三浦早苗 オーラル・ヒストリー
2013年2月2日
ルノアール吉祥寺店にて
インタヴュアー:福住廉、加治屋健司
書き起こし:永田典子
公開日:2025年2月12日

画廊主
青森県南津軽郡生まれ。1959年に上京した後、1963年12月から68年11月までおぎくぼ画材店2階にあったおぎくぼ画廊を運営し、同画廊が発行した雑誌『眼』(1965年6月〜1968年11月。全34号)の編集も手がけた。『眼』は中原佑介、石子順造、宮川淳などが寄稿し、「影」論争をはじめ、1960年代日本美術批評の重要な舞台となった。
本インタビューは、聞き手に福住廉氏をお迎えして、おぎくぼ画廊を運営するにいたった経緯、同画廊の活動、『眼』の編集、画家や批評家との交流についてお話をうかがった。なお、本インタビューをもとに福住氏が構成した文章「おぎくぼ画廊と中原佑介」が『「中原佑介美術批評選集」通信 第9巻大発明物語』(現代企画室+BankART1929、2013年)に掲載されている。
加治屋:では始めさせていただきます。よろしくお願いします。まずお生まれからお伺いします。
三浦:私の、ですね(笑)。
加治屋:はい。いつどこでお生まれになったかというところから話していただけますか。
三浦:昭和14年、1939年ですね。青森の南津軽郡という、津軽平野のど真ん中です。奥羽本線の、青森と弘前のちょうど中間辺ですね。五能線という、太宰治の生家の方に行く線があるんです。
加治屋:そちらはいつまでいらっしゃったんですか。
三浦:二十歳ですね。
加治屋:じゃあ、高校というか……。
三浦:大学一年で中退したんですね。弘前大学ですけれど(笑)。両親ともちょっと病気になっちゃって。姉が東京にいましたので。親がなんとか1年くらいで私がいなくてもいいような状態になりまして。まあ大学も中退したし、かわいそうだっていうことだったと思うんですけど、「東京へ行きたい」って言ったら「いい」ってことになりまして、それで東京へ出てきました。姉が荻窪で画材店をやっていたんですよ。
加治屋:荻窪で画材店。それは何という名前の画材店?
三浦:おぎくぼ画材店。そこに結局居候するかたちに。最初は別の会社、水道橋にあった電気会社に勤めましたけれども、「手伝ってほしい」と言われて。最初、画材を売るほうを手伝っていたんです。木造のバラック建ての店だったんですが、二階に小さい部屋があったんですね。そのうちに、二階でクロッキー研究所をやろうという話になりまして。夕方6時半くらいから2時間、8時半くらいまで、下へ来るお客さんを誘って、「クロッキーやりませんか」って、クロッキーの研究所を始めたんですね。
加治屋:美術教室みたいなものですね。
三浦:そうですね。そのときに、面白かったっていうとあれですけど、やっぱり絵描きさんがどんなふうに絵を描くとかね、やっぱり見ましたね(笑)。プロの方もいらしたんで。丹羽文雄の挿絵をやっていらした笠井一(かさいはじめ)さんという方がいたんですけど、その方なんかはもう毎日のように来ていましたね。下の画材のお客さんにも、武蔵野(美術大学)の教授になられた方ですが、藤井令太郎さんとか——非常にアカデミックな絵ですけど——そういうお客さんもいらして、なんか可愛がってもらったというか(笑)。よく配達に行くと、話をしてくださって。そんなこともあったりして、面白いなって。画材売るだけじゃなくて、絵描きさんとの関わりも面白いなっていう感じは、その頃からもちましたね。
加治屋:そうですか。話を戻してすみません。弘前大学で勉強されたときはどういう学科にいらっしゃったんですか。
三浦:最初は教養課程で。今は文学部と理学部って分かれていますけど、あの頃は文理学部って言ってまして。私はどっちかというと文学部のほうに行きたかったんですね。最初1年はとにかく文理学部で勉強して、というほどじゃないです、1年、もうほんとに桜の咲く頃に退学届を出すことになっちゃって(笑)。兄弟も反対したりいろいろしましたけどね、やっぱり誰も(両親の)面倒をみる人がいなかったですから。弟がいましたけど、弟は6歳違ってましたんでね、ちょっと可哀想で。そうしたら一番上の兄が帰ってきてくれたんですね、別に暮らしていたんですけど。そんなこともあって出られることになったんです。
福住:じゃあ文学を勉強されたかった?
三浦:そんな大それたものじゃないです(笑)。あの頃、田舎の女学生っていうのは、大学へ行ってもほとんどが教師ですよね。せいぜい小学校、中学校。教育学部はあったんですけど、ちょっと行く気がしなくて。そっちへ行っても、その頃の知り合いは今——みなさん定年になっちゃっていますけど——、ほとんどが教師ですよね、女の人は。男の人は、東京の大学に入った人は別ですけどね。
加治屋:女性が少ない時期ですか、大学も。
三浦:そうです。だから高校のときは、弘前高校ですけど、1クラス45~46人でしたけど女性は5、6人? もともと男子中学だったところですからね。共学になってそんなに経ってなかった頃ですよね。そんなような状態でしたね。文学部へ行ってもやっぱり女性はすごい少なかったです。岩手から1人、秋田から1人、私の高校から2人……、4人くらいしかいませんでした、たしか。北海道からはよく来る人がいましたけど。一番南の人で、男性の方で沼津から入っている方がいらして。面白い人でしたね。寮祭というか文化祭というか、ああいうときにすごい張り切って面白いことやってくださった人がいました。
加治屋:弘前高校で弘前大学というと、地元では名門というか、一番いいところですよね。
三浦:どうなんでしょうねえ。
加治屋:それをやめてもやっぱり東京に。
三浦:大学はやめざるを得なかったんですよ、もうどうしようもなくてやめざるを得なかったんで。経済的にもちょっと大変になりましたしね。でも東京へ来て、そういう面白い世界が見つかったんで、非常に張り切っていましたよね(笑)。張り切っていたって言うと変ですけど。絵描きさんとの付き合いっていうのがすごく面白かったです。
加治屋:お姉様は、画材屋さんは自分で最初から始められたんですか。
三浦:ええ。結婚していましたから、義理の兄と二人でやっていました。
加治屋:荻窪の画材屋さんというのはその頃できたものですか。
三浦:いや、もっと前からやっていたみたいです。姉は、東京へ出てきて、ちょっと絵を描こうとしていた人なんですよ(笑)。だから(義理の)兄とも新宿かどこかの美術研究所みたいなところで知り合ったらしくて。
加治屋:そうですか。お姉様とはおいくつ離れています?
三浦:えっとね、十何歳だろう……、二番目の姉と10歳離れていますので、13、4歳離れていますね。
加治屋:最初は画材屋も手伝いながら、クロッキー研究所は三浦さんが企画というか。
三浦:いや、そうじゃなかったです。それは、なんとなく絵描きさんたちが姉たちに言ったみたいで、そういうのをやってくれないかっていうことで。それで私が、一番自由がきいたというか、「マネジメントしてみたら」ということで。もちろんお昼は画材屋さんを手伝って。夜、あっ違う、それは水道橋の電気屋さんに行っていたときだわ。それで夜、アルバイト的にそれをやったんです。そうでした、そうでした。
加治屋:ああ、そうですか。それは誰か先生がいるんですか。
三浦:いないんです。いなくって。結局、その笠井一さんって方が非常に熱心だったわけですね。丹羽文雄の挿絵をずっと描いていた人。その人が「簡単だから心配することない」って盛んに私に言いましてね。時間を何分何分って、最初は10分なら10分、その次は5分でやるとか、そういう間隔まで指導してくださって。2時間をこういうふうに割り振って、モデルを呼んでって。モデルはね——うちの姉が東京に出てきたときに、小学校の先生やっていて出てきたんですけれど、絵を描きたくて。結局、経済的に大変で、自分もモデル業をちょっとだけやったことがあるらしいんですよ。それだから——「モデル紹介所はここだから」って言って(笑)。そこへ電話して、明日何時から何時までって頼んで来てもらうということはやるんですけれど、突然モデルが来れなくなるときがあるんですよね。そういうときに本当に困って、お客さんは来ちゃっているし。そうすると笠井さんが、「三浦さんそこに座って」って(笑)。あっち向いてこっち向いてって。「着たままでいいから」って。もちろんヌードなんですよ、クロッキーは。「着たままでいいから」って(笑)。
加治屋:モデルさんを呼んで、みんなモデル代を出し合ったりして、それでみんなで描いていらした。
三浦:そうです。会費はたしか250円だったと思いました。お一人一回。
加治屋:それは高い?
三浦:高かったです。なんか250円いただいたような気がする。でもモデルさんに結構払いました。それをやっていて、そのうちに、何がきっかけだったんでしょうね、画廊をやる話になって、そのままクロッキー研究所の場所が画廊になったわけなんですよね。
加治屋:もう一回戻して申し訳ないんですが、では東京に来られたときは二十歳。
三浦:21歳だったと思います。
加治屋:21歳ということは、1960年とかですね。
三浦:そうですね。
加治屋:電気屋さんにしばらくお勤めになって。画材屋さんのほうがメインになったのはその何年後かという感じですか。
三浦:1年半ぐらいですね。1年はいたと思います。
加治屋:そうですか。62年頃から画材屋の方が中心という。
三浦:画廊が始まったのが63年の12月だったと思うんですね。
加治屋:じゃあその少し前からということですね。
三浦:だからクロッキーもほんのわずかな時間だった。2年かそこらでしょう。2年も続いたかどうか。
加治屋:クロッキー研究所から画廊のほうに変わったということですね。
三浦:そうなの。やっぱりいろんな話がクロッキー研究所のときも出るわけですね、画廊にしたらどうだろうとか。姉たち夫婦もわりと発想が自由な人たちで、面白いから画廊をやってみてもいいんじゃないかとか、やりたければやってみたら、って感じでしたね。ただ私が食べていくのがそれでできるのかどうかが一番問題でしたけど(笑)。
福住:クロッキー研究所でお客さんというか、絵描きさんたち同士が集まって来て、そこで関係性が生まれるようなことはあったんですか。
三浦:いや、それはあまりなかったと思いますけど、画材屋さんのお客さんが増えたことは確かですよね。武蔵美の学生さんもよく来ていましたしね、クロッキー研究所に。来ると何か材料を買いますしね。笠井一さんは荻窪に住んでいらっしゃった方ですけれど、そういうプロの方も材料をいっぱい買いますから、すごくよかったんだと思います。だから画廊というのもそういう役にも立つかなと。いわゆる本当のオーナーは下の画材屋さんなんですけどね(笑)。
福住:当時、中央線沿線というのはわりと画材屋さんが集まっていたと思いますけど、クロッキー研究所みたいなことをやったのはおぎくぼ画廊だけだったんですか。
三浦:たぶん……。その後でどっかで始めたという話は聞きましたけれども、たぶんその頃はそうだったんじゃないでしょうかね。普通はいわゆる美術研究所とかね、受験生相手のところ。今『眼』を見ると、画材屋さんの広告をいっぱいもらっていますもんね。よく自分であんな……。お金集めが大変だったんだわ(笑)。よくあんな芸当したもんだと思うぐらい。
福住:1ページまるまる広告というのがありますね。
三浦:そう。足りなければ下に頼むってやっていました。でもほんとに、たしか2000~3000円だったと思うんですね、みんな。
加治屋:その当時中央線沿線に画材屋さんが多かったというのは、何か理由があるんでしょうか。
三浦:どうなんでしょう……。
加治屋:武蔵美は……。
三浦:武蔵美は吉祥寺にありましたのでね。小平の方ではなかったですので、武蔵美の学生さんは多かった。芸大(東京芸術大学)の学生さんも結構いました。私、今でも思い出すんですけど、絹谷幸二さんって方いるでしょ。あの方が学生時代に買いに来てね。
加治屋:それは面白い(笑)。
三浦:私、その頃は全然知りませんでしたよ。あのね、払わないんですよ(笑)。ごめんなさい、もう時効だから言うね。うちの娘も「先生に言った」とか言っていましたから。
福住:ツケで買っちゃうってことですか。
三浦:そう。ツケで売っていたんですよ。
福住・加治屋:えーっ。
三浦:あるときに払ってくれるんですけど。私が請求書書きをやっていたんです、毎月。だから絹谷幸二っていう名前はよく知っている(笑)。
福住:忘れもしない(笑)。
三浦:うちの娘が1年のときみていただいたんです、芸大で。
加治屋:芸大に行かれていたんですね。
三浦:ええ。私がその話したもんだから、したらしいですよ。そうしたら「そうだったっけ」とか何とか言ったって(笑)。
三浦:毎月書いていましたからね、嫌でも覚えています、ほんとに。
福住:おぎくぼ画廊がある意味育てた(笑)。
三浦:それは画材屋さんね。画材屋さんのほうで(笑)。今考えると本当に、今は大家でいらっしゃるけど、そういう方たちが結構あの辺うろうろしてらしたんですよね。ほんとおかしいって言えばおかしい話(笑)。
加治屋:クロッキー研究所から画廊のほうを始められたきっかけというか経緯を、覚えておられる範囲で教えていただけばと思います。
三浦:きっかけねえ、何だろう。義理の兄がそんなことを言い始めたような気がするんですね、今思うと。誰かにたぶん言われたんでしょう、お客さんか誰かに。「やってみたら面白いんじゃないか」って。
加治屋:でも当時、画廊というのは銀座が中心で、中央線沿線というのはないですよね、たぶん。でも画材屋さんが画廊をやるというケースはなくはなかったですよね。
三浦:なくはなかったと思うんですね。あの辺では聞かなかったですけど。ほんとあれは何がきっかけだったんだろう。私もそれまで画廊なんてところ見に行ったこともなかったですからね(笑)。やり始めてからは行きましたけども。まあ展覧会はね、ときどき上野の美術館に団体展というのを。お客さんが「見てください」とかって切符を持ってきてくれたりしましたので、見に行ったことはありますけど。銀座へ行って画廊巡りをするなんてことは一切したことなかった。忙しくてそれどころじゃなかったですね。アルバイトと仕事で精一杯でしたから(笑)。ただ、画家の方がみなさん面白い個性的な方がいっぱいで、楽しいっていうことは、若かったし思っていましたから、画廊って非常に夢はあったと思います、自分にも。自分がやろうって思ってできる話じゃないですから、場所は下(画材屋)のものですしね。だから、「やってみたら」って言われたと思います、下に。
福住:どこか特定の画廊がモデルとしてあったわけじゃなかった?
