池上:前回、ダイオキシンの、スズヤさんのところまで話を聞いたので、今日は、大きい作品で残っている唯一の作品ということになるのでしょうか、尼崎の(スポーツセンター)記念公園にある《AMAMAMA》(1986年)という作品についてお話を聞きたいと思います。これは、尼崎の方から、「こういうのを作りませんか」と言ってきたんですか。
榎:ポートピアでロブスター作ったでしょ、でっかい宇宙船みたいなの。そこは乃村工藝が担当してたわけ、僕のテーマ館の作品なんかを。その時乃村工藝も、向こうの資料とかそういうのがごっついデザイン賞を取ったりして、すごく喜んでくれて。尼崎の方で、市制70周年かなんかいうことで、乃村工藝もそれに関わることになったわけ。その時、僕にモニュメントみたいなのを作ってくれ、いうて。この競技場、尼崎のスポーツ記念センターやけど、そこへこの門から入場するわけ。今はちょっと変わってしまったんだけど。ここへ入場する時のひとつのシンボルみたいな彫刻をやってほしい、いうて。僕はそういう彫刻的なものはあまり面白ないからやりたくなかったんだけど、「好きなこと考えてくれ」いうて、3つぐらいプラン出したんかな。なかなかオッケーが出なかったわけ。
このプランも出したんや、これ。これ作りたかったわけ(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、230 頁)。これね、一応15メートルぐらいになってるの。ほんとは30メーターぐらいに作りたかったわけ。これ作るのでも、基礎とかそんなので、もう重量的にもすごい、100トンとかそんなのになる感じ。機械の部品とか、大型のやつをダーッと取り付けて組んでいくわけ。そういうプランを出したんやけど、これはもう費用がすごくかかるし日数もかかるということで、このプランはだめになって。それでこいつを出したんかな。そして、これが面白いんだけど、僕が図面に構想を描いたら、かなりこれも重量的になるし、色も黒色いうたら、向こうは公園やし、「子どもが寄りつかない」いうてね。それで向こうは、ピンクとかブルーとか「子どもが好きな色にしてほしい」言うわけ。いや、「こんなのピンクにしたら面白くないし、やっぱり僕は黒でやりたい」いうて。それで色々向こうも、「それはあかん」とかなんか言うたんやけど。もう大人が決めつけてしまってるというのか、「子どもってこういうもんや」いうて。
池上:ピンクが好きとか、思い込みですよね。
榎:そうそう。怖いもんでも、最初子どもは寄りたくても、怖いいうのがこれの面白さやねん。みんなドキドキしてね。小さい時に、どういうのか、怖いから兄ちゃんと一緒に行くとか、近所の親ブン、ガキ大将みたいな人に連れて行ってもらうとか、そういう中で子どもって育っていくもんやと思うんよ。そういうこと言うたら向こうも一応納得してくれて。市長が、革新的で変わった人いうのか、「何かガッと来るようなものがやりたい」いう人やったんや、市長が。で、一発でこれも気に入ってくれて。
江上・池上:へえ。
榎:これも気に入ってくれてたんやけどね。まあ市長が金出すのとちがうからね(笑)。「おっ、これええな」とか言うたんやけど、結局、そこの下の人が検討とかそんなのしたら、これはちょっと費用的とか日数的に無理や、いうて。これはまあそういうことを話したらなんとかオッケーになって、それでかかったんだけど。(最初のプランでは)中へ入ってね、階段が五重塔みたいになって、だんだん上がっていけるようになっとるの。
池上:そういうプランなんですね。
榎:うん。それで、上がパッと開いて、レーザー光線みたいなのが出るような。「宇宙との交信」って言いよったんやけど(笑)。まあこのプランはだめになったんだけど。そういう構想を話したんやけどね、とにかく重量的に過ぎて、ちょっと無理いうのか。ほんとは万博にある太陽の塔に負けないような大きさに作りたかったわけ。
池上:ああいう背が高いのを。
榎:うん。最初からそういう大きいプラン出したら通らないからね。だいたいこういう感じで。こういうのを見せたら向こうの人がびっくりするから、徐々に。1年目まず作って、2年目にこのぐらい作って、3年かかって作ろうとしてたんだけど、向こうの人は、70周年記念やから、いつやるというのが決まってるからそういうことはできない、いうてね。で、これはだめになって、このプランを出したら一応オッケーになって。だからこれをやるまでにいきさつがあったんや、結構もめて。黒い色もそうやけど、こういうふうに子どもが上がるとか、いろんな問題があったんやけど、徐々にやりながら解決していこうということで。でもここへ作って1年もしないうちに、いろんな人が集まってきて、夜になったら暴走族みたいなののたまり場になるわけ。で、ここでシンナーとかそういう。時期も時期やったんかな。
池上:ちょうど80年代後半というと、ヤンキー文化が(笑)。
榎:そういう人が集まってくるいうて、「そらみたか」いう感じで言われたんだけど。すぐそばに交番所があるんよ。そこへ僕ら頼みに行って、「そういう人が集まってきたらちょっと見守ってくれ」って言うたんや。すぐそばにあんの。ほんとにそこに車置いてるぐらいのとこに交番所があるの。だけど何かが起こらなかったら出られないんやって、警察の方も。近所の人から要請があったら出れるけど。そういう中でまたいろんな問題が出て。で、最終的に、ホームレスがここを家にしてしもてね(笑)。バッテリー持ってきて、電気つけて、布団やら持ち込んで、中入ってね。雨は大丈夫やから。それで近所の人とかが、「子どもが、ホームレスのおじさんがおったら怖がって入れないから、どないかしてくれ」いうて。
一度この辺を、スポーツセンター自体を全部やり替えする時期になってたわけ。木がいっぱいあったわけ、作った時は。だから外から見えないから、不良少年とかそういうののたまり場になって。だから全部木を切って、工事する間に封鎖してほしいいうことで、いっぺん口のとことかお尻のとこを封鎖したんだけど。1年ぐらい工事になるからいうことで。で、1年して工事終わってもなかなか解いてくれないの、フタを締めたやつを。溶接で留めてしまってるから、入れないように。それはもう5年かかったかな、フタを開けてくれ、いうて。これは見るだけのものちがうからね。中へ子どもが入って完成するような作品やから、いうことで。なんやかんや言うて、向こうはなかなかそういうことやってくれないわけ。友だちに「新聞に書いてほしい」いうて。「これは見るだけのモニュメントでない、子どもが関わって初めて完成するような作品やから」いうて。だけど向こうはなかなかね、動いてくれないの。だけど5年粘った。
その頃、ちょうど尼崎の役所の方で、何かいろんな癒着とかがあったらしいわ。それが新聞にポンポン載りだした頃やった。その時「あ、これ、ええ時期や」と思ってね、それで知り合いの友だちに頼んで、このことを書いてほしい、いうて。向こうは「新聞だけには書いてくれるな」いうてね。「そしたらやってくれ」言うんだけど、それもなかなかやってくれなかったんだけど。だけど新聞に実際載せたの。朝日とか毎日とかいろんな新聞が書いてくれて。「これはもう死んでしまった作品になってる」いうてね。
速水(史朗)さんも阪神の尼崎駅前に、大きい石の上に、丸いでっかい餅みたいな石を置いてる作品があったんや。それが、夏はいいわけ。真ん中のこういう四角が噴水で見えなくなって、噴水で石が浮き上がったように見えるわけ。それが、冬は水が凍るからって、止めてるわけ、噴水。そしたら全然機能しなくなってしまったわけ。で、また僕らの友だちに、そういう彫刻とかモニュメントは、作る時はいいんだけど、後のメンテナンスとかそういうことは放ったらかしやいうことで、色々書いてもらって。それで向こうも、なんやかんやグダグダ言いながらも動き出したんかな。それでなんとか今は元気に動いてるんだけど。
これも去年、色の塗り替えしたんよ。錆びてね。それもお金がかかることやから、なかなか動いてくれないの。だけど粘って、色の塗り替えして。その後が、江上さんとも見に行った時やと思うわ。この目玉も20年以上たってたから、ホコリとかなんかでだいぶ薄暗くなってしまって、入れ替えしたりね。
池上:これは作る時に、工場の方に「この大きさで」というふうに頼まれたんですか。
榎:工場の方でね。これもまた知り合いとか乃村工藝とかが応援してくれて。最初は尼崎市の70周年やから、いろんな大きな尼崎の工業関係、企業関係をずっと調査に行くわけ。そこのスクラップとか、使えるもんは協力してもらう、いうような感じで。そんで色々行ったんや。三菱電機とかいろんなのを見に行って。最終的には久保田鉄工が協力してくれるようになったんだけど。
池上:久保田鉄工さんの工場で作ったんですか。
榎:そう。久保田鉄工の下請けの製管会社いうのがあんの。そこがまた今、面白くなってきてるんやけど。その製管会社が、東京のスカイツリーとか、あれをやったとこの会社やねん。それは後で分かったんやけどね(笑)。それは、ベロ耳ってあったやん?
江上:ええ。あれが入口。
榎:あれをこの時僕はもう発見しとった。面白いのがあるなと思て。溶接の最初にグニュッとなる。エンドタブいうのか。
江上:製管の端っこになるやつですよね。
榎:そうそう。パイプいうのは、鋳物で型を作って地下に埋め込んでいく土管やねん。水を通したり、油通したりいう。だけどあれは立てることはできない。鋳物でやってるから、弱いの。だからああいう鉄板を曲げて、溶接して作っていくわけ。それやったらものすごく強いわけ、パイプにしたって。だから使い方によって、パイプなんかでもああいうふうに作っていく。鉄板から作っていくパイプと、型に流し込んで作っていくパイプでは、作り方が違う。
池上:《AMAMAMA》の方は曲げて?
榎:曲げて。ローラーみたいのでボーッと鉄板を曲げていくの。それで最後に溶接していくわけ。
池上:この規模だからすごい作業ですよね。
榎:すごいよ。そうやって作っていった。その時に、エンドタブいうて、今回も美術館で使ったのを発見した(注:「榎忠展 美術館を野生化する」、兵庫県立美術館、2011年10月12日—11月27日)。考え方は、元はここにあったわけ。それは西村工機いうとこで。そこは太いの、鉄板が。前は15ミリの鉄板で、結構薄めが多かったわけ。その時、まだ機械がなかったわけ、佐々木製鑵に。でも薄いけどなんか面白い、ひょろっとしたやつがあってね。面白いなって。僕が前に勤めてた会社に、何年もずっと置いてたんかな。今、1つか、2つぐらいこっちへ持って帰っとるかも分からんけど。それが去年の展覧会の時に、その太いのがあったから作った。
池上:太い方がなんか迫力がありますよね。
榎:迫力ある。だからずっと、いまだになんとなくつながってる面白さいうのか。だからスカイツリーも、もうすぐオープンするけど、西村工機とかがだいたい主にやってるわけ。
池上:これが大きいものでは残っている唯一の作品ですけど、それまでは作品を残しとこうという意識はあまりなかったんですか。
榎:ないなー。ないというのか、まず後のこと考えへんの、僕は、残すとかそんなこと。とにかく作りたいものが作れるかどうかの方が心配で、後のこと考えへん。
池上:出来上がったものには、愛着というか、1960年代から活躍されている作家さんて、愛着はあったんだけども置いとくとこがないから泣く泣く廃棄したとか、よくある話なんですけど、榎さんの場合はそもそもそんなに執着はなかったんですか。できれば持っておきたいとかは?
榎:やっぱり作ったらいろんな人が見に来て、ごっつい喜んでくれる子どももおるし。だからまあ、やっぱり潰すのは残念やと思うけどね、だけどやっぱり潰すしかないの。置くとこもないしね。どこか引き取ってくれるんやったらもちろんまた別やけど。だけどあんまりそういうこと、仕方ないからね、最初から潰す覚悟で作ってるわけ。あとどうするか、そういうことも考えて作るし。売れたら売れたでいいんだけど。
江上:たまたま残れば、それはそれでという。
榎:そうそう。それはあんまり、あの時代ってみんなそういうふうにあんまり思ってなかったんとちがうかな。彫刻とか、須磨離宮とかああいうとこで彫刻展(神戸須磨離宮公園現代彫刻展)とかってなるやんか。ああいうふうになったら、また賞とかそんなのでいろんな美術館とか公園とかに置いていくやん。それには耐久性とかいろんなこと考えてつくらなあかんのやけど。こういう場合は、僕の場合はあんまりそういうこと考えんとやるから。やっぱり次やりたいものがあるからね、残すことできないわけ。これ、処分するにしたってものすごい費用いるわけ。
池上:ですよね。
榎:それやったらどっかで安く処分できるとこの方がありがたいいうのか。次何かやりたいのに、そこまで引きずって、借金までして潰すいうことってできないやん? だから潰す方法いうのもものすごく考えてやらなあかん。
池上:製作される時点ですでにそういうこともちょっと計算しながら、というか。
榎:そうそう。
江上:《AMAMAMA》の時は、逆に最初から残すっていう前提で作ってるんですよね。
榎:これは、入場するときの門になってるわけ。生徒とか学生とか、いろんな競技の団体がいろんな学校から来てね、この門を通ってここに入っていくということやった。それでこういうドーンとまたがってるような感じやねんけどね。
江上:最初からこれ残すといって作った時に、それまでと何かちがう、榎さんのほうでちがうこととかってありました? それはべつになかった?
榎:何やろなあ、あんまり……
江上:そういうことはあんまり考えなかった?
