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山口勝弘オーラル・ヒストリー 2010年3月7日
               2010年4月7日

インタヴュアー:井口壽乃、住友文彦
書き起こし:住友文彦、成澤みずき
公開日:2010年7月31日
更新日:2013年1月20日
 
山口勝弘(やまぐち・かつひろ 1928年~2018年)
美術家(立体、ヴィデオ・アート)
ガラスを重ねた《ヴィトリーヌ》シリーズを1950年代に発表し、「実験工房」の活動に当初から参加していたメンバー。その後、光や動きのある彫刻作品を制作し、1968年にヴェネチア・ビエンナーレに出品。パフォーマンスやハプニングなどをはじめとしたフルクサスの運動にも参加している。1972年には「ビデオひろば」を結成し、日本のヴィデオ・アート作家として先駆的な活躍をした。インタヴューはやや体調を崩されている時期に行われたため、1960年代の頃を中心に、他の分野の芸術家達とどう関わってきたかをご本人の記憶にしたがって聞くものになっている。

山口:今はもうあまりないけど、実験工房の頃は、いろいろな人が一緒に仕事をしていた。草月の勅使河原宏さんは、岡本太郎の「アヴァンギャルド(芸術)研究会」に来ていましたから。その頃、安部公房が『近代文学』に掲載された自分の文章を嬉しくて見せていたりしましたよ。安部公房の『砂の女』を撮るときに宏さんが撮影をしたんだけど、『銀輪』で使った浜松の砂丘がいいと教えたんだ。

住友:映画は当時たくさんご覧になっていましたか?

山口:実験工房の頃はよく見ていました。その周辺にいろんな人がいたんです。『オルフェウス』というジャン・コクトーの台本の映画(注:『オルフェ』1949年、脚本・監督:ジャン・コクトー)。それが印象に残っている。その一シーンで、パリのガラス屋さんが街のなかを「ヴィトリエール!」って売り歩いているのが、「ヴィトリーヌ」になったんです。瀧口さんも見ていましたよ。

井口:そこから瀧口さんのインスピレーションが喚起されたんですね。

山口:それから、『ジュール・エ・ジム』(注:邦題「突然炎のごとく」1962年、フランソワ・トリュフォー監督)のなかに歌があって、福島秀子さんがストッキングをかぶって、その歌を唄っていましたよ。実験工房という名称は21世紀に相応しいですね。バーチャルだから。工房がないのにあるようにいうんだから。それで僕はもう一度実験工房をやろうと思って「イマジナリウム」というプランを考えたんです。あとは松本俊夫さん。彼はまさに越境のアーティストです。実験工房で映画を作っているときに一緒に浜松の砂浜に撮影に行ったんです。松本さんはシュールレアリスムの人なんです。

住友:それは『銀輪』の撮影のときですか。

山口:そうです。『私はナイロン』の撮影も浜松に行って撮影した。それでビデオが終わって、僕の晩年の、愛知の芸術センターでやった「コラボアート」の仕事も観客をテーマにしたものです。観客を「コラボアート」のパフォーマンスにどう引き込むかをずいぶん考えました。あれは記録のテープが有る筈です。ダンスと、映像のグループIKIF(注:1979年にできた木船徳光+石田園子のユニット)の映像です。

井口:観客とのあいだには実験工房の時代にも観客席にロープを張ったりしていますよね?

山口:あれは非日常的な場所を作るのです。

住友:舞台という点では、ダンサーの方で花柳寿々紫さんと一緒に仕事をされていますね。

山口:花柳さんは、ボブ・ウィルソン(注:Robert Wilson、アメリカの前衛劇作家)と付き合いが会って、ずいぶん演出を手伝っていたんです。

住友:山口さんが花柳さんの舞踊に関心をお持ちだったんですか?

山口:いえ、僕は実験工房が終わってから頼まれたんです。そのあとも渋谷のジァンジァンでやっています。何回もやっています。それでビデオとダンスの海外ツアーも企画したんです。まず(1982年と83年に)東京の渋谷のジァンジァンでやって、(1987年に)パリ(近郊)のボビニーのアートセンター(注:MC93 Bobigny)、ミラノのテアトロ・リッタ、マドリッド(のベジャス・アルテス宮殿)、そしてモスクワのチェーホフ記念の新劇場(チェーホフ記念モスクワ芸術劇場)でやって、その後(1988年)ニューヨークのジャパン・ソサエティ(注:正確にはアジア・ソサエティ)に行った。あのうるさいニューヨーク・タイムズの評論家もそのパフォーマンスのことを書いていますよ(注:Jennifer Dunning, “Experiment With Mirrors and a Dancing Camera,” New York Times, June 18, 1988. (音声に合わせて修正し注を追加した。2013年1月20日更新)。

住友:先生は舞台美術をつくったということでしょうか?

