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福岡道雄オーラル・ヒストリー 2013年2月1日

河内長野市 福岡道雄仕事場にて
インタヴュアー:江上ゆか、鈴木慈子
同席者:谷森ゆかり
書き起こし:永田典子
公開日:2014年4月19日
 

江上:前回、お生まれになってから彫刻家としての活動を始められて、最初は横に広がるようなものを作っておられたのが、次第に立ち上がって、それがピンクの色になって飛んでいくという。それからそのあと、風景の彫刻へと移り変わるところまでお聞きしたんですけれども。最初、いわば、それまでの彫刻にはないようなあり方とか形とか、そういったものを作られていた。それがある時から、いわゆる風景彫刻と呼ばれるようなものになっていった。前回お聞きしたのが、74年の信濃橋画廊の個展(「福岡道雄展—無言」10月21日—11月2日)ですよね。現代美術にある意味「あっかんべえ」をするようなかたちで、気持ちで、この風景の彫刻を作られた。ただその時は、目の前にあるものを作られたというようなことをおっしゃっていたかと思うんですけど。

福岡:風景彫刻を作ろうという意識は、自分には全くなかったわけです。実際、風景を作ってるわけですけども、風景というものは頭になくて、ただ目の前にあるものを日記でもつけるように作ろうと。その時に、結構勇気がいったんです。というのは具象で彫刻とか絵画を作るということは、その当時ご法度というか、考えられないことだったというのか。彫刻も絵画も抽象がメインであって、まして具象の、人物が出てきたり、そういうのは現代美術の世界にはなかったわけです。そんな意味で、僕は今までの現代美術から全く目をそらして、こっちでもう勝手な事をしようと。ある意味ではちょっと負け犬みたいな気持がありましたね、現代美術からおさらばして。そのかわり、今まで頭で考えていたことが、どっちかというと手を動かさないと出来ない仕事になってきて、結局、彫刻家になりたかったという一番初期の、ものを作る楽しみみたいなものは、これを作り出して、あって。とにかくしばらく、2年ぐらいは、むしろ面白いというか、あれ作ったら次はこれ作ろう、あれができたら今度はあれしようとか、次から次から作るものがあって。作る面白さというか、仕事場に入る、若い時に描いていた彫刻家という姿になれてたのと違うかなと、今だったらそう思えるんですけどもね。その時はそういう考えがあったかどうか、ちょっと今、自分では分からないですけども。それで第1回の個展をした時に(注:1974年に行った風景彫刻の個展)、正直、僕はあんまり、自分で作ったものだからどうでもよかったけども、「えらいもん作りよったなあ」「こんなんありか」というような感じで受け取られた人もかなりいましたね。

江上:それはどういう人ですか。それは作家さんですか、それとも評論家さんですか。

福岡:作家でもいましたね、「こんなんありか」と。

江上:それはさっきおっしゃっていた、現代美術が、むしろそういう具象的な表現はない、という反応ということでしょうか。

福岡:そうでしょうね。それからしばらくして、具象もありだというか、何でもありっていう、それが別に普通になってきましたね。

江上:日記を作るように風景を作られたということで、たぶんご自身の中でもすごく大きな転換だったと思うんですけれど、一方で黒一色のFRPというのはそれ以前の表現とつながってはいるんですよね。

福岡:そうです。(最初の)黒の時に、どうしようって、それはピンクを打ち消すために黒にしたんですけど。黒しかないと、その延長なんですけども。その(風景彫刻の)個展の入り口に、僕は周りも見ない、何にも言わないと、そういう意味の象徴的な、看板的な作品が《僕の顔》という、ボーンと入り口に出して、《釣りをする》とか何点か並べたんですけども。

江上:見えた風景を写すということだったんですけれども、例えば《釣りをする》なんかでも人物が出てきますね。これは、「見えた」とおっしゃってるけど、ひょっとしたら福岡さんご自身なんでしょうか。

福岡:自分で自分を見ているわけですけども、その時に、「今日は釣りをしました」というのは、やっぱし釣りをする姿を入れないと釣りにならないわけですね。

江上:そうですね、まさに(笑)。

福岡:それと、どうしても小さくしないと景色が作れないわけですよ。池を作ろうと思ったり後ろの木を作ろうと思ったら、自分を小さくしないといけない。その大きさをその当時、7センチ5ミリにしたんですけども、立った大きさが。

江上:決めていらしたんですか、それは。7センチ5ミリというのは。

福岡:決めたわけじゃないけど、この位がちょうどいいだろうと。これ以上大きくしたら、自分の顔みたいなものも作らんといけなくなるし、それもなんとなく奇妙だし難しいなと。自分も嫌だから。そうかといって、もっと小さくしてしまったら、今度は何か分からないというか、作れないというか。作る大きさはこのくらいだろうなと、作っている経験からその大きさに決めて、しばらくはだいたいその大きさにしてました。

江上:いわゆる風景のシリーズが続いていって、そのうち波だけになった作品が出てくる、これは意外と早いんですね、風景が波だけになるというのは。

福岡:最初の(風景彫刻の)個展に1つ出したかもしれません。

江上:ああ、そうですか。例えば日記であれば、木があったり人があったりということなんですけれど、この波だけになると、見ている側としては印象がかなり違ってくると思うんですけれども。

福岡:人物を作っている間に、自分で自分の姿を作るって、なんかあんまり面白くないというか。それと、だんだん「なくなって」きたわけですよね。さりげなく作ろうという自分が何かをしないといけないという、そこまでして作りたくない。一番最初に作った《釣りをする》の時でも、水の表情というのか、そんなのは作りたいなとは思ってたけれど、釣りをするとなったら何かがいるなということで。波だけというのはかなり最初から頭の中にはありましたね。その上(の風景)は、ある意味ではいつも見ている僕の日記というか、僕なりの表情なんですけども、「何もない」というのは、また最初の具象から少しこっちに離れてしまって、むしろ抽象的なものに見られるというか、見られがちというか。

江上:実際そういう反響はありました?

福岡:そっちのほうが人気がありましたね。何もないっていうか、よく見たら波があると。

江上:でもちょっと並行して作ってらっしゃるんですよね、そういう波だけのものと人物が登場するもの。そうでもないんでしょうか。

福岡:そうです、そうです。毎年個展をしてたかなぁ。そのあたりからだいたい毎年個展をしていて。その前まではだいたい3年か4年に1回くらいのペースで個展をしてたんですけども。

江上:そうですね、ちょうど東京画廊で個展をされるのもこの頃ですよね(1976年3月15日—31日)。

福岡:そうです。東京画廊も、前、言ったかどうか忘れましたけど、最初に個展をしないかと言われたのは随分前で、この時期になった時にしようと山本(孝)さんが決められて。「これやったらひょっとしたら売れるかもしれない」と思ったんでしょうね。

江上:この頃、結構いろんなことがあったようで、年譜を拝見していると。1977年に「現代美術の鳥瞰」展(8月27日—9月25日、京都国立近代美術館)の、これ「出品拒否」と言っていいんでしょうか。

福岡:あれは僕もちょっと若気の至りもあったような気がするんですけども、僕が一番にらまれてしまって(註:出品拒否したのは福岡のほか、村岡三郎、河口龍夫、小清水漸の4人)。松本正司さんという彫刻家がいて、家元の人ですけども。その人が世話をしている、ちょっと名前が出てこない、何とか実行委員。

江上:「現代の造形展」ではなくて?

福岡:「現代の造形展」でしたかね。その時に京都の近代美術館から、作家を「君たちで選んでくれ」という話がこっちに依頼されて、その時に「そしたら選ぼう」ということで、自分たちでかなり選んだんです。タイトルもある程度、候補に挙げていろいろ作ったりしてたんですけど、それが決まってみたら全然違う、「鳥瞰展」という名前なのと、僕たちが選んでいたこれと思う作家がみんな切られてしまってて、ないわけですよ。そんなので揉めだしたんです、最初は。

江上:ああ、なるほど。今、ご記憶がもしかするとちょっと曖昧かもしれないんですけれども、元々あった「現代の造形」というほうは、作家さん同士で集まった集まりだったんですか。

福岡:そうです。

江上:どういう集まりだったんでしょう。

福岡:僕なんかはどっちかというと誘われたほうですけど、さっき言った松本正司さんという人が中心になって、どっちかというと彫刻とか絵画じゃなくて、映像をメインにしたグループというか、お互いに誘い合った、15、6人いましたかね。京都の人が半分くらいいたと思うんですけど。

江上:実はこの時、冊子のようなものを出されていますよね。冊子というか報告書のようなものを、ドキュメントとして。刷り物というか。

福岡:揉めたあれですよね。

江上:はい、揉められたほうの経緯を。今回お預かりした信濃橋画廊の資料の中に、手書きで校正を入れた原稿がありまして。

福岡:ああ、そうですか。どんな内容だったか、ちょっと覚えてないですけど。今から思ったら別にたいした事ないんでしょうけど、なんかお互いにムキになってしまったんですね。美術館のほうもムキになってしまって、こじれてしまって。一つは美術館のほうも、展覧会はしたいけども普段からいろいろ回ったりしていないから、どういう作家がどういう作品を作っているかご存じないわけですよね。だから何かしたいけれども、結局僕らに頼ってきたというか。本来は、それはおかしいと思うんですよ。こっちもおかしいし、馴れ合いというかね。あるいはもっと議論をし合って展覧会をこしらえていくのであれば、それはまたそれで分かるんですけども、それと話が、知らん間にそういう風な展覧会になってしまったんです。その中で松本正司さんが美術館側についたというか、妥協してしまったというところがあって、それをまた僕らが怒ったわけです。それで話がこじれてしまって、どんどん大きくなって、京都新聞なんかも2ページくらいを割いて特集で座談会なんかをやったりして。どっちもムキになって、美術館のほうもそれで困ってしまって(注:毎日新聞1977年9月1日付夕刊の5面に4人の意見が座談会形式で、同9月10日付夕刊の5面に美術館と松本氏ら出品作家の意見がそれぞれ掲載された)。

江上:背景として、その頃、美術館であまり現代美術を扱う展覧会が少なかったということはあるんでしょうか。

福岡:展覧会は、そうでもなかったですね。毎年1回くらいはありましたね。

江上:京都の国立近代美術館で。

福岡:はい。京都の国立も、「動向展」(「現代美術の動向展」)以来、結構「動向展」が人気があって、作家のほうもそこに選ばれるのが若い作家の一つの目的みたいになって、それは「アート・ナウ」(注:兵庫県立近代美術館、アニュアル展としては1974−1988年に開催)にもありましたけれども。全国的にそういう展覧会がいくつかありましたね。だから売れっ子の人は毎年3つか4つ展覧会があって。今みたいに何もないというのではなかったですね。

