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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

松澤美寿津 オーラル・ヒストリー 第2回

2010年4月4日

長野県下諏訪市内松澤家マンションにて

インタヴュアー:青木正弘、坂上しのぶ

書き起こし:坂上しのぶ

公開日:2012年12月3日

インタビュー風景の写真

坂上:2010年4月4日14時04分よりオーラルヒストリーインタヴュー開始します。

青木:はい。

坂上:昨日、いろいろご家族の方のそれぞれが持っている松澤宥さんの思い出をお話いただいて。後でまた旅行の話などをお聞きできたらと思うのですけれども。ちょっと話の視点を変えて。

青木:昨日はね、美寿津奥様にとってのご主人、それから久美子さんのお父さんとしての松澤さん、それから桂子さんのおじいちゃんとしての松澤さんというイメージを持ってお話を伺っていたのですけれど。そういう中で、一方に、芸術家松澤宥という面があったわけで。そういう事で奥様とか久美子さん桂子さんとそれぞれ世代が違っている中で、桂子さんだともうおじいちゃんの事は、自分がもう10代の頃からそういう表現活動をしているということで捉えていっていると思うし、それぞれ(松澤さんに対する考えや捉え方が)違うと思うんです。そういう中で、奥様が、松澤さんがそういう関係している作家たち、交流の様子とか、詩を書いたり絵を描いたりしている中で、何か芸術的表現者としての松澤さんというものを意識したというか。普通は、昨日お聞きしたように、本当に優しくて、大声を上げることもなく、叱られた記憶も無いくらいの。それで定時制の高校に30数年間、36年ですかね、お勤めになっているといういわゆる普通の先生という面を持ちながら、一方で、そういう表現者としての松澤さんというのが平行してずっと来られたわけで。そういう表現者としての松澤さんを日常の中で垣間見るか、「あ、そう言えばこんなことがあった」とか、驚かれた事とか。あの50年代にもう渡米してくというのは、本当にもう数少なかった時代だと思うんですね。だから、そういう事で、それは普通じゃなくて、「え?何、お父さん、アメリカに行っちゃうの?」とか何かそんな感じもあったように思うんですけど。何かそんなような事で、生活を共にしていて、それぞれの世代の中で、「あ、そう言えばこんな風だったな」とか何かそのような事があったらお話を伺えたらなあと思ったのですが。特に順番ないのでねえ、桂子さんとか、妹さんの梓さんなんか、写真の中に写ったりしてますよねえ。桂子さんもおじいちゃんと一緒に、美術家としての松澤宥さんと一緒に写っている。それがお母さんだと、その世代の時は、また違っていた。その辺のところを、お話、なかなかうまく言うのは難しいのだけれど。

坂上:何か思い付いたことでいいので。

青木:ここだけは非常に頑固だったなあそう言えば、とか。

坂上:普段、家で見せる顔と、表現者として一般の人に見せる顔と違うと思うんです。家の中で、「消滅せよ」とは絶対に言わないけれども、一般の人の前では「消滅せよ」と言うそういう二面性じゃないけれど、本当の姿とまた違う芸術家としての姿と両方あった姿と。その本当の姿を知っている家族の人が、もうひとつの姿をどう見ていたのか気になります。

青木:パフォーマンスよくされていたから、突然白い服を着てっていうあの距離感がちょっとあると思うんですけれども、そういう時の感じっていうか。

桂子:何かあります?

久美子:私はね、大体パフォーマンスについて行きました。そして小さい頃から、つい最近亡くなるまで、見ましたけれども。やっぱり大勢の方がね、見に寄って下さって。とてもうれしいと同時に、「ああ、父の考えに共感して下さる方がこんなに沢山いらっしゃるんだなあ」といつも思っていました。そしていつも凛として、何でも表現していましたのでね、うちにいる姿とやっぱり全然違っていましたので、びっくりしましたよね、その都度。うん。うん。

坂上:家ではあまり凛としていない(笑)。

久美子:普通の。普通の父でしたよねえ。

桂子:でも私達が普通と思っていることが、普通かどうかは家庭によって違うよね。

青木:そうですね。だからあの、皆さんには普通のおじいちゃんだったり、お父さんだったり、ご主人だったりしても、多分普通やっぱり表現している人はやっぱりいつも、松澤さんなんかは(社会に)対応されている方だと思うんですけれども、世の中だと。だけど(松澤さんも)多分一人になった時の時間が大事だったんじゃないかなっていう事も思うんですね。松澤さんの言葉とか。何か感ずるんですけどもね。だから、何か、そこのところ、我々は外から見ているときっとそこにすごく日常的なものと離れた何か雰囲気を持った松澤さんがいたと想像するんですけど。

桂子:よくここの上の部屋で作業というか、本を読んだりしていたんですけど。例えば私が遊びに来ていて、夜、用があって電話がかかってきたとか、祖父に。それで呼びに行って、呼びかけても聞こえてない。それで何をしているのかなと思うと、本を読んでいて、はっと気づいたら、私が呼んでいるというのがあったり。あとはイヤホンをつけていてテレビを見ている時はもちろん聞こえてない、片耳しか付けていないので聞こえないというのはあるんですけど。宇宙関係の番組とか見ていた時にすごく集中して見ているなっていうのは、今ここで思いますね。

青木:もうひとつ僕は、松澤さんの中には言葉と言いながら、やっぱり色というもの、色彩をすごく感じるんですね。もちろん絵画もそうだし、パフォーマンスでも白とか、ピンクとか。つまりエロスというか、そういう生命というものに通じていくものだけれども。そのことが僕は、いろんな人の松澤論の中でどういう風に語られているのかは一切把握していないんですけど、僕は非常に強くそれを感じたんですね。今も整理をしていて、非常に思うんだけれども。あの、非常にこれはまあ、こっちの本はこっちへってしている本がありますよね。はっきり言うと女性の裸体とかそういうのがかなり残されている。それは非常に意識的に松澤さんの表現の中にも非常に重要な要素だと僕は思っているんです。それは色彩の中に出てくるという風に感じているんですけれども。そういうものを一緒に生活されている中で何か結構びっくりされたりとかあったんじゃないかなって。つまりそういうことも自然でした?

久美子:そう……

桂子:色……蛍光ペンが好きだとか、そういうのは。家の中で何度も着替えるとか。そうすると普通の生活のことですからね。一日の中で、結構違う服を着替えていたけどね。

青木:あっそう、一日の中で。

久美子:そうですねえ。しょっちゅう。そう言えば。しょっちゅう着替えてました。

青木:家の中にいるだけで着替えるのか。

久美子:さっきと違うものを着てきたとか。

坂上:それはシャツもズボンも?

美寿津:いや……

久美子:全部じゃないですけどね。さっきのセーターと違うじゃない?とか。そのシャツもピンクになった?とか。そう言えばねえ、うん。

青木:だからやっぱり、松澤さんが自分の着ているものを着替えてみるというのは、自分でイメージしている自分というのと、外から見た自分と両面あると思うんですけれども、それは結構意識、あれだけパフォーマンスされている人ですから、その自覚はすごくあったと思いますよね。これだったらどんな風な感じかなあとか。

久美子:ああそうかも分かりませんね。

桂子:普段、白を着ていて、意識して白を着ているということは決して無かったと思うんですけれども。でも、うちの中にいる時も、特に出かける時は、「このシャツがいいかなあ」とか、そういう感じで、すごく早く支度をするんです。それで、女性はやっぱり支度に時間がかかるんですけど。私達に「早く早く」と言いながら、自分は一回着てきた服をもう一回着替えたり。

久美子:そうそう。「これでいいかな」と聞きましたね。そう言えば。

青木:僕は豊田で、ここに初めてお邪魔した、豊田(市美術館)で3回展覧会出していただいた時(注:2003年「宥密法」、2004年「イン・ベッド」、2007年「宇宙御絵図」)の松澤さんの、僕が写真を撮ったりしていた記録の中で、ニルヴァーナとか、瞑想台とか、あの頃のイメージと違う、あの頃に松澤さんに接していた人から見ると、あまり松澤さんは、こう、我々には無い、そういう松澤さんを僕はすごく感じ取ったと思うんです。それはもう本当に、サービス精神とお茶目さというかね。前にお渡ししたかなと、写真を、思うんですけど。本当にサービス精神があって、すごくお茶目な松澤さんを何度か見てるんですよね。その時々によって違うと思うんですけど、多分前の、本当に60年代70年代に接した方々からは、もう「青木さんそんな事いいんですよ」と言われちゃいそうだけど、それも、松澤さんのあったかさと通じていくような。優しさと通じていくような感じが僕はするんです。

久美子:うーん。

坂上:話変わるんですけど。見ているとUFOの本とか、宇宙人の本とかたくさんあるじゃないですか。そういうのを松澤宥さん読んでいたわけだけれども、実際に、ご家族の方とか、そういうのに感化されて一緒に読んだりとかされたりしたんですか?

