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今泉省彦オーラルヒストリー 2010年2月17日

於今泉省彦自宅
聞き手:宮田徹也、光田由里、足立元
書き起こし:永田典子
公開日:2013年8月19日
更新日:2018年6月7日
 
今泉省彦(いまいずみ・よしひこ 1931年~2010年)
美術家・オーガナイザー・評論家
1931年埼玉県生まれ。幼少期を満洲国で育つ。日本大学芸術学部彫刻科中退。美術学生協議会などに参加し、中西夏之、高松次郎らと知り合う。ハイレッド・センターの仕掛け人とも呼ばれる。1958年雑誌文芸同人誌『形象』創刊に寄稿し、翌年の2号からその編集にも関わって、美術雑誌へと変えた(1964年に『機関』へと改称)。1968年から美学校校長を勤め、多くの若い美術家に慕われた。本インタビューでは、幼い頃に満洲で見た戦争画、1963年の読売アンデパンダン展、『形象』のことなどが語られた。

今泉栄子(今泉省彦夫人、以下栄子):この前からね、(主人は)発音が不明確なんです。舌がんでしたから。だからとても発音が不明瞭で。

宮田:よろしくお願いいたします。「機關」と「形象」の一部を手に入れて読ませていただきました。そのなかで特に、ほかの文章にもお書きになられてないところとか、もう少し詳しいところなどをおうかがいしたいと思っております。1931年に先生はお生まれになって、幼少期は満洲国でお育ちになったということをお書きになられていました。そこでの芸術体験はどういうものがあったのでしょうか。

今泉省彦:展覧会ということになれば、新京、今は長春といいますが、満洲国の首都になっていたところですけどね、そこに住んでいたころだから、日本の戦争絵画を見に行ったのは、もう展覧会でしか(ありませんでした)。

宮田:戦争絵画の展覧会。

今泉:ええ、そうですね。まあうまいなと思って感心して。

宮田:うまいなというふうに感じた。

今泉:ええ。上手ですよ(笑)。もっとも満洲国人の描いたものは1点もありませんでしたよ。

宮田:どういうきっかけでその展覧会を見に行かれたのか、覚えていらっしゃいますか。

今泉:まあ、絵が好きだからですよ(笑)。なぜ見に行ったのは知らないんですけど、絵好きになっちゃったのは、それは親の責任です。ほめるところがほかにないもんだからね。それと、なかなか(親に)まとわりついてうるさいから、クレヨンと紙をあてがっておくと何かゴチャゴチャやってるでしょ。どうでもいいんで、「あっ、上手、上手」なんて言っとけばね。こちらもおだてられてその気になりますからね(笑)。

宮田:それでほんとに幼少から絵が好きでいらっしゃった。

今泉:親に、好きにさせられてしまったというような(笑)。

宮田:好きにさせられてしまった(笑)。満洲に行く前もいろいろなものを見に行ったりしていたんですか。

今泉:私が生まれたのは埼玉県の所沢なんですけどね。その当時、父親の実家は中野にありましてね。中野の野方町という、駅からちょっと北の方になりますけど。満洲に行く前の、その家での記憶というのは、あまりはっきりないですね。所沢での記憶もないですからね。

光田:日本の戦争絵画展というのは、一度じゃなくて何度もご覧になったんですか。

今泉:そうですね。

光田:何度も。

今泉:ええ。「大東亜戦争」なんて言う前からありましたから(註:「大東亜戦争」の呼称は1941年12月に制定。日中戦争を描いた美術作品は1938年から展覧会などで発表されていた)。親にしてみれば、まとわりついて、うるさいやつを、絵を描かせておくと、静かになるから具合が良いということでしょ。そんなもんだから、「上手、上手」なんてほめるんですね。それを真に受けちゃうから絵描きになろうと思っちゃったという、もうまずいところがありました(笑)。

光田:絵の先生はいらしたんですか。

今泉:絵の先生、絵描きの先生はいません。そうではなくて、絵を描くためにも役に立った、ということになるのか…。青少年期の、育っていくうえで、そばにいてくれてよかった男というのはいますね。高校の頃に、高等師範学校から教生(教育実習の学生)で来てた男ですがね。それとはもう生涯つきあっていました。

宮田:戦争画展以外にも展覧会とかたくさん見ていたんですか。

今泉:それ以外には、そのほかの絵は見てないですね。

宮田:戦争画展しかなかったというのもあるんですかね。

今泉:なかったということかもしれないです。そうですねえ。何かあったかもしれないけど、耳に入ってなかったか、よくわかりませんがね。ただ、それでこっちが絵描きになる気になっちゃったというようなことは、大問題ですからね。だから息子たちにはけっして、絵を描いても、ほめないことですよ。(笑)見せに来ますよね、「おとうちゃん、見て~」なんて。「あ、見たぞ」って。(笑)一所懸命ほめないことです。

宮田:幼少の頃は、戦争画以外にはどういう絵がお好きだったのですか、見ることでは。

今泉:特別に絵の雑誌が身近にあったわけでもないし。

宮田:雑誌もなかった。

今泉:雑誌といったって、そうですねえ、月極めでおふくろが買ってたのが『主婦の友』でしたかね。そのくらいで。きっと口絵かなんか付いていたに違いないんだけど、全然記憶の中にはないですね。

宮田:ああ、そうですか。

宮田:漫画とかは。漫画はご覧になってました?

今泉:漫画は…… 親父がたまには買ってくれたから読んだろうとは思うんですがね。その頃の漫画で、どれというふうに頭に今でも残っているというのはないですね。「冒険ダン吉」はあの時代ですよ。漫画家になろうとは思ってなかったですね。もっとも、絵描きになろうとも思ってませんでしたけどね。

宮田:とにかく絵を描くことが好きだった。

今泉:描いて見せると(親が)ほめてくれる(笑)。いずれにせよ、頭に巣くっているのは、もう自分は大きくなったら戦争に行って戦争するんだ、としか思ってないというところがありますからね。

宮田:戦争は反対だなんていうことは、みじんもないわけですもんね、子どもの頃だったし。

今泉:ええ。いいも悪いもないんで。

宮田:当たり前にね。

今泉:なんていうのかな、雑誌が、戦争画を広めたというようなことでした。なんか勇ましい、かっこいいな、という正義感でしたね。

宮田:勇ましいとかかっこいいというね。

今泉:戦争がものすごく痛いんだなんていうようなことはちっとも頭に入ってませんものね(笑)。とにかく格好良いと思ってるばっかしでね。

宮田:戦争画で、すごいイメージが残っていて、大人になったとき、「ああ、この絵、昔うまいなと思った」のというのは何かあります? 今。

今泉:ああ、それはたくさんありますね。誰のだったかなんてことは覚えちゃいませけどね。

宮田:1970年にアメリカから戦争画がたくさん日本に戻ってきますよね(東京国立近代美術館に無期限貸与)。その頃、戦争画を見て、思い出したりしました?

