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ヨシダ・ヨシエ オーラル・ヒストリー 2009年12月9日

埼玉県坂戸市にて
インタヴュアー:光田由里、中嶋泉
書き起こし:中嶋泉
公開日:2011年8月14日
更新日:2018年6月7日
 
ヨシダ・ヨシエ(1929年~2016年)
美術批評家
東京都千代田区出身。終戦後、鎌倉に住まう文学者や芸術家との交流を通じて美術に関心を持つようになり、その間に知り合った丸木位里、赤松俊子夫妻の《原爆の図》を抱え、1950年から1955年にかけて全国各地で同作の展覧会と講演を行った。詳細な調査をふまえて書かれた靉光論(1959年)や、最初の瀧口修造論の一つである「瀧口修造覚え書き」(1961年)が高く評価され、批評家として本格的に活動を始める。1960年代には、ハイレッド・センターらパフォーマンスの活動を積極的に紹介した。本インタヴューは、ヨシダ氏と交流の深い渋谷区立松濤美術館の光田由里によって行われ、1950~60年代を中心とした作家との交流の様子の他、これまであまり語られることのなかった美術家の組織MAC・J(モダン・アート・センター・オブ・ジャパン)を設立した経緯などが語られている。

中嶋: 今回はヨシダ先生のお仕事に詳しい光田由里さんにインタヴュアーをお願いしてお話を伺うことに致しました。

ヨシダ:光田さんには瀧口修造のときにお世話になりました。(注:「瀧口修造の造形的実験」展、富山県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、2001年12月4日-2002 年1月27日)

光田:素晴らしい講演をしてくださったんですよ先生。瀧口先生のことをああいう風にお話してくださる方はいないです(注:ヨシダ・ヨシエ氏はこの講演で瀧口の「言葉」と「沈黙」について語った)。

ヨシダ:素晴らしいかどうかはわかりません(笑)。あのときは光田さんが手助けしてくださったのを憶えています。

光田:あれは松濤で瀧口展をおこなったときのことになります。松濤で展覧会をやったときで、デッサンが展示されたときですね。2002年だったかな。
先生のインタビューはこれまでもたくさんあるんですけれども、この間も『あいだ』のインタビューを受けていらっしゃって。(注:「《インタヴュー》わたしの「戦後」、『あいだ』163号, 2009年8月20日)

ヨシダ:福住(治夫)君にきかれてね。それでどんなことを聞きたいですか。よほどのプライベートなこと以外は全部お話しますから(笑)。

光田:先生に自由にお話頂くのが一番なんですけれども、やはり美術批評ということについて伺いたいと思っていて。先生にとって、「瀧口修造覚書」と、「靉光」と《原爆の図》というのが出発点として大きかったのではないかと思いまして。

ヨシダ:やはり「アンダーグラウンド」的なものですよ。焼け跡ですから。戦前の僕がどれだけ否定しきれるか、というのが僕の若いときの姿勢だったと思うんですね。だからアングラに熱を入れまして。ですが、そういうカウンター・カルチャーというのには限度がありますね、後から考えてみると。何が足りなかったかなって思うのだけれど。突然ですが、刀根康尚と小杉武久という名前はご存じないかもしれないけれど。

光田:いえ、わかります、グループ音楽。

ヨシダ:その人たちがネオ・ダダとかなんだとか、日本的な「フォーヴィズム」をあるときに理論化しようとした。小杉武久はマース・カニングハム(Merce Cunningham)を取り上げた重要なポジションにいた男だったと思いますけれども。それで、当時マース・カニングハムがラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)と結びついて、「コンバイン・アクション」っていったかな、当時。まあ「アクション」ですね。要するにそうした「行為」のほうが僕には気になったんですね。で、そこ(ラウシェンバーグの絵画)にあるのは、コラージュといえばコラージュみたいなもので、カンバスに椅子だとか、鳥の剥製だとかそれをひっつけちゃったんですね。それでその物と物の間を繋げているのがペインティングです。だから(「貼り付ける」、「描く」という行為がコンバインされているという意味で)コンバイン・パフォーマンスといったほうが近いのではないかなって思うのですが。そのマース・カニングハムと結びついているのが小杉です。彼は芸大の楽理科を出ていますが、あの頃理論的なものがものは全般的に薄かったですね。それで行為が前面に出ていた。全共闘もそうですし、全学連も。世界中がそういう傾向だった。それで僕は「行為」ばっかりを追いかけていた。その辺を反省しています。その辺は小杉が意外に大きなものを残そうとしたのではないかと僕は思っています。

光田:つまり彼らは理論の方で先生は行為の方ということですか。

ヨシダ:彼は芸大の楽理科というところを出ているので、論理化しようとした珍しいタイプだった。それと、当時のことをある程度客体的に論理化出来たのは中原佑介一人だったと思いますね。

光田:なぜそう思われますか。

ヨシダ:その前にちょっとエピソードをお話します。昔、僕が荻窪で飲んだくれていましてね。そしたら中原くんが来まして、「僕はヨシダの文章を否定する。全然買わない」って。それで僕は「どういうわけだ」って聞いたんです。そしたら「君はシンパシーしすぎる。アパシーでなければ批評はできない」と。それでびっくりして、「アパシーって言ったら不感症でしょう」て言ったの(笑)。そしたら「あなたは作家に近づきすぎる」と言っていました。それはある意味で正しい批評だと思うんです。僕がその頃書いたのは小山田二郎論です(注:ヨシダ・ヨシエ「小山田二郎論」『美術批評』、1956年8月)。これはベタベタのラブレターでした。あんなものが批評だったら大変ですよ。あのときあれを掲載してくれたのは西巻興三郎ですけれども、今では不思議に思います。中原だけです、完璧に論理化の作業を当時していたのが。

光田:先生は戦後、展覧会をみはじめたのはいつ頃からですか。

ヨシダ:これには編集者が関係します。僕の時代は非常に編集者に恵まれていたんですね。宮沢(壮佳)もいましたし、福住もいましたし。みんな今で言う『BT』ですよね。それに僕は展覧会評を書くようになって、それで大きな文章も書くようになって。連載したのもいくつかあります。それでさっき言った西巻興三郎というのと、太田三吉っていうのがいて。

光田:ヨシダ先生は太田さんが編集長のときに『三彩』に連載されていましたね。

ヨシダ:ええ、僕ですね。美術出版というのは大下藤次郎が作ったんです。それで当時は大下正男と藤本(韶三)とが二人でやっていた。戦後少し落ち着いてきたので、日本画の専門の雑誌を作りたいと藤本さんが思われて、そのとき太田三吉を含めて当時の編集をやっていた。『BT』を作ったの太田三吉ですよ。作ったっていうのはおかしいかもしれないが。まだ薄っぺらい頃。

光田:先生の展評は非常に面白いです。

ヨシダ:そうですか。日本画のことは何もわからずやってますからね(笑)。素人の盲滅法じゃないですけれども。

光田:先生がギャラリーを回ったりされるようになったのは、小山田二郎論を書かれた後になりますよね。太田さんが展評を勧めてくださったんですか。

ヨシダ:ええと、太田さんとの仕事のはじまりは『流亡の解放区』(注:ヨシダ・ヨシエ著『流氓の解放区:ヨシダ・ヨシエ評論集』、現代創美社、1977年)で。「るぼう」と皆読んでますがあれは「りゅうぼう」と読みます。流れ流れているという意味です。ちょっと奥付を見てみてください、太田三吉になってます。太田が自費で僕の本を作った。

光田:現代創美社というのは太田さんの本屋さんなんですね。

ヨシダ:それで夢土画廊でオープニングがあったときに、この第一面の試し刷りを持ってきて、みんなの前で読み上げて、「きみたち、これだけの文章を書ける人を僕は発見した」って言ってくれたんです。もう驚いて涙が出ちゃった。それが太田三吉です。まあめちゃくちゃでした。よっぱらいなんてもんじゃない(笑)。例えばあるとき、あのとき、今でもそうですけれども、金に完全に困っていてね。もう生きていけないって思って。それで三吉に「少し原稿料くれませんか」って言った。そしたら三吉がパッと藤本の方向いて、「編集長、今からヨシダ先生と編集上の打ち合わせがあります」って言うんですよ。そんな話してなかったのに(笑)。それで外に出ようって。それで外に出てからライオンのビアホールに入ってからね、『三彩』に電話かけまして、「ヨシダ先生が金に困っている。金持ってこい」って言ったんですよ(笑)。

光田:太田さんとはどこでお知り合いになられたんですか。

ヨシダ:最初はやっぱり『三彩』の件で注文を受けました。「よっぱらいの三ちゃん」で知られていました。三木多聞さんとかもね、「酔っぱらいの三ちゃんがいる、あの声は」って(笑)。この本はそんな太田さんが自分で作ってくれたんです。その後彼はこの現代創美社という会社から美術の雑誌を出してます。

光田:『現代美術』という雑誌ですね。

ヨシダ:彼はもともと日本画系ですから現代美術じゃないんですがね。『美術手帖』にも太田三吉は関わっていましたが。

光田:太田さんも西巻さんも関わっておられましたね。

ヨシダ:はい。西巻の方が力はありましたけれどね。ああいう人たちはあの頃みな平凡社に行ってましたね。太田さんは行ってない。平凡社に下中邦彦がいて。ああいう人たちの中には左翼運動で屈折した人たちが多かった。平凡社はだから隠然たる力を持っていたね。それから大事なのは、太田三吉の西落合の屋敷の敷地の中に瀧口修造と読売新聞の海藤日出男がいたことです。「今をときめく」読売と瀧口修造ですからね。皆がお参りに行く。そんなときに太田三吉は瀧口修造に向かって「ときには家賃払いなさい」とか言うんですもの(笑)。僕らは皆びっくりして。

光田:先生が初めて瀧口先生を訪ねられたのもその西落合のお宅でしたか。

ヨシダ:それは南天子画廊の展覧会です(注:瀧口修造「私の画帖から」展、南天子画廊、1960年)。あのときは「この人は何をやっているんだろう」って思って。意味がわからなかったんです。「絵も文学も一つに出ている」という大胆なハイポセシスを出していらして、記号、シーニュの問題を扱っていらっしゃいましたが、僕には意味がわからず、きょとんとしていました。そこでこの人(の調査)はやっとかなきゃと思って、その後毎晩通いました。一年以上だったと思いますが。ウィスキーを出してくれまして、ときに鰻丼を出してくれたときもありました(笑)。それで僕のポケットに千円を滑り込ませてくれるの。帰りのタクシー代を出してくれたときもありました。あの頃西落合から国立まで千円で行けたんですよ。国立の玉欄坂。もう毎日です、朝の3時4時まで。