三浦:ないです、全然。全くないです。ただ、始めることになったときに、『美術ジャーナル』の宇治(美枝)さんという女性の方が——『美術ジャーナル』をおぎくぼ画材に置いてもらうためにちょこちょこ見えていたんですね。こんな小さい本ですけど、何冊か置いて売ってほしいということで見えていたんですね——、その人が一番情報に詳しいだろうから、私どもの知っている人の中では。だから「聞いてみたら?」って言われて、その方に話をした覚えはありますね。そうしたら非常に熱心で、「やりましょう、やりましょう」って盛んに。宇治さんは『美術ジャーナル』で非常に詳しい方だからあれでしたけど、兄ともよく話をしていましたから、もしかしたら宇治さんからそういう話が出たのかもしれませんね。それで「賞を出す」という、最初からそういう話になりましたからね。
加治屋:画材屋さんの二階でなさった。それはお姉さん夫婦がお持ちのところで?
三浦:そうです。木造の、ほんとの本当のバラックで。二階に上がるのも、階段が、一枚板がこう平らになっているような(笑)。そうだ、写真が。
福住・加治屋:ああ、すごい。
三浦:こんな感じ、屋根裏です、屋根裏。壁は、穴の空いた、何ボードっていうんですかね。石膏ではないんですよ、ベニヤ。こういう感じ、茶色。二部屋みたいになっているんですけど、(写真を見せながら)真ん中が、こういうふうになっている(二つの部屋のあいだに梁がある)んですよ。
福住:梁が見えている。
三浦:そう。だから絵を飾るとこなんてほんと少ししかなくて。
福住:これ高さは。
三浦:低いです。ほんとに低い。
福住:屋根のところは高いけど、壁から屋根の梁のところはわりと低いですね。
三浦:低いです。もう身長ぐらいしかなかったんじゃないですか。ひどい写真で。なんかオープニングっていうと、もうぐっちゃぐちゃになっちゃって。
福住:照明は蛍光灯なんですね。
三浦:蛍光灯なんです。ひどい蛍光灯。あ、中原(佑介)さんの写真。
福住:ああー、すごい。
三浦:笑っている写真あるわ、滅多に笑わないのに。石子順造さん。
福住:おー、すごい。めちゃめちゃ笑ってますね(笑)。
三浦:これ東京画廊の山本(孝)さん。亡くなったんですよね、この方。何だかもう写真が。これ佐々木耕成さんの作品ですよ、アクションペインティング。これは江川(和彦)さん。福島の白河に集団(註:集団・シラカワ)があって、そこの展覧会に呼ばれて。
加治屋:どこの展覧会ですか。
三浦:福島の白河っていうところです。「白河の関」の白河。
福住:すごくいっぱいありますね。
三浦:それは赤瀬川原平さんと前の奥さん、最初の奥さん(笑)。
福住:きれいな人ですね。
三浦:とってもきれいな人。
加治屋:この写真どっかで見たことある。車に乗って。
三浦:池田龍雄さんの別荘へ行ったときだと思う。これは池田龍雄さんと、千円札事件懇談会事務局長・川仁(宏)さん。
加治屋:川仁さんの息子は知っています。
三浦:央さん。このあいだお母さんとしゃべったんですけど。これは(ブラスタ・)チハコーヴァさんって。チェコから来た。
加治屋:チハコーヴァさん。
福住:電柱が木ですね。
三浦:そうそう。面白かったです。これ中原さんと赤瀬川さん。石子さんもこんなに元気だった、ほんとに。これは原平さんと川仁さん。
福住:この作品はどなたのですかね、この人型の。
三浦:池田太一さん。おぎくぼ画廊に入る入口って、見えないけど、こういう路地の先にあったんですよ。
福住:これはどっちですか。線路が向こう側ってことですか。
三浦:そうです。これが看板なんですよ。見てもしょうがないんだけど。ヨシダ・ヨシエさん。何かぐっちゃぐちゃ(笑)。もう時系列に直すのが大変でしょうね、きっと。
加治屋:これはどこかに貼られていたんですか、セロテープが。
三浦:そうなんですよ。スケッチブックか何かに貼っていたと思うんですね。あっそうそう、これね、中原さんが何かしゃべってくれたんです。おかしい(笑)。私、お金がないので、お金集めしたくて、いわゆるアカデミックな絵を描いている知り合いに頼んで、大森朔衛さんとか、国画会の大歳克衛さんとか——大歳克衛さんは梶山季之の挿絵をいっぱい描いている人なんですけど——、そういう人の小さい絵を集めて、それを売りたくて(笑)。見に来る人はそういう絵が好きな人たちですけども、中原さんに頼んで、「今の絵の話をしてください」って。でもやってくれたんですよ。
加治屋:場所はどこですか。
三浦:拓銀、荻窪の北海道拓殖銀行の二階を借りてやったんです。あまり売れなかった(笑)。
加治屋:これはいつ頃か覚えてらっしゃいます?
三浦:私、今日は持っていないですけど、見れば分かります(注:1964年4月4日〜8日に北海道拓殖銀行荻窪支店4階ホールで開催した、第3回おぎくぼ画廊企画「6人展」のことで、中原は「現代絵画への招待」と題する講演を4月4日に行った。同所では12月12日〜16日にも「糸園和三郎・大森朔衛・熊谷吾良・中野淳・藤井令太郎」展を行った)。案内状、作ったのがあると思うんです。それにはちゃんと書いてあると思います。そうなの、よくこういうのをやってくださったと思ってね。それは私もほんとにありがたいというか。こういう絵と無関係の人ですからね(笑)。若い人も結構来ていたわね、中原さんがしゃべるっていうので。中原さんにしてみればあまり出してほしくないようなものでしょう、きっと(笑)。売るためにがんばって。でも非常に「協力的」と言うと変ですけど、いい言葉が見あたりませんけど、わりとはっきり「それは嫌だ」ということはおっしゃいますけど、でも「いいよ」って簡単に言うときは言うんですよね。だから一応頼んでみようと思って。そしたら「いいですよ」って。
福住:30代ぐらいですか。
三浦:そうですね、30代です。私は(中原と)8歳違うわけですから、画廊へ来始めた頃が32、3歳ですよね。37、8歳までですね、お付き合いとしては。
加治屋:ここにある写真というのは、その間の。
三浦:そうです。これはほとんど画廊での写真で、もっとほかにもあるのかもしれませんけど、たまたまバババッと出して、何か見れば思い出すかしらとか思って(笑)。
福住:これ、一冊本にまとめられたほうがいいんじゃないですかね(笑)。
加治屋:貴重な写真ですよ、すごく歴史的な。
三浦:赤瀬川さんの事件のときの(写真)。これ(写真を貼ったパネル)は私に赤瀬川さんが自分で撮って送ってくれたんです。66年のOctoberだから、10月。これね、私が中心になっているんですけど、(左に写っている人物を指して)瀧口(修造)さんなんですよ。裏に「This is Takiguchi speaking」って、これ赤瀬川さんが書いて、こういうふうにパネルにして私にくださったんです。刀根康尚さん、大島辰雄さん、ヨシダ・ヨシエさん、赤塚行雄さん、で、川仁さん。
福住:首謀者ですもんね、完全に、ポジション的に(笑)。
三浦:中原さんや針生(一郎)さんはいないんですけど。これは日活ホテルだったと思います。今は何でしたっけ、ペニンシュラか何かになっているのかしら(註:現在はザ・ペニンシュラ東京になっている)。
福住:日比谷の。
三浦:そうそう。裁判が終わって、終わってというか裁判所へ行った帰りに、松本楼か日活ホテルへ一応みんな集まって次の話をするわけなんですね。そのときにたまたま。
加治屋:裁判の途中で。
三浦:途中で。終わったときに、これを私にお歳暮だってお礼にくださったの(と言って、赤瀬川原平の零円札を見せる)。
加治屋:まさか。
三浦:そう、まさか、お札がいっぱい(笑)。
福住:へー、初めて見た。
加治屋:おー、初めて(笑)。
福住:へー、すごい。
三浦:零円札。
加治屋:すごい。本物。
三浦:本物です、これが(笑)。
福住:こんなになっているんだ。二色刷りなんですね。
加治屋:そうですね。
三浦:これね、後日談があって。私、画廊をやめて結婚して、その結婚した相手が、事業をやって倒産したんです。それで一文無しになったんですよ。私は離婚して、今の仕事を始めたんですけど。(赤瀬川が)芥川賞をいただいたときに呼ばれて行ったんです。そのときにこれを話したんですけど。私、金庫を一つ持っていたんです、結婚していた当時。こういう大事なものを取っておいたんです。そのとき、うちの旦那さんが倒産しちゃってね、私一文無しになって保険屋さんになったんだよ、っていう話をしてね。「だけど赤瀬川さんの零円札だけが財産で残ったわ」って、「金庫に入っている」って言ったらもう大笑いしてね(笑)。「その話はいいね」とか言ってとっても喜んでくださったけど。ほんとにそうなの。これだけが残った。それと川仁宏さんの手紙、長々とした手紙。これは大事に取ってあるんですけど。なんかその手紙はいま読んでもよく分からないって感じで(笑)。
加治屋:どういう。
三浦:どういうって、読んでもらってもいいんですけど。
加治屋:お持ちなんですか。
三浦:でもこういうところではちょっとしゃべれないかもねえ(笑)。
福住:裁判が終わった後に書かれたんですか。
三浦:うん。それは私が結婚してから。
加治屋:思い出深い手紙だったと。
三浦:そうですね。あの人らしい。あの人の文章って、ほとんど書いたものは残っていないんですよ、川仁さんが書いたものって。『眼』に少し書いたものはあるのかもしれませんけど。澁澤龍彦さんにすごくかわいがられたっていう話は聞いていて。いずれはそういう物書きになるだろうと。それで現代思潮社の編集に携わりましたよね。あのときに神田に住んでいたんです。現代思潮社の石井恭二さんが持っているお家があって、そこに川仁さんが奥さんと一緒に住んでいたんですよ。あそこで央ちゃんも生まれたって。「50歳までは仕事しないって」って標榜していた人なのに、それが(笑)。
加治屋:すごい時代ですね(笑)。
三浦:現代思潮社でお仕事されましたよね。だから「あら、ずいぶん裏切ったのね」っていう(笑)。画廊の成り立ちはともかくとして、中原さんたち、ああいう人たち、私にしてみたらほんと知らない世界の人たちがパパッと現れるようになって、それで『眼』を作るようになって、それから千円札事件が起きて。そこでまた全然別種の人たちが出入りするようになって。で、いろんなことをやりましたんですね、支援するための展覧会。ここにも少しありますけど、売るために展覧会をやったり、それから映画会をしたり、そんなことをいろいろ。そこにまた何か知らないけどわけの分からない人たちがいっぱい寄り集まって来るようになって(笑)。川仁さんはほんと面白い人だったですね。
「三浦さん、クルマ運転してよ」とか言われて、運転してあっち行ってこっち行ってって行くんですよね。一回グルッとある工場の周りを回って。工場の塀の周り回って、「いいよ、もう帰ろう」って、その帰り道に、「今のとこさ、一昨日何か事件があったとこだよ」って言うの(笑)。三菱重工の何か事件がありましたよね。何というところだっけ。田無の方だったわ。日特金属? 何か襲撃事件(註:日特金属工業襲撃事件)があった。だからあの人そういうのに関係していたのよね、きっと(笑)。全然知りません。知らないから怖いものなしですよね。だからほんとつけられたりして、私なんか。
加治屋:そういう運動のほうに関わっていた……。
三浦:いた人みたいなの。
福住:川仁さんは、三浦さんがそういうことに縁遠いってことを知っていて。
三浦:そうでしょうね、たぶんね(笑)。だからやっぱり……、こんなこと話していいのかな(笑)。
加治屋:いえいえ、大丈夫ですよ。
三浦:困ってしまうわ、みんなぶちまけてしまったら。でも、石子さんや中原さんもそういうことはたぶん知っていらしたと思うわね。私だけが知らなかったんでしょうね、きっとね。なんとなく川仁さんとは一線があるような感じは受けていましたね。
加治屋:そうですか、石子さんとか中原さんは。
三浦:そうそう。まあ赤瀬川さんがちょうど中間にいるから、それで良かったのかなって。
加治屋:石子さんと川仁さんはどういう関係だったんでしょうか。
三浦:おぎくぼ画廊で知り合ったと思います、あの方たちは。懇談会(の事務局?)をおぎくぼ画廊に置いてほしいと言われて、OKして。石子さんはとにかく書きたい人でね。とにかく『眼』に「書かせて、書かせて」っていう(笑)。今そういうことを言うとあれだけど、ほんとに。「今度僕が書くから」って盛んに。それをお断りするのが大変だった(笑)。でも中原さんと石子さんがいらしたおかげで、『眼』はほんとにうまくいったのかなって思いますね、自分では。
加治屋:話をまた戻しちゃって申し訳ないんですが、おぎくぼ画廊は63年の12月から始められたと。
三浦:そうですね。
加治屋:『眼』が65年の6月が最初の発行です。画廊を始められたのは義理のお兄様が発案したというお話でした。『眼』という雑誌を発行することになった経緯はどうだったんですか。
三浦:それは本当に私も、たぶんなんですけど、中原さんだったように思います。
加治屋:『眼』というのは中原さんが命名して、字も中原さんが書いたって。
三浦:書いたのは、赤瀬川さんに聞けば分かることなんですけど、赤瀬川さんか中原さんかどちらかです。命名は中原さんです。
加治屋:『眼』では、中原さんは自分で書いたというふうに言っています。
三浦:そうですよね。何かそんなような記憶があるもんね。
加治屋:最終号のところにその話が載っていて。
三浦:そうですよね。私もこれ読んで「あ、そうだったんだ」って思ったんです。たしかに、赤瀬川さんだったら、そんな斜めになっているような書き方はしないように思う。あの人は元々そういうアルバイトをやっていましたから、その頃から。そうなんですよ、その『眼』がね、「私、そんなことしていたんだ」って思ったのが、これ。ちゃんと商標登録をしてあったの。びっくりした。これどうして……私、自分でした覚えがないんだけど(笑)。
福住:へー、すごい。
加治屋:『眼』という名称を。
福住:これが原画?