今泉:うーん、なんか見たような記憶はありますけどね。うめぇなとは思いますよ、やっぱり。

宮田:「うまい」ということですね。面白いですね。

足立:戦争が終わる頃はすでに日本に帰っていらっしゃって、中学校は関東学院中学校ですね?

今泉:いや、えっとね、要するに親父は航空機関係の兵隊だったのですからね。それで、あちこち転勤を命ぜられますからね。その赴任先、赴任先について回って、行ってたんです。白菊小学校というのが満洲の小学校でしたけれど、そこから新京第一中学校と行きましたがね、転校するということでもって、あいさつに校長先生のところへ行きました。「今泉君、キミはね、——国立に第一山水中学校(註:今の桐朋高校)というのがあって——そこに行きなさい」と、そう言われまして。なぜかなんていうのは聞いちゃいけないような気がしたわけですね。要するに、(その校長先生が)「自分と同僚だったんだ」と言うんですね。山田栴二というのが第一中学校の、新京の中学校の校長先生でしたね。退役陸軍中将でしたね。その同僚だというので、なるほど軍服で学校に来てましたね。私は第一山水中学校に行ってました。やっぱり軍服で。学校に行くことになりましたね。それだけれども、そこには何年もいませんでしたよ。
 ……あっ、そうか。戦争が激しくなって。当時は祖父さん・祖母さんが居を構えていたところが中野区の野方町なんですけどね。ちょうどそこが首都防衛のための戦車道路にぶつかっちゃったというわけです。強制疎開をかけてね。それでしょうがなくて。父方のそもそもの出身は、福島県の(田村郡)三春町なんですね。そっちのほうのつてを頼って(いくことなった)。その祖父の兄弟が福島県の三春町というところで、銀行勤めをやっていた。そこを頼って(いきました)。そこは小さな田舎の町でしたから、そこから世話をしてもらって、町中の、二階に二間、三間ぐらいだったかね、そこで生活が始まったんですね。

足立:中学、高校の頃、つまり戦争が終わってから日大に入るまでの頃で印象深い思い出などありましたか。

今泉:そうですねえ、思い出すと…… 三春町に疎開して引っ越したとき、戦争が終わっちゃいましてね。国を救ってくれた兵隊さんがけっこう復員してきましてね。兄貴と僕はどうしてもそっちのほうを見ているというふうな感じでした。「どうにも(父が帰って)来ないな」なんて思ってたら、父親のいちばん下の弟が、兄貴たる私の父親の死ぬのを看取っていたんです。フィリピンの山の中で。親父が部隊長としていたところは、武器を持った部隊ではないんです。そうはいっても兵隊さんが何人かいますが、銃を持たない連中だけでもってルソン島の山の中に上がっていくんですね。それに、どういう運命だったんですかね、親父の弟が、——これは戦前アメリカ航路の一等航海士かなんかやってたんですけどね——、これが陸軍の移送船の航海士ということになっていて、それが陸兵を連れて(船に)積んでいた。それがマニラ湾の近くで撃沈されちゃうんですよ。それでしょうがなくて、「あ、そういえば兄貴がマニラにいたっけ」なんていうんで、兄貴のところに頼って行ったということで(した)。結果的には、弟が親父の死を確認しているわけですね。
 僕のほうは三春の山の中の町で、駅のほうに向かっていつも首が回っていたのがね、だいぶ月日がたってから、その叔父が現れましてね。(父が)フィリピンの山の中で飢え死にしたとの連絡だったわけ。そのことが確認できてしまえば、こっちは三春の町にいなきゃならない理由がないのです。ところが、中野の家は強制疎開で壊されちゃってないんですね。それで母親の実家が立川にあって、そこで書籍と文房具とタバコを商っていましたのでね、そこに親子3人転がり込んだという、そんなふうになりました。
 それで、高校生になってしまうのかな、中学の2年生のときかな。なんだかどうも熱が出て、微熱が出て治らないな、と。そういう検査があったら肺浸潤になっっていたというわけで、学校に行かないことになった。しばらく休学ということになっていました。それは退屈ですからね、絵を描いてました(笑)。何にも知らないから、静物から始まるわけですよね、どうしてもね。ものを置いて写生をするしか、ほかに何をしていいか知りませんからね。

宮田:敗戦のときはどんな感情がありました?

今泉:そういうことは、あるじゃなくて、まるで思ってませんでした。

宮田:ああ、敗戦するとはまったく思ってなかった。

今泉:ええ、少国民は(笑)。軍国少年でした。

宮田:多大なショックではなかったということですか。

今泉:うーんと、そうだなあ、頭がやわらかいからでしょうけどね、生涯にわたる大ショックなんていうようなものなんかは、ないですね。「あれっ?」というのと、「お父ちゃんが帰ってくるぞ」というのがないまぜですからね。

足立:1950年から1957年ごろの、今泉先生がいわゆる活動をされ始めた期間だと思うのですけれども、日大在学中の体験についてお聞きしたいと思うのです。今泉先生が共産主義というものに関心をいだき始めたのというのは、いつごろでしょうか。

今泉:もちろんそれはもう、そのときそのとき共産主義は大事だって気持ちは強く持っていたはずです。共産主義者かどうかは別として。

足立:基本的に、この本に出会ったとか、誰か共産党の人に出会ったとか、そういった経験はおありですか。

今泉:それはですね、とにかく親父が死んだことがわかって、立川の母親の実家に戻ってくる。そこは書籍も(店に)出してるでしょ。文房具でしょ。タバコでしょ。で、売場が別になっていました。僕は当然のことながらそっちにいたほうが、雑誌を見れるほうがいいから、そっちにいました。なんでも読み放題ですからね(笑)。世間であれこれ噂があると、そういうもんかなと思って、いきなり『資本論』なんかを読んでみた。ちっともわかんなかったけどね(笑)。そういうことはありますね

足立:それは高校生、あるいは中学生のときですね。

今泉:そうですね。中学から高等学校にかけてですね。

足立:共産主義への関心と、絵画への関心と、両方並存していたということですか。

今泉:両極で分けるというほどのことはないとは思うんです。つまり(主義に)共鳴するかどうかということよりも、結論は何だろうか、ということですからね。

足立:日本美術会(註:1946年結成)に対する関心というのは、高校生なり専門学校なりの頃からもう関心があったのでしょうか。

今泉:でしょうね。なんだかわからないけど、とにかく行きましたね。春陽会の会員だった男が近所に住んでいましてね。春陽会の合評会とか何とかいうのによく誘われたりはしましたね。そういうことだけじゃなくて、あれこれ見て回りましたね。書籍・雑誌を商っていますとね、結構な注文があって。手元になければ「じゃあ取ってきましょうか」ということになるでしょ。「これはしめた」っていうので(笑)、リュックサック背負って。だいたい神保町周辺が中心でしたからね。個展を見て回るというような、そういうことをやってました。

光田:展覧会を見て回られたのですね。例えばどのような…。

今泉:よくわかってないから、やっぱり上野の展覧会が多かったろうと思いますがね。

光田:あの頃だったら美術団体連合展(註:1947年開催、毎日新聞社主催)とか。

今泉:そうですねえ。

光田:前衛美術会なんかは?