榎:うーん、残るいうのか、今までそういう作品の作り方でやったことないしね。こういう、頼まれるということがあんまりなかったから。
江上:そこも違いますよね。
榎:そこも違うわね。だから、どうやろ、なんとも言えん気持ち、まあ好きなことやらせてくれるということで、「わー、やりたいな」いう感じで。さっき言うたように、尼崎の大きい、三菱電機とかいろんな工場へ見学に行ったのね。すごいもん見たんよ。雷とかそういう実験する工場、三菱のね。ああいうの見たから、誰や、ヤノベ(ケンジ)くんの作品が電磁石でビビビッとなるやん、あれのすごいスケールのやつ見たことあんの、その三菱電機でね。いろんな雷とか、電気の流れとか、それに耐えるようなもんを作らなあかんわけ。避雷針のものすごい工場を見に行ったりとか、あれはもうワクワクしとった。
池上:尼崎はまたいっぱいありますものね、工場が。
榎:あったんや。だから僕ら、こういうこちょこちょした作品作ってるけど、やっぱりそういう研究所とか実験所行ったらすごいんよ(笑)。ほらもうアートどころちゃうの。もうすごいお金かけて開発とかそんなのやってるやん? 僕らほんとに、美術って弱いな、というのをものすごくその時感じた。建築でもそうやけどね。すごい立派な建築つくるやん? 彫刻とかあんなのへのカッパみたいな感じでバーンとやってるやんか。だからそういうとこでやっぱり美術って何かなと思って。そういう現場見てたらね、考えさせられた。シマブン(シマブンコーポレーション)やら行ったら、鉄の、あんなグニャッと曲がった、でっかいのがあってな。鉄の彫刻とかいうたって、あんなとこ行ったらもうほんまに、ものの見方とか、彫刻って何かなと思うぐらい、ものすごく考え方がコロッとね。
江上:《AMAMAMA》で、鉄鋼の大きなところを紹介してもらって、つながりができる前は、わりと身の回りの、お知り合いの小さい規模の鉄工所しか、逆に言うたら見る機会はあまりなかった。この時がそういうのは初めて。
榎:初めていうかね、やっぱりポートピアの時に宇宙船みたいなのをやったでしょ。あの時にいろんな業者、石川島播磨とか大きな造船所とかそういうとこが協力してくれた。阪急電車の正雀の工場とか、いろんなとこに行って、協力してもらって。それも大きな市を挙げてやるようなもんやから、そういう公共的なものはわりと応援してくれた。そんなの普段ないやん? せいぜい僕ら兼正(興業)とか、身の回りの工場しかないけど。でも公共的なのをやる時は。
池上:いろんな人と一気に知り合える。
榎:なんか今まで見たことないような会社とかそういうとこへ入っていけて、その辺はすごかったな。だからいろんな考え方もだいぶ変わらされるいうか。変なこちょこちょしたのはできない、いうとこもあるし。
池上:ひとつの転機になるような。
榎:なるね。やっぱり次々やっていったら、いろんなそういう人が出てくるのもありがたいのと同時に、「作るって何かな」いう感じ。だんだん考えさせられる。最初は、前にも言うたかもわからんけど、廃材って安く手に入るから、僕らお金がないからそういうのから始めるんだけど、だんだん何年もやってたら、なぜ廃材になったのかとか、いろんな生活のこととか、いろんなことを感じてくるわけ。これはどういう人が作ったのかなと思って。すごい機械の部品とか、どんな機械でつくるんやろとか、いろんなことを想像するやん? そういう中でやっぱりいろんな人が関わっていて、社会の動きとか、生きてるとか、生活とか、いろんなゴタゴタが、美術いうものに対しての必要性とか、大事なものって何かないうことはやっぱり考えさせられる。
池上:色々写真がありますね。組み合わせる時の、まさに工事現場ですね。
榎:会社で一度組んでね、今度はその現場へ。一応基礎を作って、バラバラにして運んでいくから。また組み立てるというか、これを合わさないとあかんわけ。バチバチッと、直角とかそういうなんで組んでないわけ。角度がついとるわけ、ねじれたような感じとか。だから結構難しいの、合わすのが。
池上:そうですよね。
榎:途中で職人同士が。会社で作っても、組み立てはまた別な会社やねん。だからそこでまたもめてね。ベルトが切れてね。裂けるというのか、バシーッと、吊っとるやつが。
江上:職人さんも燃えるでしょうね、こんな難しいのをしたら。
榎:作る職人も、いつも同じパイプばっかり作っとるわけ。こんなの作ってないやん。モノが見えるとか、何かが見えるというのは作ってないわけ。いつも基礎になるような鉄板の元とか、パイプとか、そういうもので。毎日自分らで仕事して、仕事やからやってるだけで、面白さもなにもないんやって。職を覚える、そういう面白さはあるんやけど、そういう職人なんかでも毎日同じパイプばっかり作ってるというか。で、こんなのやったら喜んでな。
池上:それは面白いでしょうね。
榎:うん、みんな喜んで燃えるんよ(笑)。作ったらやっぱり見に来るし。どんなになったのかなとか、家族で見に来る人もおるしね、職人の人なんか。
池上:どう使われてるかっていうの、普段たぶん見ないですもんね。それこそ土管みたいな感じで使われると。これは嬉しいでしょうね。
榎:そういうなかで職人とかそういう人とつながっていくというか。兼正でもそうやし、みんな展覧会を、今度《サラマンダー》(2011年)をやった時でも、それを運んだり割ったりしてくれたりした人が、気になってな、どういうふうになってるのか見に来てくれたり(笑)。
江上:心配で(笑)。
池上:子どものような(笑)。
榎:「美術館なんか行ったことない」言うけど、「自分が関わったらやっぱり気になる」いうて。
池上:次の個展のほうのお話も聞こうと思ってたんですけど。「地球の皮膚(かわ)を剥ぐ」という、1990年に(「地球の皮膚(かわ)を剥ぐ、5,000,000年の動脈」、神戸・学園東町、1990年4月22日—5月6日)。これは展覧会という形式ではなくて。個展と書いてますけども、いわゆるギャラリーへ行って観るようなものではないですよね。
榎:うーん、そういうもんと違うけど、べつに画廊とか美術館でなしに、そういうとこ(注:住宅が建つ前の造成地)でも展覧会はできるし。ギャラリーとか美術館に来る人って、美術の勉強してる人とか美術の好きな人とか、偏ってるやん? 偏ってると言うたらおかしいけど。僕はこの大きいもの作ってから後、(美術って)そういうもんじゃない、という考え方になって。僕が本来発表とか展覧会でも考えてきたことをこういうとこでやってみた。
その時代、神戸のポートアイランドとか、その後六甲アイランドにも、うちの近く、高倉山とか須磨の奥とか、この辺の山を切り崩して、ベルトコンベアでずっと運んで、埋め立てをやってるわけ。僕らがよく遊びに行っていた太山寺いうのがすぐそばにあって、古いお寺だけど、そこにきれいな谷川が流れとったわけ。小さなエビとかそんなのがおって。飯盒炊さんもできるようなきれいな水で。この辺一帯学園都市で全部工事になったわけ、山を崩して。そうしたらそこの谷川は、流れ出る洗剤とかで犯されてしまって。臭いまではしないけど、もちろん飯盒炊さんどころか水も飲めない、入ってもいけない、いうような感じで。
僕は、穴を掘るとか、土や石が好きで。場所はずっと前から探してたわけ、化石を彫りに行ったりとか。神戸の白川とかあの辺は昔から化石が出るのが分かっとって。その辺の地層いうのにごっつい興味があって。淡路の方とか、野島断層も行ったことあるんよ。家にも置いとる、貝の化石。山のてっぺんに貝の化石があるの。とういうことは隆起したというのが確実で。それは淡路の野島のあたりに、谷川にいっぱい落ちとるの。
江上・池上:へえ~。
榎:それは本にも載っとって、調べて行ったんやけどね。それから大阪の箱作とか、あっちの方へずっと断層が続いてるわけ、地層が。そこは結構古いの。1億年とか古い地層があるの。そういうのをずっと調べながら、ほかのことをやりながら行くんだけど。それが、学園都市が開発されたりなんかして、ずっと気になってたら、土を運んでね。須磨のちょうど一ノ谷のところから、2、3年前にベルトコンベアを壊したんやけど、そこから六甲アイランド、いつも船で運んどったわけ。10年も20年も前からずっと見ていた、その辺の山が崩されていって、僕らが遊んでいた自然なんかが壊されていくというのか。
神戸って細長い小さな街やから、都市に住むいうたってなかなか土地がないし、みんな、三田とかあっちの山の方へ行くしかないやん? だからどうしてもそういう山を切り開いて六甲アイランドをつくるいうて、それはやむを得んことやと思うの。だけど僕が嫌いなんは、そういう工事に反対するんじゃないけど、その後のケアをやらないの。今回の原発でもそうやけどね。他の地域の、そういう土地や山を提供した人とか、それはお金をたくさんもらってるんやけど、あと自分たちが生活する、子どもたちのことを思ったら川で遊ばすわけにもいかんし。そういうことが僕はものすごく嫌なん。それでその学園都市の穴を掘る場所に決めたんやけどね。
池上:それはどういうふうに。リサーチというか実際に歩いてみられて?
榎:うん。それは、さっき言ったように何年も前から探しとって。ひとつはポートアイランドにも頼んだことがあんの。風月堂(神戸風月堂ホール)かなんかの音響屋と。
江上:ジーベックホール。
榎:うん。あそこが建つ前やったんや。「あそこを使わせてくれ」いうて、「そういう六甲の土を持ってきたい」いうことで。
江上:ああ、持ってきた方にもあるかもしれないということですね。
榎:うん。そういうとこで、僕はそこを使わせてくれと言うたわけ。土地は貸してくれる言うたんや。だけど、「穴掘る」言うたら、「あかん」いうてね。あそこはもう海やから、掘ったら絶対水が出てくるし。
池上:出てきたら困りますからね(笑)。
江上:せっかく埋めたのに(笑)。
榎:ほかのところでも、土地は貸してくれるんだけど、「穴を掘る」言うたら、「土地が死ぬ」いうてね。あと農業とか、田んぼでもそうなんだけど、ほかの土が入ったらだめとか、農地ができないとか、建物ができないとか、いろんな土地の制約があるわけ。だから穴掘る言うたら、なかなか使わせてくれなかった。そしてずっと何年も……、どういうわけか、だんだんこれがやりたくなってきてね。
うちの会社に、得意先の人でいつも遊びに来るおっさんがおんの。ごっつい豪傑な人で、大げさなことばっかり言うて笑わせて。その人が、僕がこんなのを話しよったら、「忠さん、この頃作品のほう、どないしとんや」言うから「いやー、今こういう感じで、いっぺん土地でこういうのをやってみたい。できたらこの辺の太山寺の近くとか」って。その人がたまたま…… その辺は、開発するのに市が分譲として売ってるわけ、50坪とか、70坪とか、100坪とか、いろんな段階があるんだけど。そのおっちゃんの兄貴とか家族は、何回申し込んでも当たらへんのやって、なかなか。ものすごく倍率が多くて。その人、兄貴が当たらんいうから、遊び半分で出してみたら一発で当たってね。その人が土地持っとんのよ、ちゃんと。建てる予定もないのに。
池上:お兄ちゃんにあげようよ、っていう(笑)。
榎:それで当たってしもてね。それも放っておいたらあかんのやって。3年かのうちに建てなあかんとか、いろんな条件があるらしいんやけど。それを聞いて、「どこや」って。「いやー、太山寺の方で、学園都市いうとこで、今開発やっとる途中や」いうて。「えっ、どこ?」って、もうその日に「そこへ連れていって」いうて、見に。会社の仕事の合間にね、連れて行ってもうて。ええとこや。ものすごい荒涼とした、ごっつい山を切り開いてね、結構粘土質で、こういう化石が出そうな感じの雰囲気のとこで。もう一発で気に入って、「使わせてくれ」いうて。「お金ない」「いや、お金なんかいらん」いうてね。「だけど穴掘ったら土地が弱くなるから」「いや、そんなのかまへんから。穴掘って、弱くなったらそこに駐車場つくるから、掘り込みの駐車場にするから好きなように使え」いうて。言うたら自分の家を3年の間に建てなあかんのやけど、「それのお祭りやと思って使ってくれ」いうて。
池上:なんという剛毅な。
榎:ほんまにええんかな、と思ってね。場所が見つかったのも、そういう人がおったいうのか、そういう出会いいうのか。それまで会社にはいつも遊びに来てたんやけどね、その人も。僕がこういう作品をやってるというのは知ってて、時々見に来てくれたりはしてたんやけど。で、パーンとそんな話が出てきて、「ワー」いう感じで。
池上:実際、どういうふうに掘り進められたんですか。
榎:最初はね、やっぱりどういう土か分からないから。横ではいろんな工事をやってるけど、穴掘る工事はあんまりやってないからね。表面やってて、ここはある程度まではこういう砂が混ざったような土で、ある程度行ったら粘土層になるとかいうのを聞いてたから、そこを掘るにはだいたい2、3メーター掘らなあかんわけ、深さを。そうしたらやっぱり、斜めに掘るというのでなしに、直角に掘りたいわけ。で、いろんな友だち、建築家とか構造計算やったりとかそういう関係の人に聞いたら、やっぱり直角に掘らなあかんいうことは、何メーター以上は、基礎を作るとか何かをやらなかったら、一般的な人は入ることはできない、いうてね。見せることはできるんやけど、人が中に入ることは許可できない、いうて。それで実際、これ分からないんだけど、外から見たやつ。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、138–39頁)
池上:こっちの写真もあるんですかね。
榎:こういうふうに、この穴の周りに1メーター半ぐらい外したところに全部1メートルぐらいの基礎を打ち込んだ、セメントの。
江上:ああ、この部分ですね。
榎:うん。ずっと周りに、崩れるようなところに全部基礎を打ち込んでね、そこへ鉄板を、H鋼みたいのを置いて。それやったら人が入るのも、人に見せるのもオッケーが出たんや。で、ここは電気もないから、電気ひいてもらってね、バーッとやったんやけど。
池上:ここを入口にして。
榎:蓋を開けて、マンホールの蓋みたいな感じで開けて、中に階段があって、中へ入っていくんやけどね。
池上:で、中を、ひたすら土を出していくという。
榎:そうそう。毎日、会社終わったり休みの日に掘りに行くんだけど。最初は一人でコツコツやりよったんやけど、1週間ぐらい掘ったら、もうとうていそれではだめやから、休みの時に友だちに来てもらって運び出したりとか。
池上:こういうショベルカーみたいなものも。
榎:後から、おっちゃんが見かねて、「貸したる」いうてね、手伝ってくれたんや(笑)。「おまえらの仕事見よったら、いつできるかわからへん」いうて。
池上:おっちゃんって、横でほかの仕事をやってる?
榎:ほかの仕事やっとるわけ。
池上:あー(笑)。
榎:見とったらな。
池上:何しとんねんと(笑)。
榎:僕は手で、バケツで運びよったんや、土を。
江上:最初は手堀りやったんですか。
榎:手掘りや(笑)。そんならな、おっさん見かねて。何しよるんか、やっぱり気になって見に来るんよ、「何しとんや」いうて。「いやー、こんな感じで、下の岩盤を見せる作品展をやろうかなと思う」言うたら、「いつまでに掘るつもりや」言うから、「だいたい5月の、みんなが来れるゴールデンウィークいうか、ああいう時に展覧会の日にちを合わせとる」いうて。「おまえ、そら無理やで」いうてね。
池上:「それで手掘りでやってるの?」っていう。
榎:「そんなら休みの時やったる」いうて、休みの時に来てくれてな。粗掘りやってくれて。
池上:そのおっちゃんたちは「アホちゃうか」みたいな反応ではなかったんですか。
榎:アホいうたって、一生懸命やっとるからね。「アホや」言われへんから、向こうも。「休みに来たるから」いうてな。休みに、ショベルカー置いとるからね、「やるから」いうて。もう雪が降ってもやってね。その日、頼んどったんやけど、土を運ぶのを。雪が降って、ダンプカーが来たのはいいんやけど、土が運べなくなって。一日ダンプ3台ぐらい手配してたら、一日何十万っているわけ。そういう中でいろんなことあったけど、まあなんとか。あ、この人がその土地のオーナーいうの、土地を持ってる人。で、最後はこの家が建ってるわけ。
池上:あ、すごい! ちゃんと穴はふさいで。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、139頁)
榎:穴はふさいで、その上にセメントの基礎いうのか、ここにクルマ入れるようにしたわけ。掘っとるとこに車庫をつくってるわけ。
江上:うまいこと再利用したんですね。へえ。
榎:向こうは掘る手間が省けて。大変やと思うんやけどね。
池上:一応役にも立ったと。
榎:そうそう。ごっつい喜んでくれた、「おもろい」いうてね。
池上:じゃあパッと見は、知らなかったら普通の更地に見えるだけですよね。
榎:一応、登記的には住所みたいなのがあるんやけど、まだこの時住所も何もないわけ。だから案内状でも、ずっと地図描いて。まだ周りに建物いうのがなかったから。なんかそんな感じやった。電話はないし。
池上:掘っている最中に色々化石とかも発見されたという。
榎:うん、出てきたりとかね。周りにいっぱい、化石があるわけ。で、子どもなんかが来たら、化石の探検に連れて行ったるわけ。化石掘りを教えてやったりして。
池上:ほんとだ、この辺にもたくさん出てますね。
榎:ちびくろ保育園ってあるんやけど。これなんか割った時ね。こんな岩があるでしょ。だんだん感じが分かるんや、「あ、この辺は化石を含んでる岩やな」いうて。パーンと割ったら、そのままの枯れた葉っぱの、そのままの色がパーン出てくるの。
江上・池上:へーえ。
榎:すごいよ。ワーッと思うぐらいね。
池上:大気に触れさせたら、色が変わったりしますよね。
榎:変わってくる。うん、そういう色は消えていく。
池上:やっぱりそうですよね。でもそれを見られるというのがね。
榎:そう、その瞬間がすごい。最初は500万とか1500万年前とか言ってたけど、今は3000万からおおかた5000万年前に近いと言われてる、あの辺の地層は。昔、火山灰みたいなのが中国か韓国の方から飛んできたんとちがうかいうて。この辺は、瀬戸内海は沼地みたいな感じで、湿地帯やったとか。そういうので明石象とか、ああいうのも発見されるのは、やっぱりそういう湿地帯みたいやったんちがうかいうて。
池上:出てきた化石はどうされたんですか、その後。
榎:僕は化石掘るのが目的と違うからね。あんまり取らない。多少は置いてるよ。こんなの何個か置いてるけど、あんまり。来た人にあげたりとか。
池上:このオーナーさんにも?
榎:そうやね。どっかに、上の方に化石残っとるのがある。こんな塊とかね。
池上:後で拝見したいです。穴掘りというと、関根伸夫さんの《位相–大地》(1968年)とかも、神戸というと思い出しますけど。
榎:ああいうのもどっかに(念頭にあった)。だけどああいう作品とかいうのでなしに、僕は小さい時から田舎の古墳とかで遊んでたし、田んぼとか畑とかそういう遊びやっとったから、土とか石とかそういうものにものすごい、小さい時から興味あった。この場所、自然を壊されてそういうふうになってしまった街いうのか。そういうとこで、いろんな思い入れとか、考える要素とか、想像するものをいっぱい含んでるわけ。ただ単にこういうものを画廊とかああいうとこでやったって意味がない、いうのか。
池上:それはそうですね。
榎:これができた時に、その近くの学校、太山寺小学校とか中学校とか、みんな学校ができた頃やったんや。
池上:開発されるから。
榎:うん。そこの芸工大(神戸芸術工科大学)もできて1年ぐらいの時やったかな。その時に山口勝弘(1928—)いう人がここへ訪ねてきたんよ。どこかに書いてないかな。
池上:前のページかな。学生を連れてきて。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、138頁)
榎:それはまた違う人やけどね。山口勝弘が筑波から芸工大へ来た時やったんかな。その時も「ナンギなやつや。住所も分からんようなとこで展覧会やってる」いうて。
池上:でも見に来てくれたんですね。
榎:来てくれた。で、運チャンといちゃもんやって。「ここへ行ってくれ」言うんだけど、「そんなとこは工事現場で入られへん」いうて。「だけどそこでやっとんやから連れて行け」いうて、もめたらしいわ、タクシーの運チャンと。
池上:おかしい(笑)。
榎:住所がなかったから、タクシーの運チャンも困ったらしいわ。だけど「ここでやっとるから、あんたはこの辺のタクシーやから行けるはずや」いうて。「だけど行ったって工事現場やから、行ったって何もないよ」いうて。
江上:押し問答(笑)。
榎:僕は案内状を、至る所にずっと大きい立て看板を置いて、道順やって。
池上:結構たくさん人は見に来ました?