加治屋:原画ですよ、原画(笑)。すごいですねえ。
三浦:昨日初めて見つけて、「え」って自分でも思ったのね。
福住:昭和43年ってことは。
加治屋:68年の7月ということは、68年の11月が最終号なので、終わるときにちょうどそれ(商標登録)をされたということですね。
三浦:よくこんなこと考えついたもんだと思って(笑)。自分でもちょっと覚えていないんですけど。自分では全然意識がなかったですけど、周りの人がこういうことを言ってくれたんだと思うんですね。
福住:千円札裁判の活動をやった後ですね。
三浦:そうですね。だから後々やっておくべきだというようなことを言った方がいるんだと思うんですね。私、自分ではとてもこんなこと思いつきません。それが誰かはちょっと思い出せないですけれど。
加治屋:これ「有限会社 おぎくぼ画廊」となっていますね。では画廊としても。
三浦:一応登録はしていたんですね。登録というか法人にはしていたんですね。
加治屋:ちょっとまた話は戻って。『眼』という雑誌は、いろんな批評家の方が書かれていて、さっきのお話だと、画家の方々が、画材屋なので出入りするというのはよく分かるんですが、批評家の方が出入りするというのはどういうことなんでしょうか。
三浦:これはですね、賞を出すってことになりましたでしょ。賞を出すからには選んでもらわなきゃいけないわけですよね。だからどなたに選んでもらうかっていう話になったときに、宇治美枝さんって、先ほどの『美術ジャーナル』の方に相談したんです。それは私もはっきり覚えているんです。その方が、美術評論家に見てもらうのが一番っていうか。画家という言葉は出てきませんでしたね。美術評論家。荻窪周辺にはそういう方が結構いらっしゃるから、「近場の人がいいんじゃない?」という話を聞いて、全然こちらは分かりませんので、挙げてくださいって頼んだんです。だから最初の3名の方は宇治美枝さんの推薦です。
加治屋:最初の3名というのは。
三浦:針生さんと中原さんと江川和彦さんという方です。
加治屋:中原さんはたしか西荻でしたか。
三浦:荻窪なんです。荻窪の西田町というところに団地があって、今もあると思いますけど、そこに住んでいらしたんですね。針生さんは世田谷、大原だったと思います。井の頭通り沿いですね。吉祥寺から渋谷へ向かう通りですね、お家が。江川さんは、武蔵野の、その当時もういいお歳だったんですよね、デザイン関係の講師をしてらしたと思います。
加治屋:武蔵美で。
三浦:ええ。それも宇治美枝さんがよくご存じでいらして、「宇治美枝さんのご紹介で」って言ったら、すんなりお引き受けくださいましたから。頼みにいくときは宇治美枝さんが一緒に行ってくれたわけじゃないので、一人で行って。私はまだ25、6だったんですけど。でもみんな面白がってくれましたね、近いから。針生さんが一番、「うーん」とか言っていましたけど、でもやっぱりあの人も宇治美枝さんがよく知っていらしたみたいで。もうほんとに苦労なく、その場でOKしてくれましたね。
加治屋:賞以外にも、こうやって文章を書かれていますね。選考委員だけではなくて。
三浦:やっぱりあれじゃないでしょうか。三人の方が毎週見にいらっしゃるということで、何となくそういう画廊かなっていうイメージができたんですかね。石子さんはそうですし、赤塚(行雄)さんなんかもよく見えていましたし。あとは、展覧会をやられた方がお呼びになる方っていらっしゃるんですよね。東野(芳明)さんなんか、どなたのを見に来たわけでもないような気がするんですね。日向(あき子)さんは、誰かの展覧会のときに見えたと思います。多少なりとも美術書を読み出していましたから、どんな方が書いているとか、そういうのは自分の情報としてありました。頼むと、あの頃みなさん若かったですしね、簡単に書いてくださいました。そんなに忙しそうでもなかったし(笑)。でも、今朝思ったんですけど、末永照和さんという方がいまして、一回だけ書いてくださっているんですよね。それがどんな経緯で、私この方と知り合ったのか、それが思い出せないんです。調べたら、桜美林大学の名誉教授か何かになっていらっしゃるので、びっくりしました。あの人も中原さんと同じぐらいの年齢ですよね。
加治屋:そうですね。最近本を出されましたよね。デュビュッフェ論(註:『評伝ジャン・デュビュッフェ』)。
三浦:そうですか。あの方を知っているような人とかちょっと覚えがないんですね。もしかしたら投書で来たかもしれないとかね。
加治屋:結構投書はあったんですか。読者の声みたいなのは。
三浦:読者のはありますね。そんなこと言ったら失礼かな、誰かが推薦してくださったのか、ちょっと覚えがないんですね。お会いしたこともない気がするんですね。それなのに1ページ目に書いてもらっているから、どうだっただろうってちょっと思い出していました。
加治屋:また戻って申し訳ないんですが、画廊を始めて、賞を出そうとなった。出版物を出そうというのは、批評家の先生方から、中原さんから話が出て。
三浦:ええ、話が出たように思います。
加治屋:最初にまとまった文章があって、わりと短い文章がありますね。こういう構成を考えたのはどなたなんでしょうか。
三浦:それはやっぱり私しかいないんですよね(笑)。でもなんか困ったときは相談したように思います。石子さんなんか週のうち3日くらい来るっていう感じでしたから(笑)。来なくても呼び出されたりしましたから(笑)。あの人の意見は結構入っているとは思います。
加治屋:論争、例えば「影論争」についての文章が結構続いたりしますよね。例えば、宮川(淳)さんが書いた文章に対して中原さんが応答したりとか、ほかの雑誌に書いたものに応答したりとかありますけど、議論が巻き起こるような場になっていたと思うんですが、こういうことは考えられていたんですか。
三浦:いやあ、自分ではそうなってほしいとか思った記憶は全然ないんですけど。ただ、宮川さんという方は本当に、私はお家にも伺ったりしましたけど、あまり声高にものをおっしゃる方じゃないんですよね。そんなに話をペラペラする方でもないので。その方がちらっとこう、中原さんについて「ちょっと」というような(ことをおっしゃる)。「じゃあぜひ書いてください」とお願いした記憶はありますね。あの方はよっぽど頼まないと出てくださらないというか、ほかにもいろいろ書くものは持っていらっしゃっただろうし。『眼』あたりに書いてくれるというのは、私にしてみたら、ちょっと異質な感じな人でしたから。画廊にしょっちゅういらっしゃるわけでもないですしね。座談会でも快く来てくださったから、なんでしょう……。
加治屋:失礼かもしれませんが、原稿料はお支払いしていますか。
三浦:したのも、していないのもありますね(笑)。できるだけするようにはしていましたけど。払えないときもあったように思います。
加治屋:これだけの文章を、活躍されている方に書いていただいて。印刷代も結構かかりますよね。
三浦:そうなんですよ、それが何にも残っていない(笑)。ほんとに。でもね、忙しいときに女の子、女の子と言っちゃあれですけど、2人ぐらい手伝ってもらったことがあるんです、ほんの短い期間ですけど。
福住:『眼』だけでですか。
三浦:いやいや、画廊も含めて。その子たちには払っていたんですよね。ほんの少しですけど。毎日9時~5時とかそういうのじゃないんですけど、どれくらい払っていたんでしょう。ただでは使っていない、払っていました。
福住:今で言うアルバイトみたいな。
三浦:そうです。広告取りなんかも頼んで、喜んで行ってくれた子もいたりして。一緒じゃないんですけど、時期を違えて3人ぐらい、がんばってくれた人がいますね。一人は、お芝居の関係の広告取りは「私がやりたい」って言ってくれて、状況劇場とか天井桟敷とか結構行ってくれて。三百人劇場とかね、小さい劇団の広告を結構取ってきてくれましたね。
福住:発行部数ってどれくらいだったんですか。
三浦:そんなことも何にもないのよね(笑)。残っていない。どれぐらいだったんだろう。
福住:広告がこれだけ入っているということは、それだけ売れてないと載せないですもんね。
三浦:だって1部50円とかそんなんですよね、最初は。まあその頃のあれですからねえ。どうだったんだろう。何かむちゃくちゃだったのね、きっと。
加治屋:数百くらいは、やっぱり。
三浦:数百にはなってないと思いますね、たぶん。最後は結構出ていたように思いますけどね。
福住:100部。
三浦:100部はあったと思います。
加治屋:印刷していろんなところに郵送していましたか。
三浦:購読者の他に、画廊にも送っていたかもしれませんね、貸画廊とかそういうところに。あと批評家や文化関係者。無料のあれ(進呈)も結構あったと思いますね。
福住:じゃあ郵送代含めて50円。
三浦:そうですね。でも最後のほうはだんだん増えてはきていたんですよね。
福住:画廊で発送作業も。
三浦:そう、全部やって。だからほんとに広告代で何とかやっていたんだと思いますよね。
加治屋:画材屋で画廊もやっていたところというと、同時代だとタケミヤ画廊とかサトウ画廊がたしか画材屋と画廊をやっていて。特にサトウ画廊は月報が出ていましたよね。
三浦:出ていました。もうあれはほんとに先輩で、読みました、私も。結構読んでいた記憶があります。「サトウ画廊派」みたいなものもあったように思いますね、あの頃。
加治屋:サトウ画廊派。ああそうですか。
三浦:池田龍雄さんなんかそうなんじゃないんですか。よくあそこでやっていた人……。昆野勝(こんのまさる)さんとか、よくサトウ画廊さんでやっていましたね。
加治屋:この作家はこっちの画廊とかいうのはあったんでしょうか。
三浦:あったと思いますね。もうほんとに過激なのは内科画廊。あれができてからは何だか、画廊のイメージがちょっと崩れたみたいな(笑)。そういう言い方しちゃあれだけど(笑)。
加治屋:実は私たちの団体には、宮田有香さんという、内科画廊をなさっていた宮田(國男)さんの娘さんが入っているんですね。
三浦:ああそうなんですか、失礼しました(笑)。それはただ私のイメージですから(笑)。でもサトウ画廊さんも結構長くやっていましたよね。
加治屋:そうですね。たしか68年にサトウ画廊さんも閉廊に(註:閉廊は1981年)。
三浦:68年ですか。みんな同じ頃なんだ。
加治屋:(『眼』に)いろんなコーナーができますよね。例えば「いやがらせといいがかり」とか「遠めがね」とか。ああいうコーナーは三浦さんが考えて。
三浦:そうですね、その辺はそうですね(笑)。ほんとに。投書があるもんですからね、やっぱり何かで埋めなくちゃいけなくてね。「遠めがね」というのは地方の読者が結構多かったもんですから、読者サービスというかそういう面もあって。画廊を借りてくれる人も地方の人が結構多かったですからね。
加治屋:地方からですか。
三浦:ええ、地方から出てらして。さっきの人型の人とか、あの人は富山県だったと思うんですけど。それとか石子さんが関わっていた、静岡の神近(昭)さんとか、結構地方の方が。あの頃、何かのかたちで「批評家先生に見ていただければ」っていうような気持ちがあったんでしょうね、地方の人たちにとっては。だから、うちでやると一回はみなさん見に来てくださるわけだから、話もできるわけだし、そういう気持ちはあったかなと思いますよね。
加治屋:展覧会は貸画廊として。
三浦:そうです、貸画廊です。申し込み者は、「あなたはダメ」ってことはありませんから、全部引き受けて。一回、猥褻容疑で警察に呼ばれたことがあります(笑)。何でもいいと思って。とにかく作家の方は、「僕のはそういうんです」って言われたけど、「いいんじゃないですか」って。
加治屋:どなたか覚えていらっしゃいます?
