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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

加藤アキラ オーラル・ヒストリー 第1回

2012年12月19日

高崎市箕郷、加藤氏自宅にて

インタヴュアー:田中龍也、住友文彦

書き起こし:山川恵里菜

公開日:2013年11月29日

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加藤アキラ(かとう・あきら 1937年~)
1937(昭和12)年、高崎市赤坂町に生まれる。1965年頃に、前橋市内で当時「やまだや画廊」を運営し、前衛美術集団「群馬NOMOグループ」を牽引していた金子英彦の目に留まり、同グループに参加することがその後の作家活動において大きな契機となった。1966年「第7回現代日本美術展」入選(東京都美術館)、同年シェル賞佳作入賞(白木屋、日本橋)、1968年「第8回現代日本美術展」入選(東京都美術館)、1969年「国際青年美術家展」入選(西武百貨店、池袋)、同年「第9回現代日本美術展」入選(東京都美術館)、同年「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)、同年「ジャパン・アート・フェスティバル」優秀賞受賞(東京国立近代美術館)と若くして華々しい活動をする。
車の整備工だった加藤は身近な素材であった部品を磨くワイヤーブラシを選び、擦る行為によって残る筋状痕に着目し、「REPORT」シリーズを制作した。
それ以降も、自宅のそばにある竹や、川で採れる砂鉄など、身近で手に入る素材に手を加えていくことで形を生み出していく手法で作品をつくっている。近年の作品においてすべてが作家の行為によって作られた「線」の痕跡が通底している。それは、急激に情報化されていく社会に翻弄されつつも、身体的な現実感を獲得するための表現を一貫して模索し続けてきたように見える。

田中:まず加藤さんの生い立ちについてからお聞きしていきたいと思うのですけども、お生まれが高崎市の赤坂町ですか?

加藤:はい。そうですね。番地は49番地ですね。

田中:何かお仕事されていたおうちだったんですか。

加藤:あそこで生まれて育ったっていうことなんです。

田中:古いですもんね。

加藤:ええ、はい。あそこにいたのが、38(歳)で彼女と一緒に住むようになって。

田中:ご結婚するまで高崎に住んでいたんですね。

加藤:はい。

田中:ご結婚してからこちらですか。

加藤:はい。ま、実際にはうちのは正式に結婚しているってわけじゃなくて(笑)、ええ、内縁の妻ってやつですかね。

田中:そうなんですか。ずっと最初から、今まで。

加藤:ええ。

田中:今もそうなんですか。

加藤:彼女、わりと自己主張が強いほうでね。それで自分で高崎のほうでブティックをやっていたんですよ。それなんで名前を変えるってすごく気が悪いらしくて。

住友:なるほど。

加藤:それで、前に夫婦別姓の法律ができるとか、できそうな感じだったけれど、その法律ができたら籍を入れようかね、な感じで。だけど全然それが立ち切れになってそのままになっちゃって、今に至るんですよね。

田中:奥様のお名前お伺いしてもいいですか。

加藤:藤崎幸子っていいます。

住友:おいくつの時ですか。ご一緒になられたのは?

加藤:僕は38(歳)かな。彼女が九つか、十(とう)違う時もあるんだけど、うーんと…… 29(歳)くらいですかね。

田中:じゃあ、奥様はずっと高崎でブティックをされてたわけですか。

加藤:そうですね。井上ビルの傍の「いま人」って店なんですけどね。ビートルズの『イマジン』をもじったんだけど。

住友:ご実家は何かご商売されていたりしたんですか。

加藤:僕の親父(おやじ)がね、太平洋戦争が終戦になって一年して死んだんですよ。で、その前の時は空き缶屋とかをやっていて。今でいうリサイクルショップですよね。そういうのやっていて。僕が小学校3年の時に死んだんですよね。

田中:じゃあその後はお母様が女手ひとつで育てたわけですか。

加藤:そうですね。で、僕は血のつながった兄弟が5人いましてね、で、ちょっと複雑なんだけど、1番上が女で、その次が男で、3番目が私で、そのあとふたりが男で、5人なんですよ。で、そのうちの私と1番上の姉が真(しん)の兄弟で、あとは全部異母兄弟っていうか。でも親父は再婚したわけじゃないですよ(笑)ちょっと複雑なんだけど。

住友:じゃあお母さんは他のお子さんも引き取ってたっていうことですか。

加藤:引き取ったっていうか、親父(おやじ)にそういうふうにやらされたっていうか。結局、他に女を作って、昔の言い方をすれば、「二号」っていうの、そういうの作って、その子どもをおふくろに育てさせたっていうか。

住友:もちろん大人の事情と小さい頃は関係ないから、兄弟同士は、普通に仲良かったのですか。

加藤:ええ。ええ。そうですね。親父が僕が小学校3年の時に死んだ時、終戦後1年か2年でしょ。あの頃はもう経済的にすごく大変な時代で、NHKのドラマの『おしん』じゃないけど、かなり食い物もなかった時代だったから、だから母は子どもたちを育てるのが大変で。そして上の兄貴ってのが、元の家に引き取られたっていうか、戻したっていうか。親父が死んでからね。(註:『おしん』とは1983年4月から84年3月まで1年間毎朝放送されたNHK連続テレビ小説。明治時代、山形にうまれた主人公おしんが、家庭の貧しさから口減らしのため7歳で奉公に出され、不幸な境遇にめげず大正昭和の激動の時代を生きた姿を描き、驚異の視聴率を得たテレビドラマである。後に中東をはじめ世界各地で放送され、懸命に生きるひとりの女性の姿に国境を越え共感を得た名作として知られる。)

田中:なるほど。

住友:じゃあ、兄弟がばらばらになってしまったのですか。

加藤:いや、その前に1番上の姉が7歳で養女に行っちゃったんですよ。で、養女に行ったっていう先は、親父の姉が嫁いだ先が子どもができなくて、それで養女にやったんですよね。おふくろは当然反対したんだけど、あの頃は父権時代っていうかな、そういう時代だったから、結局姑の力のほうがすごくあって抵抗できなかったんだね。

田中:じゃあその後は加藤さんが(兄弟の中で)一番上(になったのですか)。

加藤:そうだね。だから、「学校」という状態じゃ全然なかったっていうかね、うん、貧困時代だったから。

田中:お母様は何かお仕事はされてたんですか。

加藤:親父が死んでから下駄屋に行ったりとか、産婦人科の賄い婦とか、縫製関係の刺繍をやっているところに勤めたりとか。

住友:じゃあ結構お仕事とかは変わられることが多かったんですか。

加藤:覚えているのはその三つくらいですかね、その合間に内職したりとかね、郵便物の現金封筒の袋貼りとかもしていたんですよ。それで僕も手伝ったこともありますけど、そういう時代だったですよね。

田中:加藤さんご自身は、小学校中学校の頃は、アルバイト的なこととかはされたんですか。

加藤:新聞配達をやりましたね。中学2年から3年まで、2年間くらい。今はもう中学生のバイトって駄目なんでしょ。

田中:ああ、そうみたいですね。この間も事故ありましたもんね。

加藤:前はそんなに規則がきつくはなかったんだけど。

住友:小学校と中学校の名前をお聞きしてもいいですか。

加藤:小学校はね、高崎市中央小学校で、中学は高崎市立第一中学から、3年になって第二中学に移ったんですよね。それは僕の住所が変わったわけじゃなくて区域が変わったからなんだろうと思うんだけどね。第二中学っていうのは、今はもう潰れちゃったけど、当時は太平洋戦争の時に使っていた三十八部隊(通称 東部三八部隊 正式名称は東部軍管区宇都宮師管区歩兵第三補充隊 第二次大戦時の高崎駐留日本軍)の兵舎を使っていたんですよ。最終的に中学3年の1年間だったんだけどね。

住友:どういうお子さんだったっていう風に思われますか。

加藤:どういうって、自分でですか。自分でどうかってよくわかんないけど。

住友:まわりの友達とかと仲良く遊ぶほうだったとか、わりとひとりだったとか。

加藤:どっちかっていうと正義感が強いっていうかな。例えばガキ大将みたいのっているでしょう、で、ガキ大将って正月に松小屋っていうのを、角松なんかを集めて作るんですよ。そういう時にガキ大将が舎弟に「のし持ってこい」とかあれしろこれしろとか。それで気に入らないとパーにするとかって。パーって要するに仲間はずれですよね。そういうふうにする。今で言うイジメになるのかな。で、そういうのが逆に腹立って、逆に仲間外れにしたやつを仲間外れにしちゃうみたいな。わりとそういう、年下には好かれていたなぁ。

住友:世代を超えてというか、いろんな学年の子たちと一緒に遊んだりする機会が多かったのですか。

加藤:そうですね、わりと遊びの部分では多かったですね(笑)。

住友:学校の勉強とかはどうでしたか。

加藤:勉強はまるでダメですね。通信簿は、図工はいつも5くらいで体操が4とか、それくらいで、あとはほとんど3とか2とか1とか。数学とか国語はまるでダメってかんじ(笑)

住友:運動は、じゃあ得意でしたか?

加藤:運動は得意って程じゃないけど、普通の勉強からみると(良いほうでした)。遊ぶのが好きだからね。

田中:じゃあ結構小学校の頃から美術には関心があったんですか。

加藤:そうですね。でも特に図工の授業は家の事情でクレヨンとか絵具とかを買ってくれって言い辛くて。鉛筆だけで描いていたりとか、描くのをパスして授業をサボっていたりとか、そういう風な感じでやっていたと思います。漫画を描き始めたのは中学生になってからだったかな。

田中:周りで美術とか漫画とか好きな人がいて、影響を受けたっていうかんじですか。

加藤:そうですね。当時は手塚治虫の漫画が一世を風靡していて、そういうのを見て。町の本屋で立ち読みをしながらやってましたよね。

田中:じゃあご家族とか周りにもそういう美術をやられている方はいらっしゃらなかったのですか。

加藤:美術をやるきっかけっていうのは、近所に、幼友達の知り合いのちょっと年の上の人なんだけど、油絵を描いている人がいましてね。その人のところへその友達と一緒に遊びに行ったときに、絵を見て。それで自分は絵の方は嫌いじゃないから、それであー自分もやってみたいなって思っていたんですよ。

住友:それをきっかけに実際に制作を始めたんですか。

加藤:そうですね。それで当時は車屋に勤めていたから。トヨタにいたんですよね。町工場からトヨタに、養女に行った姉の旦那のほうがトヨタに勤めていて、そのコネクションで勤められるようになって。それでトヨタにいて1年くらいしてから、町で通りかかった時に「学文館」っていう、下が画材屋で上が画廊になっていて。そこは深町さんという人がやっていましてね。後から分かったことだけど。当時は画材屋とかまだ知らなくて。

田中:じゃあ通りがかりで、たまたま。

加藤:通りがかりでね。ちょうど出ていた「三人展」って看板だったか何だったか、忘れましたけど、その看板を見て、建物の二階へ上がって見て。その時に、誰に聞いたんだろうなぁ、ムサ美(武蔵野美術大学)の在学中の学生だったか卒業生だったかちょっと覚えてないんだけど。その時にいた3人というは、山田英雄(1939-2013)さんと、今の高崎市美術館の館長の巣山(健 現在は名誉館長。)さんと、いまひとりは県展の会員になっているかな、森田修平(1940-)さんの3人。

田中:その3人のグループ展をやってたわけですか。

加藤:ええ、グループ展をやっていたんですよ。

田中:みなさん会場にいらしたのですか。

加藤:3人いたのかは覚えていないんだけど、その中のひとりが森田修平さんで、彼に「自分もちょっと絵を描いてみたいんだけど、教えてくれるような人はどこかにいるか」って聞いたんですよ。それで、松本忠義(まつもと・ただよし1909—2008)を紹介してもらったっていう。

田中:森田さんから松本忠義さんを紹介してもらったのですか。

加藤:森田さんも受験時代に通ったことがあって、それで紹介してくれたんだと思うんですけどね。

田中:加藤さんは、それはおいくつくらいの時ですか。

加藤:あの頃はちょうど21、2歳くらいだったかな。ええ。22歳くらいだったですよね。

田中:じゃあその展示していた方々は皆さん同じ年か年下くらいですか。

加藤:もっと上か。うーんと、61年くらいですね。24歳くらいですね。

住友:学文館画廊に行かれて、森田修平さんに出会った。

田中:加藤さんは中学を出られて、車の修理をされている町工場に勤め始めて、それで1年くらいでトヨタに移られたわけですか。

加藤:いや、町工場は8年働いていました。中学卒業してすぐ。

田中:それでそのあとトヨタのほうへ。高崎に工場があったんですか。

加藤:そうですね、東町(あずまちょう)、だから高崎の東口、駅の前の通りの並びのところに今もありますでしょ。あの当時からみれば建物も変ったし、道路も広くなったり、東三条通りだったんですけど。