久美子:話は聞きましたけど、その本を。

美寿津:持っていたわりには読んでないわよね。

久美子:父は沢山こういう本を持ってましたけれども。読んでましたけれども。

坂上:久美子さんが、元旦の日に、UFOを見たって言ったら(松澤さんが)ものすごく喜んだって。

久美子:そうですね。真夜中でしたから休んでいたと思いますけども。飛び起きて来て、全員で見ました。ええ。ですから、もしかしたら、うーん、アメリカでね、そのUFOのラジオ聞いてたりしたって言いますけれども、聞くだけじゃなくて、実際に見たのは、何度あったかと思うんですけどね。ここに出たUFOはやっぱりこの家で見たわけですから、ですから、すごく印象深かったと思うんですね。

坂上:割と他の、周りにいる人たちは、松澤宥さんが「UFOを見た」と言えば皆UFOはあるんだと、割と素直に信じちゃう人が多い中で、家族の方っていうのは、本当に日常の松澤宥さんに接しているから、その……UFO見たって言われても「あ、そう」みたいな感じでいたのが、実際に見たよって。全然関係ない、普段を知っている人がそういうのを言ったから喜んだのかなあと思いますね。

久美子:そうですね。特に私の下の娘は、ちょっと神がかりなものがある子ですから、一緒に見た、他にもあと3回くらい見ているんですよね。その話を興味深く聞いていたりもしましたし。孫たちにもUFOの話だけじゃなくて、おばけ系の話が、よくしていたみたいです。私のお友達なんかも、昔小さい頃遊びにくると、すぐお部屋暗くしたりして、(おばけの話を)してくれましたね。近所の子供たちが遊びに来ましても、昼間いますので、話してくれましたね。お友達なんかもその話を聞きたいので、「久美子さんのところ遊びに行こう」なんてそういう風な感じで。

坂上:どんな話だったんですか?

久美子:うーん、なんかね、作り話っていうんじゃなくて、やっぱり……

美寿津:自然だったわね。

久美子:自然でしたね。実体験なのかなとか。

美寿津:でも、そんなことはあるもんかなあって言って、反論するようなことも無かったですね、皆は。

久美子:聞いてましたね。

桂子:祖父自体が話をしていたことかどうか思い出せないんですけれども、強烈に、小さい頃の思い出で覚えているのが、私が3歳か4歳の頃だったと思うんですけど、ここの部屋で、多分、映画の「未知との遭遇」だったと思うんですけれども、見ていて。その時の場面がものすごく強烈で、いつまでたってもそれを思い出したりとかしていたり。あとUFOスペシャルみたいなのをよく見ていたり、祖父が読んでいる本を覗き込むと、アメリカのある地域には、地下に入って行って、そこで、UFOと人間が日常的に接触しているとか、そういう話を見ながら「ホントかね」って。「本当かねえ」っていうのは、私が思っているんですけど、(そういう)やりとりは(祖父と)したかなっていうのはおぼろげながら覚えていますね。テレビをみたり、本覗き込んだりしたの。

坂上:でもあまり、プサイの部屋には家族の方はほとんど入らない。

久美子:そうですねえ。

桂子:ちょっと話が戻ってしまうんですけれども。表現者としての祖父っていうのを強烈に意識した瞬間が2回くらいあったんですけど、1回は、小学生くらいの時に、祖父が何か書いていたか読んでいたかで「しんぜんび」という言葉を教えてくれたんです。神と、善と、美、の3つだったと思うんですけど。

青木:普通は真実の真と。

桂子:ああじゃあ違うのかなあ。何かそういう言葉を教わった瞬間とか。後は、何かの時に、人と変った事をしたいと思ったら、ものすごく一生懸命やらないといけないっていう事をふいに言い出したことがあって。その時に「ほー」っと。その時は「そうなのかなあ」という風に思っていたんですけど。後になって、思い出したり。その事と後、高校の時に(私が)アメリカに留学した時に、結構手紙をくれたんですね。祖母も一緒に書いているんですけど。二人で便箋何枚かに分けて書いてくれるんですけど、その中に、98年99年当時で、今やっている美術で、「ブレイクスルーをしたい」、か、「ブレイクスルーを信じている」みたいなそういうことを書いてきて。私はその時、留学していて自分は日々の生活があっていっぱいいっぱいっていうか。日々をどう過ごすかでいっぱいいっぱいだったんですけど、それを読んだ時に「80近くになって、ああ、こういうことをまだ考えているんだ」って思ったことは覚えています。手紙も残ってますけど。

坂上:そういう手紙のやりとり。いろいろな手紙をたくさん受け取る松澤宥さんだから、筆まめだったんですか?

久美子:そうですよね。何かね、ダイレクトメールもらったり、大体展覧会の案内みたいなのだと思うんですけど、そうすると頂いた日にその場ですぐお電話して。多分期間のまだ少し前でしょうね、余裕を持って送ってくださいますから。それでも必ずお電話して、必ずお話をしていたみたいですね。

坂上:これだけ(手紙が)残っているのをみると、ほとんどすべて捨てなかったんですね。

久美子:そうですねえ。そしてあと、昔はファックスが。

青木:ファックスよく使われましたね。

久美子:そうですねえ。ただあのね、残念に思いますのはね、昔のファックス、消えてしまいますでしょ。うちが発信したときに向こうの方がちゃんと受けてくださっていたら残っていたでしょうけれども、消えてしまった事もあったと思うのですけれども、うちに頂いたものは、父がそれを書き直すということをしていたかどうかは分かりませんけれどもね、あの、それをコピーするとか。だんだん消えてしまいますよね。本当に残念で。そのファックスとお電話は本当によくしてたみたいです。

坂上:パフォーマンスや旅行にもよく行かれて、帰ってきた時に、思い出話はよくされていましたか?

久美子:聞きましたね。あの、私のうち(埼玉)に、宿泊して、出掛けて、帰国したら、またうちに宿泊してから下諏訪に戻りましたからね。旅行の話どころか、お土産も。お土産も一つの旅行で子供と孫とかに、その買う、その時間をとても割いたみたいですね。観光もしたんでしょうけど、そのお土産を買うことが楽しみで(笑)。そう聞きました。うちの子供たちが小さい頃、たくさん変った民族衣装やら、本当にたくさんお土産をもらいました。

桂子:行く先々で、すごく親切にしてもらうことが多かったみたいで。それは迎える側の人も、外国の人を迎えて、最大限出来ることをしようと思って下さったからだと思うんですけど、それでトルコに行った時に、「荷物を持ちましょうか?」とかいっぱいそういうあったかい気持ちを受けたとか、そういうことはよく話してくれた気がします。この人と会って、誰々と会ってっていうのは、多分私たちには分からないと思って、私にはそんなに話はなかったですけど。あった?

久美子:うん。お会いした人のことを話してくれましたよ。それで写真が出来上がりますと、「この人がこの間言った何とかさんで、そこの画廊でさせていただいて」って説明を。よく受けました。

坂上:反対に、昨日もちょっと笑ってしまったんですけども、久美子さんが作った布のはぎれを寄せ集めて作った、ああいうものが久美子さんのオランダの方に対するお土産であったのが、

久美子:いつのまにか。

坂上:作品となって。そういう意味で、境目がなかったのかもしれないですね。

久美子:そうですね。あの、その、MoMAのね、カタログを見せていただいた時は、びっくりしましたものね。お土産で差し上げたものが、こう、印刷に、それもカラー版に載っていましたので。今日お見せしようと思って、忘れてしまった、すみません。あちらの方もよく大事にしてくださって、MoMAに寄贈してくださったこともすごく感激したんですね。ですけれども……

美寿津:何?

久美子:今の話?ほら、昔の布を張り合わせて作ったテーブルセンターですね。「花瓶でも、お花でも飾ってください」って差し上げて。「日本の裂ですから」って差し上げましたのにね。作品として受け取って下さったのか、粋な計らいだったのかよく分かりませんですけど。嬉しかったですけど。うふふ。

青木:あと、平福寺さん、あそこの時にお聞きしたと思うんですけど、松澤さん、門徒としても、本当にしっかりお寺さんとのお付き合いをやっていたと聞いたんですけども。あと青木さんを始めとした、近くの仲間たちとの付き合いがあって。想像してみると、(定時制の)先生やって、ここでお住まいになってっていうのは比較的普通に見る人の像だと思うんですけど、あの時代に、外国に行って帰ってきたとか、ってことで、何かこうやっぱり普通とは違うと思うんですよね。周りの人たちの考え方。この近所の周りに住んでいる人たちの何か松澤さんへの反応と言うか、「ちょっと変った方ですねえ」とか何かそのような反応はあったんですかね。

久美子:それがね、うちの2軒先の、うちよりちょっと小さい方がね、夕方になると(父が)出かけて行きますでしょ。ですのでね、上諏訪って隣の駅に易者さんがいらして、その方がいつも夕方になるとちょっと父のような風貌で出かけて行くので、ずっと易者さんと思っていたみたいで(笑)。髪型もねえ。

