加治屋:今日は2010年11月29日月曜日、藤原信先生のオーラル・ヒストリーを行います。場所は広島芸術大学芸術学部学部長室です。では今日よろしくお願いします。
藤原:こちらこそ。
加治屋:まず、お生まれ、生い立ちからお聞きしたいのですが、1938年のお生まれですね。「岐阜の美濃と飛騨との国境に生まれる」と、この本(Makoto Fujiwara, Stein und Makoto 2000-1964 (Berlin: G+H, 2001), p. 123.)に書いてあるのですが、どういった故郷だったのでしょうか。
藤原:故郷ですか。坂口安吾(さかぐち・あんご 1906—1955)が1960年頃にあの辺りを調査して、「飛騨王国があった、昔から」というのがあるんですよ。(注:『安吾の新日本地理—飛騨・高山の抹殺(中部の巻)』初出は「文藝春秋」1951(昭和26年))飛騨高山の抹殺。そういうテーマがありますけどね。山深いところで、王国があったとはちょっと信じられないんですよ。やっぱり何千年か前、おそらく古い文化があったのではないかと。今それがだんだん分かるようになってきているんですよ。というのは、僕が生まれた家の2キロ離れたところに大きな巨石が現れましてね(注:下呂市金山町岩屋岩陰遺跡)。見つかって。それで、それがすごいカレンダー、その当時のカレンダーだった。だいたいこの15年、20年の間に見えてきた。だから、おそらくあそこにはそういうふうな深い文化があったのではないかと。誰がいつどうやってそれを作ったかということを考えて調査中なんです。とにかく僕は飛騨の下呂温泉の近くなんですけれども、ずいぶん山奥で育ちました。馬瀬川って言って鮎がいて。馬瀬川って綺麗な水なんですよ。山紫水明という言葉があるように、本当に自然の(場所)。標高がだいたい280メートルくらいですね。夏は暑く冬は寒いんですけれども。王国があったときは、いい場所だったんだと思います。ただ、山がV字型になってまして、そこに2階建てほどの大きな200トンくらいの石が組み合わさって、それが天体観測所になっていた。その石をどうやって動かしたか。今、調査中なんです。僕が生まれた裏側にそんな文化があった。先祖がいた。そんな環境ですね。
加治屋:すごく自然が豊かな、山深い場所だったんですね。
藤原:そうです。
加治屋:石があって。子供のときはそこまでは分からず。
藤原:考えていません。
加治屋:ただ何か空気のようなものがあって。
藤原:そうですね。ありますね。大きな石というのはだいたい飛騨のあたりにはあるんです。今はお宮さんになってます。やっぱり大きな岩があるというのは霊的な空気がある。それで大きな気がそこに座っていると。そういう雰囲気は飛騨には多いですね。
加治屋:38年にお生まれになって、戦争が45年に終わるわけで。そのときは7才。
藤原:そうですね。夏ですね。僕は寺の息子なんですけれども、西本願寺の3番目なんで。2人の兄貴がおりまして、2人目の兄貴も寅(年)。僕も寅なんですよ。異常に離れているんですけど、一番上の兄貴は飛行機に乗って、2番目は海軍に行って、そういう仕組みだったんですけど、僕はちょうど6才、7才あたりだったんですよ。それまでは自然と遊んでいましたし。終戦直前に名古屋の小学校から60人、100人くらいですか、疎開児童が来まして。本堂に寝起きしていたんですよ。その時に子供たちが汗びしょびしょになって帰って来ますから、僕の家族のお風呂に入れていた。毎日、毎日。
加治屋:そんな何十人もの生徒を。
藤原:そう。それで煙突の掃除をする時間がないんですよ。そういうことで煙突の加熱から庫裏が全焼してしまったんです。本堂は残って子供たちは生活できたんですけれど。僕の家族は竹やぶに小屋を建てまして。床からタケノコが芽を出して来てね。2日目にはもう外に飛び出して行って。それから、竹やぶの中の小屋で、雨が降って来たら傘を指して。それが楽しくって。食料難もあったんでしょうけど、僕らはこういうもんだと思っていた。そうですね。僕は楽しかったです。それから名古屋から来た子供たちと大体同じくらいの年ですから、僕が大将になって、山へどんどん連れていって。後ろを振り返って帰ろうと思っても、帰れないわけですよ。後ろから60人70人、そのまま山奥に入ってしまって。そんなこともありましたけどね。そうやってたくさんの人に出会ったこと、それから親父がわりに放任主義で、好きなことをさせてくれた。遊ばせてくれた。もう一度、庫裡を立建て直すという、全焼した何もないところから家を建てていくというプロセスを、この目で見たんですよ。木が無いわけです。名古屋、岐阜に全部供出するため材料をみんな切ってしまいましたからね。山に生えていたものを。ところがお宮さんにこんな大きな神木があるわけですよ。250年、300年のスギ、ヒノキでね。それを親父が買いまして、それで再建するんです。結局、10年くらい建物を造っていくプロセスを見ました。そのお宮さんの木をいただいて、切ったということでお宮さんの境内が明るくなった。そしたら、そこからゴロゴロと大きな石が、2階建ての高さ、直径7メートルくらいの200トンくらいの石がゴロゴロ出てきた。それを近所の蕎麦屋のおじさんが見つけて。これは20年くらい前なんですけど。そしてこれは岩に何か文様があると。そこからずっと入っていって調べていたら、大変なカレンダーだと。365日と6時間が読めると。いろいろな天体関係の問題がそこに含まれていた。いい場所に育ったなと思いました。材料を知ったこと。それから建物を建てていくプロセス。
加治屋:建物を建てたのは近所の大工さん。
藤原:そうですね。親父が建てるときにあたって、大工さんの大物を探せと。大きな建築をできる人を。お城とか学校とかそういう。豊臣秀吉、信長、あの尾張辺りで育った大工さん、そういう大工さんを探したわけですよ。それで大工さんがやって来た。大きな墨壺と金尺。それだけで出来るんですね。その金尺というのは微分積分できますし。彼自身は造るので、自分の記録に「へ」とか「ほ」とか字が書けるだけで、文章は書けない。字は書けない、そういう大工さん。墨壺と金尺と記号だけで庫裏を再建したと。親父、京都にいましたから、京都から仏画を描かれる絵描きさんを呼んで、障壁に絵を描いたり。障子の桟まで出来上がっていくわけですね、手仕事で。僕なんかは、近所の仲間と一緒に向こうの赤土、こっちの山の土を合わせて、壁土を造るだけで3年かかるわけですよ。寝させて、藁を入れて踏みつけて、それで冬を越して、それで夏ぐちゃぐちゃやって。そうやって粘土が腐って粘くしてね。そういう材料に対する感覚というか。それから三和土ですね。玄関に入ったところの三和土でも、赤土と泥をこねて。そうやってすべてのことを覚えたんで、材料っていうことを勉強した。子供の頃、12才までにほとんど、マリア・モンテッソーリ(Maria Montessori 1870-1952)の幼稚園みたいに体験したんですね。それが今日に繋がっている。そういう子供時代です。
加治屋:お兄様とは12才とけっこう離れていて。
藤原:はい。そうですね。一番上の兄貴は14才違います。飛行機に乗っていて。日本で一番最初にアルコールで飛んだパイロットとして、彼は自慢してますけどね。僕は小学校の頃は松の根を取ってそれを供出して。それを飛行機の燃料にする。そういうふうな状態でしたね。アルコールで初めて飛んで死にかけて、運よく戻って来てくれたんで。2番目の兄貴も戻って来てくれたんで。それで、自由に出来るということだったんです。
加治屋:大学に入るまではずっと岐阜にいらっしゃった。
藤原:そうですね、16才で中学校を卒業して、それから近くの郡上高校に入ったんですけど。一週間でやめてしまいました。普通科に入ったんですけど、僕は、やっぱり障壁を描いている仕事を見たり、大工さんの仕事を見たりして、何かやっぱり実業っていうか、手で仕事をやりたいと。高等学校に入ったけど一週間でやめて、休みましたね。その間に京都に出て行ったらどうかという、前述の絵描きさんがいて。小早川さんという人ですけど。
坂上:誰ですか。
藤原:小早川好古。日本画ですね。障壁。みな目から教えてもらって。僕は子供ですからね、制作の現場に入って見せてくれるんですよ。大人はダメ。大人は何か指摘するらしいですね。良寛さんを描いていたんですけど、草履が綺麗すぎるとか。
加治屋:その小早川さんという人は庫裡を造っているときに、
藤原:障壁画をずっと描いてくれていた。障子、ふすま。京都から表具師が来られましてね。糊をつくるために半年ごとにやって来て。壺に入れた糊をなめて、そしたら結局3年かかった。壁の土も3年くらいかかった。そういうゆったりとしたプロセスの中で、手仕事は体の中に入って行きますし、ゆっくりと家が出来上がっていく。いい時期だったと思います。本当に。
加治屋:写真で見ると、かなり大きなお寺だったんですね。
藤原:そうですね。僕の親父で19世ですか。
坂上:19世ということは19代目。
藤原:本尊があって、それから山門がある間に大きな壁がありましてね。その壁を造るのに本願寺系は大きな許可がいる。わりあい格式のあるお寺でしてね。そんなところに生まれ育ったんで。お経は読めないんですよ。門内におりましたから。門前じゃなかったんで。お経読めない。
加治屋:お兄様が継いで。
藤原:そうです。ありがたかったですね。帰って来てくれて継いで。
加治屋:最初は高校の普通科に入ったけれども、やめられて。だけどちょっと合わないということで京都に行ってみないかと。そこで彫刻を専攻なさるというのは。
藤原:そうですね。僕はあの頃、デザインっていうのが面白いなと思っていたんです。ポスターを描いたり。デザインっていうのはポスターかなあと思ったりしていたんです。デザインって新しい言葉だったから。図案。日吉ヶ丘(京都市立日吉ヶ丘高等学校)に行くわけですけど。図案科に入ろうと思って。ところがあまりにも無知だったんでしょうね。親父が第二志望に彫刻って。寺には欄間もあるし仏像もあるしっていうんで第二希望に書いておくって。だから僕は第一次に落ちて、第二次に彫刻の方に。
坂上:日吉ヶ丘は高校ですよね。
藤原:高校です。
坂上:田舎の郡上高校を中退。
藤原:2週間くらいですね。
坂上:それで日吉ヶ丘ということは京都に引越をした。
藤原:そうです。下宿しましたね。16才くらいかな、親元を離れましたね。
坂上:岐阜は(芸術系の)加納高校があるけれど……
藤原:加納高校はまだない、旭丘(名古屋にある高等学校で美術科がある)はあったんじゃないですか。美術関係なら。
坂上:だけれども日吉ヶ丘。
藤原:やはり親父が京都に本屋を造ったりしてましたからね。うちは東林寺っていうんですけど、京都に東林書房ってあって、それを造ったんで。それで田舎に引っ込んだんですけど。勉強しましたね、京都に出るってんで。それで日吉ヶ丘に入ったら、なんだこんな学校かって思いましたけど。矢野判三(やの・はんぞう 1898—1991)っていう彫塑の先生がおられまして。ま、おもしろかったですね。高校時代も。京都の高校生っていうのは、お家がやっぱり伝統の陶器屋さんとか絵描きさんとか、それとか能楽をやっていたりとか。古い文化のあるところの息子さん、娘さんたちが入ってましたから。美術に対する雰囲気っていうのがありましたね。これは真面目に勉強しました。
加治屋:高校の彫刻科。
藤原:そうですね。それで夏休みにデザインの方に変わりたいんですけどって言ったら、矢野判三先生が、「これからデザインも立体的なものになっていく」って言ったんですよ。それで、やっぱりそういうもんなんかなあって。それでずっと彫刻科にべたべたっていましたね。
坂上:1956、7年頃ですね。
藤原:そうです。ああ、なるほどね。おもしろい時期ですね。50年代っていうのは。
加治屋:そのころ展覧会っていうのは。
坂上:京都のアンパンって行きましたか。
