を持っているんじゃないか」聞きに行ったんですけどね、全然ドイツ語通じない(笑)。それで連絡をしてもらって、秘書と英語で少し話したんだけど、やっぱり持っていなくて、じゃあここでいいわいうことで、生活が始まるんですね。始まるんだけど、美術の関係で知っている人はデュッセルドルフのクンストハレ(Kunsthalle)の館長さんしかいないんです。その館長さんにも「日本の伝統と現代」に関わっていたゲーテ(・インスティトゥート)の館長さんから連絡がちゃんといっていて、それですぐに訪ねていったわけです。「ああ、よう来た」という感じで。だから会った日にもう館長室でね、市にシュタッツ・スパールカッセ(Stàdt Spàrkàsse)というデュッセルドルフ市の貯蓄銀行があるんですよね。そこの来年のカレンダーを作っていたわけです、彼がね。その仕事を続けてしていたんですよね。「ちょうど今やってるから、1ヶ月、あなたの写真を入れましょう」という話になるわけね。ローター・バウムガルテン(Lothàr Baumgàrten)とかね、入っているわけですよ。「デュッセルドルファー・クンストラ(Düsseldorfer Künstler)」いうタイトルですわ、それ。「デュッセルドルフのアーティスト」という感じで。そこへすぐ決めてくれて。写真アルバムとかを見せたらね、指と影の写真(注:《Seeing T》、1975年)があるでしょう。これがちょうど8月にいいということでね(笑)。それで8月の写真に入れてくれたんですよ。あとはクンストハレの展覧会のオープニングが1ヶ月に一度か2ヶ月に一度あるでしょう。しょっちゅうそんなのに行ったんですよ。そこで向こうのアーティストに会ったり、話しかけてきてくれて話したり。僕は日本を出る時からデュッセルドルフは良いアーティストがいると思って、デュッセルドルフを選んだんですけどね。そのときに興味があった作家が、クラウス・リンケ(Klaus Rinke)、ライナー・ルッテンベック(Reiner Ruthenbeck)とか。それから(ヨーゼフ・)ボイス(Joseph Beuys)も興味があったんだけど、ボイスの仕事というのはやっぱり僕の仕事からかけ離れていたんですわ。しっかりと自分で分からないというか。やっぱりアーティストに会いたいと思って、リンケさん、ルッテンベックさんに電話をしましたね。電話帳で調べたのかな。

司:それはスタジオを訪ねていくという感じですか?

植松:「日本から来ているアーティストで、あなたの仕事に興味があるから会いたい」と言って、「見せてもらえますか」と言って。そうしたら「いつでも来い」ということになって。それでルッテンベックなんか言ったらすぐに、これから展覧会のオープニングがあると。ヨハン・ゲルツ(Jochen Gerz)という人だけど、ヴェニス・ビエンナーレにドイツからその年か翌年かに出品する人だけど、「彼の展覧会があるから観に行こか」とか言って、奥さんと一緒に連れていってくれて。結構彼は好意的でしたね。僕のアルバムを見せたらすぐにいろいろと紹介してくれて。ギャラリーに電話して「面白い作家が来てるから」と言って、「いっぺん作品を見てあげてくれないか」という感じで。ディセンバー(December)というギャラリーなんですけどね。ルッテンベックも頼まれているんだけど、やっぱり自分は他のギャラリーとの契約があるからやらないわけですよ。それで僕を紹介してくれた。
 リンケさんに訪ねて行ったら、リンケさんはモニカ・バウムガル(Monika Baumgàrtl)という人とペアで作品を作ったりしていたんですよね。写真の仕事とかパフォーマンスとかもしていて。アルバムを見せたら、見終わって「ところで仕事をする場所はあるのか」と訊かれたわけですよ。それで「屋根裏部屋しなかい。屋根裏部屋でしている」って。そしたらアカデミーに来なさいと。「アカデミーのプロフェッサーをしているから、アカデミーのスペースを使ったらいい。そこで仕事しなさい」と言ってくれてね。僕が行ったのは9月ですから10月には会っていたと思うんですけど、来年にリンケのアカデミーのクラスの生徒の展覧会があると言って。ミュージアム・ヴィースバーデンという所であると。「私も出品するから、もしよかったらあなたも出さないか」と言われたわけね。「それじゃあ喜んで、出しますよ」と言うて。(注:Letztes Mal hast du doch gesagt daß du keine Kunst machst, Städtisches Museum Wiesbaden, Wiesbaden, 1976.)それでアカデミーにしょっちゅう遊びに行ったんですわ。
 でも結局、そこで仕事したらいいと言われたけど、やっぱりすることがないんですよね、僕は。インスタレーションでしょう。組み立て式の、何や拾ってきたものを何やかんやとするから。だからスペースがあっても、そこですることはないんですよね。スペースは欲しいんだけど、そういう所で作品を作るという気はなかったから、ほとんど行かなかったですね。行くのはいつもコンパみたいな、皆が会ってわいわいがやがやパーティーをする。だからパーティーはしょっちゅう行っていましたね。アカデミーの学生とかと知り合ったり。それでクンストハレもしょっちゅう行っていました。行ってすぐにあったのが音楽とアートの展覧会(注:Sehen um zu hören Objekte und Konzerte zur visuellen Musik der 60er Jahre)ですわ。フルクサスのメンバー、ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)とかシャーロット・ムーアマン(Charlotte Moorman)のパフォーマンス。ジョン・ケージ(John Cage)や、(カールハインツ・)シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen)とか、毎晩催し物があるわけです。僕はいつも入場料なしで、フリーで入れてくれたんですよね。毎晩聴きに行っていましたよその時にパイクさんに知り合ったかな。パイクさんに会って、ちょっと話したりして。
 それで向こうの若い作家の作品をずっと見ていて、思ったんですよ。アカデミーを卒業した学生が作家になって、ギャラリーが付いてないけれど仕事をしているとか、そういういろんな人の作品を見せてもらってね、思ったんですよ。彼らの仕事のしつこさみたいな。僕から見たら同じようなことをね、ずっと延々とやっているわけですよ。このしつこさというのがどこから来るのかなと思ってね。それで日本にいたときの状況というのは、僕は何ていうんですか、次から次へと新しい仕事をしないといけないみたいな、そういうのがあったわけですよ。今回こんな発表をしたら次はもう全然違う仕事をするって。でもその時に、これは自分にとても参考になるなと思ったんです。しつこさというのか、作家の姿勢というのがね。それがストックホルムのモダーナ・ミュゼットの展覧会へとつながっていくんですけど、そのときに僕は自分の、1969年から75年までの5年間とちょっとの仕事を、もういっぺん、外国へ出ることで見直すことができたんですよ。最初から見直して、次はこんなことをやろうかなと思っていたけれど、違うアイデアが出てきたからやらなかった、という仕事が何個かあったんですよ。当時は次から次に新しい方にいっていたから。それで、それをもう一度やってもいいなと思い始めて、そうしたのがデュッセルドルフからです。だからそういう意味では、僕は場所を変わってすごく良かった。日本にそのままいたら潰れていたかも分からない。もうどういうふうに展開していっていいか、分からなかったと思う。

山下:少し立ち止まるような時間をもらえたというところがあるわけですね。

植松:そうですね。その当時でも、高松(次郎)さんの仕事を見ていても、コンセプチュアルな仕事なんだけれど、高松さんは次から次に仕事をしているみたいな。それはそれで新鮮なんだけれど、もっと何ていうんですか、根付く感じで仕事ができたらいいのになと自分でも思ったんですよね。それは外国に出てすごく良かったことですね。だから1975年の9月から行って……

山下:突っ込んだ話ですけれど、その間は生活費とかは奨学金で?

植松:生活費は、結局神戸市からもらった奨学金は100万でしたね。それで貯めていたお金と全部で400何十万あったんです。その当時で。

山下:小学校と高校の先生の、ですね。

植松:その100万を入れて400何十万やったかな。

山下:最初はアカデミーに顔を出したり、美術館に行ったり、その後スムーズに展覧会の仕事があったのでそれの準備をして、というような生活リズムが始まったということですか。何か、他の仕事やアルバイトとか……

植松:ああ、そんなのはないです。結局ね、「フライシャーフェンダークンストラー(Freischaffender Künstler)」という、フリーアーティストのビザですから、アート以外の仕事に就けないんです。自分の作品を作って売るのは大丈夫ですけど、他の仕事でアルバイトしてお金を得ることはできないわけですよ。だから自分の持っているお金をずっと食い潰していたわけです。だから1年半から2年いれたらいいなという感じですね。行った時の気持ちというのは、さっきのギュウちゃん(篠原有司男)の話もそうだし、荒川(修作)さんにしても、彼らはやっぱりある意味日本を捨てて行ってますよね。日本の現状とか美術界とか、いろいろなことに不満もあるし、それを捨てて、世界の中で自分の仕事をしたいみたいな。僕はね、そこまではなかったんですよ。日本を捨てる気とかそういうのは全然なかった。何ていうんですか、いる間にグループ展でもできればいいなと。個展なんかができるとは全然思っていなかったです。ところが自分のアルバム、その当時で写真作品のアルバムと立体作品のアルバムともう1冊。3冊くらいしかなかったですけど、持って行ってました。写真の作品も、ロールで巻いていたのと板で全部持って行ってました、見せられるようにね。立体は全然持って行けないからね。だからそういうかたちで持って行ってて、どこかで引っかかればいいなと。それはありました。だけど、動機としてはどちらかというと、オリジナルの現代美術を見てみたいということだった。日本でそんなに見ていなかったから。だから行って1ヶ月もしないうちに、ケルンのヴァルラフ・リヒャルツ美術館(Wallraf Richartz Museum)に行ったんです。その当時はルードヴィヒ美術館という名前とは違いましたけどね。Museum Ludwigの中にルートヴィヒのコレクションがあったんですけど、それを観たときに僕、びっくりしたんですよね。アメリカのポップがほとんどあったんですよ。(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)のでっかいのから、ジャズパー(・ジョーンズ)(Jasper Johns)のバックミュンスター・フラー(Buckminster Fuller)のダイマクションに基づく地図の作品から、ポップアートも。僕、(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)が好きなんですけど、オルデンバーグの作品からね。「え、こんな所にこんなにたくさんあるの、アメリカのポップが」と。それはすごかったです。びっくりしましたね。ドイツではいろいろな美術館のポスターとか、町中に貼られているわけです。クレフェルト(Krefeld)のハウス・ランゲ(Haus Lange)とかね。ケルンの美術館は調べたらすぐわかったんです。メンヒェングランドバッハ(Mönchengladbach)の美術館は工事をしていて閉まっていたんだけど、やっぱり町中でポスターを見たらすぐに住所と電話番号をひかえてね、調べたんですよ、どこに美術館があるか。その当時だから、まだそんなに情報網がないですからね。

山下:お話を聞いていると、植松さんがすぐに動いて電話をされて、短期間で知り合いを作っていったということが分かってきました。翌年すぐにストックホルムの近代美術館で「彫刻・写真・ヴィデオ・フィルム」展をされますが、個展開催までのいきさつもお話しいただけますか。(注:Skulptur, Foto, Video, Film, Moderna Museet, Stockholm, Sweden, 1976.)

司:これは最初の仕事ですか、ドイツに行かれて。

植松:そうですね。美術館での個展はモダーナ・ミュゼット(Moderna Museet)が一番最初のヨーロッパの美術館の展覧会です。だけどその前にギャラリーで個展をするわけです。それが関係しているんです、このモダーナ・ミュゼットの個展につながるのは。僕は1976年にヘルシンキのギャラリーで個展しているわけですよ。(注:Photographs and Films, Gallery Cheap Thrills, Helsinki, Finland, 1976.)そのギャラリーはギャラリー・チープ・スリルっていう、ちょっとぞっとする名前(笑)。そのギャラリストがジオ・マランダー(J.O.Màllànder)というんですけどね。その彼はギャラリストであり、もともとはどちらかというと作家なんですよね。アーティストであり、ギャラリストであり、評論を書いて、詩人でもあり、すべてをしていたわけです。彼がギャラリーを持っていまして、そのギャラリーで1976年に個展をした。

司:ドイツに行かれた後ですね。

植松:そうです、行った後ですね。でもその前にそのギャラリーで、1974年に「ア・ヘッド・ミュージアム・フォー・ザ・エイティーズ」(A Head Museum For the Eighties)という展覧会があるんですよ。80人くらい参加した。ア・ヘッド・ミュージアムだから、コンセプチュアル・アートです。ダグラス・ヒューブラー(Douglas Huebler)とかが出していました。その招待が来るんですよ。

司:なぜ来たんですかね。

植松:これが面白いんですけど、結局、東京ビエンナーレ(注:第10回日本国際美術展—「人間と物質」、1970年)ですわ。東京ビエンナーレであのカタログが行き渡ったでしょう。それでね、河口(龍夫)さんが出品していたでしょう。それで、河口さんのところにその展覧会の招待が来たわけですよ。それで「植松君、こんなのが来ている」と言って、それで何でもいいから資料を送って、みたいな。ア・ヘッド・ミュージアムだから、もう本当にメール・アートみたいなもの。まあ、ちゃんと展示をしたんですけどね。パイクさんも出していたかな。それで、河口さんがその招待状のコピーを僕にもくれたわけですよ。河口さんは何人かに渡したと思うんですよ。皆ちゃんと読んでやればいいのに、やらなかったんですね(笑)。僕だけが出したんですね、1974年に。

裕子:その情報を知っていれば誰でもアイデアを送ることができたんですか。

植松:それはね、河口さんだけに招待が行ったのかも分からない、ひょっとしたらね(笑)。

裕子:でも君が出してみたら、みたいな感じで情報が来ちゃったんですね。可笑しいですね。

司:タツオ・カワグチにインヴィテーションを送ったら、ケイジ・ウエマツが来た(笑)。

裕子:河口さんは出されなかったんですか。

植松:出していないんですよ。でも松澤(宥)さんは出していたかな。名前のリストを見たら分かるんですけどね。そのポスターに全部の作家の名前が載っていたから。それは写真の仕事しか送れないから、こういうロープで引っ張った写真(注:《Board/Man/Rope》、1973年、『Keiji UEMATSU』、Nomart Editions, Inc., 1991年、p.15。以下『Keiji UEMATSU』と表記) とか、キャビネ版を2枚合わせたような作品を送ったわけです、何点か。それが1974年に展示されて、75年にはその展覧会がスウェーデンのModerna Museetにも回るんです。そしてそのあと1974年にその画廊で1回目の個展(注:「Keiji Uematsu photographs and film」)をするんです。この時は行ってませんが。それで1975年にドイツに行ったから、すぐに手紙を出したんですよ、デュッセルドルフに来ているよって。

司:ヘルシンキの方に?

植松:うん、ヘルシンキ。それで1年か1年半くらいはここにいるつもりだと。もしよかったら個展をしたいって書いた。そうしたらすぐに返事が来たんですよ。ノンプロフィットのギャラリーですからね、予定がフルとかそんなの関係ないですよ。ノンプロフィットだけど、ポスターを作って、案内状を作って、全部やってくれたんです。そこに行ったのが1月かな。9月にデュッセルドルフに行って、もう1月に予定を取るから来ないかって。すぐヘルシンキに行くわけですよ。でもヘルシンキに行くにしたってお金がないでしょう。飛行機なんかで行けないから。持っているお金が限られていますからね。それでハンブルクまで行って、ハンブルクからトラベムンデ(Travemünde)という港に行って、そうしたらそこから船が出ているわけですよ。船で2日半くらいだったかな。結局、日本から台湾に行くくらいの感じですわ。船に乗って、1月でしょう。そうしたらもう、ちょうどヘルシンキに着く前ですよね。船がゴーンゴーンといって音がするんですよ。一体何の音かなと思って上がって甲板から見たら、氷ですよね。割りながら行っているんですわ、船が。砕氷船みたいな感じで割りながら。だから港へ着いてもね、接岸するまでに1時間くらいかかりましたね。

司:それは普通の客船ですか。

植松:普通の客船です。だけど、1等、2等、ちゃんと分かれていましたね。ここからは2等の人は行ってはいけませんよという感じで。映画館もあったかもしれません。そんな客船だったんですよ。それで行って、個展をするわけです。写真の仕事とフィルムの仕事を見せて、ちょっとパフォーマンスみたいなこともするんだけど、フィルムに合わせて。それでそのギャラリストのジオ・マランダー、僕が「この後スウェーデンに行く」と言ったら、「スウェーデンに行くならストックホルムに行ったらいい」って。「そこのモダーナ・ミュゼットというところにビョルン・スプリングフェルドいうのがいるから、彼に見せなさい」と。「うちのギャラリーは小さいけど……」それでも部屋が3つくらいあったんですよ。「うちは小さいけど、あそこだったらものすごい大きな個展ができるから」と言うわけです。「え、これどういうこと?」って思うわけですよね(笑)。もっと大きい個展ができるってどういうことって。それで「そうか、そうか」って行くんですけど。

山下:スウェーデンに行こうと思ったのはどういう?

植松:ヘルシンキに行ったらストックホルムが帰り道だから。ギャラリストが帰りの船のチケットだけはくれるんですけどね。2人分、嫁さんの分とね。そうだ、思い出した。ヘルシンキに行っているときは面白かったね。何日もおったんですけどね。毎日泊まる所は取ってくれてるわけですよ。ちゃんとしたアパートです。ギャラリストが取って、友達の部屋で「ここ空いてる」と言うて使わせてくれた。それでね、彼が言うのはね、「トロツキストはどこでも泊まれる」。変わったことを言う人だった(笑)。

裕子:どこの国に行ってもちゃんとシンパがいるから(笑)。

植松:そうそう。それでね、ストックホルムに行くときはちゃんと連絡しているから、「港に着いたらこういう人が迎えに来てくれる」と。マッツビー(Mats B.)というんですけどね。彼は何年か前に亡くなったんですけど、1986年に、北欧三館のヴェニス・ビエンナーレのコミッショナーをした人なんです。その時はまあ、その前ですからね、港へ迎えに来てくれるわけです。ところが、1時間くらい待たされたんですよね。どうなってんのかな、迎えに来てくれると言って。でも連絡先も何も知らないわけですよ。そうしたら寝坊をしたと言って、ものすごく走って来た(笑)。僕より若い人でした。それで、そのままモダーナ・ミュゼットに行くわけですよ。モダーナ・ミュゼットという美術館があることは知っていました。いい美術館だと。どんな美術館かは知らなかったけど。それで行って、ビョルン・スプリングフェルドに会うわけです。彼はその当時36歳のキュレイターです。アルバムを3冊くらい見せるわけですよ。立体と写真と、その他の仕事のアルバムと。なんせ日本を出るまでの仕事ですからね、1975年に。それで3冊を見せたら、見終わった後に彼が言うわけですよ。「どのくらいヨーロッパにいるんだ」と。「1年か1年半くらいしかお金がないし、それが済んだら帰ろうと思う。それくらいしかいない」って。そしたら「その間に個展をしよっか」と言うわけですよ、そこでもう。

山下:その場で?