青木:そういうふうに思っていた人もいたかもしれないですねえ。

久美子:子供ながらに、あのね、ずっとそう思ってましたって。

青木:雰囲気から髪型から。

久美子:あと、仙人だと思っていた方は随分いらして。家族もいない独身者の変わり者の仙人だと思っていたみたいで、「ちゃんと家族もあってお子さんもいらしたんですか」とか。そういう方。

青木:やっぱりそういう風に映ってたと思うねえ。多分雰囲気が、やってる仕事は先生とかそういうことで普通なんだけども、多分、持っていた雰囲気が違った。だからと言って、話もしないとかそういうんじゃないんだけど、何かそういうものが近くに住んでいた人は感じられたんじゃないかなあと思いますね。

久美子:わたしたちはね、ここ諏訪ですから、諏訪の方言ってあるんですけど、両親が割と標準語でしゃべるもんですから、わたしたちも諏訪の方言を使わなかったんです。だからね、多分学校でも浮いていたと思います。浮いていたというか、何ていうのかしら。

青木:あっそうか、こっちの言葉じゃなくて。何で標準語みたいなの使ってるんだろうみたいなねえ。

久美子:そういうふうに。

美寿津:うちでは諏訪の言葉使ってませんでしたね。主人も私も。子供たちも。

久美子:いろいろ方言があるんですよ。ですけど、いまだに使えませんものね。

美寿津:使えないと思いますよ。「何とかずらー」なんて普通使いますけど、使いませんね。お友達がいらしてもね、そういう言葉で会話したことない。

青木:方言で話されなかったんですか。

久美子:それはどういう教育だったのかなと思うんですよね。

青木:やっぱ、子供の頃からそうだったという。

美寿津:でもやっぱり子供の頃は……ああでも……

久美子:使わなかったみたいね。兄弟。やっぱり。

坂上:上の4人のお姉さんも。

久美子:皆、周りの方、方言丸出しで。家族の方もね、お友達同士もしゃべられたかと思うんですけども。うちはそう言えば。そう言えば、というか。ちょっとお友達には、仲間はずれにはされませんでしたけど、多分話しづらかったと思いますね。しゃべらないわけでしょ?私が。

美寿津:私は(方言で)会話したことない。

久美子:うーん。

美寿津:別に(方言を話すのを)止めてるわけじゃないですけどねえ。

久美子:どうしてでしょうね。

美寿津:よその方が聞いたらおかしいんじゃないのかしらね。

青木:珍しいですよね。下諏訪。この地域のあれで、言葉がこの地域のあれじゃなくて、標準語で。何か意識されていたことがあるのかな。

美寿津:おじいさまなんかちゃんと使っているんですよ。一人っ子。親一人、子一人ですよね。おじいさま、70幾つで、一人でいましたけどね。おじいちゃまに対しても使わなかったですね。どうしてでしょうね。あれ。だから子供たちが全然使わなかったですね。

坂上:話が飛ぶんですけど、久美子さんの高校の時の同級生に辰野登恵子さんがいらして。近所の方とか、松澤宥さんという人がアーティストであるとか、そういう事もほとんど知らなくて、って家の人も普段着の松澤宥さんと普通に、お父さん、おじいさん、夫として普通に接していたわけなんですけども、辰野さんが久美子さんに「お父さんがアーティストで羨ましいわ」っておっしゃった。

久美子:お話したことありますねえ。

坂上:そういう時ってどんな気持ちになりましたか。

久美子:そうですよね。登恵子さんが遊びにいらしたあと、次の日の学校で「本当に羨ましいわ。」って。羨ましいって言われるんですね。

青木:それは高校時代ですか。

久美子:えーっとね、高校卒業してから、彼女は芸大に行きました。

青木:芸大に行ってからですか?

久美子:もうすぐ芸大に通おうかっていう春休みぐらいだったと思うんですけどね。遊びにいらして。すごく羨ましいって言われて。でもわたしはね、「羨ましい」って言われても、わたし美術しているわけじゃないですからね、「えー、じゃあ、美術する人にとっては羨ましいって思われるんだなあ」って思った位で。登恵ちゃんは今、すごいですよねえ。活躍されてますよね。ですから、羨ましかったそうです。

坂上:そういうお父様を誇らしく思ったとか。

久美子:それを感じる時はパフォーマンスの時ですよね。あれほどの方が、パフォーマンスがあるという告知で集まって下さるでしょ。そして、興味深く見守って下さっていて「ああ」って思いましたよね。うちで普通の父でしたけど、ああいうところでは、ちゃんと表現するんだ、って言うと変ですけどね。美術家として、見られてるんだって思ったら嬉しかったです。その都度。

美寿津:びっくりしましたね。

久美子:(母は)嫌がってましたね。

美寿津:「どうしてああいう風にしないといけないのかしら」って思いましたもんね。慣れちゃいましたけど。

久美子:「何の為にあんなことをするんだ」とか。あの……

美寿津:ものすごく不思議だった。

久美子:変な言葉で言えば見世物でしょう。見世物っぽいわけでしょう。

青木:まあ、見せるわけですからねえ、パフォーマンスは。

久美子:ですから「嫌だ」って言ってましたね。

青木:近所の人は、結構こう感じるから、「松澤さんって結構変ってる人だ」って多分思っていたんだと思う。

久美子:そうですよね。

青木:だからそれを美術とかいう事だっていうことまでは分かるけど、その先どの程度まで松澤さんがパフォーマンスやってるかを知ってるかは人によって違うんだけど、やっぱり雰囲気がちょっと違う、ちょっと変った人だなあって、近所の人は思っていたんじゃないかな。

久美子:そうですね。

坂上:巧さんなんかはそういう家族と知らないで、桂子さんと知り合って、結婚する前には何度かお会いしたと思うんだけど。第一印象か。その前にどういう風に思っていたとかありますか(笑)。

青木:知ってた?

巧:全然知らなくて、途中から多分。

桂子:どこで初対面だっけ。

巧:パフォーマンス呼んで下さったから。初めては。(東京)国立近代美術館かな。その時に初めてお会いして。それまでは美術作る人って、コンセプチュアルアートの人って聞いて「えー」って。で、いきなりパフォーマンスしているところを見たわけですよ(笑)。普通じゃないなあ(笑)って。

青木:それが初体面。

久美子:多分、「旅のパスポート」展(注:「旅―「ここではないどこか」を生きるための10のレッスン」展)の時だったと思うんですね。

坂上:ありましたね。2001年かな。(注:実際は2003年)

巧:そうですね。最初に展示から見て、「面白いこと書いてるな」みたいなことを思って。

青木:なるほど。

坂上:2222年まで生きるとか書いてあって。

巧:そうそうそうそう、すごい。で、会ったら、ヒゲがぼわーっとあって(笑)。すごい人に会ったなあと。

坂上:桂子さんはどういうふうに紹介を。

桂子:何か私、割と友人とかをパフォーマンス連れていく時は、ただ連れて行く時が多い。あまり紹介もしないで、何か「来る?」みたいな感じで。で、誘って。来た人がびっくりするみたいなね。

坂上:「桂子ちゃんのおじいちゃんって…………」みたいに。

桂子:そういうパターンが多いかもしれないですね。

久美子:旅の展覧会の時は、ピンクの、あの下諏訪町の駅に、旅ですから、駅の、その、何て言うんでしょう、JRで募集している旅の広告?パンフレットかしら、それが後ろがピンクで、それでスケジュールとか書いて、募集しますっていうね。それを、逆にして書いたものを読み上げたんですね。ですけど、遠目にはピンクにしか見えなかったもんですから、皆さんはびっくりしたみたいですけど。ちゃんと意味はあったんです。旅のことを書いたものを。

坂上:読み上げて。

久美子:覚えてますか?

巧:うんうんうん。

坂上:ピンクが好きだって。幟の色もピンクで。

久美子:はい。

坂上:ピンク好きだった。

久美子:はい。

坂上:昔からそんな感じ。

久美子:うーん。昔かしらねえ。でもよくネクタイとかマフラーとかピンクありました。

青木:紐もピンクだしねえ。ピンクよく。

久美子:はい。

青木:僕なんかすごくよくぴったりっていう風に思いましたね。松澤さんとピンクっていうのが。紙もピンク良く使ってましたね。ピンクの上には青い何か色のサインペンかなんかで。

坂上:授業参観なんかよく行っていたりしたんですか。

久美子:いや。授業参観は来なかったですね。(桂子の)授業参観に来てくれたかなあ。忘れ物を届けには来てくれた(笑)。

桂子:(笑)給食袋とか。

久美子:よく忘れ物をしましてね。私が届けるべきなのに、父がね、自転車で行ったんです。そしてもう普通に昇降口から入って、クラスまで行ったんですって。今だったらきっとねえ、あの風貌ですからねえ(笑)。それで?