榎:結構来たよ。学校がそういう状態やったから、みんな、学校から来んの。
江上:へー、子どもらが。
池上:いい社会科見学みたいな感じですよね。
榎:そうそう。この人なんか校長先生やと思うんよ、そこの太山寺の。みな学生が、写真とかカメラやっとる連中が、記録とるいうて、カメラ持ってきてずっと記録とったり。「この地層は学校の下にもあるんや」いうて。
江上:それはそうですよね。
榎:そうそう。全部つながってる。横に建ってる家の人の下にずっとこの化石の地層が続いてるというのか。
池上:すごくいい教育ですね。
榎:何軒かできてる家の人なんかも見に来とってね、子どもなんか連れて。みんな「おー」いうて話しとるわけ。「うちの家の下にもこんなんあるんや」いうて。
池上:今もこの家が立派に建っている。その人が今も住んでるんですか。
榎:住んどるよ、もちろん。帰りに寄ってもいいよ。江上さんは行ったかな。
江上:前を通りました、このあいだ。「ここか」と思って。
池上:こそっと見たいです(笑)。
榎:今、ちょうどいい時期やし。
池上:その次の年、国立国際で「芸術と日常―反芸術/汎芸術」(大阪・国立国際美術館、1991年10月10日~1991年12月1日)という展覧会に参加されて、篠原有司男さんと出会うという。
榎:この後は《薬莢》やったんかな。そうそう、この次が薬莢やねん。その時山脇(一夫)さんが名古屋の美術館行ってた頃かな。その時ちょうど日本と、アメリカの西海岸と、メキシコの現代美術をやりたいということで。山脇さんが日本側を担当しとってね。それでやりたいということで、サンタモニカの美術館の館長が山脇さんと一緒に、どういう作品をやるか、人選してた。ちょうど僕は穴を掘る作品をやってたわけ。その時に一緒に来てくれてね、その館長が。それでこんな穴掘るような作品やっとって。向こうも「こんなことやるか」いう感じでね(笑)。それでもう一発で僕に決まってしまって。
池上:そのサンタモニカの館長さんがたまたま日本に?
榎:たまたまいうんじゃなしに、人選しに来てたわけ。いろんな作家、東京の作家とか色々ずっと行って。
池上:地図にもないような新興住宅地にやってきて(笑)。
榎:県美に前おった山脇さんいう人が館長を連れて、ちょうど今僕が展覧会をやっとるからって、見に来てくれた。向こうの館長もごっつい喜んでね、「おもろい」いうて。それから、次、この《薬莢》に入ったわけ。
江上:山脇さんの展覧会の方が国際の展覧会より先なんですか。
榎:先。その時、中村敬治(1936—2005)さんが「芸術と日常―反芸術/汎芸術」展を計画しとってね。
池上:計画中だったんですね。
榎:僕には、ほんとは《原子爆弾》をやってほしいいうて。あの時中村さんは《原子爆弾》を気に入ってて、あれを国際美術館でやってほしいいうて。僕は、いっぺん作ったものはやらないし、ああいうものは、その時代とか、僕の熱意があってできるものであってね。展覧会やからそういうものって、できない。
池上:「もう一回やって」とかいうのではできないと。
榎:「もうないんか」言うから、「もうない」って。ほんとはどこかに僕置いてたんやけどね(笑)。そんなの説明するじゃまくさいから、「ない」いうて。今から思ったら失敗したなと思って。
池上:そうなんですか?
榎:みな購入してくれたわけ、あの時、作品を。そういうつもりで選んでくれたんよ。
池上:言ってくれたらよかったのにね(笑)。
榎:僕の作品はほとんど残ってないやん? だからあれをやりたいいうて、残すべきや言うてたんやけど、僕は「そういうのはできない」いうて。
池上:あの《リトルボーイ》の作品は、その時はどこかに置いてたけれど、今はもう。
榎:たぶんないと思う。昔、靫ギャラリーいうのがあって、桜井さんいう女の人がギャラリーをやっていて。すごい豪傑な感じの人でね。どういう状態か知らんけど、彼女が僕の作品、「原爆」を買うて、ごっつう費用がいったんよ。費用がいったというても、今から思たらそうでもないんだけど、彼女にしたらすごくお金を使って。
池上:管理するのも大変ですものね。
榎:兄貴が、河内の方やったかな、農業やってるとこやから、置くとこないからって、そこの納屋に置いてたんだけど。最初の頃は、「どうなってる?」とか聞いてたんやけど、彼女、どこか行方が分からなくなってね。三重県の方で自分も作品やってるみたいなことを聞いたりして。だけどちょっと分からない。案外、僕も作品に対して、残してくれたり、買ってくれた人がおるのに、あんまり大事にしてないなと思って反省はしてるんやけどね。
江上:中村敬治さんは、榎さんが「原子爆弾はやらん」言うたら、どう言いはったんですか。その後はどうなったんですか。
榎:《薬莢》をやってるのは聞いたりしてたから。「僕はそういう作品ないから、できないかも分からん」いうて。だけど、「今までやった、写真でもいいから出してくれないか」いうて。で、「ハンガリ」とか「ROSE CHU」とか「原爆」とか「大砲」とか、6点ぐらい、大きな写真にコラージュしたみたいな感じで。作品いうより、コラージュして、写真と、その頃はコピーってあんまり良くないコピーなんだけど、そんなのでコラージュみたいなのをして6点ぐらい出したんかな。それで《薬莢》を2トンぐらい。袋に、ドーンと1トン入ってるでっかい袋を、バーンとばらまくみたいな感じでやって。
池上:薬莢はどこで集めてこられてたんですか、その頃。
榎:これがまた面白い話でね。うちの会社の、兵庫の近くにあるんだけど、江上さんは何回も行ってるんやけど、僕の勤めとった会社のすぐ近くやねん。こういう仕事いうのはものすごく汚れる仕事やねん。きたない、いうたらおかしいけどね。どんな仕事でも汚れるのは当たり前やけど。うちのすぐ前に銭湯屋があって、みんな働いた人がそこへ風呂に入りに来るわけ。その時、僕は前から薬莢を見とってね。前に見てた時は、作品にするとか、作品にしようとも思ってなかって。なんとなく気にはなってたん、あんな薬莢どこから入ってきたんかとか、いろんな想像するわけ。「アメリカでやらないか」という話が決まってから、何やるか色々ずっと、何か月前からかずっと考えてたんかな、やりたいこと。そして風呂屋で裸になって。みんな来とるやん? 洗剤で、汚れた人がみんな洗ったりしてる時に、横におった会社の人に聞いたわけ。「今、薬莢なんかあるんかな」言うたら、「うん、時々入ってくるよ」言うわけ。「えっ?」いうて。そして聞いたら、「いま入っとんちゃうちゃうかな」言うわけ。そうして行ったら、あるんや!「これどうしたらいいんやろ。売ってもらえる?」いうて。「もちろん」って。売るために仕入れるんやから。だけど、僕らみたいな一般の人には売ったことないから、「それは分からん」、いうてね。
池上:普段どこに売ってるんですか。
榎:全部自分とこの会社が、姫路の方に溶鉱炉、新日鉄とかああいう会社に行って、全部溶かすわけ、銅にするわけ。そういうふうにたまったら、そういうところで。銅の相場いうのがあってね。安い時に大量に買っておいて、値が上がった時に銅に還元して売っていくわけ。その「利ざや」みたいなものでね。
池上:廃材としてただで入ってくるんじゃなくて、その人たちも安く買ってるわけですね。
榎:買ってるわけ。
池上:その材料にするために。
榎:うん。だから100円の場合もあるし、1,000円、そんな極端には違わないんだけど、100円とか200円とか300円とか、変動があんの。100円ぐらいの時買っといて、寝かすとこ、倉庫があるとこは値が上がるまでずっと置いておくわけ。で、値が立つというか、「今頃かな」いうところで感じをつかんで。300円、400円になって、「上がりよるな」と思うやん? それをもうちょっと待ってたら上がると思ってたら、また下がってしまう時があるわけ。だからそこのカンやねん。相場みたいな感じで。そういう感じで。僕は初めてのそことの取引やから、「現金でなかったらあかん」いうわけ。現金で。最初7トンぐらい、場所的には欲しいなと思って。
池上:7トン!(笑)
榎:その時、1トン20万ぐらいやったかな。
池上:1トン20万円。
榎:今はもう60万ぐらいになっとるな。
池上:安いか高いか分かりませんね。
江上:単位がトンやから(笑)。
榎:どう使うか分からんけど、量がなかったらあかんなと思って。一応7トンぐらい予定して。その時20万ぐらいと聞いてたんやけど、実際買うようになったら30万近くかかったんや(笑)。向こうも、「買うつもりやな」と分かったからかしれんけど、「今また値が上がっとる」みたいなこと言うて、25万とか30万とかいうて。とにかく7トンいうたら200万近くやったかな。そんな急に……、嫁はんにどう言おうかなと思って(笑)。
池上:それは考えちゃいますね(笑)。
榎:「そんなの急に言われたって、いつ、どうするの」言うたら、もう2、3日うちにしなかったら向こうもほかのとこへ流すみたいなこと言うわけよ。しょうがないから会社に言うて。「急にちょっと金がいるようになって」って。言うたんよ、実際そこの品物いうか薬莢買うから、「なんぼか足らないから貸してくれないか」いうて。会社のほうも急きょ銀行から金貸してもろて。
池上:いい会社だ(笑)。
榎:で、すぐ買い付けを決めてしもて。そういうふうに、ほんとにうまくいった作品。
池上:この薬莢自体は、どこで使用されたとかいうのは。
榎:聞いた話では、沖縄のなんとかいう基地があるわけ、米軍の基地が。海兵隊とか言いよったけど、そこに集まってくるんだって。日本の業者何社かが、競売みたいなので専門に入ってるんやって。そこの中で値を高く買う人にやっぱり売るんやって。その頃は結構アメリカの方も、ちょっと景気が悪い時は、アメリカは結構持って帰ってたんやって。自分のとこで処理するの。だけど景気がいい時やから、日本でほとんど処理してたわけ。その時に、うまい時期に当たったというかな、なんか知らんけど、偶然いうのか。今回の美術館でやったのも、偶然あったんや、大砲のやつも。前はこんな小さいやつばっかりやったんだけど。そういう、なんか知らないけど偶然で作品が出来上がっていくような。
池上:でもすごく想像力が刺激されますよね。沖縄に集まってくるといっても、全部が沖縄で使われたものじゃないでしょうから、どこでどう使われてたんやろうという。
榎:沖縄で使うというとほとんどもう練習しかない。
池上:ですよね。
榎:その頃聞いたのは、カンボジアとかベトナム戦争とか、そんなのがいま集まってきとるんや、いうて。このあいだの大砲なんかは戦争中やったもんね、1940年とか43年のやつやったし。いろんなとこから集まってくるわけ。
池上:実戦で使われたものだった。それが沖縄に集まるということも普通は知らないですものね。
榎:知らんもんな。だから僕ら、たまたま横に会社があってね、その前をよく取ったりするから薬莢は見てたんよ、どこからどういうように集まってきとるのかなと思ってね。その頃は、最初、ほんとにゾクッとするようにすごかった。パトローネを見つけた時みたいに、「わー、何かな」って。最初分からへんかって。で、そこのおっちゃんと風呂屋で知り合いになってるから、ちょっと見せてもらったら、「薬莢や」言うからな。
池上:そうか。最初は薬莢ということも?
榎:いや、薬莢は知ってたよ。でもそんな大量の見たことないもん。
江上:時々ドーンとあるんですね。入ってるのをたまたま見たということですね。
榎:このあいだもそうやけど、選り分けするんよ、異物が入っとるから。石みたいなのが入ってたりするから、選り分けするわけ。そういうので見とった。
池上:やっぱりすごいですよね、これだけあると。
榎:それで、一発で薬莢に決まって。だけどこれは一応危険物になってるんやって、大量になったら。この中に火薬ってほとんど残ってないんだけど、残ってる場合もあるし、それを一度釜に入れて、全部爆発させたりなんかして、汚れをとったりなんかしてするんだって。だけどそんなのやから、一応危険物になるから、一般の人は買えない。だけどほとんど大丈夫やいうことで、使えることになったんやけど。
池上:美術館でこれをこのまま、この国際の時も、美術館側はそれは大丈夫だったんですか。
榎:オッケーやったよ。ちょっと心配したけどね。
池上:ちょっとそうですよね、たぶん。
榎:山脇さんのほうでも、送り出したりなんか、これは向こうへ行ってできるもんかどうか心配してたんやけどね。まあ作品いうことでやろうか言うてたんだけど、実際は運んだ時に大変なことになってね。僕らはこれ1年ぐらい前から準備して、その展覧会をやるのに。だけど、ちょうど湾岸戦争をやるかやらないかで、夏頃からもめとったんよ。それでだんだん。次の年の初め頃やったんかな、1月頃に運び出さなあかんいうて。その間に国会の方で、(湾岸戦争に)人を出すのか、金を出すのか、もめてる時に、僕が先に名古屋の港から武器を出しよったわけ(笑)。それで税関にひっかかってもうて。で、実際、こうやって「自衛隊」って入れてたわけ。僕は「LSDF」って使わんやろ。これもJにしてね。それを出しとってね。税関で。
池上:これは榎さんが入れはったんですよね。
榎:そうそう。シルク印刷みたいな感じでね。結構印刷しにくかったんやけど。
池上:それでまずアメリカに持って行かれたんですよね。
榎:持って行くのに、税関でひっかかってね。山脇さんが「あちゃー」いうてね。
池上:アメリカ側の税関ですよね?
榎:ううん、日本の。名古屋から運ぶということでね。豊田が運送代なんかもってくれたみたい。7人の作家やったんかな。若い子は松井智惠とかそういうので。名古屋で7人の作品が集まって運ぶ時に、僕のが税関で引っかかって。で、山脇さんが「えらいこっちゃ」いうことで、防衛庁か通産省へ行って書類を。これは使った、使用済みやいうことで、印鑑を。
池上:証明してもらって。
榎:それがあったらべつに税関はどうっちゅうことないの、書類さえあれば。それは上の許可があればね。
池上:それでようやく通って。
榎:うん。アメリカ、3か所やったかな。最初サンタモニカ美術館いうところ、あとポートランドの方でやって。
池上:シアトルの方ですかね。
榎:その後、メキシコに先に行ったのかな。それからニューオーリンズの方へ行って。結構向こうでも、外国の人はもっと、アメリカなんか特に薬莢なんかよく見てるのとちがうかなと思って。向こうの人も「そんなの普段見るもんちゃう」いうてね。
池上:しかも大量ですしね。
榎:向こうの人もびっくりしてたね、「わー、すごい!」いうてね。
池上:やはり湾岸戦争と時期が近かったからとおっしゃってましたけど、アメリカではそういうふうに理解されたところもあったんですかね。
榎:向こうの人は作品で見てくれる。もちろん戦争とか、時期が時期やったからこっちは心配してたんやけど、向こうはあんまりそういうふうには思ってなかったというか。
池上:表現は表現として。
榎:うん。やっぱりそういうことが、実際これだけ大量に使われてたというのでは、やっぱりショックいうのか。見えないとこで戦争とかに使われてるということは、みんなそういうなかで想像したりとか。アメリカは特に関わっているというのか。サンタモニカいうたら、もうちょっと西の方へ行ったら、なんとかいう海兵隊の基地があるから、やっぱり向こうは気になっとるし。そして戦争が始まって、若者とかが徴兵みたいな感じで入隊して、ダーッと前線へ行ったりなんかするわけ。すごかったのは、スーパーに黄色いリボンいうのが売っとってね、サボテンとかあんなのがある砂漠みたいなところへ行ったら、サボテンにいっぱい黄色いリボンを結んどるの、ダーッと道に。それは、やっぱりみんな無事に息子とか子どもに(帰ってきて欲しい)。
池上:土地によってどこに結ぶかが違うんでしょうね。
榎:うん、あれはすごかったなと思って。家の前にそういう黄色いリボンを結んだりして。スーパーにいっぱい売ってるの、黄色いリボンを。それだけ向こうの人はそういうのに参加してるいうのか、関わってるいうのか。僕らはあんまり分からないからな、そういう世界って。いろんなことがあって。
池上:米軍がアメリカの外で使った薬莢が、そういうかたちでまたアメリカに戻っていくというのがすごく面白いなと思います。
榎:最初ね、山脇さんなんか気にして。オープニングをサンタモニカでやる時、日本の大使館とかそういう偉いさんが、日本の人が来るわけ、見に。ほんだら作品を隠すかどうかいうてな(笑)。隠すってどうやってやるんや。布を被せるのか(笑)。
江上:余計目立つ(笑)。
池上:何トンもあるのにね。
榎:それは余計おかしいんちゃう、いうて(笑)。
池上:やっぱりちょっと心配されたんですか。
榎:うん。やっぱり時期がね、ほんとに生々しい時期やったから。日本では映像って、いつも決まったような、バーンと砲撃しとるような映像ばっかり毎日ぐらいニュースで流れてたから。
池上:あの戦争で、テレビに実際の爆撃場面とかがバンバン出だした時期だったので。
榎:日本はあんなのやけど、向こうはもっとすごいんやって。
池上:でしょうね。
榎:今回の原発でもそうやけど、向こうは戦地の被害にあった人とか、ああいうのも入ってくるんやって。このあいだも津波でやられた死骸とか、日本では映さないでしょ。向こうは映してるんやって、結構。
池上:そうです。
榎:だから僕らが思ってるより、向こうの人はもっとそういうものを実感として。だから批判もすごく起こるわけ。反戦運動なんかでも、すごいの。
池上:それでアメリカを回って、国立国際へ。
榎:その間やったんよ。さっき言った中村さんも、「《薬莢》を見てみたい」いうて。なかなか美術館でやるのは難しいなんて言いとったけど、敬治さんは、やらなあかん、「日本でもやらなあかん」いうことで。で、また余分に買ったわけ、2トン。
池上:じゃあ同じものじゃないんですね。
榎:もうやってるもん。アメリカを回ってるからね。
池上:買い足しですね。
榎:買い足し。
江上:すごい!