藤原:その時はほとんど知らないですね。もう下宿と学校の往復だけで。ただ高校2年か3年のときに大阪にアントワーヌ・ブールデル(Antoine Bourdelle 1861—1929)がやってきたんですよ。ブールデルの作品見て、「ああ、こういうことができるんだなあ」って。だけどこんなに小さな作品ばかりなんですよ。《弓を引く何とか》ってありますよね(《弓を引くヘラクレス》)。「あれは素晴しいから見ておけ」って言われて見たんだけど、「ああ、こんなもんか」ってそういう感じですね。高校のときはロダンが(京都国立)博物館にありましたね。《考える人》が(注:今でもある)。肉づけとかそういう部分には感動しましたけど、でもまだまだ分かってなかったですね。だけどものをつくる雰囲気が。仏師の息子もいましたし。そういうところは、やっぱり雰囲気だと思いますよ。身に入ってきたのは。
加治屋:それで、日吉ヶ丘高校を卒業して、大学は。
藤原:そうですね。卒業するということもほとんど感じなかったけれど。そういう時期が来てしまいますからね。まわりがどうする、どうするって。すぐそばに学校があるから。美大(注:京都市立美術大学、現在の京都市立芸術大学。当時は今熊野にあった)ですね。それで僕も慌てまして。それなら僕も受けるって。そんな具合で3人仲間が彫刻から受けたんですけど、2人仲間は落ちてしまって僕だけ美大に入ったんです。おもしろいときですよ。高等学校は日展の先生でしたからね、矢野判三先生。だから、塑像粘土を作っていくっていうことはやりました。だけどその先は分からんかったですね。
加治屋:京都市立芸術大学の彫刻科は、一学年だいたい何人くらいだったんですか。
藤原:だいたい一学年10人くらいだったんです。僕らのクラスは8人だったと思います。女性は二人。ごっこ(橋本典子)と新谷。神戸の新谷(当時は伊藤)澤子さん。それとか福嶋(敬恭)君、教授やってる。そういう連中。美大時代が一番おもしろかったですね、やっぱりね。
加治屋:そのときの彫刻科の先生方っていうのは。
坂上:辻晉堂(つじ・しんどう 1910—1981)と堀内正和(ほりうち・まさかず 1911—2001)。
藤原:そうなんですよ。
坂上:対極にある、対照的な2人ですが。
藤原:そうですよ。でも最初は知らないんですよ。だけど中にいる間に、これは何やってもいいんだ。「いわゆる美術をする学校には、これをしてはいけない、これをしてよいっていうのはない」って言われた先生で。
坂上:あ、上田(弘明 うえだ・ひろあき 1928—1979)さんもいらした。
藤原:そう、上田先生。石は技術としては上田先生に教わったわけですけど、教わっているというか、目から、目を通してきて覚えていっただけです。上田先生っていうのはしゃべったらそんなにうまくもないし、書きもしないですから。だけど、石に対する彼のスタンス、構えですか。これはやっぱり黙っていても、もう、石に対する構えが分かりましたね。不合理なことがあると、たいてい研究室の窓のところから見ていた辻先生が窓ガラスをガラっと開けて「来い」って言われて。「タバコ吸ってて石が彫れるか」って。一丸となって僕らの雰囲気というのは作られていったと思います。ワルがいましたしね。僕の先輩では(村上)泰造(むらかみ・たいぞう 1938—)さんとか眞野こうせいさんとかねえ。
坂上:あのころの卒業生はやんちゃな感じの人が多いですね。
藤原:悪かったですね。どんなに悪いことをしても、悪いことをして次の日、倫理学の鷹阪(龍夫 たかわき・たつお 1918-?)先生っていうのが頭をふりふり下の方からずっと上がって来られて。僕らびくびくしていたんですけど。河原町三条のところにお家があって、鷹阪先生、律儀な先生で。坊さんですけど。ニコニコしながら帰っていくんですよ。それだけであと何にも僕らがやった悪さは聞こえてこなかった。辻先生もそうですよ。そこで止まってるんですよ。
坂上:堀内正和といえば線面量(注:彫刻のイロハとして)じゃないですか。で、辻晉堂というのはまた違ったタイプの。そしてまた上田弘明さんという違ったタイプの。みんなそれぞれ。
藤原:個性があった。人格があった。人格者ですよ、みんなね。もうトップの時代だったと思います。先生方にとっても。一番ピークの時代だった。僕らもそれに同調していますからね。
坂上:で、八木一夫(やぎ・かずお 1918—1979)さんが非常勤でいらしていた。陶ということで。
藤原:材料に対する構え、制作に対する態度。これはトップでしょう。我々の時期というのは。
坂上:いつも先生方は、夜は飲んだり。
藤原:そうそうそう。僕らはそこに入りませんけど。何かあると、僕らは全員そこについて行くんですけど。そういうところで彼等の、いわゆる別の世界ね。飲んで。でも彼等はみなまじめだったですね。
坂上:今から思うと、みんなそれぞれ使っている素材は違いますけど、上田さんは石彫だし……
藤原:面白いですね。
坂上:みんなそれぞれやり方も素材もバラバラで。
藤原:おそらくそこでみんな遊んでいたんじゃないかと思います。楽しんでいたんだって。福嶋(敬恭)君なんて、鳥取からやって来て、見せてくれたんですよ。あの腕、握りこぶしの作品を。粘土で。鳥取の高等学校でやったって。石膏取りのやり方も知らなくて、歯医者さんの石膏というのがあると聞いて、そういうふうなもん何も知らないところから彼はやって来て、造形力がロダン以上なんですよ。それでもう僕は粘土やらないって(笑)。まだ何をやるか決めてないですけどね。そしたら庄司(達 しょうじ・さとる 同級生の彫刻家)君は布をやって。
坂上:庄司さんは名古屋のお茶の家。生まれた家が。
藤原:そうでしたね。だけど、彼もやはり京都しか他になかったらしいですね。何って言うんですか、菊池一雄(きくち・かずお 1908—1985 新制作派協会会員。1947年から1949年まで京都市立美術専門学校教授を務める。父は日本画科の菊池契月)先生が東京に赴かれ、辻先生が京都に来られて、堀内先生を呼ばれたんですね。その頃に、モデルさんがいてるんですけど、モデルさんが休んでしまうと、学生がいなくなってしまうんですよ。モデルさんがいなかったら仕事ができないって。そういうのでは、これはもう美術の世界じゃないっていうので、それで堀内先生と辻先生がいろいろ考えられてカリキュラムを組まれたというふうに聞いています。おそらく50年のまんなかあたりから作られて。
坂上:彫刻科自体は新しいですね、あの学校の中では。
藤原:ねえ、それはお金がなかったからでしょうね。反東京ですからね。これはおもしろかったでしょう。
坂上:藤原さんが入学された頃は、ちょっと前に彫刻科ができたばかりで、だからみんな仲良しだって。彫刻科の人たちは。
藤原:それと、やっぱりあれだけやんちゃがいたという。僕らの上の村上泰造さんとかね、僕らの2クラス上の連中は悪いんですよ。元気いっぱい。それも辻先生が鷹揚に見ていますからね。だからその手先になって大変大事なニワトリを食べてしまったり、鳩を食べてしまったり、魚を食べてしまったり。みんな日本画の写生の材料ですよ。その悪さが辻先生のところでみんな止まってるんですよ。美術学校の人たちはみんな何をやってもいいって。
坂上:アトリエ座(注:京都美大の演劇サークル。アトリエ座のルーツはさだかでないが、その歴史は古く、上村松篁の時代からあったらしい。劇団として有名なアトリエ座だが、その売り物は舞台装置にあり、年に1回~数回は祇園会館などの大きな劇場で発表をしていたと言う。芝居をするための資金集めから舞台づくりまですべてを自分たちでこなす京都美大の顔であった)の人たちとは。
藤原:僕も舞台に上がりました。
坂上:アトリエ座もやっぱり。
藤原:あのあたりはガンさん(岩田重義 いわた・しげよし 1935—)とか。舞台装置の。シナズミジョージさん(品角譲伺 中退者)。彫刻科、デザイン科というのを超えて今度はアトリエ座で仲間が出来ていく。
坂上:演劇集団だけど舞台装置から何から全部造る。維新派みたいな感じですね。
藤原:あれは歌舞伎から始まっているんですね。画家集団の歌舞伎。林(司馬 はやし・しめ 1906—1985)先生なんていうのは、「ふじわらさあん」なんて声かけられるんですよ。気持ち悪いわね、おやまですよ。みんな。そういう人たちがおられましたね。いい先生でしたね。
坂上:上村松篁(うえむら・しょうこう 1902—2001)先生とか。
藤原:芸術学部は、真言宗の佐和隆研(さわ・りゅうけん 1911—1983)先生とか。龍村(平蔵 老舗の龍物織物)先生とか。もう、元井(能 もとい・ちから 1920—1989)先生とか、秋野不矩(あきの・ふく 1908—2001)先生とか。今から考えるととんでもない学校でしたね。
坂上:その頃の学生は楽しそうですね。アトリエ座とか。垣根を越えてものをつくる。ものをつくる喜び。四条を歩き回ってお金(演劇のための協力金)を(集めて)歩き回るとか。美術だけやっていればいいんじゃなくって、外と関わり合いながら何かをつくる。
藤原:また、京都の街自体が学生を大事にしてくれましたね。本当に支えてくれた。市民の空気がいいですね。京都書院っていう本屋さんとか。
坂上:かたや学生を大事にしつつも、京都の学生というのは作品を発表してはいけない。厳しい。
藤原:それは彫刻科だけでしたね。厳しかった。先生たちの目が届かないところで何をやってもいいけど、作品にだけは規制がありました。
坂上:まだ学生で作品を発表するなんてって。退学ですよね。実際退学した人もいるし。
藤原:それは彼等の責任ですよね。実際それだけ彼等は感じていたんだと思いますよ。
坂上:前衛的というか、そういう人たちは中退してやってっていたし。なかなか。
藤原:一昨日、辻晉堂先生の生誕100年祭があって、生誕100周年展が鳥取の博物館で行われたんです。(『彫刻家 辻晉堂』2010年11月27日—2011年1月10日)オープニングで、昔の仲間、もう80才を越えてる方もいらっしゃるんですけど、先輩も集まって同窓会だったんですね。やっぱり当時の話がいっぱい出てきて。これはとってもいい展覧会でもありディスカッションでもあり、僕もひっかかってますんでね、前の先輩たちに大事にしてもらいました。ワルの手先にもなりましたし。
坂上:58年から64年。専攻科には行かれなかったんですか。
藤原:あ、行きました。福嶋君は鉄をやったり、庄司君はコンセプチュアルの仕事で布の問題をやって。僕はまだ迷ってましたね。冬も夏も同じ態度でコンコンやって石を彫って。
坂上:学生時代から俺は石だって思ってやってたんですか。
藤原:いや、それは思ってませんね。思ってないですけど、目の前で毎日寒い吹き抜けのところでコンコン石を叩いている上田先生の姿を見ましてね。
坂上:自殺しちゃいましたね。
藤原:そう。学校の問題を抱えておられたんだと思います。残念だったですね、これは。
坂上:先生もみんな学生と一緒に作っていた感じですか。
藤原:僕らは辻先生の粘土を練りましたね。先生の作品を窯に入れる仕事もしたり。嫌だったですけど。みんな逃げていきますからね。足の遅い奴はみんなつかまっていた。まあ、僕は得しましたね、かえってね。
坂上:あの頃ゼロの会(前衛美術集団の名)とかありました。
藤原:それは上田先生の。だけど、カリキュラムは、僕は良かったと思いますよ。京都芸大。京都市の学校で、お金がない大学。モデル代も払えない。それでこつこつとノコギリとかペンチを買って、針金細工をしたりね。堀内先生が現代彫刻を指導されたんですよ。いわゆる講義を持っていたんです。堀内先生は、自分の給料を全部、『カイエ・ダール Cahiers d'art』、いわゆる「美術手帖」を直接パリから取って、それを現代彫刻で指導された。生々しいヨーロッパの彫刻が入ってきていたんですね。
坂上:堀内先生はマケットは作っていたけれども。実際のものは発注して。
藤原:堀内先生は頭で考えられて、自分の中で作られたと思いますよ。プログラムは素晴しいですね。バウハウスに似ているんですけど、やっぱりどこか独自の彫刻家のためのプログラムが組まれているわけです。線面量。口では言われませんけどね。これがプログラム(「昭和41年度彫刻科授業日程表」Fujiwara, Stein und Makoto, p. 121)。いわゆるガリ版で書いたんですけど。実技が30週。これは1週抜かすとどうにもならないほど、うまいこと組んであるんです。後になってベルリンに行ったときにバウハウスの先生に見てもらったんですよ。そしたら公の学校でこの年代、昭和41年、1966年ですか、僕が教わったのは60年代前半ですよ。その頃にこういう組み方をされたっていうのはすごいことだって彼は言いましたね。バウハウス資料館の(クラウス=ユルゲン・)ヴィンクラー( Klaus-Jürgen Winkler)さんですか。館長さんはこれを見てびっくりされていましたね。僕は鼻が高かったですよ。分かりやすい。線面量。直線、非直線。非直線の中に人体があった。