田中:ではわりとお近くだったんですね。

加藤:ええ。

住友:車のお仕事をされようと思った、理由とかきっかけとかは何ですか。

加藤:中学を卒業した時に就職先を見つけなくちゃいけないじゃないですか。学校のほうで就職を探すっていう部分も少しはあったんですけど。当時は中卒で就職するのは三分の一から半分くらいいましたからね。進学組って少なくて、そのうちの大学まで行く人っていうのはほとんどいなかったんじゃないかな。ひとクラスで3人か4人くらいじゃないかな。その後は同窓会とかって一切出たことなかったから。

住友:今は全くそういう関係はないんですか。

加藤:ええ。ほとんどね、だから同窓会とかって出たことないんですよ。

田中:地元にそのまま残っている方はあまりいらっしゃらないですか。

加藤:いるけど、仲のいいやつ、近所にいたやつとかはたまに会う時もあるんですけどね、同窓会とかってのは出ないから。やっぱり出席するのが嫌だったんですよね、落ちこぼれのほうだったから(笑)

住友:その頃、自動車とか機械とかに関心がありましたか。

加藤:親戚に相談役のおじさんがいて、「漫画家になりたい」なんて言ったんだけど、「ちゃんとした学校出なくちゃと駄目」とかなんとか言われて、それで一応自分は長男として家にいたから、家に置きたいって言う部分があったかな。それで、漫画家志望を諦めたら、他に機械いじりが好きだから、車の修理工場を紹介して貰って勤める様になりました。もし漫画家になるんだったら、機械いじりが好きだから、そういうふうな機械いじりの仕事が良いのかっていう選択をして、それで車屋で紹介して貰ったっていうかんじなんですけどね。

田中:じゃあ機械をいじったりするっていうのはお好きだったわけですよね。

加藤:機械いじるのはわりと好きだったですね。

田中:じゃあご自宅のものをいろいろ直したりとか、そういうことですか。

加藤:ええ。

住友:中学生くらいで、例えばラジオを作るとかって、そういう感じですか。

加藤:そういうふうな電気系統じゃなくてね。子どもの頃に、よくベーゴマとかメンコとかをする時があったでしょ。今で言うとスマートボールかな、玉をころころころころはじいて転がって…… ああいうのに似たようなやつを自分で針金で作って、メンコと交換するとか、1ゲームいくらとか、そういう遊びをやっていましたね。

住友:なるほど。じゃあ手を動かして何か物を作ったりするのが好きだったわけですね。

加藤:そうですね。どっちかっていうと好きでした。

田中:じゃあ町工場の時は車の修理とかそういうことをされて、それでトヨタに入られてからは、製造のラインに入ってやられたんですか。

加藤:先程、言い漏らしてしまいましたが、トヨタと言っても群馬トヨタで車のディーラーです。そこで一般の修理、車検整備、エンジンのオーバーホールなどやっていました。それから新車整備の部署に移りました。製造元(トヨタ)から送られてくる新車をユーザーに渡す前に再点検する仕事でした。

住友:最後の最後のチェックとか。

加藤:ええ、走行中異常な音はないか、エンジンは正常に機能しているかとか。後は販売した車に不具合が生じた場合の保証修理とか。当時、初めてクラウンが出た頃ですよね。

住友:そうとう忙しかったんじゃないですか。日本の中で一番自動車が増えてくる時代ですもんね。

加藤:ええ。一番忙しかったですよ。だから残業が凄くあって。それでも中卒で入るわけだから給料が基本的に安いでしょ。だから残業代を稼ぐのに、みんなで交代でやる電話番を自分で一切引き受けて、それで付いた2時間くらいの残業代を絵具代に回すとかやっていました。当時はもう食うのがやっとで絵具代とかって回んないですよね。

住友:仕事しながら絵を描くっていうのを、先ほどの24歳くらいの時から始めたっていうことですか。

加藤:そうですね。

田中:トヨタに行くくらいですか、それは。

加藤:トヨタに行って1年くらいして、町で学文館の前を通りかかったっていうか。そのくらいだったね。

住友:その頃は自分のご自宅で描いていたわけですよね。

加藤:そうですね。松本忠義さんの塾へ通っていた頃はね。

住友:仕事終わってから家で制作をして、あとは休みの日に塾に通うっていうことをされていたということですか。

加藤:そういう感じが多かったですね。ええ。塾でも、そういう美術の学校に行けなかったっていうのがコンプレックスになっていて、だから藝大とかでやっていたやつに対しては、何ていうんだろう、闘争的っていうかなぁ、「負けてたまるか」っていう(笑)。そういうふうなのをばねにしてやってきたことがあったですよね。当時は初めのうちはそういうふうに思わなかったんだけど、だんだんいろんな人に接したりなんかしているうちに、そういうふうなコンプレックスが芽生えてきて、そういう「負けてたまるか」みたいなかんじでやってましたけどね。

住友:画塾には生徒さんは何人くらいいらっしゃるんですか。

加藤:僕は藝大に行ったつもりで4年間、石膏デッサンばかりやっていたかんじで、家では油絵描いたりとかしていました。それでできた作品を先生の所へ持っていくわけですよ、それで「どうですか」なんて(聞いて)。それで先生が感想とかアドバイスをしてくれたり。

田中:その画塾っていうのは、時間が決まってそこでみんな集まるというよりはいつでも行けるような感じだったわけですか。

加藤:週に何回だったっけなぁ。だいたい決まっていてね。

田中:例えば日曜とかもやっていたりしたわけですか。

加藤:日曜日にやっていたかな。松本忠義さんがアトリエで自分の絵も描いているわけだから、だから日にちが決まっているというか、合う時間に見てもらうかんじというか。全部使っちゃうと先生の時間が無くなっちゃうから。結局、毎日じゃなかったんですけどね、そういうかんじで。芸大に行ったつもりで4年間やってみようかってかんじでね、自分で設定してやっていたんですよ。

住友:ちなみにそういう指導料というのは、その頃いくらくらいなんですか。

加藤:あんまりよく覚えていないんだけど、1カ月3,000円くらいだった気がしたなぁ。

住友:当時一緒にやっていた他の生徒さんで覚えていらっしゃる方とか、今でも付き合いのある方はいらっしゃるんですか。

加藤:僕は4年くらい行ったでしょ、その合間に全部入れ替わったりなんかしているんだけど、今、覚えているのは関口將夫(せきぐち・まさお 1942-)とかいましたけれど。それからNOMOグループ(註:群馬NOMOグループ)に入っていた深町征寿とか、堤幸夫とか。女の人では、小説家の金井美恵子(かない・みえこ 1947—)の妹の久美子さんとか、それから今のうちの(笑)。

田中:奥様?

住友:あ、そこでお知り合いになったんですか。

加藤:うん。彼女は進学組でね、藝大志望で2年くらい受けたんだけど、失敗してそれで諦めたっていう経過があるんですよ。

住友:じゃあ、奥様は当時は絵を描かれていた。

加藤:ええ。彼女は進学志望でしたから、主に石膏デッサンを描いていた様に記憶しています。

田中:松本さんが直接おひとりおひとりにご指導されるわけですか。

加藤:指導はそんなにしないっていうか。こう「どうですか」って見てもらう時に何か言ってくれる程度で。普段はあんまりそういうふうに教えたりはしなくて、黙ってますよね。それで「これどうですか」って言った時に答えるってくらいで。

住友:じゃあ考え方とか、絵の描き方とかに影響を受けたというわけでもないですか。

加藤:そうですね。松本忠義さんってそんなに主張性のあるタイプじゃないような感じがあってね。それで、今の若い奴っていうのはちょっと絵が描けるようになるとすぐ売りたがったりなんかするみたいな、そいうのを嘆いていたというのを覚えていますね。

田中:なるほど。そこでいろんな方とお知り合いになって、その後もお付き合いが続いていくのですか。

加藤:そうですね。

住友:伺うとけっこうその後も続く方たちとそこで会われているんですね。

田中:皆さん大学を目指される方と、お仕事される方とそれぞれだったんですか。

加藤:そうですね。勤労者組、いわゆる一般組と進学組とが、けっこう入れ替わったりしていましたね。あと、あのそういう意味では、先輩では正田さん(正田壤 しょうだ・じょう、1928-)とか。それから田島さん、あとは森田さんもそうなんだけど。森田さんなんて自分が入ったからそれで[聞き取れず]。話を聞いた限りではそんなかんじでしたよね。

田中:当時、こういう画塾をやられている方ってそんなにいらっしゃらなかったわけですか。

加藤:そうですね、豊田一男さんとかは高校の先生をしていたのかな。あとは小林良曹さん(こばやし・りょうぞう 1910-)も(学校で)教えていたんじゃないですかね。安中(市)のほうだから良く知らないんですけどね。

田中:わりと学校で教えられている方が多かったんですね。

加藤:そう思いますよ。そのへんは私はあんまり覚えていないっていうか、聞いてないっていうか。

田中:(加藤さんは)そうした中で松本さんの画塾に通い始めたくらいで県展に最初に出した。

加藤:そうですね。それはだから松本先生のほうの誘いっていうか。あとは「自由美術(協会)」、自由美術と「主体美術(協会)」っていうのとに誘われて一度ずつ出したことがあるんですよ。

田中:もちろん入選されて。

加藤:ええ。それの時に入選して。自由美術に最初先に出して、それでその後、その頃松本先生のほうで内輪もめがあって、自由美術を抜けて主体へ移ったんですよね。それでまた主体に誘われだしたっていう経緯があって。

田中:一番最初に出されたのは県展ですか。

加藤:県展ですね。

田中:自由美術に移って、その後、松本忠義さんが主体美術に移るときに一緒に移ったってかんじですか。

加藤:そういうかんじですね。それも一度ずつだけだったんですけどね。

田中:その後は主体美術でお出しになろうとは思わなかったんですか。

加藤:その頃NOMOの金子英彦(1923-2010)さんに出会ったんですよね。それでかなり意識が変わったっていうか。

田中:金子さんに会ったのは65年ですよね。

加藤:そうですね。

田中:その後も県展には出し続けていらっしゃったんですか。

加藤:県展にはね、何回くらい出したんだろう。5回……

田中:68年までは出品されていたようなんですけども。

加藤:そのくらいかな。あの頃は松本忠義さんの誘いじゃなくて金子さんからの誘いになってきたから、作品のほうもかなりがらっと変わってきたというか。あの頃からアルミの材料なんか使い始めたっていうかね。

田中:ちょうど松本さんの画塾を辞める時期と金子さんと出会われる時期が同じくらいですか。

加藤:そうですね。少しね、だからダブっていますね。

田中:じゃあそこでちょうど具象的な絵画を描かれていたところからだんだん変わってきたと。県展に出されていた作品もちょっと変わってきているわけですね。

加藤:ずいぶん変わっていますね。

住友:県展の出品作は残っているんですか。

加藤:県展の作品ですか。作品は、どうだったかな。倉庫に入っているかな(笑)。

住友:探してみればあるかもしれないですね。

加藤:……ああ、これだ。これは当時の、自由美術に出した時の作品なんですよ。こういう、シロクロですけど。

田中:何かこう、塔のような。

加藤:そうですね。なんかね、自分でもよくわからない(笑)

住友:インスピレーションの元になったものとか、何か覚えているものってあるんですか。

加藤:描いては消し、描いては消ししてたんですよね。だから絵具の厚みだけを、わりと平べったいというか。

田中:抽象的なものを描かれていたんですね、当時から。

加藤:自由美術の時とか主体美術の時はそんな具象的なものじゃないですよね。展の時の、具象的な作品は、牛の頭骨あるでしょ、あれ一枚くらいですね。あとはタピエス(アントニ・タピエス Antoni Tàpies, 1923-2012)とかアルトング(ハンス・アルトゥング Hans Hartung, 1904-1989)とかの画集を見て影響されて、こんなかんじって、安易な模倣というか(笑)

田中:抽象表現主義とか、アンフォルメルとか、そういうものの影響を受けていたわけですか。

加藤:ええ。でも、自分が抽象表現主義を知るのは後になります。

住友:その頃一番よくご覧になっていたりしたものというのは画集ですか、雑誌ですか。

加藤:あれはなんだったかな。

[加藤退出]

住友:画塾に置いといたりしたのかな。

[加藤戻って来る]

加藤:こういうのを買い込んで、見ていたんじゃないかな。

住友:自分でそういうのを買ってご覧になっていたのですか。

田中:でも当時で言うとまあそういう「現代美術」ってことですよね。

加藤:(絵を描き始めた)初めの頃は美術とか芸術とかって、そういう概念も、言葉があること自体知らなかったから。小学校の(教科で)「図工」ってあるでしょ、(僕にとっては)そういう「図科」なんですよ。絵画とか美術とか、そういう概念って自分にはなかったから。

田中:松本さんのその画塾とかでもそういう雑誌とか画集とか見る機会はあったんですか。

加藤:あったけど、ああいうふうに買い込んだり、自分で買って読むっていうのはなかったですね。

住友:ああいう本を手にするきっかけっていうのは、例えばご自分で本屋さんに行って、見ながら(探していたのですか)。

加藤:ええ。いろいろな人に会ったりとか、教えてもらったりとかしながら。

田中:当時、高崎でそういう画集を扱っている本屋さんとかってあったんですか。

加藤:この本に限っては、取り寄せたやつかなぁ。

住友:じゃあこういうのは、誰かから見るといいよなんていうのを聞いて取り寄せてましたか?