池上:で、2トンを国際で。
榎:そう、国際美術館でやった。結局、9トンぐらいになったんやけどね。
池上:すごいですね。
榎:名古屋へ帰ってきた時は、帰国展いうのをやったんだけど、その時は使ったんだったかな、ちょっと今覚えてないけど。
池上:さっきちょっとお聞きしようと思っていたのは、国立国際にそれをまた出されて、篠原有司男さんと。
榎:そう、初めてな。
池上:ずっと知ってたけど、会うのは初めてだったという。
榎:そうや。ギュウチャンもやる言うからね、そういうのもあったから、「ほなやろか」と僕もなって。作品はないんやけど、こういう感じで、写真とかそういうのでやったらできるかもわからんいうて。
池上:篠原さんのことはどれぐらいから。
榎:僕はもう絵を描いてる頃から、23、4ぐらいの時やったかな、その頃から。僕は絵では表現するのがなんかもの足りんというのか、なんか違うな、というのを感じたりしてた頃やったかな。
池上:最初に篠原さんの作品を知った頃というのは、篠原さんはまだ日本にいらっしゃったんですか。
榎:おった頃。
池上:69年にアメリカに行かれています。
榎:「芸術の道」か。
池上:『前衛の道』(美術出版社、1968年初版)。
榎:あの本を出す前に、僕、映画観たん。『日本残酷物語』(1963年)かなんかいう。彼がむちゃくちゃ、絵の具とかあんなのでビヤーッとやってるのを見た時、「うわー、すごいやつがおるな」って。それもモヒカンでな。モヒカンで暴れまくっとったんや。映画で見たんや。すごい人がおるなと思って。それでその後『前衛の道』か、あれ読んで。そんならまたイラスト入りで、彼の独特のイラストで描いてるし、しゃべってる言葉が彼の言葉やねん。なんかギャーとかボワーッとかな、すごい擬音いうのか何いうのか。
池上:すごい勢いがよくて。
榎:そうそう。絵もすごいの。漫画みたいに、ビビーッとか、バリッ!とかな、そんな音書いて。すごい人おるなと思て。その間いろんな情報とか。僕もハプニングとかあんなのをやり出した頃に、ハイレッド・センターとかネオダダとかの情報が入ってきたりしてたから、「わー、すごい人らが、そういう表現してる人がおるんやな」と思って、ずっと気になりながら。時々ギュウチャンの一点とか、オートバイとか、京都の美術館なんかにでっかいオートバイがあったりして。ものすごいデッカいやつでね。びっくりするぐらい「おー、こんなんギュウチャン作ったんや」と思ったら、余計欲しくてね。なんとなく情報みたいなので聞いたら100万ぐらいする、いうてね。
池上:その大きいのが。
榎:大きいのが。今やったら買おうかなと思うけどな。
池上:今だったらそれはお買い得ですけどね(笑)。
榎:その頃やったら、今の言うたら1000万以上になるから。
池上:まあそうですよね。
榎:そらもう欲しかったけどな。盗んで帰ろうかなと思ても、でっかいから盗むわけにいかんしな(笑)。そういうとこはすごいなと思って。会いたいなというのもずっとあったし。それがたまたまその中村敬治さんからそういう話があった時に、「そういう時代の連中とやるから、やらないか」いうて。「ギュウチャンもやる言うとるから」いうて。「ほな、僕も出したい」いうて(笑)。それでかな。
池上:実際に会われて、あの時篠原さん《ボクシング・ペインティング》とかも実際にやられて。
榎:実際やったんや、その美術館で。
池上:その時はいました?
榎:おったよ。散髪は秋山祐徳太子(1935—)がバリカンでびゃーっとモヒカンにして。なんか面白いおっさんやな。またまた秋山さんおもろいやねん。二人がごちゃごちゃ言いながらな、散髪しよるん。みんなどーっと見とるんよ。オープニングにやったんや。散髪してからやるのがカッコ良かったんやな。最初、ボクシングやる前けど、向こうからやってきて、紹介してくれて。ギュウチャン来て、「おまえか」いうて。向こうも僕に会いたかったんやって、どんなやつやろかと思って。どういう作家と一緒にやるかいう、資料送ってるやん? 半刈りの写真も送ったみたい、ニューヨークへ。だからギュウチャンも気になってたんやって、「どんなやつかな。会いたい」いうて。
池上:「こいつデキル」と(笑)。
榎:「おまえか!」いう感じで。それで一緒にボクシングのあれやったりなんかして。オープニングが終わった後、みんなで一杯飲んだりなんかして。みんなもう暴れん坊ばっかりやん? 飲み会や。美術館は田舎やん、万博のとこってなんもないやん、お店とか。で、中村さんが僕に、大阪でも神戸でもいいからみんなどっか飲みに連れて行ってくれへんかいうて。ほかに誰やったかな、福岡(道雄)さんはおったのかなあ、村岡三郎と、大阪では森村(泰昌、1951—)くんと、何人ぐらいおったかな、4、5人おったかな、関西の人が。飲めへんの、ほかの人。村岡さんも福岡さんも飲めへんし、森村くんも苦手みたいでな。しゃあないから、「忠さん、このおっさんら連れて行ってくれへんか」いうて。それで僕がみんなを大阪へ案内するようになって。地下鉄か、モノレールみたいな電車に乗って行くんやけど。おもろいん。電車の中でな、つり革にぶら下がってな、網棚の上へ上がろうとするしな(笑)。
池上:なんか子どもですね(笑)。
榎:子どもなん。ええおっさんや(笑)。さっき言うた平賀敬さんはビールを片時も離さへんの。
池上:モノレールの中で飲んでるんですか。
榎:ずっと飲んどるの。カバンにいっぱいビール缶を、美術館でオープニングやったから、残りをカバンにいっぱい入れて。面白いの。年寄りが座る場所があって、みんな座りよって。「おっ、ここ年寄りの席や」いうて。「おまえいいんちゃうか」とか言いながらね。面白かったね。
池上:ちょっと乗り合わせてみたいような。
江上:ちょっと見たくないような。隣の車両ぐらいから見たい(笑)。
榎:僕も若い時、結構飲んだり、暴れん坊やったけど、あのおっさんらがやると。自分がやってもあんまり、ひとがやってたらなんか恥ずかしいてな(笑)。
池上:ちょっと常識人になったような気が(笑)。
榎:そう。「榎クン、今度どこへ連れていってくれるんや」とかいうてな。僕が連れて行くみたいな役目やったから。だから迷子にならんようにいう感じ。もうどこへ行くや分からへん。東急インか阪急のホテルを借りて、迷子になったらここへ帰ってくるんや、いうことで。分からなくなったらここへ帰ってくるように、みんなに地図とか渡して。で、飲みに行ったら、何人かは一緒に行ったんやけど、もうバラバラになってどこ行ったんか分からんようになる人もおるし。もうすごかった。おもろい。そういう出会いやったかな。
池上:それで豊田(豊田市美術館)で「ギュウとチュウ 篠原有司男と榎忠」(2007年10月2日—12月24日)という展覧会もされてますし、このあいだも埼玉(注:「篠原有司男と榎忠」、埼玉県立近代美術館、2012年2月28日-3月4日)で一緒にされて。
榎:その間にもギュウチャンとなんか知らんけど縁があって。「痕跡展」(注:「痕跡――戦後美術における身体と思考」、京都国立近代美術館、2005年) というのがあって。
池上:ありましたね。
榎:それも一緒にギュウチャンとか僕も選ばれて。
池上:あれも国立国際ですか。
榎:京都が最初やったんかな。尾崎(信一郎)さんなんかがやってたんやな。
池上:ああ、「痕跡」は京都に移られてからですね。
江上:そうです。京近美。
榎:京都(国立近代美術館、2004年)の後、東京(国立近代美術館、2005年)へ行ったんちがうかな。東京の国立。
池上:そうです、そうです。
榎:そういう感じで時々一緒になりだしてね、展覧会。なんか縁があるないう感じになってね。それがまた、たまたま豊田で。最初は個展をやるという予定やったんや、ギュウチャンのも僕のも。だけど都筑(正敏)さんが、「これは二人展のほうが面白いんちゃうか、やろか」いう感じで。
池上:オープニングでボクシングも大砲のパフォーマンスも両方見て、すごい面白かったです。
榎:ああ、来られてたんや。
池上:はい。すごく暑い日でね。
榎:そうや、天気良かったから。
池上:でもいい日で。
榎:不思議とそういう出会いがあったというのか。だけど不思議と、作品でもモノでもそうやけど、思ってたら、後で、「ああ、なるもんやな」と思ってね。不思議やなあと思て。
池上:その後の展開で、さっきもちょっと《AMAMAMA》を作られていた時に、鉄片のベロ耳ですとか、鉄片の切り口の面白さというか、美しさというか、そういうのを発見されていたということなんですけども。1994年に「ギロチンシャー」(JR神戸駅浜の手出口より西高架下、1994年11月27日—12月11日 )という個展をされていて。
榎:この後。
池上:これのもうちょっと後ですね。
榎:1994年か。
池上:《AMAMAMA》の時もそうなんですけど、カネニシ興業さんという。
榎:兼正ね。
池上:カネマサさん。ちょっと間違えてました、すいません。兼正興業さんのところで《ギロチンシャー》を発見されるんですかね。
榎:これはね、《GUILLOTINE》は。僕は、ここの兼正いうのは10年も20年も前からずっと出入りしとって。大砲作る時からずっと出入りしとって。《GUILLOTINE》いうのは、ずっと見とるから、いつか何かできないかいうのはずっとあってね。それも場所がいるからね。いろんなのを探してたんだけど、たまたまJR神戸駅の、ちょうどホームの下になるのかな。
池上:「元コー」(注:元町高架下商店街の略)と言われるところですか。
榎:「元コー」いうか、ずっと神戸駅の方やけどね。そこに前から空き家になってる倉庫があったわけ、広い。国鉄時代は、荷物とか小包いうの、チッキいうて、こういう箱詰めの荷物を国鉄時代はやってたわけ。受付があってね。それをJRになってからやめて、そこが空いて。倉庫がすごい広いとこやったわけ。天井が高いしね。
池上:じゃあ元コーの下じゃなくて。
榎:違う。
池上:また別のとこに倉庫があるんですね。
榎:そう。でっかいの、そこ。天井も高いとこ8メーターぐらいあるしね。そういうとこがあって。ずっと面白いなと、「こんなとこで展覧会できないかな」と思ってたわけ。
江上:その場所も前から知ってたんですね。
榎:知ってた。何回か知人に聞いたりなんかするんやけど、どこへどう聞いていいんか分からんし。聞きに行ったこともあるんや、駅へ。だけどそこの駅長に言うたって、「そういうことはできない」って。
池上:まあよく分からないですよね、きっと。
榎:僕らの友だちでたまたま『KOBECCO(月刊神戸っ子)』に勤めてた女の子が、大阪の関西なんとかいう雑誌の会社に勤めとって、JR西日本の社長とのインタヴューがあるいうので、それに行くからいうことで。それ聞いて、「おっ、あれ聞いてくれ」いうてね、神戸駅のトップに。そしたらちょうど運が良かったのかなんか知らんけど、ちょうど東海道と山陽とを結ぶ拠点が神戸駅が出発で、120年になるんやって、僕がやろうとする年が。それで神戸駅でもいろんなイベントとかそんなのを、コンコースとかいろんなところで考えてたんやけど、まあ出店しか考えなかったみたいでね。それで僕がそういうプランを持っていったの。「ああ、ぜひ使ってくれ」いうてね。ひとつのイベントやから、いうて。
池上:なんか、トップに理解があるというケースが結構ありますね。
榎:あるねん!
池上:すばらしいですね。
榎:だからなんぼその辺の駅の駅長に言うたって。
池上:権限がないですもんね、彼らは。
榎:許可できない。そうして一発でそれもオッケー。それでまた「好きなとこ使ってくれ」いうわけ、いろんなとこね。淡路屋の弁当とか、ああいうとこもみな入ってた、その近くに。今はきれいになっとるけどね、あそこは全部空きの倉庫やったんや。それを、いずれ開発する予定はあったんやけど、まだその頃はなかったから、いろんな場所いっぱい見せてくれてね。すごいのは、神戸駅のコンコースのとこに、広い、天皇陛下とかそんなのが来たら寄る「貴賓室」いうて、ごっつい木でできた、どういうか、木で彫った御紋があるわけ、菊の。
池上:そんなのも見せてもらったんですか。
榎:見せてもろた。ここやったら今使ってないし。
池上:そこ使っていいって?(笑) すごいですね。
榎:資料とかしかないから、ここで展覧会やったら人来るよとかね。コンコースやし。「僕はこういうとこではやりたくない、あの倉庫がいいんや」いうて(笑)。
池上:菊の御紋使ってたらちょっと面白そうですけど(笑)。
江上:榎さんとはちょっとまた違うからね。
池上:テイストが違いますよね。
榎:それで僕はあそこの倉庫を。「だけどあそこはあんまり人も通らへんしな」言うから、「だけどあそこがいいんや」言うて。そこは放ったらかしてたから、中にホームレスが入って、たき火やったりなんかしとるわけ。それの片付けから始めていくわけ。ずっと掃除して、石ころ拾ってね。それでまあなんとかやり始めたんや。またここの難しいのは、全部電気を止めてたわけ、シャッターとか使ってないから。それを動かすのに関電の電気とか、僕は安くできないかなと思ってたんやけど、JRの方は使わせてくれへんわけ。もし事故とかそんなのあったら、よその電気使って事故あったら、責任問題があるので大変やから、うちのJRの電気を使ってくれ、いうて。そういう手続きとかまたうるさいの。また印鑑証明とかそんなのがいるわけ。
江上:ややこしいね。
池上:書類がいっぱいいるんですね。
榎:だけどやりたいからな、じゃまくさいけどそのぐらい我慢せなあかんと思て。ほんで、やったんかな。だけどものすごく応援してくれてね。JR西日本の社長がオッケーしたから、みんな、各沿線の駅長クラスが全部見に来たくらいの展覧会。広告いうの、ビラなんか全部駅に貼ってくれたり、みなやってくれて。
池上:そのJRの人たちの反応は。
榎:さっき言うたように、結構みんないろんなとこから見に来てくれるし。
池上:みんな喜んでましたか。
榎:120年の、ひとつの節目いうのかそういう時期やったし、いろんなとこから見に来てくれたり、鉄道マニアとかそんなのも。
池上:鉄ちゃんの人たちは絶対これ好きだろう(笑)。
江上:この場所で《GUILLOTINE》いうのは、セットで最初から考えておられたんですか。
榎:やるのは、ここ。
江上:ここやったら《GUILLOTINE》できるやろ、って?