加治屋:「動く彫刻」というのはどういう……
藤原:モビールですよね。ちょうどその頃入っていたから。66年ですからね、アレクサンダー・カルダー(Alexander Calder 1898—1976)が入っていた。もうちょっと前に入っていますね。
坂上:学生はどんな作家を見ていましたか。海外の作家。
藤原:やっぱりフランスの美術史界。それを近くに。
坂上:具体的な作家は。
藤原:誰だったかな。絵画でしょう。
坂上:海外で、さっき具体的にはロダンとかブールデルとかおっしゃっていたけど、反対に、動向展(「現代美術の動向展」)とかどうでしたか。京都の美術館で、63年からやってました(注:実際は64年が第一回。若い作家たちの新しい美術表現に焦点をあてた選抜美術展覧会。63年は国立近代美術館京都分館の開館年)。
藤原:やってましたね。でも僕らはそんなに関係なかったですね、そういう美術の流れとは。その頃、村上さんとかね、悪さしてましたからね。だけど東京と比べたら、やっぱり京美大はすごかったと思いますよ、新しい方向に関して。児玉正美(こだま・まさみ 1933—)さんが帰って来られました。50年ぶりにニューヨークから。その50年前に彼の展覧会を手伝った。東京に運んだんですからね。そして村松画廊で展覧会やって(注:村松画廊の記録集には掲載なし。1958—60年頃に東京の丸善ギャラリーで開かれた梅本昭さんとの2人展の記録あり)。東京の芸大の学生はみな見に来ましたよ。それはそうでしょう。天井から丸太をぶら下げて縄を巻きつけてぶら下げて。ごろんと。児玉さんの作品、床に転がっていたりね。そんなの東京にはなかったですよ。
加治屋:それはいつ頃。
藤原:60年前後ですね。
坂上:福嶋先生が同い年で北白川にいて、(1963年に渡米して)プライマリー・ストラクチャーの洗礼を受けて帰って来た。けど、行く前っていうのは、何て言うのかな、かなりベタというか。私、彫刻の学生って色合いが似てるなって思うんです。色合いというか。辻先生の影響か。
藤原:京都のかたちってありましたね。
坂上:うまく言えないけど、ブロックが(下に敷いて)あって、足があって、下があってっていうイメージ。(オシップ・)ザッキン(Ossip Zadkine 1890—1967)とか。だけど、私は後から見ているからそうやって一緒くたにするのかもしれないけど、やっぱり何か辻晉堂のにおいがする。素材に色をつけたりとかするんじゃなくて、素材そのものの良さみたいなのを活かしながら、ちょうどこれくらいの大きさ(高さ60—70センチくらい)で、板と板を重ね合わせて置くとか、反対にVの字に置くとか。こういうもので。ちょっと足を付けてバンっと置くとか。
藤原:辻先生の作品よく見てましたね。大阪の歌舞伎座の上のところに作られた屋根の鬼瓦ですか、あれなんか見たらびっくりしますね。造形力というか。空間の捉え方といい。猫とか。ちょうど僕らが美大に入った頃、廊下に辻先生のテラコッタの初期の作品があったんですよ。いわゆるかたちのものね。それからだんだん平たくなって。辻先生の場合。僕らは粘土を練りましたから、彼のために。だけど直接には影響を受けたとは思いませんね。
坂上:たまたま私が見た作品がそうなのかもしれませんね。
藤原:いや、傾向はありました。東京は裸(裸体彫刻)でしょ。僕らは反東京でしょ。だから、京都のかたちっていうのはだいたいありました。だけど、辻先生のテラコッタはこれはすごかったです。もうひとつ感動したのは、イサム・ノグチ(1904—1988)先生がやって来られたりして。上田先生は姿勢がよくてね、そのことを見ていたんですけど、ノグチさんはもっと前かがみで歩かれるんです。びっくりしましたよ。ノグチさん、頭が前に何かに引っぱられるように。上田さんもやっぱりそういう歩き方なんですよ。辻先生は怖かったですね。怖かったです。畏敬の念。堀内先生はだまって。辻先生はバーンと怒って、次の日は忘れておられる。すっごい人たちばかりでした。
坂上:専攻科にはいかなかったということですか。
藤原:行きました。だらだらだらだら。4年間でようよう材料を探し出して。遊び過ぎたんでしょうけど、決まらないです。自分の態度が。やっぱり彫刻家って材料を知らなきゃできないじゃないですか。それで専攻科になったときから石にだんだん決めるようになって。材料を探してたんだと思います。
加治屋:専攻科には何年いらしたんですか。
藤原:2年です。それでその頃はフランスに行くとか、そういう空気がありまして、辻早苗さんという辻先生の娘さんが――染めですかね――第一回のフランス国費給費学生。その次が森口邦彦君(もりぐち・くにひこ 1941—)。染織。友禅のね。その次はお前行けって。やっぱりそういう空気が出て来て、フランス語を一生懸命勉強して。
坂上:それは給付金のようなものが貰えるっていう割り振りがあったんですか。芸大の中で。
藤原:これはもう公の試験でしょ。それを3人続けて取って。その後は山本哲三君(やまもと・てつぞう 1943—)が取ったんですけど。僕が瀬戸内海に入ったきっかけというのは、フランスに長くいた水井康雄(みずい・やすお 1925—2008)さんという東京芸大の人です。第一回の外国給費留学生でパリに行かれた彫刻家です。僕は瀬戸内海に入りたかったんですけども、水井さんがたまたま堀内先生の次に高村光太郎賞を受けられて、それで北木島へ入る予定だということが新聞の「人」という欄に書かれていて。僕の行きたい島に行くっていうので、堀内先生にお願いしたんですよ。「言うといて下さい」って。そしたら一週間後に「言うといたよ」って、授賞式の後に。それで僕もいっぺん東京へ行って、「北木島に行きたいんです」と言ったら、僕は一人でやるから助手はいらないって。だけど、もしかの時にと思って住所を置いてきたんです。それで京都に帰って待っていたんですけど、全然音沙汰がない。で、リュックサックの中にノミを20本位入れて、一万円手にして、一升のお米入れて、それで瀬戸内海の北木島、小さな石の島なんですけど、行ったんですよ。彼が、東京オリンピックのバスケット競技場のピロティ廊下壁面100メートルを丹下さんから依頼されていて。
坂上:北木島といえば御影石。
藤原:そうです。瀬戸内海はみんな御影石なんです。大阪城を造っているいい石なんです。それで学校の彫刻科連中と一緒に何回もあそこの石切り場を見てましたから、あそこに行って自分を決めようと思いました。行こうと思っているうちに水井さんを見てお願いしたがダメだったから一人で行った。
坂上:おいそれと行けるところではないんですか。
藤原:いやあ、あの頃はねえ、原石を取りに行くっていうんじゃなくて先ず島に行こうと思ったんですよ。ところがね、あの頃、安部公房の『砂の女』という映画があったの。「藤原、あんなところに行ったら絶対に出てこられねえ。帰ってこれんぞ」って。それで別れの杯をみんなで飲みました。で、そこへ行って石切り場へ行って水井さんの仕事を3ヶ月ほど手伝ったんですよ。これもまた運がよくってね。大事にしてもらうようになれまして。ここでは、職人さんが7人。それで僕が学校出の助手になるという。まず3日間、石屋の親方が「お前を見てやるから」って。「3日間やってダメだったらお前帰れ」って。やるんですけどね。職人さんが、水井さんが持ってきた図面を見て、だーっとやるんですよ。それで職人さんがやった真っ平らな面っていうのは定規をあてた面なんですよ。ぴっちりと。職人としてはそれが当然なんですが、作家にしてみれば多分ね、あったかい平面と冷たい平面とがある。僕らがやるんだったら、冷たい平面をやるとしたら、へこませてマイナスな面をつくるでしょ。そうすると冷たい面になる。そういうことが職人さんたちには伝わらない。それで職人さんと水井さんの間に僕が立った。これでいいかって言ったらそれでいいって。あったかい面、冷たい面。僕は美術学校の感覚としてそれが出来るんです。職人さんの打ち方では作家は気に入らない。レリーフですから。そういう立場で藤原さんはいてくれよ、って。それで3ヶ月くらい。その間に北木島の職人さんたちと仲間になりまして、それで東京に取り付けに行った。東京オリンピックが始まったんで僕は島に戻った。それで2年間ほど石切り場で制作したんです。
坂上:東京オリンピックは1964年の……
藤原:10月。
坂上:では64年に北木島に。
藤原:8月から入りました。
坂上:64年に卒業してそれで北木島に入ったんですね。
藤原:そう。水井さんっていうのは東京オリンピックの前の年に、真鶴の彫刻家シンポジウム(「世界彫刻近代シンポジウム」、真鶴、1963年)を企画してて、それが僕には目当てだったですよ。現場に行ってないですけど。彫刻家が言葉を通して、みんな集まって、大きな石を彫る。そういうシンポジウム。僕は、ギャラリーとか美術館の空間とかそういうところでしか発表できないのを、いつも疑問に思っていたんですよ。上田先生は毎日毎日を外で石を彫っている。そういう青空の下で仕事をしていて、何か楽しい。それが本来の姿だと思ったんですよ。シンポジウムっていうのが夢だった。それで北木島に入ったときに水井さんがシンポジウムとはこういうものだって教えてくれた。(カール・)プランテル(Karl Prantl 1923—2010)という人が最初にやって。
坂上:シンポジウムというのは、プランテルという人が最初にやったんですか。
藤原:そうです。カール・プランテル。
坂上:それが日本に派生して1963年の真鶴になったんですか。
藤原:そうです。その第1回に水井さんが参加してるんですよ。61年だったかな。オーストリアのブーゲンザンド州サンクト・マルガレーテン(St. Margarethen)のシンポジウム。彼がそれを終えて、63年に日本で、あれは朝日だったかな、毎日新聞かな。朝日だ。真鶴海岸で。それは青空の下で、男っぽい仕事、制作風景があったんです。京都では聞こえてこなかったんですけどね。それは僕の夢だったんです。そういうものをできないかと。それで北木島に入るでしょう。それはやっぱり水井さんが関わっていたので、シンポジウムのことを聞いている。それで、彼がヨーロッパに行けって。それでフランスに行った。
坂上:真鶴の前のシンポジウムはどこで知ったんですか。
藤原:京都書院で立ち読みしていて、偶然。
坂上:水井さんからは……
藤原:あとから聞いた。ただ上田先生が毎日毎日同じ格好で石をコンコンコンコン。あの姿はひとつのイメージ。それがつながった。雨が降っても風が吹いても。石というのは原材料なんですよ。
坂上:それでシンポジウムという広いところでみんながダーッと。
藤原:そうそう。
坂上:集まってコンコンする。
藤原:そうそう。
坂上:視野が、ばーっと広がっていく感じですね。
藤原:言葉が必要ないんですよ。見えるでしょう。
坂上:海外の人もみんなシンポジウムに集まってくるんですか。真鶴も。
藤原:彼等は選ばれましたね。オリンピックの会場を飾るための彫刻。
坂上:そのためにシンポジウムがあったんですか。
藤原:そう思います。
加治屋:真鶴のは彫刻シンポジウムの流れで来ているんですね。
藤原:そうです。水井さんにそういう考え方があって東京にもってこられたのでしょう。それで、それが出来上がって、今まで続いているんですね。それを最初に提案したのが、1959年ですか、カール・プランテルさん。それがこのあいだの(2010年)10月8日に亡くなったんですよ。
坂上:1959年にカール・プランテルさんというオーストリアの人が……
藤原:提案した。
坂上:彫刻家が集まって。
藤原:国境を越えて、チェコの人とかハンガリーの人とか、そういう人たちが。言葉は通じないけど、制作態度は見えるわけ。理想に燃えている若い連中が集まってきて、お金が全然なかったんですけど、裸でがつんと。ワインが美味しい村なんですけどね。
坂上:サンクト・マルガレーテン。
加治屋:それは毎年やってたんですよね。