光田:毎日朝の3時4時までは大変ですね。先生は国立から西落合まで電車で通っていらしたんですね。

ヨシダ:ええ。それでノートをとるんですけれど、ともかく瀧口修造は「僕は前(昔)を語らない」って最初に僕に言われました。「語ってください」、といっても全然記憶がないそうなんです。それでも、その頃あった著書は『近代芸術』(注:瀧口修造著『近代芸術』、三笠書房、1949年)だけでしたから、瀧口修造を書き残しておかなければと思ったわけです。しかしそうしたらね、もう評判悪くてね。

中嶋:当時のことですよね、そうなんですか。

ヨシダ:「瀧口修造書きたい」というのはまず宮沢君に言ったの。そしたら東野(芳明)さんに連絡しましょうと宮沢君が言ってくれて。そしたら東野君から僕のところに電話があって、「瀧口修造やるんだって」と聞くから「やりたい」って。そしたら安部公房がやっている雑誌があるから、そこへ紹介しようって言ってくれたのが、そもそものはじまりですだから東野君のお世話にはなったわけですね。(注:ヨシダ氏の「瀧口修造覚書」は『現代芸術』の1961年6月~9月に掲載)。

光田:それで先生は初対面で瀧口さんにお会いになるわけですね。

ヨシダ:ええ、初対面です。

光田:それでいきなり「僕あなたのことを調べたい」とおっしゃったと。

ヨシダ:ええ、そしたら「私は語るべき過去がありません」と言う。

光田:瀧口先生はご自分のことをあまり語りませんでしたか。

ヨシダ:もうボソボソと、うつむいたまま。恥ずかしいんですね。だから僕の顔なんか見たことなかったですよ。だいたいちょっとづつウィスキーなめるだけ。僕はガバガバ飲んでいましたけれど(笑)。

光田:それは何かメモかなんかを見ながらではなく何か…。

ヨシダ:あの頃はテープレコーダーでしたからね。メモもとります。それと心に蓄積されたものをもとに、一晩で原稿書くとか。で、安部公房があれを高く買ってくれて。僕ね、食えないから当時探偵小説批評をやっていたんですね。探偵小説評論家で権田萬治って言うんですが。その彼が何かの雑誌に、「瀧口修造覚書」というのは読むに耐えないくだらないものだって書いてある。それで僕は「ダメだ」と思ったら、なんと中野重治が文芸雑誌に「これで僕が知らなかった戦前のアヴァンギャルドの様子の一部がわかった」って書いてくれた。

光田:そうですか。連載は、「記録芸術の会」の機関誌なので中野さんも読むでしょうし、東野さんも入っておられますし。

ヨシダ:最初は恐る恐るでした。なぜ瀧口さんが取り上げたのがアンリ・ミショウ(Henri Michaux)なのか、そういうことがわからない。書くことと描くことが、つまり、描くこと=デシネと文章を書くことの問題がそのときは結びつかなかった。

光田:その一方で瀧口さんの所謂「シュルレアリスム事件」(注:1941年、瀧口は杉並署の留置所に連行され、「日本のシュルレアリスム運動が国際共産党と何らかの関係があるかどうか」の取り調べを受ける。約8ヶ月の拘留の末、起訴猶予処分のまま11月に釈放。「瀧口修造・自筆年譜及び補遺」『コレクション・瀧口修造』、みすず書房、)についてもご興味を持っていらしたとか。

ヨシダ:それを最初に活字にしたということになります。誰も、中野重治のような左翼でさえ、何があったか知らなかった。そのとき「言葉」っていう問題に僕は出会ったのね。拷問こそされないけれど、瀧口さんは警察で毎日「言葉」を厳しく追い詰められていたわけですから。「言葉を追い詰められたというのはどういうことなのか」というのが僕の発想でしたし、当時の記録の中心でしたね。ですが、ほとんど「おしゃべり」にはならない。瀧口さんは僕みたいにベラベラしゃべらないんですよ。うつむいてボソっボソっですから。だから明け方までかかっちゃう。それでお年なのに顔を真っ赤にされてね、恥ずかしがって。「それは言えない」とかね。そういうこともたくさんありました。

光田:先生は文献もお調べになって、それでお話も聞いて書かれたわけですよね。

ヨシダ:うん。神田を荒らし回りましたよ。瀧口修造が書いた古いものを片っ端から見ておこうと思って。

光田:瀧口さんに関してそういうことを最初になさったのが先生だということでよろしいでしょうか。

ヨシダ:ええ。それはもう初めてですよね。僕に美術家評論連盟に入れと言ったのも瀧口修造です。それで僕が戸惑って「どういうことでしょうか」と聞いたら「あそこは殆どメディアマン。だけどあなたのような在野的な感覚を持っている方が入ったら、大事なことが起こるかもしれない」という言い方をされたような気がする。はっきりと憶えています、それに近い言い方。それで僕は東野君が会長のときに(美術評論家連盟に)行って。すると「今日は珍しいね、ヨシダくんがいる」と言われて。僕はこういう男ですって言って、こういう文部技官連盟に出席するのは恥ずかしいと。文部技官ですからね、一人残らず(笑)。ごめんなさい。あなたも(美術評論家連盟の会員)でしたね(笑)。

光田:いえ、先生も美術評論家連盟総会に毎年出席されていますから(笑)。瀧口修造はその頃既に読売アンデパンダン評などを書いていますし、一部では尊敬される状態だったんじゃないんですか。

ヨシダ:ええ、神様でした。神様が西落合にいるから、もう工藤哲巳も吉村益信も酔っぱらって夜中に来るんです。だから瀧口先生迷惑だったと思いますが。一度だけ怒鳴ったことがあるんですよ。あれはね、はっきり憶えているけれど、庭が広い芝生なんですよ。そこに我々が言って「瀧口さん、瀧口さん、出てきてください!」って。そしたら開けて「うるさーい!!」って(笑)。「瀧口さんがあんな声出した」って。みんな原稿なんか書かせませんでしたよ。

光田:ヨシダ先生はそうやってみなさんが神様みたいに言うのを見て、どういう風にご覧になっていましたか。

ヨシダ:うーん、それは難しい問題だけれど、僕も神様だと思っていましたから。

光田:そうですか、それはなぜでしょうか。

ヨシダ:だって神様のことみんな知らないんだもの。何一つ知らない。瀧口修造がどういう人かってことを。『近代芸術』だけ。それ以外何も証拠がない。それでシュルレアリスムの事件のことを知ったときに、僕は猛然と興味を持って。尋問されるから言葉の問題が介在するだろう。じゃあ「瀧口修造にとって言葉というのは何か」と、僕は展開した。

光田:そう、ヨシダ先生の講演会もそういうことでした。瀧口先生にとって言葉は何かということを語ってくださったのは、嬉しかったんです。

ヨシダ:だからシーニュですね。記号と言葉との間の割れ目です。だからミショウに気がついたんだ。ミショウだけですそれをやったのは。面白いエピソードがあるんです。あの頃アンフォルメルのマチュウ(George Mathieu)が日本に来たときの話ですが。
万年筆の調子をみるためにこういう風に(試し書きのふりをしながら)試し書きをすることがありますよね。瀧口さんはそれを見てふと気づいて、試し書きのようなものを四百字詰の原稿用紙全部に書いて、マチュウを羽田空港に迎えに行ったときに渡したそうなんです。そうしたらマチュウがらびっくりして。読めないから。それで「後で読んでおく」って言っていたのが、その2日後にあったパーティで、マチュウが来て「あれは全部読めた」って言ったんだそうです。そういう話が面白くて、最高の話ですね。

光田:そういうことも先生がおっしゃるのを聞いていらしたんですね。

ヨシダ:ええ、そばにいましたから。

光田:じゃあお二人はとても気が合っていたんですか、瀧口さんとヨシダ先生。

ヨシダ:実は僕はその頃、ちょうど60年代でドンパチやってたんです。火炎瓶投げてましたから。そういうことにも瀧口先生は、「私はつくづく思います。今の時代にもこういうことがなきゃいけないんじゃないか」とおっしゃっていた。それで僕たちが所属していた全学連にカンパしてくれた。何度もお金を送ってくれました。僕は中核派でした。革共同って言ったんですね。革命的共産主義者同盟という意味で、革共同中核派ですね。革マルの方は革命的マルクス主義者同盟でしたから。中核派に僕はガールフレンドがいてその人に夢中だったんです(笑)。ガールフレンドを守るために三里塚に行って、彼女を守るために真っ先に機動隊に飛び込んで行きました(笑)。だから未だに花柳幻舟(はなやぎ・げんしゅう)が言いますよ。三里塚に行ってあなたの顔をみないと寂しいよって(笑)。花柳幻舟は羽仁進の派に属していたからね、当時。羽仁進とつるんであちこち出かけていたけれど。花柳幻舟とも僕は対談したこともありますね。高田馬場の小さな劇場で。

光田:先生は三里塚や安保闘争も60年代に経験されていたんですね。

ヨシダ:僕の方にはなんと言っても《原爆の図》がありましたしね。あれが僕の中に根を下ろしていますから。

光田:考えてみればあの瀧口さんのデッサンも安保闘争のころに発表されていたんですね。

ヨシダ:そうそう。あるとき右翼が来て、中核のやつが殴られて血を流しているのをみたときがありました。それにショックを受けて、夜中になって瀧口さんのところに行ったら、「そうですか、私も力があったら飛んでいきたい」って言ったの。本当にそう思ってましたよ、瀧口さんは。そういう瀧口修造を見ていますから、瀧口修造という人はものすごく先鋭な人だと思っています。

光田:戦う先生ですね。

ヨシダ:それはあのシュルレアリスム事件からも明らかだと思います。あの当時は黙秘権なんてないですからね、戦争中特高内に。黙秘なんて言ったら拷問ですよ。黙秘権が出来たのは戦後です。福沢一郎相当ヨタヨタしていたみたい(笑)で、後から調べてわかったのだけれど、警察に連れ去られたときにすぐ、(福沢さんの)奥さんがパリの古い友人に電話をして「福沢が連れ去られたんですけれど、福沢が共産主義者ではないってことを証明してください」とお願いしたそうです。でもそうしたらその友人は「私はパリの福沢を知っているからパリにいたときは共産主義者じゃなかったけれど、それ以外は知らない」ってそう言って逃げたそうです。そういう事実も調べました。