榎:なぜかいうたら、ここは大きい重機が入るの。入口も大きいしね、天井が8メーターあるしね。そうしたら重たいものをそばまで行って、ザッと、ガチャッとつかんでセッティングできるわけ。
江上:ここやないと逆にできない。
榎:そこでしかできないの。ここの場所は下が土でね、そこへ溝作ってね、セメント池作ったり、川みたいの作ったりね、いろんなのをやったんだけど。そういうことができるからなんとかここの場所をね。だけど大変は大変やった。一個石が落ちてきたらどこから落ちてきたか、ものすごいケンカしたりとかね、そういうのは大変やったけど。あんまり深く掘れないんよ。掘れるとこもあるんだけどね。下にも大きく基礎のセメントが入ってるわけ。だから掘れる場所が決まっとってね。作品も置く場所も決まるというのか、そうなってしまったんだけど。だからあんまり空間的なとか、デザイン的とか、そういうもんは無視せなあかんという感じ。雰囲気でやっていくという感じでしたんだけど。
池上:運んだり、実際のモノを持ってくるのとかも兼正興業さんの全部協力を得て。
榎:兼正がみな応援してくれた。全部ただでやってくれた。
池上:へーえ。
榎:休みの時とか毎晩行って、そこで溶接やったりして。その時、智恵子さんなんかが学生やったんかな、まだ。
江上:木ノ下智恵子さん。
榎:智恵子さんなんかが手伝いに来とって。
池上:やることによって、いろんな会社の協力を受けていらっしゃると思うんですけども、兼正興業以外にはどういうところと今までお仕事をされてますか。
榎:この近くにもあるんやけど、溶接やってる職人とかそういうのが何人かおるわけ。この溶接はここでやる、とかいうのはそこへ持って行って、そこでやらせてもらったりとか。
池上:やりたいことによって協力を頼む会社というか、工場も違うという感じですか。
榎:そうそう。何人かおるわけ。そういうとこは小さい会社が多いんだけどね。どうしても僕ら大きいとこへ頼めないというのは(お金がないから)。もちろんお金があっても大きい会社はやってくれないんだけど、小さい会社だと休みとか自分らの仕事が終わった後に手伝ってくれたり、協力してくれる。大きい会社はどうしても無理がきかない。だからなんぼお金払っても、ああいうとこは決まったところの仕事やってるから、よそのそういうものはやらないから。
池上:大きいところというと、例えばどういうところですか。
榎:例えば、さっき言うたような、久保田鉄工とか三菱電機とか(三菱)造船とか、ああいうとこ。何か、市とか県がやるいうたら、そういうとこも協力してくれる場合がある。材料とかをわけてくれるんだけど、そうでなかったら個人的なものはなかなか。
池上:なかなか難しいですか。
江上:そのために休みの日全部開けてとか、ライン止めて、みたいな話ですもんね。
榎:そんなのできないもん。
池上:大きいとこは確かにそれは難しいでしょうね。
榎:そういうことで、自分のやれる方法は、自分で友だちや仲間をつくっていくというか。そういう人がいなかったらできない。だから個人だけでやろうと思ったら限られてるのね。だからどうしても発想とか、やりたいことが限られたようななかで、どうしても作品らしい、彫刻らしいような作品になってしまうのか。そうでないもんをやっぱりやりたいなと思とったから。それにはどうしたらいいかいうたら、やっぱりこういう工場跡とかどっかの倉庫みたいなのを借りたいとか、山の中の、さっき穴掘ったような場所とか、そういうとこになってしまう。そのほうが大変だけど、その大変いうのが、まあ僕にとってはものすごく面白い要素があるわけ。いろんな人との出会いとか接触とか、今でよく言う「絆」みたいなんがいろんな意味で生まれてくるというのかな。僕はそっちのほうが好きやから。
池上:いまちょっと「絆」という言葉も使われてましたが、こういう大きいものを作られてきて、1995年(1月17日)に阪神・淡路大震災というのが起きて、すごく大変なことになったんですけど。
榎:そう!そうやねん。この1か月後やねん。まだ全部片付けしてない頃やったんや。
池上:そうですよね。
榎:次の年の1月やからね。
池上:これが、12月11日までやってるから。
榎:後片付けとかそんなので。べつに決まった日に片付けるとかなくて、展覧会でも、見たいという人がおったらまだ開けとる場合もあるしね。
池上:震災が起きた時はまだ撤収されてなかったんですか。
榎:だいたいはしてたけどね。大部分はまた兼正に返してたわけ。その間に、名古屋と、どこか2か所ぐらいやる予定だったんかな。大阪の集雅堂という、岡田(一郎)さんいうとこが「やってほしい」いうてね。
池上:そうですね。集雅堂に震災の後に回って。
榎:5月頃ちがうかな。4月か5月頃やろ。
江上:4月ですね。名古屋でも「コンテンポラリーアートフェア」(名古屋市民ギャラリー)が、4月に同じく重なっていますね。
榎:何かやってほしいいうて、それが決まってたんだけど、その作品は兼正の会社に置いてもらってたわけ。でも、兼正(神戸市長田区)が結構やられてね。
池上:でしょうね。
榎:作品なんか、上からいろんなものが重なってしまって、掘り出すみたいな感じやった。それはまあ兼正の人がやってくれたけど。ほんと1か月ぐらい後やったかなあ。びっくりした。まさかその震源地が、穴を掘る前に調べに行ってた野島断層が震源地やったわけ。その化石が出てきた。だから余計びっくりしてね。
池上:すごいとこでつながってますね。
榎:すごいことやったなと思ってね。
池上:榎さんのお家とかご家族は、震災の影響というのは。
榎:それは大丈夫やった。家がちょっとやられた。言うたって半壊いうのか、そんなもん。そんなのどこでもね、そういうようになってたから。うちの家も、やりかえした後やったからね。古い家に住んどる時やったらもう完全にやられてたと思う。基礎をやりかえして、打ち込んで。ちょっと崖みたいなとこやったんや、山の方でね。だから助かったんや。
池上:よかったですね。
榎:うちの親戚とか、絶対うちの家やられたと思とったけど、そういうのんで助かった。
江上:でも震災の後で引越されたんですか。
榎:もちろん震災の時はそういう感じでね。地元におばあさんがおってね。そのおばあさんが「地元を離れたくない」いうてね。娘さんなんか、子どもたちは「変わろうや」言うとったんやけど、おばあちゃんは自分の住んでたとこやから、生まれたとこいうのか、「よそへは行きたくない」いうて、向こうも家探しとったわけ。僕も山の方で、作品とかそんなのがだんだん、クルマで、担いで上がっとったんや、階段みたいなとこ。
江上:そうか。高取山のとこやから。
榎:だから駐車場、クルマが置けるような感じでいうこともあって。ずっと思とったしね。そういうとこで友だちに工務店をやってるやつがおって、情報は言うとったわけ。
江上:「入ってきたら」と。
榎:ほな、垂水の今住んでるとこが(空いて)。その頃はなかなか家もないくらいやってん、みんな。だからちょっと高かったんやけど、なんとか。そこもやられとったんや、ひび割れとかそんなのはあったんだけど、でもまたメンテナンスして、直して入ったんやけど。
池上:そういうふうに被害も受けられて、いったん制作はストップした。
榎:うん。できなかったというのか。うちの家は助かったんやけど、会社がやられてしまったんや。会社は、菅原というものすごく火事になったとこでね。火事は助かったんやけどね、もう煙突は倒れるし、ボーンとやられて、2階にあった機械なんか下に落ちてるし。そういうので仕事は全然だめ。後どうするかいうので、片付けしながら、また仕事立て直していかなあかんし、その準備もせなあかんし。片付けを何か月もかかってやって。うちの場合は、今までやってた仕事が特殊な仕事やったから、地震で仕事がストップしたら、またよその仕事がだめになってしまうやん? そういうことで、うちがやってた仕事をよその会社に教えに行かなあかんわけ、頼むのに。得意先がそこで切れるんやけど、それはもう仕方ないやん、あとやっていくのに。それで三重県とか名古屋とかいろんなとこに、いろんな機械とかを揃えてもらって、僕の技術を教えて。今までうちは35、6人から40人近くおったんやけど、もう仕事もないしね、そんなことやっていかれへんから、半分ぐらい、今までおった人をうちの得意先とかそういうとこにみんな振り分けして。若い人は遠いとこへ行けるんだけど、年いった人は「遠いとこは行きたくない」言うから、近くのとこ探して。そういう作業は1年ぐらい続いたかな。だから作品どころじゃなかった。
池上:そうですねえ。
榎:その時結構、ギャラリー16とか、いろんなとこから「何か作品出してくれないか」言うんやけど、そういう考えってできなかったなあ。そこまでして作品なんかやっても。
池上:それどころではないような状況ですよね。
榎:作家と言われている人はみんなやってるけどね、僕はあんまり作家いう意識がなかったから。それよか生活とかそういうものほうが、そういうもんがあってこそ作品も生まれてくると思うし。できない時は仕方ないんだから。
池上:でも、この《ギロチンシャー》の作品は、4月には大阪とか名古屋で。
榎:やったよ。
池上:やっていて。その頃にはなんとか展示作業とかも。
榎:できない、できない。だけど僕の作品は、いっぺんできたらわりと動かすだけやから。あと展示するだけやから。あまり変な細工とかそういうのもいらないし。ただ重たいだけでね(笑)。
池上:運ぶのが大変という。
江上:道が、よく持って行けたなという感じですよね。4月やったから。
池上:そうですね。3か月しか経ってないのに。
榎:それはまあ場所が大阪の方やったし。神戸ではたぶん無理やったと思うけどね。
池上:そうですよね。なんとか運ぶだけは運んでという。
榎:そうそう。
池上:こういうのを選ばれる時というのは、こういう部品というか、裁断されたものを見に行かせてもらって、これとこれ、というふうに自分でピックアップされるんですか。
榎:このあいだのは小さいやつで、選んでくるやつも多いんだけど、今回、これは大きいスペースでやるから、大きいやつがいるわけ。それは、「こういうふうに切ってほしい」とか言うわけ。ギロチンのとこ行って、置いて。ほんとはそこへ入って、中へ入ったらあかんのやけど、入ってね(笑)。「角度とか、そういう感じで切ってくれ」いうてね。小さいものは破片みたいなもんでね、その辺にあるやつは。だけど大きいやつは、やっぱり切ってもらって、指定してやるわけ。このあいだの《サラマンダー》でも、5、6メーターあって、半分にしたりするんやけど。
池上:では、発見したものと、自分で切ってもらったものと、組み合わさっている感じですか。
榎:そうそう。こんなでっかいやつとか、そういう感じでやっていた。
池上:じゃあやっぱり「ほかのものじゃダメだ」というのがあるんですね。震災なんかでほかのと一緒くたになってしまって。
榎:まあそのへんはね、どういうのかな、震災でやっぱり三宮とか、ビルなんかひどかったんや。高速が倒れたり、ああいう骨組みがむき出しになったりとか。解体し始めたら、こういう世界が、こういうでっかいやつがいっぱい街の中に出てくるわけ、バーッと。だから、どういうもんかね、地震の前やったからこの作品ができたと思うの。地震の後はこういうのが街中にあふれてしまってね、もうほんとにショックで。
池上:わざわざつくろうとは思わなかったかもしれないですね。
榎:うん。地震の前やったから、これが作品としてできたんやと思うけどね。
池上:湾岸戦争と《薬莢》の時期が重なったというのと、ちょっと似てるような。
榎:そうやね。だから結構みんなに言われたことあるんよ、「おまえがやった後、何かが起こるな」いうてな(笑)。
池上:そんな(笑)。
江上:「嵐を呼ぶ男」や(笑)。
榎:ほんとにな、何かやったらそういうもんが起こったりするいう。
池上:戦争が起きたら困りますけども。
榎:うん。
池上:震災の後、制作はどういうふうに再開していかれたんですか。お仕事のほうをまず立て直して。
榎:僕は、あまり先のことは、次何やるかってあまり考えん方の人間でね。そういう生活とか社会の流れの中で(やっていく)。これなんかは代官山いうとこでね、関東大震災から七十何年の節目で、この同潤会の建物が古くなって、取り壊しになって、新しいものを作るいうて。(注:「さよなら同潤会アパート展:再生と記憶」、1996年8月8日—12日。『Everyday Life/Art Enoki Chu』、156–59 頁)。安藤(忠雄、1941—)さんがやったらしいんやけど。これはもうみんなに親しまれて、建築界の方でも結構有名になっとったんや、建物が。だけども、あの時代のやつやから、木造やったし、やっぱり潰して、また新しくやるいうことで。阪神大震災を体験した人にいっぺんやってほしいなということで、僕が関西の方から(出向いた)。この時も10人近くやったんかな。その時実際、長田で出てきた鉛のやつを1トンぐらい持って行って、ここで階段に流したり、庭に流したりしたんや。現場で溶かしながらやったんやけどね。
池上:そうなんですね、やっぱり。うまいことつながってるなって。実際に流しているんですね。
榎:流してる。
池上:実際にそこで鉛を熱してやってるんですか。
榎:そうそう、ここでね。安斎重男(1939—)というカメラマンがおるの。彼なんかも「やりたい」言うてね。写真を撮りに来てくれるの。安斎さんは、写真撮るだけでなしに自分もやりたくなって、「いっぺん溶かしてみたい」いうて、バーッと。こういうパイプとか、実際、これ持って行って、インゴット(鋳塊)にしたやつを持って行ったり、水道管のパイプみたいなものを持って行ったりして。
池上:これが鉛の塊?
榎:これを溶かしてね、鉛にしたわけ。
江上:で、そこに置いて。すごいですね。
榎:これを企画したのは、北川フラム(1946—)の、あそこがやったんかな。
池上:熱する器具はどういうものなんですか。
榎:これは向こうで調達して。ガスバーナー。
池上:ガスバーナーみたいな。ああ、これですね。
榎:そういう感じで溶かすわけ。
江上:鉛は融点低いですよね。
榎:低い。だいたい600度もあれば十分溶けるわけ。だからこのバーナーで速くやったらすぐ溶けてしまう、水みたいに。
池上:こういうふうに展示して、その後はデロってなった状態のまま。
榎:これまたね、乾いたらペロッと剥がれるの(笑)。だけど古いモルタルのセメントやからね、下のセメントも剥がれてしまうような感じ。だけど剥がすのもわりと簡単。
池上:これもその場でやって、これだけの展示になるんですね。
榎:そうそう。
江上:後ろに1個あります、インゴット。
池上:あ、ほんとだ。
榎:そんな感じのやつ。それは鉛を使った作品で。震災の後、鉛にちょっと取り組んだの。それもみんな、長田とかああいうとこで出てきたのが兼正に集まってきよったわけ。水道管の、ああいうグニャグニャッとした感じで。それがたくさんあるからね、いっぺんやってみようと。鉛を扱ったことないんやけど、面白いからね。だけど扱いやすいようで扱いにくかったな。これは動かすことができないの、作品として。作って、どこかへ展示するとかいうのは難しいの。
池上:形を作ったらそこで終わりというか。
榎:そうそう。ある程度の大きさやったらできるんだけど、あんまり大きいものをやったら、もう持つのに、機材があれば、フォークリフトやなんかで持つんやけど、変形してしまうの、グニュッとなってしまうわけ。
江上:このあいだも、これ、枠に入れて置いてたけど、結局ちょっと使えなくて、切り離して使った。
池上:兵庫県美での展覧会の時ですか。
榎:この中できれいそうなのだけ外してしまってね。
池上:融点が低いというのはそういうことでもあるんですね。形を保持しにくいというか。
榎:これは芦屋のルナホールというところで、フラメンコやってる友だちが「いっぺんやりたいな」いう感じで。ステンレスとかいろんな、切り抜いた後の部品の、抜け殻いうの、それを組んで立体的な。移動できたりとか、天井からでっかいそういう金属がバーンと降りてきたりとかね。
池上:舞台セットとして?