藤原:そうです、お金はないけど毎年やっていた。だけど、広く移動していったんですよ。サンクト・マルガレーテンであって。それからキルヒハイム(Kirchheim)というところに移って。で、ベルリンに壁ができるというので、それ行けって。
坂上:まだ壁がなかったんですか。
藤原:61年でしょう。壁ができたの。そういうのができるっていうのでキルヒハイムからざーっとドイツのベルリンに行って。アメリカ軍の協力で大きな石を運んで。壁の近くにはちょうど政治家が全部あつまる国会議事堂があった。ベルリンの東西の壁が無くなって、今はどまんなかになってしまいましたけど。そこでシンポジウムをやったんですよ。水井さんも入っています。もちろん。
加治屋:これは石彫の人。
藤原:そうです。石の彫刻。
坂上:だけど、庄司さんがあとで出てきますよね。
藤原:これはね、もうちょっと後。70年になって、これは僕が考えたんです。その10年前は石彫シンポジウムの集団というのは5、6人が核になっていて、ユーゴに行ったり、ポーランドに行ったり、そこらじゅうへ行って、シンポジウムというかたちを広げていくわけですよ。水井さんは水井さんで、日本へ帰って来て真鶴でシンポジウム。
坂上:水井さんはどうして? オーストリアってずいぶん距離が離れている。
藤原:彼はパリにいたでしょ。パリから参加した。
坂上:パリにお呼びがかかった。
藤原:シンポジウムのグループはね、59年、60年、車を調達してユーゴスラビアの方からそこらじゅう回ったんですよ。パリにも回って、ベルリンの彫刻家にも呼びかけていったの。それで、「おもしろい、石切り場で裸になってやろう」ってんで。理想に燃えてるんですよ、みんな。
坂上:ヨーロッパの石の彫刻家ってあんまり分からないです。
藤原:そうでしょ。僕らが知ってるのは、だいたいギャラリーや美術館を通している作家なんですよ。ところがシンポジウムっていうのは…… プランテルさんと直接話をするようになりましたから、若い連中と一緒になってわーわーするのがおもしろい。で、ワインがどんと机の真ん中にあるんですよ。それを飲みながら、言葉は分からないですけど、最初に酒があって石があったら、もうそれはひとつの仲間であり場なんですよ。女性の作家も入ってきましたね。
坂上:それだけいろんなところを回るのに、石っていうのがすごいですね。
藤原:地球の外郭っていうのは石でしょ。
坂上:石は重いのによくやるなあという気もなんかするんですが。
藤原:あれは動かすもんじゃないですよ。作家のほうが動くんですよ。
坂上:ここでやっぱりと。
藤原:そこで石切り場でやるんですよ。
坂上:石切り場。じゃあ、サンクト・マルガレーテンは石切り場なんですか。
藤原:そうなんですよ。だんだん分かってきたでしょう。
坂上:そうなんだ。
藤原:男っぽい。
坂上:北木島に来たのも。
藤原:そうそう。水井さんが神奈川県真鶴海岸でやったでしょう。その次の年だったと思います。関西で小林陸一郎(こばやし・りくいちろう 1938—)、増田正和(ますだ・まさかず 1931—1991)、それから山口牧生(やまぐち・まきお 1927—2001)。その3人の先輩が一緒になって瀬戸内海の小豆島でやったんですよ。
加治屋:1965年。
藤原:そうそう。第1回。日本で。
坂上:シンポジウムはカール・プランテルさんが始めたけど、山口牧生さんらが、俺たちもやろうと小豆島でやった。
藤原:そうそう。僕はそれを知らずに京都で、悶々としてました。
坂上:陸一郎さんとか京都芸大。
藤原:そうそう。でも、彼何も言ってくれないですからね。まだ僕らペーペーだったですよね。それで2年ほどヨーロッパへ行って帰って来ていたときに、1969年、大阪万博の鉄鋼彫刻シンポジウムに招かれたプランテルさんが島に案内してくれって言って、案内しましたね。無名の作家。いわゆる学校を出てすぐの若者たち。学生たちね。みんな小豆島に手持ち弁当で行って、土地の人たちがみんな喜んで仕事させてくれたんですよ。
坂上:それが65年くらい。真鶴のときは参加しなかったし、小豆島のときも参加しなかったけど、すでにそういうものが進んでいた。動いていた。
藤原:そうですね。
加治屋:じゃあ、小豆島のときはまだフランスに行かれる前。
藤原:そうです。僕はまだまだ熟してないから、小豆島で自分の仕事をしていましたね。だけど、そのシンポジウムの熱い気持ちというのは痛いほど分かる。
坂上:だけど、まだシンポジウムが小豆島で行われているということを知らなかった。
藤原:知ってましたけど、もっと別に思っていましたね。フランスに行ってしまいましたから、それほど重要には思っていなかったんだと思います。身近に思っていなかったと思います。
加治屋:その小豆島のシンポジウムは、外国の方は……
藤原:来てないです。日本の若い作家。東京から女の子が来てましたよ。石屋さんが「これ使え」って言ったら、ごろんとした石が。まあ転がしたら動かせる大きさだったと思います。そんなのが道ばたにいっぱい転がってましたもん。
加治屋:じゃあご覧にはなった。
藤原:そうです。プランテルさんが1969年大阪万博(の鉄鋼彫刻シンポジウム)で来られたときに案内しました。彼、喜んでいましたね。
坂上:まだシンポジウムには参加していないけれども、石彫をやっていて……
藤原:水井さんのお手伝いしたでしょう。64年。その後に北木島に入って、割合大きい2メートル50くらい、僕にしては大きいですけど。これです(Fujiwara, Stein und Makoto, p. 114)。これを作ったとき、この写真を持って辻先生に、学校に、夏休みに見せに行ったらね、「藤原、やったね」って言われたんですよ。
坂上:これは発表にはならないんですか。あ、もう卒業してるし。
藤原:発表してもいいんですよ。だけど、僕は全然そんなことを考えてませんし。僕の第1回目の作品だし、僕最初にこれを作ったんですよ。これは水井さんが「手伝ってくれたお礼に原石をあげるよ」って。
坂上:これは1964年の北木島で最初にこれを作った。第一歩。
藤原:この石をもらったんで、最初にこれを作ったんです。これまだ残ってるんですよ、京都で勉強した形が残ってるんですよ。ノミ打ちとかね。これが出来たら、幼稚園の園長さんが、小学校かな、校長先生が来て、「藤原さん、これはおもしろいなあ、くれんか」って。あげたんですよ。そしたら生徒の親に石切り場の親父がいるんで、お礼するからなんて電話かかってきて、で、「藤原さーん、石が出たから見に来いよー」って。で、行ったらこの石があって。割れた石がいっぱいあるんですよ。で、「石、こっからもらうんかあ」って思った。「俺が欲しいのは四角い石なのになあ。90度の塊なのになあ」なんて。
坂上:これはもともと全然違うかたちの石だった。
藤原:だからないんですよ。だけど選ばなきゃダメでしょ。で、一番大きいやつ。「これ立ててみてください」って。それで立ててもらって次の日真面目に見に行ったら、「えらいこっちゃなあ、これ。こんなん、もうできあがってるわ、触れんわ」って。
坂上:もともとかたちがユニークでおもしろい。
藤原:そう。できあがってるんですよ。それで困ったなって。それで四方から見てると上の方から削岩機で仕事している職人が、「藤原さん、何してんな!」って。「大学出て何してんの」って。グルグル回ってるから。それで、「恥ずかしい。困ったな」って。焦るしね。道具は全部揃っているわけですよ。ハンマー、ノミ、全部置いてある。それで次の日行って、そしてまたグルグル回るわけですよ。そしたらまた上の方から言うわけさ。「藤原さん、何してんな、グルグル回って」。もう手の打ちようがないですよ。っていうのは、自然のかたちがもうそこにありますからね。それで散歩に海岸に行って。北木島の浸食された石をずっと見て。息抜きに行った気分で戻ってくると思いなしに、その石が小さく見えるんですよ。で、「ああ、そうか」って。そうすると上から声がかかる。「藤原さん、なんぼかかるんじゃあ、大学出て」なんて言って。それを一週間くらいやりましたね。海岸の石を見て戻ってくると、目の前にある石が小さく見える。それをなんべんも繰り返しているうちに、弱点が見えてくるんですよ。こっから入れるなって。で、そこに小石を置いておいて。で、また散歩に行くわけ。海岸に。で、戻ってくると、あそこが俺の入るところだって。それで、そっから彫り始めた。それで何も考えずにずっと縦に彫って、そしたら裏側が見えるようになってきた。で、「あれ、こんなこと教わってないな」って。それを繰り返して、2ヶ月くらい手でトントン彫り上げていってこの写真ができあがったんですよ。2ヶ月、3ヶ月くらいかかったですかね。
坂上:ずっと住み着いてというか。
藤原:そうです。ずっと住み着いてました。「トマトなんぼでも食べてええからな」って。僕、お米は持っていましたからね。その間に北木島の旅館のおじいさんが大事にしてくれるようになりましてね。「お客の残りじゃが、食うてけ」なんてね。それでこれが大体できたんです。それで辻先生のところに行って見せたら、「藤原!やったね」でしょ。「へえ、俺何をやったのかな」って。あの一言ですよ。辻先生からの。いまだにあの気持ちでやってます。辻先生見てるもん、あの辺で。仕事してるとき。あの一言。ほんとに僕が受けたのは。だから、この、3つ重ねるかたちは何べんも出てきますね。どうしても。京都の美術学校にジャッキしかなかったんですよ。これで1メートル50くらいの石をコンコンコンコン。で、また上げて。それを2回も3回も。それでジャッキで動かしながらやるの。いまのここ(広島市立大学)みたいにクレーンないですからね。それでこれをジャッキで上げていって。
加治屋:ちょっと戻っていいですか。Suzukaていうのはどういう……
藤原:タイトルですか。
加治屋:これは場所ですかね。
藤原:これを買ってくれたんですよ、三重県鈴鹿で。
坂上:鈴鹿に石切り場があってやったわけじゃなくて。
藤原:じゃないの。はじめてこれ7万円で買ってくれまして。
坂上:当時だといくらなんですか。当時だとどれくらいなんですか。
加治屋:けっこう大きな額ですよね。
藤原:値段、いい方じゃないですか。
加治屋:かなり大きなお金。
藤原:まあまあですね。ひと月1万円。北木島に1万円持ってきたら、大体できてましたからね。
坂上:7万円って、ごめんなさい、お金のことばかり。7万円って誰がつけたんですか。10でもなく1でもなく。
藤原:おそらくね、10万円考えていたと思います。京都にちょくちょく来る鈴鹿の(伊勢)型紙の社長なんですよ。何とか小紋の型紙。その人が新しい家屋を建てたから灯籠に代わるものが欲しいって。福嶋君がそばにいて、「君と一緒にやろう」って言ってたんですが、ちょうど彼がアメリカに行って。あのときです。僕はそれなら俺がやるわって。それでトランスポートに3万円かけて、その残りが僕だったと思いますけどね。
加治屋:タイトルはお付けになるんですか。
藤原:タイトルっていうのはそんなに。まあ、見る人の助けに、今のように話すのがないとき。で、これは自然の石なんです。これを見て戻ってくると、この石が小さく見える。
坂上:実際はどれくらいの大きさなんですか。2メートル……
藤原:これは2メートル50、3メートル近い。とにかくやんちゃな石ですからね。もう手のつけどころがなかったですよ。それともうひとつ。写真は、おもしろく撮ってありますけどね、立体のものを写真に撮るって、僕の主観だけで撮ってますから。嘘なんです、はっきり言って。だから面白く見えますよ。彫刻写真を撮ると。
加治屋:角度によってずいぶん違いますからね。
藤原:ずいぶんもう。100万の角度から撮れますからね。見やすいところから撮ってますから、あてになりません。
加治屋:それで北木島で作られて。3つの……
藤原:そうです。コンポジション。
加治屋:北木島には2年くらいいらっしゃった。
藤原:ほぼ2年ですね。
坂上:パリまでほとんど北木島にいたんですか。パリに行くまで。
藤原:そうですね。
加治屋:で、フランス政府の国費の試験を受けないかと。で、試験を受けて……
藤原:受かって。その受かったときにおもしろかったのは、京都でタクシーに乗ったんです、帰るとき。これから行くぞという前の日。そしたら東山の裏側になんかありそうだなっていう気がしたんですよね。
坂上:東山の裏側? 山科?