光田:いろんな方にインタビューされて調べていらしたのですね。

ヨシダ:そうね。それで福沢さんと瀧口修造、これが難しい。だけど、必ずしも瀧口修造は福沢一郎をうんと買っていたということではないみたい。日本でシュルレアリストをしたのは福沢一郎だけですね。ところが、瀧口修造にとってはシュルレアリスムとはアンドレ・ブルトン(Andre Breton)ですから。そのあたりのことはすごく緻密です。福沢さんはフォービックで、それとシュールナチュラリズムですよね。

光田:では瀧口さんは日本の作家でだれを買っていたとお考えですか。

ヨシダ:やっぱり戦後の作家ですね。加納光於とか。

光田:加納光於ですよね。私もそう思います。

ヨシダ:そういう人たちに「ものすごく強い、今までにみたことのない世界だ」というような見方をしていたように思います。だからタケミヤ画廊をやっていたときのあの人選をみれば、瀧口修造の視点が自ずと明らかになると思います。

光田:ところでヨシダ先生は靉光を研究しようと思われたのは、どこかでご覧になったからでしょうか。

ヨシダ:どういうわけかね、宮沢が文藝春秋(画廊)で展覧会やったとき、すごく感動したんです。《眼のある風景》(1938年)なんかが出ていました。そして僕はそれを宮沢君に話したんです。そしたら「靉光論書きませんか」と彼が言った。それで僕は靉光論を書いたんです。その頃僕は世田谷に住んでいたんですが、その世田谷の家に靉光の奥さんの石村キエと、今は美人の女性になって結婚もしていらっしゃるけれど紅(こう)さんという娘さんが、当時は小学生だったんですけれど、うちに来たんです。それで「どういうわけですか」と驚いて聞いたら、「靉光のことは未だに死んだかどうかわかりません。軍から一通手紙が来ただけだ。遺髪もなければ爪もない」と。その頃世間では廃山で生き残っていた兵士が捕まったとか、そういう話が新聞にたくさん出ていた時期だったんですよ。だからひょっとしたらどこかで生きているじゃないか、と。だから靉光が死んだところまできちんと記録しようと。それから靉光を訪ねて、そのうち靉光の世界にあんまりのめりこんじゃった。さっきいった「シンパシー」の典型ですけれども、僕の内部に靉光がいるんじゃないかっていうくらい。石村キエさんが、当時奥さん一人の未亡人でしょう。二人で僕らは旅をしたんですが。

光田:それは知り合いを訪ねるためですね。

ヨシダ:ええ、広島とか。日本全国っていうと大げさですけれども東北の出ですから東北にも行きました(注:靉光が東北出身であるという情報はヨシダ氏の発言以外には確認されなかった)。(石村キエさんが)静かに涙を僕の前で流されたことも何度もあります。靉光は働かなかったですから、生活ができないんですよ。奥さんは盲学校の先生で定収入があった。盲学校というのは特殊な学校ですから普通より給料がいいんです。それで支えていらしたんですけれど、「靉光からは一銭ももらったことありません」て言ってました(笑)。

光田:苦労されたんですね。

ヨシダ:僕もそんな生活をよく送ってますよ(笑)。それで靉光に親しみを感じましたね。培風寮(注:豊島区長崎)なんて行きましたよ。良くこんなところに住んでいたなと。そこは足の踏み場もない。滅茶苦茶でした。買うお金がないから、芽の出た野菜とかがごろごろしていて、その野菜を描いたのがデビュー作です。魚が腐って匂いを放つ。そういう部屋にいたんですね。

光田:全国を旅する旅費とかは美術出版社が出してくれるんですか。

ヨシダ:いや、キエさん。私と一緒に旅してくれますかって言って。驚きましたよ。

光田:やっぱりキエさんも知りたかったんですね。

ヨシダ:それで軍隊名簿を市ヶ谷から手に入れまして、軍のなかで靉光とだいたい同年輩だろうという人々に手紙を書き続けたんです。こういう特徴があって、眼鏡をしていて、たぶん軍隊だから眼鏡を外していたかもしれないけども、そして要領が良くない石村上等兵という人を知りませんか、というふうに(注:靉光の本名は石村日郎)。僕は数えてなかったんですが、洲之内徹が「あなたが出したのは200枚を超えますよ」って言っていた。尋ね人欄みたいなものですが、新聞にも載りましてね、僕の文章が。でも葉書がみな宛先不明の付箋がついて帰ってくる。だってそうでしょ。僕が葉書を出したのは広島出身の兵隊ですもん。戦後に広島出身の兵隊がそうそういるわけがない。これはただ事じゃないと思いましたね。そうしたらその一部が、なんと石村日郎上等兵のいた部隊の部隊長、網田圓治という人のところに着き、彼からこんな長い手紙が来た。戦死した死亡通知までね。それではっきりと戦死したことがわかりました。キエさんの前でお知らせして。キエさん泣いてました。「ありがとうございました」って言っていましたよ。

光田:そのとき旅で新しい絵がみつかったということはありましたか。

ヨシダ:広島で、十字架に架かっている絵とね。(注:靉光《キリスト黒》1932年)あれは良く憶えていますよ。キリストみたいな絵なんですけれど、キリストじゃないんですね。ここ(頭部)にバンダナが着いているんですよ。だから「ヒッピーだ」って僕は笑ったんですけどね(笑)。あの当時ヒッピー描くわけないじゃないですか。

光田:作品も見つかったし、先生が旅されているときも心に靉光が住んでいるような…。

ヨシダ:うん、だから「私の内部の靉光」という文章を書いた(注:ヨシダ・ヨシエ「わたしの内部の靉光」『デフォルマシオン』、1977-1982年)。

光田:クサカベ(絵の具メーカー)の機関誌に連載されていたものもありましたね。

ヨシダ:『あべかある』(もしくは『AVECART』)ですね。『あべかある』というのはクサカベが出している機関誌です。薄っぺらい1ページから3ページの雑誌。

光田:それが『異端の画家』(共著『異端の画家たち』、造形社、1967年初版)に再録されたんですね。

ヨシダ:その頃は(『あべかある』での連載を始めた頃)池袋で飲んだくれて喧嘩ばっかりしていたような時代ですが、三輪(注:名不明。調査中)さんが「ヨシダさん、僕の所に書きませんか」っていってくれた。ものすごくお金が少なかったような気がするんですが。2,000円、3,000円ってくれるんですよ。500円というときもあったような気もする(笑)。それで僕の飲み代を助けてくれるんです。三輪さんという人は当時の『アベカール』の編集長です。それが意外に読まれて。僕が書いたのは長谷川利行と靉光といった人気者だったんですね。

光田:両方とも素晴らしい文章ですね。

ヨシダ:当時池袋の飲み屋街では「長谷川が……」とか「靉光が……」、という話が良くされていました。そこで僕はメモを取っていて、それを随時発表していたわけですね。それに宮沢君なんかが目をつけて、こういうのが書けるんだねっていうんで、靉光論を書いてみないか、と。それで石村キエさんが来たんですね。人と人とのつながりで。

光田:『みづゑ』に書かれたもの(注:ヨシダ・ヨシエ「靉光の世界」『みづゑ』、1961年11月号)も素晴らしかったですね。それでは最初は色々な話を聞いて書いておられたのを、読んで調査し、聞き書きということを始められるわけですね。

ヨシダ:うん。ただし、当時の名前の出ている人で現存しておられる方たちは片端から会いましたよ。日展の人とか、そういう人にもみんな会いました。

光田:先生がそこまで興味が持てるのは、靉光の何ですか。作品ですか、生き方ですか、それとも戦争との関係とか。

ヨシダ:《眼のある風景》です。《眼のある風景》と、あの大作を描くまえのしどろもどろの靉光です。そこのところに興味がある。なんでこんな病的な弱々しい絵を描くのかと。そこのところに僕は焦点を当てたかった。針生さんは「靉光は抵抗の画家である」と言っていたんですがね。

光田:そういう理解ですよね。

ヨシダ:でも「抵抗」なんてあの時代、そうそう出来るわけない。なんとかして自分も兵隊になりたい、軍人にならなければ時代に取り残されちゃう。藤田(嗣治)でもなんでも戦争画ですからあの時代。それだから、彼の絵には自信なげな様子が多い。包丁を自分に突きつけている女とか、編み物をする少女とか。

光田:デカダンスの絵ですよね。

ヨシダ:どう考えても健康じゃない。ものすごくデカダンスですね。

光田:なるほど、その弱々しい作品と《眼のある風景》の間というものに…… 

ヨシダ:そこが僕の関心でした。なぜこんな絵を描いたのかと。だから針生さんが言われるように、「時代に抗して立っている」なんて、そんなかっこいいことできないですよ(笑)。出来るはずがないあの時代に。

光田:じゃあ先生にとってあの(針生一郎が言及した)3点の自画像はどのように見えるのですか。

ヨシダ:「やっとここまで描き続けた」というものです。だからその頃突然(手紙の)文体が変わります。「とにかくあるところまで行ったから、これからは自信を持って描いていけると思う」という手紙をキエさんに送っています。その手紙を読んであの3点なんかを見ると、これだったら兵隊だって軍人だった描けるだろうと思えてくる。だから靉光はだからそんな「抵抗の画家」なんかじゃない。揺れ動いていたんですよ。「俺なんかもう放り出されちゃうんじゃないか」っていうくらい孤立していたと思う。それが一連の(自画像以前の)作品だと、僕はそういう風に思っています。そこの結論に辿り着くまで、僕は連載していたんです。

中嶋:それは新しい視点でしたよね。靉光というと英雄視される傾向が強かったと思います。

ヨシダ:靉光の《眼のある風景》、あの眼は自信のある眼ではない。やっと辿り着いた眼だというような言い方を(自分は)したような気がします。

光田:瀧口にしても靉光にしても、戦争ということが大きなポイントになっている方々ですよね。

ヨシダ:もちろん戦争です。

光田:それが先生のテーマの一つでもあるのではないですか。

ヨシダ:うん、だから隠されていたんですよ。瀧口修造のシュルレアリスム事件にしても。第一あの頃のシュルレアリストは殆どアラゴン(Louis Aragon)にしても誰にしても、みなコミュニストでしょう。フランスの占領時代ですから。ゲリラ活動をやっていた連中ですからね、アラゴンもエリュアール(Paul Éluard)も全部共産党ですね。ピカソが共産党に入ったのもその時期ですね。
僕の中で共産主義とアナーキズムっていうのは、ものすごく揺れているわけ、未だに。共産主義は僕にはどうしても合わなかった。僕は本質的には非組織的な男で、アナーキストです。最近ジョン・ケージ(John Cage)の伝記を読んだの。ジョン・ケージは優れたアナーキストだということがわかって、そんなことに喜んでいるんですよ。ジョン・ケージっていうのは音楽の中のデュシャンと呼ばれている男ですからね。そういうことに関心を持ってきています。それが僕なりの戦争体験。