榎:そうそう。これ、すごかったよ。フラメンコ見に来たら、みんなこの舞台の写真を撮る。始まる前にバーッとみんな写真撮って。
池上:主役を食ってしまうような(笑)。
榎:最初、舞台の大道具の人が、仕込んだりなんかする人が、重たいやん? もう嫌がってね。「こんなクソ重たいん」いうて。だけど、だんだんやりだしたら、「やっぱり木や紙とちゃうな」いうて、ごっつい喜んでくれたけど。
池上:この次の、2000年の《PLAYSTATION》という個展ですかね、それについてお聞きしようかと思っていたんですが。(神戸・グストハウス、2000年10月29日—11月11日)
榎:ちょっと余談やけどね。この穴掘った作品(「表出する大地展」、1997年2月8日—3月30日)は、広島の現美(広島市現代美術館)で、今、兵庫(県立美術館)にいる出原(均)さんがこの時担当しとってね。7人くらい、土をテーマに作品を扱っている人をやっていて。ほかの作家は、美術館の中に置ける平面であり、土の塊みたいなのをやったんだけど、出原さんはもうひとつ何か違ったのをやりたいなと、ずっと調べとったらしいわ。で、僕を見つけた。今井祝雄(1946—)が出してる本で、こういう穴を掘ってる関西のもんがおるいうて、それを見つけて、「やらないか」ということでね。で、やるんだけど、全然どんな土かも分からんし。「掘るとこあるんか?」言うたら、「掘るとこいうたって、美術館の庭しかない」言うから。「庭ってどんなん?」言うたら、全然クルマが入っていけないような庭でね。まあ技術的なことはなんとかしたんやけど。出原さんも、「何かこういうことをやりたい」いうのを探しとってね。で、僕を見つけて「ぜひやらないか」いうて、やり始めた。
池上:そうか。じゃあここで再び掘ったんですね。
榎:そう。初めて2度やった。それもね、仕事終わって、金曜日の晩とかね、新幹線に乗って穴掘りに行きよる(笑)。
江上:広島まで(笑)。
榎:広島まで。2か月、3か月ぐらい行っとったかな。あと、掘り残しとか、こういうとこ、誰でもできるようなとこは、向こうの学生とかバイトみたいなので来とった人に頼んで、「今度来るまでにここまで掘っといてほしい」とかそんなの言うて。これも面白かったけどね。そういう若い子と一緒に。
江上:でも、そう思ったら、中村敬治さんの展覧会もありましたけど、震災の後ぐらいから、北川フラムさんが声かけてこられたり、出原さんが声かけてきたり、ちょこちょこいろんな人が、「こんな面白い人がいる」いうのを聞いて、「何かやらへんか」いうのが増えてきてる感じですね。
榎:そうよ。国際美術館で「反芸術/汎芸術」やったのもそうやねん。「ハンガリ」の写真とか「ROSE CHU」とかいろんなのをやったわけ。やっぱりみんな見に来るわけ、国際とかああいうとこでやったら。やっぱり若い、勉強してる子は、あの時代の、ネオダダとかあのへんの時代に興味のある人がおるわけ。その時に村上(隆)とかが見たわけ、「ハンガリ」を。それで。
池上:「何だこれはと」(笑)。
榎:「なんや、こんなアホがおるんか」いう感じで(笑)。おもろいな、いうことで。で、「会いたい」と。美術館でやると、そういう大事な要素もあると思うしね。それまでは僕は個人的には、誰が来るかというと、近所のおっちゃん、おばちゃんばっかりみたいなとこを思ってたけど、ああいうとこでやればいろんな人が見てるやんか。そういうなかでいろんな方向にまたつながって。それは、徐々にだんだん美術館のやり方とかそういうのって、最初はあんまり興味なかったんだけど、そういうなかで美術館でやる大事なこととか必要性いうのがあるな、と思って。そういう中で、自分だけの必要性でなしに、やっぱり見る人の必要性をもっと考えていかないとあかんというのは、まだまだどこかにはあるんだけど。この後ぐらいかな。こういうなかで、ああいうとこでやったりするから、だんだんつながって、いま言うたように、北川フラムとかああいう人に伝わっていくというか。
池上:さっきの神戸の学園都市のところは、掘った跡はガレージに、ちょうどよくなったわけですけど、ここはどうされたんですか。
榎:また埋め戻したよ(笑)。
池上:やっぱり(笑)。
榎:それがまた面白かったんや。その時穴掘ったら、中にゴミがいっぱいあるわけ。工事現場の、美術館をつくる工事をやってた時の、いろんなセメントの塊みたいなものとか、工事する現場に、危ないから入ったらいけないいう金属のやつとか、全部埋め込んどるんや。「こんなことやっとったんか」って文句いいながら、出原さんなんかと。それは設計者が悪いんじゃなしに、工事現場の人が。
池上:見えへんし、みたいな感じで。
榎:見えへんと思ってな。まさか掘るとは思わへんやんか、美術館なんか。その時おもろかったのはね、有名な建築家の、何という人やったかな。美術館をつくった人の、先生と言われる有名な建築家。外国の人で。
江上:外国の人?
榎:その人が、環境とかそういうことをものすごく大事にしながらやってる、その弟子やから。まあ言うたら黒川紀章クラスの人やと思うんやけど。あ、(ル・)コルビュジェ(Le Corbusier)か、その展覧会やってたんや、そこの美術館で、ちょうど僕が穴掘りよる時に。ほな全国からその展覧会を見に来るわけ、建築家も。僕が穴掘る時にゴミが出てきた話をしとったわけ。ほな、こういう後始末は、設計者はどこまで責任あるのか、こんな現物見せられたら。そら設計者の責任ではないけど、管理がなってない、いうて。
池上:後のこともちゃんと考えてという。
榎:うん、考えて。そういうことがもろに出てきたんよ。
池上:広島の建築は黒川紀章ですよね。
榎:黒川紀章か。なんかそういう感じで。
池上:ちょっと具合が悪い感じですね。
榎:具合悪いことでね。UCCの腐りかけた缶とかあんなのがいっぱい出てきてね。
池上:それはいかんですね。では、神戸の時とはまた違う歴史が掘り返されたというか。
榎:そう。埋める時に、沖縄から持ってきた土だったんよ。沖縄の、米軍の嘉手納基地かどこかの土を持ってきた。その時一緒にやってた……、犬島でやってたの、誰やった?
江上:柳(幸典、1959—)さん。
榎:彼が土を沖縄から持ってきてたんや。ある面積を掘って、木箱にバッと入れて。それが何個かあったんかな。「それも一緒に埋めさせてくれ」いうてね。だからまた掘ったら。
池上:それをどこかにやらないといけないから。
榎:それを一緒に埋めたりとか。本当かどうか知らんけど、出原さんが、もし誰か次掘る人がおったら、そこにメッセージみたいなのを入れて、タイムカプセルみたいなのを入れて、埋めるいうて。
池上:埋められたんですか、実際。
榎:うん。
池上:何が入ってるんでしょうね。
榎:文章か何か書いてるのとちがうかな。
池上:出原さんが?
榎:うん。と思うよ。
池上:広島の土地に米軍基地の土がまた入るということが、なんかすごいですよね。
榎:ここは、真砂土(まさつち)いうてね、岩がないの。砂岩いうのか、岩が溶けて全部サラサラの土やねん。その山は、山いうか比治山いうとこは、こういう感じの土ばっかりで、なんぼ掘っても岩が出てこない。
江上・池上:へえ~。
榎:だから掘りやすいのは掘りやすかった。ただゴミがあったのが掘りにくかったけどね。だから結構、裏側は防空壕があったり、いまだにNHKの基地があるのかな。それとかアメリカの研究するのが残ってるわけ。あの山は半分は原爆でやられたんやって、だけどその裏側は原爆でやられてない。そういうので、いろんな資料とかを調べる研究所が米軍の中にまだあるらしいわ。
池上:建物だけまだありますよね。
江上:あります。
榎:だからこれもある意味面白かった。そういういろんな。
池上:《肘山蠢動》というタイトルで。この肘ってわざとですか、それとも。
榎:いや、そういう字よ、肘山いう。
池上:ヒジ山って。
江上:比べるに治める。
榎:これ、出原さんに調べてもろたんよ。古いやつかな。
池上:ああ、昔の(漢字表記)。
江上:昔はこういう漢字やったんかもしれないですね。
榎:昔の土のこともあったしね、その文字を使ったんや。
池上:面白いですね。
榎:そのなかに、蠢動いうて、虫とかいろんなもんがうごめいてるいうのか。それが、ゴミがうごめいてたという(笑)。なんか企業のそういう悪い面を暴いたという。その後、これも北川フラムの計画で、地震の後、あの辺に復興住宅みたいなのができた時に、ちょうど美術館もできる時やったんや。まだ土が山盛りやったんや。
江上:HAT神戸ですね。
榎:HAT神戸。その時に神戸製鋼の、こういう溶鉱炉から出てきた「湯」(注:溶けて真っ赤になった液状の鉄のこと)を運ぶやつやねん、これも。ここへいっぱい入れて。中は耐火レンガでね。冷えないように全部レンガでできてて。それをプレゼントしてくれるの。好きなように使っていいから、いうてね。それであそこへモニュメントとして何点か作ったわけ。その時僕はこれを、最初は何十個もらってやるつもりやったんやけど、結構重量がありすぎて、下の基礎を作らなかったらなかなかそういうとこに置けないみたいな感じで。これも重たいんよ、結構。4、5トンあるような感じでね。
池上:じゃあ、復興プロジェクトの一つみたいな感じですよね、こういうのは。そういうのに参加されて。
榎:これは全部鉛で作ってやってるんです。長田もいろんなのがあるんだけど、一応長田とか菅原のパイプを使ったという感じで。昔、ここは製鋼所やったから。
池上:震災の後、神戸の街並みも大きく変わったところがあると思いますけど、そういうのはどういうふうに見ていらっしゃいましたか。
榎:もちろんいろんな建物とかあんなのが壊されて、新しいものになっていくんだけど。三宮いうたら阪急会館とか映画館とか、僕らよう行ってた阪急文化とか、ああいう古いものがなくなってしまったわね。それと街柄が、どういうか、きれいになって、昔はあの辺の三宮駅前、今、石をボンと積んだ、でこぼこの公園みたいなのあるやん、山の。あそこなんかでも屋台があったりとか、何とも言えん古い街のそういうのが残ってたんだけど、それがもうきれいになってしもてね。きれいがいいのかどうかは分からへんけど。まあたしかにきれいになって、安全になったのかも分からないけど、なんとも言われへんね。
池上:開発できれいにしたんじゃなくて、一回だめになってしまったものを、新しくせざるを得なかったから。
榎:だから、神戸って昔から、やっぱり古い建物とか税関とか、横の商工会議所とか、古い検査所とかいろんなのがいっぱいあったんや。だけどほとんど潰してしまうんよ。そのへんでいろんな建築仲間と、残してくれっていろんな保存運動やったりしてたんやけど、もう簡単に神戸市いうのは潰していってしまう。北野でもそうよ。どんどん潰しよった。たまたま『風見鶏』かなんかいうテレビをやって残すようになったんやけど。北野開発いうのか。その頃、Rose Gardenとかああいうのが残ったのも、安藤(忠雄)さんなんかがまだ若い、まだあんまり売れてない頃やったんかな。
池上:出世作ですよね、あの辺は。
榎:そうそう。その時あそこのRose Gardenに最初に取りかかった、僕らの友だちの、同世代の子とかそんなのが、あの辺で洋服屋とかを作ったりして。あの頃はワールド(WORLD)とか、そういう大きい会社なんかがポートアイランドへ移転し始めた時期やったんかな。あの辺が『風見鶏』かあんなので一気に、ファッション的なものがダーッとでき始めた頃やった。だから僕らも結構関わってたんや、保存運動とか。Rose GardenのRose Garden大賞とかいうて、展覧会をしたり。
江上:やってましたね。
榎:その時僕はポスターをずっと作ってた、展覧会の。古いもんがいいとか悪いというのでなしに、そういうもんがあったこととか、そういう建築の良さとか、神戸はこうやったという歴史的なものがだんだん潰されていくというのか、そういうのがね……。単なる新しいもんをつくるだけでなしに、そういう古いもん、歴史的なもんとか、そういうものを同時に考えていかなかったら、単なる新しいものってなんかなと思うんだけど。それは建物だけに限らずね、何でもそうなんだけど。
池上:神戸なんかそれが財産なんですけどね、ほんとは。なんで潰すのかなと。
榎:それを平気でね、やって。新しいことをどんどんやらなあかんいうて、前ばっかり進んでいくというのか。それも大事やけどね、やっぱり大切な先祖とか先輩たちとか、そういう人が残してくれたものはもっと見ていかないとあかんと思うし。だから神戸は結構、昔から「神戸株式会社」言われてた。「金儲けばっかりや」いうて。宮崎(辰雄)さんの頃からずっと言われとったわけ。よそからそんなの言われたら、僕ら神戸に住んどったら、やっぱりどっかで腹立つとこがあるんよ。クソッと思うけどね。僕らの力ではどうしようもないけど、やっぱりそういう考えを持つ人と、そういうことをやらなあかんと思うし。建築学会は建築の方で、保存運動をやったりとか、座り込みみたいなのをやったりするんだけど、僕らは美術でそういうことがあるのかいうと、ほとんどないし。そういうとこでわれわれは、地震のことにしたって、アートが何の役に立つんかとか、色々問われたり聞かれたりするんだけど。絶えずどっかでは思うわな。だけど、やっぱりなんかそういうものだけでなしに、美術というのはもっと違ったとこでやる仕事があるのとちがうかなと思って。たしかにそういう、その時代、時代で立ち向かっていかないとあかんこともあるんだけど、それだけではちょっと。「前を向く」言うたらおかしいけど。どう前向いていいのか分かんないけどね、一つひとつ思うことを、やっぱりやっていきたいもんを、自分は正直にやっていくしかないかなと。それがどういうように伝わるかはまた別としてね。
池上:これですかね。さっきお聞きしかけた《PLAYSTATION》の、すごい写真が。
榎:これは豊田市美術館でやったんだけど。これは、最初は拳銃とかあんなのを作りたいとずっと思ってたわけ。それは、地震の後、オウムがこれを作ろうとしとったんや。このAK-47、カラシニコフの銃を。
池上:同じ型ですか。
榎:うん。それは壮大な計画でね。部品をロシアから買って、柱に隠してたんや、部品をずっと。それを大量に作ろうとして。
江上・池上:へえ。
榎:その前にサリンを発見したから、サリンの方を実験したくなって、ああいうようにばれてしまったんだけど、これも大量に作る予定やったんや。
池上:へえ。やっぱりなんか時代とリンクしますね。
榎:それで、拳銃でなしにAK-47を作りたいなと思って。それは全部アメリカに関わってるやん、そういう戦争とか武器って。だからものすごく分かりやすく、ソ連とアメリカの銃を作ったんだけど。
池上:これはいろんな展覧会で発表されているんですね。
榎:結構やってるよ。
池上: 豊田市美術館で最初にやって、その次、《PLAYSTATION》という展覧会の名前は神戸でやったんですね。
榎:神戸でやったんや。
池上:あ、Mokuba(木馬、神戸にある老舗のジャズ喫茶)でやられたんですか。
榎:Mokuba。Mokuba知っとんの?
池上:はい、知ってます。この辺で育ってるんで。
榎:ああそう。だからこの時は江上さんも、銃運ぶ時。
江上:Mokubaがトア・ウエストにあった頃です。
池上:今はトアロード沿いに移転してますね。
榎:Gusto Houseいうて、神戸駅の上の方にある、地下にあるギャラリーやけど。運ぶのに、銃を持って行くパフォーマンスは豊田でもやりたかったんやけど、豊田ではちょっと無理やった。で、Mokubaという知り合いの場所を、一応オッケーをとって。「こんなことやりたいんやけど、どうや」言うたら、マスターが「ええよ」いうて。ギャラリーの方も「2週間ぐらい展覧会やりたいんやけど、やらしてくれないか」いうて、それで始めた。最初は全部の銃をそこへ展示して、一部運び出すのは別にずっと壁に並べとって。それは、文化の日を狙って、人が集まりやすい、人がおる時にやりたいなと思って。最初は電車に乗ってやるつもりやったんやけど、その1か月か2か月ぐらい前、プランやりよる時に、石原(慎太郎)知事が自衛隊の訓練を、電車の中とかあんなのを使ったんよ。デモンストレーションみたいなので。街に実際出られるのかどうかいうて、自衛隊が。いろんなもの、タンクとかを東京に。
池上:東京の銀座に戦車を走らせたというの、ありましたね。あの時ですか。
榎:その時に自衛隊が電車に乗って移動するわけよ。これはやられたな、いう感じでね。
江上:うわ手やったみたいな(笑)。
榎:これはもう電車はやめとこう、いう感じ。実際やめて良かったんや。ものすごい人でね、電車が。当たったら危ないやん、硬いし。
江上:すごい重いし。
榎:重いし。ケガでもしたら。ほかのことでケガしたらなんのことかわからないからやめよういうて、歩いて運んで。新聞社の人とかにもいろんな意見言われて。やはりこれは、この銃は法律にはひっかからないんだけど、これを集団で街で持って歩くというのは、これは騒乱罪とか違反になる。違反というのか、絶対やられる、いうてね。
池上:まあ捕まっちゃいますよという。
榎:それは、密告されたり、誰かに言われたり。若いもんがこんな銃持って、本モンみたいなものを持って運ぶというのは絶対通報されるいうて。で、警察に届けたら許可は出ないから、いうて。それは僕もしたくなかったわけ。それは新聞社の人に言われて、そうかと思って。やっぱりデモとか、交通局とか警察へ言うて、オッケーが出たら、これは運ぶ意味がなくなるの。
池上:確かに。
榎:ああいう危険なもんとか、戦争に使われるようなもんを日本の市民が持って歩いてるいうたら、何かと思うやん? そういうとこをまぎらわすようなことをやったら、絶対オッケー出ない。持つほうも、オッケーになった銃持ったって、緊張感ないわけ。
池上:許可もらってやってもしょうがないですね。
榎:みんなドキドキしながら、「こんなん持って歩いていいんかな?」と思いながら、ハラハラしながら持って、人に見られる、見せるいうの? そういう行為をみんな持つ人が感じてほしいというのか。なんとか無事に運び終えてね。その日はたまたま豊田で、これを美術館が購入するかどうかで美術館の館長や役所の人とかがいっぱい集まって、なぜ銃を購入するか決める日やったんや。
江上:そうなんや(笑)。
榎:都筑さんに言われてた、「もし警察にそれがひっかかったり何かなったら、パーになるよ」いうて。
江上:そんな裏もあったんですか。
榎:あったねん(笑)。だからこっちにしたら、これ作るのにごっついお金がかかっとるわけ。だから嫁はんに相談せなあかんなと(笑)。で、嫁はんに一応、今こういう感じで、豊田の方が「コレクションしたい」言うとるし、それはこの3日の日にやるから、もしなんかあったらパーになるんや、いうて。それは嫁はんのほうも、「僕がやりたいことやからやったらいいんちゃうか」いうて。「あかんようになったらしゃあないやん」いうことで。
江上:いやー、えらいわ、やっぱり。
池上:器の大きい方ですね。それは、まず型を作られて、鋳造はどこの工場で。
榎:これは大阪の大正区いうところで。三好さん(三好製作所)いうて。このあいだの兵庫の県美でやったのも手伝ってもらったんやけど、そこの会社で。今は枚方の方へ変わってるんやけど、古い、おおかた80年か100年ぐらいになる、鋳物会社を大正区でやってた。昔は工場街だったんやけど、その辺もいろんな住宅が、マンションとかいろんなのが建って。そこで鋳物をやるいうたら、汚れたり煙が出たりするから、逆に非難されるわけ、住民に。それで工業団地いうのか、そういうとこが集まっているところへ移転してしまったんやけどね。時代によっていろんなのが変わっていくというかな。
そういうとこで、たまたまここの三好(芳郎)さんいう人が、ええ人いうのか、すごい人でね(笑)。やっぱり彼もほんとは彫刻やってたんやって、金属の。金属は自分とこでもやってるから、やっていたんだけど、やっぱり親の跡を継がなあかんようになって、「作品なんか、遊びなんかやっとったらアカン」みたいな感じで。自分もそういうふうにやりたいというのはどこかにあったし、すごくうまくオッケーが出てね。
池上:うまくマッチして。
榎:これを作るのに、三好さんのとこでやるには、木型を作らなあかんわけ。木型も、向こうの人が図面見てだいたい作るんやけど。ふつう円とかパイプみたいなものとか、変形したものは、図面があるから職人が木型を作るわけ。立体的なこういうのって、なかなか。こういう直線的なものはわりとできるんやけどね、ほかだとできないから、僕が木型の見本を作ってね。僕のはほんとに僕が持ってるイメージの木型やから。それを抜き型みたいなのにせなあかん、石膏で。抜けるようにせなあかん。それはそういう専門の木型でやらなあかんわけ。木型やるオッケーが出ないとできないわけ。そこの人が、木型やっとる人がまたガンマニアやったんや、たまたま(笑)。「いつか仕事でできる」言うたら、喜んで、「やる、やる」いうて(笑)。面白かったんや。『Gun』とかそんな本いっぱい持ってんの。だから出会いってほんまに面白いなと思てね。うまくなってるんかな、と思うぐらい。
豊田で、プラン、銃を持って行った時にびっくりしたのが、都筑さんも、「わー、こんなの美術館でできるかな」いうて。「だめなんか?」言うたら、「いやだめいうか、美術館ができるかどうか分からへん」いうて。その時たまたま青木(正弘)さんいう人がそこの課長かなんかで。
江上:学芸課にいましたね。
榎:あの人が、あの頃はまだ都筑さんが若い時やったから、「やりたいと思ったらやれよ」いうて応援してくれてね。そしたら都筑さんも元気出て、「やる!」いうてね。予算とかそんなのは、その時も何人かのグループ展やったから、一人の費用は決められとるんやけど、全然、何倍もオーバーしてしまうわけ。それを向こうがなんとか工面してくれて。その工面をしてくれたのが、また面白い、森村くんの作品とか扱ってる、奈良の何とか言う人。ギャラリーやってる人。
江上:西田(孝作)さん?