江上:今のほうがないですか(笑)。

福岡:ないですね、かえって。画廊もなくなってしまったというか、特に関西の場合。

江上:当時のことに戻りますと、1977年って、福岡さんは中原悌二郎賞の優秀賞も受賞されていたり。あと、関西女子美術短期大学に教えに行かれたのも、ちょうどこの年みたいなんですけれども。

福岡:中原悌二郎賞と関西女子美はあんまり関係ないと思うんですけども、まあ、それまで僕、子どもに絵を教えていたんです。二十何年教えていましたかね。そしたら、それまで「にいちゃん、にいちゃん」と小さい子が言ってくれてたのが、いつしか「おっちゃん、おっちゃん」と言い出して、そのあたりから子どもがうるさくなったというか、嫌になりましてね。ちょうどその時に村岡三郎さんが、自分が滋賀大に行くから代わりに来てくれ、来ないかという話があって。僕は「嫌だ、嫌だ」と断ってたんですよ。そしたらそこの理事長が、逃げる人を追っかけたいんです。

江上:あはは(笑)。

福岡:いくらでもよそから売り込みはあるんですが、そういう人は敬遠して、「嫌だ」という人を。「来い」というのを「嫌だ」という人はあまりいないらしくて。で、やっと行く気になって。42歳か3歳くらいだったと思いますけども、今から考えたら大学の先生になるにはちょうどいい年齢かな、と。今の若い人にもよく言うんだけども、40過ぎてからだったら、そこで一遍ひと仕事して、それからだったらなんとかつぶしが利くけども、一番いい時期を大学にとられてしまうのはもったいないなあと。今でも思いますけどね、ほかの人を見てて。それと、かなり自由な雰囲気だったのに、どこの大学もだんだん厳しくなって。僕の行った時はそこの大学も、大学でしたけども好き勝手できたんですよ。

江上:彫刻を教えるというお立場だったんですか。

福岡:そうです。その時は彫刻で、7人募集してましたかね。だんだん彫刻が人気がなくなって減って、3人になって、最後は1人だったんです。その時にだいぶ怒ったんですけど、1人じゃどうしようもないからと。応募してきてくれる人もいたから、「どうしてもこの人を取りたい」と言ったけど、「いやあ」と。そういうことも全部理事長が決めるわけです、そういう大学で。1人の時がありました。その次はもう彫刻もなくなってしまって、結局、絵画と彫刻が一緒になってしまって、絵画・彫刻コースになって。僕はそのまま、どっちも教えてましたけども。

江上:切り替わったのはいつ頃ですか、一緒になってしまったのは。

福岡:いつ頃になるかな。最後の5、6年は絵画・彫刻コースだったと思うんですけども。谷森(ゆかり)なんかが入った時は、絵画・彫刻コースで入ってきた。だから両方やっているわけです。

江上:40代に入ってから、言ってみればちょうど二十歳くらいの学生さんになるわけですかね、に接するわけですね。

福岡:そうですね。18から20歳。

江上:そのことが何かご自身に与えた刺激とか影響はありましたか。

福岡:刺激はあまりなかったですね。ただ、僕はほとんど自分の仕事をしてましたから。だから「あの先生はいつも作品を作ってる」という印象は学生たちに与えたと思いますね。だから、ものづくりをする作家というか、そういうのになった学生たちは、僕を見て何かを学んだかもしれません。いわゆる作家先生ですよね。大学には作家先生も要るけども、そうじゃない先生が絶対要るような気がしますね。

江上:ああ、そうですか。

福岡:高校の先生とか中学の先生みたいに。そういう先生が絶対要るような気がします。いわゆる教える事はするけども、自分は作ってないという。
 だんだん厳しくなって。それまではほんとに自分の仕事をしてたらいいというか、大昔はそうだったらしいですね、東京美術学校あたりでも。あれは誰だったかなあ、大学の先生断ったの。「嫌だ、嫌だ」言ってね、平櫛田中だったかしら。「いや、もう教室で作っててくれたらいいんだから」ってね、そういう時代があったんですけど、だんだんそれがなくなってしまって。
 さっき言ったように、高校みたいな先生と、それと、どこか違うところから来ないとだめみたいですね、大学は。京都なんかはみんな京都芸大の出身者ですね。よそからはなかなか入れない。(よそから)入った時に割といろんな作家がひょっと出るんですよね。小清水(漸)が京都に入った時は、それでも(最初は)彫刻には入れないんです、構想設計という関根(勢之助)さんのところ、たしかそっちに入って。大学の先生の話でついでに言ったら、僕も大阪芸大の泉(茂)さんから来ないかと言われて、関西女子美に入っていた時ですけども。誘われたんですけども、向こうは理事会で決めるらしいんです、教授は関係なくて。で、駄目だった。二遍、駄目だった。もう一遍、今度するとか言ってたんですけど、「もう結構です」といって。そのうち泉さんが亡くなられて。5年いましたかね、非常勤で。それで帰ってきた。京都芸大の時も野崎一良という彫刻の先生がおられて、その人が辞める時に僕を推薦してくれて、その時も2票差でだめだったと。それは教授会で決めるんです。どこが反対しているんだといったら、彫刻室が反対してるって。彫刻の専任が3人いましたかね。小清水がだいぶあれしてくれたんですけども、2年、次の年もだめだって。本当は僕じゃなくても、よそのとこからきゅっと入れたら、そもそも何か違うんですね。あれは不思議ですね。

江上:作品なり、作品のご発表歴の話に戻りますけれども、79年に大阪の府民ギャラリーで大きな展覧会をされますよね(「今日の作家シリーズ3 福岡道雄の世界」1月5日—1月20日)。それまでの作品をかなりまとめて、この時は展示されたんですよね。

福岡:その時は高橋さんが館長でしたかね。

江上:高橋亨さん。

福岡:ええ、高橋亨さん。そういうお話があって、最初は森口宏一さんと二人展をしてくれという話だったんですよ。僕、「嫌だ」って言ったんです。

江上:二人展は嫌だと。

福岡:「二人展は嫌だ、するんだったら一人でしたい」と、そしたら「一人でしてくれ」ということと、それと、ちょうどお正月明けだったんで、もう少し日がほしいと。それでたしか、ちょっと早く始めたと思います、5日ほど。いつもよりも期間が長くて、一人でできて、その時に今まであるものをだいぶ並べたんですけどね。ちょっと回顧展みたいな感じになってましたね。

江上:回顧展のようなかたちでしたいから、一人で、かつ長い期間でということだったんですか。

福岡:回顧展というかたちは言ってなかった。それくらい並べんと、結構広かったし。ちょっと並べすぎたような気もしますけども。

江上:ある程度それまでの作品をまとめてご覧になって、どうだったかとか、そういうことはご記憶はおありですか。

福岡:回顧展をするのが少し早いんじゃないかという人はいましたね。峯村(敏明)さんでしたかね。僕としたらそうじゃなくて、40から50代で一度そういう展覧会をしてもらって、それでもう一度、晩年にしてもらうことが理想だと、今でも思っているんです。

江上:それはなぜでしょう。

福岡:というのは、区切りみたいなものがあって。最初の回顧展の時に、その人の言いたいことがだいたい言えていて、後はおまけみたいなもので。世界が、日本画みたいなんだったら、ちょっと僕、分からないですけど、僕らの世界というのはおまけみたいなもので、何か区切りが一つほしいんです、50年あったら50年の間に。50年というのはちょっと長すぎるというのか、二つか三つぐらいにポンと区切れたら一番いいのかなと。

江上:そういう意味でもいいタイミングだったんですね、これは。

福岡:今だからそう言えるんですけど、その時はそんなことはあんまり思ってなかったですけどね。二人展を断ったのは、森口さんとはあまりにも違いすぎたので。

江上:作品が違いすぎるから。

福岡:作品も違うし、作り方も違うし、勿論ものの考え方も違うし。僕より一世代上の人は、まあ時代がそうだったんでしょうけども、たいてい皆どっかの団体展の会員なんです。それが僕は無性に腹が立って。3つぐらい違うんですけども(注:森口は福岡の6歳上で、行動展への出品は1953年から。1968年に退会)。でも、その人たちにしてみたらそれはごく当たり前のことで。僕たちの作っている原動力は反・団体なんです。

江上:昨日、博多に行って展覧会(「福岡現代美術クロニクル1970−2000」福岡市美術館・福岡県立美術館、2013年1月5日−2月11日)見た時も思ったんですけど、当時はやはり団体の存在感というのが、今からはちょっと想像できないぐらい強かったですよね。

福岡:強かったですね。中にはすごくいい人もいて、「ああ、この人団体展でなかったら、すごい作家になっただろうな」という人は何人か思い浮かびますけどね。まあ、その人たちにしてみたらそれはごく普通のことで。中にはいい人もいました。でもどうしようもない人もいてたし。内に入ってしまったらもっといろいろどろどろした嫌なこともきっとあっただろうしね。女の人なんか特に必ず嫌な目にあってるわけですよ。そんなこともありましたね。ちょうど僕らの世代から、そういうのを抜きにして美術家としてやっていけるっていうか、それは大学に入った人も、東京の連中もそうでしたね。
 東京には「読売アンデパンダン」というのがあったわけで。大阪にも、関西の京都にもアンデパンダンがあったんですけど、僕はアンデパンダンは一回も出したことがないです。アンデパンダンも嫌だったんです。誰でも出せるというのは、すごく良いようで、プロの人も素人の人も一緒になるのがすごく抵抗があった。だから一回も出してない。

江上:1979年に大きなまとまった展覧会をされて、ファイルを拝見していると80年代の初め頃は、波であるとか、波の表面と石であるとか、人物の姿がないタイプのものをかなり集中的に作られてたんですかね、この時期は。

福岡:自分でも「もうそろそろこれはやめないといけないな」とは思ってたんです、途中で。でもやめて、空白がすごく怖くてね。若い時だったら何とか乗り切れたんでしょうけども。ちょっと無理やりひっぱったというか、無理に作ってきたところはありますね、なるべく引き伸ばそうと。次の何かが出てくるまで我慢しようというようなところがあって。風景彫刻は結構長いこと作ってたと思うんです。