加藤:そんな感じ。

住友:すごい好奇心ですよね、そのエネルギーっていうかね、わざわざ取り寄せるっていうのは。

加藤:そうですね。

住友:生活するのもけっこう大変な時代で、それでもやっぱり美術っていうのにとても関心を持ったっていうのは、どうしてだったのかなぁなんて、今思い出せることってありますか。

加藤:あのね、やっぱり生きがいになるんだろうなぁ。今でいえば仕事になるんだろうけど。何かやりたいことと、お金を稼ぐっていうこととは少しズレがあるじゃないですか。ほんとの意味で好きな仕事をやっている人って少なくて、で、まぁだから機械いじりが好きだって言っても、それは自分にとっては二番手なんですよ、やっぱり。それでも好きだから結構やっていたんですけども、どうしても何かがやっぱり…… こう、一番好きなものってところに執着したんだろうね。

田中:美術で生計を立てようとかそういう思いは全くなくて、仕事は仕事でやって。

加藤:そうですね、だから好きなことは別にやらなければっていう。そういうふうになっちゃっているっていうかな。どう言ったらいいのかわからないけど。

田中:そうした中で作品を発表する場として一番は県展があったということですかね。

加藤:そうですね、県展はそういう部分はあったけど。だから金子さんに出会ってから県展に対する考え方とか、美術というものに向き合う姿勢みたいなものとか、そういうのをいろいろ教わったりなんかしたんですけどね。

田中:当時、金子さん自身もその県展の委員になっていましたよね。

加藤:ええ、そうですね。

田中:それで金子さんも出されていましたし、あとNOMOのグループも、後で知り合うことになる方々もみんなけっこう県展に出していましたよね。

加藤:出していました。

田中:今は、そういう方はあまり県展には出さないので考えにくいのですけど、当時はわりとそういういろんなものがごちゃまぜになった状態っていうのはあったんですか。

加藤:そうですね。それでNOMOに入ってから僕も、何ていうんだろう、賞の団体展とかなんとかっていう、結構批判的になったりしてね(笑)

田中:ええ。まぁ批判しながらも出し続けるっていうかんじだったんですか。

加藤:だから結局は、松本先生(に教わっていた)時の自由美術の部分で、その辺の考え方が変わって行ったんで終わりにしちゃったっていうか。

田中:県展とか、そういう地方の画壇に出してもしょうがないってことで、69年以降はもう出さなくなったってことなんですかね。

加藤:もうね、団体展って当時の明治の遺留文化の部分の走りみたいなのが、ずっと役割としてあったみたいなんだけど、もう終わったんだよ、みたいなね。そういう部分っていうのは、金子さんとか、そういうNOMOの連中と付き合うようになってから、そういうふうに変わってきたっていうかね。

住友:金子さんとの出会いは珍竹林画廊でよかったですか。

加藤:そうですね。はい。私が初めて個展をした時だったんですよね。

住友:それは、それより前に例えば顔を合わしていたとかじゃなくて、その時初めて会ったんですか。

加藤:そうですね、初めて会ったんですね。

住友:それで今度一緒に何かやりませんかって話に一気になったんですか。

加藤:それでそのNOMOのほうに誘いがかかってきて、すぐに行ったんだけど。その時に「群馬アンデパンダン」でやった時に…… NOMOに入ったのはだからアンデパンダンが終わってからなんですよね。だからアンデパンダンの時は……

住友:65年の6月のアンデパンダン展(「群馬アンデパンダン展」前橋市群馬県スポーツセンターで開催、1965年6月22日—27日、出品者数73名、作品数138点)の後で、9月に珍竹林(画廊で個展)があって。

田中:では群馬アンデパンダンにはNOMOのグループとして出したわけではなくて、個人的に出していたわけですか。

加藤:まだNOMOには入ってなかったですね。

田中:それが終わった後、珍竹林(画廊)で個展をやった時に金子さんからお誘いがあったのですか。じゃあそのアンデパンダンの作品であったり個展の作品とかを金子さんが見ていて誘ったってことなんですね。

加藤:ええ。

田中:加藤さんはNOMOに行く前に「グループQ」というグループを結成されていますけど、それはどういうグループだったんですか。

加藤:松本忠義さんの松本塾のOBとかが集まってできたグループで「びりじゃん」ってグループがあったんですよ。その人たちが当時、高崎の小沢写真館の上がギャラリーになっていて、そういうところでやっていたんですけど、僕なんか最初の頃ってね、誘われなかったんだよね。「びりじゃん」は何回かやっているらしいんだけど、僕はまだ入りたてだったから、全然、誘われなかったんですけどね。その時に、じゃあ何か自分たちでやろうかみたいな感じで、自分たちが今一緒にやっている連中たちを誘って。あの時はずいぶん仲間がいて。関口將夫とか、深町征寿とか、堤幸夫とか、それで後は何人か他を誘って、9人集まったんで、それで「Q」って付けたんですね。だけどそのうち、グループの連中が他の仲間を引き入れて人数が増えてきちゃったり、僕はNOMOに誘われて入ったこともあって、それでそのグループQを抜けちゃったんですよ。自分で作って自分で抜けちゃったんだけど。

田中:その後もそのグループQは活動を続けていたわけですか。

加藤:何年か活動は続けたんですけどね。

住友:加藤さんが抜けたのは、そうすると。

田中:65年、の秋にはもう抜けたってことですかね。

加藤:2回くらいやったのかな。グループQは、グループ展を。

田中:年に1回くらいのペースで。

加藤:2回くらいだったかなぁ。回数はちょっと覚えていないんだけど。

田中:それはどちらでやられていたんですか。展覧会は。

加藤:珍竹林画廊がほとんどだった。

田中:珍竹林で。その学文館画廊を経営していた深町さんとは交流はあったんですか。

加藤:画材屋をやっていたでしょう。それで確か学文館から下和田(町)の方に移ったんですよね。そこでもやっぱりギャラリーを隣に合わせてやっていて、そこで僕も2回くらい(個展を)やったんだけど。あとグループQは深町さんのところでやったかなぁ。自分はあそこでグループQでやったのは覚えていないんだけど、自分が辞めた後はやっていたかもしれないですね、ちょっとその辺はわからないんだけど。

住友:何かグループQの活動の宣言みたいなものは作られたりはしていないのですか。

加藤:それはなかったですね。わりとなぁなぁだったですよ(笑)そういう意味では。

住友:グループ展をする仲間がいればいいや、みたいな。

加藤:自分が展示をやれる場が欲しいだけだから、特に主張するとかいうことはなかったかな。

田中:一緒に画塾で学んでいる仲間の発表の場というかんじですか。

加藤:そういうかんじですよね。

田中:それで65年になって「群馬NOMOグループ」に参加されるということになるわけですよね。

加藤:はい。

田中:群馬NOMOグループは、その前の63年から活動していたわけですけども、そういったNOMOグループの活動というのはご存じでしたか。

加藤:いや。金子さんと会う前はそのNOMOという存在すら知らなかったですね。当時、金子さんはやまだや画廊を、前橋の駅前でやっていたんですけどね。その時に自分が入る前のNOMOグループは何回か展示をやっていたらしいですけど、金子さんと知り合ってからそこで一回だけ見て。その時に、NOMOの作品を初めて見て、自分にとって凄く新鮮だったですよね。絵具の使い方なんて、生で白なんかを使っちゃうんですよ。自分が今まで油絵を描いてきた頃は、生の白なんて考えられなかったんで、こういうところの思い切っている部分というのは凄く新鮮に思えたというのを覚えていますよね。

住友:前後関係を確認したいのですけど、その65年の6月にNOMOグループの、「加藤アキラ・堤幸夫」展をやまだや画廊でやっているんですよね。これはNOMOグループに入る前ですか。

田中:そうですね。やまだや画廊で6月に展覧会をやられてますか。

加藤:二人展ですか。ああ。堤幸夫と、プレ・アンパン(群馬アンデパンダン)でやった覚えがあるなぁ。

住友:アンパンの前…… じゃあその時に金子さんと会っている可能性がありますよね。

加藤:ん?そうするとちょっと前後関係がおかしくなるんですかね。あるいは、この個展をやったのは、もっと前だったのかな。

田中:金子さんは65年の1月とかには群馬アンデパンダン展の参加を呼び掛けるような活動をずいぶんされていましたよね。そういうのにも参加されていましたか。

加藤:そういう運動はしていなかったです。誘われて出したくらいで。だから、うーんと、どうなっちゃうかな。

住友:もしこれを辿るとすると、アンデパンダン展の呼びかけをやる時に、加藤さんと金子さんが会って、やまだや画廊でやりませんかみたいな話があってもおかしくはないかなという気がしたんですけどね、順番としてはね。

加藤:あー。

田中:そうですね。

住友:そのへん、この65年はそうとう忙しそうな。

加藤:入りくんでいるんですよ。

住友:これまでの県展中心(の活動)からいろいろと変わっていく時期ですもんね。

田中:でも堤さんとの二人展はプレ・アンデパンダンとしてやったという。

加藤:それははっきり覚えていますよ。

田中:その時点でやまだや画廊では展覧会をされているという。

住友:その前にお会いしているかもしれないね。

加藤:あの、ラ・メーゾンでやったのって何かありますか。

田中:ええ。(65年)1月14日にラ・メーゾンで「群馬青年画家懇談会」というのが開かれていて。

加藤:それの時に金子さんのことは知っていたんだよなぁ。

田中:そうですか。それじゃあ金子さんとは前年からお知り合いだったということですか。

加藤:そういうことになるんだよね。珍竹林で会ったのが初めてというのは勝手に思い込んでいたのかな。いやでも、珍竹林で会ったのは、自分の作品を見てくれたのが初めてということで、混同してたのかな。それでNOMOに誘われたのは、とにかく珍竹林で見た時に誘われたから、金子さんを知ったのはもう少し前かも知れないですね。自分でそう思い込んでいる部分があったのかな。

田中:加藤さんがその群馬アンデパンダンが開かれるというのを知ったのは、この1月14日のラ・メーゾンの時なんでしょうかね。

加藤:そうですね。金子さんとは会っているわけだから。

田中:そこからアンデパンダンに向けて何かやろうというお気持ちを起こして、それでプレ・アンデパンダンとして堤さんとの二人展をやって、それで群馬アンデパンダン展を迎えて。

加藤:そうかもしれないなぁ。どうもこの辺が入り組んじゃっているなぁ。

田中:そうですね。この間にぎゅっといろいろな事が詰まっていますから。

住友:(加藤さんが)NOMOの活動に参加するのはその珍竹林がきっかけだったとすると、どういう形で金子さんに誘われたんですか。例えばみんなで集まって話し合いをやる場所にまず来なさいというかんじだったんですか。

加藤:珍竹林で見てもらった時、たぶんそうだろうなと思うんだけど、自分のところで今NOMOグループやっているから見に来ないかみたいな、そういうふうに言われたと思うんですよね。

住友:それでやまだや画廊へ行って。それはこの10月の展覧会ということですか。

加藤:それかもしれないですね。

田中:この年(65年)の10月にやまだや画廊で「標識絵画」の展覧会をされますよね。それにはご参加されたんですか。(註:「現代における標識 その日常性と非日常性について」やまだや画廊、1965年10月4日—9日、砂盃富男、加藤アキラ、金子英彦、田島弘章、堤幸夫、藤森勝次)

加藤:参加はしたけども、それはもうちょっと経ってからじゃないかな。

田中:10月になってますね。9月に個展をして、10月に「標識絵画」展の集団制作がやまだや画廊で開かれています。

加藤:ああ、そうか。それでやったやつも含めて長良川(「岐阜アンデパンダンアートフェスティバル」長良川河畔、1965年8月9日—19日)へ持っていったのかな。そういうのは資料にないですかね。