榎:そう、その人が結構中へ入ってくれて、色々応援してくれて。なんかうまく動いていくというのか。
池上:この銃は「MADE IN KOBE」という銘が入ってますよね。それはどういうふうに思って付けられたんですか。
榎:これは「僕がつくったよ」、「うちの会社がつくったよ」いう感じで。榎忠のコーポレーションがやってるという感じ。だから一応アメリカの型とかロシアの型やけど、神戸でもつくってるというのか。作るのは、まあ言うたら銃やん? ほんとの武器はだめかもわからんけど、作品やから、僕が作ってるいう感じで。これは「L・S・D・F」って、ずっと僕が使ってるなにで、それも全部入れてるんだけどね。だから僕は、美術の世界でもやっぱり自分の身を守るいうか、自分の生き方いうのをやっぱりこの銃に入れてる。単なる見せかけが武器というだけでなしに、それも含めて僕が活動していくこと自体がひとつの武器いうのか。
池上:「メイド・イン・ジャパン」じゃなくて、「メイド・イン・神戸」というのがいいなあと思ってるんですけど(笑)。
榎:神戸のそこでやったのとか、中京大学(名古屋市)でやったのと、(京都)精華大学(京都市)でもやったのかな。
池上:そうですね。書いてありますね。
榎:その時も、誰やった、小林さんか。
江上:小林正夫さん。
榎:前に国際におったんかな。その人が向こうにおって。僕は長い間、美術館でやったことなかったやん?その頃、僕が《PLAYSTATION》やってる時、倒れて。銃を運ぶこととかいろんな緊張で、その緊張かどうか知らないけど、倒れて、立てなくなってしまって。C型肝炎という病気やと分かったんやけど。その時ほんとに動けなくなってしまって。もう展覧会どころやなくなって。C型肝炎って、その時はまだ薬があんまりなかった。インターフェロンいうのがあったんだけど、効くのが20%かそこらやったんやって、完治するのが。だから注射やりながら、半年ぐらい、80クールいうて、1日おきにやるの、注射を。それを半年間やって、それで結果を見て、それが合わなかったら違う注射とか薬でやるわけ。
池上:結構長期間にわたりますね。
榎:長期間で検査するわけ。それが高いの、薬が。会社へ行ってて保険があったから、なんとか、半額とかでできたんだけど。高いしね、薬もランクがあるわけよ、2,000円とか、3,000円とか、5,000円とか。
江上:ウワー、やらしい。
池上:やらしいねえ。
榎:1万円とかね。そんなの聞いたら、やっぱり高いほうするやんか(笑)。
池上:治りたいですもんね。
榎:医療の世界ってそんなもんかなと思いながら。
池上:そんなもんなんですね、ひどいなあ。
榎:それも治るかどうか分からん、その頃は。今は、検査は無料とか、ひどい人は国から出るということになったんだけど。薬も、今は80%から90%の確率でだいたい治る。でもその頃はそういう感じやった。それで僕も、治らんかったら、肝硬変になって肝臓がんに直行するだけやいうて。余計もう精神的に参って。会社へ行くこと自体がもう大変やったけど。僕は1か月近く入院したんかな。あとは町医者で、一日おきに注射へ行くんだけど。だけど僕は休まないで会社へずっと行った。家におったら変なことばっかり考えるの。変なことばっかりね、田舎のこととか、昔の友だちのこととか、もうほんまにね。
池上:よくないですよ(笑)。
江上:よくない。
榎:いろんな資料とか調べて。昔はあんなことあったなあとか。いろんな写真とか資料がいっぱい残ってたから。僕らはいろんな人に手伝ってもらったり、ZEROでいろんな人と一緒にやったから、そんな資料を見たりしよったら余計おかしくなってくるんよ。
池上:振り返りだすとね。
榎:これあかんなと思って。もちろん会社行かんかったら、こらあかんなと思って。だけど注射がまたきついの。打った後はガーッと寒気がしてね、筋肉がこうなってね、ものすごい寒気がしてね。ひどい時は熱も出るんだけど、熱が出た時は入院しかないの、病院で。あと、それが治まったら、町医者へ行ってその注射を打ってくるわけ。そういう状態を繰り返しとるわけ。
そういうなかでいろんなことしよったら、さっきの小林さんとかそういう人が声かけてくれて、「どないや」いう感じで。今までは、僕は美術館とかハコモノではやらないというレッテルを貼られてたんよ。最初はいろんな人が企画展とか声かけてくれとったんやけど、僕はそんなのはやってなかったから。僕はそういうのはできないし、やるいうつもりがないからね。そういうのはやることはできない、いうて。そういうなかで、病気で、みんな心配して声かけてくれてね、「こっちができないことは色々協力するから、やらないか」いうて。それでまあやり始めたんかな。精華もやったし、中京大もやったし。それから銃の時も、江上さんなんかが 「未来予想図」(「未来予想図~私の人生☆劇場」、兵庫県立美術館、2002年11月19日—2003年1月13日)か、あれなんかも「やらないか」いう声かけてくれて。とにかく動いてなかったら変なことばっかり考えるの。
池上:逆にたくさんお仕事されてしまった(笑)。
榎:だから僕が一番展覧会やったのって、病気した後やねん。
江上:確かにね。
榎:それまでは3年に1回とか5年に1回やる、そういうプロジェクトみたいな感じで、一つずつの作品をやりよったわけ。だからなんかやってなかったらおかしかったな。その時この本を。いっぱい資料があって、ノマル(Gallery Nomart)の林くんなんかが作品とかに協力してくれて、「やろうや」いうて。「それだけ資料があるんやったら」いうことで。そうしてたら今度はヤノベくんが訪ねてきて。
池上:うまくつながっていくんですよね。
榎:つながっていく。
池上:そのヤノベさんがされた展覧会(「その男、榎忠」)のお話もちょっと。2006年ですね。
榎:2004年ぐらいに来たんかな。
池上:最初はまだちょっとご病気があるとかって。
榎:うん、やっぱりなかなか片手間にできるような展覧会ちがうやん? それで2004年ぐらいに来たんやったかなあ。「未来予想図」が2003年の初めまでやったかな。
江上:そうそう。2003年の初めが。
榎:3年の1月までやったんやな。その後、べつになにもやる予定はなかったんやけど、病気もゆっくり治したいなあと思いながら。その時、僕も60過ぎて、一応形式的に会社のほうは定年いうかたちで。でも技術のこととか引き継いでいかないとあかんし、会社のほうも「おってくれ」言うし。そういうなかで、「どうなるんかなあ」とか思いながら、こちょこちょ今までやってきた機械とか自分がやってきた金属を、試験的にはぼちぼちやってたわけ、とにかくじっとしておれないから。その時にヤノベくんが訪ねてきて。今までは展覧会の企画はいろんなやり方をやってたんやけど、今度は個人でやる、椹木さんとヤノベくんと、もう一人五十嵐なんかいうのが。
池上:五十嵐太郎さん。
榎:個人個人に企画できる、自分がやりたい作家を呼んでやるという、そういう企画になったから、ヤノベくんは僕にやってほしい、いうて。「僕らが見てないような資料とか、あんなのも同時にやってほしい」と。そういう感じで、最初、家を訪ねてきたんだけど、僕はちょっとまだそこまでやる気なくて、心配やったんやけど。ヤノベくんも「やってほしい」言ったんやけど、病気のことを聞いて、「まあいっぺん考えとってくれや」いうことで、「できたらやる方向で考えてくれ」いうて。少し金属をやり始めてた時やったんや。そういうことも含めて、試験的にそれを作りだしたわけ。どこまで行けるか分からんけど、最初、試験的にやったのが、近江八幡の「BIWAKOビエンナーレ’04」の時(近江八幡市内各所、2004年8月1日—30日)の小さいやつをやったわけ。その時ヤノベくんも見に来てくれて、「ワーッ」いうてびっくりして。「ああ、こんなもんでいいかなあ」と思って。「もちろんもっとこれから色々繁殖していくんや」言うたら、「ぜひやってほしい」言うてね。それからこの作品にかかっていくというか。
池上:「その男、榎忠」(KPOキリンプラザ大阪、2006年2月11日—4月16日)という展覧会の企画と、《RPM-1200》の製作いうのは、わりと平行して進んでいった感じですか。
榎:そうやな。僕も、どういうんか、ほんとにこれがどうなるのか分からんし、どこで発表するか、展覧会やるとも思ってなかったし。ヤノベくんがそう言うて、やり始めてるときに、なんとなく作ってたわけ。だけどそういう話が来たから、わりとキリンでもやれるかなと思って。それの一つ手前に近江でちょっとやってみて。手応えいうのか、ヤノベくんは喜んで、「絶対やってほしい」いう感じしとった。
池上:作り始められた頃はまだ病気の治療をされてたんですか。
榎:そう。
池上:どれぐらい闘病してらしたんですか。
榎:闘病はね、1年半ぐらい。あとは月に1回とかで病院行って、いろんな検査とかそんなのがあるから。いまだに行ってるんだけどね。これ、いつ出るか分からんわけ、消えたって。出る人もおるわけ。だからずっと長い目で検査していくわけ。だからどこかに、治ったからいうて安心できないとこがあるから、いまだに検査行ってるんやけど。
池上:じゃあ、つきあっていかないといけないんですね。
榎:そうそう、そういう感じやった。だからわりと今までずっとそういう感じで、病気と。まあいつどうなるか分からへんというような病気持ってるから、用心しながら。用心しながらいうたって、べつに作品やったら悪いことでもないし。ただ、食べ物とか、具体的な生活の習慣はやっぱりきちんとせなあかんとか、そういうのはあったけど。それ以外はべつにどうっちゅうことないし。
池上:この作品は一応完成になって、それを初めて見せるというのは、「その男、榎忠」展が初めて?
榎:キリンプラザね。うん。
池上:あれはやっぱりすごい展覧会だったと思うんです。それまでも美術館で少しずつ発表されていたことで、美術関係の方には知られておられたとは思うんですけど、このキリンプラザの個展で、知る人ぞ知るみたいな存在から、バーンと知名度が。
榎:そうやね、結構若い人とかいろんな人が結構来るからね。
池上:知名度というか、「有名作家」になられたと思うんですけど。言い方が変ですけど、ごめんなさい(笑)。若い方からすごく慕われるようになったり、何かご自分の立場みたいなものがちょっと変わられたような感じはしますか。
榎:そうやねえ、やっぱり東京の方からとか、いろんな遠いとこからとか、みんな見に来る、ああいうとこでやれば。今の若い人でも、旅行に行くいうたら、「せっかく関西へ行くんやから」いうて、美術の好きな人やったら、そういう美術館探して寄るとか、そういうふうになってるというのも確かやしね。やっぱり東京の方のいろんな評論家とか、松井みどりさんとか、ああいう人とか、今まで名前は知ってるけど、実際会うようなこともなかった人が来てくれるとか。ROSEをやったら、そういう興味がある人がまた来てくれるとか。そういう意味で、ああいうとこでやればやっぱり違うなと思う。
池上:それはやっぱり素直に嬉しい?
榎:うん、うん。単なる神戸の僻地とかそういうとこでやってるのとはまた違うな、いうのか。僕はべつに美術館とか否定してたわけではないんだけど、せっかくやるんだったらいうことで、僕の身の回りでできるような作品いうか、そういうとこでやっていたけど、やっぱりだんだんそういうとこでやっていったら、そういう狭い世界だけでなしに、もっとこういうもんはいろんなとこでやるべき、いうことも分かってくるし、その大切さも分かってくるし。作品の考え方も、こういう考えで作らなあかんいうことも、具体的なことにも関わっていかなあんなと思うし。
池上:それで椹木(野衣)さんが、ここに資料が載ってたかな、「ヴェニス・ビエンナーレに持っていきたい」という計画がありましたよね。
榎:そうなんや。その時はギュウチャンと僕のがもう決まっとった。それでその時期に椹木さんが、ヴェニスの審査員の候補に選ばれたから、それで僕を推してくれたわけ。
池上:コミッショナーの候補としてプロポーザルを出すということだったんですよね。
榎:うん。それで豊田の方も一応「やる」言うてたんやけど、「ヴェニスでやったほうがいいんちゃうか」いうて。「うちはまた後でもできるから」いうて。「ヴェニスなんかで候補に選ばれるとか、やるというのは滅多にないことやから、そっちの方をやったらどうか」ということで。それで今度はヴェニスに、プランとかいろんな模型とかいろんなドローイングを送ったりして、わりとええとこまで行ったらしいんやけど、2位かなんかで。
江上:次点かなんかやったんですよね。
榎:最後はジャンケンではないけど。
江上・池上:ジャンケン(笑)。
榎:同等やったんやって。どっちを選ぶかで。審査員が何人かおって、一人、岡部何とかいう人がアメリカにおって。
池上:岡部あおみさんですかね。
榎:ちょうどいなかってね。同点いうたらおかしいけど、どっちにするか分からんということで、もういっぺん投票みたいのをやったんやって。それで3対2かなんかで。
江上:ワー、惜しい!