山口:ステージのうえからモニターを下げたんです。僕がカメラで花柳さんのダンスを同時中継したのを彼女が見えるんです。

住友:フィードバックの仕組みを舞台で使ったんですね。フィードバックの仕組みをはじめて使ったのは、草月アートセンターの「EXPOSE ’68なにかいってくれ、いまさがす」でしょうか?

山口:そうですね。あの後、東野(芳明)が命名者となって、「ビデオひろば」になる。あれは、つまりビデオというメディアがひろばの代わりになる。アゴラという広場なんです。ビデオ・アゴラ。東野は自分で「EXPOSE ’68」の演出を考えて、それを僕にやってくれと言ったんです。だから東野はビデオの本質をよく分かっていた。東野はステージに出ないから、楽屋で女装をしたんだ。その頃は秋山も元気だったから、彼も僕が変わっていくのを見ていましたよ。あと、東野以外も草月アートセンターをみんなうまく使っていましたよ。

住友:先生も谷川俊太郎さんなどと「エトセトラとジャズの会」をやっていますよね。先生が直接関わられた草月のイベントにはどういうものがありますか?

山口:その「ジャズの会」と「EXPOSE ’68」だけですね。あと、ジャン・タルデュー(Jean Tardieu)というフランスの劇作家の舞台の美術を頼まれておこないました(注:草月実験劇場・グループNLT提携公演『鍵穴』、1964年)。それは覗き見というものでした。終わった後三島由紀夫が来て、舞台装置について「山口さん、あれは観客にお尻を向けて演出するのは(演技をする)北見治一が大変だったから、そうでなくて、舞台を二つに分けて、別の部屋を覗き見する演出にして、観客にお尻が見えないような方法が良かったんじゃないか」と言われて、「ああ、この人は芝居の人だな」と思ったんです。実験工房の頃にも三島の劇もやったんです。三島も興味を持って舞台稽古によく来たんです。シェーンベルクのとき(注:シェーンベルグの『月に憑かれたピエロ』を上演したとき)、『綾の鼓』という三島の台本を武智鉄二が演出したんです(注:『円形劇場形式による創作劇の夕』、産経国際会議場、1955年)。三島が実験工房のメンバーと写っている写真もありますよ。(川崎市岡本太郎美術館の)北代(省三)アーカイヴにありますよ。三島さんは僕のことをよく知っているんですよ。舞台稽古をずっと見ていたんですよ、三島と二人で。『綾の鼓』は、シェーンベルグの『月に憑かれたピエロ』と一緒に、産経の円形劇場でやったんです。だから、武智さん、緊張していましたよ(音声に合わせて修正した。2013年1月20日更新)。

井口:そのほかに三島と実験工房は関係ありましたか?

山口:いや、ない。「観客と作品」ということについては、万博の後、すごく大きな問題を突きつけられたんです。ビデオひろばとかそういう活動をやったのはそういう理由にぜんぶ関わっているんです。コミュニケーションの問題。僕の《ヴィトリーヌ》という作品は、作品を見ることがコミュニケーションを発生させる形態なんです。ビデオの作品《ラス・メニーナス》など、「ビデオひろば」も含めてコミュニケーションの問題を考えていたんです。

井口:それは、なぜ万博の後だったんでしょうか?

山口:ようするに万博の観客と僕とのあいだにまったくコミュニケーションがなかったんです。僕は万博の三井グループ館の演出をやったときに、「動線モンタージュ理論」というのを考えたの。それは『美術手帖』にも書いてあります。エイゼンシュタインは、日本の歌舞伎を見て自分の映画製作の理論にした。モンタージュ理論です。僕も「動線モンタージュ理論」で考えたのは、観客と芝居をどうモンタージュさせるかという方法論です。日本のストリップ劇場はちゃんと歌舞伎とか能のステージの作り方を引き継いでいるんです。観客の方にステージが突き出ているんです。日本独自のものです。それから瀧口さんの理論でもある、環境についての理論です。「空間から環境へ」という『美術手帖』の増刊号にも書いていますよ。それと、市民参加の方法は野毛地区でやったんです。そのときに電通なんかが慌てたんです。そのころ、ちょうど僕はトータルメディアという会社の顧問をしていました。凸版印刷の子会社です。そのあと東北電力新潟支社のショウルームの仕事もやったんです。

井口:そうなるとコミュニケーションのことはプロジェクトとしてできるというので、芸術作品となると別ですね。どう考えたらいいんでしょう?