江上:ちょうどこの80年代の最初は、サンパウロ・ビエンナーレにも出品されてますよね(1981年10月16日−12月20日)。

福岡:はい。

江上:サンパウロはコミッショナーが三木(多聞)さんでしたか。

福岡:コミッショナーは三木さんでしたね。その時にかなり大きな「波」を作ったんですけども、それが運送代の都合で「駄目だ」と言われて。

江上:そうなんですか。

福岡:「駄目だ」と言われたんだけど、そのお披露目みたいなのかたちの展覧会が東京画廊の個展の時にあって、その作品だけがどうしても入らなかったんです。

江上:東京画廊にも入らなかったんですか。

福岡:はい。角がどうしても入らなかった、ほんの少しらしいんですけど。それもあって、それも駄目になって、そんなんで、せっかく選ばれたのに、もう行かなかったんです。

江上:サンパウロに。

福岡:ほかの人はみんな行ったらしいんですけどね(注:他には菅木志雄、村上友晴が出品)。行かなくって、がっかりしてしまって。まあ小さいのだけ行ったんですけど。

江上:その「波」の作品はちなみに今どこに。その後どこかで発表されたんですか。

福岡:それが、長いこと、ここにおいてあったのが、あれはなんであそこに入ったのかしら、京都の美術館に入っているんです。

江上:京都の国立近代美術館。

福岡:いや。

江上:市の美術館ですか。

福岡:国立のほうはさっきの事件以来、全くだめで。市の美術館に、木村光佑と二人展があって、その時に出して、そのままその作品がそこに。

江上:なるほど、なるほど。

鈴木:何年やったんですかね、1993年? 大きいのは京都市の美術館の木村さんとの二人展に出されて、そのまま収蔵されたんですね。

福岡:そうです。

江上:そうですね、93年ですね(注:「昨日・きょう・明日 木村光佑・福岡道雄」1月27日−2月21日)。じゃあもう10年以上。

鈴木:それ以来、そういう大きいのは作られてないんですか。その大きさのは、ほかには? 

福岡:大きなのはね…… 何と言うかしら、もうあまり作りたくなかったんです、「波」もね。一時はこう目をつぶったら、いろんな波の表情が浮かびましたけど、だんだん作れなくなってしまって。また、作れなくなったら、作ることも面白くなくなるし。あ、それを山村(德太郎)さんが買いたいといって、ここに来たんです。

江上:その大きな「波」ですか。

福岡:うん。それでオーケーになって。それは、信濃橋画廊を通してですけれど。山口(勝子)さんと一緒に山村さんがここに来られて、話が決まって、一ヶ月後に亡くなられたんです。それで、もう作品は持って行ってしまってたんです。

江上:ああ。

福岡:あれは国際美術館が預かってたんですかね。

江上:そうですね、国際が(注:山村氏のコレクションは国立国際美術館で1985年4月20日に開催された「山村コレクション研究会」の後しばらく同館に保管されていたが、福岡道雄作品はこの「研究会」には展示されていない)。

福岡:お返ししたいということで話が来て、「さあ、どうしよう」いうて、結局返してもらったんです。だから結構いわく付きの作品なんです。

江上:そうですね(笑)。もしかすると。

福岡:山村美術館(注:山村コレクションの意)に入ってたら、兵庫に入っていたかもしれないですね(注:「山村コレクション」は1988年度、兵庫県立近代美術館に一括収蔵された)。

江上:そうですね、そういうことですよね(笑)。

鈴木:なんと(笑)。

江上:なんと、不思議な運命の。

福岡:今から思ったら、山村さんも、なんかそういうのを自覚しておられたみたいで、最後の一年間、意識的に大きな作品を無理に集める、だから松井紫朗とかあの辺まで。それでお金を払うまでに亡くなってしまって、家族の方が、そういうのがきっと沢山あったんたんでしょうね、東京画廊の松本さんに依頼されたんです、弱いとこから潰しにかかって(笑)。

江上:それはどうか分かりませんけど(笑)。

福岡:がっかりした覚えがあります。

江上:なにかいわく付きというか、不運な。

福岡:そうですね、ある意味では。まあ、かえってよかったと思いますけどね。

江上:そうですね、最後は。市の美術館に入って。
 「波」の作品をだんだん、ご自分でも作りたくないような気持も持たれながら。一方で1984年のこれ(ブロンズの小品シリーズ)は、これも信濃橋の個展で発表されたんですかね。

福岡:そうですね、信濃橋。京都でもありましたね。

江上:(ギャラリー)16でもされてたのかしら。

福岡:はい。東京画廊でもたしかあったと思いますけども、東京では全く評判が悪くて。こんな評判の悪い展覧会は初めてでした。

江上:えっ、そうなんですか!

福岡:全く反響がないというか。

江上:関西ではそんなことなかったんですか。

福岡:信濃橋でやった時にはすごく沢山売れたんですよ。8点ぐらい売れましたかね。僕も初めてだし、まあそんな高い値段じゃなかったですけども、それでも結構な売れ行きで。

江上:いやー、不思議ですね。

福岡:それを作る動機というのは、田中美術館に、釣りに行った帰りに寄ったんです。

江上:それは井原(市、岡山県)の田中美術館ですか。

福岡:そう。その時に小さい彩色した作品がウィンドウに入っていて。ブロンズもありましたかね。それを見て、「ああ、小さいのいいなあ」と思って。ちょっと僕自身が、モニュメントの仕事でお金が入ってたんでしょうね。それと一番彫刻家になりたい高校生時分に、ブロンズに憧れてたというか。そんなんは僕だけじゃなくて、彫刻家にはきっとあったと思います、みんな。

江上:それまでブロンズを使われなかったのは、経済的な理由も大きいんですか。

福岡:僕だけじゃなくて、ほとんど経済的でしょうね。ブロンズももっと極めていったら、きっといろんなことができると思うんですけど、そこまでなかなかみんな余裕がないんでしょうね。

江上:ちなみにこのブロンズの鋳造はどちらでされたんですか。

福岡:それは滋賀県の八日市です。

江上:へえ。必ずブロンズはそこに出しておられた。

福岡:そこで小さいのはほとんどやってました。そこの、ほんとにもう職人というか、さじ加減のブロンズの作り方ですね。

江上:じゃあ一点一点鋳造のたびに行って、ご相談して、ということをされているんですか。

福岡:いや、ほとんど相談はしなくて、ポンと原型を送ってしまって、「だいたいこんなふうにしてくれ」と。最初は行きましたけど、次からは「あれと同じように、とにかく黒くしてくれ」と。黒くというのは結構難しいらしいです、簡単なようで。時間がかかるんですって、本式にしようと思ったら。安っぽいのはみんな吹きつけなんですって。

江上:なるほど。ちょっと細かいことになりますけど、エディションの管理というか考え方みたいな、何かこだわっておられることはありますか。何点ぐらいまでしか鋳造しないとか、方針とか。

福岡:数は、その時は3点と一応自分で決めてたんです。話によって、僕もどれが本当か分からないんですが。9点という人もいますし、最高ね。でも、どれが本当なのか分からない。僕は3点にしようと。だいたいよく似たやつで3点抜いてます。一つだけ、《自分の穴を掘る》(1987年)、あれだけ4点抜いてます。かなり仕事が進んでから、「あれが欲しい」と言われて、1点抜いた。その、欲しいといわれたのは山口さんなんです、信濃橋の。ただ僕はあれを入れてないと思うんです、裏に。

江上:そうですね、(鋳造)番号は入ってないですね。(平櫛)田中の作品がきっかけでこの小品のシリーズを作られたということなんですけど、ほかにいわゆる日本の近代の彫刻家で心に残っているような作家というのはありますか、興味を惹かれるような。

福岡:興味を惹かれるというのはあるかなあ…… ただ佐藤忠良さんのは、うまいなあと。いろんな意味でうまいなあと思いますね。品格があるというのか、それは思ってました。高校生時分から知ってましたね。あと、日本で誰かなあ、あんまりいないですね。「変なもん作るなあ」という彫刻家は淀井(敏夫)さんですね。あれだけは、僕、いまだに分からないです。

江上:いや、なぜ田中だったのかというのが、ちょっと気になって。

福岡:田中は、名前は知ってましたけど、そんなに別に、嫌いでも好きでも何でもなくて、生竹を使ってるというのがいまだに気になるんですよ。福山の駅前にある大きな、2メーターぐらいある、岡倉天心が。ほかは全部ブロンズなんですけども、釣り竿だけが本物の竹なんですよ、それが気になって。たぶん駅の人が何年間に一回換えてると思うんです。

江上:竹を。わりときれいなんですね。

福岡:青竹じゃないんです、もう黄色っぽい竹なんですけどね、でも10年はもたないと思うんですよ、きっと。だから何年かに一回換えておられるのと。あと小品に、木彫なんですけども、その横に本当の竹をこういうふうに切って置いてたのがすごく気になって。洒落たことするなあと(笑)。

江上: 信濃橋の展覧会で小品が、関西では非常に好評だったということなんですけれども。和歌山の四人展が、84年の個展の次の85年の年ですかね。ちょうどこの頃から、美術館の展覧会に出される機会が増えているように思うんですけど、実際どうでしたか。

福岡:四人展ですか?

