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吉野辰海オーラル・ヒストリー 2018年2月21日

「吉野辰海新作展」開催中のギャラリー58(東京)にて
インタヴュアー:平野到、鏑木あづさ、宮田有香
書き起こし:武石藍
協力:ギャラリー58・長崎裕起子
公開日:2019年3月14日
 
吉野辰海(よしの・たつみ 1940年〜)
美術家
1940年に宮城県南部に生まれ、高校生まで過ごす。上京後、武蔵野美術大学在学中の1960年に前衛芸術家グループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加し、作品を発表。1966年に村松画廊(東京)にて初個展。1970年代より犬のモチーフが登場し、立体を中心に独自な視点・世界観を作品化し続けている。当オーラル・ヒストリーではインタヴュアーに「吉野辰海 犬の行方」展(2012年)を企画した埼玉県立近代美術館学芸員・平野到氏を迎え、1回目は新作展を開催中のギャラリー58<http://blog.gallery-58.com/?eid=1062982>(参照2019.03.12)にて、制作活動の源となる幼少期から「ネオ・ダダ」参加までを、宮城県下の当時の美術動向に触れながら語って頂いた。

書き起こしに関して:インタヴュー後日、吉野さんからお話された内容についての詳細なメモをお送り頂いた。一部[ ]付きで補足をした。

宮田:事前にインタヴューの質問表をお送りさせていただいたんですが、2012年の平野さんが企画された個展(「吉野辰海 犬の行方」埼玉県立近代美術館、2月11日-3月25日)のカタログを元に、質問表を作らせていただいたので、重複する内容もあるかと思いますが、あらためて伺わせて下さい。

吉野:はい、わかりました。

宮田:では、お生まれからお伺いしたいんですが、1940年1月22日に宮城県の船岡村。

吉野:船岡村です、はい。

宮田:現在の柴田町ですか。

吉野:そうですね。柴田郡ですね、そこ(カタログの年譜)に書いてある。柴田郡柴田町、今はそういう町になってます。3万5千人から3万7千人位になってる町だろうと思いますけどね。

宮田:お生まれになった日のことを、ご家族からどのように聞いたことがありますか。

吉野:いや、あのね、聞いてません。僕はその船岡村ってところのね、新小路っていうところで生まれまして。大寒の中で、お母さんが運動しながら、暖まりながら産んだって感じなんです。
船岡村はその何年か前に、帝国海軍の海軍火薬廠ってとこで弾薬を製造するところが始まって、そこで働く労働者、それから軍人だとかがどんどん入り込んできて、それで(昭和)16年に町になるんです。その当時は船岡村で、どんどんどんどんよその人間が多く入り込んできて、その辺の小っちゃい町や村よりか、外からの情報がちょっと多くなっていった小っちゃな村だった。村っていうのはまあ皆さんご存知だと思うけども、山本周五郎が『樅の木は残った』っていう小説を書いたと思いますが、それまで歌舞伎なんかで悪人として扱われていた、原田甲斐が住んでいた場所。伊達藩の人臣ですね。ただそれは、舘(たて)、お城じゃなくてね。まあ周辺にちょっと重要なお城もあって、原田甲斐は舘山っていうところを出城みたいなかたちで、平地に屋敷がありました。それで例の伊達騒動で原田甲斐と足軽よりちょっと身分が高いのは、みんな切腹になったんです。村が一回、何て言うんだろうな、閉門みたいなカパッて(無く)なる。それから、柴田ってこの柴田町になって。柴田さんっていうのがね、仙台の北というか宮城県の北の方からそこに移ってきて、そこを住まいにして、それから歴史が続いてるってことです。
で、多分ね、うちも、まあ一番身分の低い、足軽の感じのね。まあ吉野っていう名前でね、多分宮城県の南部の方に吉野っていう名前がほんの数家族っていうかな、うちの親戚ぐらいしかいないんで。ただあの吉野作造だとかそういう名前が、北の方の名前で、政宗が仙台の北の方に、まず山形、米沢から移ってきて、あの辺でちょっと力を蓄えたりするので。仙台に、居城というかそこに城を造って治めだしたっていう、伊達藩の歴史があるんですけれども。まあだから、そこの船岡村のほとんど地生えの感じで、家族は続いてきたっていうことですね。

宮田:一番幼い時の記憶って何ですか。

吉野:まあ幼いっていうか、それは1歳2歳はありませんけども、最初の記憶は、妹が生まれた3歳の時の記憶かな。妹が生まれた、自分にとっちゃ一大事のことだったんだろうと思うんでね。お袋のお姉さんの叔母さんだとかが来て、それで盥だとか何か、台所でお湯を沸かしてるようなことを、微かに記憶してますね。僕が生まれてから最初の記憶、後で残った記憶っていうのはそれかなと思いますね。

平野:初台にいらっしゃるのはその(妹さん)。

吉野:初台にいるのは敗戦間際に生まれた、その下の妹。

宮田:ご兄弟は妹さんがお2人なんですか。

吉野:9人兄弟です。

宮田:そうなんですね、すごい!

吉野:いや、戦前はね、多く生んだ奴の方が勝ちってのが、10人以上かな。多分銀杯か金杯をもらえたと思うんでね。それで努力したんじゃないかって。一番上の姉が大正14年生まれなんですけども、それから女が5人続けて生まれてきて、親父もちょっとほとほとあれして、まあ当時としてはやっぱり男の子が早めに生まれてほしいっていうのがあったんだろうと思うんでね。それで6番目に、昭和12年に兄が生まれて、それから15年に僕が生まれたんですね。

鏑木:そうすると、吉野さんは何人目になるんですか。

吉野:7番目です僕は。第2子の女のお姉さんが昭和3年の早生まれ。僕とはね、ちょうど12歳、一回り違いってことですよね。

鏑木:大家族ですね。

吉野:そうですね。それと、まあ商売が商売だったんで、お手伝いだとかいろいろいてね。あ、僕が1歳になる前にね、生まれた新小路から今の住所、土手内っていうところに家を造って、親父の仕事の(吉野組の)事務所、それから貸家みたいのを作ったりね。その辺が白石川という川が蛇行してたところ。大正時代に河川工事で河川を直して、新開地なんですね。その小っちゃな村でも新開地なんです。農家みたいなことをやってるのは2軒位あったかなあ。古くから住んでる人達で、その後、みんなそこに住みだした。だから川の近所で、そこに対岸に渡る橋、大橋っていうのがあって。僕はもう3歳位から、土手と川が1年中の遊び場所、というかな。白石川、阿武隈川の支流ですけどね、一番下の支流ですけども、きれいな川でね、魚がいっぱいいてきれいな堰堤で、夜になるとチョロチョロチョロチョロ、小っちゃいウナギが上ってきたりね。堰堤の下に、鮎がびょんびょんびょんびょんいるところで、子どもでも手ぬぐいで2人で、鮎を採ったり、カジカをすくったりできるようなところで。それは恵まれた水との付き合いを子どもの時に、まあ、小学時代まではそうだったんですね。

宮田:今、お父様の話が少し出ましたが、どんなお仕事をされてたんですか。

吉野:土建業です。その頃で言うと、海軍火薬廠にかかわる。僕が生まれた翌年には太平洋戦争が(始まって)、第二次大戦になったんですけども、その時、中国ではもう戦火が急だったんだろうと思う。まだ駘蕩とした、それでももう、食糧事情も悪くなっていた頃だと思います。土建業ですからその頃は、かなり調子がいい仕事だったみたいでね。後で僕のバッゲージになる犬[ドイツポインターの「ペス」を猟犬として飼う]だとか、ちょっと余裕があった生活だったんで、親父が仲間を募ってハンティングを遊びにしていた。ちょっとイカしたラッコの毛皮のチョッキだとか。あとコーデュロイ、コール天っていうやつがあるけど、戦前のは絹のコール天で、山に行く。後で、(僕が)東京に出る時に、アーティストはコール天のズボンぐらい穿いてないといけないっていうんで(笑)。(裏の)洋服屋でコール天のジーパンみたいの作ってもらってね、ちょっと格好つけて穿いてましたけど。

宮田:吉野さんが生まれた時はお父様は何歳位だったんですか。

吉野:ええとね、41歳です。母親が39歳かな。

宮田:お父様のお名前は何て言うんですか。

吉野:シズカ、『静かなるドン』の静です。それで、母親が「かつよ」、これは平仮名です。

宮田:お父様はお人柄的には、恐かったですか。

吉野:いや、酒飲んで、ニッコリ笑ってるっていう町の人気者。「ダンポさん、ダンポさん」って言われてね、何かの時に親父が顔を出せば大体丸くおさまる。戦後になってね、何とか組合だってすぐ組合長に据えられるような、ちょっとボス的な存在だったかな。だから別に商売はやってないんだけどね、青果市場ができたらすぐ組合長になったり、漁業組合ができた時も組合長になって。そんな親父でしたね。で、早めに死んだけども。早めにっていうか、65歳で死んだと思います。
あの頃って料亭に納めるために、琵琶湖から稚鮎を持ってきて3月末から4月位に放流して、5月になると、稚鮎の時はまだ本職に介入しないで、組合員が網で試しに何回か採ってその成長具合を見る。その稚鮎の天ぷらって抜群に美味しい。ワカサギよりかもうちょっと大きい感じの、今でも食べたいなって思う天ぷら。
(質問リストの「幼少期の記憶に残る風景について」という質問を見ながら)地域の場所は言ったね。どんな風景かっていうのはね、土手に大正時代、大正7年と12年位かな、植えた桜の木があって、春になると非常にきれいに咲いて、花が散ると自分の家の庭一面が真っ白になる、そういうふうな。夏はその木陰がある。その土手がある川から桜の木を含めて遠望すると、白く雪を被った蔵王連峰が見える。これは本当に小っちゃい時からずっと、やっぱり心に刻まれている風景だと思います。ただ、山っていうのはね、近くに行くとまた全然風景が違うし、離れるとまた違うけども。まあ今でも桜の名所みたいなところで、写真に撮られたり、駅のポスターなんかになってる。自分が子どもの時から見ていた風景(のほう)が選ばれてるのを見るとね、ちょうどいいカメラアイのとこで育ったんだなっていう気がしますね。

宮田:お母様はどういうお母様でしたか。

吉野:(父には)うちのおっかさんと結婚する前に、二度、嫁があって、2回逃げ戻ったっていう。うちのばあさんっていうのはかなり神経質なとこがあったらしくてね。あの頃で言うと「嫁いびり」っていうのかな。それ、僕は実際は知らないけども、姉や誰かから聞いて知った。それで3回目がおっかさん。(実家は)距離で言うと3、4キロ位かな、村が違う、韮神っていうところで、今は村田町になってる。農家です。
仙台藩の元々足軽なんていうのはどっかで農地を耕して、何か事があれば二刀だけ、もう刀1本しかない時は1本だけ手挟んで駆けつけるっていうような身分であったんだけれども。親父の前は材木屋だったり。
戊辰戦争の時にね、仙台藩っていうのは徳川方だったんだ。伊達家は終わった時に62万石で伯爵なんですよ。5万石位でも伯爵以上だったかな、多分。はっきりとはわかんない。あれは、新政府がくれた爵位だからね。薩摩と長州がくれた爵位だから、調子のいい奴は金払った奴にどんどん身分をやって、判子を押した奴はみんな取り上げてっていうような感じだったんだろうと思うけど。
うちは本家だったんだけど、北海道、札幌近辺に分家が移って、家業だった材木屋でちゃんと成功したり。それは後でじいさんと親父が北海道を頼って行ったっていうこともあるんだけど。

宮田:おばあさまと、おじいさまも一緒にお住まいだったんですか。

吉野:えっとね、話で聞くとじいさんというのは入り婿なんです。おばあさんが弟と2人きょうだいで、弟が日清戦争かなんかに行って、伊達藩と絡んでくるんだけど、新政府の勝った藩では長男、家督は持っていかないです。ところがね、仙台藩だったからだろうと思うけど、長男がやっぱり戦争に持ってかれて、弟が自分に何かあった場合は姉さんが家督を継いでくれみたいな言い残しをして行ったっていうんでね。弟は死んで、それで嫁さんが頑張っちゃったんだよね。
吉野の墓地に行くと、ちょっといろんな人間を出してる。そろばん軒何とかっていうようなあだ名の付いた和算をやる人間だとか、医者が出たり。その後の話だけども、僕が絵描きになるって言って親父がすごい怒った時ね、親父ため息つくようにして「まあ、うちはたまに変な奴が出るからな」って(笑)。それで親父自身も納得したような感じがありましたけどね。

宮田:もう少し幼い頃のことをお伺いしたいんですけども、ご兄弟の中でよくみんなで遊んでいましたか。12歳も離れていると、かなり違いがありますよね。印象に残っていることはありますか。

吉野:姉はもうおばさんみたいなもんだからね。一応みんな女学校卒だけども、1番目は海軍火薬廠に勤めてて、2番目の姉が女学校の最終学年終わって仙台の被服廠に勤労奉仕している時に空襲に遭って。あの頃、体にみんなシラミが付くんですよ。戦争中は男女関わらず、犬、猫、乞食と、それからその辺の大将だろうと何だろうとね、関わらずみんな。シラミの処理のために家に帰ってる時に空襲があって、同級生の3分の1位亡くなってしまったんだよね。その姉の同級生達は、その後もずうっと結束がものすごく強いね。3番目以降は女学校の低学年。「炭すご」っていう炭俵があって、それは、山でもって、炭窯で炭を焼いたやつを町まで持って来なくちゃいけないんだ。労働奉仕かな。労働奉仕っていうのは徴用。あの頃は中学生も女学生も、学校の勉強なんかないわけだから、男どもは塹壕掘ったり、女の子は草を採って、いろんな労働があったね。野草の丈夫なやつをいっぱい採ってきて、それを洋服に織るんだとかいってね、それを供出させられて。それはみんな女学生の仕事。で、あの小っちゃくて痩せた体で炭を担がされてね。普通の女の子が炭1俵、どの位の重さなのかな。多分15か20キロ位あったんじゃないかなあ。それを体の大きい子は2俵担ぐんだって。うちの姉なんか1俵でね。あのね、日本人てのはみんなね、あの頃はチビなのにみんな何か背負ったりするのはすごかったんだよ。何かで読んだことあるけど、例えば女性でね、米俵を何俵担げるかっていう時に、秋田の女性が6俵位担いだって。米っていうのは1俵60キロだよね。そういうの肩の上に2俵だとか、手に2つと頭の上に1つ、あと1俵背中に背負って(笑)。そこで6俵位ね。大体あの頃の女性は150センチ位なんですよ。大きい子が160センチちょっと位で、小っちゃいのは140センチ台だからね。
労働っていうのはそういうもんで、みんな、どんな仕事も全部肉体労働。もう水を汲むのも、あるいは米を、戦中は一升瓶(に米を入れて棒で突いた)りなんかして。まあ精米所はあったけども。子どもの時からの庭掃きから玄関掃きから、9人兄弟がいてもみんなそれぞれの仕事があって、薪割りをしなくちゃいけないだとか、風呂焚きの係だとか。だからみんな食い物食わないけれども、体は丈夫だったっていうのがあった感じだよね。
……よそ道にどんどん逸れるからね、俺の場合は。