植松:その場で。いや本当かなと思って(笑)。それでまあ、美術館を案内してくれるわけですよ。行ったときに、事務所に行く前にまずびっくりするんですけどね。(マルセル・)デュシャンの大ガラスがあったりね、便器のがあったりね。「なんでこんな所にデュシャンがあんの」とか。それも知らなかったですからね。デュシャンのレプリカとか。

裕子:レプリカを作ったんですよね、1961年に。

植松:ウルフ・リンデ(Ulf Linde)という人がね。ウルフ・リンデにも会うんですけどね。

裕子:ああ、そうですか。

植松:うわ、こんな所にこんなのあるわと思って、(コンスタンティン・)ブランクーシ(Constantin Brâncu?i)のこのくらいの顔のやつもあるしね。あとギャラリーを見せてもらった時にラウシェンバーグの《モノグラム》なんかも見るんですけどね。最初はずっと事務所に行くまでには気がつかなかったんですけど、それもびっくりするんですけどね。「うわ、すごい美術館やな」と思って。それでその話があって、デュッセルドルフに帰るわけですよ。1月の半ばに帰ってきて、1週間か2週間しないうちに手紙が来るわけです。やっぱり私に見せてくれたアルバム3冊を送り返して欲しいって。私のコレーゲ(Kollege:同僚)に全部見せるから、すぐに送り返してくれと。それで送り返したわけですよ。それからしばらくして、手紙が来るわけです。4階だったかな、屋根裏部屋に住んでいましたから、朝、毎日パンを買いに降りて行くわけよ。ブロッチェンというコッペパンですけどね。これが美味しいんですけどね、朝買わないと美味しくないんですよね。だから4階から下りていって。外国で住んでいたらね、まだ数ヶ月くらいしか住んでいないんですけど、朝にポストを見に行くのが楽しみなんですよ。日本の知り合いにもその当時の住所を言っていますから、いろいろと手紙を書いたりしていて、手紙が来るのがやっぱり楽しみ。それでポストを開けたりして。そうしたらポストにair mailが入っていて、モダーナ・ミュゼットのこれくらいの。文面をずっと読みながらね、パン屋に行くわけです。するとね、私のコレーゲが皆興味をもって、あなたの展覧会をすることが正式に決まりましたって書いてあるんです。

山下:すごいスピードですね。

植松:わっちゃあと思ってね。びっくりしてね。うわ、やった!と思うて。パンを買いに行っているでしょう。コッペパンを5つくらい買うんですよね。袋に入れてくれて、それでお金を払って出るんですけどね、コッペパンの袋を上下反対に持って出るんですよ。そしたらパン屋の外で袋からコッペパンがボーンと転がってしまって。だからもう一度拾って入れて、持って帰って食べたけどね。(笑)

裕子:気が動転して。

植松:そうそう(笑)。そういうかたちで決まるんですけどね。そのアルバムを見せた時に、じつは彼は僕の作品をもう知っていたんですよ。1974年の「ア・ヘッド・ミュージアム・フォー・ザ・エイティーズ」がギャラリー・チープ・スリルで行われて、1975年にその展覧会がモダーナ・ミュゼットにも巡回していたんです。

一同:へえ。

裕子:ストックホルムにも(作品が)行ったんですね、じゃあ。

植松:そう、ヘルシンキの後。僕の写真をすでに何点も見ているわけです。それを見ていたので、アルバムを見せた時「このアルバム知っている。この作品は知っている」とか言って。

裕子:じゃあすでに注目されていたんですね。

植松:あとね、日本での作品も知っていたんですよ。日本に行ったことがあると言って。日本でいろいろと見て、箱根の彫刻の森の作品だったかな。「これは見たことある」って、棒の長いの。(注:《Distinction》、1971年、『Keiji UEMATSU』、p.21)それでいろいろと見ていて「ああ、これも見たことある」とかいう感じで。それで一応知っていたんですよね。瀧口修造にも会ったと云ってました。すごいクレバーな人だと。

司:すごいですね。

裕子:出会うべくして出会ったんですね。

山下:運命的なところで。

植松:PS1(注:現在のMoMA PS1。公立小学校をリノベーションして、1971年に設立、1976年に最初の展覧会が開催された。2000年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)の別館となる)の人も、後の話になるけれど、知っていたんですよね。アラナ・ハイス(Alanna Heiss)も、僕の作品を。

裕子:見る人はちゃんと見ている。

司:すごいですね、キュレイターは。

植松:それで決まったでしょう。36歳の若さのキュレイターがそれだけの決断をする力を持っているというのに僕はびっくりしたんですよ。だから最初、信じられないですよね、そんなの。「あなたの展覧会、いる間にやりましょう」なんて言って、本当にしてくれるのかなって。その当時1976年ですからね、日本の美術館で現代美術の作家が個展なんてできないですよ。ちょうど東京国立近代美術館でね、堀内正和と斎藤義重の二人展くらいですよ。その前に神戸だったら、小さいけれど南蛮美術館で河口(龍夫)さんと僕がやっていますけどね。(注:「2人の現代作家と南蛮美術館−河口龍夫・植松奎二展、1975年3月15日−4月6日」)日本の美術館が現代美術の作家を見せるなんて、二人展はあっても個展は皆無でしたね。そういうのがない時に、僕はまだ28歳とかでしょう。「え、ここの美術館で個展してくれるの」と。だから全部で、50メートル×10メートルまではなかったな、でも広かったですよ。何とかウィングというところの、ちょっと幅があまりなくて長い、廊下みたいな所だけど。

裕子:あそこって、もともと体育館か何かを改築した美術館だったんですよね。今は新しくなってますけど。だから広いんですよね。

植松:そう。僕の後にまた新館が建つんだけど、長い…… ウエスト・ウィングとイースト・ウィングというのと、長いのができていたんですよね。そこの窓側の所を全部使わせてもらったんですけどね。500平米まではなかったんだけど、なんせ広かったですね。

司:同じ美術館でも、日本とヨーロッパとの違いとか、キュレイターの力とか、そのような美術を支えるフィールドの構造や制度的な違い、そしてアーティストの位置付けの違いについて、個展の準備を進めていくなかで、いろいろと感じた点はありましたか。

植松:それはね、全然条件が違いましたね。飛行機の往復ね。今度はデュッセルドルフから往復でしょう。その前に家にも打ち合わせに来るんですけどね、その当時まだ電話も何もないからね。電報が来るわけですよ、ベルリンから。ビョルンがベルリンに来ている時に電報を打ってくるわけです。「来週の何時に」。ああいうのって面白いね。そのとき初めて分かったんですけど、何週目、1年間の何週目ですよね。「何週目の何曜日はいるか」みたいな感じで来るわけですよ。「今ベルリンにいるけど行く」とか。返事のしようがないですよね(笑)。もう一方的に行くと言って。だから電話をつけないといけないと思ったんですけど。見に来てくれたりね、打ち合わせをしたりいろいろとするんですけど、行く前になって、嫁さんと僕の二人分の飛行機の往復チケットを送ってきてくれるわけです。送ってきてくれるといっても、飛行機会社にチケットを預けるということで、飛行機会社に取りに行く感じ。僕は家に来ると思っているから、全然(チケットが)来ないからね。これでは行けないと思って、「チケットが来ていない」と電話するわけです。すると調べたら、「デュッセルドルフのスウェーデンのエアラインの事務所にあるから、そこに取りに行ってくれ」と。すぐに取りに行くんですけどね。だから往復(のチケット代を)出してくれて、着いたら着いたでアパートを借りてくれているわけです。1ヶ月分のアパート。

司:1ヶ月? オープンの1ヶ月前に?

植松:そう。1ヶ月前に行ったんです、オープンの。1ヶ月前に行って、アパートを借りてくれてて。それで着いた翌日に打ち合わせ、その明くる日に、生活費といってその当時で20万円くらいくれたかな。「これ食費や」と言って。わちゃあと思って。面白いのはね、作品は結局インスタレーションばっかりでしょう。この作品集にもモダーナ・ミュゼットの作品があるけれど。(注:《Situation-Glass and stone》、1976年、『Keiji UEMATSU』、p.75)インスタレーションと写真ですね。だから写真は全部持って行ったんです。ロールで巻いたのと、この板でちゃんと入れたのとを持って行って。これから立体を作らないといけないでしょう。立体のアイデアをぶわっと描いていたわけです。こういうのをしたいって。ガラスが要るとか鉄板が要るとかいろいろとあるんですけどね。これがウィングですね。(注:『Keiji UEMATSU』、p.76に展示風景の写真。)

山下:個展の内容は自由だったんですか。

植松:個展の内容は自由です、全く。

山下:何をしても?

植松:何をしてもいいという感じ。これもモダーナ・ミュゼットの作品ですけどね(注:《Three iron places and three glass plates》、1976年、『Keiji UEMATSU』、p.73)、鉄板とガラスで、鉛で包んで、ここは鉄板が入っているか、ひょっとしたらガラスが入っているという。中は見えないというかたちで。結局、鉛を上からぐっとずらしたやつと引っ張り出したやつでこういうかたちになっている。出ているところは鉄とガラスとかそんなんですけどね。結局、打ち合わせをしていてね、アイデアを出して、こんな作品を作りたいって。僕、制作費がだいぶ要るよなと思ってお金を持って行っていたわけです。自分で作品の材料を買わないといけないでしょう。でも話していたらね、なんか話がかみ合わないんですよね。これは聞いてみないといけないと思って聞いてみたんですよ。「ところで制作費というか、マテリアルとかいろいろ、これはどうするんですか」と言ったら、「当然、美術館が出しますよ」って。「美術館が出さないと、良い展覧会はできません」と言って。わっちゃあ(笑)。いろいろとびっくりするわけね。今までガラス(の厚さ)が1センチって言っていたのがね、「これ2センチ」(笑)。鉄板もね、「この鉄板もこれ、2センチに変えたい」とか言って、「わかった、わかった」って。全部揃えてくれた。ところがね、彼らは彼らでね、またバンバン電話をかけまくるわけですよ。鉄板いうたら鉄工所、鉄の会社ですか。スポンサーになってくれと言って。するともう鉄がバーンと来るわけですよ。そういうのを皆でやるんですよね。キュレイターだけじゃなくて、アシスタントとかいろんな人が。それで材料を集めてくれたり。

裕子:ちゃんとお金を作る術も知ってるわけですね。

植松:そうですね。ポスターとかカタログのレイアウトも全部、行ってからですよね。「ポスターはどれにしよう」とか言って。「ポスター?」って。着いた明くる日からポスターはどれって、「これ」とか言ったら、すぐピャッと郵便で送る。カタログのデザインも、「パンフレットは小さい簡単なやつしか作られないけど」と言って。

裕子:でもかっこいいカタログですよね。以前ストックホルムに調査に行ったときに古本屋で偶然見つけて、びっくりして買いました。

植松:うん。もうほとんどビョルンが選んでいましたね。僕が「これを入れたい」と言ったら彼も「これがいい」って、もう1日で目の前でドーッとやっていって、貼り合わせて、すぐ印刷屋に送ったんです。もう迷うことなしですね。そのときにテキストを書いてくれたのが3人いて…… ビョルン・スプリングフェルドはテキスト書かなかったです、企画だけで。だからジオ・マランダーというヘルシンキのギャラリストと、マッツビーといって僕を迎えに来てくれた人と、それからもう1人、ベングト・アヴ・クリントヴェルグ(Bengt af Klintberg)。これはフルクサスのメンバーです。この人がね、フルクサスと僕との関係性という文章を書いたんですよね、今思い出したけどね。ビョルンは「奎二、フルクサスとどういう関係があるんだ」と訊くわけ。「いや僕、フルクサスは好きやけど、フルクサスと僕の仕事は全然関係ないよ」と言って。それでその人に「関係ないと言っているよ」って(笑)。

一同:(笑)。

司:結局どういうテーマになったんですか。

植松:僕もちゃんと読んでないですけどね。結局書き直したのです。「The art of feeling a tree」と書いてある。そういう感じで。だけどこのカタログ、今から思ったらね……

司:いや、すごくいいですよね、これ。

植松:良い作品をちゃんと選んでいるよね。写真と立体と。まあ、写真のほうが多いけど。

裕子:すごくレイアウトも素敵で。

植松:うん。そのときに文章を小さく入れるから何か書いてくれと言われて書いたのが、このテキスト。昔のを思い出して書いたんですね。だからこの言葉も、後から考えてみたら、(パウル・)クレーに同じようなこんな言葉がありますよね。

裕子:そうそう。クレーも「見えないものを見えるようにする」って言ってるんですよね。

植松:そうそう。だから僕、クレーが好きだったから、クレーの日記とかをいろいろと読んでいて、それからの影響がね、やっぱり自分の中にあるなと思った。

山下:制作の準備というのは1ヶ月間どちらで? 加工とかは?

植松:モダーナ・ミュゼットの美術館の中でやるんです。

山下:できたんですか。

植松:はい。アシスタントを1人つけてくれて、そのアシスタントが立派なアシスタントで、僕より上手いですよね。鉛の曲げとかいろいろとするのとか、コンコンと作ってくれる。木の枝取りに行ったりするのはビョルンと一緒に取りに行ったりね。自然の木を切らないといけないから、人がいない時にね、黙って切らないといけないでしょう。石は拾って帰れるけど。分からないように切って持って帰ったりとか、そういう感じで。

山下:じゃあ1ヶ月間、そのスペースは何も展示されていなくて?

植松:展覧会はあったんですよ。

山下:違う場所で制作させてもらえたということでしょうか?

植松:いや、その場所で作っていましたね。

山下:その場所ですか。

植松:ええ。その場所で鉛の作品を作っていた。そうしたら僕の前、何の展覧会していたのかな。ウエスト・ウィングとイースト・ウィングで、僕が作っていたのはウエスト・ウィングだと思うんですけど、イースト・ウィングでは展覧会をやっていて、真ん中はコレクションがずっとあって。

裕子:制作しているところは準備中ということで一時閉じていたんですね。

植松:そうです。だからだいぶ長い間閉じていたということですね。そこで作っていたもんな。

司:オープニングとかはありましたか。

植松:別にオープニング・パーティはなかったです。だけど、オープニングの後、キュレイターが美術館の館長さんの家でパーティーをしてくれた。その時にね、1人の女の人のキュレイターに言われて今でも覚えているのは、「ヨーロッパで一番最初にあなたの展覧会をしたのはうちの美術館だいうことを忘れないでいて欲しい」と。やっぱりすごいなと思った。「当然忘れませんよ」って(笑)。やっぱりそれだけ自負があるんですね。選んでやっているんですからね。

山下:見据えてますね。

司:発見したって感じですね、彼らからしたら。

植松:そうそう。それはね、すごいと思った。あ、そのときね、館長さんは、スウェーデンでペインターか何かをしていたんです。

裕子:そうですね。(注:当時の館長は画家のフィリップ・フォン・シャンツ。Philip von Schantz、1973年から77年まで館長を務めた。)

植松:ポントゥス・フルテン(Pontus Hultén)の後でね。その館長さんの奥さんが僕に訊いたんですよ。「なんでデュッセルドルフに来たのか」と言って。彼女もデュッセルドルフがドイツのアートシーンの中でもすごいということは知ってるわけですよね。「やっぱり作品が売れるからか」とかそういうふうな質問をされたわけです。僕はその質問に対してかなり意外でしてね。売れる売れないなんて考えてないからね。「いや、それは違うよ」と言ったんですけど、アーティストの奥さんだからそうだったのかも分からないですね。そのときに女性のキュレイターが「ちょっと気分を害する質問を彼女がしたかも分からないけど、気にしないでください」と言われたの、よく覚えてますわ。なんでこんな質問したのかなって。デュッセルドルフはアート・マーケットで重要な意味を持っていると思ってたんですね。だからそういう質問をされたことを覚えている。「私の所の美術館が一番最初の展覧会だということは忘れないで欲しい」というのもね。

裕子:それぞれに思いがあるんですね。

植松:そうですね。

裕子:フルテンの時代にちょっといろいろとやり過ぎて、1970年代の半ばにはモデルナ・ミュゼットは少し難しい立場にいたようです。

植松:ああそうか。だからいろいろな展覧会をしていましたね。

司:パフォーマンスはされませんでしたか。

植松:そのときはパフォーマンスはやってないです。立体はインスタレーション、スカルプチャーという形で、あと写真の仕事と、それでフィルムを何本か持っていましたから、そのフィルムと。それとヴィデオ。そのヴィデオというのがね、日本から持って来たヴィデオが全然映らないんですね。

司:コードが違うのですね。

植松:そんなの知らなかったですから。もう全然映らないと。ポスターにもカタログにもヴィデオと書いているしね。出品リストにも書いているしね。これはヴィデオがないといけないということで、急遽撮ったんですよ。パフォーマンスみたいに電球を振り回したり、石をゴンゴンしたりして、その展覧会のために作りました。

山下:そうなんですか。すごいな、その話。

裕子:それはまだあるんですか。

植松:あります。

裕子:同じ作品が2バージョンあるんですか。モデルナ・ミュゼットで撮ったのと……

植松:いや、日本で撮ったのとは全然違うものです。

裕子:ああ、新しいものとして。

司:新作を作ったわけですね。

植松:新作を作りました。2本作って、そのうちの1本は消えてしまったんですよ。なんでかと言ったら、オランダのマーストリヒト(Maastricht)にある美術館で、ヴィデオ・エキシヴィジョンに出品してくれて、そのヴィデオの作品2本を送ったんですよね。すると1本消えてしまったんですよ。そして送り返してきてね。まさかこれがマザー・テープだと思っていないと言うわけね、向こうがね(笑)。1本消えてしまったけれど、申し訳ないといって。でもまあいいかと思って、もう1本は残っていますから。

司:ストックホルムでの個展は、1ヶ月ちょっとですかね、こんな人が観に来たとか、何か反響はありましたか?

植松:反響というのはね、僕はあまり分からなかったですけどね。

司:オープンしてクローズまで滞在されたのではなく?

植松:いや。オープンして少しだけ。

司:少しだけで戻られたんですね。

植松:アパートを借りていてそこから美術館に行くでしょう、朝に。オープンしてからですけどね。そうしたらバス停で待っていたらね、おばさんが話しかけてくるわけですよ。「今、モダーナ・ミュゼットで展覧会している人ですか」という感じで。日本人ってそんなにいなかったですからね。

裕子:目立っていたんですね。

山下:1970年代ですもんね。

植松:町の中にポスターがいろいろな所に貼られている。そういう意味ですごいなと思った。ラジオで流れたり、いろいろしていたんでしょうね。後で新聞記事とかそういうのは送ってくれましたけどね。

司:新聞に出ていたんですね。

裕子:展覧会評とか。

植松:そう。僕がインスタレーションを作っているところとかね、そういうのが出ている。

山下:貴重な資料ですね。

植松:それでオープンしてしばらくして、1日か2日してからだったかな、(バーナード・)ベッソン(Bernard Besson)が日本から来ます。

渡辺:ベッソンが?

植松:うん。なんでベッソンが知っていたんでしょうね。ベッソンといって、日本にいたフランス人の作家で、今はフランスに住んでいるんですけどね。日本にいるときにギャラリー16(京都)で個展をしていて、僕も知っていたわけです。偶然なのかな、あれ。日本から来たときにスウェーデン経由で来ているんですよね、ハバロフスクを通って。それでストックホルムに着いてモダーナ・ミュゼットに来たら僕の展覧会をしていたのかな。

司:びっくりしたでしょうね。

植松:僕もびっくりしたけどね。向こうもびっくりしたと思う。知らなかったと思うよね、当然。日本に案内状は送っているけど、ベッソンに送っているわけじゃないし。モダーナ・ミュゼットはドイツの作家でも(ベルント & ヒラ・)ベッヒャー(Bernd and Hilla Becher)の展覧会をしたり、いい展覧会をしているなということは知っていたんですよ。(ギュンター・)ユッカー(Gunther Uecker)の展覧会や、ボイスの展覧会も1960年代の、ものすごく早い時期にやっていますよね。1964年か、もうちょっと後か。それでも早い時期にやっていますよ。

山下:個展では、先ほどおっしゃったように写真やビデオが展示では一緒に出てくるんですが、それは植松さんにとって今までのものを見せようというお考えなのか、あるいはスウェーデンやヨーロッパ全体として、写真やビデオを多くの作家が扱っていたという当時の状況に合わせたのか。そういう意図はありましたか。

植松:それはないですね。状況に合わすとかそういうのではなく、自分の仕事を、日本でやってきた仕事ですよね、それを見せると。だから立体も新しい作品を作るんですけど、写真もデュッセルドルフで作った1976年の作品ですからね。(注:《Seeing-LandscapeT》、1976年、『Keiji UEMATSU』、pp.62-63)そういう形で1976年までの仕事を見せると。だけどインスタレーションは、結局先ほど言っていた、日本の仕事をもう1回振り返ってみる。そういう仕事をしてみようと思った。だから(作品集を見せながら)こういう仕事ですね。これを美術館、この長い所ですけど、2つあるわけですよ、入口と出口が。これをそこでやるわけですよ。ジャッキでこうやって。(注:《Untitled-Interval/Situation》、1977年、『Keiji UEMATSU』、p.78)

裕子:角材を持ち上げてという。

植松:楔で止めて。危ないでしょう。危ないから、このポスターを入口に貼っているわけです。赤でね、どこかに書いていました。「お父さんお母さんは子どもの手をつなぐように。ヘルメットを被ってください」というように。

司:工事中みたいな。

植松:危ないですからね、それは気にしていましたね。やっぱり事故が起こったら大変。

司:立体の作品は、展覧会が終わった後どうなったんですか。

植松:ああ、それでね、僕が訊くわけですよ、「展覧会が終わった後、どうするんだ」って。そしたら「送り返してあげる」と言うわけよ(笑)。鉄板とかね。こんな鉄板なんかも作ったんですけどね。

司:前にスライドで見せていただいたことがあります。

植松:鉄板が2枚あって、石が挟まっているんですけど、石が落ちなくて斜めになっているとかね。いろいろとあるんですけど。だから木とかそんなのは要らないけど。例えばガラスとかね、1メートル×2メートルくらいで、厚さは2センチぐらいあるんですけど。そういうのを、全部送ってあげるよと言われた。それでね、この後の展覧会がミュージアム・ヴィースバーデンいう所で決まっていたんですよ。(注:Plastik und Foto, Städtische Museum Wiesbaden, Wiesbaden, 1977.)

司:個展ですか。

植松:個展。モダーナ・ミュゼットの後が決まっていたので、そうしたらミュージアム・ヴィースバーデンに送ってくれるということに。それで作品がそのまま行くんです。

山下:すごい流れですね。

司:それは何年になりますか。1977年?

植松:1977年。

司:1977年のいつごろですか。

植松:いつかな。ストックホルムの展覧会が済んでからですよね。1月に終わって、春まで置いておいてくれたのかな。

司:じゃあ、割と近かったわけですね。

植松:3月ですね。3月13日から3月20日まで。もう短い、1週間しかない。それで全部ヴィースバーデンに来て、そこから今度、デュッセルドルフの僕のスタジオに返ってきた。

裕子:最終的にはこれらの作品は?

植松:よく訊いてくれました。いろいろ訊いてくださいね。どんどん訊いてくれたら、僕はすぐ思い出す。この作品は、モダーナ・ミュゼットのコレクションで買い上げになるんですよ。

司:鉛の?

植松:うん、鉛と鉄とガラス。これは材料費も全部向こう持ちでね。(注:《Three iron plates and three glass plates》、1976年、『Keiji UEMATSU』、p.72)

司:そうそう、個展をしたら1点ぐらいはコレクションに入らないのかなと思っていたんです。

植松:これを買い上げてくれたんですよ。それでね、僕はいろいろあげるよって言ったんです。プレゼントするって。せっかく美術館が作ってくれたから。そう言ったらビョルンね、「Keiji、それは言ったらあかん」って。「それを言ったら美術館は作品を買わない」と。そういうふうに教えてくれたわけです。「そうかそうか、それなら僕はあげない」とか言って(笑)。

司:写真とかフィルムとかそういうのは?

植松:まずこれを買ってくれたんですよ。この時に値段を訊かれたわけですよ。結局、作品を売ったことがないでしょう。日本で、こういうのを版画に直したのを売ったりとか、そんなことはちょっとありますけどね。立体の作品なんか売ったことがないし、値段が分からないわけですよ。そうそう、その前にね、ミュージアム・ヴィースバーデンで(クラウス・)リンケ(Klaus Rinke)の作品を見るわけ。コレクションに入っている作品。その時に、いくらで入ったか、値段を訊いたんです。16,000マルクくらい。だからその当時で言ったら200万円は軽くする。僕もそれくらいにしようかなと思って(笑)。相場を知らないからね。そしたらビョルンに言われたかな、「Keiji、それはちょっと高いよ」と(笑)。その当時のお金で200万円ですから、1976年ですからね。でもそれでオッケーが出たんですよ。買ってくれたんですよ。

一同:へえ!