江上:和歌山で四人展をされて、そのこともお聞きしたいですし、加えてそのあたり、80年代中頃から、美術館でのいわゆる企画展みたいなものに作品を出される機会が増えたんじゃないかと思うのですけども。

福岡:ひとつは美術館の流行りというのか、彫刻に人気が出て。もうひとつは絵画の人たちがだめだったというのか、なかなかいい絵を描けないというか。僕らが始めた頃は絵画の全盛時代で、彫刻なんかは隅っこに追いやられていたんですけども、それがだんだん彫刻のほうに力が入ってきて、美術館も彫刻に力を入れだして、だから彫刻の展覧会が多かったですね。

江上:そうですか。

福岡:でもやっぱり運送代が一番大変だったですね。トラックに4、5人乗ってきますからね。ここに来るにも大きな8トン車が入らないんです。4トン車までしか入らないんです。8トン車を向こうの方に止めて、もうちょっと小さい車でそこまで、何回も運んでましたね。どことも彫刻って人気がありましたね。大学なんかも一時、彫刻は、最初は少なかったけれど、人気があって。それと、女性の彫刻をやる応募者が増えてきた、どことも。それまで女性はほとんど彫刻にはいなかったですよね。

江上:和歌山の展覧会というのはいかがでしたか。清水九兵衞さんと山口牧生さんと森口宏一さんと四人展をされてますね。これもかなりまとまった数を出されたんじゃないかと思うんですけど(注:「関西の美術家シリーズ3 彫刻の4人—清水九兵衞・山口牧生・森口宏一・福岡道雄」7月13日−8月4日)。

福岡:今でもそうですけど、どうしてもたくさん持って行きすぎるんです。

江上:そうなんですね(笑)。

福岡:それで、いつ頃からかな、大きな会場にポツンと一つおしゃれに置くようなのがまた流行りだしたわけです。それは彫刻だけじゃなく、ブティックとかお店でもそうで。今までいっぱい置いてあったのが、なんかこうシュッシュと置いて、あとはみんな奥にしまっていて。そういうやり方にまた返って。僕らの世代というのは、展覧会だとつい頑張りすぎて、いっぱい持っていってしまうんです。

江上:作品のお話にまた戻りますと、先ほどの小品のシリーズというのは、田中の作品を見たことがきっかけとおっしゃってたんですけど、例えば《石になれるか》(1984年)とか、《鮒になれるか》(1984年)とか、風景を作っているようにも見えますけれども、それまでの風景とは全然違いますよね。

福岡:はい。どっちかといったら、そうですね、言葉を彫刻にするというか。だから、「石になれるか」と。でも必ず「なれないだろう」という反語が、僕の気持ちの中にはあるんですけどね。「木になれるか」、「やっぱりだめだろう」とか。そういうのがあって、しばらくそんな言葉遊びみたいな彫刻を作ってました。

江上:ずっとあとに、言葉そのものを描かれる作品も作られてますよね。でもこの、「何とかになれるか」もそうですし、さかのぼっても、初期の作品でも、長い題名をつけていらしたりとか。非常に言葉というものが重要な意味を持つような題名をつけておられたりするんですけれど、言葉と彫刻、あるいは言葉と作品ということについて、何かこだわりというか考えは。

福岡:言葉で言ってしまったほうが、ずっと早いのは早いんですよ。素直に伝わるというか。それはずっと今でも思ってて。何も作らないで、ずっと言葉を言うだけで、作家として成り立つのと違うかなと。だから言葉というのは…… その辺はちょっと僕も分からない。美術作品をじーっと見てたら、あんまり僕はずっとよう見ないんですけど、ひとつの作品を1時間も2時間も、1日も見てる人がいるんですけどね、僕らの作り手からいったら、言葉で言ってしまったほうがずっと早いし、分かりやすいし。それと、美術というのはすごく分からない部分があって、すごくいい作品を描いてるんですけども、その人が例えばいい人か悪い人かも分からないし、あるいは今で一番大事な、例えば戦争をしたくないのか、あるいは「いや、相手が撃ってきたら俺も撃つ」という人なのか、その辺が分からないわけですよ。でも言葉で言ったらそれはすぐ分かるわけです。特に最近のアメリカのテレビなんか見てたら、とにかくこう銃を出すわけですよね。まあ日本の場合はそこまではいかないですけども。この人は今そういうことをどういうふうに考えているのか、というのが一番大事な部分であって、その次に美術なんかがひっついてくると思うんですけども。そうしてみたらやっぱりその人のものの考え方が大事なので、それを作品で、人の作品からもそこまで感じ取れないし、自分の作品もそこまでは言い切れないし、だからその辺を言葉で補っていかんといけない部分があると思うんです、この僕らの世界には。

江上:ああ、なるほど。先ほど、何々になれるか、いやなれない、という…… 福岡さんが使われる言葉の中でも、「反」という字がすごくやはり。

福岡:僕の「反」はすごく単純で、何でも反対の「反」なんですよ。また、そんな時代であって。僕は街頭のデモなんかひとつも参加したことはないですけども、結局あれと一緒で、美術の中にもやっぱり「反」というのがすごく気になってて。それが年とともにだんだん薄らいできて、今はあんまり「反」というのはないんですけども。たぶん「反」というのをこう、旗は持ってなかったですけど、翻してないと生きていけない時代でしたね、作家として。「俺は違うんだぞ」というとこをこっちも見せたかったし、そういうのを見せて。僕らのもうひとつ次の世代の人たちは、そんなのを見せなくても通用したというのか、この人は「反」だなとか、ある程度分かるような時代になってきたと思いますけど、僕らの時はほんとに「反」ということを表に出しておかないと分からないというのか。

江上:でも、実は作品にダイレクトに字として登場するのは結構あとですよね。この1990年の作品あたりが最初でしょうか(《反という字》1990年)。

福岡:その時分から文字が入ってますね。「反」と入れても、みんな何も感じなくなってきている時代ですね、あんまり。

江上:だから、逆に字として出すようになられたという事ですね。

福岡:1950年代ぐらいに「反」なんか書いてたらどうなってたか、ちょっと分からないですね。

江上:あえて、そういう時代の空気を感じられて使うようになられたんですか。

福岡:というよりも「忘れるな」という、自分の戒めみたいなところもあるような気もしますけどね。

江上: なるほど。先ほど、モニュメントの話も出ていましたよね。モニュメントで少しお金が入って、ブロンズが作られるようになったと(笑)。モニュメントのお仕事についてもお聞きしたいんですけども。数はそんなに手がけてないと、前回もおっしゃっていたんですけれども、この時、大きなお仕事としてあったのは…。

福岡:ちょうどバブルの終わり頃になるんですかね。モニュメントの仕事は、だいたい安いので1,000万ぐらい、高くて3,000万ぐらいでしたね。野外の、市とか県が発注するのは。ほとんどそういうところからのものが僕は多いんですけど、個人のものじゃなくて、どこどこの県とか足立区とかのモニュメントとして。ブロンズ代というのは、すごく大きいこのくらいのでも、だいたい100万ぐらいですよ。そしたらあと何百万か収入が入ってくるわけです。すごくいい仕事というか、年に一つあったらそれで十分生活できるというか、そんな時代があって。ただ放っといたら、みんな税金に持っていかれてしまうわけです。石膏代とか粘土代とか、あるいは誰かアルバイトを使ったら助手代とか、そんなもの知れてるわけですよ。だからモニュメントを、僕はやってないですけど、たいていみんな株式会社を裏で作って。ほとんどの彫刻家は裏で会社を持ってはる。そこで一応給料をもらっているかたちになっているらしいですけどね。

江上:福岡さんご自身としたら、70年前後に野外彫刻展に出してた頃以来の野外作品を、その頃に作ることになったんですかね。

福岡:モニュメントとして、倉敷(《朝 Daybreak》)とか、瀬戸田(《飛び石》)とか、取手(《釣りをする》)とか、10点ぐらいありますね。そのなかの一番大きなモニュメントは服部緑地のモニュメントで(《白昼夢》)、あの時は予算がね、1億2,000万だったんです。

江上:おぉ、すごいですね。

福岡:それは宝くじの何かから下りてるらしいです。ある人が「今度1億5,000万の仕事をするんだよ」と言われたんです。「あれ?予算は1億5,000万なんだ」と思って。中に入っている彫刻事務所が3,000万円の取り分だったんです、それはあとで分かったんですけどね。僕、そういうこともなんにも知らないで、1億2,000万。で、模型を出したらブロンズ代だけで8,000万かかるっていうんです。それはちょっと困るなと思って。ブロンズ代をブロンズ屋さんに相談したら、「うちではとてもできない」と。「このぐらいだったらできる」ということで、3ヶ所でしたわけです。いつもやっている八日市の川副(注:川副美術鋳造所)という小さなお店と、東京の山岸鋳金工房と、それとクロタニコーポレーションという富山の大きなブロンズ屋さん、3ヶ所に発注したんです。色々交渉してかなり安くしたんですけども。それと、実際に自分が作る時間が3ヶ月しかないんです、原型は。3ヶ月ではとっても自分では無理だと思って、大きいのは発注に出したわけです。また、発注に出さないと、自分でやってたら、それこそみんな持って行かれてしまって。そういうことを僕はあまり知らないんですよ。自分で作りたいけども、発注で出したほうがずっと安いわけです。結局、発注だけども自分が行っていろいろ指導したらいいだけであって、そういうのがやっとその時に分かって。そのあと税金で800万払いました。それもいろいろ友だちに教えてもらって、お金も欲しいけども、こんなのも嫌だなと思って。会社持っている人は大変でしょうね。

江上:なにか、制作のあり方自体が全く違う感じですよね。

福岡:一時、友だちがたくさん会社を持ちましたけども。今はどうしてるか知らないですけどね。
 作家になりたいけども、作家になる土俵というのが、基盤がないわけですよ。画商がないわけです。画商がないというのは、コレクターがいないということですよね。

江上:それは特に関西ということですか。

福岡:いや日本中だと思います、きっと。関西のコレクターの人もおるけども、関西のコレクターは関西で買わないで東京へ、あるいは外国で買ってくるんです。だから現代美術が成り立たない。それは美術館も一緒だと思うんです。でも、現代美術の作家がお金を持つようになったらおかしな時代になるだろうなと思うんです(笑)。たぶんアメリカの作家みたいに、やっぱり薬も飲むだろうし、早死にするでしょうね。どっちがいいのか悪いのか分からないですけどね。でも、そこそこしっかりした画商があって、頑張ったらその画商に眼をつけられて、売れる、売れないは別としてでも、そこで発表してという、目の前にそういう希望みたいものがないとなかなかやっていけないですね。関西にしっかりした画商がいないですからね。

江上:またファイルを見ながらお話を聞けたらと思うんですけれども、「波」の作品はかなり長い間作られていますね。90年代に入ってから、このあたりからは、四角かった形状が丸くなった作品が登場してるんですけれど。

福岡:四角いほうが気持ち的には好きなんですけども。丸い作品の長所というのは、壁面が、横はみんなプラスチックなんです。四角いのは、横は木なんです。合板というのか。だからラッカーで仕上げてますよね。全部プラスチックのやつはしっかり接着がしてあって、ヒビがいきにくいというのか、壊れにくいという長所はあるんです。

江上:そしてまた福岡さんご自身と思われる人物が、たくさん(笑)。

福岡:そのあたりは、あまり面白くはなかったですね。ただ、「明日あれしよう、今日これしよう」という、仕事はありましたから、なんとか時間はつぶせましたけども。作っててあんまり面白くなかったというか。ただうまくはなってるんです。

江上:うまくはなってる(笑)。

福岡:その辺は結構うまいというのか、自分でも、手際がいいというのか。

江上:思い描いた波をうまく写せるということですか。そうではない?