今泉:前衛美術会は、僕が何も知らないで絵を見始めた頃よりはちょっと後じゃないのかなあ。

光田:その頃、絵の仲間みたいな方はいらっしゃいましたか。

今泉:いや、立川に住んでた頃にはそういうのはいないですね。でも、さっき言いました、春陽会の会員だった男からいろいろ教わったという程度のことはありますけどね。

光田:じゃあ、「春陽会に出そうかな」という気持ちもありましたか。

今泉:どうでしたかな。それだけはなかったんじゃないかな。はっきり覚えていませんがね。研究会があるから来いと言われて、絵を持っていったことがあるんですよ。そしたら、「だいたいこういう絵は問題外だ」みたいな言い方で一蹴されて。腹立てて、それから研究会には行かなくなって。なにがそんなバカなこと言うんだ、って(笑)。

足立:絵を勉強すると同時に、共産主義にも関心があって、日大に入ったとき、周りにたくさんオルグする人たちがいらっしゃったと年譜(註:『機関』11号、1980年、「今泉省彦」特集掲載)に書いてありましたが、今泉先生自身は共産党には入っていらっしゃった?

今泉:入っていません。関心は持ってましたけどね。

足立:それは、強い反発というものがあったのでしょうか。反発する理由というものがあれば教えてください。

今泉:うーん。反発するというほどのことではないけど、なんかどっか変だぞ、というふうに思ったことはありましたね。最初の頃の共産党としてのコメントが、時代に合わせて変わっていきますね。その変わりようがピンと来なかったり、ということで。なんとなく納得いかなかったことはたくさんありましたね。

足立:具体的に、変だぞと思ったエピソードとかありますか。

今泉:はっきりは覚えてませんけどね。いずれにせよ、日本美術会だっけな、共産党系の団体展、あまり面白くなかったですね(笑)。

光田:そうですか(笑)。戦争画はうまいなと思って感心されても、日本美術会は面白くない。

今泉:そういうリアリズムじゃないんですね、やっぱりね。なんかちょっと無理してるな、という感じがね。

宮田:上手いと感じなかった。

今泉:上手いとは思わなかったですね。戦争画のときは「上手いなあ」と思ったんですがね。こんなに描けるのかな、とね。

足立:(年譜によると)1954年には青年美術家連合(註:1953年結成)に、オブザーバーとして参加されたということですが。

今泉:誘われて行ったりはしてましたね。皆さん誤解しているけれども、青美連の仲間だと思っているやつもいたかもしれないけども、僕は入ったこともないですね(笑)。

光田:ああ、そうですか。

足立:青美連というのは、共産主義に同調してない人もかなり沢山いたということですか。

今泉:うん。うっかり入って、「あれ、違うなと思った」やつもいたり。そういうようなことで、共産党の政策というものに肌が合わないやつは何人もいたはずですね。共産党の政策と日本美術会のメンバーの考えがストレスフルになっていったということもあったでしょうね。だけど共産党の人たちは、上部団体から指示があって、どうしようもないから、(仲間に)紹介するなんてこともありました。(日本美術会の思想を)ストレートに理解していたやつなんかいるかなという気がしますね(笑)。

光田:指示というのは、言葉で、こういうふうな美術を(やれ)、というのがあった?

今泉:というか、それぞれの政策が出てくるでしょう。それがピンと来なかったりね。いろいろあったはずだと思いますよ。

足立:1955年、青美連の翌々年だと思うのですけど、私はまだちゃんと理解できてないのですけれども、六全協というのがあって、日本共産党というのが大きく方針転換をしたという。

今泉:そうですね。

宮田:そこでもまた今泉先生の、共産党は変だぞというのがあったのでしょうか。

今泉:そりゃそうですね。(共産党の方針には)あまり釈然としないことがありましたからね。

足立:今泉先生の周りの方々も同じような感じだったですか。

今泉:第6回で全国に問いかけて、構造改革みたいなことを言ったりするむきはありましたけどね。ばかばかしくって、僕はあまり聞く気がしなかったですね。

光田:(当時日本共産党は)二つに分かれていて、中国派とソビエト派というか、分かれていたと思うのですけど、先生はどっちにシンパシーがあるとかもなかったですか。

今泉:ああ、ないですね。

光田:両方ともご興味なかったのですか。

今泉:ないですねえ。周りでしつっこく、入れ入れというやつがいなかったのが幸せだったと思うんだけどね(笑)。

足立:中村宏さんがその頃からの友だちだったんですよね。お友だちではあったけれども、そんなに強くは勧誘されてはいなかったということですか。

今泉:うん、親しくはしていましたけどね。あれは、はてな、1級上だったかな。

足立:上ですね。

今泉:(お互い)長生きしましたけどね。

光田:その頃、たとえば花田清輝さんを読んでいる方も多かったのですけど、先生はいかがでしたか。

今泉:あの人のは読みましたよ。レトリックなんか見事だもんね。

光田:かっこいいですよね。

今泉:かっこいいよ(笑)。

光田:『アヴァンギャルド芸術』とか読まれて?

今泉:うん。

宮田:「夜の会」とかに接近しようとはあまり思わなかったのですか。

今泉:うん。誘われたら行ったかもしれませんけどね。

宮田:自分からは行かなかった。

今泉:ええ。周りで、行こう、行こうなんて人はいなかったから(笑)。

宮田:岡本太郎なんかともそんなに知り合いでは(なかった)。

今泉:ありません。

光田:その頃、『美術批評』という薄い雑誌をけっこう読んでいる方が多かったのですけど、先生はいかがでしたか。

今泉:読んでましたよ。

光田:読んでいらした。どういうふうな雑誌のイメージがおありですか。

今泉:いずれにせよ若い文章の書き手がね、本気でやってることなんだから、これは面白いと思って読んでましたよ。

光田:なかで印象に残る書き手の方はどなたでした?

今泉:いやぁ…… こりゃいいや、この人のところへ行っていろいろ話をしようとかね、そんなふうに考えた人はいないです。

宮田:やっぱり今泉さんは自分が作家だという思いが強いわけですもんね。

今泉:まあ、そりゃそうですわね。絵描きみたいな者ではありましたね。ろくに描きもしないけどね(笑)。

宮田:いやいや、とんでもないです(笑)。その当時、いろいろ見て回ったとお話しなさっていましたけれども、共感したり、いいなと思った作家さんというのはいらっしゃいました?

今泉:いたはずですけどねえ。名前を出せといわれても…。いまひょっと頭に浮かんだのは、三岸好太郎というのはいい絵描きだなとは思いましたね。そういうふうな感じで(好きだった)絵描きは何人もいるはずですけどね。名前が出てこないですよ。

足立:1950年代後半はアンフォルメル旋風という、抽象絵画が日本で流行りましたよね。今泉先生はずっと幼少の頃からリアリズムというものに関心を持っていらしたと思うのですけれど、アンフォルメル旋風やアンフォルメルというのはどのように受けとめていらっしゃいましたか。

今泉:自分では描きたくて描けないで困っているとか、そいうふうなこととは別次元の世界だからね。(他の画家たちに関して)「おお、面白いな」というふうなことは思うにしても、何か(流行に)引っかかって身動きがとれない、みたいなことにはならなかったですね。

光田:見には行かれました?