植松:お金がね、デュッセルドルフの銀行にぼんと入ってくるわけです。ドイチェバンクに僕の名前宛ての小切手みたいなものが、送られているわけですよ。それで銀行に行って小切手を受け取って、そこで現金化したんですけどね。買ってくれたのはこれだけで、あとは立体の作品で、ここでガラスにロープをかけて引っ張っている作品があるんですよ。それはあげました、欲しいと言うから。

裕子:それはストックホルムのコレクションに寄贈されたんですね。

植松:そう。「写真は欲しいか?」と言ったら、やっぱりすごく遠慮はするから。ビョルン・スプリングフェルドにその写真を1点あげたんですよ、「寄贈という形でコレクションにしておいて」と言って。他、フィルムの作品も寄贈しました。

裕子:その他の立体は、他のどこかのコレクションに入っているんでしょうか。

植松:入っていないです。持って帰って終わりですね。材料ですから。

裕子:再利用されたということですか、他の作品に。

植松:そう。

司:ヴィースバーデンの現場でまた作品として展示して、その後はスタジオに。スタジオは屋根裏ではなかったのですか。

植松:それはモダーナ・ミュゼットで個展をする前ですね。一番最初のスタジオには半年ちょっとしかいなかったかな。やっぱり一生懸命、仕事場を探すわけですよ。探していると、いろいろと新聞に出ているんですよね、何平米でいくらって。そうしたらすぐに見に行くわけです。見に行ったらもう本当の屋根裏で、まっすぐ立てるのは屋根のこちら側だけで、ドーッと長いとかね。こんなのだめだって、それでいろいろと探すんですけど。ちょうど友達が、アブラハム・デヴィド・クリスチャン(Abraham David Christian)というジューイッシュの作家ですけど、ドイツ国籍のジューイッシュの作家で、彼は僕より若くて、横田茂ギャラリーで時々展覧会をしている立体の作家です。彼のスタジオを訪ねると、結構立派なスタジオなんですよね。彼はスタジオの中にテントを張って寝泊まりしていて、そこで作品を作っていた。全部で135平米ぐらいあって、広いんですよ。うわあ、すごいな、こんなアトリエいいなと思っていた。そうしたら彼がちょうどそこを出ると。新しいところに移って、アカデミーの先生になると言っていたのかな。だからもうここを出て、アカデミーの部屋で作品を作るし家も替わるからと言って。それで結局、彼はドイツ人が嫌いなんですよ。ジューイッシュだから、お祖父さんとか皆殺されているわけです、ナチに。僕は日本人でしょう。だから素直に教えてくれたわけです。「ここに入るとしたら(値段が)どれぐらいするの」と聞いたら、結構高くて。それで僕はね、日本人の友達で1人、橋本左右平いう人がいたんですよ。その人に「クリスチャンがスタジオを出ると言っていて、僕はそこに入りたいんだけど、一緒に半分借りないか?」と言って。彼の住む家は別にあったから、大きなスタジオの80平米くらいの真四角の部屋で、天井高は3m30cmぐらいはありましたけどね。そこの半分だけを彼に譲るわけです。それで家賃をちょっと払ってと。それで「あとは僕が寝室とか台所とかで使うけどいいか?」と言って。それで半年ぐらいは彼に半分貸していたかな。ふたを開けてみたら実際はそんなに大した値段じゃなかったんです。結構高いと言われたんですけど、そこまで高くはなくてね。これなら自分1人でも払えると思ってね。半年ぐらいしたら、彼が自分のスタジオをまたどこかで見つけて出て行ったので、それで結局僕1人のスタジオになりました。

司:かなり広いスタジオになりましたね。1976年の秋ぐらいからですかね。

植松:そうですね。1976年の9月ぐらいだと思います。

司:そうですね。その作家がちょうど大学に行かれてからですもんね。

植松:そうそう、クリスチャンが大学に行くと言って。だから9月ぐらいだと思います。そうすると1年ぐらいは最初の屋根裏にいたのかな。

裕子:それでスタジオも確保でき、作品も少し売れたりして。

植松:いや、全然そのころは売れていないです。

裕子:そうか。その後がストックホルムですもんね。

植松:いや、その前にも売れているかも分からない。グループ展に出品しているでしょ、1970年代に。

裕子:最初は1、2年、お金が続くだけドイツにいるつもりだったとおっしゃっていたので、それがどういうふうに長く続いたのか。

植松:やっぱり1976年ぐらいに作品が売れていますね、写真の作品が。

司:それはどこかで展示して?

植松:これはギャラリーです。ヘツラー・プラス・ケラー(Galerie Hetzler + Keller, Stuttgart)といって、今はベルリンにありますけどね、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)とか扱っていて。ものすごい大ギャラリーになっていますわ。

司:その当時はどちらにあったんですか。

植松:シュツットガルト。名ギャラリーですよ、もうすごいメンバーで。僕が個展をしたとき(1977年)はコンセプチュアル系の作家を扱っていたんです。リンケさんにしろ僕にしろ、マリオ・メルツ(Mario Merz)もやり、リチャード・ノーナス(Richard Nonàs)もやり、いい作家がよく展覧会をしていたんです。ある時、何年かな、ニュー・ペインティングが出てきた頃、がらっと作家を入れ替えて、それで成功したんです。

裕子:コンセプチュアル系はやっぱり売りにくいというのがありますよね。

植松:彼はミュールハイム・フライハイト(Mühlheim Freiheit)というグループの作家達を押し出したんですよね、それで成功していくんですけどね。

司:じゃあ植松さんはドイツに行って1年ぐらいでもうギャラリーで個展もし、美術館での展覧会もして……

植松:そのときは個展じゃなしにグループ展ですけどね。

司:作品も売れて、スタジオも替わって。何かもうアーティストとしての……。

植松:いや、写真の作品が売れたといっても、たかが知れていましたけどね、その当時。

司:でもそれから展覧会をヘルシンキでやって、モダーナ・ミュゼットが決まって、その後ヴィースバーデンの話があって。つながっていきますよね、すごくスムースに。

植松:だからモダーナ・ミュゼットで作品が売れた時に、初めて「あ、アーティストでいけるんじゃないか」と思ったもんね。それで1976年から77年にかけての年末にはもう日本に遊びに帰っていますからね、1ヶ月。

司:もう遊びに帰る余裕が。

植松:余裕がありましたね。ちょっと日本に帰るかなって感じでね、1ヶ月だけ。友達に会ったり、親に会ったりね。でもそんな余裕はずっと続くわけじゃない。モダーナ・ミュゼットのお金が入ったから、その時はそれで行けたけどね。その後はギャラリーでグループ展をしたり、1977年には個展をするんですけどね、シュツットガルトのヘツラーで。(Plastik und Foto, Galerie Hetzler + Keller, Stuttgart, 1977)そのときも作品が何点か売れたから、ちょっとずつですけどお金は入ってきましたね。

山下:それは今までの植松さんの展覧会を見られて、連絡が来るわけですか。1986年になると西宮に帰って来られますが、それまでは常に連絡が来て、展覧会を開いていたのでしょうか?

植松:僕は1975年に行ったでしょう。行ってからモダーナ・ミュゼットの個展が決まりますよね。その半年ぐらいの間に、展覧会がもう立て続けに決まったんですよ。ミュージアム・ヴィースバーデンの決まり方というのは、リンケの学生の展覧会に僕は出したわけですよ。それでその展覧会が済んだ時に向こうのキュレイターが「あなたの個展をしましょう」と言ってくれたんです。それからデュッセルドルフのクンストハレ。Ausschnitteっていうタイトルなんですけどね。(Ausschnitte 1, Städtisches Kunsthalle Düsseldorf, Düsseldorf, 1977.)たしか4人か5人の展覧会だったんです。ところが、1人ずつ大きい部屋をもらえて。僕も一番メインの広い部屋をもらえたんですよ。だから個展という扱いに、僕はしているんですけどね。その展覧会が決まった時も、何かのオープニングに行った時にクンスハレの館長が、「今度あなたと仕事をしましょう」と言うわけ。僕はよく分からないから、「あなたと一緒に仕事をしましょうってどういうことですか」と。そうしたら「いや、あなたの展覧会をやりたいということです」と(笑)。それでもう「打ち合わせに来てください」という形で話が進んで。

山下:すごいですね。

植松:そのときに覚えているのはね…… 最初のモダーナ・ミュゼットの個展で、条件がすごく良かったでしょう。だからそのデュッセルドルフの館長に訊いたんですよね、「制作費は出してくれるんですか」と。そうしたら真っ赤な顔をして、「出せない」と言われた(笑)。「このアーティストは何を言い出すんだ」という感じでね。僕はこういう展覧会では全部出してくれるんだと思っていたからね。

裕子:どこでも一緒というわけではないんですね。

植松:当時のクンストハレはアーティストの個展をするときに、制作費なんて全く出していなかったですね。ミュージアム・ヴィースバーデンの時も、やっぱりお金がないでしょう。モダーナ・ミュゼットから作品は送られて来るんだけど、美術館を建て直したり修復したりでね、廃材のガラスがいっぱい出ているんですよ、ガラス窓とかそんなのが。それがもういっぱいあるから、「この材料を使うんだったら何でもいい」と言われたね。「それなら好きなようにやらせてもらいます」と。それを使って作品を作ったんですね。

司:そうやってインスタレーションの材料を少しずつストックしながら。

植松:うん。展覧会が済んだ後、どんどん返ってくるわけですよ。皆くれるわけ。その後もハイデルベルクのクンストハレで、1979年ぐらいだったかな、個展をするんですけどね。(Skulptur, Foto, Heidelberger Kunstverein, Heidelberg, 1979.)その時も「制作費を出してくれ」と言ったら、出してくれたんですよ。角材を買ったりガラスを買ったり、いろいろとしてくれて、その後訊かれるわけです。「展覧会が済んだ後、このマテリアルはどうするの」と向こうが訊くんです。「当然僕の物でしょ」と言って送り返してもらう。それでどんどん増えていったよ。

裕子:やっぱり交渉力が大事だということですね。そこでしっかりと権利を主張して。

司:制作費は出るのかとか、それは自分の作品だとか。

裕子:基本的に英語でのコミュニケーションですか、あちらでは。

植松:僕はドイツに行くと決めてゲーテ(・インスティチュート)の館長さんにいろいろとお願いした時に、館長の秘書さんから電話がかかってきて「植松さん、いつから行きますか」と言われて。「来年です」と言ったら、「インテンシブ・コース、無料で招待しますから来てください、ドイツ語を勉強してください」と。それで最初は行くんですけどね、結局忙しいから続かないんですよ。毎日ですからね、集中講義。それでまた電話がかかってくるんですよ。「植松さん、ずっと休んでいますけど、どうしたんですか」。「いや、すみません。ちょっと忙しくて行けないんです。ドイツに行ってから何とかやります」と答えて。それでドイツに行ってからフォルクスボッホ・シューレという所に行くんですけどね、市民学校です。そこでいろいろと勉強するんですけど、ドイツ語はあかんわって思ったんですよ。もともと勉強があんまり好きじゃなかったからね、やめてしまうわけです。やめてから今まで、僕の拙い英語でずっとやってこられたわけですよね。美術館の館長やキュレイターにしたって全部英語でいけますからね。アーティストもほとんど英語で喋れたしね。僕もうずっと英語でやっていたんですよ。ドイツ語は使わなかったです。ドイツ語を使う時というのは、鉄板を買いに行く時とかね、ガラス屋さんに行く時とか、そういう所では英語は通じないですからね。そういう所は電話して、必死になってドイツ語を喋ったり、いろいろとするんですけど。拙いドイツ語で。というのは、最初に言っていたように、1年半かそれぐらいしかいることはできないと思っていたから。何ていうんですかね、ドイツ語を勉強しなくても何とかなるわと思って。ある程度滞在が長くなってから、向こうはドイツ語で喋っているのに僕は英語で喋っているとかね。それで僕がまた英語で喋ったら、また向こうはドイツ語で喋るとかね。分かることは分かる、聞くのはね。だから面白いよね。ハイデルベルクのクンストフェラインで個展をした後、ハイデルベルクにはそれからまた何度も行くんですけど、館長さんや向こうのアーティストといろいろ話すわけです。するとアーティストが僕のことをドイツ語で喋っているんだけど、そうしたら館長がね、「Keijiはドイツ語が分かるよ」「あ、そう……」って(笑)。

司:こそこそ話していたのが聞こえていたんですね。

植松:やっぱり雰囲気でね。まあ、耳から入った言葉だから、例えば信号を渡る時に「フォズィヒト!(Vorsicht!)」と言われたら、フォツィヒトは危険とか気をつけてとかいう意味だなとか。そういう形でどんどん覚えていきましたね。

司:ハイデルベルクの個展が1979年で、1986年から西宮とデュッセルドルフを往復されるような形になっていますが、西宮にもスタジオを作られて。

植松:ええ。

司:それまでは何とかお金もつながって生活されていたということですか。アーティスト以外の仕事とか?

植松:結局ね、アートだけでは食べられないわけですよ。生活できない。それで僕のスタジオを訪ねてきたアカデミーの学生がいましてね。それでスタジオが結構広いでしょう。また電話がかかってくるわけです、帰った後に。「植松さん、絵画教室をやりませんか?」って、児童の絵画教室。「その手配は全部僕がしますから」と。ポスターを描いたり、生徒を集めたり。「だから一緒にやりませんか?」と。「そうしたらやろうか」ということで、土曜日に子どものための絵画教室を開くわけです。日本人相手ですけどね。日本人相手で、子どもの絵画教室を土曜日にやり始めた。なかにはドイツ人もいましたけど。

山下:小学生の?

植松:もうほとんどが小学生です。小学生の普通のお絵描き教室、絵画教室と、あ、大人もやりました。油絵の、大人のペインティングのクラスも。

司:植松さんのスタジオで?

植松:スタジオです。スタジオを片付けて。

司:いつ頃からですか。

植松:いつ頃からやり始めたかな…… 

渡辺:誰とやっていたの。

植松:西川君。

渡辺:ああ、西川君。

植松:1977年はしてないな。78年……。79年かな。

司:その学生さんというのは日本の方?

植松:日本人ですよ。

司:日本人の方が、組んでやろうと話を持ちかけて?

植松:そうそう。

司:日本人相手に。

裕子:デュッセルドルフは意外と日本の駐在の方とか多いんですよね。企業がいっぱいあって。

植松:1979年にはしていましたね。だからそれぐらいからじゃないかな。それまでは作品が売れるのと、一応、嫁さんがアルバイトをしていました。ジェトロという会社があるんです。

司:貿易関係ですね。

植松:そこで1週間に3日ぐらい勤めていたんじゃないかな。それでね、1979年ぐらいから絵画教室を始めるのと同じ頃にね、壁塗り屋さんをやるんですよ。デュッセルドルフ、ドイツでは家を借りたら出て行く時にちゃんと元通りにしないといけないから。壁を塗り替えて、ドアも塗り替えて、全部やらないといけない。まあ、ドアは塗らなくてもいい時もあるけど、窓枠から何から全部やるわけですよ。ペンキで塗り替えて。

裕子:入った時と同じ状態にして返す。

植松:そうそう。それをアカデミーの学生2人と、僕と、それから大原君で。大原君は修復家なんです。デュッセルドルフのクンストミュージアムにある修復研究所に勤めていたんです。ところが給料がなかったんや、彼は。研修みたいな形で日本から来ているから。それで日本人相手に。

司:その時の学生さんもやっぱりまた日本の?

植松:全部日本人です。

司:チームを組んで。

植松:なぜ4人かというと、仕事が済んだらすぐ麻雀ができるからです。

一同:(笑)。

司:面子を集めておいて仕事をすると(笑)。

植松:うん。だからモチベーションがあるから、必死になってするわけですよ。早くやろう、早くやろう、早くしたらあと麻雀ができると言って。

司:暮らしぶりが見えてきました。

植松:それでね、日本人クラブに貼り紙をするわけです。「市価の半額」。絶対に安いわけです。だけどね、シュバルツアルバイト(注:「黒い仕事」、違法就労のこと)なんです。これ見つかったらえらいことになるんですよ。だから皆、見つかったらえらいことになることをやっていたんですよ、その当時。これはもう見つかったら強制送還になっていたでしょうね。

司:絵画教室もですよね?

植松:絵画教室はね、なんとかフライシャーフェンダークンストラ(Freischaffender Künstler)でいけるんじゃないかなと思っていたんですけどね。これは何とか言い訳はできるだろうと思っていたんですけど。

司:月謝を取って生活費にしていたんですよね?

植松:そうそう。月謝を取って生活費にしていたわけですよ。

山下:まだまだずっといようと思っていたということですよね。

植松:その時は、まだまだはいたいと思って。滞在3年目ぐらいで考えるわけですが、やっぱりまだドイツにいたいんですよね。5年目のときもね、やっぱりいたいなと。条件がいいですからね。日本に帰っても別に(何かあるわけではない)。それで1981年か82年に筑波大学から教員の話があった時に、また考えるわけですよ。そういう話が来て、帰って来ないかと誘われて。

裕子:教員として帰ってこないかという話が。

植松:どうしようかなって。ニューヨークに遊びに行く前でしょう。1980年の末かな。まだ5年目ぐらいでしたよね…… その時はもう帰ってもいいかなとも思いましたけど、だけどやっぱりいたいんですよね。それで筑波大学の話が潰れて、そのままいるんですけど。それで10年目くらいにね、僕は「あ、このままいたら20年になる」と思ったんです。まあ、生活の知恵がありますでしょう。作品も何とかちょっとずつ売れたりして、やっていけるし、まだいけるなって。ところが20年になったらね、自分の位置がもうどこにもなくなってしまう、そう思ったんですよ。日本でも位置がない、帰る所がないみたいな。ドイツでも結局、10年いてもドイツ人とは違いますしね。やっぱり本当の、ドイツ人のアーティストとしての扱い方とは違うと思いますよ。向こうではやっぱりお客さん。彼らの見方はお客さんですからね。だから僕がなんぼやっても、彼らは妬みも何もないわけ。日本人だから。ところがデュッセルドルフのアーティスト連中はものすごいコンコレンツ(Konkurrenz、競争)ですよ。僕は違うから、すっと入れるわけですよね。これはもうずっといても、20年いてもお客さんだなと思ったんです。それで、やっぱり僕は日本に帰ろうと思ったんです。
 その前に思っていたのはね、やっぱり日本の原形質みたいなことです。いろいろな所で展覧会をする時に、「あなたの作品は日本とどう関係があるのか」とかいろいろと訊かれるわけです。最初の頃はよく訊かれましたよ、作品が全然分からないから。禅とどう関係があるのかとかね。だけどね、禅なんて僕もよく知らないという話になるわけ。マテリアルとして石ころを使ったり、木の枝を使ったり、自然の物を使ったり、そんなところから連想が来るのかなと思ったけど。だけど彼らはそういう、論理で割り切れないみたいなところを僕の仕事の中に見るわけですよ。自分たちの仕事とは全然違うから。そういうのを訊かれた時に、「あ、やっぱり僕は日本人だな」と思うわけですよ。何ていうんですか、自分は28歳で日本を出ていますからね、28年間日本で生きてきて、その風土とか歴史とか文化とか考え方とか、いろいろなものを、日本の血を引きずっているわけですよね。その中で仕事をしてきているので、日本的に見えるというのは、これは当然だなと僕は思ったんです。これは僕の持っているアイデンティティみたいなものだと。これは当然出ていいんだと、わざわざなくす必要もないと。
 ところが、今度はこれが僕から無くなってしまったら、僕自身がなくなるんじゃないかと思ったんですよ。何ていうのか、その自分の中にある日本の原形質みたいなものをすごく大事にしたいなと。それとやっぱりドイツで仕事をしていた時に思っていたのはね、この辺にね(頭を指して)、日本の鉢巻きを巻いているような気がするんですよね、自分で。だから外国に出て初めて日本人であるという…… 日本を意識したんですよね、僕は。それまで日本にいたのに、日本人という意識は全然なかったんですけどね。外国へ行って仕事をしている状況が1年、3年、5年、10年と続いてきて、アートはインターナショナルな言語のように言われているけれど、自分が生まれ育った、自分の国で仕事をしていないのはやっぱりおかしいんじゃないかと思ったんです。それで日本に2年に一度とか帰って、個展をするんですけどね。やっぱり日本人として日本で仕事をするのは、ものすごく大事なことだと思ったんです。その時にいろいろと思うんですけど、例えばアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)にしたって、ポップ・アートは元々はイギリスが先ですけど、ポップ・アートというのはやっぱりアメリカなんですよね。ボイスの作品を見たら、やっぱりこれはドイツなんですよね。皆自分の国を(作品の中に)持っているわけですよね。そういう中で仕事をしていかないといけないなと思ったんですよ。ナショナルがあってインターナショナルなんですよ。インターナショナルと云う言葉はナショナルがなければ最初はないんですよ。

山下:植松さんもヨーロッパのグループ展に出されたら、他の作家の作品と自分のとは違うなと思っていたんでしょうか。

植松:そういう意味ではね、僕はアートはインターナショナルな言葉だと思っていたから、僕の作品が日本的だとかは全然思っていなかったですよ、行った時は。言われることによって、「あ、日本的なのかな」と。それで実感ですね。それで日本を感じるみたいな。

司:向こうの人の見方から知るという感じですか。

植松:そういうことですよね。

司:日本に一旦帰って来られて、こちらに拠点を作られますよね。ただいろいろなアートのフィールドのシステムも違うし、展覧会も違うし、日本での活動をまずどういうところから、どういうかたちで再開したんですか。

植松:そうですね。1984年に東京のINAX画廊で個展をするんです。(「布と枝による構成 Corner Piece」、INAXギャラリー2、東京、1984年)これは中原佑介さんの企画です。同じ年にまず京都のギャラリー16でしたと思うんですよね。(「布と枝による構成 Corner Piece」、ギャラリー16、京都、1984年)それでギャラリー16の井上さんが中原さんに言ってくれたんです。「植松君が東京でやりたがってる」と。「それならINAXでやろうか」と中原さんが言って、それでINAXでしてくれて。1985年にも帰ってきて、1987年にもまたINAXで個展をする。(「布と枝による構成・倒置」、INAXギャラリー2、東京、1987年)それでその時に、たしか中原さんに言われたんですよね。「これで植松、日本に入り込めなかったら、君はあかんよな」(笑)。