福岡:というよりも、その波も、どこかの波を利用してるとか、あっちの波とこっちの波をひっつけるとか。版画の版と一緒で、上手に利用し合ってるというのか、そんなのがあって。なかには新しく作った波もあるとは思うんですけど。だんだん波も作れなくなってきたというか、下手くそというか、うまくなくなったですね。見た目はきれいなんですけどね。昔の、ちょっとぎこちない波のほうが、僕は好きですね。

鈴木:こういうふうに(手を動かしながら)作らはるんですか。指をこうやって動かしてらっしゃいましたけど、こうやって波を作っていかれるんですか。

福岡:そうです。一番最初のは、一番小さな小指で…… 僕、指が小さいんですよ。こう、入らないんですよ、磨く時に。入ったら結構磨きやすいんです、ペーパーは。

江上:磨くということは、これ原型は石膏ですよね。

福岡:原型は粘土です。

江上:あ、粘土で作られて。

福岡:大きなのは、石膏で型を取ったら重くて一人で持てないですから、樹脂で型を取るんです。その樹脂を、型をもう一度磨いて。そうしたら、樹脂型がありますから、まあ言ったらそれで何枚でも取れるっていう話で。ものによったら粗く磨いておいて、その上から樹脂のとろんとしたのを筆で塗ったら、少し深みに樹脂が溜まったり、手加減によって波の表情がちょっと変わるんです。

江上:なるほど。型のほうも、まず型の段階で磨きもかけるし、実際抜いたほうも磨いたりという。じゃあ樹脂の場合は、抜いてても一点ものみたいな扱いですね。

福岡:そうです。一点ものもありますし、その型を使ってちょっと小さいのを作ったり、そんなことをよくしてました。それとさっき言った、上の最後の塗り具合によってそれぞれ表情が違うから、同じ型から取ってても違うわけです。

江上:「波」の作品の次に発表されるのが、この、「箱」と言ってよいのでしょうか(木の箱状の作品群を指して)。

福岡:うん、その辺から意識的に今までの仕事をもうやめようと、もうしてもしょうがないと思って。何でしようかと思って。そしたら大工仕事が一番好きだから、木でしようと。それで木を注文したんですけどもね。
その作品の評判は良くなかったですね。

江上:そうなんですか。これは最初に発表されたのは、どこになるんですか、やっぱり東京と関西とで発表されたんですか。

福岡:それは関西だけかしら。村松画廊でやったか。

谷森:はい、村松で。

江上:評判良くなかったですか。

福岡:良くなかったですね。

江上:どのようなネガティブな意見があったのでしょうか。

福岡:まず「棺桶」というのが駄目ですね。

江上:駄目ですか(笑)。

福岡:みんな一番身近なものなのに、棺桶というのはやっぱり駄目で。ちょうどこの時に阪神の大震災があったんだと思います。

江上:そうですね、1995年の。

福岡:そんなので余計に良くなかったですね。それは自分もよく分かったし。なんか男はやたらと棺桶を作りたがるんですよ。

江上:そうなんですか?(笑)

福岡:あんまり女の人で聞いたことないです。男は棺桶とか、墓穴を掘るとか、穴を掘る。

江上:これも「棺桶」ですけど。

福岡:こんなのは「棺桶」じゃないね(「棚」のシリーズを指して。詳細は後出)。「棺桶」はこの辺ですけど(《箱[棒]》1994年を指しながら)。

江上:《宝箱》(1993年)というタイトルで、中に《ピンクバルーン》とか、その前の棒状の作品ですとか、こちらは《鮒》ですよね。《鮒》は、この時からすると、割と最近の作品ですよね(注:鮒は1980年代後半に出てくるモチーフ)。

福岡:そうですね。それも思ったほど良くなったですね、評判は。これは売れるんとちがうかなと思ったけど、売れなかったですね。

江上:そうですか。先ほどおっしゃった阪神大震災があって、このシリーズは作るのをやめられたんですか。

福岡:ちょうど個展中に震災があったんですよ。話題は震災のことと、テレビでブラウン管に映るのはそういう白い棺桶ばっかりがやたら出てきますし。なんか評判良くなかったですね。僕も作ってて、並べてから、独りで、自分で楽しんでいるようなとこがあって。ともかく評判良くなかったです。この、こっちの、これは結構好きだったんですけどね、《棚》(1993年)という作品(注:木の箱状作品のうち、「棺桶」のシリーズは1995年1月に信濃橋画廊で発表。先行する「棚」のシリーズは1993年9月に信濃橋画廊、11月に村松画廊で発表)。

江上:さっきから「棺桶」、「棺桶」と言ってますけど(笑)、「棚」というのはそれとは違うという?

福岡:「棚」は「棺桶」じゃなくて。この大きさですけど(アトリエに置いてある《棚》を指して)。釣り用語で「棚」って言うんです、「今日はどのぐらいの棚に魚がおるかな」と。真ん中ぐらいの「棚」。「棚」って言うんです、魚の、特に鮒は日によって上のほうに出たり下のほうに出たり。

江上:ああなるほど、水位というか、水の中の深さのどの部分にいるかということですね。

福岡:それを「棚」と言うんですけどね。

江上:じゃあこれは「棚」を横にしたものですか。

福岡:この辺の、これが「棚」で。

江上:あー、(箱の)中の部分が「棚」ということですね。こちらの(箱の表が)ふさがっているのは? 

福岡:これは何かな。

江上:(キャプションを読む)「《棚2》(1994年)」となってますけど。これは(ふさがっているところが)棚の上の方ということですか。

福岡:これは、むしろこっち(開口部を指して)なんですけどね。なんとか木で彫刻ができないかと思ってやってたんですけども、ちゃんと出来ずじまいでしたね。途中で放り投げたというか。ただすごく健康的にはいいです、体に。

江上:作るという(笑)。

福岡:それなりの労働力も快感がありますし。僕も昔のあれですから、機械を使うのが嫌いなんです。だから縦でもノコギリでバーッと切るわけです。

江上:手引きで全部。

福岡:手引きで。

谷森:この「棚」のシリーズ、今までの彫刻というのは、表面を見せる彫刻を作られてるんですけど、これは内側を見せるような感じの作品ですよね。

福岡:どちらかといったらね。

谷森:何かあるんですか、そこに。

福岡:水の、池の中というのか。思いは結構、具象的な思いなんだけれど、見た目はなんか抽象彫刻みたいに見えるんですけども。これは300年とか400年して、古びたらどんな風になるんかなぁというのは想像しながら作ってましたけどね。

江上:あぁ。「棚」、「箱」のシリーズの次に、この文字のシリーズ。

福岡:そうです。文字も偶然見つけて。それまでリューターという電動工具でサインを入れてたんです。(リューターを取りに行く)リューターってこんなやつです。これも、いいのと悪いのが、色々あるんですけど。この歯を偶然―歯によってあれが違うんですけども、ペンで文字を書くみたいにこれで上手に書けるわけです、それを発見して、「うわぁ、これ面白いな」と思って、それから文字の仕事に行きだしたんです。ただ、その時に何を書いていいか分からなかったから、「何もすることがない」という同じ文字ばっかりを書きだしたわけです。

江上:この文字のシリーズを始められたのが、98年の個展でこれを発表されたと思うんですけど、その前の年にされた信濃橋の個展で、昔の《ピンクバルーン》とか、あちら(《地球を植毛すること》)もその時ですかね、60年代の作品をまとめてふり返るような展覧会をされてたんですよね。それは何か、福岡さんご自身の企画というか、思いとしてされたんですか。

福岡:あれは誰が企画したんかなあ。古い作品を並べようと思ったのかなあ。いや、ちょっと分からないです。

江上:経緯はちょっと分からない。

福岡:ただ、うちの娘(福岡彩子)が信濃橋画廊に勤め出して。無理やり引っ張り込んだんですけどね。

江上:福岡さんが娘さんを?(笑)

福岡:僕と山口さんが。神戸のロートレアモンというスタイリストの会社に勤めてたんですけど、もともと美術が好きで、なんとかして画廊の、ちょうど前勤めていた人が辞めるということで、とりあえず引き抜いて。ひょっとしたら娘が企画したのかもしれないです、この展覧会は。パンフレットなんかは娘が作ったんです。それで、娘が画廊に入って、システムをガラッと変えてしまったんです。

江上:そうなんですね。

福岡:ちょっと気取った画廊にしたんです。初日には真っ黒なドレスを着るとか。その次の人もそれを、いいとこを真似てそういうふうにして。相手を見てお茶も出したり出さなかったりとか、気取ったようにしたけれども、でも事務的なところなんかを格好つけるのはうまいんですけども、売るということは下手くそなんです。これは独特な才能がないと売れないし。そんなんで画廊がかなり様変わりしたのは事実です。作家とも対等に話が出来たり。山口さんは、かなり「それは嫌だ、これは反対だ」と言ってましたけども、画廊がかなり変わったのは事実で。それからまたどんどん変わっていって。画廊もそういう、手伝ってくれる人によってかなり変わってくるというのか。京都の(ギャラリー)16なんかも、スタッフによっては、ちょっと気取ってる時期がありましたよね。

江上:気取ってた…?(笑)

福岡:悪い意味じゃないんです。ちょっと無理してるところがあるなあっていうか、洒落た感じにしようとしてる、そういう気取りみたいものは、ちょっとは要るんかなと。

江上:話が前後してしまいましたけれども、次の年の信濃橋の個展で文字の平面を出品されるんですけど、この作品については反響はどうでしたか。

福岡:反響は、その時分から、東京は知らないですけども、関西では何をしても反響はあんまりなくなってきましたね。

江上:そうですか(笑)。

福岡:あんまりこちらも、ぱっと受けないし。ただある人は、「すごい仕事をしたな」というふうに受け取ってくれた人もいましたし、ある人は、あれは何という名前だったかなあ、外国の文字書く人。僕はその人を知らなかったんだけども、その人の名前を挙げて「この人知ってるか」とか、東京ではそういう言われ方をしましたね。作品として発表するよりも、自分が行ける時間、時間つぶしと言ったらなんか語弊があるなぁ、毎日仕事ができる楽しみみたいなのは、結構ありましたね。ちゃんと一日、10行だったら10行したら終わり。最初は知らなかったから、一気に書きだして、そうしたら腱鞘炎になりましてね。それからはだいたい一日のあれを決めて書く。結構集中していないと、これがヒュッとすべったり、字を間違えてしまったり。時々そういうふうに緊張感がとれるから、独り言を入れるようになったんです。