三浦:ちょっと聴覚の不自由な方だったんですよ。すごく一生懸命絵を描いてて、下の画材屋さんにも買いに来る方で。しゃべるのも不自由だったような気がしましたね。何て言ったかなあ(注:梅林文夫)。そうですね、一回だけそういうことがありました。
加治屋:企画もなさっていましたか。
三浦:企画はほとんどしていないです。最初の一週間だけ、画廊を始めたときの一週間だけ、中原さんが推薦してくれた人ですね。星原満朗さんと、佐々木耕成さんと、白井昭子さんと、それから誰だろう……。
加治屋:それはグループ展で?
三浦:いいえ、個展で連続して。もう3人だったのかなあ。
福住:おぎくぼ画廊賞の展覧会もありましたよね。
三浦:ええ。あれは半年に1回選んでもらって。それである時期、ちょっと間を置いてやるんですけどね。
福住:それも個展でしたっけ。
三浦:いいえ個展じゃないです、グループのかたちで。佳作2点くらいまで2人と、グランプリの方と、という感じで。1年に1回でもよかったですね、今考えてみると。半年に1回は忙しかったですよ(笑)。
加治屋:『眼』を見ると、『眼』の編集部と、おぎくぼ画廊の美術運送部が出てくるんですけど、これはどういうものなんでしょうか。
三浦:それはね、下が画材屋さんですので、配達するわけです、材料を。画材屋さんの人たちがやるんですけど、(美術運送も)やったらどうかという話で(笑)。そういうふうに入れて何回かやったような記憶がありますね。上野まで運ぶとかね、いろんなことやって。何でもお金になればっていう、とにかくお金稼ぎをしなくちゃという意識が強かったです(笑)。
福住:三浦さんはトラック運転できたんですか。
三浦:できません。普通の車はできますけど。でもほんとに今考えてみると、よくこんなことをねえ、怖いもの知らずでやっていたもんだって思いますよ、ほんとに(笑)。まあ若かったからでしょうね。
福住:おぎくぼ画廊を始めたときに、おぎくぼ画廊賞を中原さんと針生さんと江川さんでとおっしゃいましたけれど、中原さんとそもそも一番最初にお会いしたというのは、この賞の選考委員をお願いしに伺ったときですか。
三浦:そうです。
福住:それは宇治さんの推薦で行かれたと。お会いして、そこはすぐすんなり引き受けて。
三浦:そうなんですよ。それが不思議ですよねえ。私も何にも知らない、芸術のげの字も分からない人間が、ある日突然「画廊やりますから」ってね(笑)。それはでも宇治さんの名前が通っていたからだと思います。
福住:この時点では、まだおぎくぼ画廊に中原さん来られていなかったわけですもんね。
三浦:ええ。
福住:すごいなあ。
三浦:あの頃は何でもありの時代だから、やっぱりああいう方たちも、面白そうだから何でもやってみようって感じなんでしょうね、きっと。そんなにああだこうだっておっしゃらなかったですね。針生さんには何かいろいろ聞かれたような気がするけど。
福住:針生さんは、前にご本人からちょっと聞いた気がするんですけど、中野か高円寺の画廊で顧問みたいなことをやられていて、小山田二郎さんの。
三浦:小山田二郎さんのことよく書いていましたもんね。
福住:似たような画材屋さんで……。
三浦:高円寺……。何か喫茶店に飾るとか、いろんなことをしているところがたしかにあったような気がしますね。
加治屋:先ほど映画上映の話が出ましたけれども、66年6月の13号に「映画会のおしらせ」という記事がありまして。「おぎくぼ画廊天井館」と書いてあるんですけれど、これはどういうものなんでしょうか。
三浦:これは屋根裏だから天井館(笑)。これは川仁さんのネーミングです。
加治屋:画廊のさらに上に何か。
三浦:いやいや、ないです、画廊のことをそう言ったんですね。だけど、この映画の題名を見ても、ちっとも観た記憶がないんですよ。これが全部やられたわけではないと思います。全然変わっていたと思います、内容は。『アンダルシアの犬』(1926年)というのだけすごく記憶に残っています。私は観た覚えがあります。全部が全部やったわけではないんです。この辺はこのVAN映画科学研究所というところが選んでくださったんだと思うんです。
加治屋:じゃあフィルムを持ってきて。
三浦:日大のOBの方がすごい部屋に集まって。荻窪の天沼というところにいた覚えがあるんですけど、やる人たちがたむろしてるっていう。
福住:写真が残っていますね、たぶん。
三浦:ああ、そうですか。煙草の煙がもうもうとしててね、すごい人たちがいるんだなと思った記憶がありますね。
福住:お客さんはどれぐらい集まったんですか。
三浦:いやあ、この時はほんとに天井落ちるかと思いました。もうぎっしり。もうほんとになんでこんなにって思うぐらい。だから本当に心配しましたよ、床が抜けるんじゃないかって。だって木造でもうあれだったから。それでまた、それも川仁さんが、古い映画館で売り子がいて、「なんとか~」って売るじゃないですか。ああいうかたちで何か売って儲けようって話があってね(笑)。かまぼことラムネ。ラムネ、それも瓶。今は売っていますけどね、その頃はあの瓶はもうなかったですよ。それで浅草まで買いに行った覚えがある。凝るんですね、そういうことに。桶に氷を入れて、ラムネの瓶を入れて。
福住:そうか、夏ですもんね。
三浦:そう。かまぼこは「天井館」という焼き印を押して、それですごく高く売った覚えがあります。それでかまぼこ——好きじゃないけど(笑)、ラムネ。ビールは売らなかったと思いますね。飲むと大変だから。そういうことをやりましたね。何日間かやったんですけど、毎日超満員でした。今考えてみると、ああいうのをちゃんと記録に残しておけばよかったんでしょうけれど、ただただわけも分からずやっていたもんですからね。
福住:4回やったというのは、演目は。
三浦:日にちがこうなっているってことは、やったんだと思います。嘘はついてないと思います(笑)。『現代の眼』って総合雑誌がありましたよね。あれが、アンダーグラウンド何とかで取り上げてくれましたよね、その映画会のことは。だからその後の何月号くらいか知らないですけど。
加治屋:川仁さんは、『眼』を読んでいる範囲だとほとんど出てこないんですが、結構関わっていらしたということですね。
三浦:ただ、こういうものを載せてくれとか、そういうことはほとんどおっしゃらない方でした。千円札事件の事務局として「お願いします」って。事務局長だったですから。それもお金集めの一環ということで。それと展覧会も、小品展をおぎくぼでもやりましたけど、新宿の椿近代画廊でもやった記憶がありますね(註:千円札裁判支援のための「現代美術小品即売展」1966年7月)。そのとき私が買った小島信明さんの版画が今でもあります、小さいの。村井正誠さんの色紙とか。あの頃、赤瀬川さんの《あいまいな海》というコラージュ、1万円ぐらいで売っていたのよね(笑)。
福住:売れたんですか。
三浦:売れたと思いますよ。買っとけばよかった(笑)。s
加治屋:先ほど中原佑介さんが講演をしている写真を見せていただきましたけども、あれも裁判の一環……。
三浦:いえ、あれは全然違います。あれは画廊のお金集めでした。私はそんなね、現代アートばっかりしていたんじゃないですよ。お金が欲しくて。だから、あの当時を思い出すと、おぎくぼ画廊に来てくださる方の中にも、普通の絵を欲しいっていう人もいたんです。
そういうお客さんに、小金井に住んでる方で、電気の部品か何かを作っている会社の社長さんで、ときどき見える方がいて。たまたまある人の個展を見に来た人の中に、糸園和三郎さんのサインがあったんですよ。その社長さんが見て、「三浦さん、この人知ってる?」って言うから、「そんなに親しいわけじゃないですけど、知ってます」って言ったら、この人の作品が欲しいっておっしゃって。「手に入るものかな」って言うから、画廊へ行けば、「日動画廊でも行けば入るでしょう」って言ったんですけど、「それじゃあ高いから」とか言って(笑)。「じゃあ聞いてみましょうか」って言ったら、「聞いてくれる?」って言うんで私、電話して。そうしたら、「今、日動画廊から戻ってきたばかりのがあるから、それでよければいいよ」って。小平だったと思いますけど、アトリエまで行って。私、画商みたいなことやっていませんので、分からない。「どうしたらいいいですか」って。「ここから持って行ってその人に見せて、それで気に入ったら買ってもらえばいい」って。「だから差しあげますから」って言われて。10号でした。「それっていくらで売ったらいいんですか」って言ったら、「僕は1号1万円もらえればいい」って言われて。「じゃあ私はいくらで売ったらいいですか」って(笑)、聞いたらね、「まあ倍には売ってほしい」って言われましたね。「分かりました。じゃあ20万円で売ればいいんですね」って、風呂敷に包んで、そのお客さんとこへそのまま持って行って。それでお見せしたら「ああ、いいです」って。「じゃあ20万ですね」って、その場で数えて現金くださって(笑)。次の日、先生のところに10万円持って行きました。そういうことを何回かやりました。
もう一人は、まだ藤田嗣治が生きているときです。青木画廊さんという、その頃版画をよく扱っていた画廊があって、その青木画廊さんのオーナーもたまに来てくださっていたんですね。知っている絵描きさんがやっていたからでしょうけど。青木画廊さんへ行ってみようかなって思ったら、ちょうど(藤田の版画が)飾ってあって。「これいくらですか」って。この頃ね、藤田嗣治の版画8万円とか言われて。そんなじゃなかったのかな、今ではもう思い出せない。それで、「三浦さん、持って行って、(件の社長に)見せて、気に入ったら(売って)いい」って言われて。やっぱり同じようなかたちで持って行ったら、「買います」って。「いくら」って言われて、また倍ならいいんだって思って16万って(笑)。それがまた後日談があって。私が今の仕事に入って間もなくの頃、一生懸命契約をもらわなくちゃいけないから、その人のところへ——立川の大地主なんです、その方——行ったんですよ。それで「保険の仕事を始めましたんで、どうでしょうね」って言ったら「いやあ保険はもういっぱい入ってるから」って(笑)。だめだけど、「三浦さん、三浦さんから買ったあれ、今いくらすると思う?」とか言われてね。250万って言ってました、その時。もちろんもう亡くなっているし。16万が250万。おかしい、そんなこと(笑)。
福住:当時の画廊同士の付き合いというのは、生々しい話になるとわりとシビアな関係になりがちじゃないですか。でもそういう雰囲気だったんですか。
三浦:いわゆる画商さんね、ほとんどそれでやっているような画廊さんは、私も付き合いもないですし、何もなかったです、お互いの行き来は。自分も銀座に行けばそうして見て歩きましたし。あの頃はルナミ画廊さんとかが、貸画廊さんで同じような絵描きさんがよくやるところなんで、ときどき知っている方がやったり。ルナミさんとか、櫟画廊というのがありましたね、サトウ画廊さんとか。版画だとシロタ画廊さん、今もあるんですよね。あと夢土画廊って言ったかな。その辺ですね、銀座に行けばだいたいグルッと見てくるというのは。
加治屋:おぎくぼ画廊で展示した作家で、特に印象深い方っていらっしゃいます?