鏑木:大丈夫です(笑)。

宮田:そのお父様が戦争に行かれていて不在だった……。

吉野:いや、戦争に行ってないです。41の時に僕が生まれたから、仕事もあったと思うけど、高齢であったというのが。仕事自体が土建業っていうことで、多分ね、徴用の範疇じゃなかったのかもしらんしね。同じ年頃で兵隊にはなってないってのは、結構いるんで。

宮田:ああ、そうなんですか。聞き間違ってすみません。お兄様は戦争に行かれて。

吉野:行ってないです。いとこだとかおじさんだとかっていうのは、亡くなってるのが結構多いですけども。

宮田:じゃあご家族で戦地に行かれた方はいなかった。

吉野:家族の中では、戦争は行ってません。

宮田:戦争を身近に感じるようになったのはお姉様のお仕事とか、そういう周りの暮らしの中で認識してたんですか。

吉野:うーん何だろうなあ……。あのねえ、戦争を一番身近に感じたっていうのは、仙台の空襲なんだ……。
僕らが住んでた船岡っていうところも火薬廠なもんで、仙台空襲の次がここだって、みんなもうかなり早くから決めてた。だけどね、どうもその蔵王っていう山がエアポケットを作るらしくて、そこで2機位、あ、こないだ2機って言ったら3機だって誰か言ったな。3機位ね、落っこっちゃう。揚力を失って落っこっちゃうっていうね。それでね、どうも何か、空爆しづらい場所であったという話があります。
で、本当に戦争を身近に感じたっていうのは、その頃火薬廠に海軍がいたんでね、その連中がよく遊びに来てた。それから甘い物。兄貴はね、乾燥バナナ、あれ「食いてえな」なんて言ってたけども、12年生まれと15年生まれじゃあもう食い物の(事情はかなり違って)、俺はもう甘い物ってやつもほとんどなかったんだけども、海軍の連中が遊びに来る時は、多分特攻隊なんかがもらったりするようなゼリーがあったんだ。ザラメがいっぱいかけてある、甘いやつがね(笑)。遊びに来た時にちょっと手土産に持って来たりなんかして、それはね、甘い物に飢えたあの頃のガキにとっちゃ、これは本当に美味しい食い物であった。そんなことも含めて、まあ火薬廠だから、どんどんどんどん戦地に送られていくような連中がいただろうし、戦争を身近に感じたのもあっただろうと思う。家族の中の話題でも、「ああ、あの人も出征した」「戦地に行った」だとかね、内地の勤務から戦地に行ったとか。それから16年。中国の戦線がどういうふうな絡みだったか、まだ小っちゃいからよくわかんないけども、太平洋戦争が始まったら、駅で万歳万歳で送っていくとか。あるいは、おっかさんが寅年なもんだから、虎の千人針をよくやらされてた。虎は千里を行って千里を帰るっていう動物で、寅年生まれの女は、あの頃だけは重用された。そんなことがずっと積み重なって、戦争ってやつがね。戦争状態っていうのは、食い物、それからそういう社会的な背景、洋服や、おじさんがシンガポールから買ってきた編み上げ靴を履いたり。おじさんはもう海軍にいたんでね、着る物って言ったってセーターだと肩章が付いてる。上等兵の肩章だったけれども、星が2つ付いてるようなやつだった。(画廊の壁に掛かっている作品《Jeep》を指しながら)だから、いっつもあの、フクちゃんのような、真ん中のね。

宮田:あれを実際見て。

吉野:ああいうふうな、本当に牧歌的ではあるけれども、戦争の中にいたっていうね。……だから(描かれているのは)自由な人間達っていうかね。
生まれた途端に兵隊貯金ってやつをやってたおかげで、敗戦になった後に70円貯まっていた。70円っていうのはね、何にもならない金なんだよね。多分戦前の給料で言うと、一番低い新人の人達の給料位のもんで。戦後になったらほら、帰ってこないけども、帰ってきたとしても。5銭だった飴がすぐ5円になってしまうような戦後のインフレの中だと、70円ってどうしようもなかったんだと思う。
4、5歳の時、まだ戦争末期でね、入るなら俺は海軍に入ろうと思ってたの。そう思うと、負け戦っていうのは自分で知っていたんだね。周り中もやっぱりそういうふうな認識があったんだと思うね。というのはね、陸軍で陸路をグジャグジャしたところを逃げ回ったりなんかしたら、ものすごい疲れていけねえなって思った。俺自身はね、周りから腺病質だって言われてるガキで、座って絵描いたりなんかすることだけは好きな子だった。ただね白石川があって、小学校入る前にもう泳げたんだよね。だから入るなら海軍だと。艦が沈んでも俺は泳ぐつもりでね(笑)。だから、もし徴用されるような時があったら、俺は海軍に入ろうと、その時ね、心秘かにそう思っていたのがありますね。何もおじさんが海軍だったからっていうわけじゃなくて、逃げるためにはどうしたらいいかって。

宮田:子どもながらに。絵がお好きで絵をすごく描いていたということですが。

吉野:だからそれはね、遊びが何も無いんだから。おもちゃも無い。木製のタンクをズルズル引っぱって歩くだとか、そういうふうなおもちゃしかない。お姉ちゃん達はお人形だとか。いや積み木だとかはあるけども、それ以外のおもちゃっていうのはみんな、何か手製しなきゃ。だから、杉鉄砲作ってもらう、水鉄砲だったり、冬はメンコはあったけどね。大体そういうゲームは俺はものすごい弱かった。兄貴はビー玉、メンコだとかってやつが強い。俺はどうもそういうトランプなんかでも弱かったしね。五寸釘を刺して陣取りっていうのをやるんだけど、それはちょっと末席位にはいたかもしれんな。
絵を描くのはね、頭脳の発育と一緒に自分で形象にして確かめてくっていうのもあったんだろうと思う。もう家中紙が無いからね、生まれた時に建てた家の白壁があって、家中の子どもの背が届くところは、押入から便所まで全部鉛筆で絵を描いてね。その頃は戦争にまつわるタンクだとか飛行機だとか、そんなの。食い物の絵も描いてただろうと思うし、玄関の脇に真っ白いご飯が描いてある。「これはお前が描いたんだ」と言われたね。大体米もね、何か混ぜてあるようなね、飯しかなかった。

平野:終戦が近づくと、食糧事情はあんまり良くなくなっていったんですか。

吉野:敗戦間近になってくると、そういうことに。機銃掃射っていうかな、裏門でそういうふうなことあっても、まだ爆撃っていうことはなかったんだよね。まだ落ち着いてましたけども。仙台空襲の後、みんな逃げて帰ってきた連中は、もう食い物が無いから、軍艦雑炊を食ってたなんて友達が言うけど。軍艦雑炊ってどういうことかっていうと、水の上に飯粒がツッと。

一同:(笑)。

吉野:浮いてるんだね。もう膨れて、ワッとでかくなった飯粒が浮いてた。それを戦艦雑炊だとか、これは駆逐艦でこっちは何とかって言うぐらい、そんな米粒が何粒かしか入ってないようなお粥を食ってた。

鏑木:仙台の空襲っていうのはいつなんですか。

吉野:1945(昭和20)年の7月だったと思うね。

鏑木:もう本当に、(終戦)真際ですよね。

吉野:7月初めぐらい(注:10日)。まず最初うちは、自分の家の庭に防空壕を掘ったんだよね。で、防空壕と、伊達家の居城があったところの八木山っていう下が崖になってて、そこに横穴を掘って。仙台空襲でそこに逃げ込んだ連中はみんな、焼夷弾や何かで、まず防空壕のやつはみんな死んじゃった。それからその横穴にいた(人たちも)。仙台空襲の翌日に、親父がトラックを仕立てて、見舞いに行ったのね。物資を持ってったんだと思う。親父の話だと、走ってるとタイヤがブスブスブスブス煙を出し始めたっていうんだよ。というのは、あの頃アスファルトっていうのがまだほとんどなくて、コンクリートの道。県道、国道がやっとコンクリートの道で、あとは町道、市道、あるいは私道は、この時全部ほとんどが未舗装だから、戦前、戦後はね。で、全部そうとう熱くなってたっていうこと。それでタイヤ全部焦がされて帰ってきたんだと、そんな話を聞いた。

宮田:すごく生々しいですね。

吉野:僕は、仙台空襲は事前にわかっていたんだろうと思うね。だから、何波かの空襲の中で、そろそろ船岡が危ないっていうんで。川の向こう側に親父の瓦を作る工場があった。今度は瓦工場にみんなで移住して、学校に通っている子は自宅にいたけど、船岡の駅のそばだったんで。小学生と小学校に入ってないのと、それから兄貴なんかは瓦工場から通ってて、そこに防空壕を作って。ところが1日か2日のうちにそこも危ないっていうんで。船岡っていうとこは川が真ん中に流れてる、小っちゃい盆地みたいなとこだったんでね。こっちは阿武隈川、東の方は広く、広がってますけれども。町に4門、高射砲の台地があって、それと四方の山の上に探照灯っていう敵機を照らす、索敵をするためのライトがあってね、町の中もこう、逃げ惑う人達を誘導するみたいなかたちで照らしてた。でね、防空壕をやめて今度は高射砲の下に草や木でもって、小っちゃいただ寝泊まりするだけの小屋掛けをして、一夜を過ごしたことがあります。一晩か二晩かだったと思う。それで、どうも空襲を受けなくて済みそうだってことで、その後は記憶がないな。後は敗戦の記憶ぐらい。(処理のため)火薬廠の中で作った砲弾を爆破するんで、衝撃波で家のガラスが飛んだり。まあだいぶ離れてたんだけどね。それから川に機銃、機関銃の弾をいっぱい捨てるんで、それが戦後の俺達の遊び(道具)になっていくんだけどもね。

平野:それは終戦直後ですか。

吉野:そう。だから進駐軍が来る前に処理したってことなんだね。

平野:あ、来る前に、なるほど。

吉野:うん、来る前にみんな処理した、多分日本軍が。書類から何から全部燃やして、自分達の戦力を全部ひた隠しにするっていうのがあったんだろうね。だから、弾薬だとかを全部、まあ全部とは言わなくても、ほとんど処理したんじゃないかな。毎日ドッカンドッカン、火薬廠の中で砲弾を爆破してた。でかい穴を掘ったんだろうと思うけども。機関銃の弾は川にいっぱいバラ撒かれて捨ててあったんで、子ども達が拾ってくるんだよ。それで、橋の欄干のところで焚き火をして、それをもう本当にくべるって感じで、みんなで。へこんだところに入り込んで、これはめちゃくちゃ危ない、どこに飛んで行くかわかんないんだ。戦中に鍋釜全部供出してあるわけだから、金物はものすごく不足してる。薬莢は真鍮だからね、アイスキャンデー1本5円で買うためにね、売ればほら、アイスキャンデーなんか食い放題。バカなうちの兄貴はね、拾ってきた弾を座敷のね、囲炉裏じゃないな。何て言うんだ、あのテーブルにするやつは。

鏑木:火鉢?

吉野:火鉢、火鉢。火鉢よりちょっとおっきいような、木を彫って銅でこう(敷いて)、結構なテーブルがつながってるようなね。そこにね、小学校3年生の兄は、灰の中にいっぱい弾を埋め込んで(笑)。親父にめちゃくちゃ叱られたけどね。俺は親父に叱られたってことはないんだけど、あの兄貴は。長男と次男じゃ、何かの時にかなり区別、差別されるの。冠婚葬祭ってばっかりじゃないけど、正月だとか、ちょっと食い物で差別されたりする時もあった。だから俺は、何とか兄貴に勝ってやんなくちゃいけないと思ったけど、まあ男2人だから、仲良くしなくちゃいけないんで、仲良くやってましたけどね。それと能力もまるで違う気質で生まれついたんで、それぞれ補い合って。兄貴の方はスポーツ万能の選手で、学校の成績は下ね、同じ高校だけども。姉達がいっぱいいるもんだから、弟の方は小学校に入る前から漢字も読めた。だから小学校1年で教科書を使ったかわかんないんだよね。姉達の教科書を読んだりしてたもんだから、記憶がわかなくなって。

宮田:ちょっと話を戻ってしまうんですけど、戦争が終わった日。

吉野:はい、8月15日だね。

宮田:を、覚えてますか。

吉野:覚えてます。鮮烈に覚えてる、それは。というのは、ものすごいピーカンに晴れた日で、聞くとみんな日本中ピーカンだったって言うけどね。で、その使わなくなった庭の防空壕があって、上で兄貴と2人でチャンバラしてた。兄貴が真剣で、俺は木剣だった。そこ兄弟で差が付くんだけどね。[青空と飛行機雲が印象的に残っている。]

宮田:こわい、差が(笑)。

吉野:おじさんが出征する時に大刀を持っていったんだけどね、小刀は残ってた。で小刀を振り回して、チャンバラごっこをやってて。それで、うちのラジオに近所の人もみんな集まってると。お昼の玉音放送を聞いたんだと思う。あれで、戦争が終わったってわかったんだけどね。それからちょっと自分の中で、幻想みたいなやつが始まったりなんかしてね。[東北本線の船岡駅の近くに自宅があったため、線路上で身投げした死体や行倒れの人など、この時期に死人を多く見た。敗戦後、秋に飼犬の「ペス」が失踪する。]