江上:間に。

福岡:はい、間に。そしたら、またそれが面白くなって、いやに饒舌になってしまったり、ちょっと人の悪口を言ってみたり、ちょっと変なことを言ってみたりはしてましたけど。仕事というのは、一生懸命したいけども、やっぱり自分で少しリラックスというのか楽しむとこがないとなかなか持続しないというのか。それと前にも僕言ったかもしれないですけど、日本の場合、これおかしいんですけども、売れないのに作家してるんですよ。

江上:そうですね(笑)。

福岡:普通は売れて、仕事が来て、「嫌だな」とか思いながら生活もかかってるし、それで仕事をして。みんながみんなどうかは知れないですけども、日本の作家の場合はそんなことを抜きにして仕事をしてますから。それも個展があるから仕事をするんじゃなくて、毎日それをするわけですから。そしたら自分で何かしっかりしたものを持ってないと持続しないんですよ。だから僕は、朝10行だったら10行したらだいたい終わり、それ以上はしない。決めておかないとなかなか次できないし。まあ50年よくやったなとは、自分で思いますけどね。そんな意味で、うまく自分を手なずけるというのか、あまり頑張ってもだめだし。若い時はビリヤードしたりいろんなことをして時間をつぶしましたけど、年をとってきたらそんなことも興味がなくなったし。釣りも一時凝ってましたけども、やはりこれも年いったらできなくなりますし。周りの環境も良くなくなって、池もなくなってきましたし。昔はどこの池でも、釣りをしてるぐらいで怒られなかったですよ。この頃は釣りをしてたらみんなうるさくなって。

江上:「何してる!」みたいなことですか。

福岡:「コラッ!」って怒られたです。それは池じゃなくて川でもそうです。川なんか、みなさん権利を持っておられて、僕らが釣るってたいしたもんじゃないのに、それでも怒られましたね。最近はあんまり釣ってる風景を電車からでも見なくなりましたね。昔はたいてい一人は、寒くても暑くても釣ってましたけど。

江上:この文字の作品というのは、これは彫刻なんですか。

福岡:国際美術館の三木さんとそれで揉めましたね。

江上:揉めた(笑)!

福岡:揉めるといったらおかしいですけど、どちらで入れるかと。絵画で入れるか彫刻で入れるか。僕は「これ、やっぱり彫刻じゃない」と。

江上:じゃないんですか。

福岡:うん。僕は「国際には絵画で入ってないから、絵画にしてください」と言って、絵画で入ってると思うんですけども。彫刻では、いくら彫っててもちょっと無理があると思いますね。一番いいのは「平面」っていう仕事でしょうね、言葉で言ったら。こういうのを平面と言うんだと思ってました。

江上:こういうのではない平面に対して、ということですか。

福岡:絵画と言うのはちょっとあれだし。まだ、絵の入ってるやつは「絵画」と言っても「ああそうかな」と。でも文字だけのは絵画と言うには僕自身も少し抵抗があったし、そうかといって彫刻じゃないなと。「こういうのを平面と言うんだな」と。

江上:絵はなんで入るようになったんですか。

福岡:絵も最初は、いつもそうですけど、自分の楽しみです。無理に絵は入れないですけど、何か描きたい時があったら。それもなるべく疲れる頃にね、「もうちょっとしたら絵が出てくる」と鼓舞して仕事するわけです。「明日はひょっとしたら絵が現れる」とか、それが楽しみでね。ミミズだったら適当に散りばめて。そこに出てきたら、ちょっとブツブツと花を下に置いてみたり。

江上:順番としては、黒一色でまずベースがあって、そこに絵を入れる場合は、先に絵が入っているんですか。

福岡:黒一色の板なんですけども、これで描いたら粉が飛び散って真っ白けになるんです。だから今日描く分だけ空けてあって、あとは全部こういうふうに包装紙で包んでしまってるんです。できたとこはまた包装紙で包む。いつも出てるのはこれぐらいの。一番最後にバーッと開けるのは快感やね。そうしたらきれいに描いたつもりが、こんな躍ってたりね(笑)。

江上:さっき、これは彫刻ではなくて平面だとおっしゃったんですけど、福岡さんはやっぱり彫刻家であられることにずっとこだわってらしたと思うんですね。こういうものが、それはきっと自然と出てきたんだと思うんですけれども、そのことに対してご自身で何か思われたこととかありますか。

福岡:ずいぶん昔から絵画を描きたいと思ってたことがあったんです。それで何回か挑戦してみたんですけど、絵画は難しいなと思って。イメージが出てこないんです。「ああ、やっぱり僕は、絵画は無理だ」と思って。でも絵画はいっぺん描きたいなと思って。それもタブローを描きたいなと思ったことがあって。この時になって、絵画じゃないけども平面ができたということで、ある意味で少しホッとしたのと、それと年いってからの仕事としたら、うってつけというか。

江上:うってつけ(笑)。

福岡:板を作るのはちょっとしんどかったですけども、黒い板を作るのは。それを何枚か作りためておいて、それで毎日ここに座布団ひいて、寝かして書くんですけど、その作業というのが何年続いたかな。結構いい流れを知ったというのか。そこそこの労働で、そこそこの休みがあって。5分休んでは10分描いて、また5分休んでは10分描いてという、そういう作業で。で、今ぐらいになったら帰る。そういう一日の流れがあって、あまり変なことを考えずにすんだというのか。景色を見たり、そんなのは今は割と好きですけど、若い時はそんな余裕もなかったし。鳥を見るのが今は好きで、ここ沢山おるらしいんですけどね、今まで僕そんなん知らなかったから、鳥がいるとかいって。僕は今、耳が聞こえないから分からないんですけど、しょっちゅう来るらしいんです。そういうのは若い時は知らなかった。だからうまいこと出来てるんでしょうね。若い時からそんなの知ってたら、どうなるのかも分からないし。

江上:ずっとこの(文字の)シリーズを続けておられて、2002年の信濃橋の個展で、《ブラックバルーン》、ピンクバルーンの型を使った作品と、あと、かつての作品を再制作というのですか、また一部展示されているんですけれども、この時、なぜこのタイミングで、こういった作品を展示されたんですか(注:「福岡道雄展—飛ばねばよかった」7月1日—13日、信濃橋画廊・信濃橋画廊エプロン)。

福岡:それが、ちょうどやめる5~6年前でしたかね、だから65歳ぐらいの時から、できたら70でやめようと、彫刻家を。

江上:その頃から思っていた。

福岡:思ってたんです。その頃から意識的にやめる準備に入ったみたいです。

江上:入ったみたいというのは、今から振り返ると、ということですか。

福岡:うん。それはほんとにうまくやめられたというのか。だから何の苦痛もなくて、結構うまくやめられたなと自分では思ってるんですけどね。やめてから作りたいと思ったこともないし、変な苦痛もないし。ただ、どうして生きていこうかなというのはありましたけどね。ここに来てボーッとして、本を読んだり、鳥を望遠鏡で見てみたりしてますけども。やめてからは、ここの守番というのか、作品の番をすること、それと昔の作品を開けたら、あちこちヒビが入ったり傷んでいるので、その修復をしてたりしてましたけど、それも大体終わって、もういよいよすることがなくなって。やめる5年間というのは結構「こうなって、ああなって、こうなるんだろうな」というある程度の予想を立てたり、なんとなく分かってましたね。

江上:言ってみれば、その5年の準備期間と言っていいんですかね、その最初に、何故この《ピンクバルーン》(1968年)が《ブラックバルーン》(2002年)になったんでしょう。

福岡:それは、《ピンクバルーン》を作ってる時には、すごく自分に希望というか、世の中に対する望みみたいなのがあって。だいたい僕はその当時、20年から25年ぐらい先を見ながら作らんといけないと自分で思ってて。願望としたら、《ピンクバルーン》になって、すーっと空中に漂うというのか、ずっと昇ってはいかないんですよ、どっかでたなびいているというか、そういうイメージが若い時から出来ていて。そこに行き着いた時に、なんとなく一区切りついた、自分で「終わってしまった」というのがあって、しばらく悩みましたけども。だから25年ぐらい先になったら、もう少し僕らの美術界も、僕はもうちょっと良くなっていくだろうとは思ってましたよね。また、なって欲しいと思ってて。それが何かだんだんおかしくなってきて、もう一遍これは《ブラックバルーン》をあげないといけないな、という気持ちになって。だから《ピンクバルーン》の時は僕自身の気持ちが強かったけども、《ブラックバルーン》の場合は僕自身の気持ちよりも、「えらい世の中になってきたな」という警告みたいな意味がありますね。ただ、それも型がなかったら、わざわざそこまでは作らなかったと思うんですけども、たまたま型があったのと、《ブラックバルーン》と《ピンクバルーン》とを並べたら…… それは並べなかったのかなあ、並べてみたいなという気持ちはちょっとあるんです。

江上:この頃に《ピーチハウス》(1974年)も、もう一度作られてるんですね(《ピーチハウス2》2001年)。

福岡:そうです。その時に伊丹で展覧会があるということが決まって、大河内(菊雄)さんが見に来られて。平面ばっかりだったんですよ。平面はほんとに沢山あって。僕はその時がたぶん、初めてだったと思うんですよ、誰かに見に来ていただいて、部屋中に自分の新作がいっぱいあるというの。東京画廊の人もたまたま違う仕事で来て、それを見て「うちでしたい」と。そういう風な、作品を見てもらって展覧会が決まるというのは初めてだった。本来はそうだと思うんだけど。

江上:そうですね(笑)。

福岡:だいたい日本の作家は、僕も含めて、展覧会が決まってから作るわけです。そうじゃなくて、幾らでもあったわけです。とにかく毎日作ってるわけですから、ひとりでに溜まっていくわけです。見るほうもたぶん、圧巻だったと思うんですけど、部屋中全部それがあって。でもその時に大河内さんが、「でも君は彫刻家だから、彫刻が欲しい」と言われて(笑)。「古いのを並べようか」と言われたんです。でも会場の大きさとしたらちょっと中途半端だったので、回顧展みたいにするには。それで「立体作ります」と言ってしまったんですけども、さて作れないんですよ、何年も平面ばっかしやってるから。「困ったな、困ったな」と思ってたんですけど、「なんだ、あの立体の上に描いたらいいんだ」と思って、で、立体の上に文字を、波の上に文字なんかを書きだしたんです。そうしたら書きにくくてね(笑)。波の上は書けないですよ。

江上:立体の上に書いたのは、「波」と、あと「ピーチハウス」と、ほかにも幾つかあったんですか。

谷森:伊丹の図録を見れば……(図録を取りに行く)。

福岡:何かあったかな。何点か描きました。鮒の死体が浮いてるようなやつとか、あるいは《椿》といって、椿の花が一輪シューッと流れていくような波のとこに書いたり(注《私達は本当に怯えなくていいのでしょうか(椿)》、2000年)、あるいは棒によじ登っていく男がいて、それに螺旋で書いたり(注《僕達は本当に怯えなくていいのでしょうか》、2000年)。

江上:ああ、(伊丹の図録を見ながら)この時は木も併用して。

福岡:これはあまり好きじゃないんですけどね。

江上:気に入ってない(笑)。

福岡:これなんかも、あまり気に入ってないんです。

江上:枝の途中までですね。ああ、《椿》。

福岡:毎日、この大きさの(25×25cm)、日記みたいなのは書いてました、4年ほど。

江上:内容も日記になっている?