三浦:そうですねえ、画家で言うと、滝ノ入源という人がいたんですよ。水彩画でしたけど、長野の上田の人で。その人が画廊賞を取って。中原さんがすごく推薦したんです。何て言ったらいいのかな、非常にきれいなというか、抽象画でしたけど、水彩です。この人はすごく変わった人で。農業をやってて、絵描いていたって人なんですね。どういうわけだか、個展やったら岡鹿之助が見に来たの。何なんだって思ったら、なんか知っているらしくて。人間的にも面白い人で、何て言ったらいいんだろなあ、もう桁外れというか、しゃべることも。話が大きいというか、そういうタイプの人で。どうしてうちでやったのか……、何かを見て持ち込んだんだと思いますけど。それから上田の人が、その人の後にまたやりました。その人が何回目かの画廊賞とったんですね。滝ノ入源という人です。
10年くらい前かな、後になって、私、無言館に行ったんですね。「ああ上田だ」って思って。「滝ノ入源さんはどうしているかしら」と思って、画材屋さんへ寄ったんですよ。で、聞いたんです。そしたら知っているのね、やっぱり。「ギャラリーやっていますよ」って。ゲン・アートって言うんです。それで訪ねて行ったの。友たちと二人で行ったんです。そしたら本人がいて。あの後パリに行って、工藤哲巳と友だちになって、というような話をして(笑)。それで瀧口さんにすごくかわいがってもらったという話をしていましたね。私は画廊をやめてから、美術関係とは没交渉になりましたので分からなかったんですが。今、農業やりながらギャラリーもやっているという話で。アメリカへ行ったって言ったのかな、ニューヨークにもいたような話で。その人が何となく印象深い人ですね。検索したら出てくると思います。
あとは、マツオ・キヨシって人がいたかな。この人も変わり者。これね、この傘の絵。これも中原さんが非常に推して。この人も賞を何回目かで取ったんですね。この人もすごいオーバーな人で(笑)。
福住:取材でお会いしたことがあります。
三浦:ありましたか(笑)。
福住:千葉の山奥に今。
三浦:いるんですか。今も何かやっているんですか。もうこの人が「ジャックの会」なんていうのを始めた。佐々木耕成さんなんかもそうでしょうけど。この人は唐津の人で、焼き物にすごく詳しかった記憶がある。鍋島藩の何か。絵描きさんって、みんな同じようにって言えば、同じように(変わった方が多かった)(笑)。やっぱり人の個性のほうが残りますね。
福住:青森から出られて、絵描きさんと出会って、それがすごく面白かったという話を先ほどされました。作品は作品であったんでしょうけど、それとは別に作家の人柄というか、そういうところが三浦さんの琴線に触れたから続けてこられたという感じでしょうか。
三浦:私、青森でね、うちに配達されるというか読む雑誌っていうと、『キング』と『家の光』の2つだったんです。母と父が読んでいたんです。『キング』はね、横溝正史の『女王蜂』が連載されていて、すっごい面白かったんですよ。まだ小学生かそこらだと思うんですけど(笑)。それとね、『家の光』で壺井栄が連載していた小説、名前は忘れましたけど、挿絵が三好悌吉さんという人でした。私が画材の仕事していたときに、その三好悌吉さんが見えたんです。それで感激しました、すごく。「えっ、『家の光』で見ていた人だ」と思って(笑)。すごく感激して、「私が配達に行きます」って、絵の具2、3本だったと思いますけど、配達に。その頃久我山に住んでいたんですね、三好さんは。お家まで行って、『家の光』の挿絵を、もちろん小説そのものも面白かったですけど、「青森でその絵をよく見てました」って言ったらすごく喜んでくださって、お茶とお菓子をご馳走してくれて。そんなことがあったりしたもんだから。やっぱり何か、何でしょうね、ありましたね。
加治屋:絵がやっぱり好きだった。
三浦:そうですね。(横溝正史の)『女王蜂』は岩田専太郎が挿絵を描いていました。岩田専太郎って美人画の人ね。だから自分でも、みんなそういう面白かったことに関しては記憶があるんですね。
私の怖いもの知らずというと、もう時効だからあれだけど(笑)。笠井一さんって、クロッキー研究所やっていた頃に毎日来てくれた先生が、モデルが来ないと、私に座れって言って。ある時、クロッキー研究所をやめて画廊にするという話になったときに、クロッキーをやらなくなると挿絵画家は非常に腕が落ちるから、やっぱりやりたいんだって話で。で、「三浦さん、うちへモデルに来てくれないか」って言われたんですね。それでね、「先生、着たままでいいんですよね」って言ったら、「いや、脱いでほしい」って言われてねえ(笑)。でも2回行ったんです、私。やったんです。描いてもらったの、もらって帰ったんだけど、ないのよね、残念ながら(笑)。すごい大枚をいただいた記憶がある。あの頃、2時間か3時間で1万円ぐらいもらった記憶がある。でもやめました。続ける気持ちはなかったです(笑)。写真で見れば分かるようなこんなデブちゃんだったにもかかわらず、なんか知らないけど「やってください」って言われて。全然ちゃんとした先生です。変なことは全然もちろんなかったですし。「ほんとは続けてくれるといいんだけどな」って言われましたけどね。だってお家の方もいらっしゃる、一軒家で、アトリエを別にやっているっていう家でした。怖いもの知らずだったからできたんでしょうね、こういうことが(笑)。
福住:闇鍋の話がありますよね。おぎくぼ画廊イコール三浦さんみたいなところがあって、そこにみんな惹きつけられてきたのかなという印象があります。
加治屋:闇鍋の話、僕にも聞かせていただいてよろしいですか。
三浦:あれはねえ、何の終わりだったんだろう。千円札事件の終わり、一応終結したというときだったのか、この映画会があまりにも盛り上がって、これの後、その余韻でやっちゃったのか、思い出せないんですよね。この時もほんとに人がいっぱい来て、まあとにかく立錐の余地もないって感じだったですね。
加治屋:それは画廊でやったんですか。
三浦:画廊でやったんです。それこそ火は使うし、とても人には言えたあれじゃない。今だったら消防法も大変(笑)。
福住:七輪?
三浦:七輪だったと思います。何か変なものを。靴ベラとか、金魚とか。食べるもの、さつま揚げみたいなのを入れたりね。みんな一生懸命見るんだけどね、何食べればいいか分からない(笑)。あれは何だったんだろう。
加治屋:それは何人ぐらい参加したんですか。10人とか?
三浦:もっともっといましたね、20人はいたと思いましたね。あれを知っている人は誰だろう。
加治屋:どういう人がいらっしゃいました?
三浦:川仁さんもいたと思いますし、中原さんもいたと思いますよ。石子さんもいたと思います。石子さんはそういうのは逃さない人でしたから(笑)。でもみなさんいなくなっちゃったからねえ。もちろん赤瀬川さんあたりに聞けば分かるかもしれない。聞いてみます。変なことをいっぱいしたんですね、ほんとに。闇鍋なんてことも知りませんでしたもんね、どんなものなのか(笑)。
加治屋:画廊に関係している批評家の方や作家の方が。
三浦:ええ、ほとんどそうです。でも、やっぱりそういうことに対して非常に白けた気持ちをもっていた人もいたと思いますね。それはいたように思います。必ずいるんですね、そういう人たちって。それはそれで来るんです。やっぱり来たいんですね、何か知らないけれど。批判はしたいけれど、やっぱり見ておかなくちゃ、というのはあるっていうかしらね。年配の人で、売れるような絵を描いているような人はもちろん来ませんけれど、若い人で、大津英敏さんのような方は、おぎくぼ画廊のやっているようなことにはあまり賛成できないけど、っていう気持ちはもってらしたと思う。でも展覧会はちゃんとやっているんですよね、あの方も。
福住:下が画材屋さんで、上が尖った画廊ってことは、客層は違うわけですよね。
三浦:違う。違ったです、ほんとに。
福住:逆に言うと、その両方を含み込めるようなキャパシティがあったということですね。
三浦:そうなんですよねえ。
福住:現代アートの人って画材屋さんで買わないんですよね?(笑)
三浦:そうそうそう。買わないですよね。でも下の画材屋さんに来ている人たちも私のことは知っていましたからね、「絵を譲ってください」とかいうふうに(話しかけていたので)。さっき言った大歳克衛さんも非常にアカデミックな絵を描く人で、その人の絵も、拓殖銀行でやった展覧会のときに出してもらったりしましたね。団体展の大御所になっているような人たちの小さいものを飾りましてね、そこへ中原さんが来てしゃべってくれたわけだから、なんか不思議な感じはしますよね。
福住:おぎくぼ画材とおぎくぼ画廊は、有限会社と書いていますけれども、形式的には全く独立した……。
三浦:そうですね。
福住:三浦さんのお給料も自分で、画廊として稼ぐという。
三浦:そうですね。だからほんとにかつかつでしたね。
福住:それで広告やったり営業やったり。
三浦:もう着ている物を見れば分かりますよ(笑)。座談会なんかやろうとすると、ほとんど原稿料はないっていうか、ほんの(雀の)涙のものしか払えないし。だからこの時ぐらいは少しお酒でも飲んでもらわなきゃと思うと、すごい出費が(笑)。東京画廊の山本さんとか高松(次郎)さんとかに来てもらった時は、どこか、料亭でもないけど、そんなあれでもないですけど、そういうお座敷で。あんなことは私にとってはほんとに初めてというか。それは飛び降りる思いで、頼んでやってもらった記憶がありますね。その意味では石子さんあたりにお願いすると、あの方は「新宿のINOYAMAでいい」とか言ってくださったんだけど(笑)。やっぱり何となくお金かかることは大変でした。
加治屋:新宿のINOYAMAというのは何ですか。
三浦:INOYAMAっていうレストランあったんですよ。今のどこになるんだろう、歌舞伎町にツーッと、一つ伊勢丹寄りの通りですねえ。
加治屋:ひらがなで「いのやま」ですか。
三浦:なんかローマ字で書いてあったような気がします、INOYAMA。石子さんは、十二社(註:現在の東京・西新宿)の、六畳あったかないかぐらいの部屋に1人住まいしていて、ベッドが1つボンと置いてあって。静岡の方たちが、鮎釣りがすごく好きだって言って、鮎が解禁されると、釣ったのを石子さんのところにたくさん持って来てくれるらしいんですよ。「みなさん、鮎が来たから取りに来て」とか言われて。十二社までもらいに行った記憶が。そしたら開けてびっくり、「えっ、こんな? 私と似たようなもんじゃない」って(笑)。六畳一間でね、ほんとに思いました。だからあの方、非常に大変な生活してらしたんだなあって思いますね。それなのにお金を払わない『眼』なんかに書きたいって(笑)。もうほんとにありがたく思わなきゃいけなかったのよね、今思うとほんとに。
福住:当時、『美術手帖』とか『美術ジャーナル』とか、『芸術新潮』もありましたし、『現代美術』という雑誌もありましたよね。メディアというか商業誌の人たちからは、『眼』というのはどういうふうに見られていたんですか。
三浦:どういうふうに見られていたんでしょうねえ。
福住:石子さんがそれだけ熱心に書きたいっていうことは、やっぱりそれだけ魅力のあるメディアだった、書き手にとって。
三浦:『美術手帖』あたりには石子さんの文章はだめだったんでしょうね、きっと。だめだったというのは、考え方がどうこうじゃなくて、難しかったですよね、文章そのものが。だからなかなか大変だったんだろうなと思いますね。『現代美術』というのは、『三彩』という日本画の雑誌をやっていた太田三吉さんが始めたんですよね。あれはたぶんに『眼』に触発されたかなって、ちらっとは思います。これは私の主観なんでなんとも言えないんですけど(笑)。太田さんもね、日本画のあれだけじゃちょっとつまらなかったんじゃないですかね。あの方も亡くなったからね。あの人もしょっちゅう見えてました、酔っぱらってね。ほんとによく酔っぱらう人で。
福住:『現代美術』に鶴岡政男とか中村宏とか作家が書いていましたけど、難しいですよね。
三浦:難しいでしょ。ほんとになんでそんな(笑)。だから中原さんによく言われていましたよ。中原さんも冗談っぽく言うんです、「こんなの読めるか」って。「なんでだ」って(笑)。
福住:たしかに論理的な言説はあまり……(笑)。
三浦:難しい。なにしろ読ませてくれないと困るのに。でもあんなに情熱的な人も(なかなかいなかった)。みなさん集まると、石子さんのことを「お祭り順造」って。楽しいんです、来るととにかく。何にでも口を挟むというか、言い得て妙でした。やっぱりあの人がいなくなって寂しいですよね。そういう人でした。
加治屋:話を戻してしまうんですが、画廊の写真にあった、壁に穴が空いたものは、何て言うんでしたか。
三浦:何とかボードって言うんですよね。
加治屋:それは当時一般的だったんですか。
三浦:いえいえ。画廊の壁はみなさんどこでもそうだったけど、ここはできたまま放ってあったのをそのまま使っていたの。画廊に直したものは何もないんです。画廊にするからって何かしたとかいうのは全然ないの。クロッキーをやっていた頃からそのまんまなの。
加治屋:でも普通の家でそういう壁ってないですよね?
三浦:ないです。たぶんこの画材店を作ったときに、物置か何かのために作ったんじゃないですかね。
加治屋:(写真を見ながら)東京都美術館はこういう壁ですよね。公募展のスペースは、作品を掛けられるように、穴はもうちょっと小さいかもしれませんけど、こういう感じだと思います。
三浦:これ、滝ノ入源さんです。
福住:絵を掛ける時はこの穴に何かを打ち込んでいたんですか。
三浦:だいたい枠になっているじゃないですか、絵の後ろは。こういう大きい絵のキャンヴァスには木枠があって。そうすると、S字型か何かの引っ掛けるものがあるんですよ。これを適当な幅にやってただ掛ければいいだけっていう、そんな感じで簡単に掛けられるんですね。もちろんちょっと揺れたりしたら落っこちたりするんですけど。(画廊の写真を見ながら)これはベニヤ板ですよね。
加治屋:床ですか?