今泉:ああ、見には行きましたよ。これはね、運がいいといえば運がいいんですがね。立川にあったおふくろの実家の仕入れの仕事なんかをやってましたから、ひょいひょいひょいひょい、歩いて。

光田:東京の真ん中に。

今泉:ええ。ただね、重い荷物を背負って帰らなきゃいけないということですけどね(笑)。そんじょそこらの学生たちに比べれば、はるかに展覧会、個展なんかも含めて、たくさん見ていますね。

光田:タケミヤ画廊とかも行かれましたか。

今泉:ええ、行きました。

光田:印象に残った展示会とかありました?

今泉:いやあ、タケミヤ画廊といきなり言われても、さすが(笑)。

光田:でも、そこは行きたいなと思うようなスペースでしたか?

今泉:必ずあの通りは行きましたよ。あんなご時世に案内状くれるわけないんだから。

光田:案内状はあまり出してないんですものね。

今泉:ともかく画廊のドアがあれば入ってみるというような、そんな感じ。そのうちだんだん「この画廊は行ったってつまんない」というのがわかってきますからね。

光田:タケミヤのほかはどういったところですか。養清堂とかですかね。

今泉:養清堂も行きましたよ。

光田:村松画廊は。

今泉:村松も行ったですよ。そのへんかなあ。

光田:画廊で誰かと知り合いになるとかいうこともありますか。

今泉:それはあんまりないですね。こっちがだいたい社交性のあまりない男ですので(笑)。

光田:そうですか? たとえば瀧口修造さんとかとお会いになったことは、その頃ありましたか。

今泉:ありますけどね、一対一で会うということはあんまりないですね。学校、日大に来られたことがあったかな。どうですかな。何かの集まりで修造さんがおみえになっているというようなことはあるけどね。何度かお訪ねしたこともあるんですが。

光田:どんな方という印象ですか。

今泉:みんなが言ってましたけどね、「お嬢様」って。(笑)

光田:それはどういう意味ですか?

今泉:うん、(瀧口さんは)「おほほほ」って笑うから(笑)。

光田:おほほほ(笑)、なるほど。なんかすましたイメージですか。

今泉:なんだかなあ、率直な話をする人ですけどね。ただ、瀧口さんという人はもうはるかに年上でしてね。これはもう尊敬しなきゃいけない人だというふうに思っていたものだから。かえってろくに話を聞いていないということもありましたね(笑)。

足立:年譜によると、1955年の美術学生協議会の平和友好会で、小畠廣志さんや中西夏彦さん、高松次郎さんとお知り合いになる、とあります。そういう美術大学の枠を超えた、まあ青年美術家連合もそうですけど、学生同士の集まりというのはけっこう盛んにあったのですか。

今泉:それはそういうことがなければね、そういうふうな機会が出てくるわけがないのでね。要するにね、僕は絵のことなんかはもう分かっているから、学校で教わらなくていいと思っていた。だけど彫刻は、教えてもらわないと、これは分からない。だから彫刻をやりたくなった。
 (1950年に)滑り止めで日大を受けたら入学許可をもらった。だけど学費が高いんだ(笑)。だから(東京)芸大も受けたんです。芸大の彫刻。ところが僕は大ミスをやりましてね。当時は進学適性検査というのがあったんです。それの入学試験受験のための手続きの際に、その受験票を持っていかなかった(笑)。受験番号だけは控えをとっていましたのでので、それで受け付けてもらったんです。あの頃は学科試験の適性検査なんてなかったのかなあ。ちょっと記憶がないんですけどね。それで実技試験で石膏デッサンをやった。木炭デッサン。それで「おー、おれがいちばんうめえな」なんて思ってた(笑)。そして面接になった。あのときの彫刻の教授の名前、何という名前だったか、忘れたけどわりと有名な人でしたね。「キミの適性検査の書類が届いてないから、どうした?」なんていうから、それはこうこうで、と。「いやあ惜しいなあ」そんなねえ、「来年も受けてくれ」なんて(言われた)。まあしょうがないから、落っこちたときのための日大に行ったんですけどね。
 日大はあきれたことにね、彫刻室というのはたしかにあるんですが、先輩が一人で勝手につくっているだけであって、指導者が一人もいないんです。そんなバカな話もないんですがね。中村宏は僕より1級上にいたかな。彼は絵画ですけどね。

宮田:中村宏さんの作品なんかは、当時はどのように見えました?

今泉:うーん、一般的な絵だよね。

宮田:一般的な?

今泉:批評としては、「うまいけどね、なんだかマンガっぽいんだよね」なんて言ってた(笑)。

足立:22歳の頃知り合った、高松次郎さんとか中西夏之さんとかはどのように感じられましたか。

今泉:彼らは芸大ですからね。だいたいそんなにつきあいがあるわけではなかった。青年学生平和友好祭とかなんとかいうのでね、全学連かなんかの呼びかけで、集まりながら喋っていた。僕は日大へ行っても何もやることないんだから(笑)。肝心の彫刻を誰も教えてくれないというわけで。そういうのに顔を出していたから、彼らとも親しくなったということにはなります。

足立:大学を超えた学生の集まりでは、そんなに絵を見せ合ったりとかいうことはなかったわけですね、学生のときは。

今泉:(合同で)展覧会というようなかたちでやることはあっても、研究会のような集まりをつくるという考えは誰も持ってなかった気がしますね。

足立:集まって、会議をして、飲みに行ってという感じだったのでしょうか。

今泉:その頃はあんまりお金を持ってませんからね。

宮田:飲みに行くということは(ありましたか)。

今泉:飲んでしゃべるなんてことはしないような。

宮田:もっとまじめだった?

今泉:はい。

光田:(その頃の)話題は、作品のことですか? リアリズムとか。どんな話題を、何を話し合うのですか。年譜にある美術学生協議会(註:1954年結成、今泉が日大側の準備委員となる)というのは、イメージがあまりわかなくて。

今泉:いやぁ、忘れておりますね。次、何をやるかとか、なんとか、そんなような話のほうが多かったんじゃないですかね。

宮田:何をやるかということは、自分がどういうふうにやるか、とかいうことですか。それとも、どういうような展覧会をやっていこうかとかいうところでしょうかね。

今泉:そこに集まってきている諸君はみんな、それぞれ大学で、本気でやっている仕事があるわけでしょ。それがないのは僕だけだから、結局みんななんだかんだ僕のところに集まってきちゃった、というようなことは言えます。

宮田:特異な存在だったんですね。

今泉:取り仕切り役を引き受けざるをえない。

光田:当時、「美術運動」とか、「芸術運動」というような言い方もあったと思うのですけど、この美術学生協議会はそういう運動的な性格はありました?