福岡:そうです。全部日記です。

江上:今、そのひとつひとつのものは、ここにあるんですか。

福岡:あります、箱に入れて。

江上:4年ぐらい、毎日ですか。

福岡:毎日。

江上:相当な量ですよね。

福岡:そうです。一日ぐらい抜けてるのもあるかもしれませんけど、だいたい毎日。プラスチックは、なんとか抜け出したかったんですけどね。とうとうプラスチックで終わってしまったというか。だから随分長いことプラスチックを使ってた。

江上:抜け出したかったんですか?

福岡:うん。あんまり体にも良くないし。使い方によったらまだまだいろんな使い方がきっとあると思うんですけどね。値段もそんなに高くないし、いろんな色もつけられるし。

江上:でも色はほぼずっと黒一色ですよね。

福岡:そうです。もうちょっと長生きしたら、ひょっとしたら色を使うかもしれないですね、もし作ってたら。でも、どうして作りたくないのか分からない、自分でも。ほかの人を見てたら「いや、僕まだやる!」って頑張ってる、「そんな、やめられない」って言うんですけどね、(自分は)すっとやめられたし。もう少し頭が良かったらいいなと思いますね、やめてから。

江上:やめてからですか、それは(笑)。

福岡:作ってる時はそんなこと考えなくて、頭悪くても何か作れそうな気もしますけどね。やめたらやっぱり頭が良くないとだめですね。頭が悪いですね。

江上:それは、もっといろいろ考えたいことがあるということですか。

福岡:頭が良かったらもう少し、例えば文章も書けるだろうし。文章と頭とは、これもまあ関係ないかも分からないですけどね。でも難しい本を読んでも分からないし、それを分かれる頭になりたいなとは思いますね。僕はそれを「脳膜炎」のせいにしてるんですけど(笑)。

江上:《ブラックバルーン》が2002年の個展で、次、2003年の個展で文字の大きな作品と、前にある巨大な塊で、これ、《馬鈴薯》っていうタイトルをつけていらっしゃるんですが(注:「福岡道雄展−もういいじゃないですか」2003年9月22日—10月11日、信濃橋画廊・信濃橋画廊エプロン)。

福岡:形が「ああ、ちょうどじゃがいもみたいだな」というので《馬鈴薯》にしたんですけども。結構タイトルというのは、僕自身が記憶するにはすごく大事なもので、それを「Aの何とか」にしたら、きっと何十年もしたら覚えてないと思うんですよ、その作家自身が。僕の場合は結構名前で覚えてしまってるというのか。だから題名はわりとちゃんとつけてるんですけども。

江上:これは、出来てからつけられたんですか、この形が。

福岡:出来てからというより、作ってる最中に、「あれ、じゃがいもだな」と。

江上:作り始めた時にはよく分からずに作ってらしたということですか。

福岡:そうです。そんなもんを作ってたんです。「馬鈴薯だな」と思って見て、それでまた会期中にずーっと引いて見てたら、「ああ、巨大なきんたまだ」と思ったり、そのたびにそういう言葉が出てきたんですよ。それまでは「きんたま」という言葉は出てこなかったし。

江上:この時は平面の作品はこれで終わりにして、また立体的なものを作ろうということはあったんですか、この形が出てくる時に。

福岡:立体的なものというよりも、かなり「ああ、これもうそろそろ終わるな」というのが分かってて。その時に「あっ、きんたまだ」と思って。それで「きんたま作らなあかん」。その次にあった個展の時に「きんたま」になるんですけどね。きんたまとミミズというのがあって。

江上:2004年、《腐ったきんたま》。これは評判はどうでしたか、《腐ったきんたま》の。

福岡:《腐ったきんたま》は、評判は良くなかったですねえ。

江上:良くなかったですか(笑)。

福岡:うん。良くなかったけども、この一番醜いきんたまを買ってくれた人がいててね、それが結構いい値段だったんです、それにはちょっとビックリしましたね。それは作家が買ってくれたんです。

江上:そうなんですね。あえて聞きますけど、どう良くなかったんですか。

福岡:ひとつは、文章も書いてたんですけども、案内状に。きんたまっていうのはね、女性はたぶん、分からないと思うんですよ。まあ、どんなもんかは分かるでしょうけど、実感として分からない。男としたら、今でも時々思うけど、「変なもんがついてるな」と。体の部分としたら一番奇妙な、それでいて、よく自転車に乗って邪魔にならないなってな感じの。それと、ちょっと蹴られても、ものすごい痛いんですよ。それと、一番大事な部分だとか、でもきんたまというのはあまり話題に上らないというのか、ペニスのほうは出てくるんですけど。でもペニスを動かしてるのは結局きんたまなのであって、その中にいっぱい大事なものが詰まってるんだけども、きんたまって意外とみんな知らなくて。女の人に聞いても、「ちらっとは見たけど、よーく見たことはない」とかね(笑)。男も自分のを、そんなん、見れないわけですよ。それできんたまを作って。最初、気持ちの悪いのを作ったり、いろんなのをやってましたけどね。でも、作ってても、文字みたいなあれはないし、自分でもあんまり、うん…… 結局分からなかった、分からないですね。一番最後はやっぱりきれいなのにしたいな、とは思ってましたけどね。

江上:きんたまと同時にミミズもたくさん出てきてますよね。

福岡:その前にミミズっていうのが、すごく興味が出てきて。またここのミミズ、大きいんですよ。30センチぐらいあるんです、歩いて伸びる時に。そのミミズも最近だんだんいなくなってきた。だから、いろんな目に見えないとこでずいぶん環境が悪くなってるんだなあ、とか。鳥も少なくなってるし。そんなことを最近よく思うんですけどもね。でも若い時はそんなこと全く気がつかなかったし、興味もなかったし。ミミズなんかいったら、ああ、これはウナギの餌ぐらいにしか思わなかったし。今はもうとても気持ち悪くて、よう触れないです。

江上:そうなんですね(笑)。

福岡:(きんたまの作品がいっぱい入った箱を取り出して)こんなの、作りさしがいっぱいあるの。

江上:わあっ、これは? これはいつ頃作られたんですか。

福岡:いくら作っても、なんか自分としたら面白くないから、「これでもない、あれでもない」と思って。

江上:あっ、箱に「きんたま」って書いてある! 腐ったきんたま…… 作ったけど発表されなかったきんたまたちですね。

福岡:こんな気持ちの悪いの、いっぱいあるんですよ。どっかにもまだいっぱいあると思いますよ。

江上:へえ。こっちはきれいバージョンですか(笑)。

福岡:まあ、そうでしょうね。

鈴木:腐ってない。

福岡:でも一番最後の、この「つぶ」になってからは、僕、割と「これはいいな」と思って(2012年に作った「つぶ」の作品を取り出して)。こんなふうに「つぶ」になったら別に自分抵抗ないんです。これは何もべつに意味もなくて「つぶ」なんです。

江上:「つぶ」になるまでの間に、《腐ったきんたま》でひとまず最後の個展にするということで、されますよね(注:「福岡道雄−腐ったきんたま」2005年12月12日—28日、信濃橋画廊・信濃橋画廊エプロン)。で、「つぶ」になるまでに何年か間があるんですよね。

福岡:ありますね。おおかた5年ぐらい。

江上:5年ぐらいかけて終わろうと思ってはって、いったん最後の個展というものを決めて、された経緯と、そのあと5年を経て、また「つぶ」が登場するまでのことも、ちょっとお聞きしたいんですけど。

福岡:5~6年あって、ふっと思って「つぶ」を作ったわけですけども。でも僕は「作らない」と言ってたから、どっかで「ゴメン、ゴメン」という気持ちがあって。ほんとは3日で作るつもりだったのが、結構時間がかかって、結局、2週間作ったわけですけど、まだ作るかもしれん。「つぶ」だったら作っても…… でも、もう彫刻家じゃないような気がしますね。

江上:えっ、あっ、そうなんですね。

福岡:うん。「趣味であの人何かしてる」というような感じで思われたら楽ですね。

江上:最初作るのをやめられた時に、本のタイトルにもされてますけれども、「つくらない彫刻家」と名乗られてますよね。だから、作らなくなっても、彫刻家であることにはずっとこだわってらしたのかなと思ってたんですけれども。

福岡:別に彫刻家じゃなくてもよかったんですけどね。僕がそこで言いたかったのは、「現代美術にも引退があるんだぞ」ということを言いたいわけです。それはスポーツと一緒で。そんな幾つになって作っても、もう大したものはできないと、自分でも思ってるし。ほんとはもっと、60歳ぐらいでやめられたら一番いいんでしょうけどね。でもそれからまだ生きていくのが大変でしょうからね。一度引退して、あとはアマチュアで、好きだから作ってたらそれでいいと思うんですよ。現代美術というのはやっぱし、一番、谷森みたいな年齢から、55歳から60歳までだと思うんです。

江上:それは、現代美術じゃなければ違うんですか。ほかの美術だったら。

福岡:うん、ほかの美術は知らない。日本画だったらたぶん技もあるし、経験もあるし、いろんなこともある。もっと深くいろんなことを知ることもできるでしょうね。でも現代美術というのは、何と言うんですかねえ。ただ、日本自体が、現代美術を要らなくなってきたのかな、と思っているんです。食べるものも苦労して一生懸命生きるっていうような、もうそういう時代じゃなくて、日本自体が北欧みたいな感じになってきたのかなと。デザインなんかはまだまだ発達するでしょうけど、現代美術というのはもうあんまり要らないのかなと。

江上:現代美術が必要な社会というのは、どういう社会なんですかね。

福岡:これからの中国でしょうね。やっぱり生きるのに困難な時代というのか、あるいは欲望がすごく盛んな世の中とか。このまま世界が、そうたいした戦争もなくて、震災とかは別として、そしたら激しい現代美術というのはもう要らないような気がしますね。

江上:一方で世の中の、震災のことも出ましたけれども、不安のあり方がある意味変わってきてる中で、いま「激しい」とおっしゃったけれども、激しい現代美術でない現代美術というのはあり得ると思われますか。

福岡:これからですか? 激しい?