中嶋:ヨシダ先生は「最後の無頼派」と呼ばれていますよね。

ヨシダ:(笑)それは田中三蔵(の言葉)です。

光田:最初なのでしょうか。

ヨシダ:最初に言ったのがそうです。僕が「彼が最初に言った」って自分で言ったんです。新聞で「名もない人たちと伴走してはしる男」と書いてくれた。その「伴走」の方が気に入った。

光田:先生は《眼のある風景》からそれだけのことを読み取られただけではなく、今度は「行為」ということからパフォーマンスへと…… 

ヨシダ:だって「行為」がなければ闘いも何もありませんから。僕は火炎瓶とか一生懸命作っていましたから。それで「球根栽培法」とか、色々な非合法文書を…… 

光田:「球根栽培法」っていうのは非合法文書なんですか。

ヨシダ:うん。それは本当は火焔瓶の作り方よ。

光田:それを「球根栽培法」って呼んだんですね。

ヨシダ:こういうね、オブラートみたいな紙に書いて。それでガサが入ると飲んじゃう。もう何十通も飲んじゃったよ。やばいことばっかりやっていた(笑)。交番襲撃も何度も考えました。でも僕はやらなかった。だから未だに引っかかっているのが60年代安保ですよ。60年安保のときに爆弾抱えて議事堂をぶっ壊したほうがよかったかしらって未だによぎります。去年の流行言葉って「政権交代」って言うけど、馬鹿じゃないかと思って。一番大事なのは例のアメリカとの「密約」ですよ。

光田:そうなんですね。

ヨシダ:密約こそ日米合議の問題です。核持ち込んでいたんですから、あの国は。それは全部日米安保条約にかかわってくる問題ですから。安保だけは叩き潰したかったね。それはあの頃の僕の夢でした。それでなんで爆弾抱えて飛び込まなかったんだろうって後悔してね。

中嶋:その頃の歴史が今舞い戻る形で議論されるようになりましたよね。

ヨシダ:政権交代なんてたいしたことじゃないです。鳩山(由紀夫)さんとかも言っていますけれどね。「チェンジ」だから。「チェンジ」と「レヴォリューション」は違います。チェンジは移すことでしかない。

光田:例えば先生、アンデパンダンとかご覧になっていて、革命的な感じというのはなかったのでしょうか。両方のアンデパンダンそれぞれに…… 

ヨシダ:その頃は瀧口修造のことを考えていましたから。つまり、戦前の歴史を、絵画にしても皆戦争に関わり合っていたと。戦争中は芸大の先生もみな軍に荷担していたんですよ。そういうのを誰も追求しない。だから戦前の文化を否定的なものとして、徹底的に廃棄してしまうこと。過激ですけれど、それは僕の中にかなりありましたね。だから壊してあるものを見ると喜んで拍手していましたよ。

中嶋:壊すことなんですね。

光田:では前衛美術も先生はそういうものとして見ていらしたんですね。

ヨシダ:シュルレアリスムも一つの手段だと思っていて、壊すための。

光田:壊す手段としてのシュルレアリスム。

ヨシダ:ブルトンが最初にシュルレアリスムを言い始めたのはジャック・ヴァシェ(Jacques Vaché)からでしょ。ジャック・ヴァシェの『戦場からの手紙』(注:Jacques Vaché ,Lettres de guerre, Au Sans Pareil, 1919)ですよ。あの男完全に狂ってて、上半身フランス兵、下半身ドイツ兵で戦場をうろうろしてる(笑)。何をやってるんだかわけがわからない。ブルトンは精神科の医者ですから、ヴァシェを知ってシュルレアリスムを始めた。だから精神病院行きみたいな人じゃないと信用できないでしょう(笑)。だから精神病みたいな人をみると拍手していましたよ、ダダカンとか(笑)。ところでダダは日本にはなかったですよ、一回も。針生さんがダダ、ダダって言ってましたけど、日本にダダイストは一人もいません。

中嶋:ネオ・ダダの方々はどうですか。

ヨシダ:あれはフォーヴィズムです。ただ暴れ回ってるだけで。篠原(有司男)なんてその典型です。
壊していない。あれは「青春」です。はっきりとそれを否定して、オリジンから考え直した人はいないです。いるとしたら瀧口修造です。そういうことなんです。瀧口修造の『地球創造説』(注:瀧口修造『地球創造説』、書肆山田、1972年)はそういう予感がある。

光田:先生が「敗戦記念晩餐会」を企画されたときには、先生がいいと思う作家をピックアップされたのではないですか。(注:「敗戦記念晩餐会」は1962年、国立公民館にて開催。赤瀬川源平、飯田達夫、風倉匠、刀根康尚、土方巽、吉野辰海、吉村益信等が参加)

ヨシダ:あの頃、世間は「敗戦」を「終戦」と言い出したんですね。例の「晩餐会」はちょうどその頃です。「終戦」とはなんだ、「敗戦」だろうと。白旗挙げて降伏して、アメリカ兵に占領されたんですからこれは敗戦なんですよ。負けたんだってことを自覚しない限り、いつまでたってもこの国はだめだ。それで敗戦ということは「物が食べられない」ということだったので、それで「食べよう」ということに。

光田:人選はヨシダ先生がされたんですよね。それはやっぱり先生が選ばれたわけですね。

ヨシダ:ええ。土方巽とか刀根康尚とかもちろん吉村も篠原も飯田達夫も呼びましたけど。僕はその頃国立に住んでいて、公民館をただで借りられる。ただより安いものはないわけですよ。金がないですからね。で、会場はあったと。なんかやろうということで拍子をかけたら、みんなぞろぞろ僕の国立の家に来て、僕は酒飲みながら聞いてたら、だんだん「飯をみんなで食おうじゃないか」っていうことになったんですよ。(当日)筋骨隆々の胸毛が生えている男を連れてきて、その人を上半身裸で入り口に立ってもらいました。そこに箱を置いておいたらね、みんなお金をいれていく(笑)。

光田:仁王様みたい(笑)。

ヨシダ:入場料なんて言ってないのにみんな金払って(笑)。それを持って肉屋に行って肉買って。それでお米買ったりしてそれで晩餐会が出来た。その間観客には一口も食べさせない。それで観客は怒っちゃって。詐欺だって。

中嶋:でもたくさんいらっしゃったんですね、お客さん。

ヨシダ:ものすごくたくさん来ました。びっしりと100人以上いました。今でも憶えていますが、朝日新聞の人がね「何をやってるんだ君たちは、これは詐欺じゃないか」って怒られちゃった。「これは美術か」っていうから「美術だ」って答えたよ(笑)。そばに中原佑介が覗きながらニヤニヤ見てた。

光田:中原先生は最後までいらっしゃったそうですね。

中嶋:中原先生は観客としていらっしゃってたんですね。針生先生もいらしたんですか。

ヨシダ:針生さんは来なかった。実際そのとき作ったのは「敗戦記念晩餐会」と書いてあるカード。あれだけですよ。

光田:そうですよね。カードしか残っていないんですよ。写真とか撮られなかったんですか。

ヨシダ:うん、カードだけ。宣伝もしてなかった。

光田:なんで人来たんだろう。それは地域の方々なんですか。

ヨシダ:篠原とかネオ・ダダのおしゃべりな奴らがいましたから。口コミでしょうね。

光田:その頃グループ活動が盛んでしたから、そういう意識がありますよね。

ヨシダ:そうそう。吉村のは良かったですよ。上半身裸になって、2時間歯を磨いてるの。そうするともう血だらけ(笑)。これは大きな「変容」でした。食事をするのは日常ですけれど、日常をグーンと広げるとこういうことになってしまう。歯を磨くのは10分でしょ。ところが2時間磨けば異常ですよ。そういうヒントはたくさんありました。

光田:それは先生にとってダダではないわけですか。

ヨシダ:ダダっていうより、これは日常を広げただけですから。日常的行為をしようって僕たちは言ったんです。これが当時の国際誌に載りまして、「世界最初のハプニング」って言って。だからハプニングを世界で最初にやったのは、アラン・カプロー(Allan Kaprow)じゃなくて僕になっちゃった(笑)。(注:掲載誌不明)

光田:つまり舞台で何かしようということでしたよね。

ヨシダ:ええ。ショウ的なドラマツルギーは全然使わないでね。ただ淡々と食事をする。

光田:それは何かモデルみたいなものがなかったんですか。何にもなくそういうことを考えつくものだったのですか。

ヨシダ:何にもないです。そんな集まりはそれまで史上一回もありませんでした。僕らはここに出ていたビフテキ——「ビフテキ」って言ったって豚の肉だと思いますけれども(笑)——それをこうやってヨーロッパ的なお上品な食べ方をして、「おかわり」なんて言ったりしてね。観客がね、金とられて米粒一つもらえないっていうんでみんなむくれちゃって(笑)。

光田:アンデパンダンで小さなレストランみたいなものをして、魚を焼いて食べたというのがありましたね。あれも結構早かったように思いますが、あれのほうが後でしたっけ。(注:おそらく1963年の読売アンデパンダン展。赤瀬川原平、『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録』PARCO出版、1984年)

ヨシダ:そのアンデパンダンの例はなんのことか、ちょっとわからないんですけれども、国立の晩餐会みたいな例はそれまでになかったと思います。それも会場が公民館ですしね。

光田:8月15日ですしね。

ヨシダ:8月15日を選んだのは僕です。それで「敗戦」という言葉を使わなければ、と。細江英公さんも(注:細江英公『原罪の行方 最後の無頼派ヨシダ・ヨシエ 細江英公人間写真集』、窓社、2008年をみながら)そういうことがあります。「大東亜戦争」って書いてある。大東亜戦争という言葉は僕一回も言ったことありません。大東亜戦争ってなんなんだ。ここから嘘があります。ここにも「終戦」と書いてある。そういうところでこの写真家の曖昧さを感じるね。