福住:段差があるんですね。
三浦:ええ。ちょっと厚めのベニヤ板でした。だからほんとに人がたくさん乗っかると落っこちるかと思いました。
福住:柱がないわけですね。壁で全部支えている。
三浦:そうです、そうです。
加治屋:一回建て替えるんですよね。
三浦:そうですね、終わりのほうに。
加治屋:同じ場所に?
三浦:ええ、同じ場所に。だけれどやっぱり新しくなったらつまらないんですね。つまらなくなったんですね。たぶんそういう感じはありましたね。
加治屋:新しいところも下が画材屋で、上が画廊ですか。
三浦:そうなんです。画廊の事務所のスペースなんか結構立派になって、広くなったんです。でも昔の狭いほうが、みんなが椅子もなくて立ってしゃべっているような、そういう状態のほうがやっぱり楽しかったんですよね(笑)。
加治屋:新築は木造?
三浦:いえ、鉄筋コンクリート。
加治屋:じゃあもうほんとにずいぶん変わったんですね。
三浦:もうなくなってしまいましたね、今。
加治屋:『眼』のことで少しお聞きしたいのは、1号に今亜樹さんという方がいらっしゃるんですが、この方はどういう方ですか。
三浦:この人ね、毎週来ていました。博報堂に勤めているって言っていました。
加治屋:そう書いてありますね。
三浦:絵は描いてないんです。だけどとにかく毎週のごとく来て、作家さんとしゃべるんですね。なんか半分うるさがられたりするぐらいによく来て(笑)。
加治屋:もちろんペンネームですよね、「今亜樹」っていうのは。
三浦:そうですね。
加治屋:ご本名は?
三浦:はあ……。あの頃のサイン帳があればすぐ分かるんですけど。おぎくぼ画廊でやった(展覧会の)サイン帳を誰かに見せてもらえば必ず載っていると思います、ってくらいよく来てましたね。
福住:アートファンみたいな感じで毎週来て、そのうち自分でも書くようになった。
加治屋:自分でも?
三浦:いやいや、絵は描かないんですよ。文章を書きたいんですね。その人ともう一人、よく来てね、絵を描く人じゃなくて。私、その人がどういう人だか全然知らなかったんですけど、よく見に来てて。裏に琲珈里(ひかり)という珈琲屋さんがあったんですね、今はもうないけど。その琲珈里に来ると必ずおぎくぼ画廊は寄るという人で。まだ若い人でしたけど、その人もよく作家さんとしゃべって行って。それで私、話を聞いていて、「一回書いてほしい」「何か文章書きませんか」って言ったことあるんですよ。「そのうちに」って言って書くことはなかったんです。
そしたらそれこそ何十年も経ってから、千円札事件の時に弁護してくださった杉本昌純って弁護士さんがいるんですけど——その方とはそれ以来ずーっと長いお付き合いなんですね、今も——、その方に誘われて銀座の何とかというバーに行ったんですね。そしたら、「なんか顔見たことある人いる」って思ってね(笑)。山中さんっていうんですが、「山中さんじゃないですか、もしかして」って。「おぎくぼ画廊へ来ていたでしょ」って言ったら、「ああ、そうです」って言うんですよ。そうしたら杉本昌純さんが、「えっ、三浦さん、山中(裕)君知っているの?」って言うから、「知っているって、おぎくぼ画廊へしょっちゅう見えていたんですもん」「そうなんだ」とか言って(笑)。その人は早稲田で。杉本さんって学生運動の支援をいっぱいした人で。東大闘争なんかの時の。そのあれで早稲田の方たちもよく知っていて、面倒を見ていらした。(山中さんも)やっぱり長いお付き合いがあったんですって、杉本先生と。「これも不思議な縁だね」って言って、そのとき初めて、「いやあ、三浦さんと山中くんが知り合いだなんて思わなかった」って言われて(笑)。はあーと思って私もびっくりした。
その方は新宿で「鼎(かなえ)」という、バーというか飲み屋さんを、三丁目かな、末広亭のそばですけど、やっていたんですね。そこへも先生と一緒に行ったりしたことあります。もう亡くなったんです。その人もほんとに画廊によく通ってきて、見るのが好きだった人なんですね。何も接点らしきものはないんだけど、とにかくよく見えていたんで顔もよく知っていましたし、名前も、サインをしてくださったので知っていました。書いてもらえばよかったなあって、つくづく思うね、今になってみると。
加治屋:21号にこういうもの(5ページ左下の、文字が入ったマス目)が載っているんですが、これは何ですか。
三浦:何でしょうか(笑)。なぞなぞだ、これ。何だろう。
加治屋:広告ですかね。
三浦:この人のだと思います、これ。
加治屋:ああ、そうですか、プリンティング・アート。
福住:ジャックの会にいましたね。
三浦:そうそう、この人です。
加治屋:辛島(宜夫)さんの作品ということですね。
三浦:そうです。作品だと思います。この人もよくしゃべる人だった。「話は面白いけど絵は面白くない」とか言われていた(笑)。そんなこともついつい思い出して言っちゃいますけど。ほんとよくしゃべる人でしたねえ。
福住:コンクリート・ポエトリーというか、具体詩みたいな。
加治屋:そうですね、具体詩みたいですね。21号の表紙が白いのはどうしてなんですか。
三浦:それは中原さんなんで。私が悩んでいたら「三浦さん、やらなくていいんじゃないか」と言われて(笑)。これは中原さんの案です。
加治屋:表紙を白くしようと。
三浦:白くしよう、もうこれだけでいいって。
加治屋:この号はこういう。
三浦:これは、こういうものにしようって。表紙を誰にしようか、誰かに頼みたいっていう話になったときに、「表紙はいらない」って言われたんですよ。ああそうだなと思って、そうしましょうっていうことになったんですね。
福住:この号じゃなかったかな、色付きの紙を使っているときがありましたよね。
三浦:はい。
福住:それは色をあえて変えたんですか。
三浦:何でしょう。広告がいっぱいですよね、あの色紙は。少し上品にしなくちゃいけない、お金ももらっているし、と思ったかもしれない(笑)。茶色っぽいね。サントリー美術館とか、ちょっと高級なところからもらいましたから、少しなんとかしなきゃいけないって思ったと思います(笑)。
加治屋:全部コピーでしか見てなかったので知らなかったんですが、ある号だけ紙が色付きなんですね。
三浦:そうなんですよ。ここに1つあります。
加治屋:おおー。32号。
三浦:何かもっとあったような気もしますね。
加治屋:このページだけ、表裏1枚だけ?(註:32号、5〜6ページが茶色の紙)
三浦:たぶん1枚になっている、これね。(6ページにある現代思潮社の広告を指して)『腰巻お仙』の初版の表紙のイラストは、第1回目のおぎくぼ画廊賞の人が描いたんですよ、鷲見哲彦さんという人。私も初版本をもらったの。でも、よくサントリー美術館なんかに行って(広告を)もらってきたと思います(笑)。我ながらほんとによく行ったと思います。
福住:三浦さんが行ったんですか。
三浦:ええ。行ったと思います。
福住:できて間もない頃ですか。
三浦:32号ですから、そうでもないですよね、だいぶ経って。やっぱりこの『眼』が結構な宣伝になっていたから、何も知らないってわけではなく、お付き合いがあったわけじゃないですけど、これのおかげで取れているんですよね、やっぱり、こういうところから取れたというのは。
加治屋:最終号に画集刊行のお知らせというのが載っているんですが、それは実際に。
三浦:ええ、出たんですけど、全部網羅しているわけじゃないんですよね(註:おぎくぼ画廊編『おぎくぼ画廊1967』おぎくぼ画廊、1968年)。だから中途になっちゃって、ほんとに申し訳なかったなって(笑)。
福住:黄色いやつ?
三浦:そうです。
福住:このあいだコピーさせてもらいました。
加治屋:図書館で見つけられませんでした(註:東京文化財研究所資料閲覧室が所蔵している)。
三浦:こんなの図書館にあるんですか(笑)。
加治屋:『眼』はありますよ、図書館に。
三浦:ああ、そうなんですか。
加治屋:では、68年の11月号で終わりとなって。それは画廊が閉廊するので終刊したということですね。
三浦:そうですね。
加治屋:画廊が閉廊するのはどういう経緯だったのか、教えていただけますか。
三浦:結婚しようと思ったんです(笑)。なんかこのままいくと泥沼になりそうなんで(笑)。
加治屋:そうですか。では三浦さんが結婚されるということで、もう画廊もやめようと。
三浦:はい。
加治屋:でも画材屋は続いているわけですね。
三浦:ええ、続いていました。
加治屋:この後画廊をやっていこうという人は現れなかった。
三浦:そうですねえ、探せばいたのかもしれませんけどね。でも私も全部おしまいにしたかったですよね。なんとかして誰かにやってもらう、続けるということは全然考えませんでしたね。誰かにそういうことを言われたような気もしますね。こういうものってそんな長く続けるもんじゃないというか。なんかそんなような気がしますね。
福住:先ほどおっしゃられた、新築にしたらつまんなくなってしまったというのもちょっと関係している?
三浦:ありましたね。何が変わったわけでもないんですよね。容れ物が変わっただけなんですけれども。なんだろう、そういうことってほんとに私、説明できないんです。自分が、面白くなくなったということはたしかにありましたね。
福住:当時の美術の動きとか流行りとかというのは関係ないですか。
三浦:関係ないですね、たぶん。何でしょう、何か違ったことをやってみたかったんでしょうね。結婚生活も13年ぐらいしか続きませんでしたから(笑)。それは、私としては私の人生の中では結構がんばったほうなんですけどね。(笑)
福住:画廊より?
三浦:画廊より長かった(笑)。お客さんというか、来る人たちもなんとなくそういう雰囲気がありましたよね。「昔のほうがよかった~」っていうね。「すごく新しくなって、広くなったし、いい画廊になったからすごくよかったね」っていう感じはなかったですね。
加治屋:建て替えて画廊として使ったのはほんとに短い間だったんですね。
三浦:短い間ですね。
加治屋:2年とかですね。
三浦:そうですね。
福住:その後はどういうふう使われたんですか、二階は。
三浦:もう画材屋さんでいろいろ。結局は荷物置き場に。いつ頃だろう、行ったら、商品置き場になってしまっていましたね。
ただ、あそこの画材の義理の兄も面白い人で、一時、要するに複製画、キャンヴァスに複製する仕方というのを初めてやった人なんですね、たしか。それで読売新聞社の人と提携して、ルーヴルの作品をキャンヴァスに複製化する許可を取ったとかで、名画を小学校に寄贈する運動を始めたんですね。それは私なんかがいなくなってからの話です。それは、要するにお金を出す人がいて、自分の母校にこれだけお金を出すから複製画を贈るという、そういう運動。そういう人を見つけるために、いっときけっこう宣伝したみたいです。杉並の小学校にもあったね。うちの子どもが行ったときに、「ああ、これそうだ」と。社長が、(おぎくぼ)画材がやったんだと思って見ました。「モナリザ」が掛けてあるわけです。それはキャンヴァスに。紙じゃなくて。今はどこでもやっていることらしいんですけど、それを初めてやった。読売新聞社と話をして。それで、アンドレ・マルローに会ったという話を聞きました。
加治屋:義理のお兄さんが?
三浦:そうです。それは画廊とは関係ないんですけど、そういう面白いことを考える人ではあったですね。画材屋さんであの頃コンピューターを入れたのも初めてという。売上げの管理を。私は全然関係なかったですけど。テレビに一回出たことがありますよ、富士通かなんかのコンピューターを入れた、いわゆる零細企業がそういうシステムを取り入れたという話で。でももうみんな亡くなってしまいましたから、誰に確かめるわけにもいかない(笑)。
福住:画廊をやめられるという話をしたとき、残念がる人とかはいっぱいいらっしゃったみたいですね。
三浦:いました、いました。それはほんといましたね。だけど石子さんとか中原さんたちは、「やっぱりそうか」っていう感じでしたね。やっぱりその辺が潮時だったと思います、あの人たちにとっても。なんでしょうね、ああいうものってそんな長く続くもんじゃないですね。熱気があってワーワーというようなことはね、たぶん。自分じゃ全然その頃は分かんない。ただ面白くなくなってきたというだけで。
加治屋:画廊でハプニングというか、イベントというか、パフォーマンスをする人というのはいました?
三浦:それはいなかったと思いますね。
加治屋:やっぱり絵を掛ける。
三浦:ええ。
加治屋:彫刻はいました?
三浦:彫刻はありました。木で赤ちゃんの形をいっぱい作って展示した人がいましたね。何と言ったっけ。
福住:1つじゃなくていっぱい?
三浦:いっぱい。
福住:インスタレーションみたいな?