鏑木:幻想。

吉野:というのはね、戦争だとか何とかって、子どもがね、やっぱりものすごく神経質になってて、高所恐怖症だとか、先端恐怖症だとかね。卵だとか粘つくようなもの、とろろだとか、それからドジョウ汁だとかっていうのはもうみんな食えなくなったり。実害はないけれども、その戦争っていうものが、いろんな形でみんなトラウマになったっていうことがあるんだろうと思うんでね。その後、白昼夢みたいやつを見るようになって、それは絵のテーマにもなってくるんだけど。……空からジェラルミンの箱が降ってくるだとか、家中が煙で満たされてもう何も見えなくなったりする。座布団につくねんと座ってる時にね、その幻想なんだよ。そんなのは、ちょっと覚えがあります。そうじゃなくても、あんまり外で活発に遊ぶような子どもじゃなかったみたい。お姉ちゃんの仲良い友達が着てる和服、ああいう着物が着たいって言って、着させてもらったり(笑)。
紙の切れっ端でもあれば、鉛筆で何か描いたり。あとそうだな、講談社の『真田十勇士』とか絵本があったんで、そんなの見るだとか。
皆さんご存知かもしれない、美術の資料やなんかいっぱい集めてる笹木(繁男)さん(注:現代美術資料センター主宰、藤田嗣治研究家としても知られる)が、どうしても『大日本帝国海軍図鑑』ってやつを探せない、「吉野、それ違うの見たんじゃないの」って言ってる。こんな厚いね、濃紺のものすごい立派なハードカバー、金文字で押した『大日本帝国海軍図鑑』というのがあって、実際にそれで俺は、藤田嗣治だとか中村研一だとかを見てるわけ。それを見てね、俺はあの《アッツ島玉砕》(1943年)を見た時にね、俺はやっぱりこういう絵が描きたいと思った。5歳位の時にそう思ったんだね。

宮田:5歳で。

鏑木:お家にあったんですか、その本が。

吉野:[箪笥の中に]あったの。戦前は周りと比べて、普通の家庭よりはちょっと豊かだったと思う。戦後はもうガタガタでダメになっていくけどね。だからそんな本があったりして。周りと差別化しようと格好つけて買ったんだろうと思うんだけど、安い本じゃなかったんだろうね。

鏑木:図鑑というタイトルですけれども、今で言う戦争画みたいなものが載っている本ですか。

吉野:うん、アメリカに接収されたほとんど全部(の絵)、ということになると思うね。最初に日本海海戦の絵が2枚あって、中国戦線は「チャンコロ」って言ってる頃の、中国人を貧しく描いてるような絵。肉弾戦の絵だとか。それから太平洋戦争に。だから中国戦線から太平洋戦争に至るような。

鏑木:戦争の流れがわかるような。

吉野:戦争を鼓舞するような絵もいっぱいあったけども、藤田だとか、ちょっと戦争に対しての疑問が絵から読み取れるような、単なる中国の絵にしても、寒村で貧しく暮らしてる中国人と、疲れ切った日本兵を描いてるような絵だとか、そんなのもあったしね。いろんな絵があった。探せないって言ったけど、俺の最初の(絵画体験の)記憶で言うと、こういう絵が描きたいっていうのが、マニエリスムの(笑)。

平野:それ、カラーなんですよね。

吉野:カラーです。

平野:カラーで、綴じられた本でした? それともシートになって。

吉野:いや、綴じられてた。

平野:綴じられてたのですか。

吉野:アート紙みたいなものだったんだろうけど、厚い紙で。

平野:やっぱり、藤田のあの異様な、どっちが勝ってんだか負けてんだかわからないような異様な雰囲気を。

吉野:あと、《メデューズ号の筏》(1818-1819年)か。

平野:ジェリコーのですね。

吉野:ね、ジェリコーの。あれ見た時、あ、藤田はこれを真似たのかな、と思ったのもあったんでね。

平野:同じ雰囲気がありますよね。

吉野:まあ、ちょっと構図から何からまるで違って、藤田のは、ほんと殺戮の現場であるけれどもね。

鏑木:それを幼い頃にご覧になっていた。

吉野:幼い頃だよねほんとに。

鏑木:戦争中にご覧になってた。

吉野:戦争中。

鏑木:4歳とか、5歳とか。

吉野:敗戦後で付き合うようになる鉋兵隊の隊長に、アッツ島っていうのは、上のアリューシャンじゃない何だ? あそこで、アメリカ軍にやられて鉋兵隊って3日前に撤退する。で、歩兵だけが残って全滅したって話を聞いたけどね。明治(大)の蹴球部の人間なんだけど、やっぱり戦争はスポーツよりかは面白えな、とかなんか、後でほざいてたけどね。
はい、では、横道に逸れたところで。

宮田:絵を描くことがすごい好きだなって意識、認識し始めたのもその頃ですか。

吉野:いやいや、絵が描けないから描いてたっていうのはあるよね、僕はね。中学校2年の時に学校代表みたいのさせられちまって、その時描いた風景画は、あ、うまくできたと思ったけど、それまで、絵が描けない。それまでも上手いとは言われてたんだけど、(自分では)絵が描けないなって。思ってるように表現できないっていうかね。小学校に入った時は、ティッシュペーパーみたいな紙の上に、ほとんどワックスだけのクレヨンで描くんだけど、大体紙が全部こうボロボロ破けたりなんかして。富士山と太陽と、下にチューリップか何かの絵を描くんだけど。昭和21年に小学校1年になった時の絵はそれで、そのうち4年生位からサクラ絵の具だとか水彩絵具を使い出して(注:昭和25年に学校教育のために開発され「サクラマット水彩」は半不透明水彩絵具)。水彩絵具ってまた違って、水彩のテクニックがないと描けない。5年位の時かな、鉛筆でデッサンしたりする鉛筆画で描いたらね、非常に写実的な絵が描けるようになった。友達の耳を描いたり、ああ上手く描けるなとは思ったけども、小学校5年、6年位の時、土手の桜の木の紅葉した風景、桜の木っていうのは非常に重い色で紅葉するんだけど、それを描いた時にどんどん絵具を塗ったら、塗っても塗ってもダメなんだよね。どんどん桜の葉っぱだけが重くなっちゃってこれはダメだと思ったね。

鏑木:へえ、小学校の頃ですよね。

吉野:だから、絵が上手い何人かの中に入ってたんだけど、描けないと思ったな。上手く描けない方が多かった。

宮田:小学校はどれぐらいの人数だったんですか。

吉野:小学校は1年の時は、多分50人位のクラスで4クラスだった。2年の時はまた増えちゃったのかもしらんな、疎開者で。1年の時はまだ終戦の格好のままで、動きが無かったのかも知らん。[この頃、都会からの疎開家族が自宅を占領した。同じ時期に英語を教えられた。]

宮田:学校は、家から近かったんですか。

吉野:うん、どのぐらいだろう、1キロもないかなあ。

宮田:じゃあ結構近いですね。

吉野:ただ物資がない、もう何もない。ランドセルもない。俺達の時はボール紙で作ったね、1週間も経たないうちに壊れるようなランドセルなんだ。うちの親父がね、何を思ったかブリキで、トタン屋にランドセルを注文した(笑)。こう湾曲した蓋が付いてた。それでも、1週間目位にはもう蓋が壊れたかな。それとね、音がうるさいんだよ。

鏑木:カチャカチャと音がする。

吉野:うん、走るとカチャカチャカチャカチャ音を出す。それが恥ずかしくてね。だからこの蓋なんとかしてくれって言ったら、厚いキャンバス、布をただ上に被せてくれたけど。

鏑木:ああ、よかった(笑)。

宮田:斬新ですね(笑)。

吉野:2、3ヶ月は持ったのかもしらんな。ランドセルっていうのは、やっぱり子どもは荒く扱うのは当たり前だからね。そんな半田付けでやってるようなものは長くは持たない。みんなどんなランドセルかって言ったら、お下がりの革のやつを持ってたのもいたんだろうと思うけど、やっぱり風呂敷で包んだり、おっかさんのモンペの余りで、絣で作った袋を。俺達は戦争末期は、みんな救急袋っていうのを(持って)、マキロンと包帯と焙烙で炒った豆を2、3食分入れてるやつと、名札と血液型を書いたのを、貼ってね。最終的には1人で生きて行けって言われるような(笑)。そういう袋状のものをランドセルに替わって持ってたと思うね。あんまり思い出さないな。みんな貧しいからね。あんまり人のことなんて(見てなかった)。それでも、お姉ちゃんの赤いセーターを着せられたりした時は恥ずかしいと思ってなるべく見えないようにね(笑)。身体検査の時は参って、階段のところで隠れて脱いだりして。みんな冬場もずっと長靴で。長靴っていうのは仙台のちょっと南側の町にミツウマゴム(注:現在の弘進ゴム株式会社)っていうゴム会社があって、そこで作っている長靴をみんな履いてんの、冬場は泥道だから。舗装してるところは少ないからね。ただ遊んでるうちに2、3日ですぐ穴が開いちゃって。どっかに引っかけたり、(当時は)衝撃にものすごい弱いゴムなんだよ。冷たいから下に足袋を履いてんだけれども、足袋も1年に1個か2個、正月は新しくしてもらうぐらいでね。フェルトなんて結構なものがある時代じゃないから、藁を貰ってきて敷いて、トンガラシ入れるといいってんでね、トンガラシを藁の中に入れて。でも全然暖かいとは(言えない)。すぐ泥水が浸み込んできて。

宮田:小学生の時にも美術は好きだったと思うのですが。

吉野:いや、そんなに思ってはない。4年生の時に親父を描いて。その時にワイシャツの襟ってやつが、どうもこっちからこっちに通ってこないんだよね。それで悩んだ。そんなこと教師は無視して、(教室の)後ろに貼りつけてあったけど。だから自分では、そういう前後関係だとかね、1回、2次元にやる前に3次元でちゃんと把握しなくちゃいけないって。だから今は何でも3次元にしてしまうっていうのは得意だけど、その頃はできなかったんですよね。それと、小学校2年の時に歩いてる人間を描いたことがあるんだ。これはどうしても、重力に対して後ろにこう、ひっくり返ってるんだね。それを、おばさんに、「たっちゃん絵が上手いねぇ」なんて言われたけど、どうも何か、重力に対して微妙に(違う)。人間を描く時はまっすぐ描くんじゃなくて、何かこう、足をこうやった(前に出す)時に重力の移動がないと、歩いてる姿にならないんで。だからそういうふうな思いがずうっと募って、絵を描くようになっていったのかもしれないね。

宮田:小学生の時、苦手なこととか、ちょっと嫌だなということはありましたか。

吉野:苦手なのは体力を使うことね。小学校1年の時は一番弱かった。肉弾戦で教壇落としっていう、先生の教壇で落としっこをやるんだけど、俺が一番弱いんだよ、クラスで。1年1組っていうクラスだったんだけど、それが早生まれのやつだけが集められたクラスで、一番弱い。ただ頭だけは、先生がいないと代講みたいにして鞭を持ってみんなに読み方を指導したりするような立場であったけどね。本当にチビで、ほんっと力が無くて。泣いたりはしないし、あんまりいじめられるってこともなかったけど。ただ、クラスで2番目に弱い奴に負けた時はちょっとガックリ来たよ。

宮田:小学生の頃はお家のお手伝いとかもよくされたんですか。

吉野:小学校1、2年の時はあんまり手伝いってことはないんじゃないかな。最初に割り振りされるのは玄関掃除。うちでは子ども達が最初にやる仕事。だから、学校に行く前に玄関の掃き掃除。それから庭掃除があって、もっと高学年になると道路掃除。道路は隣の家の境界のちょっと(先)まで、両方、そこをちゃんと掃かなくちゃ。道路は県道で、道路を挟んで向かい方も、姉が吉野組って事務所を雑貨屋かなんかにしてたんで。親父が焦って姉と結婚させた落下傘部隊の生き残りと。だから道の半分だけじゃなく、道1本全部掃除しなくちゃいけない、そんなのがありました。3年か4年になって玄関掃除じゃないかな。1、2年の時はまあ、表、門の外に立ってひなたぼっこをしてるぐらいだったと思うけどね。犬とか(飼い)猫と、みんな一緒になってひなたぼっこしたり。

宮田:小学生の頃に、すごくはまってたことは何ですか。すごく興味を持っていた教科とか。

吉野:えー…… ないね。あのね、俺の場合は、1年の初めに教科書が手に入ると、1回に全部読んじゃって後何もしないわけだから。勉強っていうのは全然身に付かないんでね。予習、復習なんてことは全然、何にもない、ただ遊んでて。学年の学期の1学期初めに、1年分全部読んじゃうんだから。後は、非常に楽なんだよ。

宮田:全部頭に入っちゃうんですね。

吉野:入っちゃうからね。その頃はまだ記憶が良かったんで。だからそうやると、全部記憶に入ったから、何にもしない。学校では「たっちゃん」て呼ばれて、いつも先生に「たっちゃん、名前の通り立ってばっかりいるから、立ってなさい」って言われて、廊下にいつも立たされて。授業中にその辺うろうろしだすから。何とかって病気、落ち着きがない子っていうのは、何とかっていう病気? 