藤原:ううん。なんか。向こうへ着いたらなんかありそうだというそんな期待が。ワクワク感ですかねえ。
加治屋:で、何が。
藤原:受かったでしょ、パリへ行くって。なんか、あっちへ行ったらなんかありそうだって期待感もちましたね。僕の家、浄土真宗の寺でしょう。どっちかって言ったら、ほっとけほっとけでね。待ってるって、そんな感じを受けたことがある。記憶がありますね。神戸で、辻先生かな、あの頃みんな見送りに来てくれたんですよ。
坂上:あの頃、神戸。船。
藤原:ええ。そのときは両親も辻先生たちも来てくれましたねえ。それで船でぼーっと出るでしょう。
坂上:66年の何月? 4月……
藤原:あれはいつだったかな(注:神戸港1966年8月末出航、9月末マルセイユ着、パリには10月1日着)。
坂上:秋ですか。
藤原:いえ、10月に着きましたからね。
坂上:船で一人で。
藤原:ひとりぼっちでね。フランス語は出来そうな気がするんですがね。神戸港出発したらね、晩飯だっていうんで行ったらねえ、パンでしょ。ワインは2等ですから、飲みさしみたいなの。前の人の。これで行けるかなあって。怖かったんですよ。ところがね、朝、4時か5時頃、目が覚めて甲板の上へ行ったんですよ。そしたらね、僕らは幾何学的な形態を勉強したでしょ。「ゴールドの台形」が見えるんですよ。へーって思って。そしたら富士山ですよ。あとから気がついた。そのときは台形だと思った。綺麗な台形だった。もう幾何学的な形態を使っているから、こういう出発はすばらしいなって思ったけど、やっぱり怖かったですね。それで船員に聞いたら、ここどこだって聞いたら、日本だって。で、次はどこに行くんだって言ったら横浜だって。横浜で降りてね。2日ほど。フランスの郵便船ですから、郵便の出し入れがあって2日ほど休みがあって。従兄弟の所へ飛んで行って、もう日本食っていうのを食べましたね。それで、憑きが落ちたっていう感じで、これはもう大丈夫って。それで今度は堀内先生が迎えに来てテープ。堀内先生。ロマンティックやったなあ。
加治屋:書いてあります。ここに。「僕たちは横浜の桟橋で船出の彼を送り出した」って(堀内正和「石とマコト」 in Fujiwara, Stein und Makoto, p. 119.)。「カラーテープを持って、まことに古風な船出だった」って。
藤原:うれしかったですね、やっぱり。
加治屋:横浜から……
藤原:最初香港へ行って、それからベトナム、ラオス……
坂上:南回り。
藤原:そうです。いい旅でした。30日。15万円。飛行機もそれぐらいだったです。水谷さんって、東京芸大で漆やってる人、彼女は15万円で、彼女は飛びましたね。僕は15万円で寝食ついて……
坂上:シベリア鉄道というのは無しだったんですか。
藤原:あったです。けど、それは行かなかった。あとから行ったんですけどね。これはおもしろかったです、やっぱり。それでね、インド洋のところで3日間ほど何も見えないところがあった。それで船の一番上へ上がりましてね、グルグルって廻ったら一直線なんです。空と。これ、彫刻家だったらどんなふうに表現するかなあって。絵画の人だったらどのように表現しますかとかね。
加治屋:見渡す限りの一直線の水平線ですよね。
坂上:みんなそれぞれいろいろありますね。
藤原:いろいろあるんですよ。それとか、アフリカに降りるでしょう。暑いんですよ。港の彼等っていうのは、これぐらいのコーヒー缶に50センチほどのヒモをつけてぶら下げて歩いてるんですよ。恐らく地面の照り返し熱で熱くなるんじゃないかな、コーヒーがね。それぐらい暑い。この暑さを彫刻家だったらどんなふうに表現するかなとか、そんなことをいろいろ。楽しかった。
坂上:自分は石彫で、自分は彫刻家だっていう意思が固まっていたと。
藤原:まだそれはない。
坂上:彫刻だったらどうしようとか考えてはいたけれど……
藤原:そういう意味ではね。彫刻で表現しようって。言葉にするべきか、言霊によって、こういう言葉で表現するのか、造形で表現するのか。いろいろ見てるんですけどね。もちろんこうやって被ったような状態で作品をぐるぐるって回る。そういう作品を作っている仲間もいますしね。だけど僕は、それはものではできないなあって思ったりしましたね。考えたと思います。真面目でしょ。くそ真面目でしょ。
加治屋:フランスに着いて、パリの国立美術学校に入られるんですよね。
藤原:ダメですね。
加治屋:ダメというのは。
坂上:学校自体がつまらんとか。
藤原:いや、パリっていうのはやっぱり絵描きさんの世界ですね。違いますか。光線がやわらかいんですよ。きれいなんですよ。品がいいんですよ。やさしすぎる。僕みたいなやんちゃにはとってもダメ。苦しんだんですけど、水井さんがおられましたからね。水井康雄さんといろいろお話ししたりなんかしておったんですけども。着いて2ヶ月くらいで、シンポジウムっていうのがある。
加治屋:彫刻シンポジウム。
藤原:ウィーンに本部があると。それで、秋山君ってご存知ですか。秋山礼巳(あきやま・ひろみ 1937—2012)っていう広島出の彫刻家です。石彫の。彼も来てましたね。それでその連中がウィーンに向かって応募しているわけですよ。
坂上:日本でも真鶴であったり小豆島であったりした同じシンポジウムがウィーンにもあるぞと。
藤原:そう。
坂上:よし行こうみたいな。
藤原:そう。みんな応募してた。パリから。30人くらい応募してたと思いますよ。
坂上:日本人だけで。
藤原:それでね。シンポジウムっていうのはちゃんとした作家が応募するものだと思って僕は控えていたんですよ。そしたら隣りの部屋の連中、仲間が――山路龍天(やまじ・りゅうてん 1940- 同志社大学教授)さん、フランス語の先生ですけど、日仏学館にいた――「藤原さん、出せよ、手伝ったらあ」って。それでフランス語で書いてくれたんですよ。応募を。で、ちょうどクリスマスの前、ギリギリで写真が行ったんですよ。この荒っぽい写真が。おそらく水井さんところでも書いていたと思いますよ。そしたら返事が来ましてね、秋山君は、今年のサンクト・マルガレーテンに参加する。そして藤原、お前は次の場所が決まったら連絡するって。そういう半承諾みたいな返事が来て。そんなに期待してなかったんですけど、来たんですよ。そこへ行くことができてうれしかったんですけどね。パリは美術館に見に行くでしょ。現代美術館(Musee d'art modern)ね。石の作品が一点ありましてね、これがおもしろい。それまでパリの美術館へ行って、美術館見たんですけど、みんななよなよしい。ダメなんですよ。で、石の作品があって、これはおもしろいなあって思って。それを見に通ったわけですね。ただですからね。見せてもらって。それでWっていう文字だけ覚えたんですよ。横文字覚えられないですからね。その人の作品がおもしろかったなって思って。とにかくシンポジウムの案内が来たんで、その会場、南オーストリアなんですけども、山の中でクラスタル(Krastal)石採場――後年、前川(義春 現広島市立大学教授)先生も(1988年に)参加しました――、そこでシンポジウムやるからお前来いって。第1回(1967年)のクラスタルのシンポジウムです。そこへ行く前にね、ミュンヘンのハウス・デア・クンストって美術館があります。3日くらい泊まりました。そこの街を見ている間に、そのWの作家の作品が50点くらいばーっとあったの。石の。もうショックですよ。こんな方までがーんっとやられて感動した。もしこの人がいたら会おうって。この人につこうって。もし亡くなっていたらこの人の作品をもっと捜そうと思った。フリッツ・ヴォトルバ(Fritz Wotruba 1907—1975)って作家なんですけど。ミュンヘンからオーストリアの石切り場に行ったら、そこに彼の生徒がいる。聞いたらウィーンで教えてるって。そこにプランテルさんもいた。スロベニアやケルンテンのボス。もうみんないるわけ。それで、最初の作品を。これですね、この作品です(Fujiwara, Stein und Makoto, p. 110)。うれしくてね。石切り場に来たから。水を得た魚っていうか。
坂上:67年シンポジウム・クラスタル・ケルンテン('67 Symposion Krastal Kaernten)?
藤原:ケルンテンっていうんですけどね。その石切り場に行って、この石がいいだろうって思ったら、フランス語しかできないでしょ。で、「この石だ」って言ったら、「動かない」って言うんですよ。それで、じゃあこの半分の石を欲しいって言ったんだけど、「一週間ほど待ってくれ、発破かけるから」って。それで20トンくらいの石がころんと。うれしくてねえ。北木島でも原石なぶってますから。それで、その石出してもらったんです。とにかくここでは感動してしまった。
坂上:何人くらいいたんですか、ここに行ったら。
藤原:8人です。この仕事をやって2、3ヶ月いて、ウィーンに行ったんですよ。そのウィーン美校のヴォトルバっていう人に会いに。それで会いに行ったけど、僕はドイツ語ができない。そのとき天使が来るんですよね。ミニスカートでさ。金色のこんなの足に巻いてね。茶髪でハイカラな女。女優さんなんですよ、ウィーンの。で、彼女が、私が案内してあげるって。それで彼女が、来たら泊まってもいいって言ってくれて。彼女は新劇の女優なんです。後から知ったら、彼女、仲間がいましてね。(フリーデンスライヒ・)フンデルトヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser 1928—2000)、彼の奥さんがゆうこ(イケワダ・ユウコ)さんって日本人で。ウィーンの女優でユッタっていうんですけど、そういうことで、彼女、日本に憧れてたんです。そのころフンデルトワッサーは日本に何べんも行ってるわけですよ。文化人同士ですよ。それで彼女は日本に憧れてるでしょ。わーっと掴まれましてね。それで彼女がヴォトルバ教授のところに行って紹介してくれて。この男が入りたいって。で、僕にはさっぱり分かりませんけどね。作品の写真を見てヴォトルバ教授が「残念だ」って言って。「もう学校、僕のクラスいっぱいになってる。僕の教え子が隣で教えているからあっちに行け」って。僕「嫌だ」って言ったんですよ。そしたらもういっぺん見直して、「よし11月から来い」、と、そう言ってくれましたんで。このシンポジウムの仕事は中途半端ですけど、終わらないんですよ。大きくて。20トンの。それでパリへ戻って給費全部断りましてね。3年間くらいくれたんですよ。だけど切符だけもらってウィーンに移って。それで彼女の家に世話になって。それでヴォトルバ教授に。怖い先生なんですよ。やっぱりトップの先生で、ヘンリー・ムーア(Henry Moore 1898-1986)の知り合いだったり、イタリアのマンズー(Giacomo Manzù 19081991)とかそういう連中と知り合いで、ウィーンではトップのトップで。プランテルさんは「なんでアカデミーで教えているんだ」って。「彫刻はもっと開かれたものだ」って。ヴォトルバは「シンポジウムはツーリストの遊びじゃないか」って。両方とも正しいんですよ、僕ら外側から見てると。そういう人たちが道であっても顔をそむける、ぷいっとして。腹の中ねじれてこんなになってる。ほんとにね。東洋と西洋のまん中にあるウィーンってのは、ほんとに不思議な、嫌な、そしてなつかしいっていう。ほんとにここがこんなになって。ウィーンってほんとに不思議な街で。それで両方の作家についていたわけですよ。それで、また京美大では辻先生と堀内先生でしょ。水と火。両者が。それで、若い人たちにチャンスをあげるのがシンポジウムであって、アカデミーなんかじゃない。そのふたりはものすごい喧嘩しますよ。そういうのを僕は見てるわけですよ。怖かったけど。ヴォトルバっていう教授はやっぱり人格者。すごい人だなって。辻先生とヴォトルバっていうのは同格だったですね。僕にとっては。僕は運がよかった。僕はずいぶんウィーンの作家たちの中に入って仕事をするようになった。かたやプランテルさんの世話になれば、ユーゴスラビアとか各国の…… そうやってだんだんだんだん僕は石の中に入っていってしまうんですよ。これはありがたかったです。言葉も全然しゃべれませんけどね。だけど全部分かるんですよ、雰囲気で。その体験は今ノルウェーでやってます。ノルウェー語、僕しゃべれません。30年いながら。あのね、ノルウェー語をペラペラしゃべるようになるとね、逃げるようになるんです、何かが。そういう気持ちがあるんです。だから大事に大事に持ってようって思うのは、言葉によって、言霊によって、かたちに変えられるような気がして。それで、これが欲しいとか、あれが欲しいとかしか言えないですけどね。実験中です。30年目の。
加治屋:ちょっと細かいことですが。ウィーンに行かれて、ヴォルトバ先生のところで……
藤原:1年間です。ある推薦状に嘘ついて書いてますけどね。1年間です。「お前は2年間いたことにしよう」って。
坂上:66年にパリに行って、ウィーンまでには1年間くらいかかった。
藤原:パリに1年行って、ウィーンに1年行って、なぜ帰って来たかというと、切符があったの。フランス給費の。それで帰って来て、辻先生のところへ行って、ただいま帰ってきましたと。
坂上:一回帰ってきたんだ。67年に。
藤原:どうしようかなって思いながらも帰ってきたんですね。そしたら辻先生が、これからどうするんだって。それで僕は東京でも行こうかなあって。
加治屋:それで東京に?
藤原:「お前、東京に知ってる人いるのか」「いや、いないです」「ダメだ、俺のところにいろ」と。「俺の仕事を手伝え」と。それで先生は研究室にいて、ブロンズになる《野中兼山》という3メートルの作品を作っていたんですよ。
坂上:野中兼山先生。高知県本山町。これは出品作品の中に入ってませんね。細部の付録に入ってます。これです、これ。
藤原:これをお手伝いしていたんです。
坂上:これを辻先生が作っていたんですか。この武士みたいな像を。頼まれて。
藤原:それで、手伝ってだいぶ終わったら研究室にお客さんが来られて。それが飯田善國 (いいだ・よしくに 1923-2006)さん。5月、天気のいいときだったんですけどね。「1970年大阪万博があるんで、そのときの鉄鋼シンポジウム、藤原、お前手伝ってくれよ」って助手を頼まれた。鉄鋼シンポジウムね。石じゃない。大阪の万博のためのシンポジウムで、いろいろ人が来るから手伝ってくれと。プランテルさんも来られるんですよ。君知ってるから、プランテルさんの仕事を手伝ってくれと。それで3ヶ月手伝ったんです。それで、突然プランテルさんが、12月に「ここにお前のために切符がある」って、飛行機の切符を出してくれるんですよ。それで、「これ何や」って言ったら、「石を準備してあるから、お前ヨーロッパへ来い」って。それで3日だけ日をくれと。京都に下宿してますからね。それで3日の間に「よし行くか」と思って決めた。
坂上:鉄鋼シンポジウムは、196…
藤原:9年。
坂上:7年に帰って、2年間日本にいらした。
藤原:8年でしょう。69年の12月にまた向こうへ行ったんです。
加治屋:68年のこれは(注:1968年にSymposion Europapark Klagenfurtに参加)。
藤原:あ、ウィーン美校にいるときにこれをやったんです。
加治屋:じゃあ、68年に(日本に)帰られた。
藤原:そうです。
坂上:じゃあ、パリの給付は66年に始まって、ウィーンにいる間はパリの給付はもらってないけど、い続けて。
藤原:親父が一万円札封筒に入れて送ってくれたりね、彼女が助けてくれたりね。
坂上:で、帰りの切符だけはあるから2年間いて。一回日本に帰って、プランテルさんの手伝いをして、もう一回来ないかと言われて行ったのが、69年。鉄鋼シンポジウムが終わって一緒に行ったと。
加治屋:ちょっと細かいことなんですけど、プランテルさんとはウィーンで初めてお会いになった。
藤原:いえ、1967年のケルンテンの石切り場です。
加治屋:あ、石切り場でお会いになって。
藤原:そりゃ、みんな整ってるんですよ。彼に会う前に、Wの先生に会ってわーっと見て、それで汽車で石切り場に行ったらプランテルさんがいる。教え子もいるわけですよ。
加治屋:すぐに作品を作ってもいいことになったんですか。
藤原:ええ、すぐに。招待状を持ってましたから。パリにいたときに。
加治屋:ああ、そうか、そうか。応募したから。
藤原:次の年、今度新しい公園つくるからお前一緒にやれよって。それでこの仕事場(オオーストリア・クラーゲンフルトのEuropapark)。なんぼもらったかなあ。30万円。数万じゃないですよ。ルノーを買いました。
坂上:クラーゲンフルトって言うんですか。
藤原:ここの隣の街。この前、僕の田舎で、近所の人が『婦人公論』って雑誌を持ってきて、そこにウィーン少年合唱団が(Europaparkに)だーっと並んで写ってるんですよ。それで、「これ、どっかで見たことあるなあ」って言っていたらしいです。
加治屋:日本の雑誌ですよね。
藤原:うん。日本の写真家が、どうも日本のかたちに惹かれたらしいって。
坂上:69年に向こうに渡ったらもうほとんどずっと……
藤原:そうね、そうでしたね。69年っておもしろい年なんですよ。向こうに行くと、サンクト・マルガレーテンの石彫家会議があるんですよ。彫刻家の家があって。20人くらいユーゴスラビアとか、チェコとか、パリからとか、いろいろ作家が集まって、それで来年の夏は何をしようかっていう計画をサンクト・マルガレーテンで(話し合う)。プランテルさんと一緒に帰ってきたでしょ。僕は何もしゃべれませんけどね、前の方でしゃべってるんですけど、みんなこっちを向くんですよ。それでみんなで手を叩いて「ブラボー」なんて言ってるから、僕も「ブラボー」なんて言ってたんですよ。そしたらね、僕が1970年のサンクト・マルガレーテンで何かをやれっていう課題をもらったんですよ。
坂上:初めて行ったのにもかかわらず、「お前やれ。何か考えろ」と。
藤原:そう。
坂上:その場で。
藤原:そう。それでね、彼女がいるからね。ミュンヘンのシアターで働いていたんですよ。
坂上:彼女って誰?