三浦:ええ。木を削って、胎児の形を作った人(註:福島忠)がいました。どこか地方の人でしたね。
加治屋:画材屋さんは基本的に絵描きのための画廊ですから、やっぱり絵が中心ということで?
三浦:そういうわけではないですけどね。たぶん会場がどうしてもそういうものには向かなかったんだと思いますよね。重たいものもだめだし、走り回ってもだめだし。そういうことだったと思います。そうですね、そう言われてみると彫刻はあまりなかったですものね。制限していたわけではないんですけどね。
福住:千円札裁判の事務局が、最初はヨシダ・ヨシエさんのMAC(・J)でしたね、モダン・アート・センター・ジャパン。
三浦:目白にあった。
福住:ええ。そこからおぎくぼ画廊に移ったという話をどこかから聞いたんですけども。
三浦:それは違うんじゃないでしょうか。
福住:最初からおぎくぼ画廊?
三浦:ええ。そう思います。赤瀬川さんはちょこちょこその前にも見えていたような気がしますね。やっぱり川仁さんが訪ねて来て、お願いしたいという話をされた気がします。それまでどこかにあったというのは聞いていないですね、私は。ヨシダ・ヨシエさんもたしかによく見えてはいた人ですけどね。
福住:写真でおでこを見てすぐ分かりました(笑)。
三浦:そうそうそう。よく来ていました、ほんとに。ヨシダさんも亡くなられたんですか。
福住:いえ(註:このインタビューの3年後の2016年1月4日に亡くなった)。
三浦:ごめんなさい。
加治屋:千円札裁判の事務局になって、具体的にいろんな連絡が来て対応したのも、三浦さん?
三浦:そうですね、私が連絡を受けて。川仁さんもよく見えていましたけど、連絡を差しあげるとかしていましたね。もちろん川仁さんに直接行っているもののほうが多いとは思いますけど。
加治屋:先ほど、千円札裁判が始まってずいぶん交友関係というか、来る人が変わったというお話をされていましたけれど、具体的にはどういう。
三浦:千円札事件で、川仁さん周辺の人といったら、高松(次郎)さんとかハイレッド・センターの方たちも、そんなしょっちゅうではないですけど、見えるようになりましたよね。中西(夏之)さんはほんとに数えるぐらいしかお会いした記憶がないですけど、高松さんは吉祥寺でいらしたから、近いせいもありましたけど、見えてましたよね。
加治屋:作家の方は変わらずいらっしゃるけど、作家のタイプが変わってきたというか。
三浦:そうですね、その辺も少し変わってきたことはありますね。そういうことで言えば、今までは佐々木さんとかマツオ・キヨシさんとか、ジャックの会の人がいて、一種の対抗意識みたいなものも働いたかなというのはありますよね。千円札事件の人たちが来て、そういう話をしてというふうに、結構そういう場面にも出くわしますのでね。
加治屋:佐々木さんたちのほうが、ってこと?
三浦:うん。私の感じはちょっとそういう。べつになにも、画廊としてはどうこうしているわけじゃないんだけども、なんかやっぱりそういうあれが。いま思えばいいことだったとは思いますけどね。
福住:佐々木さんたちが荻窪駅の北口で岩島画廊というのをやりましたよね。
三浦:はい。
福住:あれはじゃあ千円札裁判の頃からですか。
三浦:そうだと思います。
福住:なるほど。もともとジャックの会でしたもんね、赤瀬川さんとかも。
三浦:そうなんです。
福住:名前だけだったという話もあるけど(笑)。
三浦:それまでおぎくぼ画廊にたむろしていたんだけども、なんとなく話が合わなくなってきてるというのはあったかもしれません(笑)。かもしれません、ですけどね。そういうふうに思っているのは自分だけかもしれないんですけど。
福住:当時、ハイレッド・センターの人たちはスターだったわけですよね、メディアにも登場して。それの拠点になったということで。
三浦:拠点(笑)。こっちには全然、そこからはお金は全然生まれませんので、なんのあれもなかったんですけど(笑)。
福住:佐々木さんたちからしたらそう見えたかもしれないということで。
三浦:そうですね。やっぱり、「ハイレッド・センターの人たちのやっていることは!」という話はよく出てましたからね、たしかに。今思うとほんとおかしい世界ですね。でもほんとあの頃はいろんな、何でしたっけ、加藤好弘さんたちがやっていた何とかというのとか。
加治屋:ゼロ次元ですね。
三浦:ゼロ次元だ。そうそう。あの人たちもよく言っていたわ。
加治屋:加藤さんあたりは?
三浦:私は全然知らないんです。加藤さん自身も知りませんしね。だけど、パフォーマンスをするグループがいくつか出てきて。ジャックの会の中にもそういうことをやる人がいましたもんね。
加治屋:おぎくぼ画廊の閉廊は、何年の何月?
三浦:挨拶状を出したからあるんですよね。挨拶状に出てるの。
福住:(資料を見ながら)68年11月10日です。
三浦:なんか大パーティをした覚えがあります。
福住:ああ、そうですか。
加治屋:その頃、三浦さんのお住まいはどちらだったんですか。
三浦:えっとね、井草かどっかあの辺だったと思います。それこそ六畳一間借りて。
加治屋:それじゃあ結婚されて引っ越された。
三浦:そのときはまだ一人でした。やめてから(笑)。
加治屋:やめてから結婚されて。
三浦:荻窪に天浜(てんはま)という天ぷら屋さんがあるんですよ。閉廊のことをしゃべったら、(鶴岡政男に)そこへ連れて行かれて、ほんと2時間ぐらい(話しました)。新宿あたりに飲みに連れて行かれたりしたことはあるんですよ。ただ面白い人だなあって。
福住:68年の鶴岡政男さんということは、当時、面白いことやっていたときですよね、ヌードペインティングとか。
三浦:石子さんが作家論書いたぐらいですから、あの頃がんばっていた時期ですよね。石子さんとアトリエへ行ったことがあるんですよ、鶴岡さんの。何だっけ、新宿の「ギターラ」という、フラメンコを歌ったり踊ったりできる店があったんで、そこへ何回か連れて行ってもらったことがあるんですね。カウンターの上で踊るんですよね。鶴岡さん、ギターもできたと思いました。ギターを鳴らしたりして、自分も、とても楽しかった思い出があるんです。突拍子もないことで。「やっぱり画廊をやめる」って言い出していたんですよね。パーティの時ではないんです。
福住:それまでも鶴岡さんは画廊に来られていたんですか。
三浦:何回か見えていましたね。石子さんに連れられてアトリエへ行ったりして、多少なりとも話も聞いていましたしね。石子さんには、鶴岡さんのアトリエにも、水木しげるの——調布にいる頃ですけど——アトリエにも連れて行ってもらいました。だからやっぱりあの頃大活躍の人たちに話が聞けたということは——どんな話をしたか覚えてないんですけど——よかったですね。青林堂の長井(勝一)さんですか、あの方なんかにもお会いできたし。石子さん、つげ義春とか白戸三平を一生懸命書いていらしたかなんかで。そういう意味ではほんとに石子さんに世話になっていますね、いろんな意味でね。
福住:かなり前に、美術出版社の上甲(ミドリ)さんにお話を聞いたんです。そのときも中原さんとの思い出話を聞きに行ったんですけど、写真家の石元泰博とか、全然中原さんの話じゃないんですよ(笑)。今日もなんか石子さんの話のほうが面白くて(笑)。
三浦:たしかに石子さんのほうが面白いしね。
福住:記憶に残っていますよね。
三浦:記憶に残るんですよね。ほんとによく呼び出されました、石子さんには。日向さんもなかなか思い出深い人で。日向あき子さん。あの方一人で永福町に住んでらしてね。ときどき画廊に見えてくださって、書いてもくださるんですけど。呼び出しがかかるんですよ、「新宿で会いましょう」って。何と言うディスコか忘れましたね、地下へもぐっていくディスコで、いわゆるディスコダンスをするところなんです。私、最初に行ったときびっくりしちゃって、「何これ」と思ったけど、あの人はそういうとこへ行きたいらしいんですね。あの頃新宿でも黒人兵が結構いたんですね。すごく怖い思いをしました。だからそれ以来、「日向さん、あそこは行かない」って私言いましたけど(笑)。「こりゃ怖いわ」と思って。でも2、3回行きましたね。あとは日向さんのお家へ行ってお茶飲みながらだべったりというか、いろんな見た絵の話とかをしてくださったんで、よく遊びに行きましたけどね。
加治屋:日向さんとは、年はどれくらい離れていました?
三浦:どれくらい離れているのかしら。上ではあるけど、あの頃、私が26、7なわけですから、35、6ぐらいだったんじゃないですかね。もうお一人でいらしたから。瀬木(慎一)さんと結婚されていたんですよね、あの方。
福住:瀬木さんと日向さんは同じぐらいですか。
三浦:瀬木さんのほうが上じゃないかしら。瀬木さんという方は、お会いしたことはあるけど、お話ししたことはないです。あの頃、女性の方で文章を書いているったらあの人(日向あき子)くらいしかいませんでしたものね。
加治屋:画廊に集まってくる人もやはり男性のほうが圧倒的に多かったですか。
三浦:そうですね、やっぱり男性のほうが多かったです。展覧会をやる人は結構女性の方もいましたけどね。
加治屋:女性は何人ぐらい?
三浦:宇治美枝さんなんかお元気でいらしたら、あの人はほんとにいろんなことをご存知だったろうなと思いますね、女性の目から見てね。宇治美枝さんも中野坂上かなんかあの辺の小さいアパートにいましたよね。あの人も苦労して『美術ジャーナル』出していたんだな、ってつくづく思いましたもんね、行ったときに。
福住:宇治さんという方もずっと『美術ジャーナル』を?
三浦:だと思います。針生さんがよく書いていましたよね。
加治屋:今回させていただいているのはオーラル・ヒストリーと言いまして、三浦さんの生い立ちから現在のご活動までをお聞きできればと思っています。差し支えない範囲でかまいませんので、おぎくぼ画廊以降、どういうことをなさっていらしたかも話していただけると大変助かります。
三浦:私、画廊をやめてほどなく結婚しました——ちゃんと結婚式をしたわけでもないんだけど——その頃絵を描いていた人と。その後ほとんど描かなくなったんですけど、肉体労働者で絵を描いていたんですね。おぎくぼでも1回やっているんです。年下でしたけど、その人と結婚しました。
肉体労働といっても、建設機械のクレーンの運転手をしていて、稼ぎは良かったですね。だけども自分のクレーンを持ちたいという夢があって、二人で現場で働きましたね、私が賄いなんかをして。子どもが2人できて。そこまでがんばって、ある時期独立したんです。
独立して、その人もまたちょっと変わった人で、建設機械の特許を取ったんですよ。杭打ち機というのがあるでしょ、ドンドンって。音がしないで油圧で打っていくという方法を、今は当たり前なんですけど、それをその頃発明して、特許を取ったんです。それを、自分のところで作らせてくれというところが2社ばかりあったんです。一つはメーカーさんで、一つは商社だったんですね。その商社のほうと組んじゃったんですね。そうしたらやっぱりやられてしまって。スムーズにいかなかった面もあったんですけど、結局資金に詰まって倒産したんです。それが、私が42の時。それと同時に離婚しました(笑)。
その無振動の杭打ち機というのも、作ったとき、面白いんです。その人は車の運転やクレーンの運転の指導のエキスパートなもので。状況劇場が新宿中央公園でテント張って芝居をやったときに、私はお腹大きかったんですけど、状況劇場を知っていたもんですから、川仁さんもよく知っていて、川仁さんが言ったんだと思うんです。結局、機動隊に囲まれた中でやんなくちゃいけないから、いざとなったら逃げ出さなきゃいけないし、いろんなことがあるんで、大道具というかそういうものを運んで、機転きかしてやってくれる人が必要だということで、主人にお名指しがあって、それで大きなトラックで中央公園までものを運んだりしたんですね。そんな縁があって、その無振動の杭打ち機のパンフレットを作ったときに、川仁さんが、あの人はデザインもできるし、そういうなかでずっとやってきたもんですから、作ってくれたんですよ。結構なデザイン料を払ったみたいなんです(笑)。そのパンフレットをパッと開くと、左側に(ヒエロニムス・)ボッシュの、何ですかね、すごいらせん形みたいな絵があるじゃないですか、お城みたいな。たしかボッシュだと思うんだけど。(ピーテル・)ブリューゲル?
加治屋:《バベルの塔》ですか?
三浦:そうそうそう。あれがそのパンフレットに載っているの(笑)。とても普通じゃ考えらませんよね。
加治屋:非常識ですね(笑)。
福住:バベルの塔って建てられるのかって。
加治屋:土木的な絵ではありますね。
三浦:川仁さんらしいなと思ってね、私。でもそれも川仁さんの一つの作品になるだろうからって、今でも取ってあります。そんなことがあって状況劇場との付き合いは、結局、結婚後もあって。それで川仁さんからお手紙をいただいたりしたんです。手紙をもう一回きちんと読み直さなきゃいけないです。
三浦:離婚してからの話ですけど、パラグライダー、ジェット付きのがあるじゃないですか。オリンピックで、ほらアメリカでやったときに。
福住:ロスの?