鏑木:ちょっと多動みたいな……。

吉野:何かわかんないけど、そういうふうな気(け)があったのかなあと思う。授業中にちょっとうろうろ突っ立って、その辺で遊んだりして。
(ブリキ製)ピストルに火薬を詰める、あの「ピストル」っていうのはちょっと流行った。紙に火薬が付いてて、全部火薬を出して、薬莢で筒を作って雷管、その後ろに全部火薬を詰めて、それでその前にパチンコの玉か、あるいはビー玉を詰めた紙で栓して、後ろにまた紙の火薬をペタッと貼てパチンってやると、ドンって、(本物の)ピストルみたいで危ないんだけどね。そんなことやってたり。それが遊びの中でもちょっと男の子らしいっていう感じで。非常にひ弱なガキだったから、そういうことにちょっと憧れてはいたのかもしれないね。で、高所恐怖症で高いところを登れない。俺、竹馬できなかったんだよ。それと塀の上に登れない。ただ小学校に入ったら走るのだけが速くて、学年のリレーの選手にさせられたり。チビで細いけど、クラスで足だけ速いって、そういう感じでね。漫画みたいな走り方してたんだろうと思うんだけど。ちょっとずつ体力はついていった。ああだこうだ言っても、ただ遊んでたのかな。そろばんを習いに行くだとかちょっと行ったら、やっぱりつまんねえから、すぐやめるしね。

鏑木:学校はお好きでしたか。

吉野:学校に行くなんて、遊ぶのは好きだからね。

鏑木:お友達やなんかと。

吉野:そう。学校に行くのは好きだった。好きだったっていうか、当たり前だと思って行ってましたけど。その頃で言うと、今で言ういじめは……、あったね。俺達がいじめてたな、それは(笑)。その頃、友達でシュンイチ君ってやつが、親父が東北大学の教授だったのがパージでもって職を失って、おっかさんが非常に派手な格好っていうか、進駐軍の通訳かなんかをやってたんだろうと思うけど、フレアスカートっていうようなこう、ぴゅっと広がるようなスカートを穿いて、口紅を真っ赤に塗って、ちょっと茶髪にしたパーマネントヘア。でシュンイチ君ってのは、どうも腸の手術を1回やったことがあるらしく、へそが横に曲がってるんだよ。へそ曲がりのシュンイチとか言っていじめたりしたのはあったね。それは非常にかわいそうだったけども。それで、シュンイチ君にみんな小便かけるから、シュンイチ君もみんなに小便ひっかけたりしてたんだけどね。[音楽について:小1の時、並木路子の「リンゴの唄」を歌って良いか学級委員会で合議したのを覚えている。小2の時、「浜千鳥」の合唱を聞いて感動し、目の前にキラキラしたものが見えた。日曜日の朝はNHK第二のクラシックの時間が好きで良くラジオを聞いていた。]

宮田:進駐軍のお話が出ましたけども、お住まいの周りにもたくさん進駐軍がいたんですか。

吉野:進駐軍はいました。川を越えたところに女郎屋っていう、そういう三業地(色街)があったんで、そこにジープで来る奴だったり、いろんな奴。その頃、「ブロンディ」は新聞だけども、「ポパイ」だとか「ローン・レンジャー」だとかそういうのがPX(注:Post Exchangeの略。この時期進駐軍の売店を差す)から出てくる。テンセン漫画、10セント漫画ってのは、オフセットの三色の漫画ね。リキテンシュタインが描いてる漫画が、テンセン漫画の流れの中の絵だと思うけど、その辺のアメリカン・コミックス。進駐軍の兵隊さんはコミックぐらいしか読まないから。といっても、日本人よりか生活はいいから俺達は尊敬してたけど。ラーメンご馳走になったりなんかしながらね。

鏑木:本当にこの(今回の個展で展示されている)ドローイングみたいな感じに、進駐軍が来てて。

吉野:進駐軍はジープで来たら、ジープのアンテナに膨らましたコンドームかなんか付けて(笑)。それを国旗代わりにやってくる。

平野:その漫画が町の中に入ってきたってことですか。

吉野:捨てるから、拾って読む。

鏑木:この人達がポイポイ捨てているのを、拾って読んだ。

吉野:それを拾って大事にする。石鹸と油を混ぜて溶液を作って塗って、それ紙にのせると、何て言うんだろう、こう写ったりする。

鏑木:転写みたいな。

吉野:そうそう。

鏑木:すごく高度なことをされてたんですね(笑)。

吉野:そんな子ども。拾った漫画で十分にね(楽しむ)。日本のだと『譚海』、それから『少年王』かな。その中に出てくる漫画では、戦前で言うと「冒険ダン吉」だとか、「タンク・タンクロー」ね。「フクちゃん」もあるし「のらくろ」とか。それは戦後まで続くけども。戦後だな。雑誌やなんかって、目につくのは戦後。だからPXのテンセン漫画にしても、それから、少年漫画にしてもね。大体印刷する紙が無いんだから。それでちょっとずつ紙が(出てきても)、ほんとペラペラの紙で。
大人だと『りべらる』とか。今じゃ全然危なくもないんだけど、(当時は)女性が写ってるだとかね。

鏑木:ちょっとエッチな(笑)。

吉野:そう。『りべらる』だとかは危ない本だって言われいてた。日本は完全に、統制の中にありましたね、出版物からみんな。文学にしても何にしてもちょっとチェックを外れる、ってことはなかったわけだからね。お仕着せの物だけ着て、やって、それを外れたやつはみんな摘発を受けたり、憲兵あるいは特高に全部やられていろんな事件があった。横浜事件(注:1942年から1945年にかけて、雑誌に掲載された論文をきっかけに、編集者、新聞記者らが逮捕、有罪とされた)みたいなね、彼らもそうだけども。

宮田:進駐軍が入ってきて、自分達日本人とは違うなあっていうのをすごく感じましたか。

吉野:全然違うから、まず栄養状態が違うって。顔の作りやなんかが違うのは白人や黒人だから違うけども、ケツはこんなでかいしね。ちゃんと兵隊さんなのに皮下脂肪。日本人ってみんな栄養失調だから、盆の窪が浮き出て、首がこんな細くなってね。
戦争が終わって進駐軍が来たのは……秋口だったと思う。8月15日の後だから、夏の終わりか。女郎屋の入口の順番待ちか知らないけど、進駐軍が橋の欄干に鈴なりになって、みんな座ってた。日本政府も、貞操の防波堤みたいなかたちでそういう女性達を先頭に。従軍慰安婦じゃないけども、そういう流れで防波堤を作って。日本ってのは何とも恥ずかしい国ではあるよね。

平野:進駐軍は基本的に男ばっかりですよね。進駐軍は当然男。

吉野:そりゃまあ女性兵士はその時いなかったね。ただ、家族が。

平野:やはり、進駐軍で来たアメリカの男達と、日本の男達の違いを比較されて。

吉野:普通24、5歳の連中っていうのはキャラクターができあがってると思うけど、まだ10代の連中がいたんですよ。あるいは年齢をちょっと偽って、それとアングロサクソンじゃない連中。プエルトリカンとか、アメリカ領の国だとか、そういう奴は体もちょっとチビだし若いし。船岡に来たのは海兵隊だから、チビでちょっと非力な奴は、殴られたりして歯が無くなったりしてた。そいつらが、やっぱり軍票もらったら、あんな軍のお金だけども、日本人のあの頃の収入と比べるとちょっと豊かなんで、そのガキの兵隊が1人で使うと身に余る。俺達は高校生位の時かなあ、そういう奴でもラーメン食わしてもらったり、一緒になって遊んだりしてました。高校になったらあんまり暇っていうのは無かったけど、暇な時にそいつらとちょっと遊んだり。こっちはパンパンのパングリッシュっていうやつでしゃべるわけだけど(笑)。向こうは、日本語はあまりできない。日本語を使う程の時間いるわけじゃないからね。
……小学校5年の時にはもう朝鮮戦争が始まるんだけど、その時また戦争だと思ってちょっと暗い気持ちになって。娯楽ってのは映画だけだったんだけど、映画を見に行くと映画の前にニュースをやっていて、朝鮮戦争が夜間の艦砲射撃から始まってっていうのを、毎日やるんだよね。大体毎日映画を見てたんだけど、やっぱりね、戦争だっていうのをちょっと嫌がってたな。子どもでもその、もっとチビの時のそういう雰囲気が。……何て言うんだろう、昭和21年位からリベラルなのが表立ってはいたけど、進駐軍のお仕着せだろうと何だろうと、とりあえず表面(おもてづら)はリベラルになった社会だからね。だから戦争になるとまたね、そういうふうな……。やっぱり面白いね、子どもでもそういうキナ臭い雰囲気を鋭敏に感じ取るっていうのは、あったんだろうね。進駐軍と来てる軍医がいて、自分の子どもと俺が同い年位で、顔もちょっと似てるとかでかわいがってくれた。そのお医者がよく来てたのに、それからバタッと来ないと、「ああ、朝鮮行った」って思ったね。あの頃マッカーサーが総司令官だった。朝鮮でアメリカ軍がものすごい損失を被ってんだよ。だから、行った連中は、あそこから本国に帰ったっていうのは、ラッキーな方だと思うけどね。[この頃、仙台駅長の飼犬だったイングリッシュ・セッターの「ミー」を1歳で引き取る。それまでは川で犬を拾ったりしたがすぐに殺処分された。猫も飼っていた。]

宮田:どんな映画を見てたんですか。

吉野:町の小っちゃな映画館が1つだけあったんだけど。後で思い返すと、あれは、バンツマ(阪東妻三郎)の『雄呂血(おろち)』(1925年)じゃねえかな。後(の話)で松田春翠さんと会ったときに出てくるんだけども(注:松田春翠2代目、1925-1987年/父、初代・松田春翠の下、6歳で弁士としてデビュー。戦後は弁士の傍ら無声映画フィルムの収集に尽力し、幻のフィルム『雄呂地』を発見。マツダ映画社を創立して保存、上映に努めた)。戦前に作ったフィルムだとか、戦後に作った松竹、あの頃日活があったのかなあ? あったな。東映だとかがチャンバラ映画。戦後すぐは三益愛子と松島トモ子で母子物が始まるし、それから、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』がね。あれは杉作役もやっぱり松島トモ子だったかなあ。

宮田:映画は1人で見に行くんですか。お友達と見に行くんですか。

吉野:友達と見にっていうか、うちのいとこが映画館経営してたんで、潜るんだよ。

宮田:ああ、潜って見てたんですね。小学生でそんなに毎日(笑)。

平野:毎日見てるってすごいなと(笑)。

吉野:あのね、映画がものすごく安かったんだよ。

鏑木:(ギャラリー58の長崎裕起子より「ギャラリー58 黒澤明研究部」ファイルを渡されて)黒澤映画でお好きなものはここに。

宮田・平野:あーすごい!

鏑木:ここに、何年かも書いてあります。

吉野:だから、地方で『生きる』(1952年)だとかああいうやつはね、最初から(見ている)。最初はあれですよ…… 何だ、ここで言うと、『七人の侍』(1954年)。これは高校2年の時だけど。

鏑木:五重丸が付いてますね(笑)(先述のファイルで、吉野の一番好きな黒澤作品は『七人の侍』、好きな俳優は藤原鎌足とある)。

吉野:それは興奮した。もう3回見たもんね。居続けて。

宮田:1954年。

鏑木:『七人の侍』って結構長いですよね、尺。

吉野:うん、だから3本見ると大体1日終わるっていう。それで、その中で使われてる葬送歌だとか、それから『ペルシャの市場にて』って音楽、完全に(覚えている)。出てくるとこは、ターンターンターンタカタカタンタン、ターンターンターンタカタカタンタンとかね、ターンタラ〜、ティティッティテー、テッテ、ほら、あの戦い終わった後にこの葬送歌が流れるんだよ。もう浸りきってね、(映画館から)出てきた。黒澤と、ターザン映画だね。ジョニー・ワイズミュラーの『ターザン』、それは子どもの時。映画はうまい具合にそうやってタダで入ったりしてたけど、映画はものすごい安い娯楽だったの。普通料金にすると税金がかかるだとか何とかっていう時があって、2円99銭だとか。そうすると、飴玉よりかは安いわけだからね。

鏑木:へえ、贅沢ですねえ(笑)。

吉野:それで、フィルムは隣の町から自転車に乗っけて、ガンガンぶっとばして。もう、どんどん回しっこしてる。

宮田:高校生の話まで行きましたけど、ちょっと戻って。

吉野:ええ、今黒澤の話でね。

宮田:はい、中学生になられて、何か変化がありましたか。

吉野:同じ町に新制中学が、その何年か前にできた。その校舎を俺達は何とも希有な思いで見てて、それで新入生になったわけだ。ほんっとにバラックなんだよ。火薬廠にあった廃材を全部持って来て、それで校舎を造って。窓ガラスのガラス、みんな3センチ位の幅しかない。3センチ位の幅、ちょっとずつずれてね(笑)。だから、ちょっと風が吹くとね、冷たい隙間風が入ってくる。

宮田:格子状態っていう(笑)。

吉野:そう、蛇腹になってるような感じなの。そういう校舎で、中庭が2つあって、体育館なんか無かったからね。中学校に入って、文化的にものすごく劣った町だったけど、その町で唯一直木賞作家が1人いて、その大池唯雄さん(1908年-1970年)が作った校歌を入ってからまずどんどん歌わされて。新しくできた校歌をね。その時兄貴が3年生で、僕は1年生になって。そこでクラブは新聞部に入ったのかな。なぜか知らないけど、その方が上等かなと思って入ったんだ。そのうち、体の小ささと機敏さを見込まれて、体操部に誘われるようになってしまってね。それで2年生の時は、本式で体操部。越後獅子の小獅子みたいにしごかれて、鞭で叩かれて、クルクル回ってった感じ。休みも無しでやらされて。その船岡中学校と仙台の五橋中学は体操の有名校だった。俺は生来の高所恐怖症なんだけど、それを最終的にはクリアはできなかったね。

宮田:じゃあ大変でしたね。

吉野:器械体操だから。マットと跳馬はいいんだけど、鉄棒になるとね、(練習場所は)体育館じゃないから、県大会が近づいてくるなんてのは11月で鉄棒に夜露がびっしり付いてる。もうマグネシウムをいっぱい付けて、何回も、ペーパーで磨いたりしながらやるんだけどね。俺あの逆車輪っていうのは、あの逆立ちして鉄棒持ってグルッと回る、逆車輪。最初倒立して、ビュンっと回った後、ビヨーンと伸ばして、手が滑ってしまって。それでもう、俺は嫌だ! って思って、それで県大会の時カミソリでここ(手を見せながら)、これまだ跡がある、ここ切って、包帯巻いて、「昨日爪をこんななってやってたら切りました」とか言ったら、「バカ野郎、そんなことは嘘だろう」て、それでとにかくやらされたんだよ。姉が通ってた尚絅っていう短大(注:現在の尚絅学院大学)があって、そこが会場だったんで、お姉ちゃんと友達と見に来てたんだけど、やってるうちに、血が流れ出してきてね。それでも、最後はね、本当は1回転して、こう着地するんだけど、その車輪や何かは全部抜きだから。今の子だってもっと、ものすごい技をやってんだけどね、あの頃はそんなもんでね。最後は、伸身の宙返りをやるはずが、屈身になったからかなり成績は悪かった、僕自身はね。友達は3位に入ったのが1人と、7位ぐらいの奴が1人いたけど、俺自身は(順位に)かかんなかったね。跳馬とかマットがそれなりに。鉄棒みたいに手をひっつけ、血が出るようなことはなかったんで。それをやって、やっと越後獅子の重荷から解放された感じではあったけれども。
で、絵の話になると、2年生位の時にペン画とか、普通の絵とか描いてね。体操部の顧問でもあった先生が、どうもちょっと絵に興味を持ってたみたいで、「吉野君、何描いても上手いね」とか言って。それで中学校2年の時、学校代表で絵の、何て言うんだろうなあ、試合じゃねえな。