桂子:まわりの友達に不思議がられたんですね。

坂上:おじいちゃんが持ってくること自体あまり無いことですよね。

桂子:無いですよ。まんがの世界。ちびまる子ちゃんはおじいちゃんが持って来てくれるけど。

青木:松澤さん、自分がねえ、結婚される前、子供の頃から、まあ、お父さんお見えになったけれども、やっぱり女性に囲まれて。今度は自分が家族を持ったらまた女性ばっかりっていう、そういう感じは自覚しておられたと思いますよね。

美寿津:すごく自然でしたね。

桂子:ちょっと思い出して見ると、わたし根っからのおばあちゃん子。で、祖父はちょっと、ヒゲもあるし、近い存在ではあるけども、みんながからかうじゃないけど、何かこう……「もうイヤだぁー」って感じで祖母にくっつくようなところはちょっとあったかもしれないね。おじいちゃん子っていた?女4人いて。

久美子:父はどの子も好きで、子煩悩っていうか孫かわいがりはしていましたけど。すごく冗談言うんですよ。面白い冗談を言って。歌を歌って。替え歌にしたりしてねえ。

桂子:で、もう皆で「いやだぁ」って楽しみながらいたのはね。

久美子:「もう、そんなこと言わないで、恥ずかしいー」とかねえ。言ったんじゃない?ホントによくいろいろ冗談言いましたよ。

青木:一生懸命喜ばせようとしたのかも。

久美子:かもしれませんね。

青木:そうだと思いますね。で、受けないとがっかりしたりして(笑)。

久美子:そうかも分かりませんね。でも楽しい父でした。いろいろ。

坂上:いつも必ずご家族の方と一緒に旅行に行っていたというのも、やっぱり家族に囲まれている時が一番。

美寿津:そうですね。(家族を)置いて行くなんてことなかったですね。

坂上:一人で行くなんて考えられない。

美寿津:そうですね。

久美子:昨日もお話しました。学校でしたのでね、勤めが。お休みが結構ありましたので、わたしたちもあちこち連れて行ってもらいました。で、孫の代になっても皆で三代でよくあちこち出掛けましたねえ。

坂上:旅に行った時の記録の話で、「自分が今久美子さんに見せているこの風景を、久美子さんに子供が出来た時にまた見せるように」って。そういう風な感じで、引き継がせるってわけじゃないけど、家族に大切にして欲しいと思っておっしゃられたことで印象的なことってありますか?例えば、こういうことを大切にしなさいとか。友達を大切にしなさいとか。もちろん父親として当然言うこともあるけれども、家族として引き継いで行って欲しいみたいなことで、印象深いことってありますか?

久美子:どういうのかしら。その中にいるとちょっと分からないものですけどね。何か外から見ると、うちの家族は、とてもね、やっぱりさっきもそう、さっきも「近所からそう思われていたんじゃないですか」っておっしゃられましたけどね。やっぱり普通の家族とは違った異様な家族だって言われていたみたい。思われていたみたいです。でもね、それを普通に、自然体と思っていましたから。無理してこの家族を作ろうとか、そうではなく、他の家族ってあまり見たことないから、よその家に行って見たことないですから、これが家族と普通は思うでしょ。だけど、よその人から見るとやっぱり異質だったみたい。

美寿津:そう思います。

久美子:この子(桂子)の年代になると違いますけど、わたしの時ってまだ戦後の間も無くですから、家族そろって旅行にあちこち行くとか、やはりどっかにお食事に行くとか、やっぱり他の家族はあまりしていなかったと思うんです。そういう意味でも、ちょっとうらやましい目で見られていたのかもしれません。

坂上:中学生になったら離れて行っちゃったり、ばらばらになって行くっていうのが、

久美子:普通っていうかね。ねえ。周りの方はそうでしたから。この間久しぶりに小学校の時の同級生に会って、母も一緒にいたんですけど、言われました、こういう事をね、昔、その友達はここを越していくところに住んでいたんですけど、学校から帰り道にうちに寄って遊んでいくと、「久美子さんのお母さんがクッキーを焼いてくれた」って言うんです。その昔、クッキーなんて、今と違って焼いてくれるお母さんなんて多分いなかったと思うんです。で、その形まで覚えていて。わたしは全然覚えていないんですけど、その彼女は「丸い形のクッキー、とっても美味しかった。あの、すごく印象深く覚えているのよ」って言われて。その時に、「へえ」って。うちでは割とそういうものを食べたりしていたわよねえ。そういう昔の時代ですから、あんまりそういう事なかったんでしょうかね。「久美子さんの家庭を羨ましく思えたの」なんてね。その食べものの事だけじゃなくてね、よくみんなで旅行に行っていたりとかって言われましたものね。

坂上:私はここに初めて来た時、家族の写真がいっぱい所狭しと並んでいるのにもびっくりしたし。一つ一つのものにも意味があるって。例えばこれは中国に行った時のお土産で、これはこうで、これはこうでって、全部が家族の思いでが詰まったものばかりを置いていて。みんながその事を知っているっていうのはあまりないこと。珍しいってわけじゃないですけど、いいなあって思いますね。

美寿津:仲は良かったね。子供の時は食い散らかして、ひねくれて、うちへ寄り付かなくなってなんてことなかったです。いつもいつもうちはみんな一緒でしたからね。たぶん主人が恐かったら皆集まらなかったと思うのだけど、優しかったからね。

坂上:久美子さんは小さな頃からパフォーマンスとかそういうところにいつもついて。

久美子:そうですねえ。何でしたっけ。展覧会。都美術館でしました、何て展覧会でしたっけ。忘れてしまった。瀧口さんと一緒に赤い幟の旗のところで一緒に写っている写真ありました?うーん、アンデパンダンじゃなくって、名前忘れてしまいました。その時に外でパフォーマンスをしたんですね。例の幟で。その時に、私その時幾つくらいだったのかしらねえ。びっくりしました。小学校?

桂子:東京に出ていったの?見に。

久美子:そう。瀧口さんがね、やっぱり際立って素敵な方でしたね。目立ってましたね。

坂上:一番最初に連れていってもらった記憶は。

久美子:それが一番最初だったかもしれませんね。

桂子:アメリカから帰ってきた後。

久美子:後でしたけど。あと「私の死」っていう、

坂上:「人間と物質」展(1970年)の時。

久美子:はい。その時も。すごくなんて言うんでしょう。その文も不思議だったですけど、皆さんがそこに立って感じて話して下さるのを、遠くから見ながら、「みんな何を考えているのかなあ」とか。ね。想像しました。想像っていうのかしらね。想像しましたね。

坂上:いろんな作品作られて。紙の作品作ったりしてるけど、はじめて蔵を探した時に「幟がない、幟がない」って探していたじゃないですか。やっぱり幟って特別な存在ですか?

久美子:そうですね。あちこちでパフォーマンスしてましたし。あの幟が、あの……高砂三和子さんのね、美和子さんがしてくださった展覧会が最後だったんですね、あの、現美(東京都現代美術館)の「傾く小屋」展(2002年)の時でしたね。でね、三和子さんがとっても責任を感じてらして、で、こういう箱にこうして入れてお送りしたんですけどね、無いってことは私責任重いのでね、明日にでも探しにいらしてくださるっておっしゃるんですね。で、「わたしもうちょっと奥で探してみます」って言って。でもどうしても無かったんですね。そしたら三和子さんが、「もう先生と同じもの、何て言うのかしら、先生の命と同じものなので、大切に大切にしないといけないものなのでね、ここで無くなってしまったら本当に困るので探しに行きます」っておっしゃってくださって。あの方も忙しいでしょ。ですから、探してみたんですけど。全然三和子さんが勘違いされていて、箱の中に折ってお返し下さってじゃなくって、こういう(筒)、そうでしたよね、そう思わなかったもんだから。それあったことは覚えているんですけど、それが旗だと思わなかったもんですから、あの、ちょっと見失ってしまったというか探さなかったんです。三和子さんが、先生と同じ命、それを無くしたらいけないって。

坂上:幟ってすごく長い布じゃないですか。そういうの手伝ったりとかしましたか。

久美子:あ、母が手伝いましたね。手伝ったりするの。

美寿津:あ、布継いだりするので。

坂上:ミシンで縫ったりとか。

美寿津:手で縫った気がしますね。

久美子:大きいのよね、あれは。

坂上:ああいう大きな字ってどこで書くんですか?