光田:なるほど…… 例えば先生はアンデパンダン展とかでアナーキーな状態をご覧になって、それでどういう感想を持っておられたのですか。

ヨシダ:僕がさっき言ったのと繋がるかもしれない。戦前あんな戦争にまで追い込まれて、藤田のように多くの人たちが戦争画に荷担したということは、徹底的に灰にするほど叩き壊さなければならない。戦前の名人が両足を開いているところに日本の美術があったとすれば、片方だけ時代に合わせるように、チョッチョッと広げただけ。それでこっちの足は一つも少しも動いていない。

光田:「こっちの足」は何ですか。

ヨシダ:それは日本の官僚の美術です。岡倉天心以後の官僚制の権力です。それが天皇陛下万歳を言わせた、と僕は当時はそう思ったんです。これでは歩けません。だから足を揃えなければ、それでこっちの足を引っこ抜いて壊さなければ。それがアングラの思想と結びついている。日本の官僚制度ですね。

光田:時代はちょっと飛びますが、先生は「コミューン」ということもおっしゃっていたことがありますね。

ヨシダ:それは松澤宥です。松澤宥の「プサイ(ψ)」のように文明を全部排除して過ごさなきゃならないって。憶えている発言で面白いのが“United States of Asia”ね。共産主義はだめだ、と言っていたのですが、ここ最近鳩山(由紀夫)さんが「アジア共和国」って言い始めていますね。「共和国」じゃないんです。あれはEUの真似でしょ。合衆国にしなければね。“United States of Asia”ね。アジア合衆国、それで世界の国境全部とっちゃう。過激すぎるけど、そうしないと。なにしろ国境があるから戦争があるんです。戦争がある限りこの地球は滅びます、このままだったら。という想いがあって“United States of Asia”。あるいは、例えばブラジル人はアメリカっていう国をすごく憎んでいるんですが、アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)が「アメリカ」として発見したのは南米であって、あそこ(米国)は“Estados Unido”とポルトガル語で呼びますが、つまり「合衆国」である。あっち(米国)はこっちの真似だというのがブラジル人の誇りです。

光田:先生は松澤宥さんと出会われたのはやはり展覧会のときでしょうか。

ヨシダ:本です。松澤宥は本当に「観念」の人です。「プサイ」という観念。今までのハイポセシスと言いますか、それを全部否定しようとする観念。「人類を消滅しよう」、「ギャーテイ、ギャーテイ」って言って。「ギャーテイ」っていうのは仏教語ですけれど。僕は「行こう、行こう」と訳した。

光田:その訳を松澤先生が書いて…… 

ヨシダ:般若心経の最後にある「羯諦羯諦波羅羯諦(ギャーテイ、ギャーテイ、ハラギャーテイ)」のあの「ギャーテイ」ですが、僕が訳してそれを「行こう、行こう」にした。「共に滅亡に向かおう」とした。滅亡というのは文明の滅亡です。文明を一刻も早く無くしてしまう。人間のやったシヴィライゼイションは全部だめだ、という考え方ですね。カルチャーは別として。

光田:カルチャーとシヴィライゼイションは分けられるわけですね。

ヨシダ:シヴィライゼイションは「文明」の方ですね。カルチャーは「文化」のことですね。カルチャーは農耕と結びついていますね。アグリカルチャーと同じで地面に根付いていますから。シヴィライゼイションというと市民の作っているものですね。市民なんてろくなもんじゃないっていう考えが僕の中に濃厚にあって。それに火を付けたのは松澤さんです。それで信州まで、下諏訪まで行ったんです。それで松澤さんとお酒飲んでいるうちに、「瞑想台を作ろう」って。これからはメディテーションしかない。作品を作るんじゃなくて瞑想するだけ。それでそこでインド人みたいに胡座かきましょうという提案を僕がしました。それで瞑想台を作ったんです。

光田:それじゃこれはヨシダさんの…… 

ヨシダ:僕のアイディアではないけれど。何人かいました、一緒にね。そこの中で練り上げられたのが瞑想台です。木を組んだ掘っ立て小屋の屋根もないようなもんです。そこで僕が全裸でいる写真も残ってます。

光田:「音会(おんえ)」にヨシダ先生が参加されているのは知っていましたが、それでは先生と松澤さんの出会いというのは展覧会ではなかった(注:「音会」は松澤によって次のように説明されている。「1971年7月信州下諏訪泉水入の山中に樹上小屋が建立された[中略]完成の7月10日に夜を徹し、明くる日の暮れに賭けて執行されたのが音会であった」、『コレクション瀧口修造 第10回第4回月報』、1993年10月)。

ヨシダ:展覧会です。青木画廊の松澤宥の展覧会です。「プサイ」っていう言葉すらそのときはなかった。今厳密に言うと「プサイ」っていう言葉は、僕は否定したいです。「プサイ」っていうのは非常に観念的な言葉ですね。

光田:波動関数ですね。

ヨシダ:「プサイ」っていうのは超観念ですからね、そういう言葉を根拠にしているのはやばいのではないかと、今は首をかしげていますね。

光田:当時ではなく今はということですね。

ヨシダ:ええ、「F」みたいな字を使いますよね、あれ。

光田:それでは先生は詩人としての松澤宥さんに興味があったんですかそれとも思想としての…… 

ヨシダ:両方ですね。詩人としてもすごいと思っています。だって僕なんかやんちゃなダダ詩ですもん。ダダ的な詩。高橋新吉みたいなのと似たり寄ったりですよ。

光田:私はこれを…… (注:ヨシダ・ヨシエ詩画集『ぶるる』、岡本信次郎画、亜紀社、1958年、を取り出して)

ヨシダ:こんなの今でもあるんですか。

光田:これは岡本信次郎先生からお借りしています。すごくいい本だと思いました。

ヨシダ:山口昌男が発見したのがこれですよ。山口昌男は「今から数十年前、突拍子もない詩集を見た。それがヨシダ・ヨシエとの出会いだ」って書いています。

光田:山口昌男さんがこれを読んだんですね。

ヨシダ:彼は何でも読みますから。漫画の愛読者です。『のらくろ』の愛読者です。

光田:これ(『ぶるる』)は江原順さんが解説を書かれていますね。

ヨシダ:ああ、これは江原が…… 僕がジャック・ヴァシェに会いにいくって言って、そしたら「そういう言葉は…… 」ええとなんだったっけ…… 

光田:「いかがなものか」って(笑)。

ヨシダ:そうそう、だってジャック・ヴァシェなんて読めっこないもの、『戦時の手紙』なんて。僕フランス人に見せたけど「読めない」って言ってました。

光田:江原さんと仲良かったということですか。

ヨシダ:江原とはすごく仲良かった。ダダの連中はみな江原についていってましたよ。だから江原の著書は『私のダダ』(注:江原順『私のダダ:戦後芸術の座標』、弘文堂, 1959)でしょ。

光田:「ネオ・ダダの連中」ということでしょうか。

ヨシダ:運動体としてのネオ・ダダに荷担しているのは針生一郎です。でもそれを論理というか観念として出したのは江原順だと僕は思いますね。江原は仏文ですから、針生一郎は仏文はたいして読めないでしょ。

光田:そうですか、先生は(ネオ・)ダダを通じて江原さんと仲が良かったんですね。

ヨシダ:それも一つです、(ネオ・)ダダの連中とつきあったのは。江原と僕が結びついてたから。江原は僕の女房にキスするような男でしたから、それがまた僕は面白かったんです。「やりやがった」ってね(笑)。

中嶋:奥様とはどこでお知り合いになったのですか。

ヨシダ:前進座です。浅利陽子とか僕の女房はみな舞台芸術学院出身です、北落合の。

光田:「舞芸」ですね。

ヨシダ:そう、それで池袋の舞芸から、あの頃は共産党の支配下にあったから文工隊(文化工作隊)で、演技のシステムはスタニフラフスキー・システムです。ということはレアリズムですね。

光田:つまり共産党のために…… 

ヨシダ:そうね、だから(河原崎)長十郎が言ったんです。「浅利陽子は階級闘争についていけなかった」って。それで僕は「ナンセンス!」って叫んで飛び出しちゃった。それで前進座の女優だった女房を連れて(笑)。僕が持ってきたのは箒一本です。それで家もない、金もない、それで墓守しながら箒一本で生活した。それでサンドイッチマンやりながら、この本(詩画集『ぶるる』)を出した。だからもう滅茶苦茶。前進座は入り口に事務所があって、そこは共産党の党から直属のオルガナイザーになってました。それが出入りを全部チェックします。当時の前進座は全員が共産党員ですから、長十郎から菊五郎から全部共産党員です。全員火焔瓶作ってたもん(笑)。だけど伝統的な劇団ですから、芸はしっかりしている。芸は厳しかった。あれをみていたから陽子はびびっちゃったんだね。できないし。それは陽子がいくらやったって歌舞伎なんかできっこない。スタニフラフスキー・システムだったら舞台芸術ですから、「あなたとわたしという人物が密かに話している」という設定だったとしても客席に向かって大きな声で「これは秘密だけどな」って言えるじゃないですか。そんなことは歌舞伎には出来ない。そういうレアリズムは歌舞伎にはない。全部一種のシンボリズムですから。だからそれも「矢口渡」っていう歌舞伎十八番にのっている有名な歌舞伎で、そのときのお船という女を浅利陽子はやらなければならなかった。主役ですよ。そんなのできっこない。だって発声方法からなにから、映画のレアリズムと舞台のレアリズムと歌舞伎のレアリズムではまるで違う。映画はこのまま自然に撮ればいいし、ささやくためにはただ近づいて行って静かに囁けばいい。舞台だったら(声を大きくして)「内緒だけどなあ!」と叫ぶ。

中嶋:芝居もご自身でもやっていらしたんですか。

ヨシダ:芝居は僕も一回だけ。シェイクスピアの「十二夜」で主役の神父をやりました。僕はラテン語ができるんですよ。洗礼も受けている。

中嶋:キリスト者でいらっしゃるんですか。

ヨシダ:それはね、僕は十代のときにフランス文学に夢中でしたから、フランス・サンボリストね。ボードレールだってランボーだって全部聖体を受けています。だからフランス文学をやるんだったらバプテスマを受けなければできないって思って、それで神父さんに頼んでバプテスマを受けた。僕は19くらいのときに初聖体を受けています。ここにランボーと同じにリボンを付けた写真が残っています。それを僕は大事に持っています。ボードレールも完全なクリスチャンですからね。