加治屋:さっきの女優さんで、一緒に住んでいた……
坂上:あ。
藤原:新劇やってた。あの頃、売れていたんですよ。
加治屋:その方はウィーンの方。オーストリア人。
藤原:そう。
坂上:フンデルトワッサーもオーストリアですよね。
藤原:そうそう。その会議のときに、僕に決まったらしいんですけど、僕、あんまり分からんでしょ。それでミュンヘンでグズグズしてたんですよ。彼女に、「来年、あなたがやるんだよ」って言われてもピンとこないんですよ。何がって。サンクト・マルガレーテンが危機に陥っていることは分かるんですよ。丘の上でね、毎年毎年、58年、59年からやっていて、これはお墓の状態になるなあとは思っていたんですよ。秋山君もそう思っていてね。これでいいのかなあって。
坂上:石がバンバンありすぎるってこと? 宇部の彫刻みたいな。
藤原:そうそう。ドイツ語で言うと「Ich、Ich、Ich」。「俺、俺、俺」。ざーっとあるわけ。これはいかんなあって思ってね、庄司達君に手紙を出したんです。彼、切れますからね。言葉が出来ますから。それから山本哲三にも連絡したんです。「僕が課題を受けたので、来年何かやらなきゃいけない。手伝いに来てくれるか」って書いて。パリの美術学校にいたとき、わずか10月、11月、12月しかいなかったけど、そのときにね、ビエンナーレ・ドゥ・パリ(Biennale de Paris)っていうサロンがあるでしょ。
加治屋:パリ・ビエンナーレ。
藤原:あれにね、もう一つ部門があったんですよね。嫌々パリのボザールで粘土とかなぶったりとかしてたんですけどね…… 一人の若いマシエ(Massie)っていう組長がやってきてね、「お前、変な作品作ってるだろう。俺たちと一緒にやらないか」って言うんですよ。それは、僕の作品…… 丹下さんの代々木の競技場の(ために作ったスタジアム)みたいな作品を作っていたんですよ。俺たちの仲間に入ってくれんかって。日本でフランス政府給費留学生に応募するときに、水井さんから教わって、プラン・エチュード、計画書に書いてるんですよ。パリの美術学校には共同制作、コラボレーションの伝統がある。建築家と絵描きと彫刻家がひとつになってコラボレーションする。コラボレーションに入りたいって書いたら、向こうから言ってきたの。「ほー。よし、やろう」って。テーマはね、la ville d'espace。空間都市っていうテーマです。ビエンナーレに出すためのもので、3ヶ月やったんですけど、フランス人ようしゃべるだけでものは何もできないの。共同でものを作ってるんですよ。彫刻、絵画、建築の三者。それで街の作家も一人入れないといけないから、街へ行って、飛んでる蝶々ばっかり撮ってる写真家が入ってきたり。5人、6人、7人って参加者が膨らんでいくんですけど、できないです、そんなもん。しゃべるの好きでしょう、フランス人。僕の場合は…… トンネルを出たら急にふわっと、道路を走っていると急にふわーっと出たりする。車でね。60キロ、30キロってスピードによって、空間を感じるのを僕は提案したんです。他の連中はね、例えば大きな池があって、ポンプで水がだーっと上がったり下がったりして、いわゆる景観が変わっていくのを計画して。これくらい(2m×3m)のモデル作り始めたんだけど、できるわけがない。まとまらない。それで結局3ヶ月すったもんだしたんですけど、ベラベラしゃべるぐらいで何もできない。
坂上:1970年ですよね。
加治屋:いやボザールのときだから67年。
藤原:そうそう。そういう経験を通して共同作業できないかって、庄司君と相談したんですよ。というのは石切り場が大きいんですよ、サンクト・マルガレーテンの。それで一点の作品よりもなんか面白い作品ができるんじゃないかって。共同体。話し合ったら、彼、乗ってきたわけ。コラボレーションに。山本哲三君に言ったわけ。そして山口牧生さん。彼は京大の美学出てますから、文章が書けます。それから、もうひとり、広瀬考夫君って僕の仲間ですけど、その5人で共同制作をやろうということで。手紙のやりとりで。「片道出してくれますか」「往復出します。食事も出します」。道具も一式もう全部あるわけですよ。それで共同制作しようって、そのときのがこれ(Fujiwara, Stein und Makoto, pp. 98-99.)。
坂上:これが70年。
藤原:「よくやった」と外から聞こえてくるんですよ。
加治屋:これは石切り場でこういう……
藤原:そうです。溝を掘った。
加治屋:すごいですね。
藤原:これは10メートルほどあります。
坂上:高低差が10メートル。
藤原:10メートル。ローマ時代の石切り場でね。これは、あとから文句が出たんですよ。自然環境破壊だ何たらって、それを掘ってる奴がいたと。プランテルさんが一年間裁判所に通ったんです。長かったですよね。これはね、25メートル、8メートル、5メートル、8メートルって、点で行ったんですよ。ずーっと向こうまで(注:筋を掘ってまた平が続き、また掘っては…の連続の意)。
坂上:点ということは筋があったりなかったり……
藤原:そうです。
坂上:というのが何百メートルと続く……
藤原:だいたい丘は300メートルくらいあったんですけど、全部掘ったのは70、80メートルくらい。肩幅で。それから90センチの深さで溝を掘った。
坂上:みんなそれぞれ違うところにいて、手紙しかないんですよね。電話とかできない。
藤原:そうですね、すべて手紙の交信で辛気くさかったです。ひとりは九州、ひとりは、どこだったかなあ、仲間が来てくれたんですよ。7月の末に。それまでに僕はプランテルさんが残してくれた7メートルの幅の広い石の作品を作ったんです。この仕事。これ3月と4月(Symposion Federsee)。雪降ってましたね。それからこれが5月、6月(Symposion Mauthausen)。これ花崗岩ですよ。これで生まれて初めて機械を使った。で、7月、8月。だからこの70年って、ものすごい…… きりきり舞いしました。32歳か。
坂上:庄司さんは、「人間と物質」に出してましたね。
藤原:え。
加治屋:1970年の「人間と物質」という、東京都美術館で開かれた展覧会……
藤原:ああ、そうですか。とにかくこれを5月、6月とやって、日本から4人の仲間と来てくれた。7月、8月、9月にかかるまでやったですね。それでこれをやったことによって困ってしまったですよ、みんな。
坂上:いままでの石彫のスケールとまるで……
藤原:見方が変わった。ちょうどこれの2年くらい前にリチャード・ロング(Richard Long 1945—)が始めたでしょう、あれを。ランド・アートですか。僕らは旬の仕事をやって、ほとんどインフォメーションもしなかったですけど。この頃はランド・アートっていうのがどんどん聞こえてくるようになって。
坂上:アメリカの(ロバート・)スミッソン(Robert Smithson 1938 – 1973)とか、見て面白いなとかは……
藤原:僕らはそれは知らなかったです。
加治屋:スミッソンはこの直前かな(《スパイラル・ジェッティ》は1970年4月に制作)。
藤原:(ロングは)セントマーティン・スクールでしょう。面白い人出ましたね、あの頃。これは京都の美大の連中。
加治屋:大きな転換ですよね。ものを作るのから、場所に線を引くっていうのは。
藤原:やっぱりね、その場でそのもの、材料を見て、反応していくっていうことを先生から教わりましたね。それが強かったです。(本の写真を見ながら)ここでディスカッションして。腹は痛くてね、みんな下痢したりして。共同制作っていうのは、「俺はこう考える」「俺はこう考える」って。庄司君はみんな記録してるんです。これだけしゃべったんだからもう十分じゃないか、もう帰ろう、なんて。だけど、部屋はあるし、飯は付いてるし、道具はあるし、現場はある。で、最終的にね、一週間くらいですかね、このかたちに決まっていったんです。それで仕事中に、いろんな問題を指摘し合いながら。ていうのは、石はゆっくりゆっくりですからね、どんなに頑張っても石はそんなに進まないから。仕事しながらいろいろ話して。共同体の仕事って割合おもしろかったですね、そういう意味で。何回もいさかいがありましたけどね。全然言葉の違う連中、ドイツ人、ルーマニア人たちとの共同制作は考えられなかった。僕は怖かったんで、同じ考えを持てる、京都の同じ先生のもとで勉強した連中と、それでだけ京大の美学を勉強した牧生さんが見ていてくれる。そういうかたちで。
加治屋:これはみんなが集まってからできるまで、どれくらいの期間がかかったんですか。
藤原:最初に一週間ディスカッションですね。庄司君が全部記録しているから、誰が何を言うたって全部分かってます。それで体を動かしながら話し合って。とにかく体を動かしはじめたらオープンになってくる。仕事しに行ってコンコンコンコンやって帰って来て。次の日の朝6時に起きて1時間しゃべってそれから仕事。だんだんリズムができてくる。その頃になると、「なぜ直線で全部掘ってしまわないか」って。そしたら庄司君が「点というものは続くもんだ。点すなわちこれ続く」って。そういうふうにうまいこと解釈してくれましてね。この問題、フェルカーフェアビンドング(Voelkerverbindung)って世界中を全部つないでいく。地球は丸いから。僕もまたここに戻ってくる。地球は歪んでいるはずだ。地球はぐるぐるぐるぐる永久に回り続けるって言い訳を考えて。
坂上:ちょうどコンセプチュアルなことをみんなが言い始めた。
藤原:そうですね。
加治屋:これは、場所はどうやって見つけてきたんでしたっけ。
藤原:これはサンクト・マルガレーテンの丘。みんながこの場所を中心に10年来働いてますからねえ。で、一番おもしろくて、我々仲間同士の話がつきやすいところっていうのを探した。全部これ手で掘ったんです。
坂上:これは絶壁があったわけではないんですか。
藤原:それは、ローマ時代から使われていたから深く彫り込まれているんですよ。。ステファンストーム教会っていうのがあるんですよ、ウィーンのどまん中に。その中心の教会の建材として運んだの。石灰は、切るときはやわらかいけど、風にあたって雨にあたると固くなるんです。採石法は今も当時のままで、それと同じことをここでやっているんですよ。その方法を踏襲して、我々は全部これ手で掘ったんですよ。ピッケルで。
加治屋:機械を使わずに。
坂上: 80メートルを手で掘ったんですか。
藤原:意地になったの。それ以外道具がない。電気もないしね。ほら、庄司君なんか細いでしょ。そんでね、腕時計がいっつも拳にあったの、それが仕事して飯喰って。そしたらだんだんだんだん時計が上がっていって、手の首にぎっしぎしになって止まった。彼帰ったら、「あ、ここまで下がった」って言ってましたけどね。元気だった。気持ちよかったですよ。真っ黒けになってね。そういう時期です。70年はほんとに僕はぎらぎらしてたなあ。
加治屋:許可は? 市の土地なんですかね。
藤原:個人の土地。この土地は個人のものです。大地主です。ハンガリーにもどっちにもこっちにも城を持っているっていう人の土地なんです。シンポジウムのプランテルさんが99年間使うっていう契約で(借りた)。
坂上:99年間の賃貸契約を結んだんですか。
藤原:そうそう。今はもうダメになった。この間(プランテルさんが)亡くなったでしょ。別のかたちになっていきますよね。この隣にいっぱい変なのができましてね。それも彫刻家の発案で。村でPassionsspiel(受難劇)っていうキリスト劇をやっていたんですよ。それを石切り場でやれって。そうしたら村の人たちがこれはいいって。この太陽のもとでやりはじめた。それがだんだん大きくなって、いまや2000ほどのジュラルミンの椅子ができて。そういうふうになってきて、周辺の雰囲気がだんだんダメになってきたんですよ。アイーダとかオペラ、夏にやるんですよ、そしたらね、小道具の象が遊びに来てね。この辺の石で遊んだり。2匹の象がね。
唐突なテーマですが、辻先生に、売れるものは作るなって言われたからさあ。
坂上:売れるものを作るな?