今泉:そのつもりだったろうと思いますよ。だけど、どうかね、そんな感じで動いたことはないんじゃないかな。美術学生協議会だなんていったって、当然、美術学生が学生生活を営んでいくうえでのいろいろな問題というのを、どう解決していくか、なんていうような話を、やるべきはずですよね。それはちょっと覚えがないんですよね(笑)。

光田:当時、中西先生も左翼的な思想に関心を持っておられたのではないかと思いますが。

今泉:うーん、そうでしょうねえ。だいたいそんなとこに関心を持って来るのは、傾向としてはそうですよね。とにかく大学の中でも、なんだかちょっと肌が合わないとかね、もっといい方法をがあるんじゃないかと考えた人たちなんでしょうね。

光田:高松さんはあまり政治的なとこが少ないような印象がありますが。

今泉:うーん、どうだったでしょうかね。いずれにせよ、彼は中央線沿線だったからね、いちばん親しくつきあっておりましたけども、どうだったですかねえ。

宮田:若い頃の高松さんの思い出というのはありますか。一緒に遊びに行ったとか。

今泉:親しくつきあっていましたら、そういうこともあったかと思うんですけども。

宮田:やっぱり高松さんなり中村さんなり、同世代というのは今泉さんにとってはライバルだったのですか。

今泉:高松は僕よりちょっと下だった。

宮田:ちょっと下だったですね。中村さんなんかはちょっと上だった。

今泉:中村はだいたい同じ世代かな。盛んに議論はしたりしましたけどね。覚えてませんねえ。

足立:今泉先生としては急に友だちとデモに行くとか、そういったことは(ありましたか)。砂川闘争(註:1955年から1960年代にかけて立川の砂川基地建設をめぐって起きた反対運動)とかあったと思うのですけど。

今泉:僕はもう、大学闘争というようなことについてはちょっと距離を置いて見ている感じがありましたね。うーんとね、あの当時(職場)は立川基地の中にありましたね。電話局とか。そこの交換室(註:1956年、今泉は日本電信電話公社立川特別電話局の機械課に働き始める)。

宮田:電話の交換室。

今泉:電話の交換機の、そこでベルが鳴りますから、それを鳴るようにして。そんなことをずっとやってましたからね。ちょっと職場が近すぎて、デモに行くなんていうような具合にはなってなかったような気がしますね。

足立:学生時代、日大在学中の、青美連だとか美術学生協議会というのは、みんなデモに行ったりするような団体ではなかったわけですか。

今泉:そういう団体ではなかったと思います。じゃあ何をやったんだと思いますけどね(笑)。その頃の指導者がいいと思ってたくさんつくったんだろう。

足立:今泉先生よりも上の世代の方、例えば上の世代の福沢一郎さんとか、小山田二郎さんとか、鶴岡政男さんなどには、あまり興味がなかったんですか。

今泉:いやいや、興味がなかったわけではないけれど、結局、交流がなかったという感じですね。いい仕事をなさっているしね。

宮田:日大の学生の頃、今泉さんはどのような絵を描いておられたんですか。

今泉:(図版を見ながら)そんなところですよね。これなんか中村宏(風)だもんね。

光田:ちょっと小山田二郎的なところも(笑)。ビュッフェとかも流行りましたよね。ベルナー・ビュッフェ。

今泉:そうですねえ。

光田:先生、ご興味ありました?

今泉:いい作家だと思ってましたよ。

宮田:けっこう盛んに発表なさってたんですか。

今泉:いや、そんなことはないです。

宮田:あまり発表しなかった。

今泉:ええ。

宮田:あまり発表することに意味を感じなかったんですか。

今泉:そうですねえ。だってあんまり描いてないということもありますけど(笑)。個展をやるような作品は、その当時なかった。団体展だって、なんだろうな、クソみたいな作品(笑)。

光田:そうですか。それは、その春陽会の研究会を見たあとのことですか。

今泉:春陽会もそうだし、日本美術会もそうだし。なんだろうね、(読売)アンデパンダン展も。どっちかというと、友人だからそれは見に行きますけども、自分で出したいなと全然思わなかった。

光田:そうですか。じゃあかなり批判的ですね、先生。

今泉:うん。ただ、読売(アンパン)のときだったかな、騒ぎがありましたよね。

光田:撤去騒ぎですか。

今泉:何だったっけかな。それはあおりに入ってましたけどね(笑)。

光田:そうですか。なぜ出したくないと思われたんですか。

今泉:だってつまんないと思ってるから。

光田:つまんない。それは、出てる作品がつまんない?

今泉:だいたいはもう、絵を見る場所じゃないんだもんなあ。

光田:それはどういう意味ですか。

今泉:つまり、ああいうスペースで発表するような仕事をみんながしてないじゃないかということがあったような気がしますね。

光田:それはレベルですか。

今泉:いや、場所柄が違うというかな。

光田:場所……、上野ですよね、場所は。

今泉:ええ。えーっと…… その違いは、(赤瀬川原平の)模造千円札をあちこちに貼りまわったりというようなことになると、ああ面白い、ということにはなるんだけれども(笑)。彼のその千円札は、ベニヤ板くらいの大きな絵で描いて出してましたけどね、これはちっとも面白くないんですね(笑)。(千円札の絵を描いたから)だから何だってんだよと思った。

光田:それより小山田二郎のタケミヤとかでの展覧会のほうが(面白かった)。

今泉:時代的にはズレがあるのですけれど。会場の条件というものがありますでしょ。上野の(東京都)美術館で何をやったらいいのか、なんていうようなことを考えると、千円札を、ベニヤ板の大きさでペン画を描いて出したって、ちっとも面白くねえというような、そういうふうには思いましたね。
そのとき、同時にその千円札を印刷したものを、会場の中であちこちピン留めして歩いていた。それを「外へ持ってけ!」なんて言ったりしました。
高松次郎が紐の作品を出しましてね(高松次郎《カーテンに関する反実在性について》1963年)。アンデパンダン展のいちばん奥の部屋でしたかしら。食卓、テーブルを真ん中に据えておいて、そこから紐をずーっと(伸ばしていく)。でも、その部屋の、入口のところまでしか持っていかないんですよ。ダメだ、こりゃ(と思った)(笑)。

宮田:足りないって?(笑)

今泉:そう。「もっと隣へ、もっと長く、もっと持ってけよ!」って言った。中西が面白がってね、翌日、荷造り紐のでかいのを買ってきて、隣で、紐をグルグル解いて、美術館の階段を下りて、駅のほうに向かって歩くんです。人が立ち話をしたりしているでしょ。その間をくぐっていったりすると、人の波が分かれていくの。

光田:じゃあ、あの紐を伸ばしたのは、中西先生なんですか。

今泉:ええ。

光田:高松さんは入口のところまでだけ(紐を伸ばした)?