江上:これから。かつては世の中の不安のあり方が、きっと目に見えて分かりやすかったりしたので、激しい現代美術が必要だったと。今また不安のありようみたいなものが変わっている中で、違う現代美術のあり方というのが。

福岡:そういう風にいつも、何十年か先を見たら、そういう意味では現代美術はこれからもあるでしょうね。でも現代美術というのは、やっぱりかなり先を見ていないと現代美術じゃないような気がして。震災があって、その震災を目の前に見て、それを何かで表現するというのは、僕、現代美術じゃないと思うんです。現代美術というのは、もっともっと先のことを見るのが現代美術と、僕自身はそう思ってて。今のことを表現するのは、これも大事な仕事ですけども、なんか現代美術じゃないような気がするし。今の人気のあるような作家を見てたら、僕らが思ってる現代美術じゃなくて、なんかデザイナー感覚というのか、そんな気がするんですけどね。うまいなぁとは思いますけどね。パッと今の人たちに呼吸が合うというのか。でも僕らが考えた現代美術は、合いっこないというのが頭にあって。人にそれを理解されたらすごく嬉しいけども、なかなか分かってもらえないだろうなぁという気持ちは、若い時にはありましたね。きっと見る人とか表現する人たちも、現代美術を言葉で表現するのはすごく難しいような気がしてて、僕らはそれを待ってるんですけどね。僕らが知らん言葉を、ひゅっと言葉にされたら、「あっ、なるほどこういう言葉があったのか」とかね。

江上:すごくまとまりになりそうなお話をいただいたので、この機会に何かほかにおっしゃりたいこととかあれば、お聞きして終わりたいと思いますが。

福岡:容姿というか、自分の背丈とか顔つきとか、若い時すごく僕は劣等感があって。

江上:そうなんですね(笑)。

福岡:今でこそ小さい人と大きい女の人がコンビを組んでもおかしくない時代ですけど、その当時は、膝曲げてないといけなかったし。
 今思うのは、「やっぱり大学を出てたほうが良かったんかなあ」と思いますね。また学歴社会になってきたというのか、そんなに勉強しなくてもみんな大学を出てる。大学出てないのは何人か、僕らの世代ぐらいには、いてるわけですけど。それはそれぞれの事情があって分からないですけどね。宇佐美圭司がどうして高校までしか出てないのか、そういうのがこちらには分からない。僕らの時代よりちょっと下ぐらいまで、今井祝雄とか田中信太郎とか、あの辺までは割とあります。でも今の人は全部美術大学を出てますから。前にも言いましたけども、作家になるんだったらできたら美術大学なんか出ないで、あるいは余裕があったら出て、もう一つ違う大学へ行って、今度は美術じゃないものを勉強したらいいのになと思いますけどね。

江上:それはご自身の経験に照らしてですか。

福岡:うん。僕もそういう知恵がなかったですけども。ひとつは両親のせいもあると思うんです。両親のどちらかが大学を出てたら、僕にも「大学ぐらい出とけ」とかそういうのがあったでしょうけど。そういうのがなかったのと、時代の背景がそんなのがあって。篠原有司男じゃないけども、何年浪人してでもちゃんと入ってたほうがよかったのかなと。むしろああやって落第したほうが、いま勲章になってますから(注:篠原の「落第」については、アーカイヴの「篠原有司男オーラル・ヒストリー」第1回目を参照)。でも中身もよく知ってますから、前にも言ったように、美術大学だったら作家先生はそんなにいらない、1人ぐらいおったらいいなと。あとはもうちょっとしっかりした人というのか、その人のいいとこを伸ばしてくれるような先生がいてたらいいなと思いますね。だから、もうちょっと頭が良かったらいいなと思う。

江上:それは美術以外のことについて、ということですか。美術以外のことを知りたい、もうちょっと理解されたい?

福岡:もう僕全部、脳膜炎、病気のせいにしちゃうんですけどね、記憶力がすごく悪いんですよ。

江上:いや、かなりいろんなことをご記憶だと思いますけど(笑)。

鈴木:ほんとです。

福岡:小説でも、さっき読んだのに全部すぐ尻から忘れてしまう。それでいて読んだという記憶はあるんです。だいたいどんな作家だというのは見当はつくんですけど、それはあくまでイメージであって、人にその説明をすることはできないんです。それはテレビを見てもそうです。筋書きを覚えてないんです。
 うーん、でも、もう一度作家になるか、といったら、作家になりたくない。

江上:なりたくはない。

福岡:大工さんにはなりたいなと思った。腕のいい、少し頑固な。僕のおふくろの弟が大工をしてるということを言いましたけど、この当時、田舎の家ですけど、二階の棟の木が太いほど自慢だったらしいですよ。それが見えるわけですよね、外からその太さが。それもたいてい松の木を使ってますからね、躍るわけです、まっすぐじゃないわけですね。そこをいかに…… そこは図面では出ないらしいんですよ、実際に建てながら作っていかなきゃいけない。それを彼は若い時に建てたらしいんですけど、母親の弟が自慢してましたけどね、ああいう棟の大きい家をつくって。僕の建築というのは、住宅だったんです。大工にはなりたいかなと思います(笑)。

江上:何か聞き残したことがあればどうぞ。

鈴木:大学にお勤めになる前に、子どもさんに20年ぐらい教えていらっしゃった、その時は絵を教えておられたんですか。

福岡:その当時、僕は彫刻をしてましたから、もちろん主体は絵を教えてたんですけども、いろんなものを持ってこさせて、例えば「缶詰の空き缶を持ってきなさい」とかいって、それにスプレーでテーピングして模様を描かせたり、竹竿を持っていって何かさせたり、ほかのこともいろいろさせてて、それが結構子どもたちは面白くて、割と人気はあったんです、あるところまでは。

鈴木:あるとこ?

福岡:「にいちゃん、にいちゃん」と呼ばれてて、それでそこそこ10何万か収入があって。一応、生活は僕とこの女房にすっかり面倒をみてもらってましたから、困らなくて。まあ結構な身分です(笑)。大学に行って、話はしなかったですけども、すごく楽で。でも一番賃金が安かったです、関西で。まあ日本中ででしょうね、きっと。それで何年目かに労働組合を作って、その時、僕は勿論そんなこと知らないし、初代の委員長に祭り上げられてしまって、大学側とガンガンやりあって。それがすごく面白かったんです、やりあうということが。若い時、結構生意気だったのが、ちょうどおとなしくなりかけてて、40過ぎて、そこでやりあうということがすごく面白くて。相手の人が曾根崎の警察の署長だった人で、小学校しか出てない人で。それで署長まで上がった人で、いろんなことを知ってるわけです。さっきまで笑ってたらカーッと怒ったり、すごく上手なんです。でも、そんな人だからこっちのこともよく分かってて。それで少しずつ給料も上がっていって、そのやりとりがすごく面白くて。そういうことがありましたね。今、そこは名前が変わって、宝塚大学になってます。

江上:はい。

福岡:そこに僕の友だちの小清水が学長で。

江上:そうですよね、学長ですよね、小清水さん。

谷森:短大の頃に、北辻(良央)さんや、坂口(正之)さんや、小清水さん、宮崎(豊治)さんなど彫刻家の方と一緒にお仕事をする機会が毎日あって、そういう方たちと制作をしてきて、自分の彫刻にも何か影響があったというのはありますか。

福岡:彫刻そのものには影響はなかったけども、その当時、村岡、小清水、北辻、滋賀県のあれは誰だったかな、宮崎豊治、河口龍夫、それから村上三郎、結構面白い人たちがたくさんいてたんです。何人かといつも食事をしに行ったりして、その情報交換というのがすごく面白かった。馬鹿話だけどね、みんなそれぞれ違ってて。北辻という人はデザイン科の出身で、最初は何か作るということを、何も知らなかったんです。でもあの人は器用な人で、溶接しようと思ったら村岡さんのを見ながら、樹脂は僕のを見ながら、木彫は小清水のを見ながら、見てシュッと覚えてしまう、そういう作家なんです。器用で、だから何でもできる。そんなので彼もたぶん面白かったと思うし、それぞれ普段の情報交換が出来るというのか。今は逆に、作家と作家が会うということはないわけです。画廊へ行っても、椅子も何もないようなところが多いし、だからシュッと見てスッと帰るだけだし、作家と話すのも滅多にないし。僕の時は、結局美大を出てないもんですから、誰かと知り合っていかんとつながっていかないわけです。今は美大を出たら美大の連中しか知らないというのか、だからお客さんの接待も知らないというのか、入っても知らん顔してるわけです、作家が。

江上:画廊に、個展とかでですよね。

福岡:でも僕の時は誰も知らないから、こっちから話していかんといけなかったし、向こうも何者か分からないから聞いてきてくれるし、そういうので画廊が一つの社交場だったというのがあった。それと大学を出てる人たちは、個展をしても、友だちとか先生が来てくれたら、それで済んだと思ってしまってるんです。ほかの作家なんかどうでも、知らないし、なんでもいい。それと画廊に勤めている女の人たちが、やっぱし一人一人、親切に紹介をしてくれないと。また、こんな風な画廊の話をせんといけないんですけど(笑)。

江上:そうですね。次回にまとめて、改めてお聞きできたらと思います。ありがとうございます。

鈴木:ありがとうございます。