鏑木:コンクールみたいな。

吉野:何かそういうの。中学生がみんな仙台の女子大みたいなとこに集まって。で、アトラクションでダンスを見せられたんだけどね。1人舞台の上でダンスしてる子が、黒いタイツを履いてて。ところが、お尻の合わせ目のところの糸がほつれてるらしくてね、そこから真っ白い下のパンツが見える。真っ白い粒がツーッと広がってるの(笑)。引率の小村先生っていうのは、すぐ近所に住んでた女の先生なんだけど、兄弟達がみんな友達なんだけどね。それを見てたら、「たっちゃん見ないで!」って言うんだよね(笑)。
それで、人物画の水彩の写生で2位になって、で、電気スタンドか何かもらってきたんだなあ。蛍光灯のスタンド。これで身になるんだって思ってね(笑)。ちょっと驚いたことがあった。その時初めてね、美術って……、絵の、何て言うんだろう、絵を描くってことにね、何か……。その頃もう絵が好きになってたけどね。絵をよく描いてたっていうのがあるけれども。

宮田:体操部で忙しい中でいつ絵を描いてたんですか。

吉野:体操部は、全部がシーズンじゃないから。あの頃はオフシーズンがあったから。シーズンになってくると夜暗くなるまで、普通のシーズンだと遅くても5時位。それから夜、中学校2年の時にまだテレビなんかなかったから、テレビっていうのは電気屋にあったような(時代)。ラジオを聞いて、その時に何か描いたりしてたんだろうね。[音楽について:中2の時にペレス・プラード楽団が来日し「マンボNo. 5」で洋楽ポピュラー音楽にはまった。姉からハーモニカをもらい吹くようになった。]

平野:じゃあ中学生位までは自分で絵を描いて、誰かに習ったりするってことはなかったんですか。

吉野:美術の教科書をね、カラーのページは1ページか2ページ位だと思う。この水彩画上手いなあって思うような水彩画、1枚載っかってるぐらいでね。身近に美術って臭いのする奴がいないんだよ。こっちが写生してる時に来て、絵には黒はねえんだ、とか言えるような(笑)。印象派をちょっとかじったみたいなのが、小学生相手に言ってるぐらいのもんでね。いとこが教員やってて、絵を描いてたけども、そんなのはまあ、普段会うわけじゃないし。そんなんで、身近に本物、ほんちゃんの美術ってやつもないし、後で別に話すけど、身近に、西洋絵画だとか何かってサンプルが無かったっていうのがあるね。だから印刷物や何かでちょっと見るっていうぐらいで、その時はまだ「美術」、「美術見た」っていうふうな感じでも多分捉えてなかったんだけど、でもまあ、子どもの時にマニエリスムに惚れ込んでしまった、それはあるからね。
中学3年位の時に1人の教師が、吉野君はやっぱり美術の方に進んだ方がいいって言うのがいて、真に受けた訳じゃないけど、その時に、美術が好きになってたんでちょっとやっぱり(意識した)。その後高校入ってからも……、まあそれはまた後でその質問があるみたいだから。

宮田:中学校の時は普通に美術の授業はあったんですか。

吉野:あの頃の学校には専門教師はいなかった。戦後だから、戦前の師範学校から教員になった、あるいは小学校の教師から中学校の教師になった教師と、あの辺で言うと東北大と、もう1校私立もあるけど、そんなとこの英語教師で。英語教師なんてABCD、(紙に)アルファベットに全部物が描かれてて、Xはシロフォンなんだよね。でね、シロフォン(Xylophone)っていうのは読めないんで、だからみんなで「シロフォンって何でXから始まってるの?」「うーん」、教師も読めない。教師ってのは普通は予習してやってくるものなんだけど、そういう学校よ。英語の教育はその頃始まったんだけど、でも、教師も訛ってたからね。東北弁で訛ってて、英語読んだりしてた。「アイアムア」(東北弁イントネーション)とかこんな感じ、「んだなや」って(笑)。[中3で男女別の教室になった。就職組1クラス、進学組2クラス、女子2クラスと記憶している。]

宮田:高校に進まれて、高校は家から近かったんですか。

吉野:高校は、汽車通学になる。学区内の白石高校ってとこへ行ったんです。もっと優秀な何人かは学区外の高校行ったりしてたね。

宮田:高校に入られて、大きな変化はありましたか。

吉野:いや別に無かったですね。船岡の同級生が30数人同じ高校へ行ったもんだから、その継続みたいなね。船岡って周りの(町の)連中よりかはうるさいって言うか、気質がちょっと、仙南のスペインとか言われるような、直情的なところ。進駐軍だとかパンパンだとかがいる町は、ほかは無かったんでね。だから何か悪いことがあると、すぐ船岡の連中となるわけ。ただ何かやるっていうのも船岡の連中なんだ。小っちゃな町の中に文学青年がいっぱい集まってくるだとか、いろんな情報が入ってくるような場所でもあったのかもしれない。進駐軍って、あの頃である意味、文化でもあったんだよね。進駐軍のせいで、早い時期に土手で若い連中がみんなジャズ・バンド作ったりして。だからよその町とちょっと違ったとこもあったかもしれんな。その高校がある白石は、もうほとんど山の中なんだけど、もっとずっと山の奥の温泉場から来る、冬場は白石に下宿しなくちゃいけないっていう奴も来るしね。そいつはものすごい素直で、教師から英語を読めって言われたら読むんだよね、ズーズー弁で。よくズーズー弁でこいつは、勇気があるなと思ったね(笑)。普通はね、船岡の連中だったら、ズーズー弁で英語は読まねえなと思ったりしてね(笑)。俺達はふざけてたけども、よその連中は、1年の時はまあ成績良くない奴も、3年時は成績良くなってってね。あんだけ勉強したらお前東北大入ったかって聞いたら、いや福島(大)でしたとか言うのもいたけどね(笑)。[高1の時に、高3の生徒と教師による暴力事件で学校が閉鎖になった。生徒のデモ行動によって校則が新しくなり、長髪が許可されるなどした。アメリカ映画「暴力教室」が公開され話題となった年。]

宮田:高校生の時は美術以外でどんなことに興味がありましたか。

吉野:高校に入って、やっぱり絵を描こうと思ったんです。最初は何もなくて、質問にもありましたけど、美術部に入らずに。書道と美術かな、専攻の授業だったんで、それで美術を専攻した。何回目かの授業で、鉛筆の石膏デッサンがあった時に、サッと描いてたら、その時の教師が吉見庄助先生っていう先生で、それをじーっと見て、「吉野君これは、どこで習ったんですか」って聞かれたの。「いや、習いません」て。「じゃあ、先生は誰でした」って。「先生は別にいない」とか言ってね。そしたらね、「吉野君、美術部に入りなさい」と言われてね、それで美術部。

鏑木:先生の勧めだったんですか、美術の。すごい。

吉野:ええ、だから、2年になって美術部に入って。それで宮城県の中で、高校美術展みたいなやつがあって、そこで第2賞になるのかな。河北新聞社の賞、河北賞ってなやつを取ったんで(注:河北新報社は1933年に「河北美術展(東北美術展)」を創設)。それはあんまり弾みにはならなかったな。その頃、後期印象派、ゴッホあたりがもう大好きになってしまってて。非常に目の荒い印刷物見ながら、それで涙流すみたいに食い入るように見ててね(笑)。

宮田:学校にそういう本があったんですか。

吉野:いや、自分で買ったやつ。学校のは『世界美術全集』みたいな、戦前のだから印刷悪いし、カラーページは少ないんでね。その中でとりあえずは、シュールレアリスムあたりまでは、一応美術全集には載ってましたけど。だからそれはちょっと見たり。

宮田:こういう作家がいるよっていうことは、その先生から。

吉野:その全集の中で知ったってことになるね。その頃ちょっとずつ知識が増えてった部分もあるだろうけど、各地で開かれる展覧会、仙台に行ったらロシア美術をやってるだとか、あと福島や山形のデパート。大体デパートぐらいでしか美術展やってなかったんで。美術館なんてのは、東京ぐらいしかなかったんでね。

鏑木:じゃあ高校生の時に、仙台とか福島とか山形の美術展を見に行かれたりしていたんですか。

吉野:した。新聞でそういうイベントの告知があると。

鏑木:どんな展覧会ですか。

吉野:どんな展覧会ってのは今記憶にないけど、誰かの展覧会だった。平野コレクションだとかね、あるじゃない秋田に。

鏑木:平野政吉さんですね(注:平野政吉コレクション。1967年に財団法人平野政吉美術館が設立され、同年、そのコレクションを展覧するため秋田県立美術館が開館した)。

吉野:藤田(嗣治)の絵持ってたりだとかいうようなね。

平野:じゃあゴッホだとか海外の絵描きのものだけじゃなくて、日本の作家も。

吉野:日本の作家はほとんどなかった。自分の関心じゃなかったね。

鏑木:じゃあ展覧会も西洋絵画。

平野:どっちかっていうと。

鏑木:あ、ごめんなさい。展覧会をやっていたのは、西洋の絵画なんでしょうか。

吉野:いやそんなことない。日本人の絵はあまり見なかった。見ても記憶になかったね。だから萬鐵五郎があるとか、目を惹くようなものはなかったっていうのは確かなんで。後期印象派から、美術全集(を追っていく)みたいに、シュールレアリスムだとかダダのとこまで行って、その高校3年は終わるわけだ。

平野:結構早熟ですよね(笑)。

吉野:だから、美術クラブの中じゃ俺だけが先へ行ってしまってたっていうのはあるけどね。

平野:多分この時代でシュールレアリスム、ダダって最先端の情報だと思う(笑)。

鏑木:そうですよね。

吉野:後で吉見さんについても質問があるとは思うけどね、教師の吉見さんは、戦前、川端画学校の出身で、難波田龍起さんなんかと、何だっけな、そのチームの名前。

鏑木:フォルム。

吉野:あ、フォルムだ。フォルムを7、8人で立ち上げた時のメンバー。それから、戦前に台湾に渡ってる。吉見さんのお家が服飾学園みたいなことをやって、台湾にも1校学校を作って、そこで教員やってて、召集されて戦争行って帰って来て、で、白石に戻って。まだ旧制中学の時代に美術の代用教員かな、なって、それで学制が変わる時にちょうど美術クラブ(の顧問になった)。あと俳優になった宍戸錠だとか、劇団四季の舞台美術をやった金森馨なんかが入る。そのクラブの先輩になるわけだね。吉見さんがその後教員になって、新制高校になって、彼らも新制高校に移って卒業していく。俺が藝大を受ける時にね、吉見さん「金森のとこ行け」って言うんだよね。先輩を頼れって。俺はね、先輩頼るだとかはどうもなんか(笑)。もともと絵も誰に教わったわけじゃないし誰かを頼って何かやるってのは。俺は吉見さんの絵を見て、「あ、この人はあんまり絵が上手くねえな」って思ったんだよね。絵があんまり良くねえなと思ってたからね。
誰に教わったわけじゃないけどね。ただシュールっぽい絵を描いた時は、後でもう本当恥ずかしいけど、やっぱ甘いんだよね。その中で、精神分析だとか何かってやつは、それは後で気がつく。最初は絵柄からしか入ってないからね。それで高校3年の時は入選も何もしないでね。直して描いてやった下級生のはみんな入選して賞もらったりしてたけども、俺のはまあ本当に、選にも入らずに、ちょっと甘いシュールレアリスムでね。

宮田:その頃はもう油絵も描かれてたんですか。

吉野:油はね、高校2年の初めぐらいに「どうしても油を描きたい」って言ったもんだから、お姉ちゃん達が油絵の絵具を一式買ってきてくれて。テレピンの臭いなんかに[うっとりして]、本当に嬉しい思いで油絵具を使ったってのを覚えてますね。[ブラシでの混色が上手くいかず、ペインティングナイフで混色を避ける画法だった。]
3年になって、『美術批評』ってあったでしょう。あれ、読んでもわかんねえんだよ。わかんないけど、読まなきゃ、美術学校行くって言ってる場合じゃないっていうのがあって。仙台に高山書店って美術書を置いてる本屋があったんだよ。そこで『美術批評』、あれは年に4回位かな、出してたの(注:『美術批評』は月刊誌)。東野(芳明)さんだとか読んで、ああいう(美術評論家)とかのデビューだから。ただ、読んでもわからない。高校生が読んでわかるような文章で書いてないからね。

鏑木:でも、わからないなりに読んで。

吉野:わかんないなりに。でもね、かじらないことには、前のステップが踏めねえなって思ってるからね。それと、周りの友達が文学青年。戦前戦後、あいかわらず文学青年っているわけ。戦後になるともうロシア文学はロイヤリティを取らなかったらしいね、共産主義になって。日本でもいろんなものが読めて。だから、夏休みは長編小説、『戦争と平和』[『罪と罰』『天国と地獄』『チャタレイ夫人の恋人』]だとかを、夏いっぱいかかって1冊読んだ。最初の10日間位、出てくる人物の腑分けが一向にできないわけ(笑)。あとは友達が文学青年だから哲学書なんか読みやがって。その余った本を俺はもらうわけだ(笑)。文学青年達が作る同人誌ってあるじゃない。表紙は俺が担当。だから友達が読んだ残りを、リルケだとか何とかって、とりあえず読んでみるって(笑)。[高3の夏には蔵王山登山。]