今泉:高松は、入口というのは、そうですね、美術館の入口じゃなくてね。

光田:部屋の入口まで?

今泉:部屋の入口まで。

光田:じゃあ、あとは中西先生ですね。ガーッと紐を伸ばしたのは。

今泉:そうそう。

光田:しかも今泉先生が、「これじゃ足りないから伸ばせ」って言ったから、翌日、中西先生がやった。

今泉:まあ、面白いということだろうけどね。それで「上野の駅まで持っていけ」って。

光田:持っていけと言ったのは先生ですか。

今泉:ええ。それで線路で、「日本全土につながるだろう」って言った。(笑)

光田:線路まではちょっと行かなかったですよね。線路まで行ったんですか。

今泉:改札の脇の前まで。有刺鉄線のところまで行ったのは目撃しましたがね。(笑)

光田:なんか、改札に有刺鉄線(笑)。

今泉:線路につなげるということはできなかったでしょうね。

光田:じゃあ展覧会のいちばん最初の日は、紐が部屋の入口のところまでだったんですね。

今泉:そうです。その日は風倉(匠)が、ちょうど高松のテーブルが置いてある部屋の脇の踊り場のところで、チンポコ丸出しの逆立ちをやってたんです。面白かったですね。(笑)

光田:それはだれも止めないんですか。

今泉:いやいや、こっちが面白がって見てるだけでしょ。風倉、逆立ちってどれくらいもつのかな、なんて思って(笑)。面白がって見る奴が来ると、止められなくなって、(風倉も)止められなくなりますよね。まあ幸いにしてというか、係の人が話を聞いて飛んできて、「止やめてください、止めてください」って言った(笑)。風倉は、展覧会の事務所に引っぱって行かれたわけだ。こっちは面白がってくっついていって、ワイワイガヤガヤやりましたね。

足立:その少し前1958年に雑誌『形象』を創刊されましたね。

光田:この「形象」というタイトルの意味は「フォルム」ですか。先生、これはどういうものですか。

今泉:だれかがつけたんだろう。僕がつけたんじゃないんだね。「なんだっていいよ」なんてなもんで、だれがつけたんだろう。

光田:『形象』には最初から先生の名前ありますね。

今泉:小冊子をやろうという話になったんではなくて、だれかから何か誘われて乗ったんだと思いますよ。(『形象』1号を見ながら)ああそうだ。編集が、来島靖生で、そこに発行人に佐藤和男と書いてありますね。その佐藤という男が言い出しっぺですね。来島という男と佐藤は同じ高校の先生同士だったんですよ。遠藤昭というのは佐藤と同級生で、同じ芸大(出身)ですよね。この近所に住んでいますよ。

足立:関根正二について、今泉先生は1号で書かれましたね。

今泉:ああ、ほんとだ。

宮田:58年の頃はリアリズムに強い関心があったのですか。

今泉:好きな作家でしたからね。

光田:でも、実際の作品を見る機会は少ないですよね。

今泉:そうですね、今はね。

宮田:当時、どこかで関根正二も見たんですか。

今泉:回顧展がデパートかどこかであったと思いますよ。

宮田:1953年の「関根正二」から1963年の「直接行動の兆」へと、『形象』で書かれた評論で、扱う主題が大きく変わったように思われます。

光田:『形象』1号の「関根正二」の次は、2号で「ケーテ・コルヴィッツ」ですね。

足立:そのころ、大きな心境の変化というのがあったのでしょうか。

今泉:どうでしょうかねえ(笑)。読んで判断していただくしかないところだけど。

宮田:60年を境にして、何かが変わったのでしょうか。

今泉:簡単な話、絵描いて、展覧会やってそれでおしまいにするなんてつもりがなくなってきていた、ということはありますよね。

光田:絵を描いて、展覧会をやっておしまいというのはダメだと。

今泉:うーん、面白くない……

光田:面白くするためにはやっぱり。

今泉:ですから、高松次郎の紐の作品も、本人が知らないうちに中西が上野駅まで伸ばして行っちゃうとかね。そういうことのほうが面白いですよね。コンセプトが、バラバラではいても、ちゃんとありますからね。

光田:先生が文章を書くということは、この『形象』から始められたんですか。それより前からですか。

今泉:おそらく、「書け」なんて言われて書き始めたのは『形象』からじゃないでしょうかね。

光田:そうですか。先生の中で文章を書かれることの手応えはどうでした?

今泉:どうでしょうかね。人が読んでもね、「なんだこれ、つまんねえな」ってことを思われたくはないとは思うけどもね(笑)。自分でもやっぱり面白がって書いているところがあるんですけよね。

光田:『形象』5号(1962年3月)に「エクイプメント・ブラン」という文章を長良棟という名前で書かれます。

今泉:ええ、そうです。

光田:この名前は、どういう意味ですか。

今泉:意味なんかべつにないです。

光田:意味ない(笑)。

今泉:同じ名前ばかり並んでいてもしょうがないなと思って、名前を変えているだけです。

光田:でも、長良棟って普通の名前じゃないと思うんですけど。

今泉:そりゃ「変わった名前だな」と思わせようと一所懸命やってるとは思いますけどね(笑)。

光田:意味がないんですね?

今泉:長良棟ということには、べつに意味はなかったと思いますよ。

足立:意識されていた文章家とか評論家とかいますか。

今泉:そんなことのために意識したというふうなことはないですけどね。文芸評論家でいい文章を書く人というのはたくさんいましたよね。

足立:たとえば。

今泉:小林秀雄もそうだし、花田清輝もそうだし、福田恆存。花田清輝はなかなかよかった。面白かったですね。

宮田:美術評論家はどうでした?

今泉:美術評論家ではいないです。(笑)

宮田:瀧口修造も、いまいち。

今泉:修造さんも、あの人は詩を書いてりゃ良かったのにな、というように思います(笑)。

宮田:まさに展覧会の延長として文章を書いているという、先生の意識はあったんですか。

今泉:うーん、文章家になったつもりじゃないからね。だいたいが、「書け」と言われて書いてるということで。

宮田:やっぱり自分は絵描きであるということの意識が強い。

今泉:うーん、そうでしょうかねえ。絵が描けなくても。

足立:年譜によると、1962年に、自立学校を企画されて、展覧会を超えた大きなことを構想されたのですね。展覧会を超えたところで「学校」が出てきたというのが面白いなと思ったのですけれど、そのきっかけというのは何だったのでしょうか。

今泉:それはね、自分の発想ではなくてね、川仁宏という男が言い出したんで、それは面白いなと言って乗っかったのです。僕の発想ではないはずです。だいたいそういうことのほうがが多いんだけど。言い出しっぺがやるわけじゃなくてね、自分がやっていたところがあります。自分でやりたいなんていって始った個展なんてひとつもないしね(笑)。

光田:そうなんですか。

足立:読売アンデパンダン展のような、高松次郎さんのお話がありましたけれども、ほかに面白かった思い出があれば。あるいは当時は有名だったけど、今は一介の、忘れられた美術家とか。