藤原:うーん。聞いてないでしょ、そんな。
坂上:売れるものを作るなって言われたら、そしたらどうやって食べていけるのって思いますよね。
藤原:そう。僕らもそう先生に言われて、先生は給料あるからいいよなって言ってたら、先生給料が3万円くらいしかなかったって。
坂上:(笑)
藤原:最低やったって。
坂上:あそこって、今でも給料安いですよ、先生。彫刻科も設備何もないし。
藤原:ないほうがいいですよ。面白い先生がきてくれたからね。
坂上:福嶋先生が彫刻科の先生になって、若手のおもしろい先生を引っ張ろうって思ってくれたみたいで、彫刻科におもしろい先生がけっこういっぱいいたんです。80年代に入ってからですけどね。福嶋先生が先生になって。そしたら素材とかにとらわれない作り方をする学生が彫刻科からどんどん出て来るようになって、いま芸大の彫刻の学生はいろいろ活躍してるんです。福嶋先生はいなくなっちゃいましたけど。
藤原:彼のおもしろいのは、あれ、JAXA(宇宙航空研究開発機構)ですか。宇宙の(プロジェクト)。あれおもしろいと思うね。彼はやっぱり鳥取人で、純朴で誠実で下手くそで不器用で、そういうところが出てきていますね。
坂上:いっつも学生を家に呼んで、魚釣りなんかも。銛もって潜って魚釣れたぞーとか。
藤原:2メートル大のタコも取ってたよ、あいつ。こうやってタコもって下まで足がついとるんで、あれ危なかった、怖かったって言ってたよ。
坂上:(笑)
藤原:僕はこうやって向こうに行ってしまって、しばらく仲間と近づきがなかったですけど、僕らのクラスってそれぞれ勝手なことやってますねえ。
坂上:あの学年、他の学年も活躍してるのかもしれないですけど、あの学年にずっと続けている人が多いです。
藤原:多いですね。
坂上:だから私も知ってるんです。
藤原:福嶋君のね、有機的な作品……
坂上:有機的…… 初期の作品ですか? 60年代?
藤原:いや、もうちょっと後。16でやってる。ギャラリーの中でやってた、あの変なお化け。
坂上:ああ、ぽわーんって。
藤原:あいつはすごいわ。ああいうの。
坂上:何て言うの、それと完璧にものを作りますよね。傷跡ひとつ残さない。
藤原:そう。気に入らない。人が手を入れると。彼のおうち、印刷屋さんですよね。あそこからきてると思う。明快にきちっとする技術っていうのは。学生時代にアルバイトで喫茶店の看板を作ったんですけどね。これなんか見たら、ああ、これ完璧やって。
坂上:福嶋先生がキャンバス張ってるときも、すっごい力でぐいぐいキャンバス張って、ズレひとつない。それを全部自分独りで張るんです。すごいなあって。サンクト・マルガレーテンって、それまではいろんな人が集まって石彫をしていたのに、このときは、この日本人の1グループだけだったんですか。
藤原:この次の71年にコラボレーションみたいなのありますよね、彼等が、「よし、またおもしろいことやろう」って、ミラノから吾妻兼次郎(あづま・けんじろう 1926-)さん、それからドイツ人と、クロアチアから4人5人集めて5人が共同制作と言いましたけども、コレはやっぱりダメでした。個人の仕事が5つ並んだだけ。僕らはよくできたなあと思いましたもん。やっぱりよくしゃべりましたもん。とことん。減算的でね。これじゃない、これじゃない、これじゃないって。ひとつの共通点に届くところがあるんですね。そういうふうに感じましたね。
加治屋:僕は歴史家なので、タイトルがどうしても気になるんです。つまんないことかもしれないですが。
藤原:おもしろい。
加治屋:このタイトルは。
藤原:「断すなわちこれ続く」でしょうねえ(笑)。
坂上:あれ? 今つけたの?
藤原:いやいや、ウィーンからね、新関大使がお酒の大関を持って訪ねてきてくれまして。ウィーンの大使館から3人くらい。大使が仕事を見て、次の日に色紙を持って来てくれた。そのときに「断すなわちこれ続く」って色紙に毛筆できれいに書いてあって。これをもらったときに、なるほどなあって思ったんですよ。
加治屋:「だん」っていうのは集まりの「団」?
藤原:いや、切るほう。これは、直線でずーっとやるんじゃなしに、点の集まり。
加治屋:ああ、そうか。「断」。
藤原:この次の71年にニュルンベルクでこれ(Symposion Urbanum Nuernberg)をやったんです。今度は7人入ったんです。(藤原信、山本哲三、広瀬孝夫、富樫一、中島修、大林義満、庄司達)2人ほど武蔵野(美術大学)を出た人が入ったんですよ。この武蔵野を出た人たち(中島、富樫)たちは考えが全然違いますからね。これは4日でできるって、そういう考え方なんですよ。ていうことは4日でやってしまおうっていう。僕らはそんな断定はできないですけど、そういう考えなんですよね。
坂上:武蔵美の人って、みんなミラノの大学に行ってませんでしたか。長沢(英俊)さんが行っていた関係もあるのかもしれないけど。武蔵美の彫刻の学生がミラノによく行って勉強していたから、ヨーロッパに結構、武蔵美の学生さんが。中島さんは……
藤原:ニュルンベルクはデューラー生誕500年記念で大きなシンポジウムやろうって計画があって、そういうときみんな応募して。500くらい応募があったらしいですけど、そこから30人ほど選ばれて、そのうちの7人だったの。僕らは共同制作で提案した。本当は5人でやるつもりだったんですけど、中島君たちが落ちたからこの中に入れろって。やっぱりそういう別の要素が入ってきますとね、どうしても難しいんですよ。石は彫れるんですけどね、対話がね。やっぱり対話っていうのが必要になってきますね、共同制作は。デューラー500周年のための彫刻シンポジウム。ニュルンベルクは大きな砂岩の山があるんですよ、お城の山が。僕は最初お城を考えていたんですよ。サンクト・マルガレーテンのオーストリアから山の上を溝がずーっと続いてくる。そしたら今度は主催者側が新しい場所を設けるからお前たちこっちでやってくれって。結局新興住宅のなかに造形することになってしまって。だからこのあたりがちょうど直線形を継承している感じなんです。
加治屋:これも作品?
藤原:これもそうです。これは橋なんです。中島君が主体になって提案したら、かたちが変わってきますね。この辺りも大きな石があって。教会の近くなんですけど、この辺りに大きな流れを持って来ようって。やっぱり共同体の仕事っていうのは難しいですね。それで今度は72年。三上浩っていう人で面白い仕事してたんです。夜中に石を叩いて写真を撮るという。夜中、暗いところでコンコン彫るんですよ。写真家と一緒になって。写真をどんどん撮って一枚に感光させる。そうすると、石がどんどん小さくなるプロセスが写るわけ。写るっていうのは火花で。ものすごい勢いで叩くんです。バンバンと。そうすると石がこれくらいあったのが、だんだん小さくなっていく。それが見えるわけさ。あれの炎で。いい作品ですよ。写真家と三上浩との共同制作。
加治屋:写真家は何ていうんですか。
藤原:達川清。
坂上:写真はたった一枚。
藤原:そう。いい作品です。
加治屋:長時間露光。
坂上:ああ、はいはい。
藤原:三上が東京のお宮さんでやっていたときにおもしろくなって。真っ暗な大きなスタジオでばーっと石を叩いてやってたことがあって。
坂上:このときも同じことを。
藤原:彼等、新婚旅行でドイツにやってきたんですよ。ガンで亡くなったんですけどね。いい作品ありますよ、写真の。これは全部達川さんが管理してるんですがね。
加治屋:捜してみます。
藤原:電話番号教えますから。
加治屋:これはそのときにつくったもの。
藤原:これは個人的な注文です。これが終わった時に東側、西側の作家40人がルーマニアでみんな集まったんです(注:プロジェクト・ウィーンシュテファンスプラッツ(Projekt Stephansplatz Wien)(1972—76年)のため)。
坂上:この頃どうやって食べていたんですか。
藤原:ねえ。不思議でしょう。僕もこの頃どうやって食べてたんだか。車は持ってますけどね。車でルーマニアまで走りましたもん、三上と。食うや食わずでやってたと思いますよ。これは石切り場で居候してますね。このあたりは。この工場に泊まってやってますからね。
加治屋:彫刻シンポジウムに参加すると、その間はご飯がある。
藤原:そうです。それから大体30万くらいはポケットマネーくれますからね。それで生き延びていけますね。僕らはまるまる30万で食べていけますけど、他の連中は家庭がありますからね。よくやれたなあって思ってますけどね。冬なんかが大変でね。零下20度くらいになりますから。大きな鉄工場のドアをぱっと開けたら(手が)ひっつく。ゆっくりはがさないと危ないです。皮がびゅーっと。洗濯もするしね。よくやったと思います。
加治屋:こちらも個人的につくられた、
藤原:そうですね。それでこれで……
加治屋:72年のシンポジウム。
藤原:ニュルンベルクのシンポジウム終わったとき、よく仕事しましたからね、プランテルさんが「信、金がないなら俺のところに来い」と。ウィーンに来いって。3ヶ月ほど彼の家に厄介になったんですよ。ずっとウィーンにいたんです。そのときに彼が、DAADって給付機関(Berliner Kuenstlerprogramm des DAAD)ですが、「それに応募してみい。金がないのだから」って。それで二人で西ベルリンの事務所に用紙を取りに行って。プランテルさんが全部書いてくれるんですよ。僕読めないから。「お前、ジョージ・リッキー知ってるよな」って。大阪万博で知ってるわけ。ティンゲリーとか、世界的な鉄鋼シンポジウムに参加した連中を。ベルリンで知ってる作家のことも書けって、彼が全部書いてくれて。僕が読めない他のことがあったら、領事館まで行って書いてくれてね。締切間際の12月でした。それで2月になったら通ったって連絡ありましてね。月30万ですよ。月30万の給費一年間。びっくりしたんですよ、ほんと。それは水井(康雄)さんも応募してるんです。パリから招かれた板菅井汲(すがい・くみ 1919-1996)さんは、イヤだ、あんなところ行くかって言って断って。そのとき100万だったんですよ。確かに西ベルリンですからね、雰囲気が怖いんです。それでドイツ政府が芸術文化で、感性が強い人たちを呼んで、ベルリンの状況を世界に知ってもらおうと、文学の小田実(おだ・まこと 1932-2007)さんもおられたしね。それから、井上武吉(いのうえ・ぶきち 1930—1997)さんもこられたしね。それから下谷千尋(しもたに・ちひろ 1934-)さん、作曲の石井真木(1936-2003)さんたちが。
坂上:みんなそれの給付金で来るんですか。
藤原:そうですね、給付金で。これは大きかったですよ。これをもらって僕は7月2日にベルリンに入って、机にある封書を開けたらね、明日の9時に集まれって。で、行ったんですよ。それで10人ほどで小型バスに乗って。そしたらお城でね。入ったらどっかで見たことあるなって思ったら、Bundespraesident、(連邦)大統領ですよ。(グスタフ・)ハイネマン(Gustav Walter Heinemann 1899‐1976)って。そこで荒川修作(あらかわ・しゅうさく 1936-2010)さんに会いましてねえ。作曲家では尹伊桑(Isang Yun ユン・イサン 1917-1995)さんに会いましたしね。品田雄吉(しなだ・ゆうきち 1930‐)さんですか、映画評論家の。彼は給付金はもらってないですけど、ちょうどベルリンの映画祭がありまして、クラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale 1938- 女優)とかも来ていたりね。そんなところでした。荒川さんは言ってましたね。「アメリカの大統領がこんなことやるって絶対ない」って。ここへ来た目的を言ってくれと言われて、僕はベルリンの彫刻家と知り合いになりたいって言ったら、夫人さんが、自分の名刺の裏にこの人を訪ねなさいって。ベルリンの紹介された人のところに行ってみたら、1週間のうちの30人。ベルリンの彫刻家のほとんど。政治家ってすごい。そのときに、ベルリンで…… ああこれか(Fujiwara, Stein und Makoto, pp. 86-87の '74 Projekt: Berliner Teufelsbergを見ながら)。2年後に、ベルリンのK19の作家と一緒に、マルガレーテンでやった作品を延長して大きな山の上に一直線に並べるという計画。プロジェクトで終わったんですけどね。20メートルおきくらいで作品並べるっていう。彫刻の道みたいな。
加治屋:(上記の計画をともに構想した)「K19」っていうのは。
藤原:彫刻家グループです。ベルリンの。その頃は、僕みたいに石だけ彫ってるって作家はいないですからね。コンペがあって応募すると、僕なんか有利でね。2つ3つすぐ取ってしまいましたよ。大きいやつ。だからハノーヴァーにも一軒家買いましたからね。そこ空いてますから、お見えになったときはどうぞ。ドイツに来たら是非。
加治屋:ありがとうございます。74年からベルリン芸術大学で教え始めたんですか。