三浦:うん、ロスのときの。あれをやっているんですよ。今もやっているかどうか分かりませんけど。皇居の中に降りてなんか事件になったことあるの。
加治屋:すごい。
三浦:「はずかしいね」って娘たちと言ったの(笑)。ちょっとそういう変わった人なんですよ。いまだに解けない数学の問題を解くとかね、そういう人なの。で、私ももう付き合いきれなくて。もういい年になったんで。
福住:今も開発や発明みたいなお仕事をされているんですか。
三浦:いやあ、どうかな。していないでしょ。数学の問題については、こんな印刷物を送りつけてきて。読んでも分からない(笑)。弁護士の杉本先生いらっしゃるでしょ? その先生は知っているわけです。私、彼と離婚するときも話しましたしね。そしたら、「このあいだ何か送ってきたけども、読んでも分からないんだよ」とか。そういう変な人なんですよ。ずいぶん前ですけど、洋服を輸入して売る仕事とか、なんと言うんですかね、背負って飛ぶやつをフランスから輸入して、どこかで教室を開いて教えて売るんだよっていう話をしていました。この頃は、5~6年に1回ぐらい電話が来たりするんですけど、会ってもいないんです。そういう変な人と結婚しました(笑)。画廊時代を知っている人は、「なんで?」とみんな思ったと思うんです、「変な人」って。絵がどうこうというわけでもないしね。ただやっぱりその変なところが好きだったんですね、きっと私としては。そのクレーンの運転の話をすると、よく言うんですよ。「50トン吊りのクレーンで、自分は60トン吊れるよ」という話をするんですよ。そういうのが結構魅力だったんです(笑)。絶対事故を起こしそうなのに(クレーンを)止められるとか、変な自慢をする人でした。絵は全然だめだけど(笑)。
福住:クレーンって、ビルの上のではなくて、車輪が付いている地上のやつですね?
三浦:そうです。あれはちょっと間違うとほんとに(危ない)。バランスが大事で、そのバランスを取るのが、腕がいいと50トン吊りで60トンできる。だから頼む人は運転手を指定してくることがあるらしく。
福住:職人技なんですね。
三浦:だから給料は良かったですよ。でもだまされて倒産に追い込まれて。だまされたわけでもないと思いますけどね。でも別れてから、杉本先生から電話があって、「三浦さん、慰謝料も何ももらわなかったでしょ?」って言うから。私、子どもだけいればいいと思ったから、子どもは手放したくないから、「なにもいらない」って。もちろん何もないですからね、倒産した後ですから何もないし、いらないって言っていたんですよ。そしたら1年半ぐらい経ってからかな、杉本先生から電話があって、「近藤君にお金が入ったんだよ」って。「今だったら取ってあげられるから」って言うんですよ。なんでそんなお金が入ったかといったら、その基本特許が売れたそうなんです。2000万くらい入ったんですって。そしたらまたすぐ起業して、またすぐだめにしていましたけど(笑)。波瀾万丈ですよね、私。今この年になってほんと変な人生。というか飽きずに来たんだなと(笑)。
福住:元ご主人もたぶんビジネスとしてやるんじゃなくて、自分の表現とか作品としてやっている面もあるんじゃないですかね。
三浦:そうかもしれない。芸術家のつもりなんだ(笑)。おっかしい。変な人でした。変わった変人でした、ほんとに。
42で離婚して。倒産したのは10月で、翌年の1月に、働かなきゃいけないですからね、新聞の広告を見て。住友生命が募集していたんですよ。それで私、叔母が日本生命で結構がんばってやっていて、いいお金取っていたのを知ってましたので、細かいことは何も知らないんですけど、保険会社なら稼げるんだと思って。ほんとはどういうものは全然分からなかったのに。面接に行ったら、すぐ「いいですよ」っていうことになって。こんな簡単でいいのかしらって。その頃金町に住んでいましたけど、四谷の研修所まで通って、3ヶ月。御茶ノ水あたりで、千代田線でまっすぐのところで働きたいなと思ったんですけど、新宿で面接を受けたからって、新宿に勤めてくださいって。「えっ、金町から新宿、大変だな」と思って。だけどしょうがないと思って始めて、31年目です。
福住:ずっと新宿ですか。へえー。
三浦:31年も。それが一番長いですね。(笑)まあね、でもおかげで子どもも育てられましたしね、よかったですけど。
福住:お仕事が合っていたんですね、じゃあ。
三浦:どうでしょうねえ。
福住:前ちらっとお聞きしたときは、新宿のヤクザの人たちが保険会社に入らないようにするのが仕事だと。
三浦:それはもう新宿は、歌舞伎町界隈は近づきませんけどね。私は、最初1丁目、2丁目を担当しなさいと言われたんです。指導者もほとんどいなくて、最初から飛び込み営業。保険会社ってみなさんご存知ないんですけど、すごく変なやり方をしてて。人を新規に採用するというのは、働いている営業員が連れてくるんですね。それがメインだったんです。新聞広告を出したというのはたまたまなんですね。私は運良くそれを見て入ったわけですよ。営業している人が「この人いいですよ」と連れてきて、会社が判断して入れるというのが普通のやり方だったんです。今はまたちょっと違ってきていますけど、私らの頃はそうだったんですね。だから新聞広告で入ると、誰も指導してくれる人がいないの。連れてきてもらえば、その人がだいたいやり方を教えてくれたりするんです。研修は受けますけれど、後々まで面倒を見てくれる人がいなくて。「あなた、ここ担当ですよ」と言われて、1軒1軒しらみつぶしに営業する、そういうかたちで私は始めましたね。それが良かったと言えば良かったのかもしれない。1丁目、2丁目というと何もないとこで、その頃。今は新しいビルがいっぱい建って、企業もいっぱい入っていますけど、あの頃はバーだとか。
福住:ゲイバー。
三浦:そうそう、そういうものが多かったんですよ。花屋さんに入って、花屋さんの奥さんと普通の話をしていたら、ステキな若い男の人が入ってきてバラの花を買って行くから、「あれどうするんですか、彼女にあげるんですか?」って言ったら、「そうじゃないわよ。あれはお店に飾るのよ」って。あんな男の人が来てバラをあんなに買って行くんだって。面白い人は面白かったですけどね、そんな経験をいろいろしました。31年目で、もう来年ぐらいは辞めようと思っていますけど。75ですよ、来年。
福住:すごい!
三浦:ひどいですよね(笑)。だから忘れていてもしょうがない(笑)。昨日のことも忘れちゃうんですから。
福住:保険会社時代というのは美術とはもうまったく。
三浦:まったくないです。たまに見たい展覧会とか。さっきの拓殖銀行で展覧会をやったときに高校の同級生が来てくれたんですね。その人に——今も同窓会ありますので年に1回は会うんですけど——「三浦さん、今は絵見ないの?」とか言われるから、「たまに見たいものがあれば行くけど」って言ったら、「誘ってよ」って。好きなんですね、彼女も。ポール・デルヴォー、このあいだ府中でやった、「あれを見たいんだ」って言ったら、「行く、行く」って一緒に見に行きました。でもやっぱり、どれがどうというんじゃないんですけど、やっぱり嫌いじゃないんですね。見たいんですね。美術館でもなにかがあるから見たいなあって。
娘が向こうにいるものですから。ナンシーっていう街はアール・ヌーヴォーの建物がいっぱいあるって聞いてて。
加治屋:向こうってフランスですか?
三浦:うん。アール・ヌーヴォーの家具とかいっぱいあるところありますね。ルーヴルですかね。アール・ヌーヴォーの家具がいっぱい置いてある部屋がありますよね。あれを見て、もっと見たいなと思って。このあいだ週刊誌に載っていたの、ナンシーは建物そのものがある、いいものがあるって。やっぱりなんか興味をひくものっていうとやっぱりそっちへ行っちゃうというか。何だろうと思う、自分でも。その同級生とは今度エル・グレコを見に行こうと言っているんです。現代美術はあんまり見てないですね(笑)。でもそれはそれで、見始めると面白いだろうと。今はどういうところへ行けばいいんですか、そういうのは。
福住:どうですかね。現代美術館って東京にもありますし、いろんなところができていますからね。
加治屋:東京都現代美術館は常設展示にも力を入れています。1960年代の日本の美術は、いまニューヨーク近代美術館で展覧会をやっています。
三浦:出ていましたね、そうでしたよね。ニューヨークまで見に行かなきゃいけない(笑)。
加治屋:赤瀬川さんなんかも出ていますから。中村宏さんとか池田龍雄さんとか。
三浦:ニューヨーク寒いのよね、今ね。
福住:新潟のGUNのことをお聞きしたいです。長岡の現代美術館がありましたね、昔、64年ぐらい。『眼』にもGUNの人たちが出ていますね。あれはGUNの人たちから来たんですか。
三浦:そうですね。長岡現代美術館は、私たぶんオープニングに行っていると思うんです。なんか大勢で行きましたよ。行った覚えがあります。石子さんあたりも行っていたかもしれない。何人かで行ったんですね。すごいねって言って。「こんな田舎にこんな現代美術館ができたんだ」って言って。あの頃すごかったですよ。
加治屋:じゃあGUNの作家たちもおぎくぼに来て?
三浦:ええ。前山(忠)さんはたしか(展覧会を)やっていると思うんですよね。やっているような気がします。私もだめですね。それぐらいダーッと書いておかないといけないのに。マニフェストを送ってきたのか、持って来たのか分かりませんけど、出していますよね。はーっと思って。たまたま『美術手帖』を開いたら。あれは長岡ですよね?
福住:長岡でやっています。
三浦:新潟美術館というのもあるんですね。
加治屋:新潟県立近代美術館ですか。
三浦:そうそうそう。北川フラムさんという人が館長をやっていたけど、解雇されたとかって、娘が。
加治屋:それは新潟市美術館。
三浦:新潟市美術館ですか。「はあ、そういうとんがってる人がいるんだ」とか思いました(笑)。
福住:北川フラムさんは中原さんにすごく私淑していて、すごく尊敬していて。
三浦:そうですね。大地なんとか(「大地の芸術祭」)というあれは、2回ぐらい中原さんの名前が出ていますもんね。
加治屋:はい。中原さんが持っていた蔵書、全部で3万冊あるんですけど、それはいま北川さんが譲り受けています。
三浦:どこでどうなっているのか(笑)。前山忠さんという人がそうだと思う。今、そういう時期なんですかね、あの頃のことをみんな……。
加治屋:そう思います。
三浦:何にも分からずに右往左往していただけなんですけどね、ほんとに(笑)。なんだろうと思う。まあでもすごいいい青春時代でした。不思議ですね、人の縁というかなんというか、いまだにつながっている人もいれば。ときどき弁護士の杉本先生が、「赤瀬川君どうしてる?」とか言って。私はたまにですけども、電話でお話しするんです。ちょっとご病気されたんです。でもあの先生も面白いんですよ。あの事件以来、美術家とか、あの頃の人たち——唐十郎さんとか工藤哲巳さんとかね——、そのプライベートの問題とか(に関わっていた)。詳しくは、聞き捨てでお話になりませんけど。でも不思議ですね。
福住:おぎくぼ画廊をやめられた後に中原さんとはあまり……。
三浦:ええ、もうほとんど。私は、やめてからはどなたともお付き合いは全然ありません。たまーに道路で会ってご挨拶するぐらいで。葛飾の方に行っちゃいましたからね。もうそれこそ川仁さんだけが、機械のパンフレットを作るとか、唐十郎の芝居のことを頼んできたりしましたからあれでしたけど、それぐらいのもんで。でもあの頃、状況劇場の大久保鷹さんとかいう人が訪ねてきたわね。お金を借りに来たみたいだったんだけど(笑)。なんかそういうのがありましたけど、絵の世界の人とはなかったです。私も誰にもお知らせをしませんでしたからね、どこにいるというのもね。きれいさっぱり。
福住:これは以前コピーさせていただいた黄色い図録なんですけど、その年譜が、僕のミスかもしれないんですけど、ここで終わっているんです、67年の10月で。この後って、もしかしたらページが1ページ欠落してるのかもしれないと思いまして。
三浦:67年。持っていませんので、帰って見てみます。
福住:ページ数が書いてないので。
三浦:年表ですね。67年10月ですね? 調べてお電話します。でもほんと仕事を辞めないと整理ができないんですね。だからなんにも考えても仕方なくて(笑)。
福住:でも今日お話を伺って思いましたけど、おぎくぼ画廊物語みたいなのを書かれて本にされたらいいと思います。
加治屋:ぜひ。
福住:写真もいっぱいありますし。
三浦:でもね、忘れていることが多すぎますよ。
福住:すごく面白いです。
加治屋:今日はどうもありがとうございました。
福住:ありがとうございました。
三浦:なんか迷惑ばかりかけるような話だったんじゃないですか。適当に止めてくれないので(笑)。
加治屋:いえいえ、非常に貴重なお話をありがとうございました。