今泉:ほかの展覧会よりはね、読売アンデパンダン展は見に行ったら面白いからね。面白いのを見つけることができたですから。読(よみ)のアンパンにはちょっと行ったけど、日本美術会のアンパンなんていうのは。「来てよ」なんて言われなきゃ行かないから(笑)。つまんないからね。

宮田:やっぱり展覧会とか美術というものの、日本における、自分が住んでいるところのあり方に対して、今泉さんは独特な見解を持っているような気がするんですね。既存のものに対して頼らないというところがあるんじゃないかなって、僕なんかすごく感じるんですね。それが、展示空間がつまらなかったり、学校のほうに結びついていくとか。そういうような発想があるんじゃないかと思うんですね。それはやはり社会に常に目を向けているというところから出てくるんでしょうかね。

今泉:社会といってもいいですかね。人間関係がね、ウェッティで、見ただけで終わりじゃないほうが(面白い)。

宮田:見ただけで終わるんじゃなくて、みたいな。先生より上の世代の人たちのやり方とか同じではなくて、やっぱりなんというか独自な発想だと思うんですよね。で、今泉さんの論文もたくさん読ませていただきましたけど、明治時代からの美術の動向というのはかなり勉強なさっていらっしゃいますもんね。

今泉:ああ、そうですか(笑)。

宮田:そういうなかでおのずと生まれてきたというところがあるんですかね。

光田:先生、『形象』のほかの同人の方というか、文章を書いていらした方で、小池達也さんと近江良さん。という方が書いておられます。どんな方でしょうか。

今泉:近江良というのは遠藤昭です。

光田:あ、そうなんだ。小池達也さんは、じゃあ……。

今泉:ということになると佐藤和男かね。

光田:じゃあ同人の方はみんなダブルのネームを使っていらした。

宮田:全然違うことを書いてるんですか。

光田:全然ではないんですけど、でも先生も、今泉のときと長良棟さんのときはちょっと違うんですよ(笑)。同人の方は皆さんペンネームも使って、両方で書き分けていらした。

今泉:うん、書き分けてはいますけどね。名前が少ないと面白くないじゃないですか(笑)。

光田:そうですよね(笑)。そうだったのか。だれかと思った(笑)。中西夏之先生もペンネームありましたか。

今泉:あの人はなかったんじゃないかなあ。

光田:そうでしたか。

光田:『形象』という雑誌は何部ぐらい刷っていたんでしょうか。

今泉:200ぐらいじゃないかなあ。

光田:200。これは売ってたんですか、それとも配ってたんですか。

今泉:タテマエは売るはずですよ。

光田:タテマエは売る。はい。値段、書いてありますね。

足立:やっぱり持ち出しだったんですか。

光田:そうでしょうね。

今泉:でしょうね。

光田:これ、何かスポンサーとかなかったんですか。皆さんでお金を持ち寄ってつくったんですか。

今泉:持ち寄ってつくったというよりは、つくっちゃってから(お金を出した)…(笑)。

光田:なるほど。

宮田:そういう手があるんだ(笑)。

今泉:そうなると売るしかないです。

光田:売れましたか。

今泉:僕はその頃給料取りだったから、売ってないですね。

足立:今泉先生がいちばんお金を多く出したとか、そういうことはべつにないですか。みんな等分に。

今泉:そのへんはわかりません。(笑)。請求書が来たときに金を持ってるか持ってないかの違いです(笑)。

足立:赤瀬川(原平)さんの千円札を印刷した作品が『形象』に発表されたときと(8号、1963年)いうのは、それが印刷されたときは、べつにこれはまずいとかいうことは考えていなかったのでしょうか。やっぱり楽しかったんでしょうか。

今泉:うん。これを新券の千円札と間違えるやつなんかいるわけがないんだから(笑)。

足立:はじめて赤瀬川さんの千円札の作品をご覧になったときは、美術としての価値というのはどんなふうに考えていました?

今泉:そういうふうに広まっていくと面白いなとは思ったね。

足立:68年、37歳のときに美学校の創立・運営を始められます。その頃のいちばん印象に残った講師の先生について話をしていただけますか。

今泉:なんたって松山俊太郎ですね。

一堂:フーム。

今泉:個性豊かで、呑んべえで、面白い男でしたね。

宮田:じゃあ、赤瀬川さんや松沢(宥)さんよりも松山さんのほうが印象に残っていらっしゃる。

今泉:赤瀬川さんとか松沢(宥)さんというのは、だいたい話はわかっているわけですからね。だけど松山俊太郎というのは、美学校が始まって初めて出会うわけだから、これは面白れえやと思ってね。それだけのことかもしれないけれど。面白い人でしたよ。こいこい(花札)が大好きで。生徒を気が向いたら誘ってましたからね。

光田:美学校というのは美術学校じゃないんですよね。美学校というのは、美の学校ですか、それとも美学の校ですか。

今泉:なんでしょうかねえ。名前をつけたやつにまじめに聞いたことないんだけどね(笑)。

光田:名前つけたのは先生じゃないんですか?

今泉:僕じゃないですよ。

光田:どなたですか。

今泉:現代思潮社の社長じゃないですかね、石井恭二という。今、現代思潮社というのは存在してますか?

宮田:どうなんですかね。現代思潮社はもうないですよね(註:現代思潮社は、2000年に現代思潮新社と改称)。

栄子:美学校のパンフ、見ました? 2009年。去年だよね。お父さんはもうかかわってないけど、だけど長くがんばったんで。

宮田:奥さまと今泉先生はどういうご縁で。

栄子:ご縁で? ご縁があったの?(笑)ねえ?

今泉:電電公社。

栄子:言わなくてもいいんだよ(笑)。電電公社に勤めてたんですよ。私もずっとそうですからね。それでちょっとお目にかかる機会がありました。お兄さんもよく知ってる。私、お兄さんのほうが知ってたんです。

宮田:最初から今泉先生が美大出身の方というのはご存知だったわけですか。

栄子:なんだか「日大に7年いたけど卒業してない」という、キャッチフレーズを本人から聞きました。ああなるほど、と(笑)。でも電電公社にいた頃は、私よりも遅く入社してるから。私なんか中学出てすぐ働きだしたから、違うんだけども。まあちょっとよくわかんないね。何をしてたのかはわかんないけど、あの当時の電電公社というのはすごく楽だったから。だからだんだんと圧迫が強くなって。その頃が長かったから。私なんかは、踏み絵じゃないけど、NTTに移行するときの大変さを経験してるから。

足立:ずっと勤めていらっしゃったんですね。

栄子:うん。だって食べていける?(笑)

光田:やっぱり奥さまあってこそでしょうね(笑)。

栄子:それはどうかわからないけどね、私は、自分のことは自分で守らなきゃしょうがないからね(笑)。息子も2人いたし。あまりそういうことはこだわってなかったんですよ。マザコンしちゃったのは良くなかったわね。そう思う。それだけぐらい。あとは全然。私の分野とは違うからさ。でも、お正月というと、帰ってくると、とぐろ巻いてる若い人たちが家にいるんですよ。だから、私も、乾き物で一杯やってもおいしくないだろうとも思うから、普段からなにかしら用意してあったでしょ。もうここ何年かは、止めましたから、既製品でね(笑)。今そういうことをしようといっても、もう全然お構いなしです。今泉に感謝されたわけでもないし。