田中:それは8月ですね、岐阜の。

加藤:長良川の時は行けなったんですよね。

田中:10月からはもう参加されていたということですよね。県庁前通りとかでやっていた時。

加藤:はい。当時の。堺でやられて、堺の時は行ったんだけど。(「堺現代美術の祭典」堺市金岡公園 同市体育館、1966年8月20日—28日)

田中:ということは、NOMOとして活動を始めたのは10月の標識絵画の展覧会が初めてという事になりますかね。

加藤:そうですね。

住友:標識絵画の時には、加藤さんの名前が出ていますね。

加藤:はい。あの頃は車の部品とか貼りつけたりなんかしてね。仕事と一体の、仕事と同じようなことをやっていましたね。

住友:それは道路脇に。

田中:それまで油彩とかをやられていたところから、急にそういうオブジェ的なものに、がらっと変わったんですか。

加藤:がらっと変わったと言っても過言ではないというくらい変わったっていうかね。

田中:じゃあもう考え方も変わったし、実際に作るものもがらっと変わって。

加藤:あの頃はそうやったからと言って、元に戻って油絵の具を使わないかっていうと、さほどじゃないんですよね。行ったり来たりしているみたいな。

住友:やまだや画廊の二人展の時の作品というのはどういう作品だったのですか。

加藤:あの頃は、キャンバスに絵具を吹き付けるんですよ。あの時は吹き付けるのにも、コンプレッサーとかあんまり普及していなかったからね、まして個人で持つなんて。そうすると霧吹きがあるでしょ、絵具を解いて、霧吹きで吹いておいて。下地は白を塗っておいて、(霧吹きをした後に)それをワイヤーブラシで引っかくんですよ。ちょうどアルトングに影響されたとかっていう、そういうことなんだけど。ブラシでこすると(下地の)白が浮き出てくるというかんじだったですよね。ブルーを塗ってみたりとか。

住友:そういう作品を作っていて、秋には車の部品を使ったオブジェを作っているという。

田中:(65年6月の群馬)アンデパンダンにはどういった作品をお出しになったのですか。

加藤:アンデパンダンの時はアルトング的な、いわゆる引っかいたりするようなやつですね。絵具を吹き付けておいて、下地の白を出すためにワイヤーブラシで引っかくとちょうど白くブラシの跡が出てくるんですよね。

田中:そのワイヤーブラシも車で使う部品ですか。

加藤:当時は舗装されている道ってほとんどなかったから、マフラーとかがどろどろになっちゃうんですよ。そういうのを外して掃除する時にワイヤーブラシを使うと(できる)そういう筋目みたいなものって、ずっと記憶の中にあったんですよね。

田中:それもつながっているんですね。

加藤:美術的効果というものよりも、潜在意識の中では、自然の効果というものの方が印象に残っているんですかね。

住友:アンデパンダン展に参加した印象とかありますか。影響を受けたりとか、他の作家、作品なんかにも影響を受けたとか。

加藤:NOMO以外の作家って、金子さんの呼びかけに対して、それ程、先覚的な意識ってそんなになかったようなかんじでしたね。それで、今までやってきたことと変わらないわけですよ。それを展覧会に出すというだけで、意識としては県展みたいなかんじでね。だけどMONOグループの連中には結構影響されましたよね。ああ、こういうのがあるんだ、みたいな。

田中:私、砂盃さん(砂盃富男 イサハイトミオで出品している時もあり、1930-2001)の作品なんかは部屋を作るみたいな感じで、絵画を屏風状に立てて、天井と床も付けて、お部屋を作っているような写真を見ましたけども。

加藤:砂盃さんにいい影響を受けましたよね。田島(弘章 1937-)さんとかね。

住友:観客が中に入るという、そういうことですかね。眺めるのだったかな。

加藤:今ではそんなに覚えていないんだけどね。

住友:じゃあ、ある種のアンデパンダン展だっていう熱気の割には、中身はあまり県展と変わらないなというかんじの印象を受けたんですか。

加藤:それは金子さんの印象もそうだったみたいでね。だからそう言われたからそうなのかもしれないんだけど、そんなに批判的な部分としては、まだ自分としてはできなかったというのかな。よく分かんないよ、というかんじで。

住友:その頃、例えば中原佑介(なかはら・ゆうすけ 1931-2011)とか、ヨシダ・ヨシエ(1929-)の話を聞くっていう機会もあったんですか。(註:群馬アンデパンダン最終日にあたる1965年6月27日 中原佑介、ヨシダヨシエ両氏を囲んで出品者はじめとする近県画家、関係者、観客を交えての討論会が同展会場で持たれた。)

加藤:ああいうのはみんな結構参加していましたね。

住友:それは何か刺激になったとか、記憶はありますか。

加藤:そうだなぁ…… あの時は何を言っていたのかなぁ。

住友:まだ「何言っているんだろうなこの人」みたいな(笑)。

加藤:(笑)言っていることは初めから分からなかったところは結構あったからね。だから、どういう質問をしたらいいのかっていうこと自体が分からなかったですよ。

田中:でもアンデパンダンの中ではNOMOのグループの作品というのは刺激的で。

加藤:そうですね。刺激を受けたって言うかね。

田中:そこで一緒にやってみたいなっていう思いもありましたか。

加藤:そうですね。最終的にどうなんだろうね、新しいもの好きというか、そういう好奇心が少しあったんじゃないですかね。
珍竹林画廊の時もね、ただの円を描くだけが、ワイヤーブラシを使い出して。そういうふうなのだとか、このあいだ住友さんに見せた椅子にピンを刺した写真のやつだとか、椅子に新聞の求人広告を細かく切って貼りつけたりとか、そういうふうなものとかね。で、かと思えば風景画みたいなものを描いたりとか。展覧会って分かっていなくて、そういうのを一緒に並べたっていう(笑)

田中:絵画もあれば、そういうオブジェ的なものもあるっていう。

加藤:ええ。額縁に入った風景画みたいな(笑)。あの頃はめちゃくちゃでね、何でもやっていたっていうか。

田中:その後使うアルミ板とかが出てきたのもこの時ですか。

加藤:この頃からだと思いますね。そういう本なんかを見ていると、これじゃなければいけないなんてないんだ、みたいに思っていろいろやり始めていたんですよね。自問自答というのだろうか、そういうかんじだったかな。

住友:絵画があったりとか、珍竹林画廊の時の展示風景は、記録に残っているんですか。

加藤:いや、全然。

住友:全くないですか。そっか。見てみたかったな。

加藤:当時、カメラを持っていて撮れたら撮ったけど。プロのカメラマンなんて、お金ないから頼めないよね(苦笑)。絵具を買うのが精いっぱいでね。

田中:画廊の方でも記録とかは残していなかったんですかね。

加藤:いや、ないですね。

田中:残念ですね。

加藤:唯一写真を撮ったのは、あの錆びかけたやつだけだけどね。

田中:結局、群馬アンデパンダン展というのは1回だけしか開かれずに終わってしまったわけですけども、やってみたら県展と変わらないとか、皆さんそういう印象を受けて、もういいやってかんじになったんですかね。

加藤:今から思えばだけど、もう何回かやっても良かったんじゃないかな。金子さんが1回で止めてしまう必要が何であったのか、何で1回しかしなかったんだろうというのは、こっちとしては後になってからだけど、疑問はありますよね。

住友:金子さんは何か言っていましたか。

加藤:結局、今言ったみたいに、言うほどみんな意識の変革って無かったっていうみたいな。でも1回だけじゃわかんねぇだろう、なのはあるんだけど。その辺のところ、金子さん自身はまだわかんないですよね。

田中:じゃあ金子さんの意向で2回目はもうなくなってしまったということですかね。

加藤:そう。金子さんの後に続いて「じゃあ俺がやるよ」みたいに言う代わりがいないから、結局立ち切れになっちゃったんだよね。

田中:金子さんが言い出さないと他の方が動かなかったということですか。

加藤:そうですね。NOMOのメンバーってほとんど、金子さんを除くと勤め人、どこか会社に勤めていたんですよ。だからそんなに時間が取れないんですよね。だからいろいろ、長良川とか堺とかって行ったは行ったけど、今から思えば、他のいわゆる前衛芸術のグループって全国的に結構あったんですよね。だけど、他の連中はどうだか分からないけど、みんなNOMOの他に勤めていたから、たぶんそんなに仕事を休んでまでも行けるって状況じゃなかったんだろうな。砂盃さんだって日銀に行っていたから。転勤もあるし、だからなかなか揃わなかったっていうか。

住友:加藤さんも長良川に行けなかったのは仕事の都合ですか。

加藤:それもありますよね。それで当時はみんな忙しかったからね。有給休暇って、一応、建前としてはあるんだけどなかなか言い出せないんですよね。(笑)

田中:じゃあ次はこの展覧会に出そうとか、長良川に参加するぞって決めるのは金子さんだったのですか。

加藤:最終的な決定というのは金子さんと砂盃くらいがやっていたのかなぁ。僕なんかは、そういうところへ付いて行くのが精一杯というか、やっとっていうか。良く分からなかったから付いていくしかないっていうかね。それでやることが嫌いじゃないから(笑)結局そういうふうになっていたんじゃないかな。

田中:そのNOMOグループの中でいうと金子さんは絶対的なリーダーだったと思うんですけど、他のメンバーとは世代的なギャップがあるわけですよね。その中では砂盃さんが中心的な存在だったんですか。

加藤:金子さんも最初からNOMOにいたわけじゃないから。最初のNOMOのメンバーっていうのは、田中さんかな、田中(祥雄 1941-)さんと藤森(勝次 1938- )君と、砂盃(富男)さんと……

田中:角田(仁一)さん、田島(弘章 1936-)さんですか。

加藤:そうですね。5人でやったのが初めだったんですよね。最初の頃は、地方という小さなグループの中で、お互い刺激しあいながら活動するという次元だったんじゃないですかね。読売アンデパンダンがあの頃どのくらいの位置にいたのかっていうのが、ちょっと分からないんですよね。それで金子さんが入ってから中央や他県の情報が逆に入ってきたというか、自分の中でね。僕は読売アンデパンダン展に出す機会がぜんぜんなくて、そういうのがあることすら知らなかったから(笑)。

田中:読売アンデパンダンが終わったのは64年でしたっけ。(註:63年で展覧会は終り。64年初頭に突然終了が発表された)

加藤:その頃、砂盃さんとか藤森さんとか出していたんじゃないですか。

住友:なるほど。じゃあもしNOMOグループに参加した後にまだ読売アンパンが続いていたら加藤さんも出していた可能性が高いわけですね。

加藤:まず出したでしょうね。

住友:なるほど。あと、加藤さん、65年くらいの時に、カタカナの名前にしたのがこの頃ですか。

加藤:最初、珍竹林でやった時は「カトウアキラ」って、全部カタカナでね。それはたぶん、オノサトトシノブ(1912—1986)さんの真似っていうか、影響だろうと思うんですけどね。まぁ、どっちかっていうと、気が小さくて、人見知りで、その割には目立ちたがりっていうの(笑)、そういうのが重なったと思うんですよ。

住友:変えた理由としてはですか。

加藤:ええ。それで今も変わらないんだけど、声高に言うわけじゃないんだけど、一度、自分の名前を自分で選ぶチャンスがあってもいいんじゃないかっていうことをずいぶん前から思っていたんですよ。で、かなり自分の父親の影響の反面教師的なところもあったんだろうなとは思うんだけど。まぁ、変えなくてもいい人は変えなくてもいいんだけど、一度は自分で自分の名前を選んでもいいんじゃないかみたいな思いがずっとあって。そういうのが複合してそうなったんじゃないかなぁとは思いますけどね。

住友:そういう理由だったんですね。

田中:じゃあいろいろな表記をされていて今の「加藤アキラ」に落ち着いたってかんじなんですか。

加藤:そうですね、NOMOに入ってからカタカナのアキラになったんですよね。あれからずっと変わっていなくて、その前の自由美術の時代は普通に漢字の「昭」だったんですけどね。

田中:お名前をまったく変えてしまおうとは思わなかったんですか。

加藤:アーティスト名みたいなかんじにですか。それは思わなかったですね。本名は本名としてあるから。白川さん(白川昌生 しらかわ・よしお 1948—)も本名は違うんですよね。確かね、白川まさお…… よしお(芳夫)……

田中:漢字が違うんでしたっけ。

加藤:確かね。本名は改めて聞いたことないなぁ。

田中:オノサトさんも途中でカタカナに変えたわけですもんね。

住友:でもオノサトさんの名前が変わったのは具象的なものから変わったタイミングと時期的には近かったですよね。だからその作品のスタイルと名前とっていうのは関わっているのかなぁって印象ですよね。加藤さんもタイミングとしてはスタイルが変わる年ですよね。65年ですもんね。