美寿津:ここで書いてる(縁側)。

坂上:家族の方の共同作業が多いですね。

久美子:そうですねえ(笑)。

桂子:布を探しに行ったりしていたよね。

久美子:ああ!下にね、小さい布屋さんがあったんですよね。一緒に行って、やっぱり、ピンクの布を見せて下さいって。お店の方にお願いしてね。いろんなピンクを出して下さって。その素材、同じピンクでもいろんな濃淡がありますでしょ。そして素材もそれぞれ薄かったり厚かったりしますでしょ。すごくこだわって。このピンクはちょっと濃すぎるとか。これはちょっと白に近い。あまりに白に近いもので。ってこだわってました。

青木:そうそう。ピンクのあの、色合いとか、選んでるピンクとかこだわってますねえ。

久美子:そうですね。行ってました。探しに。母と三人で。みんな思い出ですね。いい思い出ですね。

坂上:いろんなアーティストがいる中で、あまり家族に直接的に手伝ってもらうっていうのはあんまりそういう作家はいないので。だからこそオランダに持っていったものが、MoMAで所蔵されていることにもなるんですけど。

久美子:そうですね。

青木:そういうところは僕も感じる。豊田の時に大理石を浮かべましたよね。あの時の「どんな大きさのものをどこの位置に備え付けますか」って相談をしている時に、僕はいろいろ考えて、9枚だから一辺を90センチの四角い大理石にして、厚みを9センチにして、一枚一枚の間隔も9センチっていうことが頭に出て来たんで、「松澤さん、大きさもこれくらいだとちょうど真四角の正方形になるんですけど、こういうのでどうですか?」って聞いたら、「いいですねえ」って答えられるの(笑)。で、どこに置こうか、池の中に、っていう時に、「大体この辺、あそこから見ると、木があって、北西の方向だけど、空が抜けてるんですけど、このちょっと石がこう池の淵にあって、これくらい離れて、抜けてる方向に見たらってどうですか、どうでしょうか」って聞いたら「ああいいですね」って、でそうなったんです。

久美子:とてもいいですものね、あそこ。

青木:決してどうでもよくていいって言っているわけじゃなくて、ちゃんと聞いて、ちゃんと自分の中に収めて受容していくっていうかね。そういうのもすごく感じましたね。だから、「自分じゃなくて家族がやったものでも、良し、となれば、自分の中にすっと受け入れていく」っていうそういう事はすごく感じましたね。

美寿津:大きさ少し小さかったかもわかりませんけど、トルコの大学の玄関入ったところに、ドアをあけたらコンピュータがあるところに、床に9枚置いたんです。学校来た方が、そのお披露目式の時に、たくさんの方が来てくださったんですけど。日本にあるのと同じ大きさか、ちょっと大きかったのかな。とっても喜ばれましてね。

青木:ちょっとピンクっぽい石。

美寿津:石をね、その前の何日間か探しに行きまして。イタリーまで。その時の感激忘れませんね。除幕式の。日本に来てる中国の留学生のモウさんって方が、ついて行ってくださったんですけど、新婚旅行にトルコに行きたいから、見たいからって言われて、紹介してあげて。

久美子:石って残りますもんね。

美寿津:90センチくらい。はがして入れ替えて。入ってすぐのところ。そしてたくさんの方たちが学校関係者が、除幕式があって来て下さって。涙が出てきました。嬉しくて。石がね、かわいそうで、前の石がなくなってかわいそうで、せっかく前にあった石が無くなって。新しく石が来たんですけど。作る人の意思によって、ピンクになったのかしら。でも、ピンクを望んでらしたみたいだもんね。

久美子:あちらも。トルコの大学も。

美寿津:ピンクの石にって。前に、何日かに分けて、市場に、市の市場とかに一緒に買いに行ったんですけど、何回も何回も連れていって、石を見つけてきて。トルコって親日的。日本に助けられたことがあったとかって。

青木:そうですか。

美寿津:歴史に残っているみたいですよ。とっても感じ良かったですね。

坂上:トルコには奥様と二人で行かれたんですか。

美寿津:そうです。

坂上:いつぐらいですか。

桂子:95年。もうちょっと?

久美子:えーっと、いつかしら。あなたたちが3歳とか4歳の時ですので。

桂子:違う違う、一ヶ月いなかったのはもっと大きかった。

久美子:そう?そうかしらね。これもね、市が立ったところですけれども。(写真見ながら)この、ミドルブルグってオランダですけど、ここにも石刻んでいただいて。

青木:これも床なんですね。

久美子:あのね、昔、市が立ったこういうような。こういうような建物。この時も私感激して、たくさんの方がいらして下さって。刻んだものっていうのはねえ、かなり反永久的に残りますでしょ。

坂上:あ、1992-2222って。書いて。

久美子:あ、書いてあります?

坂上:あ、「ALL HUMANBEINGS LET’S VANISH. LET’S GO LET’S GO THE ANTI CIVILZATION COMMITTEE」

久美子:何て言ってる?

巧:反文明委員会。

青木:ああ。

久美子:はめ込む作業をして。

坂上:この白いシャツを着ているのは、パフォーマンスか何かがあったんですね。

美寿津:そうですね。

久美子:そうですね。この後でここ。

美寿津:白い上着を着て。

坂上:この写真は奥様が撮られたんですか?

美寿津:そうですね。

久美子:私も皆で行きましたね。この時は。

坂上:なるべく行ける人は、家族全員で行くっていうのが原則ですか。

久美子:そうでしたねえ。

青木:行ける人は全部。

久美子:そうでしたね。次のパーティにいらして下さった。たくさんの方がお食事のパーティにいらして下さった。見ますか?どっか中華料理屋さんでして下さって。

坂上:難しい顔して食べてますね(笑)。

久美子:中華料理でしたねえ。

坂上:これはどこ?

久美子:これはね、オランダのミドルブルグって都市でしたね。えっとねえ、オランダに行ったんです。皆で。

坂上:オランダはアート・アンド・プロジェクトの関係がきっかけでよく行くように。

久美子:そうかも分かりませんね。そうですね。オランダも行きましたね。

坂上:この日もパフォーマンスだったんですね。白いの。白いの着てるの。

久美子:そうですね。この後。80年。なんかあちこち一緒に行きましたねえ。これ、ブルージュ。ベルギー。

坂上:この写真の記録っていうのはほとんど久美子さんが。

久美子:これはねえ、ほとんど母。わたくしがほとんど写真は撮りましたけども、ここに収めたのは母でしたかね、多分。

美寿津:この時はわたくしも一緒に。

久美子:一緒ですね。家族4人で写ってますよ。

桂子:これどこ?瞑想台?(ページめくりながら)

久美子:これ、ステファン(クーラー、Stephan Köhlerドイツ人のインディペンデントキュレーター)さんですか?ステファンさんが通られて。御柱の時に。前回のですね。

青木:へえ。

桂子:これがいつかの御柱のはっぴ姿です。(松澤宥がはっぴ着ている写真見ながら)

坂上:ああ、松澤さん、御柱の上に乗って(山から)下がったりとかしたんですか。

久美子:(笑)。

桂子:あれはもう乗れる方が決まっているので。なので。

坂上:ほんと、見てると、アルバムが沢山あって。

久美子:そうですねえ。

坂上:よく旅から帰ってきてアルバム作って、みんなで見ながら思い出話とかしましたか?

久美子:そうですね。しますね。しましたね、やっぱり。この、アムステルダム、じゃなくて、オランダの新聞社に取材を受けているところもあります。そういうのもその後ろでわたくしが撮っていたりとか。翌日の新聞に載ってましたね。日本からこういう人が来て、このパフォーマンスして、とか。

坂上:本当にエアメールが多いですね。書簡見てると。

久美子:そうですね。

坂上:外国からこっちにきたお客様というと、やっぱりギルバート・アンド・ジョージさんとか。

久美子:そうですね。あとオランダのラベシュタインさんもいらっしゃいましたですね。

坂上:この間見せていただいたギルバート・アンド・ジョージさんのフィルムは、わざとああいうふうに演劇っぽく振舞っていた感じなんですか?

久美子:(ギルバート・アンド・ジョージさんに)フィルム作っていただいたでしょ。実はまだ見せていただいてないんです。

坂上:何か、こうコタツがあって、ドラマみたいな感じで、カメラの前に背を向けている人がいなくって、ギルバート・アンド・ジョージさんが坐って、松澤宥さんが坐って、って構図で。三者でシーンとして。

久美子:それがビデオになって。ビデオにして下さったんですね。写真ではなく。同じ写真がありますよね。何かの雑誌に。私が写真が。

坂上:はい。

久美子:あああれがビデオに。

坂上:何かこうシナリオがあって、こういうふうにわざとギルバート・アンド・ジョージさんも松澤宥さんも、パフォーマンスとしてああいうビデオを作ったのかなあとか思ったんです。

久美子:ああ、どうかしら、どうかしらねえ。

坂上:日本を全く知らない外国人が宇宙人みたいな感じで迷い込んできてコタツに坐ったみたいなイメージの映像で。その後一緒に山に登って、木の上の瞑想台に行って中見て、プサイの部屋も中を覗いて終わりっていう映像だったんです。

久美子:ああ、そうですか。

青木:僕は松澤さんにお会いして、松澤さんの晩年の、最晩年の時に、お電話いただいた時に、病気されて、病院の先生に、「また今年の夏……

久美子:あ、来年の夏でしたね、

青木:あ、来年の夏に豊田に行かないといけないからどうか先生治して下さい」っていうふうにお医者さんに松澤先生がおっしゃったってお聞きしたんですけど、先生が入院された時の、先生が言われた、松澤さんがおっしゃった言葉とか、何か印象に残っているのはありますか。

久美子:ああ、やっぱり先生とか看護師さんとか、リハビリの先生とか皆に「来年どうしても7月7日に(豊田に)行かないといけないといけないので、それまでにどうしても元気にならなくちゃいけないので、お願いします、お願いします」って言ってましたわね。