池上:そういうところは知らなかった。椹木さんと一緒に展示プランとか、こういうことをやりたいというのを考えられたわけですよね。どういうプランだったかというのをちょっとお聞きしてもいいですか。
榎:そこに載ってないかな(『Everyday Life/Art Enoki Chu』、112–13頁)。ここの本館の方は、こういう《RPM》を展示しようかなと思って。もう一個は、ここの下でバーをつくってね。結構広い、僕行ったことないんやけどね、広い公園らしいわ、いろんなパビリオンなんかがあって。
池上:そうなんです。
榎:ROSEは、昼間は散歩したりいろんな会場へ行ったりなんかして、ウロウロして、夜はここで客を呼び込んでバーを開くというのか。
池上:ここが半地下みたいなスペースになってるんですよね。高床式みたいな感じで。
榎:ここに、このあいだ美術館でも貼ってたんけど、こういう「ハンガリ」のやつを各角に置いて。それでここの中で、これはバーのことやけど。その前の、林のとこで穴掘って。中では金属の、光ったほうの《RPM-1200》をやって。ここに錆びてる、まだ磨いてないやつを、穴を掘ったら出てきたという想定でね。それは発掘いう感じでやっていたんだけど。「やっぱりこれは無理ちゃうか」いうて。あそこの土地は国のもんで、あそこのものでないらしいわ。だから掘るとか、植物とか木とかに作品を何かするというのは結構難しいんやって。穴掘るのは。
江上:しかも、あそこ島ですもんね。
池上:水が入ってきても困るし。
江上:いかにも危なそう(笑)。
榎:ROSEは、審査員の人は、僕の作品とかそんなので知ってるけど、実際知らないやん? 「何のことかようわからん」言うやんか。椹木さんは知っとるからね。なんかあそこでああいうバーつくったり。
江上:ヴェネチアでしかも(笑)。
榎:日本人の、オープニングとかいろんなパーティがあるらしいんやって。日本人のパーティっていつもおもろないんやって。よその国は、国挙げて、いろんなドンチャン騒ぎみたいなのがずっと1週間続いたりとかやるんだって。そういうなかで、日本のそういうパーティにしたっておもろないし、「絶対ROSEやったらウケる」いうてね。
池上:ウケると思いますけどねえ。
榎:だけどそういうことで。人によったら、《RPM》だけでも、会場だけでも十分作品としていい、とは言われておったんだけど。
池上:これは椹木さんと相談しながら?
榎:いや、べつに椹木さんと相談したのではなしに、僕が「こういうことできるか? やりたいんや」いうことを言うたわけ。そしたら椹木さん喜んで、「ああ、面白い」いうて。で、模型まで作って全部。
池上:じゃあこういう場所だというのを聞いて、それでイメージをふくらませて。
榎:そう。図面とかいろんな写真を送ってもらって。
池上:すばらしいプランだと思いますけど。
江上:ねえ。日本館のマイナスを感じさせない。
池上:うんうん、すごいうまい使い方ですよね。
江上:建築としてすごい使いにくいって言われてるんですけど。
榎:このへんは、手伝ってくれたのは多田(智美)ちゃんとか原田(祐馬)くんとか建築やっとる連中が。
江上:なるほど。
池上:これはぜひ、今からでもまた実現させたいプランだと思います。
榎:これも、このあいだの県美で少しはやってみたいことをちょっと入れてみたんやけど。
池上:これぐらい小さい建物でガーンとやるほうが効くような感じはしますよね。
江上:うちの、兵庫の美術館は壁が黒かったでしょ。だから貼ってるって感じにどうしてもなってしまって。
池上:確かに。
江上:ここが白だと、より効果的。
池上:兵庫県美、また大きいですしね。じゃあ夢のプランですね。
榎:だけど、このプランがだめになって、森美術館の「クロッシング」につながっていくわけ。森の「クロッシング」(2007年10月13日—2008年1月14日)の時も椹木さんが担当していて、作家の(人選を)。その時、悔しくてね、これ落ちて。椹木さんは結構自信があったみたい、僕のが通ると思って。それで「忠さん、やっぱり東京で発表しないと。そういう審査とかはほとんど東京の人だから」いうて。「まあしゃあない」いう感じ。それで今度はギュウチャンと僕との二人展になっていったんやけど。
池上:だから豊田のを待つ必要がなくなったという。
榎:そうそう。だから同時にやったんよ、僕、豊田と森と。だからあの作品が2か所あったわけ。
池上:そうですねえ。
榎:それまでに十分できるぐらい、キリンの倍ぐらいには作品増えてたわけ。
池上:ここにも椹木さんの文章で、「次点」というふうに書いてあって。審査員の名前も全部書いてありますね。
榎:書いてた?
池上:書いてありますね、ここに。
榎:5、6人おったんちゃう?
池上:はっきりさせとこう、みたいな感じで(笑)。豊田の展示ではパトローネを使った展示もすごく印象的だったんですけど。あの素材を使い始めたのはいつぐらいから?
榎:豊田が初めて。
池上:豊田ですよね。なんか「これや!」いうのは、やっぱり素材がどこかに入ってきていて、大量に見て、ということですか。
榎:それも、僕がいつも行っている兼正で見つけたわけ。それがボーンと大量にあったわけ。最初何か分からんかった。いつも僕、会社に行く時そこの会社の前を通っていくわけ、「どんなもんがあるかな」と思って。そんならボンと目に入ったわけ。もうすぐクルマを降りて、ワーッと近寄ったら、きれいやった、太陽が、朝、ものすごいピカピカ光ってね。「きれいやなあ」と思って。よう見たらフィルムのそんなのを圧縮したやつで。すぐ社長に聞いたら、「入ってるよ」言うから。僕、カメラ持って次の日行ったんよ。ほな、ないんよ! ゴソッとないの。あれっ?と思って。「昨日のあれ、あったのどうしたん?」言うたら、「あれ、もう処分、溶鉱部行ったよ」いうて。「えっ」いうて。「いや、また最近入りだしたよ」いうて。「ああ、そう。また入ってくる?」言うたら、「入ってくる」言う。で、写真撮ったり、ずっと検討しとって。豊田のその話もあったし、これと豊田でいっぺんやってみたいなと思って。
池上:兼正に何が入ってくるかで、わりとインスピレーションが。
榎:そうそうそう。
池上:あの時も暗い照明と明るい照明と、交互になってたじゃないですか。そういうのも、いま、朝日浴びてすごいピカピカしてきれいやったということから来てるんですか。
榎:あそこは暗いねん、会社が。油だらけで暗い感じの中で、ああいうもんがピカッと黄金のように輝いてるやん。やっぱりそういうとこがどっかにあるから、明るいとこで見せるんでなしに、なんかそういうもんが。
池上:交互に、明るいのと暗いのが変わるという照明がすごくいいなと思ったんですけど。
榎:見てる人って、どうしてもそういう動きとか、光の動きとかそんなのがあったら、どっかに入ってくるもんがちがうやん? 視覚でただ見るいうのでも、なんか体に入ってくるような感じがするやん? 《RPM》でも、照明の光が、太陽みたいな感じでずっと、朝日が昇って夕陽になっていくいうの? 短い時間だけど、どこかに入っていくいうのか、人間が自然と持ってる自然の体をちょっと利用するいうのか。
池上:では、ちょっと最近の例で、去年の兵庫県立美術館の個展の話をお聞きしたいんですけど。これは出原さんが「やりませんか」ということで来られたんですか。
榎:それはね、前から話してたんよ。出原さんが兵庫へ来て、もう5年ぐらい前、もっと前かな。
江上:6年ぐらいかな。
榎:「何や」いう感じで出会ってね、神戸。「出世したんか」言うたら、「いや、向こうクビになった。追い出されたんや」言うからね(笑)。で、「ここへ来たんやけど、わし新人やし、今は何もできんけど……」って。
池上:新人?(笑)
榎:新人や、まあ言うたら。美術館で初めてやん?
池上:まあ新しい、違うところに来られたという。
榎:だからあまり何も言えない。
江上:ウソばっかり(笑)。
榎:そう言いよったよ。ペーペーやからな。
江上:でも来てすぐに、私に「榎さんの個展一緒にやらへん?」って言いましたよ。
榎:ほんま?
江上:わりと来て間もない頃から。
榎:やりたいというのはその頃からまああったんやけどね。いつかやりたいな、いうて。わしはまだまだ来て間がないから、「こわいネエさんがおるから」いうて(笑)。
江上:「やりましょ、やりましょ」って言ってたんですけどね(笑)。
榎:ずっとそんな話はしてたわけ。この美術館も私ら新人やから何も言われへんのやけど、なんか暴れたい、動きたいな、とかいうのはずっと言ってたから。それで何年かして。なんとなくそういう時期が来たんかな。出原さんもそうやったし、僕もずっといろんなとこでやってきたけど、《RPM》もいろんなとこでやってきたけど、何やってるんかな、ということをもういっぺん僕なりに考えてみたいと思って。ほんとに作品いうのを考えてみたいというのか。その頃シマブンも美術館(BBプラザ美術館)やるとか聞いてたし、シマブンにも興味あったんや、昔から。だけどあそこは大きすぎて、なかなか兼正みたいに毎日寄るようなこともできないし、やっぱり避けてたわけ。言うたらシマブンと兼正ってライバルの会社やねん。
池上:ああ、そうですか。
榎:仕事の取り合いになるわけ、ある意味。同じような仕事しとるから。あれは競売みたいなので、ああいう鉄くずを、大きい工場とか会社とかを建て直した時に出てくる鉄骨を入札するわけ。いろんな市場とかでああいうのを入札して、ある程度買う時の値段があってね。そういうので業者同士の、言うたらライバルみたいな。兼正も、「シマブンのを使う」言うたらあまりいい気しないわけ。
池上:今までやっとったのに、って。
榎:うちのでやるんやったらどんどん応援してくれるわけ。だけど今回はそういうのでなしに、もっとそういうとこと一緒に考えるようなのもやってもいいかなと。それは、あいだに美術館があるいうことで、やろうかなと思って。だから遠慮してシマブンいうとこには関わってなかったんだけど、シマブンはちょっと違うもんがあると思ってね、兼正とは。やっぱりスケールが違うから、会社の規模が。そういうなかでやりたいというのと、シマブンいうたら神戸製鋼とか。あの美術館の場所って、元神戸製鋼やん。なんかそういうとこで関連性がずっとあるわけ。
池上:シマブンも目と鼻の先にありますしね。
榎:そう。それで昔、神戸製鋼いうたら、銃とかそういう戦争に使うような武器とかそんなのをいっぱい作っとったし。そういう中、あの美術館の土地いうのは、そういう歴史的なものがあるわけ。
池上:そうですよね。
榎:ああいう金属の会社やし、だから僕が思とる金属の、見れない世界が見れるのとちがうかなと思って。その時、西村さんという《RPM》の作品をその人がコレクションしてくれた人が、パイプを作ってる工場とかそんなのも分かって。そういうとこがスカイツリーのああいうのをやったりとか、新日鉄とか、大きい日本の企業が関係してるというのか。そういうとこへまた見学に行けるんや。だから、君津の大きい新日鉄の工場へ行っていろんなこと見たりとか、スカイツリーも実際工事中に行って、工事の見学させてくれたり。まだ僕らが行った時は450メーターぐらいやったけど。展望台からちょっと上へ上がったぐらいの時やったかな。そういうとこ見たりして。新日鉄のほうも、「できることは応援する」みたいな感じで言うてくれるし。溶鉱炉から鉄が生まれるというのか、僕がずっと昔から思てる、地球とか、噴火とか、火山とか、そういうことがずーっと。
土とか山とか、地球ができてくるいうのか、生まれてくるというのか、そういうことをみんな含んでるわけ、そういう会社が。そこに人間が関わって、鉄を抽出する。それは自然であり、人間が関わって鉄いうものが生まれてくる。なんか、「鉄の一生」いうたらおかしいけど、地球がそういうひとつの細胞を吹き出してきたというのかな、何か血管みたいなのを地球上に送り出す時に、人間が生きていくために関わっていくというのか、そこにまたいろんな職人が関わる。ずっと僕がやってきたことが、なんか一つの線が出てくるというのか。展示はああいう方法になってしまったけどね。だから僕がやりたいことは、70%はできたんとちがうかなと思って。それは、出原さんとか江上さんがおったから、美術館の人も色々応援してくれたりしたからできたのであって、ありがたいなと思うし、ある意味幸せやなと思うし。そういうことができるいうのが。
だけど逆に、そういうものが大事になるいうことは、ものすごく、ほんとに大事やねん。作品作るって大変やなと思うけど、それ以上に、人と出会ったり、「絆」は甘い言葉かもわからんけど、そういうのも生まれてくるし。こうやって話ができるのも、ああいうことをやったからできるんであるし。なんかそういうふうに、まあどういう方向に行くか分からないけど、そういうことで、僕はまだまだやることがあるのとちがうかなと思うし。ないかもわからないけど、まあ生きとったら、何か違うひらめきみたいなのが出てくるのとちがうかなと思うし。まあそういう感じかなあ。
池上:展覧会を担当された江上さんからは。
江上:急にふられると、ちょっと(笑)。
榎:また後で、食べに行った時でも。
池上:私もこの展覧会を何回か見させてもらって。でも、いつ行っても榎さんがいらっしゃるんですよ。観客の皆さんといつもすごいお話をされていて。個展でそういうことってめったに見ない光景でね。私はそれがすごく印象的で。お客さんというか、見に来てくれる人をすごく大事にしてるなというのがすごく印象的だったんです。
榎:そうよ。見てくれる人がおるから展覧会をやってるわけ。やっぱり自分と、そういう知らない人と、接触して。また次につながるもんもあるかもわからないやん? だからそういう中で、僕はなるべく展覧会に行くようにしてるわけ、個展の時でもね。時間でも、ちょっと遅くまで開けとって、休みの時はずっと行けるけど、仕事へ行ってる時はその日はなるべく早めに帰らしてもらって、なるべく遅くまでやるとか、いろんな人と話すとか。ほとんど飲み会とかそんなのばっかりやけどね。そういうことが大事やと僕は思てるわけ。みんな、自分で展覧会やっても、誰もいない時が多いやん、展覧会とか個展とか行っても。みんなどういう気持ちでやっとるのかなと。みんなそれぞれ違うから、それはそれでいいんだけど、僕にとってはそういうことは大事やねん。
池上:私がたまたま見た時は、「現代美術のことをよく知ってるんです」みたいな人じゃなくて、「なんか私、こういうの全然分からへんねんけど」みたいな、いわゆる普通のおばちゃんが(笑)。
榎:そうよ。ほとんどよ。
池上:そういうおばちゃんとすごいしゃべってて。なんか素晴らしいなと思って。
榎:そういう人が声かけてくれるんで。子どもみたいな、中学生とか。おばちゃんとか。どっかの友だちのお母さんとか。結構そういう人も来てくれるわけ。「あんたかな、チュウさんて」「こわい人と思とったけど」いう感じでいろんな話をして。
池上:やっぱりそういう人に伝えてこそと、いうのを私もすごく思うんですよ。
榎:美術家は自分らの仕事やからね。自分らがそれぞれ考えてやればいいんだけど、そういうのを知らない人とか子どもとかいうのは、やっぱり僕は僕なりのことを話していく。展覧会をやるからには、そういうことはやっぱり僕は大事にしたいと思うし、大事にせなあかんと思てるの。
池上:その姿勢がすばらしいなと思って。何回行っても榎さんいるから。「あ、今日もいる」みたいな感じでね(笑)。
榎:また電話がかかってるんよ、「今日行くんやけど、来るか?」とかね。
池上:みんな、気さくに。
榎:どうしてもそういう風にみんなが来れる日とか、田舎から同級生なんかが集団で来てくれたりとか、いろんな人が声かけてくるから。
池上:そういう人が感想とかを言ってくれるのも、榎さんにしたらすごくパワーになりますか。
榎:そうよ。だから昔のこととか、「薬莢、よう拾いに行ったな」と、一緒に行った子も来るわけよ。「ああ、こんなんを今頃作品としてやってるんか。こんなん作品になるんか」とかね、そんな素朴な話をしたり、田舎のこと思い出したりとか。そういうことも僕の活力にもなるし、「ああ、みんな僕のこと覚えとったな」とかって、一緒に遊んだことも思い出したり。そんなのみんなだんだん忘れていくやん? だけどそういうこと、何かきっかけを与えたら、昔のことがまたよみがえってきて。ああ、あそこによう山菜採りに行ったなとか、キノコ採りに行ったなとか、そんなのがずーっとほんまに浮かんでくるやんか。そういうことが、僕はいいなと思って。
池上:また今日もたくさんお話を聞かせていただいて。江上さん、何か最後にお聞きしたいことありますか。
江上:だいぶお聞きしましたね(笑)。
池上:予定していた質問はお聞きできたので、榎さん、最後にこれをもう一回強調したいとか、そういうことがあれば。
江上:言っときたいこと。
榎:いやー、べつにないなあ。二人の美人が来てくれて、それが一番うれしい(笑)。
江上:またまた(笑)。
榎:ほなまたやる気になってくるし。「ああ、やらなあかんな」と思うし。
池上:では、このへんで。また時間を置いて、5年後、10年後にまたお聞きしたいです。
榎:生きとったらな。
池上:もちろん元気でいてもらわないと。
江上:バリバリやって。
池上:では、本当に長い間ありがとうございました。
江上:ありがとうございました。
榎:どうも、おつかれさんでした。