加藤:ああ、そうですね。

田中:NOMOグループっていうのは前橋を中心とした作家さんたちと、活動拠点はやまだや画廊でしたし、発展の仕方っていうのは前橋のグループっていうかんじだったと思うんですけど、高崎から参加するっていう意識はあったんですか。

加藤:ああ、それは全然ないです。自分がたまたま高崎にいたっていうだけの話で。

住友:そういう意味ではNOMOグループがあまり地域性というか、場所性に拘ったというかんじでもなかったから気にならなかったんですかね。

加藤:ええ。

田中:NOMO自体も、最初は前橋の作家さんだったのがだんだん広がっていった中で加藤さんが参加されたっていうかんじだったんですかね。

加藤:そうですね。だから金子さんという人と出会わなかったら、NOMOに入ることもなかったと思うし今の自分もなかったと思いますね。

田中:高崎ということでいうと、井上房一郎(いのうえ・ふさいちろう 1898—1993高崎市出身の実業家)という存在が大きいものとしてあったと思うんですけど、井上さんと関わったりということはなかったですか。

加藤:なかったですね。当時、井上房一郎さんがいた頃って、自分は塾に行きたての頃だったから、井上房一郎さんの存在は全然知らなかったですね。で、ラ・メーゾンという今もあるんだけど、当時は2階が喫茶店になっていて、いろいろなアーティスト系の人が集まったんですよ。そういうのでいろいろ討論会みたいになったりとか、そういうのに使ったりして。自分もそこに時々出向く様になり井上房一郎さんの活動を知ることになったんですね。アルミの作品を創る様になって、上毛新聞だったか県展評に自分の作品評も書いてもらったことがあります。(そのうち)金子さんの方と付き合いが始まっちゃったもんだから、どっちかっていうと逆に高崎の方が縁遠くなったというか、疎遠になってきたというのがありますよね。嫌っていたとか、そういうんじゃないんだけど前橋の方にNOMOの拠点があったから、機会が多くなったんですね。

住友:NOMOグループはその時は基本的にやまだや画廊に集まっていたんですか。

加藤:そうですね。(でも)前橋の駅前にあった時のやまだや画廊って(自分は)ほとんど知らないんですよ。県庁前の、あそこに越してきてから行くようになったから。

住友:加藤さんの中で金子さんからの影響というのは、どういう部分が一番大きかったっていうふうに思っていますか。

加藤:そうですね、この前も例の千代田に呼ばれた時にも話したんだけど、あの頃ピカソの≪ゲルニカ≫が上野の西洋美術館に来たんですよね、それを見て、金子さんにどうだったかって聞かれて「良かった」って言ったんですよね。その時に金子さんが「どう良かったか」って言うんでね、何も答えられなかったんですよね。
で、結局、人が大勢行って皆が「良い良い」って言うから「良い」と思っているにすぎないというふうに、自分でだんだん気が付いてきてね。だから人が「良い」と言っているから「良い」のだ、というのではなくて、もうちょっと自分の目で見る、疑いの目で見ることが必要なんだって気が付いて。それからずいぶん変わってきたというかね。

住友:そういう金子さんの、制度を疑うとか、批判・批評的な話というのは日常的にメンバーが集まった時の会話でもよく話されていたのですか。

加藤:そういうことじゃなくて。当時シュルレアリスムとかなんとかって、当時、海外の情報ってほとんどなくて、そういう中でシュルレアリスムとかっていうものの研究会みたいなのがあって、そこに自分はよく行ったりしていて。

住友:それは金子さんが主催していたんですか。

加藤:金子さんが主催していてね。(自分は)そんなに≪おくびょうもの≫以前はよく知らないんだけど、金子さん自身もそういうのは描いていたって話は聞いたことがある気がするんだよね。だから時代を遡って覚えているのは、当時、議題にはダリもそうだけどアーシル・ゴーキー(Arshile Gorky, 1904-1948)とか、そういうのが出たと思いますよ。

住友:その研究会のメンバーは、NOMOのメンバーが集まってやっていたのですか。

加藤:うん。他の人達も入れ替わっていましたけどね。集まったりやっていましたよ。

住友:月に1回くらいとか。

加藤:月に1回くらいだったかなぁ。月に1回くらいやっていたような気がするんだけどね。よく覚えていないんだけどね。

住友:じゃあそういう場が、一番、金子さんの考え方を聞く機会だったわけですか。

加藤:そうですね。

住友:あんまりお酒を飲んでわいわいするという感じではなかったのですか。

加藤:そういう時もあったけど、あまりお酒は飲んでいないですね。

住友:じゃあ本当に画廊でそういう研究会とか討論会とか。

加藤:どこか連れて行ってもらったことはありますけどね。討論会とかやると東野芳明とか呼ぶじゃないですか、そういう時に飲みに一緒に連れて行ってもらったりとかね。評論家って、講演会とかよりも裏話の方が面白い(笑)

田中:(笑)ええと、じゃあNOMOグループでやっていた「標識絵画」というものについてお聞きしたいのですけども、それを最初にやったのはたぶん岐阜でやられた時ですかね。

加藤:はい。

田中:その時は加藤さんは参加されていないわけですけども、その「標識絵画」というものはどのように発想されたものなのかとか、その辺については何かお聞きになっていますか。

加藤:NOMOグループ全体もそうだったんだけど、当時はそういう時代であったという部分もあるんだけど、中央集権に対して凄く反発がありましてね。終戦後、敗戦という出来事があって、日本の方向性というのが、どこに行くのか分からないみたいな状態だったでしょう。そういう部分でこうあらゆるものをぶち壊さないと新しいものはできないんじゃないか、みたいな。それはある程度、全国的にあった気がするんですよね。いろいろそれぞれ細かい考え方は違うにしても、大雑把に言えばそんな時代があって。結構、団体展とか何とかっていう、特殊な部分とか、少数派の、選ばれた人間しか美術はやれないみたいな、そういう時代からもうちょっと大衆的な、誰でもやれるような部分を目指したというのがあったんですよね。だから金子さんなんかも「日常のものを芸術の位置に高める」という、そういうふうな考え方っていうか、思想みたいなことを言っていましたけどね。そういうのにほとんど同調するというか、わりとその辺については無批判というかね。そういう今までのは古いみたいのは分かるんだけど、じゃあ新しいものはどういうふうなものなんだろうみたいな部分で、だけど無批判の部分で自分は変わったなってのはあるんですけどね。

住友:日常的に見る道路の標識、これを使って表現をしてみようということで。

加藤:それはまず金子さんの発想だろうなと思うんだけど、それ面白いじゃないみたいなかんじで皆付いて来たっていうかね。でも、発想の決定段階で自分がそこに居合わせたわけではないのであくまで推測ですけどね。

田中:ひとつそういう標識というフォーマットみたいなものがあって、そこに自分の日常から出てきたオブジェとかそういうものを貼りつけたりだとか、そういうやりかたですか。

加藤:そうだね、もちろん他のメンバーは自分の今までやっていたものを記号的に描いてみたりとか、いろいろ、それはそれぞれだったんですけどね。

住友:画廊とかに来てもらうんじゃなくて、そこに普通に生活している人がいる場所に出て行くという側面もあったんですよね。

加藤:ええ、そうですね。

田中:あと集団制作ということも言っていますけども、発表する時に個人の名前とかもあまり出していなかったんですか。

加藤:そうですね。自分じゃなくても誰がやってもいいんだみたいなところがあるかな、匿名というんだろうか、あれは作者の無記名みたいなかんじでやっていたのかな。

住友:これは写真で見ると、長良川(「岐阜アンデパンダンアートフェスティバル」1965年8月)は参加していなかったけれど、前橋(「群馬アンデパンダン」1965年6月)でやる時には加藤さんは参加されていますよね。

加藤:ええ。

住友:道路沿いに、向こう側を車が走っていて、(標識は)歩道の方を向いて並んであるように見えるんですよ。そういうふうに並べたんですかね。

加藤:そうですね。

住友:状況としては、道路沿いに、車の方ではなくて歩道の方に表を向けるようにして並べていたんですね。

加藤:そうですね。それで今もあるんだけど、グリーンベルトみたいなのが(道路の)真ん中にあるでしょ、本当はああいうところにも標識を立てたかったらしいんだけどね、だけど警察の許可がとれなくてね。自分は立ち合わなかったんだけど許可を取りに行った時、職員に「そこに立てられると車で通る人が見るでしょ」って言われて「そうでしょうね」って言ったら職員が「見ちゃまずいわけですよ、よそ見するわけだから」。

田中:じゃあ警察には行ったわけですか。

加藤:そう、そう。だけど許可取れなくてね。それで結局は歩道の方になったっていうか。本当は金子さんはそういうところにもやりたかったんでしょうね。

住友:金子さんが交渉したんですか。

加藤:たぶんそうだと思いますよ。

住友:点数は、吉田(富久一)さんの文章によると150点にしたというから、相当な数ですよね。

加藤:そうですよね、ひとりが30cmの、素材はベニヤでも。僕はPタイルってプラスティックのタイルみたいな、あれを使ってやったけど。ひとつの作品が30cm限定でやったんですよね。

田中:それだけみんなで決めて、あとは自由という。

加藤:ええ。それを角材に打ち付け、それを道路の側面に立てるんです。でも、堺(「堺現代美術の祭典」1966年8月)でやった時は公園みたいなところでやったから、同じ道傍でも車とか通らないところだから金子さんはかなり不満だったみたいで、意味が変わってきちゃうって言ってね。難しい面が出てきちゃうんですよね。

田中:本物の標識と並べてどっちがどっちか分からないように展示するというのが目的でしたか。

加藤:それが本来やりたかったことなんだろうとは思うんですけど。

田中:そういうことでいうとその後にモダンアート・センター・オブ・ジャパンというヨシダ・ヨシエさんのご自宅のギャラリーでも展示されていますよね。

加藤:あれはヨシダさんの自宅だったんですかね。今まで知らなかったですよ、ヨシダさんの自宅だったとは。

田中:目白ですよ。それは完全に室内だったのですか。

加藤:ええ、そうですね。で、あの頃「標識絵画」が終わってから、シャッターに描くようになったんですよ。あれから室内に入っちゃんだよね。それがそもそも終わりに近づいていたということなんだろうなぁ、あれは外に出ないと意味がないから。標識絵画に沿った形で、金子さんはどっちかっていうと外で、商店街の七夕にひっかけてやるとか、そういうのをやっていたから。やっぱり外でやらないと在来りの美術になってしまうと思っていたのではないかと、自分の推測ですが。(NOMO「標識絵画」展 前橋ビル商店街歩道、1966年7月13日−20日、七夕祭りが協賛)

住友:七夕の時にやったというのは標識絵画だったんですか。

加藤:標識絵画じゃなくて、発泡スチロールで何ができるかみたいな。

住友:これは県庁前通りですか。

加藤:やっぱりやまだや画廊の前の通りですね。

住友:これ七夕なんですね。

田中:66年ですかね。

住友:66年7月13日から20日。

田中:もしかしたら「七夕屋外彫刻展」というのは67年というのが正しいかもしれません。

住友:あるいは66年の7月もやっているんですよね。きっとね。

田中:66年の7月にも「標識絵画展」というのをやっていますね、商店街のほうでも。 七夕のは、七夕にあわせてやったのはこういう発泡スチロールのでかいのですよね。

加藤:そうですね、はい。

住友:そうか、じゃあ67年か。七夕の時の1日だけですか。何日間かやっているんですか。

加藤:いや、1日だけじゃなかったような…

住友:じゃあ会期はもうちょっと長いんだ。

加藤:複雑だったからなぁ。俺なんか勤め人だったから、結局、作ってそこに置いて帰っちゃうわけですよ。だから後はどうなっているのかわからないから(笑)

田中:そっか、みなさんそういうかんじだったんでしょうね。

住友: 67年の7月というとコーヒー袋のやつは同じ時ですよね。(第5回あすなろ美術サロン「コーヒー袋を造形する」名曲茶房あすなろ、1967年7月2日—30日/高崎 NOMOグループ)

加藤:ああ、そうですね。

田中:コーヒー袋をやっている会期中ってことですよね。

加藤:何かを使ってやるというのはその発泡スチロールとコーヒー袋のふたつ。

田中:なるほど。

住友:ちなみにこの時の標識絵画とか七夕ので、加藤さんの残っている作品ってあるんですか。

加藤:発泡スチロールですか。そういうのはみんな処分して全然ないですよ。標識もだから残っていないですよ。

住友:解体しちゃったんですね。

加藤:ええ。再考の時に展示した作品が残っているだけで、30cmの。額をつけちゃったけど。

田中:あ、あれがノイエスでやった時のですか。(2007年「現代における標識・再び」(ノイエス朝日、前橋)