中嶋:おうちの方もクリスチャンでいらっしゃるんですか。

ヨシダ:いやいや、うちは古い仏教です。古いっていうのはおかしけれど、昔から仏教ですね。観音経です。

中嶋:名家でいらっしゃるんですよね。

ヨシダ:ええ、池上の本願寺が僕のうちの墓です。それで僕のうちの墓の隣が加納泰明の墓です。

光田:では先生、MACJ(注:Modern Art Center of Japan、1965年よりヨシダ・ヨシエ氏主宰)の成り立ちのいきさつというか目的のお話を。

ヨシダ:これは難しいけれど…… とにかく60年代は「行為」の時代です。そういった行為にとことんまでつきあってみないと。そしたら、名前は明らかにしませんがKという男が「画廊をやりたい」と僕のところに来た。それで、そこに行ったらたくさん封筒があったので、僕は宛名書きを、美術年鑑か何かを見ながら何百通も書いて、投函したんです。そうしたらある画廊の女の人から手紙が来ていて、「吉田さんを見直した」と書いている。彼女は「絵描きからお金を取ってる」って言うんですね。それであの(手紙の)中身は金を拠金するための手紙だったって後からわかった。

光田:寄付を募るようなものだったんですね。

ヨシダ:僕のやり方はある意味滅茶苦茶ですから、お金儲けなんか全然考えないで、あるシチュエーションで色々なことが起こるようにするだけですから、朝から晩までハプニングだらけです。お金がなくて潰れそうになって、そうしたら「ヨシダくん、これじゃだめだ」ってその人(Kという人物)が言った。もう一回お金を集めるべきだ、と。それには「断る」って言った。「絵描きからお金を集めるんだったら断る」と。そしたら僕の家にきて「ヨシダには女がいる」と言い始めた。そこで仕事をしていた辻村という女性ですけれども、「辻村と仲が良いだろう」って僕の女房にわざわざ報告に行ったんですね。そこまでされてお金を集めるっていうんだったら絶対に断る、二度と金集めはしないって言ったんです。そしたらそれだったら契約違反だっていう。契約なんてしてないし、契約書もない。僕は、僕の考え方でここに関わっていたんだっていう言い方をしたんですけれども、それでもう爆発して、目白でそいつをぶん殴っちゃったんです。大きい奴で、線路に転がっちゃったんですよ。死なないでよかったけれど。その男がある3人で展覧会をやっていたんです。あるグループの名前を作って。その男と一番親しいのは、ある抽象画を描いている、SならSという男です。それで僕はその辻村という女が新宿のバーで働いていたから、そのバーでよく飲んでいた。そしたら栗田勇が入ってきて、中原佑介と一緒に。中原はいつものようにニヤニヤ笑ってるだけで、はっきりしない。そしたらヨシダの女がやってるバーっていうから来てやったよ、って言うんです。「なんですか」って言ったら、「おまえ悪いことしたな」って言う。とたんに気づきました。栗田勇が応援しているのが、そのSという画家だっていうことをね。栗田に奴が話したんだと思いました。その場で栗田勇が僕に酒をぶっかけました。それで僕は我慢できなかったけれど、栗田勇を殴るわけにもいかないし、僕は尊敬していましたから。そしたら翌日どこかの劇場で栗田勇の演劇がありました。それで僕は駆けつけたんですが、栗田が奧から出てきて「昨日は悪いことしたな」って言いました。それで「気にしてないよ」って無理していっちゃったんです。それでMACJは半年で解体しました。

光田:場所は目白のどの辺にあったのですか。

ヨシダ:目白の駅前。駅降りるとその前が紫山会館、盆景の会社です。盆景っていうのは、こういうお皿の中に土盛りをして砂を盛って松を植えたりする、箱庭ですね。それを盆景という。その盆景会館です。だからもう最初から派が会わないんですけれど、そんなところで毎日赤い派が集まって朝から晩まで集まって朝から焼酎飲んで大討論しているんですから。

光田:では最初は画廊という話だったのが、ヨシダ先生がキュレーションすることになってパフォーマンスの場所になった。

ヨシダ:それでね、“Modern Art Center of Japan”という名前を付けたのは私です。“Modern”というのは僕はいささか抵抗がありましたけれど、「現代」というのは“Modern”ですからそれでいいだろうと。“Contemporary Art”とはそれこそ当時は言わなかったから。それで“Modern Art Center of Japan”、略してMACJ。それは僕がやりました。それは事実です。半年でパーっと消えちゃった。

光田:(MACJの)オープニングは志賀健蔵さんで、合田佐和子さんもやっていらした。

ヨシダ:ああ、(オープニングの展覧会は)100人です。僕はその頃美術雑誌に書いていますけれど、絵描きにとって一番大切なのは「欲望」だと。欲望が一番大事だと。それで「今日の欲望100点」っていう展覧会なんです。今日の画家たちの一番大事な欲望がどう出ているか、という僕自身の論理です。

光田:それで100人出していたということですか。

ヨシダ:ええ、だから志賀健蔵も出していたとは思いますが、全部で100人いました。それで中では最初から「おまえなんでこんなところに選ばれたんだ」とか内ゲバがあったりして、酷いオープニングでした。殴り合いがあったりね。

光田:でも池田龍雄先生の中を見たりする作品があったりとか。

ヨシダ:あれは『宝石』という雑誌にも掲載されて。『宝石』で言えば、死んだ吉岡康弘は、大変なプレイボーイでしたけれど、吉岡康弘は当時講談社の『現代』にグラビアがあったんですね。それを乗っ取ってModern Art Centerに入り浸りでした。そこから唐十郎も土方巽も出ました。全部Modern Art Center of Japanです。そこから暗黒舞踏も出たんです。だから本当はあれは大事なことだったのではないかなと今では思いますが。

光田:「そこから出た」というのはつまり先生がご紹介されたということですよね。

ヨシダ:でもそれを壊しちゃったのは自分ですから。

光田:とはいえ、そこではゼロ次元の方や風倉(匠)さんや、暗黒舞踏の土方さん…… 

ヨシダ:ええ、土方さん、小林(嵯峨)、それから政治で言えば日本赤軍になった連中ですね。足立正生とか。

光田:足立さんがMACJで何をなさっていたんですか。

ヨシダ:映画会です。パレスチナの映画。それだけでも警察に目を付けられていましたから。それで今度はパレスチナ。僕はパレスチナに行ったんです。その目的は内ゲバを止めさせること。それしかないと思ったから。あそこにPLOがおりましてね、僕はアラファトにも会いました。アラファトと抱き合ってる写真が『月刊ギャラリー』に載ったことがあります。僕はパレスチナ問題ってよくわからなかったんですね。あれはイスラエルがパレスチナの土地に潜入して起きた出来事だということを認識するまでに時間がかかりました。あの頃僕はイスラエルの味方でしたから。あの前の戦争でユダヤ問題があって、ユダヤ人たちはたくさん殺されたじゃないですか。だからそんなユダヤ人たちがパレスチナ人を追い出したりするなんてあり得ないと単純に考えた。事態はもっと複雑ですよ。それで、そこでパーティをやったんですが、そこで美女のアラブ人の画家が手紙持ってきて「ラブレターだ」って言うんですよ。それで「え?」と思って開けてみたら日本語じゃないですか。そしたら赤軍(からの手紙)です。ヨシダ・ヨシエが空港を通過したってもうチェックしてある。それで「明日午前中どこどこというカフェへ行け、そこの何番目の席に座れ、そうしたらそこにアメリカ人が新聞を読んでいる、そのアメリカ人が新聞を置いて直ちに出ると、その後を付けろと。そうするとアメリカ人があるバーに入るから、そこにドイツ人がいる。そのドイツ人がドイツ語の雑誌を見ている。その男に付け、そしたら僕たちに会える」とか書いてある。まるで探偵小説ですよ。それで僕行っちゃったんですね。

光田:先生一人で行かれたんですか、パレスチナは。

ヨシダ:いやいや、10人ぐらい。

光田:それはMACJのメンバーで。

ヨシダ:いやそれは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議が母体で行ったんです。パレスチナ行ったら、僕が考えていたのと違ったよ。パレスチナの病院に行きましたら、小さな子供が眼をつぶされている、腕が鋸で切れられている、足もない。それを全部イスラエルがやったっていうことに気付かされたとき、僕はもう許せないと思った。だから赤軍の味方になりました。だって浅間山荘とは違うんです。Japan Red Armyっていうのは全然違うんです。国際的な組織で、みんなペラペラに英語しゃべりますし、そこでパレスチナ問題を討論していました。そういうエリート集団です。そういう連中が本気になって革命をやる気なんだと僕は信じていましたから、当時は。それでその連中に会いにいった。それで革共同と革マルの関係、それは革マルが一番最初に革共同の議長の本多(嘉)君というのを殺しちゃったんです。そこから互いに殺し合いが始まって、延々と。それで僕の(パレスチナでの赤軍メンバーとの会談のときの)話はそこら辺からはじまりまして、「あれを止めさせろ」と。「内ゲバをやれば笑っているのは権力だけだ。権力が出るまでもなく仲間同士で殺し合っている。そんな馬鹿なことでは革命できない」と言ったんですが、断られました。「ヨシダくんは甘い」と。「中核がどんな暴力集団が君は知らない」と言う。そこまで僕は、革命の味方を出来るところまでしようと思っていたんです。

光田:コミューンのお話についてもう少しお聞きしたいんですが、先生にとってコミューンというものが松澤さんと関係あるということはわかったんですが、先生にとってコミューンというのが戦争とか政治運動とか、MACJとか色々なことと関係がありそうな気がして。

ヨシダ:「共同体」を作らなきゃと思ってた。当時共同体を唯一やっていたのはヒッピーだけでした。それはあちこちにありました。アメリカにもうウジャウジャあって、ニューヨークあたりにもヒッピー・コミューンがいっぱいあった。そういうところでは奥さんは旦那だけと関係を結ぶわけではないんです。誰の女性でもいいんです。男と女が出会えば、というのを徹底していたのが当時のアメリカのヒッピーやり方ですね。ヒッピーというのは既に政治化しているわけですから、政治的な集団ですね。ヒッピーの時にはそういうコミューンがアメリカ、ニューヨークなんかにだいぶあったみたいね。僕はそこに行ったわけではないのでよくはわかりませんが、そういう時代でもあったわけです。