青木:ああそうですか。

久美子:本当にその気だったようですね。で、どんな作品にしようかって構想を練っていたりしたみたいですね。

坂上:7月7日に何かする予定だったんですか。

青木:最後、「宇宙御絵図」(2007年)の展覧会に出してもらっていて。その時に。

久美子:そして一週間ごとに記録を出さなくちゃいけないんです。家族が。で、私の字で「来年の7月7日には是非、元気になって、展覧会も行きたいって言っていますので、よろしくお願いします」って書いた覚えがあります。ですから、残念だった。

青木:あと、松澤さんが言われたことで、何か。遺言っていうことでなくて、何かお父さんらしいなってこととか、印象に残っていることとか。しばらくはマンションの方に寝ておられたんですよね。

久美子:はい。

青木:それから病院で。病院はどれくらい。

久美子:2ヶ月足らずでしたね。

青木:2ヶ月足らず。そうですか。

久美子:はい。でも本当に高熱が出てしまって、あわてて私は病院にね、一旦連れて行ったんですけど、本人には本当に簡単なつもりで、すぐ良くなると思って入院したと思う。ですから、よく、日赤が見えるんですね。

桂子:病院ですね。

久美子:病院からマンションを見てみたいと思って、ちょっと簡単な気持ちで入院したのに、もうこんな長くなってしまって、って先生に訴えてましたもん。

青木:ああ。

久美子:早く退院したい、って。だけど叶いませんでしたけどね。でも本当はどの程度自分で病気のことが分かってどのくらい命があるかっていうことを分かっていたかっていう事は分かりませんですね。もちろん治るつもりでは、気持ちの上ではいたんでしょうけども。もしかしたら「ああ、もう駄目なのかな」とも思っていたね、感じじゃないかなと。どうでしょう。

桂子:うーん。うーん。そんな感じがした?

久美子:うーん。決して口には出しませんでしたけどね。自分でも、本人は、「絶対にもう治る、7月7日には」っていうことをしょっちゅうしょっちゅう口にしていましたけれども、本当は実際は心の中では、だんだんだんだんだん、自分で、弱っていく自分を、意識していたんじゃないかしらって思うんですね。

坂上:亡くなったっていうことは事実で、

久美子:ええ。

坂上:事実だと思うんですけれども。それでいま、こう、亡くなったあともマンションのナンバーを押そうとすると2222って出たりするのも。

久美子:0202ですね。

坂上:ねえ。何か。0202っていうのもおもしろいし。わたしが初めてここに来た時に、何かちょっとあれっていうようなことがあったりとか。ドアのばたばた(閉めてもすぐに開いてしまう、開けていてもいつのまにか閉じてる)も面白かったし。何かいろいろ、面白いことがあるじゃないですか。

久美子:ええ、そうですね。

坂上:そういう時ってやっぱり「ああ、何かいるのかな?」って。

久美子:そうですね。思いますね。今朝もね、音がして、ふっと見たら、白いのが動いた。から、あれは父だったと思いますね。あの、一周忌のね、一週間前から、夜、夜中に、下のカンコン♪じゃなくて、上の、玄関のカンコン♪っていうのが鳴ったんです。ですけれども、ここのモニターには誰も映らなくて。そういうことが4回続いたんです。真夜中に2回と、

青木:マンション?

久美子:はい。上まで来てカンコン♪押しますと、モニターに顔が映りますですね。ですけど誰も映っていないんですね。そういうことが1週間前に4回ありまして。
真夜中に2回と昼間、夕方に2回あったんですね。それで、びっくりしたもんだから、管理人さんにお聞きしましたら、「じゃあ、監視カメラみたいなの付けましょう」って。

坂上:(笑)。

久美子:(笑)。言って下さったんですけどね。そこまではしませんでしたけども、その話を皆さんにしましたら、やっぱりそれは一周忌が近づいて、懐かしくっていうかしら、家族に会いに来たんでしょって。

桂子:ありましたね。

久美子:ですから、多分、そばにいると思います。いて、わたしたちのことを、見てると思いますよ(笑)。

坂上:こうやって整理しているのを見て。

久美子:そうですね。

青木:ちょっと、見つかっちゃったって。

久美子:そういうこともあるかもしれないですよね。

青木:自分は2222年まで300歳まで生きるとか、生き死にのことは非常に大きな、松澤さんの考えていること、ポイントだったと思うんですけど。だからちょっと自分がそういう、高齢で、まあ病院に入院するとなると、特別な何か、こう、事が、自分の中であったんじゃないかなと。それで、何かあまり普通は口にされないようなことも、されたのかなあと思って。

久美子:うーん。

青木:7月7日、来年は豊田に行きたいっていう、亡くなられた時の電話で確かお聞きしたことだと思うんですけれども。

桂子:亡くなる2日前、1日前ですかね、たまたま病院にわたしと妹と祖母と3人がいたんです。

青木:何日くらい前。

桂子:前日だったと思います。

久美子:歌を歌ったんでしょ。

桂子:歌を歌ったね。何の歌だったっけ。

久美子:あのね、わたしはいなかったんですけどね、早稲田の校歌と慶應の校歌と、歌った、

桂子:歌った、

久美子:病室で歌ったんですって。

青木:ああ、松澤さんも一緒に?

久美子:ええ。

青木:亡くなる、

久美子:前日

青木:前日?前日。

桂子:前日の午後かなあ。

青木:はあ。

桂子:午後かお昼か。

久美子:自分を元気づけていたのかも分かりませんけど。ちゃんと、もう声に出して、普通に。

桂子:歌ってましたね。で、祖母も歌って。で、「パパとマミーはずっと一緒だからね」って。そういうことを言いましたね。パパっていうのは自分のことで、マミーっていうのは祖母のことなんですけど。

久美子:これからもずっと一緒だからねって母の手を握って、3回もぎゅっと握ったらしいですね。手が紫色になって。

青木:そう。

久美子・桂子:ええ。

久美子:ずっと一緒だからねって。言ったそうです。わたしちょっとその場にいなかったですけど。

桂子:あの手の、本人(美寿津)(注:今少しだけ席をはずしている)が戻ってきて、「そうでしたか?」って聞いたら、「あ、そうだったかしら?」みたいなことを言うかもしれないんですけど。でも、わたしと妹は聞いています。

青木:そう。

久美子:何か、力が出るとかよく言いますよね。最後の力を振り絞ってということを聞きますけれども、本当に母の手が紫色になるくらい、握り締めたそうです。

青木:そうですか。

久美子:ええ。これから、さよならじゃなくて、これからもずっと一緒だからねって。母に言ったそうです。

桂子:あと何か言っていたかしらね。

坂上:普段着じゃなくって、いつも見かける姿が最近は白いっていうのは面白いですね。

久美子:そう。

坂上:そうですよね。何か気になって。

久美子:パフォーマンスの姿ですよね。

坂上:見かける見かけるっていうのが、白いっていうのが。

久美子:そうなの。ピンクでも黒でもなく。いつも白です。

青木:そこのポスター見ても、白い白鳥のだとか。白がよく出てきますね。

久美子:最後の衣装。あれ、着せてあげたものだから、かもしれませんね。

坂上:わたしたちが来ている時に姿を見せるから、パフォーマンスとして見せているのかなと。

久美子:ああ、そうかも分かりませんね。

坂上:松澤宥さんが、お蔵の整理をしてくれと、言っているのか言ってないのかそんなことは分からないけど、何か、こう、初めて来た時は、「ああ、しなくちゃしなくちゃ」ってせかされているような感じがして。

久美子:ああそうですか。坂上さんのことは、あの時、去年初めてお会いしましたけど、青木さんのことは、(松澤宥は)ほんとに信頼して。「青木さんに任せたから」って。うふふ。

青木:そう言ってましたね、久美子さん。(笑)あれ、信頼していただくに値するような人間じゃないと思うんだけど。でも。

坂上:でも、何か、情が深いというか、そういうところは似てるって言うのは何だけど、何となく、松澤宥さんも、情の深い方だったから、

久美子:ええ

坂上:そういうところでは何となく、

久美子:相通じるものがあって。

青木:僕は本当に松澤さんとは普通にお話出来たので。本当、結構、素の自分というか、自然な、愛嬌も良く出してくれたのかなあと思いました。本当にお茶目な写真もねえ。僕、それすごく大事だと思いますよ、松澤さん。自分の中の松澤さんって、ちょっといたずらっ子みたいなところもあったし。

坂上:初めて来た時に、「父はいろいろパフォーマンスとかしていたけれど、本当に普通の人だったんですよ」っていうような会話から始まったと思うんですけど、やっぱりそういうふうなもの、本当は普通に家族を愛して、っていうのを、知って貰いたいなという気持ちはありますか?パフォーマーとして、芸術家として、作られたストーリーがどんどん先走りしているような部分も。

久美子:ああ。

坂上:あると思うし、松澤さん自身が自筆年表(松澤宥特集『機關』13号、1982年)で、神懸かり的なことを書いたりとかしていて。そういうふうにアーティスティックな面が強調されているけれど、そうじゃない人間としての松澤宥さんもあったんだよっていうのを。

久美子:私たち自身ですか、家族ですか。ああ、そんなこと思ってもいませんでしたけど。いつも本当に自然で、普通でしたから、父もわたしたちに見せる姿は自然体でしたし、私たちも接するっていうのは、美術家に接するんじゃなくて、やっぱり父親としての存在でしたから。

桂子:それを今世の中で、松澤宥っていうのを見ている人たちに、知ってもらいたいかっていうことは。

久美子:そうですねえ。

巧:あえて、そう思わないだけで、

久美子:思わない、だけで?