光田:えーそんな(笑)。

栄子:私も好きでやってたんですから。そりゃそうよ。なんていうか、サラリーマンの世界というのはさ、味気ない。私なんか職場で楽しくなかったわけね。だけど、なんていうのかな、絵描きの世界は全然違うんですよね。年末からお正月三が日まで、絵描きの夫妻がここに来るわけ。ご飯もいるしね。夫婦、子ども連れてきたら、お弁当までつくってた。日頃楽しく過ごしていた。美学校というのはいろんなことがありましたからね(笑)。

光田:すごい大変ですね。日頃お勤めもしてるのに。尊敬します。

栄子:それは、ここだけのお茶話。

光田:いちばん感動的だ(笑)。

今泉:うふふ。

栄子:面白いよね、ご縁があるということはやっぱりね。幸か不幸か(笑)。でもね、日常的に退屈しないわね。

光田:退屈はなさそうですね(笑)。

栄子:もうね、普通の感覚じゃダメよ。「常識というのは誰がつくったんだ」って(今泉は言った)。「そもそも…」と言われて「ああ、なるほど」と勉強しましたよ。

光田:先生は、電電公社にどのくらいお勤めだったのですか。

栄子:12、3年だったよね、勤めたの。立川基地ご存知ですか。あのなかに特別電話局ってあったの。基地の中の施設の管理でしょ。それが、立川の基地がなくなるということで、撤退するということで、そこの建物がなくなるわけね。そのときに転勤、配転があったわけ。この人はそれで辞めたの。何人かの職場の人たちも止めた。私も、課長夫人なんていうの嫌だからね、断ってたの(笑)。このほうが楽でいいよ、って。いやですよ、こっちは勤めてるのに、相手は管理職なんていうのは。私はほかに行きようがないから、キャリアがあるわけじゃないしね。だから私は職場にいて、この人は青春を謳歌してた。この人は楽しんで、いいんじゃないですかね。12、3年たってと思うよ。24~25からでしょ。美学校で辞めたんだもんね。美学校をやるので辞めたの。帰ってくると、私は寝てるという生活が何十年もあって。だから勤まったのよ、私。

光田:感動的ですね。

足立:頭が下がります。

栄子:選択というのはそういうもんですよ。

光田:そう思いますけど、でも。

栄子:全然それはね、苦労を、言いたいと思わない。聞いてもらいたいとも思わない。別々が当たり前に思ってたから、私はね。当たり前だもん。どっちが稼いだっていいわけでしょ、生活はね。でも美学校でね、それなりの役割を、私ができないことを、今泉がやってるわけじゃないですか。それが生活につながる、つながらないは別として。亭主だからじゃなくてさ、人がいるっていうのは楽しいよ。ここへ来る人間は、「それでね」なんてじっくり話ししてるんだよね、若い人たちにね。よく笑わせてもらった。面白い人たちが、こうやってとぐろ巻いてて、楽しかった。

光田:先生は、絵は描かれてなくても、作品をつくっているというような意識はおありでしたか。

今泉:なにも描かないで描いてるとは言わないけど、つもりは絵描きですよ。

光田:つもりは絵描き。たとえば、反絵画的な時代だったような気がするんですけど、先生は絵描きということにこだわる、描かない絵描き(笑)。

今泉:いやいや(笑)。そうすることでもって反応をしていく人たちというのも面白いからね。

光田:それが面白い。

今泉:私が、「赤瀬川のつくった千円札をね、美術館の中でだけで撒いたら」と言ったけど、「公園で撒いてこい」なんていうようなことを中西が言いもしました。それは(元々は)自分の発想ですからね。

光田:はい。先生の作品というような……

今泉:そんな傲慢なことは言うつもりはないけども、そうすると、「うん」といって乗るやつがいれば、乗るやつは僕の(考えに乗ったわけ)だから(笑)。乗るも乗らないも、乗らせたわけじゃないんだから。

光田:じゃあ先生は、発想ができれば、ほかの人が「うん」といって乗って、それが作品化されていけば、いいと思った。

今泉:うん、「これ、面白い」ということがあれば、「面白い」ということになればそれでいいわけで。

光田:それ、なんかコンセプチャルアートって感じなんですけど(笑)。

今泉:それはつまり、だれがやろうがいいわけです。

光田:かなり先生はアナーキーですね。

今泉:だれもやらなきゃ自分がやるだろうし。

光田:そこまで徹底して考えていらっしゃった。でも、お気持ちは、自分は絵描きと思っていた。

今泉:そういう現場にいればそうですがね、それは。そうでなきゃいけないと思ってますけどね。

光田:でも、先生のその「絵描き」という言葉は、絵を描く人っていうことだけじゃない、もっと広がりのある言葉ですよね。

今泉:そうですねえ。「表現者」だという思いですけどね。ここで触発されて、こういうことがあると面白いなと思ったら、スススッと行っちゃうというふうなことでね。「それはいけない」という理由はどこにもないというふうに思いますね。それが記録として残ろうが残るまいが、そういうことではないですからね。

光田:じゃあ先生は、記録というか、撮影とかはあまりこだわらないタイプですか。

今泉:ええ。自分はカメラを使いませんのでね(笑)。

光田:でも先生のアルバムとか、いっぱい写真があるとか。

今泉:ないですね(笑)。人が撮ってくれた写真はありますけどね。

光田:絵画作品なんかは全部ストックされているんですか。

今泉:だいたい捨てちゃいないと思いますけどね。

今泉:美学校という発想は、僕にはまるでなかった。美学校という変な学校をつくろうというのは、端から思ったことはなかったですら。

足立:今泉さんが学校をつくるつもりはなかったということですか。

今泉:じゃなくて、やるから来てよというようなことで。川仁というのはなかなかのくせ者なんですよ。

足立:川仁さんと初めてお知り合いになったのはどういうきっかけだったのですか。

今泉:川仁はね、僕の高校の同級生で岡田睦というのがいるんですよ。小説家になったんですけどね。あまり知られてませんけど。単行本の何冊かはあります。その男と川仁宏が慶應の仏文で仲良くなっちゃった。それが川仁を連れてきたという。川仁は現代思潮社の編集に入った。現代思潮社の石井恭二さんが、ちょっと行き詰まりを感じたんでしょうね。何か新しくやることないだろうかなんて話になった。講師陣の、講義講師の講義をするという、それのラインアップをやる学校になった。

足立:美学校というのはとくに定年はなかったんですか?

今泉:僕がですか?今からやれと言われればやりますよ(笑)。

足立:じゃあ今日はこれくらいで。

宮田・足立:今日はありがとうございました。ごちそうさまでした。

光田:ありがとうございます。