光田:しかし先生はそういうことを目指しておられたわけではなかった…… 

ヨシダ:食べ物なんかも三人で食べると、自分ともう一人の友人と友人の愛人と、という三人で食事をするというそういう関係ですね。そういうことが平気でされていた時代があるのです。あの時代は今思うと天国みたいだな。

光田:先生がおっしゃるコミューンというのはそういう家族的なものではないですよね。

ヨシダ:そう、もっと観念的なものです。

光田:それはアングラワールドとかそういうことと関係するのですか。

ヨシダ:いや、その「観念」自体は人類滅亡です。滅亡しなきゃ、こういうシヴィリゼイションを続けていけば人間が滅びる、と。2020年には滅びる、というのが松澤宥の教条です。それで「人類を消滅しよう、羯諦羯諦」というのが、謳い文句です。しかし僕がそこに関わっているのは、「プサイ」という観念論です。そこのところが超感覚ですから、超感覚を論理のもとに置くのはちょっとやばいんじゃないかという感じ方がありました。松澤宥には最後までつきあいましたよ。

光田:松澤さんは物質を消せということで、作品を作るというよりは観念の物質を超えた世界みたいなことを…… 

ヨシダ:彼の家に行きますと、「プサイの部屋」というものがあります。(そこにあるのは)廃品だけです。(テーブルの上のものを指さしながら)それもこんなものとかこんなものまで。物質としてそれが滅びかけているようなものがズラーッと並べられていました。

中嶋:物質的な消滅と人類滅亡っていうことの関係は。

ヨシダ:だって人類ですもの、シヴィライゼイションは。文化ではないですから。今の時代はこれがすごく明らかになっている。文明があったから世界がこんな風になってしまっている。

光田:私の想像では、先生は、九州派なら九州派の方々ともコンタクトをとられているように、色々な集団とコンタクトをとられている中で、精神的な共同体のようなものをアナーキーな感じで作られていかれようとしていたという風に思っていたんですけれども、そういうこととは違うんですか。

ヨシダ:それに近いんじゃないですか。だって共同体なんてできっこないもの。

光田:できっこないっていうことで思っていらしたんですか。できっこないって言いながら、先生全国行脚して色々なところで人と人を結びつけていらっしゃいますよね。

ヨシダ:松澤宥のところで寝泊まりしていたよ。それでまた瀧口修造の話に戻るけれど、それで松澤宥に異常な関心を持っていたのが瀧口修造ですよ。

光田:そうですね。あれは詩人としてでしょうかね。

ヨシダ:そうやって(物資を消滅させようと)主張しているんだから、絵は描きませんよ。絵を描くなんてとんでもないことなんだ、と松澤さんは思ってますから。でも瀧口先生の家には松澤さんが一点だけ描いた「プサイ」の絵が掛かっていましたよ。

光田:瀧口はすごく松澤さんに興味があったけれど、あまり書いていないんですよね。

ヨシダ:松澤宥論というのは書いたことはないんじゃないですか。

光田:松澤宥論というものはないです。「音会」に文章を寄せたりとか、それぐらいで。どうしてでしょうかね。すごく興味を持っていらしたんですよね。

ヨシダ:さっきのデシネの話の「書く」ことと「描く」ことのことかな。

光田:それに関係がありそうですね。

ヨシダ:松澤宥は青木画廊で展覧会やってたんです。その青木画廊にしょっちゅう来ていましたよ、瀧口修造が。青木画廊はたいてい瀧口好みのことをやっていますからね。

光田:そうですよね、シュルレアリスム的な。

ヨシダ:幻想画が多いから、ファンタスティックな。

光田:九州派については、先生はかなりつきあっておられましたが、どう思っていらしたのでしょうか。

ヨシダ:九州派についてはややノーコメントです。

中嶋:「やや」ノーコメントなんですか。

ヨシダ:一番印象的なのは、60年代だったかな「英雄たちの大集会」というのがあった(注: 1962年12月博多湾百道海水浴場にて開催)。それで九州の連中が大暴れするっていうんで、僕とか刀根とかが、そこにハプニングを持ち込もうって、九州までいったんですよ。そしたら九州派の桜井孝身いう暴れ者がいまして、それで駅まで僕らを迎えに来て、「よし、九州まで来たのか、これから飲もう」って。それが最初の台詞でした。それで飲んだ、飲んだ。桜井はガバガバなんです。それで飲んで暴れるんです。それで仏壇みたいな塔をぶっ壊して、火付けて、そこのなかを走り回るとか。「これはダメだ」、と思った(笑)。それで僕は何をやったかというと、そこは海岸でしたから更衣所がありますね、冬でも。そこを一人でずっと「掃除」していた。階段を全部掃除した。それだけです僕が(作品として)出したのは。

中嶋:それは九州派の方々とはそれほどそりが合わなかったということでしょうか。

ヨシダ:田部(光子)君が「感動した」って言ってたけどね。感動することじゃない。ただの掃除じゃない(笑)。階段を雑巾で全部拭きました。外では火を燃やしてドンパチやっているんです。

中嶋:そう聞いているとハプニングが「飲んで暴れる」という印象にどうしてもなるんですが…… 

ヨシダ:篠原なんてそうですね。あれは地方のコンプレックスですね、一部は。まず東京を乗っ取る。それが九州派のメッセージですね。そういうコンプレックスが……  まず、コンプレックスっていうのは、“inferiority complex”ではなくて、“com”が英語では“togetherness“、つまり“community”でも“company”でもそうですけれど、なので、comがついたら「一緒にやろう」という意味でしょう。それから“plex”というのは「縫う」こと。「一緒に縫いましょう」と、そういうコンプレックスね。“Inferiority complex”というと「劣等感」という意味になってしまいますが。だからそういう意味でコンプレックスという言葉を使ったんだ。ない交ぜになった感情です。
 今こういう風に話している間でも、お互いの想像力の中ではものすごいコンプレックスが働いていて、どこかで糸がほどけて自分と合ったりとか、そういうところがコンプレックス。

光田:それでは先生はハイレッド・センターとかはどうお考えですか。

ヨシダ:あれは都会的ですっきりしています。

光田:ずいぶ都市的ですよね。

ヨシダ:所謂「ハプニング」という感じ。中西君が観念的な男ですから。

光田:そうですね、政治的でもありますね。

ヨシダ:だから他の連中と違って、ネオ・ダダみたいなところはなかったです。

光田:ネオ・ダダに関しては先生はちょっと批判的だったかもしれないですね。

ヨシダ:僕はね。僕は哲学者でもなんでもないんだけど、「松澤宥」というコンセプトに出会ってから、そういうことをうんと綿密にしなきゃと。(そういうこととは)「仮定」ですね。英語で言う「ハイポセシス」。仮定があって、それから世界を見るという。その仮定とは「人類を滅亡させよう」というハイポセシスですね。だからそういうところに僕は強く惹かれたように思います。今思えばね。

光田:では先生はグループの中ではハイレッド・センターが比較的評価が高そうですね。

ヨシダ:うん、赤瀬川と、特に中西夏之がね。性格が合ったし。

光田:なるほど、そうですか。それじゃ高松次郎さんはちょっと違うんですね。

ヨシダ:いや、高松次郎もかなり観念的な男ですから。不可算主義者としては観念主義って一番否定的なものなんですけれど。そこに僕は惹かれているんですよ。「コギト・エルゴ・スム」ですよ。だから自分が観念を発生しなければ世の中何もないですから。

中嶋:その観念ということと、ずっと志していられた「行為」ということはどういう関係にあるんでしょうか。

光田:普通は離れますよね。

ヨシダ:共産主義者たちは観念主義者たちをことごとく敵視して、「観念的である」という言い方をして批判した。

光田:でも先生はそうではなくて。

ヨシダ:僕のほうは入り口が逆の方からだった。戦前から続いていたそういう二叉の世界をぶっ壊さなきゃ。そのためにはバイオレンスも必要かもしれない、というのはあるんですね。ところがそこから僕の場合、それが曖昧で。ただ火つけてぶっ壊すだけじゃ物足りないですね。その火を付けて祭壇にぶっ壊すということをやっていたのが、九州派の大山(右一)や桜井孝身だと僕は思ってる。

光田:でも先生は、火付けて走り回っているときは、やはり「掃除」したくなるという(笑)。

ヨシダ:そう(笑)。冷静でね。そんなことやっていたって、何も壊れていないもん。壊れたのは、石が仮に積み上げられた塔だけです。内部的には何一つ壊れていない。というのが僕の中にあっただろうということになっています。

光田:それではハイレッド・センターは、先生にとってはある程度評価できるということですね。

ヨシダ:実際(活動を)見ていてね。内科画廊でのハプニングから電車の中のハプニングから全部立ち会っているんですよ。

光田:ご覧になっているんですね。

ヨシダ:内科画廊でね、内科画廊にあるもの全部を2階(注:正しくは3階)にあるものを全て下に投げ捨てるというイベントがありましたけれど、そういうのも。表に行くと「画廊開廊中」ってメモが貼ってあるんです。それで中に入ると、中にあるものを全部外に放り投げているそこにこねくり回した油絵なんて置く必要ないじゃないですか。僕も当時かなり極端に行ってたからね。
(注:ハイレッド・センター主催、「第6次ミキサー計画─物品贈呈式」、新橋・宮田内科診療所、1963年、あるいは一日目インタヴューでの言及と同様、お茶の水池坊開館で行われた「ドロッピング・イベント」のことを指している可能性もある「第6次ミキサー計画─物品贈呈式」だった場合、実際「投げられた」のは赤瀬川原平氏の梱包作品と思われる。「新橋の洗濯バサミ[第6次ミキサー計画]」『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録』PARCO出版、1984年参照)。

光田:先生はやはり靉光の「眼」を読み取るということと、松澤宥さんの「プサイ」を批判的にせよ取り上げたということが…。

ヨシダ:それじゃ論理にならないって言われるかもしれないけれど、僕の中では、靉光も小山田二郎も瀧口修造も一緒なんです。全く同じことをやっている。

光田:そこで「観念」と「行為」ということがあると思うんですけれども、MACJでは先生は「行為」の方に力を置いた運営をなさろうとしたわけですね。

ヨシダ:今日の会談の一番最初に言ったことは、ラウシェンバーグでしたね。ラウシェンバーグがやったのは要するに、「コンバイン」という言葉を使っていましたけれど、「コンバイン」とは何かと考えると、「アクション」ではなくて「コンバイン・ペインティングだ」僕は一番最初にここで言った。そのときに、絵を描く行為というのが問われているんだ、と僕だったら考えるわけですね。