平野:『美術批評』は吉見先生から薦められたんですか。それとも自分でこういうのがあるんだって知ったんですか。

吉野:吉見さんは3年になった時は結核で入院してしまって。3年からは美術の専門家じゃない人がクラブの顧問になったんだよ。

平野:吉野さん自身が『美術批評』っていう雑誌があると見つけたってことですか。

吉野:そうそう。

平野:なるほど。

鏑木:すごい。当時わからないながらも、何か引っかかっていたものって……。

吉野:無い。

鏑木:何かちょっとは(笑)。

吉野:記憶にない。俺がもうちょっと前からの美術史をちゃんと、ステップ踏んでたならね、あそこで何か食らいついて、誰かが指摘してることに思い当たったりしたんだろうと思う。だって前のステップは、読んでないんだから。
やっと18過ぎて、うろうろして、武蔵美のノータリンの教授達とちょっと喧嘩しながら、こっちも何の用意もしてないけど、こいつらもバカだな、と思いながらね(笑)。

鏑木:当時、シュールレアリスムに関する記事が『美術批評』にもありましたよね。

吉野:あると思います。

鏑木:研究会をやってたりしていたと思うんですが、批評家達が。あんまりそういうのは。

吉野:うーん、いや、それは今は覚えがないです。

平野:他の美術雑誌は見たりしてなかったんですか。

吉野:えーとね、何か見てたんだろうと思うよ。

平野:学校で購読してたり。

吉野:いや取ってない。

平野:あ、取ってないんですか。

吉野:あの学校はそんな一銭も金のない、デッサン用の石膏像を5、6点買ったのが関の山の学校だったから。

鏑木:じゃあ『美術手帖』とか、『藝術新潮』とか、

平野:『みづゑ』とかね。

吉野:もうそんなのちょっとは、見たかもしらないし、見ないかもしらない。

宮田:本屋さんで見てたかもしれないですよね。

吉野:うん、もしかしたらね。本屋行った時に、ちょっと目を通す。でね、大体小遣いが少ないんだ。俺1ヶ月500円だから。そうすると絵具を買うと終わりなんで。キャンバスも手作りだから。洋服屋行って麻の芯地を買ってきて、それでフレームを小割で組んで、30号位まではちょうど90センチの幅。洋服屋の麻の芯で作れて、膠を買って、胡粉を買ってきてと、そういうふうな物作りの方に熱が入ったっていうかな。

宮田:吉見先生はご自分でも絵を描かれたりして。

吉野:描いてました。

宮田:それを発表する機会とかっていうのは。

吉野:発表はね、モダンアートかなんかに当時出してたかも。あんまり上手くないね。それと並行して、学校の要望で蔵王を描いたのを体育館に飾ったり。何でこういうことをやるんだろうなって俺思った(笑)。

鏑木:じゃあ吉野さんは吉見先生の勧めで美術部に入られたけれども、先生に対して心酔するようなことはなくて。

吉野:いや、俺も何もわかんないんだけども、ただ、絵が上手いとか下手を基準にして突き進んで行った部分があるんだろうね。「何で、吉見先生の絵は全部の色、白を入れるんだ?」と思ったりなんかして。

鏑木:そういうことを思いながらだったんですね。

吉野:そうそう。先輩が何人かいて、こいつら何でセザンヌの真似ばっかりしてんだ? とかね。俺の上で、美術クラブの出身で、宮城県から一歩も外に出たことがないような(人が)白石高校の美術教師になってね、美術部がまるで壊滅していくっていうのがあったけれどもね(笑)。あそこでいうと吉見さんの中では、金森馨がいて、それから俺がいたっていうことなのかしらね。だから金森のとこ行けって言ったんだろうと思うけど。吉見さんに対しては、下手だと顔には出してないけども。藝大受験しようと思いだした3年の頃に吉見さんがいなかったのはちょっと、もうちょっと美術のこと聞きたかったなあみたいなね。
それとね、俺今でも笑っちゃう、あそこ(画廊の本棚)に、アンリ・マティスの本があるでしょう。俺フランス語読めないんだよね。『世界美術全集』じゃ日本語で書いてある。受験の英語の試験の時にね、ヘンリ・ルサールってのは誰だろうなあって思ってね、2、30分。ヘンリ・ルサールって誰だって。その時は面白いもんでね、今までフランス語なんて1個も見たことも読んだこともなかったのに、あ、これはアンリ・ルソー(Henri Rousseau)のことだって(笑)。それで、英文見たら、アンリ・ルソーの生涯を書いてあって、生涯の方からアンリ・ルソーの類推したのかな。ヘンリ・ルサールはアンリ・ルソー。ちょっと知識があったもんだから、英語の単語が3つ4つわかんなくたってね、そんなものはマルバツだからね、クリアできるんで。あとは国語と日本史か西洋史だから、教科書読んでりゃ、そっちの方は何とかクリアできるんだけど。まあそれでやっと、学科だけは通ったんだけど、成績悪かったんだろうね。デッサンは上手いんですよ、僕は。って、上手いっていうか(笑)。ところがね、あんまり上手いデッサンも藝大はダメだっていうところはある。学科の成績がカツカツだったら、やっぱりダメなんだろうと思ったね。ま、うまい具合に落っこった。
申し訳ない。話が飛んじゃったけど、その後、御茶美(注:東京にある美大受験予備校、御茶の水美術学院のこと。後述)の話もあるけども、この話の続きで言うと、翌年は藝大は受けなかった。俺を落とすような学校はやっぱりダメだろうというんでね(笑)。田舎もんはね、大体そういう感じでやってくるわけだから。後で御茶美に入ってからわかったけど、油が30何倍だとすると、彫刻は7、8倍位なんですよ。工芸や金工、漆芸とかね、誰も入らねえようなところは、何人か。で、それで入るんだよ、とりあえず。それから移ってるんだ(転科する)。そういうのはね、都会の子しかできない作業なんでね。まあそりゃあ、それはそれとしてね。

宮田:藝大を受けようと決めたのはいつぐらいだったんですか。

吉野:高校2年の時かな。(それを知った)親父がね、ものすごく怒り出してね。地域の絵描きを全然重宝してない。重く思ってないっていうかね、仙台藩って土地柄が。だから、鹿児島の連中みたいにね、絵を描くっていうのが当たり前だとかね、周りからちょっと嬉しい目で見られるってことなんてない。絵を描くってのは、親父にとっちゃやっぱり乞食に等しい。あの頃で言うと芸能人になるってのも、それはあったのかもしれないけど。

鏑木:そうですよね、当時は普通の親御さんだったら反対されるかなと。

(昼食休憩)

吉野:(質問リストの内容を確認しながら、質問番号の)16、17、18は、19の吉見先生のところに飛んだけども、まあいいか。その辺もちょっとしゃべったね。
親しい友人というのはあんまりいなかった。友達はいっぱいいたけども、美術をやってるのは俺1人だよね。
その頃の社会的な背景ってのは、基地の町だったんで、朝鮮戦争から始まって警察予備隊から、保安隊、自衛隊に成長していく。戦争帰りの親戚が、あんまり仕事が無い時代だったからその警察予備隊に入ったりしたのはあった。アメリカは日本に軍備をさせないっていうのと、それはまあ安保に今度はつながっていく話なんだけどね。アメリカの、国務長官ダレスなんて日本によく来て後まで残ってる。その辺で高校から大学受験までの間に、貧しいながらも西洋美術の洗礼を受けた。

鏑木:仙台に住んでいる(当アーカイヴの)メンバーから、当時の仙台の美術の状況についていくつか質問を預かってきています。当時、吉見先生と一緒に宮城輝夫さん。

吉野:宮城さん、はいはい。吉見さんの旧制中学の2級下です。その辺(は質問リストでは)後でしゃべんなくちゃいけないんだけども。現代美術というか、「エスプリ・ヌウボオ」って会を作ったのがね、その宮城さんのお兄さん。名前が出てこない(注:宮城四郎)。そのお兄さんが東北大の阿部次郎の教室にいたんだと思う。それで大学在学中から批評活動を始めたんですよ。それで旧白石中学出身者がセンターになってる。宮城さん、吉見庄助と、仙台城趾に伊達政宗の像作った、小室トオルさん。小室達(たつ)って書くけれども、小室達さんは、帝展無鑑査でちょっとブイブイ言わしてたんだろうと思う。彼が助言者みたいになって、「エスプリ・ヌウボオ」っていう会を作ったってことを、何かで読んだり話を聞いたりした。もっと若い連中もいっぱい入ってったと思うんだけども、その活動については僕はあんまり興味持ってなかったんで、そのぐらいの知識しかないかな。

鏑木:では地元でそういうことがあるんだな、っていうことは知っていた。

吉野:うん。僕自身が関心を持ってなかったってことですね。

鏑木:じゃあノータッチなんですね。

吉野:宮城さんが親しく付き合った瀧口(修造)さんが、宮城輝夫を指して「日本のダダイスト」みたいなことを言ったことがあったらしくて。宮城さんの絵もね、(フリードリヒ・シュレーダー・)ゾンネンシュターンのような絵を描いてて、オリジナリティまでにはちょっとあれかなあと思うところもあった。

宮田:高校生の時に大人達との交流も。

吉野:いや、交流はないです。まるでない。単なる、バカの孤軍奮闘なんでね。

鏑木:いやいやいや。あとは県展みたいな河北展っていうのは。

吉野:河北展は出さなかった。姉からは美術を目指すなら河北展ぐらい出してないとって言われたけど、俺は、あれはものすごい低次元の展覧会だっていうふうに高校生の時は思ってたんでね。

鏑木:やっぱり当時から、先見の明があったんですね。

宮田:公募展に左右されない。

吉野:だから美術クラブの先輩は河北展の常連で、いつも新聞か何か載ったりして、嬉しい思いをしてたんだと思う。で、僕自身はそんなことはどうでもいい話なんでね、姉からは何か言われたけど、審査員になったら来てやるよって。

鏑木:かっこいいですね(笑)。

吉野:でも審査員は大体日展のそういうのの会員だとか、それから何々展会あたりの中堅クラスが来て、審査員やってるだけでね。それも俺はバカにしてたんでね。俺はバカにしたけど、家の中では俺はバカにされてたね。バカなことばっかり言ってるってことでね、バカにされてました。

鏑木:でも、高校生の頃から一貫されているということがよくわかるお話ですね。

吉野:いや一貫はしてない、そっちの方をただ歩いて。何もね、チョイスしながらっていうことじゃなくて、例えばまあこの道しかねえなあって思って、そういうとこでしか、自分の行くとこはないってね。

鏑木:そうだったんですね。

宮田:高校2年生から藝大を目指されて、お母様は何と。

吉野:お袋にはね、藝大は入る前提だと。美術学校に行っても学校の教師にはなれるんだからって説明してね。親父は大反対だから。お袋には学校の先生にはなるって言って。先生になる気はなかったけども。

鏑木:まあ親にはね、そう言って(笑)。

吉野:うん、親には。ただ親ってのは、やっぱり飯を食えるような職業だとか、生活を考えるようになってもらいたい。俺自身は美術をやるってのが先行してて、生活を考えてないんだよ。何も考えてない。だから、ほんとね、単なるバカなんでね。
スロベニアかどっかからやって来たスーチン(注:シャイム・スーチン, Chaïm Soutine、ロシア生まれ)がいると思うとね、それだけで涙が出てくるって感じでね(笑)。あんな飯も食わずにね、バカもんで。それで、まあこっち出てきてから、イタリーの、あの、甘い絵を描いた……

平野:モディリアーニですか。

吉野:モディリアーニだとかね。あれは、まあ、映画なんか見た時も、みんなで何となくちょっとロマンティック過ぎる、センチメンタル過ぎる映画だったけどね。だから、まだね、無分離で、まだ非常に自分中、ハードには整ってない頃かな。そんな物語性と一緒にゴッホだし、ゴーギャンだし、そうするとね、俺37歳になった時何もしてないってね、ゴッホに申し訳ないと思ったもんね。37だよ、37でゴッホ全部やったのちだからね。俺は何もしてないって(笑)。
これで藝大受験に入ったんだよね。ここで。

宮田:高校生の時に絵画以外の美術、例えば雑誌を見ながら彫刻とか、そういう、他の分野に興味は持ちましたか。

吉野:小っちゃい時に自分の親父の仕事で瓦工場を経営してたのがあって、それで粘土がいっぱいあったんですよ。職人が3人位でやってるような小っちゃな工場だったけども、粘土がいっぱいあった。僕らが遊んでる川には黒粘土っていうのと赤粘土っていうのがあって、粘土が取れたから粘土遊びはよくやってた。だからね、彫刻っていう立体感覚ってやつは、小っちゃい時に。雪が降って雪だるまなんか作ると、高校生ぐらいだったかな、ラオコーン像作っちゃった。

鏑木:ええっ! すごいなあ(笑)。

宮田:すごい。雪祭りに出せますね。

吉野:札幌の雪像ほどでかくなく、等身大よりかちょっと小っちゃいもんだけど。あと、土手の桜の木を切った時に、ショッケ氏の肖像って誰かの作品であったな。桜の木に生木をノミで彫るとものすごいサッサッサッサッ、刃物が入って、ものすごい彫りやすい。それでショッケ氏の肖像みたいな、男の肖像みたいなやつを彫る。そういう時、やっぱり遊びだからね、休みが無いんだよ。朝から晩までもうずうっと、カーッとやってるわけ。で2日位で仕上がっちゃう。
絵を描こうと思ってたわけで、立体をしたいとは別に思ってないけども、立体に対しての、何かがあったかもしれないね。後で自分で立体を作った時に、立体っていうのは、アンデパンダンからネオ・ダダまで。まあ立体とは呼べない、オブジェだけどね。オブジェみたいなその、立体の感覚を自分の中にちょっと持ってた、みたいなね。だから下手な立体を見て、小島(信明)さんが作るかぶり物でもね、あまりにもね、こいつただ突っ立ってるだけだなって思ったりしてね(笑)。小島さんのはすごいいい作品だと思ってましたけど。誰かに感動したかっていうと、三木(富雄)と小島には感動した、感心したっていうのはありますね。
立体的な感覚は自分の遊びの中で。だって実際僕らは何の遊び道具も無かったんでね、自分達でその遊びを作ってたね。

平野:いや、今の話は面白いです。犬(の作品)以降の造形って、やっぱり立体が中心になってくる。それが子どもの時のそういうエピソードから何かつながってきたなと(笑)。

鏑木:ね、つながりましたね。私もここで出てくるんだなあと思いました。

吉野:定型の3次元像じゃなくて、それを動かした状態を全部描けるっていうのは、子どもの頃の遊びで培ったんだろうなあと思うんだ。人物の立体を作るとき、その重力に対して正しい3次元の立像じゃなくて、それを空中に、3次元の中に持ち出して、3次元を3次元の中に持ち出して、多視角で物を見た状態をまた描く。それね、美術家全員がやれるわけじゃないかもしれないね。

鏑木:そうだと思います。

宮田:今みたいなお話につながる体験は、高校生くらいから、観る興味というか、観る感覚っていうのがあったのですか。

吉野:「見る」っていう?