加藤:そうそう。そうです。

田中:その時は全部再制作ということで。

加藤:当時とあれ(再考)とは、もうぜんぜん違っちゃってますけどね。

田中:先ほどの話で、屋外から室内に入ってきた時点でちょっともう意味が変わってきてしまったということですよね。

加藤:ええ。

住友:あともう一個はシャッターですよね。外でやったのは。(「シャッターにいどむ前衛画家たち」1966年8月7日午後2時 場所・群馬県前橋市県庁通り曲輪町前橋ビル商店街 参加者・NOMOグループ[群馬]金子英彦、加藤アキラ、藤森勝次、イサハイトミオ、田島弘章、堤幸夫、角田仁一 ジャックの会[東京]佐々木耕成、佐藤光右、千葉英輔、小山哲男、井原千鶴子、千田有為子 ROZO群[千葉・茨城・埼玉]松本百司、岸根光隆以上の3つのグループの画家15人が商店のシャッター[よろい戸]をカンバスに競演。『美術ジャーナル』59号1966年11月を参照)

加藤:そうそう、シャッターですね。

住友:シャッターには加藤さんはどういう絵を描いたのですか。

加藤:これがそうなんだけど。鍵穴を描いていたんですよ。

住友:これはそれぞれの、何のお店かとは関係なく。

加藤:ええ、そうですね。

田中:これはひとり一店舗ってかんじで描いたのですか。

加藤:ええ、そうですね。

田中:あの、記録だと15人参加されて、13店舗ってなっているんですけども。(『美術ジャーナル』59号によると群馬県庁に近い前橋の商店街が一昨年から昨年にかけて区画整理で共同店舗に変わった。)

加藤:それがね、あと側面にちょっとあるんですよ。

田中:じゃあ表の並びは13(店舗)で、側面に2店舗。

加藤:側面に2つあって、それはちょっと狭いんですけど、半分くらいの大きさの。

田中:それで15面ということですか。

加藤:そういうかんじなんですけどね。

住友:これは8月7日、8日の2日間だったんですか。

加藤:2日間…… 1日だと思ったけどなぁ。

住友:あ、一昼夜だから7日の夜にやって8日の昼間見て、終わり。

加藤:そういうかんじですよね。それで消すわけじゃなくて、後は残っていくわけだから。

住友:じゃあお店は(そのシャッターを)使い続けたんですかね。前橋ビルがある間はずっと見られたんですね。

加藤:ええ。そうですね。でも途中で書き直して字にしちゃったりとかってお店も出てきたみたいですね。(お店によって違うけれど)でもしばらく続いていたみたいですよ。

田中:7日の朝から、みなさん描きはじめていたんですか。

加藤:朝って言うか、最初は、午後くらいじゃなかったかな。午前中だったかな。その前はパフォーマンスみたいなのやっていたから。彼ら、なんだっけ。

田中:その佐々木耕成さんとかの、「ジャックの会」が駅から商店街までパフォーマンスしながらやってきて。

加藤:小山哲男とかちだ・ういとか、確か5人くらいだったかな。千葉(英輔)さんとか。

田中:5人くらいの方がパフォーマンスをされた。(註:『美術ジャーナル』によると6人)

加藤:そうですね。(シャッターに絵を描くというパフォーマンスは)それが終わってから一斉にやりだしたってかんじだから。

住友:吉田さんと、佐々木さん、佐藤光右さんと、千葉さん、小山さん。(註:『美術ジャーナル』によると ジャックの会[東京]佐々木耕成(ささき・こうせい 1928-)、佐藤光右、千葉英輔、小山哲男、井原千鶴子、千田有為子)

田中:そのパフォーマンスをやったのはジャックの会のメンバーってことですか。

加藤:そうです、そうです。

住友:あとは茨城の「ROZO群」。松本(松本百司 まつもと・ももじ、1933-)、岸根(光隆)。あと井原千鶴子、ちだ・ういですね。(註:井原千鶴子と千田有為子はジャックの会)

加藤:そうですね。

田中:この15人の方たちがそれぞれ1枚のシャッターを担当して、ほぼ半日くらいで描き上げるということですか。

加藤:だいたい半日くらいだと思いますよ。夕方から討論会というか座談会があったから。

田中:みんなその半日くらいで仕上げて。

加藤:ええ。でも僕は描ききれなくて少し残しちゃう部分もあったんだけど、座談会が始まっちゃうって(笑)。ぎりぎりまでやっていたんだけどね。

田中:それは後々描き足したりしたんですか。次の日とか。

加藤:それはしたんだけど。貼り紙の跡の部分が残っているんじゃないかな。この辺、確か貼り紙の跡が残っているんじゃないかな。

住友:商店街の人とか、周りの反応とか覚えていますか。

加藤:もの凄かったですよ。何ごとが起きたんだっていうかんじでね、あんなに美術が騒いだことってこれから先もないんじゃないかな。

住友:それは好意的なものも、なんじゃこれっていう批判も(両方ありましたか)。

加藤:なんじゃこれって唖然とした部分の方が多いんじゃないかな、これだけの人の出が、見に来る人たちの数が凄かったですよ。美術(のイベント)で、あんなに来るなんてことはこれから先もないんじゃないかな。

田中:描いている時にですか。

加藤:描いている時とか、そのパフォーマンスの行列のね、その時は。

住友:そうですか。じゃあ盛り上がったんですか。

加藤:ええ。

田中:事前に広報とかはしていたんですか。そういうわけじゃなくて自然と集まって来たんですか。

加藤:あの、ドーラン塗ってホースを咥えて、こう街の中へ、確か5人だと思ったんだけど、行列で行くじゃないですか、チンドン屋じゃないけど、鳴り物入りじゃなくても、じゃんじゃん寄ってくるよね。ああいうことって今までなかったから、だから興味本位っていうか、何ごとだってかんじで寄って来るわけですよ。

住友:いいですね。今だとどっちかっていうと見て見ぬふりとかする人もいるでしょうね。その辺、時代の変化もかんじますね。

加藤:もう一般の人にとっても「パフォーマンス」というものは確立されて知っていますしね。当時はそんな「パフォーマンス」なんて言葉も(浸透していなくて)、あの頃は何て言ったろう、「ハプニング」とか、そういう言い方だったですよね。

田中:ジャックの会は「ジャッキング」と言っていましたよ。

加藤:そう、「ジャッキング」。ジャックの会はそういうふうに言っているんだよね。

田中:加藤さんご自身もそういうパフォーマンスとかハプニングのようなものをご覧になるのは初めてだったんですか。

加藤:それは初めでだったですよ。だから、何じゃこりゃってかんじで。

田中:じゃあその一行が引き連れてきたお客さんとかも合わせて、凄い人だかりになっていたわけですか。

加藤:ええ。地元の人とかね、近所の人とかね。

住友:これ、きっかけは確か、商店街の方から金子さんに何か打診があったというから、わりと商店街の人たちの協力関係もあったわけですよね。違ったかな。

加藤:商店街には当然、通達というか知らせが行って、それで商店街からまた近所の人達へって、そういう過程はあったんだと思いますけどね。

田中:もともと商店街側から金子さんの方に何かやってくれないかって相談があって始まったことだったんですよね。

加藤:きっかけはそうですね。

田中:商店街の方は全面的に協力していたんですか。

加藤:当時、どっちかっていうと前橋の中心街はアーケード街ですよね、弁天通りとか、あっちのほうが中心街だったから、(県庁前の商店街からは)少し離れているんだけど、(だから)ある意味じゃ郊外なんですよ。だからちょっと寂しいなってかんじで、何かちょっと目につくようなことはないかって、金子さんの方に話を持って行ったんじゃないですかね。

住友:でも特に商店会長、商店理事長、大井健三郎さんという人が芸術好きだったってわけではないんですよね。(1966年9月9日にはシャッター芸術座談会「新しいコミュニケーション」開催 前橋公民館 ジャックの会:小山哲男、佐藤光右 NOMO:加藤アキラ、金子英彦、田島弘章、角田仁一 ROZO群:岸根光隆、松本百司 井原千鶴子、千田有為子、大井健三郎理事長ほか商店会から3人参加)

加藤:だけじゃないですよね。大井さんって自分が(シャッターに絵を描くパフォーマンスで)受け持った瀬戸物屋の……

住友:瀬戸物屋さんだったんだ。じゃあ本丸でやったんですね(笑)。。

田中:当然その描いている間はお店は閉店ということになっているんですか。

加藤:ああそうですね。閉まっちゃっていますからね。

田中:日曜日だけど全部閉めて。

加藤:たぶん日曜日に休む店が多かったんじゃないかなと思うんですけどね。あそこは県庁前通りだから、日曜日だと逆に人通りが少なくなる、そういう部分もあったんじゃないかなと思うんですけどね。ちょっと調べてみないとわからないけれど。

住友:これは、そんなに人が集まったというのなら、当時の新聞とか(探して)見たらもっと写真たくさん出てくるかもしれないですね。取材とかもあったかもしれないですよね。

田中:そうですね。ただ何かに書いてありましたけど、取材する人が来た時にはもう終わっていたということがあったみたいですよ。その情報を得て、それでこっちに記者の人が来た時にはもう終わっていたという。

加藤:染谷(滋)さんがその辺はずいぶんもう資料を持っているんじゃないかなと思いますけどね。

住友:あ、そっか。

田中:そうですね。

住友:そういう外に出ていく事業を、でもその後はそんなには継続はしないんですね。

加藤:そうですね、はい。

住友:もっとやろう、どんどんやろう、ということにはならなかったんですね。それはやっぱりNOMOのメンバーが忙しいからでしょうか。

加藤:それもあるし、要するにシャッターという部分で言うと、ひとつのチャンスじゃないですか、場っていうかチャンスっていうか。それに継続したとしても今度はどこを探すとかってなってくるわけだから、またちょっと意味は変わってくるかもしれないなと思いますけどね。

住友:シャッター以外にもそういう街に出ていくことを他にもやっていこうというふうには、七夕以降は続かないんですね。

加藤:そう、七夕以降は続かなくて、それであとはコーヒー袋とかで、最後のは煥乎堂でやったやつかな。あれが最後なんだけど、全部、今度は室内でやっていて、かなり美術的になってきたなぁというかんじですね。後半になってくると生(なま)の商店とか、生の社会みたいなものと繋がるという部分が少し離れてきた気がしますね。

田中:その標識絵画だったりシャッターだったりっていうのは、ひとつの頂点として、ちょっとそれが衰えていくというか、社会の中に飛び出していこうという意識がちょっと薄くなっていくんでしょうかね。

加藤:そうなんですよね。

田中:その辺は何かきっかけとか、やってみて何かこう感じたものとかがあってそうなっていったんでしょうか。

加藤:それは、何て言うんだろう、全国的ないろんなグループの活動がありましたでしょ、あの部分が結局、学生運動と一緒になっていたから、それも衰退していくのと同時進行みたいなところがありましたよね。活気を失っていくというか。この間、黒田雷児さんが『肉体のアナーキズム』(Grambooks 2010年)って本を出したでしょ、あれを見ていると、僕もよく知らなかったんだけど、当時はパフォーマンスグループっていうのがうんとあるんですよね。外に出ていかなかったからそういう情報も入ってこなくて、あの本を見て「あ、こんなにあったの」ってかんじでね。あの当時からみるとやっぱり同じ時代を通過してきたというか、ジャックの会もNOMOと同じ様な過程を通ったと、佐々木耕成さんからも聞いております。

田中:やっぱり一度社会を変えようとか、そういう意識が固まったんだけども、そう思うようにもいかなくてっていうもどかしさもあったんですかね。

加藤:それは個人的には結構ありましたよね。だから東大が落ちて、学生運動が下火になっていくと同時にアート的な芸術運動なんかも下火になっていくという感じが、両方とも同時進行的だったと思いますけどね。

田中:この頃だと思うんですけど、加藤さんは『ART21』(発行・編集所 全日本現代芸術家協議会)という雑誌に文章を寄せられていますよね。その中で芸術が人間を変革するということに対する疑問みたいなことを書かれていますよね。(「T君への手紙」『ART21』1967年No.4 17−18ページ)

加藤:ええ。だから、あの頃の文章ってあんまり面白くないんだけど(苦笑)、竹槍で戦っているようなところって、日本の敗戦地獄ってあったよね、ああいうふうな部分っていう気持ちがけっこうあって。だから精神論だけじゃどうにもならないよみたいな。前に福住廉さんの取材を受けた時にもそんな話がちょっと出て、廉さんも私もそういう考え方に近いところがあるんですよね、なんて言っていましたけど。