裕子:ずばっと言いますね。

山下:凱旋ですね。入れましたか。

植松:入れましたね(笑)。入れた気がします。1987年の時に中原さんが「前の個展より良かったな」と言ってくれた。じつはその前に、1985年にフランスですけど彫刻の大きな展覧会があるんです。(Sculptures, Fondation Cartier pour L’Art Contemporain, Jouy-en-Josas, France, 1985-1986.)これも招待が来た時はびっくりしたんですけど、すごくいいメンバーでした。ヘンリー・ムーア、カール・アンドレ(Carl Andre)、ソル・ルウィット(Sol LeWitt) 、マリオ・メルツ。そこに僕にも招待が来たんです。最初はカルティエなんて知らなくてね。煙草屋さんだと思っていたんですよ。煙草の宣伝でカルティエというのがあったんですが。

渡辺:ああ、あったかも。

植松:宝石屋さんというのを全然知らなかったんですけどね。その展覧会の後、カルティエが写真の作品をセットで全部買ってくれるんですよ。33セットで100枚以上。指の仕事を全部。パリのボドワン・ルボン(Baudoin Lebon Galerie, Paris) というギャラリーが売るんですけどね。売れた後すぐ、ボドワンが「Keiji、契約をしよう。」と言うわけです。もううちがエージェントをするからと。1986年から契約をするんですけど、その当時で2年間、1ヶ月2000マルクくれたんですよ。給料みたいな感じで。3年目からは月3,000マルク。条件がいろいろとあるんですけどね。でもそれで生活ができて、別にアルバイトをしなくていいようになったわけです。それで日本に帰っても何とかなると、生活はもう保証されているから。

裕子:日本に帰ってもその契約は続けられますもんね。

植松:そうそう。お金は毎月入ってきますからね。それもあったんですよ。

山下:1986年に西宮に戻って来られて、ドイツと日本を往復する生活を選ばれたのはなぜかと思ったのですが、そこにはそういう背景もあるんですか。

植松:いや、それが背景というよりは、やっぱり両方でやりたいと思ったんですよ。日本に帰って、でも日本だけでやる気はなかった。日本でも仕事をしないといけないという意識です。

司:ヨーロッパではある程度コントラクトで生活が保証されているので、日本での仕事もやり直すという感じですか。

植松:そうです。でも日本に最初に帰ってきた時には100万円ぐらいしか持ってこなかったんですよ。アパートを借りるといっても敷金がないんですよね。えらいこっちゃなと思ってね(笑)。

裕子:物価も上がっていますしね。

植松:うん。それでちょうど帰って来た時にね、知り合いの人が西宮の川東町に住んでいたんですよ。それで連絡をしたら、ちょうど東京に転勤になるというわけね。「奎ちゃん、家を探しているんだったら使っていいよ」と。

山下:そういう展開があったんですね。

植松:それでめちゃ安く、家賃5万ぐらいで貸してくれるわけ、敷金もなしで。それで何とかいけました。家を借りるのに敷金を払っていたらえらいことになる。それもあって、僕は最初の意識としては、日本とドイツの両方の生活をするために、3ヶ月ごとに動いていたんですよ。3ヶ月日本にいたら、3ヶ月は向こうというように、行ったり来たりしていました。こういう生活ができないようになったら、最終的にはドイツに帰ったらいいと思っていたんです。日本で無理だったら。それでもまあ何とかできているから、ずっとそのまま。

山下:戻って来られてからの制作環境や画廊とのつながりがどのようになっていたのかという話も興味深いのですが。

植松:日本のギャラリーはね、はっきり言ってノンコマーシャルですよね。ギャラリー16にしたって。

司:笠原さん(大阪のカサハラ画廊)とかも……。

植松:笠原さんのところでは1989年に個展をするんですけどね。(「植松奎二展」、カサハラ画廊、大阪、1989年)ヴェニス・ビエンナーレの後。笠原さんは作品を売ってくれたね。売ったりコレクションしてくれた。

司:ヴェネツィア・ビエンナーレですが、1986年に西宮に帰って来られて、88年に出るというのはすぐじゃないですか。(注:第43回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館の出品作家として選抜された。コミッショナーは酒井忠康。他に戸谷成雄、舟越桂が招聘された。)

植松:これもまた面白いんですよ。僕、面白い話がいっぱいあるんですよ(笑)。偶然がね、いろいろとつながってくるわね。

司:家の話もそうですし、ぽんぽんとヴェニス・ビエンナーレも。

植松: 1987年の3月にINAXで個展をした後、『みずゑ』にね、酒井(忠康)さんが展評を書いてくれたんですよ。何人もの作家を選ぶんですけどね、その中に僕のを選んでくれていた。それで、夏にまた日本に帰って来るわけです。行ったり来たりしていますから。そうしたら大阪の画廊でね、「植松さん、次、ヴェニス・ビエンナーレですね」って言われるわけ。「え、何ですか、それ?」と言うわけ。「ヴェニス・ビエンナーレ、植松さん入ってますよ」と言われて。「え、そんな」って。その時ね、ギャラリー白にいたんです。(注:ギャラリー白、大阪市北区。)画廊の人も知っていたし、そこに何人かいたアーティストの方も知っていたのに、僕だけが知らなかったんですよ。

司:ドイツに行っていたから。

裕子:でも普通知らせるでしょう。

司:酒井さんとまだ面識がなかった?

植松:全然なかった。

裕子:普通だったら「出ませんか」というお誘いが来ると思いますけど。

植松:そんなお誘いもなかったです。それで「あれ、何? この話」と思うわけ。聞いて帰るわけですよね。それでやっぱり気になるでしょう。コミッショナーが酒井さんというのは知っていたから、酒井さんに直接電話をしたんですよ。「植松ですけど」と。ヴェニス・ビエンナーレどうのこうのと言って、「ああ、君頼むよ!」って。「何?!」(笑)。「今ね、国際交流基金の清水(敏男)さんが君に会いにヨーロッパに行っている」と言うわけ。「僕、今(日本に)帰って来てますよ」と言って。

司:入れ違いだ。それでご存じなかったわけですね。

植松:僕は酒井さんにお会いしてなかったし。「それなら酒井さん、すぐお会いしに行きます」と言ったら、酒井さんも「いやいや、そんな君、会いに来なくてもいいよ」と言うわけ。「君さえ出してくれればそれでいいから」「喜んで出させてもらいます」と言って。それで次どうせ皆が集まる会合があるからと言って、舟越(桂)さんと戸谷(成雄)さんと皆で会合があるから、その時に国際交流基金の人も会うから来てくれたらいいと。その時に初めてお会いしたんです。

司:そうですか。テーマはもう決まっていたんですか。

植松:ああ、それね。「円空からはじまる」というタイトルで、木なんですよ。まず、戸谷(成雄)さんでしょう。

司:木彫ですよね。

植松:それから舟越(桂)さんでしょう。あと1人という感じだったんじゃないかなと思うんですけどね(笑)。INAXで木の枝を使っているからね。(作品集を見せながら)これこれ。(注:《Invension-Cone-white-/red/yellow》、1987年、『Keiji UEMATSU』、pp.164-165)これのことを展評に書いてくれていたんです。

司:日本に帰って来られて、作風が変わってきましたね。材料の関係でしょうけど……

植松:これがパリでしたやつ。(注:《Cone-yellow》、1986年、『Keiji UEMATSU』、p.160)ボドワン・ルボンで。だからじつは1986年ぐらいから木の枝と布を使っているんですよね。これも日本でしている。これはトアロード画廊です。(注:《Cone-red/Table》、1986年、『Keiji UEMATSU』、p.156、トアロード画廊、神戸)

司:それまでは大きいジャッキとかガラスとかを使って、そういう材料のストックがあるわけですよね。それを使わずにこういう表現に変わってきたのはなぜでしょうか。

植松:その作風に変わるのが1983年ぐらいなんですよ。1983年から布と枝を使ったインスタレーションをしています。

司:そんなに早いんですね。

裕子:少し軽やかにした印象ですね。

司:PS1の時はもっと大きかったですね。あの当時、1981年ですよね。川俣(正)さんより前ですね?

植松:かなり前。

司:かなり前ですよね。PS1で展覧会をした日本の人はそれまでにいなかった?

植松:個展ではなかったと思うけど、グループ展はあったかもしれませんね。PS1というのはProject Studio1なんですよ。Public School 1なんです。

裕子:そうそう、元小学校なんですよね。

植松:そう。元公立小学校の一番最初。1980年に僕はニューヨークへ行くわけです。

司:旅行ですか?

植松:旅行。

司:普通に行ってみたいと思って行かれたんですか?

植松:そう。一度はニューヨークに行ってみたいなと思っていたんです。1980年の11月頃に仕事がパーッとあって。ミュンヘンのレンバッハ・ハウスの展覧会(注:Städtische Galerie im Lenbachhaus München / Kunstform, München, 1980)。レンバッハ・ハウスで写真を並べて、もう1つの立体の方はクンストフォルムといって市内の地下でやるんですけどね。その展覧会が済んだ後にぽんと空いたから、ニューヨークに行こうと思って。その前に友達に会ったんですよ。ニューヨークの友達。刈谷博というんですけどね。彼はアーティストで、デュッセルドルフに1979年くらいに遊びに来ていたんです。その時に僕の展覧会で知り合って、「ニューヨークに来るなら連絡して」と言われていた。それでちょうど行くと言って。飛行機のチケットは、1ヶ月間のをちゃんと取って。まあね、行く時が大変でした。パキスタン・エアラインだったんですけどね。チケットをちゃんと取っているのにね、フランクフルトの空港に行ったら、カウンターでフルだと言うわけですよ。「フルということはないでしょ」と言って、チケットを持っているのに。オーバーブッキングしているんですよ。それでどこどこに行けと言われる。またそこのカウンターにドワーッといっぱい人がいる。もうめちゃめちゃでしたね。

渡辺:パキスタン・エアラインってそんなに?

植松:ああ。パキスタン・エアラインは安いから。それで特別の飛行機を出したわけですよ、いっぱいだから。正規の飛行機が飛ぶよりも、特別の飛行機が先に飛んだんですけどね(笑)。それは良かったんだけど。それでニューヨークに着いて、友達の刈谷博の家に結局1ヶ月居候するんですけどね。

裕子:ニューヨークのどの辺りですか。

植松:ソーホーです。ソーホーのカナル・ストリート。その彼のスタジオがね、もともとフルクサスのメンバーが使っていたスタジオです。フルクサスの誰だったっけ。

裕子:(ジョージ・)マチューナス(George Maciunas)?

植松:ジョージ・マチューナス。だからその写真があります、今でも。そこに彼が住んでいて、いろいろなアーティストが住んでいたんですけどね。そこへ行って。それで僕は1ヶ月のつもりで行って、ニューヨークの展覧会をいろいろと観たいなと思って行ったんです。だけど、ちゃんとアルバムも持って行っていますからね。アルバムもカタログも持って行っていて、それで着いてから1週間、この1週間がこれは勝負だと思ったんですね。

司:目的が違ってきていますね。

植松:一度(ニューヨークを)観てみたいんですけど、なにかひょっとしたらと考えて行っていますからね。

司:それはそうですよね。

植松:行く前にデュッセルドルフのクンストハレに行って、クンストハレの館長に「ニューヨークに行くんですけど紹介して欲しい」と言って、「ここの美術館とここの美術館と」って館長の名前とかをずっと教えてくれたんですよ。それで行って、着いて1週間ですぐに手紙を書いたんですよ、全部に。彼がタイプを打ってくれたんですけどね。Keiji Uematsuといってデュッセルドルフに住んでいるアーティストで、今ニューヨークに来てると。1ヶ月くらいしかいないと。「Time is running」みたいなことを書いてね(笑)。「あなたの美術館に興味があるので、もし良かったら私の作品を見て頂けませんか」という感じですよ。カタログを一緒に送って、もし興味があったら連絡して欲しいって。

裕子:やっぱりしっかりされていますね。だって、実績抜群ですもんね。

植松:モダーナ・ミュゼットとかミュージアム・ヴィースバーデンとかそんなのを入れて。それでバーッと送ったのがMoMA(注:ニューヨーク近代美術館)ね。それからグッゲンハイム美術館(Guggenheim Museum)。ホイットニー美術館(Whitney Museum of American Art)、PS1。それだけかな。

裕子:全部コンテンポラリーをしている所ですね。

植松:それで手紙を入れてね。封筒の表書きに名前を書いているでしょう。赤でね、ものすごい大きくね、「EMERGENCY」って書いたんです(笑)。

裕子:素晴らしい(笑)。

司:「Time is running」ですからね。

植松:館長さんに来る資料、郵便というのはすごいわけ。そうしたらそんな普通の郵便でカタログが入っているのを送ったって、読んでくれるか分からない。それで書いたんですよ。やっぱり皆すごいね。皆電話がかかってきたからね。

司:おお、すごい。

植松:グッゲンハイム。グッゲンハイムのその時のスカルプチャー部門のキュレイターはね、その後ね、ポンピドゥーで展覧会を企画した人(ウィリアム・ルービン(William Rubin))ですわ。「20世紀のプリミティブ・アート」。

裕子:ものすごい有名な人じゃないですか。

植松:(カタログを持って戻る)これです。(注:「Primitivism in the 20th Centry Art」)

司:すごいカタログ。

山下:大きいですね。

菊川:巡回したんですか。

植松:MoMA(注:ニューヨーク近代美術館)から巡回したんですよ。その時にポンピドゥーにいたんですよね。バルセロナのミロ美術館(注:ジョアン・ミロ財団現代美術研究センター、Fundació Joan Miró, Centre d'Estudis d'Art Contemporani)でしたっけ、そこのディレクターもしていた女の人ですわ。その人とグッゲンハイムで会ったんです。アルバムをずっと丁寧に見てもらってね。それはそれでもう見てもらうだけで済んだんですけどね。PS1は電話がかかってきたんですよ。ディレクターから直接ではなくて、アシスタントからね。次の12月から展覧会が始まると。(元小学校だから)部屋がいっぱいあるわけですよね。それで1部屋、僕が使ったのは203か205の部屋ですけど、そこをね、使っていいからしませんかと言ってくれた。それですぐ会いに行ったんですよ。もう最初から電話でそれだったんですよ。それでディレクターのアラナ・ハイス(Alanna Heiss)に会いに行ったら、アラナ・ハイスは僕の作品を知っていたんですよ。なんで知っていたかといったら、ビョルン・スプリングフェルド(Björn Springfelt)が僕のカタログを送っていたんですよ。

司:またつながりましたね。

植松:ニューヨークへ行く話をビョルンにした時に、ニューヨークに行くのならって、カタログを5、6冊また送ってくれたんですよ。モダーナ・ミュゼット(の時の個展のカタログ)ね。僕も持って行っていたんだけど。それでアラナ・ハイスが場所を見てくれと言って、見て、そこで展覧会をする。MoMAも電話がかかってきましたよ。ホイットニーは手紙が来たのかな。「うちはアメリカン・アートだけの専門だから、外国の人は関係ありませんよ」というかたちで。「ああ、わかりました」と。MoMAの電話は今でも覚えている。「一体あなたは何をして欲しいの」という感じで(笑)。

司:嫌な感じ(笑)。

裕子:MoMAらしい大上段な感じですね(笑)。

植松:「いやいや、興味があったら作品を見て欲しいと思ったんですけど」って。だけどちゃんと電話がかかってくるんですよ、電話番号を書いていたらね。

司:それは偉いね。

植松:結局PS1に決まっていたからね、もういいわと思って会いに行かなかったです。それでアラナ・ハイスに会いに行ったら、言っていましたね。「やっぱりすごいな、日本人は。EMERGENCYって書いてきて」って。

裕子:それだけちゃんと押しが強く出せる方ってなかなかないですよね。むしろ日本の人は売り込み下手だから。

司:すごい機転。機転と言ったらあれですけど。

山下:良かったら、というくらいで終わりそうですけど。

裕子:実際、ニューヨークだとそれくらい押しが強くないと相手にしてもらえないから。

植松:だけどね、やっぱり若かったからできたと思うんですよ。もう40代とか、30代半ばになっていたら……。僕はその時、1980年だから30ちょっとで行っているけれど、もっと年を取っていたらできなかったでしょうね。

裕子:そうかもしれないですね。

植松:それで決まって、アラナ・ハイスに会いに行ったら、今日展覧会のオープニングがあるから来ないかと言われて。リチャード・ノナス(Richard Nonas)のオープニングだったんですよ。オイル・アンド・スティール・ギャラリー(The Oil & Steel Gallery)といって、リチャード・ベラミー(Richard Bellamy)という人がギャラリーをしていたんですね。オイル・アンド・スティール・ギャラリーの初めてのオープニングだったんじゃないかな。それで行ったらね。アラナ・ハイスという人は、若い男の子が好きなんですよ。それでね、僕をいろいろな人に紹介すると言うんですよ。ところがね、ずっと手をつないでいるわけですよ。僕、外すわけにいかない(笑)。手をつながれて、オープニングの間ずっと。

裕子:その方は女性ですか。

植松:そう、女性、アラナ・ハイスは。

司:気に入られたんですね。

裕子:可愛いと思われたんですね、日本人の男の子で。

植松:ずっと紹介してくれてね。僕の友達の(刈谷)博がね、「奎二、もう僕1人で帰るから、あとは1人で頑張れ」って(笑)。

裕子:ちょっと主旨が(笑)。

植松:ちょっと画廊くらい紹介してくれるか分からないけど(笑)。

司:手をつないでいたんですか。

植松:そう、手をつないでいたんですよ、オープニング(笑)。その時桑山忠明さんにも会ったかな。(ジェームズ・)ローゼンクイスト(James Rosenquist)もいましたね。当然、リチャード・ノナスもいて。それでその後、PS1で個展が決まって、リチャード・ノナスに電話をしたりして、材木屋を教えてもらったり、いろいろとしたんですけどね。

司:オープニングは無事帰られたんですか。

植松:無事帰ったんですよ(笑)。(ニューヨークに)遊びに行って、画廊を観たり美術館を観たりしようと思っていたのが、制作しないといけないようになったんです。それからすぐにイエローページをめくって、材木屋を調べたりノナスに電話したりして。それで材木屋に行って、バスに乗って行ったりしたかな。ニューヨーク市内と違うところだったかな。それでセッティングをしてデュッセルドルフに帰ったんですよ。だからオープンには行かなかったんです。

裕子:予定どおり1ヶ月で帰られたんですか。

司:セッティングだけして。

植松:ああ。

裕子:1ヶ月で個展を決めるってすごくないですか。

渡辺:もったいなかったね。

菊川:それはなぜ帰らないといけなかったんですか。

植松:まあ、仕方ないですね。それは個展というよりね、1部屋1部屋なんですけど、いろいろなアーティストが全部する形だから。僕だけの個展とは違うから。スペシャル・プロジェクトというやつで。

裕子:たまたま空いている部屋を使って。

植松:そうそう。

司:天井、抜けていませんでしたっけ。

植松:天井ね、僕の部屋は抜けてないですよ。その時はね、既に作った作品がいろいろとあるんですよ。人の部屋なんかパンと開けたらね、天井がないんですよ。

司:そのお話はちょっといいな。

植松:教室で。天井が開いて全部ない。それで周りにベンチみたいなのがあったように覚えているんですけど。

裕子:ああ、ジェームズ・タレル(James Turrell)。

植松:そう、ジェームズ・タレルの部屋だったんですよ。なんでも好きなことをしていいと。元に戻せばいいというあれだったんですよ。それで(個展を)したんですけどね。いいシステムでした。ノンプロフィットでね。

司:PS1のときは角材にジャッキで?

植松:そう、角材にジャッキでこう。ジャッキでこう、角材をT字型に止めてしたんです。

司:その作品はどこかにリサイクルされた?

植松:それはね、この間ね、去年? ニューヨーク行った時?

渡辺:うん、去年。

植松:去年ニューヨークに行った時…… いや、その前の年にも打ち合わせで行ったんですよ。一昨年。ジャパン・ソサエティ(Japan Society)とグレイ・アート・ギャラリー(Grey Art Gallery、ニューヨーク大学)で展覧会があった時に。(注:「For a New World to Come: Experiments in Japanese Art and Photography, 1968–1979 (来るべき世界の為に―日本美術・写真における実験、1968〜1979年)」展、2015年3月6日—7月11日、ヒューストン市美術館、ジャパン・ソサエティ(2015年10月9日—2016年1月10日)、グレイ・アート・ギャラリー(9月11日—12月5日)と巡回した。)それで刈谷博というのはもうずっと友達だから。博の家に行ったらね、家の梁とかね、いろいろなのに全部使っていました(笑)。

裕子:本当に家の一部になっちゃった(笑)。

植松:搬出を全部彼がやってくれたんで、ジャッキなんかが残っていたわけですよ。そのジャッキに気づいて、持っているというのが分かって、それでまずヒューストンの美術館で使ったんですよ。それでその後、ジャパン・ソサエティで使った。

裕子:中森(康文)さんがやった展覧会ですね。

植松:そう。その後、チバさん(ユミコチバ・アソシエイツ)のところに返ってきているはずなんですけどね。あれ、確かめないといけないですね、ジャッキ。

渡辺:その博っていうのがね、また私の友達の子どもが五嶋龍て有名なバイオリニストで、その人の空手の先生なんです。彼は空手の先生で生活していました。

司:刈谷さんが空手の先生?