宮田:「観ること」を疑うというか。

吉野:意識的に見るってことはなかっただろうと思う。藝大受験だから、せっせ、石膏デッサンはするよね。本当に頭が痛くなるまで、毎日石膏デッサンをやった。藝大の受験教科って3教科なんです。だからそれ以外の教科は出ないんだよ(笑)、ずるいんだけどね。2年の時にその河北賞を取ったりなんかしてるもんだから、教師も赤点くれないんですよ。授業出ない、試験も受けない。赤点、あの頃はアカボウって言って、40点以下はアカボウで追試があるんだけど、俺の場合は無い。学校に貢献してるって(笑)。それでもう美術室でひたすらデッサンしてたね。[高校の卒業式も受験中のため欠席した。]

宮田:藝大の試験で出たデッサンのモチーフは何だったんですか。

吉野:何だったっけなあ。…… えー、ちょっと忘れたなあ。…… 武蔵美のやつは覚えてるけども。簡単なアバタのビーナスだったから(笑)。藝大はね、もうちょっと、大型のやつだったと思うけどね。

宮田:初めて受けた時には落ちてしまった。

吉野:初めてっていうか1回だけね。

宮田:そうですね、1回受けた時に落ちてしまって……、ショックでしたね。

吉野:まあ、ショックではあったね、落ちるってことは。ショックったって、滅茶苦茶なショックじゃなくて、まあ、人数も人数だしな、と思った。それから、自分は田舎もんだなってことを実感したね。

宮田:その後に、どういう行動に出るんですか。

吉野:それから、4月ちょっと中間位かな。同じ学校出身で一緒に藝大受けた遠藤駿二君っていうのがいて、彼が御茶の水美術学院が受験科を創設するっていうのを『美術手帖』かなんかで見たのかな。遠藤君がそこに行くって言ったんで、じゃあ俺もって御茶美に入って、それで、デッサンやらされて。デッサンはすぐ終わって、ヌードデッサンに行って。
御茶美で出会った中で、その後石橋別人を名乗った石橋清治と、岩崎邦彦、それから田辺三太郎。田辺はデザイン科にいたの。俺達が何か面白そうにしゃべってるから田辺もこっち来ちゃってね。それでつるんで。その頃画廊がそんな多くないんだけど、銀座に行って画廊を回ったり。それから、現代美術にちょっとずつ興味を持ってったっていうのが、御茶美の時代かな。石橋はリーダーで、アンフォルメルをやったりしてね。俺はアンフォルメルをやろうとは思わなかった。ただ、時間的なものについて、時間的な作品について興味があって。その後、その翌年のアンデパンダンに、何か出そうと思ってちょっと用意してたんだけど、どうもちゃんとまとまらなかった。その頃から会場でギュウチャン(篠原有司男)なんかとちょっと話をするようになって、「篠原さん」とか言ってね。小汚い作品を作ってる、《地上最大の自画像》(1960年)だとか、《こうなったら、やけくそだ!》(1959年)は前年か。《地上最大の自画像》なんてただ汚えドンゴロス、拾ってきたようなドンゴロスを集めて、長さが5メーター、3メーター位のやつで、4メーター位か。汚えなあって思ってね。ただまあ、題名は、あ、これはすごい、と思ったけどね。地上最大。

鏑木:(篠原有司男『前衛の道』完全復刻版、美術出版社、2006年を見ながら)これですかね、《地上最大の自画像》。

吉野:こんなきれいじゃなかったけど。

鏑木:これね、ギュウチャンの当時の。

平野:この頃だから(笑)。どんな画廊に行かれてたんですかね。

吉野:東京(画廊)、南(画廊)があったと思う。それから、サトウ画廊もあって、サトウ画廊は貸画廊だけど、村松(画廊)、銀座画廊、それとね、櫟(画廊)もあったろうし。あと、タケミヤ(画廊)。タケミヤはあんまり行かなかったけどね、瀧口さんが企画したりした。

宮田:これは1966年の『美術手帖』です。ちょっとご覧になりますか(注:三木多聞「月評」p. 135に村松画廊での個展に出品された作品が掲載されている/御茶美時代より5年ほど後の画廊マップであるため様子が異なり、掲載画廊数も増えている)。

吉野:(pp. 142-145「展覧会だより(東京)」の画廊一覧を見ながら)ああ、兜屋(画廊)ってそういうのあったね。壱番館(画廊)は後で出てきた。梅花亭(ギャラリー)六本木にあったな、フランネル(画廊)あったな、磯谷(画廊)って知らない、美松(書房画廊)もあったな。多分この辺は行かない。東京画廊。日動サロンは当然行かない。ギャラリー創苑ってやつも行かないし。サトウ画廊だろう、それから、壱番館はあとで出てきたやつだ、兜屋は行かない、資生堂(ギャラリー)も行かない。あ、資生堂は……行かないな。櫟は行ったね。それと、(銀座)ヤマト画廊も行かない。村松があって、(画廊)クリスタルも竹川(画廊)、中央(画廊)はないない、文藝春秋画廊は、行くね。ああ、サヱグサ(画廊丸ノ内店)も養清堂(画廊)もあったけど行かない。で、大体そんなもんですよ、行ったってのは。(この辺は)もう後だからね、画廊巡りをしていた後にできた。(ページをめくって)、シロタ(画廊)も後、ルナミ(画廊)はずっと後。銀座画廊は昔からあった、貸画廊。夢土(画廊)も後で、昭和(画廊)、南天子(画廊)はあったな前から。日本橋(画廊)もあったけど前からね。日本画廊も、丸善(画廊)もときわ(画廊)、秋山(画廊)も後でできた。スルガ台(画廊)はいつからだろうな。紀伊國屋(画廊)もあったな。新宿画廊、椿(近代画廊)なんて、これ『美術手帖』の60年何年だ? (表紙を見て)あ、岡本信治郎さん。

鏑木:御茶美時代に行かれていた画廊で見た展覧会で、印象に残ってるのは。

吉野:記憶に残ったってのは、覚えてない。毎週行ってるから、見て感動したりしてるはずだけど。今、記憶を取りだしてみると……、ティンゲリーがやったり、あ、それは御茶美の頃じゃないな。もっと後だけどね、南でやったのは。誰だ…… あのちょっと厚塗りした、ものすごい存在感。日本で言うと鳥海青児がどうのこうのなんて言ってる時に、白い、厚み……《人質》っていう作品誰だっけあれ。

平野:(ジャン・)フォートリエ。

吉野:フォートリエ。フォートリエ見た時なんかちょっとぶっ飛んじゃったりなんかしてね。それ後だけどね。フォートリエはぶっ飛んだね。あのー、すごいなと思ってね(注:「フォートリエ展」南画廊、1959年11月21日-12月5日)。

宮田:ちょっと前に戻るんですけど、東京に住み始めた頃の、上京してきた時の印象は覚えておられますか。

吉野:最初の受験の時は、幡ヶ谷の姉の嫁入り先に行って、御茶美に入ろうと思って来た時は伯母が住んでた京浜急行沿線。見事に汚え路線だと(笑)。品川から出る時からもう周り真っ黒なんだよ、煤けて。品川の駅からもうガスの臭いがしているしね、汚えなあと思ってね。生麦ってところに住んで、生麦ってのはビール会社があったけども、これも漏れたガスの臭いみたいなね。風景は空襲の後でもうだいぶ経ってたけど、真っ黒だしね、汚い。もう本当にねえ、汚え町だなって思ってね。自分の生まれたところと対比して言ってるんじゃなくて、とにかく汚い。東京中汚かったってのはあったな、あの頃はまだ。今と違う、それから10年後とも違うし。東京オリンピックだとか、その後にきれいになっていくんだろうけど。オリンピック前はまだバラックがその辺にみんなあって、舗装されてる道路も少なくてね。その後に急激に高速道路をこんなに作り出したんだから。戦後も遠くになりにけりなんて言ってたけど、初めて来て、完全に戦後の姿なんだよね、まだ。
伯母さんと伯父さんがその生麦の駅前で本屋をやってた。パチンコと競艇に狂ってるおじさんで、ズボンのポケットはいつもパチンコの玉で穴が空いてて、そのうち食い潰しちゃって(笑)。それで、まあその後はあんまり、近づかないようになったんだ。平和島の競艇とパチンコで身を持ち崩すっていうかな。とにかく、半年位おばさんのところに厄介になったのかな。だから京急で御茶ノ水まで来て。

宮田:その横浜からどこに引っ越したんですか。

吉野:こっちは生産性が1個もない、飯の食い方知らない人間だからね。だから姉のところにでも転がり込んだんじゃないかなあ。で、おっかさんが細々ながらいくらか、あの時7千円位だな。もし3畳借りたら家賃3千円取られちゃうわけ。4畳半借りると4千5百円位取られて、そうすると、物食うお金がなくなっちゃう。だから姉のところでも転がり込んだんじゃないかな。[夏や冬は帰省し、夏は友人と蔵王に登っていた。]

宮田:美術学院に通ってる頃はどういう1日の流れだったんですか。授業は何時から、とか。

吉野:予備校みたいなところだから、学科の授業は無かったですね。デッサンだけ。上半期で石膏デッサンが終わって、後半から裸婦デッサンだった。別に面白くも何ともないんでそのうち石橋たちとさ、何人かでグダグダ遊び回ってるっていう、世迷い言しゃべりながら。あの頃は、芸術論ってやつがあったんだよね。芸術論って言ったって、自分達で小っちゃな頭でああだこうだしゃべってるわけだから。でもその中で、後につながってくようなこと議論もしたと思う、その時間的な。まあ時代がねえ、ちょっと、情報量が増えていった時なんですよ。テレビのNHKだけじゃなくて、民放が始まったり、週刊誌がもうちょっと数多く出はじめたりね。文字媒体も増える、電波の媒体も増える。

平野:時間的な表現に興味を持ち始めたきっかけは、何だったんですか。

吉野:やっぱり自分でやってる中でそういうことになってったんだろうね。

平野:現代美術や同時代の、美術で時間の表現をやってるものからの影響ではなくて、自分の内から。

吉野:うん、そうじゃなくて、何か考える……、家にあった読みにくいキルケゴールの実存哲学から始まって、友達が読んでたニーチェを読んで、これ一向にわからずにね。日本語訳は本文より解説がずっと長いわけだからね。『神々の黄昏』、『侏儒の言葉』だとか読むうちに、『ツァラトゥストラはかく語りき』だとか、とにかく、やっつけなくちゃと思って。でも内容から受ける感動ってものは、あんまりなかったように思う。ただ、『ツァラトゥストラはかく語りき』の超人主義みたいな、下々の者とちょっと距離を置いてね、超然としなくちゃいけないみたいなところはちょっとあったのかもしらん。その後に今度はサルトルが流行って、実存だと、サルトルにちょっと噛みついたり。それでも『嘔吐』から始まるわけだから。ジャン・ジュネを読んでるうちに、面白いって思ったり。一番ビタッと来たのはやっぱり『異邦人』。カミュの『異邦人』でやっと自分で動きが取れるっていう。後で読み返したら何で動きが取れたかよくわかんないんだけど。借り物かなんかのピストルで1発撃っただけでね。自分ももしかすると死んでいくかもしれない、というような気分になるというか、行動しなくちゃいけないっていうのがね。良かれ悪しかれ行動して初めて次の動きが生まれてくる。で、生まれてきた動きからまた次の動きが生まれてくるというような行動原理、そういうことをカミュに教えられたような気がするね。あと、『ペスト』でもっと別の感覚になるけども。59年位かな、60年になってたね。読んで、それで「やっぱり行動」って思った。58年に藝大落っこって、そこで半年位ズルズルしてると、何か、立つ瀬がないんだ。やっぱ学校に入るかなと思って、武蔵美が後期生募集をやってたんで、受けた。
その前に武蔵美を受けたらね、御茶美の、俺がデッサン直してやったりした連中がみんな通って、7人。俺と石橋とそれと米谷さんっていうちょっと年上の女性、3人は落とされた。募集定員が足りないのに落としてるって聞いて。石橋は面接で議論を始めて、米谷さんは「あたし年だから」とか言って、俺が一番無傷だっていうんでね、「たっちゃん聞いてこい」って言うから、俺が学長のところまで行かされて、学長に「何で落としたんですか」って聞いたら、厚い学籍簿をめくりながら、「何とも言えませんね」とか言うの(笑)。「ああ、そうですか」って帰ってきた。そしたら(後で聞いたら)、武蔵美は学校をその後大学にするために学校債券を売り出していて、で学校債券を買わなくちゃいけなかったっていう。それと、その時俺、田舎の家の裏の洋服屋さんで作ってもらったオレンジ色に近いコーデュロイ穿いて、格好つけてやってたんだ、煙草吸いながら。アバタのビーナス(のデッサン)だから、ポンポンポンと2、3回叩いてすぐできちゃうわけだ。生意気だと思われたのは確かかな。武蔵美も落ちるってのはね、これしょうがねえなと思ってね(笑)。
それで半年間ブラブラしてたら、どうも寄る辺ない、立つ瀬がねえみたいな感じになってね。後期生があるから、じゃあ後期生で入ろうと思って。今度は黒いズボン穿いて白いシャツ着てね。ちゃんと油の色をぶっ飛ばしたりしないで、デッサンもちゃんとやって、ちゃんと絵を描いて、真面目な顔、真面目なような顔をしてやってたんだ。煙草も吹かさないでやったら、入ったんだよね。入ってデッサンしてたら、褒められまくってね(笑)。みんな下手だからね。ビーナスの首を描かされてるだけなのに「吉野さんみたいにちゃんと、下は台形で、首は円筒で、上が球で」って(解説されて)。またこんなとこでデッサンすんのか、っと思ったけどね。藝大はどうか知らないけど、武蔵美と確か多摩美は後期生は夜間なんですよ。昼、仕事している奴も来る。絵が好きだって奴が来るんで、美術家になろうなんて思って(いる人はいない)。だから同級生を見てるとね、ものすごいだるくなってくるところがあったんだね(笑)。女の子もいるんだけど、美人が少なかったかな。御茶美はすぐそばに文化学院があって、女の子がペチコートを何枚も重ねたようなスカート穿いてね、ドールシューズを履いてポニーテールで、ピカピカしてるわけだ。武蔵美はそういうのはいなくて、下手なデッサンしてるわけでしょう。行っても面白くねえなと思って(笑)。
その半年前に田辺が入ってたんで、田辺は昼間来て、俺が来るまで待って(よくつるんでいた)。お風呂屋のすぐそばに焼鳥屋があって、そこで2人で座って、田辺は「もつ焼きなんか食うの初めてだ」とか言いながらね、もつ焼きと焼酎飲んだりして、学校はほとんど顔出さないで。それでも2年になったんだよね。ただ出席日数が足んないから、学科は受けさせてくれなかった。高畠さんっていうフランス語の教師が、非常に優遇して付き合ってくれて、フランス語の試験の時に辞書まで貸してくれて。ところが授業に出てないから、フランス語、アーベーセーがわからないわけだ(笑)。「先生、申し訳ありません」って言って、白紙で提出するような羽目になって。そんな何回も同じことをやるなと。武蔵美出身のクラス担当も本当によくしてくれたけど、たまに行くとね、「ちょっと吉野さん、話が」って呼ばれて、担当が持ってる煙草にマッチで点けて2人(で吸って)、「出席をもうちょっと増やしてもらわないと……そうねえ、もうちょっと顔を出さなくちゃいけないね」とか、はっきり言わない。だから、「ああ、そうですか」って。
油絵の教師が、藤井令太郎さんっていう、何会か知らないけど、椅子を描いてて、黄色い背景で描いてる人がいて、「絵画は存在だ」と言ってるんだよ。で、ふざけんじゃねえと(笑)。無生物に存在って言葉使っていいのかと(笑)。「はいはい」ってやったらね、向こうもムキになって。俺が顔を出すともうムキになって。[1960年にベトナム戦争が始まった。]