藤原:ええ、僕はそこへ入るつもりはなかったんですけどね。
加治屋:どういう経緯で。
藤原:(アルノ・)ブレーカー(Arno Breker 1900-1991)っていうナチのときの彫刻家がいるんですよ。石の彫刻家ですけど。その人がベルリン・オリンピックの彫像、14メートルくらいの作品をつくって。大きなアトリエでね、下にレール、上にクレーンがついているくらいの。大きな石の作家です。そこの大きな部屋に住んでる、ハイリガー(Bernhard Heiliger 1915-1995)さんっていうベルリン美術大学の学部長が彼の教え子だったんです。その人が半分持ってるアトリエを8つに区切って、その中に僕が入れたわけです。彼と僕と隣同士で、わりあい親交ができて、「信、一回俺の学校見に来い」って。行ったらね、石の音がしない。石も何もない。まだドイツ語が十分できないですからね、こんなに大きな学校でスキャンダルだって言ったんですよ。長く続いている石の文化の国で、美術学校で、ものをつくる学校で、石をつくる教室がないって言ったら、お前やるかって。僕は読めない、書けない、話せない。アナルファファベット(Analphabet、文盲)だからダメだって言ったら、2、3日したら封筒が来てね、市から。給料20万渡すって。「そんなー」って。封筒を持って行って「僕、学校なんて入りたくない」って言ったんですよ。そうしたら、「いや、お前は石だけ彫っていたらいい」って。それがきっかけですよ。そうして庭で、教室で――何もないですよ――そこでただ石をコンコンコンコン叩いていたんですよ。音がするんですよ。コンコンって。これは心臓の音なんですよ。コンコンって。半年、一年くらい経ったら学生が近寄って来た。その頃の若い人たちは、パンカーって言うんですか、髪の毛立てて、こんなんして。そういう連中が寄って来るわけ。僕がサインしたら、聴講生になれるって。そうすると、彼ら、絵描かんでいいし、安くなるし、それで30人くらい入ったんですよ、僕のところに。それでみんなにノミとハンマーを買えと。石をもってこいと。みんな、石をそこら中から、道路の石をひっぱぎって持って来るでしょう。一時は30人くらいコンコンコンコンやかましいくらい。それで石の教室が立ち上がって。そういうことがありました。
坂上:それは70年代。
加治屋:74年くらい。
藤原:それからベルリンの壁が落ちるまで僕いましたもん。
加治屋:74年から88年と書いてありますね。
藤原:僕はコンペでポケットいっぱいになってましたんでね。ノルウェーをちょうど見つけましてね。ノルウェーに行くつもりで、行こうと思っていた矢先に、ハノーヴァーへ来いっていう話が来た。試験も受けたんですよ。その試験もね、3、40人受けたんですけど、5人が選ばれて。その5人がいろいろ発表するんです。僕はこんなところ来るつもりないですから。でも、いっぱいいるんですよ、講堂にね。学生、それから市民の人まで。そこで作品を写して発表したんです。教育大学出た連中が来てますからね。学生と話をして、プロジェクトとか計画とか(説明している)。僕の場合はあんまり入りたくないんで、石彫家っていうのは石を彫らなきゃだめだって。とにかくコンコンコンコンってそれだけだって言ったらみんな笑ってたんですけど、そしたら、僕、通ってしまった。そういうことで結局あそこに入ってしまって。
加治屋:ノルウェーに行こうと思ったのは、ベルリンの時に考えて……
藤原:1982年のコンペの作品が通ったんで、材料を探しにノルウェーに行ったときにとんでもないもの見つけてしまった。あれはとんでもないです。
坂上:シンポジウムはずっと続いているんですか。
藤原:85年来続いてますね。かたちを変えて。日本では、公が……
坂上:宇部とか。
藤原:宇部ですね。シンポジウムじゃないです、あれは。宇部はやってません。あれは展覧会です。ちょうど小豆島みたいなかたち。好きな連中が集まって何かしようっていう。霧ヶ峰とか、そこら中にあるのはね、2週間とか3週間とかだけで石をっていう、そういうような試み。あれは公のアリバイですよ、文化事業の。
坂上:今でもありますか。
藤原:そこらじゅうありますよ。
坂上:プランテルさんのシンポジウム。
藤原:かたちを変えていきますね。いわゆる地方公共団体っていうのが……
坂上:乗ってきたっていうことですか。
藤原:そう。アリバイですよ。文化事業の。子供たちをだーっと集めて一緒に仕事なんかしたりして。あれは作家が可哀想ですよ。
加治屋:プランテルさんの彫刻シンポジウムはもっと長い期間なんですか。
藤原:2ヶ月とか3ヶ月とか。
加治屋:ああ、そんなに……
藤原:だからしっかりしてますよ。石も。作家の夢みたいなものですから。
坂上:コンペみたいなものがあって当落を決めるのはプランテルさん?
藤原:そんなのないです。
坂上:幹部とかいる?
藤原:そんなのはないです。京都美大で堀内先生が酔っぱらって、誰が生徒か先生かってみんなが大喜びして。それですよね。そういう気持ちを持った連中が一緒に飯を食べて飲んで作品を作る。喧嘩もしますしね。
坂上:石彫だったシンポジウムがだんだん……
藤原:そう。最初は絵描きさんのシンポジウムもあったんですよ。ところが絵描きさんはやっぱり違うでしょ。この石を一緒に動かそうって、「おーい」って言ったらみんなわーって来る。それがないでしょ。だから難しいですよ。
坂上:コラボレーションっていう概念があんまりない。
藤原:ないでしょ。そこから違う。
坂上:プランテルさんのものも姿を変えていろいろなところでやるけれど、プランテルさんはオルガナイザーとしてシンポジウムを続けたんですか。
藤原:最初はそういうところがありましたね。それで、僕はこれをしゃべりたいんだけど、インダストリー。インダストリーの中に入ろうって。作家はお金ないですもん。インダストリーって、あるものをどんどん生産していくだけでしょう。ところが作家がそんなかに入るとがらりと変わることがあるんですよ。
坂上:作家は、少なくともお金を大量に生み出すことにはなりにくいですね。
藤原:作家ってお金ないですからね。インダストリーは僕らの世界じゃないですけど、そういう意味で、会社とか、ああいうところに作家が入ったらおもしろいことができますよと。そういうところに興味をもってきた。
坂上:プランテルさん自身は手を引く?
藤原:いや、本当は夢をもってましたね。本当は、最初の一回だけで終わっても良かったんですけどね。今度は仲間の連中がやろうやろうって。シンポジウムで育った作家っていうのは多いですよ。だけどそれはギャラリーに通じませんからねえ。食えないんですよ。それとヴォトルバが言った「ツーリストの遊び」。そういう言い方ですからね。「クオリティと遊び」(の両立)というのはない(という考え)。参加して一緒に汗を流して。「原始共同体」って飯田善國さんが言ってましたけどね。
加治屋:シンポジウムは萩でもやったんですね。
藤原:萩でもやりましたね。萩では、市と一緒になって作家たちがプロジェクトを組んで。石の彫れる奴、それからプランを書ける奴、そういう人たちと一緒になって大きな壁をつくったりね。
加治屋:それはいつぐらいですか。
藤原:もう20年くらい前ですかね、萩のシンポジウムは。
加治屋:90年くらいですかね。
藤原:もうちょっと前でしょう。
加治屋:80年代。ご参加は?
藤原:僕はしてないです。訪ねて行きました。
坂上:プランテルさんとも関係ないんですよね。
藤原:シンポジウムって名前は、60年代にはなかったんですよ。彫刻家しか。だけど年とともに歯医者さんのシンポジウムとかね……
坂上:でも、野外の前衛運動の岐阜アンパンとか、そういうのでもシンポジウムって言っていて。評論家がいて作家がいて、ディスカッションしたりとか。
藤原:僕らの場合は石をまんなかにして。作家はしゃべらないでも分かりますからね、態度で。言葉は通じなくてもワインと石があれば、ワクワクしてきますよ。青空があって。
坂上:シンポジウムっていうのは、ひとつの「坂上しのぶさん」みたいな名前になってるんですか(注:シンポジウムという名称が、固有名称になっているのか?の意)。
藤原:ギャラリーなんか絶対見向きもしませんよ。あんなの売れるかって。みんな素人集団みたいに言われて。
加治屋:アメリカでもあったんですか。シンポジウムって。
藤原:もう世界中にいくつもあります。ベルモントで1968年にありました。
加治屋:石の作品を作って、それが例えば公園になったりする場合もあった。
藤原:あります。僕の場合は今インダストリーと一緒になって仕事していますから。インダストリーがお金払う。作家はお金ないでしょう。石は何億トンって塊がある。そこへ何人か来て一緒に仕事して、売れたら石切り場から出る。そのときにお金払うんですけど、たいてい売れないです。それがいっぱい残っているんです。ボスが土地を借りてくれましたんで。作品は作家に帰属するけど、もし売れたら会社にお金を払うって。ずっと費用かかってますからね。ノルウェーの石切り場に、今もう20点くらい4メートル、5メートルの作品があって、彫刻公園になっています。あれはこれからどうなんのかなあって思うんですけど。そういうのを見に来ていただくと話のきっかけができていく。
坂上: 60年代は、「態度がかたちになるとき」(1969年)とか、パリビ(エンナーレ)でも、紙切れ一枚がアートになっていくとか、物質、ものが無くなっていく歴史みたいなのを(私たちは)学んできた。
藤原:僕は知りません。そんなものは。
坂上:ただ、そういうのはあくまでもひとつの道であって。石彫は石彫で残っていて、鉄は鉄で残っていてという歴史もあるのかなと。
藤原:美術の流れとしてはいろいろあったでしょう。だけど、僕なんかいまだに石切り場にいますからね。汗流して。あそこにどんどん来てますね。土居(大祐)君っていうのは……
加治屋:ああ、留学していた土居大祐君。うちの大学の卒業生ですね。
藤原:零下20度、25度のところでね、今年の2月なんですよ。7、8人集まってね、石を彫ったり勝手なことばっかりやりましたよ。おもしろがってやってる。だから30才まで、学校出てすぐで夢があるから。あとは60才から。30から60までは抜いてしまう。それが理想的ですよ。
加治屋:抜いてしまうのはなぜ?
藤原:家庭もって子供ができるでしょう。そうしたら餌を取りに行かなきゃならん。そういうことがやっぱりね。30までっていうのは夢がいっぱいあるんですよ。それで、何でも仕事しておいて、60からだいたい自分のやりたい方向が見えてくるので、その人たちと一緒に。そうすると新しい人たちが60以上の人たちも見えるわけですよ。僕らも若い連中とやると楽しいんですよ。この考え、ちょっと荒っぽいですけど。
加治屋:分かる感じがしますね。
藤原:だから本当に石が助けてくれます。僕らの場合は。
加治屋:この大学との交流のことを伺ってよろしいですか。藤原先生がいらっしゃったハノーヴァー専科大学は、私が今勤務している広島市立大学と交換留学制度があります。それで、ずいぶんハノーヴァーの学生もうちに来て、うちの学生もかなり行って、交流が進んでいると思うんですけども、どういうきっかけで交流が始まったんですか。
藤原:そうですね。ハノーヴァーと広島っていうのは姉妹都市ですね。そして25年か30周年かなんかだと思いますけど、広島市立大学の初代の田中隆荘学長が来られて視察された。そのとき僕もご案内したんですけど、南(昌伸)先生もご一緒だったですね。そういうところから、交換したほうがいいんじゃないかという話があったのかどうか、僕ちょっと記憶がないんですけど。そしたら前川(義春)先生が来られまして。彼も石を彫っている、僕も石を彫っている、そういうところで共通の話題があって、それで交換の話が出たんじゃないかと思います。今では記憶にないんですけどね。今までで、おそらく100人はオーヴァーしてると思いますけど、広島の学生がドイツに来て、向こうにとどまって仕事をしようとしている人たちも多いでしょう。それから70人以上のドイツ人が日本へやって来て、いろいろ体験して、彼女彼氏が出来たって。そういうのがかたちを動かないものにしていってますよね。それはやってよかったなと思いますよ。それと僕自身にとっても本当に楽しい。
加治屋:そうですかー。
藤原:ありがたいことだと思います。
加治屋:ハノーヴァーは確か……
藤原:芸術学部がなくなってしまってもう6年。これはちょっと乱暴でしたね。200年続いた手仕事をする学校で、ドイツで一番古いんですけど、それを政治家、おそらくひとりの政治家でしょう、そういうことを言い出した。これに僕は腹立ちましたね。僕は9月に任期を終えたんですけど、終えて、ちょうど夏休みの間、9月10日くらいに発表した。芸術学部をやめよう、デザインだけ残そうと。夏休みですから誰もいないです。戦略的にこういうことをやった。これは大変ひどかった。
交換留学は、日本が俯瞰できるようになる、それから世界が俯瞰できるようになるという大きな気分を持っていると思います。大事な問題だと思います。やってよかったと思いますね。