渡辺:だから私のピアノの大学の同級生の節ちゃん(五嶋みどりさんの母親でもある五嶋節さん)が刈谷さんに会っているんだっていうのが……。

司:すごい捻りの効いた(笑)。すごいつながりですね。ピアノの関係で、さらにその人の趣味の空手の先生。

植松:ニューヨークは1ヶ月の間で面白かったですよ。だけどね、めちゃハードでね。

司:それはハードですよね。

植松:やっぱりここの町には住めないなと思った。ちょっと生活がハードだなと思って。

山下:治安とかはどうでしたか。

植松:いや、やっぱりね、その頃ね、まだ怖い時ですよ。

渡辺:まだかなり悪いですよ。

植松:地下鉄を降りたらまず前と後ろを見て、距離感がどれだけあるかを気にしながら歩きましたよ。やっぱり後ろが怖い。ニューヨークにいる間に一番怖かったのはね、やっぱり博のスタジオのドアを開ける時に、彼のスタジオが2階か3階にあったんですけど、一番最初の1階の鍵を開ける時にね、鍵を開けるでしょう。その時一番怖いのは後ろ、全然(後ろの様子が)分からないでしょう。こんな風にしてちょっと見て開けるんですけど、やっぱりこっちに集中しないといけないから、鍵を開ける時は怖かったね。

裕子:鍵を出しているから押し入られるということも。

山下:それくらいの治安だったんですね。

司:すごいな。

植松:だから怖かったですよ。

裕子:1970〜80年代は一番怖かったんじゃないですか。

渡辺:それってあそこの場所じゃないの。違うの?

植松:違う。カナル(Canal)。

裕子:カナルの辺りは荒っぽいですよね。

植松:それからニューヨークにいる間、(河原)温さんに電話して会って。

裕子:河原温さんもソーホー(SoHo)にお住まいでしたでしょう。グリーン・ストリート。

植松:そう、グリーン・ストリートですね。ギャラリーの上の、グリーン・ストリートの、40番だったかな、その辺りに。

裕子:その時はギュウちゃん(篠原有司男)とかにも会われました?

渡辺:面白い話がある(笑)。

植松:ギュウちゃんの話、よう訊いてくれた(笑)。あれは面白い。

裕子:良かった、訊いて。

植松:いろいろと訊いてくれたらいっぱい思い出すんですけどね。

裕子:今日はギュウちゃんのことを訊いておかないと、と思って。

植松:ギュウちゃんとね…… 着いた時に博と会って、なんでか知らないけどね、新妻実という彫刻家がいるでしょう。その人に連絡をするんですよ。なんで新妻実に連絡したのかな。博がしたらいいと言ったかどうか、覚えてないけど。そうしたらね、食事をしましょうということになった。新妻実といって、石彫家でさ、結構成功していた。それで誰と会いたいですか、ということになったんです。それでギュウちゃんに会いたいと言った。

裕子:指名したんですね。

植松:ああ。それで中華料理に博と僕で行って、新妻実とギュウちゃんとこが家族で来た。奥さんとね。

裕子:その頃はもう乃り子さん(注:篠原氏の妻)とご一緒にいて、アレックス(注:篠原有司男・乃り子夫妻のご子息)もいますね。

植松:そうそう、一緒に来て。それでギュウちゃんが言うわけ。「僕もう何セントしかポケットに持っていない」と言うわけ。本当に(笑)。それで一緒に中華料理を食べてね。すぐ「スタジオに行きたいんです」と言って、「来たらいいよ。おいで」と言って、博と次の日に行った。バナナとかいろいろと買ってさ。ちょうど行ったらね、面白い。「ちょうどいい時に来た」と言うわけね。「これからJALパックが家に来る」と言うわけ。JALパックのコースになっているわけですよ。

裕子:そうそう。ギュウちゃんの家はね、パックツアーの行き先の1つになっていたんです。

菊川:JALの?

植松:そう。JALパックの。

裕子:面白い所を見せてあげるというので、添乗員さんが連れて行くんですよね。

植松:ヘイワード・ストリート(Hayward Street)という所です。ウォルター・デ・マリア(Walter De Maria)も同じストリートだったかな。なんかその辺ですよ。行ったらね、「ちょうどいい時に来た。これからJALパックの連中がバスで団体で来る。ちょっとサクラになってくれ」と言うわけね。行ったらもう用意をしているわけですよ。版画をいっぱいダーッと置いてあるわけですよ、ずっと。JALパックの大勢のツーリストが来て、コンダクターがいろいろとニューヨークのアーティストと言って紹介して、こういう生活をしているとか、こういう絵を描いているとかね。

司:ほとんど動物園ですね。

植松:そうそう(笑)。

裕子:そんなに典型的じゃないしね(笑)。

植松:(ギュウちゃんの)息子は端っこの囲いがあるところでごろんごろんしていたんだけどさ(笑)。まだ赤ちゃんみたいな時だからさ、1980年だから。結局最後にね、日本だったらこれだけのプライスがするけどね、ここだったらものすごく安く作品が買えますという話になるわけ。僕と博はサクラだからね。「これがいいですよ」とかいろいろと言うわけ。そうしたら皆買うわけですよ。結構買うんですよ。トラベラーズチェックを切るわけです。切って、くるくると巻いてね、持って帰るんですよ。持って帰った後ね、しばらくして、お金に替えに行きたいんですよ、ギュウちゃんは。歯もいっぱい抜けて歯医者に行きたいしね、とか言うわけ。広いスタジオですけどね、バーッと走っていくわけ。窓から見えるわけね。「まだバスが停まっているな」とかね(笑)。

裕子:まだ換金に行けないと。

植松:そうそう(笑)。

司:すごい(笑)。

植松:結局換金に行くんですけどね。

山下:そうやって生きぬいて。

裕子:彼のサヴァイヴィング・ヒストリーもすごいものがありますよね。

植松:結構面白かったですよ。

司:サクラなのに実際には買われなかったんですか。

植松:買いはしないよ。

裕子:手伝いをしている。

司:なるほど。すごいなあ。

山下:そうやって日銭を稼いで。

裕子:連れて来たということで、JALからもお金を貰ってるはずですからね。

司:そうか。

菊川:買った人も、今でも持っていたらね。

山下:価値がありますね。

司:どういう作品なのですか。

植松:いや、その頃はね、結局版画ですね。立体とかそんなのは別に売るとかではなくて。

裕子:持って帰りやすいものじゃないとね。

司:どういう版画ですか。

植松:あまりちゃんと覚えていないけど。ニューヨークに行っている時、面白かったですよ。温さんとか川島猛さんとは2回くらい、一緒に麻雀をしたりね。2回目くらいの麻雀の時、僕はもう全然お金がなくなっていてね。結局さ、行って負けたら払うお金がないわけですよ。博に言ったんですよ、「ちょっと金を貸してくれないか」と言って。「今日、麻雀に行く」と。そうしたら僕の友達がね、「賭け事の金は貸せない」と。しっかりしているから。それならもういいわと思って、行って負けたら仕方ないな、土下座して謝って帰ろかと思って(笑)。だからね、負けられないわけ、絶対。かなり慎重ですよね。だから勝ったけどね。ちゃんと勝ったけど、あれは負けていたらどうしていたんでしょうね。ごめんなさいと言っていたんでしょうね(笑)。

司:ねえ。ドイツに帰れなかったかもしれないですね。

植松:もういい加減なことをするな、とか言われたかな。

山下:ドイツの治安は良かったんですか。

植松:ドイツの治安は良かったです。もう全然治安は良かったです。

山下:そんなに違ったんですね。

裕子:デュッセルドルフっていうのもね、治安が良さそうな町ですもんね。

司:他にその期間でドイツ以外に展覧会に行かれたりとかは?

植松:それはね、最初の頃からアントワープに。

司:それもギャラリーですか。

植松:うん。いちばん最初にアールスト(Aalst)というベルギーのもう本当に小さい町の、ニュー・リフォーム(New Reform)というノンプロフィットのギャラリーで個展をしたんですよ。(注:Situation-Interval, New Reform, Aalst, Belgium, 1976)それからその個展でICCという、インターナショナル・カルチャー・センターという所で個展が決まって。(注:I.C.C.(International Cultureel Centrum), Antwerpen, Belgium, 1980)そこのディレクターというのがフロー・ベックス(Florent Bex)という人で、その人はゴードン・マッタ=クラーク(Gordon Matta-Clark)のオフィス・バロック(Office Baroque, 1977年)か、廃墟みたいになって潰してしまうような建物をゴードン・マッタ=クラークに切らせたりして、そういうのをした人ですよ。そこで個展をしたり、他でも個展しましたね。ベルギーは、結構よく行ったね、その頃。パフォーマンスにも行ったり。ヨーロッパでそういう風にしていたでしょう。パリの個展はちょうど同じ頃なんですよね。1981年なんですよ。(注:Environment et Dessin, Baudoin Lebon, Paris, 1981)1980年にニューヨークのPS1でやった時にパリのギャラリストがニューヨークに来ていて、ニューヨークでも会うんですけどね。その時にはパリの個展が決まっていたんだけど。それはどのようにして決まったかいうと…… あるときね、パリのギャラリーから毎月のように案内状が来るわけですよ。ボドワン・ルボン(Baudoin Lebon)というギャラリーからね。「ふうん、こんなギャラリーあるんだな」と言って。チャールズ・シモンズ(Charles Simonds)とか、いろいろとしているわけですよ。それで1979年に、デュッセルドルフでドイツ人と二人展をしている時に……(注:Installationen Aktionen-Keiji Uematsu + Va Wolf, Kulturerk Des B.B.K, Düsseldorf, 1979)あ、二人展をする前です。その前にパリのギャラリーのアーティストが、デュッセルドルフのクンストミュージアムで小さな個展をしたんですよ。それを観に行った時にパリのギャラリストが来ていたんですよ。そのときに会って話したら、ボドワン・ルボンという話で。「ボドワン・ルボンといったら僕、いつも案内状をもらっているよね」という話になったわけ。

裕子:そこでつながるんですか。

植松:うん。僕、案内状をもらっていて、ちょうど展覧会をやってるから観てくれませんかと言って、それで観てもらうんですよね。そうそう…… 観てもらって初めてつながったんだけど、それが1979年で、その後、個展をしないかという話になる。ところが彼はストックホルムでのモダーナ・ミュゼットの僕の展覧会を観ているわけです。

山下:またつながるんだ。

植松:それで1979年のハイデルベルクのクンストフェラインの展覧会も観ているんですよ。(注:Skulptur, Foto, Heidelberger Kunstverein, Heidelberg, 1979)そんなこともあるから僕の住所をビョルン(Björn)に聞いたんだと思うんですけど、そこから案内状が来ていたんですよ。ビョルンからも手紙が来て「Keiji、このギャラリーがKeijiの展覧会をやりたがっている。興味を持っているよ」と。それで一度コンタクトをしたらいうことになっていたんですよ。

司:そうなんですか。すごいつながりますね。

植松:だからね、なぜか分からないけれど皆つながっているんですよ。

裕子:やっぱりヨーロッパは近いですからね、それぞれ。皆、他の土地のこともよく見ている。

山下:しっかりと情報を把握しているんですね。

司:すごく良いですよね。ドイツにいるけれども、ヨーロッパや向こうのニューヨークとかも含めて皆動いていて、ドイツの中だけでしているのではなくて、本当にそういうシーンに広く関わっている。

植松:それでドイツのギャラリーも結局、ギャラリー・ロオール(Galerie Löhrl, Mönchengladbach)というところ。いい作家がいっぱいやっているんです。(ブリンキー)・パレルモ(Blinky Palermo)とか(ゲルハルト・)リヒター(Gerhard Richter)とか(ウルリッヒ・)リュックリーム(Ulrich Rückriem)とか、いろいろ。(シュテファン・)バルケンホール(Stephan Balkenhol)とかも。バルケンホールを出したギャラリーですけどね。そのギャラリーも1981年に個展をするんですけど、前の年くらいですか、急に電話がかかってきて「ギャラリー・ロオールというけど、あなたのスタジオに行きたい。個展をしたいんですけど」と言って。(注:Skulpturen-Aeichnungen-Fotos, Galerie Löhrl, Mönchengladbach, 1981)それで「いや、ロオールって、どんなギャラリー?」と訊いたら、「アートフェアでこんな作家とこんな作家と、リュックリームを出したりいろいろとしている」「ああ、知ってる、知ってる」と言って。それで家へ来た時にモダーナ・ミュゼットのカタログを持ってましたわ。パンフレット。

渡辺:やっぱね。

山下:じわじわ反響ありですね。

植松:どこで手に入れたのかは知らないけど。

山下:全てはそこから。

司:モダーナ・ミュゼットはトップ・ミュージアムですもんね。

裕子:第一級のミュージアムだから皆がチェックしたわけですね。

植松:それで来年個展をしないかと言われて。それで個展を1981年にしたんですよね。

司:皆チェックしてるんだな。

植松:それまでに(ヨーロッパに)行ってすぐね、コンラッド・フィッシャー(Konrad Fischer Galerie, Düsseldorf)は(自分から)コンタクトしたんですよ。コンラッド・フィッシャーはコンセプチュアルの作家、カール・アンドレとかブルース・ナウマン(Bruce Nauman,)とかいろいろとしていて、すごく良いギャラリーだということを知っていたから。デュッセルドルフのクンスハレのアシスタントで、館長秘書をしていた人にも紹介してもらって「Keijiの作品を見てあげて欲しい」と言って、僕も写真の作品全部を持って行ってね、見てもらったんですよ。ゆっくり事務所で見てもらったんですけど、個展しようとは言ってくれませんでした。「うちではできない」と言って。けれど、「他のギャラリーを紹介してあげようか」と言ったんですよ。ケルンにパールマインツ(Paul Maenz)というギャラリーがあってね。パールマインツ、それもコンセプチュアル系で、ダニエル・ビユラン(Daniel Buren)やジョセフ・コスース(Joseph Kosuth)、いろいろないい作家が個展をしていたんです。僕ね、もういらないと言ってね。「僕はあなたのところでやりたい」。そのために来たんだからね。だから紹介していらないと言って。だけど、できないと言ったのに、その後で電話がかかってきたんです。コンラッド・フィッシャーというのは、プラタヌンシュトラーセ(Platanenstr.)という通りに今もあるギャラリーですけどね、駅裏にあるギャラリーと、もう1つ一番最初にフィッシャーがやり始めたギャラリーがあるんですよ。トンネルみたいな。いいスペースです。簡単にドアや窓越しに見える小さなギャラリー。両方でしていたんですよ、展覧会を。ボイスがそっちでしたり、こっちで違う作家がしたり。それで、そのスペースでやれないかと言ってきたんですよ。ところがね、僕は忙しかったんですよ。その年ね、モダーナ・ミュゼットがあって、ミュージアム・ヴィースバーデンがあって、デュッセルドルフのクンストハレがつながるという感じで、1977年。延ばしてくれないかと言ったんです。日にちがね、ちょっと忙しいからできないと言って。そうしたらそれっきりですわ。

裕子:ご縁がなかったんですね。

植松:そのときにやっていたらね、つながっていたと思うけどね。僕はそんなのは分からないしね。本当にスケジュール的にね、美術館のスケジュールがババンッて入っていたからね、できなかったね。

司:全然違っていたかもしれないですね。そんなに大きいギャラリーでしたらね。

植松:それでその後、結局、ロオールという所が言ってきたんですけどね。あまりギャラリーは、フィッシャーにコンタクトした後はしていなかったですね。ヘツラーというのは言ってきたんですよね。ヘツラーいうのはリンケが紹介してくれた。クラウス・リンケがすぐに紹介してくれた。いいギャラリーだと言って。(注:Plastik und Foto, Hetzler +Keller, Stuttgart, 1977)

裕子:いきなりミュージアムが決まっていたわけだから。

植松:ミュージアムの方が大きいですよね。だから両方はね、やっぱり……。美術館の展覧会2つ決まっていたから、その年。

司:それもすごいなと思って。今でもですけれども、割とギャラリーに頼るところも多いじゃないですか。決まったギャラリーがあって、生活をするにしろ作品を売るにしろ。

裕子:ミュージアムに売り込んでもらうにしろね。

司:エージェントとして、そういうところが多いんですけど、そこをすっ飛ばしていますよね。

植松:そうですね。僕、反対でしたね。美術館の方が早かった。

司:それは昔も今も結構珍しい。

裕子:むしろ美術館からギャラリーの方に紹介してもらっている。普通と逆ですよね。

司:普通は十分実績ができてから……。

植松:売る作品がなかったしね、その当時。売れる作品とは違ったしね。インスタレーションで。

司:皆そうだったわけですよね、1970年代って。でもその中でも有力なギャラリーがあって、皆そこでやっているわけで。

植松:ボドワンで、パリのギャラリーで一番最初の個展もね、角材でガンガンつないでいって、ジャッキで上げていくような作品ですわ。もう1点だけですよ。個展の話が来て、どういうふうにしようと聞いたら、もう何せ、でかいことをしなさいと言っていた。売ることなんか考えなくていいって。好きなことしたらいいって。あとは違う所で売るからって。

山下:さすがですね。フットワークが違う感じがするな。

植松:それはすごい嬉しかったですよね。当然売れないですよね。角材でジャッキでしてもね。

裕子:それは売れないですね(笑)。

植松:ところがね、それでも値段を付けるんですよね。「Keiji、値段いくらにしよう?」と言って。それはね、付けるんですけど。

司:すごいですよね。もの派の作品とか、今、再制作を売っていますけど、ああいう感じだったんですかね。それをもし買う人がいたら、そこに作る権利を買うような、そういうやり方をしていたんですね。

植松:だけど(ドイツに)行ってみて面白かったのはね、クレフェルド(Krefeld)の美術館でもね、やっぱり何ていうの、コンセプチュアルな作品で、ウエストとかノースとか鉛筆で字だけ書いている人がいるでしょう。誰だったっけ。ビル・ベッカリー(Bill Bekary)でもなくて。誰かいるんですよ。斜めに字だけ書いたり。そう、ロバート・バリー(Robert Barry)です。 そんなのね、壁に字だけを書いているやつを買う人がいたんですからね。展示が済んだら、パッと消してしまったら終わりですしね。結局それはドローイングみたいなもの。

裕子:それを再現する権利を持っているわけですね。

植松:その当時からそんなのが売れていたから、やっぱりここはすごいなと思ったね、ドイツは。

山下:コレクターがいるでんすか。

植松:コレクターがいますよね。

司:ボドワンさんは結構そういうのを扱っていたということは、割と資産家だったりとかそういう感じなんですか。

植松:最初はね、彼はエディションのギャラリーから始めるんですよね。ベン・ヴォーチェ(Ben Vautier)と一緒にするんですけど、もう小さい、これくらいの大きさでやり始めるんですよ。このスタジオの半分もあるかないかくらいの、エディションのギャラリーで始めた。だんだんそれで大きくなっていくんですけどね。僕も1981年から仕事を一緒にはじめて1986年から契約したけど、1992年くらいでね、契約が切れるんですよ。切れるというよりね、あるときね、銀行にお金が全然入ってこないようになったんですよ。それで倒産するんですよ。また数年後もちなおしますけど。

司:PS1のお話に続きまして、もう一度戻りますが、作風に変わるのが1983年ぐらいからということでした。

植松:1982年頃はまだいろいろとしていて、それでもうこの仕事はいいよなと思うわけです。次に何をしようかなと思い出して、空間がすごい気になったんですよね。それで、布と木の枝という形が出てきて。木の枝というのは最初から使っていたわけですよね。モダーナ・ミュゼットでも木の枝を使ってるし。布を使って空間を意識し始めたというのかな。直線的な空間というのは、画廊の空間みたいなかたち。美術館でもそうですけど。天井があって床があって壁がありますよね。それで曲線的な空間というのは結局、プラネタリウムみたいな。宇宙とかそういうのを考えて、空間というものを維持しているのは何かなとか考えたんですよ。そうしたら、こういう部屋だったらコーナーとか天井とか境目のところ。それでこの辺りの空間を使うような作品を作ってみようかなと思い出した。

司:ご自身の作品の展開をいろいろと考える中で空間を意識した。

植松:そうですね。テンションで張ったりするわけですけどね。枝が外れてしまったらふにゃふにゃっとなってしまうような。だけどテンションはそれまでの作品も皆かかっているわけですよ、同じように。

池上:構造としては同じですね。

植松:そう。仕事としては同じような感じなんですけど、布で空間的な仕事をしようかなと思い始めて。最初は面で使っているわけですよ、布をね。それから布で立体的なものを作れないかなと思ったのが、円錐なんです。紙をぐるぐるっと巻いたらとんがり帽子みたいなものができますでしょう。それでこれ、とんがり帽子みたいなものにしようかなと思ったんです。それでこのあたりは木の枝で張って、色が出てくるんです。だから色の話もあるんですけど。

山下:そうですね。色彩の話もありますよね。

植松:(作品集を見せながら)このあたりからとんがり帽子みたいなものが出てくるわけです、円錐が。(注:《Cone-white/yellow/red》、1986年、『Keiji UEMATSU』、p.158)布で簡単に立体ができるというのは、円柱もできるんだけど、底なしで作るのだったらコーン(corn)のかたち、円錐の形はすぐにできる。それで円錐の形を作り始めたわけ。円錐を使い始めて、同じようにテンションで張って、力が重層的にかかる。これも紐が切れたら終わり、枝がひっくり返ったら終わりみたいな、そういうふうな同じコンセプトでつながっていくんですけどね。最後の集大成みたいなものが結局、ヴェニス・ビエンナーレにつながっていくわけですよ。(注:《Invention-Vertical space》、1988年、『Keiji UEMATSU』、p.178)このときも、アイデアはまだいっぱいあるんだけど、1988年にヴェニスをした時に、もうこれでいいわと思ったんですよね。もっとちがうことをしようと思った。その理由の1つは、いわゆるスタジオ、広いスタジオを持っていましたでしょう。普通の時には使わないわけですよ。いちばん最初にスタジオを持った時も、広い所が欲しかったんだけど、どんな風に使っていいか分からなかった。だからアトリエのスタジオの真ん中にテーブルを置いてアイデアを考えたりしていたけどね(笑)。もうそれだけでね。ご飯も真ん中で食べたりして。ローラースケートで走り回ったりね。自転車で走り回れるくらいの大きさがあったからね。何ていうか、ずっとインスタレーションばっかりしていたでしょう。そうしたら写真でしか残っていかない。だから物を作りたいという欲求がすごく出てきたんですよ。何かを作っていきたいと思って、ヴェニス・ビエンナーレの後、これを同じようにケルンの日本文化会館でやるんですけどね。(Keiji Uematsu, Jürgen Partenheimer- Der Besuch, Japanisches Kulturinstitut Köln, Köln, 1988.)信ちゃん(渡辺信子)もここでドイツ人と2人展をしたことがあるんですけど。

渡辺:ケルンの。

植松:ケルンの日本文化会館。この時に同時にこれも出すんですよ。布の作品と同時に。(注:《Situation-Horizontal/Cone》、1988年、『Keiji UEMATSU』、p.187)

裕子:とんがり帽子みたいな形を。これは真鍮ですか。

植松:銅です。

裕子:銅でつくる。

植松:はい。銅で木の枝を作ったり。

司:枝も。

植松:ええ。この円錐をコーナーにぼんと立てかけるだけの作品とかね。このあたりで作り始めるわけですよ。これが1988年です。そうや、思い出した。1988年にはこの展覧会が1つあって、これはヴェニス・ビエンナーレのちょうど後ですわ。それで1989年の初めにカサハラ画廊で個展をするんですよね。(注:「植松奎二展」、カサハラ画廊、大阪、1989年)そのときに2つのタイプのアイデアがあったんですよ。カサハラの銅の仕事と、この布の作品の仕事。さっき言ったように、アイデアがまだあったから。それでどっちをしようかなとすごい迷うわけです。布の仕事で個展しようかな、どうしよかなと。それでね、奥田(善巳)さんのところに訪ねて行って、奥田さんに相談したことあるわ。

裕子:奥田善巳さんですか。

植松:そうそう、善巳さん。これどっちにしようかなって。最終的には僕が決めたんですけどね。もう彫刻を作ろうと思って。彫刻というか、ちゃんと立体的なものを作ろうと。それで布の仕事はやめてしまうんですよね。

司:テーブルや角材と、円錐。

植松:布の作品もアイデアがあったんだけど、その時もう銅で立体を作っていくというかたちのアイデアもどんどん出てきてたんで、もう新しい仕事をしようと思って。

山下:集大成的なヴェネツィアの日本館での展示の時は、酒井さんから何か条件があったり、他の出品作家といろいろ調整したりはあったのでしょうか。

植松:それは全然ないです。

裕子:じゃあこのインスタレーションは現場で考えてされたんですか。(資料で日本館の展示の写真を見ながら。)

植松:ああ。アイデアは出しましたけどね、「こういう作品を作る」と言って。(資料を見せながら)こういう作品とか。(注:《Invention-Floating space》、1988年、『Keiji UEMATSU』、p.179)

山下:「円空からはじまる」というテーマに対する説明とかあったんですか。

植松:そんなのないですね。

一同:(笑)。

植松:簡単。簡単ですよ(笑)。

山下:互いに場所を確認し合ったりとかは?