山口:だから《ラス・メニーナス》のような設定を作ったんです。

井口:ヴィデオシンセサイザーを使い始めたのはその後ですか?

山口:日本電気のシンセサイザーで、松本さんも同じものを使っています。松本さんは映画とビデオを両方作っているんです。

住友:少し戻りますが、ビデオや空間的な展示をする活動が盛んになる時代にエレクトロマジカ(「国際サイテック・アート―エレクトロマジカ’69展」)が1969年に行われています。67年くらいから、エンバイラメントの会(注:1966年に結成された美術、建築、音楽、写真、デザインの分野から38名が集結した会)に参加されていますね。エレクトロマジカは1969年の4月26日に銀座のソニービルで行われています。これは、山口先生が企画の中心になって実施された展覧会ということですか?

山口:中心ではないです。

住友:どなたかほかの方が中心だったのでしょうか?

山口:結局、エレクトロマジカを発想したのはソニーなんです。ソニーが大阪万博に出品しないかわりに、ソニービルがちょうどできたばっかりだったから、そのソニービルを使って万博のようなことをやりたいというのが目的だったんです。

住友:では、万博の前哨戦ということですね。ちょうど1年後に万博がオープンします。

山口:それでその時、グラフィック・デザインを石岡瑛子が担当して、コンピューター・グラフィックスで銀色のシートに印刷したポスターがありました。

住友:見たことがあります。

山口:切符も銀箔の紙で作っていました。その切符とグラフィック・デザインを石岡瑛子さんがやって、それが評判になって、(エレクトロマジカは)始まったんですね。その時に最初に深く関わっていた人が伊藤隆道さんと伊藤隆康さん。両方名前が似ているんです。その隆道さん、後に芸大の先生になりましてね。隆康さんはその後万博の後で亡くなりました。その時に、まず最初に皆で相談したことは、「三次元マガジン」。要するに、ビルそのものを雑誌みたいにしようというコンセプトがぽんと出た。それを僕が提案した。ソニービルは一種のショールームなんだから、そのショールームに話題をいろいろ作っていく。一切新聞社とかメディアのスポンサーはカットして、だからソニーが自主企画でお金も全部出して、それで海外から何点か作品を招待して、オランダ航空をスポンサーにして輸送した。

住友:ソニービルをもうメディアにしてしまおうということですね。先生が「3DM」、視覚と聴覚と印刷メディアということをおっしゃっていますね。それがその三次元マガジンということですよね?

山口:そう。その時に一切メディアスポンサーをつけなかったのに、成功した。

住友:当時は珍しいことですよね。大体新聞社が一緒にやっていますものね。

山口:新聞社をカットしたことで、成功した。それでその結果、万博の話でもちょっとしたけど、導入から客が出て行くまでの一つの道筋ってありますよね。それをいろいろ工夫しようって皆で話しました。まずはソニービルのエレベーターを使いましょうって。というのは、ソニービルにはドレミファ階段というのが裏にあったんです。階段を上がって行くと、ドレミファソラシドと音が出るんです。そのドレミファソラシド階段の前にエレベーターがあるんです。それで、観客を全部エレベーターに乗せて、直接メインホール(メインホールは8階)には行かせないで、1階から乗ってすぐに地下に行っちゃう。地下っていうのは駐車場のあるところ。それで駐車場のある地下まで行くと、(エレベーターの)ドアがバーっと開いて、バーっと駐車場に作品が飾ってあるわけ。それは伊藤隆通さんの作品です。それをパッと見せて、またぴゅーっと上に上がっちゃう。8階まで。

住友:その動線のプランを先生と伊藤さんたちと考えられた?

山口:そうです。

住友:そうするとエレクトロマジカの動線を考えたプランっていうのは、その後の万博の先生の構想につながっていくのですか。

山口:そう。それでその時に、三次元雑誌ね、3Dマガジンは各フロアでファッションショーとかそういうのをやったんですよ。そのそれぞれのフロアのスポンサーの商品の宣伝もやったんです。ソニービルっていうのは、ご存知かもしれないけど、螺旋というか、風景が同じなんです。

住友:こう、ぐるぐるっと曲がって……

山口:そう。ずーっと上がって上から降りて行くの。そういう導線なんです。それは面白いって、それを使おうって。お客さんを上げるだけ上げて、あとは歩いて下りてもらう。その頃、トヨタ、専売公社、タバコのショールームも当時なかにはいっていたんです。