巧:別に嫌じゃないよねって。積極的にっていうわけじゃないけど。

青木:聞きたい人には、こういう人柄でしたよっていうことを伝えてもいいということですよね。

巧:例えばさあ、僕が知り合ってからは、無かったったかもしれないけど、友達を連れてってもいいみたいなのは喜んでいて、って感じだったじゃないですか。

久美子:それは、どなたまでは良くてどなたは来ないで欲しいとかそういうことは一切言いませんでしたから。ですから、何百人という方が泊まりに来て、泊りがけで来てくださったと思うんですけどね。ですから、父も沢山の方とお話出来たと思いますね。すごく良かったと思いますね。

巧:そういう意味では、僕の方からすれば人に紹介したくなるおじいちゃん。

久美子:ああ。

巧:おじいちゃんって感じもあったしアーティスト。それが同居してるっていうところが、みんな自然に受け止めていた。それは、もちろんアーティストとしても、尊敬していた、リスペクトしているというところと、お茶目なところと。同居していて。そこは不思議だし、周りの人は、若い人に迎合し過ぎじゃないのと言う人もいるけれど、そういうことじゃなくて、本当に自然な感覚として、何か彼の中にある子供心的なものと通じるところがあったんじゃないかなと思います。

久美子:ただね、あまりしゃべらなくて、寡黙にしていると、何かね、気難しい方じゃないですか?とか。そういうことは言われたこととかね、あるでしょ。でもね。その言葉に対しては、「いえいえ、うちでは本当に楽しくって」って話もしましたしね。「気難しいとかそういうことは全然ありませんよ」って。そういう風に見られている方ももちろんいるわけですから。そういう事ありませんと、そこだけは。

青木:そこは、僕も随分写真撮らせていただきましたけど、本当にお茶目な、本当にサービス精神旺盛な松澤さんっていうのは、展示をしている、展示の時の、着替えている時とか、そういう時に演じてくれるんですけど。それは大体あんまり第三者いない時ですね。たまたま二人になった時にやってくれるんです。ところが、たまたま松澤さんお見えになった時に、(ダニエル)ビュレンのオープニングに来ていただいた時に、「松澤さん、ビュレンと一緒に写真撮りましょう」とか、あと、太郎知恵藏がたまたま来た時にも一緒だった時、僕が撮ろうとした時は、やっぱり、もうねえ、表情は凛とした表情で、写ってるんですね。お茶目とは到底かけ離れた雰囲気をふっと出しているっていうのが、僕の印象ですね。それはそれで、松澤芸術、松澤の表現とはいったい何かっていうのは、紙のね、マンダラとか言葉を使うとか80年問題とかいろいろあるんだけれども、どうもそのパフォーマンスも含めて、トータルの一人の表現者としての像というのが、これが一番、何か、僕は一番大事なような気がします。振る舞いと言うかね、だから、もっと考えると、松澤さんのパフォーマンスというのは一体何なのかっていうことも、一回もうちょっとよく考えてみたいなという気もしますけど。だから、自分のイメージするパフォーマンスをしているのをイメージしている自分と、他者からどういう風に見えているのかっていうのも、松澤さんにとってはすごく大事だったんだなという印象ですね。

桂子:役者みたいな感じで。

青木:そうそうそう、演じる。ちょっとこう現実離れした真っ白な衣装を着てとか。

坂上:関係ないけれども、整理する前に、部屋の中を見たら、たくさんの箱があってびっくりしたんですけれども、ああいう箱っていうのは、何か、届け物があったら、

久美子:大切にしましたね(笑)。

坂上:中身だけ出して持って行っちゃうんですか?

久美子:いや、いただき終わった後です。それ寄せといてその箱は、っていうのはしなかったと思いますね。ただ、何かに使えると思ったんでしょうね。自分の作品として入れることもあったでしょ。あと「何かこんな箱が欲しいんだけど」っていうとすぐ探しに行って、「こんな箱でいいの?」とか「このサイズでいいの?」とか。大体頼むとすぐ箱は揃いました。

桂子:この高さくらいは積まれてましたからね。3分の2くらい。

坂上:2メートルくらい。

青木:箱自身と箱の蓋を開けた時の、例えばサントリーのお酒の入っていたもので、中のこう、金色のこう、お酒がはまる奴、でこぼこしてるんですけど、箱あけたら金だともう、ピンと来ているみたいな。そういう反応の仕方を。そうするともう捨てられないみたいな。そんな感じで箱をいつも、何かこう、変な言い方だけど、僕は、自分自身はそういう感じ方をしたんだけれど、箱フェチっていうか、箱に対しては独特のこういう何か、目線を持っていて、好き嫌いをはっきり、これあれ使えるとか、ぱっぱっぱっぱと浮かんでいくところあったんじゃないかと思う。だから自分が描いたものも箱に、文字を箱の中に納めるとか、箱の中に容れますよね。

坂上:箱が宇宙みたいな感じなんですか?

久美子:空箱。(桂子結婚式のときのオブジェ)

桂子:それはちょっと置いといて。

坂上:箱は昔からですか?

久美子:昔からですねえ。

桂子:どれぐらい昔?わたしが小さい頃には、既に箱がたくさんあったんですけど。

久美子:もっと前ですねえ。

桂子:60年代とか。

坂上:すでに箱使ってますね。(作品に)あの時に、既にいろんな大きさの箱があったという事は、相当……ね。例えば奥様が結婚された頃とかは、箱はあったんですか。

美寿津:さあ。わたしなんか、一度も、どんなものがあるか、(部屋を)見た事ありませんしね。何となく、蔵っぽいような。ものですから。

久美子:箱はねえ、今でこそきれいな箱がありますけど。あまり箱って。

美寿津:そうです。

久美子:使う贈答品みたいなものしかなかったかもしれませんね。ですからいただいた箱がきれいだったりすると、嬉しかったんでしょうかね。

坂上:紙とかリボンとかもねえ、きれいになって(残されていて)。

美寿津:何かに使いたいと思ったことがありますけどね。

桂子:この家は、蚕を飼っていたでしょ。飼ってない?小さい頃に繭がらを見ていて、箱を欲しいと思ったりしたのかなあ。

美寿津:おかいこさん。小屋がいっぱいありました。畑にね。小さな。小さな小屋がいっぱいありました。私、この子たちのおむつ干す時に、日がこっちから当ってくる、こっちから干して、こっちからって、濡れるところがなかったですね。適当に、畑が広くて明るくて。だけど、おじいさまと二人で、祖父ですね。主人の祖父(父親)と主人と二人で暮らしてましたけど。

久美子:父じゃない?

美寿津:あ、そうそう。わたし、生活、何ですか、細かいところまで行かなかったと思いますね。しかも前は女工さん、沢山いましたからね。

桂子:また、女性ですね。

美寿津:あそこにある、2階建ての家は、女工さんの下宿、じゃない、寝泊りしているところで。

青木:寮みたいな。

美寿津:ええ。女工さんなものですから、(松澤が)可愛くてちやほやされて。

青木:可愛がってくれるんでしょうねえ。

美寿津:そして、主人の父が保育園を作ったようなんです。女工さんの子供さん連れて来てもいいように作って。

久美子:この地で第一号の。

青木:あ、そうですか。

坂上:松澤宥さんは、ここの家で生まれて。

青木:ここの家の、どこにあるんですかね。

久美子:奥座敷。お隣のお座敷で。

青木:するとまったく同じそこのところで、オブジェを消せを聞いたと。

坂上:あ、この隣の部屋ですか。

青木:自分が生まれたその部屋で、「オブジェを消せ」を聞いたと。

坂上:でも寝室はいつも2階の部屋……

美寿津:あちこち、あっちが寝室の時もあったりして。

久美子:増築改築を繰り返していて。だんだんお部屋が増えてきましたけど。ここが大体200年くらいだそうですので。あとは、ね。改築、増築でしたから、広くはないんですけど。ここの辺もね、200年も前ですと、ずーっと、秋宮も春宮もずっと見渡せて、ほとんど家がなかったんですって。で、水月縁って、

美寿津:湖水も見えた。

久美子:湖も見えて。その高台のところで、狐火っていうんですかね、狐火が夜見えたって言うんですね。で、ずっと諏訪湖もね。

青木:諏訪湖もずっと見たんですか。

久美子:見えたんです。それほど無かった。

坂上:瞑想台っていうのはここからは離れてる。

青木:かなり離れてる。

久美子:車で20分ですね。その降りたところから歩いて15分くらい。

桂子:そんなにかかる?