植松:互いの場所の確認ね。それはありましたね。ちょっとその話の前に、これはヴェニスで作ったんですよ、急遽。(注:《Invention-Vertical space》、1988年、『Keiji UEMATSU』、p.178)

裕子:これは入口の手前に展示されたんですね。

植松:そう。入口はもう真っ赤だったんです。外からこう来て、それで日本館の所に入るまでにこのテラスみたいなのがこうあって、そこでまたインスタレーションをする。それもアイデアを考えて出したんですけどね。それで中では、僕がこれをするわけですよ。(注:《Invention-Vertical space》、1988年、『Keiji UEMATSU』、p.181)

裕子:外にも展示されたのは植松さんだけですか。

植松:そうですね。

裕子:アプローチみたいな感じで。

植松:酒井さんに「植松君、入口で何かしてくれないかな」と言われたんですよ。導入ですっと入っていけるように。それで、すぐアイデアを考えたんですよ。ホテルでミシンを借りてね。それで鉄の輪っかを誰かに作ってきてもらって、縫って。だからこれはヴェニスで考えて作ったんです。

司:この枝はその辺で取ってきたんですか。

植松:そう、ヴェニスで。

山下:こうやって生まれているんだ。

裕子:この入口が真っ赤なのは?

植松:なにか知らないけど真っ赤だったんですよね、最初から。

裕子:ただこれはドアが赤に塗られてるっていう。

植松:そう。今は違うと思いますよ。この時は赤だったんです。僕は作品の写真を撮るためにドアを閉めているけど、観に来た人は誰も赤だとは気づかない。完全に開いてしまっているから、こっちへ。中が見えないようにして写真を撮ったからね。

裕子:たまたま赤いドアだったんですね。

司:ヴェニスで出品されたら、ヨーロッパで知り合いがいっぱいいるじゃないですか。いっぱい来られたんじゃないですか。

植松:それはいっぱい。ストックホルムのビョルン(Björn)には会うし、美術館の関係ね。僕が展覧会をしたところの館長さん連中には皆会ったし。

裕子:皆さん喜んでくれたんじゃないですか。

植松:ああ、皆喜んでましたね。

司:当時、他の出品作家とか日本の関係者はおそらくそんなにヨーロッパでのネットワークがない中で、植松さんは知り合いがいっぱいいて、喜んでくれて。

植松:いろんな人に会っているからね。もうほとんど皆会ったんじゃないかな。

山下:ヴェネツィアには会期中、長く滞在されていたんですか、。

植松:そうですね。僕は20日間以上いましたね。インスタレーションをしないといけないから、早く入りました。さっきの場所割りのことですけどね、結局、最初に酒井さんから言われたことは、ドアを開けて入ったら一番奥が戸谷さんだったな。真正面に見える所は戸谷さん。それで向かって右側が舟越さんで、僕が左側だったんですよ。

山下:そういう指示があったんですね。

植松:最初からね、場所はこういうふうに考えていると言われて。それで僕はヨーロッパにいるから、場所を見に行きたいと言ったんです。10月にすぐヴェニスに見に行きましたね。コンタクトを取ってもらって、連絡が来て、それで飛行機で見に行って。それで普通の時は会場に入れないですけどね、開けてもらって、見て。ちょうどね、僕が(展示するように)言われているところのスペースにドアがあるんですよね。ドアを開けられるんですよ。僕はいろいろと考えて、戸谷さんと舟越さんとの間に僕がある方がいいんじゃないかという感じがしたんですよね。両方並んでいるより。戸谷さんのスペースはドアを開けられるから、外と通じて緑が見える感じにするんですよね。これはドアを開けたらいい空間になるなと思って。でも僕にはここの空間は合わない。それで酒井さんにすぐ手紙を出すんです。「こういう部屋割りがいいんじゃないか」と言って。そうしたら酒井さんも「ああ、それがいいな。変えるわ」って。

裕子:意外と簡単に(笑)。

山下:お任せですね。

司:他の方からは何か言われなかったですか。

植松:いや、何も言われなかった。入ったらすぐボーンと僕の作品が見えると思ったんですよ。ところが全然見えない。結局、どこでも一緒でしたね。だけど僕は一番目立ちたいからそこだと言ったのとは違います。戸谷さんと舟越さんがつながって。同じように木彫の形がガーンとくるよりは、真ん中に僕のがあって、色があって、木の枝がふわっとあったらね、両方が絶対に引き立つと思ったんですよね。酒井さんはそれを受けて変更して。だから一番メインというか真ん中にの目立つ所にあるんだけれども、展覧会がオープンしたらそれは関係なかった。なぜかといったら、もう人がいっぱい。人がいっぱいいるからどこでも一緒。ぱっと入った時は、人と作品しか見えない。オープンから何日かしかいないから、それは全然関係なかったです。戸谷さんもその場所の方がすごい良かったと思う。角材がバーッと並んで、ドアが開いてて。日本館がオープンしている時だけそのドアは開けているわけですよ。だから来た人はそこからも出たり入ったり。

裕子:それもいいんですね。

植松:階段ね。後ろ側に緑が見える。そういうかたちで。

山下:戸谷さんと舟越さんと3人で作品の相談とかもしたのですか。展示の前、ないしは展示後とか。

植松:いや、それはないですね。

山下:それぞれですか。

司:2人はできている作品を運んで来られたのでしょうか。

植松:戸谷さんはあの縦列で並ぶやつ。どう並べるかですよね、空間の中に持って来て。舟越さんの場合は、作品が、僕が展示をしている時に着いたんですけどね。船で来ていて赤道を越えたから、カビが生えていましたね。全部じゃないですけど。それで舟越さんに連絡をしたら「全然問題ない」と言って、来てすぐピュッとカビを取ってペインティングし直していましたね。舟越さんの場合は、その時に初めてインスタレーション風に展示した。それまではいわゆる彫塑台があってその上に作品を置いていたのに、ヴェニスでは古い板台を拾ってきてそこへ彫刻をぽんと置いて、そういうインスタレーション風にしましたよね。それが彼にとって初めてのインスタレーションとちがうかな。評判は良かったですね。日本館の評判はすごい良かったです。その前の、1986年の(第42回ヴェネツィア・)ビエンナーレのときも酒井さんがコミッショナーだったんですけど、若林奮さんと眞板(雅文)さん。彼らはオープニングの日までいなかったのとちがうかな。

裕子:設営だけして帰ってしまったんですか。

植松:なんかね、オープニングはいて、すぐにいなくなったのかな。オープニングといったって3日間くらい続くでしょう。

裕子:そうですよね。

植松:最初だけいて、あとでいなくなったのかな。なんか酒井さんが言ってました。若林さんの作品が並んでいるでしょう。それでグッゲンハイムのキュレイターが来て「これ一体何や」と言われたって(笑)。そうそう、酒井さんは1986年にコミッショナーした時に、マッツビー(Mats B.)と会っているんですよ。その年はマッツビー(Mats B.)が北欧3国のコミッショナーだったんです。

司:ビエンナーレという国際展で日本館の代表として出られたことで、やっぱりお気持ちとしては日本のアーティストとしての足がかりというか、立場ができたと思われましたか? 日本で仕事をしたいという思いを、先ほどおっしゃっていましたけれども。

植松:ああ。でもまさかビエンナーレに出せるとは思っていなかったです。やった!という感じで。何て言うんですか、ビエンナーレというのはお祭りですよね。そういう感じが向こうではよく感じられたんですわ。だけどやっぱりそういう大きな国際展で発表できたというのは、僕にとってはすごいことでしたね。

司:ヨーロッパのギャラリーや美術館で個展というかたちでされるのとは、またちょっと違いますもんね。

植松:そうですね。戸谷さんにしたって舟越さんにしたって、次から次に仕事が来ましたよね。

裕子:その後に?

植松:ああ。僕も仕事が来ましたけどね。だけど、それだけ日本館の評価というのはその年、すごく高かったと思いますね。やっぱり訴えかけるものがあったと思いますね、戸谷さんと舟越さんと。

司:その後、日本の仕事でも野外彫刻展。大きい作品を展示される機会が続いていきますが。

植松:そうですね。日本での野外の仕事というのはそれまで少なかったんですよ。少なかったといっても…… (作品集を見せながら)これは今、神戸大学にあるんです。(注:《Untitled》(1971年)、『Keiji UEMATSU』、p.23)

裕子:そうですか。神戸大学のどこに?

植松:教育学部。教育の音楽。

裕子:ああ、発達科学部の(注:現在の国際人間科学部)。

植松:そう、発達科学部の音楽棟の中庭にあるんです。

裕子:見に行かないといけませんね。

植松:僕もね、長いこと行ってないんですけど。今はもうガラス張りでいいように見えると言われている。(ページをめくりながら)これが1971年ですよね。前に言っていたように、一番最初のこれ(注:《Tranceparence-Iron》(1969年)、第1回現代国際彫刻展、箱根、彫刻の森美術館)みたいなかたちでしか日本の野外ではしてないんですよ。その前にね、ファンデーション・カルティエが1985年です。ファンデーション・カルティエから野外の、まあ室内も使うんだけど、彫刻展の招待が来て。(Sculptures, Fondation Cartier pour L`Art Contemporain, Jouy-en-Josas, France, 1985-1986.)

山下:招待が来たんですね。

植松:その時に場所を見に行って、それで「何でも考えなさい」と言われる。それで結局、ここは斜面なんですよね。

裕子:そうなんですね。この写真だと…… あ、ちょっと緩やかな。

植松:そう、緩やかな斜面に棒が3本、水平に渡されていて、出たり入ったりできるような作品。石と鉄パイプで三角形をつくって、これを1985年にやるんですよ。(注:《Situation-Horizontal》、1985年、『Keiji UEMATSU』、p.221)それで、これを見た滋賀県立近代美術館の小林(昌夫)さんが…… 

司:最初のがカルティエで。これが野外で初めての仕事?

植松:ああ。

司:これはどちらで?

植松:滋賀県立近代美術館の彫刻の道というところ。だから須磨とかに出す前にこういうのが始まっているんです。(注:《Situation-Degree/Triangle》1987年、『Keiji UEMATSU』、p.222)

山下:私、滋賀県立近代美術館の近くを歩いていて、「これは植松さん(の作品)だよ」って家でいつも言っていて。

植松:それで1987年にこんなのを作るんです。これは僕の友達が建築をやってましてね。トヨタオートといって自動車会社ですけどね。「トヨタの展示場みたいな所に、自分が設計するから、あと何か考えて」と言われて。それでこのあたりを考えたりしていたんですよ。(注:《Situation-Degree》1987年、『Keiji UEMATSU』、p.224)

山下:全部依頼が来るんですね。

植松:そうです。これは僕の知り合いの人が、自分の家に何か作ってくれないかと言われて。(注:《Situation-Degree/a stone》、1990年、『Keiji UEMATSU』、p.225)これも作ったんですよ。これが1990年ですよね。この前に1988年、ヴェニス・ビエンナーレの後ね、酒井さんに「東海市で彫刻の話があるんだけど、1点作る?」って言われたんです。ビエンナーレの後だからそっくりでしょう。(注:《Situation-Red form/Vertical》、1988年、『Keiji UEMATSU』、p.228)

司:はい。

植松:「それならヴェニス・ビエンナーレで作ったああいうのでもいいですか」と言ったら、いいと言われて。それでこれ、また東海市でやるわけです。

司:これは木の枝?

植松:木の枝を鉄で作っているんです。

司:布と木じゃなくて、鉄で。

植松:ええ。鉄で作ってワイヤーで張っているんですけどね。これは1991年、ドイツですね。ホッケンハイムという所ですけど。(注:《Situation-Degree/Triagle》、1991年、『Keiji UEMATSU』、p.229)それで1988年に東海市の作品をやって、1989年にこれを瀬戸田町にやるわけです。

裕子:瀬戸田町というのは何県ですか。

植松:広島県やね。今、尾道市瀬戸田になっている。こういう見え方にはならないですけどね。これは写真のトリックです。山口牧生さんに言われたんですけど、見に行ったらしいけど、「植松さん、えらい違うよ」って(笑)。この向こうはね、ちょっとこういうふうに下りて砂浜になっているんですよ。それでいわゆる普通のビーチなんですよ。だけどこっちからこう撮ったらね、もう全然ビーチが見えなくて、丘の所に(笑)。これが1989年です。これが先だった。(注:《Situation-Three stones/Inclination》、1989年、『Keiji UEMATSU』、p.196)

司:こういう室内の仕事があって、これを野外に?

植松:これを野外に移した。こういう感じ。

山下:室内や室外で依頼があったりする時ですが、野外制作というのは、何か制作姿勢とか異なりますか。

植松:変わりますね。野外の場合はやっぱり耐久性が問題になりますからね。耐久性で材料も全然異なる。これは木を使っていますけど、石を使ったりステンレスを使ったり、金属になってきたり。

山下:どこに設置されるのかというのも考えますか。

植松:当然、空間が大事です。彫刻というのは、ひとつの物で彫刻というわけではないんですよね。結局、周りの空間も含めて全部でひとつの作品なんです。だから野外で彫刻を作る時は、必ずその場所を見に行きます。そこに合うように。

司:こちらなんかだと壁も使ってますか。

植松:そう。もたれかかっている。

司:野外彫刻だと基礎を打って、安全性と永久性というのが必要になりますね。

植松:これなんかだとどこも留めていないですけど、野外の場合は留めないといけないんです。留めて留めて立ってるいうかたちです。

山下:1990年代に入ったら神戸須磨離宮公園現代彫刻展で賞を取られますが、あれも依頼があって出品されたのでしょうか。(注:第12回神戸須磨離宮現代彫刻展、大賞。)

植松:そうですね。皆、招待がありました。須磨も。

裕子:出品してくださいと言われて、完成した大きいものを出品する。

植松:はい。

司:その時も箱根と同じく現物をドンと持って行く感じなんですか。

植松:そうです。招待だから。

山下:現場を下見に行かれたりとか、事前調査は?

植松:それはね、自分で場所を決められないんですよ。展示委員の建築家がいて、こういう作品が来るというので場所を決めるわけですよね。だけどまあ、宇部のスペースというのは大体分かっていますからね。須磨の時も結局自分で選んだ場所とは違いますね。だけど須磨全体のスペースは分かっているから、どこでもいいとは言えないけれど、それなりにいい場所でした。ところが須磨で大賞を取ったその作品は、今は神戸市のハーバーランドにあるんですよ。やっぱり、その場所を考えて作ったのとは違うでしょう。だから周りに建物が後からがんがん出来たり。それは作品として、空間的に全然良くないです、本当に。もう動かしたいくらいですね。

裕子:お役所の方はそういうところまでは考えてくれない。

植松:ああ。作品はビルが建つ前に入れていますからね。後からどんどん建ってくるしね。

山下:宇部の野外彫刻展(注:山口県宇部市で2年ごとに開催される「現代日本彫刻展」のこと。宇部市・毎日新聞社主催。2009年よりUBEビエンナーレに名称変更)は今でもあるし、須磨も15回続きましたけど、日本に戻られてからの植松さんにとって、野外彫刻展というのは基本的に依頼があれば出すという対象ですか。

植松:そうですね。野外の作品は何点も作っているけど、自分から作るということはほとんどないですよね。依頼がある、そういうことです。

山下:やっぱり特定の美術館やギャラリーでコンセプトを突き詰めていくのが、植松さんにとっては……

植松:そうですね。そっちの方がね。だから今でも野外の作品は、2年ほど前に作っていますけど、フランスで。それも向こうの美術館が制作費も全部出してくれているから作っているけど、そうでなければ、自分で制作費まで出して、それがどこへ行くか分からないような野外の大きい作品は作らないですね。

裕子:やりたいからできるというものでもないですよね、野外の場合は。

植松:うん。だから美術館がボーンと費用を出してくれたら野外でも大きいのを作ってしまいますよね。その作品なんかは結局、展覧会が済んだ後は僕のものになっているんですけどね。今どこだったかな。フランスの小説家、詩人で、(ルイ・)アラゴン(Louis Aragon)。アラゴンのアートセンター(注:Màison Elsa Triolet-Aragon, St-Arnoult-en-Yvelines, フランス)に僕のと信ちゃんのも行ってますわ。貸しているんですけどね。

山下:そういう依頼があって出品をされますと、やっぱり1990年代のいろいろな野外彫刻作品を植松さんも目にされるわけですが、若手作家の彫刻作品と比較はされますか。自分と違うなというか。あまり他の人は気にならないですか。

植松:うん。

山下:宇部もだいぶ変わってきましたしね。電車の形をした作品も出てきたり。

植松:僕は長いこと見ていないですね、。だけど一度、宇部か須磨のカタログをドイツで見せたら、「Keiji、これは一体何年代や」という感じで言われたことがあった。

司:古く見えるということですか。

植松:ああ。いわゆる彫刻ですよね、なんか。向こうでは野外の作品でもミュンスター(Sculpture Projects Muenster)とかドクメンタに出ている野外の作品とかを思い浮かべますよね。

裕子:コンテンポラリー・アートの一部ですもんね。

植松:そうそう。だけど日本の、僕の出している所もそうですけど、宇部の野外彫刻展なんかは本当に彫刻展ですよね。

司:記念碑的な感じですよね。

植松:ああ。そういうかたちだから彼らも「これ、えらい古いな」と感じますよね。だからあれはね、作品を買い上げるとか、保存していくとか、そういう問題があると思うんですね。だからどうしても皆ちゃんとした、長持ちする作品を作ってしまうから。そうでなかったらまた表現のしかたが全然変わってくると思うんですよね。

山下:大地の芸術祭(越後妻有アート・トリエンナーレ)への出品も似たような背景ですか。依頼があって?(注:《大地とともに-記憶の風景》、越後妻有アート・トリエンナーレ2000 大地の芸術祭、2000年、新潟)

植松:はい。依頼があって。あれは何ヶ所かで作る予定だったんですけどね。僕、ドルメンとかストーンサークル、ストーンヘンジとかああいう石器時代の作品とか好きですからね。越後妻有のああいう所にぼんと石で作って、木も植えたんですけどね。春になったら花が咲くように、白い花が咲くように。越後妻有の3ヶ所か4ヶ所、同じようなシリーズでちょっと違う形で作ろうと思ったんですよ。ところが1ヶ所しかできなかったんですけどね、予算の関係で。作ってしまってから時間が経って、全部なくなるとするでしょう、いろいろなものが。ところが何十年後に、何百年後に見たら、「これは一体何だ」と思うような形のものを作りたいと思ったんですよ。

山下:悠久の流れですね。

植松:石のなんかこう、ボーンとあるけれども、別に美術どうのこうの関係なくて生き残っているみたいなものがあるといいなと思って。それが4つとかいろいろな箇所につながってある。そうしたらその時代の人が、「一体これは何だったんだろう」と考えるようなものを作りたいと思っていたんですけどね。

司:このあたりの時期で2つお訊きしたいことがあります。1つはアーティストの生活の仕方として、日本に戻って来られる前にフランスのボドワン・ルボン画廊と契約して安定した収入があった。それで展覧会の時にもいろいろと補助がある形で活動できるようになったわけですけど、半分ぐらい日本で生活をしていると、日本での生活とか制作とかにかかる費用はそれだけでは足りないですよね。

植松:そうですね。

司:日本のギャラリーとはどのような仕事を? 日本での仕事の仕方というのは?