住友:最初におっしゃっていたスポンサーの中に新聞社がいないことが成功だったとおっしゃっていたんですけど、多分PRするためには、新聞社が入っていた方がいろいろな人に伝わりますけれども、あえてそれが無い方が成功したというのは、どういうことですか。

山口:ソニーは賀田(恭弘)さんという人が(エレクトロマジカの)担当になって、その賀田さんという人はソニービルの近くのソニー企業という会社の担当者だった。というのは、ソニーはビルを作っただけでは、これを何とかメディアにのせて、自社の宣伝に使いたいと思っていた。そのためにソニー企業という会社を作ってPRをやっていたんです。ソニービルの正面入ってすぐ左の方にちょっと空き地があるんですが、そこで色んなイベントを企画して、夏になると水槽を置いて魚を泳がせてみたり、そういうメディアを使うのがうまいんですよ。非常にメディア的な企画をやっていた。ソニービルでね。まあ、それはそれで。賀田さんは、我々の窓口になってくれていた。ソニーの盛田(昭夫)さんとか、井深(大)さんとか、本社の社長、副社長とかも(知っていた)。結果的には石岡さんのグラフィックのポスターと切符が評判になって、その切符を持っているのが一種のステータスになっていった。それで、ソニーに行こう、ソニーに行こうってなったんです。

住友:広報宣伝のツールがそんなに格好いいデザインだったんですね。

山口:コンピューター・グラフィックスでポスターとか切符は非常にオシャレで銀座的なものだったからね。でも僕はそうじゃなくって、チラシはガリ版刷りでいい、要するに安っぽい感じに本当のところはしたかった。それが、そこにデザインが出ているチラシです(手元の展覧会カタログ『山口勝弘展:メディア・アートの先駆者、「実験工房」からテアトリーヌまで』(神奈川県立近代美術館、2006年)を指す)。僕はそれでやろうってはじめから言っていた。そのうちに、やっとお客さんがソニービルの入り口からずーっと並びはじめた。それが成功した証拠なんです。

住友:じゃあ、新聞社と一緒じゃなくても十分にPRできたということですね。

山口:そうそう。そういう度胸っていうか、みんなに、ソニーにはありました。それでソニーのプレ万博はすごく成功した。ニコラ・シェフェール(注:Nicolas Schöffer、サイバネティックス彫刻の先駆者)の銀のオブジェの資料はある?

井口:はい、ライトキネティックの作品ですか?

山口:そう。ニコラ・シェフェールの作品を僕がもってくるといいからって、それで割に観客動員がそういう作品で可能でした。シェフェール(の作品)とか、(マルシャル・レイスの)ネオンを使った彫刻とか。

住友:この時、先生の出された《映像変調器》、《水変調器》というのは、ビルの中のどこに展示されたのですか。

山口:一番上がったところね、8階のホール。

住友:これは真っ暗な部屋の中に置いているんですよね。

山口:ホールも、エレベーターからホールに行くまでの廊下の途中も、全部ネオンで設計した。

住友:じゃあ、作品とは別に、作品の動線にネオンをデザインしたんですね。

山口:その写真をどっかに出していますよ。『インテリアデザイン』か、『美術手帖』か。それでファッションショーもやったんですよ。

住友:ファッションショー? 会場の中でですか。

山口:そう8階、ファッションショー。

住友:どなたのデザイン? イベントとしてですか?

山口:そう。

住友:会場の中では他にイベントはありましたか。

山口:何も無い。

住友:普段は作品の展示をされていたんですね。光を使ったり、動きを使った作家にしようというアイディアは、先生と伊藤さんたちと考えられたんですか?

山口:そうそう。

住友:企画の内容についてもですか。

山口:そう。それとその時、関西の具体の聴濤襄治がいましたね。実験工房の頃から僕は割に親しかったの、具体メンバーと。具体の企画した世界絵画展という国際絵画展に僕は出品したんです(注:「新しい絵画世界―アンフォルメルと具体」展、大阪、1958年。その後、長崎、広島、東京、京都を巡回)。そのとき、《ヴィトリーヌ》を手にもって行ったの。当時は宅急便が 無いから(笑)。