久美子:10分、くらい?ですね。ですけれども、もう行き着いたことがないほど、迷路っていうか。

青木:もとあったところがはっきりとわからないような感じみたいですね。

坂上:そこを選んだ理由は何かあるんですか。

久美子:そこが、うちの山でした。

坂上:ああ。

青木:松澤家の

久美子:ええ。

青木:所有している山。

坂上:瞑想台を作ろうというふうに発想したのは松澤さん。

美寿津:そうですね。密かに思っていたようですね。

久美子:諏訪湖も見えたんです。そこから、やっぱり。木の上に家。瞑想台からは諏訪湖が見えましたね。

坂上:木の上の家というより、高いところから見渡したいということですか。

久美子:そうかも分かりませんね。

美寿津:木の高いところにありましたからね。その上に家を建てましたね。大工さんも何人か来てくださって小屋建てて。そしていろんな、細かいことをして下さる方が、泊り込んで作って下さったね。皆で運んだりして。

久美子:この間の一周忌の翌日が最後のパフォーマンスをして下さったんですね。皆さんで。その時に、場所を特定出来なかったものだから、町のその、何ですか、林業家の方と一緒に、前もって、赤土(類)さんと登ったんですね。そして、教えていただいて。もうその、瞑想台のね、建物は朽ちてしまって。残っていればもちろん分かるんですけれども、下にもう朽ちてしまっているものですから分からなかったんですね。そしたら、地図をもとに、松澤家の山がここで、そこに行くにはこう行きますよって教えていただいて、それで、目印を付けてきて、そして……

美寿津:子供が行ったら危ないからって壊したのよ。

久美子:え、自然に朽ちたんじゃないの?

美寿津:あの、だいたいのあれはあったんですけどね。壊しちゃったんです。

久美子:そこら辺に梯子はね、ありますでしょ。だから危険でね。

青木:子供が行ったりして。

美寿津:困るからって壊してました。

久美子:そう。

美寿津:川が流れてました。そこでお茶椀なんか洗うようにしようとしてましたね。

久美子:堰つくってね。そこで。寝泊りしたんですね。

美寿津:寝泊りしたんですね。夏になったら人が来ましたね。お釜運んだりして。

青木:何か、子供の隠れ家の大人版みたいな。

久美子:(笑)。そうですね。ですから、うちにいらして、瞑想台登らせて下さいっておっしゃる方と、全然もう、下諏訪の駅降りてから、登られて、うちにはもうねえ、あの、おっしゃらずに登られて。そういう方が随分いらしたみたいですね。ですから、どんな方が何人位、そこを利用されたかは定かではないですね。水上さんなんかもよくいらしていたみたいですから。

桂子:このうちではなくってわざわざ同じ町内の瞑想台っていうところに離れて行った理由は何か思い付く?それともお仲間と一緒にこういうふうに何かやろうっていうことで盛り上がったのか。なんでわざわざ山に出ていったのかな。

青木:それはやっぱりどうだろう、本当に瞑想するっていう、そういうことの表れだと思うんだけど、もうちょっと広く考えると一つのこう、パフォーマンス、の一つの形のような気もしますね。

美寿津:そうですね。

青木:自分の芸術的活動の中での、瞑想という一つのイメージ、そういう要素を取り込んで行くということを、外に伝達する一つの働きを持たせているという解釈もできますね。

久美子:そうですね。その場所の地籍が泉水入って言うんです。泉水入。せんすいいり。っていう場所なものですから、泉水入瞑想台っていう。

坂上:そういう名前を松澤さんが付けたのかと思ったら、そういう地の名前なんですね。

美寿津:そういう場所を作るのに、自分のうちの材木、

久美子:それはね、骨組みは大工さんがちゃんと建てて下さったんですけど、周りを囲むのはね、諏訪湖にみんなで、葦とかありますでしょ。それを採りに行って。

美寿津:干しましたね。

久美子:そして壁にしたんです。

美寿津:編んで。

久美子:編んでから。

青木:なるほど。囲われていたんですね。

久美子:囲われ。

美寿津:もちろん編みましてね。まわりに囲いを作りましてね。そこに代わる代わる入って。瞑想していたようです。でも、お遊びですよね(笑)。だんだん、朽ちてきたら危ないから、もし子供さんが遊んでいてね、落ちたらいけないからって言って。大工さんに頼んで壊してもらったようです。その場所は書いてあって、何か立て札が立ってあるって言っていたわね。書いてあるって。

久美子:でも分からなくって。父も一度で行けたことは無くって(笑)。

青木:一人では行かれてないの。

久美子:一度で。一回に、っていうのかしら。迷いながら、どっちかなどっちかなで。

青木:あ、すぐには辿り着けなかったんだ。

久美子:一回もなかった。行かれなかったからって帰ってきたことのほうが多かったかも(笑)。

青木:そこも面白いよね。

桂子:行かれなくても良いっていうのが。目印でも付ければいいのに。

坂上:せっかく建てたのにね。

桂子:嬉しそうに言うんでしょ。「行かれなかったよ」って。(笑)

美寿津:川の両側にね、石を積んで、きれいな水を囲って、そこでお炊事をしたようですよ。炊き出しをしてね。

青木:松澤さん自分の中でそういうものを、ひょっとしたら遊び心とは言わないけれど、何かそういうものを持ちながら

美寿津:でしょうね。

青木:パフォーマンスを展開してるんだけど、周りの人はもっと松澤さん以上にその事を意味とか入れ込んでいたような感じもあるかもしれないね。(中心人物の松澤さん自身が)今日行けなかったよ、で済むっていうのは面白いよね。

美寿津:それにしては少し遠いかも(笑)遠過ぎてね。ただ遊びに行くには遠いんですよね。わたくしも何回も聞いて行ったんですけどね。

久美子:一緒に行って。分からなかったんです。

美寿津:分からなかったねえ。

坂上:もうそろそろ時間なので、最後に、質問というものもないんですけど、何か、話したいなって言うお話とかありますか。

久美子:すごくいい機会をもうけていただいて、いろいろ思い出しましたもの。

青木:そうですね。思い出しました。

久美子:思い出しましたので、逆にね、本当にありがたかったと思います。

坂上:話ながら思い出して、松澤さんに感じる気持ちはありますか。優しかったなあとか。

久美子:そうですね。優しかったなあって言うことですか。ね。

美寿津:思い出す時は、いい事しか思い出しませんね。(笑)やっぱり……

久美子:病院に入院している時の姿とか、そういうのは思い出したくないことですよね。ですけど。

美寿津:あの時は楽しかったわぁとか。嬉しそうだったわぁとか。まあ、別に悲しんだ時があったわけじゃないんですけど、病気持った時は悲しかったでしょうけれどもね。

久美子:おかげさまでした。ありがとう。

青木:どうやってこれから芸術家としての松澤さんをどういうふうに将来位置づけられて伝わって行くかという中で、こう、非常に偏って、ハードな面だけでもちょっと僕はおかしいし、今、坂上さんがやっているような手法で、ご家族の方でもねえ、そういう優しさとか、そういう総合的な形としてちゃんと松澤像を持って行けば、本当にいいなあと思いますね。

坂上:この帽子は松澤さんの帽子。

青木:松澤さんの帽子ですよね。

久美子:そうですかね。早稲田のね。そうですよ。

青木:前に行った時にお蔵から出てきて。

桂子:早稲田です。

久美子:ミシンで縫ってありますね。

美寿津:(笑)。

坂上:松澤さんが小さな頃に描いた、幼い頃に描いたであろう絵も昨日出てきた。後ろに松澤宥って明らかに幼い字で書いてあって。

久美子:そうでしたか。

坂上:引越ししていない家だからこういうのも全部あるんだと思いました。

久美子:そうですね。

美寿津:今頃安堵していると思います。

青木:さっきも土着という言葉が出てきたけど、あれだけの行動力、静かそうで、ちょっと人並みはずれた行動力があって、で、優しそうで、多分強いところもあったと思います。ああいう松澤さんが自分が生まれたところに、ずっと一生住み続けた事自体もすごいなと思います。非常に珍しい。大体多くの人は大体中央、関西か中央辺りに、全部じゃないですけど、そういう人が多い中で、松澤さんというのはそういう意味では特異な部分があった人だなと思いますね。作家の在り様というかそういうものを考える上で、一つの典型的な作家像として、思い返されて行くんじゃないかなと思います。

桂子:ここにいたからこその良さもあったし、ハンデも相当あったと思います。

青木:だからね、松澤さんにとっては諏訪湖も諏訪大社もやっぱり松澤像の一つの背景。

久美子:そうだったと思いますね。

青木:されているわけですよ。そういうところをすごく感じますね。だから必要だったんですね。自分で像を作っていく時に、諏訪大社が非常に重要な要素の一つになって。

美寿津:パパにしてみれば、自分のお父さんもおじいさんもひいおじいさんも皆ここですからね。やっぱし。

坂上:ありがとうございました。