植松:日本のギャラリーでは、コマーシャル・ギャラリーと言えるのは笠原さんの所ですね。カサハラ画廊でしたんですね。

司:それもコントラクトのようなものはありましたか。

植松:いや、別にコントラクトはないですよね。コントラクトはないから、展覧会をして。でも展覧会がない時でも作品を売ってくれたり、作品を買ってくれたり、そういうかたちでね。でもコンスタントな収入はないです。あとコマーシャル関係のギャラリーだと、トアロード画廊(神戸)というのがあったんですよね。トアロードにあって、奥田(善巳)さんも皆(展覧会を)やったりしていたんですよ。僕は1986年からやるんですよね。1986年から88年まで。小さい画廊ですから、作品が小さいんです。ちょっと売れそうな作品、そういうのも作ったりして。それで「あ、これはあかんな」と思ったんです。ビエンナーレのドローイングの作品を出したり、布の作品もしたり、いろいろとしていたんですけど、「あ、こういう生活をしていたら僕はあかんようになる」と思って、パッとやめたんですよ。作品は売ってくれるんですよ。作品は売ってくれるんだけど、お金は全部は一度にくれないですよね。売上げの半分程払ってくれてあとは一月ごとでした・ドイツでの収入も考えて、毎月いくらかあればいいと思っていたんですけど、こういう小さな作品を作る仕事のやり方をしていたら僕はあかんようになると思って、パッとやめたんです。「すみませんけど、やめます」と言って。なんせ好きなことをして食べていきたいから。だからこそ何とかやってこれたんですよね、日本と向こうとで、ずっと。

司:あともう1つの質問は、1988年の後ですね。彫刻、残るものを作りたいということをおっしゃっておられたんですけど、インスタレーションと違って、作品として戻ってきたら置いておく場所が必要になりますよね。

植松:そうなんですよね。

司:結構スペースが大変になってくるんじゃないですか。

植松:そう。倉庫が要るんです。

司:倉庫の問題。しかも日本とヨーロッパで、両方ですよね。どうしていらっしゃるんですか。

植松:だからね、結局ドイツではアート・トランスポートの倉庫を借りているんですよ。信ちゃんの作品も入っているんですけどね。タク(植松琢麿)の作品も入っているけど、僕らがこっちに帰って来ていたって、展覧会が済んだらそこへギャラリーがトランスポートして、そうしたら倉庫のカンパニーの人が受け取って、僕らのスペースにちゃんと置いてくれる。僕らがいない時でも作品を出そうと思えば、そこへ知らせて「この作品をこのギャラリーが取りに行くから出してくれ」と言うんです。するとそこから出してくれる。

裕子:それはいい仕組みですね。

植松:それは良くできているんです。

司:でも結構高かったりするんじゃないですか。

植松:それは、まあ何とかするんですよね。日本でも今、倉庫を2つ持っています。

司:それは徐々にスペースが必要になって、広げていかれた?

植松:そう。どんどん増える一方ですね。

裕子:ちょっと技術的なことですが、日本に帰って来られてこういう円錐型を金属で作るようになるわけですが、やっぱりどこかの工場に発注されるんでしょうか。

植松:いや、これは皆、自分で作った。

裕子:自分でできるんですか。

植松:うん。これ、一番最初のこのあたりの作品も皆自分で作っているんですけどね。それで日本に帰って来て銅板で作り始める時に、町工場で、ヤカンとか作っている所ありますよね。そこへ行って、「こういう形のを作って欲しいんですけど」と言って見せたんですよ。

裕子:最初はそれを自分でやってみていたんですね。

植松:もうどうやって作っていいか分からないから、最初はどんどん自分でやり方を考えて作っていったんですけどね。皆、手で作るんですけどね。そういう工場に行っても…… 工場といっても町の小さな所で、そこの職人さんに作り方を尋ねると、周りで叩いている人をバーッと呼んで、「おい、こんなん作ってるよ」って(笑)。「これはあんたが自分で作った方がいいわ」って。それで仕方ないから僕、自分で作っていたんですね。

裕子:これは薄い銅板をこういう形に整形していく?

植松:そうです。手でトットッと当たって。

裕子:見た目ほど重くないんですか。

植松:軽いです。0.6ミリとかそんなのです。

裕子:外からだけ見ているとやっぱり、結構重いように見えてしまうんですけど。

司:接合は?

植松:ハンダ付けです。

司:溶接はしないで。

植松:そうです。薄いから。野外の作品ではそんなのできないですけど。ステンレスとか鉄でやりますから。そういうのは鉄工所に行って、鉄工所で一緒に作ってもらうんですけどね。

司:室内で展示されているようなものは、ご自身でされているということですね。

植松:そうですね。銅の関係だけですね。鉄だともう鉄工所に行きます。

司:鉄のテーブルとかああいうのは鉄工所。

植松:そうです。クレーンを使ってね。重たいですから。

司:石とかはどうされていますか。

植松:石は石屋さんね。

司:丸いこんな感じのを作ってくれるんですか?

植松:石は、日本で使っている石はほとんど自然石です。

裕子:それは探しに行かれるんですか。

植松:そうです。

司:どちらへ?

植松:能勢。山口牧生さんの所と一緒ですよ。僕は自分のデッサン、ドローイングをしてから石を探しに行きますからね。大きさも「これぐらいの大きさ」と言って。そうしたら石屋さんに言われるんですよ。「植松さん、石を見つけてから絵を描いてください」って(笑)。

一同:(笑)。

植松:それに合う石を、一生懸命探すんです。

裕子:石屋さんが持っておられる石の中から選ぶ?

植松:そうです。石が山でころんころんあるわけです。その中から探すんです。

裕子:その石を持っているというか、管理されているのはその石屋さん?

植松:そうそう。

裕子:勝手にどこかに行って、持って来たりするわけではなく?

植松:そういうのはないです。1個ずつ買うんです。大きい石なら大きい石で。

司:成形はされないんですか。

植松:いや、僕はほとんどしないです。自然石の丸っこい石を使う時はそのままです。こういう石は言ったとおりに割り出してもらうんですけどね。50センチ角にして欲しいとか言って。こっち側の面にノミの跡が残るようにして欲しいとか。それならこっちから割ったらノミの跡がぽんと残って割れるから。南フランスで彫刻を作った時、こういう自然石を使いたいと言って写真も送ったんですが、ないんですよ。見つからない。そうしたら真四角の御影石、グラニットからね、彫っていくんですよ、丸く(笑)。見せましょうか。またよくできてるんですよ。どうしたって見つけられないからね。

裕子:人工的に自然石を作ったんだ。

山下:ヨーロッパ的な感じがするな。

司:すごいね。

植松:(カタログを見せながら)これ。(注:《Floating red form》、2005年、図録『PEYRASSOL PARC DE SCULPTURES』、ベルギー)

山下:大変な作業ですね。

植松:この石ね。真四角の石から彫ったんですよ。

裕子:たしかに妙に綺麗な。

山下:より自然に近づけて。

植松:より自然に近づけているでしょ。2つ作ってくれてね。「どっちにする?」と言われて、「こっちがいい」って。

山下:たしかに落ちていたかのような。

司:すごい、卵みたいな。

植松:そういうのね、やっぱり外国ではね、大きいこんな石になったら大変なことがある。日本だったら簡単に選べるけど。

山下:今までちゃんと見つかっているんですね、自然石が。見つからなくて困ったことはないですか。

植松:そうですね。まあ、作っているからね。

菊川:日本に帰られてからアトリエは、どういうところでされてたんですか。西宮の時は?

植松:西宮の時は、何ていうんですか、マンションの中でも作っていたし、親父の家、実家に行って作ったりもしていた。

菊川:じゃあ円錐のハンダ付けとか、そういった作業も家の中で?

植松:そうです。親父の、実家の家でよくやっていたかな。

菊川:大きい作品の作業を業者に依頼するんだったら、専属のアシスタントとか、そういった方はいなかったんですか。

植松:専属のアシスタントというのは別にいないんですよ。どちらかと言うと、僕がアシスタントですね、鉄工所に行ったらね。

菊川:ああ、なるほど(笑)。

植松:鉄工所の社長さんがやってくれて、僕が一緒にアシストするという感じで。まあ、その人は技術がすごいですからね。溶接の技術も。でも、僕の仕事をずっとやってくれていた社長さんというのが、もう会長さんですけど、僕と一回りぐらい違うから、もう82歳です、今年。やっぱり大変ですよね、仕事するのが。だからね、「植松さん、自分でできるところは全部自分でやりなさい」と言うようになった(笑)。そうしたらね、もう大変。「その方がやりがいあるでしょ」とか言われてね(笑)。それまでずっと全部やってもらっていたから。僕も体力的には、昔は仕事をしている時に、グラインダーをかけたりガーッとやっていてもね、いつ写真撮られてもいいぐらいにかっこよく仕事をしていたんですよ。ところがある時からね、べたっと座ってしまってね、座ってグラインダーかけたりね。もうかっこよくなんてできない。写真を撮ると言われたら「ちょっと待って」って(笑)。

裕子:ちょっとかっこよくするからと(笑)。

植松:そうそう(笑)。

裕子:これだけ仕事も大きく展開されて、成功もされてとなると、普通はアシスタントが何人もいたり、お弟子さんみたいな人が出入りしたりすると思うんですけど。

司:特に彫刻の方はそれが多い印象があります。

裕子:そういう教えたり、若い人を作業に入れたりというのは、あまり興味がないんですか。

植松:それはないですね。でも例えばドイツで、ミュージアム・ジーグブルグという所で展覧会を1994年ぐらいにしたんですけどね。(It’s Possible, Skulpturen und Zeichnungen, Stadtmuseum Siegburg, Germany, 1994.11.24-1995.1.8)その時はやっぱりアシスタントに来てもらいましたね。自分一人でデュッセルドルフに行って、仕事をしないといけないから。毎日アシスタントに朝から来てもらって、一緒に作品を作りました。

裕子:プロジェクトごとに、必要な時だけという感じですか。

植松:そうそう。日本で銅板をしたりいろいろとしている時なんかは「信ちゃん、ちょっと手伝って」とか、そういう感じで信ちゃんに手伝ってもらったり。だから常にずっと要るというのとは違うから。ミュージアム・ジーグブルグの時はやっぱり1ヶ月ぐらい、アシスタントに毎日来てもらったんですね。一人でご飯を食べるのもしんどいからね。一緒に昼ご飯も食べて、夜ご飯も食べて。だから寿司屋に行ってカウンターに座ったりして。そうしたら「こんな所で寿司を食べるのは初めてです」とか言うんですよね。アカデミーの学生だからね、日本人の。いちいち注文するのに訊くんですよね、「何を食べたらいいですか」って(笑)。まあ、そういう感じで仕事をしたりしていた。だけど今は別にアシスタントが欲しいという感じはしないですね。でもタク(植松琢麿)なんかはアシスタントが欲しいんじゃないかな、時間がないから。

山下:ヨーロッパでも彫刻家というのは特定のアシスタントというか、チームがいる方とかも結構いらっしゃると思うんですけど、一般的にはそういう感じですか。ヨーロッパで仕事をされる際は、プロジェクトごとの方が多いとか、違いはありますか。

植松:まあ、すごく売れている作家はアシスタントが大勢いますよね。だから、オラファー・エリアソン(Olafur Eliasson)とかあんなのになったら、もう20人、30人ね。

裕子:プロダクション会社ですよね。

植松:昼飯を一緒に食べていても、テーブルも大きな所で食べたりしているよね。まあ、そんなに売れていない作家でもアシスタントがいるかも分からないね(笑)。

司:植松さんは珍しい…… 珍しいと言ったらあれですけど。

植松:そうですね。そう言われたことはあるよね。

司:特に意識してアシスタントを入れないわけでもないんですよね?

植松:ああ。去年、一昨年だったっけ、済州島のアラリオの美術館(ARARIO MUSEUM、韓国・済州島)ができた時に、呼ばれて行ったんですよね。中国のキュレイターに会ったんです。「ところでアシスタントは何人いるんですか」「いや、アシスタントはいませんよ」と。その話を日本に帰ってしたら、「工場は持っていると言った方が良かったんじゃないか」って(笑)。

裕子:アシスタントはいないけど、工場は持っていらっしゃる(笑)。

菊川:アシスタントとかスタッフを抱えると、その分動くのも大変ですよね。

渡辺:まず稼がなきゃいけないんじゃない、それだけの分。

菊川:いろいろな国でお仕事をされて身軽に動けるというのは、やっぱり今の作品のスタイルと合っているのでしょうか。それゆえにそうなっていったのかなと。

裕子:自由でありたいという……

植松:自由でありたいけど、まあそれだけではなくて(笑)。そんなにぼんぼん作品が売れるわけじゃないから。もう納期に間に合わないとか、そういうのでもないし。鉄の仕事とかステンレスの仕事になったら鉄工所に行って、そこで集中的にやる。僕だけでなくて、鉄工所の社長さんと社員さんが3人も4人も一緒になってやってくれることがありますからね。プロジェクトごとですね。家で作れる時は自分でやっていくという感じ。僕の友達の西野康造さんなんかはアシスタントが常に2、3人は毎日働いてますよ。だからアシスタントのために一生懸命稼がないといけない。でもそれだけ仕事があるということですよ。僕なんかはそんなに仕事がない(笑)。

司:その流れでいくと、渡辺信子さんや息子の琢麿さんとか、ご一家でアーティストをされていると、お互いに手伝ったり。

植松:します。

渡辺:それはしょっちゅう。

司:倉庫にしてもそうだし、制作の時もそうですし、特定のアシスタントがいなくてもお互いが忙しいときは手伝って、それもまた。

植松:しょっちゅうですよ。昨日もタクの作品を、千葉市美術館に。この間、ここに3つあったでしょう。あれを送ったけど、「奎ちゃん、時間がないから梱包やっといて」って(笑)。

裕子:結構使われてますね(笑)。

植松:それで信ちゃんの作品なんか、もう信ちゃんの木枠は僕が全部作っていますからね。

司:あれ、結構重たいですもんね。

植松:だから信ちゃんの作品はたくさんあるけれど、あの木枠は全部手作り。それで信ちゃんの展覧会がいっぱい決まったって話をしていたら、松井紫朗さんが「植松さん、大変ですね」って(笑)。

司:木枠を作らないといけない。

山下:家内制でできてしまうんですね。アシスタントがいなくても。

植松:タクの仕事でも、僕らが手伝える時だったら、時間がなかったら手伝うよね。

渡辺:アッちゃん(植松篤)とかよく手伝いましたよ、根気よく。葉っぱを1枚ずつ貼るとかね。

司:彼は仕事が丁寧そうですもんね。

渡辺:はい、丁寧です。

植松:アッちゃん、忍耐力があるから。

渡辺:タクちゃんのためなら。

裕子:素晴らしい。

植松:タクが「これをやっとけ」と言ったら、弟だから何も言わんと黙ってやっていた。

裕子:ちょっとプライベートなところですけども、信子さんとの出会いについてお聞きできたらと思うのですが。

植松:僕がドイツ行った時の話をいろいろとしたのは前の奥さん。

裕子:日本におられる時に結婚されていたんですよね、最初の奥様と。

植松:そうです。1972年です、結婚をしたのは。だから僕がまだ25歳ですね。結婚式の明くる日に26歳になりました。

司:学校にまだお勤め? 小学校ですか。

植松:その時はもう高校ですね。高校の先生をしていて。それで結婚して、だからドイツに行ったのも一緒ですよ。ずっと一緒に動いたり。

裕子:美術関係のお知り合いの方ですか。

植松:建築事務所に勤めていましたね、最初。

司:どういうきっかけでお知り合いに?

植松:それはその建築事務所に行った時に知り合ったんですね。建築事務所の秘書みたいなことをしていたんですよ、前の嫁さん。

司:美術の仕事の関係で建築事務所に?

植松:そうですね。橋本健治さん(注:坂倉建築事務所に勤め、大阪・中之島公会堂の保存・再生工事をした。)が小学校の建築のコンペに出すから、「植松、手伝ってくれ」と言われて。その時に建築事務所に行って会ったのが一番最初なんですね、秘書をしていた。あとデザイン事務所の秘書もしたりとかいろいろしていて、結婚してしばらく一緒にいて、それで僕が(学校の教員を)辞めてしまって、辞めた後も働いていましたけどね。それで一緒にドイツに行って。1986年ぐらいに帰って来て、西宮に住んで、ずっと一緒にいて何をするのも一緒でした。それで1994年に癌で亡くなるわけです。僕の仕事をいつも冷静にみてくれていました。いいアシスタントでいい批評家で同志でした。円錐の作品をつくり始めて2年程したとき、シリーズでつくっていた時、かたちで創ったらダメだと、考え、コンセプトでつくらないと長くつくれないと、適確に云ってくれたのをよく覚えています。それでその後亡くなって何年かしてからですね、信ちゃんと知り合うのは。だけど信ちゃんのことはその前から知っていたんです。

司:植松さんがご存知だった?

植松:ドイツに行く前から。信ちゃんも僕を知っていた。

渡辺:うん。いつぐらいかな。

植松:1970年代ですね。

渡辺:画廊とかでしたね。

植松:ちらちらっと。信ちゃんは作品を作っていたから。展覧会のオープニングとかグループ展のオープニングとかで会ったり。

裕子:親しいとかじゃないけど、お互いの存在は知っていた。

渡辺:私の友達が親しかったよね。陽子ちゃん(生形陽子)がね。

植松:それで1986年に帰って来た時に、また会ったんですね。

渡辺:はい。

植松:生形君(生形貴春)と陽子ちゃんがいるでしょ、奥さん。その友達なんです。

渡辺:友達なんです、私が。

植松:それで僕、生形君と友達で、信ちゃんとまた知り合って。それからですね。それまでは遊ぶ会があったり、お花見があったり、皆で食事をしたりして。それで嫁さんが亡くなってから後ですね、一緒になったのは。

裕子:それで信子さんの2人の息子さんと家族になって。

植松:それは本当に大変だったですね。アッちゃん(植松篤)のことは知っていたんです。でも僕、タク(植松琢麿)は知らなかったね。

渡辺:うん。最初、母と4人で会う時がすごい大変でした。皆、決めていた場所に行かない。途中で嫌がる。本当に嫌がったね、あの時。

植松:うん。

司:琢麿くんがもう高校生?

渡辺:はい。

植松:アッちゃんは中学生。

裕子:ちょっと多感な時期というか。

植松:男の子にしたら、お母さんに男ができるなんて信じられないよね(笑)。高校や中学の時にね。それでね、この間もその話をしていたんけど、タクちゃんがやっぱりすごいのはね、アッちゃんにすぐ言ったらしい。「オカンはもういないと思え」って。すごい。

渡辺:でも最初は大変だったね。会いに行く時はね。

植松:僕にとってはそれまで子どもがいないわけでしょう。だからその中で子どもができた。すごい良かったですよね。何ていうの、自分は子どもというのは全然いなかったから分からないわけです。育てたこともないし。それである意味、ぽこっと出てきたわけでしょう。

裕子:割と大きいですし。

植松:一生懸命育てるのが大変だと聞いているけど、そんなにね、何ていうの、赤ちゃんの時の育てるというのは知らないからね。ぽこんと出てきて。それでまあ、どっちかというと友達みたいなものです。ちょっと年を取った兄ちゃんが出てきたという感じ。だから今でもタクちゃんにしろアッちゃんにしろ、僕を「奎ちゃん」と呼ぶんです。それで孫も皆「奎ちゃん」と。

裕子:逆に若い感じがしていいじゃないですか。

植松:うん。信ちゃんは「ばあちゃん」と言われている(笑)。だからそういう中で一緒になって生活していって、タクちゃんは関西大学の商学部、アッちゃんは京都教育大学の生物(理科領域専攻)に行ったでしょう。でも卒業して、両方とも美術に行ったわけですよ。やっぱり責任を感じますよね(笑)。信ちゃんとずっと一緒に生活して、小さい時から展覧会を観に行ったり、2人ともすごいアートが好きだったんだけど。僕と一緒になってから、違うところに進んでいたのが同じように美術のところに行って。そういう意味ではまあ、嬉しいですよね。

司:それは一緒に生活されるようになって、制作される現場とかを息子さんたちもご覧になっていたりするわけですか?