光田:なるほどそうですね。ということは絵とかハプニングを区別することすらナンセンスだということになりますね。

ヨシダ:僕は「行為」の方ばっかり見過ぎたという自己反省があります。ラウシェンバーグは、「ここにあるこれ」を貼り付けてるだけですから。絵を描くということ自体が(貼り付ける)という行為になっているわけですから、行為を取り出すわけにはいきません。だからマース・カニングハムと繋がったんですね。そして、そういう行為だらけのところに必要とされていたのが、刀根や小杉のような理論家だったのではないか、という、今日はそういう話で始まっていたわけです。

光田:では先生にとって美術批評というのは、本来はそういった理論化、理論的なことが必要だというお考えがあったわけですか。

ヨシダ:それで私は中原佑介さんの批判が応えることができるか、ということなんです。僕は中原氏を尊敬しているから中原氏の批判が怖かった。あの『美術批評』の批評は破いて捨てちゃったもん。こんなラブレターを書くものか。僕はアパシーにはなれない。僕はシンパシーを感じるところでしか書けない。僕はアパシーでは批評は書けない。だから愛してから批評を書きます。世の中にはそれがなけりゃいけない、アパシーか、シンパシー論かという話をしてくれたのが中原です。
彼は共通一次(試験)で一番だったんですよ。そのとき湯川(秀樹)さんが「君は理論物理学をやれ」っていったのに僕は美術批評をやっているって。湯川さんが「ノーベル賞の候補は君しかいない」って言ったって。それぐらい理論的にやる、だから「ヨシダ君はシンパシーだけだからダメだ」っていうのはそこから来てる。僕はシンパサイズ。応援団長です。応援団長っていうのは醜いの(笑)。

中嶋:ヨシダ先生のお仕事は「応援」だという感じが確かにします。

ヨシダ:田中幸人もそう言ってます。名も知れない画家たちの伴走者だと。伴走者というのは、側で旗振って「頑張れ頑張れ!ゴールはそこだ」って言ってるんです(笑)。だからその辺は内心忸怩たるものがある。ものすごい親近感を持たないと。
(注:インタビュー冒頭では「伴走者」と呼んだのは田中三蔵だと述べている)

光田:まず愛してからでないと批評できないわけですから、愛している作家はたくさんいたとしても、中原先生的な批評はできないというわけですよね。でもヨシダ先生には、歴史意識がすごくあると思うのですね。敗戦というか敗戦を中心として考える先生の歴史観というか。それは中原先生とは違う点です。

ヨシダ:今日を選んだのも12月8日だから。「晩餐会」の日も8月5日だから今日ですね。

光田:やはり戦後美術では敗戦ということが重要だということを教えてくださるのはヨシダ先生の文章だと思います。

ヨシダ:だってアプレ・ゲールですから。僕は昭和4年の生まれです。昭和4年というのは八つ上がりで小学校だから。小学校行ったとき日中戦争が始まった。日本が盧溝橋で侵略戦争を始めた年です。それで中学1年のとき、日本は「西海岸において戦闘状態に入れんとす」とあった。12月8日です。

光田:憶えていらっしゃいますか。

ヨシダ:うん、ラジオ聞いたもの。何度も。それだから親父に「おまえは日本男児なんだからお国のために忠節を尽くして、立派な兵隊になって死ね」と言われましたから。正座して聞きました。そのことはいくつか書いています。僕がなんとなく気に入ってた女の子が空襲で死んだこともちゃんと書いています。『全仕事』(注:ヨシダ・ヨシエ『ヨシダ・ヨシエ全仕事―The corpus of Yoshida Yoshie’s critical essays on art』、芸術書院、2006年)にも載っているはずです。

光田:ところで、先生の「暗血万博絢火焔図」という文章を読んだのですが、万博の頃先生が書かれた万博反対の文章でした。(注:『映画評論』1969年6月号)

ヨシダ:唐十郎の「新宿見たけりゃ今見ておきゃれやがて新宿原になる」というのにヒントを得まして、「万博見たけりゃ今見ておきゃれやがて地球が燃え落ちる」と書いた。それでそのビラを刷りまして、会場で一人で撒いた。よく警察に捕まんなかったなって思うよ。

光田:どこの会場ですか?

ヨシダ:万博会場で。

光田:そうなんですか。撒いたんですか。

ヨシダ:よく警察に捕まらなかったなって思うよ。何々館、何々館ってありましたけどね、そこに一つずつ束にして、全会場に置きましたよ。「新宿見たけりゃ今見ておきゃれ今に新宿原になる」という風に唐十郎が歌ったのを、それを僕が真似た。「万博見たけりゃ今見ておきゃれ今に地球が燃え落ちる」という風に行ったわけです。

光田:すごく良い文章で、文明の進展とは逆の、民族のどろどろした部分を全部出さなければならないというそういう文章でしたね。

ヨシダ:そんなこと言うから中原に叱られる(笑)。

光田:でもそれが、すごく面白かった。針生先生の反対論は、「国家のためにアーティストが参加するのはけしからん」みたいな傾向なんですけれど、先生のはもっと別の角度の反対論だったんですね。

ヨシダ:要するに非常に体験主義的ですからね。

光田:重要な体験をされていますからね。

ヨシダ:湘南中学(現在の神奈川県立湘南高校)っていう僕らが一番行った学校はね、海兵が一番出た学校なんです。海兵と言えば湘南ていう。だから白百合の女の子がうっとりしちゃう。海兵って一番格好いいんだ。陸軍は敬礼は斜め45度じゃなければならないんだけれど、海軍はこれ(ちょっと腕を上げる動作をして)でいいの。艦内ですから、これ(陸軍の敬礼)をすると人にあたっちゃうの。だからこれでいいの。それが格好良い。

光田:今思い出したことがあるんですが、サトウ画廊がオープニングのときに、瀬木慎一先生が靉光の展覧会をやったということを聞いたことがあるのですが(注:「靉光展」、サトウ画廊、1955年)先生はそれをご覧になっていますか。

ヨシダ:ええ、やっています。あと宮川寅雄が一橋大でも靉光の展覧会やっています(注:「靉光展」、1959年10月、一橋大学美術部主催、於一橋大学)。サトウ画廊は大変な画廊でした。朝から酒飲んで大討論なんてしょっちゅうです。殴り合いもありました。それぐらいみんな真剣だった。今はもうそう気運ないの。今は画廊行ったってサロン的です。画廊で本音で喧嘩するなんて今あり得ないね。今喧嘩をみても本当にはしてない、みんな。

光田:先生の吉仲太造論も素晴らしいと思いますね(注:吉仲はサトウ画廊の常連作家の一人)。

ヨシダ:吉仲太造は鬱でしたからね。暗い顔してものすごい飲み方。緩慢な自殺ですよ、どう見ても。自分から自分の体を滅茶苦茶にして死んでいきました。朝起きたら倒れた。あの吉仲太造論は、吉仲の妹たちがすごくほめてくれました。兄をこんなに書いてくだすったのはあなただけだ、と言ってくれた。内心忸怩たるものがありますが、吉仲は好きでした。吉仲は今ズラズラ並べた「戦後派」とははっきりと違った自分のハイポセシスの上に乗った作家でしたね。

光田:どんな仮説だったでしょうか。それは吉仲さんがお話になった…… 

ヨシダ:吉仲太造論は自分でも気に入ってます。蛸の話とかね。今の民主党では事業仕分けでほっぽりだされちゃったけれど、日本の文化にだって一番今大事なのはアニメの殿堂を作ることだって思っています。アニメだけですよ。油絵だって未だにアメリカの真似している。しかもアニメや漫画というのは奧にカリカチュアがあってそれは批評精神です。だからフランスで(展覧会)やったけれど、もう大変。ものすごく評判がよかった。フランス人は、漫画を見て日本の文化の有り様を知った、という言い方をしているの。文化の有り様が出ますよ。侍時代があれば、戦後時代があれば、どんな時代だって漫画に出来ますから。シュルレアリスムなんてとっくに越えちゃってる。(注:吉仲太造論においてヨシダ氏は吉仲の絵画のアニメーション的側面を論じている。「吉仲太造を通して『戦後』美術を考える」『修辞と飛翔』、1993年、北宋社、所収)

中嶋:先生は漫画をお好きだと伺ったのですが。

ヨシダ:漫画に出会ったのは全共闘時代。あの頃不思議でしょうがなかったんだけどね、アパートで全共闘の人たちを訪ねていくと、最初は白土三平。それがだんだん熱くなってくるの。それで「こんなに漫画ばっかり読んでいるのか」とね。漫画に対してちょっと引け目みたいなものがありましたから、漫画なんか読んでたんじゃ、みたいな一般的な人の気持ちのようなものがありましたけれど、今はかなりの漫画の蔵書があります。

中嶋:どんなものをお読みですか。

ヨシダ:現代のものを読みます。それも意外かもしれませんけれども、瀧口修造は読まなかったと思いますけどね(笑)。

中嶋:ですが、戦前の文化の中にも漫画が作ったサブカルチャーのようなものがありますよね。例えばエログロナンセンス的なものなど。

ヨシダ:その一人が小野佐世男。世田谷美術館で「モボ・モガ」という展覧会をやったときに(注:正しくは神奈川県立近代美術館。2016年1月31日更新)、小野佐世男がなかったから僕怒ったんです。小野佐世男ですよ、モボ・モガって言ったら。息子は小野耕世、漫画の評論家です。小野耕世と僕親しいんです。2人で話ましてね、それで、あれは世田谷がやりたがらなかったんだね、と。そういうことであれば僕、(小野佐世男展を)やります。

中嶋:するとそれが今のやっていらっしゃるお仕事というか、サブカルチャーへのご関心がわりと強いということでしょうか。

ヨシダ:岡本太郎美術館が(小野佐世男展を)やりたいみたい。絵はあるんです。小野耕世のところに全部。だから作品は何百枚とあります。あれはやっておかなきゃって僕は思いましたね。岡本一平が小野佐世男を大変尊敬していたんですね。で、「小野佐世男だけには負けた」というような言葉さえ言っている。小野佐世男は相当なはったり屋で酔っぱらうとみんなを滅茶苦茶にからかうらしい。インドネシアにも行ってますが、「インドネシアで避けるものは、マラリア、小野佐世男」って兵隊たちが言ってたらしいですよ(笑)。近づかない方がいいらしいって。

中嶋:今日はここまでにして、次回また他のお話を伺いたいと思います。ありがとうございました。