田中:そういった、思っていた感覚というのは他のメンバーとかとも共有されていましたか。

加藤:その他のグループっていうのは、ジャックの会以外にあんまり知らないんですよね。

田中:そのNOMOメンバーの中でそういった話とかはされていたんですか。

加藤:いや、そんなに頻繁に会っていたわけじゃないし、普段はもう行事がない限りは集まってこないというかね。だからその部分というのはほとんど金子さんが取り持っていたというかな。だから金子さんがいなくなると散り散りばらばらになっちゃうというのがありましたよね。

住友:[聞き取れず]金子さんとか砂盃さんとかはどう感じたか知りたいところですよね。

加藤:砂盃さんもリーダー格でいたんだけども、あの人の場合は転勤とかあるからね、一か所で落ち着くことがないんだよね。

住友:ちなみにこの文章の「T君」とは具体的にどなたですか。

加藤:どなたっていうのは、全然想定はしていなんですよ…… 想定的ではなくもないんだけど、それは別に重要な部分でもなんでもなくて。

住友:ああそうですか。メンバーの誰でもないんですね。

加藤:ええ。

田中:このシャッターを描く時に先ほどのジャックの会ですとか、ROZOですか、そういったメンバーが参加されていますけど、これは金子さんがいろいろお声をかけて集まってきたのですか。

加藤:それはたぶん長良川の時とかで知り合ったメンバーで声をかけたりしたんじゃないですかね。

田中:その参加されたメンバーの方でその後も一緒に活動された方っていらっしゃいますか。その場限りですか。

加藤:それはだからその場限りだから。佐々木さんもそれ以降、2年後くらいかな、ニューヨークの方へ行っちゃって、だから佐々木さんとも自分は会わなくて、今になって逆に交流があるっていうか。この前も、2、3日前に手紙が来たし。

田中:佐々木さんとはずっと交流がなくて、ニューヨークから帰ってきてからまたお付き合いが始まったというわけですか。

加藤:標識絵画の再考をやった時にぱったりと顔を出したんですよ。「佐々木です」なんて言って、びっくりしちゃって。それで群馬にいるって分かって。

田中:じゃあそれからのお付き合いというかんじなんですね。

住友:あとは66年は、8月に「シェル美術賞」を受賞された年ですよね。これは当時大きな賞ですよね。

加藤:当時はこういう現代美術展とかいうのはあんまりなかったから。

住友:これは今、高崎市美術館にある作品が受賞作になったんですよね。

加藤:そうですね、はい。

住友:この賞を取ったことでの周りの反応はどうですか。例えばその後、石子順造(いしこ・じゅんぞう 1928-1977)の展覧会に出たりだとか、いくつか成果がありますけど、シェルの賞を取った(「第10回シェル美術賞展」1966年)ということは、だいぶ評価が出たって言うきっかけになったんですかね。

加藤:創苑ってギャラリーが銀座にあったんですけど、そこで初めて東京での個展をやったんですよ、自分で。(ギャラリー創苑、1966年)その次にその美術評論家の石子順造氏の企画する「ものまにあ」っていうのがあって、だからそれは、その前に自分が個展をやっていたからついでに誘われたっていう部分もあったんじゃないかな。

住友:銀座の創苑の展覧会はどういうきっかけでやることになったんですか。

加藤:あれは確か寺田さんの紹介だったかな。やってみないかっていうのがあったんじゃないかな。

住友:これはどういう作品だったんですか。

加藤:あれからはもう、例のブラシですよ。シェルに出したものも。ちょっとバリエーションがありましたけど。それであの時、石子順造が見てくれた時に「どうしてここで終わったんだ」って言い方をされたんですよね。作品がこう壁にかかっているじゃないですか、これが作品だとすると、「どうしてここで終わったんだよ!」って言い方をされた時にさ、どういうふうに返答していいかわからなくて(笑)、作品はこれだけだからここで終わるのはあたりまえじゃないかみたいな。

住友:石子さんはどういう人だったんですか。

加藤:今思えばその作品それ自体が批判的な部分があったんで、考え直さなくちゃいけないんじゃないかっていうようなことだったんだろうなって思うんですよ。当時はね、なんでここで終わったって意味が伝わってこなくてね、あたりまえだよ、ここで終わるんだからって(笑)そんなふうにふうに思ったことがありましたよ。かなりあの人って、理屈っぽいわけわかんないところがあるじゃないですか。難しい言葉をうんと使ってね。

住友:そうですね。なるほど。

加藤:あの頃はね、赤瀬川原平さん(あかせがわ・げんぺい 1937—)とか、高松次郎(たかまつ・じろう 1936—1998)とかみんな来てくれたからね。まぁNOMOも次のやつに参加していたから、そういう体で来たんだと思うんだけど。

田中:じゃあその個展というのは結構反響があったんですね。

加藤:どうだったんでしょうかね(笑)

田中:ちょっと戻りますけど、シェルの美術賞というのは、この時に初めて出されて、それでいきなり賞を受賞されたということですね。

加藤:ええ。はい。

田中:その賞というのは、2年前になりますか、金子さんが出して一等賞を取ったってことで、それで自分も出してみようかっていうことですか。

加藤:そういうふうなかたちです。

田中:それでその後に現代日本美術展とかにもどんどん出すようになりますかね。

加藤:ええ、そうですね。そういうコンクールみたいなものを専門に出していたのは、本当は個展でもすれば良かったんだけど、やっぱり貸画廊でやるわけだからそうそう続けられなくて、だからそういう部分で、中央で出すんだったらコンクールしかないんだろうなって思って。それで団体展とかはもうごめんみたいなところがあったから結局そういうところに出すしか場がなかったっていうか、うん。

田中:そういう、加藤さんがいろんなコンクールに出すようになった時代と、NOMOがグループとしての活動がだんだん下火になっていく時代が重なっているように思うんですけど。

加藤:そうですね。だから他に目が向き始めた部分もあるし、他の知り合いもできてくるじゃないですか、一緒にやろうよみたいに誘われたりするし。そうするとだんだん交流の部分が変化していくというかね、そういう感じがあったんじゃないかなと思いますよね。倦厭していたとかそういうわけじゃないんだけど。

田中:自然と活動の場が広がって行って。そんな中でも先ほども出ましたコーヒー袋を造形するというのが67年にありますよね。これはコーヒー袋を使って何かやるというのがテーマで、加藤さんはどういう作品を出されたんですか。

加藤:どっちかっていうとシェイプドキャンバス的な部分で、具象的な、女の尻の部分を、この辺からこの辺までをかたどって、平面に掛けられるようなものを制作しました。それは標識絵画の再考の時に出したんですけどね。

田中:それは取ってあるんですか。

加藤:それはあります。当時の部分で。

住友:ノイエスで展示したものっていうのは今加藤さん大体あるんですか。

加藤:ほとんどありますね。

住友:そうですか。改めてそれを見たいですね。67年ですね。

田中:次の年の68年になりますけども、スルガ台画廊でNOMOグループのメンバーがひとりずつ個展をやっていくという連続個展というものをやられていますけど、加藤さんはその一番手、最初にやられていますね。(「変ったヤツラの群馬NOMOグループ連続個展」スルガ台画廊/東京神保町 1968年6月3日—7月20日 NOMO加藤アキラ、金子英彦、芹沢栄三、角田仁一、藤森勝次、三善秀喜、森康雄による連続7週間の個展)

加藤:この頃はアルミを使った作品なんだけど、ブラシが取れてきたというか、引っかき面でやったやつはウェ-ブ状に引っかいているから光の角度によって動いて見えたりとか、光の入る反射面が変るとか。

田中:ブラシは使わずに痕跡だけが残るという。

加藤:そう。光を利用したやつをね。

(加藤退室、そして戻って来る)

加藤:これがジャパンアートフェスティバル(「第7回ジャパンアートフェスティバル」1970年)で受賞したやつなんだけど、こういうアルミを引っかいて光を利用しながら作って。これは色が入っているけれど、色が入っていないのもあって。

田中:これは平面のものですか。

加藤:そうですね。

田中:表面の加工によって光り方が違ってきて、ということですよね。この時はこういう作品を制作されていたという。

住友:この辺のは同じシリーズですよね。《スペース・コンプレッション》69年。

加藤:ほとんどこの辺のは(1969年 第5回)国際青年(美術家)展のやつ。

田中:これはシェイプドキャンバスなんですか。

加藤:これはやっぱりアルミを削って、これは白黒だけど色が入っていて。

田中:こういう形に板を切ってあるんですか。

加藤:そうですね。それで平面で。これは色が入っているんですよね。

田中:削ったり、磨いたりした面と、色を塗った面とが交錯しているという。

加藤:そうですね。

田中:スルガ台画廊では、一応NOMOグループとして展覧会をやったわけですけども、かつてだったら標識絵画だったりシャッターにしろ、みんなで一緒にっていうかんじだったのが、今回、個展で一人ずつ見せるようになったんですね。それは画廊側からの提案でそうなったんですか。

加藤:うーん、両方だったような。結局、企画じゃなかったわけだから、ええ。借りてやっていたわけだから。

田中:でもNOMOグループとしてひとりずつやりたいという意識はあって。だいぶ変わってきたわけですね、NOMOグループとしても。標識絵画の時から。

加藤:標識絵画からシャッターの時とか、あれからみるとずいぶん変わっていますね。

田中:それぞれが個人でやっていくという流れになってきていたということなんですかね。

加藤:金子さんの文章で、集団生活の限界性みたいなものを書いているものがあったみたい。染谷さんは「そうは思わないんだけど」とか言っていたけど。

田中:金子さんもそういう思いはあったみたいだけど、染谷さんは限界ではなかったと言っていたんですか。

加藤:うん。そういう感じみたいには言っていましたけど。

田中:砂盃さんは66年に大阪に転勤になっていますよね。砂盃さんが抜けたことでグループが変わってきたとか、そういうことってありますか。

加藤:個人的にはあんまり意識していなかったですけどね。

田中:砂盃さんは転勤されてからはもうグループには参加されていなかったわけですよね。

加藤:それでまた戻って来る時があったんですよね。何回も転勤しているから。最終的には都内で退職を迎えたっていうか。

住友:(砂盃さんは)この頃は例えば大阪から作品を送ってきたりとかはされていたんですか。

加藤:どうだろう。ほとんどグループとしては参加していなかったから。

住友:そうするとけっこうコアな時には砂盃さんはいなかったんですね。

田中:そうですね。

住友:まぁ(前橋から大阪への転勤は1966年)11月だから、それまでの標識絵画とかやった時にはいらっしゃるんですよね。

加藤:標識絵画の堺の時と、シャッターの時と、あと1回か2回くらい。

住友:コーヒー袋の時とかは。

加藤:それはいなかったような気がします。

住友:作品を送ったりもしなかった。

加藤:あるいは2回くらいかな、砂盃さんが一緒にやったという記憶があるのは。あとはほとんど転勤になっちゃったから。

住友:コーヒー袋の時は品田静男(1940-2000)さんとか参加していますか。

田中:だいぶメンバーが変わってきていますよね。

住友:あ、これは参加者であってNOMOグループってわけじゃないのか。コーヒー袋の展覧会にNOMOグループも参加したという。

田中:でもコーヒー袋の時にたぶん三好(三善秀喜?)さんとか森康雄さんが加わっているんですよね。

加藤:そうですね。で、連続の個展の時も森さんは加わっているというかんじなんですけど。何回か加わっている。シャッターには加わっていなかったけど。

田中:だいぶメンバーも入れ代わってきていたということですよね。

加藤:そうですね。あの頃はわりといろいろあって。

田中:さてこれで69年になりますけども、先ほどもちょっとお話ししましたけども、煥乎堂で「2つのプランによる実験展」(1969年11月13日—17日)をやられて、それには加藤さんのプランと、島田さんのお二人がそれぞれやられたということですよね。結果的にはこれがNOMOグループの最後の活動ということになりますけども。これはお二人がそれぞれ個展のような形でやられたということですか。

加藤:個展というか、プランなんですよ。

田中:ひとつの部屋にそれぞれこう。

加藤:プランを出してね、それでそれが面白いんじゃないかと、参加メンバーで共同制作の形でやったんでね。島田さんは自分の部分(プラン)で、大きさで言うと四畳半くらいのひとつの部屋を作って。それでいまひとつは僕のプランで、逆さの部屋っていうのをやったんですよ。それは椅子でも何でもかんでも上に貼りつけて、ちょうど自分が逆さになって見るような錯覚にとらわれるようにやったやつと、それからいまひとつは、氷を立てて、自分はドーランを塗って、それをバーナーで溶かすという、今で言うパフォーマンスなんだけど、そういうやりかたでやったんですよ。それでそこにテープレコーダーでね、電話で「何時何分をお知らせします」って時報を録音して鳴らしたんですよ。本当は生の(声を)電話から流そうとしたんだけど、それはちょっとできなくて、しょうがないからって、テープで30分間録音して、それを流しながら、氷を溶かすというパフォーマンスをやったんですよね。

田中:時報を流しながら、バーナーで氷を溶かすという。

加藤:そういうふうな。

田中:それが加藤さんのプラン「消滅するプロセス」っていう。

加藤:そうですね。

田中:会期中毎日やっていたんですか。

加藤:いや、その1日だけですよ。

田中:1日だけですか。他の日は?