住友:「新しい絵画世界」展以降、具体の作家の方と一緒に展覧会をやったのは、エレクトロマジカの前にはありますか。

山口:無い。

住友:ではその時からエレクトロマジカまで間が空いていたんですね。

井口:エレクトロマジカという名前ですが、チェコにある「ルテルナマジカ」というシアターがあって……

山口:そう、あれから取っているんです。

井口:やっぱりそうなんですか。似ているなあって思って。

住友:そのエレクトロマジカっていうその名前を付けたのは先生ですか。

山口:皆で決めた。

井口:モントリオールの万博でチェコのパビリオンが、そのような展覧会をやっていて、それを視察に行かれたと、記憶していますが。

山口:ルテルナマジカだったね。

住友:伊藤さんのおふたりともご一緒に? 皆さんでモントリオール万博の視察をされていたんですか。

山口:そう、展覧会を理解するために。(エレクトロマジカでは)若いメンバーが、ビデオを使った作品の面白い提案をした(注:坂本正治の《時分割テレビ》のことか)。ちょうどソニーからビデオが出て、テープ、オープンリールのビデオがありましたからね。

住友:ちょうどその頃ですよね。出てきた頃ですね。エレクトロマジカはソニーが主催していますけど、先生は実験工房の時にもソニーの方とはお付き合いがありましたよね。その後もずっと継続的にソニーの技術者の方とか、会社の方とお付き合いはあったんですか。

山口:あまり無い。

住友:じゃあオートスライドをエレクトロマジカで一緒にするまでは本当に久しぶりだったんですね。この頃の『美術手帖』を見ると、すごい光とか技術とかそういう特集ばっかりです。この間宮澤壯佳さんが、自分が編集長をやられていた時のトークイベントをやっていたんですけど(注:2010年2月13日に国立新美術館で行われたトーク)、もう(当時は)かなりの力の入れようだったらしく、編集部のメンバーもちょうど若い人たちに変わったところもあって、先生の連載とかもすごく増えますよね。『美術手帖』の編集部なんかと密なお付き合いをされていたのはこの頃が一番ですか

山口:メディアでいえば『SD』という鹿島建設の雑誌が、文学と美術、それから音楽、その関係の雑誌だった。武満も原稿を書いていました。それともう一つは、その頃は割に生け花の雑誌で『新婦人』ていう新しいのがありました。『新婦人』っていう雑誌は京都の池ノ坊の雑誌で、僕も連載したの、「不定形美術ろん」を(1967年に学芸書林で書籍化)を。澁澤龍彦も僕と一緒に連載していた。蒼風さんの草月流も割に雑誌に力を入れていて、『草月』にもよく出ていました。

住友:生け花はこの頃は『新婦人』『いけ花龍生』……

山口:『龍生』もよく出ました。

住友:そうですね。『草月』と『いけ花龍生』と『新婦人』がこの頃はずっと。あとは『商店建築』『インテリア』、美術の雑誌だけではないのが、すごく多いですね。

山口:日本の『インテリア』はイタリアの『Domus』をマネしていたんです。

住友:先生の書いている量もこの頃すごいですね。お一人で書かれたものもあれば、事典のようなもの、東野さんとかと書かれたりもしていますね。1969年1月号の『美術手帖』で、「明日の芸術を理解するために」っていう特集をやっていますよね。これは結構今見てもすごくいい特集ですよね。作家のセレクションは先生が入ってやられているって書いてありますよね。作品を作りながら、これだけ評論家のような活動をしているっていうのがすごい。

山口:びっくり(笑)。

住友:でもご自分の作品のことだけでなく、ロバート・モリス論(「ロバート・モリス―もっとも純粋な帰納法の彫刻」『美術手帖』1969年3月号)なんかもそうとう長い文章を寄稿されていますから、普通の作家さんはご自分の作品を作るだけですけど、他の作品について、特に日本でまだ紹介されてないとか、まだ評価されていないっていう方にもきちんと視点を向けているというのが、とても充実されてますね。

山口:今はそういう時代じゃないね。雑誌、メディア、全部ダメ。まず評論家がいない。建築評論家の良いのがいない。あの頃は川添登がしっかり評論をやっていた。それから美術出版社から出ていた『国際建築』とか。あれはなかなか新しい記事を紹介していた。キースラーもちゃんと紹介していましたよ、『国際建築』は。そういう建築雑誌とか、僕は割にファッションの雑誌に書いていた。それはどうしてかっていうと、豊田泉太郎っていう編集長がいて。豊田さんは慶応の時の瀧口修造の同級生なんです。『山繭』っていう同人雑誌を彼らは作っていた。その同人で慶応のフランス文学の佐藤朔という人も瀧口さんと同級生です。その豊田さんは伊藤茂平さんを宣伝するために『私のきもの』っていう雑誌を出していました。日本の衣装は平面裁断で着物からひっぱってきたものでしたよね。伊藤さんは洋服を立体裁断でやろうって言っていたファッションの第一人者です。その『私のきもの』の編集長が豊田さんでした。また、『私のきもの』の出版社(東和社)の社長さんが内山基といって、内田百閒という有名な随筆家の、僕は好きで『百鬼園』とかたくさん読みましたが、内山基さんは百閒の娘婿なんです。