植松:そうそう。

司:そういう経験もやっぱり大きかったんでしょうか。

渡辺:うんうん。

司:日常的にアートを作り出している。でも信子さんもご自宅で作られていますよね。違うインパクトがあったんでしょうか。

渡辺:あったと思う。

植松:信ちゃんの作品はずっと布切れを貼ったやつ。あれを皆、手伝っていたけどね。アッちゃんもタクも、布を外したりするのをアルバイトで。

渡辺:失敗したときね、外すのが辛いんですよ。それをね、タクちゃんとアッちゃんが500円ぐらいでやってくれてた(笑)。

山下:アシスタント的なことを超えて、制作や思考の方にも刺激になったりしますか。

植松:それはあると思いますよね、お互いに。

山下:割と話もするということですか。

植松:「この作家、面白いよ」とかそういう話はするし。

司:琢麿さんの場合は、卒業して就職もされていたけど、突然「アーティストになるわ」という宣言があったわけですよね。驚かれましたか。

植松:驚いたというより、「辞めてアーティストになる」と言って、まあそうかなって。

司:心配されるというよりも、まあ何とかなると思われていたんですね。

植松:そうですね。それは僕の性格がずっとそれできているから、何とかなるわと思って。タクも何年か前に別の就職の話があったんですよね、カメラマンで。会社でカメラスタジオを作るからチーフで来てくれないかと言われて。給料がいくらでって。だいぶ悩んでましたね。それで、まだ決めかねている時に電話で喋って「どうしたんや」と訊いたら「まだ決めかねてる」って。それで信ちゃんも僕も「もういいんじゃないの、働かなくて」とか言って(笑)。ええかげんやから。「勤めたところで何ともならないよ」と言って。時間的にも、例えば香港にアートの仕事があるといっても行けなくなるし、「もう何とかなるんじゃないの」と言って。そしたらすっとやめてしまいました(笑)。

渡辺:(笑)。

司:気が楽になったでしょうね。

植松:ああ。やっぱりね、奥さんも子どももいたら、定職に就いた方がいいのかなと思うよね。不安定な生活をずっとしているからね。僕らはずっとそれで来ているから、それ以上知らないから、まあ何とかなるんじゃないのって。

渡辺:何とかなる。

司:でもなかなかそう言ってくれる親はいないよね、多分ね。

植松、渡辺:(笑)。

司:植松さんご自身も、お父さんに最初は「美大には行くな」とか「学校の先生ならいい」とか言われて。

植松:そう。

裕子:お母さんも心配されていたと思います。

植松:そうですね。だけどまあ、前にも言ったように、僕が学校の先生を辞めた時には、親父はもう「自分の人生だから好きなようにやれ」と言っていたけどね。

裕子:本当にいいご家族ですね。

渡辺:刺激になるよね。ジェネレーションが違うから。まったく知らないことを知っている。

植松:そうです、仕事はね、タクから若い作家の話をたくさん聞くことが多い。僕が知らない作家をたくさん教えてくれる。その代わり、タクは古い作家を知らないからね。それは僕が教えてあげるんですけどね。また「ふん」と言っているから、あまり興味はないんだろうけど(笑)。

司:でも植松さんは結構コレクションもお持ちで、そういうのが身近にあって、実際の作品が身近にあって話をいろいろと聞けるというのは大きいでしょうね。

裕子:それだけでいい教育ですよね、。

植松:だから前にも言ったように、お互いに3人の作品で「次、個展があるからこういうのにしょう」とかアイデアを見せ合ったりするわけです。簡単ですよ、うちは。「こんなのはいけてない」。いけてる、いけてないだけで話がピュッと済んでしまうから(笑)。

山下:家のなかで合評みたいなのがある。

植松:そうそう(笑)。

司:厳しいですね。

山下:インタヴューの時にいつもお尋ねしているんですけど、植松さんはいつもどのような1日を送っておられるのか、美術の活動はどれぐらいの割合なのかなと。

植松:ふだんね。

山下:毎日制作をされているんですか。

植松:いや、毎日は作ってないですよ。考えてることの方が多いですね。

山下:このテーブルで?

植松:ああ。ここでやったり、向こうでやったり、台所でやったりとか。

司:そういうときはスケッチをされたりするんですか。

植松:そうそう、スケッチね。見ます?

裕子:見たいですね。

山下:スケッチではコンセプトを練っておられるんですか。

植松:作り始めると僕は仕事が早いんですよ。

司:もう決まっているから?

植松:ああ。作り始めると早いんだけど、しょっちゅう作っているいうことはないです。次にこれだけ作品を作らないといけないとか、その時に合わせてずっと作っていくというかたち。

山下:展覧会に合わせて、やっぱり場所や空間も関係あるから。

植松:そうですね。

山下:そういうのがあって考え始めるということですか。

植松:そうですね。その方が多いですね。そうでない時もあるけどね。ドローイングはそうではないですね。ドローイングはもうダッタダッタ描く。

司:ドローイングとしての作品ですね。

植松:ああ。このぐらいのドローイングはね、ダーッと描いていく。それは描くときは集中的にダーッと描いていくよね。どういうペースで来るのか分からないけど。ふだんの生活は、朝起きて…… 前、タクに言われたんですけどね。

渡辺:昔?

植松:うん、昔。あれ何年ぐらい前だったっけ。

渡辺:もうだいぶ昔。

植松:「奎ちゃんは起きて、犬の散歩行って、ご飯食べて、新聞読んでテレビ見てるだけやな」とか言われたことがある(笑)。これはやばいなと思った。これはちょっと仕事をしないと(笑)。その後は仕事をしていましたね。毎日作品を作っていましたね。

司:そういう姿勢を見せねばと(笑)。

植松、渡辺:(笑)。

山下:スケッチとかも1、2時間でも疲れると思うんですが、別にふだんはくつろいだりもされてますよね? 月から金までずっとコンセプトを練ってるわけではなくて?

植松:全然。思いついた時だけです。だけど、この間までは……。

渡辺:なんか忙しかったよね。

植松:ああいう集中的に考えている時は、1日に最低2、3個は(アイデアを)出そうという感じでやったりしてね。

山下:リラックスされる時はゆっくりテレビを見ているんですか。

植松:ああ。

渡辺:滝に行くとかね。

司:箕面の滝?

植松:うん。

山下:基本は、日常的にはこちらにおられるときが多いですか。

植松:そうです。何かあったら出ていくという感じ。だけど結構忙しい時は忙しいね。何が忙しかったんだろう。

渡辺:ほんと忙しい。朝からダーッと、ご飯を食べるのもコンピュータの前とか、もう夜とかご飯を忘れるぐらい、忙しい。

司:逆にそういう時は日常がなくなっちゃって、ずっと制作モードなんですね。

渡辺:ええ。もう集中と持続が要るから、結構大変よね。

植松:そうですね。なんか連絡をしたり、いろいろして。

司:自営業の生活ですよね。

植松:また英語で入ってきてね、ダーッと。それに返事しないといけないし。

渡辺:結構時間がかかるよね、いろいろなことに。結構忙しいんです、意外とね。

植松:この間、イスタンブールに彫刻を作ったんですよね。その頃の1週間は緊張していたな。イスタンブールに行く予定だったんですよ。

渡辺:危なくなっちゃったので。

植松:テロがあったでしょう。テロがあった時はまだ行ってもいいかなと思っていたんですよ。テロだったらまあなんとかね。でもクーデターが起こってしまったでしょう。クーデターが起こった後に、やっぱりやめようって。

裕子:一応、クーデターは未遂になったのでしたっけ。

渡辺:うん。

植松:イスタンブールの個人コレクターが美術館を持っているんですけど、そのコレクターが別にガラス・ハウスというのを持っていて、そこに彫刻を作るということで。そのときに、作品はベルリンの工場で作っていたので、作品は行くわけです。そのセッティングをしないといけないでしょう。場所を選んでくれと言われていたんですよ。それをスカイプとメールでやり始めたんですよ。

菊川:ベルリンの工場で作るというのは、何か図面とか工程図を日本でやって、それでもう発注するという感じですか。

植松:そうですね。図面とモデルと。ロンドンのサイモン・リーギャラリー(Simon Lee Gallery)がベルリンの工場に指示して。だからスカイプでしていたのは、ロンドン、イスタンブール、僕と3人でしていたんですよ。「もう10センチこっちに動かして」とか言って。

山下:スカイプ、役立ちますね。

渡辺:でも初めての使用で大変でした。

植松:やったことがなかったから、1週間大変でしたね。最初してから3日後に次をまた始めるとかですね。それでスカイプを切って、30分後にセッティングをするから、また30分後から始めようかとか言って。

司:時差もありますもんね。

植松:メールで向こうから6ヶ所ぐらいのスペースの画像を送ってきて。1ヶ所につき3個ずつぐらいの写真を送ってきて、どれがいいかと言ってまた3人で話し合ったりして、それを見ながら。結局ベルナー・ベネ(Berner Venet)の作品を退けてもらって、そこに僕の作品を置いた(笑)。

山下:退けてしまったんですか。

植松:「退けてくれるか」と言ったら「もう喜んで退ける」って(笑)。喜んででもないでしょうけど、「あんたのがいちばんいいから退ける」って。一番いいスペースに置いてくれたんです。

山下:あと2つだけよろしいですか。あらためてこれまでのプロセスを振り返って、ギャラリー16の初個展から1970年代の映像・写真作品も踏まえて、植松さんが美術に関わって作品制作を行っている目的というか、根幹にある思考を最後にお聞きしたいんですけど。

植松:結局まあ、好きだったからしているんですよね(笑)。

山下:好きですか。

植松:ああ。小さい時から美術が好きでしたよね。やっぱり作品を作っていくというのは、生きていくということと変わらないですからね、僕には。だからそういう意味では、ある意味、自分のために作っているという感じですね。自分のために作っているんだけど発表もしていて、いろいろな所に作品を作ったり、人に見せていくのだから、そういう意味で美術の中で、自分の作品としてどれだけの意味を持つものを作れるか。それは常にありますよね。だからやっぱり美術・芸術というのは、表現ですよね。表現していくということは、自分の何かを形あるものにする。結局美術は全部形あるものにして、形で見せて表現していく。その表現の仕方が何かを形作っていっている。それで何かを作っているんだと思うんですよね、自分でね。

山下:生きていることと同じとおっしゃっていましたが、形作ることに植松さんご自身の思考が反映されている、表現されていると思います。これまでを通して最も関心があること、どういったところに興味があって作品づくりをし、見えるものにされていると思いますか。

植松:そうですね。僕はさっきも言っていたんですけど、石器時代の話。ドルメン、ストーンヘンジ、ストーンサークルとか、そういうかたち(に惹かれる)。それとかエジプトのピラミッドとか。ペルーの地上絵にしたって、結局今生きている人間がすごい不可解なもの。エジプトのピラミッドにしたって、どうしてできたのか分からない。本当の意味は何なのかなんて、分からない。そういうものに小さい時から惹かれていたんですよね。たとえば重力の話でも、物が落ちる。物が落ちるというのは、僕らは重力があるからだといって物を投げていますよね。意識しないで。だけど、なぜそうなのかと思うのですよ、僕は。それで結局、重力もあり磁力もあり、目に見えない重力みたいなもの、そういうものを形にする。見える形にしたい。そういうところが自分のなかにありますね。重力というのは、ひとつには、この重力がなかったら人間というのは存在しないですよね、地球上に。そういうことも仕事を始めた時から興味があったんですよ。小さい時から『子供の科学』の話とか、そんなのからずっとつながってきていると思うんですよね、自分の中でね。

山下:植松さんのお話を聴いていますと、やはり重力や知覚、構造や発見などが出てきますので、やはりその辺りはこれからも変わらないということになりますか。

植松:うん、変われないですよね。

山下:少し細かい話ですが、大学の頃にベニヤ板を曲げたような作品を作ったとおっしゃっていましたが、そういう作品もやっぱりつながっていると思われますか。それとも何かそういったことに気づくきっかけになった作品ってありますか。

植松:いや、あの頃はね、何かふわふわと浮くものに興味があった。

裕子:でもそれも重力を無視するってことだから、つながりがありますね。

植松:それもすごい興味があったんですよ。カラーのプリントは残ってないんですけど、白色とピンク色を塗っていたりとかね。ふわっとするみたいな、そういうものを作りたい。そういうのがありましたね。

司:自然とそういうテーマで表現されていた感じですかね。

山下:むしろ幼い頃からずっと一貫して関心を持たれているということですよね。

植松:いや、別にね、貫いているという気はないんですよ(笑)。結局、自分の関心があるところでしか仕事ができないから、そういうことですね。

山下:ありがとうございます。最後にですが、これから何をしていきたいと思っておられるのかということをお聞かせいただけますでしょうか。これからの展望のようなことを。

植松:これからですね。これから難しいですね(笑)。昔はね、思っていたんですよ。持続は力だと思っていたんです。ある時から、持続は力だけじゃないと思ったんですよね。もう僕のこのぐらいの年になったらジャンプしないと仕方ないなと思って。

渡辺:そうなの(笑)。

植松:ああ。それでね、何ていうのかな。

山下:ジャンプも力が要りますよね。

植松:そう、ジャンプも力が要る(笑)。それで、ずっと今もアイデアをいろいろと考えているんですけど、本当に、やっぱりいい仕事をしたいというふうな意識が常にありますね。それで人に「この展覧会すごかったね」って言われるけど、自分でもすごいと思うのだけれども、「いや違う、もっと違う仕事がしたい」みたいな意識はあるね。それはどういうかたちで出てくるのかは分からない。そういうかたちでいつも仕事をしたい、そんな意識はありますね。

裕子:素晴らしいです。

植松:そんな感じですね。

山下:一息はつかないということですね。

渡辺:(笑)。

植松:いや、だからね、何ていうの。年を取ってきて、これは訊かれたことがあるんですよ、従兄弟にね。今92歳なんですけどね、あれ何年前ぐらい?

渡辺:2年?

植松:3年かそれぐらいか。

渡辺:うん。3、4年前ぐらい。

植松:言われたんですよ。「奎ちゃん、年を取った値打ちというのは一体何だ」って。一瞬考えるわけです。年を取った値打ちというのは、経験ですよね。年を取らないと経験はできないんです。いろいろなことを経験しているから、また違うこともできる。ところがね、若いというのはすごい力があるんですよね。だから若い時の作品というのはね、力強いですよ。僕、今でも見ていて、こういう仕事ができていたんだなと思って。そうしたら、「それは年を取った時の値打ちとどう違うんだ」と言われるわけですよ。そこでまた考えるんですけどね(笑)。別に答えは出ないけどね。

裕子:深いですね。経験がないゆえの強さとね、あるがゆえの強さもまたありますからね。

司:でもそれが何かはまだ見えない。

植松:ああ。だから、自分が作りたいものを作っていくということですね。

山下:ありがとうございます。

裕子:最後に1つだけお聞きしていいでしょうか。神戸でお育ちですが、植松さんにとって神戸とはどういう町なのかということ。また帰って来られてからは西宮や箕面に住んでおられますが、関西にいるということはどういうことなのかということを、最後にお聞きしたいです。

植松:もうこれはものすごく重要ですね、僕にとって。

裕子:ぜひ聞いてみたいです。

植松:東京とかに行く気は全然ないですね、日本にいて。やっぱり自分が生まれた土地というのは、僕はすごい思い入れがありますよね、神戸に対する。やっぱり神戸の町というのはすごくいいですよ。山があって、海があって、どこにいてもね、自分の位置を確認できるわけですよ。こっちを見たら海だし、上とか下とか。

裕子:「南側、北側」ではなくて、「海側、山側」と言いますからね。

植松:やっぱりいい町ですね。そういう所で育ったというのは、僕にとってはいいことだと思ってる。それで、わざわざ東京がどうのこうのとか、そういう所まで行く気は毛頭ないですね。やっぱり自分が生まれた土地で仕事がしたい。だから関西にいたいということですよね。今は箕面にいるけど。

裕子:神戸という土地柄と、ご自身の作品とか作風と、何か関係はあると思いますか。

植松:うん、それは……(しばし沈黙)あまり分からないけれど、28歳まで神戸で育って、神戸の持っている明るさみたいな、太陽の明るさみたいな、そういうのはね。やっぱり少し違うなと思うね、よその所と比べて。

山下:気候的なものもありますよね。

司:ヨーロッパに行かれて、気づかなかった日本的な部分というのがよその人の視点から分かるみたいに、日本の中にもあるかもしれないですね。関西っぽい作品とか……

植松:前ね、菅(木志雄)さんとも話していてね。「やっぱり関西の連中はパワーを持っている」と言われたことがある。東京で個展をした時に。僕はね、それはそうだなと思うんですけどね。関西の連中は結構パワーあると思う、なにか。まあどういう比べ方か分からないけどね。

裕子:海外の人は単純にそれを見て、日本らしい何かというのを見ようとするんですけど、日本の中にもやっぱりいろいろとあるわけで、関西らしさや神戸らしさみたいなものもね、きっとどこかにあるんじゃないかって。

植松:そうでしょうね。やっぱり自分が28年間生きてきたというのは、絶対それはそうだと思いますしね。やっぱりある意味、神戸という所は、ゴルフにしたって一番最初の所だし、映画もすごいし、パーマネントの始まりも最初だし、という感じで、外国とのつながりが僕にとってはあまり違和感なかったですね。外国に出ていくことに対しての違和感は。

裕子:東京より海外のほうが心理的に近いみたいな。

植松:だから今でも日本に、ここ箕面に住んでいて、東京に行くよりはパリに行ったりデュッセルドルフに行く方が、もう回数はなんぼも多いです。外国の人に対しての違和感というのはあまりなかったですね。

山下:やっぱり国際都市、貿易都市ですね。

裕子:とくに下山手育ちだから。

植松:そうそう。うちのおふくろもね、親父が仕事をしている時に、アルバイトみたいなかたちで外国の人の家のメイドさんをしていたんですよ。だから英語を喋っていたんですね。うちのおふくろ、タイプなんかを打っていたんです。大正の生まれですけど、タイプライターが打てましたね。だから最初に海外に行った頃、「どこから来たの」と聞かれて、「神戸」という話になったら、神戸の良さを一生懸命に言っていましたね。ポートタウンですごい町だという感じで。一度外国の人が来て神戸に連れて行った時ね、神戸はニースみたいな感じがするって。明るさがね。ああ、そうかなとか思ったりしたことがあるけどね。南仏の明るい感じ。だからいろいろ育った所で違うでしょうね。日本海の曇天が多い所とか。ドイツなんか半年ぐらいは曇天ですからね。朝から暗いでしょう。だからドイツに冬いるのはやっぱりしんどいですよね。

山下:長時間のインタヴュー、ありがとうございました。

• インタヴューを終えた後ももう少し話をして頂いた。

植松:だから僕はある意味ね、彫刻の専攻科(京都市立芸術大学の受験)を通らなくて良かったです。

司:デビューが早かったというか、やりたいことができたわけですよね。

裕子:美術界のしがらみから自由だというところも、すごくいいと思います。神戸ってやっぱり地方都市だから、美術シーンの主流には絶対にならないので。そういうところだから、自由な感性を保てるというところはあるんじゃないかと。

植松:そういうところ、自分の体質で、すすっと避けてきましたね。神戸でも神戸行動美術協会とかに入って発表していたけど、ここはちがうと思ってすっと辞めたりした。師弟関係があるようなところはやっぱり嫌だと。「別に絵も習ってないのに、なんでこの人を先生と呼ばないとあかんの」という感じ。

裕子:最後に良いことをお聞きできました。

植松:(ドローイングがまとめられたファイルを広げながら)このあたりが皆、今年描いたやつ。

山下:ファイルにまとめているんですね。

植松:そうです。これなんかはテキストです。

山下:ずっと、いろいろと思考されている。

植松:飛行機のなかで書いているんです。「invisible」という言葉を使って、どういうふうにダーッと言葉を並べられるか。

山下:すごい量ですね。

菊川:これはタイトルになるんですか。

植松:そう、こういうの。次はこんなのにしようかなとか、これは案内状にしようかなとか書いたりしているんですけど。

菊川:こういったものは作品とかプロジェクトごとに、ずっと残してらっしゃるんですか。

植松:そうですね。

菊川:いつ頃から残してらっしゃるんですか。

植松:わりと描いているもの、書いているものは、全部残ってる。

菊川:たとえばドイツ時代の最初のほうも?

植松:うん。

司:選んで捨てたりとかはしないんですね。

植松:うん、全部ある。

山下:ノートじゃなくて、こういう1枚もの(A4の白紙)でどんどん書いていかれるんですね。

植松:そうです。

山下:かっこいいな。

司:私が展覧会をお願いした時も、展示やインスタレーション、ワークショップのプランとかも、全部同じ紙に書いてありました。(注:「時間の庭へ・植松奎二展」、西宮市大谷記念美術館、兵庫、2006年6月10日―7月30日)

植松:そう、同じ紙。

司:当時はファクスで送っていただいて。まだそのコピーが残っていますけど。

山下:考えやすいサイズなんでしょうね。

植松:いろいろ分類分けをして書いたりしてる。

菊川:いつも植松さんの作品を見て、どうやって彫刻が重力の釣り合いをとっているのかなと不思議に思うんですけど、事前に構造計算をされるんですか。

植松:いや、そんなのはしてないですね。だいたいこうなるやろ、とか。

菊川:小さいマケット(模型)をお家で作られて、試してから拡大する?

植松:こういう感じのやつ(注:天井よりロープで釣り上げられた二本の直方体の木材が床面近くで向き合い、均衡を保っている作品)は、マケットのようなものを拡大してちょっとロープで吊ったりとかね。そんなのはある。

司:けっこう直感ですか。これはバランスがとれる、とか。

植松:それは大体分かりますね。これは面白いんじゃないか、とね。結局、ドローイングを描いてる時が一番楽しいんですわ。こういう作品でセッティングをしている時もまた楽しいですよね。セッティングをしている時というのは、まず一番先に、自分が考えたものを僕が見れるという感じです。それでその後、人に見てもらう。だから、まず自分が見たいから作っているみたいな感じです。

司:できるかな、みたいなところがあるんですね。

植松:そうそう。ほとんどできるんですけど、できなさそうなのは前もってちょっと試しをやっている。

司:それが「visible」になる瞬間を自分で見ると。

植松:だからアイデアというのは、真っ白けの紙に一生懸命、ずっと描いていきます。でも描いていったなかでは、ほとんど作らない作品が多いです。

裕子:アイデアは無限にあって。

山下:アイデア出しをしているわけですね。

植松:もう、どんどん描く。このへんは今年のやつですけどね。

司:作品の色について、ちょっと聞くのを忘れていたんですけど。

植松:色ね。それも言おうと思って言ってなかったんですけど。

司:使用するのは、三原色ですか。

植松:もともと僕の作品はインスタレーションで、素材が持っている色を使う。木だったら木、角材だったら角材。そういうなかで、布を使い始めた時も最初は生成りの布だったんですよ。コーナーにこうやったり、床にこうやったり。その時に、布というのは色があるなと思って、色を使ってみようかなと思ったんです。だから1984年くらいですわ。その時に、色を使うのだったら一番明度も彩度も高いものにしようかと考えた。だから、変に色の持っている意味みたいなものは無いような感じ。

山下:原色に近いかたちで使われた。

植松:だけど面白いのは1984年にギャラリー16で個展した時に、白と赤の布切れを使ったんです。(注:「Corner Piece, 布と枝による構成」、ギャラリー16、京都、1984年3月20日-4月1日)それまで意識したことがなかったんですが、ちょうど祭日に白と赤の日章旗をパッと見て、これは僕の作品の色やと思って(笑)。結局、一番対比して激しいこの色がいいんとちがうかと思って。白と赤が主で、それから黄色を使ったり。そういうかたちで色を使い始めたんです。

裕子:ありがとうございました。

植松:・・・・いろいろ続いていきます。ありがとうございました。