加藤:1日だけというか、何十分だけというか。

田中:パフォーマンスとしてやって、展示としてはどういう状態だったんですか。

加藤:だからその平衡感覚という島田さんのやつと、逆さの部屋があるみたいな。で、島田さんの部分っていうのは暗闇の部屋を作って蛍光塗料を塗ったロープをいろいろ張り巡らせるんですよ、それをブラックライトで当てると光りますでしょ。ちょうど今で言うレーザー光線みたいな、あれほどシャープじゃないんだけど、そういうかんじにちょっと見えるんですよね。そういう作品ですよね。

田中:さっきの上下反転の部屋っていうのは加藤さんのプランだったわけですか。

加藤:ええ。

住友:加藤さんは、その氷を溶かすというパフォーマンスをやるのは、それは1回きりですか。

加藤:そうですね。それから、ずーっと後になってニパフ(日本国際アート・フェスティバル)のパフォーマンスのグループと白川さんの共同企画(場所・群馬)の時に電磁力を利用した振動板をつくってそれを使ってパフォーマンスをやったんですけど、それと2回しかしていない。

住友:これが最初のパフォーマンスだったんですか。

田中:これはNOMOのグループの何人かいらっしゃったわけですけど、お二人だけが出したっていうのはどういった経緯だったんですか。みなさん提案をいろいろした中で選ばれたわけですか。

加藤:そうですね、そのへん記憶が曖昧ではっきり判りません。藤森さんにしても、どちらかと云うと絵画(平面)の方じゃないですか。そうゆう意味で辞退したのか、他の事情があったのか判りませんが、田島さんは自分の仕事が忙しくなったと聞いております。あの時は、NOMOのファーストメンバーで参加したのは角田さん1人なんですね。

住友:そうなんですか、参加したのは、金子さん、角田さん、加藤さん、森さん、島田さんってなっているんですよね。

加藤:うん。だから手伝ってくれているというんですよね。

田中:オリジナルのメンバーがいないっていう状態で。

加藤:そういう意味では共同制作と言ってもいいのかもしれないですけどね。

住友:先ほどの確認なんですけども、島田さんの作品のタイトルが「平衡感覚の消失」で、加藤さんが「消滅するプロセス」で良いんですか。逆さの部屋っていうのが平衡感覚の喪失に近いなって思ったんですけど。

加藤:だからその島田さんの方の部分と繋がっていると言っても良いんじゃないかなと思うんですけどね。

住友:島田さんのがロープの。

加藤:暗闇の中で見せるんだから。

住友:それが平衡感覚の喪失。

加藤:そうとは言っていないんだけど、それも言っていいとは思うんですよ。

住友:これは作品のタイトルってわけじゃないんですね。

加藤:全体的な、こう何ていうんだろう、展覧会のタイトルって思っているんだけど。

田中:プランがあって、それに対してグループで共同でなんかやったってかんじですかね。

加藤:そういうふうに、プランは自分が出したとしても、全体でひとつでやってくれているという、そういうかんじですかね。

田中:じゃあ加藤さんの上下反転の部屋っていうのは、平衡感覚の喪失っていうプランの中の作品として作られたという感じですか。

加藤:うん。で、自分で、消滅するプロセスって、さっき言った覚えがあるんだけど、平衡感覚の喪失っていうのはたぶん金子さんとかがそういうタイトルを考えたんじゃないかなと思いますけど。細かいプランのアイデアを出しただけでね。

住友:逆さの部屋は加藤さんが作った?

加藤:参加者の人が皆手伝ってくれたりしたから、自分が作ったといえるかどうか。共同制作と言っていいと思うんだよね。

住友:なるほど。これは写真は残っていないんですよね。

加藤:これはね、あの頃はみんなカメラ持っていなかったから。

住友:これ見たいね(笑)煥乎堂に残っていたらいいのになぁ。

田中:そうですね。69年。

加藤:あの頃は残そうという意識が希薄だったんじゃないかな。

住友:残っていればどんどん新しいことやりたいやりたいってかんじで。

加藤:そういうことはわかっていたんだよねぇ。たぶんね。だから残すってあんまりなかったんだよねぇ。

住友:これ、説明聞くとちょっと見たいですよね。

田中:うん。あの、加藤さん、ドライアイスを使ったという記述がどこかにあったんですけど、この時はドライアイスは使っていないんですか。

加藤:ドライアイスは使っていないな、この時は氷だけですね。

住友:氷をバーナーで溶かした。

加藤:ドライアイスは溶けないように使ったかな?……。(註:インタヴュー後日、加藤さんより床をドライアイスの雲で覆う意図でやったことを思い出したとのこと)

田中:何かドライアイスの煙が展内に広がって騒ぎになったっていうのをどこかで読んだんですけども。

加藤:(煙じゃなくて)氷の水がね。シートを置いてその上に氷を立てたんですけど、氷屋で使う1本のでかい氷だから、溶けて、床に水が漏れて、下の本屋が大変だった(笑)迷惑かけて(笑)。

住友:(笑)

田中:それは煙よりたちが悪いですね(笑)そして、この後はNOMOグループとして活動しないわけですけども、これで終わりだっていう話し合いはあったんですか。

加藤:いや、ないですね。

田中:何もないですか。自然消滅みたいなかんじですか。消滅もしていないといえばそうかもしれないけれど。

加藤:解散宣言って何もしていないんですよね。自然に、もう。

田中:自然に、活動されないままずーっときちゃったってかんじになるんですかね。

住友:お互い作家同士の付き合いは続いていて。

加藤:そうですね、ときどき藤森さんとかは個展をするから見に来ていうのがあれば、見に行きますけどね。

住友:金子さんとも。活動終わっても会ったりはするけども、もう、そろそろNOMOグループやろうかみたいな話はその後出たりとかはなかったですか。

加藤:そうですね。全然なかったですね。

住友:なるほど。あと、NOMOグループのいわれは、砂盃さんが、えっとNon Homosapiensでしたっけ、というふうに言っていますけど、それはそれでいいんですかね。

加藤:ああ。Non Homoって、いわゆる規制の人間像とは違う新しい人間像を作ろうみたいな、Homosapiensをもじったというか。Non Homoっていう頭の文字と下の文字をとってNOMOって付けたんだと聞いています。

住友:分かりました。加藤さん、今(この当時)32歳か。若いですよね。

田中:そうですよね。まだ32歳。

加藤:(笑)

住友:まだ32歳。でもいったんじゃあここで締めますかね。

田中:ええ。

住友:加藤さん、だいたい今2時間ちょっとお話をお伺いして69年でNOMOの活動が終わったってところで、いったん今日はここまでにさせていただいて、で、また明日、この後の、恐らくこどもの国(「現代美術野外フェスティバル」1970年4月1日—5月31日)のところから70年のところで一度活動を停止されたりしている時の事と、あともっと先の事までっていうのをお伺いするっていうかんじで。

加藤:はい。わかりました。

住友:いや、でもまだ32歳なんですね。ちょうど気づいたんですけど(笑)。

加藤:(笑)

住友:32歳までにそうとう濃厚なことをやられていますよね。

田中:この時まで、ずっとトヨタで働いていたのはずっと続いていたのですか。

住友:トヨタは8年間って言っていましたよね。

加藤:町工場で働いていたのが8年間ですね。

田中:8年間町工場にいて、その後トヨタに行かれて、えーっと、トヨタに行かれたのが60年くらいですか。

加藤:トヨタにはだいたい6年いたのかな。トヨタからカローラに移って、カローラからやっぱり金子さんに誘われて、群馬テレビができる時に、周りに広告代理店ができるシステムで、その広告代理店のコマーシャルの制作の方に来ないかって誘われて、テレビアートって会社なんだけど、もう潰れちゃいましたけど、そういうところでコマーシャルの方をやっていた。

住友:テレビアートに行ったのは何年くらいですか。

田中:群テレができた時ということですか。まだ二十代ですか。

加藤:いや、もう30(歳)になっていましたね。32、3(歳)だったかな。

田中:あ、じゃあこの頃、NOMOが終わる頃ですか。

住友:なんかあれですね、ちょうど高度成長期で、テレビ局とかそういう仕事になって。ほんとに社会が変わったって感じがしますよね。自動車、重工業から。

田中:ああ、そうですね。そういう意味では時代の流れに乗っている。

住友:ほんとそういうかんじですよね。

加藤:(戻って来る)…… テレビアートは、47年の…… 46?46年か。46年の2月22日。

田中:46年2月22日に設立されたんですか。

加藤:設立されて、それでそこへ移って。

住友:じゃああれだ、こどもの国の後ですね。

田中:そうですね。

加藤:ああ、そうですね。こどもの国の時に挫折して、それからその時にちょうど金子さんから、群馬テレビができるので制作の方にいったん入ってくれないかみたいな話があって。

田中:じゃあトヨタからカローラに移ってというのは、お仕事の内容としては変わらないわけですか。

加藤:そうです。

住友:車の整備。

加藤:あの、子会社みたいなところ。繋がっていたから。

田中:トヨタが親会社で、その下のカローラ。

加藤:カローラって車ができるんで、それで別のディーラーが必要になってきて、それで移ったというかね。

住友:じゃあNOMOグループの時はずっと自動車の仕事をされていたんですね。

加藤:そうですね。勤めだったったから。

(省略)

住友:ここは冬は氷が張るんでしたっけ。

加藤:全体には張らないですけどね。だんだんだんだん張らなくなってきましたね。

住友:そっか、冬が暖かくなって。

住友:この間の福住さんのインタビューというのはどこかに掲載とかされているんですか。個人的に?

加藤:やっぱり個人的にという部分のがあるんじゃないですか。最初はね佐々木さんの、佐々木耕成さん(ささき・こうせい 1928-)の3331でやったでしょ、あの時のカタログ作りで、それで取材したんですよ。(註:「佐々木耕成展 全肯定/OK. PERFECT. YES.」図録、アーツ千代田3331 、2010年)

住友:なるほど。

加藤:なんか佐々木さんの取材に来たのに俺のことばっかり聞いて(笑)それでもうほとんど自分が知っているよりも福住さんの方がよく知っているってかんじで、佐々木さんの取材はそんなに意味がなかったみたいなところがあったみたいで。

住友:ああ、もうひととおりその企画については聞いた後だった。

加藤:そのへんは知っていますよっていう。

田中:やっぱ冬は寒いんじゃないですか、この辺は。

加藤:夏は暑いし(笑)と、いっても前橋や高崎の市街地にくらべたら3度位低いですよ。

田中:もう凍っていますか、湖は。

加藤:朝は、少し張るようになりましたね。昔は冬は半分くらいは張っていたかな。で、氷が溶ける時の、暖かくなると温度差で膨張するんだと思うんだけど、ひびが入って来る、その音がすごくいい音なんですよね。ああいう音はもう聞けなくなっちゃった。

田中:ああ。やっぱり暖かくはなってきた……

加藤:シュルシュルシュルシュルーってかんじの音でね。走るんですよ、音が。

住友:へー。自然の音ですね。結婚されてからこちらにっておっしゃっていましたっけ。

加藤:そうですね。で、早く言っちゃうけど、この家はね彼女の親が建てた家なんですよ、もともとは。だから居候と同じなの(笑)。

田中:じゃあ設計とか全然関わっていないんですか。

加藤:関わっていない。

田中:それにしてはアトリエ風な。

住友:ねぇ。ここはもう……

加藤:で、前はねここまでだったんですよ。

田中:ああ。壁を取り払ったんですか。

加藤:ここまででね、こっちはなかったんですよ。

田中:増築されたんですか。

加藤:それで彼女が借金して、商売やっているから、彼女が建ててくれて。こっちは頭が上がらないという(笑)

田中:居候という(笑)

加藤:美術なんかやっていなければ家の一軒くらい建てられたんだろうと思うけど(苦笑)全部そっちのほうにかけちゃうから。やっぱり。