住友:そういう雑誌メディアに、文学とか芸術とかに造詣の深い方がたくさんいらっしゃって、面白い企画をどんどんされていたんですね。

山口:うん。

住友:先生はファッションにも関心を持たれていたんですか。

山口:豊田さんが面白い人でね。60歳になってもディスコに行って、一緒に踊って。モダンボーイです。豊田さんは韓国出身なんです。お父さんの仕事で韓国で生まれているんです。奥さんは大井の僕の家の近くで、能楽堂持っている位のクラシック好きの奥さんがいて。

住友:ファッションに関心を持たれたのは、例えば立体裁断とか、技術的な面からの関心というのもあるんですか。

山口:僕の『不定形美術ろん』を読めば分かる。

井口:先生はファッションのデザイン画も描いているんです。昔のスケッチブックにありますよね。

住友:ご自分でもデザインなさるってことですね。

井口:宇宙服みたいなものもありましたね。

住友:ファッションから建築までですね。

山口:『私のきもの』っていうのが途中で『モード エ モード』とフランス語の名前の雑誌に変わっちゃった。『モード エ モード』になってからも、私は随分原稿書きました。何か見つけると、記事をすぐに載せてくれる。ジャーナリスティックな僕の仕事は、割にそういうメディアがいろいろあると、途端に元気になるんだよね。

住友:今おっしゃっていただいたように、この頃『モード エ モード』には結構出てらっしゃいますし、あと『ニッポン・ディスプレイ』という雑誌にも連続で書かれていますね。「スプリング・ユーモア・スプリング」(「工―スプリング・ユーモア・スプリング(倉俣史朗の椅子について)」『ニッポン・ディスプレイ』1号、1968年)、これは倉俣史郎さんのことについて書かれています。

山口:倉俣史朗のイスのデザインについて書きました。

住友:これも68年なのでこの時代ですね。「エレクトロマジカ」の頃ですね。

山口:僕は建築のこと、随分書いていたよ、この頃。清家清とか、弟子の坂本(一成)さんていう人とかは僕の和光での展覧会のディスプレイをやって下さった。その後、丹下さんに(展覧会のディスプレイを)頼もうってディスプレイのスケッチも描いてもらった。僕は建築の小論を随分とその頃書いていました。

住友:建築家の方たちと実際に一緒にグループを作って活動するのは、一番早いものでエンバイラメントの会ですか。

山口:うん。まあ、エンバイラメントの会は建築家はあまり元気なかったね。

住友:具体的には(建築家は)磯崎さんだけですね。デザイナーは結構多いですね。

山口:もう一人(建築家が)いる(注:原広司)。

住友:デザイナーは、粟津さんだとか、福田繁雄さんとか、多いんですよね

山口・僕はCIE(Civil Information and Education Section。GHQ民間情報教育局)ライブラリーに通っていた頃にね、『アーツ・アンド・アーキテクチャー』っていういい雑誌があったんですよ、ウエストコーストの。そこで当時の住宅で非常に日本でも有名な「ケース・スタディ・ハウス」っていう運動があったんですよ。モダンな住宅を作る。

井口:アメリカでですか。

山口:アメリカのウエストコースト。今言った『アーツ・アンド・アーキテクチャー』、つまり美術と建築。この雑誌はすごくいい雑誌です。そこに建築のいい記事が随分でていましたよ。というのは、僕は法律を勉強する前、日大理工学部に行っていた。理工学部でデッサンを描いていたから、理工学部の学生と一緒に『アーツ・アンド・アーキテクチャー』を見ていたの。日大理工学部はお茶の水にあったんだけど。理工学部の友達はみんな『アーツ・アンド・アーキテクチャー』を見ていた。だから、その頃は住宅の図面ばかり描いていたのをよく覚えていますよ。僕の家に住宅の本があって、それを真似して住宅の図面ばかり描いていた。図面っていうのは、立面と平面。僕は飛行機と軍艦の研究をしている時に、飛行機の平面、立面、それから軍艦の平面、立面、全部方眼紙に図面描いて遊んでいた。