宮田:目の敵にされちゃったんですね。

吉野:うん。「存在」が流行ってたからね。どんなもんでも存在って使えば今流だと、お前頭悪いんじゃないのかって、教師には言わないけど、まあ頭悪いんだろうと思って。

鏑木:武蔵美はちょっと、物足りなかったんですね。

吉野:物足りないって、あんまり学校には期待してなかった。学校に行ってどうせまた同じデッサンやっても。もうわかったっていうのは、学校に行って自由な時間があればの話だけど、高校でやって、予備校でやって、また学校ね。上のクラスの学校行くと、パンツの脱ぎ穿きをまた最初から始めんのかと思ったら、ああこれはやっぱりしょうがねえなと思って。だから別に学校に行かなくてもいいだろうと思ったら、自分で何かやるような時間が必要だったってことだね。ところが、(大学は)2年で終わったからね。俺には来ないで、おっかさんのとこに退学になりましたって通知がいった。おっかさんから手紙が届いて、お前はもう学生じゃないって、仕送りを断られちゃって(笑)。なくなったんで、居場所がないと思ってね。

宮田:武蔵美に入られてから、あまり学校に行かない間は何をされてたんですか。

吉野:ずるずるしてたんだろうねえ、何かわかんないけども。画廊巡りもするだろうし。金がないからそんな飲むわけいかないしね。本読んだりはしてたと思うけど。ちょっと友達と会うってこともやってたとは思う。

宮田:その頃も映画も見てたんですか。

吉野:安い映画はよく見てたと思う。フランス映画や、ヌーベルバーグなんかも入ってくるようになったし。

宮田:大学を退学になってから、次はどんな行動に出たんですか。

吉野:退学になってるっていう時はもうネオ・ダダやってたから。退学したのは61年だからね。59年から60年の冬から春にかけて田舎に帰って、親父の経営してる採石場があったんで、アルバイトで出席係をした。朝行って出席取って、日中本を読んで、昼飯弁当食って。たまに近所から飯盒に入ったドブロクをもらうと、家に持って帰ってくれって言われているのに半分位そこで飲んじゃったり (笑)。2、3キロあったかな、自転車コキコキ漕いで、自分ちに半分位入った飯盒ぶら下げて帰る。だから、ネオ・ダダの1回展(1960年4月)の時はいなかった。

平野:石橋さんと田辺さんがネオ・ダダとのパイプ役になったわけですか。

吉野:そうそう。石橋と岩崎邦彦がその時ね、最初はマッさん(吉村益信)と会合をやっていて、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー(ズ)」の前は、えーと、全日本何とかクラブみたいな。

鏑木:「オール・ジャパン」ですね。

吉野:オール・ジャパン。吉村マッさんが提案したのはグループの結成だったんでね。どういうふうなことを言ったかは自分の耳でははっきり聞いてないけども、マッさんがギュウチャンを誘おうって言って。マッさんは、大分の「新世紀群」っていうのがあって、今名前出てこないけど、絵具屋の何とか(注:画材店キムラヤ)に磯崎新さんなんかもいて、みんなで新世紀群っていうのを作って。それが母体になったんだね。マッさんが武蔵美を卒業して何年か経って、赤瀬川(原平)に声かけて。赤瀬川も胃潰瘍でちょっと胃を切ったりなんかして、名古屋でひっくり返ってるぐらいの時かな。その時、伊勢湾台風59年だっけ。

鏑木:そうですね、赤瀬川さんは伊勢湾台風に遭われたっていう。

吉野:武蔵美の時に名古屋の奴が1人いて、泣きながら、家族全部亡くしたって言って。伊勢湾台風の後だ。その時うまい具合に俺は学校行ってたんだ。泣きながら学校に来て、ほかに言う奴が誰もいなかったんだろうね、あいつは。学校に来てしゃべるぐらいしかなかったんだと思う。家族を全部失ったって。赤瀬川も伊勢湾台風に遭ってんだよね。お父さんが三井倉庫に勤めてたんで、海のそばに住んでたと思う。それの後だから。
そんな具合で、マッさんが赤瀬川に声かけて、赤瀬川が風倉(匠)と友達だった。それから、名古屋に移った、旭丘(愛知県立旭丘高等学校)の同級生の荒川(修作)。名古屋には岩田信(市)ちゃんとかいろんなのがいるけど、荒川が先行して。それともう1人、学年は一緒だけど、1個年上(に)なるのかな、岸本清子(さやこ)っていうのがね。岸本清ちゃんは、旭丘、赤瀬川の流れから出て来て、それとギュウチャンに声かけたもんだからギュウチャンと、入らなかった三木富雄がいる。と三木富雄の友達の豊島壮六がいて、ギュウチャンの友達と工藤(哲巳)もいて。ギュウチャンとはアンパン以来、僕らは声を掛け合うようになっていて。石橋と岩崎がギュウチャンの流れと一緒になって、良く話すようになっていた。
1回展が4月、銀座画廊だったかな。それは見に行ってないけども。

鏑木:銀座画廊ですね。

吉野:銀座画廊は貸画廊なんだけど、おそらく安く借りたんだろう、金持ってないから。1回展が終わった後に、俺が東京来た時に、石橋がネオ・ダダのメンバーになっていた。石橋は年齢は1個位上かな。三木はもうその時からドスキンの、ドスキンってあの頃で言うと上等の生地なんだけど、俺が行った時には、そのドスキンの白いスーツを着込んで、梯子の上に登って睥睨してるっていうようなね(笑)。お前らみたいな、有象無象と俺は違うんだぞってみたいな顔してるけど、そこにいるんだよ。一緒にいるのは楽しい。工藤もそう。だから有象無象にはならないっていうこと。でも石橋が三木とちょっと何かあったらしかった。石橋がもう俺は行かないから、吉野行けっていうような感じで、4月の終わり、30日位だったけども、(インタヴューの休憩時間に)さっき言った、(新宿ホワイトハウス近くの)マルイシの酒屋の角んとこで、ギュウチャンと会って。ギュウチャンは小汚え開襟の半袖シャツと汚えズボン穿いてね。ズック靴の後ろ踏み潰したの履いてケツを振り立てながら歩いてたね、俺の前を。「篠原さん」って声かけたら、「おう、お前か」って言うんだよね。(強度近視で)見えないから。全然見えないんだよ。ギュウチャンの場合、誰が相手でも、「ああお前か」「ああ!」「よう!」って(笑)。

宮田:言い方似てますね(笑)。

吉野:誰でもいいんだよ。誰でも自分のファンだと思ってるから。それで、ギュウチャンと一緒にマッさんところ行って。でマッさんを見たらね、こんな太った絵描きがいていいのかって思ったね(笑)。それを後で言ったらマッさん、何か悲しそうな顔してた。それから新宿のマッさんのところに行くようになって、大体土曜日が会合だったんだけども、それ以外にも行って、マルイシ酒屋もあるし。あの細い、職安通りの前に揚げ物屋が1軒あって、アジの唐揚げだとか5円で売ってて。玉うどん買ってきて、それで醤油、いや醤油でないような醤油をちょっと煮立てたようなうどん作って、揚げ物を乗せて、そうすると1食済むわけだから(笑)。マッさんも一生懸命みんなの世話を見ようと思っててね。あの人の実家が薬問屋なんで、池袋の三共製薬だとかその辺の薬メーカーに行って、絵を売りつけるんだよ。5万円、1点5万円だからすごいなあと思った。5万円だと、1割源泉で取られるから、4万5千円くれるんだけどね。そうすると大盤振る舞いになって(笑)。何回かやったなあ、マッさん。
で、マッさんね、後でギュウチャンが「また吉村、誰かの真似してんだろう」なんてしきりに言うみたいに(笑)。膨大な、誰かの絵と似たような絵をいっぱい描いてるんだよ。滅茶苦茶いっぱい。吉村マッさんは、ほんと仕事師って感じで、ほんっと一生懸命作品を作る。それでどこか誰かに似てるところがあって。だからオリジナルでやるのは、ネオ・ダダ以降の石膏の作品《殺打駄氏の塔<幽閉されたハレム>》(1961年、大分市美術館蔵<http://www.city.oita.oita.jp/o210/bunkasports/bunka/documents/4f3864b1002.pdf>参照2018/06/26)を作ったとき。初めて、ああ、これは吉村のオリジナリティだと思うようなところに行った。
石橋とチェンジして僕が4月30日位かな、後にホワイトハウスと呼称するようになった、マッさんのアトリエに行って。何かちょっと固い感じで入っていったのかも知れない。でもすぐ軟化しちゃって。やっぱりこいつらはちょっと面白えわと思ってね(笑)。それで馴染んで、ちょっと時間が経ってから、田中(信太郎)も来るようになったし、田辺も連れてって。6月前だと思うな、5月中位。友達を連れた米谷さんや、御茶美の時の友達も一緒にそこ集まって騒ぐようになって。僕らの友達ばっかりじゃなくて、いろんな奴がいっぱい来た。展覧会ってなると、1回展を出した中でも消えてく奴もいたし、やっぱり先鋭的な奴は残っていくんだよね。油絵具でペタッていうのもあったんだけども、それは2回展(1960年7月、新宿ホワイトハウス)位からなくなっていく。1回展で上野紀三さんて出ていると思うけど、2回展はもういなくなってる。信太郎と岸本清ちゃんと僕と田辺の4人、そこに入って、みんな若いんで、ほんと右も左も何もわかんないっていうような幼稚園生だよね、あそこの中で言うと。
話、ネオ・ダダのとっかかりまでいったね。

宮田:はい、結構なお時間になっているので。

鏑木:どうしましょうか。

吉野:ネオ・ダダの2回展まではいってないっていうことね。それから次にやる?

宮田:そうですね。その、初めての作品を出すところとかも聞きたくなっちゃうので。

吉野:じゃあ、ネクストか。じゃあね、ネオ・ダダ入って、安保だとか社会的な背景についてもうちょっとしゃべっとかないと。

平野:それ、ネオ・ダダに入る頃とほぼ同じ頃ですよね。

吉野:その政治的な背景ばっかじゃなくて。それと社会的な、…… インタレスティングみたいなそういうのもあるんだろうし。……僕らが参加した安保の動きだとかね。

鏑木:吉野さんはデモに行かれたことがあるって聞きました。

吉野:あります。

鏑木:平野さんのインタヴューでもおっしゃっていましたよね。

吉野:うん。田辺を誘って、その前日のゼネストから、6.15の国会討ち入りの時に。じゃあ次のチャンスとしよう。はい。

平野:じゃあ1つだけ最後に質問を。升沢金平さんは昔から、高校の頃から接点があったんですか。

吉野:接点があったんじゃなくてね、あいつも宮城県だから。宮城県で一番いい学校の出身(笑)。あいつが高校2年の時に、升沢金平、升沢満雄なんだけどね。升沢、マン、ユウって描くんだけどね、ミツオ。それで、彼が高校の美術展で教育委員会賞って1等賞を取ったんだよ、すごいテクニックのいい人でね。

鏑木:そうなんですか。

吉野:日比谷(画廊)での3回展(1960年9月1-7日)、その前、土曜日かなんかに金平さんがやって来て、工藤が連れて来たんじゃなかったかな。その時にあいつ、仙台一高のバックルしてんしたんだよ。「あ、お前升沢か」って言ったら「んだ(そうだ)」って、全然ズーズー弁抜けない人だからね。

平野:東京に来られる前からお名前は知ってたんですか。

吉野:いや。お互いに、高校展の時に1等賞、2等賞だっただけ。

宮田:名前を覚えてたんですね。

平野:すごいですね(笑)。

鏑木:ねえ、ここでまた出会うということですか。

吉野:40いくつも都道府県がある中で、何で宮城県の2人が出会ってんのかね。

平野:ネオ・ダダに入ったきっかけは別に何も関係ないと。

吉野:関係ない。

平野:面白いですね、それちょっとお聞きしたかったんです。ありがとうございました。

一同:長い時間ありがとうございました。