井口:だから《ヴィトリーヌ》のテーブルができたんですね。

山口:そう。

井口:「桃太郎」というバーが名古屋にあるんですが、その時デザインされたテーブルが今でもあります。

山口:倉庫にあります。僕はちゃんと確認に行きました。というのは、「桃太郎」は牧野康子さんという方が……

井口:ちょうど、今60年代のデザイン関係の雑誌を調べていますが、1960年代に美術以外の雑誌ができてくる。それが現代美術だとか、ファッションだとか、アート&テクノロジーだとかそういうものに結びついて批評が拡大していく。

山口:前田美波里っていうモデルがいるんだけど、前田美波里のヌードにスライド・プロジェクションした写真がBT(『美術手帖』)に出ています(注:1967年10月号)。衣装の代わりにスライド・プロジェクションをした。

住友:何年くらいですか。

山口:『不定形美術ろん』の次に連載したんです。

住友:『美術手帖』でですか。

山口:『美術手帖』の「生きている前衛」っていう特集(注:正確には連載。1967年1月から12月まで)で。

住友:67年の『美術手帖』ですね。この中にそのスライド・プロジェクションの写真があるんですね。この連載はこの頃の美術のテーマと全然違ってとても面白いです。例えば「裁断」とか「増殖」とか。そういうテーマで書いていた方ってそんなにいなかったんじゃないかなと思います。先生は有機的な形とかをずっと追求なさっていたのでこのテーマは不自然ではないんですけど、他の美術の作家からすると、とてもユニークな視点だったと思うんですが、これはずっと暖めていたテーマをこの時期1年間の連載で書かれていたのですか。

山口:そのカラーページの画面にテーマにふさわしい作品を作っていたんです。

住友:図版が結構多いページでしたものね。

山口:僕はその前に『芸術新潮』の記事で、僕が選んだ現代建築から現代芸術までの特集があったときに、『芸新』で編集の仕方を勉強したんです(注:「新しき視覚の誕生」『芸術新潮』1956年6月号のことか)。山崎省三っていう(後の)編集長がいて。もう亡くなっちゃったんだけど。

住友:写真の構成であるとか、文章の載せ方を実験したんですね。

山口:だからBTの特集とかは全部僕がやっていた。そういうページの編集、写真の選び方、コピーの入れ方、それを全部僕はやっていた。誰もやらないって言うから、僕がかわりにやっていた。それで篠田孝敏っていう、僕がキースラーの原稿を書いた時にBTで僕の担当になって、僕がいろいろと編集の仕方を教えてあげたの。グラフィック・デザイン(とかも)。『新婦人』あるいは『モード エ モード』なんかの仕事のときも、僕がほとんどグラフィック・デザインやっちゃった。だから本当は学校へ行くと、総合造形よりも別の学科の授業の方が教えられる(笑)

住友:『美術手帖』の特集で思い出したんですけど、「エレクトロマジカ」の頃に『美術手帖』で「人間とテクノロジー」っていう号(『美術手帖』1969年5月号増刊)が出ていまして、先生が「サイバネティックスと芸術」という文章を書かれているんですけど、この文章の中で自分の行動を環境に適応させながら変化していく、そういうシステムをサイバネティックスとおっしゃっていて……

山口:ノーバート・ウィーナー(Norbert Wiener、アメリカの数学者)の考え方ともっと正確に結びつくような方法を考えた。

住友:抽象的なものでなくて、もっと具体的なヴィジョンで。

山口:理論ですね。というのは、僕は(旧制)中学校の頃から現象学の本を随分読んでいたから。フェノメノロジーとか、フッサールとか僕は好きだった。僕がそういった本を読み始めると父親が、なんでそんなものを読むんだと面白がって(笑)。

住友:ではフッサールからの関心がずっとあって、ちょうど60年代にはサイバネティックス理論がどんどん日本にも入ってきた頃だったので、それが「サイバネティックスと芸術」という文章を書かれる経緯だったんですね。そういうことはとてもメタボリズムと通じる理論ですし、とても面白い文章ですね。はじめに先生もおっしゃっていましたが、今オラファー・エリアソン(Olafur Eliasson)だとか、あの辺の仕事に関心持たれるっていうことは(注:インタヴュー前の余談で話題になった)、やっぱりずっとやってきて継続していることとして面白いものがありますものね。古びていないですよね。

井口:実験工房では、プラスチックや紙を使ってモデルを作り、それを写真に撮ってオートスライドにしていく。作ったものをレイアウトしていき、コラージュしていって、それをグラフィックのベースにしていきますよね。一つのことから発展して、造形が拡大していくっていう考えですね。

住友:ある部分だけはたまたま美術館やギャラリーに出ているかもしれないけれど、実は色んなところで同じように仕事をしている。

井口:それをモホリ=ナジが言っているんです。シカゴのインスティテュート・オブ・デザインは、まだそういう研究をやっています。彫刻を、彫刻の工房で作ったら、それを、光と影、シルエットの実験として、写真の工房で写真に撮ってみる。するとステージのデザインと同じような……

山口:それと同じようなことを筑波でよくやっていたの。僕の作品を写真に撮る時に、大辻さんとみんなで照明当てて、こういうところを撮ろうって。結局同じことをやっているんです。光の当て方によって全部違う。話は違うけど、モホリ=ナジのシカゴ・インスティテュートに僕が行きかけたのは知ってる?

井口:それは初めて聞きました。

山口:というのは、丹下健三さんが、こういう学校があるから行かないかって、教えに行かないかって、紹介してもらったんです。でも、僕は寒いところに弱いから(笑)。

井口:いつ頃ですか。

山口:70年頃かな。丹下さんとみんなで遊んでいたの。飲み歩き。土門拳、丹下健三、それから亀倉雄策みんなと。その錚々たる連中と。

井口:筑波にいらっしゃる前ですね。

山口:そう。新宿のキャバレーを飲み歩いてた(笑)。だから丹下さんに展示を頼むのも何でもなかった。丹下さんに電話して。

井口:すごい、丹下さんに電話一本で(笑)。

住友:しかも建物じゃなくって、会場構成お願いしますって(笑)。

山口:そう、電話一本で。それで丹下さんは学校の方にいらっしゃって、お茶の水から歩いて、東大前の喫茶店から電話して、それでやっと来て。忙しい盛りだったんです、丹下さんあの頃。磯崎新なんかが丹下さんの下で勉強していた頃。

井口:石元さんは実際シカゴで勉強されてますけれど、石元さんとはどのあたりで知り合ったんですか。

山口:石元さんは実験工房の頃ですね。グラフィック集団にいたんでね。実験工房とグラフィック集団、両方とも瀧口さんが命名したグループ。要するにグラフィック・デザインも大事だから。実験工房はやや芸術的になりすぎて。だからそれに対して写真とか、グラフィック・デザインとかのためにグループを作ったの。瀧口さんは、とにかくそういう計画者でもあり策略家ですね。

住友:もし山口先生の仕事を紹介するとしたら、先ほど言っていたグラフィックとか他のインテリアの方まで総合的に見られるような展覧会が見たいですよね。美術館だとどうしても、彫刻とか平面のようなものが中心になっていますからね。

山口:学芸員は今が一番悪いんじゃない。カタログのグラフィックや編集はできる?

住友:学芸員はそういうことが出来た方がいいと。今は完全に分業になってますからね。

山口:というのは、実験工房の頃から、カタログとか全部を僕が書いていた。手書きで。「実験工房」と明朝で書いていた。その頃僕はフォントじゃなくて、全部手書きの字。雑誌の仕事も。

井口:昔はレタリングと言っていましたね。

住友:格好いいですよね、実験工房のパンフレットのデザイン。今見ても新鮮です。なんでもそうして総合的にやる経験というのがずっと。どこかでみんな作品作ることだけになってしまうんですけど、先生の場合、ずっとデザインと関わってきたっていうのは、かなり貴重な活動ですよね。60年代後半に戻りますけど、69年のときに「クロストーク/インターメディア」のときに、先生が会場構成をされたと資料には書かれているんですけど、次から次にいろいろな演奏とか映像のプロジェクションがされるイベントですよね。先生が実際に関わられた部分というのは、どこの部分なのでしょうか。

山口:一部だけです。あまり関わっていないです。

住友:そうなんですか。実験工房の今井直次さんが照明を担当されていたりとか、では実際には、その都度演奏があったり、マルチスピーカーがあったりっていう会場の構成に関わっていたのではないんですね。

山口:実験工房展をもし本格的にやるのならば、今井さんに照明のレクチャーしてもらうといいと思う。あの人は大庭三郎さんの弟子なんです。大庭三郎さんは日本の歌劇とかレビューの照明の草分け的な人です。

井口:今井さんはお元気ですかね。

山口:元気のはずよ。大庭三郎から教わった加色混合っていう光の照明は、色の加色と違うんだよ。色を混ぜるとグレーになっちゃうでしょう。でも照明は赤と紫と青、全部あわせて照明作るけど、一つ照明(の色)をひくと、ぱっと違う代わりの色が出てくる。そういう照明の手品をやっていた。